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大修行 Ⅳ

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「しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、」本当の事がどうなってるかって言う、そう言う勉強をした事のない人はって言う事でしょう。仏法を見聞せざるともがらって言うのは。仏法って特殊な事じゃないですよ。言い換えておきますけども。皆さんの知ってる言葉だったら、真実って言う様な言葉で十分でしょう。それを本当に自分で自覚したから、仏法と言われるのでしょう。なるほどって。ここはそう言う事をした事のない人って言ってます。

『野狐を脱しをわりぬれば、本覚の性海に帰するなり。』狐の身体から脱け出して、そうすると元の自分に帰るって。色んな事でもそう。何か迷うと、ああ、もとの自分の処に帰って来るって言う風に修行してる人がいる。ねぇ。帰って来るって場所なんかないですよ。元に。エー。迷ってるって言う事をやめると、いきなり今の様子に居るだけですよ、何時も。今の様子ってものはなくならないんだもん。

だけども、自分の中で、迷ってるとかはっきりしないと思うと、今の様子がなくなった様に思ってるんですね。そうじゃないですよ。無くなったんじゃなくて、そう言う思いによって、今の真実が眩まされるだけです。それをやめると、いきなり真実そのものが、其処にコロッとある。帰って来るんじゃないですよ、其処に。本覚に。元の処に帰って来るんじゃない。最初からその確かな上で生きてる。

『迷妄によりてしばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。』って、こう言うものの見方は本当にものを知らない人達の受け取り方だと言って、道元禅師は手厳しくこれ指摘してるね。これ、理解するには物凄くよくわかるじゃないですか。

もうちょっと違った例をあげれば、此方の今住んでる世界を苦しみの世界だから、川を渡って向こうに行くと救われてる世界がありますよ、って言って、此岸と彼岸をたてて、皆さんにそうやって教えてるじゃない。それで、皆さん舟に乗って下さい、向こうへ行きましょうって言って。行くと幸せな世界に行けるよって、そう言う教えだから、舟に乗って行こうとするじゃないですか。本当の幸せな世界は此処にあるのでしょう。向こうへ行く事じゃないでしょう。

これ、正に典型的な、そう言うスタイルじゃないですか。此方は駄目、向こうは救われてる世界って言うものを立てといて、これを止めて向こうへ行けば救われるって、物凄く分かりやすいから、修行する時も向こうにちゃんと看板を立てて、あちらは極楽ですよ、こちらは地獄ですよって。はい地獄に居る人、向こうへ行きましょうって、そうやって号令を掛けると、皆ぞろぞろぞろぞろあっちへ。そう言う事が一般に行われてるけど、本当の修行ってそんな事しないじゃないですか。何故そんな事しないかって、向こうで生きてる様子と此方で生きてる様子って、人には今二つは無いからですよ。比べる様な、二枚仕立ての様な生活してる人は一人も居ないんだよ。それはただ考え方の上で起こってるだけですからね。

自分の真相を見ないで、自分で勝手につまらないもんだと思って、もっと幸せな世界があるに違いないって言うものを立てて、そちらに行ったら幸せになれるって言う風に、そう言う構図を自分の中に作った。そう言う構図を持ってる人は、そう言う話に出合うと、見事に嵌るじゃん。ああ私が期待してた通りだって。じゃあって、そっち行くじゃない。もう基本的に違うじゃないですか。

これものを見てる時に、他の見え方した事ないでしょうが。エー。もう一つの見え方しないから、こんなに何時でもはっきりしてるんでしょうが。それが自分達の本心でしょう。迷った事なんか一度もないじゃないですか。こんなに何時でもはっきりしてるじゃないですか。他の見え方した事ないんだもん。

ただ見えた物に対して、気に入らんとか入るとかって言う風な思いが出てくると、それを滅茶苦茶に扱うだけじゃないですか。その代表的なのはさっき話した様に、痛い時に痛くない方が良いと思うから、痛くない様になるのが幸せだと思ってるじゃないですか。そうじゃないでしょ。痛い時に本当に痛い事があるって言う事が、大事な事じゃないですか。それを遣り変えて痛くない様にしちゃったら、大変な事になるんですよ。だけど百人に聞いたって、痛い時に痛くない方に行くよね。人間の思いってそんな風な事描いてる。これ、外道の見ですよ。間違ったものの見方をしてる人達の考え方って、皆そう言う風になってるじゃないですか。

「これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに仏法にあらず。もし野狐は本性にあらず、野狐に本覚なしといふは仏法にあらず。」狐は狐の様子として、ちゃんとしたものがある。狐が人間よりつまらないって言う事じゃない。どれだってそうでしょ。どのものだって、他のものに取って変える事の出来ないものでしょう。毛筋一本だって他の毛に取り替えて変わって貰う事が出来ない存在じゃないですか。石ころ一つだって。ゴミ一つだって。そのものはそのものによって、そのものの生きてる様が在るんであって、他のものに変えてどうこうする様な事はない。

