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正法眼蔵を学ぶ

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転法輪 Ⅳ

音声はこちら ↓

転法輪_04_01
転法輪_04_02
転法輪_04_03
転法輪_04_04



「いはゆる転法輪は、仏祖儀なり。」脚注を見ると坐禅の姿って言う事が書いてある。転法輪は仏祖儀なりって

言うその仏祖儀の注釈が、仏祖としての所謂威々儀って言うのはまあその訳で良いと思いますが、その隣に坐禅の姿って

こう限定するのですね。それじゃ、その他の日常生活してるのは仏祖の転法輪でないのかって。

仏祖の転法輪というのは二十四時間ですからね、法を転じて。ある時は転じある時は転じてないなんて仏祖は無い。

一日中お釈迦様の説法ですよ、お釈迦様は。他の人の事はやらないもんね。

お釈迦様の口から出て来るものは全部お釈迦様の説いたことです。


皆さんだってそうでしょう。自分の口から出たものは、全部自分の様子です。一日中喋る時に。他の人のものは出て来ないじゃん、

エー喋る時に。必ず自分のものしか出て来ない。文字を書くんだって他の人の書いた文字なんか出て来ないよ。

似た様な事は学んであるかも知れないけど、必ず自分の書いてる字ですよ。坐ってる時だけそう言う事が出来るなんて、

そんな、そんな本当におかしいじゃないですか。


その転法輪、色声挙念して色声打失すって。だから先程来、声色だったらパン!(両手を打つ)

