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大修行 Ⅶ

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「一生の生を尽知せず、」自分の生きてる事なのに自分の生きてる内容がどう言う風になってるって言う事をしる、そう言う事がない。知り尽すって、「尽知」ね。今の事でさえも分からないんだもん、「尽知」する訳がない。

「しることあり、しらざることあり。」エー、今こうやって話をすると、パン!分かる処もあればパン!分からない処もあるでしょう。いいじゃないですか。それで勉強すれば。「もし身知ともに消滅せずは、五百生を算数すべからず。」それはいちいちその時にその事がそこで行われて、そのままきちっと終わってるって言う事があるから、あっ次の事が、又次の事がって言って数えられると言うのでしょう。

パン!音だってそうでしょう。音がしただけで、それできちっと終わっちゃうんだもんね。ポンと言うだけで終わっちゃうんだもんね。だからパン!こうやってパン!一回パン!パン!パン!二回三回四回五回ってちゃんと数えられる。これずーっと音が切れずにしてたらですね、何処までが一回なのって困るんですよね。そう言う事ないでしょう。全部きれいにそう言うになってる。

物を見るんだって、くっついてる様だけど、全部こうやって展開していく時に、前の様子からきれいに離れて、その通りこうやって展開してるから良いでしょう。線はないですよ。区切る線はない。だけど前の事みてるって言う事はないですよ。こうやって、(見回す)。これが絶妙ですね。本当にこう言う事を自分の事で、こう学んだらですね、何処をどうしたらすっきりするかって言う必要がないじゃないですか。すっきりしてるじゃないですか。このすっきりしてる生活の方に自分を置かないから。

顔面に物が見えてる事があっても、そんな事はどうでも良いって言って、何時でも暇があると色んな事思って、この前あすこでああだとか、これがどうだとか、そう言う事しか過ごさないんだもん、そう言う過ごし方しか。変じゃない。ボクシングをやってるジムのある人もあるけども、ああ言うリングに上がって闘ってる時に、この前向こうから打ってきたよなぁとかって、そんな風にして闘ってる人、多分いないよね。そんな事やってたら、もう一発でノックアウトされるね。エー、本当に今の様子だけを、相手にする以外にないんじゃないですか。どんなプロだって。もうそれ最低限、絶対それやらなきゃ無理でしょう。

だけど有難い事には、目を開けてると向こうの動いてる通りの速さがその通りちゃんと感じられるから良いじゃんね。何処に手が出てくるか、何処から出てくるかって言う事だって、ちゃーんと見てればその通り見える訳だから。あんなの教えられないよね、コーチがついてて。自分の目で見てればよく分かる。後はその速さに合わせて身体を動かすだけで、当たらない様に。それやらないと無理だよね。こうやったらああなるって言ってるだけじゃ、無理だよね。まあそう言うな事があるでしょう。

「算数することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。」計算が出来ない様だったら、あなた五百生、生まれ変わり死に変わりして五百回したって言い分だって当てにはならないんじゃないかって言ってる。「もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。」そりゃそうでしょう。狐は狐の力を持って知る以外にない。狐が人間の力を以って知るって事はない。そんな事をしたら、それは狐の様子ではないって、当たり前の事でしょう。

各自だってそうでしょう。人がああ言ってるって言う事をただ鵜呑みに信じていて、自分の力だと思ったら大間違いでしょう。だから修行するって言う事がどうしても必要。修行するって事は、この身体を借りて、この自分自身の身体をかりて、本当にどうなってるかと言う事を体感しない限りは、ものはわからないじゃないですか、言われたって。頭で理解してるだけじゃないですか。トマトを食べればトマトの味がする、林檎を食べれば林檎の味がするって、なるほどって。じゃ林檎の味はどんな味ですかって、食べた事のない人にはやっぱり無理だよ。ねぇ。食べると誰からも聞かなくても分かるでしょう。そう言う風に出来てるでしょう。

「誰人か野狐のためにこれを代知せん」代わって、人に代わって、誰かに代わってその事を知るんなんて言う事は無理。あなたは飲まなくても、私が飲んで味がどんな味がするか代わって飲んであげるからって言って、代わってくれるって言うかも知れないけど、それで味が分かるかって言う話です。無理だって言う。

「知不知の通路すべてなくは」知るとか知らないとか言うそう言う道筋が全てなかったならば、「堕野狐身といふべからず。」そりゃそうでしょ。野狐に堕ちたって言う事は、前の様子と変わったって言う事を知ってると言う事でしょう。何処がどの様に変わったのでしょうねぇ。不落因果って言った時に、不昧因果って言う言葉を聞いた時に、何処がどの様に変わったのか。皆さんの耳で確かめればよく分かるじゃん。不落因果、不昧因果、こう言う風に変わるのでしょう。変わりながら何ともないのでしょう。エーそれも大事でしょう。

「堕野狐身せずは脱野狐身あるべからず。」前の様子がどうなっているかって言う事があって、今の様子がどうなってるかって言う事があるから、こう言う事がはっきりする訳でしょう。今までは生活してて何かって言うと自分の中が騒がしかった、苦しかった、問題が一杯起きてたけども、今はこんなに何ともなくすっきりしてるって事が自分で分かるから、ああって、救われたとか言う事になるんでしょう。迷ってないとか言う事になるでしょう。幸せだって言う事になるのでしょう。

それが分からなかったら、無理ですよ。それがなかったら修行したってしょうがないです。今までのまんまだったら。しょうがないじゃない。すっきりしない、苦しんでいる生活ののままだったら。それが離れられるって事、不思議ですよね。しかも何もした訳でもない。ただ自分の本心を、本来の自分の在り様にこうやって目が向いて、なるほどって気がついただけで、何もしなくても良いって言う風になるって言う事が、実に不思議ですよね。

例えてみれば、自分の財布の中開けてたら、お金が入ってたのを見て、ああって一変に何か金持ちに成った様なもんでしょう。じゃあどうしたのかったら、誰かから貰ったのかったって、そうじゃない最初から持ってたんだけど、気がつかなかっただけで。エー、そういうもんでしょう。気がつかないって、こんなに成るんですよ。気がつくとこんな面白くなるじゃん。あと自由に使やあいいじゃん。

「堕脱ともになくは」落ちるとか抜け落ちるとか言う様な事が両方ともなければ、「先百丈あるべからず、」昔はこうだったって言う様な事はないじゃないかって言う。今まではこうだった、昔はこうだったって言う事は起きないじゃないかって言う。そりゃそうでしょう。「先百丈なくは今百丈あるべからず。」前はこうだったから今はこうだって事があるでしょう。「みだりにゆるすべからず。かくのごとく参詳すべきなり。」だから先輩達が立派な人かもしれないけども、そう言う人達の言ってる事を安易にそのまま受け取って良しとするんじゃなくて、本当に自分でよく噛み砕いて学ばないと、とんでもない事になるよとおっしゃってる。

