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自証三昧 Ⅸ

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「後稍経載、湛堂示疾(後稍載を経て、湛堂疾を示す)。」一緒に修行生活をしておられたけれども、湛堂禅師がその後に身体の不調をとなえられた。そこで学んでる宗杲さんとしてはですね、こんな事を聞いています。「『和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事(和尚百年の後、宗杲阿誰に依附してか、以て此の大事を了ずべき)』」。まあ百年て言うことはあなたが死んじゃった後はって言う事でいいでしょうか。あなたがなくなった後は、私の今この問題になる事をだれに勉強したら解決がつくのか。本当は自分が解決するまで生きてて欲しいって言う事でしょうけど、ねぇ。中々それを許さない。そう言う事があるでしょう。

そこで湛堂さんがその人に、「嘱曰」って事は授けたのでしょうね。こう言う事を言って。「湛堂嘱曰『有箇勤巴子、我亦不識他。然雖、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出来参禅也。(湛堂嘱して曰く、『箇の勤巴子といふもの有り、我もまた他を識らず。然りと雖も、你若し他を見ば、必ず能く此事を成就せん。你若し他を見んよりは、了に更に他遊すべからず。後世参禅を出来せん)』」

エー園悟克勤という人、勤と書いてありますがゴンと読んでる、今は。園悟禅師と言う方がおられる。勤巴子と言うのは園悟克勤という方です。少し禅書に堪能な方は碧巌録と言うものをご存知かも知れません。碧巌録はこの園悟禅師の手によって出来ています。禅宗の三大著書として、無門関、碧巌録、従容録と言う大体この三つが禅宗では珍重されています。

まあそう言う経緯もありますが、兎に角湛堂さんはこの園悟禅師に会った事はない。面識もないんだけども、何かを見て何かに触れてこの人はすごいと言う事知ってるというんですね、やっぱり。この人以外にあなたが私が亡くなった後、ついて学ぶ人は居ない。他所に行ったら駄目だとまで言っておられる訳です。有難いですよね。探さずに済む。あっちゃこっちゃ色んな所探さずに。この眼のちゃんとした湛堂さんがお墨付きの人だ。この人ならば間違いない。あなたの今問題になってる事を解決する指導を必ずしてくれるから其処に行きなさいと言っておられる。

今私達はものを学ぶ時、じゃ何処へ誰についたら良いかって尋ねる時に、誰が何処へ行ったら良いって示してくれる様な人、どれだけいますか。これだけネットや色んな物がこう盛んで、世界中が開けっぴろげられて、情報が行き来してる中でですよ。それだのに何処へ行ったら、私ら弟子が出きたりなんかした時に、修行何処へ行ったらいいですかって。

修行寺は幾つかありますよ、曹洞宗でも30近く。だけど何処の寺に修行に行ったら良いかって言われた時に、即答できる所がない。道場はある、人も居る。だけどもって言う様な事は。それは別に仏道だけじゃないじゃないですか。色んなものを本当に学ぼうとする時に。そう言う事がどこにでも見受けられるんじゃないですか。まあそう言う時にこう言う事があると有難いね。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開発を擬すといへども、ついに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず。」だから幾ら頼まれても嗣書を授ける事が無かった。湛堂と言う人は立派な人だと言うんですね。あの手この手を使って嗣書をくれって言って誘惑するんだけども、一切そう言う誘惑に組せずにですね、清廉潔白。仏道の本来の在り様をですね、貫き通した。

これだけやられるとですね、可哀相だからまあやるかって言う様な事になるのよ。段位が上がって来るのでも見てごらん、何段とかって。十段位あると六段以上だと大概もう名誉職ですからね。ドンドン上がって来ますね、積むの。ねぇ。実力は五、六段が一番有るのでしょう。教授よりも準教授の方が実力があるでしょう、大学でも。悪いけど。

「『なんぢいまだしきことあり』と勧励する」まだ駄目だって言って励ました。勧める。「微和尚の観機あきらかなること、信仰すべし。」これは最初の微和尚の話ですね。「『正是宗杲疑処』を究参せず。」ああやって途中で自分の欠点、一番大事な処に欠落してる処をこう気づかされたにも拘らず、また何時の間にかその事は放っといて、所謂博学の人の様なものの学び方に流れてしまう。「脱落せず、打破せず、大疑せず、被疑礙なし。」それ位人間て、この本物を自分で触れて自覚するって言う事はないがしろにされやすいんだね。

