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梅花Ⅲ-Ⅰ

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梅花 Ⅲ_01_02
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梅花 Ⅲ_01_05


173頁の終わりの方でいいですかね。後ろから二行目。少し読みます。


「『而今』の現成かくのごとくなる、『成荊棘』といふ。大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。三四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なるを具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり。『只一枝』なるがゆゑに、異枝にあらず、異種にあらず。一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。

このゆゑに、吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。汝得は吾髄なり。かくのごとく到処の現成、ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。このゆゑに、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな『只一枝』の開五葉なり、五葉の『只一枝』なり。『一枝』を参究し、『五葉』を参究しきたれば、雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心しきたるに、雲月是同なり、渓山各別なり。

しかあるを、かって参学眼なにともがらいはく、『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。」



「『而今』の現成」而今(にこん・しきん)読み方はどちらでも良いでしょう。今ですね。今の現成というのは、今皆さんのこうやってる様子です。「『成荊棘』といふ。」色んな事が今のこの様子の上にあると言う事です。梅の枝なもんだから、棘と言う事になっているのでしょう。私達のこう今の様子の中に色んな事が、丁度梅の枝に棘がある様に、色んな事が一杯ありますね。

エーそれをもう少し枝になぞらえてみると、一本の根幹、幹が、大枝ですね、根幹があって、そこに古い枝と新しい枝が今、有る。梅の実はご存知の様に、旧枝に成るんですね。新しい枝がありますが。それから、「小条に旧条新条の到処あり。」その一々ですね。枝の古い枝もあれば、新しい枝もあれば、太い幹もあれば、皆それ一本なんですけどね。一本と言う事は私達も皆一人です。生まれながらにして。他の所に何かが有る訳じゃありません。その一人一人に上に、色んな事がありますね。

「到処あり」。その処と言うのは「処は到に参学すべし、」此処でも、円通寺さんと言う所がありますが、円通寺さんに今皆さんが到着したって言う事でしょう。それが皆さんの居る場所なんでしょう。或いは道を歩いてるって言う、そこに道を歩いてる所に必ずいたんです。それが自分達の居る場所なんでしょう。だから「処は到に参学すべし、」と言う。別に難しい事ではないと思います。必ず自分が居る場所ですね。それが処なんです。到ってる処でしょう。自分が到っている処、それが自分の居る場所。その他の処に居た事がない。

じゃあ、その到るって言う事は、もう少し別な見方をしたらどう言う事かったら、今ですね。時間的には必ず今、それが到ってるって言う事です。見てるとか、聞いてるとか、坐ってるとか、読んでるとか、皆今の一々の在り様です。それがそこに到ってる時の様子。それ以外のは、だから考え方の上で描いた世界でしょう。だから学ぶ時に、実質と考え方の上で描いてるものの在り様とは全く別のものだと言う事を基本的に知っておいて欲しいですね、学ぶ時に。

私達は必ず実質に学ぶのでしょう。そうでないと分らない筈なんですね。考え方の上で出て来たもので学ぶって言う事は推測にすぎないのじゃないですかね。長い経験があるもんだから、それで一応考え方の上で推測をだして、ほぼ当たってるって言う風に誰もが思ってますから。だけど考え方の上では、ものってのは本当には無いね。そう言う処が参学の様子なんじゃないですかね。どういう風にして学んでるか。

花の数が三四五六と挙げてありますが、さらに無数とあります。それは一々皆さんの今生活している様子でしょう。その「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」その一々の今の在り様の中に、無限の内容を含んでいると言う事でしょう。今度は裏があるから、表の方もあるでしょう。表の方はご承知の様に、誰が見てもすぐこうやって見たら分ると言う様な状況でしょう。だから梅の花で言えば、形があり色があり大きさあったりする。或いは香りもすると言う事でしょう。

じゃその「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」って言う事はどう言う事があるかって言えば、花が咲いて、やがてそれがその中で実って行くって言う様な事があるでしょう。色んな体験を私達がしながら、その体験の中で人が育って行く、それは計り知れないものがありますね。この表裏、表と裏があるけども、どちらにしても自分自身の様子ですね。「一花の花発なり。」どんなに沢山花が咲いておっても、その一つ一つの花に、花の一つ一つの表裏の様子以外にはやっぱり無いですね。

「『只一枝』なるがゆゑに、」って言う様な表現されてます。私達だって只一枝でしょう。この世に只一人です。本当は。人が何億の人が居ようが、只一枝ですよ、皆さん。何処まで行っても、何処まで行っても自分の様子ばかりです。本当にそう言う風に出来てるから不思議です。

エーそれで、『只一枝』だって言う事は、どう言う風に有難いかって言うと、「異種にあらず。」出てきますね。他のものは無いですよね。一枝だ。これが中々、でも話してるんだけども、心底自分で納得が出来るかって言うと、中々そうでもないですね。隣に奥さんが居たり、旦那さんが居たり、子供が居たり、回りに社会の人が居たりする、一杯色んな人が居るじゃないかって。其処が先ず第一の関門なんでしょう。一枝だとは思えない。自分自身の様子だけではないって言う風に、そこで勘違いするんだよね。

何回も申し上げますけど、そのそう言う風に認識が出来てる事自体が、このものの働きですからね。他の人の様子ではないですね。見えてる事自体もこのものの働きです。そしてそれが数えられる働きも皆自分自身の様子、働きです。他の人が一切やってませんよ。それだのに、自分がやってるんだけども、何時かしら、自分自身が自分自身のやってる事の中で、自他を立てるんですね。そして、自分でないと思わせるんです。知らない内にそうやって自分で納得するんですね。

だけども、振返って小さい頃の自分を今推測すれば、生まれた事も知らない、相手と触れてるなんて事も知らない。それが自分の親であると言う事も知らない、そう言う生活してますよね。全部区別がない。兎に角自分が立たないんです。認識って言うものが全然ないんじゃないですよ。そこにお母さんらしい人が居て、おっぱいを吸いに行く訳ですから。認識が無い訳じゃないですね。ものが全然分らない訳じゃない。

何を飲んでるか分らない訳じゃない。だけども水だとかお乳だとかは言わないですね。言わないけども、本質的な力って言うものはそうやって、それが混乱しない。ここにある様に、「異種にあらず。」ですね。おっぱいはおっぱい、水は水です。それだのに、その内に自分を認める様になると、自分と違ったものだって言う風にして、其処できちっと線を引いて、そこから人間の生活がはじまったんでしょうねぇ。

だから一度、そう言う区分けの無い生活をしてる自分て言うものに、こう触れてみる必要があるんじゃないですかね、今でも。自分が立たない、自分を立てない、自分らしいものがすっかり無くなって生活している事実。向こうとかこっちとか言わずに生活が成り立ってる、そう言う処に、私達が一度触れてみる必要があるんじゃないんですかね。そう言う処に「一枝の到処を而今と称ずる、」とか言う様な事が出て来るんでしょう。本当にただ自分自分の在り様だけ。

今の様子見て御覧なさい。こうやって人の様子らしいもの無いでしょう。こうやってそう言うのどうですかね。理解いくのかしら。人間社会の常識としては、初めから自分を立て人を立てて、名前を付けて、これは井上であるとかって分けてますから、そう言う上からしか勉強してこなかったから、この事が中々受け入れられないのかも知れないね。だから、こう言う勉強もちょっとして貰ったら良いんじゃないかと思う。

「一枝の到処」を今と言う。今って言うのは自分の在り様だけです。「瞿曇老漢」て言うのはお釈迦さんの事で良いでしょう。そう言う自分に触れたんでしょう。そう言う自分の在り様に触れたんでしょう、お釈迦さん。それ迄は自分を立てた上でものの見方考え方の生活をしておられたんだけども、不思議に坐ってる内に、自分らしいものすっかり無くなって、本当に今の様子と一緒にこうやってただ生きてる、そう言う状況に触れた、そう言う中で暁の、明けの明星に触れた。触れて初めて、今まで顔を出さなかった自分がふっと顔を出して、そして今までの生活してた事、こうやって見てみると、あれ本当に天地と万物一体、梵我一如、本当に一つって言う様な分け隔ての無い、そう言う自分らしいものすっかり無くなっていたって言う事に気づいたのでしょうね。

「『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。」一って言うものが一の儘伝われば、それは正しく伝わったと言う事でしょう。だけれども、一が一のまま伝わったんじゃ何も進歩が無いって言う風に思いがちですが、中々そうじゃないですね。まあ間単にこうやって、パン!(扇で机を打つ)音でも必ずその音は、パン!その音以外には無いですね。只一声です。パン!

沢山幾ら音がしても、その音はその音、トン、トン、トン、トン(扇で軽く机を打つ)他の音は混じらない。そう言う風に出来てるから、トン、トン音がきちっと聞く事が出来る訳ですね。そうでなければ、沢山の楽器で演奏してる時に、どの楽器の音だか分らなくなっちゃいますよね。幾らハーモニーとして和音として良い音になっても、そのパン!出してる音が他の音と、パン!混じると言うパン!パン!ことは無い。その様にして伝わって来るものなんでしょう。

そう言う事だから、「このゆゑに、吾有の正法眼蔵」一人一人持ってる本質的な在り方です。「附嘱摩訶迦葉なり。」私が持ってるものを摩訶迦葉にあげるのではないですね、附嘱するって。伝えるって事はそうです。私に有るものを上げると言う事じゃないですね。伝えると言う様な事を間違えると、そう言う風に思ってる。でも、もしそう言う事だと、私の持ってるものを上げちゃうと私が無くなっちゃう。私の持ってたもの、次の人に伝えるって言って受け渡してしまうと、私が無くなっちゃう。私の持ってるもの、そう言うもんじゃないですね。

お互いに自分自身の本当の在り様を、自分自身で成程本当にそうだって肯がえた時に、附嘱と言う事が起こる。何か物が行き来する訳じゃないですね。自分自身の事を自分自身ではっきりさせたら、それで自分をちゃんと受け継いだと言う事でしょう。だから汝が得た事は吾が髄なりでしょう。「汝得は吾髄なり。」本当の事が分ると言う事はそう言う事でしょう。その様にしてずーっと伝わって来る。

「かくのごとく到処の現成、」ですね。「ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、」本当にここ素晴らしい様子なんでしょう。自分自身を本当に見極める、はっきりさせるって言う事は、この上ない素晴らしい事でしょうねぇ。「汝自身を知れ」といわれるけれども。

「開五葉なり、五葉は梅花なり。」でその後の、さっき読んだ所に、「しかあるを、かって参学眼なきともがら」って言う様な事で出て来る訳です。歴史的に中国に渡って、達磨さんから五代、そして達磨を初祖としてとあります。達磨さんから後五代で六祖まで、そうすると一花五葉と言う事だと言う風に理解してるとこう言う事でしょうか。そう言う話ではない。別に五と言う数字とか一と言う数字が問題じゃないんだけども、数字を其処で挙げられると、数えるんですね、五つ。

何が五つだろうかとか何を一つと言うんだろうか、そう言う風にして人間は数えるから、そしてそれに説明が付く様な何かものを持ってくる。それがまあ学者でしょう。でいかにも説明が付く様な何かものを持ってくる。その論理が展開すると、一応完成されたと言う事で、ずっーと公にされて、一花五葉の場合には、達磨さんが中国にお見えになって、それが一花であって、そっから後二祖三祖四祖五祖六祖とそう言う風にして花が開いて行くと言う事でしょうかね。そう言う風な受け取り方をさせたんでしょう。

或いはもっと禅宗の歴史の中で、こう言う説もあるわけですね。五家七宗と言う。まあ曹洞宗、臨済宗、為仰宗、雲門宗、法眼宗、それで五家ですね。そう言う風に禅宗が五つの宗派に開いたって言うので一花五葉と言う。そう言う受け取り方をしてる学者も出てます。何れもそれが道元禅師の指摘されてる様に、じゃその人達だけの時代の事なのかと言ったら、そう言う風な事じゃないんじゃないかと言う事を言ってる。

私達の身体を見たら分りますが、必ずこれ一人の人に、普通の生まれ方をすればですよ、五官と言うものがある。間違いなくこの上に五官が備わっておって、それらが皆活動する様に出来てます。それらも一花五葉でしょう。お釈迦様の教えを分別した人が、五時八教と言って、五つの時間帯に、お経の全てのお経を五つの時間帯に分けて、これが天台の智者と言う人が、天台宗の基になる人がそう言う分け方をした。、そう言う風な所に五時って言う事もありでしょう。五つって言う分け方は色んな所にあります。それはそんなに問題じゃないですね。広がると言う事、色々。たったこれだけのものだけど、色んな動きがあるって言う事で十分でしょう。

それがどの人でも、何時の時代でも、そう言う働きがあるから、「七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。」十九祖って言うのは、ここにも有ります様に、道元禅師から遡って行って六祖まで行くと十九代。こう言う事ですね。西天二十八祖って言うのは、インドのお釈迦様からインドの達磨様迄を二十八代と言う風にしております。その前に七仏がある訳ですね、お釈迦様まで。それから東土の六祖って言えば、一応達磨様も入れるのですね。達磨様を初祖として六祖まで。

それで、今挙げた様に、及び十九祖って言うのは、道元禅師のご自身の様子がありますから、自分の処まで、そう言う風にある。だけども「みな『只一枝』の開五葉なり、」きちっと、そこ述べておられますよ。どの方もどの時代も、どの祖師方も只一枝です。そしてその一人の活動がその様にある。
「五葉の『只一枝』なり。」

「『一枝』を参究し、」ってあります。下の方を見ると、こう言う風に訳しておられますね。「一枝が一心、五葉が万法。一心と万法がべつのものでないから、雪裏の梅花は瞿曇の眼睛の正伝となる。」難しいな、よく分らん。私の様な頭じゃ、読んでも良く分らん。一枝が一心でもいいんだけども。一番皆さんがよく分るのは、もうこのものでしょう。自分自身でしょう。本当に何処から見たって、一生涯見たって、この頂いているこの身心ひとつで生活する以外にないじゃない。そっから一歩も出ないって言うの、皆さんよく知ってると思う。このものの活動です。全て。ああやって戸か開いたって言う様な事だって、皆、各自自分自身の上の、今様子でしょう。だけど、自分が開けてないって言う風にしてそうやって見てるの、自分ではないって。他人が来て、今入って来たと言う風に思える。理解が出来る。そう言う働きも、皆この一身の上の様子ですからね。そこ迄丁寧に説明しときますけど。そう思わないからね。説明しとかないと。

