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自証三昧 Ⅷ

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自証三昧Ⅷ 05

まあ暫くそう言う時をすごして。あちらこちら歩いてる時、「遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、」そう言う方の所に足を留めて、雲門と言う方の残されたものや雪竇と言う方が残された物を紐解いて学んだ。それが「参学のはじめなり。」と。本当に自分自身の事を相手に学び始めたと言う事ですね。「雲門の風を会せずして、」しかしその雲門禅師が残された物を通して、自分がどうあったら、どうあるべきかって言う様な事をこうやって勉強するんだけども、どうもその言われてる所がしっくりいかない。

それで今度は洞山の微和尚と言う人の所にこうやって足を留めて、そこで又学ぶ。どの位の年月か書いてございませんが、そこで学んでいる間に、色々な気づきがあるでしょうから、それを呈示して自分の気づいた事を和尚の所に持っていって話しをするんだけども、いやーそれじゃ未だ未だ、それじゃ駄目だって、中々許してくれなかった。

でついでにその微和尚さんと言う人の人物を紹介するために、芙蓉道階禅師という方の教えを正しく受け継いだ方だと、道元禅師が取り上げて、そこら辺にゴロゴロ居る様な程度の人じゃないというんですね。肩を並べる様な人じゃない。飛びぬけて素晴らしい人だと言う事を一言付け加えてあります。まあそれだけの立派な人の所だから、暫くこうやって居るのでしょう。

「杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず。」毎日一緒に生活をしているんだけども、微和尚さんと言う人の様子にこうやって触れているんだけども、何処に本物の様子があるんだろう、自分の学びたいそう言うものが自分でこう見て取れない。「模著することあたはず。」どうしてそういう風になるかって言うと、一番の原因はですね、色んなことを学んでいるもんだから、どうしても今こうやって生活してる事の他に、仏法あるいは禅と言うものがあるって言う風に多分認識してる、

ここに来られる方だって、そう言う方は多分何人かは居るんじゃないですか。或いは当初そう言う風に思っていた人、沢山居ると思うんです。何故かそう言う風に伝わってるんですね。仏教を学ぶ、禅を学ぶって言うと自分自身の今生活してる事の中にその全てがあるって言う風には思っていない。気づいていない。

だから他所に何かそう言う素晴らしいものがあるんじゃないかって言って、そこに微和尚さんが一緒に生活してると、その人の中から何かそう言うものがあるんじゃないかって、こうやって見てるから、結局は自分の事に目を向けなんですね。これ最悪のパターン。何年居ても自分自身に目を向けない。人の様子ばっかり見てる。エーそうじゃないですよね。必ず自分自身の、この身心、身体の様子、心の活動の様子そのものにこうやって触れると、ものがどうなってるかがよく分かる。もう少し申し上げると、他人の事として見ている自分の様子に用があるのです。それが、「人の振りにて我が振り直す。」と言う事です。

そこにこう書いてるでしょ。「いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。」下にも注釈があると思うんだけども、「六塵の中に仏祖の眼睛があること」六塵の中って言う事は眼耳鼻舌身意って言う六官、人間の備えている六官の働きの中にって言う事です。それ以外の所に、仏祖の眼睛、お悟りを開かれた人達、自分自身の本質を自覚された人達の様子ってのはあるのではない。皆自分自身の中にそう言うものを発見されてる。自覚されてる。そう言う事を知らないと言う事ですね。ちゃんと此処に書いてありますが。

「あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、」私達の教えの中には師匠さんから弟子に正しく法が受け継がれたって言う証のために、嗣書と言うものを受け継いで行きます。お香を焚いてそう言う嗣書を受け継いで、それが教えをちゃんと受け継いだ証明書になるもんだからそう言う話が伝わってるのを聞いて、私にもその嗣書を頂けないだろうかって言って、おねだりに、この大慧の宗杲禅師が微和尚さん所に来るわけですね。

