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大修行 Ⅱ

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エー「過去学人問、『過去百丈山の大修行底人、還落因果也無』。」と読むのかな。これを相手に道元禅師がこんな事を言っておられるでしょう。この問真にいい加減に扱ってはならない。こう言う質問してる様子をよーく吟味してみる必要があるのじゃないか。如何してか。

「そのゆゑは、後漢永平の中に仏法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西来ののち、はじめて老野狐の道より過去の学人問をきく。」中国の歴史を見るとですね、こう言う事があると言うんでしょう。年代ですね、後漢の永平十年、この頃に、そのインドの方々が来られて、経典が中国にもたらされた。仏法東漸ですね。インドから中国に仏典が運んで来られた。その名前も下に出てますけど、摩騰伽、竺法蘭とかって言う、まあそう言うインドの学僧が中国にですね、仏典を運んで来られたので、中国に仏教が伝わったと言う事ですね。

それから、もう少し時代が下がると、梁の時代に菩提達磨と言う方が、インドの坊さんですね、お釈迦様から二十八代目の正統な仏法の受け継ぎ手になった達磨大師が中国に渡って来られたって話を此処に挙げておられる。その後に、今の今日読んだ百丈山大智禅師ですね、の話が取り上げられてると言う事です。

「はじめて老野狐の道より過去の学人問をきく。」こう言う問答の話がそののちに初めて歴史の中に出て来た、残った。先ずそう言う事ですね。この前は、「これよりさきはいまだあらざるところなり。」と言う事は、時代的に見て、その前にはこんな事が問題にされた事が一度もないって言うんですね。

「しかあれば、まれにきくというべし。」皆さんだってそうでしょう。こう言う所に来て、正法眼蔵を聞いて、道元禅師が日本にお生まれになって中国に行って、如浄禅師にお会いになって真意が伝わる迄はですね、日本にこう言う教えは何処を探してもなかったんですよ。聞く事も出来なかった。触れる事も。それが有難い事に、大先輩のそう言う方がこう言う事を体験して、その体験した上で確固たるものを、こうやって文言に遺してくれた。それがあるから、今日こう言う事に触れる事が出来る様になったんでしょう。

稀に、ここでは聞くといってる、稀に見るですね。現存する真筆本て言うのだって、そんなに沢山ある訳じゃない。真筆本と言うのは道元禅師が自ら筆を下ろして書かれたものです。それは同じものありませんよ。各巻で。で当時の事を考えたら、それが日本の中に伝播して広がって行くのに、どうやって広がって行ったかったら、実物のものを見せて頂いて、お借りして写経するのでしょう。そうすると二冊目が出来る。エー。

今の様に、こんな岩波とかどっか行くとね、千円位で売ってる様な時代じゃないんですよ。本当に、その一冊に出会う事自体が大変な時代じゃない。誰が持ってるかわからん。で、大事にしてるから、いい加減な人には見せない、貸さない。借りるにしても日限が限られる間にちゃんとして返さなければならない様な中で。だから写経をした正法眼蔵だって、全国に何部もないですよ。

江戸期になって初めて、正法眼蔵がこの円通寺さんを中心にする一門の中で、玄透即中と言う方がおられて、その方が初めて幕府に掛け合って、正法眼蔵が印刷されて世に出された。ここ円通寺さんはそう言う流れの中の寺です。ねぇ。そう言う事を思うと、今は幸せですね。幾らでもある。何にも自分で苦労しなくても、こうやって読める。まあそう言うな事をちょっとこう挙げてあるね。

「大修行を摸得するに、これ大因果なり。」どうして自分がそう言うものに、本当に触れる事が出来たかって言う原因と結果と言うものは、測り知れないよね。如浄禅師に道元禅師がお会いになるんだって、もう一年位時間がずれてたら、如浄禅師は亡くなってるから、中国に行っても会えなかったでしょう。お互いそうじゃないですか。色んな人と出会って、色んなものに出会う事を考えても皆そう言う事で、どうしてそうなるかって言って、測り知れない内容を持ってるじゃないですか。

「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、」円因満果って言うのはですね、パン!音を出すと聞こえますよね。ねぇ。音を出すって事が因じゃないですか。聞こえるって事は果じゃないですか、音が。それが二つある訳がないでしょ。因があって果がある訳じゃない。パン!こうやったら、いきなり音が、音が出たら、音がいきなりある。歩くって言う事が原因。そうすると歩いてる様子がいきなり其処にあるよ。歩くって言う事で、いきなり歩いてる様子が結果ですよね。って言う様な事を円因果満って言うじゃない。

人間の因果論て言うのは、原因があって結果があるって言うから、時間がずれるじゃないですか。段々あとの時間になると、そう言う事が出て来ると思ってるっじゃないですか。そんな事はないですよ。同時ですよ、因も縁も。満ち足りてます。音がしてから聞こえるって言うんだったら、ずれるじゃない。パン!そんな事ないでしょ。有難いね。人の其処に介入する余地がないでしょ、自分の何かを。