さっきの話を持ち出せばですね、録音して来た鳥の声を聞いて、本物だと思ってられる位の事ではにですか。録音したの聞かしといて、山行って鳥の声聞くと、あ、録音と同じだって言う人が居る。エー。どっちが本物だ。あ、録音と同じ様に鳴いてるって。全く捉え方が違うよね。それ位基準になるものがですね、そのバーチャルの方が本物だと思ってるのよ。だからこうやって宗杲禅師もですね、自分の欠点があるにも拘らず、いつの間にかそれを問題にしなくなっちゃうんですねぇ。

大勢の人にちやほやされてですね、自分のそこの至らない処なんかやらなくたって一生済んじゃうもう。肩書きがあって、良い地位にいて、皆から大切にされてちやほやされれば、百年位すぐすぎちゃうよ。そう言うもんでしょう。

「そのかみみだりに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。」まあ滅茶苦茶ひどいねぇ、道元禅師。人をこき下ろす段になると、この位もうコケにする。立ち上がれない位言われちゃった。この位言われると、もうすごいね。こうやって奮起させるんですよね。本物を求めなさい。これ昔の様に書いてあるけど、今此処で、私達は自分の事としてこれを学んで行かなければ意味がない。はっきりしないにも拘わらず、ただその証となる嗣書って言うものを欲しがるって、これは、って言ってるのですね。

「無遠慮なりといふべし、」まだ続くね。エー「道機ならずといふべし、疎学のいたりなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。」こうこんなに、まあ滅茶苦茶ひどいねぇ。どれを取り上げても。エー、道元禅師がいかに清廉潔白な人だったかって言う人柄が、こう言う文章を読むとわかる。

かって自分の弟子が鎌倉の北条の所に行って話をした時にうまい話があって、お寺になんか寄進をすると言う様な話を頂いて帰って来たのでしょう。だけどその方は得々として帰って来て、道元禅師に報告をしたら、その人の修行してる、自分の坐ってる単と言われる、この白雲閣でも高い所へ坐ってますね、あの坐ってる一画を切り取って、そして下の何尺か土を掘って全部捨てたって。それ位道元禅師って言う方は、そう言う事に関しては清廉潔白に人だったって言う。これは逸話じゃなくて実話として残ってる。

普通の人だったら、よくやった、永平寺もこれで助かるって言って、喜んでそれを受け入れるんだろうけど、そう言う仏道に関しては、道元禅師って言う方は微塵も世俗のそう言う温情を入れない人だった。ねぇ。そう言うのがこう言う先輩から学んでるのでしょうね。

「貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、仏祖の語句をしらざることを。」自証三昧、自証自悟と言う句があるけども、真意はそんな自分勝手な物を知るって言う内容を言ってるんじゃないって言う事ですね。

「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟ときかず、学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。」さっき来ずーっと話してきてますけども、何回も繰り返しますけども、本当に自分自身の様子にこうやって触れてみると、朝から晩まで、ただ、この自分の頂いている自分自身の身心の活動以外にない。それはもう決定的なんでしょう。誰でも。

色んな物見るんだって、この自分の身心を借りて見た物だけですよ。色んなものを聞くって言ったってこの身心を借りて聞くだけですよ。全てこの身心を借りて、今、そのものに触れて事が成り立ってるだけですよ、一日中。一切他の人の活動は無い。何回も申し上げますけど。分かった様な、分からない様な話でしょう。

だって私は是だけだと思うから、どうしても是だけが私だと思う。こっちに居る人は私じゃない、外に居る、向こうの人だって。じゃそう言う思う事は誰がやるのですか。そう言う風に位置づけてるのは、誰がそう言う風に位置づけるんですか。誰か他の人が、是が私で、これは余所の人だって、そんな事誰も他の人がやってませんよ。みんなこのものの中でやってる事ですよ。あの人は良い人だ、この人も良い人だ、あいつはって、そうやってるのも、みんなこのものの中でやってる事ですよ。

それ位丁寧に触れてみると、本当にこう言う事が、稽古はこれ自証なりと言う事じゃないですか。古をうやまう、稽古。お稽古をするって言うのは、自分の生まれてから後につけた癖を、一切無くなるまで物事に親しむって言う事が稽古でしょう。茶道にしても華道にしても弓道、剣道、あらゆるものがそう。万代、よろずですよ。エー渉る、それから猟をするんですけどね。それを何だろう、眼を通して獲得するって言う事ですかね。

だってこんな難しい文章だけども、平たくこうやって言えばですよ、皆さんが知ってる物って、全部自分で見たものだけですよ。エーそうでしょう。自分で見たものだけでしょう。ああ言う物がある、こう言う物があるって知ってるのは。自分の目で見ない物は、ああ言う物がある、こう言うものがあるって無理でしょう。そう言う事ですよ。万代、よろず。

