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自証三昧 Ⅴ

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「他のために法をとき法を修するは、生々のところに法をきゝ法をあきらめ、法を証するなり。」まあ、そりゃ今こうやってる事でしょう。ね。こうやって今話してる所で、私の方からすれば、皆さん方にそう言う事を話をして伝えてる。皆さん方はその話を聞いて、自分自身の真相に目を向けて、なるほど、或いはエーそんな事とか、まあ色んな事を兎に角やるのでしょう。それでものが伝わって行くのでしょう。

「今生にも法をたのためにとく誠心あれば、」真心あれば、「自己の得法やすきなり。」誰か一人ものが分かった人がいたら、誠心誠意その内容を人の為にこう説けば、それは各自が自分の真相を本当に自覚するのに、難しくないのは当たり前じゃないですか。ねぇ。「得法やすきなり。」何処をどうして、何をしたら言いか、全く分からない様な中にこうやっていたら、それは法の何たるかを理解したり、或いは悟ると言う様な事は難しいでしょう。

「あるいは他人の法をきくをも、たすけすゝむれば、みづからが学法よきたよりをうるなり。」今度は人がお話をしてる時ですね、それを聞いて其処に過ちがあったりする様な事の時でもですね、ちょっと修正をする、助け勧める、ね、助け勧むれば。全部が悪いって事は、恐らく無いのですね。色んな場面でも。全面否定したら、ものが成りたたないから。

聞いてあげて、ね、ものの分かる人は聞いてあげて、その中で足りない処は補ってあげて、正しくものが伝わる様にすれば、自分も相手もものがどうあったら本当に良いか、或いは、ものの本当の在り様は本当はどうなってるか、言う様な事を知るのに、皆便りを得るのでしょう。

そう言う時に自分の様子を見るとですね、自分の見解、自分のこうだと思う様なものが、中に強くある人は、こう言う事は出来ない。だから少なくとも無私公平と言って、公ですね、公の中には私を入れない。無私。無視するんじゃないですよ。公の中には私を入れない。公人は自分の都合やなんかを、その中に入れて行動はしない。無私公平。そうすると万人の為になる。

時々時間が経つと、初めはそう言う清らかな心でものに触れてるんだけど、段々何か自分で汚染されるのかねぇ。何か人間てそう言う処があるじゃないですか。偉くなったり。ねぇ。人の言う事聞かなくなったり。そう言う風な人が出きやすい。そうすると道を誤るじゃない。全ての人の意見を集約して、その中でどうあるべきかって言う方向だけを進めて行くのが、トップの公人としての在り方かもしれない。それを英知を集めると言うんじゃないですか。

裁判官でもそうじゃないですか。ねぇ。ありとあらゆるものを聞きだして、そして出来るだけ沢山の情報を真実を聞き出して、そして間違いない様に判断をしようって言うのが裁判官でしょう。自分の私見でものを判断する事を嫌うでしょう。大概そう言うもんじゃないですか。公人。それだから人から敬われるのでしょう。或いは又大事にされるのでしょう。またそう言う人を大事にしないと、世の中は成り立たないのでしょう。

「身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。」この頂いている身心の他の処で、人は何も出来ない。誰でも見てみると、自分の、自分と言われるこの身心の中で活動してる事があるだけ。不思議な動物だねぇ。一杯色んな事があるって幾ら言ってみても、その一杯色んな事があるって言う事自体が、ただこの自分の身心の中の活動ですからね。

世界中を駆け巡って来て、色んな国の様子がって、見て来たって言うけど、何やって来たかって言うと、この目がこうやって其処の所行ったら、その通りみてるだけの話じゃないですか。エー、ね。ずーっとそうじゃない。自分の眼が其処行った時に、その通りの事がすっと見えただけじゃないですか。その国行って話してる声が聞こえたり、そう言う事がこの耳で聞こええてる様子があっただけじゃないですか。それが世界中回って来た時に、色んな国の事があったって話じゃないですか。

よく見ると、ただこのものの身心の活動してる様子で、皆。ニュースを聞いたってそうでしょう。見たり聞いたりしたニュースがこの中に入って来て、この中でその見たり聞いたりしたニュースに対して、自分の思いが色々に動いてるって言う事だけが問題になってるだけじゃないですか、具体的には。

