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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 Ⅳ



音声はこちら↓

正業道支 四ー①
正業道支 四ー②
正業道支 四ー③
正業道支 四ー④
正業道支 四ー⑤


「かくの如くなるに」そういう生活をしているということです。「かくのごとくなるに」

ここで中国の昔話を引き合いに出されている。達磨大師から6代目の大鑑慧能と言う禅師様の話をですね、「曹谿古仏たちまちに親を辞し、師を尋ねる」慧能禅師はお母さんと一緒に生活をしておられた様ですが、お母さんを人に委ねて、そして五祖弘忍禅師の所に足を運んで行かれる。「これ正業なり」これが正しい業(なりわい)だというのでしょう。

短い話ではありますが、文献によると、慧能様の様子を一緒に生活している近隣の人たちが見て、お母さんを大事にしておられるのはいいけれども、あなたの今の内容を見ると、ここにいてはもったいないというのでしょうかね。あそこに弘忍禅師と言う立派な人がいるから、そこにいって、あなたが今得られた心境、そういうものを提示して教えを乞い、もっと人の為に成る様に生きてほしいって言うのが村民、一緒に暮らしていた人達の願いで、お母さんのことは我々が面倒見るから是非そっちに行ってくれって言って、送り出されているような内容があります。

まあそれは、それぞれその人のもってる素晴らしさが見出されると、今でも色んな職業でそうでしょう。あなたはこのまま埋もれたんじゃもったいないから、もっと本当にやりたいんだったら、ちゃんとした人がいるから、あそこの所行って学んでごらん、て言って応援してくれるでしょう。ましてや自分たちの親だったら、子供たちがそういう力があったら、何が何でも子供の為に何かして上げようって言って、そういう姿がどこにでも見受けられる。

街に行った時に、金剛経を聞いて、お経の内容にこう触れてもですね、「発心せざりし時は」ってあります。お経を読んでるのに触れても、例えばどんなに美味しいものを食べてもですね、気が付かないって言うことがあるじゃないですか。発心て言うのは、少なくとも心を開くとありますが、発心、自分自身の本当の有り様にこうやって目が向いた時、それ発心て言いますね。発心する、心を開くって言う。出発の発ですね。気づきがあるんですね、何か。ああなってみたいな、いいな、何で、何となく気を引かれる、何で私があの人に気を惹かれるんだ、どっかに心にそうやって気づきがある。

そういうことないが間は暫く、薪を切って、或いは束ねて、そういうものを背負って街に行って其れを売って生活の足しにしていた。「樵夫として家にあり」今までと変わらない生活を続けておられた。だけども、金剛経をきいて「仏法の薫力あるときは」お経を聞いて何か自分の中に気づきがあったんですね。

どういう風になってるかというと、金剛経の一節に「応に住する所なくして 而も其の心を生ず」と、そう言う文言があります。その辺のことを聞いて、自分自身の生活を振り返った時に、ああ自分自身の生活してることと、お経の中に言われていることは、全く同じだなあと感じたんでしょうね。お経ってこんなことが説かれてるんだ。こんなことが仏様が悟られた内容って言われてるんだ。何だ私が生活してる内容と変わらないじゃないか。じゃもう少しこのことを本当に勉強してみたいな、と言うことでしょう。

それで、「重担を放下して出家す」何が重担って言えば、父母を養うと言うのが子供の勤めですから、お母さんを投げ出していくって言うのは、一般的に言ったらひどいやつですからね。そういう肩に重荷があるじゃないですか。お父さんお母さんを送って生涯、それが子供の、一応当時の考え方でしょう。それを投げ出してですよ、出家した。

「しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまれることあたわずといふことを。」出家する人、沢山今もいますよね。自分の幸せだけを願って出家するわけじゃない、出家って。人々の本当の幸せを、どう在ったら幸せが得られるかって言う大問題、それを解決して、人にもそれを勧め導く、そういう様なものが出家の在り様でしょう。だから、そういう願いのある人は、世の中のあらゆる職業と比べた時にはるかに別世界の位置にあるんですよね、出家っていうのは。道元禅師もだから高く出家の在り様って言うものを評価しておられる。そういうなことが出ておりますけれど、「諸仏みなかくのごとし」歴史に残る人達を見ると、諸々の仏や祖師方は皆そうやって、在家の生活のままいた人はない。

