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坐禅箴 Ⅰ

音声はこちら ↓ 2018.6.24 高知市でのご提唱です。

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地元の○○さんが坐禅会を開いて少しでも多くの方と一緒に坐ってみたいんだと言う事で、会場まで暇があったら来てほしいと言うもんですから、私でよければと言うことで、どうぞと言う事でお受けしました。そう言う事で始まったので宜しくお願いいたします。

でその折にですね、何か話をして、と言う事でお選び頂いたのが、この正法眼蔵の坐禅箴と言う巻をちょっと参考に読んでほしい、とこう言う主旨でした。それで手元にコピーをして頂いたものを用意して貰っております。まあ聞いて貰ってれば良いんじゃない。ちょっと一頁だけ読みますね。

「坐禅箴 観音導利興聖宝林寺」「薬山弘道大師、坐次有僧問(薬山弘道大師、坐次に有る僧問ふ、)、『兀々地思量什麼』」まあそう言う風に読んだら良いでしょう。「師云、『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』。僧云、『不思量底如何思量』。師云、『非思量』」

これだけの教材があって、これに対して道元禅師が色々お話を進められております。「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。兀坐の仏道につたはれる参究なり。

兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

いはゆる『思量箇不思量底』なり。思量の皮肉骨髄なるあり。不思量の皮肉骨髄なるあり。

僧のいふ、『不思量底如何思量』

まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。大師云、『非思量』。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」


まあそこら辺まで読んでおけば。人物その他についてはですね、それほど詳しく知らなくても、話は進むと思います。だからそれは抜きにして。

薬山と言う和尚さんがおられて、其処にあるお坊さんが来て、この様に尋ねられたって言う事です。坐っておる時一体どうしていたら良いかって言う事です。『兀々地箇如何思量』と言う事はね。坐っておる時、何をしてたらいいか。普通は皆さんさっきも話した様に、静かにこうやってる時があるとですね、自分の頭の中に思い浮かんで来る事を相手にして、それを詮索して、ああも思いこうも思いして過ごすのが、普通坐ってる時じゃないですか。

じゃ坐禅の時、坐禅の時はそう言う事と同じで良いのかって言ったら、同じだったら別に坐禅する意味がないじゃないですかね。そう言う事が基本にあるから、坐禅をしてる時にどうあったら良いかって事が問われてます。でそれに対して、この薬山と言う方、お師匠様になるかね、方がですね、言われるのに「箇の不思量底を思量す。」今こうやってる、箇のって言うのは。

「箇の」ってなにを指すかって言ったら、今誰もが今こうやってる、この様子です。今こうしてる。今の皆さんこうしてる様子、誰もが今こうやってる、この様子です。こうしてる。今の皆さんこうしてる様子、誰もあるでしょ。エー「箇の」って。何処を指すって言う様な言葉じゃないです。全部なんですね。「箇の」って言ったら、今の様子を指す代名詞です。何もかも入る、「箇の」って言ったら。自分達の、一人一人、今こうやってる様子。「箇の不思量底を思量す。」この考え方で取り扱っていない事実、それが不思量底です。

あのこう言う風な話し方をしたら、少し理解が行くと思うけども、物にはですね、どんなものにもそうだけど、人間の考え方は付いてないです。例えばこうやって見た時に、天井って言う風についてない、見た時に。天井って言うのは、私達が生まれてから後の、あれを天井って言うんだって言う風に学んでるから、見るとそう言うものが頭の中にふっと出て来て、で、天井って言うんだけども、本当に見てる時には天井とも何とも言わず、あの通りの様子がただあるだけじゃないですか。上を見なさいって、一応言うんだけど、こうやった時に。皆言葉が先なもんだから、今、ねぇ。問題になるんだけど、言葉の前に先に事実が皆あるんじゃないですか。

色でもそうじゃないですか。この前NHKで何かやってた。信号機の話あった。聞いてた。青赤黄、青黄赤か。何で日本はあの色を青と言うのかって言う話があった。こんなのの濃い色ですよね。グリーンですよね。で、言葉から言うと問題になる。何であれ青って言って言うって。他所の国ではグリーンって言ってるのにって、日本だけどうしてあれを青って言うって問題になるんだけど、皆さんの眼はですね、青を言おうがグリーンと言おうがですね、ズレた事がない。その通りの色がちゃんと見えてます。それ位人間が生まれてから後に付けたものに関係ない程確かな生活をしてるって言う事です。これが不思量です。