こんな質問があった。東北の震災の後、直接自分との関係があるものでは無いから、ああいうニュースを聞いて心配もするんだけど、自分の事じゃないから考えなくてもいいでしょうかって、質問があった。エーこの人何を考えてるのかなーっと思った。東北の事だって言う風な、震災のそう言う悲惨な事実を聞いたって言う事自体が自分の事だって言う事知らないんですね。直接自分の事じゃないと思ってますね。直接聞いたんですよ。直接聞いて、直接自分の事になってるから、それが問題になってるんだけど、人の事だから、そんなに考えなくてもいいんでしょうかって。

考えなくてもいいんだけど、既に問題になってる事を考えなきゃならないんじゃないないですか。自分の中でその聞いた事が見た事が、自分の中で、ほっぽいといても良いのか悪いのかって事が問題になってる。それを人に聞いて、どうしたらいいかって聞かなきゃならない。それ位自分の事であると言う事を知らない。自分の事だから問題になってる。自分の上の事だから気にかかってる。他人の上で展開している事だったら気にかからないでしょう。そう言う様な事が一枝を参究すると言う事でしょう。

梅花 Ⅱー3

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さて「しるべし」と、次の所いきますが、「花地悉無生なり、花無生なり。」無生は生ずること無しと読むでしょう。皆さんこうやった時に、物が見える事ですよ、生まれたって思いますか。こうやってこうやって(周囲を見回す)ずーっと見て行く時、ああ新しい物が生まれたって。不生不滅って言う言葉がありますが、生ぜず滅せずって言う様な事が無生と言うんでしょう。無生。何処からこうやって、眼の処に出てくるんでしょう?物が見える。眼の処に出現するのかな?こうやって。その通りこうやって。見える事は何処から出て来るでしょう。うまれ出て来る所が無いじゃないですか、こうやってずーっと見てる時に。あそこっからそう言うものが生まれ出て来たってそう言う事ない。どうでしょうか。

手でも、こうやってですよ、(手を挙げて見せる)目の前でこうやって、何処からグーが出てくるか。何処からパーになるかってって、生まれ出て来る場所が、あそこから出て来るって言う様な気配は本当に無いんだよね。その通りの事が、ただ目の前で、本当にその通りの事があるだけだからね、いきなり。こんな事、日常生活している中で、自分の事だけど、こんな風にして観察した事ないんだよね。

生まれると思ってますよ。パン!(扇で机を打つ)こうやってやっても、あ、音が生まれたって、パンって。そう言う気がつく前に、音がしたって気がつくまでに、パン!活動してるのね、皆。気がついた時にはもう終わってるよ。そう言う様な事が、この無生と言う。

まあ今では無生(むしょう)って言う風に読む事が多いのでしょうけど。古い読み方はムサンって読んでるんですね。出産とかって産まれると言う字をサンと読むからね。もし生まれると言う様な事があると、死ぬると言う様な事が問題になるな。今見えていた物が、次こうやって次の物がこうやって他の物が見える時に、失ったって言う様な感覚、皆さん殆ど無いでしょう。さっきまで見てた物が今見たら無くなっちゃったって、そう言う風な見方をしませんね。ほんとに今見えてる物だけで、生活してるんですね。無くなっちゃったなんて、言う風にして物に触れてる事は無いですね。

考えの上じゃね、前の物見てますから、さっき見てた物が、今こうやって見えてるけど、さっきのは無いなって、そう言う見方は理解ができるから、失ったって言う風な捉え方がチラッとあるんじゃないですか。だけどこれは全然淋しがってませんよ。何も無くなってないから。ちゃんと全て見えてるから、ずっと。もしこの無生と言う事が無いとですね、生まれたり死んだりすると言う事があってですね、人が悩むんですよ。パン!(扇で机を強く打つ)聞きっぱなしで、音がしなくなってても、なくなったと誰も思ってない。パン!エー、兎に角面白いんだよね。

読んでみます。「花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、」悉く、生ずる事が無い故に、眼睛、眼の様子も生まれる事がない。眼の働きの様子を見る時に、物が見えるって言って、何処から出て来るらしい気配も無い、って言う事が書いてある。「無生といふは無上菩提をいふ。」って、ここですねぇ。物の本当の在り様なんです。無上菩提って。この上ないとあるでしょ。無上。菩提は阿耨多羅三藐三菩提ですから、道と訳され、この上ない在り方ですね。最高の様子と言う事でしょう。無生と言う事は。

どうして最高かって、先ほど言う様に、生き死にが無いからですよ。取るとか捨てるとかって言う事一切ないじゃないですか。取捨って言う事が一切ないじゃないですか。こうやっていて。それで居て何時でもきちっーと、その通りこうやて何処へ行っても間に合う様にできてる。更にありますよ、「正当恁麼時の見取は」今、皆さんが本当にこうやって物を見る時の在り様ですね。「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」こうやったら、本当にその事があるだけじゃないですか。

よく私が言うけど、もう一つ今の様子が、今の在り様の上にですね、もう一つの今の在り様って言う事が無いと言う事ですね、今の在り様と言うものは。だから矛盾が起きないんです。迷惑しないのですよ。迷ったり惑わされたりする事が一切無いのです。それが現実でしょうが。その現実を抜きに、自分達の考え方の上で物を見ると、今の在り様の他に、色んな事が想像出来るもんだから、一杯もっと違った在り様があるって言う風に思えるんです。そりゃ見方や解釈の仕方だからです。事実はただその通りの事がその通りに有るだけですよ、先にもあった様に。

「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」見取、道取って、見て取るとか或いは言い分ですね。道取。どうなってるかって言う時に、本当に雪裏の梅花只一枝。今、どうあるかと言ったら。今の上にもう一つの在り様は無いんです。どんな事をやってみても。お分かりでしょう。今の様子ってのは、もう一つの他の様子が絶対そこに重ならないし、並ばないし、それが今の様子だから。それでずーっと埋め尽くされてるじゃないですか、生涯。だからその中に身を本当に置いて、考え方じゃなくて、その真実に照らされて坐禅するのでしょう。そうすると、その内容がその通り、自分で、ああなるほど、本当にそうなってるなって、肯がえ様に出来てるんでしょう。そうやって只管打坐ってやってるんでしょう。

「地花生々なり。」まあ下にも訳してくれてる。地も花も何もかも、そう言う風に、もう一つの何か在り様がそこに有るって言う在り方はないですね。「これをさらに『雪漫々』といふは、全表裏雪漫々なり。」内も外もと、表も裏もと、言ってます。裏へ回ったら本人じゃないって言う人は有りません。表側から見たらあなたの本物であって、裏から見たらあなたじゃないって、言う様な人は居ませんね。横から見ようが縦から見ようが、足の裏の方から見ようが、何処から見てもその人に違いない。そう言う風に人間も出来てるんじゃないですか。雪ばかりじゃなくて。

だけども、表から見た時には、表から見た様に、裏から見た時には裏から見えてる様な在り方しかないですね。裏からみた時、表から見てる物と比べて見る様な見え方じゃないです。表の様子なんか何処にも無いね、裏から見てる時に。そう言う風に見えるって言う事は無い。でも人間はさっき見た表から見た時の様子を、裏から見てる時に想像するからね。凄い動物ですね。見えてないのに想像するんです。それだから、今折角、裏を見てる時に、裏が本当に見えてる事を大事にしなくなります。見ないんですよ。裏から見てる時に、裏から見てる様子を本当に見ないんです。表から見た時の様子を、何処かに、裏を見てる時に想像して見るから。そう言う欠点が有るんじゃないですか、人に。

だから、本当に眼に参ずる用があるんでしょう。本当に自分の眼に参じてみると、例えさっき、前の、前から見た様子が見れたにしても、今裏から見てる時、前から見てる様子が、一切眼には無い。その事大事な事なんです。そうでないと、やられるんですよ。チラッとでもそこに疑義がのこるんじゃないですか。そう言うな処をこうやって言いたいんですね。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」皆さんの自分自身の様子に違いない。身心何もかも一人一人、自分自身の在り様の他にはないでしょう。何時も申し上げるけど。あの人がどうのこうのって言う事だって、それ、あなたが見てる話であって、他の人が見てる人の話じゃないのよね。だけど、何処からかしら、自分の事じゃない様に表現してますね。あの人はって。私の見てる事なのに、あの人はって言って、別の人の動きの様に思ってる。こう言う処もチェックする必要があるでしょう。もう兎に角二十四時間、この自分の活動以外、一歩も出ないですよ。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」情の上の話をしたってそうでしょう。人情とか色んな情がありますが、情の話をしても、嬉しいとか悲しいとか言う話も、情の内に入るかも知れない。色んなそう言う心の働きもありますが、全部自分の上の様子以外出て来ないんだもん、しょうがないじゃない。

「尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。」このこう言う表現は、先ほど本当に梅の花に触れた時に、その様になってる事を申しあげてるだけですね。誰でも、梅の花に触れたら、梅の花のその通りにある様になるって事を言ってるだけです。それを、何回も繰り返しますけど、梅の花の、梅の花の通り、そこに咲いてる、咲いてる通り見えるって言う事は、人間は愚かだから、そんな事大事にしないんだよ。当たり前じゃないかって言うんだよね。何?それ以上、何かそれで?って言われますね。

じゃ今、梅の花に触れてる時に、梅の花以外の様子が自分に本当にあるんだったら、それ以外の事は一切無い生活をしているにも拘らずですよ、そう言う事も知らない。そして頭の中に描いてる色んなものを問題にして時を過ごしてる。真実を本当に見る、真実に目を向けるって言う事を、本当に人はやらないもんだよね。

諸法実相を窮尽するって、諸法の実相、全てのもの、ありとあらゆるものの真実の姿を、そのまま窮め尽すって言う様な事、やらないもんですね。「尽界梅花なるがゆゑに」って言うのは、本当に梅の花に触れた時に、何もかも梅の花の様子です。坐ってる事も梅の花を見てる上の坐ってる様子だし、考える事が例えあったにしても、梅の花に触れている時の考えてる自分の様子であって、それから一歩も出ませんね。飴玉をその時なめたにしても、梅の花を見てる時に、なめてる飴玉の様子です。だから「尽界は瞿曇の眼睛」と言われるのでしょう。

お釈迦様と言う人は、そう言う風な自分の生きてる本物の生き様の様子に目を向けて、それで、なるほどって自覚したんでしょう。
「『而今の到処は』」ってあります。今、到ってる処、今触れている処、今実際に生活してる様子です。而今の到処。それは「山河大地なり。」ってあります。この通りでしょう。山や河や大地。その物を離れた処で生活してる人は居ません。

「到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。」これは達磨さんの伝法の偈として知られている句でしょう。「吾本来茲土」何処に来たかって言うと、何処に来るかって言うと、今こうやっている処に人は何時でも到っているのでしょう。今こうやってる事以外に生涯ないのでしょう。他へ行くって事は無いのでしょう。今を離れてどっか行く人居ないじゃない。どんな長生きしても、今を離れてどっか行く人はいないでしょう。そうでしょ。

そして自分が居る場所以外の処で生活する人いないでしょ。茲土です。必ず茲土にいるのです。そこ以外に行く場所がないんです。だから修行する時、必ず今、ここで、私の、在り様で学ぶんです。それで、それを学ぶ時にものがはっきりするじゃないですか。今ずーっと述べて来た様に。迷情を救うんだから、今まで自分が悩んだり、苦しんだり、迷ったり、はっきりしないとか色んな事言ってた事が、自分の今のここのこう言う在り方に触れた時に、なーんだ!って言うほど、すっきりはっきり明快な答えが出る。パン!じゃないですか。出ませんか。

要するに考えてる事じゃなくて、事実に目を向けた時に、考えてる事と違うでしょう、事実は。そして事実は皆さんに嘘をつかないのでしょう。皆さんを騙さないのでしょう。迷わさないのでしょう。こうやって、(茶碗を持つ)触れたら。大人でも子供でも迷わないのでしょう。だけど、考え方にこれを持ってったら、それが何だって考え始めると、分らなくなるのでしょう。これだけで、「一花五葉に開いて結果自然成ず、」成る程本当にそうだって言う様な処に落ち着いたら、それで良いのでしょう。

「西来東漸ありといへども、」達磨さんがインドから中国へ渡ると言う様な事が、祖師西来ですが、仏法東漸と言う様な事があって、東の方へ段々伝わって来たって言う様な、一応歴史観があるのでしょう。インドを発祥の地だとする、仏教は。そうすれば、段々日本にこう伝わって来る、一応東漸と言うのでしょう。中野東禅と言う人がいますが、東漸なんでしょう。これ、アメリカの方へ行くから、仏法東漸と言うのでしょう。ヨーロッパの方に行くと、それでもこう言う風に回って行ったって言う風に考えるんですよ。インドからヨーロッパへ行ったって言う風には考えないんですよ。ねぇ、不思議だね。何でだろうね。まあそれはいいけど。兎に角、西来東漸て言うのはそう言う事でしょう。

そう言う風な事が言われたにしても、「梅花『而今の到処』なり。」本当に梅の花が咲いている所に皆さんが出合えば、否応なしに梅の花が咲いてる通りに、それ以外の所へ何処へも行きませんね、と言っております。良いでしょう。読んでみて話をすればするほどですね、本当に何でもない、ありきたりの話ですよ。もの凄く当たり前の話です。

パン!(机を打つ)だけども、当たり前なんだけども、噛みしめてみるとですね、噛みしめれば、噛みしめる程、この事が如何に大事な事かって言う事がよく分ります。これなくして、ものは成り立たないのです。本当に。でもこんな事が仏法だって思ってる人、千人の中に一人も居ませんよ。悪いけど。千人よって。現代の社会で。だからこの道元禅師がこうやって残してくれている物があっても、これ読んでる人が沢山居るんだけども、そう言う風に伝わってないんですよ。これは大問題ですね。大問題。だから私達が、本当にこの受け継ぎをきちっと出来る人を育てないと、困ると思います。

