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正法眼蔵を学ぶ

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大修行 Ⅳ

音声はこちら ↓

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「しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、」本当の事がどうなってるかって言う、

そう言う勉強をした事のない人はって言う事でしょう。仏法を見聞せざるともがらって言うのは。

仏法って特殊な事じゃないですよ。言い換えておきますけども。

皆さんの知ってる言葉だったら、真実って言う様な言葉で十分でしょう。それを本当に自分で自覚したから、仏法と言われる

のでしょう。なるほどって。ここはそう言う事をした事のない人って言ってます。


『野狐を脱しをわりぬれば、本覚の性海に帰するなり。』狐の身体から脱け出して、そうすると元の自分に帰る

って。色んな事でもそう。何か迷うと、ああ、もとの自分の処に帰って来るって言う風に修行してる人がいる。ねぇ。

帰って来るって場所なんかないですよ。元に。エー。迷ってるって言う事をやめると、いきなり今の様子に居るだけですよ、何時も。

今の様子ってものはなくならないんだもん。


だけども、自分の中で、迷ってるとかはっきりしないと思うと、今の様子がなくなった様に思ってるんですね。そうじゃないですよ。

無くなったんじゃなくて、そう言う思いによって、今の真実が眩まされるだけです。それをやめると、いきなり真実そのものが、

其処にコロッとある。帰って来るんじゃないですよ、其処に。本覚に。元の処に帰って来るんじゃない。

最初からその確かな上で生きてる。


『迷妄によりてしばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。』って、

こう言うものの見方は本当にものを知らない人達の受け取り方だと言って、道元禅師は手厳しくこれ指摘してるね。

これ、理解するには物凄くよくわかるじゃないですか。


もうちょっと違った例をあげれば、此方の今住んでる世界を苦しみの世界だから、川を渡って向こうに行くと救われてる世界が

ありますよ、って言って、此岸と彼岸をたてて、皆さんにそうやって教えてるじゃない。

それで、皆さん舟に乗って下さい、向こうへ行きましょうって言って。行くと幸せな世界に行けるよって、そう言う教えだから、

舟に乗って行こうとするじゃないですか。


本当の幸せな世界は此処にあるのでしょう。向こうへ行く事じゃないでしょう。これ、正に典型的な、そう言うスタイルじゃない

ですか。此方は駄目、向こうは救われてる世界って言うものを立てといて、これを止めて向こうへ行けば救われるって、

物凄く分かりやすいから、修行する時も向こうにちゃんと看板を立てて、あちらは極楽ですよ、こちらは地獄ですよって。

はい地獄に居る人、向こうへ行きましょうって、そうやって号令を掛けると、皆ぞろぞろぞろぞろあっちへ。


そう言う事が一般に行われてるけど、本当の修行ってそんな事しないじゃないですか。何故そんな事しないかって、

向こうで生きてる様子と此方で生きてる様子って、人には今二つは無いからですよ。比べる様な、二枚仕立ての様な生活してる

人は一人も居ないんだよ。それはただ考え方の上で起こってるだけですからね。


自分の真相を見ないで、自分で勝手につまらないもんだと思って、もっと幸せな世界があるに違いないって言うものを立てて、

そちらに行ったら幸せになれるって言う風に、そう言う構図を自分の中に作った。そう言う構図を持ってる人は、そう言う話に

出合うと、見事に嵌るじゃん。ああ私が期待してた通りだって。じゃあって、そっち行くじゃない。もう基本的に違うじゃないですか。

これものを見てる時に、他の見え方した事ないでしょうが。エー。もう一つの見え方しないから、こんなに何時でもはっきりしてる

んでしょうが。それが自分達の本心でしょう。迷った事なんか一度もないじゃないですか。

こんなに何時でもはっきりしてるじゃないですか。他の見え方した事ないんだもん。


ただ見えた物に対して、気に入らんとか入るとかって言う風な思いが出てくると、それを滅茶苦茶に扱うだけじゃないですか。

その代表的なのはさっき話した様に、痛い時に痛くない方が良いと思うから、痛くない様になるのが幸せだと思ってるじゃない

ですか。そうじゃないでしょ。痛い時に本当に痛い事があるって言う事が、大事な事じゃないですか。

それを遣り変えて痛くない様にしちゃったら、大変な事になるんですよ。

だけど百人に聞いたって、痛い時に痛くない方に行くよね。人間の思いってそんな風な事描いてる。これ、外道の見ですよ。

間違ったものの見方をしてる人達の考え方って、皆そう言う風になってるじゃないですか。


「これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに仏法にあらず。もし野狐は本性にあらず、野狐に本覚なしといふは仏法

