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坐禅箴 Ⅱ

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これだけで本当は良いわけですね。だけどこれに対して、道元禅師という方は、色んな事をこうやって話をしておられるから、それをちょっと読んで味わってみたい。

「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。」薬山と言う方が、今話してる内容ですね、「大師の道かくのごとくなるを」、今申し上げた様に、平たく砕いた様な事があるでしょ。「証して」と言う事は、聞いて貰った皆さんが、自分自身の事だから、そう言われれば確かにそう言う風になってるなって、思ったんじゃないですか。

思うより確かな内容に出合って、立証されたんでしょう。こうやって。パン!どうですか。ここでやったから立証されたんでしょう。本当にそうだなって。いい加減な事言ってないなって、分るでしょう。悟ると言うことは、頭で理解する様な分かり方ではない。

人間の思慮分別は入らないじゃない、こうやって。パン!入る前に音がちゃんとパンとする。そう言う在り方なんですねぇ。「かくのごとくなるを証して」そして「兀坐」って言うのは坐禅をする時ですね。学びなさいと書いてある。「参学すべし、」こう言う自分の在り様に学びなさいと言う事です。ああ本当に思量を離れてるってこう言う事なんだって。

そしてそれを本当に実践してみる。それが兀坐正伝するって言う事でしょう。正しく坐禅をすると言う事でしょう。これが分らなければ、幾ら足を組んで真面目そうな顔をして、こんな事してたって、みな作り事でしょう。人は立派だって言うけども、自分自身がこんな事(思考上の取り扱い)やってて、どこが救われるって。こんな事とは違うでしょう、問題が。

だけど一般的に坐禅て、その位の事しか伝わってない。だから動いちゃいけないとかさ、40分なら40分動くなって。本当に全く坐禅て言う事を知らない。素人の人に教えるんだから、それで通るじゃない、知らなくても。初めて来た人は、真面目そうにそう言われれば、あ、そう言うもんかって言って、受け継いで行く訳でしょう。

だけどやってみてですね、どこが効果があるって、どこがどうなってるか、さっぱり手探りでやってみても、何も分らないって。そう言う事が、そう言う話の中で体験する人達は、自分で感じてるのにも拘らず、今度どっかに行った時に、いや教えられてこうやって坐ったんだけどって、自分の中では手ごたえが無いとかって言う話を何でしないんだろうね。聞かないんだろうね。

もしこれがスーパーに行って買い物してですよ、これが美味しいよって言って売ってくれたものが、家へ帰って食べたら、全く大して美味しくないなって感じたら、あすこで売ってたものはあまり美味しくないって、こっちで買って食べたのとは全然味が違うって、で、こっち(美味しい方)へ行くじゃないですか。何で自分がやってる事なのに、自分で責任持たないんだろうね。自分で満足できなかったら、そのまま置かないんじゃないですか、本当は。

そう言う事があるから、独参するのです。聞いて貰って。で、一般の色んな処で、そう言う事は使われるんじゃない。真面目に本当にものを学ぶ人は、必ず自分の中ではっきりしないものがあったら、それをはっきりさせたいって言う思いが強いから、隙があったら色んな人に、こう尋ねみるんじゃないですかねぇ。居る訳でしょう、色んな人が世の中に。その分野その分野で専門の人がいるんだから、聞いたら良いじゃんね。聞いてみて評価しないと駄目ですよね。人の噂で評価しても、エー。

私らあの、他所で話をしに行く時に、紹介してくれる人がたまに居るじゃないですか。私の話を一度も聞いた事のない人が紹介する。あの人の話はね、って。あなた聞いた事ないから止めてって、私の紹介するの無理じゃない、ね。聞いた事もないのに、人をこうだとかああだとかって紹介して。そんな無責任な事するべきじゃないです。聞けば分りますって、紹介してくれって。今から私話すから、聞いたら分りますよ、だから皆さん聞いてください、って、そうやって紹介してほしい。ねえ。それから評価をしてほしい。聞かないで評価しても無理。こう言うのもそう。実践しないで評価しても無理。

