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自証三昧 Ⅶ

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2018.10.27  

393頁始からと言う事で、自証三昧、少し読んでから始めます。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。

しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、『師に伝授すべからず、自学すべし』。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自称するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

大宋国紹興のなかに、径山の大慧禅師宗杲といふあり、もとはこれ経論の学生なり。遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、雲門の拈古、雪竇の頌古拈古を学す。参学のはじめなり。雲門の風を会せずして、つひに洞山の微和尚に参学すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚の法子なり。いたづらなる席末人に斉肩すべからず。

杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるざず。つにいはく、『なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤学すべし。仏祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是你未具眼在(仏祖の受授は妄りに付授せず。吾付授を惜しむにあらず、ただ是你未だ眼具せざることあり。)』

ときに宗杲いはく、『本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也(本具の正眼は自証自悟なり、豈に妄りに付授せざることあらんや』。
微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ』。


まあ続きますが。エー例えばですね、「自分の事は自分でしなさい、」とまあ、よく耳にする言葉だと思いますが、自分の事は自分でしなさいって言うとですね、ここに如何いう事が一般的に言われるかって言うと、最初に自分の事は、って言った時に、もう既に自分の事と他人の事を分けているって言う事に気づくべきですね。

こうやって生活してますけど、何処までが自分の事ですか、今こうやって。此処に他人が一杯居るんですよ、此処にね。こっちから見ると、他人が一杯居る。この他人が私の今生活している内容です。全部。皆さんもそうでしょ。人のものだと思ってる事を、皆自分の身体の中身として使ってる訳でしょう。

この円通寺さん、今此処に来てると、この円通寺さんを自分の身体の様に使ってる訳でしょ。頭の中では、余所のお寺さんだと言う風に認識はしてるけども、実際にはだれも一人一人が、自分の今居場所として、ちゃんと使ってる。

そう言う事が現実にあるんだけども、自分の事はって言うと、例えば私の家なんかでも、自分の事はって言うと、ご飯食べるとですね、食べた人がですね、自分の茶碗だけ持ってくんです。自分の事は自分でするって。そう言う処にまあ、もののもう少し真意を知って頂きたいと言う事がある。まあそんな様な事が最初に出てくるのでしょう。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。」本当に大きな様子と言うものはですね、初めっから自他の隔てがない、ものでしょう。とっつきにくいかも知れませんけれども。

あの人がああやってるって、こうやっていると言ってる事は、皆このものがやってますからね。向こうの人の様に思ってる訳でしょう。「他己を体達する」って、自分の身体の事は自分でよく分かるんだけど、人が動いてる身体の様子をこうやって見て、それがああ言う風に歩くんだとか、ねぇ、あんな風に喋るんだとか言う様な事、身体で皆その事が達観できるって言うことは、このものの様子でしょうねぇ。仏道って言うものは、そう言う風に自他の隔ての無い大きな在り方ですね、最初から。

それも特殊な事じゃないですよ。自他の隔てが無いって事は特殊な事じゃない。よく自分にこうやって目を向けて見ると、二十四時間、兎に角この生まれてきた身心、身体の様子、自分自身の身体の様子の活動以外無いって言う事が、明確ですからね。でも騙されている人は沢山いる。どうしても騙される。頭(考え)って言うのは、そういう風に理解する様になってるのでしょうね。

「たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。」初心て言うのも良い言葉でしょう。でも初心て言うのは、これも良く触れてみるとわかる様に、何処が初心なのかって言うと、何時でも今の様子が初心でしょうねぇ。今の在り様って言うのは、初めて何時も触れるんですねぇ。生涯そうです。生涯初めて触れる。今の様子に触れる。そう言う風にずーっと生活してる。

ところが似た様な事が何回も行われるもんですから、初心だとは思えないんですね。思えない。それは勉強する時に、考え方を中心にしてものを学ぶって言うのが一般ですから。仏道はですね、考え方を中心にして学ぶ行ではない。実物を相手にして、どうなってるかって事が問われる。

