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正法眼蔵を学ぶ

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梅花  Ⅴ-4

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_04 _01
梅花 Ⅴ_04 _02
梅花 Ⅴ_04 _03
梅花 Ⅴ_04 _04


えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味ですね。これも多分そうですよね。


「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、
その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。


食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちにそこに入ってる。

仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。

だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。

ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。

それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。


ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんがおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。

それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」

まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけ
じゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。


えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。
そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。

ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。

孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。

それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。

まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。
そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。

眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。 (終)



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  1. 2018/10/08(月) 13:58:18|
  2. 梅花
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梅花  Ⅴ-3

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梅花 Ⅴ_03_01
梅花 Ⅴ_03_02


次の句ですね。五祖法演禅師のものとして、まあこれ丁度今頃の事考えてみたらわかるでしょ。東風のほうから寒風が吹いてきて、日本の国に寒い風が来て雪が例年よりかなり積もっております。そう言うな事ですね。北風。「朔風和雪振渓林(朔風雪に和して渓林に振ひ)」まあ、そう言う位でいいじゃないですか。

そして雪が降り積もると、万物を隠し、「万物潜蔵恨不深(万物潜し蔵るること恨み深からず。)」何もかも雪の中に、こう閉ざされてしまう、その中でただ山の上に咲いている梅だけが、その雪の中に紅一点と言う様な事ですかね。或いは「千山白漫々孤峰何によってか不白なる」。そう言う句もあります。見渡すかぎり山が真っ白なんだけど、どうしてあそこの山だけが黒いのかって言う。そう言うまあ公案でしょうね。そう言うものを見せております。

それは雪が幾ら深く降ったって、梅ノ木が雪に覆われず出てる事もあるでしょう。ここではあの梅と言ってますが、本当はお互いの事でしょう。そう言う北風が吹いて、雪が舞いそしてあたりを全部埋め尽くす中に、どんなに埋め尽くしても、自分自身は隠れる事はないですね。真っ暗になっても、自分自身は隠れて分からなくなることはありません。不思議なもんですね、自分自身て。人から聞かなくても大丈夫ですね。自分自身の様子って。真っ暗で、私何処に居る、なんていう人は居ないんじゃないですか。見えないから何処にいるって、そんな事ないでしょ。所謂見えなくてもはっきりしてるんですよね。分かると思うよ。

「唯有嶺梅多意気(唯嶺の梅のみ有りて意気多し)臘前吐出歳寒心(臘前に吐出す歳寒の心)」て言うのは、「ウ、ワー!だんだん寒いなー」(大声で)って言ってる様な状況でしょうかね。身に徹して寒い。一番よく分かる。他人の事じゃないもんだから、自分自身の様子なもんだから、誰に尋ねなくてもよく分かりますね、寒いって言う事が如何いう事か。説明なんか何も要らんねぇ。

まあそう言う事でいいと思いますが、道元禅師は「しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。」
本当にこの身の在り様以外に、生涯生きていたってないじゃないんですか。此処に説かれている様に。誰でもそうでしょ。短い時間を言えば、朝から晩まで一日の様子を見て下さい。本当にこの一身、自分自身の在り様だけが、ずーっと朝から晩までずーっとあるだけですよ。その在り様が展開されてるだけですよ、各自。ここでは歳寒心といってます。

「梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。」物と本当に一緒になって、ありとあらゆる千変万化しながら、ずーっとこうやって生きております。たまたま此処では、北風が寒い寒気を日本に連れて来て、そして上空のものを冷やして、そこに雪を降らしていく。私達もそう言う中にいると、それと一緒になって、その寒気の中で、雪の降る中で生活しています。

「はかりしりぬ、風をひき雪をなし」その「ひき」って言うのは、永平寺の本山版によって改めたとあります。元はシキって風をしきって。風をひきって言うと何かインフルエンザにかかったみたいに読むかも知れませんが、そう言うシキって事じゃないでしょ。風と共にって言う事でいいでしょうかね。一緒になりながら。

座布団をひき、ひくとかって言う意味ではないでしょうね。雪をなす、風を連れて来て、寒い風、北風を連れて来て雪を降らすと言う様な事でしょうかね。「歳を序あらしめ、」秩序の序、此処ではなんですか、一年に四季の順序がある。まあ雪が降る頃を、私達は冬と大体位置づけてるんですね。一年の中で。寒い時を冬と言って来たんですね。だから暦の上と実際がずれて来る。実際と言うものはずれませんね。暦はずれても。実際はずれません。寒い時は寒い、暑い時は暑い。

日本の様な国にはその四季があるもんだから、その中で色んな文化が育ってですね。私の家内なんかでも、和服の着こなしを勉強してるんだけども、つまらないとこでこだわってるんだなと思うんですが、暑いのに、今こういうものだって言って、着るんですね。暑かったら、もっと薄いのでいいと思うんだけど。寒くてもおなじですよね。桜の花のついてる模様とか梅の花がついてる模様とかって言うのは、なんだか聞いてみると、咲く前に着るって言ってますね。その時期の時には、その花のは着ないとか。何でって言ったら、負けると言うんでしょうかね。実際に、桜が咲いてる所に、桜の花の模様がついてるものを着ていったら、絶対その実物の桜に負けるのでしょうね。だからそれよりも先取りをして、少し前に着るって言うのが大体、作法だって言う風に決めてあるらしい。厄介な事になって。そう言うのもここらで言う「歳を序あらしめ」るのでしょう。

「および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり」。本当にこのもの無ければですね、この自分がなければ、ありとあらゆるものがあるという事が出て来ないんですね。不思議ですね。このものが消えると、一切のものが一緒に消えるんですね。ところが、人間の頭では、そう言う風に納得出来ないですよ。人間の頭って言うのは、私が全部、死んじゃって無くなったって、円通寺は無くなる訳はないなって、そう言う風に認識するんですよね。で、そう言う認識をした上で、お互いに話をする時に、あれも死んだけども、円通寺は無くなってないじゃないか、ホラ、人が死んだって無くなりゃしないぞって、こう言うんですね。そうすると、皆も、ウンそうだねって納得してるんだけども、自分が死ぬと言う事になると、一切が無くなるんですよ。

大地有情と一緒に出てきたんだ、これ、生まれる時。これが生まれたら、大地有情が全部出現したんだ。これが亡くなると、一緒に全部消えるんです。そう言う風に、これ活動してます。考えてる事と事実は随分違う。皆、梅花力と言われてますが、本当に各自の在り様でしょう。各自そう言う風になってる。だからすっきりするでしょう、終わったら人生。生まれて来る時もそう。



  1. 2018/10/08(月) 13:57:46|
  2. 梅花
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梅花  Ⅴ-2

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梅花 Ⅴ_02_01
梅花 Ⅴ_02_02


先だって東京に行って、雪がひどくて帰れないもんだから、ホテルを検索して、急なもんだから、泊まる所が無くなった。しょうがないなと思って、友人に泊めて貰った。そしたら、歓迎レセプションみたいな事になって、その内、津軽三味線を先ず弾いてくれた。男性ですよ。名取位まで行ってる。それが終わったと思ったら、今度はそこらにある剣だとか棍棒だとか、
色々な物持ってきて、武術を披露してくれた。

書道も四段だとかって言って、机の上に毎日書いてるらしくて、書いたものがあった。その後、手紙が来た。この前どうもって言って、手紙の中に、書道四段だけど、こんな字で恥ずかしいって書いてあった、自分の字が。だからお手本があって字を書く時には、それなりの字が学べて書けるんですね。だけども、自分で手紙を書こうと思うと、学んだ文字を使って書こうとする。本当は最初から自分の文字を書けばいいのにね。丁寧には書いてありました。

もう一つ武術を、その教えてくれた時に、ご本人が言ってたんだけど、あのやっぱり、前にそう言う事があったんでしょうね。人が来た時に、自分の持ってるものを披露して接待しようって事で、奥さんに「あの道具は何処へやった」って言って、探さしたんですって。そしたら、「あなたそれ、何するの」って言ったら、「いや、今剣法やって見せるので欲しいから、何処にあるか」ったら、「それはいいけども、実際にこんな事習ってて何の役に立つのって。もし敵が攻めてきた時、あの道具何処にあるかって言って、それ探してから、それで相手するのか」って言って奥さんに言われて、グーの根も出なくなって、「俺は何を一体やってるんだろう。武術ってこんなものか」って言ってましたね。

まあそんなんでしょう。考えてみれば、そんなの武術じゃないですよね。探してるうちに、終わりですよ。だけどそれがないと習ったものが披露できないって言って、それ探すわけですね。面白いなと思って。そう言うご夫婦の会話見てても。仏道の在り様って言うのは、そう言う事の時にもちゃーんと、人が如何に詰まらない事やっているのかって教えてくれるのでしょうね。

その方は18歳の時に一人でアマゾンに行って、部族の人と生活をなさった経験があったりなんかして面白い。一つの事やり始めたら、とことん究めないと自分で気がすまないタイプらしくて、最終的に禅に興味を持ってやってます。だから真面目にやってますね。そんな家に泊めてもらった、雪で。面白い事になる。まあ息抜きの話ですけども。

「古今寥々たり、何の極まりか有らん」本当に皆さん方のこの身体一つですよ。よーく学んでみると、飛びっきり上等な持ち物ですよ。出来栄えですよ。それだのにそれを知らないと、自分で人生を誤ます、嘆いて。「しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。」梅花の働きと言っていいでしょうか。働きって言う事は、皆さんが目と物とが触れると、必ずそう言う風に否応なしに、何者からもすっかり抜け切って、今の在り様だけで生活が完全に出来るって言う事ですね。

そのもの以外に見えないでしょう。皆さん見てください。こうやってて、そのもの以外のものは見る事ないでしょ、見えてる事の他に。何処へこうやって目を向けても、そのもの。要するに前に見たものが気にかかる人はいるかも知れませんよ。前に見たものが気にかかる人は居るかも知れませんけど、自分の眼がどうなってるかをこうやって検証してみるとですね、以前のものが何処にも無い事がわかるでしょう。気になってるはずなんだけど、無いんですよ。実際の眼の働きって言うものは。

どっちを皆さん信用しますか。自分の頭の中で先っき見たものが思い浮かばれてですね、それを問題にする方を信用するんです
か、それとも自分の眼を、本当にこうやって物を見てる時に、今のもの、他のもの一切なしに見えてる、こんなに底抜け素晴しい
働きをしてる方に賛同するか、どっちでしょうかね。

もし仏道を学ぶ人だったら、この事実に学ぶのでしょう。自分の今の眼はこう言う風になってる。考え方じゃなくて。これはこれから作るんじゃない。既に出来てる成仏なんですよ。そんなにうまく出来てるものを、自分が使ってるにも拘らず、それを知らないから、無いと思ってるのと同じですね。貧乏人だと自分が思ってるのと同じなんですよ。こんな豊かな生活が出来てるにも拘らず、これ知らない。そう言う人に限り、まだ何かしないと気がすまない様な生活になるから、不思議ですね。ものが分からないと、余分な事一杯やるんだよ。疲れ果てちゃう。

「行雲行雨は梅花の千曲万重色なり。」無限の、さっきやりました、何の極まりかあらんて言う、そう言う句を、道元禅師はこう言う風に表すんでしょうね。「千曲万重色なり」限りない働きでしょう。「千功徳なり。」それらも、そう言う事の表現の仕方でしょう。「自古今は梅花なり。」梅に限った事じゃないですよ。梅の花に限ったことではないけども、今梅の花を一つ手折ってですね、その一輪の梅の花を相手に、これだけの仏法を説くのでしょう。たったそれだけですよ。梅の花に触れている事だけで、道元禅師は仏法の真髄を説くんですよ。どうなってるかを。一般の人はただ梅の花をみてるだけです、悪いけど。その位で終わるんです。同じ梅の花と出会っていて、これだけ豊かな内容を知り得る力と、ただ梅の花を梅の花として見えるだけで終わっている人とは違うでしょう。

「梅花を『古今』と称ずるなり。」今も昔も梅の花に触れれば、必ず梅の花に触れた様になると言う事が、その証拠でしょう。昔はそうだったけど最近は違うって、梅の花に触れたら菜の花の様に見えるって、そう言う事はないでしょう。それだから、仏道として信用できるんじゃないですか。人が作ったんじゃないっですよ、そう言う風に。梅の花に触れたら、梅の花が見える様にって作ったんじゃない。一切そう言う所に人らしい気配がない。

因果の道理人我無人、とかあるでしょう。因果の道理、私無し。修証義読んでるから、そう言うのが浮かぶでしょうけど。因果の道理の中に私なし。そう言うものが入らない。本当に目と物とが触れると、梅に触れれば、梅に触れた様になるって事が因果の道理なんです。ここに私がどうかするって気配がない。そこへ入り込んで。それが所謂法と言われてるものなんです。法の在り様ってのは、そう言う風に出来てる。それを私達は自分のこの身心の上で、本当に参究してみるどうなってるか、とことん知り尽くしてみる。そう言う行をしてるんでしょう。



  1. 2018/10/08(月) 13:57:24|
  2. 梅花
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梅花  Ⅴ-1

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梅花 Ⅴ_01_01
梅花 Ⅴ_01_02
梅花 Ⅴ_01_03
梅花 Ⅴ_01_04
梅花 Ⅴ_01_05



もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の
梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのとこも対面不相
識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さら
にもとむるやみね。

先師古仏云、
明々歴々、     《明々歴々たり、
梅花影裏休相覓    梅花影裏に相覓むること休みね。
為雨為雲自古今    雨を為し雲為すこと古今よりす、
古今寥々有何極    古今寥々たり何の極まりか有らん》

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花
なり。梅花を『古今』と称ずるなり。


古来、法演禅師いはく、
朔風和雪振渓林   《朔風雪に和して渓林に振ひ、  
万物潜蔵恨不深    万物潜し蔵るること恨み深からず。
唯有嶺梅多意気    唯嶺の梅のみ有りて意気多し、
臘前吐出歳寒心    臘前に吐出す歳寒の心》

しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。はかりし
りぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり。

太原孚上座、頌悟道云《悟道を頌するに云く》、
憶昔当初未悟時、  《憶昔当初未悟の時、    
一声画角一声悲    一声の画角一声悲なり。
如今枕上無閑夢    如今枕上閑なる夢なし、
一任梅花大少吹    一任す梅花大少に吹くことを》

孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」

言わんとしてる事はですね、そこにも有りますけども、誰でもが普通に経験してる事だと思いますが、此処にも、臥龍梅と言う名前が付けられた、本堂の前に紅梅がこうあります。ちょっと暗くなったから、花が見えづらいかも知れませんが、咲いております。そう言う、皆さんが梅の花の咲いている所に、こう通りかかって、こうやってやると、梅の花が、枝も勿論でしょうけど、その他の事も全てでしょうけども、代表して梅の花が、こうやって咲いている所に目を向けるとその通りに見えるという事が、ここで取り上げられてる事なんですね。