だけども「しかあれども微和尚ゆるざず。」「つにいはく、」それだからどうしたって言う事になるのですかね。その時に微和尚さんがこう言う事を言ってる。「なんぢ嗣書を要せば、」嗣書が本当に欲しいんだったら、いい加減な生活をするな。いい加減に生活をするな。「倉卒なることなかれ、」ですね。「直須功夫勤学すべし。」今すぐに此処でしっかりと功夫勉強して修行しなさい。そうすれば授けると言う事ですね。

「仏祖受授不妄付授也。「(仏祖の受授は妄りに付授せず。)いい加減な事で証明書は出さないよ。大学の入試の問題もありましたけども、経歴詐称と言うな事はあってはならない。仏道においてもそうでしょう。

「吾不惜付授、(吾付授を惜しむにあらず、)」決してあなたに嗣書を授けると言う事を固辞してる訳じゃない。残念な事に、あなたがちゃんとそう言うはっきりした眼を備えてないから、上げたくても上げられないと言っているのですね。温情にほだされてあげることをしたら、大切なものを皆根こそぎ崩して崩壊してしまう様な事になる。取り返しの付かないことになるから、私にはそれは出来ないというのが、微和尚さんの真意でしょう。

ときに宗杲いはく、「本具正眼自証自悟(本具の正眼は自証自悟なり)、」元々備わって正しいものの見方って言うものは自ら証し自ら悟る、人からどうこうされる様なものじゃないじゃないかって言う様な屁理屈を言っておられるのね。「豈有不妄付授也(豈に妄りに付授せざることあらんや)」だからいい加減なみだりにくれって言ってる訳じゃないですよ、って言う様な事を微和尚さんに言った時に、微和尚さんは「微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ)」って言う。

この笑い、笑みはどういう笑みを含んでいるかって言うと、やっぱりそうかその程度しか分かってない、しょうがないなぁって言って、失笑ですね。思わず笑いを漏らすんでしょうね。まだ続くんですね。この大慧宗杲さんの様子がずーっと長くこのあと続いていきますが。

「のち湛堂準和尚に参ず。」ここを諦めたののでしょうね。機縁がかなわなくて、しょうがないから他所に又歩みを進めて、この湛堂さんの所に参禅をされた。

「湛堂一日問宗杲云、『汝鼻孔因什麼、今日無半辺』。(湛堂一日、宗杲に問うて云く、『汝が鼻孔什麼に因ってか、今日半辺無き』。」こんな質問をされるんですね。いつもちゃんとした顔に鼻が付いてるんだけど、今日は半分しかないけどどうしたんだって。何を云われてるか、もう本当に皆さんだってこんな事言われたら、何だろうと思うんじゃないですか。ものが分らないとこう言う質問されると言葉に騙されてですね、自分の様子をすっかり見失うのじゃないですか。

ものがはっきりしてたら、色んな質問されたって、自分の様子を見失うって事はないでしょう。そう言うもんでしょう。言葉について行くから。人間てそう言う所が非常に強いじゃないですか。綺麗だねって言えば喜ぶ。汚いねっと言うとプッと、顔が人相が変わるじゃないですか。それぐらい言葉によって。自分の素晴らしさを本当に知ってる人は、そんな言葉に左右されずにこのまま居れるでしょう。どうでしょう。

「杲云、『宝峰門下』」これ山の名前ですかね。宝峰山。何であなたの門下だからです、と言う様な事を言うのですかね。あなたの門下だから鼻が半分だ。で「湛堂云、『杜撰禅和』」とせんとかありますが、ずさんと読むと今の人にはわかるでしょう。物事が杜撰だとかって言って使われているのね。ものが良く分ってないなぁって言ってる。

