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正法眼蔵を学ぶ

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祖師西来意 Ⅳ

音声はこちら  ↓

祖師西来意 04_01
祖師西来意 04_02
祖師西来意 04_03
祖師西来意 04_04
祖師西来意 04_05



えー、次のところ「若開口答他、(もし口を開いて他に答うれば)」と読むんですね、

「即喪身失命(即喪身失命せん)。」と。そりゃそうでしょう。最初に話した様に、一応言葉上見ると、

口で木を嚙んでぶら下がってる訳ですから、それも千尺も高い所にある処の木に、こうやってぶら下がってますから、

答えて、口を開いて答えれば、それは真っ逆さまかどっちか知りませんよ、そのまま落ちるか知りませんが、兎に角ダーっと落ちて

行くんでしょう。大体その位高い所から、崖の上から落ちたらですね、大体、ま、死ぬるね。水の中ならまだ良いかもしらんけど。


まあそんな穿った話は抜きにして、「いま『若開口答他』の道、したしくすべし。」したしくすべしって言う事は、

そう書いてある内容をよく吟味して頂きたい。そこで、こう言う表現があるって言う事は、口を開かない「不開口答他もある

べしときこゆ。」
って言うんですね。


身体と心は別のものでないって言う表現と、身と心はひとつって言うのは違うでしょう、ニュアンス。どうですか。

身心一如って言うんだけど、身体と心はひとつだって言うのと、身体と心は別ものでない。

どう言う風な、皆さんニュアンスになりますか。


口を開くって事があれば、口を開かないって言う事も、当然あると言う事ですね。じゃ口を開かない時はどうなるかって、

こう言う事を道元禅師が言う訳です。口を開かずに他に答える。皆さんだってしょっちゅうやってるじゃないですか。

口を開かず他に答えるって。全身で答えるんでしょう。口だけじゃなくて、人間て。どうですか。そう言うの経験ないですか。

黙ってるって言うんだけども、答えてるんでしょう。聞かれた時に黙ってる人が居るけど、見て取れるでしょう。

もし、黙ってたら答えてないって言って、そう言う風な受け取り方しか出来ない様だったら、つまらないじゃないですか。


いじめに遭って、あの人にいじめられるって、もし口を開いて言ったら、又いじめられるからって言って、いる子がいた時、

「お前、いじめられてるか」って言ったら、答えない、黙ってる。

それを見て利口な人は、あっ、ほんとにこの子はいじめられてるんだなって読めるのでしょう。違いますか。

痛いですかって、何も言わないんだけど、ああ痛そうだなぁってわかりませんか。本当にいろんな事がある。


「もししかあらんときは、不喪身失命なるべし。」死んじゃったら、答え出来ませんけどね。

死んじゃわない時は、そうやって生きてる人の様子として色んな様子があって、ちゃんと答えられるのでしょう。

例え口を閉じるって言う事もあるけれども、「『口㘅樹枝』をさまたぐべからず。」誰も邪魔するものないですよ、

樹をくわえるのに。口を開いてはいかん、口を閉じなければいけないって、色んな事が言われるけども、誰にもそう言う事に

左右されずに、自由に樹の枝くわえる位できるよ。それだからいいのでしょう。

それだから、只人の言いなりになってるだけじゃないのでしょう。そう言う事が出来なかったら、強制力の強い人の下で、

只、その人の言いなりになって生きていくだけじゃんね。


「開閉かならずしも全口にあらず、口に開閉もあるなり。」身体全身口って、さっきもあったけど、ここだけが

口じゃないって言って、だから、口を閉じていても答える事が出来るのでしょう。言葉じゃない言葉があるのでしょう。

無言って言う言葉もあるんでしょう。維摩の一黙雷の如し、なんて有名な言葉もある。


「しかあれば、㘅枝は全口の家常なり。」枝をむ㘅って言う様な事。この身体で、毎日色んなものにこうやって

ふれて、そのものを相手にして生きてるのでしょう、皆。そうじゃないですか。

手当たり次第そうじゃないですか、そのものを相手にして生きてるんでしょう。ちゃっと相手にして。

全身口ですから、手で握る事もあれば、耳で留める事もあれば、目に触れて見る事もあれば、鼻で嗅ぐ、それ全部こう言うことで

しょう。枝を㘅むんでしょう。えー。


それも「開閉口をさまたぐべからず。」だから自由に、一日中こうやって活動してるじゃないですか、全身で。

全身心をあげて、そのものとちゃっと触れながら、そこで活動してる。「『開口答他』といふは、」口を開いて

他に答えると言うは、「開樹枝答他をいふか、開西来意答他するをいふか。」

一応そうやって、皆さんに向けてますが。


そこで、「もし開西来意答他にあらずは、答西来意にあらず」その事を以って本当に相手に答えなかったら、

それはちゃんと相手に答えた事にならないと、こう言ってます。他のものを持ってきて答えたのでは。

身近な事をいつも使ってますけども、このお茶飲んだ時に、どんな味がしますかって言って、こうやって注いでですよ、

もう一回飲んでですよ、で、答えたら変じゃないですか。必ず、今飲んだもので答えるのでしょう。どうですか。違いますか。

それがその飲んだ時の正確な答えなんでしょう。そう言う様な事ここで出て来るんじゃないですか。

他のものなんか要らないじゃないですか。ほんと、こう面白い。


次の所面白い、「すでに答他にあらず、これ全身保命なり。」

口を開いて他に答えなかったら、何時でも落っこちる様な事無いとこう言ってるのですかね。身が守れるのでしょうね。

現実社会の中で、口を閉ざすって言う事がありますが、あれは身を守る事になりますね。黙秘権て言うのかね。

凄いものを許したねえ。あれを搔い潜るの大変ですね、

黙られると。答えを喋るまでは、少なくとも身は守れますね。何故かって、殺しちゃったら、答えを聞く事出来ないから

生かしとくんですよね。ああ言うのも面白いねぇ。


「喪身失命といふべからず。」いいでしょう。「さきより喪身失命せば、答他あるべからず。」

最初から死んでたら聞く力もない、勿論。ねぇ。樹に、樹を㘅えるって力もないでしょう。まあ、勿論答える力も無いでしょう、

当たり前の事でしょう。「しかあれども、香厳のこころ答他を辞せず、たゞおそらくは喪身失命のみなり。」

何故、香厳と言う人は、こう言う風な話をして、相手の人に答えるのかって。命がけですよ。

自分の命が無くなる事承知の上で答える。そりゃ、人を救うためでしょう。


医者だって見てごらん。必ずしもその人を手術して成功するって限らないじゃないですか。命がけですよ。あれだけの名医だけど、

あの人にやって貰ったけど死んだって。まあ、言ってみれば、傷が付くのでしょう。本人としてみれば。そうじゃないですか。

命がけでやるのでしょう。どの様にその相手から、親族や身の回りの人から言われようが、そう言う事に関係なく、何とかして

自分の力でやれるだけの事をやって、少しでも助けてあげたいって言う気持ちがあるから、執刀するのでしょう。

あれが無かったら、今日の医療の様に、医学がですね、医療が発達しないよね。


消防士が火災に遭った時、火を消しに行く。あれだって見て御覧なさい。昔から江戸の火消しと同じ様にですね、命がけですよ、

皆。あの中に入って行って。そうやって火が消せれるんでしょう。熱いからいかねぇって言ってたら、火は消えないよ。

まあ歴史の中には、そうやって本当に自分の命を顧みずに、色んな事をしてるじゃないですか。そう言う事に拠って、

歴史が変わったりしていくのでしょう。公共の。たった一人の人の力で。その様な事をよく見ますよね。

ここら辺はそう言う事でしょう。


脚注の2とか3とか、こう読んでて、「はじめから喪身失命して真実だけの境地にいるなら、他に答えると言うことも無い」、

よく読めません。何でここに、真実だけの境地に居るならって言う言葉が、ここへ付くのでしょう。はじめっから喪身失命してって、

それでいいんじゃないですか。「先より喪身失命せば」って。3番目の脚注も見てみると、よく分からない。「この喪身失命は眉鬚堕

落と同じ」って。眉や鬚が落ちるっていうんでしょう。あまりよくわからない。

本当にこうやって読んでみて、「喪身失命のみなり」って言う香厳智閑禅師の、その時の在り様って言うのが見てみると、

自分の事なんか本当に問題にしてないんじゃないですか。


道元禅師と言う方もそうでしょう。生涯生きてる間、殆ど自分の事なんか論外でしょう。どうかして、この正法、正しいものを一人でも

