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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 Ⅴ


音声はこちら ↓

正業道支 五ー①
正業道支 五ー②
正業道支 五ー③
正業道支 五ー④


それから、お釈迦様のことも出ております。さっきも話した通り、その「かたじけなく父王の位をすてて嗣続せざることは」王位を継がなかったと。それは王様の位に就くってことが、つまらないからやらなかったのではない。「仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり」仏様の跡継ぎをする方が、国の跡継ぎをするよりも、はるかに優れているからだ。だから道元禅師は権勢におもねることを生涯、しなかった。帝の下で、帝の庇護を受けて何かすることを、道元禅師は本当に生涯嫌った人ですね。

少し時代が下るとですね、勅使なんとか禅師とかって、禅師号を帝から貰って、紫衣の衣を賜ったとかって、そんなことで自分を欺ようになってくる。それは不自由な人になったって言うことでしょう。本当のことが言えないような状況になる。何時死んでも、本当のことを言って殺されても大丈夫な位置になければ、本当のことなんか喋れるもんじゃない。命を懸けてるんですよね、皆、一言一言。出家ってそういうものなんでしょうね。

「三界の天衆生・人衆生、ともに頂戴恭敬するくらいなり」全ての人からやっぱり崇められる、敬われる、そういう生き様、それが出家。そんな風にして何ものにも縛られない生活ができたら私も良いなって、思う人は沢山いる。何で出来ないかって。ねえ、何故できないか。怖いのでしょうね。今こうやって生活が安定しているものから離れる。住む場所も無いで生活するってことがどれ位大変なことか。蓄えも何にもない、着の身着のままで、一人で生活することが、どれ位大変なことかって、やってみないとわからない。一人になったら楽だなって、今思うんだけど、実際に一人になったら、そんな楽じゃないって言うこともある。

「梵王・釈王の同坐するところにあらず」一応世の中ではそれなりの地位の人でしょう。梵天・帝釈天、天部に位する立派な位置の人達だけども、そういう人達と一緒に仏様方と座るような位置にない。皆それは仏様の眷属なんです。仏様の働きを助ける役をしているだけであって同列ではない。

「いわんや下界の諸人王・諸龍王の同坐するくらいならんや。無上正等覚位なり」それ位飛びぬけて素晴らしいと言ってるんですね。「くらいよく説法度生し、放光現瑞す」法を説いて生きとし生けるものを救うということですね。そして光を放って瑞を現ず、輝いている。「この出家位の諸業、これ正業なり」手本となるのは、そうやって出家した人達が本当にこう生きている生き様は、一番素晴らしい生業じゃないかと勧めておられる。

「諸仏七仏の懐業なり」本懐とする処と言うことです。「唯仏与仏にあらざれば究尽せざるところなり」
本当にものの真相がわかっている人同士でなければ、こういうことの大切さを知ることが出来ない、味わうことが出来ない。「いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし」これはあの、我田引水ではなくてですね、出家した、そういう人達がそこにおられたら、出家をしていない人達はそれを大事にしてほしい、とこういうことです。少なくとも真理に目覚めた人達をですね、疎かにするって言うことは、自分自身がそういうものを疎かにして生きていく類になるからでしょうね。

もっと平たいことを言えば、立派な人がそこに居たら、自分は同じような事が出来ないにしても、その立派な行為をしている人を大事にする気持ちだけは失いたくない。中には立派な生活をしている人を見ると僻んでですね、僻む人が居る。そしてそれをこき下ろすようなタイプの人が居ます。それはあってはならないと言うような意味ですね。

「釈迦牟尼仏言、『出家受戒すれば、是れ仏種子なり。巳に得度せる人なり』」出家をして守るべき大事な戒めを受けて、それを守っていく出家受戒ですね。悪いことをするな、良いことをしなさい、人のためになることをしなさいって、まあそれが受戒の一番身近な話です。そういうことを守って行く訳ですね。「是れ仏種子なり」仏の種子、種、だから出家は必ず仏になるんですね、育つと。蝮の子は大きくなると必ずそのまま蝮になる、筍は竹になる言う様なことですか。

得道って言う字がありますが、得道というのと得度は違いますね。坊さんになるのを得度式といいます。出家得度といいます。人を救うことが出来る人になる、得度。人を救う人になるというのが得度なんでしょうね。度の字は渡すという意味と救うという意味があります。人の先達になれる人。自分の修行だけじゃなくて多くの人達もそのようにして、苦しみから、悩みから、幸せな生き方の出来るように勧める力が得られる。そういう人になる。まあそのために出家するのでしょう、出家得度する、坊さんになるっていうことは。自分の幸せが一番中心ではないでしょう、元々。自分の幸せだけを願うんだったら、在家の人と殆ど変わらないのでしょう。だから人にいじめられようが、何しようが、この道を成就するために進んでいかなきゃならない。貧乏になろうが。