で、生きている実物って言うのは、他の時間帯に無いですからね。自分の生きている実物は、必ず今此処で、自分自身の実物にふれる以外にない。それは見て見ると必ず初心なんですよ。初心て言うのは、色々な事がもっと言われる。こうやって触れてみると、例えば、汚れが付いてないと言う様な事も言えるのでしょう。

一番最初に触れる時に、その相手のものに対して、こうだとかああだとかって言う推測の及ぶ範囲じゃない。それ位一切汚れが付いてない所で活動する様に、初心て言うのは出来ている。その初心がですね、何処へ行くのかわからないけども、コロッと何処にも残らない様にして活動してるね、何時も。これ又見事でしょう。

目一つでもそう。こうやって物を見る、巡らしてこうやって見てる時に、本当に前に見た見方なんて一切ない。必ず今見えてる様子だけです、何時でも。古い見方なんて一切してない。それがどの位人を身心共に爽かにさせるか、一点の穢れも無いんだもんね。払う塵もない。それ位スカッ-として、何時でも今の様子にこうやってはっきりすっきりしている。

ところが頭の方でものを勉強し始めると、あの時ああだったとかこの時ああだったとかって言う思いが、プクプク、プクプク出てきて、それを頭の中に描いたものを相手にして、今見てるものが殆どないがしろになる。ひどい事を言えば、実物より頭の中に思い浮かんだ方が大切な事の様に考えてる。

そしてその頭の中に思い浮かんだ事を、どうしたら自分の気に入る様に整理が出来てすっきりするだろうかって言う、そう言う事をやる事が学問であり、修行であり、仏道だと思ってる人も居る。それは本当に気をつけて勉強してもらいたい。頭の中に浮かんだ事をですね、取り上げて整理する様なものでは仏道はない。

何故かって言うと、今申し上げた様に、実物に触れてみると、整理をする用が無い様に出来てる。で、自分で成る程って肯がえる様に成ってるでしょ。自分の今の事実にこう触れて見ると。整理をしなくても良いって事じゃないですか。

だけどもそれでも思いが浮かんでくるから、浮かんでくるとつい思いの方を相手にする。これは修行にならない。修行をするって事は自分自身の今の真相、事実に本当に親しく居るって言う事です。それを難しい言葉で言うと、非思量って言ってます。考え方でない。そう言うものが修行の在り方ですね。

「自初心の参学をめぐらして」だから自分自身の今の在り様にこうやって目を向けてみると、全ての物が「他初心の参学と同参すべし」今の様子の中には、自と他があるにしてもですよ、ズレは無いんですよね。今の様子の中に自分と他人て言うけれども。ズレが無い。距離が無い。あっちの今、こっちの今なんて言う風にはないじゃないですか、ね。今って言うものの中には本当にズレが無い。向こうと言おうがこっちと言おうがですね、今の様子の中には距離が無い。

頭はそうは思わない。あっちこっちって言うと距離が出来るよね、今の中に。それはそうでしょう。こっち見て、こっち(別の方角)見るんだから、距離が出来るに決まってるじゃん。だけど今って言うのは、こうやって居る様子の中の事を言うんだから、今の中にもあっちもあればこっちもある。自分もあれば他人もある。必ずそれがですね、同参と言われる様にですねぇ、ズレずに勉強が出来る様になっている。

もっとひどい事を言えば、一緒にならなければコン!音だって聞こえないんだからしょうがないじゃない。エー、コン!(机を扇で軽く打つ)物だって一緒にならなきゃ見えないんだもん、しょうがないじゃない。同参ですよね。向こうに物があってこっちって、こっちから眺めて見るなんて言う事はない。

それは物理学の表現を借りてもですね、必ず自分のこの身体に物が見えるって言う事は、光の波かな、そう言う物がこう身体に触れた時に、この自分の中で光の粒がですね、色んな形を作り上げていく訳でしょ。青い所とか白いとか黒い所とか、色んなものがこう出来ると映像になって行く。それが自分の眼の、何だろう、この辺(頭を指して)に何か写るらしい。そう言って学んだけど、そう言う風になってる。