だから、こう言う様な事は一般にですね、何でそんな事が、その問題になるかって言われる位、あまりにも平凡な事に違いないんですね。だけども、仏道と言う、仏道、仏様の教えって言うものは、そう言う誰しもが、日常生活で使っている上の話なんですね。これはとっても考えてみれば、大事な事でしょう。私達が日常生活無縁の、使ってない世界の話を取り上げて、何かする様な仏道だったら、一般の人に全く必要ないんじゃないですか、最初から。毎日誰でもがその様に使っている中に、私達がもう一度見直さなければならない大切な事があると言う事なんでしょう。

「もしおのづから自魔きたりて、」ってありますが、自分の中で、ふっと何か自分流のものの捉え方、見方、考え方あるいは取り扱い、そう言う様なものがふっと起きると、目と梅の花の関係においてですね、そこに余分なものが、こう生まれてくるんですね。だけども、これが本当に自魔と言われる様なものが無い時には、自ずから眼は梅に触れると、いきなりその通りの事がそこに展開されます。まあ、段階を追って話をすれば、梅の花に向かうと見えるって言う風に皆さんは使っております。だけども、梅の花が見えるって言うんだけども、本当はそんな気配はない。

どういう事かって言うとですね、仮に今皆さんが目を閉じてですよ、目をパッと開けて見てください。パッと。実験だからやってみて下さい。目を閉じて、目を開けて下さい。どう言う風になってますか、皆さん方、その時。目を開けたら見えたって言うんですか。これ普通そう言う表現してるでしょ。目を閉じてて、目を開けたら見えたって言うんでしょう。じゃあもっと丁寧に話をしたら、自分で何か見たらしい気配がありますか。目を開けただけでしょうが。開けたらもうあるんでしょう、イキナリ。開けた瞬間にあるんでしょう。
見るって言う様な気配は全く人の上に無いはずだ。そう言う事が、仏道の上で問われてるんですね、日常の上で、私達は。

それが修行なんですよ。修行するってそう言う事なのね。あの坐禅の中でもよく使われておりますね。どれが最初かしりませんが、この調えるっていうんですね。目をパッと開けた途端にですね、その目の前に咲いている梅の姿を、私達は何にも手をつけないのに、その通りにきちっと乱れる事なくその通りに、梅の花の通りに、この身体が頂く事が出来てる、それを私達は調身といいます。身を調えると言います。

ところが一般に坐禅の時に身を調えるって言うのは、そう言う風には受け取ってません。どこかを手をつけて、直して行くって言う風に、調えるって言う字を読んでおります。心だってそうです。本当に何もしないのに、梅の花の所に行ったら、否応なしに梅の花の様に全部なります。これ、自魔のない証拠です。自分の中に余分なもの一切ない時の様子です。

だから坐禅は大安楽の法門なんでしょう。イキナリその事で完成してる。手をつけなくても。何処にも、その、何かしなければこれからちゃんとしないじゃないかって言う気配は一切ないほど、きちっとした事してるんですね。だから、菩提を究尽するの道とあります。本当の、その今の在り様を徹底、知り尽くす唯一の道ですよね。その事から一つも離れてませんから、その事実に触れたら、否応なし誰でも、その事実の通りになる様になってます。


ましてや坐禅は習禅にあらず、練習をしてそう言う風な見方をするのではない。何回もやったら、そう言う風に見える様になる訳じゃない。必ず、皆さんが見てる時そうでしょう。イキナリ一回こっきりでしょう。その時、必ず今やってる見方しか生涯生きててもないですよ。前のものを使って見るって言う事はありません。いつも今の眼の様子だけで、その通り見える様になってる。習い覚えて段々はっきり見えるとか、よく分かる様になる、そう言う様な事ありませんね。ここでは梅花は仏様の目です。眼睛。

「梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし」梅の花とお釈迦様の目の様子が別だって考えてる人がいる。よくよく見てごらん。「このほかに何法」ですね、何か法らしいものですね。「梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」何をもって眼というのか。眼は梅の花を借りて、梅の花が見えるのを眼の様子と言うんでしょう。だから、眼だけ有って、皆さん方が眼が如何いうものかを知る事は出来ません。眼の対象となるものに触れると、見えると言う現象がありますから、それに拠って、眼は物を見る力が有るって事を始めて知るのでしょう。

要するに、目と物は別々でないと言いたいのですね。その証拠に、皆さんが日常生活、こうものが見えてる時に、眼で物が今見えてるって、誰もそんな事言いません。眼なんかすっかり忘れてます。この見えてる事自体、最初から眼の様子なんですね。それ以外に眼の様子は無いでしょう。だけど、学問をし、色々教えられるもんだから、人間に目と言うものがあって、それが物に触れると見える様になってるって、そう言う働きを持ったものを人間が持ってるから、見えるって教えられたんですね。

だけども、これもよくよく考えてみるとですね、そんな事を学問もしない、誰からも教えられなくても、生まれてから後ですよ、何時自分が物を見たか知らない時から物が見えてるんですよね、小さい時。幼い時自分が物を見てるなんて誰も知りませんよね。何時ごろから、自分が物を見てるって言う様な事が、認識できる様になるんでしょうかね。或いは、もう少しよく使われるのは、これを私だと思う様になったのは何時ごろからでしょうかね。私がいるなんて、生まれて来た子供達は知らないんですよね。これが世の中に出て来たんだけれども、これが私だなんて、そう言う認識は全くなしに生活してる。


じゃ、認識が無いから、物に触れた時に見えないのかって、あるいはおっぱい吸った時に味がしないのかって。おっぱい吸ってるって認識が無くてもですよ、味はちゃんとするんですよ。だけどそれは認識の上で、これはおっぱいの味だって言う風に自覚はしてないですね。そう言う認識はしてない。だけども、間違いなく体感として、水を飲む時とおっぱいを飲む時、身体がちゃーんと違った反応してる。そう言う事は全部人が作ったのでないって言う事の証でしょう。本来のものって言うのは人が作ったんじゃない。


音がすると聞こえるって言うけど、本当に音がしたら聞こえるんじゃなくて、何だろう、音がしたら聞こえるんじゃないんですよね。
コン!(机を打つ)わかりますかね、そう言うの。常識の勉強して来た人だと、中々わからないですよね。コン!確かに音がしなくちゃ聞こえないでしょう。コン!だけども、コン!なんだろうね、これね。コン!どうなってるのかね。コン!こう言うのだってコン!耳を持って聞くような人は一人もいませんよね。カチって言うだけですよね。

だから、無眼耳鼻舌身意と般若心経にある。眼も耳も鼻も口も、舌も無いと書いてある。無眼耳鼻舌身意。本当にそう言う働きしてるんじゃないですか。ご飯食べたって、舌が味を味わっているって言う様な事じゃなくて、味がするばかりで、舌なんか何処にもない。痛いーって言ったて身体がある訳じゃない。身体認めてる訳じゃない。痛いって言うだけで、そう言うな事行われてる。そう言うに般若心経の書いてある。無眼耳鼻舌身意、所謂人間が認めている様な、そう言うものが、実際に活動してる時に、何処にも見当たらないと言うのでしょう。

それは眼って言ったら、梅の花なんです。ここで道元禅師がおっしゃってる様に、眼と言ったら、御釈迦さんの眼はどんな眼だったのか、梅の花なんです。「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、」書いてあります。梅の花が見えてる事の他に、眼って言うのをどっか求めたら、それこそ「いづれのとこも対面不相識なるべし」出会う事はないとある。眼と梅の花が出会うとですね、ただ、梅の花が咲いている様子だけがそこに出てくる様になってる。それを本当に梅の花に出会ってる時の様子というのですね。その時は眼らしいものは無い。

その眼らしいものが無くて、梅の花の様子だけがある事を、私達の眼の様子と言うのでしょう。「相逢未拈出」本当にそうです。目と物が出会ったに違いないでしょう。だけど眼らしいものは何処にも出て来ないよ。出て来るのは、ただ梅の花が咲いている様子だけがある。「今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。」一々が公のものなんでしょう。

だって、私が梅の花を見てるっていう風な風に、梅の花は見えた事がない。今の梅の花を見てても。私が梅の花を見てるって言う風に、梅の花は見えない。ただ、本当に誰が梅の花に触れても、その通りに見える。それ位無私公平です。争い事が一つもない。そんな穏やかな生活がみんな出来てる。もしそう言う自分の在り様に気づいたら、人は変わるでしょう。そうでなければ、一般に言う様に、自分を立てておいて、そして今の自分を見て、どこかを修正して、もっと素晴しい自分にしていくって言う様な修行しかないんですよね。それは仏道とは違うんです。お釈迦様が本当に自分の真相を、自分の本当の在り様に気づいた内容とは違うんですね、それは。人為的に、人が作っていく在り様でしょ。

何故そう言う事が、その言われるかって、先ほども挙げた様に、人が生まれて暫く、こう生活してる処を見てもですね、振返ってみて、人らしいものが一切ない、分け隔てるものが一切ない。本当にうまくピターっと整ってるのでしょう。仲良く生活が出来てるのでしょう、争わずに。どんな事にも。そうやって大きくなって来たんですね。大きくなって来る間に、何時か知りませんが、これは私、それ以外は他のものって言う風に分け始めて、そしてお菓子を分けてもですね、大きい方をパッと取って、そうしたりですね、一つずつ分けたのを、二つ掠め取ったりして喧嘩する訳です。それは私のだなんて。

そのもちょっと大きな事言えば、世界の混乱もそうでしょ。わが国の範囲のものだって言って、海の上にも線を引き、空にも線を引き、地球の大地の上にも線を引いて境界線を作って、自国の利益の為に、お互いが力を出しあって、争って、それを確保する。まさに私達がすこし大きくなって自分て言うものを認めたのと何ら変わらない事ですよ。それが世界を乱すんですよ。

今こうやって生活してても、毎日の中で問題が起きる時は、必ずそこに自分で一線を引く、引いて相手が言ってる事が気に入るとか入らないとか、言う様なことが自分の上に出て来るから、そう言う処からものの在り方を学ぶって言う事が、それが一般の教えですよ。仏道は違いますね、根源です。元がどうなってるかって、一番最初にどうなってるか、そこを見てます。

こうやって、コン!(机を打つ)必ず一緒になるように出来てるんですね。否応なしに。コン!
こうやってやったら、音と一緒になれるようになってる。どう言う風に聞いたら一緒になれるかってって一切使わなくても、音がしたらその通り、必ずそれ以外の聞こえ方がしない様に出来てる。自魔、自分の中に障りになる様なものが起きないんです。
そう言うのを本当に体験して伝えて来られたのは、お釈迦様じゃないですか。それでここに、「瞿曇の眼睛」
って言う様な事が出て来るんでしょう。仏様の眼。仏様の眼って言うのは、そう言う時の私達の本当の在り様の事を、代表して挙げてるんですよね。

「直に梅花眼睛を開明なるべし、」いいでしょう、直にって。時間も距離も一切ないじゃない。これ修行するのに、最高の修行の仕方でしょう。時間も距離も何もない。いきなりコン!ちゃんとその事が出来る様になってる。どうしたら、そう言う風にうまくいくかって一切そんな事要らない。直って言うのは、間へ何も入らない。直(チョク)って言うのはそう。イキナリと言う意味でしょう。あの、イキナリって言うと、時間がかかるんですね。

しょうがない、その位にしか言い表し様がないから、その位で我慢してる訳です。だけどこうやって、ガー!(大声で、机も打つ)って
言った時に、こう言うのイキナリとは言わないでしょう、この事実をみてると。そんなもの一切なしで、ガー!っと言うだけですよ。そう言う消息が、本当は直下承当なんでしょう。イキナリその事がその通りに受け取れる様に出来てる。修行の在り様です。そう言う処を見ると、「梅花眼睛を開明なるべし」はっきりしてるって言う事でしょう。

「さらにもとむるやみね。」とありますが、もうその他に何にもする用ないじゃないですか。それが本当に、梅の花を愛ずる時の在り様なんじゃないですか。ところが人間の梅の花を愛ずるってのは、綺麗に咲いてるねとか、色んなそう言う風な思慮分別を、いっぱい自分の中で起こすから、そう言う事を梅の花を愛ずるって言う風に捉えてるんです。よく考えてみると、それは梅の花を見てるんじゃなくて、皆考え方の上の話であって、実際の梅の花とは全く離れた話でしょう。

自分の中を見て下さい。頭の中で梅の花の事を色々考えてる時に、実際そこに咲いている梅の花の前に居ながらですよ、梅の花を本当に観察するとか、触れるとか、匂いをかぐとか、形がどうなってる、色がどうだとかって言う様な事やってる人はいません。出来ないんです、こっちの頭の中でやってる事があると。それ位事実から離れてるんだけども、その事さえも知らないですね。本当に目の前にある梅の花を相手にしてると思ってるんです、ここで(頭)。違いますよ、全く。この頭の中で取り上げてる話だけですよ。それを止めると、ここにある様に、はっきりするんです。そう言う事が、お釈迦様が歩まれた道でしょう。まあそれが、ちょっとそこにひとくだり、一下りです。そう言う事が大体書いてあるんです、ここに。

後は、道元禅師、漢詩もお好きなもんだから、こうやって色々な方々、歌を詠まれた漢文をですね、取り上げて味わっておられるんでしょう。私達は漢文に不慣れなもんだから、中々漢詩をこうやって出して下さっても、味わいを十分に味わう力が無いと言う事があるかも知れません。

如浄禅師の作られたものでしょう。「先師古仏云、明々歴々、(明々歴々たり)」一点の疑い様がないというんで
しょう。梅の花の時に、霊雲の話を出しても、ちょっとずれるかも知れませんが、霊雲の志勤禅師が桃の花の咲いている処で悟りを開いた。桃花をみて。明々歴々なんですよ、明々歴々。どの位明々歴々かったら、すっかり自分を忘れちゃうんですよね。

梅の花を、桃の花の咲いている畑の中に、こうやって佇んでいて、すっかり自分を忘れて、桃の花の様子だけになってしまう位。
それまではやっぱり、桃の花は対象物なんですよ、自分と。向こうにある。それを眺めているって言う気配が、人にはあるでしょうね。それが眺めるんじゃなくて、自分らしいものがすっかり消えると、桃の花の様子だけになる。そう言う体験があるもんだから、お悟りを開いたと言う事になるのでしょう。そう言う事が、次の句に反映するんでしょう。

「梅花影裏休相覓(梅花影裏に相覓むること休みね。)」下の方に(脚注)色々書いてありますが、こんな説明、
理由は一切要らないんじゃないですか。実際自分の目でやってみればわかるでしょ。「梅花は自己の眼睛である。瞿曇の眼睛であ
るから、だから梅の花の前にあると梅の花が見える」なんて、そんな屁理屈一切ないんじゃないですか。無いでしょう、そんなもの。

なぜか梅の花の前に行くと、梅の花がその通りあるんじゃん。だけど、どこかしら自分が見てるらしい気配が自分の中に残るって言う事が、もう一つ問題なんでしょう。本当に梅の花が見えてる時、人間て自分らしいものは一切ないと思いますよ。
日常茶飯、色んな処で注意深く過ごしてみて下さい。我を忘れてるんですよ。