エー、今朝も話して来たんだけど、先日21日かな、大阪に行ってた。大阪に行ったら、壮年の男性がお見えになって、私も随分
色んな事を読んだりして研究して来てるって、坐禅の事については殆ど分っておりますけどって言われた。で、私はその言葉を聞いた時、あなた坐ってないのに、よく坐禅わかるねぇって、言ってしまった。酷い事言ってしまった。ねぇ。

頭で考えて、人の書いてある文章読んだり色んな物を読んで、こう言う風な、考え方を止めるとこうなるとか、皆知ってるんです。それは坐禅した人じゃない。頭で知ってるだけ。だからそれだけものがよく分ってても、それでそのままで居れない。まだ自分の中で満足出来ない。それは理解してるだけだからです。ねぇ。飲まないのに、そのものの味が分る訳がない。百万の、万巻の書と言うのかね、色んな物を借りて来て、味について書いてある本を読んだって、飲まない間は絶対にそこに到達する事はない。坐禅てそう言う確かに道です。やれば必ず、やったでそうなる。

この音だって、パン!こうやって今、聞かなかった前に誰も戻れませんよ、もう。聞いちゃったから。考え方で、いやーそれは聞かない事にしようとか、ほっときゃ良いとか色んな事やったって、聞かない前には戻れませんよ。そう言うものです。ものって、ねぇ。その様にそんな風に坐禅て言うのは正しく伝わってる。

「兀坐の仏道につたはれる参究なり。」それが実践をすると言う事じゃないですか。坐禅は頭の中で考えて、物を読んで理解する様な事とは違う。だから「上智下愚を論ぜず利人鈍者を選ぶ事なかれ」と言われる。どんな人でも出来る、坐禅は。仏道の仏の字も知らなくても、禅宗の禅の字も知らなくても、一字も知らなくても坐禅は出来る。学校へ行かなくても。文字が読めなくても、それは自分自身の在り様に触れるからです、今。

自分自身の在り様に触れたら、自分自身がどうなってるかは、誰からも聞かなくても分かる様になってる。こうやって触れた時に(扇を開く)、誰からも聞かなくてたって、字が読めようが読めまいがこの通りなる。良いでしょう。だから世界中何処へ行っても役に立つんでしょう。この確かさがあるから。まあこう言う風な薬山の弘道大師と言う方が話をされてる様な内容ですね、「兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。」体験してる人は薬山弘道大師だけじゃなくて、数えれば、取り上げれば幾らでも居るでしょう。だけども、これ位文言の中でですね、明確に残ってる資料が少ない。だから道元と言う方は、この薬山の弘道大師とこのお坊さんの会話をですね、坐禅の指南の中に取り入れてる訳ですね。

こう言う事が本当に分かったら、坐禅がちゃーんと出来る。こう言う事が分からないと、ただ漫然として、形を作って時間が過ぎる
のを待ってるだけですよ。多少はね、普段ザワザワしてるより、静かな所でこうやったら気持ち良いに違いない。そう言う事は起きる。だけどそれ以上の事を本当にやろうとしたら、この考え方を離れてる事実って言うものに、こうやって触れるって言う事をしなかったら、坐禅にはならない。

「いはゆる『思量箇不思量底』なり。」その内容は、何回も繰り返すけども、「箇の不思量底を思量す。」この考え方を離れてる、事実と言うものは人間の思慮分別を離れてる、曖昧にならない確かさがある、これに学んでいかなきゃ駄目だって言う事です。

その後にも、「思量の皮肉骨髄なるあり。」とある。それはそうでしょう。この身体で考えてる時の在り様もあれば、それから、「不思量の皮肉骨髄なるあり。」って、考え方を離れてる、事実そのもので生活してる様子、両方あるじゃないですか。それでどっちを今使うかって言うと、この不思量の皮肉骨髄というものを相手にして坐禅をするのです。こんなことは、ってなるんでしょうね、「まことに不思量底たとひふるくとも、」これ別に弘道大師の前から、こう言う事は言われてる。