如何にも向こうの国の事やあっちの家の事が問題になってる様に思うけども、この中で見たり聞いたりした事を、自分が問題にしてるって言う事が問題になってるだけでしょう。そう言うのこう見てみると「身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。」それによってももの在り様がわかるだけじゃないですか。他にはないじゃないですか。エー。他人の身体でやったものは、絶対このものでは分からないからしょうがないじゃない。

「聞法を障礙するがごときは、」教えを聞くのを邪魔するって言うんですね。「障礙するがごときは、みづからが聞法を障礙せらるゝなり。」そりゃ、自分でそこで閉ざしてしまったら、自分の中に折角そこで行われる事が入って来ないよね。

じゃ具体的にどの位、そう言う事が日常多くの人がやってるかって言うと、まあ簡単な話、こうやって、水を飲んでる時にですね、(水を飲む)色んな事を考え始めるとですね、飲んでるんだけども、普通飲んでれば飲んでる時にちゃんと水の味がするんですよ。だけど色んな事考え始めるとですね、飲んでる割にはですね、この障礙ですね、さわりがあって、邪魔をしてですね、考え方が邪魔をして、この事がわかんない。こう言う様な事です。具体的には。

そりゃそうでしょう。そのものから目が逸れたら、そのものが見える訳がないじゃない、ね。そう言うものが障礙の代表的なものじゃないですか。人間の思いって言うのは、本当に真実を見せないものですね。思いって言うのはこんな物じゃないもんだから、(扇を見せる)こんな物だったら、見えなくなってから、こうやって(扇を開く)やりますけども、思いは。ここ何もないんですよ。透き通って。邪魔してるらしい気配が何もないんです。そう言う匂いもしないんだよ。思いは。形も無いんだ。だけどもその匂いも形も無い思いが出てくると、閉ざされる、真実が見えなくなる。不思議なものですね。思いって。

「生々の身々に法をとき法をきくは、世々に聞法するなり。」今生きてる様子でしょう。「生々の身々に法をとき法をきくは、」この身体、この身心ですね、の活動してる様子そのものじゃないですか。「身々に法をとき法をきくは、」って言う事は。こやって、パン!聞いたり、こうやって説いたり、色々する訳でしょう。皆この身体の今身心の上に、そう言う事が一々行われてるでしょう。それ何時の世にも世々に聞法する、それによってものが分かるのでしょう。

で、それを煎じ詰めて申し上げると、何時もただ此処で行われる事ばかりです。沢山の事は本当に無い。今この身心の此処で活動してる様子が何時もあるだけ。だから目の逸らし様がない筈なんだけども、あまりに身近な事で当たり前なもんだから、此処に目を向けないんだねぇ。

でも一心不乱にって言う時には、必ず今の様子にこうやってただ居るだけじゃないですか。それが尊い言葉として皆さんも知ってるじゃないですか。「初心忘れるべからず。」今やってる事初めて。何時でもそうでしょう。今の事は生まれて初めて。今初めて触れる。何時でもだから初心、忘るべからず。一杯皆さん良い言葉を知ってる。だけどその実がどう言う風に何処に行われてるかって事を知らないから、文言だけ知ってる。

「前来わが正伝せし法を、さらに今世にもきくなり。」何時、ものを正伝したか。先ほども話した様に、知らないのですね。「前来わが正伝せし法」って言うんだけども。自分て言うものをまだ自覚しない、自我意識が出ない、まだ育だたない頃に、パン!パン!こうやって、音のしてる世界に、パン!私達も生きて来た。パン!パン!パン!パン!パン!パン!(机を扇で連打される)「前来わが正伝せし法」その頃もこうやってパン!正しくその事がパン!ちゃーんと身体で行われて来てる。パン!


