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自証三昧 Ⅵ

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「たとひ因縁生法をあきらむるとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。」因縁生法って言うのは仏道の根幹ですね。全てのものは因縁に依って生じ因縁に依って滅すると。因果の法則と言われるものが説かれています。この因果の法則から外れたものは無い。突然偶然にとかって言うものは、仏教には無い。必ず原因があって結果が導かれる様になってる。「因果の道理歴然として私なし」とも言っておられる。

それ位因縁生の法と言うものは、何処まで行っても明らめ切れない位内容がありますけども、もう一つ道元禅師は、「さらに非因縁生法をあきらむべし。」と。これは注釈も何にも書いてない。因縁生法にあらざる法って何でしょう。因縁生の他に何かあるでしょうかね。道元禅師は非因縁生法と言ってます。

もし道元禅師がおっしゃってる非因縁生法と言うものが具体的にあるとすれば、それは、私達がですね、因縁に依ってものが全て生まれてくる或いは滅ぶと言う道理を知る前に、活動してるって言う事でしょうな。道理が先にあったのじゃない。知らないんですよ。因縁に依って生ずるって言う事さえも。

音がすると聞こえるって言う事だって、そうでしょう。耳があるから聞こえるって教えられたけども、知らずにずーっとそう言う事が行われて来た。聞いてるとも何ともなかった。こうやって。パン!パン!(扇で机を打つ)見てるとも何ともなく、こうやってた。道理は、向こうにものがあって、目があると、それがこうやって向かうとこう言う風に見える様になるんですよって教えた。音がすると、耳にそれが触れると、聞こえる様になるんですよって教えた。

そう言う因縁生の法、なるほどとは思うんだけど、よくよく触れてみると、そんな事の前に、ものの真相があるって言う事でしょう。飛び越えて、因果の道理を飛び越えてる。人間が理解する前に、そう言う事が行われてる。だから難しくないのでしょう。知らないのにちゃんとそれを使ってる。で、使ってる事さえも知らないで生きてる。これ位非因縁生法って言うものがあるじゃないですか、ね。
そう言う事も私達ははっきりすべきでしょう。「あきらむべし。」だから仏道のブの字も知らなくたって修行は出来るんですよ。今すぐ。大体知らない人の方が修行は早い。色んな事知ってる人は、ちょっと言うと、すぐここの(頭)方から皆出して。

一昨日大阪に来てたんですけども、或る男性の方がお見えになって、私はほぼ禅や仏教の事は理解して分かっておりますって。坐禅の事も理解して大体分かってますって。そうおっしゃったから、坐禅て理解することじゃないですけどもって言った、ねぇ。坐禅て理解する事じゃないですよね。実際に坐る事ですからね。坐るとあーなるこうーなるって、知ってるんですよ、色んな事。色んな人の事勉強して。よく知ってるって言うんだけど、本人坐った事がない。それで自分では理解出来てるって言ってます。

私はそうじゃないって言った。あなた自身自分の事をよく分かってませんね、って。坐禅の事を理解出来てるって、坐るって事が坐禅を一番理解する道なんですね。本当に理解するのには、坐ってみないと坐禅て言う事がどう言う事かは無理なんです。

食べずにね、この物の味はあーだこーだって言って、幾ら言ったって、それは味わった事じゃないからね。そうやって勉強するんだなって。私も感心しちゃった。アー頭の良い人ってこうやって勉強して、ものが分かったって思うんだ。でもまあ少し話をして、坐ってくれて帰りました。こんなのも非因縁生法をあきらむる上の話かもしらんなと思うのですね。

「たとひ仏祖辺をあきらむるとも、さらに仏祖向上をあきらむべし。」祖師方がお悟りを開いてどうだって言う様な事が沢山あって、そう言う事を知るのも良いけども、本当に自分自身の在り様にこうやって触れてですね、みる必要があるじゃないですか。何故そう言うことがその厳密に言われるかって言うと、こうやって今皆さんが物を見てる時にですね、祖師方の見ておられる内容と同じだって言う様な見方をしてる人はないじゃないですか。

