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自証三昧 Ⅰ

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2018.5.19.

「諸仏七仏より、仏々祖々の正伝するところ、すなはち修証三昧なり。いはゆる或従知識、或従経巻なり。これはこれ仏祖の眼睛なり。このゆゑに、曹谿古仏、問僧云、『還仮修証也無(還修証を仮るや無や)』。僧云、『修証不無、染汚即不得(修証は無きにあらず、染汚することは即ち得ず)』。

しかあればしるべし、不染汚の修証、これ仏祖なり。仏祖三昧の霹靂風雷なり。或従知識の正当恁麼時、あるいは半面を相見す、あるいは半身を相見す、あるいは全面を相見す、あるいは全身を相見す。半自を相見することあり、半他を相見することあり。神頭の被毛せるを相証し、鬼面の載角せるを相修す。異類行の随他来あり、同条生の変異去あり。かくのごとくのところに為法捨身すること、いく千万廻といふことしらず。為身求法すること、いく百億劫といふことしらず。

これ或従知識の活計なり、参自従自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髄を礼拝するちなみに断臂す。おほよそ七仏の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見他の知識、むかしにあらず、いまにあらず。」


表題の自証三昧、ですね。修行をして頂いて、それぞれが自覚をなさると言う事がありますけども、そう言う内容は必ず自証三昧ですね。他のものによって証明されると言う事はない。必ず自分自身の真相によって、ものがどうあるか、真実がどうあるかって
言う事がはっきりするようになってます。

エー、そう言う事でこの巻、入っていきますが、「諸仏七仏より、仏々祖々の正伝するところ、すなはち修証三昧なり。」どの祖師方にしても、仏祖方にしても、どう言う風にして本当に救われて行ったかと言う事ですね。そりゃもう必ず正伝する処、正しく伝わって行く内容としてですね、他の人の身体で何か悟ると言う事は一切ない。それがまあ一つ、正しく伝わって行くと言う時の在り様でしょう。

で、修行する時にしても、気がつく、悟ると言う事にいたしましても、三昧とある、修証三昧とありますから、三昧、やさしい言葉で言えば、四六時中、一日中、切れ目なく、自分の真相から人は誰も離れた事がない、と言う事で良いでしょうかね。三昧。等持とかって言う風に訳されるのでしょう。等しく保つと言う様な訳になっているでしょう。

て言う事は、自分の本当に生きてる生き様そのものに、誰も居ると言う事でしょう。そっから外れた事は一人もいない、外れる方は一人も居ない。何時でも自分自身の生きてる真相に、それ以外の生き様が無いと言ったら良いでしょう。ですから自分自身の生き様、その真相に親しく居て、それがどうあるかって事をはっきりさせるって事が、祖師方がやって来られた道ですね。

その中に所謂知識に従うと言う様な事、あるいは経巻に従うと言う様な事がある。それは遺された、先輩方の体験したものが記されてる物が有りますので、そう言う物に従ってですね、修行の方法を学んで実践していくと言う事ですね。「これはこれ仏祖の眼睛なり。」目玉商品と言うよりは、その事を抜きにしてはですね、ものの真相を明らめる事が出来ないと言って良いでしょう。

「このゆゑに」だから、六祖大鑑慧能禅師を南嶽懐譲と言う人が訪ねられた時、その時に、最初に「何者か恁麼来」と問われ、答えに窮し、八年の歳月が過ぎようとする頃、その答えがが自分ではっきりした。それで六祖に「説示一物即不中」と提示された。これを見て取って、更に、『還仮修証也無(還修証を仮るや無)』そう言う事が自覚出来た、それは他人の力を借りるのかと。修証ですね、修行とか悟るとか言う様なものを借りて初めて、そう言う風な境地に到ったのかと言う様な事を、ちょっと探られております。六祖がね。

気がつくって、自分自身がどうなってるか気がつくって言うんだけども、人に教えられたから気がついた様な気がしないでもない。『修証不無、(修証は無きにあらず、)』修行するとか悟ると言う事ですね、教えられると言う事、導かれると言う様な事は、無い訳じゃない。だけれどもね、『染汚即不得(染汚することは即ち得ず)』皆さんのこうやって今生活してる事だってそうでしょう。