だけども自分でも知らない。それが正しいとかパン!教えだとかパン!法だとか、大事なことだとか。本当に一切そう言う事がない。この位穏やかな生活をして来たんですね。「前来わが正伝せし法」それを「さらに今世にもきくなり。」今大人になってものが理解できる、お互いこの事を自分自身の上で、あー本当にそうなってる、そう言う事かって、それに皆さん触れてるのでしょう。赤ちゃんの時代勉強出来ないもん。

「法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに。尽十方界のなかに法を正伝しつれば、生々にきゝ、身々に修するなり。」これからやるなんて言う事はない。こうやって。音一つだって、パン!これからやるって事はない。何時でも気が付いた頃には、皆聞き終わってる。

「法のなかに滅す」「法のなかに生じ」(カア、カア、カア、カラスが鳴く)カアーカアーカアー、ああ言うの法の中に生じって。カアーカアー法の中に滅しって言うんです。それだけじゃ気が済まないとしたらですね。ものの道理を説く訳でしょう。向こうでカラスが鳴いてこっちで聞いてると思ってたんだけども、何故か知らない、自分でも知らないのに、カラスがカアーカアーって言うと、そう言う風にこれが変わる。変化して行く。

鳴いてる時は必ず鳴いてる様な生活になる。鳴きやんだら、必ず鳴きやんだ様な生活に、これがなるって言う事が、「法のなかに生じ、法のなかに滅する」って言う活動をしてるって言う事でしょう。だから何処にいても尽十方界、何処に居てもですよ。こう言う中に法を正しく伝えてるんですよ。実践してるんですよ、皆さんその事を。

「生々にきゝ、」生きてる間中は、なまなましいって表現があるけど、生々ってねぇ。生き生きと書いてある。なまなましいって読むのかも知れない。なまなましいって言う事は、実物に素手で触れるって言う事でしょう。この身心の他で何かする事はないから、「身々に修するなり。」となるんじゃないですか。この身心を借りなければ、一切のものが習得出来ない。

自分で見なくても、物があると思ってる。思うのは構わないけど、見ないって事は物が出て来ないですよ。自分の耳で聞かなくても虫が鳴いているって思ってるかも知れないけど、虫の鳴き声が判るって言うのは、この耳で聞いた時初めて虫の鳴き声が出て来るんですよ。

自分が居なくたってって思ってる人がいますけど、自分が居なくたって思ってる時に、自分が居るんですよ。思ってる人が、エー。(笑)間違えないで下さいよ。私なんか居なくたって、私なんか死んじゃったって、円通寺さんは残るって、そう言う風に理解できるって言うんだけども、それは生きてる人が理解をしてるじゃんね。今。私なんか死んじゃったって円通寺さんは残るって理解してるのは、生きてる私が言ってるんでしょう、今。死んじゃった人がやってる訳じゃないでしょう。だけど、考え方ってそう言う風に思うとですね、私なんか居なくてもって言って、居ない世界を想像するからね。不思議だね。そんなこともあるでしょう。

「生々に法を現成せしめ、身々を法ならしむるゆゑに、一塵法界ともに拈来して法を証せしむるなり今の生きてる自分自身の在り様の他には、私達無いじゃないですか。それが狭い事かって言うと、内容は宇宙と同じ位大きな、これが活動してるじゃん。こんなものが。一塵だからちっこい方でしょう、法界は大きい方でしょうね。「ともに拈来して」それを取り上げて「法を証せしむ」ものの真相がはっきりどうなってるか分かる様に出来てる。

「しかあれば、東辺にして一句をきゝて、西辺にきたりて一人のためにとくべし。」まあ皆さん方も大体そう言う生活をなさってると思います。色んな例が挙げられるかも知れないけど、山に行ったら猪に出合ったって言う様な事があった人が、村に戻って来たら、「イヤー今日山に行ったら猪に出合ったよ。」と言う様な事、言うのでしょう。そうすると、如何いう事がそこで起こるかと言うと、安全性が確保される訳でしょう。気をつけなくちゃいけないな、とか。

仏道も同じでしょう。どこかで話を聞いたら、自分で、こんな話この前あそこへ行ったら聞いたんだけどって言って、身の回りの人にこう話をする。そう言う風にして大体広がって来たのでしょう。今の様に、その高級な電子機器がある訳じゃないから、口込みで殆どが伝わって来たんですね。

