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大修行 Ⅷ

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2018.4.21

講本の三百七十八頁の真ん中辺ですか。少し読みますね。

「仏祖の児孫としては、仏祖の法儀をおもくすべきなり。百丈のごとく、請ずるにまかすることなかれ。一事一法もあひがたきなり。世俗にひかれ、人情にひかれざるべし。この日本国のごとくは、仏儀祖儀あひがたく、きゝがたかりしなり。而今まれにもきくことあり、みることあらば、ふかく髻珠よりもおもく崇重すべきなり。無福のともがら、尊崇の信心あつからず、あはれむべし。それ事の軽重を、かつていまだしらざるによりてなり。五百歳の智なし、一千年の智なきによりてなり。

しかありといふとも、自己をはげますべし、他己をすゝむべし。一礼拝なりとも、一端坐なりとも、仏祖より正伝することあらば、ふかくあひがたきにあふ大慶快をなすべし、大福徳を懽喜すべし。このこゝろなからんともがら、千仏の出世にあふとも、一功徳あるべからず、一得益あるべからず。いたづらに附仏法の外道なるべし。くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず。

しかあればすなはち、たとひ国王大臣なりとも、たとひ梵天釈天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聴許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三宝の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈来して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。もし仏法の功徳を結良縁せんとおもはば、すみやかに仏法によりて出家受戒し、大僧となるべし。」


その辺まで読んで。エー読んでみると、世の中には慣例と言うものがあって、あるいは習慣、常識とか色んなものがあってですね、安易に物事の真意をあまり探らずに、事なかれでずーっとこう行くって言う様な事が沢山ある。そう言う中で仏法も気をつけなきゃならない事なのでしょうね。

そんなに難しい事はないから、それでいいでしょう。何か言わないといけないかな。エーどうしよう。読んだからいいことにしたいと思うんだけど。どっか言わないといけない事があるかしら。慣れてしまうと、ものの尊さとか、大事な感じがですね、失われると言う事もあるのでしょうね。慣れるって良い事の様だけども、恐ろしい面もあります。何時も歩いてる道だから慣れてるからいいかと思うと、躓いて転ぶ事もある。

それからここにある様に、大事なものに出会った時に、それを大切にする力があるかどうか。他人の言動に触れてもですね、他人の言動そのものに触れて、自分で心を打たれる様な、そう言うものに出会った時に、やっぱりここにある様にですね、心に響く様な生き方をしえてないとですね、ものは成就しないと思います。

「このこゝろなからんともがら、」とありますね。この心なからんともがら、自分は出来なくても、他人が立派な、あるいは素晴らしい事をしたら、そう言うものを見聞きした時に、それに感動する様な心、それを敬う様な心は欲しいですね。下手をすると、人の素晴らしい動きを見て、大勢の人が誉めると、それを聞いてけなす人がいる。何ででしょうかね。心が淋しいなあって思いますよね。自分は出来なくても、人がやったもので、一杯あるね。一杯ある。

身近な事だったら、前を歩いている人がちょっと何かしゃがんで物を片付けていく姿でもですね、感動するでしょう。そういう様な事柄は、ここ、心ですね。そう言う在り方は、本当に大事にすべきだと思う。それが無いのは、ここに述べられているように、説くこと、口で話すことは話すんだけど、実際にやらないと言う事ですね。

「くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず。」言ってはいるけど、実際何だろう、何かそんな様な言葉があるじゃないですか。言う事とやることが一致するとかしないとか言う様な事が言われますよね。そう言う事ですね。出来れば、口で言ってるだけで実が伴わないのは、やっぱりつまらないと言う事ですね。それは知ってるだけですからね。仏道って言うものはそう言うものではないと言う事がいいたいのでしょう。仏道は必ずこの自分の身心を通して実践がされなければ仏道の意味がない。知ってるだけでは。

そこで先ほどあった、先回あった狐の死骸を坊さんのお葬儀の仕方でお別れをすると言う事をお願いされた時に、それはすべきではないと言う事が、もう一度取り上げられている訳ですね。もし坊さんのお葬儀の仕方で出してほしいんだったら、出家受戒してお坊さんになって、どうぞお願いしますって言って、来なさいと言う事がかいてあります。実と、実際の内容と、そのものがぴったりかなうって言う事が色々な所で大事にされているのでしょう。

肩書きというものがあったりなんかして。肩書きは立派だけども中身が肩書きほどでもないって言う様な事になれば、肩書きはやっぱり用がないですねぇ。そう言うものでしょうねぇ。権威を、肩書きを大事にするんだったら、その肩書きに恥じない様な生き方をして行く事によって、肩書きがつけられた人達が守られて行くと言う事もある。そう言うのも現今の社会の中にも見て取れるとこでしょう。でその辺まででそこは大体終わっときますね。

