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大修行 Ⅶ

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「一生の生を尽知せず、」自分の生きてる事なのに自分の生きてる内容がどう言う風になってるって言う事をしる、そう言う事がない。知り尽すって、「尽知」ね。今の事でさえも分からないんだもん、「尽知」する訳がない。

「しることあり、しらざることあり。」エー、今こうやって話をすると、パン!分かる処もあればパン!分からない処もあるでしょう。いいじゃないですか。それで勉強すれば。「もし身知ともに消滅せずは、五百生を算数すべからず。」それはいちいちその時にその事がそこで行われて、そのままきちっと終わってるって言う事があるから、あっ次の事が、又次の事がって言って数えられると言うのでしょう。

パン!音だってそうでしょう。音がしただけで、それできちっと終わっちゃうんだもんね。ポンと言うだけで終わっちゃうんだもんね。だからパン!こうやってパン!一回パン!パン!パン!二回三回四回五回ってちゃんと数えられる。これずーっと音が切れずにしてたらですね、何処までが一回なのって困るんですよね。そう言う事ないでしょう。全部きれいにそう言うになってる。

物を見るんだって、くっついてる様だけど、全部こうやって展開していく時に、前の様子からきれいに離れて、その通りこうやって展開してるから良いでしょう。線はないですよ。区切る線はない。だけど前の事みてるって言う事はないですよ。こうやって、(見回す)。これが絶妙ですね。本当にこう言う事を自分の事で、こう学んだらですね、何処をどうしたらすっきりするかって言う必要がないじゃないですか。すっきりしてるじゃないですか。このすっきりしてる生活の方に自分を置かないから。

顔面に物が見えてる事があっても、そんな事はどうでも良いって言って、何時でも暇があると色んな事思って、この前あすこでああだとか、これがどうだとか、そう言う事しか過ごさないんだもん、そう言う過ごし方しか。変じゃない。ボクシングをやってるジムのある人もあるけども、ああ言うリングに上がって闘ってる時に、この前向こうから打ってきたよなぁとかって、そんな風にして闘ってる人、多分いないよね。そんな事やってたら、もう一発でノックアウトされるね。エー、本当に今の様子だけを、相手にする以外にないんじゃないですか。どんなプロだって。もうそれ最低限、絶対それやらなきゃ無理でしょう。

だけど有難い事には、目を開けてると向こうの動いてる通りの速さがその通りちゃんと感じられるから良いじゃんね。何処に手が出てくるか、何処から出てくるかって言う事だって、ちゃーんと見てればその通り見える訳だから。あんなの教えられないよね、コーチがついてて。自分の目で見てればよく分かる。後はその速さに合わせて身体を動かすだけで、当たらない様に。それやらないと無理だよね。こうやったらああなるって言ってるだけじゃ、無理だよね。まあそう言うな事があるでしょう。

「算数することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。」計算が出来ない様だったら、あなた五百生、生まれ変わり死に変わりして五百回したって言い分だって当てにはならないんじゃないかって言ってる。「もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。」そりゃそうでしょう。狐は狐の力を持って知る以外にない。狐が人間の力を以って知るって事はない。そんな事をしたら、それは狐の様子ではないって、当たり前の事でしょう。

各自だってそうでしょう。人がああ言ってるって言う事をただ鵜呑みに信じていて、自分の力だと思ったら大間違いでしょう。だから修行するって言う事がどうしても必要。修行するって事は、この身体を借りて、この自分自身の身体をかりて、本当にどうなってるかと言う事を体感しない限りは、ものはわからないじゃないですか、言われたって。頭で理解してるだけじゃないですか。トマトを食べればトマトの味がする、林檎を食べれば林檎の味がするって、なるほどって。じゃ林檎の味はどんな味ですかって、食べた事のない人にはやっぱり無理だよ。ねぇ。食べると誰からも聞かなくても分かるでしょう。そう言う風に出来てるでしょう。

「誰人か野狐のためにこれを代知せん」代わって、人に代わって、誰かに代わってその事を知るんなんて言う事は無理。あなたは飲まなくても、私が飲んで味がどんな味がするか代わって飲んであげるからって言って、代わってくれるって言うかも知れないけど、それで味が分かるかって言う話です。無理だって言う。

「知不知の通路すべてなくは」知るとか知らないとか言うそう言う道筋が全てなかったならば、「堕野狐身といふべからず。」そりゃそうでしょ。野狐に堕ちたって言う事は、前の様子と変わったって言う事を知ってると言う事でしょう。何処がどの様に変わったのでしょうねぇ。不落因果って言った時に、不昧因果って言う言葉を聞いた時に、何処がどの様に変わったのか。皆さんの耳で確かめればよく分かるじゃん。不落因果、不昧因果、こう言う風に変わるのでしょう。変わりながら何ともないのでしょう。エーそれも大事でしょう。