更に又何日かたったのでしょうかね。「杲、看経次、湛堂問、『看什麼経』」。何を読んでるの?何を見てるの?といったんです。見りゃわかるでしょと言う様な、そう言う返事はないね。そう言う乱暴な返事はないけど、「杲曰、『金剛経』」。金剛経ですって。おお金剛経を読んでるのかって言う事で、「湛堂云、『是法平等無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低』」。金剛経の中にこう言う事が書いてあるのですね。この法は平等にして、高いとか低いとか言う事が無いのだったら、何としてか雲居山は高く宝峰山は低いのかって。金剛経の中に、全てのものは平等にして上下がない優劣がないって言う事が書いてあるんだけど、どうしてあっちの山は高くて、こっちの山は低いのかって、こう言って問われた。

皆さんはどうですか。全てのものが平等で平らにこうなってるんだよってちゃんと念を押しといてですよ、どうしてあっちの敷居はたかくこっちの敷居は低いのかって言うんでしょう。そうすると前に経に書いてある事を言われてる事がですね、頭にこびりつくもんだから、そこから高いとか低いとかって言う事が言われるとですね、困るね。お経に書いてある事と違う事になるじゃないですか。高い低いが無いのが仏法の様子だって書いてあるのに。どうしてあっちが高くてこっちが低いって。確かに高い低いはある。同じだとは言えない。困るんだろうね、それ答えるのに。

エー、で、宗杲さんが「是法は平等、無有高下」そう答えておられますけども。それに対して湛堂さんが言うのに、「你作、得箇座主」文字に書いてある講釈はできるけれども、やっぱり駄目だなぁ。確かに文字に書いてある事は、「是法は平等、無有高下」って書いてあるから、そう言う事を言ったでしょう。それは尋ねてる事に関して言えば、ものがよくわかってないと言う事でしょう。ただ文字に書いてある事を其の儘意味として取ってるだけ。その位の力しかない。

「使下(はせしむ)」と有ります。そこから離れて行く、下って行く、下がって行く。下がりなさい、あちらへ行きなさいって言う事ですね。まだ続くんですよ。この湛堂さんと言う人が、いかに大慧の宗杲さんと言う人を育て上げようとしているかって言う事、それから大慧の宗杲さんもくらいついてる様子があるんだけども、ことごとくかなわない。

「又一日、湛堂見於粧十王処。問宗杲上座曰『此官人、姓什麼、』」十王堂ってこの辺にもあるのかしら。私らの所にも十王堂がある所がありますが、十人の官人がこう並んでる、そう言う建物がありますが、まぁ立派な人を其処に置くのでしょうね。置いて拝んでるって言う様な事なのでしょう。

その方々の装いを粧う所を見てって言うんだから、お掃除でもしておられたんじゃないですかね。其処に湛堂さんが通りかかって宗杲さんに訪ねた。此の人たちの姓はなんていうんですか。「杲曰『姓梁』」。梁って言う姓ですよって言っております。

「湛堂以手自摸頭曰」頭をこうやって(なでる仕草)やったって言う事ですかね。湛堂さんが自分の頭を手でこうやってそして『争奈姓梁底少箇幞頭』。私も梁と言う姓なんだけどもって言うんですね。自分の頭にはこうやって手で触ってみるとですね、そこに十王堂に祭ってあるやつには皆帽子が被せてある。だけど私の頭にどうして被り物が無いのかって言ってるのですね。同じ梁と言う姓なのにって。面白いね、こう言う質問をするのね。

で、これに対して宗杲さんが、『雖無幞頭、鼻孔髣髴』。頭に帽子は無いけども、鬚はフサフサしてるじゃないかって言う様な事言っております。そんな事は聞いておらんと言ってるのでしょう、湛堂さんは。皆さんがこう言うやりとりを聞いて、禅問答は木に竹を接ぐが如し言う風になるんです。何をいってるか問われているものと答えるものが全く違う脈絡に成っているから。読んでも分からんて言うでしょ。こう言うの禅問答って大概皆さんそう言ってます。