「しかあればすなわちしるべし得度といふは出家なり」説明がちゃんと書いてある。得度というのは出家をすることだ。「未出家は沈淪にあり」出家しない間は、ああも思い、こうも思いして、ウロウロしてるだけで、一向に修行が進まない。よし!って言って一歩踏み出す。それが出家なんでしょう。「かなしむべし」そういう状況にあるのでは、出家せずにそういう落ちぶれた、あるいは心が沈んで色んな物に悩まされたり、苦しむ様な生活を送っている、そういうところにズーっと居るのは悲しむべしということですね。

「おおよそ一代の仏説のなかに、出家の功徳を讃嘆せること、称計すべからず」数え切れないほど、出家をすることが尊いって言うことが記述が一杯ありますよ、見て御覧なさいと。「釈尊誠説し、諸仏証明す」お釈迦さまもそういうことを説かれているし、他の仏様方もそういうことを証明されておられる。「出家人の破戒不修なるは得道す」出家してですよ、お坊さんになって、破戒不修っていうのは、外から見たら真面目さを欠いている様な生活をする人が居るかもしれないけども、そういう人は出家したことによって、自分の今の生活を恥じて、正しい道行を進める力が出家にはあると言ってます。それはそうだとおもいますね。

「在家人の得道いまだあらず」本当にものを学ぶ時には、今までのものを全てかなぐり捨てて、飛び込んで行くって、所謂出家をするのでしょう。本気になった時に、兼業でやる人は居ません。あちらとこちらを兼業してものを学ぶって言うようなことはしません。そういう風に出来てますね。

「帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず」尼さんですね、僧尼。何で敢えて尼さんをここに出すかって言うと、この時代は明らかに男尊女卑かもしれない。日本なんかでは、もう代表的な男尊女卑。女性は物の様に扱われて、政治の材料に扱われ、あっちへこっちへと政略結婚させられ、そういう風に女性が軽視されている時代のことをちょっと頭において見るとよくわかる。そういう時代でも出家をした女性(尼さん)に、一国の国王、帝者ですね、礼拝する、お坊さんに対して礼拝する時、帝が尼さんに礼拝する時、尼さん達はこうやって、そのままお拝をするのを、こうやっているというんですね。これが受け方なんですよね。こっちに一緒にはいつくばって、いや申し訳ないって頭を下げるようなことはしないです。「僧尼答拝せず」向こうが頭を下げたから、こっちも頭を下げるかって言うとそういうことはしない。礼拝をしない。

「諸天の出家人を拝するに、比丘比丘尼またく答拝せず」まあ、その他のものでも、出家の人を敬う時に礼拝をするけど、其の時に出家の人達は、それに対して一緒にお拝をして受けると言うことがない。「これ出家の功徳すぐれたるゆえなり。もし出家の比丘比丘尼に拝せられば、諸天の宮殿・光明・果報等、たちまちに破壊墜堕すべきがゆえにかくのごとし」出家した人達に拝まれるっていうことは、皆さん方もこそばゆいでしょう。どうですか。自分の菩提寺の和尚さんが、自分の家にお参りに来た時に、皆さんをお拝をして拝まれたら、受けるのにどうしていいかわからん位困るでしょう。やめてほしいって言いませんか、まあそんなことはしないで和尚さん、そういう時の姿がこうやって想像出来ますね。

「おほよそ仏法東漸よりこのかた、出家人の得道は」ここは得道ですね。「稲麻竹葦のごとし」たくさんのお坊さんが出家し道を得ていく。「在家ながら得道せるもの一人もいまだあらず」これが歴史的なことなんでしょう。「すでに仏法その眼耳におよぶは、いそぎて出家をいとなむ」日本の国では、将軍や武将達が最後に出家をしてお坊さんになったものが、歴史上たくさんありますね。でもあれらはどこまで本当の意味で出家をしてるかって言うと、よくわからない。こういう出家とはおそらく違うでしょう。

「はかりしりぬ、在家は仏法の在処にあらず」もし在家の中に仏法が本当にあるんだったら、こんなに在家の人達が苦しむことはないでしょうね。普段の生活のままで皆救われているはず。出家すれば修行がしやすい、私たち在家だから修行するのに非常に恵まれてないって言って、悩む人がいるかも知れないけど、別に誰もですよ、在家のままで居なさいって縛っている人は居ない。じゃ出家したら、在家の人よりも生活自体が豊かになるかって言ったら、そんなことを望んで出家したら大間違いですよね。旨い物が食べられるとか、豊かなものがきれるとか、美しいおべべが着れるとか化粧ができるとか、何かそんなことを、それが目的だったら出家はすべきじゃない。

有難いことで、出家は出家して飢え死にをした人を聞いたことがないっていうのが私の持論です。衣を着て、ちゃんとまともな業を生業としている出家の人がですね、世の中でどっかで飢え死にしちゃったって、そんな話は聞いたことがない。滅茶苦茶なことをしていたら、ひょっとしたら飢え死にするかも知れないけど。出家ってやっぱりそういうものですね。質素にそして清潔で生き生きとしていて、清清しくって、惚れ惚れとする様な生き方なんじゃないですか。持ち物が少ないから、片付けなくても、いつでもこの身一つで、全国歩ける。出家してるから、そこで、どこで死んでも、殆ど問題なくお別れが出来る。家族が居たり親族が、取り巻きがあると、中々思うようにならない。出家は良いですね、思う存分やっていけるでしょう。

