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自証三昧 Ⅲ

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「ただ吾髄の附嘱なり。」誰しもの真相でしょう。誰しもが本当にそうなってるでしょう。「自他を透脱せり。」さっきは脱落と言ってますが、透脱。「眼睛吾髄、それ自にあらず、他にあらざるがゆゑに、仏祖むかしよりむかしに正伝しきたり、而今より而今に附嘱するなり。」人の作った様な世界じゃないですね、初めっから。だからずーっとその様に、これからもそう言う風になるのでしょうね。良いでしょう、これで。

「正伝しきたり、」正伝です。何時でもずれた事がない。皆さんが今生きてる事がですね、今生きてる事とずれた生き方をする人なんか一人も居ない。エー、何故でしょうね。今生きてると言う事からずれた生き方をする人なんか一人も居ない。そう言う風に出来てるでしょ。今生きてるって言う事は、これから何かやる事は一切ないもんね。これからやる事じゃないもんね、今こうやって生きてるって言う事自体が。

夕べもそう、「今はそれで良いけども」って言う方がおりました。今話をしてる時、そう言う事が分かるんで、それでいいんだけども、って。何か未だこれから先どうかして生きていかなきゃならないものがある様に思ってる。皆さんもそう思ってる人、居るんじゃないですか。ご主人を亡くして一人になって、子供も余所に行ってるので、これから先、って言ってました。なるほどと思うんですね。出来るだけ人の迷惑にかからない様に生きて行きたいって言っておられた。

出来るだけ人の世話にならずに、迷惑をかけずに生きていきたいって思うのは結構だけど、あなたご飯食べているでしょうって。もう既に人の力を借りてるんでしょう。エー、そうなんでしょう。着物きてるんでしょう。誰作ったの?。エー、もう一々人が思ってる事と違うことやってますよ。自分では一切人の力借りず、迷惑かけずに生きてる心算で、平気でそう言う事言うんだよ。嘘だって。そんなの。

空気だって誰が作ってくれたか知らないけど、ちゃんとそう言う恩恵に預かって生きてる。太陽だって、ねぇ。本当にそう言う事をこう見てみると、そんな生意気な事をいえる柄じゃない。(笑)全て人の力によって、全て自分の力じゃなくて、一切あらゆるものの力によって、辛うじて生きてるって位、もう人の世話になりっぱなしなんだよ。今更人の世話にならないで、よく言えたと思う。エーそう思いませんか。

もっと力を、そうやって貸してくれるものがあるんだから、たっぷり戴いたら良いじゃないですか。お母さん一つも面倒みれない内に逝っちゃったねって、言われない方がいいよって言っときました。子供達に少しは迷惑をかけて、全く呼び寄せられて大変だとかって、亡くなってから皆良い思い出になるって。生きてる内世話が出来ないと、亡くなってから思い残す事が沢山あるから、一杯迷惑かけといた方がいいんじゃないかって、言っときましたけどね。どうですか。子供はそれで喜ぶんじゃないですか。誰にも世話にならないで良いって言う様な生き方をしたら、寂しいですよ、つまらないですよ、本当に。

介護してあげたいなって思う様な人になりなさい、って私が昔どっかで言ったのかね。この前会った人に、井上さんに昔そんな事を言われたって。どっか耳に残ってるって言われた。どう言う風に生きたら良いか、介護さして下さいって言われる様な生き方をしたら良いんじゃないか。あんなやつ世話するかって言う様な風に思われる様な生き方は、してはつまらんと、こう言う事ですね。そう言う生き方をしたら、きっと良いんじゃないですか。まあ色んな事がありますけども。

「拄杖経あり、横説縦説、おのれづから空を破し有を破す。」お経って言うと、固定概念があるんだけども、こうやって杖を、こうやってついたり、見せたり、こうやってやる。それらが一々拄杖の、拄杖によるお経なんでしょう。何でこんな事やっただけで、こんな事に触れただけで、人がですね、悟る事があるのか。不思議ですね。何の理由もないじゃないですか。

花びらが、さらさらさらさらっと、何でこれで悟るんですか。普通人間はですね、何かそれにすごい理由がほしいんだよね。パン!(扇で机を打つ)竹に石が当たった。それで悟ったって言うと、パン!何か理由が欲しいでしょう。悟るのに理由なんかない、何も。