「この宗旨を挙拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、ままにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。」今勉強して来た様な内容をですね、取り上げて、自分の事だからそれで、長い間、これ中国の歴史の総称でしょう。この辺が南朝とか北朝とかって、中国の沢山、国が、小さな国が沢山ある頃の時代の話でしょうね。道元禅師が中国に渡る頃までの間が、その間にままに聞こえる間違った教え、謬説、誤った説き方、正しくないものの理解と言うものがその中にあるから、それを自分で勘破して行くべきだと言うのですね。見破って行けって。

一番人間が陥りやすいのは、人につけた肩書きで大体ものを評価するじゃないですか。あれはもう最悪でしょう。自分の力で、自分の力で本当に触れてみて。だから一言言葉をその人に発してみれば大概わかる。どの位の人か。怖がってやらないだけじゃない。自分に力がないって、勝手に自分で思ってるから。あるいはそんな偉い人にこんな事言っちゃいけないんじゃないかって、そうやって思うから本当の事言わないだけじゃない。

本当の事言ったら良いじゃん。向こうの人が偉い人だったら、どんな事言ったって、そんな事で崩れる様な人は本来居ない筈だからね。赤ちゃんがお母さんに吠えつく様なもんだからさ。幾ら吠え付いたって、お母さん屁ともない筈なんだけど、その赤ちゃんの様な我々が本当の事言って、こうやって投げかけたら、親の方が震えが来ておしっこを漏らす様だったら、大した事ないって言う事でしょう。肩書きに偽りありと言う事でしょう。

だから、人の見てる前で、ものが判断されるって言う事、人は怖がるじゃないですか。裁判所の様な所で裁判する時には、放映は許されないでしょう。今でもまだスケッチは許すけども、動画や写真撮ったもの外に公表はしないでしょう。あれを公表すべきだって言う意見もあるでしょう。そうすると本当の事が誰が見ても分かる。ああ言ってるけどもって、その身体全体から発してるものでわかるんだよね。これからそう言う風な時代がくるのかも知れない。それもこないのかも知れない。

仏道の上においてはそうあるべきでしょう。だから必ずこうやって相対して修行する時にやってますよね。独参でもそう。お互いに何も隠すもの無い。全部されけ出したままぶつかってる。上下ではない、修行する時に。学ぶ。

もう一下り。「老非人また今百丈に告していはく、」こっから又内容が少し違う。「『乞依亡僧事例』。」乞う亡僧の事例に依って言う事言ってます。狐の身を脱したからって言って、そこに裏山に行ったら、狐の死骸があったって言って、それを持って来てですね、お葬式をするのね。その時に、この狐のお葬儀をするのに、お坊さんのお葬儀の仕方に倣って葬儀をしてほしいって、頼んだ訳ですね。それに対しての問題点です。

「この道しかあるべからず。」それはものの道理として違ってますよと言うんですが、どの様に展開して行くかね。「百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。」狐のお葬儀をするのに、お坊さんの葬儀の様にしてくれって言われた時にですね、ハイッて言ってそのままお坊さんの葬儀で狐を送ったって言う事に対して、多くの今までの方々がですね、善知識、立派な人たちはですね。この話を聞いて何にも自分の中に、それ変じゃないかって言う様な気さえも起こさなかったって言うんでしょう。驚きもしない。

「その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。」先ず一つはですね、死んだ狐はお坊さんかって言ってます。見てごらん。死んだ狐坊さんじゃないじゃないか。エー。「得戒なし、」お坊さん達は受戒を受けて、戒律を受けて出家して、それを守って行く。狐は大体そんな事したことないじゃないか。エー、それから「夏臘なし、」って言う事は夏、まあ四月から九十日位を一夏といって夏の修行期間になってる。それを夏臘と言います。一年一回夏の修行が九十日、冬の修行もある。年に二回九十日ずつ冬と夏の修行期間がある。夏臘は夏の方ですね。そう言う修行した様子もないじゃないか。

さらに「威儀なし、」エーお坊さんとしての衣をつけるとか言う様な事も、食事の仕方とか、坐禅をしたとか、一切ないじゃないか。「威儀なし、」「僧宗なし。」お坊さんとしてのやるべき事を、色々ありますが、そう言う事一切してない。「かくのごとくなる物類、」そう言う死んだ狐って言うのはそう言うものなのに、「みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の事例に準ずべきならん。」

今この社会だって在家の人のお葬儀の方法とお坊さん達の葬儀に仕方は判然として違いますよね。あるいはお坊さんの世界だけじゃなくても、皇室の葬儀と一般の人も違うでしょう。私も死んだから皇室と同じ様に、ああ言う葬儀にしてくれって言ったら、だれがやるんでしょうか。そんな事はありません。お金を一杯出すからって言ったって、それは無理です。そう言う問題とは違うでしょう。そう言う事を上げてみるとよくわかるね。

「死優婆塞、死優婆夷、」男の在家の信者、それは優婆塞ですね。それから優婆夷は女性の信者です。現代では信士とか信女とか居士とか大姉とかって言う様な分け方をしていますね。そう言う在家の方々がもしお願いする事があれば、「もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。」もしそれが狐の葬儀をするのに、坊さんの葬儀に準ずる事が出来るんだったら、今もそう言う風にお願いしたら出来るんじゃないかって、皮肉をちょっとこめて言っておりますが。

「依例をもとむるに、あらず、きかず。」そう言って頼まれても、それを聞き入れもしないし、やらないじゃないか。「仏道にその事例を正伝せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」仏道ではそう言う事は、過去から現在まで一つの事例もない。「おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」そう言う気持ちがあっても無理だって。もしそう言う風にやってほしいんだったら、得度して出家すればすぐ坊さんとしてお葬式出しますよ、と言ってます。

「いま百丈の『依法火葬』すといふ、これあきらかならず。」文献には百丈がそうやって頼まれてですね、狐を火葬にふしたって、その火葬にふす時にお坊さんの事例に倣ってやったって言う様な事を書いてあるけど本当かな、どうかなって言ってるんですね。「これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、至菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。」お釈迦様の時代からずーっと見て来るにですね、そんないい加減な事は一つもやった事がないとおっしゃってる。だからそう言う事が書いてあるけども、これは間違いじゃないかって。

「岩下の死野狐、」山の岩場の所のどっかにですね、死んだ狐がいる。「岩下の死野狐、」「たとひ先百丈の自称すとも、」それが昔の百丈の姿だって言うかも知れないけど、「いかでか大僧の行李あらん、」狐にそんな立派な坊さんとして修行した気配が何処にあるかって言っているんですね。「仏祖の骨髄あらん。」ましてやお悟りを開かれた、真理を見極めた、ものの真相を本当にはっきりした、そう言う様な人の様子はどこにも見当たらないじゃないか。