「出家すべからずといふともがらは」そのままで良いじゃないか、在家のままで、やれんことはない、言う様なものを勧めるって言う事はですよ、「造逆よりもおもき罪条なり」いわゆる父母を殺すとかって言う様なのは、罪の中で相当重い、五逆罪と言って首を刎ねられる位の重い罪状になってるけど、それよりも重い罪だって言ってます。

お釈迦様のことを振り返って、こうやって取り上げてみればよくわかる。小国とはいえ、小さな国とは言え、一国の王子をして生れ落ちて、その国の興亡を占うような位置に育ってるんだけど、長ずるに従って出家を志した。従って留めようと思って、結婚をさせて子供ができて、手足に足枷をつけて、奥さんも居れば子供も居るからまさか出家はしないだろうと言う様なことでしょうか。ましてや一国の、後に国王になっていく。そういうものを釈迦は全部振り切って出家した。

当時は多分ものすごい酷評だと思いますよ。何が不満だって、先ず出てくるじゃないですか。生活としてあらゆるものが、すべて恵まれているのに、何が不満で、別にそういうものに不満があって出家したわけじゃないですよね。このままで居て、人が本当に幸せになるのにどうしたらいいかって言うことに対して、ひとつもきちっとした答えが見つからないでいる、そのジレンマの中から立ち上がった人でしょう。当時のインドを見ても、まだ仏教は無い。人が本当に救われる教えって言うものは、当時のインドにもまだ無い。そういう中で一人、奥さんと離れ、子供をおいて、国を捨て、地位名誉財産全てを投げ打って、一人修行に入っていく。当時は出家したとは言わない。世捨て人だね。

で、その社会の中で、立派に行をしていると言われる様な人の所に先ず足を運んで入門して、そこで修行していく、いろんな修行していく。だけど一向に埒が明かない。総なめに一応歩いてますね、所謂ベストテンに入る位の指導者のところ全て尋ねて歩いた。これ以上のものは無いと言う所まで勉強して、それでも満足がいかないから、そういうもの全てやめた。その時の批判なんてのは、「とうとうあれも堕落したか、」言う位酷評でしょう。それでもそういうものにめげず、一人菩提樹の下で坐り始めて、端坐6年といわれている、6年も。そういうのが出家の一番最初の在り様ですね。家を出た、家をはなれた、在家といわれる持ち物全部手放して行った。素っ裸になって行った。今まで身に付けた、学んだもの全部離して行った。お米の籾を取って、糠を取って、精米してって言う様なことですね。

お釈迦様はそういう風な生き方をして、私たちに指標となるものを残されたんですね。それが今日まで伝わっている。したがって、そういうものを踏み止まらせてやらせない、そちらの方に行かせない、縛って不自由にさして、自由にそういう修行が、或いは勉強ができないようにするっていうことは、非常に重い、罪になると言っておられる。

今日の私たちでもそうでしょう。一人一人が本当に自由に、どんなにでも勉強ができる、修行ができる、伸びていく力があるんだけども、ひょっとすると親や周りの人が、すぐ口を出して、「どうせあなた出来ないんだから、やめな」とか「この前もやったけど途中でやめたじゃないか」とかってそういって潰しにかかるわけでしょう。挙句の果ては、自分でもそういうことが起きると、段々、ああやっぱり俺もだめかな、やってもどうせだめかなって潰れて行くでしょう。それは非常に罪として大きいということでしょう。折角花が咲く力を持ってるのに、花も咲かせないでそこで枯れさせてしまう様なひどい事をしてる。人権の上で言えば、一番ひどい差別のいじめ方でしょう。パワハラとか何かいろんなこと言うけど、そんなものと比べものにならない位じゃないですか。このいじめ方って。しかも他人からいじめを受けるのでなく、自分で自分をいじめてるんですよね。皆持ってるのですよ、伸びる力。自分自身を救える力を。それを完成させる道筋を閉ざしてしまうって言うのは、本当に罪深いことだと思うね。また自分自身もそういう外圧に負けてですね、挫けてしまうようなことでも詰まらないと思いますけどね。