「これ一自己をもて聞著説著を一等に功夫するなり。」他のものでやった事がないから、しょうがないよね。確かに「一自己をもて」、この自分の身心だけを相手にしてやってるんですよね。ああなるほど、そうかって言う様な事でしょう。他の人の身体で、兎に角今まで生きて来た中で、一度も他人の身体の中で何かやった事がない。不思議ですね。聞く事も説く事も。そしてこの中で、ものの真相を本当にどうあるかって言う事を学んで行く。

「東自西自を一斉に修証するなり。」向こうであろうが、こっちであろうが、どこであろうが良いでしょう。等しく一斉に修証するなり。それによって。本当は東とか西とかって言う様な事はない、ね。先ほど来話してる様に、人間の常識として、此処にいた者があっちへ行けば、東行った、此処にいたものがこっちへ行きゃ西行ったって言う風にして見てるから、東自と西自とかって言う様な事を言うんだけども、このものを親しく触れてるとですね、行き場所がない。一斉にって。何時もこのものと一緒に居て離れた事がない。

そうやって修行してます。それで済む事でしょう。掛川からですか。遠い所をご苦労さまって、まあ一応私もそう言ってくれると、いやいやとか言うには言うんだけど、自分の様子を見てると、別に掛川から此処へ、新倉敷まで来たって言うんじゃなくて、ずーっと自分の様子を離れた事がない。忙しくない全然、だから。忙しいですね、あっち行ったりこっち行ったりしますねって。そんな事はないって。

皆さんだってそうじゃない。一日中自分と一緒にずーっと居るだけじゃない。だけど景色を見たりなんかするもんだから、あっち行ったりこっち行ったりしてると思ってる。よく見てごらん。そしてですね、道元禅師がおっしゃってる。「なにとしてもたゞ仏法の祖道を自己の身心にあひちかづけ、あひいとなむを、よろこび、のぞみ、こゝざすべし。」って言う事は、今申し上げてる様に、四六時中自分自身と離れていない真相があるから、それを本当に大事にしてくれって言う事じゃないですか。そこに法があるじゃないですか。それが法と言われるものです。

何時も極端な話をするけども、問題が起こるのは、この身心が今何かに触れた時に、ここでこのものの中で、皆さんが苦しんだり悩んだりする事が起こってるだけでしょうが。その事があるから、この身心て言うのは大事じゃないですか。「自己の身心にあひちかづけ、」仏様や祖師方はどう言う風にこの自分自身の身心に向かいあって生きてきたかって言う事でしょう。そう言う事を自分も学ぶのでしょう。

「一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。」営みとすべし。これをやらない人は、時間が余っちゃって、退職したら何もやる事がないとかって言って、生きて行く一日が退屈でしょうがないとか、或いは今日一日未だ終わらないとかって言って、そう言う生き方してる人がいますよ。もったいないね。

病院で寝てようが何しようがですね、本当にこの自分の身心、自己と言うものは、片時も離れた事がない様に出来てる。それに目を向けて、本当にそれと仲良く生きて行くって言う事が、どの位人を幸せにするか。このものの生きてる今の中に、皆、皆さんの求めてる最高の境地があるじゃないですか。理想の、理想としてのものが、皆実現されてるじゃないですか。

何で見つからないかって言うと、自分に目を向けないじゃん、この様にね。「自己の身心にあひちかづけ、あひいとなむを、よろこび、のぞみ、こゝざすべし。」そう言う事しないからでしょう。ましてや時間的には、今とか一時間とか一日とか一ヶ月とか一生とか、一年一生とかって、ずーっと長い年月をこう上げておられますけど、兎に角離れないと言う事じゃないですか。

もう一つは、不即不離と言いますけど、離れないんだけどもくっつきはしないって言う事も、合わせてみておかなきゃならない。今の自分自身とくっついてですね、身動きが取れなくなった事はない。自分自身の様子と片時も離れないんだけど、その離れない内容は一つもくっついた何かが残ってる様な気配は無い。不即。くっつかないんです。こんなにくっつかない、何処へも。

だからこんなに自由にこうやって見れる。パン!パン!パン!パン!(扇で机を連打される)こんなに聞いてるから、一つもくっついた事がないから、何時でもこんなにちゃんと聞ける。コンコンコンコン!これが健康な証拠じゃない。不健康な人は皆残るから、便秘じゃん。あんまり良い言葉じゃないから。腹の中に入れたものが中々出ない。そう言う事でしょう。健康な人は、皆スラッとこう消化していくじゃん。