日本だってそうでしょ。「下手な考え休むに似たり」って言う位使われてる訳でしょう。皆さん使うでしょう。「下手な考え休むに似たり」マインドフルネスって、そう言う事も今やってるのでしょう。仕事の上で余分な考え方しないで居てごらん、楽になるからって。全国的に今。道具ですよ。だけどあれは人間の考え方で扱ってる。修行として効果があるって言う事を知ってるから、そうやって教えてる。

坐禅は違いますよ。そんな作り事はしてません。本質的に自分達がそう言う生活をしてる事があるのに気が付かないでいるから、ここに目をつけてごらんって言ってる。そうするとよく分かるから。繰り返すけど、考えてない時、悩まないんだから。あの人があんな事言ってって思った時に、その言った人の事が気になったり、自分の中が面白くないなと思ってるだけでしょ。それやらない時は、ただその通りにきこえて、何ともない。

あんな事やってって、見たものに対して自分の思いを付けると、居た堪れなくなるんでしょう。だから自分の家で行われる事と、他所の家だと思う所でこう触れるものが、皆さんかなり違うでしょう。少々他所の家汚れてるの見てもですね、「ああ」その位で終わるじゃないですか。自分の家の汚れてるやつは、「ああ」ってそれ位じゃ終わらないですよ。何処が違うでしょう。見るときに自分の考え方を、こっちは物凄く付けてる。こっちはもうどうせ自分の家でないからしょうがないなって、手をつけてもしょうがないなって言って、考え方をやめてるんですね、ちょっと起こるんだけど。こっちは考え方を何時までも止めないんだよ。

それ皆さん体験してる筈。大阪の震災がこの前あったけども、殆ど忘れてるでしょう。忘れてるから良いのでしょう、また。あれがずーっと生活する時に何時もここに今出て来て御覧なさい。大変でしょう。ところが実際は、思い出した時だけ、その事が相手に出来る。こんな風になってるからでしょう。パン!音がした時に聞こえて、音が無くなると聞こえない様になってるから、私達、こんなに生活が楽にできるじゃん。

思った時だけその事が、相手ができるんでしょう。阪神の大震災とか大阪の震災とか。思ってない時にそれが出て来たら、大変ですよ。思った時に出てきただけだから、それで別に取り上げなけりゃ済む事じゃん。事実を否定するのではありません。気になる事があったら、やって上げれば済む事じゃん。気にかからない時に、そのことを相手にしないし、出来ないものです。慈悲心は皆あります。無視する事とは違います。現地に赴くと、その現実に触れて活動が始められる様になってます。他人のそうした行為を見聞して、敬意を払う心を失わない事が、人を救う力になってます。

思いを離れるって、そい言う実に不思議な事を皆さん体験してるじゃん。何時までもしがみついてなんか、生きてないよ。実際に。昨日ああだった、この前もああだったって愚痴をこぼす人が居るけど、今どうですかって。昨日もああだった、さっきもこうだった、本当私はどうしたら良いんだろうって、悩み事をぶつけてくる人が居るけども、それは此処でそう言う事話してるだけであって、何にもそう言う内容が問題になってる事じゃないですよ。

もっと極端な話をすれば、わかる。「家に居ても頭がおかしくなる位色んな事が次から次へ出て来て、どうしょうもないから」って言って「来たんです。」って言う。喋ってる事と事実がどの位違うか、分かりますか。私の処へ来たって言う事は、どうしようもない人じゃないって言う事でしょう。エー、もう手が付かないどうして良いか分からないなんて事は、ちゃんと井上さんと言う処へ尋ねて来る力があるって言う事は、物凄いちゃんとしてるでしょう。

それで喋ってる事が、そう言う自分の内容を喋れると言う事は、自分がどうなってたかって言う事、皆ちゃんと知ってるって事でしょう。手が付かないんじゃなくて。それ位自分で言ってる事がありながら、自分の内容を全く見てない。で、指摘すると、今あなたそう言ってるけど、どっか苦しい処有りますかって。いや、今は無いですって。今無いのに、何処に手を付けて何を整理しようとするんだろう。それ位考え方って言うのは、人を迷わせてる。真実がどうなってるか見えない様になってる。考え方の上で生活をしてると。