音がする時、パン!聞くのに、一つも余分なものがその中に入れない様になってる。やってみますよ。何か音がする間に、自分の何かを入れて聞こうと思ってやって下さい。良いですか。パン!出来ない。これ位余分な事をしないできちっとした生活を皆さんしてるじゃない。ずれない。ここに皆さん着眼する必要があるじゃないですか。これからそう言う立派な生き方をしてる人になるんじゃなくて、皆そう言う風な生き方をしてるじゃないですか。

こうやっただけで、皆その通りに見えてるでしょうが。エー。暫くして見えてくるって、そんな事はない。そんな事はない。もっと酷い事を言えば、見る前に皆みえてるじゃない。聞くって言う事は、先に音があるんですよね。エー。本当は。こう言うの面白いですね。これが先ず一つじゃない。

「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、」落ちるとか落ちないとか、そうなるとかならないとか言う様な事はないって言うんです。パン!その様に聞けるとか聞けないとか、一切ないじゃないですか。上手く行くとか行かないとか、否応なしそう言う風になってるんでしょ。眩ますとか眩まさないとかの道にあらず、はっきりするとかはっきりしないとかって言う様な事じゃないじゃないって言ってる。

他方でやってる会にですね、二月二日の日に行ったんですけども、二月の二日の日に行ったら、今日私の誕生日だって言う子がいた。小学校六年の女の子。で会が終わって九時半位かな、夜、和尚さん聞きたい事があるんだけど良いって言うから、どうぞって言って話した。去年の九月から来てるから、九、十、十一、十二、一、もう六ヶ月になる。

物凄く面白いって、何時も来て聞いて。その中の一つでこんな事言ってた。頭が良いとか悪いとかって言うけども、頭が良いとか悪いとか関係なく、その通りに向かうと見えるねって言ってました。エー。面白い子でしょう。その通りに聞こえるって、頭が良いとか悪いとか関係ない。学校でそう言う事教えてくれないって、(笑)言ってました。はじめは親に連れられて来たかと思ってたから、何、お父さんかお母さんが行ってきなって言って来たの?ったら、違うって。自分で来てる。でもお母さんが何時も居るから、どうしたんだろうなと思ったら、夜遅い外出は小学校の子は禁止になってるから、親が付き添わないと出れないと言うので、親が来てる。

面白い。子供に、そんな小さな子供に、よく分かるねって、大人の人達が言ってます。分かるの当たり前でしょう。なってるんだもん、そう言う風に。この通りでしょう。「円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、眩不眩の道にあらず。」そう言う風に皆なってるじゃないですか。子供だったらそんな風にならないんじゃなくて、子供も大人も関係ない。「利人鈍者を選ばす、」何とかあるじゃないですか。普勧坐禅儀、どっかに。「上智下愚を論ぜず」そう言う普勧坐禅儀にある。本当にそう言う風に私達はなってるじゃん。

だけども知らないと、頭が良くないと勉強できない、修行できないと思ってるかも知れない。正法眼蔵なんか頭が悪い人なんか読めないじゃんて思ってるかも知れない。要らん事じゃんね。こう言う事が、パン!正法眼蔵を学んでるって言う事じゃん。ね。自分自身の本当の在り様に触れるって言う事でしょう。

次行きますよ。「『不落因果』もしあやまりならば、『不昧因果』もあやまりなるべし。」本文を読んだ時にですね、昔迦葉仏の時代にこの百丈山に住んでた老人がですね、出てくるんだけども、誰かに因果に落ちるかどうかって尋ねられた時に、不落因果って答えたら、その人が五百年狐の姿になって過ごしたと言う様な話がずーっとさっき読んだ中に書いてある訳でしょう。それで是非今度、今大智禅師あなたがここの百丈山に住職になったから私を救って欲しいって言って言われた時に、今度は大智禅師が不昧因果っておっしゃったら、それによって狐の姿をしてたものから解き逃れて、まともな人間になったと言う様な事かね。

そう言う様な一連の話がさっき読んだ中にある訳ですね。それでそれを受けて、こう言うな事言ってる。答えとして不落因果だと、そうやって狐になっちゃったから、あれが若しも答えが間違ってたのかな。それが若し間違いだったら、後で百丈大智禅師の言った因果を昧まさないって言う方だって同じじゃないかって言ってるんですね。

私達がものを悟るって言う時にですね、その文言を読んでその意味合いが解って悟るって言う事じゃないですよ。それは理解したって言うだけですよ。ああ因果に落ちないんだ、ああ因果を昧まさないんだって言う風に理解しただけであって、悟るって言う事はそう言う事によってじゃないですよね。

六祖と言う、慧能と言う方は、山の中で薪を集めて街に背負って行って、それを売っては何がしかのお金に代えて生活をしてた。そう言うある日、町の中で「応無所住 而生其心」って言って、托鉢のお坊さんが金剛経の一節を読んでるのを聞いた時に悟ったってなってるんだけども、これだってですよ、何処にもくっつかないで活動してるって言う様な意味ですけど、そう言う事が文言を聞いて解ったから悟った訳じゃないですよ。