次の処に行きますが、「今百丈、『至晩上堂、挙前因縁』。この挙底の道理、もとも未審なり。作麼生挙ならん。」どうして夕方になったら、前の因縁て言うのは、前の因縁は前の所見るとよく分かる。長いからやめとこか。前の因縁、ずっと今まで説いて来た処ですから、前に出てきますので、見て下されば良いと思う。

道元禅師はそれを取り上げて、それを取り上げる道理、何でそれを取り上げたのかって、もっとも未審なりって、よく分からないと言ってるんですね。「作麼生挙ならん。」作麼生挙ならん、だから。

「老人すでに五百生来をはり、脱従来身といふがごとし。」従来の身を脱すると言ふが如し、五百年生きて来て。それを受けてですね、「いまいふ五百生、」五百生って言うと、私達はこれ読んだ時に、五百年だ、今西暦2018年、随分昔だな、そう言う風に大体考えるんでしょう、ねぇ。そう言う事があるから、ここに出て来る様にですね、「そのかず人間のごとく算取すべきか、」と。私達が普段使っている様に計算をすべきなのかと。それとも野狐ですから、野狐の在り様としての計算の仕方があるのか。

例えば猫が何歳だと、人間で幾つ位だとかって言う様な計算をしがちじゃないですか。「仏道のごとく算数するか。」仏道ではどんな風に計算するのでしょうかね。人間、野狐。人間の計算の仕方と仏道の計算のしかたは違うのかな。一刹那に三千の生まれ変わりがあるとかって言う様な事も言うのでしょうね。それは科学的にみても、そう言う表現があるでしょう。一秒の映像を撮るのに、何千枚かのコマがある。ダーっと映写なんかの場合ね。そう言うな事が言われる。そう言う事もある。

「いはんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見することあらん。」野狐の眼がですね、百丈さんのですね、様子を正しく本当に見る力があるだろうかと。野狐は野狐の眼の見方であって、人間の目でものを見るのとは違うのではないかと言う事ですかね。「野狐に覰見せらるゝは野狐精なるべし。」それは野狐が見た世界の様子。野狐が見たものは野狐の世界の様子。「百丈の覰見せらるゝは仏祖なり。」百丈禅師、修行をされて本当のものの在り様がしっかり自覚できた、そう言う力のある人のものの見方と言うものは、仏祖と変わりがない。

それだから、悟りを開くとか修行をして、見性をするとか言う様な事の必要性があるのでしょう。先ほども出てた様に、口で仏法を説く事は別に悟りを開かなくても幾らでも説ける。それは例えば、旅行もそうですが、海外に行かなくても海外の事は幾らでも説ける、ねぇ。見て来なくても見て来た様な事は幾らでも説ける訳です。食べなくても食べた様な話は幾らでも出来る。でもそれはやはり実がないじゃないですか。本当に自分のこの身心、身体、心を通して体験したものでないから。

一番手っ取り早いのは、あなたそう言ってるけど本当に食べたの?、本当に行って来たのとか言われると、一発でギャフンとすると
言う事ですね。何だ、って言って、登ってもいないのに、登った様な話するなよって。食べてもいないのに食べた様な話してどうするんだって言う事になって、終わりですね。で百丈の様な力のある和尚さんになって初めて、仏祖と言われる訳でしょう。

で皆さん方も自分自身の事を自分自身の力でですね、はっきりさせるって言う事が出来れば、誰からもとやかく言われる必要はない。人がとやかく言って自分の中がぐずぐずっと崩れたり、揺れたり、よくわからなくなるって言う事は、そりゃ自分自身が自分自身の様子を本当に一度見てない、触れてないからだけでしょう。仏道ってそう言う事に用があるんじゃないですか。初めから自分自身には違いないですよ。

間違いなく最初から自分自身に違いないんだけども、他所にこの自分は居ないんだけど、それだのに自分自身の事をですね、ああじゃないかこうじゃないか、色々言われると、このものがこのものの中で、言われた事でギクシャクしたり、葛藤を生じたり、疑問が起きたり、苛立ちが起きたりするって事は、自分の本質を自分ではっきり見てないって言う事でしょう。これが仏道の仏道たる所以じゃないですか。仏道何をするかって、何をしたのか。どう言う事になったから、仏道と言われているのか。自覚そのものでしょう。自分の本心を。エーまあそう言う事があるから。

「このゆゑに、枯木禅師」注にもあると思いますが、芙蓉道楷禅師の法を嗣いだ方。芙蓉道楷って言う方は、他所の、眼蔵の中にどこかあると思いますが、干拓事業をした人かな。そして作物を作り、そう言う所を開いて民衆と一緒に生活をした方ですが。そのまあそう言う方の法を受け継いだ枯木禅師がこんな歌を残してる。