にあらず。」
狐は狐の様子として、ちゃんとしたものがある。狐が人間よりつまらないって言う事じゃない。

どれだってそうでしょ。どのものだって、他のものに取って変える事の出来ないものでしょう。毛筋一本だって他の毛に取り替えて

変わって貰う事が出来ない存在じゃないですか。石ころ一つだって。ゴミ一つだって。

そのものはそのものによって、そのものの生きてる様が在るんであって、他のものに変えてどうこうする様な事はない。


人間の考えでは違いますよ。すぐに何か他のものと入れ替えて如何かしようと思う。もしそんな事が出来る様になったら、

世の中は統制取れませんよ、滅茶苦茶になっちゃって。「大悟すれば野狐身ははなれぬ、」野狐身を離れる。

「すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野孤あるべし。」

それはそうでしょう。ねぇ。悟ったらですね、赤い薔薇の花に向かった時に、金色に見える様になるって言う様な事になったら、

大変な事じゃないですか。エー。同じ様に見えるんですよ。悟る前も悟った後も。

何が違うかって言ったら、疑いが本当に無いだけですよ。


悟る前でも、赤い物に向かったら赤く見えるでしょう。私だってそうやって見えますよ、って言ってる割にはですね、本当に大丈夫か

って言った時に、揺らぐんですよ。不思議に人間て。何ででしょう。自分で見届けてないからですよ。本当に。

他人が言ったのを、生半可にそうだって思い込んでる処迄しか触れてないから。追求して行くとですね、赤い物に触れて本当に

赤く見える、大丈夫って言ってると、ええ大丈夫ですって言ってる割に、段々おかしくなるね。

もう間違いなくはっきりしてみれば、最初からまちがいない事が分かる。


大悟をすると言うと、何時でもちゃんとしてる人になるだけです。そう言う処を見ると、悟る迄は自分の中に疑いを起こすものが

残ってるって言う事ですよね。だって信じてるものを頼りにするって言う事は、疑いが起こる所以じゃないですか。

信ずる用がないんだもん。その通りこうやってなるって言う事は、信じてそう言う風になるんじゃないから。

それ位揺るぎのない確かさがあるって言う事が本質でしょう。だけどそれに向かったら必ずそうなるって言って信じていて、

かろうじて居る様だったら、それは絶対、人はやられますよ。まあそう言うな事が説かれるのでしょう。


そんな事は言うなと言ってます。そんな詰まらない話は。「しかいうべからさるなり。」以上の様に、今話して来た

様な事はと言う事ですね。そんな話は問題外だと言っております。「今百丈の一転語によりて、」一転語って

言うのは、一つのちょっとした言葉によって、人生がまるっきりコロッと変わる様な力の或るものです。それを一転語と言いますね。


禅宗のお葬儀なんかで、ご導師を勤める方が引導を渡す時に、一転語と言う様なものを、其処に来ておられる和尚さんたちから

ですね、亡くなった人に一転語を差し上げて下さいって言う様な向け方をします。そうしますと、何か色んな言葉を其処に向ける

んですけど、果たしてあれによって救われていく様になるかどうかは、非常に危うい。


「先百丈五百生の野狐たちまちに脱野狐すといふ、この道理あきらむべし。」一言声を掛けたら、五百年狐の身

になってたものが、コロッと変わるって言う様な事を、この道理はっきりさせなさいって。疑いが取れるって言う事でしょうが。

疑いが取れたら、一変に変わるのでしょう。


さっきのおばちゃんの話なんかだってそうでしょう。あれだけで一変に変わるのでしょう、人生が。今まではつまらない生き方して

来たんでしょう。事ある毎に、何か自分の中であらぬものを描いて生きて来たのに、本当にただその通り聞いてごらんって言った事

を実行したら、その通り変わるんだもん、良いじゃない。この通りじゃないですか。


「もし傍観の一転語すれば傍観脱野狐身すといはば、従来のあひだ、山河大地いく一転語となく、おほくの一転語しきり

なるべし。」
傍らに居る人がですね、声を掛けて、もしそれによって何かが起こるんだったら、手当たり次第そう言う風に

変化してるのじゃないか、って言う様な言い方をされているのでしょう。

「しかあれども従来いまだ脱野孤身せず。」本当に一転語によって変わるって言うのは、言葉、言葉を発した

から変わるんじゃなくて、その言葉によって、自分の従来の見解、そう言うものが本当に落ちてしまう。

ただその響いてる様子だけにこうやって居るって言う体験をするから変わるのですね。


お釈迦様だって、今まで何十年となく暁の金星は、天気が良い限りは、見て来たんじゃないですか。だけども、ある日の金星に

触れた時初めて悟ったって、どう言う風になったのでしょう。それは金星に触れてる自分の様子に用があるんじゃないですか。

金星に用があるんじゃなくて。


それは一言いえば、今までは向こうにある星を、ここに居る自分が常に眺めてた位の見方しかない。ところがこれを(自分)を

すっかり忘れてしまう位の触れ方があるじゃないですか、見てて。星の様子だけが出て来る位、自分の見てる気配がすっかり無く

なる位の時節って、人間にはあるでしょうが。皆さん、無いですか、色んな生活の中で。


全然違うでしょう、そう言う時の様子に触れてみると。自分が眺めているのと。

或いは自分が聞いているのと、自分が居ないで(自我意識が生じていない時)実際にものが展開されてるだけの様子とか。

虫が鳴いてる様子がその通り、虫が鳴いてる通りの声が響いてるだけの中に、こうやって聞く人が居ないで虫の音だけが響いてる

様な、そう言う様な聞こえ方がする時、体験してませんか。


如何いう事なんですか。今までは自分が居て、向こうで虫が鳴くと聞こえると思ってたでしょうが、違うでしょうが。そんな事用が

ない様になってるって事、それで気がつくでしょう。自分が聞いてる筈なのに自分が何処にもいない、虫の音がしてるばかりだっ

て、何だろうって、不思議な世界だな。少なくともそう言う事があるでしょう。ねぇ。コロッと変わるって事でしょう、それ。

自分の見解が外れると。


「いまの百丈の一転語に脱野孤身す。」たまたま百丈禅師が不昧因果と言われた事によって、何故かコロッと

従来のものが取れてしまった。そう言う処にこの方が触れたのでしょう。

「これ疑殺古先なり。」いにしえの人のこの先輩達のね、言ってる事疑うと言う事が一切無くなる。

ああ本当に自分が、自分の見解が取れるって言うとこんな風になるんだって言う事が、自分でもはっきりするじゃないですか。


「山河大地いまだ一転語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。」

山や河や大地に私達が触れてもですね、従来の自分の考え方からすっかり離れる、そう言う時節があるでしょう。

生爪をはがした痛さによって悟った人がいる。竹薮に石が飛んでいって音がした。その音によって悟った人がいる、桃の花の咲き

匂う中に佇んでいて、その桃の花が散っていくのに触れて悟る人がいる、本当に山河大地、ありとあらゆるものが私達を救って

くれる一転語として活動してるんでしょう。何でそうなるか理由も何も無いよね。


不思議なものだね。悟るって。自分の本心にこうやって触れる。こちらからその様になろうと思って、努力してやったら絶対に行き

着く世界ではない、と言う事が言える事でしょう。何もしない世界って言うのは、人が自分で何もしないようにしようと思って作れる

世界じゃないでしょう、ね。言葉はよく知ってるけど。何もしないって言う世界はですね、人が作るんじゃないですよね。

少しでも作り事が自分の中にあったら、何もしない様子は絶対に触れる事が出来ない。


なのに教えるとですね、ああ坐ってる時余分な事を、考え事が出て来ても一切手をつけない、流していれば良い、そのままに

しとけば良いって、受け取られる。こうやって話をすると、そう言う風にやれば良いんだって理解して帰るから、自分の中にちゃんと

した、れっきとした看板がここにあって、何時もその様にその様に行こうとする。そう言うのが修行だと思ってる。

それは持ち帰ったものがあるじゃないですか。


持ち帰る必要がないと言う事を教えてるんですよ、本当は。だのにちゃーんとそうやって持ち帰るものが有って、それを掲げて

その通りに何時も注意深くしようとしてる気配があるから、何時でも知らない内に作り事してる。

そのためにこんなに一生懸命やってるのに、どうしてすっきりしないんだろうって。


この前も終わった方が、もう二、三十年付き合ってるけど、ああって言って、言ってくれたから、どうしたのって言ったら、今まで

自分は本当に間違えた修行してましたって、言ってました。教えられたものちゃーんと理解したと思って、そう言うの持って、

その様にその様になろうとして常にいた、そう言う事じゃないですね、っておっしゃった。いやずーっとそうやって教えてた筈

なんだけどって言ったら、エーって言う位、自分の中ではまともに理解してまともにやってるって思ってるんだけど、こんなにずれて

るんですよね。これこの方分かったから、これで楽になりましたって言ってました。


一生懸命やってもどこかしっくりいかない。行く訳がないじゃないですか。もう一つの生き方を置いといて、その様になろうとする

様な事をしたら、無理じゃないですか。人が生きてる様子はさっきから何回も言う様に、もう一つの生き方なんか初めからしてない

じゃない。ね。もう一つのどッかに向かって行かなきゃならない様子なんかないじゃないですか。

それに居る用があるじゃないですか。


簡単にやると、パン!(打掌)こうやってやった時に、他の所に何か聞きに行く用が無いじゃない。それだけで

十分じゃないすか。何もしないで。っそうすると、パン!こんなにはっきりしてる。

まあそう言うな事が一杯、ここでは、狐に化かされない様にして下さい。狐の話を取り上げられた。

まあ沢山のそう言う風に遺された文献を教材にして学んで行く時、こう言う処で誤まってる事があると言う事を、道元禅師が

転法輪の巻もそう言う処を示されてるし、これもそう言う処を示されていますね。面白い巻だと思います。

その位で。ちょっと時間経過してすみません。終わります。(2018年2月分終り。続きあり。)




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  1. 2018/05/16(水) 18:58:07|
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大修行 Ⅲ

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「老人道の『後五百生堕野狐身』は、作麼生是堕野狐身(作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身)。」って

言う話ですね。エー。不落因果って言う答えをしたために自分が五百年ずーっと狐の身体になったと言う話なんですけど、

それを道元禅師は「作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身、」本当に人間がですよ、人間が何か尋ねて

ですね、間違った事を言ったら狐になったのを見たかって言ってるんだ。そんなに成ることないじゃんね。絶対になる事ないよね。


「先より野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。」そこに狐が居てですね、百丈禅師をおいでおいで

