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大修行 Ⅲ

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「老人道の『後五百生堕野狐身』は、作麼生是堕野狐身(作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身)。」って言う話ですね。エー。不落因果って言う答えをしたために自分が五百年ずーっと狐の身体になったと言う話なんですけど、それを道元禅師は「作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身、」本当に人間がですよ、人間が何か尋ねてですね、間違った事を言ったら狐になったのを見たかって言ってるんだ。そんなに成ることないじゃんね。絶対になる事ないよね。

「先より野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。」そこに狐が居てですね、百丈禅師をおいでおいでってして、それでそこで化けたって言う事でしょう、狐に。そんな事歴史上どこにもないよね、化ける事ないよね。そんな馬鹿な事。舞台で何かそう言う変わり身の演劇があるけども、あれは演劇であって、実際に人間が狐に化けたなんて言う事はないでしょう。ねぇ。

「先百丈もとより野狐なるべからず。」百丈禅師は最初から人間であって、狐じゃないと言ってる。「先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。」百丈禅師の霊魂とか心とか言う様な、霊魂とか心とか精神とか言う様なものがあって、それが自分の身体から出て、狐の身体の中に宿ったって言う様なものの見方をするって言う事は、全くものを知らない道から外れた人の意見だ、見解である、と。

第一自分の身体の中から、心や霊魂と言うものが飛び出して何処かに宿ったなんて言うことは一度もないじゃないですか。心の働きって言う様なものは、この身体がなかったら出て来ないんだもんね。この肉体が無かったら、精神の働きって一切出て来ない。これを離れて。そうなってるじゃないですか。だけどどうしても、ああ言う風に心と身体を分けて、身体は死んでも、肉体は死んでも、霊魂は残るって。

死んだ人が何か人に災いを起こす様な事した事がありますか。ないじゃないですか。あるとすれば、亡くなった人を見た人が、自分の中でつまらない事を起こすって言う事だけじゃないですか。それがあの人が私に災いを起こしてるって思ってるだけの事であって、別にそっちの亡くなった人が私達に苦しめる様な事をしてる訳じゃないですよ。よーく見てほしい、そう言うの。

「野狐きたりて先百丈を呑却すべからず」ガブっと呑むって言うんでしょう。ね。食べてしまうって言ったら、よく分かるでしょう。そうすると、この身体の中に、狐の中に百丈禅師が全部入っちゃうって言う事、そう言う事でもないって言うのね。「もし先百丈野狐になるといはば、まづ脱百丈身あるべし、」蛇だってそうでしょう。脱皮するって言えば見てごらん。必ず脱皮するって言うと抜け殻残ってますよ。ねぇ。だからもし百丈禅師もですね、野狐身に変わるって言ったら、前の物がどっかにそこら辺にあってしかるべきじゃないでしょうかって言ってる。そんな事はないって言ってるんです。

「のちに堕野狐身すべきなり。」その後にですね、一度自分自身の身体から抜けて、そしてその後に狐になるって言う事になるんじゃないかって。入れ替わるとかって言ったら、必ずヤドカリだってそうでしょ。前に入ってた殻が有るのでしょう。抜け出して次の物に入るって言う時。ところがそう言う事が実際に行われてないって言う事は、百丈禅師が野狐に堕すって如何いう事かって言う事を、此処で皆さんに問われています。

「以百丈山換野狐身なるべからず。」百丈山を以って野狐身に変わると言う事なのか、「なるべからず」そう言う事でもないんじゃないか。百丈山と言う、洪州に百丈山と言う山があって、そこに狐がすんでる訳ですけど、山を以って、百丈山と言う山をもって野狐の身とする訳ではない。一生各自、自分自身の身心の様子だけで生涯を終わる。絶対他人と入れ替わる事はない。

「因果のいかでかしかあらん。」因果って言うものはそんな変な活動はしない。ある時人間が狐になったと。えんどう豆の種を蒔くと、えんどう豆の蔓が伸びてえんどう豆の花が咲くって。えんどう豆の芽に茄の花が咲くと言う様な事は、因果の道理としては無いと言ってるのでしょう。赤い物に向かった時、白く見えるって言う様な事は因果の道理として無い。

