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自証三昧 Ⅳ

音声は こちら ↓

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2018.6 提唱

それでは早速始めたいと思います。前回の続きは389頁の段落の真ん中辺だと思います。少し読みます。

「これによりて、仏祖の大道に自証自悟の調度あり、正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。嫡々相承する調度あり、仏祖の骨髄にあらざれば正伝せず。かくのごとく参学するゆゑに、人のために伝授するときは、汝得吾髄の附嘱有在なり。吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。

為説はかならずしも自他にかゝはれず、他のために説著すなはちみずからのための説著なり。「自と自と、同参の聞説なり。」一耳はきゝ、一耳はとく。一舌はとき、一舌はきく。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくのごとし。さらに一身一心ありて証するあり、修するあり。みゝづからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は他のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるゝなり。

かくのごとくの日面あひつらなり、月面あひつらなれり。他のために法をとき法を修するは、生々のところに法をきゝ法をあきらめ、法を証するなり。今生にも法をたのためにとく誠心あれば、自己の得法やすきなり。あるいは他人の法をきくをも、たすけすゝむれば、みづからが学法よきたよりをうるなり。身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。

聞法を障礙するがごときは、みづからが聞法を障礙せらるゝなり。生々の身々に法をとき法をきくは、世々に聞法するなり。前来わが正伝せし法を、さらに今世にもきくなり。法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに。

尽十方界のなかに法を正伝しつれば、生々にきゝ、身々に修するなり。生々を法に現成せしめ、身々を法ならしむるゆゑに、一塵法界ともに拈来して法を証せしむるなり。」


その辺まで読んで。エー文章の途中と言っていいのでしょう。「これによりて、」っていきなりなるとですね、このこれって言うものは、前段にあるものを受ける訳ですから、それはそう言う風に受け取って下さい。「これによりて、」こうやって学ぶ時には、「これによりて、」って言う時は、自分自身の今、こうやってる真相がありますから、それがここの「これによりて、」って言う事でしょうかね。どうなってるか良く分かるでしょう。今の自分自身にこう居れると。

で、具体的にこの自分自身の真相に触れるって言う事は、人間の持っている眼耳鼻舌身意と言う六根と言われるものの働き、それを超えるものは無いと言って良いでしょう、私達は。一例を挙げてみますと、私達は何時から物を見る様になったんでしょうかねぇ。振り返って、皆さん各自自分の事だから触れてみて下さい。何時から物を見る様になった?何時見はじめたのでしょう。物を。

今はこうやって居ると、すぐそこらに物が在るって言うと、こうやって見てるって言ってやってますけど、皆さん今だってそうだけども、皆さんがそうやって対象物として向かって見る前に、ちゃんと見えてる中に居るんですよ。それ知るべきですよ。見てる事を知らない。最初からこう言う風になってる中に居るんです。全部在ったでしょう、こう言う事が、最初から。見てそうなったんじゃない。最初からこう言う中にいるんですよね。

こう言うのが自証自悟の調度と言われる。こんなにうまく備わってる。それをもうちょっと下世話な話をすれば、お母さんのお腹の中にいた事も知らないし、自分がこの世に生まれて来た事も知らないし、眼が付いてる事も耳が付いてる事も、見てるとも聞いてるとも、本当に一切知らないんだね。

じゃ知らないからって、そう言う活動が無いかって言うと、知らないんだけど皆そう言う活動をしてる。これが調度と言われる所以でしょう。他人から一切学んだものはない。自証自悟。物が見える様になった事も知らない内から、こうなってる。どうしたらこうなるか知らない。知らないんだけど、必ずこうなってる。色も形も何もかも。誰からも学ばないのに。

今朝も何か何処かのチャンネルを来る前にみてたら、何だろう、信号機の色の話があった。青黄赤か、日本は何故か青と言うって言う。諸外国ではグリーンと、必ず大半の人がグリーンと言うんですね。緑。確かにあの、言葉を知っていれば、あれは緑ですね。青くは見えない。

お寺でも仏旗が在って、青黄赤白黒とかって言って、青いとかねぇ、黄色いとか、青黄赤だから赤、ビャクは白、コクは黒ですか。その青黄赤白黒の五色の旗って言うのが仏旗として在るんだけど、青いって言う表現に必ず緑色を使ってるんだね。グリーン。不思議な本当に面白いね。だけども言葉は違ってても眼は確かですからね。何色と言われようが、その通りの色に見える。これが良いじゃないですか。