どうしてそんな風に相手の言ってる事に答えることでギャップが起きるのかね。それは相手の尋ねてる真意が分からんからじゃんね。だからちゃんとした答えが出来ないって言うだけの事じゃん。経論の学生として勉強してきてるもんだから、本当にやっぱり言葉にもう翻弄されるね。

向こうは帽子を被ってる、こっちは何でかぶってないかって言うと、その何故かぶってないかって、この何故って言う字はですね、見事に皆さん方の心を引っかき回すんですね。たちまち分からなくなる、何故って言われると。どうしてだって言われると。理屈を考えるんでしょう。理屈を考える前に、このとおり、こっちは無いだけじゃん。あっちはあるだけじゃんない。

何であの花は白いんだ、何でこの花は赤いんだって見えるんだって、理屈を考えるから難しくなるじゃないですか。その理屈が分からないと答えにならないと思うから、一生懸命考えるわけでしょう。どうして、何故かって言われると。これがあの見事な問いの発し方ですね。

で子供と話てるとよく分かる。これ、何回も使いますけど、子供達は大人に対して、何故どうして何故どうして何故どうして何故どうしてって言うと、必ず大人は手を上げて万歳ですね。答えられない。自分が生まれてから後学んだ事だけは答えられる。それを全部喋り終わるともうその先は無い。ね。

子供はその先を知りたいじゃない。本当にどうなってるかって。だって大人が答えてる様な事は、コン!(机を扇で打つ)こうやった時に、何故こう言う風に聞こえるのって、大人に子供が質問する時に、こう言う風にコン!聞こえる事はわかってるんですよ、子供は。

ところが大人はコン!こうやって子供がですね、何故こうやってやると、コン!こう言う風にきこえるのって、子供が大人に訪ねた時、分からないと思ってるじゃないですか。だからこれを説明して、コツンて言うからコツンと聞こえるんだと、色々一生懸命説明するんだけど、そんな事は子供だって百も承知。そんな事を聞いてるんじゃないですね。それで大人が参るじゃないですか。だから子供と遊ぶといい修行になる、力がどれだけ自分にあるか、よく分かる。

結局は自分は人から聞いて鵜呑みにしてる様なものだけを弄んでるだけだと言うだけじゃない。本当に自分で自覚した内容がないと言う事じゃない。人から貰ったものじゃなくて、自分で本当に確信を得てるものが無い。それが無かったらやっぱり力があるとは言わないじゃない。ねぇ。そう言うな所をこうやって見透かされるんでしょう。

「湛堂一日問宗杲云、『杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説。請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否』」。大体の様子はですね、湛堂さんが宗杲さんに言われるのに、私の教えてる事はですね、たちどころにあなたは理解をしている。その内容をもう少し詳しく言えば、話をさせようとすれば、ちゃんと話が出来る。参禅をさせようと思えば禅について教える、指導する事も出来る。あるいは古人が残した頌古とか拈古とか言う様な物、文章の内容もですね、作る事ができれば内容を解説する力も十分にある。

「小参普説。」直接面とむかって質疑をやることですね。あるいは請益、老師の前に行って自分の心境を吐露して、吐き出して、それを語るという様な事、まあ全てですね、何をやらしても卒がなく出来る位力があると言って、褒めたかどうかは分かりませんが、一応湛堂さんは宗杲さんに対してそう言う評価をしてます。厄介な奴ですね。本当に。一を言えば、私が一を言えば十を語る位の力を持ってると言っていいでしょう、教える事はないといって良い位厄介な人です。

だけども、だけどこの湛堂さんがですね、何でこんな何回も何回も色んな回答を載せているけども、許さなかったって言う事があるかって言うと、「『祗是你有一件事未在、』」それだけあなたは何でもこなして出来るけれども、残念な事にこの事に関してコン!だけはコン!お前よく分かってないなって言われたのね。ねぇ。

