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大修行 Ⅴ

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2018.3.24

出ましたかね。374頁、中間の段落のある所から。少し読みます。


「また往々の古徳、おほく不落不昧の道おなじく道是なるといふを競頭道とせり。しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に体達せず。かるがゆゑに、堕野狐身の皮肉骨髄を参ぜず、脱野狐身の皮肉骨髄を参ぜず。頭正あらざれば尾正いまだし、老人道の『後五百生堕野狐身』、なにかこれ能堕、なにかこれ所堕なる。

正当堕野狐身のとき、従来の尽界、いまいかなる形段かある。不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なる。いま山後岩下の一条皮、那裏得来なりとかせん。不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。堕脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。

しかあるに、古来いはく、『不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜堕す』といふ。この道、その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみにありて『不落因果』と道取すとも、大修行の瞞他不得なるあり、撥無因果なるべからず。

またいはく、『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。まことにこれ八九成の参学眼なり。しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。」


その辺まで読んで。この大修行の巻きに取り上げられている教材って言うか、話題と言うか、ものは、ざっと申し上げると、昔洪州の百丈山に、狐がですかね、野狐身、狐の身体をしたものがあるのですけども、一人の老人がですね、百丈禅師の所に出て来られた。そして話をされるのですが、その話の内容はですね、私は普通の人とは違うと言う。如何いう風に違うかって言うと、今は狐の身をしてると言うんですね。そんな人は、まあ居ないのでしょうけれど。で、どうしてその狐の様になったかって言うと、昔この山に居た時に、修行者が尋ねて来られた時に、私がその人の質問に対して答えたものがですね、因果に落ちず、と答えた。そうしたら、その事によってその後五百生とあります、五百年とは言いません、五百生。五百回生まれ変わったと言う事ですかね、普通に言えば。そう言う風な時間を過ごして来たって。

それで、是非この狐の身に堕ちてしまった私をですね、今目の前にいる百丈禅師、一言何かをお答えを戴いて、それによって元の身に戻れないもんかと、こう言う事なんですね。そう言う様な話で、その時に尋ねたら、百丈禅師がですね、不昧因果とおっしゃった。そしたら、昔の五百回生まれ変わっていた野狐の身から元の身に戻ったと言う様な一連の話がずーっとあるんですね。まあ何だろう変な話ですね。

でも此の話はですね、長い間、道元禅師が中国に渡って勉強をする修行をし、或いはお師匠様について学ぶ以前の人達もですね、この問題はずーっと扱って来た、そう言うな教材でもある。だけども、その人達のものを改めてこう紐解いてみるとですね、変な所が一杯あると言うのですね、道元禅師。で、そう言う話から行くのですけどね。一段の話は此の前終わったのですが。

「往々の古徳、おほく不落府不昧の道おなじく道是なるといふ競頭道とせり。」古徳って言うのは、昔の先輩、立派な人達がどういう風に見ておられるかって言うと、不落因果、不昧因果、不落不昧と言うものはですね、内容は別に違わないと言ってるんですね。

道是と書いてあるけど、「道是なるといふ」ね。是というのは是非の是だから、よしとすると言う意味ですね。頭を競いと書いてある。「競頭道」どちらが素晴らしくて、どちらがつまらないと言う様なものの無いのに、同じ様にその内容があると言う事に気付かず、競い道い分を主張している。多くの人達が。

それで、「しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に体達せず。」そう言う人達の言い分を見てると、不落因果不昧因果というものが実際にはどう言う風に内容が成ってるかって言う事が明確でない。

「かるがゆゑに、」だからと言うことですかね。だから「堕野狐身の皮肉骨髄を参ぜず。」野狐身から逃れる「皮肉骨髄を参ぜず」、要するにものの真相はどちらにしてもはっきりしてない、とこう言う事です。

エーものの真相がはっきりしていないという事、もう一つ言い換えると、頭が正しければ、尻尾まで正しいと言う事ですね。頭から尻尾迄、全部本物と言う意味合いですね。頭正尾正、身体のどっか一部でもですね、贋物がくっついてればですね、これ全部正しいと言う事にはならないじゃないか、と言ってる訳ね。ブランド商品て言うのがあるんでしょうけども、ボタン一つでも違うとですね、その商品は全部立派なものと言いえなくなるのでしょうけど、そう言うな事です。ほんの一部の、毛一本でも贋物が付いてるとそれは駄目って言う事でしょうか。