ってして、それでそこで化けたって言う事でしょう、狐に。そんな事歴史上どこにもないよね、化ける事ないよね。そんな馬鹿な事。

舞台で何かそう言う変わり身の演劇があるけども、あれは演劇であって、実際に人間が狐に化けたなんて言う事はないでしょう。

ねぇ。


「先百丈もとより野狐なるべからず。」百丈禅師は最初から人間であって、狐じゃないと言ってる。

「先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。」百丈禅師の霊魂とか心とか言う様な、霊魂とか

心とか精神とか言う様なものがあって、それが自分の身体から出て、狐の身体の中に宿ったって言う様なものの見方をするって

言う事は、全くものを知らない道から外れた人の意見だ、見解である、と。

第一自分の身体の中から、心や霊魂と言うものが飛び出して何処かに宿ったなんて言うことは一度もないじゃないですか。


心の働きって言う様なものは、この身体がなかったら出て来ないんだもんね。この肉体が無かったら、精神の働きって一切出て

来ない。これを離れて。そうなってるじゃないですか。だけどどうしても、ああ言う風に心と身体を分けて、身体は死んでも、

肉体は死んでも、霊魂は残るって。


死んだ人が何か人に災いを起こす様な事した事がありますか。ないじゃないですか。あるとすれば、亡くなった人を見た人が

自分の中でつまらない事を起こすって言う事だけじゃないですか。

それがあの人が私に災いを起こしてるって思ってるだけの事であって、別にそっちの亡くなった人が私達に苦しめる様な事をしてる

訳じゃないですよ。よーく見てほしい、そう言うの。


「野狐きたりて先百丈を呑却すべからず」ガブっと呑むって言うんでしょう。ね。食べてしまうって言ったら、

よく分かるでしょう。そうすると、この身体の中に、狐の中に百丈禅師が全部入っちゃうって言う事、そう言う事でもないって言う

のね。「もし先百丈野狐になるといはば、まづ脱百丈身あるべし、」蛇だってそうでしょう。脱皮するって言えば

見てごらん。必ず脱皮するって言うと抜け殻残ってますよ。ねぇ。

だからもし百丈禅師もですね、野狐身に変わるって言ったら、前の物がどっかにそこら辺にあってしかるべきじゃないでしょうか

って言ってる。そんな事はないって言ってるんです。


「のちに堕野狐身すべきなり。」その後にですね、一度自分自身の身体から抜けて、そしてその後に狐になる

って言う事になるんじゃないかって。入れ替わるとかって言ったら、必ずヤドカリだってそうでしょ。前に入ってた殻が有るので

しょう。抜け出して次の物に入るって言う時。ところがそう言う事が実際に行われてないって言う事は、百丈禅師が野狐に堕す

って如何いう事かって言う事を、此処で皆さんに問われています。


「以百丈山換野狐身なるべからず。」百丈山を以って野狐身に変わると言う事なのか、

「なるべからず」そう言う事でもないんじゃないか。

百丈山と言う、洪州に百丈山と言う山があって、そこに狐がすんでる訳ですけど、山を以って、百丈山と言う山をもって野狐の身と

する訳ではない。一生各自、自分自身の身心の様子だけで生涯を終わる。絶対他人と入れ替わる事はない。


「因果のいかでかしかあらん。」因果って言うものはそんな変な活動はしない。ある時人間が狐になったと。

えんどう豆の種を蒔くと、えんどう豆の蔓が伸びてえんどう豆の花が咲くって。えんどう豆の芽に茄の花が咲くと言う様な事は、

因果の道理としては無いと言ってるのでしょう。赤い物に向かった時、白く見えるって言う様な事は因果の道理として無い。

もしそう言う風な、入れ替わると言う様な事があったら「因果の本有にあらず、」本来の因果の在り様ではない。


転んだ時転ばない様になってしまうって言う様な事だったら、因果の道理が変になる訳でしょ。

必ず転んだ時には転んだ様になるでしょう。だけど、人間は転んだ時に転ばない様になったらいいな、と思う癖がある。

それがあの修行した人の力だと思ってるんですね。転んだ時に転ばない様になる。そう言う事だと思ってる。そうじゃない。

転んだ時に転んだ様になるのが、修行してる人の在り様ジャン。


それ、現実に身体のどこかが痛む時に、痛まない方がいいって思うのは誰しもの事だけど、若しその時に痛みを感じなかったら、

自分でわかんないんですよね、何処が悪いか。気がつかない。そう言う大事な事をしてくれてるんだよね。痛みって。

それだのに嫌うんだよね。痛くない方が良いって、痛い時。それおかしいですよ。有難い事なんですよ。

痛い時に痛いってのが分かるって事は。


「始起にあらず、」始めて起こるですね、始めてそう言う事が、ものが分かったらそう言う風になるか。

耳があるから音が聞こえるって学校で習って、ああなるほど耳があるから音が聞こえるんだって言う事が理解できたから、

音が聞ける様になった訳じゃないって言う方は早いですかね。そんな事勉強しなくても、ちゃんと因果の道理ってのは最初から

誰にもあるジャン。始めてそこで起こった訳じゃない。出来た訳じゃない。


昨日、何か新聞見てたら、スペインのアルタミラの洞窟に描かれている絵のことが新聞に出てた。あれが四万年位前のものだと

思ってたものが、正確に今検査したら、六万年位昔のものだって言う事が分かったって、言う風な事が出てて、すごいなーって、

六万年位前の人って、今までは原始人とか人間に変わった前だからね、そう言う人達があれだけの文化を持ってるって言う様な

事が取り上げられてました。


まああの眼ってそう言うもんだったんじゃないですか。見たらその通り、あの時代もですね、自分の前へ牛が走ってったら、

牛が走ってる様子がそのまま見えたんじゃないですか。人間が進歩して現代人に近くなったから、初めて牛を見たら牛が走ってる

様に見える様になった訳じゃないでしょう。他の動物だってそうでしょう、多分。物が見えてる内容って。

だから猟が出来るんでしょう。あとはその見た通りに、そこにこうやって描ける力があるかどうかですよね。

あれ、教えたから絵が描ける様になったのかしらんねぇ。


言語って言うのは何時の時代からか出て来たのでしょうけ。手を動かしたり、足を動かしたりする働きなんて言うものは、

随分昔からあったんでしょうねぇ。棒を持てる様になるのはどの位かな。要するに、道具が使える様になるのはどの辺からなのか

知らないけど、一般の動物だって道具使いますからね。カラスだって上から下へ落として割って食べるからねぇ。

石を使って割る様な動物だっているでしょう。人間だけが素晴らしいと思ってるけれども、大間違いだと思うんだけど。

まあそう言う風に、「始起にあらず。」


「因果のいたずらなるありて人をまつことなし。」因果の道理って言うのが、人間が生まれて来るのを待ってて、

そう言う風な使い方を、表し方をしたって言う事じゃない。人間が生まれるって言う事だって因果の様子なんでしょう。

言ってみれば。もっとひどい事を言えば、因果なんて言う事を知らないのでしょう。知らないけど、そう言う活動があるって言う事で

しょう。ねぇ。水の中に入ったのと、水から上がったのが違う様に成る様になってる訳でしょう。

それ因果の道理なんて思ってないもんね、誰も。


「たとえ不落因果の祇対たとひあやまれりとも、」祇対って言うのは向かい合ってる事ですね。

不落因果って言われた時に、向こうから不落因果って言われた時に、こうやってそこにいて、それを聞いたって言う事ですね。

「かならず野狐身に堕すべからず。」誤って、不落因果って言うものを聞いた時に、自分の理解が誤ったとしても

ですね、誤ったから狐に身体が変わるなんて事はない、と言っておられる。


やってみますか? ここで。はっきりしてるじゃないですか。ねぇ。分りますか?って言って、分りません、言う人と、分りましたと

言う人が居てもですね、分りませんて言う人が狐になるかって、そんな事はない。ただ分りません、て言うだけであって、

そのまま今の自分の様子でいますよ。


「学人の問著を錯対する業因によりて野狐身に堕すること必然ならば、」ってあります。ものを学んでる人、

お互いそうですね、今学んでる訳ですが、その時にですねぇ、尋ねた時答えてくれたものに触れて、自分が間違って受け取った時

に狐になるんだったら、そう言う事が間違いなくあるんだったらって、「近来ある臨在・徳山、およびかの門人等、

いく千万枚の野狐にか堕在せん。」
もうそこら中、狐だらけになっちゃうって言ってるよ。

道元禅師って中々ユーモアのある人だねぇ。本当に面白い。因果の道理がそんな風にはならないって事言いたいんでしょう。

間違ったから人間から狐に変わってしまうって言う様な事はない。突然変異ってあるのかしらね。


「そのほか二三百年来の杜撰の長老等、」ものがよく、はっきり学べない、いい加減な人達ですね、

「そこばくの野狐ならん。」この三百年の間だって、そう言ういい加減な生き方をしてる人は、皆狐になっちゃう

んじゃないかって。もしそう言う事だったら。ところが何処にもそんな風になった人は、道元禅師、居ないって言ってるんですね。

見回してみても。この二三百年。

「しかあれども、堕野狐せりと聞こえず。」聞こえずって言うよりも、実際に人間が狐になったって言う事が

ないって言った方が早いじゃないですか。一応ちょっと遠慮して聞こえずって言ってる。


「おほからば見聞にもあまるべきなり。」本当にそこら中でそう言う話がされてるんだったら、何処でもそう言う

風な事に出会うだろう。だけども一向に人間が狐に変わったって言う様なものは、触れた事がないって言ってるのでしょう。

「あやまらずもあるらんといひつべしといへども、」面白い言い方をするんですね。これは人間のものの考え方の

上での話でしょう。実際には人間が狐になったって言う様な事はないにも拘らずですね、そう言う風な間違ったものの受け取り方を

してるって言う事でしょう。


「不落因果よりもはなはだしき胡乱答話のみおほし。」不落因果と言う事を聞いて、その真意を受け取るのを

間違えた人よりも、もっと滅茶苦茶な話じゃないかって、それは。人間が狐になるなんて話は、取るに足りないじゃないかって。

厳しく詮議しておられる。「仏法の辺におくべからざるもおほきなり。」こんなものを取り上げる事自体が

変じゃないか。


だけどもこの百丈野狐の話って言うものを、近来の禅僧達が説いてるのを聞いても、こう言うものに対して、道元禅師の様な指摘

をした人は殆んど聞いた事がない。と言うのは何をこう言うものを読んだ時に勉強してるんだろうね。この後にも出てくるけど、

狐の葬儀をするのに、お坊さんの儀礼を以って葬儀をするなんて言う事は有り得ないと言っておられる。道元禅師。ねぇ。

まあ色んな事が出て来ますよ。


「参学眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。」未だ眼が具わってない人は、わきまうべからず。