でも話してみれば、当たり前の事です。誰でもが当たり前の事だから、誰にでも勧めるのです。誰にでも勧めて、そうなってる事を誰でも分れば、必ず救われていくんです。人の力借りずに。これが自分の事だけど、自分の事がそうやって分らないから、問題が起きてるんです。殆どの場合。どうして良いか、何処に手をつけていいか分らない儘に、無暗に修行してるんですよ。どっか行けばその内、犬も歩けば棒に当たると思ってるんです。無理です、そう言う修行の仕方は。そんな事はお釈迦様以来正伝の仏教の中には無いんです。そんないい加減な導き方は。そう言う事が、正法眼蔵だと思います。正法眼蔵と言われる所以だと思うんです。

エーいいですか。いい時間で。じゃこの位で今日は終わりにしましょう。

梅花 Ⅱー2

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「さらに梅花裏に参到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。」この現実、この今の皆さん方、各自の自分自身の在り様に目を向けた時に、本当にその通りだって、パン!(扇で机を打つ)言う以外にないじゃないかって言っております。

こう、これひとつ見たって(扇を開いて見せる)さっき見てた見え方では絶対ないじゃないですか。今日はあったかないかは、同じ扇子をこうやって見せてるから、あすこにあった扇子を見せてるから、前のものじゃないかって、そう言う思いがすっとこう起きる。だけども、思いが起きたにしても、その思いでさえも、先ほどの思いじゃなくて、皆今の様子ですからね。これ位、何処を見ても先ほどのものは無いですね。その通り。「さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。」疑い様がないのですね。

「これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、」いいでしょう。「天上天下唯我独尊」誰の力も借りる必要が無い程、独立してます。一人立ちがきちっと出来てます。皆一人ずつそう言う生活。自分だけじゃなくて皆、誰しもがそう。よく使うけども、生涯自分の頂いている眼で見るだけです。それぐらい唯我独尊です。どんなに沢山の物、今迄見て来たかって言ったって、全部各自自分の眼で見てきた物だけです。それ、疑い様が無い事実でしょう。

人が取って来てくれた写真を見るにしたって、自分の眼で見るしかない。自分の眼で見ない物は見たと言わないんです。言えないんだよ。見えないんだよ。自分の眼で見えない物は、見ない物は見えない。だのに、見た物で争う事があるとしたら、おかしいね。

「法界中尊なり。」法界の中において、最も尊ばれる事だ。法の中にあって。誰の邪魔もしない。何億人いてこうやって物を見てても、お互い見てる時に争って見てる人は居ない。エー、いいじゃないですか。同じものこう見てる。そんなに穏やかで立派な生活が約束されてる。って言う様な事が、道元禅師って凄いですね。如浄禅師がおっしゃった雪裏の梅花、そんな話をこれだけ取り上げて。「雪裏の梅花只一枝」よく何か軸でお書きになっているの見る事がある。

「しかあればすなはち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅花、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花、および十方無尽国土の諸花は、」色々出て来ますね。「みな雪裏梅花の眷属なり。」とありますが、纏めて言うとですね、色んな物が、色んな事がこうやって皆さん方が生活の中で、物が見える在り方って言うのに、ただこう言う事が基本なんだと言う事です。花と言うと色々に見えますが、こうやって見えてる事が、皆天花なんでしょう。一々が曼陀羅花なんでしょう。

でも、そう言う事が、こうやって見えるって言う様子は、この今挙げてる様に、本当に眼があって物を見てるって言う気配無く、いきなりその事がその通り、こうやってあるって言う風な在り方で、全ての物が、こうやって生活の上で出来上がってるんじゃないですか。って言う事が眷属と言われる訳でしょ。それが基本なんだ。向こうに有るものを、こちらから人が向こうに目を向けて、初めて物が見えると言う様な在り方ではないと言う事です。

これはもう実際に皆さんがですね、日々の生活の中で体感して下さい。自分の在り様として。見る前にあるって、よく使うんですね。もう見ようとする前に既に見えてるんだよね。そこに有る物をみるって言う表現の時に、そこに有る物と言う事は、もう見えてる証拠なんでしょう、見る前に。見えてるって事があるから、そこに有る物って言うんでしょう。ねぇ。

音がして音を聞くって言うけど、音がしてって言う事は、聞く前に音を認知してるんでしょう。ねぇ。認知してるから、今音がしたものを聞いたって言う風に言うんだけど、聞く前に音を知ってるんじゃないですか。そう言うものも耳が無い。本当にそうなってるでしょ、皆。今の味わいって言うけど、先に味があって、それを人は後から追いかけて味が分った様に言うんだよ。皆先にあるんじゃないですか。そう言う風に。どうでしょう。

まあそう言う風な事を「みな雪裏梅花の眷属なり。」と言う風に挙げるんでしょう。それから梅花の恩徳分を受けって、花が開いて言う様な事を言ってますが、こういう力によって物が見えるのでしょう。皆さんが物が見える力は、この隔ての無い、いきなりそうなる様に出来てるんじゃないですか。いきなりそうなる。この力によって、障子、壁だとか天井だとか皆その事が、その様子、花が開く様に、その通りパアーっとこうあるんじゃないですか。時間がかからないから不思議ですね。

パン!(早く机を打つ)こうやってやっても、早い動きについていけないって思うかも知れないけど、この通りパン!ひとつもずれない。ついて行きますからね。そう言う風に、花が開く様に扇子も開くのでしょう。百億の花、「百億花は梅花の眷属なり」ありとあらゆるものが、そう言う風にして生活している上で、皆さん方が物をを見てるって事は、そう言うあり方なんでしょう。前に見ていた物をっ眼から消して、次の物を見るって言う様なものの見方をする人は、一人も居ない。前に見ていた物が邪魔で、次の物を見る時に困るって言う様な人も、一人も居ない。前に見ていたまま、ちゃーんと全部、一々。そうでしょう。

何も払いもしないし、受け入れるものも無い。受け入れるとか払うと言うことじゃなくて、いきなりその通りがずーっとある。眼の様子だとも思ってないでしょう、これ、こう言う風に見えてる事。見えてるって言う風に、大体捉えてない。在るって言ってるんだね。「小梅花と称すべし。」そりゃ言ってみれば、一人一人の梅花の様子なんでしょう。だけど、その僅かだと思ってる様子が、それで全部ですからね。

「乃至空花・地花・三昧花等、ともに梅花の大小の眷属群花なり。」何から何までそうです。それでその次によく使われるのでしょう。梵網経の一節、下にもあると思うんですが、「我今盧舎那な、方坐蓮華台、周匝千花上、復現千釈迦。一花百億国、一国一釈迦、各坐菩提樹、一時成仏道」まあ普通に言ったら、こう言う事がある。百億の国を成す。

一つ一つその通りの事がこう、切りなく行われてる。一応区切られてるでしょう。見て御覧なさい。障子に向かったら障子の様になるし、襖に向かったら襖の様になる様に、一応区切られてるでしょう。それを国と言うのでしょう。畳だって、ざっと見れば、畳って言うんだけど、一畳って言うかも知れません。もっとこうよく見ると、一個ずつこうイグサがこうある。そう言う風に見ていくと、本当に一々ひとつずつ、きちっとした在り方がある。そう言うのを挙げて百億の国と言うんでしょう。そしてその百億の国、一々その通りの事がそのまんま花と、花が開く様にきちっとあると言う事です。このお陰で誰もが、見誤ることなく正しくものが判断できる訳でしょう。もし見誤る事があるとしたら、恐らくは自分の詰まらないものの考え方がちらついた時に、見誤るのでしょう。そうじゃないですか。

ひょっとしたらとか言う様な事が、ふっと思い起こされる時に、誤りが起きるのでしょう。眼自体はそう言う風な事を起こさないからね。一切自分の私見を入れないからね。眼は。自分の見方って言うもの無いです、眼には。私流のものの見方ってものは、眼は持ってません。

「みなこの梅花の恩分なり。」梅花の恩分の他、こう言う見え方の他には何も入って来ないって言うんですよ。「さらに一恩の雨露あらざるなり。」本当にただその通りの事がその通りにこうやって、パン!(扇で机を打つ)いきなりその通りに戴ける様になってる。手をつける用がない。遣り変える用がない。何かを用いる、そう言う処に一恩の雨露あらざるなり、と言う様な事言われているんでしょう。そこに加えるものも取り除くものも無いです。そんなうまい具合に出来てる。

「命脈みな梅花よりなれるなり。」そう言う生き様は如浄禅師がおっしゃってる様に「雪裏梅花只一枝」と言われる。本当に私達はそう言う風な在り様ではないですかって。「ひとえに嵩山少林の雪漫々地と参学することなかれ。」

道元禅師の句に、「多年いたずらに見る 山に雪ありと」って言う句があるんですね。「今冬忽ちさとる雪山をなす」そう言う偈があります。今まではずーっと山にああ雪が積もってるなーって見てたけど、今日初めて山を見た時に、雪が山に成るって。どういう風にもう少し上手く表現したら良いか分りませんが、兎に角、自分の方から物を眺めていた物の在り様と、山それ自体の、雪の山それ自体の在り様に触れた時の感動とは違うんですね。

「如来の眼睛なり。」ずっーとそう言う事が出て来ます。これがお釈迦様が気が付いた、悟られた眼の在り様なんでしょう。心眼を開くって言うんだけど、自分自身の眼が本当にそう言う風になってるって言う事を、よっぽど聞かない限りは、私達は知りませんよ。ただ物が見えると思ってるだけだから。だけどその物の見え方を、何もしてないのに、こうやったらその通りに、いきなりその通りにきちっとこうやって全部なる。修行らしい事を一切用いない。そして何かを手放して初めてそう言う風になるって事でもないし、守ってなきゃ、そう言う事がずーっと行われないのかったら、そんな事もない。兎に角私達が思ってるものとは全く違う素晴らしい働きなんでしょう。

問題にしたくても先程のものが一つも残らないんだから、問題にしようが無い様に出来てるって事でしょう。でもそれを知らなければ、やっぱり見た事を頭の中に記憶してますからね、その記憶が思い出される度にその記憶を問題にして、未だ片付いていないとか、嫌なやつだとか言っちゃ、そうやって生活してる訳でしょう。だけど、自分自身のこの本物の眼の働きは、そう言う事と全く別の世界の働きをして生きてるのでしょう。そういう事に目が向いて気づいたから驚くでしょう。お釈迦様だって。

「如来の眼睛なり。頭上をてらし、却下をてらす。」頭の先から足の先迄、皆そう言う活動をしてるんでしょう。「たゞ雪山雪宮のゆきと参学することなかれ、」誰か、あるいは昔の人とか言う様な他人事じゃないぞと言っております。特殊な世界の話じゃないよ。って言ってるんです。「老瞿曇の正法眼睛なり。」一応お釈迦様を尊っとんでるんでしょうか。「老瞿曇の正法眼睛なり。」次に出て来る、「五眼の眼睛このところに究尽せり。」皆さん方が眼の話をする時に、肉眼とか天眼とか慧眼とか法眼、仏眼とかって言う風にして、五つ位の眼を上げますけども、まあ心眼を開くって言うのもあるでしょうけれども。

仏眼とか法眼とか慧眼とかって言う様なものでも、皆ただ、この今皆さんが使っている眼の様子、その事を離れてはないじゃないかと言ってるんです。だけど、ここに凡眼て言うのがある、凡眼て。凡くらな眼って言うのがある。五眼の他に有るんでしょうか。よく使うでしょ。あなた方は凡眼って言う。自分の眼が有りながら、自分の眼の様子がどうなっているかを知らないって言うのは、凡人の眼の扱い方でしょう。自分の素晴らしい宝物があるのに、それを自分で知らないから、なんだつまらないなと。

殆どそうじゃない。その物はその通り見えるったら、つまらないと思ってる。つまらないと思ってる。思ってませんか。あれ、物がその通り見える位のつまらないと思ってるんじゃないですか。本当は違うでしょう。その事がその通り見えるって事は、そんなつまらない事じゃないでしょう。途轍もない事なんでしょう。作ろうと思ったら、大変な事ですよ。その事がその通り見える眼を作ろうと思ったら。

例えば、自動車が無人で走る様なもの、今開発してるんだけど、一応人間の眼がその通り見える様な働きを、ああ言うものによって再現するんでしょう。だから危険を察知したら止まれる様になる様な動きを、そっから導いているんだと思う。だけど人間の目は見た物残さないんだよね。凄いんだね。眼は残さないんだけども、身体と言うものは不思議なもので、見たものに出合うと、あ、前に見たものだって思える力がある。だから町で会っても、円通寺の方丈さんと会って、知らん顔して通る人がいるって事はある訳ないよね。上手く出来てるよね。

「千眼の眼睛この眼睛に円成すべし。」千眼て言うのは、千の眼と言うよりも、時々刻々と言う風に捉えたら良いのでしょう。皆さんの眼の大きな活動ですね、千手千眼観音と言うのがあります。あれだってそうでしょう。千の手を付けるって言うのも、この手の動きが一日中で千やそこらじゃないんじゃないですか。そう言う事を、その時その時を留めてこうやって記憶して行くと、写真でも取ったら分ります。この身体の手が一日中どう言う風に動いてるかって言って、一台のカメラでずーっと取って行くと、この身体に一杯手が付きますよ。そう言う事です。千手千眼。誰かそう言う風な発想でああ言う仏像をつくったんでしょうねぇ。

「まことに老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵あるべからず。」あるべからずですから、諸法実相全て総ざらえして極めつくしてるって。いかなる小さなものでもどんな事でも、必ずそこに向かったらその通りに、それ以外の見え方をしない様に出来てます。だからこの様に見えるのです。(扇を開いてみせる)今こうやってこの様に見えるのです。