知って貰いたい、伝えて貰いたい、受け継いで貰いたい、そう言う生き甲斐でずーっと生きた方でしょう。

で、亡くなってこうやって何百年たっても、道元禅師の文章に触れて、それを読むと何だか全身にこう血がめぐって来る様な感じ

しませんか。すげぇなあって。本気に成らざるを得ない様な文章ですもんね。

殆どこうやって触れると、眠っていた自分の気持ちがですね、奮い立たされる様な凄さがあるねぇ。


「しるべし、未答他時、護身保命のみなり。」「忽答他時、翻身活命なり」

そう言う風な、今申し上げた様な在り方があるから、本当に生き返って来るのでしょう。翻身活命、皆がそれによって、

自分の本当に為すべき事がなんであるかって言う事を突きつけられるから、ウカウカしてられない様な日々になるのでしょう。


「はかりしりぬ、人々満口是道なり。」口に満つというのですかね。「人々満口是道」。

「答他すべし」
他に答うべしですね。更に「答自すべし。」ですね。


問う、問他すべし、問自すべし。こうやって修行するのでしょうね。他人に答えるって言う時には、自分にちゃんと答えないと、

人には答えられないよ。他人に問いを発する時、自分の中で問いがちゃんと、自分に問いかけが出来ないと、どう言う問いを

して良いか分からないよね。だから、他人に問いを発すると力が付くのでしょう。自ら人に答える力がつくのでしょう、

面白いですよ。


「これ口㘅道なり。」ですかね。口に道を含むなりって言うんですかね。「口㘅道を口㘅枝というなり。」

ここにちゃんと道元禅師が皆さんによく分かる様に残しておられます。

口枝を含むって言う事はこう言う事だって、ここに説明て言うか、ちゃんと記してありますね。

本当の事を問題にして生活してるって言う事が、皆さんが毎日生活の中で、本当の在り様がどうあるかって言う事を離れずに、

それを問題にして生活してるって言う事が、枝を口に㘅えてるって言う事なんだって、そう言う風に説明してるんですね。

ただ単にそこらに生えてる木の枝をこうやって歯で嚙んでぶら下ってる、そう言う事じゃないよって説明してくれてるんです。

これで大体良いんじゃないですか。趣旨がよく分かるでしょう。


「若答他時、口上更開壱隻口なり。」ていうんですかね。そりゃ答えようとすると、口を開いて大体やるので

しょう。「『若不答他、違他所問』」って言うんですかね、違すというんですね。これ本文の言葉でしょう。

それに対して、「なりといへども、」とかいてあります。相手に答えなければ、相手の質問した人に不親切だって言うかもしれない

けど、「不違自所問」と言う事は無い。言い切っておられますね。他人に答えが出来なくても、答えをしなくても、

自分自身の中に、その問われる事にいい加減で過ごす事が出来ないって言う事でしょう。言う意味は、自分自身の事をはっきり

しない間はですよ、自分自身で誰から指図される訳じゃないけども、四六時中そう言うもの放っといて、いい加減に生活するなんて

事出来ないって言うんでしょう。


道元禅師がそうやってお過ごしになったんでしょう。日本で勉強して、経本の結論は最初から救われてると書いてある。

で、それを以って、どうしてじゃ修行する必要があるのかって、尋ね歩いたけど、明確な答えは誰も、日本では頂けなくて、

中国に渡った。見て御覧なさい。ずーっとその事が片時も休まずに気にかかっているのでしょう。

だからこう言う人に成ったんでしょう。


人間の様子を見ると、何かこうやった時に、分からないって言う表現がありますが、あれは自分でもうそれ以上追究しないって

言う宣言をしただけじゃないですか。分かってる事、一杯あるんだけども、面倒臭いからもう分からないって言って、

放棄した人でしょう。ものを勉強する時に、分からないって言うのは。力が無い証拠じゃない。

分からないって、そんな事ないですよ。力がある人はその分からないって言う事が、勉強の主眼になってるじゃないですか。

分からないって、これどう言う事だって、それを生涯やるんじゃないですか。

そうすると、歴史に残る様な人が沢山出て来るじゃないですか。


「不違自所問なり。しかあればしるべし、答西来意する一切の仏祖は、みな『上樹口㘅樹枝』の時節にあひあたりて答来

せるなり。問西来意する一切の仏祖は、みな『上樹口㘅樹枝』の時節にあひあたりて答来せるなり。」


一言で今どうなってるかって事を何時も問題にしてるのでしょう。

今ここで生きてるこの事を離れずに、ここで色んな事が問われてるのでしょう。問題が起こるのはここだもん、しょうがないじゃない

ですか。今聞いた、今触れたもので、ここで自分自身の中に問題が起きるだけだから。外で問題が起きた事がないんだもん、

しょうがないじゃない。だから、こういうものを昔の仏祖方も皆、それを大事にして修行したのでしょう。

これで、一応終わったんですよね。


で、もうひとつ付けてある。「雪竇明覚禅師重顕和尚云、」言うんですかね。おまけみたいなもんですかね。

「樹上道即易、樹下道即難。(樹上の道は即ち易し、樹下の道は即ち難し。)」こう言う何か設定をされた話を

聞いて勉強するのは、割と易しいのでしょうけれども、この樹下の道はって言うのは、普段こうやって生活してるそのもので

学ぶって言う事ですよねぇ。樹下の道って。


じゃ、平常心これ道って言うけど、普段やってる事で学ぶったら、こうやって掛け軸に向かった時、これで学ぶのでしょう。

仏道の真意って言うものはどうなってるか。ストーブにこうやって触れて、この暖かさに触れて、真意をまなぶのでしょう。

でお茶一杯のんで、そのお茶一杯飲んでる事で学ぶのでしょう。だから難しいでしょう、その方が。

何か特殊な出題らしいものがあって勉強するのは、割とやれるんじゃないですか。だけども、日常の中で、生活してるそのもので

学ぶって言うのは、殆どの人がやらないじゃないですか。だからお坊さん達でも、修行って言うと、道場に行って、

そこで何かする事を修行だと思ってる。


皆さんだってそうじゃないですか。夜寝る時、着替えて寝るとか布団の中に入るとか、それ日常茶飯じゃないですか。

そこでどうやっているのでしょう。もうおそらく修行なんか眼中に無いでしょう。離れちゃってるでしょう、修行なんて言う事と全く。

そう言う事を見ると、樹下の道、平常心是道って言うの、割と難しいもんじゃないですか。


それで次行きますが、「老僧上樹也、」豚も、何だ、おだてりゃ木に登るって言うのがどっかにあったけど、

「老僧上樹也、致将一問来」「いま『致将一問来』は、たとひ尽力来すとも、この問きたることおそくして、うらむらくは答より

ものちに問来せることを。」
目の付け所が違いませんかって言ってるのです。

「あまねく古今の老古錐にとふ、」立派な人達が居るのでしょうけれども、最後にもうひとつ出題をしてくれ

ている。


香厳智閑禅師がこう言う話をされた最後に「『香厳呵々大笑』する、」と、そう言う様な事が、そこに残って

いますが、記されておりますが、「これ樹上道なりや、樹下道なりや。」樹の上の話か樹の下の話かって言って

おります。特別な事なのか、極普通の事なのかと言う意味でしょう。更にですよ、更に「答西来意なりや、」

その呵々大笑してる事が、「西来意、いかなるかこれ」達磨さんがインドから中国に渡って来た真意は何かって

言う事に対しての答えなのか、言うのでしょう。あるいは「不答西来意なりや、」そう言う事、全く答えてない

のだろうか。「試道看」。皆さん方、さあ答えは。ここで最後、そうやってこの巻きは終わっております。

あと時間がある人は、これに対しての各々の試みに看んだから、一言何か頂きたいとこう言う事でしょうかね。


聞きっぱなしなんだよね。それじゃあまり面白くないじゃないですか。お誕生会にケーキを作って持ってきてくれた。

どうですかって、どうぞお召し上がりくださいって言って、食べたけども、美味しいとも不味いとも、ウンともスンとも無いんじゃ、

折角作って持ってきた人がちょっと寂しがるじゃないですか。あー有難うとか、美味しかったとか、色んな一言、試みに言えみんと

言うとですね、それで、その人の在り様がさらけ出されて、よくわかるんじゃないですか。そう言う事でしょうね。

その辺で終わりましょうかね。                   (終わり)


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  1. 2017/04/27(木) 19:12:48|
  2. 祖師西来意
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祖師西来意 Ⅲ