自悟ですから、自分ではっきりしてるでしょう。人に聞く用がないでしょ。こうやって物に触れた時に、どうなってるって。見りゃちゃんとその通りになってるんだもん。その通りになってるから、人に聞いてどうかしなければはっきりしないなんて事、一切無いでしょう。の、筈なんですよ。筈なんだけども何故か人に尋ねて聞くと、やっと分かった様な気になる。

停電で真っ暗になると、面白いなって思う。あの真っ暗の中でもですね、食べ物を鼻に持って行く人は居ない。ちゃんと口に持って行って食べてる。何も見えないって言うんだけど、面白いね。自分の様子って言うのは、あんなに真っ暗になると本当によく分かる、一切他の人の様子が無いって言う事が。明るいと何か他の人の様子がある様に見えるんですよ。真っ暗になると本当に自分の様子ばかりですよ。で自分の様子って言うのは、真っ暗な中で、ものすごいはっきりする。見えないんじゃないんのね。真っ暗で見えないんじゃない。真っ暗だともの凄くはっきりする。不思議だね。

「学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、」本当に学ばないから、そう言う風にはっきりしないだけじゃないって、言ってるんでしょう。かくのごとく誤り、自ら取り違える事がある。かくのごとくなるによりて、そう言う事だから、エー宗杲禅師の門下には「一個半個の真巴鼻あらず、」ひどい事になってきた。この大慧宗杲さんも流れを汲む者の中には、本物は育たなかったと言う事になると、こう言う風に位置づけておられる。

最初が駄目なら次も駄目って言う事に何故なるのかって言ったら、駄目な人が許すって言う事は駄目でしょう。はっきりしない人が、人をはっきりしたって許すって言う事は変でしょうって言う事でしょう。許された人も何で許されたか分らないまま、許されたって言って受け継いで、次の人に受け継がなきゃいけないからって、なんだかよく分らないけど良しって言って次の人に渡して行く様な事になったら、本当に何がなんだか分らなくなるって言う様な事が、道元禅師の時代に既にこうやって道元禅師が実感しておられるのね。

「おほくこれ仮底なり。」ケチって面白いね。こう言うカナがふってある。「仮底なり。」真実でない事ってなってますから、ケチってそう言う違った字を使うといいかも知れない。あの人ケチだねって、真実でないっていいかも知れない。

「仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくのごとくなり。只今の雲水」今の修行してる人達、「かならず審細の参学すべし。」自分自身の事だから、宗杲さんの様な過ごし方をして良しとしてはならない、と言うんですね。自分自身の事だから、はっきりしてるかしてないか位はよく分るでしょう。何がはっきりしてるのか、何がはっきりしてないのかも、自分でよく分る訳でしょう。「疎慢なることなかれ。」愚かに、そして高慢て言うか、自分勝手であってはならない。

まだ続くね。「宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、」先ほど話しが有った様に、自分が亡くなった後はどうしたら良いかって言う事に関して、湛堂さんが示した通りにですね、って言う事ですね。「参圜悟禅師於京師之天寧。」エー其処に圜悟禅師がおられるので、圜悟禅師に参禅をされた。「圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。」これは宗杲禅師が自分で気づいた処が有って、自信をもって圜悟禅師の処に行って、こんな様子です、こんな事がありました、こんな風になりましたって言う様な事を申し上げたんでしょうね。

それを聞いて、圜悟禅師が「『未也、』」届かない。未だそれでは駄目だ。「『子雖如是、而大法故未明。』」色々あったり、そうやって言うけれども、未だはっきりしてないねって言われちゃった。

ここで一つ皆さん方と問題提起ですが、人に駄目だと言われて退くのか、人に良しと言われて納得するのか。或いは人に良しと言われ様が駄目だと言われ様が、狂わない程確かなものが自分にあるのか、言う事が問われるんじゃないですかね、一つは。そう言う力があるから、本当は圜悟禅師の処に赴いて、自分の内面を露呈して、そしてお互いに腹を割って話し合う。そうすると、成る程という様な事が伝わるのでしょう。そこまで腹を割って全部さらけ出してやらない事にか隠し事が少しでもあったら駄目でしょう。

「又一日圜悟上堂、挙五祖法演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。」自分の心境を歌に綴って示された。「圜悟笑曰、『我不欺汝耶』」欺かざらんやって言う事は、本当にやれたかどうかって言う事をはっきりしているって言う事でしょう。はっきりしていれば私は許すけれども、はっきりしてなかったら許せないと言う事でしょうね。

