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転法輪 Ⅲ

音声はこちら ↓

転法輪_03_01
転法輪_03_02
転法輪_03_03



「衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり。」悟りをも超え、悟りにも用のない人になる。そんなものを尊ぶ気配があったら、つまらないでしょうが。どんなに綺麗な物を眼は見てもですね、それをずっと眼に焼きつけたまま生活してる様な眼だったら、眼の役に立たない。物が見えなくなっちゃう。眼はどんな素晴らしいものを見ても、その通り見えただけで一切眼に遺さないから、何時でもこうやって何処に触れてもその通り見えるんでしょう。

耳だってそうでしょう。どんな素晴らしい事を聞いたって、そのものを耳に残してる様な耳だったら、次の音声を聞く時に、皆邪魔だ。一切持ち物が無い、そう言う生活をしてる。身体全体そうでしょう。さっき生活した様子を今蓄えてる人は、一人も居ませんよ。今生活してる様子だけですよ、何時も。否応なし先ほどの様子は何処にも無い。それが今生きてる様子だと言わせるんでしょう。先ほどの様子が残ってたら変ですよ。生き活きした生活なんか出来ませんよ。

だけど考え方って言うのはしつこいもんだから、終わってしまった事なのに、在る様に必ずやるんですねぇ。そりゃ思えたら思えるって言う事が出て来るから、間違いなくそう言う事が思えたには違いない。だけど思えると言う事と事実は違いますからね。ね。さっきああ言う音がしたって思える事と、音がしているパン!事とは違いますからね。思えた中にはその事実は無いんですからね。

あの時にあの人に叩かれたって思ったって、無いですからね。そう言う事を皆さん自分の事だからはっきりして下さい。それがはっきりしないと、色んな事が思えると皆騙されるじゃない。で、隣の人に聞いて、この前あの人が私叩いたよねったら、ああ知ってるよ、私も見てたからってやる。ホラやっぱりあの人叩いたじゃないって、間違い、私が言ってる事間違いないよねって。間違いないねって言う話になると、いかにもここに叩いた様子が残ってる様に理解してるでしょう。そりゃ思いの上の展開だけであって、事実が展開してるんじゃないんですよ。そう言う事はこうやって少し話せばわかるでしょう。どっちがおかしいか。百人中百人が殆どそう言う生活をしてるから、普通の人と話をしてもですね、気がつかないんだよね。

それでこういう仏祖と言われる様な人と出会うとですね、初めてその真相をしっかり知ってるから、どうって言って、こう言われると、ああなるほど、そう言う事かって、少し眼が開けるじゃないですか。思い出さなくたって、何も問題ないでしょう。エー、思い出さないと生活に支障が生じるなんて事ないでしょう。損しちゃう事ないでしょう、別に。あいつこの前俺を叩いたって忘れちゃったら損しちゃうとか。仕返ししてやらなきゃって思ってるけど、仕返しなんか要らないでしょう。別にそんなものがない方が、爽やかな生活が今出来るのでしょう。叩かれた事は間違いないかもしれないけど。

今やられてないんだから良いじゃないですか。今やられてないから、思い出したからって、これ危害加えられる事は一つもないでしょう。どうですか。この前叩かれた事を思い出した時、これに危害が何か加えられますか。そんな事無いでしょう。思い出して、それ思い出した事によって危害を加えられるんだったら、大変ですよ。

危害を加えるのは、自分がそう言う事を思い出したものに対して、自分であの野郎って、それが自分をいじめるんですよ。向こうじゃないですよ。思い出した事に対して、自分が、又つまらない事を自分でそう言うに思う。だから思い出した事は別に問題無いじゃん。思い出しただけだから、それで終わればいいじゃない。ほっときゃ必ず出てきただけで終わるさ。

音と同じ様に、パン!音がした時だけ聞こえる様に、思った時だけそのことがあるだけで、思ってない時は続く事はないから、大丈夫。エー。思ってない時まで続く様だったら、それは何とかしないと変になっちゃうからね。ところがうまく出来てるじゃない。思った時だけその事があるだけ、そう思えるだけ。だけど思った途端に、自分の考え方で相手にして行く。そうすると何時までも相手にしてる間はなくなりませんからね。