「たれか先百丈なることを証拠する。」それが昔の百丈禅師の亡骸だってって、何をもってそう言う事を言ってる。何処にそれをはっきりさせる証拠があるのか。ないじゃないかと言ってるんです。「いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を驕慢すべからず。」これが道元禅師のこの取り上げた文献に対する見解ですが、こういうものが幾つか今でもあるでしょう。誰か立派な人が言ったから、そのままそれを間違っていても踏襲して行く。

私等も近年になって人権の勉強をする機会があって、人の中に差別がある。立派な人と立派でない人がって言う様な、日本に根強く残ってる文化がある。そう言う事が指摘されて、今日もまだいるとおもいますが、人の語らいの中に悪戯にそう言うものが消えないでいるよね。大変な問題ですよね。あの人は、あの家はって言う様な、そう言う見方をするでしょう。こう言う勉強なんですよ。今話して来た事は。こう言う間違ったものの見方、改まらないのが幾つもある。

仏教って言うのはそう言う事をきちっとさせなければいけない事でしょう。それで自殺する人もいるんだからね。そう言う見方をされて。結婚が出来なかったり、就職がうまくいかなかったり。こんなに世の中が進んでるのに、まだそう言う事が、そう言うものの見方が根強くどっかに残ってる。改めなきゃならんこと一杯あるね。まあその位で。(2018.3月分終)
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大修行 Ⅵ

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この前、もう一つニートになってる子供の話を聞いた。優秀な子だった様で、大学の二年の時に、お友達同士が何かイザコザがおきた時に、自分が中間に入ってその人達を何とかなだめてあげようと思って入ったんだけど、最終的に両方から苛められたって。エー、それで自分がおかしくなっちゃったんだね。大学二年の時から、学校行かなくなってしまった。それから家に籠るようになって、人とも会いたくない買い物にも行けない。最近は物を食べなくなった。

本人の口から、あと一年位しか持たないかなって言う位の危険な言葉が出てきたみたいで、おじさんになる方が、家へ、まあそう言わずに遊びに来なって、自分の家に来たらゴロゴロしてりゃ良いからって、来るだけ来てごらんて言って話したらですね、幼い頃からずーっと可愛がって貰ってた人なんでしょうね、心を許してその方のお家に足を運んで、一週間位ゴロゴロ、ゴロゴロして、ご飯の時なんかでも多少話しをしたりなんか、暇があるとしてた様ですが。

この子がですね、こう机の上に置いて在る物に触れた時にですね、「あっ」って言ったそうです。あっ!って。如何したのかなって思ったら、「見てなかった!」って。それだけですよ。「見てなかった!」それだけで、今までのニートになって、自分、一つも動けないようなものが全部取れた。自分で。不思議。「何か自分の、色んなものが、付いてた様なものが全部落ちた気がするって、言ったそうです。

もうその日から普通に生活出来る。ご飯食べると美味しいって。今までは味がしない。自分で買い物に行ける様になった。一人。私がその話を聞いたのは、そうなってから一ヶ月位後の話なので、その一ヶ月間、そう言う状況がずーっと続いてるからですね、まあ元に戻る事はないでしょうねぇ。何でそうなるんですかね。これ位人間が悩んだり苦しんだりしてる事はですね、とんでもない事をやってるからなる訳でしょう。

これ、普通は向かったら、ちゃんとその通りみえるんじゃないの。向かってちゃんとそのものが見えるんだったら、正常ですよ。エー。ご飯食べたら味がするって、正常ですよ。何で食べて味がしないんだろうねぇ。何でそこにこうやってると、誰か何か私の事をどう思ってるんだとか、お化けみたいのが一杯出て来るって言う事は、正しく今の在り様を見てないよね。見える事とは違う生活をしてるって言う事でしょう。それが自分を苦しめたんでしょう。

もう聞いてみりゃ大体そうですよ。とんでもない事を一杯頭の中へ描いてるよ。音がすると誰か私の所へ、何か言ってるように聞こえたとか、そこら人が通ると、俺の事を観察しに来たとか。兎に角そうやって被害妄想ですよ、皆。こうやって物を見てる時に、被害何もないじゃないですか。誰からも苛められない、ちゃんとした生活が出来てるじゃないですか。不思議ですね。

そのおじちゃんとはもう三十年位つき合ってる。オームの問題が発生した頃、東京で出会った方です。あっちに行かなくて良かったって言ってる。仲間の中にはあちらに勉強に行った人が居る。で、自分の所でそうやって親戚の子がですね、そう言う体験をしたものをこうやって目の当たりに触れてですね、この話してる事がですね、もっと自分の中で確信を得てますね。本当にこう言う事で人が救われるんだって。皆さんが考えてる修行とは全然違うでしょう。仲間と一緒に、在家の方ですけど坐ってます。又一段と「よしっ」って言って、これ一緒に皆で坐らなくっちゃって言ってましたから。その事が自分にとって大きな影響がある。

「大修行の瞞他不得なるあり、撥無因果なるべからず。」本当にそう言う事が現実にあります、皆。幾つもそう言う事が。気がつくってすごいですね。もう一つ上げてあります。「『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。」

不昧因果と言う事はですね、因果の道理をはっきりしている人だから、それだからそう言う狐の身体になった様なものから抜け出せるんだって言う風に理解してるって言うんでしょうね。これが二つ目の昔から、この大修行の話について伝えられて来ているものの理解の仕方です。

道元禅師、これもおかしいよと言って、指摘してる訳ですね。「まことにこれ八九成の参学眼なり。」十分でないと言う事ですね。「しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。」エー狐のままと言う事ですね、「遮野狐精」それから「現野狐精」、狐のままの自分の今様子がここにあるって言う様な事が、ずーっと書いてありますが、ものの道理としてこう言う事を見とく必要があるんでしょう。

言葉を聞いて、その言葉の意味してるものが理解出来たから人が救われて行くって言う様な事ではない。その証拠に皆さん色んな日常の中だって、言葉を見たり読んだり聞いたりしてですね、その内容が、意味が分ったら楽になりますか。例えば、人は争わなければ穏やかに居れるって言う様な事を言われて、ああそうか、本当にそうだよなって言って、それが理解出来たら争わない様になるのかしら。

そう言う風に理解してても、後ろからいきなりコーンと叩くとですね、この野郎!って言って腹を立てるって言う事は、どういう事でしょう。理解が出来てたら一切そう言う事は起きないのかって言うと、そうじゃないって事よく分るでしょう。猫でもですね、ご飯食べてる時に側に行くと、もうちょっと餌をやろうと思っているのに、カッと言って噛み付く。食べてる時には側に行かないのがいいね。取られると思うのかね。何かすごい勢いでピッと来るね。面白い、見てると。言葉によってどうかなる訳じゃないね。