人間の考えでは違いますよ。すぐに何か他のものと入れ替えて如何かしようと思う。もしそんな事が出来る様になったら、世の中は統制取れませんよ、滅茶苦茶になっちゃって。

「大悟すれば野狐身ははなれぬ、」野狐身を離れる。「すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野孤あるべし。」それはそうでしょう。ねぇ。悟ったらですね、赤い薔薇の花に向かった時に、金色に見える様になるって言う様な事になったら、大変な事じゃないですか。エー。同じ様に見えるんですよ。悟る前も悟った後も。何が違うかって言ったら、疑いが本当に無いだけですよ。

悟る前でも、赤い物に向かったら赤く見えるでしょう。私だってそうやって見えますよ、って言ってる割にはですね、本当に大丈夫かって言った時に、揺らぐんですよ。不思議に人間て。何ででしょう。自分で見届けてないからですよ。本当に。他人が言ったのを、生半可にそうだって思い込んでる処迄しか触れてないから。追求して行くとですね、赤い物に触れて本当に赤く見える、大丈夫って言ってると、ええ大丈夫ですって言ってる割に、段々おかしくなるね。もう間違いなくはっきりしてみれば、最初からまちがいない事が分かる。

大悟をすると言うと、何時でもちゃんとしてる人になるだけです。そう言う処を見ると、悟る迄は自分の中に疑いを起こすものが残ってるって言う事ですよね。だって信じてるものを頼りにするって言う事は、疑いが起こる所以じゃないですか。信ずる用がないんだもん。その通りこうやってなるって言う事は、信じてそう言う風になるんじゃないから。それ位揺るぎのない確かさがあるって言う事が本質でしょう。だけどそれに向かったら必ずそうなるって言って信じていて、かろうじて居る様だったら、それは絶対、人はやられますよ。まあそう言うな事が説かれるのでしょう。

そんな事は言うなと言ってます。そんな詰まらない話は。「しかいうべからさるなり。」以上の様に、今話して来た様な事はと言う事ですね。そんな話は問題外だと言っております。「今百丈の一転語によりて、」一転語って言うのは、一つのちょっとした言葉によって、人生がまるっきりコロッと変わる様な力の或るものです。それを一転語と言いますね。

禅宗のお葬儀なんかで、ご導師を勤める方が引導を渡す時に、一転語と言う様なものを、其処に来ておられる和尚さんたちからですね、亡くなった人に一転語を差し上げて下さいって言う様な向け方をします。そうしますと、何か色んな言葉を其処に向けるんですけど、果たしてあれによって救われていく様になるかどうかは、非常に危うい。

「先百丈五百生の野狐たちまちに脱野狐すといふ、この道理あきらむべし。」一言声を掛けたら、五百年狐の身になってたものが、コロッと変わるって言う様な事を、この道理はっきりさせなさいって。疑いが取れるって言う事でしょうが。疑いが取れたら、一変に変わるのでしょう。

さっきのおばちゃんの話なんかだってそうでしょう。あれだけで一変に変わるのでしょう、人生が。今まではつまらない生き方して来たんでしょう。事ある毎に、何か自分の中であらぬものを描いて生きて来たのに、本当にただその通り聞いてごらんって言った事を実行したら、その通り変わるんだもん、良いじゃない。この通りじゃないですか。

「もし傍観の一転語すれば傍観脱野狐身すといはば、従来のあひだ、山河大地いく一転語となく、おほくの一転語しきりなるべし。」傍らに居る人がですね、声を掛けて、もしそれによって何かが起こるんだったら、手当たり次第そう言う風に変化してるのじゃないか、って言う様な言い方をされているのでしょう。

「しかあれども従来いまだ脱野孤身せず。」本当に一転語によって変わるって言うのは、言葉、言葉を発したから変わるんじゃなくて、その言葉によって、自分の従来の見解、そう言うものが本当に落ちてしまう。ただその響いてる様子だけにこうやって居るって言う体験をするから変わるのですね。

お釈迦様だって、今まで何十年となく暁の金星は、天気が良い限りは、見て来たんじゃないですか。だけども、ある日の金星に触れた時初めて悟ったって、どう言う風になったのでしょう。それは金星に触れてる自分の様子に用があるんじゃないですか。金星に用があるんじゃなくて。

それは一言いえば、今までは向こうにある星を、ここに居る自分が常に眺めてた位の見方しかない。ところがこれを(自分)をすっかり忘れてしまう位の触れ方があるじゃないですか、見てて。星の様子だけが出て来る位、自分の見てる気配がすっかり無くなる位の時節って、人間にはあるでしょうが。皆さん、無いですか、色んな生活の中で。全然違うでしょう、そう言う時の様子に触れてみると。自分が眺めているのと。