音声はこちら ↓

祖師西来意 03_01
祖師西来意 03_02

えー再開しますよ。

「『人下忽有人問』、すなはちこれなり。」今話した様に、木と人が出合うと、人と人が出合う、

或いは『如何是祖師西来意』って言う、そう言う言葉に出合うと、何故かその事と、必ず一緒になるんですねぇ。

不思議ですねぇ。何でそうなるのか知らない。円通寺の境内を歩くと、必ず知らない内に円通寺の境内を歩いている様に、

そう言う生活者になる。自分の家に居る様な人には絶対ならない。それは現実そうじゃないですか。

それだのに、人間の頭は違いますよ。この事実をないがしろにして、家に居る様な事平気で考えるんですよ。そうじゃないですか。

そう言う事してないですか、してなきゃ結構だけど。


『忽』って言う字がすごく響くじゃないですか。忽ちって如何いう状況ですか。

勿れと言う字に、心と言う字を重ねて、忽と言う字が出来て来る。面白いね。

忽ちって言う時には、心らしいものが何にも動かんのよね。何がどうしたか分からん位面白い動きをする。


パン!(両手で打つ)ってやると、聞いたとか聞こえたとか、一切そう言う事起きない内に、

パン!そう言う風にたちまち、ねぇ、そうなってる。

忽ち、「忽ちこれなり」そう言う処に私達は学ぶ必要があるんじゃないですか。

こんな生活をお互いしてるんじゃないですか。

どうしたら上手く行くとかどうしたら、どうなるんだろうとか一生懸命やってるけど、そんな事ひとつも使わない内に、こんなに見事に

生活が出来てる。誰もやってますよ、そう言う事を。


こうやって、こう一頁めくると、さっき見てたものが、自然に離れられる様になってるでしょう。違いますか、これこうやって。

自然に、自然にさっき見てたものから離れて行くんでしょう。そうでないと、こうやってうまく読めないからね。どう言う事ですかね。

これが人を救ってる姿でしょう。これだから人は安心してこうやって生活が出来るでしょう。

そうでなかったら、苦しくてしょうがないですよ、前に出会ったものが気になるって。

それが何時までたったって離れられないのでしょう。考え方が上って言うのを見ると。


だけど事実、人が生きてる様子は、私達が、どうしたらそう言う事から離れられるか、そう言う悩ましい引きずってるらしいもの、

どうしたら離れる事が出来るだろうかって考える事とは別にですよ、たちまち、そう言うものから解き放された活動、こうしてる

じゃないですか、今。こっちに用があるじゃないですか、修行するって事は。考え方の上の話じゃない。

実際に自分が生活してる、この目の当たりに生活してる実質の方に、こうやって触れてみると、答えがあるんじゃないですか。


だから、坐禅をなさる時にも、必ず最初に話されるのは、人間の思量分別、そう言うものの外、坐禅はそう言うもの扱わないよ、

って言って坐禅をさせてるでしょう。今日の処はですよ、「不思量底を拈来し、非思量底を拈来する思量」

そうやって、この香厳の古則を見ないと道元禅師が今、こうやって示されている様な処は触れる事がないですよ。

無理だね、人間の考え方の方の上からこれ読んで行ったら、本当に此処に書いてある様に「茫然なるがごとし」

ですよ。口開くと落っこっちゃうからね、たちまちですよ。


「しかあれば、樹問樹なり、人問人なり、」そのものがそのものを問うのでしょう。小さい子供さん達と話をすると、

本当に面白い。「おじさん、これ何?」(茶碗見せる)ってこやって聞くんです。これ何って。これは此処にある様にですね、樹問樹、

人問人ですよ。その物を持って来て、その物を問うんですよ、これ何って。

そうすると、へぼな大人はですよ、この子はこの事が分からないと理解するんですね。だから私に聞いて来たと思ってるんですよ。


それで、私が生まれてから後貯えた知識を総ざらえして、こうやって答えるわけじゃないですか。

茶碗だとか、何処どこで作ったとか、どんな形だとか、色んな事を答えるんでしょう。矢継ぎ早に色んな質問が出て来る。

誰が茶碗と名づけたのとか、何時からそう言う風に呼ぶ様になったとか、色んな事を聞かれるとですね、

あなた方の持ってる知識ではとても対応出来ない。


それよりも先に見ておかなきゃならないのは、この子はですね、これは何?って言う時、これが何か分からない人じゃない

んですよ。いいですか。ここが大事、ここが大事です。樹問樹、人問人て言うのは、そう言う事です。

それ持ってきてそれを問うんです。外の事を尋ねるんじゃないんですよ。分かっり切った事をこうやって持って来て、

これは何ですかって聞くんですよ。その時私達が答えるのは、これはこれに間違いないって答えたらいいんじゃないですか。

大人の大事な役目じゃないですか。そしたら子供は迷わずに行きますよ。これで良いんだって。

これがこれで間違いないんだ、これでいいんだって。


だから祖師方、こうやってパン!(両手で打つ)教えるじゃないですか。分かるか。それがそれに違いない。

どうして決着がつかないんですか。何か外の事がまだ有る様に思うからじゃないですか。ねぇ、こう言う処を見てみると面白い。


