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正法眼蔵を学ぶ

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自証三昧 Ⅱ

音声はこちら ↓

自証三昧_02_01
自証三昧_02_02
自証三昧_02_03
自証三昧_02_04
自証三昧_02_05



自らに参じ自らに従うの消息なり、「参自従自の消息なり。」本当に自らに参ずる。

自分自身の今生活してる、その様子に目を向けてみると、どうなってるかがはっきりするのですね。


「瞬目に相見するとき破顔あり、」これは先輩の話が挙げられてる。お釈迦様とそこにおられた迦葉尊者の間の

触れ方です。瞬きをした時、瞬目、それに出会った時にニコッと笑みを浮かべたって言う事がある。

「得髄を礼拝するちなみに断臂す。」これは達磨大師とその後を継がれた慧可と言う方の触れ合いの話

ですね。法を求めて達磨様の所に向かったら、中々相手にされない。それで自分の求法の志の深さと言うか、真剣さを身を以って

そこに示した、その壮絶な示し方、刀、持っていた切れ物で自分の手を切ってですね、命に代えてでも、って言う位の雰囲気です

かね。そう言う様子があって、達磨さんが口を開かれる様子があります。

そう言う事があって後にですね、真髄を会得する事が出来た。その真髄を会得した時の自分の内容を表現するのに、

達磨様を礼拝して下がられたと言う事が、ここに短く示されています。


「おほよそ七仏の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。」

沢山そう言う自分自身の真相に触れて、自分自身ではっきりされた人達がおられると言う事ですね。

一人や二人ではないと、じゃ沢山いるのかって言うと、それほどでもないんだけども、一人にあらず、二人にあらずですね。

「見他の知識、むかしにあらず、いまにあらず。」そう言う真相を本当に明らめた力のあるって言う事は、

昔にあらず、今にあらずと言う事はですね、時間の問題じゃないと言う事でしょうか。

自分自身の真相が展開されているのは、本当に昔とか今とかって言う様な時間で現す事の出来ない程親しく片時も離れた事が

ないのでしょう。今はじめてそう言う風な事に出合ったとか、昔からずーっとあるとかって言う様なものじゃないでしょう。


今度は「或従経巻」文字の方でしょうね。経本とかそう言う風なものになります。に触れた時です。

「或従経巻のとき、自己の皮肉骨髄を参究し、自己の皮肉骨髄を脱落するとき、桃花眼睛づから突出来相見せらる、竹声

耳根づから、霹靂相聞せらる。」
経典にどう言う事が示されているかって言うと、般若心経を見てもですね、

眼耳鼻舌身意、色声香味触法って言う風に出て来るのでしょう。各自、自分の在り様以外にないのですね。


一日中取り扱っているものを、見て御覧なさい。自分が取り扱っているのものを。何を取り扱っているかといったら、自分の眼に

映ったものを取り上げ、自分の耳に聞こえた音声を取り上げ、そうやって眼耳鼻舌身意、六官と言われる機能を、それぞれに

こうやって触れた時、それぞれの触れたものがこの身体の上に取り上げられる。

それ以外のものを取り上げてる人は居ないですね。それ位自証三昧でしょう。ねぇ。全部この上でやってるんですよ。

この上で取り上げたものを、これが(身体を示す)やってるんですよ。自分が取り上げたものをこの中で、これがやってる。

一切他の人がやってる事はないですよ。


それが皮肉骨髄を、自己の皮肉骨髄を参究すると言う事です。自分自身の在り様がどうなってるかって勉強するって、

学ぶって言う事、究め尽すと言う事です。コツンて叩かれたって、叩かれたって言う事は、このものの上にこう言う事が起こったと

言う事でしょう、こう言う状況が。それを自分が取り上げるのでしょう。叩かれなかったら、こんな事取り上げないじゃん。

なんで叩かれた、って言う様な事取り上げない訳だけれど、これに触れるとそう言う事が自分の上に出て来る。


それでどう言う風に、これが時間の経過の中でどう言う風になってるか、自分の事だから、皮肉骨髄を参究するとですね、

はじめにこんな事(コツンと叩かれた)があった事なんだけど、そのうち相手を見て、お前が俺を叩いたって言う風に見て、

何でって。そう言う風に段々この中で、全てこの中(自己の身心)にあるんですよ。向こうの人じゃなくて、この中で全部やって、

終いにはこの中が滅茶苦茶になって腹が立って、居た堪れなくなってって言う風な状況に成って行く事、

こうやって皮肉骨髄で参究する。


そうすると参究した結果どうなるかって言うと、ああ人ってこんな愚かな事をしてるんだなってよく分かるでしょう。