真実に屁理屈なんか一つも無いんだよ。エー。真実って屁理屈なんか言う用が無いんだよ、何も。そう言う風に出来てるでしょ。要は生まれてから後つけた人間のももの見方や考え方からすっかり離れた処に人が触れるから、ものの真相がはっきりするだけじゃない。それだけじゃない。それがどんな事によってなるか。縁によって、何がその人の縁になるか分からない。そう言う事がある。

横に説いたり縦に説いたりってあります。縦横無尽って言う事でしょう。ねぇ。それぞれ向き合った人が違えば、その違った人の会話の中で、その人に出来るだけ、真意が伝わる様に説いてる事が縦説横説って言う事になるでしょう。こちら別に説き方を持ってる訳じゃないですよ。触れた人が色んな事言うから、それによって変化するだけですよ。言いたい事ははっきりしてるから、その言いたい事をどの様にその人に伝えるか。その人の言葉を借りて、その人がどう言ったら理解出来るかって事が、そこで行われるだけです。言葉を沢山知ってるよりも、真実を本当に自分ではっきりさせてる力が必要でしょう。

普通に言えば、この前も私、友達が誘ってくれたので、奈良まで日帰りの旅をしました。空海の何とかって言うタイトルになってて、行って来ました。言いたい事はですね、自分がそう言う所に足を向けて、一度旅をしてくればですね、人に色んな事を聞かれて、そこ行ったらどうなったとか、どんな事があったとか、どんな質問されてもちゃーんと答えられる。不思議でしょう。本当に行ったからですよね、ね。

自覚ってそう言う力がある。言葉を沢山知ってるより、色んな知識が沢山あるよりも、ただそれだけじゃない。自分が本当にそこへ行けば、一日中追求されたって大丈夫だよ。何にも苦労する事はない。あそこに鶏がいたとか苔が生えてたとか、何でも良い。いっぱいある。

「おのれづから空を破し有を破す。」ああでもない、こうでもない、色んな事言われても、皆そんなものは撃破する事が出来るじゃないですか。それ位すっきりしてる。はっきりしてる。そう言う風に。それ皆やってるでしょう、本当は。毎日そう言う生き方を、自分の生き方を間違いなくしてるのに、何で人からあーだこーだって言われた時に、愚図愚図しちゃうんだろうね。

ここに一度足も踏み込んで居ない場所があるって事でしょう。自分が生活しているにも拘らず、自分の真相にまで足を本当に踏み入れた事がないって言う事があるんでしょう。二十四時間自分と一緒に居るのに、ここの消息のとこまで、自分の真髄の処まで足を踏み込んでいない為に、お互いが突っ込まれた時に、うろたえてるだけでしょう。その後にも出て来るけど、大慧の宗杲と言う人に対して、道元禅師が色々話してるけども。

皆さん方もそう言う処が、欠けてるって言ったら、そう言う処だけじゃない。他の事は全て知り尽くしてる位知ってるでしょう。だけど一番肝心な自分自身の真相に対しては、一歩も足を踏み込んでないじゃないですか。外から眺めてあーだこーだ言ってるだけじゃないですか。そこに悟と言われる表現があるでしょう。悟るって言う事は、本当にその真髄の処まで自分が足を踏み込んで、その真実にこうやって辿り着いたその力でしょう。

「払子経あり、」今度は払子って。こんな柄の先に毛の着いたやつですね。こうやってやってます。「雪を澡し霜を澡す。」下にも注釈が出てますけど、払子に使ってるものは、白い毛が殆どでありますけど、必ずしも白くないやつもある。馬の毛の様な黒いやつもあるから。ねぇ。それはまあどちらでも良いんですけど。こんな事です。

それから「坐禅経の一会両会あり。」それは皆さんが明日も、今晩も、今日も坐ったのかも知れませんが、坐禅をする。坐禅の時は、坐禅が真実を間違いなく皆さんに伝えてる。お袈裟経ですね。「袈裟経一巻十袟あり。」お袈裟をつければお袈裟をつけた時の様子が必ずちゃんとある。まあそう言う風に簡単に読んでもらえば良いでしょう。味噌汁を作る時には味噌汁。竹には竹の経がある、松には松の経があるとかって言っておられますけども。一々そのものがそのものの真実を説き尽してる。