「挙樹問樹なり、挙西来意問西来意なり」今、子供の話した通りじゃないですか。

その物を以って、それ何って聞くのでしょう。「問著人また口㘅樹枝して問来するなり。口㘅枝にあらざれば、問著すること

あたわず。」
口へ枝を噛むって言うか、そう言う事がはっきりして無かったら、口で枝を噛むって事どういう事か

尋ねる力も無いのでしょう。子供たちはこれって言う事がちゃんとはっきりしてるから、これは何って尋ねるのでしょう。

皆尋ねる時見てごらんなさい。ちゃんとしてるものを聞いてますよ。そう思いませんか。

分からないんじゃなくて、分かりきった事をやってる上で、尋ねて来るんですよ。何を尋ねるんでしょう?


自分の小さい時なんかも、師匠(義衍老師)の側に居て、こうやって居ると、これ見せて、(ピンクの紙片みせる)「何色だ?」

って言うから、「これはピンクの様な色してるね」ってこうやって言うと、「ああ、そうか」って言う。それで話は終わる。ねえ。

見てる通りの色の話をしただけだから、それで済む事でしょう。表現が上手くいくかいかないかは別ですよ。

この見た通りの自分の事を表現する言葉が、相手が聞いた時に気に入らない事もあるかもしれない。

だけど子供なりに自分の見た、見えてるこの通りの色を、自分の知ってる言葉でこうやって表すだけじゃない。それだけですよ。


だけど大人って、本当に不思議ですよ。何回かこうやってやり取りをするとね、自信が無くなってくるのよね。自分で見てちゃんと

して、はっきりしている色がありながらさ、自分で答えた事が、あの、えぇ、本当に間違いがないとか、それで良いかって念を

押されて来ると、段々段々自信が無くなって、不思議ですね。

そう言うのを、私は師匠の側で、こう触れて、そう言う大人達の姿をよーく見てきた。ああ、大人ってこんなつまらないんだって。

自分で自滅して行くんですよ、はっきりしてる事が。不思議な、不思議なもんで、これでどこが大人が立派なんか。


何回見たってこの通りで、色が変わる訳じゃないじゃないですか。

それ位ちゃんとしてるんだけど、答えが、同じ答えを何回もして、それで間違いないか、本当に大丈夫か念を押されると、

グラグラとする。どこが揺らぐのでしょう、答えて。何が自分の中から崩れさすんでしょう、答えたもので。

こっち(頭)でやってるからでしょう。これ(紙)とこれ(自分)の関係だったら、絶対狂わないほど確かじゃないですか。

それ皆さんも日常使ってる訳でしょう、仕事をする時でも何でも。


だけど、下手をすると、これ(紙)を抜きにして、こっち(頭)だけで取り上げ始めると、ものがよく分からないって言う風になってる

んじゃないですか。ものがよく分からなくなる時は、こっち(頭)の方がはるかに比重が大きいね。

こっちの方(頭)大事にしてますよ。だけど、本当にものがどうなってるか知るのには、やっぱり実物じゃないですか。

それ、一番確かな答えがでるんじゃないですか。そう言う様な事がこう問われるのですよね。

まあそう言う様な事が、問われるんですね。


「満口の音声なし、」別にどうこう言う様な気配はない。「満言の口あらず。」ね。

その事実がただその通りあるだけで、ウンともスンとも言わない。じゃ、ウンともスンとも言わなかったら、その事実がなくなっちゃう

のかって、見えないのか、分からないのか、そう言う事じゃないでしょ。こんなにうまく出来てるじゃん。


「西来意を問著するときは、㘅西来意にて問著するなり。」その事をその事実を抜きにして、西来意を尋ねたって

しょうがないじゃないですか。本当にどうなってるんですかって言う時に、実物抜きで、本当にどうなってるんですかって聞いて、

どうするんだろうね。ああ、そうかって言うのかな。日常そうやって使ってるんじゃないですか。


  1. 2017/04/24(月) 18:54:28|
  2. 祖師西来意
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祖師西来意 Ⅱ

音声はこちら ↓

祖師西来意 02_01
祖師西来意 02_02
祖師西来意 02_03
祖師西来意 02_04



今人上樹のところ、人上樹のところは、「尽大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。」

千尺懸崖って言うのは、先ほど頭に描かしたんだけども、卑近な言葉を用いればですね、《今、ここにと》言う事に尽きるんですよ。

それが「千尺懸崖」じゃないですか。誰も寄り付く事が出来ない処ですよ、今ここにって。

何時もそこに居るんですよ。そこから、もし一歩でも足を踏み外したら、たちまち皆さん方の本来の命は無くなりますよ。

つまらない人になりますよ。本当にそういう風に出来てるじゃない。何メーターじゃなくて。


「たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。」いいじゃないですか。どんなになったって、今ここと言うものから、