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり、とありますけど、初めから、自分らしいものはすっかり無しで生活してる。その時の自分の様子に学ぶ、と言う事が説かれてるんですよね。何かした拍子に自分らしいものふっと出て、そして対抗する。それまでは自分らしいもの、殆ど人は、生活の中で見てませんよ。うまく行っている時は正しく、自分らしいものは本当に顔を出さない。初めからそう言う風に、自分らしいもの無い様子が人にはあります。そこの処に参じてほしいんです。そう言う生活をしてる。

「為雨為雲自古今(雨を為し雲為すこと古今よりす、)」まあそれは風景の様子でいいでしょう。「古今寥々有何極 (古今寥々たり何の極まりか有らん)」こうやって生活をしてる、眼と物が触れ合いながら生活してるけど、その様子を見て下さい。雨にもなれば雲にもなる。そしてずーっと、何時始まって何時止まるともなく、この眼と物との関係がずーっと繰り広げられて、もう疲れちゃってみる事が出来ない、嫌だなとかって言う風に、眼はならない。病気をして眼が、白内障とか失明すれば別でしょうが、そうでない限りは眼はですね、こんなに沢山みるのは嫌になったって、今日は止めだって言う様な事はない。

本当に一日中の様子を見たって、此処にある様に「有何極 (何の極まりか有らん)」幾らでも入るんです。幾ら見ても、一杯になって、もうこれ以上は見る事が出来ないって言う様な眼はない。何処に見たものが入るかわからない。でもいつでも、イキナリきちっと生活が出来る。用意をしてなくたって、其処行ったら、その通りの事がすぐ出来る。準備していなければ、物がちゃんと見えないって言う様な事は眼にはない。もしそんな眼だったら役に立たない。



  1. 2018/10/08(月) 13:56:55|
  2. 梅花
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梅花 Ⅳ-4

音声はこちら ↓

梅花 Ⅳ_4_01
梅花 Ⅳ_4_02
梅花 Ⅳ_4_03
梅花 Ⅳ_4_04
梅花 Ⅳ_4_05



先師古仏云、「本来面目無生死」よく聞く言葉かも知れませんね、お坊さん達は。如浄禅師の句でしょう。お医者さんのお葬儀の時に唱えた引導の言葉とかあります。「本来面目無生死」「春在梅花入画図(春は梅花に在って画図に入る)」描いた絵です。

一幅の軸に梅の花が描いてある。それが、「春在梅花入画図」って言う表現でしょう。春を描く、「春を画図するに」春を描く。春を描く時に、柳や梅や桃や李を描くべからずとあります。「まさに春を画すべし」春を描きなさい。柳や梅や桃や李を描くと言う事は、柳や梅や桃や李を描くと言う事であって、春を描くと言う事ではない。確かにそうだなと思いますね。


じゃ春ってどうやって画に描くのでしょう。道元禅師って面白い人だねぇ。本当にこう言うの読んでると。春は描けない訳じゃないと
書いてある。「春は画せざるべきにあらず」と書いてある。じゃ、そう言うものを使わないで春の字も書かないでも、春は描けるじゃないかって言うんでしょう。

「しかあれども」だけども、如浄禅師の他は、インドも中国に来てからの間でも、春を本当に描いた人は一人も
いない。一人如浄禅師だけが春を描く事が出来た。その描き方や鋭いとあります。どの位鋭いかって、今こうやってる事を、いきなり此処で、そのまま見せる力があるのでしょう。これ位鋭いものは無いでしょう。今の様子を、今ここで、いきなり誰にでもきちっと突きつける。皆さんに、皆突きつけられてるんでしょう、今の様子を。突きつけられてない人は一人も居ないはずですよ。

「いわゆるいまの春は画図の春なり、『入画図』のゆゑに」例えば皆さんが、ものがこうやって、障子があるって言う風に言ってるんだって、皆、これは描いた様子でしょう。眼と物が触れると、そう言う事がそこに出てくるのでしょう。実際に自分の眼の中にこういう物がある訳じゃないでしょう。ある、ある、って言ってますけど、ただ眼と物が触れると見えるって力があるから、見えるとか有ると思ってるんですね。それだけですよね。

音だってそうでしょう。音が耳に触れると音がするもんだから、音があると思ってるんですね。本当にそう言う活動って言うものは
有りそうなんだけども、何処にもない、何処にも無い。触れると音がしてるって言うけれども、自分の中に音らしいものがどっかに
有る訳じゃない。みんな描いた画の様なものでしょう。

こうやって確かに見たんだけれども、何処にも無いんだもんね。確かにみて、こう襖が、こうやって今見えたって、これ程確かな自分でも実感があるのに、こうやった時に(目を転じる)、障子が見えるだけで、何処にもさっきみた物がない。それ位画に描いた餅なんでしょう、皆。画に描いた餅で、腹一杯になるんですよね、ちゃんと。

音でも、こうやって、コン!カチッて、音がして聞こえたのに、どこにも音がない、探しても。聞こえたんだけど、ない。よく使われるけど、実相は無相と言う。本当の姿は、形らしいものが一つも無いって言われてます。池に映った月の様だ。月がそのまま見えるんだけど、掬っても掬い取れない。だけど、人間はそうやって物を見た時に、有るって言う風に見てますから、それで、有る有ると思ってるんですね。有るのはこのものの今の活動だけですよ。

それがここで言う、入画図って言うんですね。画図に入るって。画図に入るって言う事は、このものの上の様子なんですよ、皆。一切のものは、このものの上の様子です。音がしたとか、見えたとか、味がしたとか、触ったとか、挙げてもいいけど、全部この上に描かれたものの様子だけです。一歩もそれ出ないよ。あたかもそっちにものが有る様に見てるじゃないですか、それ。ねえ。こうやって皆向こうに物がある様に見えてるじゃないですか。だけど、それ全部自分の上に描かれた様子ですよ。

コンコンコンコン(机を打つ)どっかあっちの方で音がしてる様に受け取ってるかもしれないけど、コンコンコンコンこの音は全部自分の上に描かれてる今の様子ですよ。そう言う風に、この入画図、画図に入るゆえに、道元禅師が言ってますけれど、「これ余外の力量をとぶらわず」本当に外の人に用がないね。皆一人一人、ちゃんとそう言う風に出来てます。

「たゞ梅花をして春をつかわしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。」春は画図する、春を描くって言う時に、何か紙を持ってきて、筆を持ってきてそこに画を描くって言う様な事じゃないって言う事を、一括りに言ってるのですね。本当に春を描くって言う事は、この自分自身の上の、今の在り様を除いて、本当の春を描くって言う場所が無いって言うんです。それも今、抜き差しならない、一々の今の様子の上でしか、この本当の春の様子に触れるってことは、描き切るって言う事は、他では無いって言うんです。


そう言う風にして如浄禅師は春を見事に描いた人だって言うんでしょう。本当に春を描き切ってる。もっと平易に言えば、春と一緒に本当に生きてる人です。全身春の真っ只中にいる。春そのものを自分の内容として生きてる。それ位見事に描き切ってるとこう言うんでしょう。生きた春を描くんですよ。道元禅師がそう言う味わい方を教えてくれてますね。


それは、如浄禅師の、ものを本当に真髄を見極める眼があるからだ。「正法眼蔵あきらかなるによりて」ものが本当にどうあるか、どうなってるかって事が、本当に髄の髄までわかってるから、そう言う事が言い切れる、伝えきれる。そう言うものの在り様、「この正法眼蔵を過去・現在・未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。」集まってる人達に、仏祖方は正しく伝える。誰もがそうなっているよ、よく見てご覧、よく自分の在り様に参じてご覧、と仏祖方は教えて下さってるって言うんですね。「このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。」本当に皆さんの目で実験して御覧なさいって言ってます。

人間は常識を超えられないものとして、目を開けると物が見えるって言う風に、すぐそうなるんだよね、人間はね。開けたら物が見えるなんて言う風な、見え方はしないですね。こうやった時に、もう見えるって言う様な余地はない。時間的な隔たりはないんですね。何か向こうに有る物、こう人間がこっちに居て自分が見るって、常にそうやって理解してるけど、そう言う在り方じゃないですもんね。

気づくと言うことは気づく前にあるもんね。こうやって、もう見る前にちゃんとある。見えてるって言う表現も当たらないでしょう。見る前に見えてるって言う様な表現も当たらない。見たって言う事、知らないんだもの、見る前にちゃんとこうなってるからね。でもこれ(自分)を認めてる限りは、どうしても、こっから向こうへ物をって、向かってるんですね。音だって「パン!」(両手で打つ)そうでしょう。音がするのが先か、聞くのが後かって、「パン!」聞くのが先で、音がするのが、って言う様な事やりますけども、本当は後先無しです。

実相に二相なし、って言う。本当の物の在り様には、二つの姿はない。「パン!」向こうで鳴って、こっちで聞いたって言う様な事は、「パン!」ないですね。表裏一体。向こうとこっちを立てたにしても、一体なんですね。二つ物がある訳じゃない。「パン!」

紙の裏表を言いますけど、切って切れないのですね。絶対に。私はよく使うけど、表だけの紙って言うのは絶対に無い。裏だけの紙って言うのは絶対在り様が無い。紙は必ず裏表があるんだけども、一枚です。二枚は無いんです。裏表があると二枚の様な気がするじゃない、二つの物がある様に思うじゃないですか、裏と表って。ところが、必ず一つですね。やってみたらわかる。こうやって裏表があるけど、こうやった時に(表を見せる)裏が見えるって事はない。

こうやった時、(裏を見せる)表が見えるって事はない。じゃ半分に折って、こうやってやってみても、どうなるかって、少しずらして
みても、ずらしたら、ずらした様子がただ一面としてあるだけであって、二つの様子が出てきた事は、どんなにしてもないんですね。でも人間はちゃんと裏と表って二つみるんですね。どこでそう言う風に変わるんですかね。こう言う事が眼睛を究徹すると言う響きの中にあるでしょう。

本当に自分の眼で、徹底究め尽して御覧なさいって、どうなってるかを。私達が常識として知ってる物のあり方とは眼は違う、と言ってるんでしょう。ずーっと話をしてますけれど、こうやって、これだけで、自分の眼で、こうやって、本当にどうなってるか、徹底して研究して御覧なさい。何でこの通り、ずーっとこうなるんですか、この通り。自分で何かその通りしようと言う気配は全く無いのでしょう。眼がこう有るんだけで、こうなるでしょう。その通り見ようと思わなきゃ見えないかって言うと、そんな詰まらない眼じゃないでしょ。

そんな事しなくても、眼はこの通り、こうやって。この通りって言う事は如何いう事かって、詳しくこうやって見ていくと、入れ替わるのか、前に見てたものと次に見えるものが入れ替わるのかったら、如何ですか。皆さん、こうやって、入れ替わるんですか。自分の眼で勉強するんですよ。究徹する、究め尽して、徹し切る、本当に如何なるか。入れ替わった試し、ひとつもないですよ、入れ替わった事は。こんなに違うんですよ。私達が考えてる事とこの目の様子は、徹底違います。

難しい事一切無いな。何にも難しい事はない。この通りこう。まだ一杯出てきますよね。どうしてすっかり離れ切っちゃうのか、前の事から。前の事は確実に無いんだもんね、こうやって。何かして離れたっていう事でもない。捨てきったとか、言う事一切しないんだけども、そう言う風に出来てる。問題が起きない様に出来てる。道元禅師とか如浄禅師って言う方が何で凄いかって言うと、たった是だけの自分自身のものの上で、これだけの事を見るって言う事ですよ。本当にそうやって勉強してきたんです。自分自身で、自分自身の身体で。他の人たちは殆ど理解なんですよ。

書いてあるものを見て、それを理解していくんです。道元禅師は実証してきたんだよ。一々其の書いてある事が本当かどうか、この身体で。そう言う人たちです、如浄禅師にしても。こんなに素晴しく出来てるんだけど、これを使わないんだもんね、私達は。やっぱり、それは理解しただけで終わって。そうじゃない、この内容を使うんでしょう、この通り。こうやって生きてるんでしょう。やれてる、だからいいんじゃないですか、念をおしますけど。

これからそれをどうやって、そう言う風に作って、毎日の生活の中で生かすかなんて言う様な、そんな悠長な事じゃなくて、今、実際に誰でもが、そう言う風にきちっとこの目がやれてる、だからそのまま頂いて、そのまま生活すればいいんじゃないですか。使わないんだったら、宝の持ち腐れですね。これだけ話しても、考え方の方で使うんですよ。考え方の方を大事にするんですよ。自分の事実がそう言う風になってる事を、そのまま使っていく人は殆ど居ない。

そのために、所謂何回、長い間、聞いて、聞いても中々納得がいかないな、って言われるけども、納得はここ(頭)でやるんじゃない。事実が教えてくれるんですよ、否応なし。事実で降参するだけです、こっちは。お手上げになるだけです。私の追求する事では間に合わない。それで自己を忘ずるとか、自己を離れるとか、自己を忘れるとか言う風な言葉が出てきます。事実に参ずると、必ずこんな自分の考えてる様な事なんか、皆どっか行っちゃうんだよ。

皆さんが生活してる中で、知ってるのは、人の為に一生懸命やり始めてる時に、見て御覧なさい。自分の事を気にかける人は一人も居ないじゃないですか。それが素晴しい生き方をしてるって事でしょう。自分が回って探さなくても良いんですよ。人の為に本当にやって自分を忘れている時が、このものが最高の生き方をしてるでしょう。それだのに、何か人の事をやって、自分の事をやってないなって思う人が時々いるもんだから、変になる。そうじゃないでしょう。

この前、NHKなんかみてた。あれは何だろう。天体望遠鏡か何か、砂漠の中に何かある。アメリカや、後どこだったか、2,3カ国が共同で開発して、大きな天体望遠鏡、それをまとめてる方が日本の方でしたね。40代の男性、やっぱり凄いなーと思った、発言が。「私は自分の事一切考えた事無い」って。「これが本当にただ成功して、皆さんの役に立つのに如何したらいいか、それだけを考えてチームをまとめてます」って。

初めに参画した時には、日本なんかその枠の外に置かれて、一切問題にされてなかったんだけど、その人が、コツコツそうやって
やって、日本の技術を伝えた。今は世界の人たちをまとめる位置に立ち、その若い40代の人がいる。吃驚する。やっぱり凄い人だなって、私、思いましたね。

私達が力が出ない時には、間違いなく自分の事を考えてるんです。自分の事を考えたら、力が出ないね。人のためになんか、とっても力が出せない。これ(自分)を先ず守るんだもの。だけど、これを守った後、余力があったら、人のために何かやろうってだけですからね、大した力が出ない。だけど力のある人は、こんなものは如何でもいいって言うんです。だけど、どうでもいいいって言うんだけど、人の為にやってる事がこのものの全てですからね。このものを生かしてる全てですからね。