ここはそう言う風にとってるんでしょう。「大修行の超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。」修行してる、本当に修行してる人、そう言う内容がよく分かるから、それでそう言う騙されない人になるとか言う様な風に受け取ってるけど、それは違うでしょうね。

「迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。」百丈山と言う山は二つも三つもある訳じゃなくて、ずーっと最初からその山一つなんだけども、お釈迦様がいる時とその先輩として迦葉尊者が、お釈迦様のお師匠さんになるのかな、迦葉仏さんのいた時の山の様子と皆違うのでしょう。

皆さんだって、この身体一つだって言うんだけども、昨日の自分と今日の自分で、二つある訳じゃないんだけど、ねぇ。それが曽身今身と言う様な事でしょう。自分の今の様子、こう照らし合わせてみるとよく分かる。確かに一つの筈なんだけども、昨日の自分の様子もあれば、今日の自分の様子もある。全く違う。だけども、そんな違う事が理解できるんだけども、厳然として今こうしてる様子しかない。エーこれが面白いんじゃないですか。厳然として、今こうしてる様子だけじゃないですか。

ああも思える、こうも思える。円通寺にいた時の様子もあれば、自分の家にいる様子もあれば、お店に行ってる時の様子もある、歩いてる時の様子もある、色々あるんだけども、分かる、そう言う理解も出来る。理解も出来るんだけども、親しく自分にこうやって目を向けてみると、やっぱりこうやって、そんな事じゃないなって。今こうやって居る様子以外にない。これさえあれば良いのでしょう。今こうやって居る様子さえあれば。

これ以上に何かあったら困るんでしょう。エー。困ろませんか。今こうやってる自分の様子以外に、もう一つ自分の何か様子があったら、困りませんか、皆さん。有難い事にこうやって、今こうやっている様子だけだから、何にもする用がないじゃないですか。何処も第一ズレがない。エー。ズレが無いと言う事は、この中で不平や不満が起きない証拠でしょう。不平や不満が起きるって言う事は、今こうやってる事とズレるものがあるって言う事でしょう。

さっきの坊やみたいに、こうやって物を見て、ほんとにそうやって物が見えてると、この通り見えてるだけで、今までああじゃないか、こうじゃないか、あれもこれもって思ってた事と全く違う、自分の生きてるものの様子にこうやって触れるのでしょう。ああこんなにちゃんとしてるって言う事なんでしょう。

「日面月面」て言うのは、日月って、今日とか一月とかって言う意味でしょう、ね。仏様には、日光菩薩、月光菩薩と言う風にこう言うもので出来てます。本当にその後もある様に、「遮野狐精、現野狐精するなり。」って、今申し上げてる通り色んな様子があるかもしれないけど、よーく触れてみると、何時でもどうもする訳じゃない、今こうやって生きてる様子が一つも欠けた事がない。それほど完璧に生きてます。

これから手を付けないと本当に今生きてる様子にならないなんて事はない。何処で人間はそう言う事が触れられない様になるかって言うと、見た瞬間に色んな事が、思いが出てくると、その思いの方を相手にするからでしょう。目の付け所が違うのでしょう。思いは本物じゃないですよ、見てる物に対して。聞いてる音にしても、思いは音そのものを聞いてる事とは違いますよ、思意って。それで見てる様に思ったり、聞いてる様に思ったり味わってる様に思ったりしてる。

本当にこの五官ないし六官で生活してるものにはですね、自分勝手な思いなんて、一つもついてない。そう言う風にして過ごすのを、私達は大修行と言ってます。大修行って言うのは寸時もそこから離れない。ズーっとそう言う風に、基本的にはそう言う生き方をしてるじゃないですか。してるんだけど、考え方の方に目を向けると、すぐ何かしなきゃ治まらない様な気になるでしょう。それ修行してないからでしょう。「修行」って考える事じゃないもんね。考え方で何か自分の思った様に、都合のいい様になる事やる事が修行じゃないもんね。

でも一般に町を歩いていて修行ってどう言う事かって聞いてみると、100%そっちが修行ですよ。エー。間違いなくそっちが修行ですよ。考え方の上の話ですよ、殆ど。お釈迦様が体験したこう言う内容が中々正しく伝わってない。それはここで道元禅師が取り上げられた様に、先輩達がですね、往々の如くとかって言う風に、古来とかって言う風に取り上げたがるけど、先輩達も、お釈迦様の修行してこられた内容を、修行して来てる筈なのに、こんなに間違って捉えられているって言う指摘に聞こえませんか、これ。

もっと今度色んな事が出てきますよ。「野狐いかにしてか五百生の生をしらん、」狐がどうして自分が五百回も生まれ変わっている身だって知るんだろうって。エー。狐にそんな力があるのかって言う事でしょう。「もし野狐の知をもちゐて五百生を知るといはば、野狐の知、いまだ一生の事を尽知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。」狐の知恵をもって五百生を知ると言うんだったらって言うんですね、狐の知る力、知ですね、「いまだ一生の事を尽知せず、」それではものは分からないのじゃないか。言いたい事は、人間の知る一生と狐が知る一生って同じなのかね。エー、そう言う事でしょう。

犬の目で物を見るのと、人間の目で物を見てるのと、トンボの目で物を見てるのと、蝶ちょの目で物を見てるのとは、色んなものがありますけど、見て御覧なさい。人間の目で見てるのとは違いますよ。だからあれはトンボの目だとかって言うのでしょう。同じだったら人間の目だって言いますよ。エー。

「一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。」本当に狐だったら狐の見方だけなんでしょう。皆さんだってそうでしょう。他人の見てる見方の中に入って行った事がないじゃないですか。これだけ沢山の人が居るんだけど、何時もこれも話す、一生自分の目で見てる様子だけですよ。不思議ですね。一切他の人の見た世界の中に入っていかない。それだのに、他人の見てるもの気になる、何だろう。要らん事じゃないですか。ズーっと生涯自分の眼で見てる様子だけしかないのに、どうして他の人の事が気になるんでしょう。

他の人の耳で聞いた音なんて無いよ。全部自分の耳で聞いた音だけだから、疑うなんて事は起きないよ。はっきりしなくなるって事は一切無いよ。で、聞いたものが、ああだこうだって言う風な対象にはならないよ。必ずただその通り、その通り聞こえる様子に生きてるだけです、何時も。それ位他のものの中には入って行かないよ。

「野狐はかならず五百生の堕を知取する公案現成するなり。」って言うのは、今申し上げた様に、皆さんだって本当に自分自身の生き方ばかりじゃないですか、生涯。今日一日の事だって、見てごらんなさい。本当に何処から何処までもこの身体の活動してる様子ばかりですよ、自分自身の。それ以外の事は一切やってない。言い分としては、ああ、あんな事あの人やってるって言うんだけど、あの人あんな事やってるって、先ずその、そう言う事の時に、それは自分が見てる様子なのでしょ、先ず。人の眼で見た様子じゃなくて、自分が今そのものに触れて見てる様子の中で、見た後に自分の中で、あの人はあんな事してる言う風に置き換えたんでしょう。人の事の様に。違いますか。