ねぇ、決めたのは後ですからねぇ、見えている色に対して。こう言う呼び方をしようって言って、人間が後で約束してグリーンとか青とかってつけて。その時、もしつける時に、赤ってこう言うものを呼ぶ様にしたら、今だってこれを赤って呼ぶんでしょう。ねぇ。元々名前無かったんだよ。こう言う風に見えるだけ。(手元にある茶碗を持ち挙げて)

今でもそうじゃないですか。色んなもの見て御覧なさい。名前が付いてる訳じゃない。見ると、薔薇とか菊とかって言うけど、別に名前が付いてないですよ、見た時に。こうやって人が居るんだって、エー誰も名前なんか付いてない。見えるのはこう言う風に見えるだけです。だけど知ってますからね。知ってるから、あ、あの人って言って、その名前の方で呼ぶんでしょう。

こう言う処に不思量って言って人間の思慮分別、ものを分けたりする、そう言うもの付いてない世界があると言う事じゃないですか。どっちが素晴らしいって、別に何も付いてないでしょ。こうやって色んなもの出した時、ものには、どっちが素晴らしいって付いてないでしょ。どっちが価値があるって、何も付いてないですよね。付いていますか。これこうやって見て、どれが価値があるって付いてますか。そんな風に見えますか。正直にこの通り見えるだけでしょう。見て御覧なさい。だから全然思量を離れてるでしょう、人間の考え方を。最初から。そう言う事知ってますか。

人と出会っても、良い人悪い人って、そんなの付いてませんよ。あれは見た人が、自分の中で自分の主観で、自分の中に基準があって、それを比べた時に良い人悪い人って言って、そう言う勝手な見方に変えたんです。見えてるものにはそんなの一切付いてない。

これが此処で薬山の弘道大師が言われている『箇の不思量底』なんです。考え方を離れて。考え方でない。思いの方でない。良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、若いとか年が行ってるとか、男性だとか女性だとか、綺麗だとか汚いとか、ああ言う様々なものがある。あれ全部思量ですよ。人間の思い量ってるものです。実物にはそう言うのが一切付いてない。少なくともそう言う事を皆さん、生活の中で本当は知ってると思う。

で、こっちに学ぶんですね。その人間の思い慮りの付いてない事実の方に、私達は目を向けてものを学ばないと、とんでもない事になるじゃないですか。一人一人、考え方は違うんだもの、見たものに対する評価が。

お腹の減ってる人は、これいいねって言って、お腹一杯の人はこんなもの要らないって言う位、同じものに対して評価が違う訳でしょう、ねぇ。そう言うものを取り払うと、このものの様子が、どちらもその通り、こうやって触れる事が出来る。それで初めて、正しいものがこうやって触れる事が出来る訳じゃない。そう言う事があるから、この薬山様が、『箇の不思量底を思量せよ』って、その考え方を離れてる事実に学びなさいと言ってるんです。

で、このお坊さんは、じゃ考え方を離れてるって、考え方を離れたら、思い量る事ができないのじゃないかって。そりゃそうでしょう。『箇の不思量底』『不思量底如何思量』考え方でないものはどうやったら良いかって言って、言われたって困るじゃないかって言ってるんです。だから弘道大師が、『非思量』その通り考え方でないまま行きなさいと。

じゃさっきもちょっと触れた人が居るけど、生活の中で困ってる時は、間違いなく自分で勝手なものの見方をしてる事が、自分を苦しめるんですね。それが止んでる時は必ず在る。そう言うもの使ってない時が、付けてない時が。その時自分に触れると吃驚する。ああこんなに素晴らしい生き方をしてるって思う位、吃驚する。悩みも苦しみも一切無い。ちなみに皆さん、これもよく知ってるけども、考えてない時にですよ、ものを思ってない時に悩んだ人は誰もいない。

エー、自分の中で何か考え方を相手にしてない時にですね、悩んだ人誰も居ないよ。じゃ、考え方を相手にしていない時に、生きてる事実がないのかと言ったら、生きてる事実は絶対失われずに、ちゃんと在るじゃない。良いじゃない、考え方離れても。生きてる事実さえあれば。しかも考え方離れると、問題なくなるんだもん。グジュグジュしてるのは、自分の頭の中で色んな事思った事、自分の頭の中で考えてるだけじゃないですか。人が悩んでるって。それ明確でしょ。