言ってるけども、別に言ってる事がある訳じゃないですよ。頭が変になるって。色んな事が次から次へ思えて、もう何、どうして良いか分からないって言う事言ったって、そんなに正確にちゃんと話してるじゃないですか。それだけの事が行われてるだけであって、自分の中でそれ以外の事、何も起こってないですよ。分かりますか、そう言うの。

この前あの人と話してたらね、こんな事言われて腹がたってって、そう話したって、ただ自分の中で思い出として取り上げてる話であって、ここで何もそんな事が行われてないよね。思ってるだけだよね。違いますか。あの時ああだった、こうだったたって、思ってるだけの話でしょう。人間てこれ位、自分の真相って本当にどうなってるかを知らない。思いの上だけで生きてるから。だから不思量底って言うのが必要なんです。人間の考え方を離れてる事実にこうやって触れると、全く違う生き方をしてる、皆さん。

もう人の話なんか聞けないって言う人だって、「ちょっとここまで来て」って言うと、すっと来るよ、エー。「何、何」ってここへ来て、あんた今人の話なんか聞いてられないって言ったじゃないって。ちゃんと人の話聞いて、来るじゃんて。変ですよね。自分の思ってる事と自分がやってる事と全然違う。こう言う事が皆見えるんですよ、自分で。思量を離れると、考え方を。考え方でものを見る事を止めてみると。嘘だと思うなら、実験して御覧なさい。

「さらにこれ如何思量なり。」これ脚注に「更にいうなら如何という思量である。」ってこんな風に訳したって、それは無理です。それはどう言う事ですかって、尋ねる力がほしいって言ってるんです。考え方を本当に離れるって言うんだけど、それどう言う事ですかって、もう一回念を押して聞いてみたいって言うだけじゃないですか。

「兀々地に思量なからんや、」ただ坐ってるったって、何もしないでただ坐ってるって言ったって、パン!パン!(扇で打つ)こんなにはっきりしてるじゃないですか。パン!パン!パン!パン!皆さん坐ってる時、こうやって、ね。ここでこうやって音がパン!したのと、ここでパン!したのと、自分で量らないのに、思いで量らないのにちゃんと、こうやってこんなにはっきりしてるじゃない。同じ様には聞こえないのでしょう。ここでパン!こうやったのと、ここでパン!。ここで音がした様に聞こえるし、ここで音がした様にちゃーんと聞こえるのでしょう。ただ坐ってるだけなのに、ね。音の話をすると、聞きにいきたくさせるので、音がしない時はしない時の様子がある、ということです。身心の活動がある。

「兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。」どうしてそうやって坐ってるのに、こう言う真相に、皆さん方がああなるほどって理解が行かないのかって。難しい事じゃないでしょうが。今やった通り終わってて、こうやったらパン!パン!こうやって。考えなきゃ分からない様な話じゃないでしょう。考えないとパン!パン!こう言う事がこう分からないかしら。エー。あっちで鳴った、こっちで鳴った、色々考えなくても、ただ坐ってるだけで、こうやったらパン!パン!パン!パン!(連打)その通りにこうやってなってるんでしょう、皆。

これ、向上ですよ。飛びっきり上等ですよ。この上ないと書いてある。上に向かうと書いてある、向上。人間の考えてる様な世界じゃないって言う事です。更に向上を目指せとかって、その上に行きなさいって言う事を使うけども、こう言う事が人間の向上ですよ。人間の考え方を離れてる素晴らしさが、こうやってあるじゃない。パン!パン!すごいですね。止めないのに、音を聞いたものを自分で捨てないのに、聞いただけで何処にも残らない様な生活をしてる。エー。