人は離れる事はないじゃないですか。失敗しようが、ねぇ。安心して失敗すれば大丈夫でしょう。

えー、失敗したらここから居なくなっちゃうとか、今からどっかへ離れちゃって戻ってこれないとか、そんな事はない。

何時もちゃんとここに居て、今ここで生活してる。そう言う保証された所で、人は生きてるんです。

えー、まあ千尺だからね、落ちる時もあれば、上る時もあると言っております。

登ったんだから、下から上がって行ったのでしょうかね。上がって行っただけで居ると干からびちゃうから、

下にも下りてくるのでしょう。


それは山登りを考えれば良く分かるね。山頂を極めるとですね、征服したって一応喜んでるんだけど、真の征服、山を登り切った

って言う事は、間違いなく下まで降りて来て、皆に、ああ良かったねって迎えられて初めて、山登りを、山頂まで行った良さが

あるのであって、山の上で、そこで騒いで一生居る人見た事ない。どんな低い山でもですよ。

勿論高い山はそんな事してたら、たちまちおかしくなる。


「しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。」頭を左にやるのも、右にやるのも。

「這裏」って此処ですね。ここも千尺。「這裏」

「那裏」は、あそこでいかしら。こことか、あそことかって言うのでしょう。

「如人也千尺なり、上樹也千尺なり。」樹上も千尺。ずーっと挙げてきた。

「向来の千尺は恁麼なるべし。」色々挙げてきたけども、この様じゃないですか。色んな事言うけども、

本当に誰しも、今、ここで生活する以外に無いんじゃないか。何時の時代でも。どうでしょうか。

こう言う事に対して、異議のある人居ないでしょう。


それでは、暫くお尋ねしますが、「且問すらくは、」一応そうやって説明したから、もう一回、皆さん方に質問を

する、投げかける。「千尺量多少。」千尺って言う量はどの位の内容の事を言うのか。

千尺ってどの位の内容の事をいうのか。皆さんはどう言う風に理解しておられるかって、皆さんに質問向けてます。

例えば、一尺がこれ位だとしたら、この千倍ですかって言う様なことかって言うんです。


道元禅師自ら曰くですよね、「如古鏡量なり、」今までに、読んだかも知れません、古鏡の巻っての。

読んだかも知れない、どうだったかちょっと覚えが無い。一面の古鏡って言う様な表現がありますが、鏡、古い鏡って

言うんじゃないですよ。こうやって生活してる事が鏡の内容だって言う風に説明されてる、古鏡って。

だから、一般に思う鏡だと、自分の外に鏡が此処にあって、写して、その中の様子は鏡の中だっていう風に思う訳です。

ところが、この古鏡って言う鏡はですね、鏡の縁がないんだ、縁が。ここまでが鏡の広さだって言う縁がない。そう言う広さの鏡を

古鏡と言う。鏡以外の物が無いんだよ。何処まで言っても鏡以外の物が一切無い。そう言う途轍もない大きな鏡です。

それを古鏡と言います。だから広さが、その千尺の広さがどの位かって言って、道元禅師が自ら答えるのに、その位広いって

言ってるんですね。計り知れない、ひとつには。


もうひとつは、「如火炉量」火炉の如しってあるんですね。カク灯の炉炭とかありますが、或いは香炉峰の雪とか

ありますが、赤々と燃えている囲炉裏の中に、雪などがハラハラっと降ると、ちゃっとこう入って、何処にもなくなる位、

早くにですね、その消えてしまう。溶鉱炉の様なものですね。何でもその中に入ると溶けちゃう。凄い高熱。

原子力発電所の何とかの溶鉱炉の中の様な事かな。太陽の様なものかな。そう言う様なことです。

実はこうした働きを誰もがしてるんです。


もうひとつ「無縫塔」ってありますが、縫い目の無いお墓って言うのは、さっき挙げた様に、古鏡と同じ様に

ですね、何処までがお墓って言って、形が、此処までって言う風な境が無い、縫い目が無いって言うのはそう言う事ですよね。

人間の身体も縫い目が無い。ブラック・ジャックは別としてですね。最初は縫い目が無い。きちっとした袋の中に全部収まってる。

縫い目の無い袋の中に収まって出て来る、人間の身体ってのは。面白い。無縫、そう言うまあ全部言いたい事は、そう言う事

ですね。その皆さんが思ってる様な分量で量れる様な事の、量れる様な内容でないと言う事が言いたいんですね。


今って言う言葉だってそうでしょう。その内容は、今って言う内容はどの位内容があるのって言って、一生かけて喋っても

示し切れないのよね、今の様子ってものは。そう言うものを表すのに、今って言う言葉を使います。

此処って言う場所だってそうでしょう。此処でない場所どこにあるんですか。それだのに、人間の思量分別の世界からすると、

ここは円通寺さんで、私の家ではないって、こうやって区切るんですよ。そうやって区切って生活を自分の中でする時に、

どういう事が現象として起こるか。

良さそうなんだけども、一番親しく丁寧に大切に生きてる人は、此処を円通寺さん、私の家は向こうにあるって、そう言う風に

生活しないんですよ。ここが自分の生きてる全てなんだ、何時でも。それが、親しく自分に生きてる人です。

だって間違いなくそうじゃないですか。自分が此処に来たら、此処が自分の住処じゃないですか。

今が自分の生きてる全てじゃないですか。そう言う事がはっきりすると、或る時は力を入れ、或る時はいい加減に生きるって

言う様なつまらない事を自分でしなくなるじゃないですか。普通の修行の在り方じゃん。修行ってそうやってするんじゃない。

特別な事は一切しないじゃない。特別なことをするのは修行にならないじゃん、逆に。ねぇ。そんな事をこうやって出て来るでしょ。


次に口樹枝を㘅むと言う事に関して、一句ずつこうやって道元禅師が見ていくんですね。

「いかにあらんかこれ口」ここで口って言う表現をしてるけど、口って何かって、ここにも口が出て来ますよ。

渾身是口。私達は口って言うと此処だけ、そう思ってるのでしょう。

「たとえ口の全闊全口をしらずといふとも、しばらく樹枝より尋枝摘葉してもてゆきて、口の所在しるべし。」

一本の木の葉っぱを引っ張って、千切れない様に葉っぱを引っ張ってずーっと行くと枝の方にまでこう行って、枝の方をずーっと

行くと幹の方まで行って、そう言う風にして一枚の木の様子が全部分かる様になってるって言う様な事を言うのですね。

葉っぱって言うのは何を言うかったら、この木全部内容を持ってる。枝って言うのは何を言うかったら、この木の全部を指すって

言う事なんですね。人間もですよ、頭の上で大きくなって教えられて、ここだけを口って言う風に区切って、こうやって教えられてる。

だから教えられてる口って区切ったのとですね、実際の人間てのは違うんじゃないですか。ここだけ何かこう切れてるじゃない

ですか。ガバッと出て、これ口ですって、そんな風にはなってない。


さっきから話してる様に全部ひとつなんだよ。だからここだけじゃ活動しないんだ。これ、口が。この身体が一緒になってるから、

口としての活動が出来る様になってる。目でもそうです。耳でもそう。道具として耳だけがあったり、目だけがあって、手だけが

あったりも、動かないんだよ、皆。皆くっついてるから、こんな活動できるんですね。そう言う事、ここで挙げてるんですね。

「口の所在しるべし」


ああ、言われてみると、そう言う風になってるってのよく分かりますね。髪の毛一本引っ張ると身体が全部付いてくる。

抜けちゃうと別ですよ。抜けない間は、髪の毛一本で全部くっついてくる。私は髪の毛だけ引っ張ってるだけだって言うんだけど、

身体がなぜかついてくる。耳だけ引っ張ってるだけのはずだけど、身体がちゃんとついてくる。鼻を捻っただけなのに。

面白いでしょう。手を捻っただけなのに、身体がくっついてくる。足を引っ張っただけなのに、身体がくっついてくる。

それで、人間てどういうものか分かるじゃないですか、ああなるほど。


「しばらく樹枝を把拈して口をつくれるあり」そう言う風な関係で色んな道具がきちっとこう出来ております。