人間はそう言う風な事と、もう一つ違った働きをする動物でしょう。その見えてる事は見えてるに違いないんだけど、自分の考え方をそこに加えて、そして考えの上から見えてるものを選別して取り扱う。そう言う嫌いがあるのでしょう。だから自分の思い通り見えないものを嫌うんじゃない? で、嫌った結果どう言う風にするかって言うと、無くしたいですね、見えない様にしたい。それでもの凄い苦労するでしょ。その為に。だけどよーく見ると、消さなくても何処にも残らない様に出来てると言う事を知った方が利口でしょう。そう言う風にそれで解決してる訳でしょう。

どうしたらあの忌まわしい嫌な奴との思いを、目から隠すことが出来るか、思う事を止められるかって言うよりも、無い事を知ったら結論でしょう。有ると思ってるから、思い起こすと有ると思ってるから。不思議ですね。思い起こすと有るとおもうんですね。炊飯器の中に、確かに未だ明日食べるご飯がある筈だと思うんですよ。開けて見たら無いんだ。昨日みんな食べた。無いんだ。思うと、有る様に思うと、不思議ですね。有る様に思うと、ある様に思うんですよ。まあそんな、一杯そう言う風な生活をしてます。

「人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。」そこに挙げてあるでしょう。人間の見別ありとも、凡聖の情隔すともとある。上下隔てですね、そういうものが起こるとしても、人間の考え方では、そう言う事が起こるかも知れないけども、事実と言うものは人間の考え方とは違って、本当に只その通りその事があるだけだ。一つもそれ変わらないよ。いいじゃないですか。それで。

「雪漫々にあらざれば尽界に大地あらざるなり。」その通りの様子がなければ、その通りの事は、そこに現れる訳がないですね。「この雪漫々の表裏団圝」とんらん、らんらんとも読むのでしょうかね、「団圝、これ瞿曇老の眼睛なり。」今大地に雪が、こううず高く丸く積もって盛り上がってる。それがその表裏の団圝と言うんでしょう。雪がこう言う風に。(手で盛り上がってる様子を示す)。不思議ですね。雪が積もるんだけど、平らな所にこうずっと同じ様に、ずーっと積もっていくのとですね、出っ張りの有る所にこう積もって行くのとではですね、何となく積もったなって感じが、こっちの方(出っ張りある方)があるんですね。これそう言う事だと思うね。見た時に。

平らな所ってね、あんまり分らないです。全部平らにスーッと上がって来るとね。積もったって感じがあんまり良く分らない。本当にその通りになるんですね。「瞿曇老の眼睛」昨日今日始まったものの見方じゃないって言う処に、老と言う字が付くんでしょう。

老梅樹って言うのも最初の所にあったけども、この身体を一人一人のこの身体を、梅の、古い梅の樹って言う風に表現してるけど、確かに昨日今日産まれた人でもですよ、老梅樹なんだと思う。考えて御覧なさい。この命が生まれるって言う事を見ると、どの位古い年代が命の底にあるか。根を張ってるか。自分の命が今日ここにこうやって存在する事の様子を見ると。まあ私達が知識として知らされてるのは、人類が発生して何万年とかって言う事を考えると、まあそんな事もありますが、何十代か遡るんでしょう。

その位の命の根っこが張ってる。そしてこの一本の樹がこうやって芽を吹くのでしょう、命を。それなしに、私達が生まれると言う事はありません。ただ両親がいりゃ生まれると思ってるけど、その両親はどっから生まれるかって言ったら、普通に考えてみると、その両親がいるっていってよく使われるじゃないですか。どこまで行くか分りません。

兎に角その位無限の広がりのある老梅樹ですね。何千年位の樹なのかわからん位、古い立派な一本の樹です。命です。そう言う所に老の字が使われる。老眼睛って言うでしょ。何時からこう言う風に人間の眼、物に触れたらこう言う風に見える様になったのかしらない。誰が作ったのかも知らない。神様が創ったとも言わない。仏様が作ったとも言わない。不思議な身体だね。


梅花 Ⅱー1

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梅花 Ⅱ_01_01
梅花 Ⅱ_01_02
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今晩は。それで早速ですが、168頁、中間辺りの段落の所から。少し読みます。


「先師古仏、上堂示衆云『瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱服』(瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり。而今到処に荊棘を成す、却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを)」。

いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうむらずといふことなし。天地国土もこの法輪に転ぜられて活鱍鱍地なり。

未會聞の道をきくといふは、いまの道を聞著するをいふ。未會有をうるといふは、いまの法を得著するを称ずるなり。おほよそおぼろげの福得にあらずは、見聞すべからざる法輪なり。

いま現在大宋国一百八十州内外に、山寺あり、人里の寺あり、そのかず、称計すべからず。そのなかに雲水おほし。しかあれども、先師古仏をみざるはおほく、みたるはすくなからん。いはんやことばを見聞するは少分なるべし。いわんや相見問訊のともがらおほからんや。いはんや堂奥をゆるさるゝ、いくばくにあらず。いかにいはんや先師の皮肉骨髄、眼睛面目を礼拝することを聴許せられんや。

先師古仏、たやすく僧家の討掛搭をゆるざず。よのつねにいわく、『無道心慣頭、我箇裡不可也』すなはちおひいだす。出了にいはく、『不一本分人、要作甚麼。かくのごときの狗子は騒人なり、掛搭不得』といふ。まさしくこれをみ、まのあたりにこれをきく。ひそかにおもふらくは、かれらいかなる重罪ありてか、このくにの人なりといへども、共住ゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるゝのみにあらず、ほしきまゝに堂奥に出入りして尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。先師の宋朝を化せし時、なほ参得人あり、参不得人ありき。先師古仏すでに宋朝をさりぬ、暗夜よりもくらからん。ゆゑはいかん。先師古仏より前後に先師古仏のごとくなる古仏なきがゆゑにしかいふなり。

しかあれば、いまこれを見聞せんときの晩学おもふべし、自餘の諸方の人天も、いまのごとくの法輪を見聞すらん、参学すらんとおもふことなかれ。『雪裏梅花』は一現の曇花なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼睛を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。而今、すでに雪裏の梅花まさしく如来眼睛なりと正伝し、承当す。これを拈じて頂門眼とし、眼中眼とす。さらに梅花裏に参到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、法界中尊なり。」



つづきますが、今最初に読んだ所は如浄禅師のお示しですが、その後少し続けて読んだ所は正しく道元禅師が如浄禅師と親しく過ごされた日々の事が、まあ書かれていると言って良いでしょう。

エー、瞿曇眼睛、瞿曇眼睛を打失する時、皆さんが物をご覧になる時の様子です。物を皆さんが見てる時、ここに書いてある様に、眼って言うのをひとつも問題にしてないって言う風に読んだら、よくわかるんですね。失うって言うもんだから、エーちょっと間違って受け取るかも知れませんが、物を見る時に、皆さんは自分の眼って言う物は、全く認知してない、感知してない。有る事も知らないって言った位、自分の眼って物が問題になってないと言う事です。そう言う事が打失と言われますね。失われているって言う事でしょう。

それが失うって言うと、何か淋しくなるんだけど、本当に親しくなると言う意味ですね。その間に眼を通して物を見るって言うのは、普通の理解の仕方でしょうけども、物を本当にご覧になっている時、こうやった時、眼と物の間にですね、介入するものが何にも無い。その物の通りあるんですね。こうやって(周りを見回す)何処をこうやっても、触れてみても。これはもう、少しこうやって説明をすれば、十分理解がいく事と思います。

そう言う時に、この冬の景色なんでしょう、雪林。雪の積もってる、或いは降ってる中に、梅の花が、梅花ただ一枝とありますから、一枝、梅の花が咲いている一枝があるって言う事ですね。ごく普通の景色なんですよ。極普通のなんだけども、当たり前すぎて、私達はそんな事はですね、仏道を学ぶ時にですね、もう全く論外のものとして,取り扱ってません。仏道では、そんな梅の花が咲いている時に、梅の花がみえるだけの事だとして、相手にもしてないのです。それはただ、梅の花が見えるだけであって、仏道とは全く関係がないって言う位に、多分見てます。そう言う処が大問題なんですね、本当は。

裏を返すって言うか、言ってみれば梅の花に向かった時、梅の花が咲いている時に、其処に目を向けた時に、それ以外の事が人には無いと言う事なんでしょう。それで完結編なんでしょう。そう言う在り方を私達は瞿曇の眼睛、お釈迦様の、お釈迦様と言う人は私達とちょっと違って、眼が開いた人、お悟りを開いた方って扱っておりますけども、そう言う人の在り様。だから私達も基本的には、お釈迦様の眼で見ている物の見え方と、全く同じ生活をしてるって言う事に注目すべきなんですね。

「而今到処に荊棘を成す、」どういう風な茨や棘がそこに出てくるか。まあひとつは梅の枝の、枝ぶりの様子がそのまま、チクチク、チクチクとこう棘が付いてますから、その事をひとつは指す。間違いなくその事を指しますが、もうひとつは、私達がそう言う風に物が見えているにも拘らず、その外に自分の上にですね、色んな思いが芽生えてくる。それがまあ荊棘と言われる事になるでしょう。それで折角のものを皆台無しにして行く。

だから「却笑春風繚乱服(却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを)」って言う様な事が言われるのでしょう。折角花が咲いているのに、其処に春一番かどうか知りませんが、春風が吹いて来て、それによってかき乱される、と言う様な事があるんじゃないでしょうか。

「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。」一節があります。本当に人がこうやって、ものに向かった時に、その事がその通りこうやって否応なしにあると言う事ですね。ここでは梅花です。一枝の梅花、一枝の梅花に向かう、向かうとって言うか。どうしても自分を立てている上から話をしますから、一応向かうと言うんですねぇ。一応ねぇ。向かうと言う事は、自分を立てた上から話を進めてるから、向かうと言う事なんだけども、いきなり其処に梅の花の咲いている一枝があるんですよね。

こうやって床の間の方に、皆さん向って据わってますから、座って首を上げただけで、この花の様子がそのまま有るんでしょう。こう言う様な事です。これ詳しくやっぱりやってみないといけないのは、向こうに花が活けてあって、私達こちらに坐ってて、そっちの方に向けると見えるって、その位の所謂常識でしか取り扱ってないですね。

でこの瞿曇眼睛を打失するって事が、すごく大事な言葉になる訳です。この時に、眼らしいものはひとつも無いじゃん。皆さん。いきなり菊の生けてある様子があるだけです。何処にも眼らしいものは。眼を通して見るとかって言う気配は何も無いです。いきなりこの菊の花の活けてある様子そのまま有る。見たんじゃないですね。

だからしつこいんですけど、どうしても長い間、私達人間の世界生きてですね、見るって言う様に教えられてますから、自分を立てといて、向こうに有るものに向かって、こっちから見る、見えるって言う風に、そう言う風に習ってますから。ところが今でもいいですけど、こうやって目を瞑って、こうやって開いた途端に、あるんじゃないですか、全て。こう言う様子がいきなり。眼に入ってくるなんて言う様な言い方もしますけど、こうやってやった時に。眼に入って来るんじゃなくて、この様な様子がいきなり展開されるんでしょう、眼開けただけで。

そう言う処に眼睛を打失す、眼が本当に見失われている。眼らしいものが一切無い働きをしてるって言う様な事が、如浄禅師によって説かれています。それがお釈迦様の日頃の様子なんでしょう。だから特別な人じゃないって事よくわかるでしょう。

お悟りを開いた、特別な境涯の人だって言う風に私達は見てしまいがちな訳ですが、よく見ると誰も、お釈迦様のお悟りを開いた境涯の様な眼で生活をしてる。してるんだけど、この位丁寧に話をしないと、長い間身についてるものの考え方の上からどうしても勉強してますから、だって見なきゃ見えないじゃないかと思いませんか、自分で。見たから見えるんじゃないかと思う。こう言う様な事も多分ある。だけど、目を開けたらあるんだよね、見なくても、いきなり。

そう言う古仏の法輪、昔から、誰もしっかりした人達はそう言う様な生き様をしてる。法輪を転ずるっていいますが。「尽界の最極に転ずるなり」とあります。尽界はお分かりの様に、何時でも何処でも誰でもって言う様な言葉を当てたら良いでしょう。漏れるものが無い。時間としては途切れる事が無い。場所としては探さなくても何時でも其処に居ると言う事でしょう。で、こう言う在り方は、誰もそれからのがれる、漏れた人は居ない、いう様な事が、ここに言う尽界でしょう。尽十方界の隅々までと訳してありますが。本当は私達の在り様だと言いたいのでしょう。

「最極に転ずる、」究極の在り方って言う事じゃないですか。だから「一切人天の得道の時節」と言う事が言われるのでしょう。こう言う様子の処で修行が完成される。道の、あるいは法の様子がはっきりと見極められる。他ではやらないですね。道元禅師の和歌が響くかなーと思うんですが。「春風にほころびにけり桃の花 枝葉に残る疑いもなし」って、いい歌が残して有りますねぇ。

人間だけじゃなくてって書いてありますよ。「乃至雲雨風水および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうむらずといふことなし。」皆そう言う風な生き方をしてるんでしょう。物と触れ合った時に、必ずズレの無い生活が保証されてるでしょう、目だけじゃなくて。だからこう言う、今の現実の様な事が確保される訳でしょう、間違いなく。雨が降ってくれば間違いなく雨が降った様に、風が吹けば風が吹いた様に必ずなる。草が枯れれば、枯れた様になる。木が、枯葉が散る様な時節になれば、そう言う風な様子が、昆虫も鈴虫などはもう殆ど命が尽きて、籠の中では、動いてる鈴虫はもう殆どいない。本当に簡単な事を言えば、何時でも誰でも、本当に今こうやってる在り様だけなんでしょう。どこまで行っても。全身を挙げて。

道中歩いてくれば、一歩一歩歩いてる通りに全部なるのでしょう、否応なしに。見る物、聞くもの、考える事も何もかもが、一歩一歩歩いてる様子の中で活動するのでしょう。それ以外の処で生活が成立たないんだからしょうがないじゃない、人間て。人間以外のものだってそうでしょう。究極ですよ、それ。