「仏法を精魂として弄すべきなり。」こう言う真実の自分達の在り様、これを相手にして、こう言うものを大事にして行くのでしょう。もてあそぶ、弄すべしとありますが、もてあそぶって読み方をすると、何か厭らしく聞こえるのかな。弄ぶって言う表現だと。綺麗な表現だったら何だろう。思う存分、自由自在にそれを使いこなすって言う様な意味でしょう、弄ぶって。綺麗な言葉で言えば。

「花を弄すれば、香衣にみつかる」花を弄べば、衣にその花の香りがつく、水を手に掬えば、月、中にありと、そう言う時にこの弄ぶの字が使われてますが、まあ良いでしょうかね。

「これを生々をむなしくすござざるとす。」そりゃそうでしょう。今の自分を本当に相手にするって言う事が、むなしく過ごさせないのでしょう。考え方って言うのは、自分の今生きてる事がありながら、そんな事はどうでもいいんだよね。そう言う世界に人を導いて行くじゃない。次から次へと思いを広げて行って、有りもしない事を一杯広げて。無責任でいれるからね、考えるって。

要するに、自分の中だけで考えてる時間過すから、無責任にいれるじゃないですか。余所に手を出すと大変だけど。自分の頭の中で、あーじゃないこーじゃないって考えるだけだから、滑ったとか転んだとか叩かれたとか気に入らないとか、色んな事やってるけど、全部人には見せないで、自分の中だけで、こうやって袋を被って中でやってるだけだから、それでも、あの、人は過せる。

だけどもそこから目を覚ましてですね、自分を見た時に、何をしてたんだろうって。夢を見てた様な世界に居るよねぇ。考え方って。そう言う事があるじゃないですか。そうなると、自分で何となくつまらないとか、物寂しいとか満ち足りないと、充実感がないとか。そうなると今度は人間て、色んな人が趣味を持ちなさいとか何やりなさい。大変だねぇ。色んな事を。そんな事をしなくたって、生まれた儘のこの身体一つでですね。何にも退屈しない様に出来てるって。本当に。

「しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。」これも取り上げられる話。本当の事が自分でよく分らない間は、人に話をしてはいけないんじゃないかって思ってる方が居る。話をしてはいけないんじゃなくて、嘘を言ってはいけないって言うのでしょう。分らない事を分った様に言ってはならないと言う事でしょう。そう言う説き方をしてはいけないじゃん。ねぇ。

やってるけど、自分もこうやって坐ったけど、坐ってるけども、坐っても気分の良い時もあったり悪い時もあったり色んな事が行われてる話をしても問題ないじゃないですか。だけど、自分が本当に体験していない事を、作り話をして伝える様な事をしたら、それはやってはならないと、こう言う事でしょう。

そんな事をしたら、本当に此処にある様にですね、「あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。」本当にものが分ってから活動するって言ったら、一生何もしないで終わるんじゃないかって言ってる訳ですよ。ねぇ。やれる事があったら、やったら良いじゃない。

「たとひ人仏をあきらむとも、さらに天仏あきらむべし。」天上人間色々あります。人間界の仏って言うのかね。訳がそう書いてある。「たとひ山のこゝろをあきらむとも、さらに水のこゝろをあきらむべし。」だって知ろうと思ったらですね、無限にあるじゃない、楽しむって。それもこっちから求めて行かなくたって、今全部提供されてるじゃない。

ただ自分の考え方からやるとですね、こんなものやってもしょうがないとか、こんなの嫌だとかって、そう言う風にして全部取り扱って、捨てて、それで何もやる事ないって言ってるだけの話じゃない。考え方って本当に人をつまらなくする面があるねぇ。

子供さん達を見てると、一日こうやってやって(紙を持つ)飽きることがない。何書いてるんだろうって。大人はこれ持たしてですね、一日ここに紙こんなにあるから、幾らでも使って良いから書きなって言っても、途中で嫌になっちゃう。だから上達もしないじゃない。

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