「堕野狐身せずは脱野狐身あるべからず。」前の様子がどうなっているかって言う事があって、今の様子がどうなってるかって言う事があるから、こう言う事がはっきりする訳でしょう。今までは生活してて何かって言うと自分の中が騒がしかった、苦しかった、問題が一杯起きてたけども、今はこんなに何ともなくすっきりしてるって事が自分で分かるから、ああって、救われたとか言う事になるんでしょう。迷ってないとか言う事になるでしょう。幸せだって言う事になるのでしょう。

それが分からなかったら、無理ですよ。それがなかったら修行したってしょうがないです。今までのまんまだったら。しょうがないじゃない。すっきりしない、苦しんでいる生活ののままだったら。それが離れられるって事、不思議ですよね。しかも何もした訳でもない。ただ自分の本心を、本来の自分の在り様にこうやって目が向いて、なるほどって気がついただけで、何もしなくても良いって言う風になるって言う事が、実に不思議ですよね。

例えてみれば、自分の財布の中開けてたら、お金が入ってたのを見て、ああって一変に何か金持ちに成った様なもんでしょう。じゃあどうしたのかったら、誰かから貰ったのかったって、そうじゃない最初から持ってたんだけど、気がつかなかっただけで。エー、そういうもんでしょう。気がつかないって、こんなに成るんですよ。気がつくとこんな面白くなるじゃん。あと自由に使やあいいじゃん。

「堕脱ともになくは」落ちるとか抜け落ちるとか言う様な事が両方ともなければ、「先百丈あるべからず、」昔はこうだったって言う様な事はないじゃないかって言う。今まではこうだった、昔はこうだったって言う事は起きないじゃないかって言う。そりゃそうでしょう。「先百丈なくは今百丈あるべからず。」前はこうだったから今はこうだって事があるでしょう。「みだりにゆるすべからず。かくのごとく参詳すべきなり。」だから先輩達が立派な人かもしれないけども、そう言う人達の言ってる事を安易にそのまま受け取って良しとするんじゃなくて、本当に自分でよく噛み砕いて学ばないと、とんでもない事になるよとおっしゃってる。

「この宗旨を挙拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、ままにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。」今勉強して来た様な内容をですね、取り上げて、自分の事だからそれで、長い間、これ中国の歴史の総称でしょう。この辺が南朝とか北朝とかって、中国の沢山、国が、小さな国が沢山ある頃の時代の話でしょうね。道元禅師が中国に渡る頃までの間が、その間にままに聞こえる間違った教え、謬説、誤った説き方、正しくないものの理解と言うものがその中にあるから、それを自分で勘破して行くべきだと言うのですね。見破って行けって。

一番人間が陥りやすいのは、人につけた肩書きで大体ものを評価するじゃないですか。あれはもう最悪でしょう。自分の力で、自分の力で本当に触れてみて。だから一言言葉をその人に発してみれば大概わかる。どの位の人か。怖がってやらないだけじゃない。自分に力がないって、勝手に自分で思ってるから。あるいはそんな偉い人にこんな事言っちゃいけないんじゃないかって、そうやって思うから本当の事言わないだけじゃない。

本当の事言ったら良いじゃん。向こうの人が偉い人だったら、どんな事言ったって、そんな事で崩れる様な人は本来居ない筈だからね。赤ちゃんがお母さんに吠えつく様なもんだからさ。幾ら吠え付いたって、お母さん屁ともない筈なんだけど、その赤ちゃんの様な我々が本当の事言って、こうやって投げかけたら、親の方が震えが来ておしっこを漏らす様だったら、大した事ないって言う事でしょう。肩書きに偽りありと言う事でしょう。

だから、人の見てる前で、ものが判断されるって言う事、人は怖がるじゃないですか。裁判所の様な所で裁判する時には、放映は許されないでしょう。今でもまだスケッチは許すけども、動画や写真撮ったもの外に公表はしないでしょう。あれを公表すべきだって言う意見もあるでしょう。そうすると本当の事が誰が見ても分かる。ああ言ってるけどもって、その身体全体から発してるものでわかるんだよね。これからそう言う風な時代がくるのかも知れない。それもこないのかも知れない。

仏道の上においてはそうあるべきでしょう。だから必ずこうやって相対して修行する時にやってますよね。独参でもそう。お互いに何も隠すもの無い。全部されけ出したままぶつかってる。上下ではない、修行する時に。学ぶ。

もう一下り。「老非人また今百丈に告していはく、」こっから又内容が少し違う。「『乞依亡僧事例』。」乞う亡僧の事例に依って言う事言ってます。狐の身を脱したからって言って、そこに裏山に行ったら、狐の死骸があったって言って、それを持って来てですね、お葬式をするのね。その時に、この狐のお葬儀をするのに、お坊さんのお葬儀の仕方に倣って葬儀をしてほしいって、頼んだ訳ですね。それに対しての問題点です。

「この道しかあるべからず。」それはものの道理として違ってますよと言うんですが、どの様に展開して行くかね。「百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。」狐のお葬儀をするのに、お坊さんの葬儀の様にしてくれって言われた時にですね、ハイッて言ってそのままお坊さんの葬儀で狐を送ったって言う事に対して、多くの今までの方々がですね、善知識、立派な人たちはですね。この話を聞いて何にも自分の中に、それ変じゃないかって言う様な気さえも起こさなかったって言うんでしょう。驚きもしない。