悟りを開いた人はこう言う風に見えたんだけど、私も悟りを開いた人と同じ様に見えてるって、そんな風に物が見えてる人は一人も居ないでしょうが。もしそんな人が居たら、おかしいですよ。やってごらん。本当にこうあるだけじゃないですか。それ位仏祖も近づき難い。そう言うものじゃないですか。仏祖向上の辺。

誰も他の人が近づく事が出来ない厳峻なあり方ですよ。全てそうですよ。各自、自分自身のこの上で体験してるものは。何処を取り上げてみても、そう言う風になってる。他所の人がうけがいしる事が出来ない。伺い知る事が出来ない。そう言うものでしょう。
そこまで仏も無く、法も無し、仏らしいもの法らしいもの、そんな大事にする様なものさえもない。極上の世界ですよ、それは。

その時に、自分の様子に触れた時に、何処に問題あるがあるって。一切その中からは埃も立たない。そう言う生活してますよ。偉そうな事も何もない。穏やかなんだけども、そんなに凄い生活してる。いいじゃないですか。その位になったら。

「これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不参学なり。」どう言う事をここで道元禅師がおっしゃりたいか。例えばこう言う事を言われる。「あの毎日苦しくって、もうどうして良いか分からない。和尚さん何とかしてくれませんか」って。エー、そのおっしゃってる、質問されてる人、本当に自分でそう言う事が今、行われてると思ってるんだよねぇ。

だけども、見事に先ず此処まで来たのでしょう。もう気が狂いそうな位頭が滅茶苦茶で苦しくて、どうしていいか手のつけようが無いって言いながら、ちゃーんと電車やバスや自動車を運転してお寺まで来て、井上さんて、此処へきたんでしょう。どこが手を付けられないで、滅茶苦茶で困ってるって、皆ちゃんとやって来たじゃない。エー言ってる事とやってる事が全く違うんじゃない。本人気づいてませんよ。

喋ってる時だってそうでしょう。ただそう言う事言ってるだけで、何処にも自分の中に苦しくって、もう手の付けようもないとか、どうして良いか分からないとかって、ちゃんとした事言ってるじゃないですか、自分の事が分かって。しかも内容はただそう言う事言ってるだけであって、言ってる内容は自分の今の様子の中に何も苦しんだり、悩んでる事が無いよ。

こう言う事ですよ。ここ、今申し上げてるのは。これらをこの生きてる間のうちにはっきりさせてって、そしてのちに、その後どっかの人の為とかなる様にしようと、どうかしようと計り事を考えている。そう言う人はですね、本当に功夫が出来ない。大丈夫な人にはなれない。ものを学ぶって言う事は無理。

もう一つおまけを言っとくと、そうやって指摘をすると、ああ確かに今はそう言う問題がここに自分の中には無いって気づくんです。だけども、家に帰ったらとかこれからってすぐそう言うんですね。これと同じですね。すぐ、あの有りもしない事を考え始めるんです。今のちゃんとしてる自分の様子に目を向けない。

片付ける用がないって言う事でしょ。今ここで自分の様子を見たら。言ってるのと違って。それが分かったら、このままで良いのでしょう。それだのに、それは分かったけれどもって言って、明日からは他の為に、後の世に。そう言う事をすぐ考え始める。そう言う人は、ここにある通り、功夫は出来ない。幾ら言っても、今の自分の真実の処からすぐ目が逸れて行く。考え方に上でしか自分を見た事がない。これ無理です。道元禅師がおっしゃってる様にそれでは。学べません。

体験が皆さんもあると思う。話をこうやってしとけば。ああそう言えば、言われる様な事、ずっとやって来たって思ってるんじゃないですか。そこで勉強するんじゃないよね。これからどっか。今自分自身の真相にこうやって触れた時にどうあるかが、何時も参禅の着眼点ですから。ここは終わってって。ここは終わってるけど、まだ何処かに、もう一つ生きる場所が有る様に思ってる。他で生きたためしが無いじゃないですか。他の時間帯で。何時もここで生活してる様子があるだけじゃない。