「頌曰」読んでみると、
百丈親曾見野狐(百丈親曾に野狐見る、)
為渠参請太心麁(渠参請せられて太だ心麁なり。)
而今敢問諸参学(而今敢へて諸の参学に問ふ、)
吐得狐涎尽也無(狐涎を吐得し尽すや無や。)


内容としては百丈さんがかって親しく自分の目で、目の前にいる野狐を見られたって言う事ですね。「百丈親曾見野狐」そしてその野狐・彼に、請われてですね、なにを請われたかって言うと、野狐身を脱したからお葬儀をしてくれって言って、坊さんのお葬儀をしてくれって言って頼まれたと言う事ですね。「太心麁」これは道元禅師がご指摘してる様に、エー頼まれたから野狐の葬儀を坊さんの形で送ってくれって言われたら、それを受けるなんて言う事が、「太心麁」と言う事でしょう。ものを知らないにもほどがあると言っていいのでしょう。そうやってこの方は指摘しているのでしょうね。

今敢えて皆さん方に尋ねますけども、「問諸参学」、エー狐ですね、「吐得狐涎尽也無」涎となってるかね。涎を全部吐き出すというのかね。「吐得狐涎尽也無」まあもうちょっと穿った言い方をすれば、腹の中を全部見せたかと言う事ですかね。

「しかあれば、野狐は百丈の親曾眼睛なり。」こう述べられている事をうけて、味わってみると、本当に狐はですね、百丈と其処で親しくこうやって触れている様子がある。そして「『吐得狐涎』たとひ半分なりとも、」ここ全部吐き出したかってあるから、半分なりともって言うのが出て来るのですよね。エー「出広長舌、」皆さん方、あの広く長い舌ベロですね、舌。それは何だろう、無限に喋れる力と言う事でしょうか。広長舌を出だす。

普段喋ってる時は、何気なく人と対応が皆さん出来てるじゃないですか。だけどもちょっと違った事を改まって尋ねると、急に自分の口がですね、うまく喋れなくなる。そう言う体験ないですか。普段あれだけ喋ってるから今日頼むよって言ったら、いやとても人の前では喋れませんって言う様な事があるじゃないですか。本来人って言うのは広長舌を出す様になってる。

道元禅師が、谷川の水がですね、夜坐ってる時に、ザーっと音が、途切れなくザーっと響いてる様子を、渓声山色の巻で広長舌といってますね。サラサラ、サラサラ、サラサラサラサラ、本当に淀みなくですね、立て板に水じゃないけども、もうザーっと一日中途切れなく、水がこう流れてる、その音が響いてる、って言う様な表現をしてっますが、人間もそうでしょう。

必ず、音が出る事だけじゃないね、広長舌を出だす。無言と言う喋り方もある。無言と言う喋り方は上手に聞かないと中々聞けない、ね。でも無言の方が重みがあるよね。ベラベラベラベラ喋るより。身体全体で人に今の様子を伝えてますからね、こうやって。目は口ほどにものを言い、とか言う様な事もある。目は口ほどにものを言う。別に喋るわけじゃないけど、目が合っただけで、そう言うな力もある。広長舌って言うのが色々な処にありますよね。

代わって一転語するなり、「代一転語なり。」一転語って言うのは、一言言葉を発して、その言葉によってですね、人が救われて行く様な、そう言うものですね。飛び込もうとしてる、命を失う瞬間、オイ!(大声で)ってそう言う様なものを聞いて、はっと振り返って救われると言う様な事は、まあ一番はっきりしてる一転語でしょう。悪い事をしようと思ってる時に、パンと手を叩いてねぇ。そう言う事もあるでしょう。物を、悪い癖があって、ちょっとこうやって(物を隠す)入れようとする時に、こうやって。そう言うのも一転語です。

「正当恁麼時、脱野狐身、」皆さんがつまらない事を、色々考えたり思ったりしてる時でもそうですが、「こんにちは」って一言声を掛けられただけでですね、今までああでもない、こうでもないって思ってたものがコロッと取れてしまう。不思議なもんですねぇ。ジリジリ電話が鳴っただけで、喧嘩してた様なものが、すっと納まってそこへ立って行く力があったり、兎に角そうやって野狐身を脱する力がある。つまらないものからね、抜け出す力持ってるでしょう。南無阿弥陀仏、一心称名、あれだって皆そうやって人を救う力持ってるでしょう。どうしてそうなるか分らない。

「こっち向いてごらん」、言っただけで、忌まわしいものからこう離れて行く力があるのでしょう。「美味しい物あるから食べに来ない?」皆、親の一転語でしょう。家庭の中で使われてる。「ありがとうね。」看病してもらった時に、看病された方が、ああ有難いなあって、いつもすみませんね、それで皆癒されて行く。あれ皆一転語でしょうなぁ。