そしたらその宗杲さんがですね、『甚麼事未在』何が何事か未在なる。一体何が私の中で不足なのか。何処が、この一件の事って言うんだけど、この一件の事、この一件の事って何だって言ってるんですね。だってお前こうやって訪ねた時に、そんな事も分らんのかって云われる訳でしょう。そこまで追求された時に、自分でやっぱり自分の中にはっきりしないものあるって気づいてたじゃない。

もっとひどい事を言えば、どんなにものを理解出来てですね、きちっと清算できて、人に説明が出来る位はっきり喋れてもですね、本当に大丈夫かって言われると自分の中で動くものがある。大問題じゃないですか。もっと平易な事を言えば、あなた本当にその事実を自分で触れた事があるのか。頭の中でこう言う事はこう言う事だ、こうなってるああなってるって考えて答えが出てるだけであって、本当にそのもの自体にこうやって自分が直接にお目にかかったりする事があるかって言うことじゃない。

見て来なかったって見て来た様な事は言えるんだよね。食べなくたって食べた様な事は言える訳でしょう。今の世の中なんかもっとそれがリアルに出来る訳でしょう。仮想と言われる、バーチャルと言われる世界が横行してる訳だから。実物に触れなくたって、実物以上の知識を人に与える訳でしょう。

録音取ってきて鳥の鳴き声だって聞かせる訳だもん。じゃそれ本物の鳥の声を聞いた事かって言ったら、いやそれはって。録音聞いたって事でしょう。エー。じゃやっぱり自分の中で、コンコンコンコン!(続けて机を打つ)本当にその鳥の声を聞いたってコンコンコンコン!言う事になってないと言う事、知ってるじゃんね。そう言う事ですよね。エーこの一件の事って。コンコン!これが無ければはっきりしないのでしょう、本当は。

「湛堂曰、『你祗欠這一解在。㘞』」いいですね、今申し上げた様な事です。㘞ってコン!㘞って、このカチって言う字なんですね。こんな字があるんですね。国構えの中にカという字。『若你不得這一解、』得なかったならば、この所がはっきりしなかったならば、『我方丈与你説、便有禅、』喋って居る時だけ、あるいは頭の中でそう言うものを取り上げている時だけ、わずかに禅に触れる。そうでない時はもう全くただの人。

坐禅もそうですよ。坐ってる時だ修行ができてる様なものの考え方の人は居るじゃないですか。禅て二十四時間ですよ。必ず今の真実にこうやってそのまま触れている(真実そのまま)あるって言う風な生き方をさせるのが禅を修すと言う事であって、必ずしも形を作って其処に居る時だけが禅じゃない。そう言う人はあの形を作って居る時だけ禅の修行するけど、あれを止めるとただの人と言う事ですよ。これ意味として。

『你纔出方丈、便無了也。』と読んでますね。そうでしょ。ここで話をしてる間はそう言う事が問われて問題になってるけど、もう語る事を止めたらほんとに只の人じゃないか。『惺々思量時、便有禅、』惺々ははっきりしてるんですね。目覚めている時。それを取り扱ってる時だけは、その事にこうやって触れるけど、頭でそう言うもの取り扱ってない時には全く門外漢。

私も学生の頃、ある教授に質問したら、それは今は授業中じゃあないからって言われました。その人に。エーこの人は授業の時だけ仏教を教えたり禅を説くのかなぁって思った。ある大学の教授です。こんな風に勉強してるんですね、多くの人。立派だなぁって思うんだけども、その事から離れたら、全然問題にしてない。吃驚。現代でもそう言う事がある。

『纔睡著、便無了也。』眠ってしまえばただの人。『若如此、如何敵得生死』本当に自分自身の一大事が来た時に、そんな事で対応ができるかと言っておられますね。「杲曰、『正是宗杲疑処』」お話を承れば、本当に私の一番問題になってる処、其処ですって、白状した。
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