こう言う出会いがあって、湛堂和尚さんに紹介をされた圜悟禅師にお会いになって、やっぱりこの圜悟禅師って、湛堂師匠が後あそこに行きなさいって示されただけの人物だって事を実感したのでしょうね。騙せなかった、圜悟禅師を。宗杲さんの色々な技能を以ってしても。それでここにある様に、「これ宗杲禅師、のちに圜悟禅師に参ずる因縁なり。」離れられなくなった。

「圜悟の会にして書記に充す。」共産国に行けば書記長ってすごい位置ですが、私達の書記って言うのは記録係と言っていいのでしょうかね。記録は大事ですから、後代の人の為に記録をちゃんと残さないといけない、重要な仕事なんですね。間違った記録をすると次の時にえらい事になるから、間違わずに正確に記録を残して行く。

「しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。」道元禅師がこの宗杲さんの事をこうやってつついみると、圜悟禅師に出合った後もですね、あれ以後それらしくはっきりしたって言う様な事が何処にもこの見あたらないとおっしゃってる。
「みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。」今度は圜悟禅師の所を去って、自分で一軒を構えて人のために法を説く様になった時もですね、自分の今迄の中でこう言う事があってはっきりしましたって言う様な事に一つも触れた事がないと言っているのですね。

「しるべし、記録者は」圜悟禅師の歴史的な文章を残した、記録をした人達は「『神悟』せるといひ、『得大安楽法』と記せりといへども、」そう言う風な事が書いてあるけども、「させることなきなり。おもくおもふことなかれ。」書いてあるけども、実際にはそこまで行ってないって、道元禅師は大慧宗杲さんを評価しております。評価じゃない批評しております。批判しております。

何故こう言う事が、こんなに正法眼蔵の中で残されたかって言う事を考える時にですね、自分の後を本当に学んでちゃんとして頂く為には、ここがはっきりした人に継いで貰わないと駄目だと言う事が、道元禅師にあるからでしょう。程々の人って言うのは一杯いるんじゃない、学問をして。

ちょっと余談をしますが、私の幣師は小学校出たか出ないか位の学問しか無い様な人で、私が小さい頃、親ですから父親ですから、膝の中でよく人の話をしてるのを聞いてたんだけど、うちの父ちゃんは何でこんな父ちゃんの所へ人が来るのかなって思う。それ位学問の非常に優れた人達が多かった。僕はあんまりそう好きでもなかったけど、そのうちに段々東大、京大、九州大、北大、国立の大学出てる様な双そうたる人達が私の師匠の所へ参禅に来る。何を学ぶんだ。エー。小さいながらもおもいますよ。

で私の師匠の寺は檀家が二十軒かそれ位しかない様な、破れた様な小さな寺で、当時はこの位の建物しかない、寺が。こんな中に五人の子供が居て、一般のお寺さんから修行に来てる人が十人位はいたと思う。そう言う人達がこんな狭い所で暮らしてるんですよ。もう立派なお寺を捨てて修行に来る。吃驚。

中には臨済の方なんかは余所の師匠さんの所で、要するに印可といわれて、免許証がきちっと出されてる。そう言う人が参禅に来る。もう終わったんじゃないの、修行がって、ね。完全に終わってる筈。そのために出してる訳だから。そう言う人が修行に来るって何だろうって。そう言う中で小さい頃育った。それは不思議な縁ですね。そう言う所に産み落として貰って、知らない内にそう言う中で育った。今思うと、それは有難い事ですね。

「おもくおもふことなかれ。たヾ参学の生なり。」こんなに言われちゃうとかわいそうだね。これは道元禅師のお言葉だから、皆さんが自分が道元禅師になった様に、こんな風に使わないで下さいよ。ねぇ。道元禅師はこれだけの事が言えるだけの力がある。人の褌で相撲を取っては駄目、ね。

道元禅師がそう言ってるから、臨済はつまらないって、曹洞宗だから臨済はつまらないって言ったら、笑われる。そうじゃない。本当に言いたい事は、ちゃんとした眼を開きなさいって言って勧めてくれてるって言う事だけが、私達に必要な事でしょう。このとおり行ったら、今の臨済宗は全部、そう言う感じじゃないですか。あんな所に行って学ぶなって言う風に受け取れちゃうじゃないですか。そんな事になったら、本当に何だろう、大変なご迷惑をかけるから、それは今の人がどれだけ臨済の真意を復興してる人が居るかって言う事にかかるじゃないね。曹洞宗も同じでしょう。エー思うことなかれと言われる言葉の中には、そう言う受け取り方をして頂く必要があろうかと思います。

エーまあその辺で。時間ですから。
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