音でもそう。周波数と言われる様に、音が耳に触れて鼓膜がこう振動することによって、初めて音になると言う様な事で、言われている通りです。必ずこの身体と物が一緒にならないと見えたり聞こえたり味がしたり香りがしたりですね、触った様子が分るとか、総てそう。必ず同参なのね。腹が立つのも同参なんだ。(笑)まあそう言う所がこう面白いじゃん。

「初心より自他ともに同参しもてゆくに、」と、初めから自他ともに同参しもて行く。今とズレた生活をした事がないと言ったら、もう分りやすいでしょう。これだけ長い人生を送って来たけども、片時も今の在り様から離れた事はない。何時何処へ行っても、必ず今の自分の様子から離れた事はない。そう言う風に誰も生活してるじゃないですか。

こんなにはっきりしてる事がありながら、頭の中に色んな事が思い浮かぶとですね、全然違う生活になるんですね。この大事な、こんなちゃんとした生活が出来てる事をすっぽかしてですよ、思い浮かんだ事を相手にする。カリカリ、カリカリするじゃないですか。誰も気が付かないから当たり前だと思ってるけども、とんでもない事をしてるよね。間違った。所謂頭の中に描いてる妄想です。

確かに体感した、体験した事かもしれないけども、思い起こしてるって言う事は実物ではないって事を十分知ってる。思い起こした事の中に、その体感した事実がそこに現われるって言う事は一切無い。ああだったこうだったって言うだけの話じゃないですか。

もっとひどい事を言えば、なんで過ぎ去った事を取り上げて、今こうやって生活してる事をほっといて、過ぎ去った事を取り上げて行くのか、実を捨てて滓(カス)を掴んで生きてるって言う事でしょう。それで皆さん方が豊かになれない。それだけの事じゃないですか。本物を捨てといて、頭の中に描いてる本物、本物だと思って扱ってたら、大きな間違いでしょう。その位の事は気づいて頂かないとしょうがないね。

「究竟同参に得到するなり。」ここにも書いてある。行き着く処ですよ。究竟同参に得到する。行き着く処は、今、本当に誰しもが、今のこうやってる様子に生きてるって言う事じゃないですか。その在り様に自分が目覚めたらいいじゃないですか。どうなってるかはっきりしたら。その第一人者が釈迦牟尼仏と言われる、お釈迦様と言われる方です。その内容が仏教と言う風にして伝わって来ている訳ですね。その自覚をされた内容が。それで私達もそれを実践する訳でしょう。

「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」手あたり次第、いちいちその事によって、ものが本当にどうあるかって言う事を学んで行くのでしょう。それで良いじゃないですか。捨てるものは無い、学ぶものに。

私の方も台風の余波で広範囲で停電をしてですね、私の住んでる寺も三日停電になった。山の上からこう見てると、電気のついている家が一軒も無いもんだから、非常に空が綺麗に見える。久しぶりにこんなに、真の暗闇の中にいたの、久しぶりですね。何とも言えない不思議な感じ。

で、隣のお寺の和尚さんが、「電話はかかってくるでしょ」って言われたけど、「電気が止まってるから、電話かかりませんよ」って言ったら、エーって言って不思議な顔してた。今の人は電気が止まっても電話はかかると思ってるのかね。携帯使ってるからかね。よくわかりませんが吃驚しました。

後は車で走ってると、信号機がすべて停電で止まっておりますので、役にたっていない。はじめはやっぱり事故が何件かありましたけども、自分で実際に走ってみて、信号機が電気で止まると、良いもんだなって思ったのがですね、必ずお互いに信号機の所で減速して確認しあって、安全ならば進んでですね、全く相手が来ない場合はスイスイと行けるんです。待たなくて済むのね。普段だって一分位、全然来ないのに信号が変わるの待ってるでしょう。こう言う事考えると、随分素晴らしいなぁって思いました。

