FC2ブログ

大修行 Ⅰ 

音声はこちら ↓

180224大修行_01_01
180224大修行_01_02
180224大修行_01_03
180224大修行_01_04
180224大修行_01_05

大修行、本文が集まっているものが非常に長いですが、一通りよみます。

「洪州百丈山大智禅師《嗣馬祖諱懷海 》凡参次、有一老人、常随衆聴法。大衆若退、老人亦退。忽一日不退。(洪州百丈山大智禅師《馬祖に嗣す、諱は懷海》 凡そ参次に一老人りの有って、常に衆に随って聴法す。大衆若し退すれば、老人もまた退す。忽ちに一日退せず。)

師遂問、『面前立者、復是何人』(師遂に問ふ、『面前に立せる者、復是れ何人ぞ』)

老人対云、『某甲是非人也。於過去迦葉仏時、曾住此山。因学人問、『大修行底人、還落因果也無。』某甲答他云、『不落因果』後五百生、堕野狐身。今請和尚代一転語、貴脱野狐身。』(老人対して云く、『某甲は是れ非人也。過去の迦葉仏の時に、曾て此山に住せり。因みに学人問ふ、『大修行底の人、還た因果に落つや無や。』某甲他に答へて云く、『因果に落ちず』後五百生まで、野狐の身に堕す。今請すらくは和尚、一転語を代すべし。貴すらくは野狐の身を脱れんことを』)

遂問云、『大修行底人、還落因果也無。(大修行底の人、還た因果の落つや無や)』。
師云、『不昧因果(因果に昧からず)』。
老人於言下大悟。作礼云、『某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例(老人言下に大悟す。礼を作して云く、『某甲已に野狐の身を脱れぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡僧の事例に依らんことを』)

師令維那白槌告衆云、『食後送亡僧』(師、維那に令して白槌して衆に告して云く、『食後に亡僧を送るべし』)
大衆言議、『一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是』(大衆言議す、『一衆皆安なり、涅槃堂に又病人無し、何が故ぞ是の如くなる』)

食後只見、師領衆至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。(食後の只見る、師、衆を領して山後の岩下の至り、杖を以て一との死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり)

師至晩上堂、挙前因縁(師、至晩に上堂して、前の因縁を挙す)。
黄檗便問、『古人錯対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇汁麼』(黄檗便ち問ふ『古人の一転語を錯対する、五百生野狐の身に堕す。転々錯らざらん、箇の汁麼にか作る合き』)

師云、『近前来、与你道(近前来、你が与に道はん)』
檗遂近前、与師一掌(檗、遂に近前して、師に一掌を与ふ)。
師拍手笑云、『将為胡鬚赤、更有赤鬚胡)』(師、拍手して笑つて云く、『将に胡の鬚の赤きかと為へば、更に赤き鬚の胡有り』)

ここまでが、まあ百丈野狐と言う一つの公案になってる本文です。エー、私も十五、六の時、これ見るのに、暗記するのに長いなあと思って、そう言う昔の思いが、ありますね。一回で暗記出来なかった。だから、これをお師匠さんの前に行って、この本文をずーっと最後まで間違えずに諳んじて読むと。要するに出題がわからなければ答えなんか出る訳がないと言うことですから。どう言う事を聞いてるかって言う出題をちゃんと覚えて行って、それに対して自分の見解と言うものを師匠に提示するって言うのが、まあ参禅の仕方なんですよね。だからあの頃思い出します。中々覚えられない。何回行っても途中で詰まると、チリチリ(鈴を)振られて、帰りなさいって相手にされない。そんな時代でした。

長いね。結構ね。だからね、覚えるのに。で余所にもこの百丈野狐の話を教材にした眼蔵の何巻めかにあるとおもいますが、ここはまあここの扱い方があるので、それに従っていきます。で、ここから道元禅師がこれについてご提唱なさってる訳ですね。だから前半の今読んだ処はそのままにして行きますよ。

「而今現成の公案、これ大修行なり。」今取り上げたものが、大変な内容を含んでいる。しっかりその真意を受け取らなくちゃいけないと言う事ですね。「老人道のごときは、」老人が言う、お話をする様子は、って言う事ですね。

