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大修行 Ⅵ

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この前、もう一つニートになってる子供の話を聞いた。優秀な子だった様で、大学の二年の時に、お友達同士が何かイザコザがおきた時に、自分が中間に入ってその人達を何とかなだめてあげようと思って入ったんだけど、最終的に両方から苛められたって。エー、それで自分がおかしくなっちゃったんだね。大学二年の時から、学校行かなくなってしまった。それから家に籠るようになって、人とも会いたくない買い物にも行けない。最近は物を食べなくなった。

本人の口から、あと一年位しか持たないかなって言う位の危険な言葉が出てきたみたいで、おじさんになる方が、家へ、まあそう言わずに遊びに来なって、自分の家に来たらゴロゴロしてりゃ良いからって、来るだけ来てごらんて言って話したらですね、幼い頃からずーっと可愛がって貰ってた人なんでしょうね、心を許してその方のお家に足を運んで、一週間位ゴロゴロ、ゴロゴロして、ご飯の時なんかでも多少話しをしたりなんか、暇があるとしてた様ですが。

この子がですね、こう机の上に置いて在る物に触れた時にですね、「あっ」って言ったそうです。あっ!って。如何したのかなって思ったら、「見てなかった!」って。それだけですよ。「見てなかった!」それだけで、今までのニートになって、自分、一つも動けないようなものが全部取れた。自分で。不思議。「何か自分の、色んなものが、付いてた様なものが全部落ちた気がするって、言ったそうです。

もうその日から普通に生活出来る。ご飯食べると美味しいって。今までは味がしない。自分で買い物に行ける様になった。一人。私がその話を聞いたのは、そうなってから一ヶ月位後の話なので、その一ヶ月間、そう言う状況がずーっと続いてるからですね、まあ元に戻る事はないでしょうねぇ。何でそうなるんですかね。これ位人間が悩んだり苦しんだりしてる事はですね、とんでもない事をやってるからなる訳でしょう。

これ、普通は向かったら、ちゃんとその通りみえるんじゃないの。向かってちゃんとそのものが見えるんだったら、正常ですよ。エー。ご飯食べたら味がするって、正常ですよ。何で食べて味がしないんだろうねぇ。何でそこにこうやってると、誰か何か私の事をどう思ってるんだとか、お化けみたいのが一杯出て来るって言う事は、正しく今の在り様を見てないよね。見える事とは違う生活をしてるって言う事でしょう。それが自分を苦しめたんでしょう。

もう聞いてみりゃ大体そうですよ。とんでもない事を一杯頭の中へ描いてるよ。音がすると誰か私の所へ、何か言ってるように聞こえたとか、そこら人が通ると、俺の事を観察しに来たとか。兎に角そうやって被害妄想ですよ、皆。こうやって物を見てる時に、被害何もないじゃないですか。誰からも苛められない、ちゃんとした生活が出来てるじゃないですか。不思議ですね。

そのおじちゃんとはもう三十年位つき合ってる。オームの問題が発生した頃、東京で出会った方です。あっちに行かなくて良かったって言ってる。仲間の中にはあちらに勉強に行った人が居る。で、自分の所でそうやって親戚の子がですね、そう言う体験をしたものをこうやって目の当たりに触れてですね、この話してる事がですね、もっと自分の中で確信を得てますね。本当にこう言う事で人が救われるんだって。皆さんが考えてる修行とは全然違うでしょう。仲間と一緒に、在家の方ですけど坐ってます。又一段と「よしっ」って言って、これ一緒に皆で坐らなくっちゃって言ってましたから。その事が自分にとって大きな影響がある。

「大修行の瞞他不得なるあり、撥無因果なるべからず。」本当にそう言う事が現実にあります、皆。幾つもそう言う事が。気がつくってすごいですね。もう一つ上げてあります。「『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。」

不昧因果と言う事はですね、因果の道理をはっきりしている人だから、それだからそう言う狐の身体になった様なものから抜け出せるんだって言う風に理解してるって言うんでしょうね。これが二つ目の昔から、この大修行の話について伝えられて来ているものの理解の仕方です。

道元禅師、これもおかしいよと言って、指摘してる訳ですね。「まことにこれ八九成の参学眼なり。」十分でないと言う事ですね。「しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。」エー狐のままと言う事ですね、「遮野狐精」それから「現野狐精」、狐のままの自分の今様子がここにあるって言う様な事が、ずーっと書いてありますが、ものの道理としてこう言う事を見とく必要があるんでしょう。