本当のものの見方が出来ない人はって言っておられる。自分の目で確かめてみればいいじゃないですか。嘘を言ったって、

言ったらその人が何か狐になったなんて居ますか。そんな事はない、嘘を言っても。「しかあればしりぬ、あしく祇対するに

よりて野狐身となり、よく祇対するによりて野狐身とならずといふべからず。」
ちゃーんと向き合ったから野狐に、

狐にならずに、いい加減に向き合ったから狐になったって、そんな事じゃないじゃないかって言ってます、ね。


本当には私達は迷っても悟っても変わらないじゃないですか、自分て。エー。迷ってる自分も悟ってる自分も変わらないですよ。

二つある訳じゃないですよ。迷ってる時の自分、悟ってる時の自分て二つある人なんか居ないし。

どちらでも自分自身の様子です。


そっから一歩も抜け出さない様になってるんです。だから良いんでしょう。

これをどっか置いてといて、抜け出してどっか行っちゃったらどうするの。エー。時々家に、自分の帰る身体を持ちに帰らなきゃ

ならないじゃないですか。そんな人は居ないじゃないですか。

何時もこの身体と一緒に生活して、それ以外に要らないじゃないですか。そう言うのよく見たらわかる。


「未具眼はわきまふべからず。」眼がはっきり具わってない人、ものの見方がはっきりしない、そんな人居ない

でしょう。皆眼を備えてるのでしょう。自分の眼で見てごらん。一本の花だって、枯れたら他のものに成るんじゃないでしょう。

どうですか。咲いてる時の花と、枯れてる時の花って言うんだけども、さっきまで花がちゃんと咲いてたのに、今枯れたって

言ったら、他のものになるんじゃないでしょう。ねぇ。そのものの、どちらも様子なんでしょう。


「この因果の中に、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につゝめる真珠あるべきなり。」

言ってみれば、皆さん方が考え方で取り扱っている自分の様子から離れて、真実の自分の様子にこう触れてみると、ああ何だ

最初からこんなにちゃんと自分の様子として生きられてた、って言う事に気づくって言う様な事でしょう。そう言う事じゃないですか。

勝手に、自分の今の様子に目を向けた時に、自分でつまらない評価をして自分を虐げてるんでしょう。陥れるんでしょう。

つまらないものの様に。それでどっかで、素晴らしい教えを聞くと、じゃあ私はつまらないから、そう言うものを聞いて勉強して

取り入れて、もっと立派な人に成りたいって、そう多くの人が思うんでしょう。それは違うのでしょう。人間が立派になるって

言う事は、自分の素晴らしさに気づいて、それを十分に使いこなせる人になった時に、人は成長するんでしょう。


今回のオリンピックなんかの見ても、皆そうじゃないですか。他の人の身体で何かやった事一つもない。自分が自分で体験した

中で、悔しいと思った思いを糧にして、自分の至らない処があればそれを克服して行くんでしょう。

自分の、どこが自分の欠点かって言う事が自分で先ず分らなければ、何処を手をつけていいか分らないじゃないですか。

だけども有難い事に、自分自身の事を自分自身でこうやって触れてると、何処が力が無い処か、何処が足りない処か皆教えて

くれるじゃない、自分で。それが分ったら、それをちゃんとやってったら、少しは今よりは良くなるのでしょう。


その時にもう一方では、しんどいなとか、やりたくないなとか、もうこれ以上やれないなとかって、自分の考え方が出て来ると、

その自分の考え方で伸びていく力が失われる。或いは奪われる、押さえつけられる、言う様な事も、これが自分の中に起きてくる

考えが自分をこんなにつまらなくしてる、って言う事を良く知ってるでしょう。


この束縛が自分でとれると、これもっと自由に動くものじゃないですか。現にそう言う人は沢山育ってますよ。考え方を離れると、

いかに人間は自由になって伸び伸びとして活動出来るかって言う事を、如実に体験してる人は一杯居ますよ。

自分の考え方が自分を縛るんですよ、動けない様に。底知れない力を持ってますよ、人間て。分らないもの、どうなるか。

色んな縁に触れてどんなにでも成って行く。


その色んな縁に触れた時に、ふっと自分の中の考え方が起きると、ちょっと初めてだから止めようか、いやそれは僕には出来ない

かもしらん、そうやっちゃ皆大事な触れ合いをですね、自分で壊して行くじゃんね。で、それが他所の人に廻って行って、それを

受けた人が成功すると、ああ最初私の処へ来たんだけどもって言って残念とか思うけど、受ける力が無いんだもん、しょうがない、

自分で。恨んだってしょうがない。


まあ兎に角面白いですよ。そう言う処に、この中に包める真珠が有るって、素晴らしい各自自分自身の中の、自分自身の真相に

触れるって言う事は、当に隠れた真珠を戴く様なもんでしょう。それをお悟りを開くって言うんじゃない。自分自身の事に触れて、

自分自身の内容を自覚する事によって、そんなに素晴らしい人生に変わって行くじゃない。

でこれを完成させてくれるのは自分以外にないんだからしょうがないね。他の人が一切手を出してやる事が出来ない。


だから修行って言うのは、人から強いられてやる様なものではない。どうしても自分でやらざるを得ない。もの一つ見るんだって、

他人が見たんじゃ、見たことにならない。音楽一つ聴くんだって、他人の耳で聴いたのでは聴いた事にならないんだもん、

しょうがないじゃない。この身でやるしかない。この身でやると、たちどころにその事がその通りに味わえる様に出来てるから、

良いじゃない。全部血肉になってるじゃない。


真珠って大体そう言う風にして、核を貝の中に入れると、真珠の涙って言うけども、段々あのピカピカ光る様なものが核の上に

こうやって何枚も何枚も覆われて、皆さんが大事にしてる真珠が出来る訳でしょう。痛くてしょうがないなって、貝が、中に入った

痛いなーって言うほど涙が出て、それがカバーをして真珠になると言われている。

天然の真珠の方がザラザラしてるって言う様な事も言ってる、見分けるのに。

人造の方はつるつるで綺麗なんだって、言ってます。





  1. 2018/05/15(火) 18:50:21|
  2. 大修行
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大修行 Ⅱ

音声はこちら ↓

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エー「過去学人問、『過去百丈山の大修行底人、還落因果也無』。」と読むのかな。

これを相手に道元禅師がこんな事を言っておられるでしょう。この問真にいい加減に扱ってはならない。

こう言う質問してる様子をよーく吟味してみる必要があるのじゃないか。如何してか。


「そのゆゑは、後漢永平の中に仏法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西来ののち、はじめて老野狐の道より過去の