もしそう言う風な、入れ替わると言う様な事があったら「因果の本有にあらず、」本来の因果の在り様ではない。転んだ時転ばない様になってしまうって言う様な事だったら、因果の道理が変になる訳でしょ。必ず転んだ時には転んだ様になるでしょう。だけど、人間は転んだ時に転ばない様になったらいいな、と思う癖がある。それがあの修行した人の力だと思ってるんですね。転んだ時に転ばない様になる。そう言う事だと思ってる。そうじゃない。転んだ時に転んだ様になるのが、修行してる人の在り様ジャン。

それ、現実に身体のどこかが痛む時に、痛まない方がいいって思うのは誰しもの事だけど、若しその時に痛みを感じなかったら、自分でわかんないんですよね、何処が悪いか。気がつかない。そう言う大事な事をしてくれてるんだよね。痛みって。それだのに嫌うんだよね。痛くない方が良いって、痛い時。それおかしいですよ。有難い事なんですよ。痛い時に痛いってのが分かるって事は。

「始起にあらず、」始めて起こるですね、始めてそう言う事が、ものが分かったらそう言う風になるか。耳があるから音が聞こえるって学校で習って、ああなるほど耳があるから音が聞こえるんだって言う事が理解できたから、音が聞ける様になった訳じゃないって言う方は早いですかね。そんな事勉強しなくても、ちゃんと因果の道理ってのは最初から誰にもあるジャン。始めてそこで起こった訳じゃない。出来た訳じゃない。

昨日、何か新聞見てたら、スペインのアルタミラの洞窟に描かれている絵のことが新聞に出てた。あれが四万年位前のものだと思ってたものが、正確に今検査したら、六万年位昔のものだって言う事が分かったって、言う風な事が出てて、すごいなーって、六万年位前の人って、今までは原始人とか人間に変わった前だからね、そう言う人達があれだけの文化を持ってるって言う様な事が取り上げられてました。

まあ、あの眼ってそう言うもんだったんじゃないですか。見たらその通り、あの時代もですね、自分の前へ牛が走ってったら、牛が走ってる様子がそのまま見えたんじゃないですか。人間が進歩して現代人に近くなったから、初めて牛を見たら牛が走ってる様に見える様になった訳じゃないでしょう。他の動物だってそうでしょう、多分。物が見えてる内容って。だから猟が出来るんでしょう。あとはその見た通りに、そこにこうやって描ける力があるかどうかですよね。あれ、教えたから絵が描ける様になったのかしらんねぇ。

言語って言うのは何時の時代からか出て来たのでしょうけ。手を動かしたり、足を動かしたりする働きなんて言うものは、随分昔からあったんでしょうねぇ。棒を持てる様になるのはどの位かな。要するに、道具が使える様になるのはどの辺からなのか知らないけど、一般の動物だって道具使いますからね。カラスだって上から下へ落として割って食べるからねぇ。石を使って割る様な動物だっているでしょう。人間だけが素晴らしいと思ってるけれども、大間違いだと思うんだけど。まあそう言う風に、「始起にあらず。」

「因果のいたずらなるありて人をまつことなし。」因果の道理って言うのが、人間が生まれて来るのを待ってて、そう言う風な使い方を、表し方をしたって言う事じゃない。人間が生まれるって言う事だって因果の様子なんでしょう。言ってみれば。もっとひどい事を言えば、因果なんて言う事を知らないのでしょう。知らないけど、そう言う活動があるって言う事でしょう。ねぇ。水の中に入ったのと、水から上がったのが違う様に成る様になってる訳でしょう。それ因果の道理なんて思ってないもんね、誰も。

「たとえ不落因果の祇対たとひあやまれりとも、」祇対って言うのは向かい合ってる事ですね。不落因果って言われた時に、向こうから不落因果って言われた時に、こうやってそこにいて、それを聞いたって言う事ですね。「かならず野狐身に堕すべからず。」誤って、不落因果って言うものを聞いた時に、自分の理解が誤ったとしてもですね、誤ったから狐に身体が変わるなんて事はない、と言っておられる。

やってみますか? ここで。はっきりしてるじゃないですか。ねぇ。分りますか?って言って、分りません、言う人と、分りましたと言う人が居てもですね、分りませんて言う人が狐になるかって、そんな事はない。ただ分りません、て言うだけであって、そのまま今の自分の様子でいますよ。