「このゆえに全口是枝なり。」一般常識とは随分違う、道元禅師の在り方が。

だけどもそうやって示されてる内容に触れてみると、なるほど、納得でしょうね。

全枝是口なり「通身口なり、通口是身なり。」要するに人間が考える事と事実とが、この位違うって言ったら

早い話でしょう。


どっちが本当だと思いますか。皆さんが大きくなって学んで、分別を持って理解してるのと真実はこの位違うじゃん。

眼が無ければ物は見えないって教えられたから、眼がないと物が見えないって知ってますけども、初め、眼があるとも無いとも、

何とも知らないんですよ。見てるとも何とも知らないんですよ。耳があるから音が聞こえるって教えられたけども、知らなくても

ずーっと聞こえて来たんですよ。

理屈が分かったから、耳がついた訳じゃない。理屈が分かったから、目が人に備わった訳じゃないんですよ。知らないのに、

ちゃんとそういうものが、人の様子としてある。で、分別で以って事が理解できる様になると、分かった様な気になってるじゃない

ですか。それよりも、自分の事実、実物に触れて、それがどう言う活動をしてるかに、目を向けてみた方が、はるかに面白い、

豊かな内容がある。気がつくね。


読み下したら、「樹の自ら樹を踏む、ゆゑに脚樹を踏まずと言う」こんな風に、なんか屁理屈の様な解釈を

道元禅師がしてる。で、これを日常の中で観察してみると、自分で自分の足を踏んだ時に、それを踏んだって言う様な表現は

しないですね。自分以外のものだと踏んだと言う表現になるんですね。

こうやって、パン!(自分の頬を打つ)やっても、叩かれたって、そうは思わないじゃないですか。

自分で自分のほっぺた、自分で自分の頬をつねって。人にやられると相手にやられると、他の者にそう言う事が、行為が触れた時

に生ずると、踏んだとか言う様な事が出て来るでしょう。攀じるとか。こうやってやって、(自分の手を捻る)何か攀じられたとか

言う事ないでしょ。曲げただけなのに。誰にもやられてないからね。

自ら樹を踏む、自ら攀じるって言う様なそう言う様子があるんじゃないですか。だから道元禅師、別に特別、歪んだ解釈をしておら

れる訳じゃないでしょ。極当たり前だと思いますよ、これ。そう言う時にですね、対象になるものが無いって事を言いたいでしょう。

だから、踏んでるとか捻られてるって言う風な感触でないよと、こう言ってるのでしょう。


「しかあれども」いいですね。そこはね。「脚跟なほ進歩退歩あり、手頭なほ作拳開拳あり。」

どんなにひとつの様子になってもですね、このものの活動が無くなることはないよね。この通りです。

行ったり来たりする力を持ってる。手だけで握ったり閉じたりする力持ってます。「自他の人家しばらくおもふ、」

一般の人たちがどう言う風に思うかって。「虚空に掛かるなりと」虚空にかかるって、どう言うことですかね。

吊り下げる場所が無いんですよ。さっきは枝があってそれに口でこうやって噛んでるから、手足は樹を触ってないんだけども。

虚空にかかる、そう思う。


「しかあれども、掛虚空それ㘅樹枝にしかんや。」「しかんや」ってのは、しかずって言う事

だから、何だろう、その方がいいとか、何だろうね、それに及ばないとかって。間違いなくその方が確かだと言うことでしょうかね。

考えて、色々あーだこーだ思ってるよりも、あなた目の当たりに見てるその通りじゃないかって言う様な事でしょう。

36景逃げずにしかずとかって、しかずって使いますけども。


虚空、大空に引っ掛かってる。大空に引っ掛かるとか、あの、ハンガーでもですね、ここらにこうやってハンガー掛けるって、

難しいでしょう。持って来てやってごらん。眼鏡をちょっとここに掛けときましょうったって、こうやっても落ちちゃうんですよ。

だけどここにある様に、樹枝を含むって言うのは、こうやったら、はっきりしてるじゃないかって言ってるんですね。

それだったら分かる、吊り下がっている様子が。これじゃ、虚空に掛ける、こうやって掛けるって、掛からんもんね。

やってみりゃ良く分かる。どっちが確かさがあるか。


そこまで来て、で、今度は、木の下にたちまち人が出て来てですね、尋ねるのに、祖師西来意て言うのはどういう事だって

言うんですね。「『この樹下忽有人』は樹裏有人といふがごとし、人樹ならんがごとし。」

人と人との出合いなんでしょう。木が邪魔になるんだよね。読んでいくと。だからそう言うことじゃないよと、こう言っておられる。

分かりますか。樹裏有人と言うのは、木と人とが別のものじゃない、とこう言ってるんですよ。いいですか、

いきなり人、木がいきなり人って言うのは、皆さんがこうやって柱に向かった時に、こうなってる事を言うんです。分かるでしょう。

柱に向かうと、あっちだけが、こっちだけがって言う事ないでしょう。必ず、向かった時、どっちもこう言う風な状況になるのでしょう。

人間同士でやってみりゃ、よく分かります。こうやって触れた時に、片一方だけが見えるって言う様な事はないじゃないですか。

こうやって出合って、私の方からは見える、向こうからは私が見えないって言う様なのは、出合ったって言う事じゃないじゃない

ですか。味噌汁一杯飲んだって、味がする時には、こちらにも向こうにも、別々に味があるんじゃなくて、必ずその通りの事が

そこでそう行われる。そう言う様なものが、樹裏有人とか、人樹って言う様な表現じゃないですか。


自分の生きてる事を見てごらんなさい。梅の花が咲いている所へ、こうやってる時に、その梅の花が、梅の花が咲いてる通りに

こうやって今見えてる事が、自分自身の様子なんでしょう。一般に言えば、私の事じゃなくて梅の花だと思ってるじゃないですか、

間違いなく。私の事じゃなくて、梅の、私は梅の花見てるんだって、私が梅の花じゃないよって思ってるんだけども、

自分の生きてる内容は、梅の花に触れた時に、梅の花の通りこうある事が、今梅の花に本当に触れて生きてる人の様子でしょう、

そう言う事を言いたい。


人間て、でも中々これ分からないんだよね。これと別な処に有るって、最初からこれ見てるからね。

で、これ(茶碗を見せる)見てごらんって言った時に、イキナリもう一緒になってるって事、知ってますか。

向こうに有る物見るんじゃないですよ。これ見てごらんて言った時、もう一緒になってるでしょう、否応なしに。

これが見えるそう言う事が、今生きてる証拠なんでしょう。自分がこれ抜きに、今自分の生きてる証拠は無いのでしょう。

ここら辺は、後十分各自触れてみて下さい。


これでちょっと一時間になったから、ちょっと休憩しますかね。丁度いい、あと半分ね、今日中に終わる。


  1. 2017/04/21(金) 18:23:53|
  2. 祖師西来意
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祖師西来意 Ⅰ

音声はこちら ↓

祖師西来意 01_01
祖師西来意 01_02
祖師西来意 01_03
祖師西来意 01_04



317頁の祖師西来意。一下り読みます。

「香厳寺襲燈大師(嗣大潙、諱智閑)示衆云、『如人千尺懸崖上樹、口㘅樹枝、脚不蹈樹、手不攀枝、樹下忽有人問、

『如何是祖師西来意』。当恁麼時、若開口答他、即喪身失命、若不答他、又違他所問。当恁麼時、且道、作麼生即得』

《香厳寺襲燈大師(大潙に嗣す、諱は智閑)示衆に云く、『人の千尺の懸崖にして樹に上るが如き、口樹枝を㘅み、

脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず、樹下にして忽ち人有って問はん、『如何ならんか是れ祖師西来意』と。

当恁麼の時、若し口を開いて他に答へば、即ち喪身失命せん、若し他に答えずは、又他の所問に違す。

当恁麼の時、且く道ふべし、作麼生か即ち得ん』》

時有虎頭照上座、出衆云、『上樹時即不問、未上樹時、請和尚道、如何』。(時に虎頭の照上座有り、出衆して云く、

『上樹の時は即ち問はず、未上樹の時、請すらくは和尚道ふべし、如何』)

師乃呵々大笑(師、乃ち呵々大笑す。)