だのに自分の考え方が止まってる時に、どうなってるかって言う事を、本当にこうやって触れる力が無い。そう言う勉強をする力が無い。これが伝えられてる坐禅です。坐禅てそう言う時間です。人間の思慮分別を離れてるものの実体。事実そのもの。

音でもそうじゃないですか。こうやって。パン!(扇で畳を打つ)音は大きいとも小さいとも聞こえない。パン!この通りこう言う風に聞こえるだけです。パン!だけど私達は音を聞いた瞬間に、大きいとか小さいとか付けるのはですね、分別するのでしょう。どっか昔聞いた音を、ちゃっと思い起こして、今聞こえたものと比べるんだ。だけども耳に聞いてみるとよくわかるんだけど、こうやった時に、比べる音なんかしてない。この音だけが、パン!その通り聞こえる。パン!それだのに分別がそうっやって、思量分別が動いてこの音を聞かない、この通り。これで皆さんの生活がごちゃごちゃになってるじゃない。

人と話をして御覧なさい。人と話をした時に、相手が言ってる通りに聞く人なんか、百人中一人も居ないよ。エー百人が百人全部その通り聞かない。間違いないよ。振り返って、自分の生活してる中で、自分の事だから見てご覧なさい。人の話を聞いてる時に、人が喋ってる時に、本当にただその通りに聞いてる人なんか居ないよ。

先ず、今こうやってペンを持って何か書こうとする人は、すぐ聞いたら自分の考え方に、ああ、ああ言う事言ってる、こう言う事いってるって、そう言うものをここに書き留めるんです。用が無いですよ、それは。それをやったら、聞かないんだよ、本当は。自分の都合の良い事やってるだけなんだよ。本当にそれは。だって自分の頭の中で理解出来る様に、人の話を理解するだけじゃないですか。こっちの伝えたい事とは違うじゃないですか。自分の力の範囲で理解してるだけじゃない。ただ聞いてるとそんな事要らないじゃない。それが勉強の仕方なの。

ただ聞いてるだけじゃ分らないかって、そんな事はない。パン!ただ聞いてるだけで分るでしょう。パン!全部聞こえるでしょう。この通り。どっか途中、半端な聞き方するって事無いでしょう。パン!こうやって、エー。一つもこの音に対して、欠ける事の無い様にちゃんと聞こえるでしょう。付け足す要もないし、ねぇ。取り除く何か邪魔なものも無いじゃない、こうやった時に。パン!これで良いじゃないですか。こうやって生活すると修行が出来る。それ『箇の不思量底を思量する』って言う事です。これ位人間の考え方を最初から離れきってる、人の在り様があるじゃないですか。

だけどそこの処は殆どの人が見落としてる。自分の考え方に上に浮かんだ時に初めて問題にする。相手にするじゃん。何故かって言ったら、こんな事は当たり前すぎるからです。パン!問題にならないじゃないですか。パン!こうやってやった時、その通り聞こえるって。それが何だって思う位、何でもない様子でしょう。

だけどもちょっと屁理屈をつければですね、パン!こうやった時にこの通り、もし聞こえなかったら、世の中滅茶苦茶ですよ。何時の時代でもどんな人でも、パン!こうやったら必ずその通り聞こえるって言うのが基本だから。


もうちょっと偉そうな事を言うと、聞いた話ですけども、大体人はですね、満二歳位、三つ子の魂、満二歳ですね、成るまでの時は、これは(自分を指す)自分だとは思ってない。自我意識って無い。もうちょっと小さい時を見ると分る。こうやって赤ちゃんがこうやって(扇を開く)こう言うものに触れてる時ですね、自分でこれ見てるって自覚が無い。自覚が無いけど、こうなってる。

こうやってやって、パン!音を聞いてるって自覚はない。自覚はないけど、パン!こうなりますね。こっちでやってパン!(右側で)こうやって、こっちでやってパン!(左側で)こうやって動くのを見てると、あ、聞こえてるって言うのは、私達から見ると分る。だけど本人は音を聞いてるとは全然自覚がない。こう言うの皆不思量底です。人間の思量ではない。思い量りではない。