考え方はそうは思わないもんね。明日の事もある。これからの事もある。もう少し酷く言えば、今までの事を取り上げて、今までの事を問題にする。車走ってて今走ってるのに、今までの事を問題にする、これからの事を問題にして走るって危ないですよ。矢張り今走ってる所の様子だけが大事なんです。そこから目が逸れなければ、大概の事は成就出来ます。走ってて。まあ具体的に。そう言うもんじゃないですか。

こんな簡単な事なのに、考え方って、すぐ今から離れるんですね。今に用が無いんだよ、考え方は。今生きてるこの真実には、本当に。考え方って不思議ですね。考え方を離れると、今の様子だけがパッと出て来るね。

「坐禅は直に心地を開明し、本分に安住せしむ。」って言う様な事を言われているけども、本当に坐るとですね、いきなり自分の真相に触れる。坐るって言う事は、人間の考え方でどうこうするって言う事を、本当に離れて、自分の生きてる事実にこうやっているから、それが坐ると言う事だから、だから自分の生きてる様子がいきなり其処に、目の前にって言って良いでしょうか。いきなりそのものに触れる。それではっきりする。心地を開明する、本分に安住する。

何処にも揺るぎの無い、行き場所の無いほど確かな所で生きている。「これを本来も面目をあらわすと名付け、本地の風光をあらわすと名づく。」と言っておられる。こう言う事が自分達が求めている真相でしょう。

簡単な事をやれば、こうやってパン!(扇で机を打つ)これを聞くのに他所ではやらないじゃないですか。パン!音がしてる時にしか、触れる事が出来ない。聞く事が出来ないじゃないですか。本当の音を聞くって言うのを。そんなの百も承知でしょうが。だけど、自分の何かを入れずに、こうやってパン!本当にその通りこうやって、パン!中々居ないじゃないですか。

すぐ探るじゃないですか。コンコンコンコンコン!(軽く打つ)パン!聞いたものを。それ修行にならないよ。作り事をしてるんだもん、自分で。だから上手く行ったとか行かないとかって言う事、必ず坐禅でもあるじゃない、坐った後。上手く坐れたとか、坐れないとか。何ですかね、上手く坐れたとか坐れないって言う事は、エー。

自分の中に描いてるものを持ってるって事でしょう、知らずに。そしてその描いたものの方に知らずに向かって行く様な行をしてるって言う事でしょう。それ二重生活でしょうが。その通りになれたら、今日はいい坐禅が出来たと思ってるだけの話でしょう。皆小細工でしょう、それは。力を費やしていない時は、ただの人になるじゃないですか、それじゃ。力を入れてる時だけ、かろうじてそれが保てる。休むと無いですよ、そんなのは。本来の自分の在り様ってのは、力を入れる用がないじゃないですか。こうやって。

その様に見てなきゃ見えないって、その様にパン!聞こうとして努力しないと、すぐ聞けなくなっちゃう、一切そんな事ない。何にもしないままこうやって居て、その通り皆。そう言う風に出来てるじゃない。そう言うものを、私達は修行すると言ってる。

だから一般に学んで来た修行は、努力でしょう。精進、努力って。仏道の精進、努力は違いますよ、皆さんの考えてる精進、努力と。この様に、自分の方で本当に手をつけずにこう居てみるって言う事が、精進です。努力です。これ何にもしないの簡単だと思うけど、だって難しいでしょう。ほっぽっといちゃ無理でしょう。気をつけてちゃんとやらないと。すぐ考え方が出るんだもん。考え方が出ると、考え方の方へすぐついて行くんだもん。