こう言う所にこう般若心経が写経したものが絵賛になって掲げてあります。(後ろの掛け軸を見る)眼、眼睛と言うものはですね、こうやるとこうなるって言う事は一応教える、皆さんに伝えている訳だけどもね、そうする、こうやってやると確かにこうなるって言うのは、皆さんも教えられた様な気配があって、なるほどとして分かる筈です。だけどもこの、こうやった時に(扇を左右に振る)こうなる内容はですね(扇を左右に振る)、別に祖師方から学んだからそう言う風になる訳ではないと言う事ですね。こう言う風になる、こう言う風に。こう言う風に生活してる。それ位本来の面目と言われる様に、誰からも貰う訳でもない。誰からも学ぶものではない。そう言う事が此処にあげられるのですね。

「しかあればしるべし、不染汚の修証、」これではじめて、安心するのでしょう、ね。誰からも束縛を受けない。紐付きってあるじゃないですか。何か欲しい、あの援助が頂けるとか、何かグループを作ると補助が市から来るとか。こう言うのを見るとね、気の毒だね。補助があるため自由にならない様な気持ちになる。

この前も相談された事がある。十人位のグループの中で、自分がその役が回ってきた。何で相談があったかと言うと、本当は抜けたいって言う、抜けたい。だからちょっと聞いてみました。それは皆が集まってずーっとやってる事を本当に大事なことで、続けて行かなければ困る様な内容なんですかって聞いたら、いや本当はやらなくても良いって言ってました。前の人がやってるから止める訳にいかないなぁって言う様な事でしたね。

止めたら楽になるでしょうったら、中々言えないんですね。補助金貰ってるのを自分の代で止めると、そこの中で何か雰囲気が悪くなるんですかね。一回止めると貰えなくなるって事もあるのですかね。私は止めて、自分達がもしやりたいんだったら、自分達だけで、人の補助を頂かなくて続けたら、何時でも止められるし自由でいいじゃないって言ったら、いや本当はそうなんですけどって言って。じゃ周りの人に話をして、二、三人同じ様な意見のある人がいたら、そう言う人とちょっと力を合わせて止める方向に行ったらって言ったら、いやそれが言い出せないって。可哀相だね。

「不染汚の修証」って本当に自分自身の生き様って、誰にも左右されないほど自由に元々出来てるでしょう。そう言う人に倣って下さい。仏祖と言う方々は、そう言う風な生き様をした人でしょう。そう言う処に仏祖の三昧「仏祖三昧の霹靂風雷なり。」まあ表現としては、思いもよらない様な素晴らしい働きがそこに展開されると言う響きでしょう、ね。

NHKの大河ドラマ西郷さまの何かやっている様ですが、ああ言う方々の生き様なども拝見して、仏祖三昧とは言わないかも知れませんけども、本来の自分の持ってる力が十二分に発揮される。そう言う姿を垣間見ますね。

「或従知識の正当恁麼時、」或いは知識に従うとありますが、知識と言うのは、あの人は知識人だとかって言う時にも使いますが、知識って、ものを正しく理解している力ですね。正しく理解してるって言う事が大事ですね。ただ単なる物知りでは知識じゃあないですね。あすこにこう書いてあった、あの人がこう言ってたって事を覚えてるだけですからね。そう言うのを単なる知識。こう言う処に使ってる知識って言うのは、ものを正しく本当に理解してる力です。

どんな風になってるか。その「正当恁麼時、あるいは半面を相見す、あるいは半身を相見す、」とあります。一々その通りだと言う事でしょう。半分とかって、半の字が書いてあるけど、それはさほど意味がある訳じゃない、ね。一々今触れてる通り。知識としてそこに在るものに触れると、その通りの事がそのままいきなり皆さん方の在り様として出て来るんじゃないですか。それが知識でしょう。