そうは思えないんだよね、人の為にやってると思うと。ものがよく分かってる人はそうやって自分の事を捨てるって言う事が、本当にこのものを生かしている時の在り方だって事を知ってるんでしょうね。恐ろしいなと思う位、なんだか力のある言葉だね、聞いてて。実際にそれが役に立つし、動かすんだから、凄いなと思う。だから何時の時代でも、そう言う人が歴史上に居るんでしょうね。

奥書の所を見ると、吉峰寺におられた時の話なんでしょうかね、十一月六日。道元禅師が43か44歳位。この時の吉峰寺。吉峰寺は雪が深いので、冬は殆ど閉鎖されて、お寺に寝泊りする人はおりません。最近はどうか知りません。少し雪が降る前か、それ位雪の深い所です。「深雪三尺大地漫漫」まあ雪がかなり降ってると言う事でいいですかね。

時間があれば、いっぱい色んな事が、道元禅師はこうやって喋る事もあったろうし、書いておきたくなる様な、兎に角面白い凄い方
ですね。芥川とか直木賞とか言う話とは違ってですね。幾らでも、書くものが沸いて出て来るのでしょうね。触れると書いておきたくなる、伝えておきたくなる、言う事でしょうかね。手当たり次第。

「もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、」この位読んでおいたら、
いいでしょう。自分の中に変なものの見方や考え方が、ふっと起きるって言う事が、もしもおのずから自魔のきたりて、と言う事でしょう。梅花はお釈迦様の眼の様子、「眼睛ならずとおぼえば、思量すべし。このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」


今、皆さん方が眼に梅の花を触れて見てる時の事を言っておられます。それは御釈迦さんの見てる様子じゃないじゃないか、私が梅を見てる様子じゃないかって、もし思う様な事があれば、って言う事でいいでしょうか。それが自魔が来ると言う事でしょうか。この他にないのでしょう。

お釈迦様が梅の花を見てるって言う事は、今自分がこうやっている様子以外に無いのでしょう。だけど、ふっと思うんですね。これは私が見てる事だ、お釈迦様が見てる事ではないな、それは誰も常識としてそう言う風な見方を起こすじゃないですか。これは(自身を指して)自分だって。こうやって、今自分が見てる梅の花であって、お釈迦様の眼で見てるって事ではない、って言う風に思うでしょうか、思わないでしょうか。ふっとそう言う事思うんじゃないですか。

だけど、よーく自分見てみると、これ以外にないんですよね。何時の時代でも、誰でも必ずものを見るって言う事は、こう言う風な
見え方しかないですね。自分の眼でものが見える以外にないんですね。他の人の眼でものを見るって事はないですね。お釈迦様も私も出て来ない。それだのに人をみますから、これは私が見て、お釈迦様じゃないなって、そうやって思うんでしょうね。よくよくそこの処を見てごらん。

「このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらん」言い分は誰でも本当にこう言う風にしかないよって言うこと言ってるだけですよ。「眼睛とみん」それは本当に眼の様子なんでしょう。梅の花がその通り、梅の枝がその通りこうやってあるって事が、眼の様子なんでしょう。その時は眼は何処にも出て来ない。そこに梅の枝があるだけ、見えてるだけ。それが本当に眼晴、眼の様子なんでしょう。

「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのときも対面不相識なるべし」面と向かっておっても、その事がどう言う風にあるかって事は知らない、「対面不相識なるべし」「相逢未拈出なるべきがゆゑに」実際触れているにも拘らず、在り様ですね、実際に触れているにも拘らず、未だ拈出せずですから。触れているにも拘らず、その事に気が付かない。自分の本当の在り様だって事に気が付かない。せいぜい眼の様子だって思う位。本当は全身心の在り様なんでしょう。その時、それが。底抜けと言う様な事。

これ、ある日、又こんな事、ふっと何か道元禅師が書き残されたんでしょうね。何時と書いてないでしょう。と、言う様な事で、思い出したのが、沢山ここにあるんですね。何人かの梅に対する詩が。頭のいい方だね、こうやって色んな人の作った詩が、こうやってふっと思い浮かぶ。だから漢詩が出来るんでしょうね。漢詩作るのに、この位色んなこと、こう文字が思い浮かべなかったら、何て言う字で書こうって、中々詩に出来ません。凄い人だなと思うんだけど。

まあ、それはそれとして、今の一文の所だけですると、こう言う事なんですね。私達が問題になるのは、ふっと自分の中で、自分の考え方で今の事実を眩ます。違ったものの見方をしてしまう。事実でないものの見方をして、とんでもない思いを起こすんですね。よく言うんだけど、二つも三つも、こうやって、今こう向かっているものに対して見方が起きるって事はないです。これに向かったら、こうやってこれに向かった時の見え方、本当にただそれだけがあるだけです。いろんな見え方が、こうやってした時に、出てくるって事はないです。やって御覧なさい。色んなものの見え方が出て来るって事は、ありません。必ずその通りの事があるだけです。

まあ、そうやって眼睛を使って究徹するんですね。それが、私達の修行なんですよ。事実は人を騙しませんから、やってください。大丈夫です。事実は人を騙しません。人は事実に騙される事はあるかも知れません。それは今出て来た様に、自魔って言って、
自分の中に魔がさすんですね。ふっと自分なりのものの見方、考え方を起こすと、それを魔がさすと言います。そうやってものの在り方を歪めて扱う様になる。それは他の人がやるんじゃない。言う様な事も知って置いて頂いて、まあ年の初めに、もう一回勉強の仕方、修行の仕方として、こう言うものを参考にして、おさらいをしておきたいと思います。



  1. 2018/10/08(月) 13:56:12|
  2. 梅花
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梅花 Ⅳ- 3

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梅花 Ⅳ_3_01
梅花 Ⅳ_3_02

「しかあればしるべし」と言う処から。「釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか釈迦牟尼仏をみざらん。」これは、波斯匿王がって言う事でしょうね。歴史上の事を、波斯匿王が取り上げて、御釈迦さんの弟子として、面受の弟子としてですね、お悟りを開いておられるけども、これから弥勒菩薩が出て来る、それを待っておられる。

そう言う背景があって、どうしてあなたは、お釈迦様が亡くなったこの世に居ないのに、お釈迦様を見る事が出来るかって、まあ
非常に素朴な質問ですね。だから仏を見るって言う事は、そう言う風に波斯匿王は理解をしてる。まあ極普通に、歴史上の人物だけを仏として扱っているのかも知れませんね。

それに対して、こう言うことは「この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。」こう言うものの見方は本当の
お釈迦様を知るという事ではないよ、と道元禅師が指摘されております。じゃどうかって言ったら、「釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。」と言う事が見仏だという風に学ぶべきだ。お釈迦さんが、如何いう風な境涯になったか、何に気づいて悟りを開かれたか、仏と言われる様になったのか、と言う事を、私達は勉強すべきだ、言う事ですね。

そうすると、各自、自分自身の上で、自分自身がどう言う風にあるのかと言う事が、本来の自己を見つめると言う事ですね。本来の自己に出会う。そう言う事がお釈迦様がやられた事で、それを、本来の自己に出会ったと言う事が、自覚として仏と言う言われ方をしてるって言う風に勉強すべきだと言う事です。

歴史上、仏教学とか言う様な学問があって、勉強する時に、一つは歴史上のお釈迦さんを対象にして勉強が進みますが、私達は歴史上の釈迦に会う事は無理です。間違いなく無理です。だけども、歴代の祖師方も釈迦に会うって言う意味合いは、お釈迦様が本当に知りえた境涯、何を一体、如何いう風になって、自分で納得できたのか言う事を、自分の身心身体を持って学んだ時に、あ、なんだ、こう言う事に気がついたのか、こう言う風になってるって言う事だったんだって言う事が分かった時に、お釈迦様に出会ったと言う風に受け継いでる訳ですね。

これ学校でもそう教えるべきだと思うんです。そう言う事が少なくなって来てますね。大学なんかでも。今の人がどんなにしたって、お釈迦様に会える訳がないじゃないかって言われたら、もう仏教終わりですよ。学ぶ用ないじゃないですか。そんな学問じゃないです。それは、普通に考えたって、わかりそうだと思うんだけど、結構それが通っちゃうんですね。恐ろしいことだと思う。

で、波斯匿王はこう言う内容を、賓頭蘆尊者から承って、「波斯匿王この参学眼を得開せるところに」、こう言う事を聞いて、私が思ってた事とは違うんだ、本当の仏様に出会うって事は、そう言う事じゃないんだ、って言う事が分かった処で、賓頭蘆尊者が、こうやって、眉毛を策起したんでしょ、「好手にあふなり」

昔の話じゃない、今、目の当たりに仏様がこうやったら、昔も今もですよ、お釈迦様がこうやろうが、賓頭蘆尊者がこうやろうが、今こうやったら、その通りの事が、昔も今も本当にそう言う風な事が行われている、自分の様子として。そう言う味わいですよね。昔の人が、パン!(机を打つ)こうやって聞いても、今の人が、パン!こうやって音を出して、
その通りに昔も今も、音がしたら必ず音がした様に、必ず音がした様に昔の人もなったし、今の人も音がしたら
音がした様に必ずなる。それが誰しもの本質ですからね。

そんな事位で問題が解決するかって言いたいとこでしょう。この音パン!がしたら、その時その通りにきちっと聞こえたら、完全にマルでしょ。合格でしょ。違いますか。パン!こうやって音がした時、パン!その通り、その通り聞こえる様になったら、バッチリでしょう。ええ。後、何を求めるんですか。パン!それ以外に。音がした時、その通りに間髪を入れず、その通りに間違いなくきちっと聞こえるのに、後何が欠けているんですか。何が不足なんですか。

で、人間はたかが音がした時、その通り聞こえる位でって、そう言う風に思うんでしょうねえ。だから、こう言う今の事実に、こうやって触れていてもわからないでしょう。こう言う風にやられても(眉を上げる)、何をしたんだって、目にゴミでも入ったのかって思う様な位にしか受け取らないでしょう。

「親會見仏の道旨、しづかに参仏眼あるべし」と言う事は、仏眼に参ずる、仏の眼ですね、仏としての眼。もの本当に正しく見る眼ですね、に参ずるって言う必要がある。親しくって言う事は、かって親しくって言う事は、こうやったら、もう抜き差しならない程、今、こう言う事実だけでしょうが、皆さんが見てる通り。他にはないでしょう。それが、かって親しくって言う事でしょう。
今私がこうやって、皆さんが、私がこうやってる処に触れたら、これ以外にないでしょう。そう言うのが、かって親しく「親會」って言われる様子でしょう。仏を見奉るって言うけど、本当にそう言う風にしか在り様がない、徹底して。

微塵も疑いがない程、自分自身の本来のあり方に触れてるでしょう。騙されるひとは一人も無いでしょう。こうやってやって。そう言う処のものの在り方を自分の眼に親しく参ずる要があるのでしょう。仏眼としての眼に。持ち前の仏眼です。凡眼じゃない。「この『春』は人間にあらず」人間の考えてる様な在り方じゃないでしょうね。

しかも「仏国にかぎらず」仏の世界だけがって言う様な範囲でもない。そう言う風に出来てるでしょ。それは梅の枝に皆さんが向かえば、必ず誰でもそうなるんでしょう。梅の枝に向かえば、梅の枝に向かった様に否応なしになるんでしょう。それ以外の見え方はしないのでしょう。それ以外の生活は無いのでしょう。眼に聞いてごらん。こうやって梅の枝に、こうやって向かった時に、それ以外のものの見え方がするかどうか。仏様だけがそう言う風に見えるのか。まあ、そう言う風な事が書いてある。「なにとしてか」その様な事を自覚できるのかっていうんですね。「なにとしてかしかるとしる」どうしてそう言う様な事が本当に納得がいくのか。

「雪寒の眉毛策なり」さっきちょっと、この部屋で寒いって言ってましたけど、そう言うことでしょうかね。ハーって言う様な事なんてしてるんでしょう。それは他人の身体でやるんじゃないですね。「ハーハー」って(手に息を吹きかける)なんとしてか知るって、雪に寒しとありますが、他の人の事じゃないのですね。何千人何万人居ようが、皆各自、自分自身の様子の上でしか、この事は味わう事が出来ない。これを疑う人居ないのでしょう。「ハー、ハー」(手に息を吹きかける)ってやって、本当に寒いのかしらって、誰の事だろうなんて疑う人居ないでしょう。こうやって。そういう風に出来てるでしょう。「なにとしてかしかるとしる」

下の方に雪の様に白く寒いって書いてある。そう言う風に読むのかしら。理解するのかしら、雪寒て。
眉毛の事だって言う様にかいてあるのね。「雪寒の眉毛策なり」白眉って言う風に
理解してるのかしら。雪寒。



  1. 2018/10/08(月) 13:55:00|
  2. 梅花
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梅花 Ⅳ-2

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梅花 Ⅳ_2_01
梅花 Ⅳ_2_02
梅花 Ⅳ_2_03
梅花 Ⅳ_2_04

次のはまた全く違う話を取り上げてますね。賓頭蘆尊者って、そこに、本堂の所に御祀りしてございます。後でまた、よく頭を触ったりなんかやるんじゃないですか。波斯匿王が賓頭蘆尊者をお招きして、ご馳走、お昼をさしあげた。その時に、王様が尋ねられるのに、承り聞くと、あなたは目の当たりに仏を見て来られたって言うけど、本当でしょうか。そう言うまあ問いですね。

その時に、賓頭蘆尊者が手を持って、眉毛を策起して之をしめす。こんな風ですかね。こんな風にして眉毛、まゆげをって言うんだから、目を少し、こうやって上に上げるのかしらんね。こんな風にして。この話を如浄禅師が取り上げて、こんな風に味わっているのでしょう。

「策起眉毛答問端 眉毛を策起して問端答ふ」波斯匿王が仏様をみたか見ないかって言われるのに対して、お答えをしたって言うんですね。こう言う答えの仕方をした。「親會見仏不相瞞 親會の見仏相瞞ぜず。」かって親しくって読むんでしょうかね。親しくかって、って読んでもいいでしょうか。「親會見」仏にまみえる、「相瞞ぜず」ですから、あざむかずって言う事でいいでしょうか。

問題は波斯匿王さんが,仏って言うものを訪ねた時に、自分の中で、描いたお釈迦様とかって言う様なものを相手にして、お釈迦様に会ったかどうかって言う様な事を聞いてるとしたら、こうやって眉毛を策起せられてもわからないね、全く。わかりずらいと思いますよね。

皆さんはご承知の様に、仏って自分自身の本当の在り様を、自らがなるほどこうなってる、こういう事なんだなって言って心底自覚した、そう言う風になった人を仏と言ってる事を、皆さんは知ってると思う。お釈迦さまの事じゃないのね。お釈迦様だけの事じゃいのね、仏って言うのは。各自、自分自身の本当の在り様を、自分で自覚してるかどうか。そこは、物凄い、これ、こう言うものを読む時に違うし、読みづらい処じゃないですか。固有名詞として扱われている。自分以外の人の事ではないのです。