言葉を聞いて、その言葉の意味してるものが理解出来たから人が救われて行くって言う様な事ではない。その証拠に皆さん色んな日常の中だって、言葉を見たり読んだり聞いたりしてですね、その内容が、意味が分ったら楽になりますか。例えば、人は争わなければ穏やかに居れるって言う様な事を言われて、ああそうか、本当にそうだよなって言って、それが理解出来たら争わない様になるのかしら。実践(修行)の中に現成するのでしょう。理解の中に争いの無い世界が出現するのではありません。

そう言う風に理解してても、後ろからいきなりコーンと叩くとですね、この野郎!って言って腹を立てるって言う事は、どういう事でしょう。理解が出来てたら一切そう言う事は起きないのかって言うと、そうじゃないって事よく分るでしょう。猫でもですね、ご飯食べてる時に側に行くと、もうちょっと餌をやろうと思っているのに、カッと言って噛み付く。食べてる時には側に行かないのがいいね。取られると思うのかね。何かすごい勢いでピッと来るね。面白い、見てると。言葉によってどうかなる訳じゃないね。

ここはそう言う風にとってるんでしょう。「大修行の超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。」修行してる、本当に修行してる人、そう言う内容がよく分かるから、それでそう言う騙されない人になるとか言う様な風に受け取ってるけど、それは違うでしょうね。

「迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。」百丈山と言う山は二つも三つもある訳じゃなくて、ずーっと最初からその山一つなんだけども、お釈迦様がいる時とその先輩として迦葉尊者が、お釈迦様のお師匠さんになるのかな、迦葉仏さんのいた時の山の様子と皆違うのでしょう。

皆さんだって、この身体一つだって言うんだけども、昨日の自分と今日の自分で、二つある訳じゃないんだけど、ねぇ。それが曽身今身と言う様な事でしょう。自分の今の様子、こう照らし合わせてみるとよく分かる。確かに一つの筈なんだけども、昨日の自分の様子もあれば、今日の自分の様子もある。全く違う。だけども、そんな違う事が理解できるんだけども、厳然として今こうしてる様子しかない。エーこれが面白いんじゃないですか。厳然として、今こうしてる様子だけじゃないですか。

ああも思える、こうも思える。円通寺にいた時の様子もあれば、自分の家にいる様子もあれば、お店に行ってる時の様子もある、歩いてる時の様子もある、色々あるんだけども、分かる、そう言う理解も出来る。理解も出来るんだけども、親しく自分にこうやって目を向けてみると、やっぱりこうやって、そんな事じゃないなって。今こうやって居る様子以外にない。これさえあれば良いのでしょう。今こうやって居る様子さえあれば。

これ以上に何かあったら困るんでしょう。エー。困ろませんか。今こうやってる自分の様子以外に、もう一つ自分の何か様子があったら、困りませんか、皆さん。有難い事にこうやって、今こうやっている様子だけだから、何にもする用がないじゃないですか。何処も第一ズレがない。エー。ズレが無いと言う事は、この中で不平や不満が起きない証拠でしょう。不平や不満が起きるって言う事は、今こうやってる事とズレるものがあるって言う事でしょう。

さっきの坊やみたいに、こうやって物を見て、ほんとにそうやって物が見えてると、この通り見えてるだけで、今までああじゃないか、こうじゃないか、あれもこれもって思ってた事と全く違う、自分の生きてるものの様子にこうやって触れるのでしょう。ああこんなにちゃんとしてるって言う事なんでしょう。

「日面月面」て言うのは、日月って、今日とか一月とかって言う意味でしょう、ね。仏様には、日光菩薩、月光菩薩と言う風にこう言うもので出来てます。本当にその後もある様に、「遮野狐精、現野狐精するなり。」って、今申し上げてる通り色んな様子があるかもしれないけど、よーく触れてみると、何時でもどうもする訳じゃない、今こうやって生きてる様子が一つも欠けた事がない。それほど完璧に生きてます。

これから手を付けないと本当に今生きてる様子にならないなんて事はない。何処で人間はそう言う事が触れられない様になるかって言うと、見た瞬間に色んな事が、思いが出てくると、その思いの方を相手にするからでしょう。目の付け所が違うのでしょう。思いは本物じゃないですよ、見てる物に対して。聞いてる音にしても、思いは音そのものを聞いてる事とは違いますよ、思意って。それで見てる様に思ったり、聞いてる様に思ったり味わってる様に思ったりしてる。