「学人の問著を錯対する業因によりて野狐身に堕すること必然ならば、」ってあります。ものを学んでる人、お互いそうですね、今学んでる訳ですが、その時にですねぇ、尋ねた時答えてくれたものに触れて、自分が間違って受け取った時に狐になるんだったら、そう言う事が間違いなくあるんだったらって、「近来ある臨在・徳山、およびかの門人等、いく千万枚の野狐にか堕在せん。」もうそこら中、狐だらけになっちゃうって言ってるよ。道元禅師って中々ユーモアのある人だねぇ。本当に面白い。因果の道理がそんな風にはならないって事言いたいんでしょう。間違ったから人間から狐に変わってしまうって言う様な事はない。突然変異ってあるのかしらね。

「そのほか二三百年来の杜撰の長老等、」ものがよく、はっきり学べない、いい加減な人達ですね、「そこばくの野狐ならん。」この三百年の間だって、そう言ういい加減な生き方をしてる人は、皆狐になっちゃうんじゃないかって。もしそう言う事だったら。ところが何処にもそんな風になった人は、道元禅師、居ないって言ってるんですね。見回してみても。この二三百年。

「しかあれども、堕野狐せりと聞こえず。」聞こえずって言うよりも、実際に人間が狐になったって言う事がないって言った方が早いじゃないですか。一応ちょっと遠慮して聞こえずって言ってる。「おほからば見聞にもあまるべきなり。」本当にそこら中でそう言う話がされてるんだったら、何処でもそう言う風な事に出会うだろう。だけども一向に人間が狐に変わったって言う様なものは、触れた事がないって言ってるのでしょう。

「あやまらずもあるらんといひつべしといへども、」面白い言い方をするんですね。これは人間のものの考え方の上での話でしょう。実際には人間が狐になったって言う様な事はないにも拘らずですね、そう言う風な間違ったものの受け取り方をしてるって言う事でしょう。

「不落因果よりもはなはだしき胡乱答話のみおほし。」不落因果と言う事を聞いて、その真意を受け取るのを間違えた人よりも、もっと滅茶苦茶な話じゃないかって、それは。人間が狐になるなんて話は、取るに足りないじゃないかって。厳しく詮議しておられる。「仏法の辺におくべからざるもおほきなり。」こんなものを取り上げる事自体が変じゃないか。

だけどもこの百丈野狐の話って言うものを、近来の禅僧達が説いてるのを聞いても、こう言うものに対して、道元禅師の様な指摘をした人は殆んど聞いた事がない。と言うのは何をこう言うものを読んだ時に勉強してるんだろうね。この後にも出てくるけど、狐の葬儀をするのに、お坊さんの儀礼を以って葬儀をするなんて言う事は有り得ないと言っておられる。道元禅師。ねぇ。まあ色んな事が出て来ますよ。

「参学眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。」未だ眼が具わってない人は、わきまうべからず。本当のものの見方が出来ない人はって言っておられる。自分の目で確かめてみればいいじゃないですか。嘘を言ったって、言ったらその人が何か狐になったなんて居ますか。そんな事はない、嘘を言っても。「しかあればしりぬ、あしく祇対するによりて野狐身となり、よく祇対するによりて野狐身とならずといふべからず。」ちゃーんと向き合ったから野狐に、狐にならずに、いい加減に向き合ったから狐になったって、そんな事じゃないじゃないかって言ってます、ね。

本当には私達は迷っても悟っても変わらないじゃないですか、自分て。エー。迷ってる自分も悟ってる自分も変わらないですよ。二つある訳じゃないですよ。迷ってる時の自分、悟ってる時の自分て二つある人なんか居ないし。どちらでも自分自身の様子です。そっから一歩も抜け出さない様になってるんです。だから良いんでしょう。これをどっか置いてといて、抜け出してどっか行っちゃったらどうするの。エー。時々家に、自分の帰る身体を持ちに帰らなきゃならないじゃないですか。そんな人は居ないじゃないですか。何時もこの身体と一緒に生活して、それ以外に要らないじゃないですか。そう言うのよく見たらわかる。

「未具眼はわきまふべからず。」眼がはっきり具わってない人、ものの見方がはっきりしない、そんな人居ないでしょう。皆眼を備えてるのでしょう。自分の眼で見てごらん。一本の花だって、枯れたら他のものに成るんじゃないでしょう。どうですか。咲いてる時の花と、枯れてる時の花って言うんだけども、さっきまで花がちゃんと咲いてたのに、今枯れたって言ったら、他のものになるんじゃないでしょう。ねぇ。そのものの、どちらも様子なんでしょう。