その辺が物凄い大事な事なの。そう言う風に置き換えると、腹が立ってくるじゃんないですか。問題になってくるんでしょ。だけど、全部自分が本当に見てる様子ですよ。あすこにあんな物が置いてある。自分の見方が付くのと、本当にこうやって触れた時に見えてる様子とは、この位違うじゃないですか。本当に見えてる様子の中に、一切問題ないよ。どの様な事にこう触れて見ても。

だけど常識とか色んな、生まれてから後に学んだものが自分の中に巣くってて、そう言うものを通して見る様になると、見てる事と違う。そう言うものが人間が見てると思ってる。そのために、そう言う風な色んなものを沢山、生まれてから後身につけて、優秀な人に成ったと思ってる。いかに自分の言ってる事が、人から責められる時に正当かって言って言い負かす力がある人が、世の中では優秀な人だと言われてるんでしょう。エー。だからそれを言い負かすだけの力のある弁護士の方が勝つのでしょう。真実がどうであるって言う事じゃないよね。まあそう言う事もあるでしょう。

「公案現成するなり。」って本当に自分自身の事だから、本当に自分自身の様子が、今どう言う風になってるか。修行するって、それだけじゃない。今、目に触れた時、何でその触れたもので腹が立たなきゃならないの。今耳に触れた声が響いた時に、どうして問題が自分の中で起きるの。それだけじゃない、生活してて皆さんが現実、何処を手をつけたら良いかって言うのは。触れて見ると、最初は絶対問題なしに生活してるよ。先ずその通りに見える、その通り聞こえると言う事からしか始まらないんだよ。

よく見てみると、その後にそれに対して自分の見解が起きる。見解が起きると最初に見えてる事なんかどうでもいいんだよ。エー。それ位人間はものを見ない。すぐ本物から目がそれて、自分の見解を起こしたものを取り上げて、どうこう言う様になってる。それだから修行にならなくなるじゃないですか。

こうやって、パン!(打掌)聞いてみたら分かるじゃん。パン!パン!パン!パン!パン!だけど音がして音が聞こえるの、こうやってて、そんな事が何の修行になるって思ってる人沢山いるんだよ。だからやらないのよね。パン!こんな風にしてないよ、やっぱり。修行ってそんな事じゃないと思ってるから。幾ら教えても、言ってる事変じゃないの、パン!こんな事やって何になるんだろうって。

それよりも教本の一頁も読んで理解した方が良いって。どっかに正法眼蔵の何か辨道話かなんかに、そう言うな質問があるんじゃないですか。ものを知らないとそうなる。坐ってるよりもそうやって理解出来る事やった方がよっぽど良いと思ってる。これはそんな事とはたち(性質・内容)が違う。

時々人の話を聞いて、なるほどなぁと思うのはですね、よく分からないのに、その自分の中にですね、確固たる信念をもってるんですね。不思議ですよ。例えばこう言う話。坐禅をしても中々無心になれません、てよくおっしゃる人が居る。ねぇ。で私が意地悪だから、「あなた無心になった事があるんですかって。」「いや無心になるって事が如何いうことか、自分が体験がないから分からない」って言ってるんですよ。それだのに坐ってて中々無心になれませんって。これ如何いう事を言わんとしてるんでしょうね。

少なくともこの人の頭の中には、こう言うものが無心だって言うもの持ってるから、そう言う、坐って中々無心になれませんって言ってるんじゃないですか。そう言う意味合いですよね。だけど、つついてみると、自分で無心て如何いう風になるか知らないんですよ。知らないのに、自分で勝手に無心になれませんって言って。だからこっちが幾ら教えても、入れないよ、自分の中に。

もう自分の中に確固たる無心に対するイメージがちゃんと出来てて、一つもこっちの話えを聞かない。これで修行がうまくいかないんですよ。こう言う話を聞きに来てくれる時でも、下手をするとそうなってる。だからそれをクリアーするのに、三年位って私よく言うは、黙って何回でもただ聞いてるとですね、初めて素直に聞ける様になる。

初めは必ず自分の見解が出て来る、聞くと。あの人あんな事言ってるけどって。何言ってるんだろう、よくわからないなあ。よく分からないと言う事は聞いてないということです。パン!聞いてごらん、こんなによく分かるでしょう。パン!どこが分からないの。パン!此れの。

それは何だろう、何を言わんとしてるんだろう、何を示そうとしたるんだろうって言う風に考えはじめると、パン!こうやった事分からなくだけの話じゃないですか。エー。このはっきりしてる事に学ぶのでしょう。だから坐ってパン!こうやって坐ってればはっきりしてる様子があるから、それに学ぶとすっきりするのでしょう。他の事をする用がないじゃないですか。

大修行 Ⅴ

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2018.3.24

出ましたかね。374頁、中間の段落のある所から。少し読みます。


「また往々の古徳、おほく不落不昧の道おなじく道是なるといふを競頭道とせり。しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に体達せず。かるがゆゑに、堕野狐身の皮肉骨髄を参ぜず、脱野狐身の皮肉骨髄を参ぜず。頭正あらざれば尾正いまだし、老人道の『後五百生堕野狐身』、なにかこれ能堕、なにかこれ所堕なる。

正当堕野狐身のとき、従来の尽界、いまいかなる形段かある。不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なる。いま山後岩下の一条皮、那裏得来なりとかせん。不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。堕脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。

しかあるに、古来いはく、『不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜堕す』といふ。この道、その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみにありて『不落因果』と道取すとも、大修行の瞞他不得なるあり、撥無因果なるべからず。

またいはく、『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。まことにこれ八九成の参学眼なり。しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山、釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。」


その辺まで読んで。この大修行の巻きに取り上げられている教材って言うか、話題と言うか、ものは、ざっと申し上げると、昔洪州の百丈山に、狐がですかね、野狐身、狐の身体をしたものがあるのですけども、一人の老人がですね、百丈禅師の所に出て来られた。そして話をされるのですが、その話の内容はですね、私は普通の人とは違うと言う。如何いう風に違うかって言うと、今は狐の身をしてると言うんですね。そんな人は、まあ居ないのでしょうけれど。で、どうしてその狐の様になったかって言うと、昔この山に居た時に、修行者が尋ねて来られた時に、私がその人の質問に対して答えたものがですね、因果に落ちず、と答えた。そうしたら、その事によってその後五百生とあります、五百年とは言いません、五百生。五百回生まれ変わったと言う事ですかね、普通に言えば。そう言う風な時間を過ごして来たって。