それで先ほど話に出した、老人の言われる、「老人道の」、 老人が言われる『後五百生堕野狐身』 と言うことですね。それが、「なにかこれ能堕、なにかこれ所堕なる。」どこが狐、狐の身に堕ちたとか、或いは所堕だから、どこが狐の身体になった所なのかと言う様な事が、道元禅師が細かく指摘しておられます。まあ言ってごらんと言う事でしょう。はっきりしてるんだったら。

「正当堕野狐身のとき、」今正にですよ、狐の身に変わった時、堕した時、従来の今まで世の中のありとあらゆるもの、尽界がどの様な形をしているか。普通に話をすればですね、自分が例えば病気をして、今お腹が痛くてしょうがないって言う様な身体になった時も、それ野狐身に堕したと言って、別に変わりない話でしょ。今迄の健康な身体が病気になったと言う様な事が、あなたの身体でおきた時にですよ、よく見ると、自分以外のありとあらゆる物の様子がですね、それによって何かどっか変わったかと言ってるのですね。

あるいはもっと酷い事を言えば、相対してる人に対して憎らしいと思った時にですよ、世の中のありとあらゆるものが一変に全部憎らしい姿に変わるのかと言う様な事です。そんな事はないのでしょう。こう言う事が皆さんが日常の中で勉強しなきゃならない事でしょう。知らないと、頭にきたって言うと、何もかも叩き壊さなきゃならない様な気になる人が居るでしょう。本当にそんな風にありとあらゆる物が邪魔になってますか。そんな事はないでしょうね。こう言うな事がここら辺でみて行きたいのでしょうかね。

「不落因果の語脈、」話の流れって言うか、文脈と言うのでしょうね。語脈って文脈。話の流れ、内容、そう言うものがですね、不落因果の、因果に落ちないと言う事です、不落因果ってねぇ。因果に堕ちないって言うのは、次にも出てくるんだけども、撥無因果に似ているって言うんですね。因果なんかのものにですね、左右されない。もっと一番酷い事を挙げれば、どんな悪い事をしたって、それによってどうって言う事ないじゃないかって、そう言う風な見方をするって言う事を、撥無因果って言ってます。
因果の道理っていうのは絶対になくならない。そう言う確かなものです。だけども不落因果って言って、そう言う言葉を聞いてですね、丁度因果をないがしろにする様な聞き方をしてるんですね。

皆さん方、落ちないって言ったら、木に登っていて落ちないって言ったら、そこにずーっと居るって言う事でしょう。不落ってそう言う事を上げたら分るでしょう。風が吹いてきても、木が折れても、その木にぶら下がってる時、例え木が折れても自分は落ちないって、そう思ってるんでしょう。そんな事はないでしょう。自分がぶら下がっている木がですよ、折れたらですよ、自分は絶対これに掴まってるんだから落ちる訳がないと思ってても、ストンと落ちるんですね。本来そう言う風に出来てるものです。

だけど人間て考え方ってそう言う風に思うのでしょうねぇ。一回憎らしいと思うと、何回会っても、その人の顔を見ただけで憎らしいと思う様なものでしょう。そんな風にはなってないのでしょう。どっかのお店に食事を取りに入ったって、その時に、食べた時に、あまり美味しくないって思った人は、会う度そこのお店の所を、その前を通ると、このお店は美味しくないって言う。面白いですよ。このお店美味しくないからね。何時食べた味だよって、言いたいじゃにですか。こんな風にして人間はつまらない生き方してるんですよね。そう言う様な誤ったものの見方の一つにはなるんでしょうね。不落因果。

エーまあそれはそれとして、「なにとしてか五百枚なる。」五百生と言ってる事を指します。一枚二枚って言うのは、一回二回と言う事と同じですね。五百生と言う事は、死なないとですね、一回死なないと一生二生ってならないんですね。一回死んで生まれ変わって来るから、二生目。物だってそうでしょう。こうやって見た時に、(掛け軸を見る)一回ずつきちっと終わるから、二回三回見た、四回見たって、こう言う風になる訳でしょう。ね。そうやって数える訳ですね。

「なにとしてか五百枚なる。」今皆さん方がこうやってやった時、これ今何回目の物の見え方なんですか。(笑)何回目の物の見方したんでしょう。何処から数えるんでしょうか。こうやって見た時。エー何回目って言う時、何処から数えるんでしょうか。そう言う風な事が、こう言う問題の中にある。なにとしてか五百枚って。あなた五百生って言うけどもって言ってるんですよ。何回目ですか。(笑)何処から数え始めたんでしょう。

