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自証三昧 Ⅺ

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自証三昧 11-01
自証三昧 11-02
自証三昧 11-03
自証三昧 11-04


「おほよそ大宋国に仏祖の児孫と称するおほかれども、まことを学せるすくなきゆゑに、まことをおしふるすくなし。」これ大宋国、中国の当時の話だけども、何時の時代もそうでしょう。どの職業においてもそうでしょう。だからものを学ぶ私達の方からすれば、出来るだけ、出来るだけその道に精通した人に、その事はついて学ぶのがお勧めですよね。

一回ものを学んでしまうとですね、次に中途半端な人について学んだ時に、又一からやり直さなきゃならんし、前に学んだものが中々厄介なんだよね、何処かに出てきて。あっちの人はこう言う風に教えたとか、何でああなのとか、そんな時間がかかる。ストレートに、今教えられている通りに行かないよね。不思議なもんだね。

この頭でも、バリカンで昔刈ってたけども、下手な人が刈ると虎刈りになる。筋が出来る。その後のそれをきちっとこう刈るのは非常に難しいじゃん。最初にズーっと同じ様に毛の長さを同じ様に刈ってくと綺麗に刈りあがるんだけど。そう言うのと似てる。
「そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。」今取り上げた様な事を見てみると、ものがどう言う風になって、結末がどう言う風になっているか、この先どういう風になっていくかって事が、皆それによってはっきりする。

「紹興のころ、」これ年代ですね。「なほかくのごとし。」1131年から1162年を紹興の頃と言う風になってますが。道元禅師がお生まれになるよりもどうですか。四、五十年前か五、六十年前。「なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」わずかですね、わずか道元禅師が中国にお渡りになったのは、紹興の頃から百年位ですよ、後。百年位経つと、こんなになっちゃうって言ってるんですね。「いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」一度火が消えると、火を起こすのに大変だと言う事かしら。

「今は仏祖の大道なにとあるべしとだにもしらざるともがら、雲水の主人となれり。」これ言う必要ないね。「しるべし、仏々祖々、西天東土、嗣書正伝は、青原山下これ正伝なり。」達磨大師から順次伝わってきて、六祖大鑑慧能、そしてその後で、青原行思禅師の流れと南嶽懐譲禅師の流れに二人の弟子が出来ますので、なっていきます。そう言う中で、嗣書正伝は、道元禅師は青原禅師の方を優位にこうやって見ておられますね。

その背景になる流れは、ご自分が南嶽懐譲禅師の系列の臨済宗の明全と言う、栄西禅師のお弟子の明全さんについて学んでるんだけども、この明全さんが、この仏法の真意についてはご自身もはっきりしなかったので、一緒に道元禅師と中国に渡って、勉強をし修行をして、早くそう言う事に気づいたら、どちらか早く気づいた方がそれを助けようという様な約束をして、中国に渡って行くって言う様なストーリーがある。史実があります。

そう言うものを見てもですね、この南嶽懐譲禅師の系列に嗣書と言う受け継いで行く正しいものが正伝して来なかったと言う事が言えるかもしれない。青原の方はどう言う人がいたかって言うと、天童如浄と言う人が中国におられて、その人に道元禅師はついて、仏法の正しいものを受け継いで来た訳ですね。そう言う史実の上でのも、そう言う事が厳然としてある、言う事でしょうかね。

「青原山下よりのち洞山」洞山良价、宝鏡三昧を著した方ですかね。「おのづから正伝せり。自餘の十方しらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の児孫なり。雲水に声明をほどこす。」道元禅師はこの洞山良价禅師を高く、何時も評価しておられますが、洞山高祖と言っている位。徹底の仕方がですね、底抜け本当に素晴らしいなって言っているのでしょうね。でやっぱりその流れの中から大勢の立派な人が育ってる。

「宗杲禅師、生前に自証自悟の言句をしらず、いはんや自餘の公案を参徹せんや。」これ自証三昧の巻ですが、自証自悟の言句を知らず、言っております。これは決して一人よがり、自分勝手に人に頼らずにって言う様な、自証自悟って言うのはそう言う意味じゃないですね。間違えると困ります。

そう言うのがちょっと最後の方に書いてあるんで。「いはんや宗杲禅老よりも晩進、だれか自証の言をしらん。しかあればすなはち、仏祖道の道自道他、かならず仏祖の身心あり、仏祖の眼睛あり。仏祖の骨髄なるがゆえに、庸者の得皮にあらず。」
仏祖道の道自道他、仏祖の身心。仏祖の眼睛、仏祖の骨髄、ここに皆仏祖と言うものをつけておられますが、言葉をもう少し選んですればですね、真実ですよね。真実。真実を本当に自分ではっきりさせた人を、今しばらく仏祖と言うでしょう。私達も真実の中にすっと生き続けているんだけども、その真実がどの様になってるかって言う事が、はっきりしないまま過ごしてる事が多いでしょう。

簡単なものを取り上げてみますとね、先ず一人一人の生活してる時に、人間には六官と言われる様な道具があるから、それらがどう言う風に活動してるかって言うと、こうやって、首をこうやって(首を右から左へ回す)ずーっとこうやってやるとですね、先ず眼を開けてこうやってやると、こう言う風になるって言う事がわかるでしょう。毎日使ってるんだもんね。何時も眼を開けて、こうやって、何処へ行ったってこうやって使ってるから。