普通は聞いたものを片付けないと無くならないのでしょう。そう思ってるでしょう。だけど聞いただけで無くなるんですよ。ほら、聞こえたものを消した気配は誰もしない。こんなにうまい生活してるじゃない。上等ですね。飛びっきり上等でしょう。だから次から次へ音がしても、前の音が邪魔にならずに何時でも聞けるって言うのは、残ってないからでしょう。それが皆さんの本質的な生活なんでしょう。

ところが考え方がちょっと出て来ると、本当は残ってないのに、思いが出て来るから。思いの方に意識がこう行くとですね、現実に今触れてるものの方に気が向かないんだもん。パン!パン!パン!パン!それでものがはっきりしなくなるんじゃない、ねぇ。それが皆さん方が普段愚かだと言われる生活、そう言う事じゃない。

俗語でよそ見をするなと言います。よそ見をしたら、こうやってて見てて、よそ見をしたら、今見てるものこれ見えなくなるの当たり前じゃない。これ見てごらんって言ったのに、こうやってやってよそ見したら、見えなくなる。よく分かりませんか、当たり前じゃない。如何いう風な生活してるかって、よそ見をしてるから、分からなくなるだけじゃん。こうやってたら、誰だって無条件で分かる訳じゃない。

それ生活してる、何時でもそう言う風に、今の在り様から離れない生活してる筈でしょう。今から離れた生活なんかしないんだもん、誰だって。今生活してる在り方だけじゃないですか。実際にやってるのは。努力しないと今生活してる処に行き着かないなんて言う事はないでしょう。最初から、皆、今の様子の中に居るじゃないですか。今と別に生活するって事はないじゃないですか。

それ位ピッタリしてる生活してるにも拘らず、考え方がサッと起こると、すぐよそ見をする。で、考え方の方が強烈だから。皆さん好きなんだよね。気になるんだよ、考え方って。自分の思ってる通りの事が思えないもんだから。そんなの放っといて全然問題ないですよ。本当に、そういう思える事、一切手をつけずに、放っといても生活に何の支障も無い。

それだのに考え方が出て来て気になると、それで手放しで居る力がない。要するに、真実の方を大事にする力が無い。大事にするものを間違えてる。偽者のお金を掴まされて、それを大金持ちに成ったと思って、偽札を一杯持って歩いてる。使ってみると、これ駄目ですって言われるだけじゃん。本当の価値があるものを大事にしないと駄目だよ。

だから「賤近の愚にあらずんば」と言う事があるじゃないですか。酷い事、道元禅師言うね。これ賤って浅ましいとかって言うんですよ。どちらにしても愚かだって言う意味でしょ、賤近も愚も。考え方と真実と、どっちが大事かって言う事を見誤るなんて言う事は、正に「賤近の愚」なんでしょう。偽者と本物があった時に、偽者を大事にする様な人は愚かなんでしょう。

じゃあ自分の中で、どっちが本物なんですか。考え方と今生きてるものと。実際に生きてる、生活してる。そんなの言わなくても分る事でしょう。言わなくても分かる事だけど、自分の生活見ると、実物の方を相手に生きてるなんて、殆どしないんじゃないですか。悪いけど。時間がありゃ、考え方が出て来たもの相手にして時を過ごしてるのでしょう。あそこ掃除したらいいな、あれもこうしたらいいなって、そうやって過ごしても、何処も何も綺麗にもならないし、修理も出来ないのでしょう。よく知ってるでしょう。

で、時間がたって、色んな事をこうすれば良かったんだけどって、どうして上手く行かないんだろうって。やらないもんね。考えてるだけだもんね。考えて如何にも出来た様な答えを出すんじゃない。こうやったらああなるって、答え出るもんだから。それ皆思量の上の話でしょ。考え方の上の扱ってるから駄目じゃん。不思量ですよ。考え方じゃなくて実物を扱うっていう事が坐禅なの。考え方じゃなくて。実物には人間の思い量りがついてないんじゃないですか。