学人問をきく。」
中国の歴史を見るとですね、こう言う事があると言うんでしょう。

年代ですね、後漢の永平十年、この頃に、そのインドの方々が来られて、経典が中国にもたらされた。仏法東漸ですね。

インドから中国に仏典が運んで来られた。その名前も下に出てますけど、摩騰伽、竺法蘭とかって言う、まあそう言うインドの

学僧が中国にですね、仏典を運んで来られたので、中国に仏教が伝わったと言う事ですね。


それから、もう少し時代が下がると、梁の時代に菩提達磨と言う方が、インドの坊さんですね、お釈迦様から二十八代目の正統な

仏法の受け継ぎ手になった達磨大師が中国に渡って来られたって話を此処に挙げておられる。

その後に、今の今日読んだ百丈山大智禅師ですね、の話が取り上げられてると言う事です。


「はじめて老野狐の道より過去の学人問をきく。」こう言う問答の話がそののちに初めて歴史の中に出て来た、

残った。先ずそう言う事ですね。この前は、「これよりさきはいまだあらざるところなり。」と言う事は、

時代的に見て、その前にはこんな事が問題にされた事が一度もないって言うんですね。


「しかあれば、まれにきくというべし。」皆さんだってそうでしょう。こう言う所に来て、正法眼蔵を聞いて、

道元禅師が日本にお生まれになって中国に行って、如浄禅師にお会いになって真意が伝わる迄はですね、日本にこう言う教えは

何処を探してもなかったんですよ。聞く事も出来なかった。触れる事も。それが有難い事に、大先輩のそう言う方がこう言う事を

体験して、その体験した上で確固たるものを、こうやって文言に遺してくれた。それがあるから、今日こう言う事に触れる事が

出来る様になったんでしょう。


稀に、ここでは聞くといってる、稀に見るですね。現存する真筆本て言うのだって、そんなに沢山ある訳じゃない。真筆本と言うのは

道元禅師が自ら筆を下ろして書かれたものです。それは同じものありませんよ。各巻で。

で当時の事を考えたら、それが日本の中に伝播して広がって行くのに、どうやって広がって行ったかったら、実物のものを

見せて頂いて、お借りして写経するのでしょう。そうすると二冊目が出来る。エー。

今の様に、こんな岩波とかどっか行くとね、千円位で売ってる様な時代じゃないんですよ。本当に、その一冊に出会う事自体が

大変な時代じゃない。誰が持ってるかわからん。で、大事にしてるから、いい加減な人には見せない、貸さない。

借りるにしても日限が限られる間にちゃんとして返さなければならない様な中で。

だから写経をした正法眼蔵だって、全国に何部もないですよ。


江戸期になって初めて、正法眼蔵がこの円通寺さんを中心にする一門の中で、玄透即中と言う方がおられて、

その方が初めて幕府に掛け合って、正法眼蔵が印刷されて世に出された。ここ円通寺さんはそう言う流れの中の寺です。ねぇ。

そう言う事を思うと、今は幸せですね。幾らでもある。何にも自分で苦労しなくても、こうやって読める。

まあそう言うな事をちょっとこう挙げてあるね。


「大修行を摸得するに、これ大因果なり。」どうして自分がそう言うものに、本当に触れる事が出来たかって言う

原因と結果と言うものは、測り知れないよね。如浄禅師に道元禅師がお会いになるんだって、もう一年位時間がずれてたら、

如浄禅師は亡くなってるから、中国に行っても会えなかったでしょう。お互いそうじゃないですか。

色んな人と出会って、色んなものに出会う事を考えても皆そう言う事で、どうしてそうなるかって言って、測り知れない内容を

持ってるじゃないですか。


「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、」円因満果って言うのはですね、パン!

音を出すと聞こえますよね。ねぇ。音を出すって事が因じゃないですか。聞こえるって事は果じゃないですか、音が。

それが二つある訳がないでしょ。因があって果がある訳じゃない。パン!こうやったら、いきなり音が、

音が出たら、音がいきなりある。歩くって言う事が原因。そうすると歩いてる様子がいきなり其処にあるよ。歩くって言う事で、

いきなり歩いてる様子が結果ですよね。って言う様な事を円因果満って言うじゃない。


人間の因果論て言うのは、原因があって結果があるって言うから、時間がずれるじゃないですか。段々あとの時間になると、

そう言う事が出て来ると思ってるっじゃないですか。そんな事はないですよ。同時ですよ、因も縁も。満ち足りてます。

音がしてから聞こえるって言うんだったら、ずれるじゃない。パン!そんな事ないでしょ。有難いね。

人の其処に介入する余地がないでしょ、自分の何かを。


音がする時、パン!聞くのに、一つも余分なものがその中に入れない様になってる。

やってみますよ。何か音がする間に、自分の何かを入れて聞こうと思ってやって下さい。良いですか。パン!

出来ない。これ位余分な事をしないできちっとした生活を皆さんしてるじゃない。ずれない。

ここに皆さん着眼する必要があるじゃないですか。これからそう言う立派な生き方をしてる人になるんじゃなくて、

皆そう言う風な生き方をしてるじゃないですか。


こうやっただけで、皆その通りに見えてるでしょうが。エー。暫くして見えてくるって、そんな事はない。そんな事はない。

もっと酷い事を言えば、見る前に皆みえてるじゃない。聞くって言う事は、先に音があるんですよね。エー。本当は。

こう言うの面白いですね。これが先ず一つじゃない。


「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、」落ちるとか落ちないとか、

そうなるとかならないとか言う様な事はないって言うんです。パン!その様に聞けるとか聞けないとか、

一切ないじゃないですか。上手く行くとか行かないとか、否応なしそう言う風になってるんでしょ。眩ますとか眩まさないとかの道に

あらず、はっきりするとかはっきりしないとかって言う様な事じゃないじゃないって言ってる。


他方でやってる会にですね、二月二日の日に行ったんですけども、二月の二日の日に行ったら、今日私の誕生日だって言う子が

いた。小学校六年の女の子。で会が終わって九時半位かな、夜、和尚さん聞きたい事があるんだけど良いって言うから、

どうぞって言って話した。去年の九月から来てるから、九、十、十一、十二、一、もう六ヶ月になる。

物凄く面白いって、何時も来て聞いて。その中の一つでこんな事言ってた。頭が良いとか悪いとかって言うけども、頭が良いとか

悪いとか関係なく、その通りに向かうと見えるねって言ってました。エー。面白い子でしょう。

その通りに聞こえるって、頭が良いとか悪いとか関係ない。学校でそう言う事教えてくれないって、(笑)言ってました。

はじめは親に連れられて来たかと思ってたから、何、お父さんかお母さんが行ってきなって言って来たの?ったら、違うって。

自分で来てる。でもお母さんが何時も居るから、どうしたんだろうなと思ったら、夜遅い外出は小学校の子は禁止になってるから、

親が付き添わないと出れないと言うので、親が来てる。


面白い。子供に、そんな小さな子供に、よく分かるねって、大人の人達が言ってます。分かるの当たり前でしょう。

なってるんだもん、そう言う風に。この通りでしょう。「円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、眩不眩