本当にこの五官ないし六官で生活してるものにはですね、自分勝手な思いなんて、一つもついてない。そう言う風にして過ごすのを、私達は大修行と言ってます。大修行って言うのは寸時もそこから離れない。ズーっとそう言う風に、基本的にはそう言う生き方をしてるじゃないですか。してるんだけど、考え方の方に目を向けると、すぐ何かしなきゃ治まらない様な気になるでしょう。それ修行してないからでしょう。「修行」って考える事じゃないもんね。考え方で何か自分の思った様に、都合のいい様になる事やる事が修行じゃないもんね。

でも一般に町を歩いていて修行ってどう言う事かって聞いてみると、100%そっちが修行ですよ。エー。間違いなくそっちが修行ですよ。考え方の上の話ですよ、殆ど。お釈迦様が体験したこう言う内容が中々正しく伝わってない。それはここで道元禅師が取り上げられた様に、先輩達がですね、往々の如くとかって言う風に、古来とかって言う風に取り上げたがるけど、先輩達も、お釈迦様の修行してこられた内容を、修行して来てる筈なのに、こんなに間違って捉えられているって言う指摘に聞こえませんか、これ。

もっと今度色んな事が出てきますよ。「野狐いかにしてか五百生の生をしらん、」狐がどうして自分が五百回も生まれ変わっている身だって知るんだろうって。エー。狐にそんな力があるのかって言う事でしょう。「もし野狐の知をもちゐて五百生を知るといはば、野狐の知、いまだ一生の事を尽知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。」狐の知恵をもって五百生を知ると言うんだったらって言うんですね、狐の知る力、知ですね、「いまだ一生の事を尽知せず、」それではものは分からないのじゃないか。言いたい事は、人間の知る一生と狐が知る一生って同じなのかね。エー、そう言う事でしょう。

犬の目で物を見るのと、人間の目で物を見てるのと、トンボの目で物を見てるのと、蝶ちょの目で物を見てるのとは、色んなものがありますけど、見て御覧なさい。人間の目で見てるのとは違いますよ。だからあれはトンボの目だとかって言うのでしょう。同じだったら人間の目だって言いますよ。エー。

「一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。」本当に狐だったら狐の見方だけなんでしょう。皆さんだってそうでしょう。他人の見てる見方の中に入って行った事がないじゃないですか。これだけ沢山の人が居るんだけど、何時もこれも話す、一生自分の目で見てる様子だけですよ。不思議ですね。一切他の人の見た世界の中に入っていかない。それだのに、他人の見てるもの気になる、何だろう。要らん事じゃないですか。ズーっと生涯自分の眼で見てる様子だけしかないのに、どうして他の人の事が気になるんでしょう。

他の人の耳で聞いた音なんて無いよ。全部自分の耳で聞いた音だけだから、疑うなんて事は起きないよ。はっきりしなくなるって事は一切無いよ。で、聞いたものが、ああだこうだって言う風な対象にはならないよ。必ずただその通り、その通り聞こえる様子に生きてるだけです、何時も。それ位他のものの中には入って行かないよ。

「野狐はかならず五百生の堕を知取する公案現成するなり。」って言うのは、今申し上げた様に、皆さんだって本当に自分自身の生き方ばかりじゃないですか、生涯。今日一日の事だって、見てごらんなさい。本当に何処から何処までもこの身体の活動してる様子ばかりですよ、自分自身の。それ以外の事は一切やってない。言い分としては、ああ、あんな事あの人やってるって言うんだけど、あの人あんな事やってるって、先ずその、そう言う事の時に、それは自分が見てる様子なのでしょ、先ず。人の眼で見た様子じゃなくて、自分が今そのものに触れて見てる様子の中で、見た後に自分の中で、あの人はあんな事してる言う風に置き換えたんでしょう。人の事の様に。違いますか。

その辺が物凄い大事な事なの。そう言う風に置き換えると、腹が立ってくるじゃんないですか。問題になってくるんでしょ。だけど、全部自分が本当に見てる様子ですよ。あすこにあんな物が置いてある。自分の見方が付くのと、本当にこうやって触れた時に見えてる様子とは、この位違うじゃないですか。本当に見えてる様子の中に、一切問題ないよ。どの様な事にこう触れて見ても。