だから、この賓頭蘆尊者は、自分自身の本当の様子を知ってるから、この通りちゃんと今、自分の真相に触れてる。誰にも騙されないほど、ちゃんとしてるよって様な言う事でしょうかね。そう言う事を如浄禅師は知ってるから、自分の体験の中で知ってるから、こう言う事が詠えられる。味わいとして言う事が出来るのでしょう。

「至今応供四天下 今に至るまで四天下に応供す」で、応供ってここにも出てきたけど、阿羅漢ですね。仏の代名詞です。仏、十位の代名詞がある中に、如来、応供、正偏知、明行足とか言う様に、如来の十号ってのがありますが、十の如来の異名がある、その中の一つとして、応供って言う使い方をしてます。どの位、言葉上、供に応ず事が出来るかと言ったら、例えば音一つでも、こうやって、コン!(机を打つ)カチッとやったら、そのものそのままイキナリ、手をつけずにコン!頂戴する事が出来る。供に応ずる力持ってます。

そこに梅の花が咲いていれば、その梅の花を、枝を折らずにそのまま全部頂く力を持ってます。凄いでしょう。香りでもそのまま、どんなものでもそのまま全部受ける力を持ってます。好き嫌いを一切せずに、自分勝手な扱いを一切せずに。それ応供です。真の応供です。だから人を救えるのでしょう。カウンセラーだってそうでしょう。本当のカウンセラーってのは、応供の様な人でなかったら、カウンセラー出来ないのでしょう。

「春在梅梢帯雪寒 春は梅梢に在りて雪を帯して寒し」って言う様な、何だろう、風景から、風景を借りて、具体的にその事実を示すと言う事でしょうか。梅の梢に雪が積もっていて、フーフーって言って、息を手に吹きかけているのですかね。これ、皆さんの今日当たりの様子かもしれない。まあそう言う事。

「この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏未見仏を門取するなり。」まあいいでしょうそれは。それで、仏を見る、「『見仏』といふは作仏なり」って、道元禅師が言ってる。向こうにいる仏様を見たとか見ないとか言う事ではないよ、自分が本当にそういう内容のものであるって言う、そこまで行くと言う事が作仏ですねぇ。仏となるって言う事でしょう。自分が自覚するって事でしょう。お釈迦様が自覚して、悟られた様になるって言う事が作仏でしょう。其れが本当に仏を見ると言う事だって言う風に、如浄禅師がおっしゃっておられる。本当に仏になるって如何言う事かと言ったら、「策起眉毛」自分の本当の、今のこうやっている様子がこうある。

もうひとつ、来る時に、話がでた。どうも自分の家で生活してるのと、円通寺さんでの在り様とは、落差があるって言ったか、格差があるって言ったか、何かちょっと違いがあるって言う風に思うっておっしゃっておられたから、そうかも知れないなぁと、話をしましたけれども、着眼点としてですよ、どうしてそう言う風な感じになるかって言う事があります。

で、お勧めするのはですね、自分の今生きてる様子に、本当に目を向けてみるとですね、お家におろうが、円通寺さんで生活していようが、本当に何処まで行っても、自分自身の活動してるだけなんですね。隔ては一切ない。ここの(頭)考え方が違ったものを見させるんですね。それだけですよ。お寺に来たとか、在家の家にいるとか、そう言う風に思うから。

じゃ、ご飯を食べている時にどういう事が行われてるかって言ったら、ただこうやってるだけ。ここで食べようが、家で食べようがこう言う事やってるだけ。歩く時だってそうでしょう。自分の家の畳の上歩くのも、円通寺さんの畳の上歩いてるのと、別に歩いてるって事に変わりないでしょ。だけどここ(頭)はお寺の中を歩いてる、自分の家の中を歩いてるって、そう言う風な区別をするのでしょう。要はこっから上で(頭)生活してるってのがよくわかりますね。

一番大事な自分の見仏、あるいは作仏としての、仏様が自覚された、自分の本当の在り様ってどうなってるかって言う事を自覚する時に、そう言う事では自覚できないね。自分の今、本当に生きてるものに目を向けた時に、どうなってるかが分かる。騙されない人になる。何時も申し上げる様に、他人事一切無いですよ。これの本当に自活動だけです、生涯。この自活動の中に、自分が、相手だと思う人を立てて、そう言う風な見方を起こしたり、ああ、あの人が何か言ってるのを聞いてるって言う風な聞き方を、自分で作り上げるんですね。実際にはこのものの自活動だけです。音がするとこの上でそう言う事が聞こえる様に出来てる、物があるとその様に見えるだけです。

そう言う境涯が作仏でしょう。仏としての本当のあり方じゃないですか。それが自覚をしたと言う事でしょう。それは考え方で決めるものじゃないでしょう。事実がそうやって、決定的にそうやって結論をだしてくれるんじゃないですか。しまいには、自分らしいものは事実にふれて死に切るんでしょう。文句言わせるものが一切無いです、事実には。だから「尊者もしたゞ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず」そうやって念を押される所以でしょう。理解するのじゃないですね。

一番最初に話した様に、赤ちゃんが、こう、パン!音がして理解するのじゃないですね。理解らしいものが
何にもないんだけど、こうやってパン!パン!パン!、そう言う生活をしてる。そこまで、私達は
一度自分て言うものが、死にきるといいんじゃないのかね。そうすると、真の阿羅漢て言うような事が
よくわかる。本当に自分の真相を、本当に見極めなければ、「見仏にあらずは」ですね、「作仏すべからず」。

そう言う風な真相が自分で見て取れなかったら、どうあるのが本当かって言ったって、無理だって言うんですね。作り事に必ずなる、理解の上では。事実って言うものは、作り事じゃないですね。これから作って、何かをするんじゃない。こう手をひとつ、こう動かしてもですね(手を動かす)、自分の身体で見るとよくわかる。これはもう、これで作り変えずに終わったんです。こうやってやる事を。実際にこうやってやったんです。

「作仏にあらずは策起眉毛」ですね、「仏不得ならん。」て言うんですね。それ本当の自分達の真相であると言う事が分からない。もう一回話を戻しますが、自分自身の様子を見て御覧なさい。後にも先にも、一々の動きが、その動きそのもので終わりです。だけど人はそれに対して、良いとか悪いとか分別を起こして、やります。そして分別を起こす中で、特に気になるものは、ずーっと何回でも思い起こしては、その事が解決するまで、自分の中で気にならなくなるまで取り上げようとする。そう言う生き方をして行きます。

この当時もそうだったんでしょう。だからそう言う修行の有り方で決着がつかなかったんでしょう。もう一つ、六祖大鑑慧能禅師の所で、神秀と言う方と何時も歴史上、こう対比されて話が進みますが、私達物を見る時に、こうやって(目を拭く仕草される)拭いてから見る人は居ないでしょうね。要するに、埃が付いてないですね。イキナリその通りに見ておわりですよね。神秀と言う人は何時も拭くんじゃないですか。埃が付くと、よく見えなくなるからって言って、拭くんです。私達は音を聞くにしても何をするにしても、何か
そこで一つでも欠けてやってる事はありません。ズバッとイキナリそのままですね。払拭する物、何にも無いよね。それ誰も体験してるじゃない。

鏡の話をすると、鏡だったらゴミが付くから拭かないと、良く見えなくなくなるって言う風に思ってます。私達はこうやってる事が、鏡を見てるのとなんら変わらないんでしょう。これだけ色んなものを見てきたんだけれど、前のものを一つもこうやって払拭してものを見たことがない。それ位塵が付かない様に出来てる。これから物を見る時に、先ずこうやってから(目を拭く様子)見ますか。そんな事はないでしょ。今見てるものを、こうやって(目を拭く様子)。そんな事はない。このままで何にもそこに塵がないから、その通り、イキナリどんな物でも、こうやってその通り見えます。で、神秀と言う人は塵を払う様な事を歌に残すか、真の阿羅漢じゃないからでしょう。ものの道理は分かってるけれども、自分の本当の在り様ってのを見てないから、そう言う風に理解するのでしょう。洗わないと綺麗にならない様な気がするんですよ。

人にひどく叱られて、傷つけられて、ぶたれて、雑言を吐かれて、滅茶苦茶にされたって言っても、それを取り上げないで平気でいれる人は恨みも何にもないなー。平和なんです。「子供に学ぶ」と言う、子供は本当にひどい喧嘩しても、瞬時のうちにコロッと平気でいますね。それを取り上げて、解決するんじゃないですね。取り合わないんですね。もう終わった事そのままです。それで生きられない訳じゃないですね。それを取り上げなければ、生きて行かれないってことはないですね。ほっぽいといても何ともないですね。ところが大人はそれはやっぱり放っとけない。神秀上座と同じ様にですね、やられたやつをね、どうしても気になるものがあるから、それを拭わない限りは、拭いて取らない限りは、本物にならないと思うんですよ。

争いが、どうやったら争いが止まるかって、法句経なんかを見ると書いてある。そう言う事を取り上げないって言う事だけですね、争った後。争いを持って争いを止めることは出来ないものだと書いてある。争いをしないことが、争いを止める唯一の道だと書いてある。本当にそうなってますよ。これ自分達の作仏の様子です。仏様としての働きです。

耳にあれだけ色んな事聞いてもですね、耳は本当は何とも無いのよね。何とも無いです。聞きっぱなし、何とも無い。何が問題になるかとい言ったら、聞いて届めたらしいものがある、と言うよりも、思い起こすものがある。思い起こさない限りは、一切問題になってないって言うのも事実です。あんなに酷い事言われたのに何ともないって、思い起こさない人は何ともないですね。対象がないもの、腹を立てる対象がないです。

でもそれを実際にどうやって勉強するかったら、自分の今生きてる耳で勉強してみると、聞いたに違いない耳なんだけども、今の自分の耳に、思ってる様な事がここに聞こえてないって言う事が明確なんですね。いつも申し上げる通り、喋ってる時には聞こえるけど、喋ってない時に、ここで喋ってる事が聞こえるなんて人絶対にないんですよ。喋ってないから聞こえない。聞こえなかったら、何を言ってるんだろうって言って、言う様な事にはならないんじゃないですか。

これが参学眼として、ものを学ぶ時の着眼なんですよ。自分自身の今の在り様に目を向けて学ぶんです。作り変えるんじゃない、何かをやって。本当にそうなってるって言う事を、自分のこの身心で実証するんですね。なるほど、本当にそうだ。それが修行なんですよ。だけどこう言う事を伝えてる人は、祖師方以外にないな。多くの人の場合、人間の上からものを見てますから。だってこの思い出される事を、どうしたらいいかって気になってしょうがない。だからそれを取り上げてるんでしょう。祖師方はそうじゃないですよ。本当に今の自分の在り様を見てごらん、あなた方が考えてる事とは違うでしょう、と言ってます。

眼だってそうでしょ。あの人のやった事が気になって面白くないって、見たもので言いますけど、自分の眼の様子をみたら、本当に今見えてるものが有るだけで、一切取り上げるものはないですよ。それで十分ですよ。そう言う様な事があるんじゃないですかね。そう言う様なものが、見仏とか作仏言う言葉で、こう道元禅師が表しておられる。



  1. 2018/10/08(月) 13:52:39|
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梅花 Ⅳ-1



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梅花 Ⅳ_1_01
梅花 Ⅳ_1_02
梅花 Ⅳ_1_03
梅花 Ⅳ_1_04
梅花 Ⅳ_1_05




あけまして、おめでとうございます。今年一年、お世話になります。よろしくお願いいたします。177ページ。

季節的にはちょうど良いかしら、梅花。 少し、読みます。

「先師古仏、上堂示大衆云、『楊柳粧腰帯、梅花絡臂韝』(先師古仏、上堂して大衆に示すに云く、楊柳腰帯を粧ひ、梅花
を臂韝絡く)かの『臂韝』は蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅花開は、髄吾得汝なり。

波斯匿王、請賓頭蘆尊者斎次、王問、『承聞、尊者親見仏来。是不』(波斯匿王、賓頭蘆尊者を請じて斎する次でに、王問ふ、『承
聞すらくは、尊者親り仏見来ると。是なりや不や』)尊者以手策起眉毛示是(尊者、手を以って眉毛を策起して之をしめす。)

先師古仏頌云  (先師古仏頌して云く)、
『策起眉毛答問端   眉毛を策起して問端答ふ
親會見仏不相瞞   親會の見仏相瞞ぜず。
至今応供四天下   今に至るまで四天下に応供す、
春在梅梢帯雪寒   春は梅梢に在りて雪を帯して寒し』

この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏身見仏を門取するなり。『見仏』といふは作仏なり。作仏といふは『策起眉毛』なり。尊
者もしたゞ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず。見仏にあらずは作仏すべからず。作仏にあらずは策起眉
毛仏不得ならん。しかあればしるべし、釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか
釈迦牟尼仏をみざらん。この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。波斯
匿王この参学眼を得開せるところに、策起眉毛の好手にあふなり。『親會見仏』の道旨、しづかに参仏眼あるべし。この『春』は人
間にあらず、仏国にかぎらず、梅梢にあり。なにとしてかしかるとしる、『雪寒』の眉毛策なり。

先師古仏云、「本来面目無生死、春在梅花入画図(本来面目生死無し、春は梅花に在って画図に入る)春を画図するに、楊梅桃
李を画すべからず。まさに春を画すべし。楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざる
べきにあらず。しかあれども、先師古仏のほかは、西天東地のあひだ、春を画せる人いまだあらず、ひとり先師古仏のみ、春を画
する尖筆頭なり。いわゆるいまの春は画図の春なり、『入画図』のゆゑに。これ餘外の力量をとぶらわず、たゞ梅花をして春をつか
わしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。

先師古仏、正法眼蔵あきらかなるによりて、この正法眼蔵を過去・現在・未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。」



もう一本梅花のものがあって、続きますがちょっと、一休み。この如浄禅師の上堂の句ですが、楊柳は柳でいいですね。腰帯を装い、これはどちらも人の姿を描いてる言葉でしょう。そこに「梅花絡臂韝」とあります様に、どういう姿を想起したら、思い起こしたらいいかしら。帯がしめてあって、そしてここに、こっちか、こっちにこう片当てがあると言う事ですかね。そう言う人の様子がありますね。それが丁度、柳が腰に帯のように纏わっていると言う様な表現でしょうか。それから、梅の花がこの辺に咲いている様に、こう肩当の形がこうあるのでしょうかね、そんな感じでいいかなと思う。

そこに蜀の錦とか、卞和と言う人の卞和三献て言う故事がありますが、そう言うのが、そこに挙げてあるんですけど、「蜀錦和璧にあらず」特殊ではないと言っていいのでしょうか。梅花が、梅の花が開いているって言う事です、梅花。梅花開なり、無為花開なり。それがどうして我が髄を汝得たりと言う風に成るかって事でしょうか。これが道元禅師の言い分なんでしょう。吾髄汝得たり。