「過去迦葉仏のとき、洪州百丈山あり。」迦葉仏の時にも百丈山というものがあった。「現在釈迦牟尼仏のとき、洪州百丈山あり。」過去の迦葉仏の時にも百丈山があったけども、今お釈迦様の時代になっても百丈山がある、洪州に。これがまあ、皆さんの上で言えばこの円通寺があるんですね。百年前も多分あって、今日もこの円通寺さんがあると言う事でしょう。昨日の自分もあれば、今日の自分もあると言う事でしょう。

じゃ次の所行くけども、「これ現成の一転語なり」とありますけども、どう言う処で見て取らなきゃならないかって言うと、昔の自分の様子と今の自分の様子って言うんだけども、二つあるかって言ってるんですよね、エー。迦葉仏の時に洪州の百丈山があって、お釈迦様の時代も洪州の百丈山がある、けどその洪州の百丈山と今の百丈山と言う二つの様子があるのか、って言う様な事がここに問われていますね。

「かくのごとくなりといへども、過去迦葉仏時の百丈山の百丈山と現在釈迦牟尼仏の寺の百丈山と、」ってここにありますね、「一にあらず、異にあらず、前三々にあらず、後三々にあらず。」ここが皆さんの先ず今日最初に勉強する箇所です。これがはっきりすると、先ずすっきりするのでしょう、ね。一つにあらず、二つにあらずって言うんですよね、「一にあらず、異にあらず、」って言う事は。

「前三々にあらず、後三々にあらず。」って言う事は、沢山ないと言う事です。じゃどう言う風にあるかって。何時も耳を傾けてくれている方々だから、敢えて言う必要がないと思いますけども、本当に誰しも今の在り様以外に無い。疑い様の無い事実でしょう。

だけどもう一つ言っておかなきゃならないのは、考え方で取り扱うと、過去の時の自分、今の自分て二つも三つも色々ある様に思うじゃないですか。思いませんか。小さい頃の自分と今の自分。だけども実際自分の今こうやってる様子に、こうやって触れてみた時に、過去の自分の様子が何処にあるんでしょう。思い出の中に、あの頃はああだったって言う話をしてるだけの話であって、それ自体が今ここで展開されてる内容でしょう。一杯無いでしょ。

そう言う事に関して、どうですか。これが先ず勉強、修行する時に大事な着眼点でしょう。で、考え方をちょっと離れてみると、ものの真相がはっきりするじゃないですか。何時でもこうやって今活動してる様子だけ。その今活動してる様子の中に、過去を思い、未来を引き寄せて思う。そう言う気配があって、一杯色んな事がある様に思ってる。その一つ一つの過去の話をする、未来の事を取り上げる話だって、皆今ここでやってる。その時にその事がただあるだけです。その位明解なんでしょう。

だから道元禅師は次に、「過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、」と先ず言ってる。当たり前でしょう、ね。これがどういう皆さん方の生活の中で影響が、或いは効果があるか、修行の効果があるかったら、この事が分かる事によって、おそらく殆どの事が、もう解決する。じゃないですか。

皆さんがごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、色々毎日生活してて複雑な感じがあるのは、この確かさに居ないからでしょう。修行するって言ったって、何処でやるんですか。この生身の自分の身体の今在る所でしか、この身体を離れてどっかで修行するなんて言う事はないでしょう。無理でしょう。今この生身のあるここで、ここでこの自分自身の身心の様子で修行する以外にないじゃないですか。そうすると、何処へも向かう用が先ず無いじゃないですか。尋ねて行く用がない。それだけだって随分楽になるでしょう。

皆さんどっかへ尋ねて行かないと、本当のものに出合わないと思ってるのでしょう。本当の自分は今ここに居るのでしょう。他で生活してる自分なんか居ないのでしょう、何処にも。今こうやってる自分の様子以外に自分の生活してるって事はないのでしょう。これが分ったら、これで大修行でしょう。ああ何だぁって言う位。

過去の過ちが思い出された時に、それを今も悔いていて、あの時にあの人にあんな事言っちゃって、失礼だわね、気になって気になって死ぬに死ねない、と言う様な老人がこの前、居た。どうしたら良いんですか。昔に戻って行って、そこを手を付けて来るんですか。そんなん出来る訳ないじゃないですか、先ず。ここでどう今あるかって事が問われてるのでしょう。