一方ですよ、子供達が信号機の所でですね、動かない。動けない。どうしていいか分らない。そう言う風に育ってるって言う事も感じました。自分の判断で行動が出来ない様になっている。皆コントロールされて生きてる様になってるのね。これも発見でしたね。こう言うのも皆現代風に言えば、「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」と言う事になるのでしょう。ね。色んな事でものがはっきりして来ます。

「しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは」ってありますね。これがさっき話した、最初に話した様に、自分の事は自分でしなさいって言うと、本当に是だけの事しか自分の事だと思わない位、人間は粗野に出来てます。麁人とありますけども、考えの粗雑な人となってますけど、大まかなものの捉え方しかしてない。だから人はどうでもいいって言う風になる。本当に自分の事がよく分ると、人のことなんか無い。そう言うものでしょう。

だって見える物は全部自分の、此処にも色んな物が見えるって言う事は、全部自分で今やってる事だからね。他の人がやって見てる訳じゃない。必ず自分が見てる様子。その自分の見てる様子の中に、色んな景色がある、現象があると、それに従ってちゃんとこれが行動が出来る様になってる。どうでもいいって言う風な事はないじゃないですか。

考え方は自分の頭の中で考えると、あれは私の事じゃないからって、どうでもいいって言う風に、そう言う風に捉える訳でしょう。眼は違いますよ。自分の眼は全部今自分自身で見てる様子だから、それに対して責任があります。これ。人からどうかされるんじゃなくて、そう言う風に活動できる様になってるじゃん、ねぇ。

まあそう言う事だけども、「『師に伝授すべからず、自学すべし』。」ものがよく分らない人はそう言う風に思うわけね。師匠から何かものを学ぶって無い。自証自悟じゃない。自証自悟だったら、自分で学んで人からなんか学ぶ用がない。そう言う風に考えるんでしょうね。それ位自他の見をちゃんと分けている。物を考えてる、自分と他人を分けてる、考えてるものの見方の上から、こう言う自証自悟と言う言葉を学ぶから、とんでもない事になる。

自分を立てといた上からものを見るのと、自分を立てずにものに触れるのとでは、全然同じものに触れても違う。それは日常皆さんもよーく体験してるじゃないですか。自分らしいものが一つも立たたずに色んな物に触れた時は、ものすごくスムーズに色んな大きな活動もするでしょう。ところが自分を立てた上からものに触れると、すぐ好き嫌いが先ず起きる。或いは人のものに対して善し悪しが起きる。そう言う風な事が起きて、でそれが起きると自分の中で動きが非常に狭くなる。鈍くなる。もっとひどいのは全く取り上げなくなる。ね。取り上げなくなった自分を見ると、人ため何もやってあげられない愚かな自分だってのがよく分ると思います。

「これはおほきなるあやまりなり。」と道元禅師おっしゃってますね。そう言う風にものを受け取るって言う事は、本当根本的な誤りだ。「自解の思量分別を邪計して」自分自身の考え方を中心にしてものを見るからそう言う誤った、間違った、ものの見方が起きるんだって言う事ですね。

エーそれで、「師承なきは、」師匠から、だから受け継ぐって言う様な事が、自証自悟だから要らないって言う様な事ですかね。そう言うものの考え方、受け取り方をしてる人はインドの天然外道なり。ものを本当に学んだ事のない、道から外れた、正しいものの在り方から外れた扱いをしてる人達と同じだと言うのね。「これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。」こう言う事がはっきりしないんだったら、仏道を本当に行じている、学んでいる人とは言えない。

「いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。」何だろう、小乗の人って言うのはですね、自分と言うものを最初に認めた上で、どうあったら良いかって事を勉強していく。だから小乗と言われるんですね。所謂平たく言えば、自分だけ良ければいいって言う位なひどいものの考え方になってる。だから小さな乗り物になるでしょう。大乗って言うのは大きな乗り物、それは全てのものを包含して行く。包んで行く。そう言う違いがある。

だから小乗の人の、ものを、自分を整えるって言うのは、自分の事だけやるのね。だからその辺が汚れていても、自分の屋敷だと思うとこだけ掃除して、そこらに物が転がってても見て見ぬふりして行く様な、そう言うものを積聚って言いますが、ものを修行をして積み上げていく、この身体の上に。そう言う所を見ると大きさが違うでしょう。