それが沢山書いてある。「あるいは全面を相見す、あるいは全身を相見す。」こう言うのでやってみれば分かるじゃないですか。(扇を開く)知識ですから、こうやると。こうなりますと言う事を、こう言ってるのでしょう。ねぇ。これ半身なのか(扇半分開く)、これが全身なのか(全部開く)これが半身なのかこれが全身なのか、まあ、要はそう言う事です。

要は色んなこと様子があると言う事です。一々間違いなく、その事がその通りだって言う事がはっきりしてるんでしょう。でただ単にですね、知識って言うのは、向こうに見えている、向こうで、私の方で開いたり閉じたり扇子がですね、皆さんの方がそれに向かうと開いたり閉じたりする様になるって言う様な程度の話ではありませんよね。それは皆さん方が自分の知った、学んだ知識の上でそうやって理解した程度の話じゃないですか。

何でこうやると、(扇を開く)こうなるんでしょう。仏祖方は何でこうなると、こうなるか知ってます。そう言う事を皆さんに伝えてます。皆さん方はこうやった時に、もう最初に向こうに在る物を見てるって言う風な見方をしてる人が多いんじゃないですか。それ位つまらない見方をするんですね、人間。言わんとする事が分かりますか。知らない内にここに自分を置いといて、物を向こうに立てて、そして触れてる様な生き様にしてしまった。

それよりも先に、今皆さんがこうやって生きてる様子見てごらんなさい。向こうに物があって、こっちに自分がいるなんて言う風に分け隔てをされた様な生き方を、今してないじゃないですか。もう一緒になって動いてるでしょうが、一緒になる前に全部が。対象物じゃなくて。本当に知識のある人は、そう言う風にものの真相をちゃんと伝えてる筈ですよ。

一般の知識は、今申し上げた様に、常識ですから、此処に私が居て、私がこうやってやると、皆さんがそっちに居て、私がやった通りにこう言う風に見えるって思ってる訳でしょう。で、ああ井上さんが扇子を開いたり閉じたりしてるなって、言う風な単なる受け取り方だから、自分の人生にほぼ関係ないと思う位、この事がですね、自分の人生と別な事位に思う位、愚かな事に変わってるでしょ。

だけど、知識のある人達は違いますよ。こうやってる事が、自分の今生きてる命そのものだって言う事を、こうやって伝えてるでしょう。それ位違うんですよ。「正当恁麼時」でこれだけ、あるいは全身或いは半身とか、或い半自、半他とかって、ねぇ、自他に対してもですね、自とか他とかってつけてますが、自分の様子他人の様子、こっちの様子向こうの様子とかって言うでしょう。そう言うものに対しても半とか言う様なものつけてます。

これは半という字をつけて皆さんに示すとですね、人間は面白いね。全と言う、全てと言う事を知ってますから、○で言うと半分しか見えない位にしか思わないですね。こう言う風に大体常識ってなってるじゃないですか。じゃ扇子を広げた時ですよ、これだけ広げたら半分しか広げてないのかしら。(扇を半開)もう少し別の言い方をしたら、これだけだったら人生が半分しか無いのかしら。自分の人生が半分しか無いのか、今無いのかしら。正しさが半分しか伝わらないのかしら、これだけやったら。こうやったら(扇を全開)正しさが全部伝わるのかしら。どっちにしたって自分の様子として欠けるものは無いのでしょう。そう言う処まで、人の様子をこう抉り出す力を持ってる。半って付ければ。知識の力って凄いですね。

「神頭の被毛せるを相証し、鬼面の載角せるを相修す。」まあ姿形の上でこう言う風なものを上げておりますね。髪の毛の或るやつですね。「神頭の被毛せるを」と言うのは髪の毛の有るのでしょう、ねぇ。それから「鬼面の載角せる」って牛とかああ言うものは、ヤギとか角があったりすると言う様な事で良いでしょう。一々そう言うものに触れると、その事がそのまま学べる様になってる。実物に触れる事で、実物がすぐそのまま自分の知識になる様になってる。ああなるほどって。