だから修行する時に精細にって言うでしょう。自己に参究すべしと。自分自身の今の在り様がどうあるかって言う事を、自分で目を向けてなかったら、それは修行にならないじゃない。考えをつけずに実物そのままで居るのか、自分の考え方をそこへつけて色々やっているかって事が、自分できをつけてれば分かる。そして分かったら、その自分で手をつけてることが分かったら、それで止めるって言う事が無いと。止めるって言う事は、其の儘って言う事よね。コツンって言っただけじゃん。それが止めるって言う事じゃん。コン!コツン。

「おおよそ学仏祖道は、一法一儀を参学するより、すなはち為他の志気を衝天せしむるなり。」自分だけが救われるって言う事が最初の目的では無かったって言うのが、お釈迦様なんかの様子を見るとよく分かる。何故修行を始めたかって言うと、世の中のあらゆる人の様子にこう触れた時に、色んな形のものに触れた時、人が悩んだり苦しんだりしてるのを目の当たりに見て、どうしたら人々を本当に幸せに出来るかって言う事が、お釈迦様の、何だろう、気づかれた事じゃない。

それで、出家をする訳じゃない。その在り方を本当に自分で勉強して、これが分かったら人の為になると言う事があるもんだから。その結果、どう言う事が人を苦しませてるかって言うと、一番大きなものは、やはり有もしない事を考えるって言う事じゃないですか。不思議に考えるんだよね。何か一つ現象が起きると、その現象を相手にしてすぐ自分の考え方を広げて行く。それでその考え方を相手にして、何か解決方法があるんじゃないかって言って色んな行をして来たのが、古今の修行のありかたとして問われて来た。

お釈迦様もそう言う中に身を投じた時に、結局はそれでは最終的にその問題は解決できないと言う事に至ったでしょう。それで残されたものは、人の考え方でどうこうする前の人間の生きてる実物は、どう言う風になってるかって根源を見て行こうって言う風にして坐っておられる。それが今日伝わってる坐禅でしょう。そしたら図らずも、こう言う事が分かる様になったじゃない。

その一番の大きなきっかけは、今まで自分を此処に置いといて、物を向こうに見て眺める様なそう言う生活をしてたのが、明けの明星に触れた時に、今まで自分が星を眺めて見てた様な気配がすっかりなくなってしまった。そう言う状況まで落ちたと言う事じゃない。それで気がついた時に、あれって思った。振り返ってみると、見てる人も居ないし、見てる事を知ってる人も居ない。そう言う時の在り様を見てみると、一切問題が無いって言う事が、はっきりした。それが釈尊の悟った時の内容でしょう。

衝天の志気ってありますけどね、普勧坐禅儀にも使われてる衝天の志気。天を衝くほどの志気。志。はっきりするまでは絶対にやめないって思う位の高い志と言う事でしょう。暇が、僅かな暇でもあったら、その暇を盗んででもこの事を究めて行きたいって思う様な志。そう言うものが衝天の志気と言うんでしょう。志気を衝天せしむ。切なる思い。これが大体全ての事を成し遂げるって、一般にも使われてるじゃないですか。志の切なるものはものを成し遂げるのでしょう。

だから小さい時に身内の方が病気になって、何の施しも出来ない儘、目の当たりにこうやって苦しみながら亡くなって行った様な方がですね、よし自分は医者になって人を救う何か手立てがって、そう言う志を持って医者になった人、居ますよね。例を挙げれば一杯そう言う似た様な事あるじゃないですか。あれ等皆、衝天の志気でしょう。人に勧められたんじゃないから良いじゃない。自らの中でそう言う気持ちが起きてるから、ひるむ事がない。人から強いられるのは嫌になっちゃうもんね、途中で。

「しかあるによりて、自他を脱落するなり。」人の言う事で騙されてですね、自分の志が曲がるようじゃ、つまらないじゃない。お前みたいのやったってしょうがないじゃないって言われたら、ヘナヘナって言って、自分の考えを変えてですね、やろうと思ってた事止めてしまう位の様なものじゃ、大概ものに成らないじゃん。