これすごい勉強でしょうね、こう言う勉強は。何時でもその時初めて、それで一回で終わりですよね。次にやる時はちがうもん、全然。こう言う事がよく分らないから、前に見た物が何時までも気になってる。腹が立つのでしょう。あの時ああ言ったじゃないかって。確かに言ったかも知れないけど、こうやった時に、あの時ああ言ったじゃないかって言う様なものが何処について出て来るのでしょう。やってみると分かる。そんなものは何処にもついて出て来ない。でもものを知らないとそう言う風になってると思うんです。

エーまあその辺で行くよ。「いま山後岩下の一条皮、那裏得来なりとかせん。」何処から来たのものとしようかって言うのは、今申し上げた様に、今皆さんがこうやって見て頂いた何回目と言う様な事です。何処から来たのだろう。何処を基準にして何回目と言ってるんだろう。

パン!(打掌す)この前も聞いた、今日も聞いた又聞いたって。パン!言うのでしょうね。何処を基準にやるのでしょうかね。何時でもよーく自分自身のこう生活してる在り様を見ると、沢山な事がある訳じゃない。何時もすっきりしてる。今生活してる様子が本当にあるだけですっきりしてる。見て下さい、触れて下さい、必ずそうなってるから。

「不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。」耳で聞いてみればよく分かるでしょう。皆さんの耳で確かめてみるとよく分かる。不落因果って言うと必ず不落因果って、そう言う風に聞こえる。不昧因果って言うと、必ず不昧因果ってそう言う風に聞こえる様に、これがコロッコロッとちゃんと変わるじゃないですか。そうならない人はここに誰も居ないでしょう。

ところが人間はこう言う言葉を聞いてですね、その中の言葉の意味を探ろうとする。それを聞く事だと思っている。殆どそう思ってます。知識のある人は間違いなくそう思ってる。本当に聞くと言う事はですね、音ですから、その通り聞こえるだけって言う事ですよ。ピアノを叩いてみたってそうでしょ。その音がしたらその通り聞こえるだけです。誰だってその通り聞こえるだけです。

だけどそこに自分の、音を聞いたものに対して、自分の感情とか気持ちとか、そう言うものを付けてですね、ああいい音だとか気持ち良いとか寂しいなあとか楽しいなとか、そう言う風な聞き方に変えてるじゃないですか。それは音じゃないよねぇ。音を聞いてると言う事とは違うじゃない。こんな話すると眠くなっちゃうかな。

「堕脱ありといへども、」その様にですね、聞いた通りに違う事が分かるでしょう。「ア」って言って言われて聞くのと、「イ」って言ったものを聞いた時に、同じ様に聞こえる人なんか居ないじゃないですか。だけどもこれが「ア」と「イ」と言う発音出した時、争うって言う事はないでしょ。そっちが正しいか、こっちが間違ってるとか、それが本当でこれが、と言う事はないでしょう。いずれにしてもその通り、ただどちらもその通り正確に聞こえるだけであって、何と言う事はない。

こんなに穏やかに、生活が人には出来てる。これが皆さんが毎日生活してる根底にあるものですよ。それを皆さんが自分で、なるほどって見届けたら良いじゃないですか。そう言う自覚の道ですよ、仏道って。そうすると人は変わる。不思議ですよ。そう言うものがですね、「なほこれ野狐の因果なり。」と。人の本当の原因結果として活動してる因果の道理なんです。

否応なしに、「ア」って言ったのと「イ」って言ったのと、自分で変えるんじゃない。手を付けて変えるんじゃないけど、いきなりそうやってコロッと変わっていく。もしこれがその通り変わらなかったら、幾らこちらで声を出しても、皆さん方には正しく聞く能力は無くなりますよ。ところが皆さん方の身体って言うのは、こちらで「ア」って言えば、必ずそう言う風に聞こえるし、「イ」って言えば必ずそう言う風に聞こえる様に、無条件でそうなってる。こんなに上手く生活が、仲良く生活が出来る様になってる。一切争った事はない。どうしたらそう言う風に素直になれるかって言う様な問題じゃない。物を見たってそうでしょう。そこにある物を見たら、必ずその向かった物の様に見えるんでしょう。自分の方でその様にしなくても。やってごらん。こんなに上手く出来てるじゃない。