これがどうだ、これがどうだ、これはどう言う事だったって言って、手放さないんだものその事を、思い出した事を。すっきりする訳がないじゃない。握っといて、どうやったら放せるんだろうって考えてる。これ握っといて(物を握る)これがどうしたら手から放す事が出来るんだろうって考えてる。愚かでしょう。どんないい考え方が出来たって、握ってる間は離れませんよ。ああすれば手放れる、こうすれば間違いなく手放れるって結論を出したって、絶対離れませんよ。手放すって事はただこれだけですよ。(持ってる物を放す)他に難しい事何も無い。

「仏祖の師資なり、」師匠と弟子の様子として、「仏祖の皮肉骨髄なり。」この身体全体、どれを取り上げても、そう言う真実の在り様があるじゃないですか。それから例え従来の兄弟、それから全ての人々、衆生ですね、今まではそう言うものの、兄弟とか衆生とか分け方をして来たんだけども、ものがよく見えてみると、先程来話をしてる様に、本当にこのものの活動だけじゃないですか。

今日まで物を見て来たって言うけど、色んな物が在る在るって言って来たけど、それ何かったら、一人一人が見た物だけですよ。本当に自分が見た物だけですよ、在るって言うのは。自分の眼で見た物だけですよ。一切他の人の見たもの無いですよ。嘘だって思う人居るかしら。今だってそうでしょう。ここに色んな物、こう在る在るって言うんだけど、皆それは自分の見てる様子ですよ。他の人の眼で見てる様子なんか一切無いですよ。

あの人があんな事言ってる、この人がこんな事言ってるって聞くんだって、皆自分の耳で聞いてる様子ですよ。他の人の身体で聞いた音声は一つも無いよ。これから、ああ鳥が鳴いてるとか、虫が鳴いてるとか、猫が、犬が、赤ちゃんが茶碗の音がするとか歩いてる音がする、色んな音がするんだって、皆自分の耳で聞いてる様子だけですよ。それだのに向こうの音って言う風に理解してるんでしょう。自分の事とは別な事だって言う風に理解してませんか。一番厄介な事ですね、これね。

「仏祖これ兄弟なるがごとく」ってあります。それ位向こうとこっちが隔てがなく親しくなるんですね。ものが本当に分かると。自分を立てれば相手が必ず出てくる。自分を立てない時は、向こうとこっちの隔てがない。だから無私公平とか言う言葉使うでしょう。私が無いって言うのは一番公なものの在り方。上に立つ人は必ず無私公平でなきゃならない。私を問題にしない。そうすると公にものが見える様になる。私を立てたら必ず問題になるな。仏教では無願と言う事を言うんですよね。願を立てない。無心とも言う。心らしいものを立てない。それはものと本当に親しく一つになって生活してる時の在り様です。それを仲良しと言うでしょう。

赤ちゃん、何歳位までかな、三つ子の魂って言うから、大体緑子は三歳位まで、昔の人はそう言う事が、人間で行われてたと言ってるのでしょう。三つ子の魂百まで。私が見てるって言う赤ちゃん居ないからね。物を見て、私が聞いてるとか、私がおっぱい飲んでるって、そう言う認識をしてる赤ちゃんは居ないからね。飲んでるんだけども、これがおっぱいだって、、これが水だって、そう言う風な認識はない。認識は無いけど、水とおっぱい飲ませて、違う事がおのずから分かってる。

音を聞いてると思わないけどパン!(両手を叩く)こうやってやると、パン!(別の場所で叩く)こっちでやると、こうやって首を振る。ああ、それを見て大人は聞こえてるんだなーって安心する訳ですね。だけど赤ちゃん自身は、音を聞いたともなんともない。それ位自分を言うものが一切なしに、その音の通りに生活してる。『一人発真帰源』。

そう言う事が三歳位まで行われてて、人間の大人の脳と比べると、人間の脳の八割位は三歳迄にって言うのが学説でしょう。それで人間は育ってるんです。三歳までの間は一切自分て言うものは出て来ない。知らないんだよ。こうやって触れても、見てるとも何ともない。この通りこうなるんだけど、見てるとも何ともない。無感覚ではない。だけどこれが感覚だとか言って言う事もない。不思議な、兎に角不思議だね。