だから皆さん方が学ぶのに、文字に起こされた物を見て学ぶよりも、もっと確かでしょう。赤い薔薇って書いてある文字よりもですね、実際に庭に出て薔薇の色に触れた方がよくわかる。そう言う力は誰から学んだのでしょうかね。自証と言われる。誰かから学んで得たものじゃないでしょうね。但しその色について何色とかって言う表現、言葉として使ってるものは、修証はなきにしもあらずと言う様に、一応そう言う言葉を人間の社会では常套語として使って、お互いにある程度まで理解をする使い方をしてます。

だけどもそれだけじゃないですね。もっと確かなものが真相にちゃんと在る訳でしょ。そっちの方が本当は私達が触れたい方でしょ。ねぇ。それ誰もがやってるから、自分の事だから、自分の生活してるそのもので、こうやって親しく居たら、どうなってるかが皆自覚できる様になってるですね。

「異類行の随他来あり、」異類。様々な違ったものの中で生活するって言う事ですね。異類中行って事がありますね。その中に居てもひとつも他のものに左右されないで生活できる力を持ってる。悪人の中に居たら、すぐ悪に染まってしまうかって、どんな悪人の中に居ても染まらずに居れる力があるって、言う様な事があるでしょう。

ここでは「随他来あり、」他に従い来る。だから子供と遊ぶ時には子供と遊ぶ様になるし、老人組合に行けば老人組合に行った様になるし、ねぇ、若者の中に入って行けば若者に触れた様になる。山に行けば、山に行った様になる、風呂に入れば風呂に入った様にになる、言う様な事が異類行の随他来、随他来、ね。そうやって生活が成り立っている訳でしょう。

「同条生の変異去あり。」ここではなんと書いてあるんですかね。仏と同じ生まれ方をしながらと書いてあるね。「同条生の変異去あり。」何処からこう言う風になるのか知りません。仏と同じ生まれ方をしながらって言う様な事が付けられていますが。同じ茶碗一つ、皆さん見てもですね、此処に居られる方、この茶碗同じ茶碗一つ見てもですよね、「同条生の変異去あり。」それぞれ他人の見方は一切しないのでしょう。

百人居て皆同じ見方をしてるのかったら、そんな事はないでしょう。それぞれ他人の見方は一切しないんだもん。余所の人の見方は一切しない。不思議ですね。「同条生」です。それ自分の事だから、よーく触れて御覧なさい。これだけ沢山の人がここに居てもですよ、今色んな事をこうやって眼が開いてるから見えてるんだけど、本当に不思議だと思うのは、隣の人の見てる様子って一切無いんだよね。今日までずーっと生きて来てですよ、物を見てる、何時でも物が見えてるんだけど、一切他人の見方って言うものは出て来た事がない。

知ってますよね。そう言う事。エー(笑)自分の事だから知ってるでしょ。自分が今こうやって見えてる様子だけですよ、何時でも。それどの位すごい事かわかりますか。この事がどの位すごい事か、大事な事か。ちょっと屁理屈を並べてみればよく分かる。こうやってすーっと何時も物が見えてる時、自分の見てる様子だけだったら、何処でグタグタ言わなきゃならない事が出て来るんですか。

こうやって今やって御覧なさい。こうやって今見えてる様子だけがその通りあって、何にも問題ないでしょうが。どんなものがこうあったって、その通り見えてる。何ともないでしょうが。お前がって、言う様な事は一切起きない様になってる。皆さんが生活の中で問題が起きてる処はこう言う自分自身の真相に触れてないからでしょう。知らないからでしょう。自証。自からの在り様がどう言う風に本当になってるかって言う事を実証してないでしょう。自分の身体で。変ですねぇ。

耳でも皆そうですよ。自証だから、本当にこの自分自身の在り様だけですよ、一日中。見てごらんなさい。他人の様子は一切ない。
こうやって、隣にこうやって色んな人が居るって言う事が、それは他人の事を見てるのではないですよ。そこ等へんが皆さんには第一関門としてよく分からないのかもしれない。だってこれは自分だけど、これは余所の人じゃないかって言う処から見るのでしょう。だから当然見てるものは余所の人を見てるって言う風に思う訳じゃないですか。自分の様子だけだとは思わないじゃないですか。だから。