で、お話を聞いてると、さもそう言う事が昔あったらしい話を一生懸命してるけども、今何処にそうやって相手がいるのか、あるいは悔ゆる対象が何処にあるかって言うと、その人はただそう言う話をしてるだけですよ、ここで私に。自分がそう言う話をしていると、あたかもそこにそう言うまだ片付けなきゃならない問題がある様に、自分が喋ってる事によって、そう言う風な認識を起こしてる。実際には何も無い。この事が分るとあって、これで済む事でしょう。

この前酷い事を言われて頭に来て、じっとしていられない、如何したらこう言うモヤモヤしてるの治るんだろうとか、そう言う質問が来るじゃないですか。でも今モヤモヤしてるって言ったら、そう言う気持ちで喋ってるだけの話であって、何も無いじゃないですか。殆どそうでしょう。

しかもですね、自分自身の、今本当に生活してる生き様そのものを取り扱って質問する人なんか、百人中一人も居ないな。殆ど自分の頭の中で思い起こした話をしてるだけ。そんなものは修行の対象にならないでしょうが。仕事一つ取り上げてみればよく分るじゃないですか。

ここに穴を開けるって言う様な仕事がこうある。(机を示す)これを放っといてですね、何処で穴を開けられるんですか。エー。先ず道具を持って来なきゃ、あすこにあるかな、そんなので穴開きますか。穴を開けるったら、ここへただこうやってやるだけじゃないですか。ところが手を付けないの、穴を開けるって事一つだって、こう思う事ををして。それ位質問してる時に、考え方の上の話だけなんだよね、殆どの人が。これでは絶対に修行にはならない。物事を処理するって言う事は、必ずそこに処理する実物に触れて処理するのでしょう、ねぇ。そう言う風に出来てると思いますよ。

まあ兎に角そうやって、「過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉仏時の百丈山にあらざれども」ってあります。昔のものがここに来て、ここのものが昔にって、そう言う風な事はない。

「『曾住此山』の公案あり。」とは何時でも自分自身の真相に居ると言う事でしょう。うまく行ってると思おうが、全然修行に成ってないと思おうが、そんな事とは関係なく何時でも自分の真相に居るでしょう。片時も自分の真相から離れた生活した事無いでしょう。でも思いはその様に、坐ってて、今日はうまく坐れたとか今日は何か時間がたつのが遅くてとかって、そう言う風に思ってる。思う事と実物は違いますよ。長く思えたら長くなるのかって、そんな事はないですよ。時間を忘れて坐ったら、ものすごく短かったって。短くなる訳じゃないですよ、何も。そんな事があったら大変じゃないですか。

だから「『曾住此山』の公案あり。」と言う事でしょう。いつも自分自身の真相に居るのに、自分自身の真相を本当に見る事が下手で、考え方で取り扱ってるから、折角自分自身の真相に二十四時間丸ごと離れずに居るにも拘らず、それにお目にかかる方法さえも忘れちゃってる。それで本当の自分の在り様はどうかって、知りたいって、物凄く矛盾ですよ。ものを知らないにも程があるって思いませんか。勉強するのに、それでは。

私達が生活して問題になるのは、何処で問題になるんですか。今でしょうが。人の話一つ耳に入って来て、人の様子一つこうやって目に触れた時に、何処で問題が起こるかって、自分の中に起こす一念心でしょうが。あんな事やってる、あんな詰まらない事言って、そう言う風な一念心が、自分の中に見たり聞いたりする時に、ここで起こるのでしょう、触れた時に。それが問題なんでしょう。違いますか。そう言うもの自分の中で起こして、自分の中が混乱してるだけでしょう。じゃその一念心の起きる前の様子は、必ずその通りに見え、その通りに聞こえているじゃないですか。それをそう言う風にすごすのを、大修行と言うんじゃないですか。不思量底です。非思量です。人間の考え方でない世界です。

身近な話をちょっとしておくとですね、こんな方が最近おられた。どうですかって話をした。長い事通ってるけどって言う、ああご苦労さんって話したんですけどね。朝六時位に起きて散歩をして、仲間がいるから公園の様な所へ集まってラジオ体操をして、その後帰り道に池があるので、そこの池の所に皆で行って、カワセミがいるらしくて、それをこうやって双眼鏡で見て楽しんでいるらしい。