これは(コツンと叩いて見せる)これで終わったんですよ。分かるでしょう。これで終わったんですよ。

こうやって参究して行くんですよ。終わった後さっきのものを取り上げ始めて、段々熟して行くと言ったら格好良いんだけども、

糠漬けの味噌が腐っていく様な感じで、人間はつまらない生き方をすると言う事でしょう。


そう言う時に次に有る様に「自己の皮肉骨髄を脱落するとき」って。自分の身体、皮肉骨髄、認めてるもの

そう言うものがあるでしょうけども、本当に縁に触れてそう言う事が現象として起こる。

音がすると、ボン!ねぇ、躓くと、「あっ痛」そう言うな事が起こる。飲んだ、「アッチー」と言う様な事も起こる訳でしょう。

だけどそう言う時ですね、「自己の皮肉骨髄を脱落するとき」、自分の認めてた身体らしいもの一切そう言うもの

が無しに、音がしてたりものが見えていたり、熱さがあったり、痛さがあったりする。皆さん体験してる筈ですよ。

不思議ですね。いきなり出会いがしらにゴン!ってぶつかった時に、自分の身体がどうのこうのって言う様な事が出てきた試しが

無い。ガチン!あっ、って言って、それ位の事が起こるだけであって、向こうもこっちも身体らしいものが一切無い。

不思議な状況があるんですよ。


そう言う時の様子として、「桃花眼睛づから突出来相見せらる」これは霊雲と言う人が、中国の事ですから

桃花ですね、日本では桜の花になりますが、中国では花と言えば桃の花。桃の花の咲いている所を通りかかった時に、

花びらが風に吹かれて散ってる、そう言う様子の所へこう出合った時に、初めて仏祖方が体験をされた真相ですね、

ものの本当の在り様ってものを自覚された。


もう一つは香厳と言う方のお話が続いてでていますね。それは度々引かれる、もう眼蔵の中で幾度となくこの方達の話は

引かれています。まあ悟るって言う話をしたら、代表的にこう言う人たちの話が祖録の中にすぐ出て来る。

霊雲の桃花、香厳の撃竹とかって言う様になるんですね。熟語になってる位。竹声、竹に石が当たった音ですね、竹声。

それが耳にですね。「霹靂相聞せらる」って言うんだけど、どう言う風な音に聞こえるかって言う事でしょうね。


ここでは雷が落ちた様な音ですかね。本当に身も心も何もかも忘れる位、音だけがこうやって響く様な気配がこう言う文章から

感じられます。だからその時に音を聞いてるって言う人が居ない。人が居ないって言う事を本人も知らない。聞いてる自分が

すっかり無くなったと言う事も本人も知らない。そう言う様子ですね。

「おほよそ経巻に従学するとき、まことに経巻出来す、」この様にお経の本に示されてある通りに修行して

行くと、本当に先輩達が自覚をされた様なものがですね、自分でもはっきり体験する事が出来ると言う事ですね。


「その経巻と言うは、尽十方界山河大地、草木自他なり。」ただ単に巻き紙や草の葉に記した様な文字だけでは

ない。ありとあらゆる一切のものが経巻と言われる、真実を伝えてる。そう言うものでしょう。

諸法実相って言う様な事をどっかに言われてます。お釈迦様の師匠は諸法実相。諸法って言うものはありとあらゆる物、

抜け落ちるものが一切ない程全ての物を指すんです、諸法。実相って言うのは一々の在り様ですね。

そのものが正しくそのものを本当に示してるって言う事です。

それによって、そうやって生活する事によって、本当にものの真相がはっきりなさったのでしょう。そう言う事が僅かに文字に

起こされて残ってる。それが経巻と言われる、皆さんが思ってる物だけども、経巻の本当に真意、示そうとしてるものは、

そんな僅かな事ではないと言う事ですよね。


「喫飯著衣、造次動容なり。」もう一つ具体的に挙げておられる。まあ、朝から晩までやってる事でしょう。

それを挙げてる訳でしょう。この僅かな句で。だけど私共は、ご飯を食べたり、着物をきたりする様な事は、自分の真相をはっきり

させる修行の様子だとは、もう端から思っていない。修行するって言ったら坐禅堂に来て坐るとかそう言う風になっちゃってる。

エー不思議ですね。自分の真相を明らめるって言う事は、今こうやって生活してる事に用があるのでしょう、全て。

どれも疎かに出来ない事なんでしょう。その王様として位置するのが坐禅なんでしょう。ね。


「この一々の経典にしたがひ学道するに、」とあります。これ一々の経典なんですよ。

こうやって着物を着てとかって、こうやって(扇子を使う)皆一々の経典なんですよ。こんなの経典だと思わないよね、こうやって。

扇子で扇いでるだけじゃないのって。でも普通に言えば、これが自分の今生きてる様子でしょう、ねぇ。こうやって。

それだのに一方では、こんな事は修行の対象にならない。何ででしょうね。修行の対象になるのはもっと違うものだって言う風に