いきなり、こう言う如浄禅師の言葉がとなえられて、私達は理解するのに戸惑うのかもしれない。景色がよくわからない。この漢文で示されたものは、ちょっとよく理解出来ないためだとおもいますが。まず、人の、そこに居られる人の在り様だと見て頂いたらいいでしょう。それを詠うのに、こう言う風に詠っておられる。その丁度、肩当が梅花の花が開く様に、こうなってる。そう言うものに、私達は全体様子でいいでしょうけど、人の様子全体、そう言うなものに触れた時に、その事が、極平たく言えば、その通りに見えるのでしょうね。これ、別にどの様な物挙げてもいいんでしょうけれども。

これが「吾髄汝得たり」と言う事になるのでしょう。「吾髄汝得たり」と言う事は、誰でもが本来持っている姿ですね。本来持ってる姿って、どういう風な法性、ここで、どう言う事挙げたらいいかって言うと、眼に対しては物ですね、耳に対しては音声、まあそう言うものが本来のあり方なんでしょう。

これは生れ落ちた時、自分も知らないのですね。不思議に。音を聞いてるって事も知らない。物を見てるって言う事も知らない。知らないから、分からないかって言うと、分からないって言う事ではない。だけども、子供って言うのは、ご承知の様に、自分で自覚って言う認識と言う自覚ですね。物を見てるって言う自覚がないから、見えているって言う風にも感じてないでしょうね。

私達はこうやってみると、ああ梅の花とか、ああ桜の木があるとか、万両千両、色々こうやって触れたもの、皆、名称が付けられて、認識が出来ますけど、生まれて目が開いて、物が見える様になる訳でしょうけれども、物が見えてる時に、当の本人が物を見てるって感覚も全く無い。それがそれに違いないなんて言う認識もないですね。じゃ認識がないから分からないのかったら、そんな事はないってのがわかるのはですね、こうやって色々こうやって、やってますからね。

違いが出るんでしょうね、こうやってやるとね(物を振る)、目に写る。そう言う事だけは、ちゃんと反応してますね。こうやって、側でこうやってやると、ついて来ますからね。て、言う事は、少なくとも反応があると言う事ですね、私達から見たら。分からないのじゃないなって言う事が分かるのですね、私達は。子供が全然分かってないんじゃない。だけども子供には、赤ちゃんには、それを何をしてるか、自分でも認知しない。こう言うものが本来の、ここで言う吾髄でしょうね。本来の人の在り様です。誰でもが欠けずに持っている。こう言うものの知り方を何て言うんでしょうかね。無分別とも言わないでしょう。本来の面目と言うのでしょうかね。これ、誰もがそうなってるんですね。

耳が聞こえるかどうかは、こうやって調べます。バン!バン!バン!(机を打つ)バン!こうやってやると、音がした方にこうやって動きさえすれば、大体、ああ耳が聞こえてるなって言う、これは大人がわかるんですね。だけども本人はバン!耳が音を聞いてる、聞こえてるって言う風な感覚は、おそらく全く無いって言っていいですね。認識してないですね、聞こえてるって言う事を。じゃあ分からないのかって言うと、バン!明確にこうやって、バン!こうなってるでしょうね。バン!そう言う処に本来の在り方って言うものがある。

参禅、坐禅をする、何をしてるかって言うと、ただ、これに本当に参ずるんでしょう。だから人間の知とか解とか解会とか分別とか言う様なものではないと言う事が、ずーっと示されてます。だから初めっから、私達が知るとか知らないとかって言う認識の上の取り扱いではないですね。参ずると言う事自体が。人が全くそこに介入しない、自分らしいものが全く立たない物との触れ合い、そう言うものが、ここで言う髄でしょうね、髄。

そう言う事が、この如浄禅師が示されている様子の中にあるんですね。これを読み取れるかどうかって事でしょう。いきなり、不思議ですね。梅の花が咲いている所に、こうやって目が向いただけで、今でもそうでしょう。誰でも、こうやって梅の花こうやって咲いている所に触れた瞬間に、その通りになってます。見るとか見たとか、分かったとかって言う事が入る前に、その通りになりますね。一切私達が何かする気配はない、そんな世界があるんですね。誰も侵すことの出来ない、物凄い厳正な世界です。

ビタ一文ずれない、その事実と。向こうにあること、こっちに見てる人、とか言う様な事がこうやってやった時に一切無く、無くですよ、そこに咲いてる花がその通りにあるんですね。だけど、私達は自分を見てるから、私が花を見てる、見えるって、その位の感覚の処しか受け取れてないって言う事でしょうね、普通。それが人間の上から、物を眺めるって言う事でしょう。

ところが人間を、本当に自分らしいものがとれてしまった時の触れ合いって言うのは、そう言う、どうしてそうなるか知らないのですよ。こうやったら、イキナリそうなってる。これ、ずーっと全部そうですよ。イキナリそうなってます。それが仏道の真髄なんでしょう。生きてる、皆さんが生きてる、毎日生きてる。古いものは一切相手にしてないねえ。(昨日のこと、明日のことと言って取り上げるのも、今のそういった思いです。)思う時、思うことだけが行われているのに、考えている事と事実が別にあるように思う。

もっと丁寧にこう見てみると、本当に問題になること一切ない。何故問題にならないで生きてるかって言うとですね、今のこの在り様だけだからですね。その生きてる中に皆さんの能力として、ここ(頭)を使ってですね、色んな事を思う力がありますから。思うって言う事は、この今生活してる事実とですね、もう一つ別な動きですね。あたかも色んな物がある様に思わせる。

さっき来る時、ちょっと話してたんだけど、最初どう言う話が出たかって言うと、中々平常心で生活が出来ないっておっしゃって居られたので、暫くちょっとそれを聞かせて頂いた。そう言う話を伺っていると、私達が使っている平常心て、一般的に使ってる平常心て言う使い方はですね、自分の中で描いた、途轍もない気持ちのいい、具合のいい、出来栄えのいい様な状況を、平常心て言う風に設定してますね。頭の中で作った平常心なんですね。

仏道の使ってる平常心はそうじゃないよね。今の事実なんですね。今の事実は何時如何なる事があっても、ただその通りです。それだけなんです、本当に。何でこんな事が、と言う様な事が起きたとしても、ただ本当に、事実と言うものは、だたその事がそこでその通りの事が起こって、それで後にも先にも留めない。これから取り上げてどうかするって言う様な事は全くない。そう言う様子を仏道では平常心と言ってます。

なるとかならないとかじゃないですね。平常心で居れるとか居れないとかって言うんじゃないですね。誰でも本当に今の様子しか、生き様としては無いはずです。それを、これから作る人もいないし、やり変えて今の様子にする人もいない。それ位平常心なんです。どう言う風に普通の人が使うかっていったら、どんな事が起きても心が乱れない様にと、まあいいですね、そうありたいですね。腹が立たない様にとか、そう言う風に皆願ってますから、そう言う風にならない様に過ごすのを、平常心を維持するって、やっぱり
思ってます。

思ってますから、その様に成る様に努力をします。平常心って、努力して出来る事じゃないですね。もし努力してやるんだったら、平常心じゃない。作り物です。本当の平常心と言うのは、ただこうやってこの通り生きてるだけです。この真実に目を向けると、それからずれた生活をする事は絶対にないって言うのは、基本的に誰でもそうです。だけど、それを知らないと、その事実を本当に触れて知らないと、考え方で取り扱う様になって、ものが分からなくなる。ものが分からなくなると、さらに考え方で追求するって言うのが
人間の生き様ですね。


だって問題になる事、見て御覧なさい。必ず体験した事を、気になるもんだから、思い起こしてですよ、それであの時、こうあればよかった、あああればよかったって、私はそれが出来なかったから、やっぱり修行が出来てないんじゃないか。それ全部思いの上でやってる世界でしょ。そう言う事をやめなさいって言うんでしょ、修行ってのは。そう教えてるでしょ。修行ってそう言う事じゃないよって、教えてるんでしょ。体験して、そう言う気になる事があるかも知れないけど、それは考えるとそう言う風になるんであって、実際今生きてる所にそう言うものは持ち込まないで生きてるじゃないですか。その時は、あの願ったりかなったりの状況になっているんですよ。

いつも申し上げる様に、じゃあ前に体験した事で、ああ在ったらいい、こう在ったらいいって言う事、思い起こして、それを手を付けて無かった様になるか、出来るかっていったら、出来ないの皆知ってますよ。そう言う事じゃない。こう言うことだったって、私達は勉強して、事実がどうなってるかを知る事によって、ああそうか済んだ事、どんなにしても元に戻らないなって言う事が分かるから、手をつけないのでしょう。そっちに用があるんじゃないでしょう。今ちゃんと、今をちゃんとするって事だけなんでしょう。この前やった様な事しないで。

この前此処でぶつかったとか言って、それで思い起こしてやるって言うのかも知れないけど、今ぶつからない様に行くだけなんでしょう。それで完成なんでしょう。他の所で何かする事は出来ません。基本的にそうなってるんですね。誰にでもちゃんとして、こうやって生きてる事実がありながら、そのちゃんとして生きてる事実に、どうしても目が向かない。どうして目が向かない様になるかって言うと、自分の思いの中で気にかかる事が出てくると、現実を見ないのですね。誰でも経験してると思いますすよ。気になる思いが出てきたら、現実は見ませんね。その出て来た気になる思いを相手にする。

それが人の癖ですよ。癖だし、それほっといたら解決しないと思うんだもの。これこそ手をつけてちゃんとしなきゃならない問題だ、と思ってる訳です。それで、考え方でずーっと手をつける様になるんです。そう言う事を、本当に基本的に教えてくれたのは、仏祖方です。そう言うやり方では人は救われないって、そう言う処に本当の在り方があるのじゃない、って事を教えてるんじゃないですか、仏祖って。そう言うな事が髄ですね、髄。

午前中に寄って来た所で、館内で、春にふさわしい音楽がずーっと流れていたので、それを聞きながら勉強会してきた。音ってね、聞いてるとどう言う風になってるかって言うと、今してる音がザーッとあるだけですね。そんなになってるんですね。音楽がずーっと流れてるって言うんだけども、よくこうやって聞いてると、今の音がただしてるだけだ。絶対前の音が重なってないから、ちゃんと今の音が聞こえるんですね。何時、じゃ、前の音が無くなっていくのか、どうしょうもないね。今の音がしてるだけなんだよ。じゃ、今の音は何処から出てくるかって言われたって、出る場所も無い。イキナリその音がしてるだけだね。その音がしながら、その音が何処へ消えたのか分からないうちに、消えた場所もわからないですね。ただ、ずーっと音がしてるだけ。それで見事に音楽が聴けるんですね。

平常心です、平常心。音の通りに、ただ音がしてる通りに、高い音がしたり、小さな音がしたり、あっちであり、こっちで色んな楽器の音がこう色々する。だたその通りにあるだけですよ。だから、平坦にずーっと心がこうなってるって言う様な、私達が考えてる様な平常心じゃないですね。何が有っても、ずーっとこうやって起伏がない様に生きていれるって言う様な事が、一般に考える平常心
なんですね。違うんですね。あんな音がしたりこんな音がしながら、何ともないですね。こんな小さな音がした、バアーっと大きな音がした、色んな事が起伏とか色んなものが有りながら、心がひとつも乱れずに、ただその通りずーっと。しかも一度も修正をしない、自分で。もし修正を加えたら、聞けないんですね。音楽がそこを流れてても、その通りの音楽を聞く事が出来ない。少しでもわずかでも自分の何か手をつけたら、変わっちゃいますからね、その流れてる音と。


そう言う事しないのが平常心です。聞き終わった時にどうなってるか。何かする必要は何もない。その時に、音がしてる時に音がしてる通りに聞けるって言う事が、最高のものを味わった人なんでしょう。音楽を聴き終わってから、何か味わうんじゃないですね。ただそれだけの音に触れてるだけだけど、そうやっているとですね、向こうで音がして、こっちでその音を聞いてるって言う様なものはありません。二つのものは出てきません。向こうで音がしてる事自体が、自分の今の内容です。

自分の内容は何かったら、この音がしてる様子です。一応向こうとこっちって言うものを、頭の中で考えたにしても、二つある訳じゃないですね。二つ無いから争わない。二つないからはっきりしてる。それだから、それだけだから、不安が生じない。兎に角、もう理想的なんですね。たったそう言う風な音一つでも、私達今そうやって修行する、勉強する。学び方はそう言うことですよね。


如浄禅師と言う人は、だから本当に、日々、本当に今の触れてる物で法を説いてます、これ四六時中。そう言う人ですね。なんかどっかで、法らしいものを選んで来て、そして何か話をするなんて事はしないですね。全部本当の法の様子だって言う事が、よくわかってる。まあそう言うのがこの短い句ですけど、味わってもらいたいですね。



  1. 2018/10/08(月) 13:52:02|
  2. 梅花
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梅花Ⅲ-3

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梅花 Ⅲ_03_01
梅花 Ⅲ_03_02
梅花 Ⅲ_03_03
梅花 Ⅲ_03_04
梅花 Ⅲ_03_05

万物というは過去現在未来のみにあらず、「威音王以前乃至未来なり。」私達が万物、万物って言って、全ての物と言って取り上げている、その位の範囲だけの物ではないとこう言っています。そりゃ人間が考えた万物であって、人間の考えている範囲以上に万物ってのはあるでしょう。そう言う事でいいでしょうね。

「無量無尽の過現来」過去にしても何処まで行っても、過去は此処で終わりって言う過去はありませんし、未来も何処まで行ってもこれで終わりって言う未来もありません。現在もそうなんですね。不思議でしょう。現在も何処まで行ってもこれで終わりって言う現在はありません。その証拠に皆さんが現在って言うもの、今って言うものが尽きたって言う事がないでしょう。
もうこれで今って言うものは終わってしまったって言う様な事は無い。何処まで行っても尽きない。

ホーキンスって言う何か科学者がいたでしょう。あの人の最近の話を見てたら、時間て言うものは、本来無いものだって言う、そう言う事言ってます。科学の世界で、時と言う、時間て言う物は本来無いものでしょう。人がどっかに点を打って、そっから物を測る様になったんでしょう。それで過去とか現在とか未来とか言う様になったんでしょう。概念の上の問題でしょう。本当にそう思いますね。

まあそれはそれとして、道元禅師がそう言う様な事を言ってる。「ことごとく新たなりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり。」ことごとく新たって言う事は、前のものが何処にも無いと言い切っております。私達の生活を見て下さい。こうやって今生きてるって事は、何処にも前のものはありません。本当に真新しい様子です。こう言う事が自分で本当に、心底成る程って戴ける様になったら、人は幸せになりますよ。

古い事に目を向けるより、この初めて見る世界に目を向けてて御覧なさい。面白いから。観念の上で捉えた古い世界を、何時までも手をつけて愚図愚図やるんじゃなくて、未だかって見た事無いものを、初めて見る今の様子に、こうやって目を向けて学んでると面白いよ。そう言う味わい方があるじゃん。歳取りませんよ、本当に。そうすると子供とも遊べますよ。今しか触れられない境涯ですからね、それは。間違いなく今でしか触れられない。此処でしか今触れられない、そう言う出会いです。味わい深いですよ。