まあ状況はそう言うことなんですが、そこに五人位のお友達がいて、仮にAさんBさんCさんとするとですね、Aと言う人がですね、Bさんに双眼鏡あなたの持ってるの貸してって言って、借りてこうやって見ると、「よく見える」って言うんですね。で、AさんがCさんにですね、あなたのも貸してって言って、こうやって覗き何か「よく見えないね。」エーそれだけなの。それだけの話。

それだけの話で、この見えない双眼鏡持ってる人(Cさん)がですね、どう言う風な事になってるかというとですね。長い間ね、気持ちよくないんだよね。気分が悪いんですよね。逢う度「よく見えるね、」あなたの貸してって。Cさんは、私のはよく見えないって言われるだけなのに。それだけの事なんだけど、気分悪いんですね。人がどうかじゃないでしょ。持ってる双眼鏡の倍率の違いとかレンズの明るさに依るだけの話でしょ。それなのに何か、自分が持ってる双眼鏡がつまらないと自分まで何か馬鹿にされてる様な気配になってるんですね。で何となくそう言う風な言い方をされる人を、あんまり快く思ってない。

こんなの物凄くよくわかるでしょう、何をやってるか。でこの人はその結論として、どう言う事を言っておられたかって、ああこんな風にして長い人生を、こんな風にしてずーっと過ごしてたのかって言った。気づいたんです。何時も私喋ってるからね。話してる通り、ただ聞いてごらん。一生懸命話してる通り聞いてるつもりでいたんでしょうけど、中々人間て話してる通りに聞かないんだね。

で、そう言う事が出きた時にすっきりしたって言ってた。もう本当に何でもないんだって。一切問題ないんだよね。ねぇ。あなたの貸してって言って、あなたのよく見えないわね。こっち貸して、こっちの人よく見えるって言う話をしてるだけであって、何もいじめてる気配もないし、小馬鹿にしてる気配もないし、だけどふっと自分の中で余分なものを付けた受け取り方を知らずにやってるんじゃない。これが自分を苦しめてきた。

簡単に出来る事でしょう、本当なら。だってそれ以上の事言ってないんだもの。エー。だけどそうやって想像たくましくして、自分の中で余分なものちゃっと起こしてる。これに気づくのにこんなに年月がかかるのかって、時間。ねぇ。まあその位でも何十年も修行して来て気がつくと、修行の効果ってあるよね。あるんですね。

一つそう言う事がきっかけになるとすべて日常の生活の中でその事が役に立つ。それだけが原因だったからですよ。今こうやって生活してる時に、ちょっと自分の中に詰まらない事を起こす癖があった。それが何時でも色んな事を引き起こしてるだけだ。他人が何も苦しめてる訳じゃない、悩ましてる訳じゃないですよ。

皆さんだってこう言う話をすれば、自分の事だからよくわかるでしょう。修行するってそう言う事に用があるだけじゃないですか。初めっから真実の真っ只中に生きていて、一つも苦しまない迷わない様に生活してる真相があるにもかかわらず、その通りに生活しないからはっきりしないだけでしょう。

じゃその通りはっきりする様に修行するのには、手をつけないんでしょう。自分の余分な事をそこにつけないって事が、修行する上において決定的な絶対必要条件なんでしょう。エーそう言う事が公案でしょう。目の当たりに、今展開されている公なものの在り方じゃない、誰でもが。日々の中で抜き差しならない。他で何かする用はないじゃないですか。

だけど考え方って言うのは、他に何か一杯整理しなきゃ片付かない様な問題が一杯あると思わせるじゃんね。だって次から次へ色んな事が思え、出て来るんだもん。こんなに沢山あると思う位、次から次へ色んな事が思い起こされるから、それもこれもあれもって、皆どうかしなきゃならない様に思ってる。思いと言うものは、人をそのくらいたぶらかす、その要因になるね。ものを知らないと。

でその思いは他人が起こすのじゃないって言う事が面白いじゃないですか。自分が自分の中で思いを起こして、自分をはっきりさせなくしてる。困ってる。だから静かにしてそういう事をしないで居ると、皆気分良く生きてるでしょう。エー。