或いは無門和尚が学人に尋ねられた。犬にも仏性が有るか無いか、「無」って言って、あ無いんだってそうやって理解して悟った訳じゃない。「有」って言って有るって、そうやって理解して悟った訳じゃないですよね。悟るってそう言う事じゃないですよね。

燃えてる火に手を突っ込んだ時に、あ、火は熱いんだって分かって理解出来て初めて、熱くなるわけじゃないじゃないですからね。エー、そう言う事でしょう。知ってるからね。熱いって言う事知ってるから、そう言う風に理解するんだけど、そんな事で火に触れた時の様子が分かる訳じゃないじゃないですか。熱いとか何とも言わないんだけど、こんな風になっているんですよ。まあこう言うな事が挙げてある。

「将錯就錯といへども、堕野狐身あり、脱野狐身あり。」だって一つの物にこうやって触れてですよ、皆さん方、たった此処に一つの物があるんだけど、これに触れた時に迷う人とはっきりする人とに別れるじゃないですか。物は一つですよ。これが仏法の真意ですよって言って、こうやって出す。エ、茶碗じゃないかって、何処に仏法の真意があるって、何を言ってるんだと分からない人と、ああそうかって分かる人いるのでしょ。この通りでしょ。

一方は狐になる、一方は狐にならずに居れる、そう言う事ですよね。頭ポンと叩かれても、腹が立つ人と立たないでいれる人がいるじゃないですか。大事な物持ってて落として割った時、物凄く後まで悔いる人とサラッとそうやって生きていかれる力のある人といるじゃない。正にそう言う事なんですよね。何でそうなるんだろうねぇ。エー。それ自分自身の事だから、どうしてそう言う風に違いが分かれるかって言う事でしょう。勉強する必要があるでしょう。

この自分自身の上でそう言う事が起きてるんだから、自分自身でそれに触れたら分かる筈じゃないですか。他の人の身体の中でやってるんだったら探せないけど、自分自身の上でそう言う事が起ってるんだから、自分自身の様子に、こうやって触れてれば、何処でそう言う事が起きてるか分かるでしょう。

それが皆さんが修行するって言う事でしょう、今。お店に入って行って、其処にある品物をこうやって取って籠の中に入れる。万引きと言う行為があるけども、何処から線が引かれるのですか、万引きって。籠の中に入れている行為は別に万引きとは言わないよね。でもよーく見てみると自分自身がよく分かる。ただそのものをこうやって籠に入れてるだけでない。先ずね、万引きする人ってね、そこからもう違ってるよね。

見てれば同じ様に籠の中に入れてるだけなんだよ。もっと酷い事になると人の目を掠めて外に出て行く訳でしょ、お金払わずに。だから戦々恐々としてやってるよね。それを出来るだけ人に気づかれない様にやるのはプロだね。でもプロでもどんなプロでも出て行く時にお金を払わずに持って行くって言う事を見逃さない人たちも居るからね。

まあ色んな場面で行為として同じ様にやってるんだけど、全く内容が違うって事沢山あるでしょう。何でそっちへ行くのって、皆向こうへ行くからって、そう言う人もいるじゃないですか。最初の人はちゃんと自分で目的の意識があって向こうに行ってるんだけど、大勢の人がそっちへゾロゾロゾロゾロ歩いてると、他の人も何故かそっちへ行ってる。何でそっちへ行くのって、皆あっちへ行ってるからって。何だってこの人、こんな人生でいいのかって思いませんか。

「『不落因果』たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦牟尼仏時にはあやまりにあらざる道理もあり。」同じ言葉だけども、その触れた時、その人の様子によって、人を救う言葉にもなれば人を苦しめる言葉にもなる。これも日常茶飯に皆さんやってる中で気づいてるでしょう。何してるんだ!(大声で)って、怒られたと思う人もあれば、その事によって命が救われる人もいるじゃんね、そうやって声かけられて。不思議だね。良いとか悪いとか、その言葉が正しいとか間違ってるとか、一概にそんな評価の出来るものじゃないよね。因果って言うものは。

「『不昧因果』たとひ現在脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり。」お釈迦様のご在世の時は、不昧因果と言われたら救われる事があるかも知れない。じゃ迦葉仏の時は、不昧因果って言ったら救われたのかって言うと、そうでもない道理もあると言ってる。要するに、不昧因果とか不落因果と言う事によって、或る時は救われ、或る時はそれによって騙されたって言う、歴史的な経緯があるもんだから、不昧因果って言えば皆救われるのか、不落因果って言ったら皆人は苦しむのかったら、そんなことはないって言ってるんです。

お腹の減ってる時に、普段じゃ食べられないと思ってる様なものでも、出すとですね、有難いって食べる。そう言う事があるじゃないですか。喉が渇いて渇いてしょうがない時、水が一滴も無い様な所へ置かれた時、僅か、水筒の中に残ってる僅か一滴でもこうやって手に受けて、ずーっとアーって言ってお礼が言える様な状況もあるでしょう。こんなわずかな量ではって思うかも知れないけど。量によって水の量によって人が本当に幸せを感じるか感じないかじゃない。不思議だね、そう言うの。こんな事がざーっとここに一応先ず第一段階、道元禅師が扱っておられます。



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