考えなくてもお百姓さんが畑や田んぼに行くとですね、その現場に行ってこうやって触れるとですね、どうしたらいいか分かる様に
なってる。水が入ってないと水をひく、草が生えてると抜く。稲と違うものがあるとちゃんと抜くのでしょう。考えてやってる訳じゃないですよ。行くと、そこに行くと実物に触れると、ちゃーんと分かる力を持ってるんです。

だけど一般的には犬を連れてっておしっこしたら、ヒューっと掛けるとか、糞したら集めるとかと教えて、そうそういうことを知ってないと出来ないと思ってる。そうじゃない。出したらわかるんだもんそこで。何で止まったかなぁと思うと、こんなことやってブルブルとやって、コロコロと出てくる。それで出てくると、そのまま行くか行かないかだけだから。大事に拾って帰る訳でしょう。

まあそうやって、ここは「賤近の愚にあらずんば」愚かでなかったら、こういうことをちゃんとするんじゃないかって。次にある「兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」本当に坐るっていうことはどういうことかって、
尋ねる力があるでしょう、って言うんでしょう。本当に坐るって、ただこんなことやってるだけじゃないって言うことでしょう。形を作って時間の間ただこうやってすごすって言う事じゃないのでしょう。それで解決はしないのでしょう。

一番問題になってるのは、こうやってる時に、思いが出てくるものを相手にしてるものが殆どだから、思いを相手にしなかった時どうなってるかって言う事を本当にやってみるって事が問われてる訳でしょう。そう言う事を教えてくれる所に行かない限りは、本当につまらない事しますよ。坐禅て。何十年もやってるって、坐ってるって。坐ってどうなったんですか。イヤーよくわからないって。何でよく分からないんだったら、そのまま居るんだろう。

縫い物して上手くここを縫えないって言って、普通はそれらしい人のとこ行って、どうやって縫ったらいいんでしょうかって、その位聞きに行くでしょう。問著する力量ですよ。或いは思量あるって、自分でそこが問題になってたら、それを問いただして解決するぐらいの力があるんでしょう。教えてくるのをただ待ってるのかしら。口開けてぼた餅が口の中へ棚から落ちてくるのを待ってって言う様な表現があるけど、そんな愚かな事はしないのでしょう。ねぇ。

そして道元禅師はそこに、薬山様が言われた、「大師云、『非思量』。」本当に思慮分別を離れてる、実物が具体的に何を指すかって言ったら、今活動してるこの全身心の活動してる様子がみな非思量でしょう。考え方を起こしてもの見てないじゃないですか。見たものに対して考え方を起こすかもしれないけど。

音を聞く時に考え方を先にして聞くって事ないじゃない。聞こえた後に考え方を起こすのでしょう。食べた後に、味がした後に、それがうまいとかまずいとか愚図愚図いうのでしょう。愚図愚図言う前にはどうなってるかと言うと、本当に好き嫌いを超えた味がその通りしてる。そういう確かさの素晴らしい生き方をお互いしてるのでしょう。文句言わずに済む。そういうのが真理を味わうって言う事でしょう。皆ズレていませんか、どっかがね。

「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なり」もうはっきりしてるじゃないですか。そうあるべきじゃない。人間の考え方の前に皆ちゃんと活動してる。生きてる事だってそうでしょう。自分で作って生きてる人なんかいない。先に皆生きてる様子にいるんじゃないですか。今生きてる様子を作ってやってる人なんかいませんよ。今生きてる様子、どうしてるか全然知りませんよ。人が手を加えた事一切ない。はっきりしてるでしょう、そう言う事。だから安心してられるのでしょう。作らなくてもいつでも今の中にいるから。

「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」本当に思量から離れてる様子を学ぼうと思ったら、この有り様を使う以外にないじゃないですか。人間の思慮分別を起こす前に生活してる事実があるんだもん。これに学ぶしかない。考え方を止めるって言う様なことでは届かない。

まあその辺まで読んどけば。だいたい時間だから。後五時までだから30分位あるから、これを基調としてですね、あとそう言う日頃の感じてる事があったり、ここはどうもとか思う事があったらどんどん質問してみて下さい。そうするともう少し理解が深まると思う。

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