「このゆゑに『伏惟大衆』なり。」如何でしょうか、って言うんでしょうか。伏しておもんみれば。今話した様な事だけど、皆さんどうでしょうかって言うご挨拶でしょうか。春になると梅の花が開いて、梅が咲くと春が来る。お堂の前にも、向こうの部屋にも飾ってありますが、良寛さんが、「花が咲く時に蝶がきたる。蝶来る時、花開く」って言う様な句があるじゃないですか。こう言う境涯です。そう言う風になってるんですね。だから花が開く時と春とは別々ではない。それは花の話の様に聞こえるけど、私達もそうじゃないですか。私達と色んな物との在り様は別々ではない。ちょうど花が開く時春が来る、春が来ると花が開く様に、私達もそう言う風になってるでしょう。

自他の関係がそう言う風になってるでしょう、何時でも。別々にある訳じゃない。皆さんとお会いする時だって、必ずそう。こっちからも会うし、向こうからも出合うんでしょう。そうでなきゃ出合った事にならないじゃん。片一方だけで出合うって事はない。出合う時にはどちらからもそう言う事が行われている。そう言うところの境涯でしょう。

「伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。」今ですよね。今皆さん方が、人間同士じゃない、ありとあらゆる万物に出合う時に、必ずそう言う風な自他の関係が考えられてるけど、自でもあり他でもあるでしょう。二つものがあるんじゃないですね。頭の中で分けてるだけであって、必ず一緒になって動くんです。そしてことごとく新たなり、本当に。その時にしか絶対に触れられない出会う事の出来ないそう言う新鮮な出会いが、私達の生活の上に行われてる。ここで歳が改まった時に、改めて如浄禅師が皆さんに示されたのでしょう。別に正月だけじゃないですよ、本当は。

如浄禅師のお示しが幾つかそこに挙げてあります。ある時のお示しです。「『一言相契、万古不移、柳眼発新条、梅花満旧枝(一言相契すれば万古不移なり。柳眼新条を発き、梅花旧枝に満つ)』」そう言うお示しがある。それに対して道元禅師が、「いはく、百大劫の辦道は終始ともに『一言相契』なり。」言行一致とかって言う様な句があるんですかね。言う事と行う事が一致すると言う様な事がありますが、一言相契。修行って言う事は本当にその様にズレがない事なんでしょう。

このお互いの身心、活動を見てみると、どんな時でもズレた試しがない。酷い事を言えば、嘘を言えば必ず嘘を言った様になる、と言う位にズレた事が無い。常識的に言えば、嘘を言ったって言う事は間違ったと言う風に取るんだろうけど、私達はその嘘を言ったらば、必ず嘘を言った様に、その通りの状況が、言葉にも身体にも全ての状況で、嘘を言ってる通りの状況がその通りあるって言って、間違いないとこう言う風に受け取ってるんですね。嘘をいってるにも拘らず、正しく言ってる様に聞こえるようだったら、そう言う風になったら、おかしいんですね。そうはならないですね。

転べば必ず転んだ様になる。間違えれば必ず間違った様になる。それだから気が付くんですね。気づく事が出来るんですね。そう言う風に必ず、終始共にどんな長い年月辦道修行しようと、生活しようと、必ずそう言う風に、私達は本質的にそうなってる。その様に、「一念頃の功夫は、『万古不移』なり。」何時の時代もそう言う事は変わらない。だから良いんでしょう。お釈迦様の時代はそうだったけど、今は違うって言うんだったら、役に立たない。

人間の世界だから名称は変わるかも知れない。物に対して呼び名は変わるかも知れない。単位だって同じ物を表す時に、ミリで表したりメーターで表したりセンチで表したりする。何か一杯ある様に思うんです。そうじゃないでしょ、あれだって。この物(扇を示す)何メートルですかって言われた時は、0.何メートルって言うでしょ。何センチですかって、30センチとかって言うでしょ。何ミリですかって言うと、何百ミリってなる。そう言う様な事で、本当は万古不移ですね。この物が変わる訳じゃない。まあその辺でいいでしょうかね。

「『新条』を繁茂ならしめて眼睛を発明する、」物は本当にどうなってるかって、必ず勉強する時、今の在り様で学ぶのでしょう。例えばこの正法眼蔵の何ページにどんな事が書いてあるかって言う時でも、こうやって二百十三頁、こんな風にして学ぶんでしょうね。必ず新条を繁茂ならしめる。今の様子によって物が本当にどうなってるかって言う事を勉強するのでしょう。

あの時叩かれたけども、どうなっただろうって言う事だって、正しく今思い起こしてやるのでしょう。その今思い起こす事が無ければ、そう言う事が勉強できないんです。あの時どうだったって言う事も、本当に今、今の在り様で悉く勉強しますね、ものを。だけど、昔の事を思い起こしてるって言う風に、自分の中で思った時に、昔の事だと思ってるんですね。今やってる事ですよ。今、自分自身の上での、今の在り様で学んでるんです。

よく使うけども、録画したビデオにしてもテープにしても、音声を聞くにしても映像を見るにしても、必ず今見るんですよ。今聞くんですよ、音を出したり、映像出して。他所の所では出来ないのです。だけど考え方って言うのは昔取った映像だって思ってるもんだから、昔の物見てるって言う風に常識として、そう言う風になってます。だけど常識じゃなくて、事実はどうかって言うと、正しく今見てるものなんですね。昔のものじゃないですね。例えそれが昔取った映像であっても。そう言うな事をこれ言い分になってます。

「『新条』を繁茂ならしめて眼睛を発明する、新条なりといへども眼睛なり。」そりゃ眼の今の様子に違いない。どんな新しい事が出て来ようが。「眼睛の他にあらざる道理なりといへども、これを新条と参究す。」一応向こうの物って言う風に見てるのでしょうかね、眼が、向こうのもの。ここに南天が活けてある。南天は眼だとはやっぱり思わないもんね。こっちからね。眼とやっぱり言わないでしょうね。「眼睛の他にあらざる道理なり」

だけどもその南天が見えるって言う事は、正しく眼の様子以外の何者でもないですね。「眼睛の他にあらざる道理」親しくそれを見てみると、そう言う風になってます。眼の在り様以外の何者でもない。だけどその時、眼は出て来ないから不思議ですね。出て来るのは南天の枝ぶりばかりです。

新しいって言うんだけど、本当に皆さんの眼で勉強してみて下さい。こうやって古いものひとつも在りません。どう言う風にこうやって見ても古いもの一つもありません。いや、もし本当にこの事が理解出来たら、凄い事ですね。古い物が本当に無いって事が。皆さんそれよく分らないから争うでしょう。自分の中で。何と争うんでしょうか。何か古い物が残ってるんでしょう。エー本当に今のこの新しいこの様子だけで、生活が出来てる事が本当に分ったら、全く変わった人生になるんじゃないですか。

それが諸仏方の凄さでしょう。これから何かするって気配が何も無いじゃないですか。本当にこの真新しい、こう言う世界に、ピカピカの世界に生きてる。一点の汚点の無い、汚れの無い世界に生きてます。だからこれから何かして綺麗になるとか、すっきりするとか言う様な事用いないじゃないですか。だから大安楽でしょう。大安心でしょう。眼によってそう言う事が本当は気づかされるべき事じゃないですか。だけど、これだけ話しても理解だからね。そう言われりゃ、そう言う風に古いものないなあって理解だから。本当に自分自身の在り様に目を向けて見ると、理解じゃなくてそれ以外の事はない。この実相との相見が大切なんです。

「『新』は『万物咸新』に参学すべし」来年になったら、今年も直終るんですけれど、年の暮れになると、又来年はって言って心を改めて、新たにって言う様な事、よく毎年やる訳ですけど、「『新』は『万物咸新』に参学すべし、」でしょう。これからやりかえるんじゃないでしょう。古いもの取り除いてサラな気持ちになるなんて言う様な事じゃないでしょう。古いものが無いのでしょう。何処にも。古い、全然違うじゃないですか、私達が思ってる事と。でも言われてみればこっちが本筋でしょうが。古い物を取り払わないと新しくなれない様な気がしてるかも知れないけど、古い物自体がないんじゃないですか。恐ろしい事を言う人ですね。中々。

「『梅花満旧枝』といふは、梅花全旧枝なり、」梅の花は古い枝に咲くのですね。去年の枝に、今年花が付くんですね。で勿論、梅の花と枝は別々じゃないから、こう言う事を言われるのでしょう。「通旧枝なり。」と言う事もそうでしょう。「旧枝是梅花なり。」それもそう言う事でしょうね。古い枝を抜きにして、梅の花を咲かそうと思ったって無理なんです。本当にそう言う事で別ではない。別ではないんだけども、枝と梅の花はちゃんと区別があるんですね。それも面白いと思いますね。切れ目がない、一本だと言いながら、なんとなく梅の花と枝とはちゃんと違うって言う風になってるね。

人間の身体だってそうでしょう。どこにも切れ目がないんだけど、指と身体と頭とか首とか言う風に、皆一応なってます。よく使うけども、目の働きと言うんだけども、目が身体から切り離されて外に出したら、目の働きはしません。耳でも耳だけちょん切ってここに置いて聞こえる様な働きはしません。指でも何でもそうです。この身体から切り離してそこへ放り出したら、只の、何だろう、物ですよ。付いてると(一体になっている活動)は不思議ですね。こんな色んな働きをする。

「たとえば、花枝同条参、」同条、確かに花と枝はくっついてますね。切り離されてない。花と枝は同じ参でも上は参禅の参、「花枝同条生」下は生まれるの生。それから「花枝同条満」どこもかしこもそう言う風に出来てますね。これ単に教材として梅の花を、梅の木を問題に、如浄禅師がされている様だけども、最初から申し上げてる様に、この梅花の巻ですが、如浄禅師が取り上げている梅の花って言う、或いは道元禅師が取り上げてる梅の花って言う事は、このお互いの自分自身の様子を指してるんですね。外に植わってる梅の木の話をしてるんじゃないって言う事をちゃんと心得てください。

「花枝同条満のゆゑに、吾有正法、附嘱迦葉なり。」そう言う事があるから、本当にその庭に植わってる梅の木一本材料に取り上げて見ても、その様になってるんじゃないかと言うんでしょう。その様になってるって言うのはどう言う事かったら、今触れた通りに在る。その触れるって言う事は、必ず古い事に触れるって言う事はない。昔からずっとある一本の梅の木だって言う風に、そう言う認識もあっても構わないけども、その内容を本当に見てみると、古い昔の梅の木と言う事じゃなくて、今触れている、初めて触れてる今の梅の木の様子しか無いんですね。そう言う私達は触れ方をしてます。

だから考え方と事実はそれ位違う。考え方はずーっともう何十年も昔の枝、梅の木がそこに有って、枯れずにずーっと在って、その梅の木に今触れてるって言う風に捉えてるけど、事実は何十年もと言う様な事はとやかく言わずに、本当に今初めて出会った梅の木に触れてる以外の何物でもない。そう言う風にして、今の梅の木の様子に、その通りその事がビタ一文ずれなく、きちっと伝わる様に出来てる。梅の木の方から言っても、自分の方から言っても、そう言う風に両者の間にズレがない様に出来てるから、附嘱迦葉と言うんでしょう。

「面々満拈花、花々満破顔なり」満はその他が無いと言う事でいいでしょうか。満ち満ちてるって言う事で、他の物が入る余地がない。花をこうやって手に取って皆さんに見せても、その花を手に取って見せた時に、そう言う様子以外のものは、他に其処に一つも入って来ないほど、これ花をこうやって皆さんに見せてる様子、それで一杯になってる。笑う時もそう、にっこりする時も。

「花々満破顔」と言う事は、花が咲いていると言う事でしょうねぇ。花が笑うって。じゃあこの、言ってみれば、何でもないありふれた事ですよ。だけどそのありふれた中にものの真意が本当にある。それを除いて他に真意があるんじゃない。だから私達が勉強する、修行するにしても、今を除いて他でやらないじゃないですか。何処行ったって時間は今しかない。場所だって何処行ったってこのもの(身心を指す)の有る場所でしかない、修行するのは。それ位さっきもあったけど、万古不移です。何処にも他所へ行くことはない。今ここに、この私の在り様の上でやる以外にないんですね。

隠してなんか、何処にも隠してなんか無いんですよ、真実は。さらけ出されているんだけど、どっかよそ見をする癖があるじゃないですか。今ここに自分の在り様の他に何かあるんじゃない。それでも未だ、探したい気配が人にはある。何故かっていえば、梅が春になって咲いてる。そこへ梅が咲いてる所に出会ったって、そんな事が仏様の悟った真実なんて思わないんもだん、しょうがないじゃない。それ位人間、考え方って言うものはとんでもない事を思わせるんでしょう。

事実は違いますよ。梅の花の咲いてる所に行ったら、もうそれ以外に無いんだよ、徹底。信ずるとか言う事を使う余地がない。必要がないほど、徹底それで終わりです。救われてるじゃないですか。梅の花が咲いてる時に、梅の花が咲いてる通りに、そうやって生活してる時の自分見て下さい。救われてますよ。だけどその救われてる事知らないから、すぐ詰まらない考え方、そこで起こす。起こして、折角梅の花咲いてる時に、そんなに満身全身で豊かに生きてる自分が居るのにも拘らず、それをほっぽといて、自分の考え方の方へ行っちゃうから、それでやられるんじゃないですか。

中国の方だから漢詩は得意でしょう。こうやって折に触れて詩を詠んでおられるのでしょうね。ただ詩を詠むんじゃなくて、仏道の真意って言うものを、そう言うありとあらゆるものを使って、何もかも自分自身の様子として、手当たり次第に使ってますね。それ凄いですね。仏道の様子を示すのに、何かどっかから教材を探して来なきゃ困るって言う様な人じゃないですね、如浄禅師って。一々が教材なんですね。今皆さんが相手にもしてない様な物。凄い人だと思いますね、私は。

布教師さん達が話しをするのに材料が無くて困るって言う、同じ会場に何回も行くと、って言う様な事、聞きます。そんな事はないでしょう。古い事じゃないからいいじゃないですか。同じ材料じゃないんだね。ご飯食べた話だって、何回したって古い話じゃなく、何時も初めての話をする訳で。それ知らないと、何か古い話してる様に自分が思うから、喋れなくなる。同じ話を何回も何回もしてって自分で自分の首を絞める。

こうやって物が見れる人は悉く新たなんですね。その取立ての素晴らしさを何時もこうやって持って来るから、市場に出しても売れ行きがいいじゃないですか。野菜でも何でも、こんな新鮮なものって言ってそこへ並べるから、どれよりも早く皆が買いに来て、はけてしまう。そう言う素晴らしさがある。まあ今日はそう言う事で。まだ梅の花が咲かないかも知れませんが。



  1. 2018/10/06(土) 14:00:41|
  2. 梅花
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梅花Ⅲ- 2

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梅花 Ⅲ_02_01
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梅花 Ⅲ_02_05