自分の思う様にならない、ならないって言ってるけども、大体この身体自体がですよ、最初から自分のものじゃないんだからね、言っとくけど。このものが、ね。そんなつまらないもんじゃないんだよ。自分の思う様にならないでしょうが、最初から。見て御覧なさい。これずーっと見てて下さいよって言って(ものを見せる、)守らせといてもですよ、私がその前にすっと行くとですね、そのまま見てる様にはならない。

自分の、これがもし自分の身体だったら、自分の思い通りになって良いじゃない。なる筈じゃん。絶対そう言う事は見ないって決めたら、自分の思い通りの、身体が自分のもんだったらそうなるだけど、自分の思い通りにならないって事は、この身体自体が最初からそんな小さなものじゃないって言う事でしょう。もっと大きな働きしてるじゃん。公な。自分の好き嫌いなんかで使う様な道具じゃない。

もうちょっと行きますよ。「しかあるに、」この様な今の様な状況があるんだけども、昔から「古来いはく、」どう言う風に昔の人達が伝えて来てるかって言うと、「『不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜堕す』といふ。」

自分が百丈山にいて、修行者から尋ねられた時に、不落因果って言ったら狐の身体になったって言うんだけどもって言う話があって、その不落因果って言う言い方がですね、丁度因果の道理をないがしろにしてる様な内容に似ているから、だからそう言う風なつまらない、人間から狐の身体になってって言う風に理解してるって言う事ですね。古来からそう言う風な理解をしてると言う事ですね。

この話の中には何の真意もないと言ってる、道元禅師。エー、「この道、その宗旨なし、」こんな事を言ってる人達の話の中に、何もものの真相がはっきりした話が伝わってないじゃないかと言ってます。「くらき人のいふところなり。」って。愚かな人がそう言う事言ってるんだと。ものの道理がはっきりしないから、そう言ってるんだって言って。手厳しいね。

「たとひ先百丈ちなみありて『不落因果』と道取すとも」不落因果って言って言われた時に、不落因果って聞いてもですよ、大修行の人はですね、他に誤魔化されると言う様な事はない。或いは相手を騙すと言う様な事もない。どう言う風に誤魔化したり騙されたりしないかって言うと、耳で聞いてみれば分かる。「不落因果」って言われたら、「不落因果」って言うだけだけで、別に何ともないじゃないですか。

綺麗だねって言われようが、汚いねって言われようが、本当は何ともないじゃないですか。利口だねって言われようが愚かだねって言われようが、本当は何ともないのでしょう。分かりますか。何かその言われた言葉によって、自分が傷ついたとか言う様な風に思ってる人沢山居るけど、そんな事はないですよ。外に行ったら鳥が鳴いてる声が聞こえるのと同じですよ。エー。本来そうじゃん。それに対して、自分が聞いた後に、私をいじめてる言葉だって言う風に受け取った事が問題になるだけじゃない。誰もそんな事言ってない。

家の方で、この前こんな話をしてる人がいて、紹介したかどうかもう忘れちゃったけど。何十年も付き合ってるおばさん。今、朝起きると近くの公園に行ってですね、五人位お仲間が集まるらしいんだけど、ラジオ体操をして、それが終わるとそれぞれ一緒に話をしながら帰ってくるんだろうけど、その途中に池があって、その池の所にカワセミが飛んでるんです。昔は五匹いた、今二匹だって言ってました。

それでそのおばちゃんはですね、最近ご法事か何かの時に、カタログで引き物のやつがあるじゃないですか、色んなものこう選べる様な。折角だから双眼鏡をそれで、って言って双眼鏡を引き物から求めて、自分の手もとにある。それを持ってこうやって、この頃見てるんだけども。五人のグループの中でですね、他の人がですね、双眼鏡を持ってる。その中の一人、Aって言う人がですね、よく見える双眼鏡を持ってる人に、「ちょっとそれ貸して」って言って、こうやって見るとですね、「ああよく見える」って言うんだそうです。最初はこのおばちゃんの借りてこうやって見てた。ね。こっちの人の借りると「よく見える」。これだけなんですよ。

借りて「よく見える」って言われただけで、このあまりよく見えない双眼鏡を持ってる人(おばちゃん)がですよ、どういう風に自分の中がなるか。あなたのはよく見えない、安物だね、とも何とも言ってないんだよね。人の名前も言ってないし、ただ「これよく見えるね」って言う話をしてるだけなんだけど、それを聞いただけで不愉快になるんだそうです。