これは音ですね、こうやってやった場合(物を見せる)物です、色です。そう言うものをこうやって取り上げて、ものの真相、

皆さん方が本当に生活してる時どうあるかって、示すわけじゃないですか。不思議でしょう。

こうやってこれ見てご覧、この見た通りになるんでしょう。これ以外の物を見てる様な様子になる人はないでしょう、

これ見てご覧って言って。もしこれ見てご覧って言った時、これ以外の物が見える様だったら、此処を見てないと言うことでしょう。

エーそう言う事でしょう。


パン!これだってそうでしょう。これパン!どう言う風になるかって。音がしてない時には、

音は聞こえないんだけど、パン!音がすると聞こえる。音が止むと聞こえないのでしょう。こんなの誰だって

常識で知ってるでしょう。だけど皆さん方は常識で知ってる筈なのに、日常は何故悩むかって言ったら、さっきあの人があんな事

言ってる、おれは面白くねぇって言うのがどう言う事か分かりますか。音がしてないんですよ、もう。

してないのに、さっきあいつあんな事を、俺をいじめてって。そう言う事ですよ。聞こえてないんですよ。聞こえてないもので、

何で問題にあるんですか。何で腹を立てるんですか。もう一回勉強して下さい。そう言う事を伝えてるんですよ。

これはパン!簡単な事だって言うけど。だって一切聞こえてないでしょう、叩いた音は。

聞こえている人は居るかしら。パン!叩いた時だけパンと聞こえるだけで、それで十分でしょう。

どうもしないのに、何処にも聞いたものが残らない様に生活できてるでしょう。もう払う用ないじゃないですか。邪魔になるもの

一切ないって言う事でしょう。問題になるもの一切持たずに生きてるって事でしょう、それは。違いますか。それだのに

生活してると、この事とは違う生き方してるでしょう。と言う事は、パン!こうやって学んでないと言う事でしょう。この事に。


これ見て(右)、これ見て(左)、否応なしにこっち見たら(左)、この事(右)から離れるんですよ。生活ってそうやって生活してる

でしょう。何時までも先ほどの物にくっついてなんか居られないでしょうが。どうもしないのに、全部そう言うものから離れて生活が

出来てるじゃないですか、実際に。此処でやってみたって。間違いないでしょう。

こっち、私の方から右見て下さい、右見たら右の様子が、左見て下さい、左の様子がになるでしょう。それ難しい人誰も居ない

でしょう。その内容を叩いてご覧、どう言う風になってるかと言ったら、先ほどの様子が一切ないと言う事でしょう。

今こうやって触れてる様子だけが何時もあるって言う事でしょう。問題起きないんでしょう。


あれとこれとって、此処には比論言う様な、比べて論ずると言う様な事を書いてあるけど、並べて論ずるなんて言う事は実際には

無いのでしょう。眼がもしですね、先程見てた様子と、今見えてる様子って言って、何時も比べて物を見てはっきりさせるんだった

ら、疲れちゃって大変ですよ。ものすごい疲れると思うよ。


だって本読んでたって、こうやったら先程の、先程読んでた様子が此処に出てきてご覧なさい。どっちが今見てる様子だって、

それをするだけだって大変じゃないですか。だけどこうやって今見てる様子しかないじゃないですか。一頁めくったって先程の様子

は何処にもないじゃないですか。今見えてる様子だけじゃん、何時でも。こんなにはっきりしてて読めるでしょう。


それだのに日常生活は、どうしてこれとは違った生活を人はする。どっかに何か残ってる様な生き方をずーっとして、そして、

それをどうかしなければすっきりしない様に思ってる。そんな風になってないでしょうが。そう言う事が此処で声色を云々って

言う様な、挙拈して、取り上げてですね、「声色を打失す。」て真実の事を皆さんに伝えるのでしょう。

ただ単に物が見えるとか聞こえるとかって言う程度の事じゃないです、この事が。

人を心底救ってる内容が其処にあるじゃないですか。ね。あらゆる声色を超出して「転法輪す。」ってある。

確かに声や色を取り上げてあるんだけど、そう言う事にひっかかってる様子じゃなくて、本当に素晴らしい内容がそこで戴ける様に

出来ている。


「あるいは眼睛を抉出して転法輪す。」って、眼の本当の活動の様子が自分で手に取る様に見えるから、

成程自分の思ってる事と、考えてる事と違うって言う事、よーく分かるじゃないですか。「あるいは拳頭を挙起して」って、

こうやって(拳を挙げる)勉強する訳ですね。「あるいは鼻孔をとり、」って、鼻を捻るとかって言う。これは故事が

あって、エー野山を一緒に歩いてたら、足元から鳥がパタパタパタって飛び立った。そしたら、師匠が、「あれは何処へ行った」って

言ったら、その弟子がですね、鳥を指差して「あっちへ飛んで行きました」って言ったんですね。そしたら師匠がその弟子の鼻を

いきなり摘んで捻った。「痛い」って言ったんです。「何だ」って、「ここに居るじゃないか」って言う様な話がある。


ねぇ。人間、物を追っかけて行きますから。自分の事忘れちゃうんだね。鳥は向こうへ飛んで行ったと見てる。それ全部自分の様子

ですよ。さっきから話してる様に。鳥の様子じゃないですよ。自分の今の様子なんですよ、眼の。知らないうちに、別な物を自分で

見てるって言う風に思う、だから。すっかり自分の事忘れちゃって。鼻捻られると吃驚するよ。何するんですか。もう鳥は飛んで

居なくなったかと思ったら、なんだ未だこんな処に居るのかって言われるんですよ。エー。こう言うな故事がある。


「あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり。」ってそれは今話した事ですね。で、「而今の句をとる、

いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空ととるすなはちなり」
って言うのはそう言う事です。

鳥が空を飛んで行く時の様子と、鼻を捻った時の様子、それから「明星をとり」って言う様なことがある。

これはお釈迦様の事で良いのでしょう。十二月八日朝方、金星の輝きを目に触れた時に、それでお釈迦様は悟りを開かれたって

言う事になってる。どんな物によって人は真実に目覚めるか分かりません。真実に目覚めるって言う事は、言い換えれば、

自分を此処に置いて、物を向こうに見てる様な間は、真実を見る事は無理。


こうやって、今って言うのはこう言う事をさして、今って言うでしょう。今って言う中にはですね、向こうとこっちって言う事は無いじゃ

ない。もし向こうとこっちって言う事があったら、今って言わないよね。そう言うもんでしょう。今って隔たりがある様なものじゃない

でしょ、今って。距離がある様なもんじゃないでしょう。これから作り直す様なもんじゃないでしょ。だってもう必ずちゃんと完璧に

出来上がっているでしょ。


『一人発真帰源』と言われるけど、これから今の様子に、今の様な在り方になるって言う様な事は、

今には無いですよ。もういきなり今ですよ。何にもしないんだよ、今って、もう。その中で皆さん生きてる。どっか又手を付けないと

完全な今にならないなんて、そんな事は絶対無い。今って言うのはもう無条件です。それは向こうとこっちは無い、一枚です。

誰だって。そう言う風になってるものでしょう。


「桃花をとり」色んな事が出て来ます。故事がある。大体時間になるから、故事はまあいい。桃の花に触れて

真理に目覚めるとか、言う様な事がある。とどのつまりは、「この宗旨あきらかに転法輪なり。」と言う事は、

自分達の真相、自分自身の真相に触れて、自分自身の事が、あ、成程本当に今まで想像してたのとは違う、こんなにちゃんと

してる。そう言う気づきがないと、法輪を転ずるって言う事は出来ない。普通の話は出来る。

普通の話で勿論良いんだけど、普通の話だけじゃ皆さん納得できないじゃん。


こんなのパン!普通の話でしょ、でも。音がして、音がした時に聞こえ、音が止んだら聞こえなくなる。

そんな話な話ですよ。だけど内容は皆さんが思ってるのと全然違うでしょう。普通の話ですよ。こっち向かえば見える、

こっち向かったらこっちが見える、普通の話ですよ。だけど内容全く違う事話してるの分かるでしょう、皆さん。

こんな風に自分の事見た事ないでしょう。もし私が今皆さんに話してる様な内容が、本当に自分で頷けたら、これが求めてた事

なんでしょう、皆さんが。違いますか。すっきりしてるんだからいいじゃないですか、これで。


他に、他にどっかに素晴らしい教えがあるんじゃあないんですよ。仏教ってそう言うもんですよ。必ず自分自身の中にこう言う事が

行われてる。その事に気がついた人ですよ、仏陀って。それで楽になったんですよ。釈迦と言う人が。

だからその後そう言う事がずーっと語られる様になったから、法輪を転ずると言う事になるじゃん。


で、「転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、」ここでは不離叢林と言うのは修行道場って言う事に