それで、是非この狐の身に堕ちてしまった私をですね、今目の前にいる百丈禅師、一言何かをお答えを戴いて、それによって元の身に戻れないもんかと、こう言う事なんですね。そう言う様な話で、その時に尋ねたら、百丈禅師がですね、不昧因果とおっしゃった。そしたら、昔の五百回生まれ変わっていた野狐の身から元の身に戻ったと言う様な一連の話がずーっとあるんですね。まあ何だろう変な話ですね。

でも此の話はですね、長い間、道元禅師が中国に渡って勉強をする修行をし、或いはお師匠様について学ぶ以前の人達もですね、この問題はずーっと扱って来た、そう言うな教材でもある。だけども、その人達のものを改めてこう紐解いてみるとですね、変な所が一杯あると言うのですね、道元禅師。で、そう言う話から行くのですけどね。一段の話は此の前終わったのですが。

「往々の古徳、おほく不落府不昧の道おなじく道是なるといふ競頭道とせり。」古徳って言うのは、昔の先輩、立派な人達がどういう風に見ておられるかって言うと、不落因果、不昧因果、不落不昧と言うものはですね、内容は別に違わないと言ってるんですね。

道是と書いてあるけど、「道是なるといふ」ね。是というのは是非の是だから、よしとすると言う意味ですね。頭を競いと書いてある。「競頭道」どちらが素晴らしくて、どちらがつまらないと言う様なものの無いのに、同じ様にその内容があると言う事に気付かず、競い道い分を主張している。多くの人達が。

それで、「しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に体達せず。」そう言う人達の言い分を見てると、不落因果不昧因果というものが実際にはどう言う風に内容が成ってるかって言う事が明確でない。

「かるがゆゑに、」だからと言うことですかね。だから「堕野狐身の皮肉骨髄を参ぜず。」野狐身から逃れる「皮肉骨髄を参ぜず」、要するにものの真相はどちらにしてもはっきりしてない、とこう言う事です。

エーものの真相がはっきりしていないという事、もう一つ言い換えると、頭が正しければ、尻尾まで正しいと言う事ですね。頭から尻尾迄、全部本物と言う意味合いですね。頭正尾正、身体のどっか一部でもですね、贋物がくっついてればですね、これ全部正しいと言う事にはならないじゃないか、と言ってる訳ね。ブランド商品て言うのがあるんでしょうけども、ボタン一つでも違うとですね、その商品は全部立派なものと言いえなくなるのでしょうけど、そう言うな事です。ほんの一部の、毛一本でも贋物が付いてるとそれは駄目って言う事でしょうか。

それで先ほど話に出した、老人の言われる、「老人道の」、 老人が言われる『後五百生堕野狐身』 と言うことですね。それが、「なにかこれ能堕、なにかこれ所堕なる。」どこが狐、狐の身に堕ちたとか、或いは所堕だから、どこが狐の身体になった所なのかと言う様な事が、道元禅師が細かく指摘しておられます。まあ言ってごらんと言う事でしょう。はっきりしてるんだったら。

「正当堕野狐身のとき、」今正にですよ、狐の身に変わった時、堕した時、従来の今まで世の中のありとあらゆるもの、尽界がどの様な形をしているか。普通に話をすればですね、自分が例えば病気をして、今お腹が痛くてしょうがないって言う様な身体になった時も、それ野狐身に堕したと言って、別に変わりない話でしょ。今迄の健康な身体が病気になったと言う様な事が、あなたの身体でおきた時にですよ、よく見ると、自分以外のありとあらゆる物の様子がですね、それによって何かどっか変わったかと言ってるのですね。

あるいはもっと酷い事を言えば、相対してる人に対して憎らしいと思った時にですよ、世の中のありとあらゆるものが一変に全部憎らしい姿に変わるのかと言う様な事です。そんな事はないのでしょう。こう言う事が皆さんが日常の中で勉強しなきゃならない事でしょう。知らないと、頭にきたって言うと、何もかも叩き壊さなきゃならない様な気になる人が居るでしょう。本当にそんな風にありとあらゆる物が邪魔になってますか。そんな事はないでしょうね。こう言うな事がここら辺でみて行きたいのでしょうかね。

「不落因果の語脈、」話の流れって言うか、文脈と言うのでしょうね。語脈って文脈。話の流れ、内容、そう言うものがですね、不落因果の、因果に落ちないと言う事です、不落因果ってねぇ。因果に堕ちないって言うのは、次にも出てくるんだけども、撥無因果に似ているって言うんですね。因果なんかのものにですね、左右されない。もっと一番酷い事を挙げれば、どんな悪い事をしたって、それによってどうって言う事ないじゃないかって、そう言う風な見方をするって言う事を、撥無因果って言ってます。
因果の道理っていうのは絶対になくならない。そう言う確かなものです。だけども不落因果って言って、そう言う言葉を聞いてですね、丁度因果をないがしろにする様な聞き方をしてるんですね。

皆さん方、落ちないって言ったら、木に登っていて落ちないって言ったら、そこにずーっと居るって言う事でしょう。不落ってそう言う事を上げたら分るでしょう。風が吹いてきても、木が折れても、その木にぶら下がってる時、例え木が折れても自分は落ちないって、そう思ってるんでしょう。そんな事はないでしょう。自分がぶら下がっている木がですよ、折れたらですよ、自分は絶対これに掴まってるんだから落ちる訳がないと思ってても、ストンと落ちるんですね。本来そう言う風に出来てるものです。

だけど人間て考え方ってそう言う風に思うのでしょうねぇ。一回憎らしいと思うと、何回会っても、その人の顔を見ただけで憎らしいと思う様なものでしょう。そんな風にはなってないのでしょう。どっかのお店に食事を取りに入ったって、その時に、食べた時に、あまり美味しくないって思った人は、会う度そこのお店の所を、その前を通ると、このお店は美味しくないって言う。面白いですよ。このお店美味しくないからね。何時食べた味だよって、言いたいじゃにですか。こんな風にして人間はつまらない生き方してるんですよね。そう言う様な誤ったものの見方の一つにはなるんでしょうね。不落因果。

エーまあそれはそれとして、「なにとしてか五百枚なる。」五百生と言ってる事を指します。一枚二枚って言うのは、一回二回と言う事と同じですね。五百生と言う事は、死なないとですね、一回死なないと一生二生ってならないんですね。一回死んで生まれ変わって来るから、二生目。物だってそうでしょう。こうやって見た時に、(掛け軸を見る)一回ずつきちっと終わるから、二回三回見た、四回見たって、こう言う風になる訳でしょう。ね。そうやって数える訳ですね。