これが考えだと違うんですよ。考え方の世界の話とは違う。このものの本当の生き様ですよ。だからこの円通寺さんの境内に一歩足を踏み込んだら、否応なしに円通寺さんの境内にいる人に全部、全身何もかも変わりますよね。境内に入る前の自分て言うのは何処にもいませんよ。でも境内に入る前から自分だと思ってますから、そう変わらない自分が中に入って来たと思ってるかも知れません。内容を見ると、兎に角全部、一歩足を踏み込んだら、もう間違いなく円通寺さんにいる生活しかないんです。そう言う事がこの短い文章の中で言われてるんですね。

で、もし徹底そう言う事を、私達が生活できてる事を、皆さんが自分のこの身心の上で見る事が出来たら、それで修行は一応ケリがつくんじゃないですか。どうでしょう。後はもし、悩むとしたら、考え方が悩むだけでしょう。事実の方は悩まないんですよ。だから、修行する時に、考え方の上のものを取り上げないじゃないですか。事実が本当にそうなってたら、否応なしに、それでもう手を挙げて自分のつまらない見解が其処に息絶えて、いいんじゃないですか、息が絶えて。妄想分別、一切のものが皆断ち切られる様に出来てるじゃないですか。

それが「一切人天の得道の時節」なんでしょう。エー。「天地国土もこの法輪に転ぜられて」活き活きとして、魚がぴちぴち跳ねる様にって言う様な事を「活鱍々地」と言うのでしょう。

だって一々本当に底抜け今の在り様しかない。採りたての今の在り様しかないから、そうして何処もかしこも全部が。考え方だけは違うんですよ。何時までも古い何か、前に気になった事にしがみついて、それを考え方で、どうかしなきゃ気に入らんとか、あいつに言われたから倍返しとかって言うのは、最近の流行語みたいなんでしょうけど、そんな様な考え方の方がはびこってる。そうじゃなくて、本当に、この本来の様子を見ると、採りたての活き活きした必ずそれでなきゃ出合う事の出来ないほど活き活きした様子ばっかり。そう言う風に生きてるんです、これが。

「未會聞の道をきくといふは、」多分こう言う話を、一般的にはこう言う話はあまり耳にしませんね。私は一応出家をして、曹洞宗のお坊さんの仲間に入れて貰ってますが、曹洞宗のお坊さんの仲間で、色々なお寺にも行って、色んな人にお話を承る事もありますが、まあ今までのそう言う所に足を運んだ事もあるけども、こう言う修行で、あまり聞いたことはありませんね。で、まあそれはそれでいいですが。

「いまの道を聞著するをいふ。未會有をうるといふは」いまだかって聞かざる、聞いた事のない在り様ってのはどういう事かったら、こうやってやってる時に(周りを見る)眼らしいものがひとつも無い。見ているらしい気配も何にも無い。そのまま事実が其処に転げ出されてるって言うか、さらけ出されているのが在るだけです。

「未會有をうるといふ」そう言う内容を、本当に手にすると言う事は、「いまの法を得著するを称ずるなり。」ああなるほど本当にそうだって、自分で気がつくって事が、未曾有の様子を得たって言う事になるんでしょう。脚注にですね、「全真実が現成した優曇華の花である。これを釈迦如来の正法の眼睛とするのである」って言う。悪いとは言いませんが、何か他人事の様になって、解説が。他所の人ではない自分自身の今の在り様なんですよ、本当に。

だからその次の読むと分るんですよ。「ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼睛を拝見しながら、」自分自身がそう言う風にお釈迦様と同じ様に、物を見る時にそう言う風にきちっとした生活をして居ながら、って言う事でしょう。だって前の見方なんか絶対にしないじゃないですか。これ今見て。(扇を開いて見せる)何回今までこれを見てたか知れませんが、必ず、ただ今の見え方だけでしょう。そう言うのわかるでしょう。前の見え方一つも使わないんだよね。用無いんだよね。こうやったら(扇を開く)この通り、今そのままちゃんとその通りに、何時でもその通りきちーんと見える様になってる。分かる様になってる。


それが、「ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼睛を拝見しながら、」とこう言う事です。だのに「いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。」そう言う素晴らしい状況に自分が生活をしてるんだけど、それを自分で知らない、それに気づかない。丁度、今雪の中に咲いている一枝の梅の花ですね、「雪裏の梅花まさしく如来眼睛なりと正伝し、」お釈迦様がコンパラゲをこうやって拈じたのと全く同じ様に、梅の花が咲いているそのものに、今皆さん方がこうやって触れてるじゃないかと。そしてその通りの事を、当時やった、やられたと同じ様に、その通りの事が頂けてるじゃないか。承当ですね。

「これを拈じて」こう言う様子を取り挙げて「頂門眼とし」頂門眼って言うのは真骨頂ですかね、眼中の睛。下の眼睛の字も目篇ですね。目篇に青いと書く。日篇に青いだったら晴ですけど。眼の本当に澄み切った状況なんでしょう。一転の曇りも無い、そう言う眼でしょう、眼睛。だけど、こう言う、本当に誰しもが自分で毎日使ってるんだけども、こんな身近な処に使われてるんだけども、取り上げてみないから、こんな事大事にしてませんよね。仏法を説く時に、どうですか、こんな事を取り上げて仏法を説く人、ほとんど居ないじゃないですか。見てごらん。この通り見えるでしょうって、こんな事を仏法を取り上げる時に、話しをする時に、こんな話はしないですよね。

今生活してる事とは違う処に壮大な仏法の素晴らしい絵が描かれていて、そう言う話を一杯するでしょう。すると、ああいいなあ、そう言う風になりたいなあって、そう言う所へ行きたいなあってそう言う希望的観測を人に作らせて、そしてそっから、じゃ一緒に行きましょうって、そっちの方に向かって行く様な話しだから、何年かかったら完成するか分らないね。そうじゃなく、今実現してると言う事ですよ。これ、皆自分自身の上に実現してる。そう言う素晴らしい在り方が、今自分にあるじゃないか、そう言うことにお釈迦様も気がつかれたの。そして自分も救われていった人だって言う事です。

だって簡単に考えて御覧なさい。皆さんが一日の中で、人と出会ったり色んな物と出会った時に、その出会いの時に、自分の気持ちがすっきりしない、一番わかりやすいのは、苛立ちとか言う様な事ですね。若いのがあんな事しやがって、言う様な事が、もしあった場合に、一日中その事ですっきりしない生活をしてるんでしょう。だけども、じゃあ自分の本当の眼はどうあるかって、こうやって見てみて、何処にもそう言う物が残ってない眼で、今生活してるって事ですよ。何でそっちの方を見ないのか、そっちを大事にしないのか、本当にそう言う風に出来てる自分の在り様があるのに。

こっちの頭の中に描いてるもので苦しんでるんですよ。 頭の中に残したもので、それを思い出しては、それを問題にしてるんですよ。だから修行にならないのでしょう。修行は、だから頭の中で思い出す様な事を相手にして、それを整理したり、自分の思う様にする事じゃないです。現実自分自身のこの活動してる在り様が、そう言う事とは全く違った素晴らしい、もう底抜け問題が解決された生活をしてるって事が、こういうものによって実証されるんじゃないですか。

だけど頭の中で残ってるから、こうやって触れても、あの時ああ言う事したやつだって、ふっと思うと、そう言う見方に変わるじゃないですか。今見えてる物には、そんなもの無いんですよ。具体的にはそう言う事なんですね。修行って。だから修行して何かやり変えるんじゃないんですよ。自分がそう言う詰まらない間違ったものの見方をしてたって言う事に気がついて、それで気がつくと目覚めるんです。ああ何だそんな事ひとつも要らない、ちゃんとしてるじゃないか。そう言う驚きなんじゃないですか。お悟りを開くって言う事は。

梅花 Ⅰ-3

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「老梅樹の、『忽開花』」その時ですね、「花開世界起なり。」そうでしょう。こうやって花が開くんだったら、こう言う事でいいかしら。(扇を開く)私がこうやると、その通りにどうもしないのに、皆さんが私がこうやってる通りに、まぁ見えるって言えば普通の表現です。だけど、見てるらしい気配はないね。ただ、こう言う事が此処に展開されてる様子があるだけでしょうが、皆さん。あたかも向こうの方で、何かそう言う開いたり閉じたりしてる様子が有る様に思える位、ただそう言う事があるだけで、見てるとも何とも思わない位そうでしょう。そう言う風にして、花が開いてそう言う事がきちっと行われるね、世界起。これがもし隔たりがあって、時間的にズレがある様だったら、危なっかしくてしょうがない。

「花開世界起の時節、すなはち春到なり。」良寛さまが、「花開く時、蝶きたる。蝶来たる時、花開く」と歌ったみたいに。一偈が掲げられています。本当にそうですね。どっちから言ってもその事なんです。ズレがないですね。二つの事がある訳がないじゃん。花、ここに花が開く時に、向こうの様子とこっちの様子って言う様な事は無い。そう言うの分りますかね。自分と言うものが立つとですね、花を見ている自分の様子と、花の咲いてる様子とかって言って、二つ三つも色んな様子が出て来る、そんな事は無いですよ。

先ほども説明のために時間と言うものを仮に立てましたが、今と言う様な時花が開く、花が開いてる時を今と言う、もう一つの在り様なんてのがあろうはずが無いじゃない。それが花が開く時の様子です。物理的に言ったってそう言う風になってるでしょう。

人間て凄いものを作りあげたね。時間て言う様な観念を。造ってみせた。だけども時間て言う観念が無くても、昔から太陽が昇る、それは時なんですよ。ああ日が沈む、皆時なんです。それは一々、明確な。時間と物が別々にある訳じゃない。歩いてるいる時、あるく事が時間なんです。坐って居る時坐っている事が時間なんです。

だけど、人間はそうやって、ものを考える時、時間だとか空間だとか色んな事を作り上げると、皆バラバラにしちゃうよね、ものを。真実をそのまま見る能力を失ってしまう。だけど私達はこうやって自分自身の今の在り様に目を向けたら、そう言う風に出来てるの、よく分るでしょう。時間抜きで生きてる人なんかないんですよ、最初から。場所抜きで生活出来ないんだ。

だけども、空間として一応そこに、ここだとかあそこだとか、色んな事言いますけども、時節ですね。花開、世界起の時節。それを春が来たと言うんだって。花が、梅の花が開くとですね、ああ春になったなあってよく使ってます。

「この時節に、開五葉の一花あり。」開五葉って下の方に五弁の花って言う風に、梅の花を五弁の花として読んでおりますが、五葉って言うのは花弁の事では恐らくないのかも知れない。それはね、中国で花って言うと桃を意味しますけども、桃がなるのには、大体五枚の葉っぱが有って花が一つ付くって言う様な事を言っております。柿の実でもそうだけども、葉っぱが一つの実に、五枚位葉っぱが最後まで残ってないと、十分甘い柿にならないですね。皆葉っぱが落ちちゃうとね。実だけ残っても。そう言う様な事が言われております。

それから、此処の脚注で、私が色んな所で気になるんですが、例えば17番目ですね、エー老梅樹の樹功より樹功せりって言う事に関して、坐禅の功徳から現れるという風な脚注がされております。こう言う風にして学ばれたんだと思います、ついてね。だけども、これは不足ありですね。坐禅の時だけなの? 坐禅の時だけそう言う事があるの? そんな事ないでしょう。坐禅してる時だけが
本物? そんなんだったら、皆生きてる役に立たんじゃないですか。自分自身の事見たってそうでしょう。坐禅してる時だけが本当の自分かって、そんな事ないでしょう。ぶっ通し24時間本物の自分で、自分でない時ないじゃないですか。

恐らく欠点ですね、これが一番の欠点。坐禅を大事にして下さる事は誠に有難いんだけども。だから坐ってる時しか坐禅にならない坐禅を多分なさってる。お釈迦様は大定と言って、一番大きな坐禅と言うのは、出入が無いとおっしゃっておられる。
ここから坐禅が始まり、ここで終わりましたって言う様な坐禅は、小さな坐禅だ。本当の大きな坐禅は出入がない。那迦大定と言ってますね。一番優れてる坐禅て言うのは、そう言うものだとおっしゃっておられる。

そうだと思うんです。私も。間違いなくそうだと。正法眼蔵が今こうやって、岩波ですかね、出されてます。脚注は誠に有難いんだけども、そこは何回かそう言う事が出てきて気になりますよね。エー、そこちょっと言いたい事だから言っときます。

「この一花時、よく三花四花五花あり。」色々な事があるって言ったって、よーく見てみれば、只、今の様子ばかりです。そう言う事ですね。どんな複雑そうな沢山な事がそこにあると言っても、何時でも今の自分の様子だけですよ。前の様子と重なった事は一度もありません。不思議ですね。

反省をして、って真面目に話をされた方が、この前おられた。反省をして。反省をするって事は、昔の事を振返る事ではないですよ、って私言っときました。反省って言うのは何故反省をするのかって言うと、その時本当にやるべき事があったのにやらなかったって事に気づくだけです。極論として。それ知ってるんです、自分で。その時、自分でやらなかったって事。きちっと。それが悔いが残ってるだけなんです。振返ってみて御覧なさい、色んな事でも。

じゃそれを何時何処で実行するのかったら、今やるだけなんです。昔はやらなかったけども、今やる時に、そう言う昔の様なやり方じゃなくて、今やる時に、きちっとそう言う風にやるって事が、本当に反省をするって言う事ですよね。そうでなければ、何時までも振返って、あの時ああだったこうだったって話をしてるだけであって、何の価値もない。で、兎に角そう言う風に今の様子が無限にあるんです。

「乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。」誇るべからず。威張る気配も何にもない。悟りを開いたって言ったって、悟りを開いた人が威張った試しがないですよ。当たり前のことなの。元々本来自分自身が誰でもそう言う風にちゃんとしてるって言う事に気がついただけだから、非常におとなしい。ただ知らない人がそこに居られたら、もったいないなあと思うから、こう言う事あるんだけどもって話をして勧めるだけです。やるやらないかはそちらの人ですから仕方が無い。

だけど、中にお悟りを開くと、天狗の様に鼻が高くなるって言うか、何かそう言うとっつきにくい人になるって言う様な事が、たまたま世の中にはあるらしい。そう言うのは本当に自分自身の事に気がついた人ではないですねぇ。やっぱり。おかしい。