「『五葉』を参究しきたれば、」ここでは脚注をみると、万法て言って五葉を五つに限らず、あらゆるものと言う風にとらえておられる。それで良いと思いますが、それはね。一身と万法が別のものでないからって。そう冬の雪の降ってる中で咲いてる梅があれば、その梅を、梅が咲いてるなって言う風にして、見たり感じたりするって事は、ここでは正しく達磨、お釈迦様の眼の様子だって言う風に一応してるんでしょう。向こうにある梅の花の話ではない、梅の花の話ではなくて、自分自身の眼に映ってる様子を問題にしてると言う事でしょうね。

「雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。」不思議ですね。そこに梅の花の咲いてる所でこうやって、こうやってやると、その通りも事がその通り自分の上に、何時伝わったかも知らないけど、その通り、きちっと、きちっとその通りの事がある。正しく正伝ですね。正しく伝わる。正しく受け取る。受け継いで、附嘱、そしてそこに出合う。親しく合いまみえる。皆さんが毎日やってる事ですよ。本当にそう言う風になってますね。私が此処で喋ると聞くって言う前にその通りの事が聞こえてるからね。そう言う事も知ってほしいですね。

「只一枝の語脈裏に転身転心」身を転じ心を転じ、活き活きとした活動があるって言う事ですね。「転身転心しきたるに、」 これは、「雲月是同なり、渓山各別なり。」と言う様な事が、句が引いてあります。一方から言えば平等の世界、一方から言えばものの違いがきちっとしてる世界です。

もっと端的に言えば、空を見上げて御覧なさい。雲も月もこうやってそこにあれば、雲と月は違うんだけど、別々に見るって事はない。こうやったらいきなり雲と月が一緒に見える。全く違うものなのに。そう言う事ですね。これだけの人が此処に居る。皆違うけど、こうやってこうやってやると全部その通り、違うのに同じく見える。そう言う事が一方である。一方では確かにこの世に一人一人別なんですよね。絶対同じじゃあないんだ。それを平等即差別、差別即平等とって言う風にして、私達は使ってます。どっちか一方だけではないですね。

人間て言う名称でやれば、こうやって、人間って言う風に同一視する事が出来るのでしょう。だけど、その中に男性女性って言う違いが、こうあるから、男性女性って言う。人間としては同一なんだけども、男性女性別なんですね。年齢も別だろうし、背丈も別だろうし、そう言う違いがある。両方知って使わないと、問題が起きる事がある。偏るって言うんでしょうね。同じって言う見方の方だけを強くすると偏る。

例えば、お薬を出す時に、大人は一回にこれを三粒飲んで下さい。病院で大人の人子供の人って分けて、くれる。で時々おかしくなる人がいる。何でかなと思うと、大人だけども、子供よりも小さい人一杯いるのね。あれは効き過ぎちゃうね、完全に。で子供に、子供だからって言って、一服飲ましても中々効かない。これは1m60cm位で50kg位ある子供だったら、そりゃ子供じゃないんだよね。あれは多分年齢だけで、大人と子供分けてるんですね。

だけどお薬なんかを投与する時には、年齢だけで分けたんじゃ、恐らく危ない。それでちゃんと本人を見届けて、お薬をちゃんと配布して出すって言うのが、人間社会の在り様なんだけども、今は人そのものを見ない事が多いからね。そこまでちゃんとデーター見ないんじゃないですか。データーにしても、名前見て年齢見た位で、体重とか身長とかそこら辺まで詳しく見て、薬剤師がお薬を調合するって言う様な事は、よっぽどの選れた所でないとやりませんね。

こう言うのは、こう言う事の歪なんでしょう。どっちかに偏っている。ちゃんと使えば正しい答えが出てきます。こう言うのも勉強の必要な事でしょう。人間は皆平等だって言う。確かにそうであってほしい。じゃ平等だからって言って、皆夕食はドンブリに一杯ご飯食べろって言われて、もう結構ですって言う人います。お腹一杯で。いや平等だからって、そう言う、間違うとそう言う風な事になるでしょうね。平等って言う中には必ず違いがある。違いも見なければならない。違いを勘案して、初めて平等なんです。正しい。そう思いませんか。

八時間労働。身体の大きな人も小さな人も同じ様に働かなきゃならんて言って、重い物を持たされたり、色々あります。どっかに基準があって、そう言う見方のため偏りがあるのでしょう。まあそう言う処、一つ見て欲しいのね。で、まあ次は先程上げた様に、間違ったものの見方をしてるって言う事が上げてありますね。こう言うのは取るに足りないって言っているのですね。

「『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。」まあ、言う事は無いでしょうが。達磨さんがインドから中国に来られて禅が広がるその過程において話、じゃその前は禅は無いのか、真実は伝わってないのか、と言う様な事が道元禅師が指摘されている事でしょう。或いは六祖以降の道元禅師ご自身の様子の上にそう言う事が無いのか。もしそう言う事が伝わってないんだったら、正しくものが伝わるとは言われないんじゃないか、と。ある一時期だけそう言う事が行われている言う様な事だったら、ものが正しく伝わっていると言う事言えないんじゃないかって言う様な事でしょう。だからこう言う人達の意見て言うものは取るに足りない。子供の話よりもつまらんて言ってる。道元禅師は、子供の話がどの位素晴らしいかって言う事を知ってる。子供の話中々凄いですよ。「諸悪莫作」の巻見て下さい。

でもこれが大の大人のやってる事。もっと現代風に言ったら、研究の第一線でやってる人達がこう言う事を禅宗史とか仏教史とか言う中で唱えている。私達にあたかもそれが正しい様に教えている。よそにも道元禅師の厳しい批判があったと思いますが、五家と言われる五つの派がある。本当は派があるんじゃなくて、皆伝えるものは同じなんですね。それを別なものだって言う風に位置づけたでしょう。

曹洞宗って言うと、何処が臨済宗と違うんだって必ず言う人が居るもんだから、曹洞宗と臨済宗の違いを一生懸命述べるわけだけども、もし曹洞宗と臨済宗が違うんだったら、正伝の仏法はどうなる。正しく伝わったら分かれる訳がないです。二つも三つも。五家と言い、例え五家と言っても此処にある様に只一枝なんです。伝えているものは只一枝なんです。梅の枝だって一本しか枝が伸びない訳じゃない。一本の幹に何本も枝が出る様に、だけど、それは只一枝です。只一つの株の枝です。別々のものでは絶対ありません。そう言う事を、私達はきちっと知っておく必要があると言う事を言っておられるのですね。まあその辺で、そこら良いでしょうかね。

「先師古仏、歳旦の上堂に曰、『元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅花早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏惟んれば大衆、梅、早春に開く)』。」って言うご垂示があった。お言葉が述べられた。お正月のご挨拶ですかね。「しづかにおもひみれば、過現当来の老古錘、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ『梅花早春』の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。」

過去現在未来の老古錘って言うのは、立派な人ですね。必ずしも、年齢が高いと言う意味だけじゃありません。年齢が高いって言うんだったら、道元禅師老古錘に入りません。僅か五十四歳で亡くなっておられ、中国から帰ってきた頃には、まだ三十代にならないでしょう。今で言う、若輩ものでしょう。当時十六歳で元服ですから、立派な大人ですがね。そう言う事を考えてみると分かりますけど、老古錘って言うのは、年齢も高くとありますけれども、年齢が一番中心ではありません。力量のある人です。力量のある人って言う事は、眼がしっかり開けた人です。

そう言う方が、例え「尽十方に脱体となりとも、」飛びぬけて素晴らしく、だけどもまだ「梅花早春の開く道あらずんば、だれかなんぢを道尽箇といはん。」道の字はよく使う様に、言うと言う風に読むんでしょうね。道(みち)と読むと意味が通じない。言い尽くすと言う表現をしております。

じゃ具体的にみたらどう言う事かと言ったら、梅が春、花が咲いた。その梅の花が開いた時に、出合った時に、本当に梅の花が開いた通りに、もしならなかったら。そんな人は一人もいません。老古錘でなくても、誰でも梅の花が開いた時に触れたら、必ず梅の花の開いた様にならざるを得ないんです。それだから、ああ咲いてるって言う風になるんです。もし梅が開いた時に、そこへ出会った時に、その通りに見えなかったら、梅が咲いてるって言う様な事にはならないですね。

だから、そう言う本当に身近な些細な僅かな処に、天童如浄禅師と言うお方は眼をちゃーんとつけておられる。他に仏道って言う様な事がどっかに特殊にあるんじゃないって言う事です。皆さんが本当日常使っているその物自体に仏道の本当の真意があるでしょう。だけどお互いそうでしょうけども、眼を持って物に向かうとその通り見えるって言うのは、仏道の様子だとは思わないじゃないですか。眼の働きとしては理解できるけど、それが仏道の、しかもお釈迦様がお悟りを開いた真意だなんていう風には誰も受け取ってませんよ。

赤い物に触れたら赤く見えるのは当たり前じゃないかって、それで終わりです。白い物に向かったら、白いのは当り前だ、それが何だって言う位で終わってるんじゃないですか。それをきちっと見届けてるって言うのは、正に天童如浄禅師以外に居ないなって、道元禅師は評価してる訳です。如何ですか。それで完璧なんでしょう。赤いものが赤く見えて、白いものが白く見える。その赤いものが赤く見えるのに、赤く見えるって言うんだけども、何もする事無いんですよ。

無為にして、殊更に何か赤い物に向かって赤く見なきゃならないとか、何も殊更に自分でしないのに、いきなり赤い物に向かうとその通り赤く見える様に出来てる。それここで言う嗣所梅花ですね。正しく伝わると言う事でしょう。正伝。そこには迷いらしいものが一つも無い。惑わされる、迷惑と言う様なものも一つも無い。だからそのままで安心した生活出来てるんじゃないですか。そう言うものを証明します。それで証明されてるんじゃないですか。

だけどもそこまで赤い物に触れた時、赤く見えるって言うんだけど、そこまで心底納得が行く人って少ないですね。それ位私達は特別な処に仏法を求めてる。もっと違うものだと思ってる最初から。それ考え方の上で仏法を求めるからです。教えられた色々な知識の上で説かれている物があるから、そう言う認識を沢山持って、それで仏道と言うものを学ぼうとするから。道元禅師の様に正統な方々は、だから最初から人間の考え方の上の話を修行する時に持って来ないじゃないですか。考えじゃなくて、そこに今展開している、而今の事実、今の事実、それに参ずるって事を、徹底皆さんに基本として教えておられる。

「その宗旨は」その一番中心の内容ですね。ムイって読むんですね。梅の事をそんな発言する。ムイカイ、梅開、「梅開に帯せられて万春はやし。」梅が開く時を春と言うのでしょう。そう言った方が早い。それで十分でしょう。

日本には四季があって、衣替えなんて言うのが、何時の間にか定着していますが、今年の様に秋が来て冬が、立冬になってからも、中々涼しくならなくなった。特に秋の頃なんかはまだ暑かった。夏の着物きてても良いでしょうかって言う人がいた。エー何で秋が、立秋暦の上で着たら、秋の衣に着替えなくちゃならないか。元々は涼しくなったのを秋と言うんだね。その基本が違うんだよね。ほんとに。

そう言う事を考えないから、これだけ長い地球の歴史の中でも、どんどん、どんどん時期が変化して来てるでしょう。もう二、三ヶ月多分昔の暦と違って来てるんじゃないですかね。事実に学ぶって事じゃないですか、本当は。そしたら暑かったら、夏の着物着て別に良いじゃないですか。夏の着物とは本当は言わないんだよね。

まあそう言うな事、「万春は梅裏の一両の功徳なり。」いやー本当に春が来ると梅が一斉に咲くのでしょう。それで、ああ梅が咲いた、春になったなあと言う風にして、皆居るんじゃないですか。屁理屈を言う人は違うんですよ。屁理屈を言う人は違いますよ。人間が作った暦と言う上から物を眺めて、どうこう言うからずれるんじゃないですか。今の事実からこうやってやったら、ずれないんじゃないですか。

「一春なほよく『万物』を『咸新』ならしむ、」梅の花が一輪咲いただけで、全ての物が変わると言っていいんでしょう。そりゃ此処では梅の花って言う風にして、皆さん方が対象物として梅の花を想像してるかも知れませんが、皆さんの一々の様子ですよ。ちょっと左を向いただけで、悉く新たになりますよ。ちょっと右向いただけで、全部変わりますよ。一枚めくっただけで、全部変わりますよ。

その本の一頁をめくられただけじゃなくて、本の一頁をこうやってめくったら、全てがこれで変わりますよ。そう言う事をもうお分かりでしょう。どうですか。えーただそりゃ本の一頁めくっただけじゃない、他、何処変わった?って言う人が居るかも知れませんが、よく見て下さい。自分が立ち上がったら、一変に世界が変わりますよ。自分だけじゃなくて全てのものが。本当にそう言う風に出来てるんですね。

「万法を『元正』ならしむ。」正って、元旦正月でしょう。年が改まると言う事でしょう。だけど年が改まる処に正月、正しい月とか正しいと言う事を上げられたり、元旦の元、元と言う風な事が使われてます。それ元って元正となります。本当に、そう言う風に全てものが正しくきちっと行われてるね。違った動きは一つも出て来ないんですよね。コン!(机を打つ)こうやってやると、その通りの動きがそこで全部、それによってコロッと今までのが全部改まる様に出来てる。

同じ眼でこうやって物を見てるんだけども、その眼の様子が全部こうやって、襖に触れた時、壁に触れた時、皆それによって一変に変わるんだからね。根こそぎ変わる。そして何時もだた一心、その今触れてる様子しか出て来ない。だから見ておっても、あれとこれがどう言う風になってるって言う風な頭で、とやかくやる事一切要りませんね。眼に参じたら必ず、その今こうやって触れてる様子しか出て来ない。それがどんなに微妙な複雑そうに見える物であってもそうです。そう言う様にうまく出来てますよ。

「『啓祚』は眼睛正なり。」眼睛は眼でしょう。啓祚はここでは神から授かった幸せとか幸いとかって言う風に訳しておられるでしょ。神とか言う言葉で騙されない様に、そのもの、そのものから戴くんですね。その物がその通り、赤い薔薇だったら赤い薔薇が、赤い薔薇その通りに、私達の眼にちゃんと赤く見える様に出てきます。何のそこには屁理屈もありません。どうしてそうなる、何故そうなるって言う様な事が一切入らないですね。そう言うのを神の仕業と言うのかも知れませんね。神の為せる業と言うのかも知れません。

神と言う字と中心の心と言うものは同一ですね。意味として。中心、ものの中心、必ず物には中心がある。だけど中心て言うのは、本当に抽象的な言葉であって、ここは中心だって言って何かそこに具体的な見える様な物がある訳じゃない。こうやって吊るすと、必ず真直ぐになる処が出てきますね。この辺でやると平らに見えるかも知れません。ちょっとこっちの方でやると平らには成らなくなるとか、そう言う風に中心て言う物が必ずあるんですね。中心線て言うのは、何処に何処に置いてもだけど、出てきますね。タコを作る時、そうやって二つ位こうやってやると、二本出てきた線のここら辺に紐をつけて、こうやってやると大体上がる。




  1. 2018/10/06(土) 13:34:54|
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