「なにとしてか五百枚なる。」今皆さん方がこうやってやった時、これ今何回目の物の見え方なんですか。(笑)何回目の物の見方したんでしょう。何処から数えるんでしょうか。こうやって見た時。エー何回目って言う時、何処から数えるんでしょうか。そう言う風な事が、こう言う問題の中にある。なにとしてか五百枚って。あなた五百生って言うけどもって言ってるんですよ。何回目ですか。(笑)何処から数え始めたんでしょう。

これすごい勉強でしょうね、こう言う勉強は。何時でもその時初めて、それで一回で終わりですよね。次にやる時はちがうもん、全然。こう言う事がよく分らないから、前に見た物が何時までも気になってる。腹が立つのでしょう。あの時ああ言ったじゃないかって。確かに言ったかも知れないけど、こうやった時に、あの時ああ言ったじゃないかって言う様なものが何処について出て来るのでしょう。やってみると分かる。そんなものは何処にもついて出て来ない。でもものを知らないとそう言う風になってると思うんです。

エーまあその辺で行くよ。「いま山後岩下の一条皮、那裏得来なりとかせん。」何処から来たのものとしようかって言うのは、今申し上げた様に、今皆さんがこうやって見て頂いた何回目と言う様な事です。何処から来たのだろう。何処を基準にして何回目と言ってるんだろう。

パン!(打掌す)この前も聞いた、今日も聞いた又聞いたって。パン!言うのでしょうね。何処を基準にやるのでしょうかね。何時でもよーく自分自身のこう生活してる在り様を見ると、沢山な事がある訳じゃない。何時もすっきりしてる。今生活してる様子が本当にあるだけですっきりしてる。見て下さい、触れて下さい、必ずそうなってるから。

「不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。」耳で聞いてみればよく分かるでしょう。皆さんの耳で確かめてみるとよく分かる。不落因果って言うと必ず不落因果って、そう言う風に聞こえる。不昧因果って言うと、必ず不昧因果ってそう言う風に聞こえる様に、これがコロッコロッとちゃんと変わるじゃないですか。そうならない人はここに誰も居ないでしょう。

ところが人間はこう言う言葉を聞いてですね、その中の言葉の意味を探ろうとする。それを聞く事だと思っている。殆どそう思ってます。知識のある人は間違いなくそう思ってる。本当に聞くと言う事はですね、音ですから、その通り聞こえるだけって言う事ですよ。ピアノを叩いてみたってそうでしょ。その音がしたらその通り聞こえるだけです。誰だってその通り聞こえるだけです。

だけどそこに自分の、音を聞いたものに対して、自分の感情とか気持ちとか、そう言うものを付けてですね、ああいい音だとか気持ち良いとか寂しいなあとか楽しいなとか、そう言う風な聞き方に変えてるじゃないですか。それは音じゃないよねぇ。音を聞いてると言う事とは違うじゃない。こんな話すると眠くなっちゃうかな。

「堕脱ありといへども、」その様にですね、聞いた通りに違う事が分かるでしょう。「ア」って言って言われて聞くのと、「イ」って言ったものを聞いた時に、同じ様に聞こえる人なんか居ないじゃないですか。だけどもこれが「ア」と「イ」と言う発音出した時、争うって言う事はないでしょ。そっちが正しいか、こっちが間違ってるとか、それが本当でこれが、と言う事はないでしょう。いずれにしてもその通り、ただどちらもその通り正確に聞こえるだけであって、何と言う事はない。

こんなに穏やかに、生活が人には出来てる。これが皆さんが毎日生活してる根底にあるものですよ。それを皆さんが自分で、なるほどって見届けたら良いじゃないですか。そう言う自覚の道ですよ、仏道って。そうすると人は変わる。不思議ですよ。そう言うものがですね、「なほこれ野狐の因果なり。」と。人の本当の原因結果として活動してる因果の道理なんです。

否応なしに、「ア」って言ったのと「イ」って言ったのと、自分で変えるんじゃない。手を付けて変えるんじゃないけど、いきなりそうやってコロッと変わっていく。もしこれがその通り変わらなかったら、幾らこちらで声を出しても、皆さん方には正しく聞く能力は無くなりますよ。ところが皆さん方の身体って言うのは、こちらで「ア」って言えば、必ずそう言う風に聞こえるし、「イ」って言えば必ずそう言う風に聞こえる様に、無条件でそうなってる。こんなに上手く生活が、仲良く生活が出来る様になってる。一切争った事はない。どうしたらそう言う風に素直になれるかって言う様な問題じゃない。物を見たってそうでしょう。そこにある物を見たら、必ずその向かった物の様に見えるんでしょう。自分の方でその様にしなくても。やってごらん。こんなに上手く出来てるじゃない。

自分の思う様にならない、ならないって言ってるけども、大体この身体自体がですよ、最初から自分のものじゃないんだからね、言っとくけど。このものが、ね。そんなつまらないもんじゃないんだよ。自分の思う様にならないでしょうが、最初から。見て御覧なさい。これずーっと見てて下さいよって言って(ものを見せる、)守らせといてもですよ、私がその前にすっと行くとですね、そのまま見てる様にはならない。

自分の、これがもし自分の身体だったら、自分の思い通りになって良いじゃない。なる筈じゃん。絶対そう言う事は見ないって決めたら、自分の思い通りの、身体が自分のもんだったらそうなるだけど、自分の思い通りにならないって事は、この身体自体が最初からそんな小さなものじゃないって言う事でしょう。もっと大きな働きしてるじゃん。公な。自分の好き嫌いなんかで使う様な道具じゃない。

もうちょっと行きますよ。「しかあるに、」この様な今の様な状況があるんだけども、昔から「古来いはく、」どう言う風に昔の人達が伝えて来てるかって言うと、「『不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜堕す』といふ。」

自分が百丈山にいて、修行者から尋ねられた時に、不落因果って言ったら狐の身体になったって言うんだけどもって言う話があって、その不落因果って言う言い方がですね、丁度因果の道理をないがしろにしてる様な内容に似ているから、だからそう言う風なつまらない、人間から狐の身体になってって言う風に理解してるって言う事ですね。古来からそう言う風な理解をしてると言う事ですね。

この話の中には何の真意もないと言ってる、道元禅師。エー、「この道、その宗旨なし、」こんな事を言ってる人達の話の中に、何もものの真相がはっきりした話が伝わってないじゃないかと言ってます。「くらき人のいふところなり。」って。愚かな人がそう言う事言ってるんだと。ものの道理がはっきりしないから、そう言ってるんだって言って。手厳しいね。

「たとひ先百丈ちなみありて『不落因果』と道取すとも」不落因果って言って言われた時に、不落因果って聞いてもですよ、大修行の人はですね、他に誤魔化されると言う様な事はない。或いは相手を騙すと言う様な事もない。どう言う風に誤魔化したり騙されたりしないかって言うと、耳で聞いてみれば分かる。「不落因果」って言われたら、「不落因果」って言うだけだけで、別に何ともないじゃないですか。