「さらに自己を参徹すれば、さきより参徹他己なり。」自分て言うものを本当に触れてみるとですね、これからどうかするんじゃなくて、最初からちゃんとしてるって言う事がわかるじゃないですか。自分でちゃんとしてる事を知らないから、自分は駄目だってレッテルを貼って、もう其処からは諦めの境地でしょう。これ以上俺やったって駄目だ、俺には力が無いって、そうやって決めて、それ以上やらないんだもん。

そのレッテルを貼る事によって、自分で楽になるじゃんね。努力しないでもいいやって。逃げの一手じゃん。人間てそう言うものを上手に使うのね。要するに大義名分が欲しい、自分が止めるのに。その撤退するのに、その仕事から。だた止めると人に又悪く言われるのに、自分でもそう言われると嫌だから、誰が見ても、そうそれじゃしょうがないねって、言う様な大義名分があると、自分は寝てられる位になるから、そう言う事やるんだよね。

「よく自他を参徹すれば、自己参徹なり。」本当にあらゆるものにこうやって触れてみるとですね、その事によって自分の内容が皆はっきりする。これ他所のものって言うけど、全部自分に学んでるんだからね。そのものに触れた時に、自分の在り様を学んでるんだからね。

だけど基本的に人間の考え方は、ジャガイモがこう五つくらいあって食べると、こうやって一つずつ食べると、向こうのジャガイモの味だと思って、そう言う風にしか理解してない。どれを食べても自分の今の在り様なんですよ。そういうのを、中々難しいねぇ。それ自我感だからね。自我と言うもの此処に立てて、自分と自分以外の物分けた上からの生活しか、人間て本当に知らないんだよね。自分と自分以外のもの分ける前の生活が基本なんです、人間。

だって、こうやって音がしたって、向こうで音がしてこっちで聞いたって言う風に聞こえないんだもん。聞こえないでしょう。パン!こうやって、向こうで音がして、こっちで聞いたって言う風には、音は聞こえない。聞こえたものに対しての理解は、パン!向こうで音がしてこっちで聞いたって言う風に理解してる。これは頭の上でやった理解。音を本当に聞いてる時には、向こうで音がしてこっちで聞きました、って言う風にはしない。パーンと此処で音がしてる様にあるだけじゃない。こう言う勉強をすべきじゃない。

「よく他己を参徹すれば、自己を参徹するなり。」向こうのものとこっちのものと別々に生きてる訳じゃないじゃないですか。音を聞くって言ったって、そうじゃないですか。向こうのものとこっちが別々にあったら、音は聞こえないじゃない。必ず一緒になって音が聞こえる様になってるじゃないですか。

「この仏儀は」こう言う内容ですね、「たとへ生知といへども、」生まれながらにそう言う事が分かってると言う、誰からも教えられなくても、そう言う風にあると言うことでしょう。生知。「師承にあらざれば、体達すべからず。」それが私達の本当の在り様だって言う事を知らされて、ああ、何だそんな事が本当の大事な事なのかって。それ迄は、大事だと思わないんだもんね。生知って言うものは。

だってこうやって、この物に向かったら、この通り見えるなんて、大事な事だと思わないんだもの。だけどどれに向かっても、それに向かったら必ずその通りなるって言う事が、どれ位人間生活の上での基本として大事か。それがもしずれたら、生活は成り立たないんだもん。一切のものが。だから教えられると、ああなんだって言う位簡単な事なんだと、それ迄はそう言う事が生知と言う、「たとへ生知といへども、師承にあらざれば、体達すべからず、生知いまだ師にあわざれば不生知をしらず、不生不知をしらず。」

だから一般の方でもですね、生活してて、自分の生活の様子の素晴らしさを、四祖道信と言う人なんか、三祖に会って初めて、何だそんな事が仏道、私がこう普段やってるこんな事が仏道と言われるものかって言う位の人ですよ。四祖道信と言う人は。だから知らない人、こう言う中に、自分で仏道の修行してる人居ると思いますよ。ただそれが仏道の修行だと思わないし、大事な事だと思わないもんだから、放ってあるじゃない。ねぇ。