これが人間の脳の大体七割から八割、今皆さんが使ってる脳の七割から八割位、その二歳位までに、この体験が作ってる。人間の考え方が入らないから、世界共通なんです。ズレないです。自分の思い方で聞いたり見たりしてないから。不思議ですね。そう言う事で人間の脳が出来てる。大人になってから自我意識が出来てから学んでるのは、ほんのわずか。6歳までに90%、12歳までに100%完成すると言われている。それで仏道でもやっぱり子供の時の事を修行に用いる。赤ちゃんの様になりなさい、教える。

赤ちゃんは、パン!こう言う風に聞いてるんです。赤ちゃんはこう言う風に見てる。もう一回話しますけど、赤ちゃんはこうやって(扇を振る)見てる時に、自分が見てるって知らないんです。知らないけど、本当にこの様になってます。一分もずれない程この通りなってる。どうしたんでもない。こうやった時にパン!その様に聞こうとも何とも思わないけど、その通りに、パン!必ず生活してます。

それがここで言う『箇の不思量底を思量す』或いは『非思量』と言われる世界です。今でも皆それは使ってます。大人になると皆問題にしなくなっていますが。だって、こうやって聞く時に、自分の聞き方なんか出来ないじゃないですか。良いですか。私が今から音を出すから、それぞれ好きな様に自分の聞き方で聞いて下さいって、こうやってパン!とやった時に、自分の思う様な聞き方なんか出来ないうちに終わっちゃってるでしょ、皆。

やってみますよ。パン!エー。無理でしょう。これだけちゃんと用意してて、今からやるから自分の考え方、聞き方で聞いて下さいよって頼んどいても、パン!ってやったら、そう言う事全然動かない内に、音がパンと終わるだけでしょう、ねぇ。こう言う事皆やってるじゃないですか。やってるんだけど、こんな事取り上げた話に触れた事がないから、大事にしてないじゃないですか。

本当はこれがお釈迦様が気づかれた、人の根本じゃないですか。自分が今まで勉強して来た、思って来た事と、本当に底抜け違うって。人の考え方で如何こうしてる世界じゃない生き方を人がしてる。その処、内容に触れてみると、皆さんが本当に願ったり叶ったり、最高の様子で出来てるじゃないですか。

これパン!(扇で打つ)どうもしなくたって、その通りなれるんだもの、良いじゃない。何か努力した人いますか。パン!こうやって。私がこうやって叩いて、パン!この様に聞くのに。何か難しいとか。何も無いじゃないですか。いきなりちゃんとそうなる。パン!その通りなる。こんなに上手く生活してるじゃないですか。後で聞くって事はないでしょう。音がした時にパン!ちゃーんとずれずに聞ける様になってる。

誰から聞き方を学ばないと、音がしてもパン!分らないって言う事はない。誰からも学ばないのに、こうやってやると、パン!(扇で打つ)ちゃんと自分の力で分る様になってる。大きくなる間に、音がしたらこういう風に聞かないと分らないと言って、学んで聞いた人はないですよ。誰も教えていない。誰からも学ばないのに最初からこうやって生活して来た。パン!

だけどこう言う事が、自分の中で行われてる大事な事だって、ひとつも気にしてないし、教えてくれないから、人間て言うのは自分て言うものが、自意識というものが出きた上からしか見てないから、自意識、自我意識が出きた時からの様子って言うものは、必ずものを対象として見てますよ。此処で音がしたからパン!私が今聞こえるって、そう言う風に理解してる。

だけど自意識、自我意識の無い時には、ここでパン!音がしてこっちで聞こえるなんんて言う風な聞こえ方はない。いきなりパン!こう言う風になるのでしょう。しかも聞いたとも何とも思わないのにパンと言う。自分の身体に入って来たとも何ともないじゃないですか。そんな事一切ないじゃない。耳があって音が聞こえるとかって言う事さえもない。音がするばかり。パン!こう、こうやって。今なんです。パン!音がするばかり。音がするって事が聞こえてる証拠じゃない。それ以上要らないじゃないですか。こう言う風に出来てる、非思量って。

本当に人の思慮分別、思い量りではない。これが人の根底にある。それで人間の頭が育ってきた。七割から八割。その後わずかしか育ってないですよ、ねぇ。面白いね。そう言うの。これは医学的にも立証されてる。まあこれだけが本文の処の内容です。


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