もうひとつ出てくる「調達よりも猛悪なりといふべし」って。仏様の弟子の中に、調達って言う人がいるんですね。俗に言う提婆達多と言っておられますが、異母弟、お釈迦様の異母弟。生涯対立してた人でしょうかね。お釈迦様のことを常に羨ましく思ってた。だから、ないがしろにして、どうにかして自分がお釈迦様よりも目立ちたいとか言う様な、そういうことを常に心がけた人だから、事ある毎に、命を奪おうとか言うような悪巧みをした、代表的な人として調達という人が歴史に残っています。提婆達多、そういう人よりももっとやり方が卑劣だとこういうのでしょうかね。

後、六群比丘とか色んなものがあります。下(脚注)にも書いてある。それに類した人を導く、統率していくグループが幾つか、その当時もあった。そういう人たちを総じてこうやって点検してみると、皆其の類だとこういってるのでしょう。だからそんなものと一緒に話をする必要がない。そういう所で話をしていてもですね、幸せにはなれない。ともに語るべからず、「共語すべからず。一生の寿命いくばくならず」まあ早い言葉で言えば何時死ぬかわからんということでしょう。

うちに最近来てる若い方が、まだ30そこそこの若い女性がいた。どうしたのと言ったら、「明日の事なんか考えてられません。今やらなきゃ次何時やるのかって最近思ってる」って。その位の若さでそういう人がいるのかね。本気になって勉強する。今、今を除いてやれる時なんかないって言ってる。どうしてそんなになったのかね、聞いてみたいんだけど、その位の気概を持っている人がいる。大事にしてあげたいなと思うね、そういう気持ちは。

「かくのごとくの魔子畜生等」と共に語るというようなことを、光陰むなしく渡ること莫れでしょう。つまらないことをつまらない仲間と喋ってる暇なんかないとこういってる。何時自分の命が終わるかもわからない中で。こんな風に自分の人生を感じる人はなかなか居ない。「無常」という話は知ってる、世の中を。無常感というものも持ってる人は居るけど、切実に自分自身がそういう風な立場でですね、生活、方向を向けていく人は本当にまれでしょうね。

死の宣告を受けてですね、それでも今日一日何となく終わっちゃうんだよね。そうじゃないですか。あと3日とかあと一週間とかあと一ヶ月あと一年とかって言って宣告をされてもですよ、その間本当に自分が何を日々していけば良いかって言うようなこと、本当に感じてですね、毎日を大事に生きていく人なんて、ほんの僅かですよ。殆ど今までの通りザーっと流れて終わっちゃうんだよ。人間てこんな弱いものですね、実行力において。

そういう中において、大先輩のお釈迦様という人は振り返ってみて、凄い人だなと思う。世の中全てを敵に回して一人立ち向かったんだ。自分の道を切り開くのに。どうあろうが。しかも80まで存命って、よっぽど堅固な自分自身に対する自己管理をした人でしょうね。今の様に色んな面で恵まれてれば、まあ80の人はザラですけれども、日本では。%呈示と一人一人の命の有り様は、全く別ものです。他人に変えられない命ですからね。確立が高いかあらと言って、必ずしも自分がその中に入れるかどうかはわからない。

「いわんやこの人身心は」人の身心は「先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。」今、道元禅師がここでお話をする時に、ここにお集まりになってる方々は、どこかで、先世て言うのは何処かでいいでしょう、何処かで仏法を見聞きしてきた。仏法がどういうものであるか、そういう風な中で育ってきたお互いじゃないか。「公界の調度なるがごとし」公に置かれた調度品のもののようだって、この身心、自分一人一人ですね、私のものではない、公のものだ、私が勝手に自分の思い通り使うようなそういう小さな存在ではない、とこう言ってるのでしょう。この一人一人の身心ていうのはそういう大事なもの。こういうことだって振り返ってみると、いつの間にか、私用物として我が儘にして、自分のことだけで窮窮として生きてますよね。