あの三歳位の間にですね、自我心が芽生えていたらですね、お母さん何で言うの?お父さんて、必ず反発されますよ。一切反発が出ないって言う事は、自我心が全く無いからですよ。赤ちゃんに。素直でいい子だねと親が思うけど、自我心が無いから素直になるしかないじゃないですか、エー。対立するもの持って無いんだもん。で、ものが分かるって言う風になるって事は、自我が芽生えたという風に言われる訳です。そうすると厄介な事になり始めるでしょ。何で言ってる通りにやらないのかと。

で、大人の方は、自分が言った通りにやる様に育てたいもんだから、そうすると、その通り育つと良い子だって言うけど、そうでないと何でって言っていじめるから。何を言われてるか、子供は分からないんだよ、本当は。それ位私達は自分の考え方を子供に押し付けて、何か自分の思う様に育てる事を、教育だと教えられちゃったね。本当は違うんじゃないかな。こうやって、『一人発真帰源』て、こう言う在り方を、本当に学ばせると言う事が真の教育じゃないのかね。

何回も繰り返すけども、だから例えそれが間違ったものでも、って言う様な事がここに出て来る。軸にある文言ですね。例えそれが「偽なりとも」、今のこの句は「超出の句」って言うのは、取り扱った人が、どう言う人がそれを正しく取り扱うかによって、価値が出て来る。

「たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、」首楞巌経と言うお経の中に書いてるからって言って、安易にそれが正しいとか間違っているとかって言う取り扱いをするのはどうかなと言ってる。そう言うのは、ものを学ぶのに力の無い人だと言ってるのね。鵜呑みにするのは駄目ですね。

どんなに素晴らしい人が話しをした事でも、鵜呑みにしてそれを善しとするんじゃなくて、検証、その内容をですね、自分の身心を、この身体を通してですね、実際に実践してみて、本当にどうなってるかって言う事に触れてみて、ああなるほど間違いないって言うその確証があって受け入れるって言う事が、ものを学ぶって言う事ですよね。

皆さんが色んなものを学ぶ時だってそうじゃない。分かりましたって言う時見てごらん。必ず自分のこの身心を通してやって、実践して、あ、こう言うことだったんだって、あ、なるほどこうすると、言ってる通りこうなるなって、それがあると自分のものになるのでしょう、初めて。それ迄は学んだって言ったって、自分のものになってないから、学んだうちに入らないじゃないですか。記憶をしてるだけじゃない、そう言う事を。それじゃ使い物にならないじゃない。だけど力のある人って必ずやるじゃない。

実践しないで、色んなもの書いてある本を一杯部屋の中にずーっと本棚にこう並べといて、何か質問したら、あ、この本にそう言う事が、答えが書いてありますよ、って出してきてどうするんだろう。エー。楽譜だって必ず楽器を通して音を出して初めて、楽譜の価値があるのでしょう。楽譜を並べておくだけでは音が聞けないんだよ。ベートーベンの書いた楽譜をここに置いといたって、別に音がする訳じゃない。だけど音がすると、ここに居る人が無条件で、音に触れただけで、皆その通りになってる。

実物ってそれ位人を教化する力が持ってる。何も知らない人が音をきいただけで、音の通り全部否応なしに変わって行く。すごいもんですよね。有難うって一言言っただけで変わる訳ですよ。だから人が聞いて。頭一つ下げただけで人が変わる、それを見て。そうやって使う。これ(身心)幾ら使ったって減らないもんだから、良いんだよ、使って。でもあいつだけには頭下げたくないって言う様なことは、厄介だね、何時までたっても。

「参学眼睛とすべからず。」こう言う様なものの学び方が間違ってる人は、眼が開いてる様な風には言われないって言うんでしょう。「而今」て言うのは今ですね。今の句を諸々の句に比べて、あーだこーだって言う様な事、「比論すべからざる道理おほかる」「そのなかに一端を挙拈すべし。」その中の一つを今日は道元禅師自分で取り上げたって言う事ですね。歴史の中にそうやって、あのお経は偽経じゃないか、本物じゃないじゃないかって言う様な事を言ってるものでも、見てみると、こう言う風に自分のお師匠さんがそれを取り上げて、それを話始めると、その元に書いてあった偽経とか云々とか言ってる様な事と全く違う味わいがするって言う事でしょう。

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