或る処まで行って、考え方ではもう苦しくてしょうがないから、もうどうでもいいやって放ったら楽になるって言う事を、皆さんもやってるでのしょう。そう言う事が問われてる訳でしょう、修行の中で。聞いてみると、なんかそんな事かって。もっと仏道とか禅の修行ってもっと特殊な事かと思ってたら、私、そう言うのしょっちゅうやってますよって言う位の事でしょう。

そう言う風に過ごしたらどうなりますかって言うと、私問題ありませんよって言う位、さらっとして生きてるよ、そう言う人は。皆何であんなに問題になって苦労してるんだろうって笑ってる。だけども私は坊さんでもないし、禅を学んだ事もないし、仏教も知らない、何にも知らないって。知らぬが仏ってこう言う事かな、思うよね。ありますよ、こんな事が。

「たとひ生知といふとも、仏祖の大道はしるべきにあらず、学してしるべきなり。」使っていてもそれが大事なものだって言う事を知らない人は、人に、殆ど大事なものだって思ってないから、上げる力も無いね。自分としては何でもないんだもん、普通にやってて。だけど、知ると今度は世界中の人の役に立つ様になる。

それが発明とか発見とか言う様な言葉で使われてるんじゃないですか。発明とか発見するって言うのは、皆知らずに皆使ってる事ですよ。知らずに使ってる間は、発明とか発見と言わないから、役に立つって、どうかわからないじゃないですか。分からないから。それは利用されていないから、研究者はそれが分かるから、そうすると、それ一気に世界中に役に立つ様に使える様な事、こう言う事にあるじゃないですか。

「仏祖の大道はしるべきにあらず、学してしるべきなり。」自分自身の事もそうじゃないですか。自分自身の事は初めっから自分自身の事だから、どうする用がない程ちゃんとしてる訳だけど、そのちゃんとしてる内容にもう一回こうやって触れてみると、不思議ですね。もうほんとに身近な話だけど、音がすると聞こえる。音が止むと聞こえなくなってる。

これをどの位皆さんが理解してるか。殆ど使ってない。ね、殆ど使ってない。これをもし使ったら、もっと幸せになるんだよ。だって、パン!音がして聞こえて、音が止むと聞こえなくなった。聞こえなくなった時に、何を整理するのですか。整理するものが無いじゃないですか、片付けるものが。一切用がないじゃない。そう言う事が皆さんが毎日聞いてる内容ですよ。パン!音がしたら聞こえる、音が止んだら聞こえなくなってる。そう言う風に生活してないじゃないですか。

何十年も前に聞いた事が今も引っ掛かってるのでしょう。エー。生きてる間中恨むとかさ、逆恨みするとか、それ位何だろうそれは。ものを知らないにもほどがあるじゃない。自証三昧って言うけど、自分自身の様子にこうやって触れて、それがどうあるかって言う事を、自分で分かる様になってるのに。

眼だってそうじゃないですか。こうやって物が見えるんだけど、こうやってこうなって、絶対前のものを引きずった事がない。何時でも見えてる物は今触れてる様子だけ。こう言う生活、皆さんこう言う生活をしているはずなのに、事実に学ばず、考え方の方を中心にして見ているから今の様な風にならないじゃないですか。あれが、これがって。

やれてるんでしょ、前のものを一切引きずらずに、常にこうやって生活してるのでしょう。考え方とは違うじゃないですか。どっちが本当ですか。考え方はただ思いですからねぇ。その中に実物は、何時も話をする様に、無いですよ。こっちは実物ですよ、今。本当にそうやって生活してるじゃないですか。こうやって私達は今の自分の在り様に触れて、修行するのでしょう。考え方じゃなく。この確かさに教えられるのでしょう。それをやってほしい。

まあちょっと時間オーバーしたけど、区切りのいい所まで、ちょっと進めた。はい、終わりたいと思います。

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