「魔族となすべきにあらず」まあつまらない仲間でしょう。悪魔とかって、別に言わなくても、魔と言う、人を幸せにしないグループでしょう。折角素晴らしいそういう中に育ってきたお互いだから、其の素晴らしいものは、そんなつまらないものにしてしまう、そういうことはすべきではないじゃないか。「魔族とともならしむべきにあらず」悪い仲間と毎日一緒に生活して、よからぬことを生業として生きるなって言うことです。するなって言うことでしょう。折角この世に生まれてきて、そういう素晴らしいことに出会ってるんだから、もっとキチンとした生き方があるから、そっちの方と歩みなさいと、こう勧めてくれてるんでしょう。

「仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。」悪狗って悪い犬って書いてありますから、つまらない人って言うことでしょう。ものの道理がわからなくて愚痴ってる仲間、そういう人の叫びやなんか。それを聞くと面白いもんだからね、人の愚痴ってるのを聞くとね、面白いもんだから、(人には変な処があって、他人の不幸を見聞して、自分の方がそれより良い生活してると)、ついそういうので一日過ごす訳でしょう。我々は自分でやるべきことが有るんだけども、回りからそういうのに触れると、本当にやるべきことよりも、今触れてる(思いの上で取り扱う)ことの方に気が向くもんだから、つい一日それで終わってしまう。

結構いいお年寄りの人がですね、スマホのゲームに嵌っている。何時間も。それだけの年の人でも嵌るんだよね、ゲームに。で、子供たちがそれやってると、そんなことしてって言って叱るんだけど、叱るだけの力はないね、自分で嵌ってますから。かと思うと、そこらへん歩いてる人が最近居るのでしょう、何か追いかけて。ポケモンですか、あれが人の本当に歩む人生なんですかね。もっとやるべきことあるでしょう。

でもあれで、生業が成立する業者も居る。あれを開発して世の中に出して売ってる、儲けてる人も居ると言うことでしょうかね。携わっている人もあまり良いことではないと思っているのかもしれないけども、売れるって言うことで、儲かるって言うことで、良しとしてる人のいるんでしょう。儲かれば良いんじゃないでしょうね。儲かると、自分の家庭生活が豊かになるから良さそうだけど、後で出てくるけど、邪命食というんでしょうね、そういうの。「悪狗と同坐同食することなかれ」まあこれ、普通に読んだら良いでしょう。

同じ様なことがもう少し述べられております。達磨大師のことですね。嵩山高祖大師。お隣のインドからですね、インドの国を離れて、お隣の中国に来られた。「仏祖の正法まのあたりつたわれしなり」とある。それによって初めて正しいものが中国に招来された。

「これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず」書いておられる様にですね。フリー(出家)だから出来るって言うことでしょう。どこにも所属してないから、単身で自由に中国に渡ってこれるんでしょう。一切の制約がない。出家だから、家のことも、家族のことも、そういうことにとやかくされることがないから、そういう身分にいるから、正しい教えを受け継いだものが、中国に渡ろうとすれば渡ってこれる。

「祖師西来以前は」達磨さんが中国に渡って来る迄は、「当地の衆生人天」ここで示す当地は当然中国でしょう。日本が入っているかどうかわかりません。「いまだかって正法を見聞せず」正しいものの在り方って言うのを見たり聞いたりすることは無かった。「しかあれば、しるべし正法正伝、ただこれ出家の功徳なり」本当にそうやって身を捨て家を捨てる。自由な境涯にいるからそれが出来るんだと。出家をしてもお寺に入ると、たちまちにお寺に縛られて。出家って言うんだけど、私たちは現況はそうです、お寺に縛られて。本来そうじゃなかったはずなんだけど。




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