或いは自分が聞いているのと、自分が居ないで(自我意識が生じていない時)実際にものが展開されてるだけの様子とか。虫が鳴いてる様子がその通り、虫が鳴いてる通りの声が響いてるだけの中に、こうやって聞く人が居ないで虫の音だけが響いてる様な、そう言う様な聞こえ方がする時、体験してませんか。

如何いう事なんですか。今までは自分が居て、向こうで虫が鳴くと聞こえると思ってたでしょうが、違うでしょうが。そんな事用がない様になってるって事、それで気がつくでしょう。自分が聞いてる筈なのに自分が何処にもいない、虫の音がしてるばかりだって、何だろうって、不思議な世界だな。少なくともそう言う事があるでしょう。ねぇ。コロッと変わるって事でしょう、それ。自分の見解が外れると。

「いまの百丈の一転語に脱野孤身す。」たまたま百丈禅師が不昧因果と言われた事によって、何故かコロッと従来のものが取れてしまった。そう言う処にこの方が触れたのでしょう。「これ疑殺古先なり。」いにしえの人のこの先輩達のね、言ってる事疑うと言う事が一切無くなる。ああ本当に自分が、自分の見解が取れるって言うとこんな風になるんだって言う事が、自分でもはっきりするじゃないですか。

「山河大地いまだ一転語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。」山や河や大地に私達が触れてもですね、従来の自分の考え方からすっかり離れる、そう言う時節があるでしょう。生爪をはがした痛さによって悟った人がいる。竹薮に石が飛んでいって音がした。その音によって悟った人がいる、桃の花の咲き匂う中に佇んでいて、その桃の花が散っていくのに触れて悟る人がいる、本当に山河大地、ありとあらゆるものが私達を救ってくれる一転語として活動してるんでしょう。何でそうなるか理由も何も無いよね。理由はあとから、自分で自分を納得させるためにするのですが、それらを一切かりずに、コロッと変わるんですね。

不思議なものだね。悟るって。自分の本心にこうやって触れる。こちらからその様になろうと思って、努力してやったら絶対に行き着く世界ではない、と言う事が言える事でしょう。何もしない世界って言うのは、人が自分で何もしないようにしようと思って作れる世界じゃないでしょう、ね。言葉はよく知ってるけど。何もしないって言う世界はですね、人が作るんじゃないですよね。少しでも作り事が自分の中にあったら、何もしない様子は絶対に触れる事が出来ない。

なのに教えるとですね、ああ坐ってる時余分な事を、考え事が出て来ても一切手をつけない、流していれば良い、そのままにしとけば良いって、受け取られる。こうやって話をすると、そう言う風にやれば良いんだって理解して帰るから、自分の中にちゃんとした、れっきとした看板がここにあって、何時もその様にその様に行こうとする。そう言うのが修行だと思ってる。それは持ち帰ったものがあるじゃないですか。

持ち帰る必要がないと言う事を教えてるんですよ、本当は。だのにちゃーんとそうやって持ち帰るものが有って、それを掲げてその通りに何時も注意深くしようとしてる気配があるから、何時でも知らない内に作り事してる。そのためにこんなに一生懸命やってるのに、どうしてすっきりしないんだろうって。

この前も終わった方が、もう二、三十年付き合ってるけど、ああって言って、言ってくれたから、どうしたのって言ったら、今まで自分は本当に間違えた修行してましたって、言ってました。教えられたものちゃーんと理解したと思って、そう言うの持って、その様にその様になろうとして常にいた、そう言う事じゃないですね、っておっしゃった。いやずーっとそうやって教えてた筈なんだけどって言ったら、エーって言う位、自分の中ではまともに理解してまともにやってるって思ってるんだけど、こんなにずれてるんですよね。これこの方分かったから、これで楽になりましたって言ってました。

一生懸命やってもどこかしっくりいかない。行く訳がないじゃないですか。もう一つの生き方を置いといて、その様になろうとする様な事をしたら、無理じゃないですか。人が生きてる様子はさっきから何回も言う様に、もう一つの生き方なんか初めからしてないじゃない。ね。もう一つのどッかに向かって行かなきゃならない様子なんかないじゃないですか。それに居る用があるじゃないですか。

簡単にやると、パン!(打掌)こうやってやった時に、他の所に何か聞きに行く用が無いじゃない。それだけで十分じゃないすか。何もしないで。っそうすると、パン!こんなにはっきりしてる。まあそう言うな事が一杯、ここでは、狐に化かされない様にして下さい。狐の話を取り上げられた。

まあ沢山のそう言う風に遺された文献を教材にして学んで行く時、こう言う処で誤まってる事があると言う事を、道元禅師が転法輪の巻もそう言う処を示されてるし、これもそう言う処を示されていますね。面白い巻だと思います。その位で。ちょっと時間経過してすみません。終わります。(2018年2月分終り)

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