の道にあらず。」
そう言う風に皆なってるじゃないですか。

子供だったらそんな風にならないんじゃなくて、子供も大人も関係ない。


「利人鈍者を選ばす、」何とかあるじゃないですか。普勧坐禅儀、どっかに。「上智下愚を論ぜず」そう言う普勧坐禅儀にある。

本当にそう言う風に私達はなってるじゃん。

だけども知らないと、頭が良くないと勉強できない、修行できないと思ってるかも知れない。正法眼蔵なんか頭が悪い人なんか

読めないじゃんて思ってるかも知れない。要らん事じゃんね。

こう言う事が、パン!正法眼蔵を学んでるって言う事じゃん。ね。

自分自身の本当の在り様に触れるって言う事でしょう。


次行きますよ。「『不落因果』もしあやまりならば、『不昧因果』もあやまりなるべし。」本文を読んだ時にですね、

昔迦葉仏の時代にこの百丈山に住んでた老人がですね、出てくるんだけども、誰かに因果に落ちるかどうかって尋ねられた時に、

不落因果って答えたら、その人が五百年狐の姿になって過ごしたと言う様な話がずーっとさっき読んだ中に書いてある訳でしょう。

それで是非今度、今大智禅師あなたがここの百丈山に住職になったから私を救って欲しいって言って言われた時に、

今度は大智禅師が不昧因果っておっしゃったら、それによって狐の姿をしてたものから解き逃れて、まともな人間になったと言う

様な事かね。


そう言う様な一連の話がさっき読んだ中にある訳ですね。それでそれを受けて、こう言うな事言ってる。答えとして不落因果だと、

そうやって狐になっちゃったから、あれが若しも答えが間違ってたのかな。それが若し間違いだったら、後で百丈大智禅師の

言った因果を昧まさないって言う方だって同じじゃないかって言ってるんですね。


私達がものを悟るって言う時にですね、その文言を読んでその意味合いが解って悟るって言う事じゃないですよ。

それは理解したって言うだけですよ。ああ因果に落ちないんだ、ああ因果を昧まさないんだって言う風に理解しただけであって、

悟るって言う事はそう言う事によってじゃないですよね。


六祖と言う、慧能と言う方は、山の中で薪を集めて街に背負って行って、それを売っては何がしかのお金に代えて生活をしてた。

そう言うある日、町の中で「応無所住 而生其心」って言って、托鉢のお坊さんが金剛経の一節を読んでるのを聞いた時に

悟ったってなってるんだけども、これだってですよ、何処にもくっつかないで活動してるって言う様な意味ですけど、

そう言う事が文言を聞いて解ったから悟った訳じゃないですよ。


或いは無門和尚が学人に尋ねられた。犬にも仏性が有るか無いか、「無」って言って、あ無いんだってそうやって理解して悟った

訳じゃない。「有」って言って有るって、そうやって理解して悟った訳じゃないですよね。悟るってそう言う事じゃないですよね。

燃えてる火に手を突っ込んだ時に、あ、火は熱いんだって分かって理解出来て初めて、熱くなるわけじゃないじゃないですからね。

エー、そう言う事でしょう。知ってるからね。熱いって言う事知ってるから、そう言う風に理解するんだけど、

そんな事で火に触れた時の様子が分かる訳じゃないじゃないですか。

熱いとか何とも言わないんだけど、こんな風になっているんですよ。まあこう言うな事が挙げてある。


「将錯就錯といへども、堕野狐身あり、脱野狐身あり。」だって一つの物にこうやって触れてですよ、皆さん方、

たった此処に一つの物があるんだけど、これに触れた時に迷う人とはっきりする人とに別れるじゃないですか。物は一つですよ。

これが仏法の真意ですよって言って、こうやって出す。エ、茶碗じゃないかって、何処に仏法の真意があるって、

何を言ってるんだと分からない人と、ああそうかって分かる人いるのでしょ。この通りでしょ。

一方は狐になる、一方は狐にならずに居れる、そう言う事ですよね。頭ポンと叩かれても、腹が立つ人と立たないでいれる人が

いるじゃないですか。大事な物持ってて落として割った時、物凄く後まで悔いる人とサラッとそうやって生きていかれる力のある人と

いるじゃない。正にそう言う事なんですよね。何でそうなるんだろうねぇ。エー。


それ自分自身の事だから、どうしてそう言う風に違いが分かれるかって言う事でしょう。勉強する必要があるでしょう。

この自分自身の上でそう言う事が起きてるんだから、自分自身でそれに触れたら分かる筈じゃないですか。

他の人の身体の中でやってるんだったら探せないけど、自分自身の上でそう言う事が起ってるんだから、自分自身の様子に、

こうやって触れてれば、何処でそう言う事が起きてるか分かるでしょう。


それが皆さんが修行するって言う事でしょう、今。お店に入って行って、其処にある品物をこうやって取って籠の中に入れる。

万引きと言う行為があるけども、何処から線が引かれるのですか、万引きって。籠の中に入れている行為は別に万引きとは

言わないよね。でもよーく見てみると自分自身がよく分かる。ただそのものをこうやって籠に入れてるだけでない。

先ずね、万引きする人ってね、そこからもう違ってるよね。


見てれば同じ様に籠の中に入れてるだけなんだよ。もっと酷い事になると人の目を掠めて外に出て行く訳でしょ、お金払わずに。

だから戦々恐々としてやってるよね。それを出来るだけ人に気づかれない様にやるのはプロだね。でもプロでもどんなプロでも

出て行く時にお金を払わずに持って行くって言う事を見逃さない人たちも居るからね。


まあ色んな場面で行為として同じ様にやってるんだけど、全く内容が違うって事沢山あるでしょう。何でそっちへ行くのって、

皆向こうへ行くからって、そう言う人もいるじゃないですか。最初の人はちゃんと自分で目的の意識があって向こうに行ってる

んだけど、大勢の人がそっちへゾロゾロゾロゾロ歩いてると、他の人も何故かそっちへ行ってる。

何でそっちへ行くのって、皆あっちへ行ってるからって。何だってこの人、こんな人生でいいのかって思いませんか。


「『不落因果』たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦牟尼仏時にはあやまりにあらざる道理もあり。」

同じ言葉だけども、その触れた時、その人の様子によって、人を救う言葉にもなれば人を苦しめる言葉にもなる。

これも日常茶飯に皆さんやってる中で気づいてるでしょう。何してるんだ!(大声で)って、怒られたと思う人もあれば、

その事によって命が救われる人もいるじゃんね、そうやって声かけられて。

不思議だね。良いとか悪いとか、その言葉が正しいとか間違ってるとか、一概にそんな評価の出来るものじゃないよね。

因果って言うものは。


「『不昧因果』たとひ現在脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり。」

お釈迦様のご在世の時は、不昧因果と言われたら救われる事があるかも知れない。じゃ迦葉仏の時は、不昧因果って言ったら

救われたのかって言うと、そうでもない道理もあると言ってる。要するに、不昧因果とか不落因果と言う事によって、或る時は

救われ、或る時はそれによって騙されたって言う、歴史的な経緯があるもんだから、不昧因果って言えば皆救われるのか、

不落因果って言ったら皆人は苦しむのかったら、そんなことはないって言ってるんです。


お腹の減ってる時に、普段じゃ食べられないと思ってる様なものでも、出すとですね、有難いって食べる。そう言う事があるじゃない

ですか。喉が渇いて渇いてしょうがない時、水が一滴も無い様な所へ置かれた時、僅か、水筒の中に残ってる僅か一滴でも

こうやって手に受けて、ずーっとアーって言ってお礼が言える様な状況もあるでしょう。

こんなわずかな量ではって思うかも知れないけど。量によって水の量によって人が本当に幸せを感じるか感じないかじゃない。

不思議だね、そう言うの。こんな事がざーっとここに一応先ず第一段階、道元禅師が扱っておられます。





  1. 2018/05/14(月) 17:59:12|
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正法眼蔵 第六十八  大修行 Ⅰ

音声はこちら ↓

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大修行、本文が集まっているものが非常に長いですが、一通りよみます。

「洪州百丈山大智禅師<嗣馬祖諱懷海>凡参次、有一老人、常随衆聴法。大衆若退、老人亦退。忽一日不退。

(洪州百丈山大智禅師<馬祖に嗣す、諱は懷海>凡そ参次に一老人りの有って、常に衆に随って聴法す。大衆若し退すれば、

老人もまた退す。忽ちに一日退せず。)


師遂問、『面前立者、復是何人』(師遂に問ふ、『面前に立せる者、復是れ何人ぞ』)

老人対云、『某甲是非人也。於過去迦葉仏時、曾住此山。因学人問、『大修行底人、還落因果也無。』

某甲答他云、『不落因果』後五百生、堕野狐身。今請和尚代一転語、貴脱野狐身。』(老人対して云く、『某甲は是れ非人也。

過去の迦葉仏の時に、曾て此山に住せり。因みに学人問ふ、『大修行底の人、還た因果に落つや無や。』某甲他に答へて云く、

『因果に落ちず』後五百生まで、野狐の身に堕す。今請すらくは和尚、一転語を代すべし。貴すらくは野狐の身を脱れんことを』)


遂問云、『大修行底人、還落因果也無。(大修行底の人、還た因果の落つや無や)』。

師云、『不昧因果(因果に昧からず)』。


老人於言下大悟。作礼云、『某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例(老人言下に大悟す。礼を作して云く、

『某甲已に野狐の身を脱れぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡僧の事例に依らんことを』)


師令維那白槌告衆云、『食後送亡僧』(師、維那に令して白槌して衆に告して云く、『食後に亡僧を送るべし』)

大衆言議、『一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是』(大衆言議す、『一衆皆安なり、涅槃堂に又病人無し、

何が故ぞ是の如くなる』)


食後只見、師領衆至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。(食後の只見る、師、衆を領して山後の岩下の至り、

杖を以て一との死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり)


師至晩上堂、挙前因縁(師、至晩に上堂して、前の因縁を挙す)。


黄檗便問、『古人錯対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇汁麼』(黄檗便ち問ふ『古人の一転語を錯対する、

五百生野狐の身に堕す。転々錯らざらん、箇の汁麼にか作る合き』)

師云、『近前来、与你道(近前来、你が与に道はん)』

檗遂近前、与師一掌(檗、遂に近前して、師に一掌を与ふ)。

師拍手笑云、『将為胡鬚赤、更有赤鬚胡)』(師、拍手して笑つて云く、

『将に胡の鬚の赤きかと為へば、更に赤き鬚の胡有り』)