「これら諸仏祖の護持するところなり。」諸々の仏や祖師方はこう言う風に生活をなさっておられる。こっから外れる事がない。「かくのごとくの経巻にしたがひて、」こうやって真実に本当に親しく触れて、その事によってこの身体が否応なしにそれによって変えられて行く、こうやって。パン!パン!パン!パン!(連打される)知らずにこうやって変えられて行くのでしょう。パン!パン!パン!音一つでも。前の事にこだわっていられないんです。パン!パン!パン!こうやって。パン!パン!パン!パン!(連打)こう言う事が実際に、今行われているんだけども、人間はこっちに(身体)用がないから、考え方の方を殆ど相手にしてるから。

こっちに(思考)用ないんだよね。パン!パン!パン!こうやって。この音によって、こんなにコロコロコロコロ全てのものから皆離れ切って、こうやってすっきりして生きてる様子がありながら、こっちに用がないから、考え方の方で問題にしてる事、ずーっと相手にしてるから、けりがつかないじゃないですか。パン!パン!ねぇ。

「かくのごとくの経巻にしたがひて、」こう言う風にして、パン!パン!パン!パン!修行して行くんです。したがひて。パン!パン!パン!「修証得道するなり。」なるほど。こだわっていようと思っても、こだわってられない。パン!パン!さっきの音を聞きたくても、聞くことが出来ない。さっきの音聞こえない、しょうがないじゃん。これはどの位有難いことですかね。さっきの事を片付けないで大丈夫だって事でしょう。パン!パン今こうやって聞こえてるだけで。パン!パン!パン!このことがはっきりすれば、はっきりしていさえすれば、それで良いことでしょう。

今眼だってこうやって、今、こうやって見えてる事がちゃんとしさえすれば、この前みたのがどうだったって事は、こうやった時に用がない事なんでしょう。て言う様な中にあるでしょう。「かくのごとくの経巻にしたがひて、」「かくのごとくの経巻にしたがひて、修証得道するなり。あるひは天面人面、あるひは日面月面あらしめて、」って言うのは、その時その時の在り様でしょう。

「従経巻の功夫現成するなり。」経巻に従うの功夫現成するなり。功夫って言うのは、こちら(思考)の方で何もしない事だって言う事が言われますね。一般に工夫って言うのは、自分の方で色んな事をやるのを工夫するって言う風に言ってますけど、仏道の功夫って言う事は、人間の見解であーでもないこーでもないってやる事を一切やめてみるって言う事が、仏道で言う功夫と言われる。

そうすると必ず今のこうやってパン!パン!こう言う事がその通りそこにパン!はっきり現れる。パン!パン!どうもしないのに先ほどの事からパン!こうちゃーんと離れ切って生活が出来ている。パン!パン!(連打される)問題にならない。どうしたら執着しないでいれるかって言う様な事を言うけど、執着なんかした事がない。執着出来ない様に出来てる。パン!パン!エー執着なんか出来ないんだよ、何処にも。執着してたら、こう言う風にならない。

こっち(今の在り様)はわかるけども、こっち(頭)の中の方を整理したいと思うのでしょう、未だ。こっちの考え方をその様に整理する用がない。この事実に学んで、そうなってることが分かったら、それで済む事でしょう。だから修行は考え方の方を相手にしないのです。

「しかあるにたとへ知識にもしたがひて、たとへ経巻にもしたがふ、みなこれ自己にしたがふなり。」とどのつまりですね、経巻に従うとか知識に従うとかって言う事は、何を言ってるかったら、自分自身の真相に目を向ける以外にないじゃないかと言う事でしょ。「仏道をなろうというは自己をならうなり」って言う。そう言う表現です。他にはない。

それを更に裏づける事をするならば、人が生きてるって言う事は、この戴いてる身心の活動だけで、生涯終わるからです。他には無い。何時何処へ行って何をしていても、この自分自身と言われる身心の活動だけなんです。それに対して疑義のある人は恐らく居ないとおもいますよ。もしそれに対して疑義があるんだったら、言って下さい。間違いない事ですよ。生涯この戴いてる身心の活動以外にない。

だって何処へ行ったって、このものの活動してる様子だけじゃないですか。エー。その中に具体的に言うと、眼は物を見、耳は音を聞くとか、舌は食べ物の味がわかるとか、鼻はそこに色んな匂いがする、嗅ぐ力があるとかって言う事だけじゃないですか。