綺麗だねって言われようが、汚いねって言われようが、本当は何ともないじゃないですか。利口だねって言われようが愚かだねって言われようが、本当は何ともないのでしょう。分かりますか。何かその言われた言葉によって、自分が傷ついたとか言う様な風に思ってる人沢山居るけど、そんな事はないですよ。外に行ったら鳥が鳴いてる声が聞こえるのと同じですよ。エー。本来そうじゃん。それに対して、自分が聞いた後に、私をいじめてる言葉だって言う風に受け取った事が問題になるだけじゃない。誰もそんな事言ってない。

家の方で、この前こんな話をしてる人がいて、紹介したかどうかもう忘れちゃったけど。何十年も付き合ってるおばさん。今、朝起きると近くの公園に行ってですね、五人位お仲間が集まるらしいんだけど、ラジオ体操をして、それが終わるとそれぞれ一緒に話をしながら帰ってくるんだろうけど、その途中に池があって、その池の所にカワセミが飛んでるんです。昔は五匹いた、今二匹だって言ってました。

それでそのおばちゃんはですね、最近ご法事か何かの時に、カタログで引き物のやつがあるじゃないですか、色んなものこう選べる様な。折角だから双眼鏡をそれで、って言って双眼鏡を引き物から求めて、自分の手もとにある。それを持ってこうやって、この頃見てるんだけども。五人のグループの中でですね、他の人がですね、双眼鏡を持ってる。その中の一人、Aって言う人がですね、よく見える双眼鏡を持ってる人に、「ちょっとそれ貸して」って言って、こうやって見るとですね、「ああよく見える」って言うんだそうです。最初はこのおばちゃんの借りてこうやって見てた。ね。こっちの人の借りると「よく見える」。これだけなんですよ。

借りて「よく見える」って言われただけで、このあまりよく見えない双眼鏡を持ってる人(おばちゃん)がですよ、どういう風に自分の中がなるか。あなたのはよく見えない、安物だね、とも何とも言ってないんだよね。人の名前も言ってないし、ただ「これよく見えるね」って言う話をしてるだけなんだけど、それを聞いただけで不愉快になるんだそうです。

それ皆さん毎日の生活の中でよく分かる事でしょう。そう言う風な生活してるでしょう、殆どの人が。エー。聞いた事はただ「よく見えるね」ってだけですからね。あなたのはつまらない物だとか、あまりよく見えないとか、借りてもしょうがないとかそんな、そう言う風にひとつもそんな事はない。だけども、その何回、朝やってもです、通って行っても、こっちの借りると、その人がよく見えるねって言うんですね。一回ならまだしも二回三回そう言われると、何か自分の持ってるのがつまらない、自分が物凄く淋しくなるんだろうね。その人と口利きたくなくなる。こうした話を聞いてると笑っちゃう、ほんとに。エー。

で、最近その人が、何故こんな話を私にしたかって言うと、いつも言われてるから、本当に如何いう風に話がされてるかって、聞いてみたらただ「よく見えるね」って言ってるだけだって言う事が分かった。どうなったと思います、この人、それが分かって。七十年近い人生をこんなに無駄に過ごして来たって、言ってましたよ。こんなつまらない生き方をして来たんだ。人生変わるんだよ。本当に。何もした訳じゃないです。何処も手を付けた訳じゃないですよ。ただ言ってる事が言ってる通り聞こえてるって事がはっきりしただけですよ。

何かを整理して綺麗になったとか、止めたとか一切無いですよ。気づくってこんなもんですよ。悟りを開くってこんなもんですよ。何も不思議な事はない。はっきりした。苛められてるものも何もない。すっきりしてる。知らないとここに書いてあることがあるじゃないですか。「その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみにありて『不落因果』と道取すとも」ってあります。

本当に修行してる人です。今の話の様に。本当に修行するって言う事はですね、耳で聞いてみると分かる。その通りそれ以外の
ものは、付けたり削ったり一切ない。「きれいに見える」って言うだけです。これが修行してる人です。修行するってそう言う事なんですよ。物を見たってそうじゃない。その通り見えるって言う事が修行してる人の姿です。修行してない人は、見た物に色んなものが付いてくる。そんな見え方してる事は本來ないんですよ。

でも皆さん知らないから、見た瞬間にすぐ、良いとか悪いとか、気に入るとか入らんとかそう言う風にやってる。物にそんなものがついて見えたって事なんか一度だってないよ。無いですよ。しらない人はだから、修行する時に、この自分の中におきた思いを、どうしたら静まるとか、無くなるとか、取れるとか、引きずらないとかって、そっちを修行の対象にするけど、修行は本来そっちを対象にはしない。

そっち(思考の上のもの)に手を付ける用がない。そっちに手を付けてやったって、絶対それは人間が幾ら手を付けてやったって思う様にならない。だから坐禅をする時にも、その思考って言うか、人の付けた思いを相手に過ごさない様に勧めてるでしょう。ね。じゃ、後何をするかって。坐って、本当に音がした時、その通りに音がしてる様子がある。目を開けてるとその通り見えてる様子が在る。そうやってそれだけで、居てみる。自分の方から一切手を出さない、つけない。そうすると、ちゃーんと修行になる。

その時の自分の在り様に触れて御覧なさい。皆さんが望んでる通りの状況に生きてますよ。それが誰も出来てる、実行されてる。そんな素晴らしい生き方をしてる自分がいるのにも拘らず、それを見る力が無い。それに触れる力が無いから、頭で描いた自分を見て、気に入る様に、自分の思う様になったら良いなとかって、そう言う事を求めに、何とかならないかって言って、うまそうな話があるとそれにくっついて、すぐそっちへ行く。

それ幾らやったって完成されなかったでしょう。色んな所経めぐって来た人、聞いて御覧なさいよ。色んな所に、宗教的な所、色んな宗教、こうやって歩いて来た人達が何故落ち着かないかって、皆この考え方を相手にしてるからでしょう。これ実物を相手にしたら、こんなに簡単に出来るんですよ。

経文の中にですね、学においても無学においても、学問があってもなくっても、まあちょっと酷い事を言うと、頭が良くても悪くてもと言う事になるのかしら。「学においても無学においても、分別の相を生ぜざるを第一清浄者となづく」。修行の上で本当に、ああでもないこうでもないと言う事一切無しに、その通りにこうやって居れる人、それが一番優れている人だと言ってます。

そんな事は役に立つかって思うかも知れないけど、今おばちゃまの話を出した通りですね、そんな事で役に立つんだよ。エー何十年も苦労して来た人がですね、本当に言われてる通り、ただそう言う風に言ったら、そう言う風に聞こえるだけだったんだって事が触れて分かると、役に立つんだよ。学問要らないんだよ。難しい仏教なんか何も用がないもん。哲学も。