そうするとねぇ、あの表現が違ってるって言うんですね。人間はね。そりゃそうでしょう。人間が決めた上から、こう言う色を青、こう言う色をグリーンて言う風に、緑と言う風に呼ぼうって決めた時に決まりがあるから、それと違った表現をすると、色と表現してるものが違うって言う風になるのは当たり前。だけど眼はですね、絶対青と言おうが緑と言おうがですね、騙されない。(笑)

そう言う生活をしてる。これ凄い事ですね。自証自悟、自ら証し自ら悟る。そう言うきちっとした備え方をしてる。ものの在り方をしてる。だから言葉から学ぶとですね、大半は間違えるじゃない。問題が起きるじゃない。実物の方で学ぶとズレが無い。
「正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。」といわせる所以じゃないですか。

正しくものを本当に伝えるって言う事はですね、言語じゃない。実物をちゃんと触れて、その実物を、概念としての言語を以って伝えてくる訳だから、言語の中に実物があるんじゃない。言語を聞くと実物が何処にどういう風にあるかって言う事が大体指し示されるから、その言語を聞いて実物に触れると、ああなるほど言ってる事が確かだと言う風にして、ものが伝わって来た筈なんです。

それが此処で言う正嫡の仏祖です。正しくものを伝えると言う事ですね。これ必ずそう言う風にしてものが伝わって来る。その様に、「嫡々相承する調度あり。」何時の時代でもそのものに触れたら、誰でもそのものがその儘にちゃーんと受け入れられる様になってます。私の勝手な思いで、滅茶苦茶にする事が出来ないほど確かなものがある。それが法と言われるものでしょう。

人間が定めたルールは、人間が決めた事だから、変えようと思えば、幾らでも変えられる。ねぇ。気に入らないと思うと変える人が居る。変えられると一方の人は何故変えたって言う事になって、中々折り合いが付かない。だけどもものの真相はですね、一度たりとも、一つたりとも、人間の思う様な気配は一つも無い。何時でもきちっとその時にその事が間違いなく行われて行きます。それ自分で自分の事だから、よーく触れて下さい。

ところが人間て言う曲者はですね、実物よりもですね、自分の中に出て来た思い・考え方、そちらの方を重視する傾向が非常に強い。そっちを何か自分の気に入った様にするって言う事が、人の在り様だと思っている。

仏教って言うのはそうじゃないですね。人間の考え方よりも先に、ものの真相事実があるから、その事実がどうあるかって言う事に触れて、その事実を大事にして行くって言う事が、仏道の在り方です。だから一切そこに私の我慢が入らない。

物を一つこうやって触れたってそう。自分の我ままで違った様に見ようと思ったって、無理でしょうがって。それ位揺ぎ無い確かさがあるから、何億年経ってもですね、物が狂わないのでしょう。そう言うものが人の様子の中にきちっとあるじゃないですか。調度として。それが仏祖の骨髄でしょう。

お悟りを開くって言うんだけども、自分の真相に触れて自覚する、なるほど本当に間違いないって言う事が、仏祖の骨髄じゃないですか。頭の中で道理を聞いて、そして理解して、ああなるほどそうなってるって、その程度の事では骨髄と言わない。上滑りですよね。理論だけだもん。実物が無い。

「仏祖の骨髄にあらざれば正伝せず。」本当の自分自身の真相に触れた人でなければ、その事が人に伝えようと思ったって、伝えられない。見て来ないものを見たと言って伝えてもしょうがないじゃない。ねぇ。

「かくのごとく参学するゆゑに、」こう言う風にして勉強をする、学んで行く。「人のために伝授するときは、」人にそれを伝え授ける時には、「汝得吾髄」の附嘱すると言う事が有る。ああ、お前さんも私が本当に触れて気づいた真相そのものに気づいたんだって言う時に、初めてお互いに許しあえる。それで間違いない。それを暫く伝授したと言うのでしょう。

ものを何もあげてないですよ。何かものをもらわないですよ。元々自分の中にある、自分の様子の中に在った事を自分で気が付いた時に、それが伝わったとか、授けられたとかって言う事に、気づかないとですね、お分かりの様に気づかないと、自分に在る筈のものがですね、分らない。不思議ですね、使っていても分らない。

仏道って言う様な言葉もですね、皆さん方知らない内はですね、自分の今生活してる事とは別に、仏道と言うものが何処か他所にあって、そう言う風にきっと学んでたと思う。それは大いなる違いだって言う事が判明してる訳ですね。自覚と言うものは最初から、誰か他所の人のものをどうかするのではない。自分自身の真相に触れて、自分自身がはっきりする。そう言うものが仏道と言われるものなんですね。