なるでしょうけど、じゃ修行道場って何処かったら、間違いなくこの身体のある所ですよ、修行するのは。

この身体で修行するんだから、この身体のある所で修行する。この身のある所は何処ですか。何時も皆さん。

何時でもここなんでしょう。何時でも今なんでしょう。今以外の所で生活した人無いんですよ。不離叢林ですよ、絶対。

離れる事は無い、今生活してる事から。この身体のあるここから離れた事はない。他の所で生活する事はない。

それが不離叢林です。修行の道場に入ってるだけじゃない。本当の意味はそう言う事が不離叢林ですよ。直身これ道場です。


どんなに長く生きたって、今こうやっている以外の所で生活しないんだもん、しょうがないじゃん。この身体のある所でこのものの

生活するだけで。その時に、人間に眼耳鼻舌身て言う五官があって、そして更にものを解かる力があるから、そう言うものが

展開するだけじゃないですか、この中で。他にはやってないでしょう。

ものを間違えている人は、物が、外から見える物が入って来たり、聞こえる物が入って来た物に対して、その通り受け取らない

から、自分で勝手にそれに対して好き嫌いをつけたりして物を見てるから、ごちゃごちゃになってるだけじゃないですか。

誰も他の人がごちゃごちゃにさしてませんよ。


物事に触れた人が、自分で、あんな事をしてって、そうやって見て、そうやって思うんです。ものにそんなものは一つもついてない

ですよ。人が喋っている時、またつまらない事言ってるなって、そんなものは一つもついてないですよ。

聞いた人がそうやって、聞いた時に自分の中で、そう言うものを付けて聞いてるんですよ。変ですよ、それは。

又あんな事やってる、又あんな事言ってるなんて、喋ってる人は一人も居ませんよ、悪いけど。エー。

何回も何回も同じ事言ってるって、そう言う風に聞く人が居るけど、喋ってるの聞いてて御覧なさい。今喋ってる通りの事が

そこで行われているだけですよ。さっきもなんて言う風には、絶対に聞こえませんよ。

あの時もって、そんな風には絶対に聞こえないものですよ。


だけどこんな簡単な事、皆さんやらないんだもん、やれてる筈なのに。全く違う生活をするんだもん、変じゃない。

そう言う事がしないのが功夫参学って言う事です。本当にどうなってるか、自分の生身で、今どうなってるかを目を付けて学んで

行く事じゃん。聞いてごらん、又今日もあんな事言ってるって、そんな風に聞こえた人一人も居ない筈だよ。

あいつこの前ちゃんと教えたのに、まだあんな事やってるって。そんな風には見えないんだよ。その触れた人が、自分の中で

つけたものですよ。ついてないのに。


嘘だと思うんならやってごらん。そしてそれが言ってる通りに、あ、本当に自分で余分なもの付けてるって言うのが分かって、

付けないで生活してみてごらん。絶対に変わるから。こんなに楽になる生き方って無い。最初についてないだもん、ついてない儘

居りゃいいじゃない。エー。何で付けるの。それ正しく見たり聞いたりしてるって事じゃないって事でしょう。


ここでは「長連床上に請益辨道するをいふ。」と書いてあります。まあ修行の道場では坐禅堂が一番根本の

道場だから、坐禅の道場で坐って、自分自身の真相に親しくこうやって向き合うって言う事が、坐るって言う事です。

坐るって言う事は、自分を何か変える事じゃないですよ、自分で。

何もついてないものを、何もついてないままこうやって居てみると言う事です。


こうやって、パン!大きい音とか小さい音とか一切そう言うものついてない、パーンて言うだけじゃない。

そう言う風な聞き方を皆さんした事がない。すぐこうやってやると、パン!あ、ちょっとさっきのよりまずいなって、

パン!さっきの音の方が良かったとか、パンパン!大きい音だとか小さい音だとかそう言う風

にしているじゃない。殆どの人は、本当に音がしてるだけで居てみるなんて事やらないじゃない。こんな簡単な事なんですよ、

修行って。


それ、そう言うの難しい言葉では不思量って言うんですよ。不思量底を思量せよ。人間の考え方の範囲じゃないんです。

どうしたらそうなれるとか、なるとかって言う、一切そんな問題がない。パン!この通り触れてると、一切ついて

ないんだよ。良いとか悪いとか大きいとか小さいとか、そうあるべきだとかそれじゃいけないとか一切ない。

本当にその通り、こうやって音がパーンとしてそれでいきなり聞こえて、それで終わり。何処にも跡形もないほど、残りもしない。

こんなにきれいさっぱり、清清しい生活をしてる。


その事実に触れるって言う事ですよ、坐禅をするって言う事。坐禅をして何かするんじゃない。

何もしないと、そう言う事よーく分かるじゃないですか。見たものや聞いたものにすぐ自分の見方や思いをつけるから、

分からなくなるじゃない。それは修行じゃない。修行ってそう言う事じゃない。

そう言う事がずーっと法輪を転ずるって言われる中に説かれて来た事です。



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  1. 2018/04/14(土) 17:51:39|
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