それどうなってるか、皆さん分かりますよね。どうなってますか。え?不思議ですよね。皆やってるんだけど、それがどうなってるか、良く分からない。目はですね、色んなものこうやって見えてですね、どんな物が見えても、眼って苦しんだ事が無い、知ってますか。悩んだ事が無いですよ。必ずその通り、こうやってその通りあるだけ。一切悩まない、苦しまない。今見てる時、他のものを探さない。それがこうやって今見てる時の様子ですからね。見ていて他のものを探す様な愚かな事はしない。

で見たのに、何処にも残らないって言うのも不思議でしょう、こうやって。何時こう言う風になるか知らないでしょう。こうやって。その様にしたって事は、自分に一つも無いんでしょう。ただ目を開けて、こうやってやるとそうなるんだもんね。もしこの事が本当に自分で納得が行ったら、普段何を問題にしてこんなに悩んでるんだろう。こんなに素晴らしい働きをして生活してるのに。

まだ何かしなきゃ本当の生き方が出来ない、と思ってるのは変じゃないですか。これがもう皆さんの求めている最高の在り様そのまま示してるじゃないですか、今、何時でも。見て好き嫌いは出て来ませんよ。言っときますけど。好き嫌いは見てる事じゃないから。見たものに対しての各自の判断、分別、評価です。それを見てると思ったら、大間違い。聞いてもそう。

どんなものが聞こえて来ても、それで煮えくり返る様にはならない。腹が立つとか。その通りその音がしてる時に、その通り在るだけで、音が止むと何もしないのに何処にも探しても無い。底抜けそう言う風になってる。それで十分でしょう。それ仏祖の身心でしょう、仏祖の眼睛でしょう、仏祖の骨髄でしょう、仏祖の道でしょう。自分もそうだけども、他の人もそうなってるでしょう。

普通の人の様に自分達も思ってるかもしれないけど、この内容はそんな凡人の考えてる様なつまらないものじゃないって言う事でしょう。自分で思い間違えたんでしょう、本物を見ないで。自分の本物見ない。他人を見て羨ましく思うって。そういうんだって、皆、自分で間違えたんでしょう。自分の素晴らしさを何で見ないんだろうね。生涯他人の眼で物を見ないで済む様に出来てるじゃないですか。自分の持ってる眼だけで、間違いなくちゃんと物が見える様に出来てるじゃないですか。

他人の耳を一切借りなくて自分の耳だけで、どんな音がしてもその通りちゃんと聞くことが出来る様になってるじゃないですか。それだのに他人の様子を見て羨ましく思うって、何だろう。まあ色んな事が上げられるんだけど、自証と言うのはそう言う事ですね。自らの本当の在り様があるから、それに触れてみると、自分の素晴らしさが分かる、そう言う事に気づいた代表者として仏陀と言われる、自覚せるもの、自分の本当に在り様に目覚めた人がおられる。

それは坐禅してもそうだけど、坐りながら、自分の坐ってるものを眺めてる坐禅は、坐禅にならない。二人ずれだからですよ。本当に坐るって言う時は、眺めるって言う様な事は、絶対無いものでしょう。ね。眺める様な坐禅をするから、行き着いたとか行かないとか、未だだとか、あれがこれがって、次から次へ色んな事が、思いが浮かんで、思いが浮かぶと、またその思いに騙されて、知らない内にすぐ思いを相手にして時を過す様になってる。

あれだけ是非善悪を思わずとかって、ね。どんな事が坐ってる時出て来ても、一切それに対して自分の考え方で取り扱う事をするなって、もう口が酸っぱく成る程に書いてある。にも拘らず、知らない内にすぐ考え方の方に行ってしまう。それは坐ってる時に、坐ってる自分を眺める様な気配の坐り方をしてるからでしょう。一緒になってる時には、そう言う事は絶対起きないものじゃないですか。坐っていて坐ったてる事忘れてしまうって言う位なんでしょう。坐って、本当は。

そうすると、又そう言う言葉を聞くと、忘れてしまわなくちゃとか思われると困るので、話って言うのは難しいな、と思うんだよね。真意を捉えて貰わないと、何時まで経っても考え方で堂々巡りをしていて、その言いたい処伝えたい処まで入って来ない。ねぇ、それだけはちょっと要注意でしょう。私達もだから晩進のうちでしょうけど、「宗杲禅師よりも晩進、だれか自証の言をしらん。」自ら証する、自らはっきりさせると言う時に、今申し上げてる様な在り方が問われる。

一生生きていて、何回も何回も話しますが、一生人が生きていたって、本当に見てみると、今こうやって、此処でこうやってる事だけですからね、この身体で。この事を知るのに、余所の時間帯、余所の場所に行って知るって言う事は、絶対にありっこない。この真相を本当に知るのに。今此処でやってる以外に無い。で、既に今だから、向かう用がない。探す用がない。それが基本です。

生涯、それで、人は終わるんですよ。他人の事は一切やらない。だから他人の事を学ぶんじゃない。他人の事だと思ってる事が、全部自分の様子だから。ね。こうやって。他人の事だと思ってる事、全部自分の様子なんですよ。自証って言うんだけども。こんな小さなものだけを相手にしてるんじゃないですよ、自証って。

まあそう言う事で、一応ここは読み終わりと言う事で。ちょっとだけ休憩をして次へ行きますか。
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