「その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。」先ず一つはですね、死んだ狐はお坊さんかって言ってます。見てごらん。死んだ狐坊さんじゃないじゃないか。エー。「得戒なし、」お坊さん達は受戒を受けて、戒律を受けて出家して、それを守って行く。狐は大体そんな事したことないじゃないか。エー、それから「夏臘なし、」って言う事は夏、まあ四月から九十日位を一夏といって夏の修行期間になってる。それを夏臘と言います。一年一回夏の修行が九十日、冬の修行もある。年に二回九十日ずつ冬と夏の修行期間がある。夏臘は夏の方ですね。そう言う修行した様子もないじゃないか。

さらに「威儀なし、」エーお坊さんとしての衣をつけるとか言う様な事も、食事の仕方とか、坐禅をしたとか、一切ないじゃないか。「威儀なし、」「僧宗なし。」お坊さんとしてのやるべき事を、色々ありますが、そう言う事一切してない。「かくのごとくなる物類、」そう言う死んだ狐って言うのはそう言うものなのに、「みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の事例に準ずべきならん。」

今この社会だって在家の人のお葬儀の方法とお坊さん達の葬儀に仕方は判然として違いますよね。あるいはお坊さんの世界だけじゃなくても、皇室の葬儀と一般の人も違うでしょう。私も死んだから皇室と同じ様に、ああ言う葬儀にしてくれって言ったら、だれがやるんでしょうか。そんな事はありません。お金を一杯出すからって言ったって、それは無理です。そう言う問題とは違うでしょう。そう言う事を上げてみるとよくわかるね。

「死優婆塞、死優婆夷、」男の在家の信者、それは優婆塞ですね。それから優婆夷は女性の信者です。現代では信士とか信女とか居士とか大姉とかって言う様な分け方をしていますね。そう言う在家の方々がもしお願いする事があれば、「もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。」もしそれが狐の葬儀をするのに、坊さんの葬儀に準ずる事が出来るんだったら、今もそう言う風にお願いしたら出来るんじゃないかって、皮肉をちょっとこめて言っておりますが。

「依例をもとむるに、あらず、きかず。」そう言って頼まれても、それを聞き入れもしないし、やらないじゃないか。「仏道にその事例を正伝せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」仏道ではそう言う事は、過去から現在まで一つの事例もない。「おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」そう言う気持ちがあっても無理だって。もしそう言う風にやってほしいんだったら、得度して出家すればすぐ坊さんとしてお葬式出しますよ、と言ってます。

「いま百丈の『依法火葬』すといふ、これあきらかならず。」文献には百丈がそうやって頼まれてですね、狐を火葬にふしたって、その火葬にふす時にお坊さんの事例に倣ってやったって言う様な事を書いてあるけど本当かな、どうかなって言ってるんですね。「これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、至菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。」お釈迦様の時代からずーっと見て来るにですね、そんないい加減な事は一つもやった事がないとおっしゃってる。だからそう言う事が書いてあるけども、これは間違いじゃないかって。

「岩下の死野狐、」山の岩場の所のどっかにですね、死んだ狐がいる。「岩下の死野狐、」「たとひ先百丈の自称すとも、」それが昔の百丈の姿だって言うかも知れないけど、「いかでか大僧の行李あらん、」狐にそんな立派な坊さんとして修行した気配が何処にあるかって言っているんですね。「仏祖の骨髄あらん。」ましてやお悟りを開かれた、真理を見極めた、ものの真相を本当にはっきりした、そう言う様な人の様子はどこにも見当たらないじゃないか。

「たれか先百丈なることを証拠する。」それが昔の百丈禅師の亡骸だってって、何をもってそう言う事を言ってる。何処にそれをはっきりさせる証拠があるのか。ないじゃないかと言ってるんです。「いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を驕慢すべからず。」これが道元禅師のこの取り上げた文献に対する見解ですが、こういうものが幾つか今でもあるでしょう。誰か立派な人が言ったから、そのままそれを間違っていても踏襲して行く。それでは駄目です。

私等も近年になって人権の勉強をする機会があって、人の中に差別がある。立派な人と立派でない人がって言う様な、日本に根強く残ってる文化がある。そう言う事が指摘されて、今日もまだいるとおもいますが、人の語らいの中に悪戯にそう言うものが消えないでいるよね。大変な問題ですよね。あの人は、あの家はって言う様な、そう言う見方をするでしょう。こう言う勉強なんですよ。今話して来た事は。こう言う間違ったものの見方、改まらないのが幾つもある。

仏教って言うのはそう言う事をきちっとさせなければいけない事でしょう。それで自殺する人もいるんだからね。そう言う見方をされて。結婚が出来なかったり、就職がうまくいかなかったり。こんなに世の中が進んでるのに、まだそう言う事が、そう言うものの見方が根強くどっかに残ってる。改めなきゃならんこと一杯あるね。まあその位で。(2018.3月分終)
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