お医者さんなんか、どの様な人が来ても、兎に角患者として来たら、差別無く区別せずに次から次へ身体の動く限りは身を尽くしていく。聖職って言われるのは、そう言う事でしょうね。敬われるのは当たり前でしょう。お医者さんなんかね。そう言う意味で。あれが、自分の都合で来た人を診て。この人はって、後にしようとか色々それは嫌でしょう。中にそう言う事もニュースの中で出てくるじゃないですか。地位のある人が先だとかお金を沢山で出す人が先だとか言う様になると、本当に何か寂しいなと思う気もする。

「大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の自児孫と自称するおほし。」どう言う事が大乗、どう言う事が小乗と言う事がはっきりしない、今申し上げた様に、自分自身を中心にものを考えるのは小乗です。

眼は自分自身のものの見方って言うのは一切持ってない。そこに在ればどんな物でも必ず好き嫌いを超えて、必ずこうやってちゃんと受け入れていく力が、だから大乗です。耳もそうでしょう。自分の好き嫌いで音を聞くことはない。それはどんな音でも、その時音がする物を否応なしに受け入れて生活してる。それが本来の人在り様ですよ。そう言う事を仏道と言うものは示している。

「しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。」ものがはっきりしている人は、そんな色々な事に騙されませんよって。それはどうでしょう。自分自身の事がはっきりしていれば、騙されなくなるでしょう。そう言う人に皆さんもなってほしい。

ちょっと誰かが自分に対して悪口を言ったら、カアーっとなる様じゃそれは本当に寂しいですよ。耳に聞いてごらん。自分の悪口をいくら私にこう、どんな人が沢山悪口を降りかけてきても、このものはね、一切汚れませんよ。汚れるのはつまらない事言ってる人の口が汚れるだけであって、こっちが汚れるんじゃない。耳が汚れる訳でもない。ただ、ものを知らないとそれに騙されて、何で私の事をこんなひどく言うんだろうって言って、その言ってる人を相手に喧嘩を売る様になる。

だけども、ものをよく見てみると、本当に、音声と言うものは良くできてるね。喋ってる時にしか聞こえないんだからいいね。(笑)エー喋らない時には一切聞こえないんだから、こんな上手く出来てるんですよ。それだのに一度聞いちゃうとですね、喋ってない時にそれが出てきて、何か自分の中がくしゃくしゃくしゃくしゃしてるって言う人が居るじゃない。聞いてごらん。何処にもそんな喋ってるものは聞こえてませんよ。あれ喋ってる時だけ聞こえるんだって、ね。上手く出来てるでしょう。

本当にそうやって生活してごらんなさい。楽だから。何処にも手をつける用がないじゃないですか。喋ってる時はその通り聞こえて、喋り終わると何にも聞こえない。静かなもんですよ。それで何にも不自由ないですよ。何も不自由はないですよ。喋ってないとき聞こえると不自由ですよ。まあそう言うのね。

実際の人物が登場してくるわけですね。大宋国、中国宋の時代の方です。径山と言う所に大慧宗杲禅師と言う人がおられた。この人の生い立ちがちょっと書いてある。もとはこれ経論の学生、経論を学んでた人。経論を学ぶって言う事は、文字に書いてある物を読んでですね、それがどういう意味だとかって言う事を追求していくんですね。

何でその経論の学生って言う風に言うかって言うと、この自分自身をちょっとないがしろにしてるんですね。書いてある事を勉強するんです。本当は経論に書いてある事を勉強するって言う事は、この事(自分を示す)勉強する事でなければ、嘘なんだけども、ここに書いてる事を、ああこう書いてあるああいう事を書いてあるって言って、それを読み取って意味がわかれば良いって言うのが経論の学生なのね、経論を勉強する人。

本当に経論を勉強するようになれば、必ずそんな事から離れて、この自分自身を観る様になる。そうでなけりゃ経論の意味がないじゃないですか。
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