「この因果の中に、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につゝめる真珠あるべきなり。」言ってみれば、皆さん方が考え方で取り扱っている自分の様子から離れて、真実の自分の様子にこう触れてみると、ああ何だ最初からこんなにちゃんと自分の様子として生きられてた、って言う事に気づくって言う様な事でしょう。そう言う事じゃないですか。

勝手に、自分の今の様子に目を向けた時に、自分でつまらない評価をして自分を虐げてるんでしょう。陥れるんでしょう。つまらないものの様に。それでどっかで、素晴らしい教えを聞くと、じゃあ私はつまらないから、そう言うものを聞いて勉強して取り入れて、もっと立派な人に成りたいって、そう多くの人が思うんでしょう。それは違うのでしょう。人間が立派になるって言う事は、自分の素晴らしさに気づいて、それを十分に使いこなせる人になった時に、人は成長するんでしょう。

今回のオリンピックなんかの見ても、皆そうじゃないですか。他の人の身体で何かやった事一つもない。自分が自分で体験した中で、悔しいと思った思いを糧にして、自分の至らない処があればそれを克服して行くんでしょう。自分の、どこが自分の欠点かって言う事が自分で先ず分らなければ、何処を手をつけていいか分らないじゃないですか。だけども有難い事に、自分自身の事を自分自身でこうやって触れてると、何処が力が無い処か、何処が足りない処か皆教えてくれるじゃない、自分で。それが分ったら、それをちゃんとやってったら、少しは今よりは良くなるのでしょう。

その時にもう一方では、しんどいなとか、やりたくないなとか、もうこれ以上やれないなとかって、自分の考え方が出て来ると、その自分の考え方で伸びていく力が失われる。或いは奪われる、押さえつけられる、言う様な事も、これが自分の中に起きてくる考えが自分をこんなにつまらなくしてる、って言う事を良く知ってるでしょう。

この束縛が自分でとれると、これもっと自由に動くものじゃないですか。現にそう言う人は沢山育ってますよ。考え方を離れると、いかに人間は自由になって伸び伸びとして活動出来るかって言う事を、如実に体験してる人は一杯居ますよ。自分の考え方が自分を縛るんですよ、動けない様に。底知れない力を持ってますよ、人間て。分らないもの、どうなるか。色んな縁に触れてどんなにでも成って行く。

その色んな縁に触れた時に、ふっと自分の中の考え方が起きると、ちょっと初めてだから止めようか、いやそれは僕には出来ないかもしらん、そうやっちゃ皆大事な触れ合いをですね、自分で壊して行くじゃんね。で、それが他所の人に廻って行って、それを受けた人が成功すると、ああ最初私の処へ来たんだけどもって言って残念とか思うけど、受ける力が無いんだもん、しょうがない、自分で。恨んだってしょうがない。

まあ兎に角面白いですよ。そう言う処に、この中に包める真珠が有るって、素晴らしい各自自分自身の中の、自分自身の真相に触れるって言う事は、当に隠れた真珠を戴く様なもんでしょう。それをお悟りを開くって言うんじゃない。自分自身の事に触れて、自分自身の内容を自覚する事によって、そんなに素晴らしい人生に変わって行くじゃない。でこれを完成させてくれるのは自分以外にないんだからしょうがないね。他の人が一切手を出してやる事が出来ない。

だから修行って言うのは、人から強いられてやる様なものではない。どうしても自分でやらざるを得ない。もの一つ見るんだって、他人が見たんじゃ、見たことにならない。音楽一つ聴くんだって、他人の耳で聴いたのでは聴いた事にならないんだもん、しょうがないじゃない。この身でやるしかない。この身でやると、たちどころにその事がその通りに味わえる様に出来てるから、良いじゃない。全部血肉になってるじゃない。

真珠って大体そう言う風にして、核を貝の中に入れると、真珠の涙って言うけども、段々あのピカピカ光る様なものが核の上にこうやって何枚も何枚も覆われて、皆さんが大事にしてる真珠が出来る訳でしょう。痛くてしょうがないなって、貝が、中に入った、痛いなーって言うほど涙が出て、それがカバーをして真珠になると言われている。天然の真珠の方がザラザラしてるって言う様な事も言ってる、見分けるのに。人造の方はつるつるで綺麗なんだって、言ってます。



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