眼一つだって取り上げて御覧なさい。気がついたら、赤い物が白く見える様になるかって、そんな風になる人は誰もいないんだよ。最初から白いものは白いんです。悟っていようがいまいが。だけども、悟った事がない時には、白い物が白いって言う事が、それで本当に決まらないんですよ。信じきれないんですよ。それだけなんですよ。自分の考え方・見解が死なないから。事実が其処にそのまま事実として投げ出されても、その事実の通りにこれがなれない。

見解が、自分の考え方がどうしてもそれを肯えない。そんな簡単な事が仏様の悟られた真意だなんて、言う風にちらっと思うと、この位の事って思ったら、つまらない事の様に思えるから、やっぱり人間そう言う風になるんですね。どうしても一度自分自身のそう言う見解というもの、死にきる必要がある。死にきるって言うと言葉がきつい。一つになるって言えば、何か二つ有った物が重なった様に聞こえるし、中々言葉は厄介ですね。まあその様に誇らないですね。

優曇華・優鉢羅花とか色んなのが出てきます。「おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。」何で優曇華や青い睡蓮がですね、梅の花なの、梅の木になるって、そんなおかしいじゃないかって、文体からするとそうなる。でもこの私達は不思議でしょう。白い物に向かうと確かに白い物が見える様になる。赤い物に向かうと赤い物が見える様にちゃんとなる。自分は一体白なのか赤なのか。何にもこのものには色が無い。色が無いからその通りに千変万化。

宝鏡と言われる素晴しい鏡の様にですね。この身体はどんな物でもその通りに変化できる能力を持ってます。これが私達の特性でしょう。誰とでも仲良くできる様になってる。順応できるようになってる、何時でも。年齢も貧富の差も教養の差も、容姿端麗とか、そう言うあらゆるものが言われますが、そんなもの色んな事がどうあろうが、一切そう言う事にかかわり無く、順応できる様になってます。

順応しないのはここの(頭)へぼな考え方だけです。自分の中で作り上げた正義とか、何だろう常識とか色んなものを貯えてですね、それを振りかざしてですね、そこからものをどうこうしようとする。自分自身のこの事実の在り様に参じて御覧なさい。これは見事に順応してます。人が尋ねてくれば、その度にその尋ねてきた人とすぐに一緒になって、そこで受け答えが出来る様になってます。なんの用意も要らない。そうやって生きたらいいんじゃない。

何で俺がこんな仕事しなきゃいけないって、何か仕事を頼むと、そう言う人がいる。順応できない人だねぇ。それは頭の中で自分を閉じ込めるんでしょう。でもそこに何か報酬と付けてやると、いやだと思ってたものコロッとなくなるから、不思議ですね、人間って。面白いですね。

「おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。」このものの賜物でしょう。花が開く活動がある。生活して見るって言う事、生き生きとしたこう言う生活が出来てるって言う事は、このものの恩恵なんでしょう。本来持ってる自分自身の活動の恩恵なんでしょう。どうやって空気を吸って隅々まで酸素を送るかって、あなた自分で何かやった事、ひとつも無いじゃない。自分の身体なのに。

血液だって、体中に巡らすのに、何にも自分の力費やすこと出来ないじゃないですか。考えてみれば、不思議な身体ですよね。張り巡らされてる血管だって、身体が出来てから後、あそこへ道路網引くんだったら。出来上がった時に、みんなちゃんと隅々までちゃんと血管の道路網が隅々まで行き渡ってる。しかもそれが途切れなく、どっか決壊してるとか、災害で破断してるとか言う様な事もない様になってるから、身体が順調に動く。兎に角素晴しい出来栄えですね。

口から入れたものが、入れてやれば夜中でもちゃんとこなしてくれて、朝起きる迄にちゃんと良いように色んな処に運ばれてる。おい、しっかりやれよと、あまり言った事はない。夜中さぼるなと言う様な事も言った事も無いのに、きちっとやってくれてる。そう言うのみてご覧なさい。ここら難しい言葉でかいてあるけども、本当に老梅樹の恩給です。恩給って何か勤め終わるとくれるやつかな。皆さん方知ってる恩給は。学校の先生だったら、25年勤めると恩給が付くとか言う様な事でございますか。

「人中天上の老梅樹あり、」色んな所にそう言う活動があるのでしょう。「老梅樹中に人間天堂を樹功せり。」あらゆる所に人が出入りしますからねぇ。地獄の中まで入っていく。で、上は天堂したは地獄。それどう言う事か言ったら、人の在り様です。天堂も地獄も。六つの何か六道と言われるけども、六つの地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上とかって言う様に分けてますが、六つの世界があるんじゃないですよ。一人の様子の中に、むさぼりを、広くものに執着したり、或いは憤りを貯えたり、そう言う様な事が六道と言われる姿なんですね。別にこのものの他にある訳じゃないです。

教えがそう言う風に伝わってくる間に、何か人間て中に、六道の中に人間てのが、人間の上に天上があって、下の方に地獄とか餓鬼と修羅とか畜生とかってのがあるもんだから、何か別にこう言う世界がある様に思ってる。そうじゃない。各自自分自身の中の内容なんです。こんな風に変な風に伝わってくるんですね。だから始末悪いですよ。

「百千花を人天花と称ず。」花が咲いている様子です。「万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、」ってあります。本当にその時にその時のあり様が、全身で間違いなくズレなく、後にも先にもその時をおいて他に絶対にない程、確かな様子がある。そう言うのがここの恁麼の時節です。

それと諸仏がこの世に出現すると言う、或いは「祖師本来茲土」と言う風に言ってるんですね。どちらの言葉を見ても分る様に、別に諸仏とか祖師とかって表現がありますが、各自自分自身の今の在り様を指して言ってるんです。いつもこれも申し上げてる様に、自分自身を正しく見てくれたら、分ります。生涯、兎に角この頂いている自分と言われる身心ひとつで生活するだけですからね。これがいたる所に、これが行って、行った先々でその先々の様子と一緒に成りながら活動してるだけです。

しかもよーく気をつけて頂かなきゃならないのは、全部自分の中の取り扱いです。外の人の事の、余所の人の事を言ってる事自体が皆自分自身の取り扱っている様子です。そこまで言えばよく分るでしょう。そこが分らないから、何か人にどうかされて、自分は不幸だとか、思う様にならないとか言って恨んだり、つらみを言ったりしてるけども、愚かですねぇ。そう言う風な見方を起こしたのは皆自分が起こしたんです。

そして自分をつまらないものの様にして、自由が利かない様にして愚痴ってます。誰も外の人がやってませんよ。この位の事は、一回こうやって来て貰ったら、話をして、気づいて貰いたい。そして自分の生活してる様子に目を向けて貰えば、その事がよく分る。如何に愚かに生きて来たって言う事が。あらゆる問題を見て下さい。皆自分自身の中で起こしてるだけじゃないですか。自分自身の考え方が自分自身を苦しめてる。それだからその自分自身の勝手な考え方、よかれと思っている考え方を止めて、事実が本当にどうあるかって事に目を向けて事実に学んで下さい。
坐禅をする時に。

考え方を使わないって、ボケーっとして馬鹿の様になっちゃうんじゃないですかって言われました。ちょっと、待って。考え方を本当に使わなくなって、坐ってたら、コン!(机を打つ)こうやって音がしても聞こえないか。コン!そんな事はないじゃないですか。今は何も考えないでお茶を飲んだ、ボケーっとして何してるか分らん? そんな事はないですよ。
お茶をのんだら、自分で考えないんだけど、否応なし味がする様に出来てるんです。しかも考えるよりそっちの方が確かなの。

でも一般に話をするとそう言う質問が何かが出て来る。吃驚するね、こっちは。そんな風にしか考えてない、自分の本当の在り様って言うものはどう言うものであるかって事を学ぶって言う事を知らない。そう言う事を教えられた事も無い。自分に目を本当に向けるって事が、どう言う事をする事かって言う事が分らない。

東京にいて、私がそう言う事を書いた物を送ったら、其処に居る仲間とそれを読んで聞かせたら、こう言う事を書いてきたって。お父さん、自分自身を見るなんて言う事は、現代の人に言ったって伝わらないよって。エーどう言う事だってつくづく考えさせられましたよ。今の人には、殆どそう言う言葉、そのまま出しても分らんって言う。エー何時からそんなになっちゃったんだろうって驚いてます。

中年の五十位のおじさんと話をした。学ぶって話をしたら、私は長い間学ぶって言う事が、よく分らなかった。どう言う風に分らなかったかって言うと、自分をたてて置いて、自分の考え方を通してものを見るって事だって言う風にしか思ってなかったって、学ぶと言う事。学ぶと言う事は、そう言うことじゃないって言う事がやっと分った、学ぶって言うことは事実に触れて、自分の考え方じゃなくて事実に触れる事だ。それが仏道で言う学ぶと言う事なんですねって言って、それが分る様になって修行が出来る様になったって言ってくれた。殆どの人は私と同じ様に学ぶって言う事を考えているんじゃないかって言っておりました。

言葉は簡単に使ってるんだけども、それ位現代にですね、伝えようとしてる内容が言葉で伝わって無いと言う事に驚きですね。これは有難い事に、こうやって対話が出来るために、そう言う事が分るんですよ。対話しなかったら分りませんね。私は普通に喋って分ると思って喋ってる訳です、その言葉通して。だからそれ位自分の考え方を最初から離さずに、普通に言えば、色メガネを掛けてものを見てる。自分の見方、考え方っていう事を本当に外して、直接今の事実にこうやって目を向けると言う事。それが学ぶと言う事だって言う事を殆どの人がやっぱり分ってくれてないって言う事です。

まあそれ位にして終わります。後、お茶どうぞ。またご意見がありましたら、聞かせて下さい。

梅花 Ⅰ-2

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「いま開演ある『老梅樹』、」いま開演ある老梅樹って言うのは、皆さん一人一人の生き様、展開してる今、如実に展開してる今、在り様です。それ、はなはだ無端なり。切りがないでしょう、皆さん。朝から晩まで一日見たって、途中で何か切れてしまって終わっちゃったって言う人はないでしょう。自分の様子がざーっと切り無くあるでしょう。

途中から人の様子と入れ替わったって、そう言う事もない。本当に自分自身の様子だけがダーッとあるのでしょう。見るにしろ、聞くにしろ、考えるにしろ、全部自分自身このものの活動以外にないじゃないですか。やってる事見て下さい。あれがこれが、あんな事がこんな事がって、そう言う事だって皆このものの活動でしょう。

だけども、騙されてる人は沢山いますよね。相手があると思って、向こうのものを受け入れるって言ってます。だけども、もっと皆さんに分かり易く説明するんだったら、時間を挙げたらよくわかるでしょう。今と言う時はですね、あなたのものか私のものか、どっちのものですか。こうやってて、今と言う時は?どっちのものですか?

そこには線引きなんかが無いじゃないですか。今と言うものにおいて。全部何もかも自分の様子でしょうが。お互い。何千人居ても、これ共有してですね、しかも争った事がない。共有しながら。あなたの見てる世界に土足で踏み込んでくるって事はないでしょう。エーこうやってお互い物を見てるけども。私が見てるのに邪魔な、そんな見方してって、見てる時に入って来ないでしょうが。
いいじゃない、そんなに上手く出来てる。

端なしって、切が無い。無限。だから言葉を変えれば福寿無量と言うんでしょう。命の尽きることはない。だから安心してこうやって生活できるでしょう。「『忽開花』」たちまち花が開くって言う。忽ちってどう言う事ですか。

犬がワン!って言った時に、皆さんどうですか。そう言うの、犬がワン!って言った時にどうなってる。そう言う処を見ると、忽ち開くって言う事が良く判るでしょう。聞くなんて言う事、一つも無いですけど、いきなりワン!じゃないですか。エー、犬が向こうで鳴いて、こっちで聞いたとかって言う様な気配も全くないよ。ワン!それだけじゃない。

それ自分の身体で、自分の様子だから、自分の在り様の上で見て下さい。そうなってる。そうなってる筈です。そう言う時には耳も身体もない、不思議に。自分自身も耳も身体も全く無い。ワン!そう言う風な事が耳で聞いたとか、身体で聞いたとかって一切そんな事なしに、ワン!なるでしょう。耳で聞いてますか。どっか耳が出てきますか。身体がどっかに出てきますか。ひとつもそんな事ないでしょう。ただワン!って言う様子がそこに展開されるだけでしょう。間違いなくそれが自分が聞いてる様子でしょうが。他人の事ではない。だから不思議に聞くとか言う様な気配も全く無い。そういうの忽ちと言うんでしょう。毛筋ほども人間の気配がそこに入らない。

それだから純粋にその事がその通りに伝わるんでしょう。歪められずに。誰でもがそうやって生活してるんですよ、よく見てみたら。これから修行してそう言う風な素晴しい人になるとか、そう言う聞き方が出来る様になるとかって言う様なそんな遠い話じゃないですよ。今、誰でもがそう言う風になれてますよ。だから気が付いたら、そのまま、アアッて言って大金持ちになるでしょう。エー。

それがお釈迦様が悟られた様子でしょう。自覚される。自覚をしたら、全てのそう言う様子がそのまま自分の様子として頂ける様に出来てる。それまでは、例えその話をしてみても、信じられないから、どうしても人事の様にしか聞こえない。それで、人事の様にしか聞こえないから、そうなれたらいいな、どうしたらなれるかなって、ケチな気持ちを起こして探し始める。探し始めたら見つからないのは分ってますよね。初めっからこれは自分自身ですから。探す様なものじゃないですよ。自分自身の本当の在り様はどうあるかって言うもの。探すから分らなくなるんです。

自ずから結果す、とある。「自結菓す」そうですよ。自ずから、その様に自分自身の今の様子にふれてみると、ああ、本当にそうなってるわ。パン!(扇で机を打つ)音がしたら間違いなくその通りに在って、音が止んだらどうもしないのにどこにも聞こえないって、何時も使ってますが、パン! どうですか。