もしまだ間違えて思い込みをしてる人がいたら、改めておいて下さい。知識の上でも大事な事です。それは何故かって言うと、知識の上でそう言う事がはっきりしないと、ものを学ぶ時に、自分に目を向ける事を忘れてしまう。このものの中に大事なものが在ると思わない人は、このものを相手にしませんからね。自分を本当に知るのに、このものを抜きでですよ、どっかに目を向けて求めて行くって言う事は、もう最悪のパターンじゃないですか。ほぼ永久的に見つからないと言って良いほど見当違いしてるって言う事でしょう。

でも一般的には仏道とか禅とかって言うものを学ぶ時に、今指摘した様に、自分の生活してる事の他、自分の在り様の他にそう言うものが説かれている、と思って学ぶんじゃないですか。そう学んで来ませんか。だから長い間真面目にやってる割にはですね、成果が上がらないじゃない。

だから知識というものも非常に大事でしょう。いっぺんにその近く迄引き寄せてくれる。そっち行ったら駄目だよって。こっちに行くとあなたが尋ねてるものが在りますよって言ったら、それだけで、あ、こっち駄目かって振り向くだけの力がある。そっから始めると全然違うでしょう。これ、放っときゃどんどん向こうへ行っちゃう。

「吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。」と言う事が今申し上げている様な事ですね。ねぇ。人から何か貰うのではない。伝える、授かる。「吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。」って言った時に、私の中にある正法眼蔵と言うものが、摩訶迦葉さんの方にこうやって、ハイどうぞって言って差し上げる様な伝わり方ではないと言う事です。良いですね。

「為説はかならずしも自他にかゝはれず、」先ず誰かの為にって、為に説くって言うんだけども、必ず自分とか相手とか言うものの為にやるのではない。その内容を見ると、「他のための説著すなはちみずからのための説著なり。」それを具体的に次に挙げてある。「自と自と、同参の聞説なり。」

もっと具体的にさらにしてくれている。「一耳はきゝ、一耳はとく。」自分で喋ってるものをですね、自分の耳で聞き、自分でその内容をなるほどって言って頂くって言う事です。説くって言うのは、人の為に話をしてる様に思っているかも知れないけども、そう言う風になってる。そして自分で喋ってる事を自分で聞いて、その確かさが自分で確認されないと、説くのやめるじゃない。説けないじゃない。こんなことやっちゃっていけないなと思うじゃないですか。それ位ちゃんとした事が説ける様になる。

ところが不必要にこう話をしてる人は、自分の喋ってる事聞かないもん。ああこんなつまらない事、あの人に言わなきゃよかったって、後で気づく時は、気づく様な在り方は、その時に自分が喋ってる事を聞いてないよね、殆ど。聞いたらもっと早く止めるんだよ。愚痴らなくなる、それは。

昨日もヨガを勉強してる人だって言う方がおられて、質問はって言ったら、イヤ腹が立ってしょうがないって。どうしたら静めれるか、そう言うのでヨガをやってるのでしょう。瞑想法、ヨガの。それも良いかも知れないけど、折角やるんならね、何処から腹が立って来たか位は、自分の事だから分かるんじゃないって言ったら、頭を抱えてました。

瞑想してる割にはですね、本当にこんな風に瞑想してる、瞑想って静かにものの在り様をこうやって触れるとですね、どうなってるかよく分かる。どんなに腹が立つ人でもですね、腹が立つって言ってる言葉を聞いただけでも分かる様にですね、腹が立ったんですね。何処かから。最初から腹が立ってる人は、腹が立ったとは言わない。最初は腹立ってない。その位の事は話すと分かる。

じゃ何処から腹が立つ様になったかって、見た事があるかって言うと分からない。分からない割にはですね、あの人がって言うんですね。あの人こんな事言ったからって言うんです。向こうに何か非がある様な事を言うんです。最初に向こうの人がこちらに向けて言葉を発した時には、よーくこうやって触れてるとですね、分かる様に、その言葉を発してる通りのものが、その通りこうやってあるだけ聞こえるだけじゃない、ね。