ここまでが、まあ百丈野狐と言う一つの公案になってる本文です。エー、私も十五、六の時、これ見るのに、

暗記するのに長いなあと思って、そう言う昔の思いが、ありますね。一回で暗記出来なかった。

だから、これをお師匠さんの前に行って、この本文をずーっと最後まで間違えずに諳んじて読むと。

要するに出題がわからなければ答えなんか出る訳がないと言うことですから。


どう言う事を聞いてるかって言う出題をちゃんと覚えて行って、それに対して自分の見解と言うものを師匠に提示するって

言うのが、まあ参禅の仕方なんですよね。だからあの頃思い出します。中々覚えられない。何回行っても途中で詰まると、

チリチリ(鈴を)振られて、帰りなさいって相手にされない。そんな時代でした。


長いね。結構ね。だからね、覚えるのに。で余所にもこの百丈野狐の話を教材にした眼蔵の何巻めかにあるとおもいますが、

ここはまあここの扱い方があるので、それに従っていきます。で、ここから道元禅師がこれについてご提唱なさってる訳ですね。

だから前半の今読んだ処はそのままにして行きますよ。


「而今現成の公案、これ大修行なり。」今取り上げたものが、大変な内容を含んでいる。

しっかりその真意を受け取らなくちゃいけないと言う事ですね。「老人道のごときは、」老人が言う、

お話をする様子は、って言う事ですね。

「過去迦葉仏のとき、洪州百丈山あり。」迦葉仏の時にも百丈山というものがあった。

「現在釈迦牟尼仏のとき、洪州百丈山あり。」過去の迦葉仏の時にも百丈山があったけども、今お釈迦様の

時代になっても百丈山がある、洪州に。


これがまあ、皆さんの上で言えばこの円通寺があるんですね。百年前も多分あって、今日もこの円通寺さんがあると言う事で

しょう。昨日の自分もあれば、今日の自分もあると言う事でしょう。


じゃ次の所行くけども、「これ現成の一転語なり」とありますけども、どう言う処で見て取らなきゃならないかって

言うと、昔の自分の様子と今の自分の様子って言うんだけども、二つあるかって言ってるんですよね、エー。

迦葉仏の時に洪州の百丈山があって、お釈迦様の時代も洪州の百丈山がある、けどその洪州の百丈山と今の百丈山と言う

二つの様子があるのか、って言う様な事がここに問われていますね。


「かくのごとくなりといへども、過去迦葉仏時の百丈山の百丈山と現在釈迦牟尼仏の寺の百丈山と、」って

ここにありますね、「一にあらず、異にあらず、前三々にあらず、後三々にあらず。」ここが皆さんの先ず今日

最初に勉強する箇所です。これがはっきりすると、先ずすっきりするのでしょう、ね。

一つにあらず、二つにあらずって言うんですよね、「一にあらず、異にあらず、」って言う事は。

「前三々にあらず、後三々にあらず。」って言う事は、沢山ないと言う事です。じゃどう言う風にあるかって。

何時も耳を傾けてくれている方々だから、敢えて言う必要がないと思いますけども、本当に誰しも今の在り様以外に無い。

疑い様の無い事実でしょう。


だけどもう一つ言っておかなきゃならないのは、考え方で取り扱うと、過去の時の自分、今の自分て二つも三つも色々ある様に

思うじゃないですか。思いませんか。小さい頃の自分と今の自分。だけども実際自分の今こうやってる様子に、こうやって触れて

みた時に、過去の自分の様子が何処にあるんでしょう。思い出の中に、あの頃はああだったって言う話をしてるだけの話であって、

それ自体が今ここで展開されてる内容でしょう。一杯無いでしょ。


そう言う事に関して、どうですか。これが先ず勉強、修行する時に大事な着眼点でしょう。で、考え方をちょっと離れてみると、

ものの真相がはっきりするじゃないですか。何時でもこうやって今活動してる様子だけ。その今活動してる様子の中に、

過去を思い、未来を引き寄せて思う。そう言う気配があって、一杯色んな事がある様に思ってる。

その一つ一つの過去の話をする、未来の事を取り上げる話だって、皆今ここでやってる。その時にその事がただあるだけです。

その位明解なんでしょう。


だから道元禅師は次に、「過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、」と先ず言ってる。

当たり前でしょう、ね。これがどういう皆さん方の生活の中で影響が、或いは効果があるか、修行の効果があるかったら、

この事が分かる事によって、おそらく殆どの事が、もう解決する。じゃないですか。


皆さんがごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、色々毎日生活してて複雑な感じがあるのは、この確かさに居ないからでしょう。

修行するって言ったって、何処でやるんですか。この生身の自分の身体の今在る所でしか、この身体を離れてどっかで修行する

なんて言う事はないでしょう。無理でしょう。

今この生身のあるここで、ここでこの自分自身の身心の様子で修行する以外にないじゃないですか。

そうすると、何処へも向かう用が先ず無いじゃないですか。尋ねて行く用がない。それだけだって随分楽になるでしょう。


皆さんどっかへ尋ねて行かないと、本当のものに出合わないと思ってるのでしょう。本当の自分は今ここに居るのでしょう。

他で生活してる自分なんか居ないのでしょう、何処にも。今こうやってる自分の様子以外に自分の生活してるって事はないので

しょう。これが分ったら、これで大修行でしょう。ああ何だぁって言う位。


過去の過ちが思い出された時に、それを今も悔いていて、あの時にあの人にあんな事言っちゃって、失礼だわね、

気になって気になって死ぬに死ねない、と言う様な老人がこの前いた。どうしたら良いんですか。

昔に戻って行って、そこを手を付けて来るんですか。そんなん出来る訳ないじゃないですか、先ず。

ここでどう今あるかって事が問われてるのでしょう。


で、お話を聞いてると、さもそう言う事が昔あったらしい話を一生懸命してるけども、今何処にそうやって相手がいるのか、

あるいは悔ゆる対象が何処にあるかって言うと、その人はただそう言う話をしてるだけですよ、ここで私に。

自分がそう言う話をしていると、あたかもそこにそう言うまだ片付けなきゃならない問題がある様に、自分が喋ってる事によって、

そう言う風な認識を起こしてる。実際には何も無い。この事が分るとあって、これで済む事でしょう。


この前酷い事を言われて頭に来て、じっとしていられない、如何したらこう言うモヤモヤしてるの治るんだろうとか、

そう言う質問が来るじゃないですか。でも今モヤモヤしてるって言ったら、そう言う気持ちで喋ってるだけの話であって、

何も無いじゃないですか。殆どそうでしょう。


しかもですね、自分自身の、今本当に生活してる生き様そのものを取り扱って質問する人なんか、百人中一人も居ないな。

殆ど自分の頭の中で思い起こした話をしてるだけ。そんなものは修行の対象にならないでしょうが。

仕事一つ取り上げてみればよく分るじゃないですか。ここに穴を開けるって言う様な仕事がこうある。(机を示す)