皆さんもそうやって生活してる筈ですよ。ところが上手にそう言う事を使わないもんだから、人間の生活の上で、お互いが会話をした時に、気に入らないと思う様な言葉が入って来ると、どうしても話が終わってるのに、どっかに残ってる様な気配でいますよ。自分の耳に参じてご覧なさい。パン!人間は必ず音がした時にしか聞こえない。音がしてない時にはしないんだよ。

喋ってる時にはそう言う事がその通り伝わるけど、喋り終わったらパン!(机を打つ)そう言う事はパン!無い様に出来てます。そうやって生活したら楽じゃないですか。喋り終わってから、今言った事はなんだってかんだって言って、取り上げて愚図愚図愚図愚図言って、耳はその時に音がしたらその通りに聞く力を持ってる道具です。それだけです。音がした時に、その通り聞こえれば、耳はそれで100%任務を果たしてます。それ以上の事やる必要ないでしょう。だけども、そう言う自分の本当在り様を知らないから、自分の考え方で取り扱う事をやってる、それが人間でしょうが。普通人間と言われてる者には、愚かな処があるんでしょう。

この前、農家の方と話してた。お嫁に来て間もない頃から、お寺の役員さんをしてた家だから、私も何かあると交流があった。こっちへ嫁に来た方でした。私はそんな風になると思っていませんでしたけど、話を本人がするのに、本当に生活が楽になったって言ってました。お友達が2,3人来ておりましたけども、お友達が言うのに、昔はあの人はって、今本当に見違える様な生き方してるって。そう言うのを見て、友達が勉強に来てる。その一人の人の生き様で。

じゃ何をしたのかったら、今話した様に、だたその時に喋ってる通り聞いて、喋り終わったら無し。で会話できるんですね。それで。喋ってる時に、ちゃんと喋ってる内容が分るから、その通り話が出来る。昔はそうじゃなかったんです。聞いたものを自分の思いの上で、気に入るとか入らないとか、ずーっと取り上げて生活してた。嫁に来て、厳格なお家に来て、色んな事があったんでしょう。
これでご先祖様の所に行く時に、私は胸を張って行けるわって言ってました。エー。誰にはばかることなく、此処の家に嫁に来て嫁として。この立派な家のご先祖様の処へ、召された時に、大手を振って行けるって言って。凄い宣言をするなーと思ってます。

たったこれ位の事ですよ、勉強したの。この位の事で、その位にはなるんですよ。別に坊さんでもないお百姓さん。普通に野菜を作ったりしてる。仏道ってそう言うものです。人からもらったものは何も無い。自分自身の在り様にそうやって目を向けて、ああ、本当にそうすると楽になるんだって、それで困らないんだって言う事を知ったんです。言った事を何時までも掴んでいて、愚図愚図、愚図愚図する様な事しなくても、人は困らないんだって。生活に何の支障もない。やらない方がこの様に素晴しい生き方が出来るって言う事です。

生き証人だから、私が話をするよりも、ずっとその効力があるね。私はこんな、正法眼蔵をこうやって、小難しい話を一時間もするよりも、そう言う人が来て、自分の体験談を話しをしてくれた方が、皆さんだってはるかによく分るでしょう。人の話って聞いてみればよく分る。力があるからちゃんと答える。何も教えたもの無い。エーそう言う風に自ら実を結ぶでしょう。

「あるいは春をなし、あるいは冬をなす。」このものが無限の変化をするんですよ。春になると春になった様に、身も心も何もかも。例えばここの円通寺さんだって、春になれば円通寺の建物も何もかも、皆春になるんです。鐘ひとつ打っても、春の鐘の音になるんです。冬に打ってる時の鐘の音にならないんです、春になると。歩いてみてった、春の歩いてる様子になるんです。

そう言うのは皆さんよくわかるでしょう。常識ではそうはならないんだよね。何にもどこも変わらない、春になろうが冬になろうがって思いがちだけども、本当に何もかもどうもしないのに、その通り春になると春になった様に、全部入れ替わっちゃう。冬になるとそのまま冬の様子に全部かわる。所々冬になるんじゃない。冬になって、所々冬になるなんて事はない。柱時計一つも、こう言う額でも軸でも、皆冬になる。その一番元はこれ自体(自分自身)がそうです。だからこれが冬になったら、これが冬になって、こっからこれに入ってくるんです。全部その様になるんじゃないですか。

これは説明に過ぎません。だから説明はつまらないですね。説明している時、説明でない真実があります。それは自分達自分自身の身体に聞いて下さい。真実があります。私が説明してる真実は、各自自分自身の今の様子の中にあります。それが見届けられたら、私の話を聞く事に用が無くなるでしょう。そう言う人になってほしい。それがものを本当に学んだって言うことじゃない。

「あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。」まあ兎に角、ものと一緒に変化するんです。天地同根万物一体って、誰か残した言葉でしょう。古いインドの哲学には梵我一如と言う有名な言葉が、宇宙と我と一体と言う意味です。初めっからそう言う風に出来てるでしょ。宇宙と一つなんです。別じゃないんです。何処行ったって、皆さん。見て御覧なさい。行った先々と別に生きてる人は居ないでしょうが。そう言う事を見たらよくわかるじゃん。

「あるいは『衲僧』の『頂門』なり、」身近な事を言えば、自分自身の頭の頂きですね、頂門。頂き。「あるいは古仏の眼睛なり。」昔の立派な仏様達の眼ですね。眼睛て言うのは、目の中の一番大事な処です。黒目ですね。眼睛。それはとりも直さず、皆さん方の今の眼が古仏の眼睛なんでしょう。その証拠に一度たりとも他人の眼を借りて物を見ないじゃない。

「あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。」まあ一杯そうやって挙げてくれてます。言いたい事は一まとめにすれば、そう言う事です。このものの活動です。本当にそう言う風に、このものはもう時々刻々、時と共にあるんですね。今という時と別にこのものが存在する事はないんです。ねぇ、だから、暴風になれば暴風、強風が吹けば強風なんです。エー。

「驀劄」とある様にまっしぐらですかね。「神変神怪きはむべからず。」神って言う。神変。神様の神って言うのは人間の考え方でどうする事も出来ない様な、絶妙不可思議な働きをさして、この神の字を使います。日本で神様って言うのは、それに近い様なニュアンスで使ってるのかも知れませんね。

だけどコン!(机打つ)こうやってやると、どうしてそう言う風に聞こえるのか知らないんだものしょうがない。だけど、こうやってコン!やられると、否応なしにそうなる。神変神怪。怪しいまでに、何故そうなるか。幾ら追求してもわからない位。コン!追求する前に、コン!

今日来る時に、一緒にお話して来たんですが、海抜って、電話して、山の高さ、海抜っていう訳ですか、海抜って一体どういう事かって言って尋ねておられたらしいんだけど、省庁へ電話すると、私の所では分らないからあっちに聞いてくれって、こっちへ電話するとあっちでと、相当ぐるぐるぐるぐる回って、何処にも海抜って事に対するはっきりする答えが無いらしい。で最終的にどうなったかって聞いたら、東京湾の潮位がですね、一番まあ低い時を基準に、何か海抜って言うものは考えられたらしいって言う事らしい。じゃ今の海抜何メートルって言う山はですね、海水がですね、膨張している現在ですね、山の高さは正確じゃあないじゃないかと。まあそんな冗談話して来たんですけど、何時までも同じだと思ってるのね、山の高さが変わらないと思ってる。兎に角それらも「神変神怪なり」ですね。

私達の想像を絶するんですね。誰か人間的なものの上からそうやって基準を作るんだけど、作っても作っても、そんなものを難なくクリヤーして行っちゃう。真実って言うものはそう言うものですね。どんな頭のいい人がそれをとやかく言ったって、事実は替えられませんからね。エー。事実って言うのは凄いもんですよ。

だけども、人間は愚かだから、事実よりも自分達が決めた考え方の方が絶対優先だと思って譲らないんですよね。それだから事柄がうまく解決できない。事柄を本当に解決したかったら、事実に手をつけないのでしょう。皆考え方に手を付けたって、何にも変わらんでしょう。ねぇ。仏道ってそう言う大きな根源的な救いの道をちゃーんと示してるんだと思います。

「乃至大地高天、明日清月、」とあります。空や大地や月や太陽やと言う様な事ですね。そう言う事が問題にされてます。それ、本当に皆、このものの様子でしょ。この皆さんの自分自身の様子ですよ。ここら辺は、普通の勉強の仕方と違うもんだから、中々受け入れ難いのかもしれないけど、理解を少しでもして頂ける様に、一応話をしますけどね。このもの無しにはですね、無理なんですよ、全部。

次に挙げてあるように、「これ老梅樹の樹功より樹功せり。」このものの在り様に依って、日月もあり、大地もあり、空もあり、ありとあらゆるものが、このものの在り様によって、皆成立してるんです。自分の在り様だから、見た物、聞いた物、食べた物、香りがした物、或いは話でも、或いは思う事でも、皆問題になる訳です。他人の事だったら問題になりませんよ。切り離せない、本当に自分自身の活動だからですよ。本当にそう言う風に「老梅樹の樹功より樹功せり。」この一身にあって、この身心一つによって、そう言う事が全て出て来るんじゃない。

「葛藤の葛藤を結纏するなり。」そのものがその時にそのものとしてきちっと現れるのは、そう言う風に出来てるんです。寸時寸分も時間に狂いがない。その時にその場所で、その事が本当にその通りにある。どんな事でもそうです。それ位「葛藤の葛藤を結纏」するなり纏結でもいいですよね、熟語は。同じ意味です。纏わりつくというんですけども、今の事がピッタリ今の事としてあるって言う事です。時間も時も隔てずに、その通りに。一々そうです。

梅花 Ⅰ-1

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八月一回間を置いたので、久しぶりと言う事になるのでしょう。仏祖の巻は終わったのでしょう。読み終わって梅花の巻きに入るのですかね。166ページ、一下り読みます。

「梅花 先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、『天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩沙鼻孔酸』
(上堂の示衆に云く、『天童仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。忽ちに開花す一花両花、三四五無数花。
清誇るべからず、香誇るべからず。散じては春の容と作りて草木を吹く、衲僧箇々頂門禿なり。

驀劄に変怪する狂風暴雨あり、乃至大地に交袞てる雪漫々たり。老梅樹、太だ無端なり、寒凍摩沙として鼻孔酸し』いま開演ある『老梅樹』、それ『太無端』なり、『忽開花』す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。あるいは『衲僧』の『頂門』なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。「驀劄」なる神変神怪きはむべからず。

乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の、『忽開花』のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。優曇華・優鉢羅花等、おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。

人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土を喚作するなり。」



まあその辺まで読んで。梅花の巻の中では、道元禅師が特にお師匠について親しく参禅をされた、と言う様な事の内容が沢山出てきます。

で冒頭に今読んだ如浄禅師の一句がある訳ですが。もう十分皆さん、ご承知の事だろうと思うけども、仏道とかこう言う風な祖師方の伝えられている内容って言うのは、基本的に誰か他人の事を学ぶのではないって言う事ですね。これはもう多分百も承知であろうと思います。いかがですか。基本的にそこがはっきりしていないと、大変な事になりますね。


仏道とか禅とか言う風に言われているものが、そう言う教えって言うことの内容ってどう言う事か、他人の事を何か学ぶのではない。皆、自分自身の様子を学ぶんですね。自分自身に今備わっている内容を私達は知らないから、それをよーく学ぶ事です。仏道と言うのは、はじめっから自分の様子以外の何者でもない。それは絶対間違いのない事なんでしょうね。それを、そう言う事をよく分かった上で勉強してほしい。

そうでないと、自分と言うものをなおざりにして、他所に何かそう言う素晴しいものがあるんじゃないって言う風にして、書いたものを読んで頭で理解して、ああそうなれたらいいなとか、何時そう言う風に成れるんだろうかって、それ何処へ行ったらそう言うものが得られるだろうかって、言う様なウロウロした事が、生涯ただ頭の中で巡っているだけ、堂々巡り。ひとつも実質に触れる事がない。多くの場合、時間がかかるってのは先ずそれでしょう。

自分自身に目を向けて、自分自身の中にある様子を本当に学ぶって言う事だって言う事を、多くの方は伝え聞いてないんですね、不思議に。だから皆さん方がもし、色々な縁があって、色んな人のお話を聞いてごらんになるとよくわかる。そう言う事をきちっと伝えてくれた第一人者として、道元禅師は自分のお師匠さんを、こうやって挙げておられます。

「天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり」自分のお師匠さんを最高の敬意を持って、表しておられますね。本物なんだ、この人は。そう言う人に自分もついて、その事をきちっと明らめた、はっきりさせた、という事ですね。そう言う上で、このある日の天童如浄禅師が示された詩偈と言うのでしょうね。漢詩、まあそう言う事でいいでしょう。

この中に老梅樹と言うのが出て来ます。老梅樹と言うのは表面的に言えば、年月を重ねた梅の木ですよね。若木と違ってですね、年月のけみされた、梅の古木と言いますかね。そう言うものですよね。それはですね、見出がありますね。梅林に行ってもですよ、若木では中々味がない。

百年、二百年経っている梅の木が植えてあると、花が咲いてなくても、その梅の枝ぶりを見ただけで結構楽しめると言う様な事があります。お釈迦様からすれば、二千年に近い老梅樹ですからね。しかもその梅の一本の木がですよ、枯れずに、二千年の年月をけみしてる。それが仏道なんですよね。

命と言う表現がありますが、命って言うものは切れたら、断ち切れたら、断ち切られたら命はなくなります。続いているからこそ、命なんですね、全て。全てのもの見てもらえば分かります。盆栽なんかでもそうですけども、250年もたってる松だとかって、宮中の中にはそう言う物が何鉢も蓄えられていますけど、この暑い夏一日位、多分水をやらなければ簡単に枯れる。枯れるとですね、幾ら水やってもですね、もう無理ですね、枯れたら。まだ命がある間だったら、水をやると復帰できるけど、本当に命がそこで絶えたらですね、二度と復活しない。