「正当恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身なり。」本当にありとあらゆるものから、皆離れ切って私達は生活してるのでしょう。これを私達は参禅をする時に、自分の身心を通して、本当にそうなってる事を如実に体験する。考え方で整理をするのじゃないですね、修行って。先ほど来の事が一切ないんですからねぇ。

池の鯉がパシャッ、跳ねて音がするだけですね。本当に今までのものから全部離れ切って、今のこうやって、そう言う生活に人は居る。そう言う正当恁麼時ですね。今正に皆さん誰でも、本当はそう言う生き方をしてる。それが坐禅をしている時の自分自身に触れる坐り方でしょう。坐禅をして何かするのじゃないですよね。坐禅は本当に今の自分自身そのものに、こうやっている。

長く生きて来ようがですね、何をして来ようが、そんな事じゃない。今自分自身の様子にこうやって触れてみると、こう言う風になってるじゃないですか。何を取らなければ、何をどうしなければならないじゃなくて、必ず今の本当に活動だけが為されている。全身心を挙げて。それで完璧じゃないですか。他にやる事はないじゃないですか、何時でも。ながめる様な間柄ではない。

私達が問題にするのは、今、こうやってる時に、今こうしてる時の事をしっかり自分で出来ないから、何か何処かでもうちょっとちゃんと生きていかなきゃいけない様な気になって、それを後でやり直すとかもう一回とか言ってますけど、そんな事は無理です。そんなのは理想的な話であって、良さそうだけど、無理です。実質は何時でもちゃんと今やってるじゃないですか。やり変えなくて。いきなりです。

こう言う扇子一つだって、こうやって見てもらった時に、(扇を開いて見せる)いきなりちゃんとやれてるじゃないですか、この通り。ところが考え方は見えていてもですね、よく分らないとかって言わせるんですよね。それは見てないからです。見ていると言う事と読めるか読めないかって言う事とは違うんですよ、ね。こうやって字がかいてあったら、(扇子の字を見せる)こうやって見るとですね、字が書いてあるって分るもんですから、つい読もうとする。読もうとすると、読めない字が沢山出て来ると、分らないって言う風になるんです。見えると言う事とは違うんですよ。

見える方はですね、字が読めようが読めないが、読める人が居ようが読めない人がいようがでもですね、必ずその通り見えるんです。頭がいいとか悪いとかじゃないんです。学問があるとか無いじゃなくて、必ずその通り見えるんです。その事が大事なんです。
それが後で見える様になるんじゃなくて、パッと触れた時に、必ずその通りになるんです。音だってそうでしょ。パン!(打掌)音がした時必ずその様になるんじゃないですか。後でそう言う風になる事はない。完璧に何時も生活をしてるんだけども、人間は、「そんなことは」って言う風にして聞いてるから、パン!そんな事が何に用がある、パン!パン!

本当は違うんですよ。こう言う風にこの時に聞こえさえすれば、それで一切問題ないじゃないですか。だけどそう言う風にちゃんと聞かないもん。何言ってるんだろうってやるんですね。不思議ですね。聞くという中に理解をするって言うことを付けるんですが、それは全く次元の違う事ですよ。聞くと言う事と。

赤ちゃん達って言うか、小さい時は、それがごっちゃになってないから、パン!(扇で机打つ)こうやってやると、こういう風になってる。こうやってやると、(扇を開く)こういう風になってる。それを嬰児の行と言います。子供の行いを言ってます。
それは坐禅の時に使っております。子供の様になりなさい。

大人は違います。こうやった時に、パン!すぐ考え方に変えます。見せてもすぐ考え方に変わって行きます。赤ちゃん達はパン!こうやって音をきいたとも何ともない。知らないんです。パン!こうなってただけで、こうなってることさえも知らない、自分が。(笑)パン!そう言う風になってることさえも知らない。だけども、知らないけども、パン!こうなってますね。パン!こうなってますね。見てるとも見えたとも、全くそう言う事が行われないけども、間違いなくこうなってますね。それが人を育てて行くんですねぇ。人間の脳を育てて行く。不思議ですね。

そう言うものが脱と言われる字をつけてあるんですね。「脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身」それは正当恁麼時に行われている。今正に行われている事です。何処かでやるんじゃなく、それに皆さんが居てほしい。それに居るためには、坐って今の自分自身そのものにこうやっている必要があるんじゃないですか、考え方じゃなくて。パン!!(打掌)パン!パン!パン!パン!パン!パン!パン!こうやって坐ってる。パン!こうやって坐ってさえすれば、パン!いいじゃないですか。パン!パン!パン!こんなことを道元禅師がつけてますね。

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