而今の因縁、おほく商量拈古あれど、道得箇まれなり。おそらくはすべて茫然なるがごとし。

しかありといえども、不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから香厳老と一蒲団の功夫あらん。

すでに香厳老と一蒲団上に兀坐せば、さらに香厳未開口已前にこの因縁を参詳すべし。香厳老の眼睛をぬすみて

覰見するのみにあらず、釈迦牟尼仏の正法眼蔵を拈出して覰破すべし。


『如人千尺懸崖上樹』。

この道しづかに参究すべし。なにをか人といふ。露柱にあらず、木橛といふべからず。仏面祖面の破顔なりとも、

自己他己の相見あやまらざるべし。いま人上樹のところは尽大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。

たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。落時あり、上時あり。『如人千尺懸崖裏上樹』といふ、しるべし。『上時』ありといふこと。

しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。左頭也千尺なり、右頭也千尺なり。這裏也千尺なり、那裏也千尺なり。

如人也千尺なり、上樹也千尺なり。向来の千尺は恁麼なるべし。且問すらくは、千尺量多少。

いわく、如古鏡量なり、如火炉量なり、如無縫塔量なり。」



まあその辺まで読んで。最初に有る語に引用されているものは、色々な処に文献として引かれていると思います。

無門関なんかにもあるでしょうし。香厳と言う方、よく引き合いに出されるので、どっか耳に残っていると思いますが。

香厳の撃竹と言って、お掃除をしてた時に、箒で掃いた時に石が竹薮の方へ飛んで行って、竹に当たった時の響きを聞いて

悟ったと言う様な表現になってます。


お師匠様は潙山の霊祐禅師です。潙山の霊祐禅師は水牯牛、牛を飼って、大勢の修行僧の助けをされた。

中々有能な人ですね。牛を沢山飼って、牧場経営してた。牛は優秀ですから、お乳もでれば、バターもチーズも出来るし、色々。

潙山の霊祐禅師のお師匠さんはって言うと、かの百丈懐会禅師です。「一日成さざれば、一日食らわず」言う様な方で、

あの方は95位まで生きたのかな、大変長生きで、百丈禅師の下には、もう一人、この潙山の霊祐禅師と、代表的なのは

黄檗機運禅師です。まあ沢山の人が育ってますけど、代表的なの二人を挙げれば、そう言う事ですね。その上は南嶽慧譲さま、

更にその上は六祖大鑑慧能禅師とこう繋がってきますが、そう言う方の、お話ですね。


内容はそこに今、ざっと読んだ通りです。頭にちょっと描いてもらえばわかりますが。「人の千尺の懸崖にして」まあ、

百尺竿頭とか、色々表現があるけれども、兎に角百尺じゃない千尺の懸崖。

メートルに直すとどの位か知りませんけれども、直して下さい。要するに、高い所に居るって言う事でいいでしょう。

その凄い高い崖っぷちに、木がこう生えてる。どっちに生えてるかって言うと、谷の方にこう木が生えてるんですよね。

崖が、真平らな、こう切り立つ様な崖がですね、高い崖が、この上に、此処にこう木がこっちに生えてる。


で、此処の木にですね、どう言う風にして、今居るかって言うと、口でその枝を噛って(噛む仕草される)やってるんですね。

そして足も手もですね、木にぶら下がってない様な状況を描かしてますね。

「脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず」と。


さっきちょっと見てたんですけども、よじる、ねじる、ひねる、まあ日本語に三つ位あるんですね。で、辞書を引いてみると

中々面白い。ひねるって言うのは、一方方向に回す、それも力が弱い。ねじるって言うと、ひねるよりも力が強い。

そしてねじるって言うのは、両方をこう持って、逆の方向にこうやって曲げるのをねじると言う。ひねるって言うのは

一方方向ですね。 水道をひねるとか。ここはよじるんですね。よじるって言うのはもっと複雑な動きをする。

ねじったやつを更に曲げるのをよじると言うって言う風になっておりますね。


まあ国語の勉強。でもここはよじず、しないと書いてありますから、別にそれ勉強しなくてもいいことなんだなってのよくわかる。

よじずですから、どう言う風になっていようが全然関係ない。


まあ、そう言う状況でおられる処に、木の下に人が来られてですね、尋ねられた。祖師西来意ってどう言う事だと

言ってるんですね。だから、「当恁麼の時」その時ですね、若しわずかでも口を開けば、たちまち千尺の懸崖、

高い所から、下に落っこちて、命が失われると言う事で、「即ち喪身失命せん、」じゃ、問われて答えをしなかった

ならば、その尋ねた人の意に反するじゃないかと、親切じゃないじゃないかと、こう言う設定です。そしたら、あなた方は、その時、

もし自分がその様な位置に置かれたら、こう言う時、どうするのだろうって、こう言う設問です。

これが、「香厳樹上」とかって言う題で無門関なんかには一則の公案として上げられておりますね。


道元禅師って言う方はすごい面白ーい、面白いって言うと怒られちゃうけど、読んでみると、ああなるほどと思うんですね。

最初にこう言う事が出てきてるんですね。今の因縁、多く色んな方々がそれを取り上げて内容を吟味されたりしておられる、

「拈古あれど、道得箇まれなり。」その内容が本当に十分会得されている様な人の話は殆ど無い、

と言われています。「おほくおそらくは茫然なるがごとし。」何を言ってるんだか全然わからんと、

その位人が殆どだと、道元禅師が言ってるんですよ。私も借りて言ってますけど。


でここ大事な処は「しかありといえども、」ここが大事な処ですね、今日勉強するのに。

「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから香厳」の心境と一緒になる事が出来るから、

そうすると香厳と言う方が、この話してる事の内容がよく理解できるようになりますよって、道元禅師はおっしゃっておられる。


脚注を見ると、3も4も8も、皆何故か坐禅の中から思い図ってみるととかですね、坐禅の上からの見方とかね、坐禅をしてとかって

あるんですね。どうしてこうなるかって事を提起して置きたい。そんな事書いてないんですよ。

「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せん」て書いてあるんですよ。別に坐禅の時だけって、

何も書いてないんですよ。日常茶飯もこう言う風な事がなされなければ、これは読み方が大いにずれますよ。


で、ちょっと今日来る時に、ある講座が終わった後に、「聞いてもいいですか」って言うから、「どうぞ」って言ったら、

その方が、お勤め先でどう言う方と、あの、触れ合ったのか知りませんが、何か話をしてたら、非常に気分の悪い相手の人が

居る。喋り方とか態度とか色んなものを、何か不愉快に感じてしょうがないって。

だから自分の方もそんなに、その相手を傷つける様な言い方はしなかったんだけども、「それちょっと失礼じゃないかとか、

普通はそう言う風にしないんじゃないですか」とかって言う様な事を言ったって言っておられるました。


そう言う話を聞いたもんですから、私が、「あなたの中に人を見た時に、『この人は失礼な人だな』って、そう言う風な見方を

持ってるのじゃないですか」って話したんです。受け入れてくれませんでした。此処にある様に、「茫然なるがごとし」暫く。

おそらく皆さんも、そう言う人の方が多いと思う。だってあの人があんな事言うから、私気分悪いんだよって。

で、何回か繰り返している中に、「えっ、私の中にそんな見方が、私の見方の中、私の中に、そう言う、人に対してそう言う見方を

持ってる」って、私が言った事に、あの、ちょっと何か感じたんですね。


それが、こう言う風に「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せん」と言う、こう言う事じゃないですか。