それ皆さん毎日の生活の中でよく分かる事でしょう。そう言う風な生活してるでしょう、殆どの人が。エー。聞いた事はただ「よく見えるね」ってだけですからね。あなたのはつまらない物だとか、あまりよく見えないとか、借りてもしょうがないとかそんな、そう言う風にひとつもそんな事はない。だけども、その何回、朝やってもです、通って行っても、こっちの借りると、その人がよく見えるねって言うんですね。一回ならまだしも二回三回そう言われると、何か自分の持ってるのがつまらない、自分が物凄く淋しくなるんだろうね。その人と口利きたくなくなる。こうした話を聞いてると笑っちゃう、ほんとに。エー。

で、最近その人が、何故こんな話を私にしたかって言うと、いつも言われてるから、本当に如何いう風に話がされてるかって、聞いてみたらただ「よく見えるね」って言ってるだけだって言う事が分かった。どうなったと思います、この人、それが分かって。七十年近い人生をこんなに無駄に過ごして来たって、言ってましたよ。こんなつまらない生き方をして来たんだ。人生変わるんだよ。本当に。何もした訳じゃないです。何処も手を付けた訳じゃないですよ。ただ言ってる事が言ってる通り聞こえてるって事がはっきりしただけですよ。

何かを整理して綺麗になったとか、止めたとか一切無いですよ。気づくってこんなもんですよ。悟りを開くってこんなもんですよ。何も不思議な事はない。はっきりした。苛められてるものも何もない。すっきりしてる。知らないとここに書いてあることがあるじゃないですか。「その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみにありて『不落因果』と道取すとも」ってあります。

本当に修行してる人です。今の話の様に。本当に修行するって言う事はですね、耳で聞いてみると分かる。その通りそれ以外のものは、付けたり削ったり一切ない。「きれいに見える」って言うだけです。これが修行してる人です。修行するってそう言う事なんですよ。物を見たってそうじゃない。その通り見えるって言う事が修行してる人の姿です。修行してない人は、見た物に色んなものが付いてくる。そんな見え方してる事は本來ないんですよ。

でも皆さん知らないから、見た瞬間にすぐ、良いとか悪いとか、気に入るとか入らんとかそう言う風にやってる。物にそんなものがついて見えたって事なんか一度だってないよ。無いですよ。しらない人はだから、修行する時に、この自分の中におきた思いを、どうしたら静まるとか、無くなるとか、取れるとか、引きずらないとかって、そっちを修行の対象にするけど、修行は本来そっちを対象にはしない。

そっち(思考の上のもの)に手を付ける用がない。そっちに手を付けてやったって、絶対それは人間が幾ら手を付けてやったって思う様にならない。だから坐禅をする時にも、その思考って言うか、人の付けた思いを相手に過ごさない様に勧めてるでしょう。ね。じゃ、後何をするかって。坐って、本当に音がした時、その通りに音がしてる様子がある。目を開けてるとその通り見えてる様子が在る。そうやってそれだけで、居てみる。自分の方から一切手を出さない、つけない。そうすると、ちゃーんと修行になる。

その時の自分の在り様に触れて御覧なさい。皆さんが望んでる通りの状況に生きてますよ。それが誰も出来てる、実行されてる。そんな素晴らしい生き方をしてる自分がいるのにも拘らず、それを見る力が無い。それに触れる力が無いから、頭で描いた自分を見て、気に入る様に、自分の思う様になったら良いなとかって、そう言う事を求めに、何とかならないかって言って、うまそうな話があるとそれにくっついて、すぐそっちへ行く。

それ幾らやったって完成されなかったでしょう。色んな所経めぐって来た人、聞いて御覧なさいよ。色んな所に、宗教的な所、色んな宗教、こうやって歩いて来た人達が何故落ち着かないかって、皆この考え方を相手にしてるからでしょう。これ実物を相手にしたら、こんなに簡単に出来るんですよ。

経文の中にですね、学においても無学においても、学問があってもなくっても、まあちょっと酷い事を言うと、頭が良くても悪くてもと言う事になるのかしら。「学においても無学においても、分別の相を生ぜざるを第一清浄者となづく」。修行の上で本当に、ああでもないこうでもないと言う事一切無しに、その通りにこうやって居れる人、それが一番優れている人だと言ってます。

そんな事は役に立つかって思うかも知れないけど、今おばちゃまの話を出した通りですね、そんな事で役に立つんだよ。エー何十年も苦労して来た人がですね、本当に言われてる通り、ただそう言う風に言ったら、そう言う風に聞こえるだけだったんだって事が触れて分かると、役に立つんだよ。学問要らないんだよ。難しい仏教なんか何も用がないもん。哲学も。
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