人の命もそうです。死んだ人が生き返って来たって言う例はありません。殆ど死んだ様に見えた人が生き返って来る事はあります。まあ珍しい例でしょう。でも本当に死んだらですね、生き返らないのですね。だから私達も命というものつなげていかなきゃならない。それは人間の命もそうでしょう。それから教えの命もそうしょう。培った教育あるいは技術、あらゆるものがあります。そういうものを後代に伝えていく、それはまさしく生きてる人の務めです。死んだ人は出来ません。そう言う大事な使命お互い持ってます。

そこで、一言で如浄禅師の梅の木話をしてますが、まあこの老梅樹と言われている事自体が、自分自身の事を表していると言う風に理解して頂いたらいいんじゃないですか。どれ位年月を経ている梅ノ木か。遡って、遡って、遡って行って御覧なさい。どこまでいったら、私達の先祖の処に行くの?おおよそ何万年とかって言うのでしょう、人類の発生まで行くと。だけどその人類の発生の前に、まだ人類が進化してくる過程もある。そこをずーっと行くと凄い年月なんだろうね。そう言う風なしっかりと根を張った一人一人です。

それが無いと、今日の私達は、今の私達はこの世に生を受ける事が出来ないんですね。ありとあらゆるものが全部自分の命にかかわっている、と言っていいでしょう。そう言う老梅樹です。陰暦の11月。太陽暦だと何月になるの?もうちょっと遅くなるですかね。歳が明けてから。

「仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。」下に脚注があります。梅の木を見るとわかりますが、枝が出てますね。ああいう様子でしょう。此処では斜めに切るって、芽はありますが、牙は勿論芽です。枝です。まあそう言う枝ぶりの様子です。

そこにですね、忽ち花が開くとある。一花、ひとつの花、二つの花、三つ四つ五つ、無数に花が開くって言う風に示されてます。私達この身体ひとつこの世に生を受けて出て来るとですよ、その周りにあるものと、本当に周りにある物と一緒に、次から次へ無数に活動する様に出来てますね、この身体が。そうやって仏道の勉強をする。

私の所も鈴虫が、籠の中に入っていい声で鳴いてますが、リーンリリーンって言うとですね、この身体の様子として、その様に虫が鳴いた通りに、この身体の様子が、花が開く様に、そう言う事がこの上に現れますね。皆さんどの様に受け取るか知りませんが、虫が鳴いてるって言う事は、このものの様子ですよね。このものの今の生き生きとした活動の様子でしょう。向こうの方で虫が鳴いてるって言うのではなくて。取りも直さず、その事が自分自身の様子じゃないでしょうか。

こう言う事が話しをした時に難しく思えるんでしょう、一般的に。何を言ってるんだろうとか。だって俗っぽい話をすれば、皆さんの持ってる耳の働きが虫の音をあらしめるんでしょう。皆さんの持ってる目が物をあらしめるのでしょう。他のものでやってるのじゃないでしょ。この身体で全てのものが、そう言う風に、この身体によって聞く事が出来たり、見る事が出来たり、味わう事が出来たり、触る事が出来たり、感じる事が出来たり、思うことが出来るのでしょう。本当にただこの一身ですよね、身体一つ。その上に無数の数えきれない現象があるんじゃないですか。花として、開く。

ここ二、三日、私の寺にも一緒に勉強してる若い子が、東京から帰ってきて報告をしてくれた。前にも話したかも知れませんが、二月の頃に診察をうけたら、肺の癌である事が発覚して、精密に調べて貰ったら、脊髄にも転移してるし、リンパにも入ってると言う事で、一年かね、長くて三年て医者に言われたと言う子がですね、この前22,23日に行って診て貰って来た、その報告が。若い方なんだからやっぱり凄い勢いで進んでいるんでしょうね。

ご本人の口から話があったけど、そのフィルムをこうやって見せられて、話をされたのでしょうけれど、その時に説明を受けて、やっぱり愕然としたって言ってました。両方の肺が真っ白になって、骨盤も真っ白だって。それから脳にも何か一箇所位、何かあるって言う。で余命三ヶ月と言われて帰って来た。昨日から入院の手続きをして東京に行ってます。

まあ抗がん剤を、今良いって事で、抗がん剤をやる事になって、抗がん剤を受けてどうなるのかって言ったら、一応延命二ヶ月。だから二ヶ月くらいは延びると言う事で、本人はそれを聞いて、三ヶ月で終わる命があと二ヶ月、倍近く延びるんだったら、是非やりたいって言って行きましたけど。まあ身近にそう言う色んな事が起きてる。

そうこうしてる内、一昨日、30歳位になった娘さんが、娘さんて言うか女性の方がひょっこり尋ねて来て、30年位前に私の寺におじいちゃんと一緒に来た事があるって言ってました。何故か足が向いたから、こっち来た。どうしたの?って聞いたら、33才の、自分にとって、とっても大事な人が、七ヶ月で亡くなった。やっぱり癌ですかね。亡くなった。一ヶ月半病院に付き添って最後を看取ったって言ってました。その後、その為に仕事をやめたのですかね。それでその後まだグズグズしてる、と言って、私の所に来て、4時間位話をして帰った。何か元気が出たからって帰っていきました。

まあ身近にそういう命に関してですね、切実なものが私の周りに沢山あろので、色々感じるんです、私もね。でも有難い事に、その男性も医者が吃驚しているのはですね、こんなに酷いのに先ず痛まないって不思議だって。普通だったらとってもね、起きていられる状態じゃないです、歩けない。だから人って不思議ですよね。まあ他の民間療養もしてるんですけどね。そう言う事が多少効果があるのかもしれない。もうひとつは精神的な介護ですね。これはもう本当にこの仏道を修行してるって言う事で、本人は力になってますね。

彼の言を借りるとですね、「何時も言われてるけれども、本当に和尚さんが言ってる通りだって」命がそうやって切実に短くなる毎日を、こう通してですね、より一層その事は確信を持って、確かに、本当にそうなってるなって言ってました。それで、こうやって生きる自分の様子を、こうやって触れてるとですね、どこも死ぬる気配が何もないって言ってます。生き生きしてる。いちいち。こんなに素晴しい毎日生きてる姿が自分にある。それを楽しんでます。

普通の人は、多分そうやって色んな事を言われたら、こっから上でですね、(頭)此処で色んな事考え始めるんでしょうね。殆どそうです。かれは違うんですね。本当に自分の今の様子に、自分自身の在り様に目を向けている。それがどういう風に本当になっているか。それだけに学んでます。それはね、生きていく力になるんですね。精神衛生上まことに、素晴しい。学んで良かったって言ってますよ、だから。もしそ言う事を勉強してなかったら、学んでなかったら、私も気がおかしくなったかもしれない、まあそう言う。この勉強はだから素晴しいですよ。

事実、本当に今どうなってるかって言う事を、自分自身の身心上で学ぶんです。ここの(頭)じゃないです。ここで考えてることじゃない。考えの上で取り上げてる事じゃなくて、本当に自分自身の生き様としての様子、その事実に学ぶんですね。そうすると、何時どの様な事があっても、恐れる事はないでしょう。

当然いつも申し上げる様に、人は生まれた時に、もう死ぬるって事は太鼓判を押されたんですよね。その上で、日々生きてるんですからね。ところが忘れちゃうんですよね。死ぬるって言う事、太鼓判を押された事を忘れちゃって、ある日宣言されるとオタオタする。あんなの問題外でしょう、初めっから。オタオタすることじゃないでしょう。これお互い誰でもそうですよ。そういう上で生きてるんですよ。

それで死ぬる、死ぬるってよく言うけども、このものを見てみると、生きてる間は死なないんです。エー生きてる間は微塵も死ぬると言う事はない。この身心の上において。考えの上においてはあるんですよ。で、考えの上で取り扱い始めると、人はまあ苦しみ、悩みを起こすものでしょう。

そこでですね、この身体の上の色んな活動が、そこに挙げられている様に、無数の花が開く様に、毎日無限の楽しみがある。無限の喜びがある。計り知れない素晴しさがある。そういう生き様なんですよ。そんなに凄いんだけども、花として挙げれば、よく研を競うって言う言葉使いますけども、花はですね、俺の方が美しいって言ってそんな事を争った事ないですよ。

ここにある様に、「清誇るべからず、香誇るべからず。」清らかな様子も香りの様子も花の素晴しさもですね、何にも普通なんです。ただその通りの事がその通りにあるだけで、何にもひけらかすものも無い。威張るものもない。だのに清らかな香りもすれば、ねぇ、花が咲いて、その花に触れるとみんな、皆さんが感化される。

「散じては」散りてはと言うのですかね。「春の容と作りて草木を吹く、」花びらが風に散って、ザーっとこうやって風が吹いて、そこには樹木がある中に、梅の木が花をつけてますから、風が吹いて来ると、時期になると花びらがバーっと散って行くって言う見事な様子ですね。

「衲僧箇々頂門禿なり。」これはお坊さんで、天童如浄禅師の姿を、自分自身の事を言ってるんですかね。衲僧、私自身、ここ頭を見ると、こうやって髪の毛をそってつるつるって、まあ禿げと読むんでしょう。禿と言う字ですから。みんな毛が無い、頭の。それはそれで良いでしょう。

「驀劄に変怪する狂風暴雨あり、」春一番とかって言うんでしょうねぇ。強風、春の様子。凄い雨風が降るのを春一番とかって言うでしょう。ああいうものがあるでしょう。たちまちまっしぐらにとなるんですか、そう言う事が起き急変する。否応なしそうなるでしょう。皆さんだって、この8,9月台風がここら辺も来たと思うんだけども、雨風がひどくなると、そう言う中で生活してると、その通り自分の生活の様子が。それとは別にって言う人はいませんね。必ずそのものと一緒にずっと生活する様になっている。

「乃至大地に交袞てる雪漫々たり。」中国、この辺の時期には寒いから雪が山の方では積もるのでしょう。そう言う雪の積もってる中に、こう風景としては古木の梅があって、それが花をつける。先ほども触れたように、老梅樹って言うのは自分自身の事を梅の木に例えていると言う風にとって頂いたらいいのでしょう。

「老梅樹、太だ無端なり、」どういう事を言うかって言うと、お互いそうですが、自分の様子と言うのは、どこからどこまでがこうやって今、今でもそう、どこからどこまでが自分の様子かって言って尋ねてみても、此処から此処までが、自分の様子だって言う様な、なんですかねぇ、端ですね、端、際がない。

そうでしょ。眼ひとつだって、こうやって見てるんだけど、何処まで自分の見てる様子だって言って、何処までも自分の見てる様子で、ここからは他人の様子だなんて言う事、一切こうやって見て、無い。それ位、途轍もないものですね、このものは。

生涯、いつもこれも申し上げるけど、生涯この自分の頂いてる眼で、物は見るばかり。それ、如何いう事か分りますか。生涯自分の眼で見てるだけって言う事は、どういう内容なのか。他人に騙される事は一切ないって言う事ですよ。それ位、絶妙な素晴しい生き様をしてるって言う事ですよ、最初から。誰に聞かなくても、間違いなく、はっきりしてるんです、いちいち。

更に詳しく自分の眼に参じてみると、色んな事がよくわかる。眼って言うのは本当に色んな物を見るけど、無数花とある。次から次へ色んな物をみるけど、もうこれで、これ以上見る事は出来ないって言う様な、そう言うものじゃないですよね。で、幾ら出て来ても何ともなく、全部それをそのまま頂いて、どこへ入れたかも判らない。確かにこんなにはっきり一々見えてるんだけど、その時限りですよ。後にも先にもその様子は何処にもない。捨てた気配もないし、取り除いた気配もないし、入れ換えた気配も、何にもない内に、コロッとかわるんですね。

こんな働きって他にはないですよ。だから何時でもきちっとその物が見えるじゃないですか。ぶれた試しが一つもない。しかも争う事が一つもない。前に見た物と今見てる物が、並列で其処に見えるなんて事は絶対ないですね、眼って。ただ本当に今見えてる様子だけです。それで足りるのでしょう、生活するのに。足りないんだったら困るけど。何時いかなる時でも、今見えてる様子だけで足りるんでしょう。

底抜けそんなに素晴しい皆さん方はものなんですよ。一々、自分に学んで下さい。自分自身に目を向けて、自分の本当の在り様に学んで見て下さい。どうなってるか。そうすると、仏道に、あるいは釈迦が残してる言葉に書かれている通りの事が、自分の上に、今ちゃんと実現されてるじゃないですか。その事がものを学ぶと言う事なんです。他所から何か貰ってくるんじゃない。自分自身の上に言われている通りの事が、本当に成程って自分で合点が行く様に出来てる。

だから出来るとか出来ないとか言う様なけちな話では初めっからない。ちゃんとその通り実現されてる自分なんだけども、自分に目を向けて見た事がないから、自分の素晴しい出来栄えを知らないだけです。もったいないじゃないですか。そんなに素晴しい出来栄えで、愚痴る用の無い様に出来てる。知らないから愚痴るんでしょう。すぐ不平を言うんでしょう。これはひとつも不満はないですよ。不平は起こさないものですよ。正体を見てください。自分自身の正体。本当に。拝んでみて下さい。

それが仏道なんです。仏道って他にだからやりません。坐禅をしたって何か他の事をするんじゃないです。自分自身の今の在り様に参ずるんですよ。考え方じゃなくて。実際にそこに展開されてる自分自身の生の様子に学ぶんです。

「寒凍摩沙として鼻孔酸し」寒いもんだから、こんな風にして(身を縮める)如浄禅師がやってるのでしょうかね。そうすると、なんとなく甘酸っぱい様な香りがすると言うのでしょう。カレー汁じゃありませんよ。(笑い)でもこの言葉をですね、どの位、深く正しく理解できる人が居るかと言う事ですねぇ。一般的には如浄禅師が梅の木を題材にして、今の風景を詩に表したって言う程度の取り方しか殆どしてないですね。で、上手な、中々品の良い詩だねとか、上手い事言ってるねって言う位の評価ですね。如浄禅師はそんなために詩を詠んでる訳じゃない。

それを見事に理解してるのは、道元禅師がお一人でしょう、如浄禅師の弟子の中で。他の人は如浄禅師の真意を読み取る力がないんですよ。さずがに、やっぱり如浄禅師の後を継いだ人です、道元と言う人は。エー今話した様な事をもっと違った面から展開させていますね。