だからちゃーんと聞いてると、人は腹が立たない様になってます。ちゃーんと聞いてる時には、人間の考え方なんて言うものは、そこに差し挟む事が出来ない様になってます。よーく聞いてごらん。鳥が鳴いてる時でも。どんな鳴き方するんだとか、何で鳴いてるんだって、そんな事やって聞くのは野暮です。本当に鳴いてる通り、こうやって居るだけです。そうするとよーく分かる。虚心坦懐とかって言うけど、腹の中に一物も無い。ねぇ。そうすると何処から問題が起きてくるかよく分かる。エーそう言う風に出来てますね。

「一舌はとき、一舌はきく。乃至」ってある。身体全体眼耳鼻舌身意、各々根識ですね。根、六根六識六塵と言うので、根識塵とあります。ね。六つの感覚器官があって、それに対する一々のものが識といわれる。目には色、耳には音って言う風なのが識、エーごめん塵ですね。下の塵ちりと言う字、それが目と物が触れると不思議に分かる様になってる、物が。要するに、見える様になってる。それが識ですね。それ一々眼にもあるし、耳にも皆あるって言う事です。そう言う時に、今申し上げた様な関係になってる。

「一舌はとき、一舌はきく。」「一耳はきゝ、一耳はとく。」向こうのためだけじゃなくて、同時に必ず同時に行われてる。ここに同参ってあります。片一方だけじゃ無理なんです。目だけ在っても物が無いと見えないんです。物だけ在っても目が無いと見えないんです。必ず見えるって言う時には、物と眼が一緒に活動する様に出来てる。一緒に活動する時には、不思議に両方とも何とも言わないのです。

一緒になると分け隔てをしてるものが消えるんです。それはお分かりでしょう。一緒になったら分け隔てをしてるものが消えるでしょう。消えるとどうなるかって言うと、争わなくなるでしょう。上手く出来てるねぇ。こう言うものが全部、各自自分の上で行われてる。自らの上で証明されてる。そして自らの上でなるほどって言って、悟る事が出来る。気づく事が出来る。それで坐禅と言う様な事が代表的な行として行われてる。

だから坐禅は人の考え方で何かを探し求める様な事は、一切致しません。今、自分自身の生きてる様子そのものに、今誰しも居る訳だから、これを考え方で手を付けたら分らなくなる。実物そのものにこうやって親しく居ると、そのものがその通りに自分に自覚させる力があるじゃん。考え方が本当に止まると。ねぇ。

「さらに一身一心ありて証するあり、修するあり。」これ皆さん全部そう言う事でしょう。「みゝづからの聞説なり、」聞くって言うんだけども、本当は耳の働きだけって言ってるんでしょう、ね。音も物も皆、音波とか光波とかって言って、今では波によって波がこう伝わって来て、それが耳の場合は鼓膜にその波が打ち寄せて来ると、鼓膜が揺れる事によって、その揺れ方によって音に変わるって言う事でしょうかね。

物が見えるのは光の波がこう伝わって来て、網膜ですか、目の何処かこの辺にそれが伝わると、そこに色がこう出て来て、色んな色がこう埋め尽くされると、こう言う風に(皆さんが今見ていること)見えたり、こう言う風に見えたりする様になるって言う事でしょう。そう言う処をこれ言ってるんですよね。

「みゝづからの聞説なり、舌づからの聞説なり。」って言う様な事、全部そうですよね。六根全てのものが、そう言う風に大体、その道具自体の活動なんです。味がするったって道具自体の活動なんです。舌そのものの活動。触覚があるったって、この身体の働き。触ると、この身体がそう言う活動をする。香りでもそう。

要するに、私が何かしてるって言う事は無いのです。こう、持ち合わせてる、この人間の持ち合わせてる道具が、道具自体がそう言う働きをしてるだけだ。だから其処には、私がその道具をどうかしてる気配は全く無い様になってる。その行われた後に、人間の思考能力があって、それをいじるんです。だから余分なものを付けてものを見ると分らなくなるじゃない。素直にそのもの自体の活動の様子にこう触れると、そのものの在り様が一番明快によく分る。まあそう言う様な事が大体説かれているのですね。

「昨日は他のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるゝなり。」不定法とか定法とかって言うんだけども、早い話が、昨日は良しって今日は駄目って言う様な事です。同じものに対して。歴史の中でもそうじゃないですか。勝てば官軍、負ければ賊軍とか、何かそう言うようなのもあるじゃないですか。ものの真実が変わる訳じゃないけども、その人の立場からすると、そう言う事は幾らでもある。