だけど常識とか色んな、生まれてから後に学んだものが自分の中に巣くってて、そう言うものを通して見る様になると、見てる事と違う。そう言うものが人間が見てると思ってる。そのために、そう言う風な色んなものを沢山、生まれてから後身につけて、優秀な人に成ったと思ってる。いかに自分の言ってる事が、人から責められる時に正当かって言って言い負かす力がある人が、世の中では優秀な人だと言われてるんでしょう。エー。だからそれを言い負かすだけの力のある弁護士の方が勝つのでしょう。真実がどうであるって言う事じゃないよね。まあそう言う事もあるでしょう。

「公案現成するなり。」って本当に自分自身の事だから、本当に自分自身の様子が、今どう言う風になってるか。修行するって、それだけじゃない。今、目に触れた時、何でその触れたもので腹が立たなきゃならないの。今耳に触れた声が響いた時に、どうして問題が自分の中で起きるの。それだけじゃない、生活してて皆さんが現実、何処を手をつけたら良いかって言うのは。触れて見ると、最初は絶対問題なしに生活してるよ。先ずその通りに見える、その通り聞こえると言う事からしか始まらないんだよ。

よく見てみると、その後にそれに対して自分の見解が起きる。見解が起きると最初に見えてる事なんかどうでもいいんだよ。エー。それ位人間はものを見ない。すぐ本物から目がそれて、自分の見解を起こしたものを取り上げて、どうこう言う様になってる。それだから修行にならなくなるじゃないですか。

こうやって、パン!(打掌)聞いてみたら分かるじゃん。パン!パン!パン!パン!パン!だけど音がして音が聞こえるの、こうやってて、そんな事が何の修行になるって思ってる人沢山いるんだよ。だからやらないのよね。パン!こんな風にしてないよ、やっぱり。修行ってそんな事じゃないと思ってるから。幾ら教えても、言ってる事変じゃないの、パン!こんな事やって何になるんだろうって。

それよりも教本の一頁も読んで理解した方が良いって。どっかに正法眼蔵の何か辨道話かなんかに、そう言うな質問があるんじゃないですか。ものを知らないとそうなる。坐ってるよりもそうやって理解出来る事やった方がよっぽど良いと思ってる。これはそんな事とはたち(性質・内容)が違う。

時々人の話を聞いて、なるほどなぁと思うのはですね、よく分からないのに、その自分の中にですね、確固たる信念をもってるんですね。不思議ですよ。例えばこう言う話。坐禅をしても中々無心になれません、てよくおっしゃる人が居る。ねぇ。で私が意地悪だから、「あなた無心になった事があるんですかって。」「いや無心になるって事が如何いうことか、自分が体験がないから分からない」って言ってるんですよ。それだのに坐ってて中々無心になれませんって。これ如何いう事を言わんとしてるんでしょうね。

少なくともこの人の頭の中には、こう言うものが無心だって言うもの持ってるから、そう言う、坐って中々無心になれませんって言ってるんじゃないですか。そう言う意味合いですよね。だけど、つついてみると、自分で無心て如何いう風になるか知らないんですよ。知らないのに、自分で勝手に無心になれませんって言って。だからこっちが幾ら教えても、入れないよ、自分の中に。

もう自分の中に確固たる無心に対するイメージがちゃんと出来てて、一つもこっちの話えを聞かない。これで修行がうまくいかないんですよ。こう言う話を聞きに来てくれる時でも、下手をするとそうなってる。だからそれをクリアーするのに、三年位って私よく言うは、黙って何回でもただ聞いてるとですね、初めて素直に聞ける様になる。

初めは必ず自分の見解が出て来る、聞くと。あの人あんな事言ってるけどって。何言ってるんだろう、よくわからないなあ。よく分からないと言う事は聞いてないということです。パン!聞いてごらん、こんなによく分かるでしょう。パン!どこが分からないの。パン!此れの。

それは何だろう、何を言わんとしてるんだろう、何を示そうとしたるんだろうって言う風に考えはじめると、パン!こうやった事分からなくだけの話じゃないですか。エー。このはっきりしてる事に学ぶのでしょう。だから坐ってパン!こうやって坐ってればはっきりしてる様子があるから、それに学ぶとすっきりするのでしょう。他の事をする用がないじゃないですか。


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