次の所へ行きますよ。「為学人道」学人をしてですね、学人の為に道うと読むのかな。上に戻って、学人の為に言うって言うんですよね。「それ今百丈の為老人道のごとし。」ここでこれだけ長い文章の事をこうやって読んでみましたけれども、これは昔の話をしてるのじゃないよ、って言う事でしょう。

ああ、そういう禅宗の歴史の中に、そう言う百丈山でそう言う話があったのかって言う、昔の話にこうやって思いを巡らして、何か使う様な事ではない。今ここで一人一人がこの問題に直に向かってると言う事じゃないですか。

「因学人問、それ今老人問のごとし。」って言うのは、そう書いてあるでしょう。昔百丈山にいた老人が云々て話じゃなくて、今ここであなた方一人一人にこう言う話がされてるって言う事だよって言ってる、勉強するって言う事を。兎に角、この各自自分の身心と言われる、このものを借りなければどうしようもないじゃない。他のもので勉強出来ないんだもん、しょうがない。ね。この自分自身の身心を借りなければ、どうしようもないですよ。

ストーブが有ったって、暖かみさえも感じられないよ。円通寺さんが在ったって見る事も出来ないよ。私が喋っていたって、その喋ってる事を聞くことも出来ないよ。全部この身体でやってるんですよね。見聞覚知って言うけれども、全部この身心を借りて、自分自身の活動の中で、物が見えたり、聞こえたり、考えられたり、暖かみがわかったり、皆そうでしょ。一切他の人に用がない。

やってみればよく分かるじゃん。こうやって部屋の中の様子、こうやってずーっと見る時に、他の人の力を借りる必要ないじゃないですか。私が喋ってるのを聞くんだって、隣の人の力を借りる用がない。自分のこの身心さえあれば、ちゃーんと喋ってる通りの事がその通り聞ける様になる。

だのに日常はどうですか。そんなにすっきりした生活してますか。何か他の人の事が、気になって気になってしょうがないでしょうが。それだから疲れるのでしょう。単純にこのものがこのものの活動していさえすれば、それで十分なんでしょう。修行ってだから絶対他の人の事なんかやりませんよね。

「挙一不得挙二、放過一著、落在第二なり。」一を挙して二を挙すことを得ず。一著を放過すれば、第二に落在するなり。漢文は難しいけども、話をすれば簡単な事でしょう。一例を挙げれば、物を見る時にどう言う風に私達は生きてるかって言うと、その物を見る時、他の物を見ないって言うだけの事じゃないですか。

ね、いいですか、やってみますよ。これを見てください(置時計を見せる)って言う時に、ここにマイクがあるから、マイクの方を一生懸命見てる人はないでしょう。そんな事しないでしょう。これ見て下さいって言った時に(置時計)、これ見て下さいって、これ見たらちゃんと見えるでしょう。こっち(マイク)用ないでしょう。他に色んな物があるけど。ね、一を挙して二を挙すことを得ず。本当にその事だけがちゃーんと出来る様になってるじゃない。気は他の処へ行かない様に出来てる。

パン!聞いてごらんて言って、あっちの方でガチャガチャ音がしても、そっちの方の音を聞くって事はしないじゃない。これ聞いてごらんて、パン!言ったら。「放過一著、」今の様子をないがしろにすれば、必ず間違った方向に行くって言うんでしょう。「落在第二」すって。それはそうでしょ。今の様子に目を向けなくて他の処へ目を向けたら、今の様子が分かる訳ないじゃない。今の様子が在りながら、ふっと一念起こして、その考え方を相手にすると言う事が、一番顕著な事じゃないですか。二に落ちる、本来そんなもの無いんじゃないですか。

パン!いい音がするとか、よく分からない音だとか、パン!そんなもの一切ついて無いじゃん。音がその通りするだけじゃない。さっきの婦人の話と同じです。
話をしてる様子があるだけなのに、それだのに言ってる通りに聞かないんだものね。それで自分の中で、何であの人はあんな風にって、そうやって思って、段々段々自分の中が生活が変に成っていく。終いにはあまり顔見たくないなって位に変わってくるんですよね。不思議な事です。


スポンサーサイト



コメント

非公開コメント