更にその中に、人の会話聞くとか言う事がある。ねぇ。じゃその会話はどう言う風になるかったら、向こうが喋ってる時、その通り聞こえるだけじゃないですか、本当は、ねぇ。それをその通り聞こえると、理解が出来る力を持ってる訳でしょう。だけども、聞く前に皆さんは聡い人が多いから、ちょっと言っただけで、もうその先は皆分かるって力があるもんだから。でもそれはちょっとおかしいですよ。エー、利口そうだけど、おかしいですよ、ね。喋ってないのに、もうその先は皆分かっちゃう。すごいね。利口な様に思うけど、それ、おかしい絶対。言っときますけど。

更にですよ、「知識おのれづから自知識なり。」だって、パン!こうやって音がした時に、パン!この事によってですね、パン!この事がわかる。その時に。何か人の力を借りないんだもん。良いじゃない。パン!この事を聞いてこの事が分かる時にですね、隣の人にどう言う風に聞こえたのか、って聞かないと分からない様な事はないのでしょう。こうやって見せて、(扇を見せる)必ず自分の知識ですよ。他の人の事ではないですよ。

「しかあれば遍参知識は遍参自己なり、」あまねく参ずる、残らず余さず全ての事がはっきりする。究極、究境、徹底、色んな表現があるけども。それを学ぶのには、結局は自分自身の在り様を学ぶ以外に無いのでしょう。「拈百草は拈自己なり」そこらに草が夏草が一杯生い茂ってくる。でそう言うな事も百草を拈ずる、って言う事になるのでしょう。いかにも向こうに生えてる草を相手にしてる様だけど、自分自身の今生きてる様子そのものを相手にしてる事でしょうって、こう言う事ですよね。

「拈万木は拈自己なり。」今度は木ですね。「自己はかならず恁麼の功夫なりと参学するなり。」自分て何を指すか。皆さんが自分以外のものって思ってるものは、全部自分の様子なんです。本来の自己って、そんなに宇宙と匹敵する内容もってるじゃないですか。

「この参学に自己を脱落し、自己を契証するなり。」その事にふれて、本当に自分で納得が行く処までやれば、一応けりがつくじゃないですか。後はそれを十分生きてる間中、思う存分使えば良いじゃないですか。手に入れた財産の中で、一番大きな財産でしょう。

無限のものを持ってるんでしょ、これは。自分で知らないから、勝手に自分で自他の境をつけて、そして不自由にしている事、一番よく分かる事でしょう、日常の生活の中で。自分を苦しめてるものは、皆自分の見解で自分を縛ってるでしょうが。他の人が何も自分を苦しめてませんよ。「お前馬鹿だ」って言われた時、何も馬鹿になる訳じゃない。だけども自分の中で、馬鹿って言われた時、「何糞」って思う様な見解が自分の中で起きる事自体が、自分をつまらなくするのでしょう。「ハハハ」って言ってる位の力があったら良い。人を馬鹿にしてるって、何してるんだって。その位の人物になると、何だろう、少々の事でですね、問題にはならないね。

今世界中、ああ言うもの(人権、いじめ、セクハラ等)問題になってるね。根本に何があるかったら、自分自身の見解から離れないって言う事が問題なんでしょう。自分を立てて、そこから出て来る言動が変な事を起こすのでしょう。言葉が悪いって言う事だけじゃないですよね。行為が悪いって言う事だけじゃないですよね。きれいな言葉を使ったら、人を貶さないのかったら、そうじゃないです。どんなにきれいな言葉を使ったって、腹の中は、あの野郎と思っている様な人は駄目じゃないですか。それじゃ差別が無くなったとは言わないでしょう。

本当はそこが問題なんでしょう。触られたくない人も居ます。だけども、事故を起こして、そこで苦しんでる時に、抱き上げて病院まで連れて行かれた、或いは背負って貰った時に、誰が問題起こしますか。エー。そんな事触らないでくれって、そんな事言ってる暇がないじゃないですか。服だってビッと裂くかもしれない、手術するのに。人がそこに居ようが何をしようが、必要な時はそう言う事するのでしょう。次元が違うのでしょう、要するに。問題にしてる処の次元が。今問題になってるのは、そう言う根本的なところまで手を差し伸べていないのでは。

仏道って言う事は、そう言う事まではっきりさせるんでしょう。まあ色んな社会の問題もあるけども、仏道が社会と別離してる様な事じゃないですよね。ずーっと見て来たけども。何一つ捨てる様なものは無い。全てきちんとその事によって学んで行くのでしょう。どうあるべきか。そう言う風に学ばせて貰える様な教材なんでしょう。日々の中。

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