「万機の身心すなわち仏祖の身心なりといふやからは、いまだかつて万法を見聞せざるなり」出家も在家もそう違わないって言う様なことを言ってる人は、この仏法の本当の有り様って言うものは知らない。また出てくるんですね、こういうことを言っております。「黒闇獄の罪人なり」味噌・糞、一緒にものを見てるような人とこういうのでしょう。言葉が汚いから、もうちょっといい言葉使ったほうがいいのでしょうけど。「おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり」自分が何を人いってるか、どの様な、自分が生き方をしてるか、自分自身のことを本当に見ていない、一番愚かなって言って良いのでしょう。国賊だと言われてますね。宝でなくて、国のつまらないものだね。

「万機の心をもて仏祖の心に同ずるを詮とするは、仏法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ」ものを本当に良く知っている人は、こうやって出家してる人を上位に置くというか、大事にするって言うことが本当だと言う事を知っておられる。日本にも国師って言う様な称号があります。弘法大師も国師でしょう。最澄さんも国師。国師っていうのは帝の上に位置をしていて、帝たちが困った時に相談をして教えを乞う、そういう位置の人ですね。そういう人を日本でも昔設けていた。

「しるべし、仏法のすぐれたりといふこと。万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも、仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき、万機の身心なるべからず」たとえ出家も在家も同じだと言ったにしても、って言う様な表現をしております。やっている様子、今の有り様をこうやって触れていると、幾ら同じだって言ってみても違うじゃないかっていうことですね。苦しんでいる人と苦しんでない在り方、ものに触れて言語に触れて、それに振り回されている人と振り回されないで生きている人。自ずから、人間として同じ様に生きていると言いながらですよ、それ位違うじゃないか。

「万機心と仏祖心と一等なりといふ禅師等、すべて心法のゆきがた、様子をしらざるなり」これはだから745年位昔の文章ですね、道元禅師の時代ですから。道元禅師が説かれているこの当時も、こういう風にですよ、在家の方々のあり様と仏様方の在り様と何ら違わないって言う様なことを言ってる禅師、そういう人がいたんでしょうね。書いてあるからいたんでしょう。それらは、本当に仏法というもののあり方を一度も勉強したことのない人が言ってるんだと、こう言ってるんですね。

「いはんや仏祖心をゆめにもみることあらんや」当時もこういう人が禅師として、世の中をリードしていたって言う事ですよ、これは。こういうことを道元禅師はこんなに身近に語っておられる。確かに中国を通して、日本に仏典、教典とかそういうものが輸入されて、運び込まれて、あって、それを読みこなして解説をしてる書物、あるいは書き物が残ってはいるんだけど、そういうことと仏法は違うじゃないですか。

今でもそういう風に、万機心と仏祖心と一等だと思っている人はたくさん居るかも知れません。あれは研究であって、論説であって、概念であって、生きた仏法ではない。仏法ってこういう教えであるとか、こういう風な考え方をするものだとかって言うようなことをを一杯説いてても、皆概念ですよ。仏法そのものじゃない。仏法ってそんなものじゃない。生きて私たちが毎日の中で使って、本当にそれが生きてるようなものでなかったら、仏法と言わないじゃんね。

自分の部屋に書籍の棚があって、そこに沢山の素晴らしい人の書いた本を積んであるのと同じ様なもの。あれ広げると、こういう事が書いてある、ここにああいう事が書いてあるって、そんなのが何の役に立つんですか。言い過ぎでしょうか。智識を豊かにしてくれますから、話をする職業にとっては役立つかもしれませんが。そういうのを「仏祖心をゆめにもみることあらんや」とこういうのでしょう。

「おほよそ梵王・釈王、人王・龍王、鬼人王等、おのおの三界の果報に著することなかれ」そんな途中の財宝、途中の幸せに目をくれて、そこらで楽しんでいるようじゃしょうがないと言うのでしょうかね。大地も掘ってると、途中で水がそれなりに、穴を掘ればそこにですね、浸み込んできて水がたまるんですよね。穴掘ってくと。だけど、それ位の水で井戸が掘れたと思う人は殆ど居ない。水脈をちゃんと当てるまできちっと掘る。そうすると何時までたっても枯れない井戸になる。そうでないと、雨が降ったときに、その雨水が集まってきて、かろうじて穴掘ってある所にたまると、それだけは吸い上げることが出来るから役に立つ。だけど其れ吸い上げちゃうと又暫くたたないと溜まらない。そういう井戸を空井戸とか言うんでしょう。本当の井戸は汲んでも汲んでも水が減らない位の、そういう水脈を掘り当てる。そういうのが昔の井戸を掘る人達の技量だった、技術だったですね。仏道もそうなんだとおもう。本当の底抜けの幸せって言うものがあるじゃないですか。


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