思い込んでる。で、自分の修行の対象になるものだけを取り上げてって言う風になるから、どんどん修行の在り方が祖師方の

示されているものとずれていくじゃないですか。

祖師方はこんなに丁寧に「この一々の経典にしたがひ学道するに、」って。

手を一つこうやって(手を動かして見せる)こうやって皆それを学んで行くんですよ。


「さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり。」もうこれで終わりって言う様な事ではない。

これだから楽しいし、面白いし、張り合いがあるのでしょう。エー。

誰かの書いた経典読んだら、それだけで終わってしまうんだったらつまらないでしょう。


日本の稲作ってすごいなあと思うんだけど。何百年もあの一枚の田んぼから、毎年稲が植えられて米が出来る。

あんな優秀な作物はない。そう思うね。普通連作とか色んな事をすると嫌うじゃないですか。お米ってすごいやつですね。

食べる時もですね、人間の方もそうだけど、あれあまり飽きの来ない食べ物ですね。(笑)すごい良いものですね。

私達の修行もこの自分自身だけを相手にして、生涯飽きの来ないものでしょう。


「是字の句ありて宛然なり。非字の偈あらたに歴然なり。」是とか非とかって言う文字ですね。句。言葉。

そう言う様なものに出合ってですね、又勉強が出来ると言う事でしょう。

挙げれば色んなものがあるけど、是の字の句とか非の字の偈とかって言う。


「これらにあふことをえて、拈身心して参学するに、長劫を消尽し、長劫を挙起すといふとも、かならず通利の到処あり、」



「是非を官することなかれ」とかあります。そう言う様な句もあるでしょう。坐禅儀の中にでもある。

色んなもの挙げれば良いでしょうけども、兎に角「これらにあふことをえて」。身心を拈じてとありますが、この身体を通して、

この身体を借りて参学する。一人一人この自分自身の身体を借りて学ぶしかない、勉強は。修行は。

音一つ聞くんだって、本当に自分の耳で聞かない限りは、音にならないんだから不思議ですね。聞こえないんだもん。

物一つだって、自分の眼で見ないと、見えたってならないんだよね。見えないんだよね、他人の目では。味一つでもそう。

自分のこの舌で味わわない限りは、味がしたとは感じられない。自証って言うんだけど、本当にこの自分自身に用が

あるんじゃないですか。他の人の事一切用がないじゃない、学ぶのに。


「長劫を消尽し、長劫を挙起すといふとも、」とある。早い人は早いけど、長い人は時間がかかると言う事です。

でも「かならず通利の到処あり、」って。必ずはっきりする時が来る。

だってパン!(扇で机を打つ)こうやった時に、こう音がしてる様子に徹底してなってるんだからね。

パン!だけどそれがどう言うことか、中々理解が出来ない、納得が行く事が出来ない。

そう言う時間がかかる人が居るってだけの話じゃん。


「放身心して参学するに、」だから身心を離れて、投げ打って、身心を離れ投げ打つと言う事は、

自分の考え方やものの見方って言うものを離れてって言う事ですよね。何時も話してる様に、全ての事物に人の見解はついて

ない、それが理由です。パン!向こうで叩いたとか、こっちで聞いたって言う風なものはついてません。

こうやった時に。パン!皆さんが音を聞く時に。パン!向こうで音がして、こっちで聞いたって

言う様な事パン!はついてません。耳に聞いてみるとよくわかる。パン、それだけでしょう。


だけど、それを聞いた後で、ああさっきの音より大きいとか小さいとか、遠い所で鳴ってるとか近い所で鳴ってるとかって、

パン!パン!
そう言う風に位置づけをしてます。そう言う風なものの勉強の仕方をしてるとものははっきりしなくなる、

と言う事が昔からあるじゃないですか。


「朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すといふとも、かならず受持の功成ずるなり。」

朕兆以前って、すごい長い、古いって言う事ですかね。昔からと言ってもいい、朕兆以前。兆しですね。朕、朕兆。

あるいは私らしいものが顔を出す前って言って良いでしょうか。

人間の見解を離れてみると、自分らしいものが顔を出す前の様子があるじゃないですか。


分るとか分らないとかって言う様な事の必要の無い確かさがあるじゃないですか。決める用がない、自分で。

正しいとか正しくないとか、それでパン!(机を打つ)良いとか間違ってないとか言う用がない。

そう言うものがパン!あるでしょう。こうやって。パン!パン!私が聞いてるとか言う用が

無いじゃないですか。パン!誰がパン!誰のパン!事だろうって、

言う様な事の全く用の無い世界でしょう。ねぇ。面白いでしょう。「かならず受持の功成ずるなり。」

受持って皆さん方のパン!在り様ですよ。パン!パン!パン!パン!