自分の中に、自分の思惑、自分の考え方、そう言うものをつけていない時、ものが本当にどうなっているか。

すると、ものがよく分かる。そうでないと分からないですね。誰が見たって、あの人あなたに対してそんな言動を取ったって、

まあ100人が100人、その人の言う通り、あっちがあなたにそうやったって、そうしか見てませんよ。それ以上は見てない。

私の中に、そんな、その人に対してそんな見方をしたなんて、ひとつも思ってないんですよ。誰が見たって、向こうがやってる事が

そうさせるんであって、私の中にそんな見方はひとつも付けてないと思ってるんですよ。


けど、これ不思量、自分の方でそのまま相手の様子に、こう触れてたら、非思量、自分の考え方一切使わずにそのまま触れたら、

どうですなりますか。良くわかるんでしょう。


ついでだから話といた。あなたがそうやって、良さそうに思ってね、あの人の為を思って色々やって上げるけども、

まあ大概そう言う人は、あなたが言ったらね、どんなに上手に言ったってね、面白くない気持ちが、もっと増幅するだけですよって、

あっちの人は。あの人に言っても無理だって。聞き入れる耳は無い。人にそう言う事やる人ですからね。

私以上にそう言う事をやってる人だから、人に対して平気で。人の話なんか聞く力は無い。だからやめときな。

やったって直らないし、気分もよくないし。(笑いながら)


それよりも、そうやって言われても何とも無い人で、こうやって生きてる事が非常に大きな力になるし、他の人だって、

あの人あんな酷い事言われてるのに平気で居れるって、どういう人だろうって、その方がはるかに人に対して影響力が有るよ

って話をした。


こう言う処にね、道元禅師が、「しかありといえども、不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、

おのずから」
どうもしないのにですよ、自分の考え方、思い方、そう言うもの一切手放して、その通りただ居てみると、

そうすると、この香厳の智閑禅師と言う方と同じ立場に立てると言う事ですね。一枚の蒲団の上にって事は、同じ立場に立てる。

そうすると、当然その香厳の言わんとしてる事がこう明白になって来るって言うんですね。


これ、皆さん方が日常やるべき事じゃん。坐禅の時だけじゃだめですよ。悪いけど、何でこのこう言う風になるかって。

水野先生は亡くなってしまったので、お会い出来ないのが残念だけども、なぜ先生はそう言う勉強の仕方をしたのでしょうね。


そうすると、香厳の眼をぬすみ見てってありますけども、借りてと言う様な意味でしょう。香厳の智閑禅師と同じ様な眼を持って

その内容を見る事が出来る人になると、こう言う事です。更にはお釈迦様と同じ様にって言うんですね。

ものがどうなってるかはっきり見破る力がある、真相を。で、これが大前提でしょう。この祖師西来意の巻の中で。

そこから道元禅師がお話をされていく訳ですね。だから私がさっき読んでいい加減な解説をしたけども、そう言うものと全く違う

展開になって行くんですね。それが読んで面白いと思いますね。


「『如人千尺懸崖上樹』この道、しづかに参究すべし。」そこで、どうやって勉強していくかったら、先ず第一に、

ここで如人って言うのは、何をか人と言う、そんなの分かり切ってるじゃないかって思うんじゃないですか。

そこら辺に立ってる露柱ですね、柱。電信柱でもいいですよ。「露柱にあらず」そうでなかったら、

「木橛といふべからず」下にもあるでしょう。何ですか。木くずみたいなやつですか。

皆さんが知ってる様に、これですよね。これが人。「仏面祖面の破顔なりとも」その後が面白いでしょ。

「自己他己の相見あやまらざるべし」


出合いですよね。毎日の生活の中で、こうやって色んなものと出合ってる。そう言う時に何がなんだかわからないと言う事は

絶対にないよ。有り難い事でしょう。でも時々耳にする。「わかりますか」って言うと、「いやぁ」って。何処が分からないんだろうね。

エー、こうやってパン!(机を打つ)分かりますかって、パン!(両手を打ち合わす)

分かりますか。何だろうって、音は聞こえるたけど、分からないって、言う様な事も言うんでしょう。


それで、もう一度さっきの文章に戻ってみると、よく分かる。「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、」

これがないとわからないんですよ。分からなくなるのは、この自分の中で、自分の今の考え方を中心にして、それがどういう事を

言おうとしてるんだろうって言う様な事をやるから、分からなくなる。音はパン!その通り聞こえて

それで全部なんでしょ。物はその通り見えて、それで全部なんでしょ。後は人間が探るのでしょう、ここ(頭)の見解で。

それはどういう事だ、それは何だ。探る前に実物全部頂いたんですよ、もう。


最近、こう言う事やった。「これ、見てごらん。」て、こうやって、(茶碗を見せる)ちょっと漏れちゃった。「これ、見てごらん。」

「これ、見てごらん。」て。「これ、見てごらん。」って言った時、皆さん方は知らない内に見ちゃったんだね。

「これ、見てごらん。」って言った時に、もう見終わちゃってる。どうですか。「これ、見てごらん。」って言った時に、

これから見る人ないでしょう。


コンコン!(机を打つ)「聞いてごらん」コンコン!コンコン!「これを聞いてごらん」って

言った。これを聞いてごらんて言った時は、もう聞いた後じゃないですか。えー!それ位人間は自分で喋ってる言葉がですね、

どう言う事を指してるか、分からん。


だからもう一回やり直すじゃないですか。見直すじゃないですか。聞きなおすじゃないですか。そんな事しないじゃないですか。

あれはって言ったら、もういきなり、そう成ってるんでしょう。あれはって言ったら、えー。見たって言わないうち、あれはって

言われたら、そう成っちゃうんでしょう。そう言うの皆、「不思量底を拈来」してる、「非思量底を拈来」

してる様子じゃないですか。自分の見解が入る余地が無いじゃないですか、イキナリ。

その通り分かるとか分らんとか抜きでしょう。その通り必ずそうなってませんか。その後又自分の考え方で、それはそうだけどって、

何をしようとしてるんだろう。こう言う様な事が、「相見あやまらざるべし」って言う様な事でしょう。

いつも申し上げている様な言い方をすれば、本当にこのものの生活してる在り様だけですよ。


あすこに誰々さんが居る、誰々さんも来たって言って、自分とは別って言う様な、名前の付いた人が一杯居るわけだけども、ねぇ。

それを、ここでは他己と言うのでしょう。内容を見ると、それは自分自身の在り様だからでしょう。

他の人が見てる様子じゃないからですよ。自分が、今この身体でやってるから、こう言う風になってるんですよ。

それは分るでしょう。色んな物が有る有るって言うけど、それは誰の様子かったら、自分がこうやって触れた時、ああ、

あそこにある、あそこにあるって、あるある言ってるだけ。このものの活動がそうさせてるだけでしょう。

それ位全部自分の様子じゃないですか。そう言うの他己って言うんだよ。何とかタコって言う人もいるけど。

まあそこはその辺でいいですかね。


  1. 2017/04/19(水) 19:14:16|
  2. 祖師西来意
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