これを放っといてですね、何処で穴を開けられるんですか。エー。先ず道具を持って来なきゃ、あすこにあるかな、そんなので

穴開きますか。穴を開けるったら、ここへただこうやってやるだけじゃないですか。

ところが手を付けないの、穴を開けるって事一つだって、こう思う事ををして。


それ位質問してる時に、考え方の上の話だけなんだよね、殆どの人が。これでは絶対に修行にはならない。

物事を処理するって言う事は、必ずそこに処理する実物に触れて処理するのでしょう、ねぇ。そう言う風に出来てると思いますよ。


まあ兎に角そうやって、「過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉仏時の百

丈山にあらざれども」
ってあります。昔のものがここに来て、ここのものが昔にって、そう言う風な事はない。


「『曾住此山』の公案あり。」とは何時でも自分自身の真相に居ると言う事でしょう。うまく行ってると思おうが、

全然修行に成ってないと思おうが、そんな事とは関係なく何時でも自分の真相に居るでしょう。

片時も自分の真相から離れた生活した事無いでしょう。でも思いはその様に、坐ってて、今日はうまく坐れたとか今日は何か時間

がたつのが遅くてとかって、そう言う風に思ってる。思う事と実物は違いますよ。長く思えたら長くなるのかって、そんな事はない

ですよ。時間を忘れて坐ったら、ものすごく短かったって。短くなる訳じゃないですよ、何も。

そんな事があったら大変じゃないですか。


だから「『曾住此山』の公案あり。」と言う事でしょう。いつも自分自身の真相に居るのに、自分自身の真相を

本当に見る事が下手で、考え方で取り扱ってるから、折角自分自身の真相に二十四時間丸ごと離れずに居るにも拘らず、

それにお目にかかる方法さえも忘れちゃってる。それで本当の自分の在り様はどうかって、知りたいって、物凄く矛盾ですよ。

ものを知らないにも程があるって思いませんか。勉強するのに、それでは。


私達が生活して問題になるのは、何処で問題になるんですか。今でしょうが。人の話一つ耳に入って来て、人の様子一つ

こうやって目に触れた時に、何処で問題が起こるかって、自分の中に起こす一念心でしょうが。

あんな事やってる、あんな詰まらない事言って、そう言う風な一念心が、自分の中に見たり聞いたりする時に、

ここで起こるのでしょう、触れた時に。それが問題なんでしょう。違いますか。


そう言うもの自分の中で起こして、自分の中が混乱してるだけでしょう。じゃその一念心の起きる前の様子は、必ずその通りに

見え、その通りに聞こえているじゃないですか。それをそう言う風にすごすのを、大修行と言うんじゃないですか。不思量底です。

非思量です。人間の考え方でない世界です。


身近な話をちょっとしておくとですね、こんな方が最近おられた。どうですかって話をした。長い事通ってるけどって言う、

ああご苦労さんって話したんですけどね。

朝六時位に起きて散歩をして、仲間がいるから公園の様な所へ集まってラジオ体操をして、その後帰り道に池があるので、

そこの池の所に皆で行って、カワセミがいるらしくて、それをこうやって双眼鏡で見て楽しんでいるらしい。


まあ状況はそう言うことなんですが、そこに五人位のお友達がいて、仮にAさんBさんCさんとするとですね、Aと言う人がですね、

Bさんに双眼鏡あなたの持ってるの貸してって言って、借りてこうやって見ると、「よく見える」って言うんですね。

で、AさんがCさんにですね、あなたのも貸してって言って、こうやって覗き何か「よく見えないね。」

エーそれだけなの。それだけの話。


それだけの話で、この見えない双眼鏡持ってる人(Cさん)がですね、どう言う風な事になってるかというとですね。

長い間ね、気持ちよくないんだよね。気分が悪いんですよね。逢う度「よく見えるね、」あなたの貸してって。

Cさんは、私のはよく見えないって言われるだけなのに。それだけの事なんだけど、気分悪いんですね。


人がどうかじゃないでしょ。持ってる双眼鏡の倍率の違いとかレンズの明るさに依るだけの話でしょ。それなのに何か、

自分が持ってる双眼鏡がつまらないと自分まで何か馬鹿にされてる様な気配になってるんですね。

で何となくそう言う風な言い方をされる人を、あんまり快く思ってない。


こんなの物凄くよくわかるでしょう、何をやってるか。でこの人はその結論として、どう言う事を言っておられたかって、

ああこんな風にして長い人生を、こんな風にしてずーっと過ごしてたのかって言った。気づいたんです。何時も私喋ってるからね。

話してる通り、ただ聞いてごらん。一生懸命話してる通り聞いてるつもりでいたんでしょうけど、中々人間て話してる通りに

聞かないんだね。


で、そう言う事が出きた時にすっきりしたって言ってた。もう本当に何でもないんだって。一切問題ないんだよね。ねぇ。

あなたの貸してって言って、あなたのよく見えないわね。こっち貸して、こっちの人よく見えるって言う話をしてるだけであって、

何もいじめてる気配もないし、小馬鹿にしてる気配もないし、だけどふっと自分の中で余分なものを付けた受け取り方を知らずに

やってるんじゃない。これが自分を苦しめてきた。


簡単に出来る事でしょう、本当なら。だってそれ以上の事言ってないんだもの。エー。だけどそうやって想像たくましくして、

自分の中で余分なものちゃっと起こしてる。これに気づくのにこんなに年月がかかるのかって、時間。ねぇ。

まあその位でも何十年も修行して来て気がつくと、修行の効果ってあるよね。あるんですね。


一つそう言う事がきっかけになるとすべて日常の生活の中でその事が役に立つ。それだけが原因だったからですよ。

今こうやって生活してる時に、ちょっと自分の中に詰まらない事を起こす癖があった。それが何時でも色んな事を引き起こしてる

だけだ。他人が何も苦しめてる訳じゃない、悩ましてる訳じゃないですよ。


皆さんだってこう言う話をすれば、自分の事だからよくわかるでしょう。修行するってそう言う事に用があるだけじゃないですか。

初めっから真実の真っ只中に生きていて、一つも苦しまない迷わない様に生活してる真相があるにもかかわらず、その通りに

生活しないからはっきりしないだけでしょう。


じゃその通りはっきりする様に修行するのには、手をつけないんでしょう。自分の余分な事をそこにつけないって事が、

修行する上において決定的な絶対必要条件なんでしょう。エーそう言う事が公案でしょう。

目の当たりに、今展開されている公なものの在り方じゃない、誰でもが。日々の中で抜き差しならない。

他で何かする用はないじゃないですか。


だけど考え方って言うのは、他に何か一杯整理しなきゃ片付かない様な問題が一杯あると思わせるじゃんね。

だって次から次へ色んな事が思え、出て来るんだもん。こんなに沢山あると思う位、次から次へ色んな事が思い起こされるから

、それもこれもあれもって、皆どうかしなきゃならない様に思ってる。

思いと言うものは、人をそのくらいたぶらかす、その要因になるね。ものを知らないと。

でその思いは他人が起こすのじゃないって言う事が面白いじゃないですか。自分が自分の中で思いを起こして、

自分をはっきりさせなくしてる。困ってる。だから静かにしてそういう事をしないで居ると、皆気分良く生きてるでしょう。エー。


次の所へ行きますよ。「為学人道」学人をしてですね、学人の為に道うと読むのかな。上に戻って、

学人の為に言うって言うんですよね。「それ今百丈の為老人道のごとし。」ここでこれだけ長い文章の事を

こうやって読んでみましたけれども、これは昔の話をしてるのじゃないよ、って言う事でしょう。

ああ、そういう禅宗の歴史の中に、そう言う百丈山でそう言う話があったのかって言う、昔の話にこうやって思いを巡らして、

何か使う様な事ではない。今ここで一人一人がこの問題に直に向かってると言う事じゃないですか。


「因学人問、それ今老人問のごとし。」って言うのは、そう書いてあるでしょう。昔百丈山にいた老人が云々て

話じゃなくて、今ここであなた方一人一人にこう言う話がされてるって言う事だよって言ってる、勉強するって言う事を。

兎に角、この各自自分の身心と言われる、このものを借りなければどうしようもないじゃない。他のもので勉強出来ないんだもん、

しょうがない。ね。この自分自身の身心を借りなければ、どうしようもないですよ。


ストーブが有ったって、暖かみさえも感じられないよ。円通寺さんが在ったって見る事も出来ないよ。私が喋っていたって、

その喋ってる事を聞くことも出来ないよ。全部この身体でやってるんですよね。

見聞覚知って言うけれども、全部この身心を借りて、自分自身の活動の中で、物が見えたり、聞こえたり、考えられたり、

暖かみがわかったり、皆そうでしょ。一切他の人に用がない。


やってみればよく分かるじゃん。こうやって部屋の中の様子、こうやってずーっと見る時に、他の人の力を借りる必要ないじゃない

ですか。私が喋ってるのを聞くんだって、隣の人の力を借りる用がない。

自分のこの身心さえあれば、ちゃーんと喋ってる通りの事がその通り聞ける様になる。


だのに日常はどうですか。そんなにすっきりした生活してますか。何か他の人の事が、気になって気になってしょうがない

でしょうが。それだから疲れるのでしょう。単純にこのものがこのものの活動していさえすれば、それで十分なんでしょう。

修行ってだから絶対他の人の事なんかやりませんよね。


「挙一不得挙二、放過一著、落在第二なり。」一を挙して二を挙すことを得ず。一著を放過すれば、

第二に落在するなり。漢文は難しいけども、話をすれば簡単な事でしょう。一例を挙げれば、物を見る時にどう言う風に私達は

生きてるかって言うと、その物を見る時、他の物を見ないって言うだけの事じゃないですか。


ね、いいですか、やってみますよ。これを見てください(置時計を見せる)って言う時に、ここにマイクがあるから、マイクの方を

一生懸命見てる人はないでしょう。そんな事しないでしょう。これ見て下さいって言った時に(置時計)、これ見て下さいって、

これ見たらちゃんと見えるでしょう。こっち(マイク)用ないでしょう。他に色んな物があるけど。ね、一を挙して二を挙すことを得ず。

本当にその事だけがちゃーんと出来る様になってるじゃない。気は他の処へ行かない様に出来てる。


パン!聞いてごらんて言って、あっちの方でガチャガチャ音がしても、そっちの方の音を聞くって事はしない

じゃない。これ聞いてごらんて、パン!言ったら。


「放過一著、」今の様子をないがしろにすれば、必ず間違った方向に行くって言うんでしょう。

「落在第二」すって。それはそうでしょ。今の様子に目を向けなくて他の処へ目を向けたら、今の様子が分かる訳

ないじゃない。今の様子が在りながら、ふっと一念起こして、その考え方を相手にすると言う事が、一番顕著な事じゃないですか。


二に落ちる、本来そんなもの無いんじゃないですか。パン!いい音がするとか、よく分からない音だとか、

パン!そんなもの一切ついて無いじゃん。音がその通りするだけじゃない。さっきの婦人の話と同じです。

話をしてる様子があるだけなのに、それだのに言ってる通りに聞かないんだものね。それで自分の中で、

何であの人はあんな風にって、そうやって思って、段々段々自分の中が生活が変に成っていく。

終いにはあまり顔見たくないなって位に変わってくるんですよね。不思議な事です。





  1. 2018/05/13(日) 18:22:11|
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