だけれども先程来話してる様に、こうやってる事が他人の見てる様子ではない、って言う事ですよ。それは分かるでしょ。余所の人が見てるって様子ではないって言う事はわかるでしょう。それどうですか。そう言う事が。そんなに難しい事じゃないでしょう。こうやってやって、ずーっとやって、余所の人が出て来るって事はないでしょう。皆自分の見てる様子しかない。

それだのにこうやってやった時に、自分の様子と人の様子がって言う風になるのはどう言う事ですか。あれは私の様子ではない、私の様子はこう言う事だって言う風になるのは、どう言う事ですか。何処かが狂っているのでしょう。

「かくのごとくのところに為法捨身すること、いく千万廻といふことしらず。」法の為に身を捨てる。法のために身を捨てるって言う事は、この事実によって、こう言う風な活動をしてる事実によって、生まれてから後につけたものを離れて行くと言う事でしょう。生まれてから後につけた知識によって、一般的に言う知識によって、人は色んな見方をするようになったのでしょう。自証と言われる自分自身の本証の在り様、そう言うものは、こうやって生まれてから後付けたものを離れる、事実によって自分の見解を離れる、捨てられて行くって言う事によってより明確になるでしょう。

「いく千万廻といふことしらず。」本当に時々刻々の中で、どれ位この真相に触れて、一々この真相に触れて、自分の旧見、昔から培ったものの見方、我見、偏見、邪見、そう言う色んなものの見方がある、それが全部改まって行くのでしょう。事実にふれて。自証三昧。自らの在り様に匡されて行くのでしょう。証明されて。そう言う事をしっておりますかと言う事でしょ。

「為身求法すること、いく億百劫といふことをしらず。」ただ身の為法を求める。知らずに、自分も知らずに、こうやって本当の在り様をですね、体感して行くんですね。そう言う事がこう行われていく。それで計り知れない内容でしょう。時間と量。ここでは劫って言うから時間的な長さを言うのでしょう。どれ位そう言う事が休みなくずーっと行われてるか。そう言う処に自証三昧と言う様な言われ方が、響きがあるでしょう。時々やるんだったら、三昧にならないね。休みなく、片時も休みなくそう言う事がずーっと知らずに行われてる。

だけど残念な事には、自分のものの見方の方からしかものを学ばない癖が有るから、こう言う自分の真相が展開されていても気づかない。修行するって言う時に、一番見ていて不思議なのはですね、あの自分の今思ってる事の方からものを学ぶんですねぇ。ものの学び方が仏祖方とは違う。仏祖方はそう言う事では修行にならない事をよく知っておって、それを散々やったけども、一向効果が無いって事をよく知っておって、初めから自分の考え方やそう言う中に起きてくる問題を追及するって言う事を、端からやらないのです。

じゃあ、後何が残ってるかって言ったら、そう言うことじゃなくて、今展開されてるこの真実の在り様そのものがあるから、ただひたすらそれだけにこうやって身をゆだねて、そこに親しく居て、どうあるかって事を、それによって自覚していく、証明されて行く。そう言う風な生き様をしておられる。それを私達に伝えてるんですよね。

もうちょっと違った言い方をすると、坐禅などをしていて色んな事がこう出て来る、気になる。そうすると気になる。もう気になったら間違いなく人間はですね、坐禅は出来ませんね。エー。何故かったら、気になってる事が相手になる。邪魔にもなったり、相手になったりする訳でしょう。これを気にならない様に静かにしたいって、そう言う思いから、それを相手にして坐って行く。それは考え方を相手にしてるだけであって、坐禅にはなってない。よくお分かりだと思います。

考え方で処理をしようとしてるって言う事があるじゃないですか。気になってる事を相手にすると言うのは。それ位すぐ考え方の方に、問題が生ずると気になることが出て来るとですね、見解を離れるなんて事はすっかり忘れちゃう。不思議なんですね。そう言う処、気をつけて戴くと良いと思う。こんな事がですね。祖師方のものを本当に正しく知った人たちが伝えてる知識ですね。「これ或従知識の活計なり。」知識の活計ってあります。粋な計らいと言う事ですかね。活計って。


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