或いは昨日は良いって言ったって、今日はそれは役に立たない事があるから、今日はそれじゃ駄目って言われるじゃない。そうすると、問題はそこで何が起こるかって言うと、前にこう触れたものをちゃーんと記憶してる事があるもんだから、何でって、何でって言う様になるんですよね。その時に、もう一度よく見て下さい。何でって言う前にですね、本当にはどうなってるか、今。本当にどうなってるかって言うと、昨日の事がそこに並んではいない。先ほどの事が、今そこには無いと言うのがものの真相でしょうが。

皆さんの眼だって見て御覧なさい。今これを見た事があっても、こうやった時にどうなってるかって言うと、(別のものを見る)こっちの今見た物は本当に無しで、これ(今見てる物)だけが見えてるって言う事でしょう。昨日は不定法を説き、今日は定法を説くって言うんだけど。混乱は一つも無い。混乱は一つも無いんだけど、前の物を記憶に留めていて、今の処へそれを持って来て如何にも前の物がこう一緒にある様に、ものを見る癖があるじゃないですか。

「さっきああ言ったじゃない。」って「何で今こう言うの?」って。さっきはさっき、今は今ですよ。そうじゃないですか。生活してる時に。何でさっきの事、今問題にするんですかねぇ。自分の在り様だから、よーく触れてごらん。さっきの事は今やってないって。此処が(頭を指す)さっきの事をやるんです。こっち(頭)を大事にしてるから、さっきの事の方が重要になる。そしてこれに対して今の事が出て来るもんだから、これと(頭)違うって言って、文句言うんです。こっち(事実)は文句言わずにちゃんと今の事があるじゃないですか、こっちの(頭)事がでないで。

こう言うのだって聞いたらよく分かるじゃん。パン!パン!パン!(机を扇で打つ)ねぇ。パン!パン!音を聞いてるんだけど、パン!さっきの音が聞こえるって事無いじゃないですか。ねぇ。パン!パン!パン!パン!(連打される)皆さんこうやって聞いてもらうと分かる。パン!パン!さっきの音が聞こえた事ないでしょう。パン!パン!今の音がしてるのだけが、ちゃんとこうあるだけで。パン!パン!パン!パン!パン!パン!

こうやって、さっき見えてた物がって言う様な事は無いのでしょう。見てる時、さっき見てた物がって言う事は無いのでしょう。自分の目で確認してみて下さい。さっき見てた物がって、無いのでしょう。そう言う風な事は活動してないのでしょう。必ず今の様子だけじゃないですか、何時でも。だからこんなにはっきりしてるじゃないですか。さっきの何処へ行くんだろうね。エー何処へも行き場所が無いんだけども、残ってないんだよね。不思議だねぇ。

こうやって(扇子を開く)、今こうやってこうなってるんだって(扇子が開かれている)、こうやって行くと(扇子を閉じる)今の様子がこう展開するだけ。こう展開するだけであって、開いてた物が閉じたって言う様な事は、何処にも無い。でも人間の考え方で見るとですね、開いてた物が閉じたって言う風に見えるんですよね。やってみますよ。(扇子を開く)閉じてた物が開いたって言う風にこう見える人、無いじゃないですか。閉じてた物が開いたって言う風に見えるのは、嘘ですよ。見ててごらん。(扇子を閉じる)開いてる物が閉じるって言う風に見えないじゃない。ただこの通りの様子があるだけじゃないですか、これ。

こんな勉強、皆さんしないんだよねぇ。自分の事なのに。自分の事がどう言う風に本当になってるかって。こうやってると、さっきのもの何にも邪魔にならないでしょう。エー。見えてたものがって。全然邪魔にならないじゃん。どっかへ片付けた訳でもないのに。何もしないんだけど。何時もあるのは今の在り様だけ。すっきりしてる。これが私達の自証三昧を言われる知りたい内容じゃないですか。何時でもそう言う風にできてる。

何でその事が自分で本当に納得行かないんだろう、自悟。先ずは、見てないから。見てない人は問題にもならない、話しにもならない。だから少なくとも、先ず自分で自分のそう言うものにこうやって触れてみて、そして更にその事を自分自身で、こうやって参学と言って学んでみると、どうなってるかがもっと明確になるじゃないですか。ねぇ。そう言う事を仏道の修行って言うのはやってます。

「かくのごとくの」この様な日々のお勤め、「日面あひつらなり、月面あひつらなれり。」片時も止む事の無い、そう言う様子がずーっとあるじゃない、全身心を挙げて。何処に触れても、そう言う活動ばかりしてる。これから作るのじゃない。一生懸命守って、それが離れない様に、それからずれない様に、そんな必要はない。
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