今戴いてる様子の中にこう言う事がはっきりしてるんじゃないですか。



「いま西天の梵文を東土の法本に翻訳せる、わづかに半万軸にたらず。」インドから持ってきた物をですね、

中国に来て翻訳、漢文にした、訳したものがある。それはここにある様に、「わづかに半万軸にたらず。」

それは持って来たものだけが辛うじて翻訳されるって言う事ですからね。そう言う事で良いでしょう。

「これに三乗五乗九部十二部あり。」色んな仕分けの仕方があるんだけども、そう言うものを三乗

あるいは五乗とか、九部十二部とかって言う風に言っております。伝えられた物の、図書館に並べる時に、どう言う風にして

種別して分りやすくするかって言う学術的な分野で、こう言う風な分け方が当時されているって言う事です。


「これらはみな、したがひ学すべき経巻なり。」そう言うものは何ひとつ疎かには出来ない。全て学ぶべきだ。

「したがはざらんと廻避せんとすとも、うべからざるなり。」どうしてかって言えばですね、経典に書いてあるって

言う事はですね、私達の日々の生活してる様子を、どうなってるかって言う事が辛うじて自覚できた人達が書いたものだから

です、ね。この方が量が少ないです。経典に書いてある方が量が少ない。


私達が自分自身の生き様って言うものは、ここに有る様にですね、「したがはざらんと廻避せんとすとも」

そんなものはって言って避けて通ろうと思っても、無理だと言う。絶対に自分自身の在り様って言うものは、手放しにほっぽって

知らん顔して通れる様なもんじゃないと言う事です。

そう言う内容を自覚した人達が経典として、皆さんに、後世の人達の修行する導きとして、どうあったら良いかって示唆をする

為に、要領よく遺したものが経典ですから、それはもう絶対学ばざるを得ない、とこう言う事でしょうか。


「かるがゆゑに、あるいは眼睛となり、あるいは吾髄となりきたれり。」なるほど、本当にって、そう言うものを

学ぶとですね、自分の力がある眼になったり、そして心底自分で安心が行くそう言う真髄が、自分で会得出来るような内容が

あるって言う事ですね。

「頭角正なり、尾条正なり。」何処もかしこも正しいと言う事ですかね。頭から尻尾まで。間違いのない。

一人一人自分の様子みて御覧なさい。何処から何処までも自分の様子ですよ。身体見て下さい。絶対。

他人のものは有りません。気に入ろうが入るまいが。病気になると要らなくなる所も出来るかも知れないけど、

それでも自分自身のもの。


「他よりこれをうけ、これを他にさづくといへども、ただ眼睛の活出なり、自他を脱落す。」いかにも他よりこれを

受けるって、まだこう皆物が見えるって言う時に、他より物を受けるのでしょう。物が見えるって言うけど、色んな事やってるけど、

それ皆他より受けた物ばかりでしょう。耳だってそうでしょう。色んな音が聞こえるって、皆他より受けたものばっかり。

味がするたって。ほんとに不思議。この身体は初めから何も持ち物ない。不思議な身体ですね。


で、そう言う体験をした事を、今度は人に伝えると言う事がある。「これを他にさづくるといへども」とありますが、

それは「ただ眼睛の活出なり、」自分自身、各自自分の眼の本当の生きた眼の働きではって、ねぇ。

「自他を脱落す。」自分の事とか相手の事とかって言う事は端から無いじゃないかって。

作り手が居ないんだからね。パン!こう言う風になる事だって、誰も作り手は居ない。


不思議ですね。世の中に生まれて来て、暫く経つと、こうやってやるとパン!パン!(扇で机を打つ)

こうやって世の中に出て暫く経つと、こうやってやると、皆、パン!パン!パン!パン!(連打)皆わかるじゃん。

不思議なものですね。それ位自他、自他と言うものを離れ切ってるじゃないですか。自分、この身体でさえ自分のものだって

言う様な事じゃないじゃないですか。一切自分のものの見方なんか無いじゃない。

物に触れるとその物によってそう言う風になるんだもん、全部。自分の方で何かやった事ないじゃん。パン!

こうやって音だってその様に聞くって言ってるけど、向こうの音がそうさせるだけでしょう。エー。それも知らないでしょう。自分で。

それ位自他って言うものを離れ切ってるでしょう。



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  1. 2018/08/03(金) 13:40:19|
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