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正法眼蔵を学ぶ

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「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅱ

音声はこちら ↓

とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_01
とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_02
「とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_03
「とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_04


『前に食べたものと今食べたものの違い、それは味なのではない。前にたべたものの中にある味を想像して、それを頭

の中で今食べているものと比べているのだと言われているのを聞いて、心にとても気づくものがありました。

今を理解することは頭で思った時、それは過ぎていることなのに、今と思ってしまっている。それを相手に伝える時、

どの様にするのが一番分かりやすいかを知りたいです。』



この人は少なからず、聞いて何かを、このように理解してくれたんですね。気づく事があったんですね。

一方は味の話をしているんで、一方は今食べている味そのものの様子ということが少なからずわかってる。

だけど、これ、分からない人、結構多いんですね。今食べているものの味がしてる時に、この前食べたものの味を、

話をあるいは思い起こしている。何かそこに比べる味があるように思っている。

一方は思い起こしているものであって、味じゃないんですね。あの時のライスカレーはとかって言ってるんです、それ皆、

味じゃない。それはよく分かるでしょう。何をやっているか。思い起こしているだけの話であって、

味なんかどこにもしてないでしょう。でも人間て、味だと思っているんですよ。味がしてると。

今食べている味がしている様子と比べるんですよね。天地ほど次元が違うものですよ。べる値がないに一方は。

まあそう言う事を、こうやって自分の様子の中で、話をとおして、少しこう気づいてくれた人がいるって言うので、

嬉しかったんですが。

だけど今度は、それを人に伝える時、どのように伝えるのが一番分かりやすいかと言う様な事がこの人の中に残っている。

あなたが感じた通り伝えれば良いじゃないか。あなたが気づいた通りが一番早いじゃないですか。

自分が理解出来たことでやるのが一番人に伝えやすいでしょう。自分の中で理解できてないものを使って人に話すなんて、

難しいじゃないですか。自分で理解出来たものなら、どんなにでも話ができるじゃない。

自分に理解出来てないものを扱って人に正しく伝えようと思うから難しいじゃん。格好良すぎるじゃん。

格好良く生きる事などではない。本当の自分が生活して、ちゃんと理解できた事だけでよいじゃないじゃん。一杯あるでしょう。

自分の生活している事だから、自分でちゃーんと分かる事が一杯あるでしょう。


★『少欲のところで、少しのことでも満たされる心があれば幸せであるとおもうのですが、あれが欲しいこれが欲しいと

ならずに、心が満たされる完成があればよいのではないかと思うのですが、これは少欲とは違うのでしょうか。』



これ、一般の人が考えている欲が少ないって言う事。いろいろ欲しがっている人が、そう言う人が少し欲張りをしなくなったって

言う風な意味合いの少欲。仏教で示している、お釈迦様が残された、少欲として示されいるものとは全然違うね。道理を聞いて、

少しでも余分な、欲しがる気持ちを抑えて、そうすると物が少し整理されるだとか思ってる。悪くはない。

やたらに欲しがっているものを少し制御が出来るって言うのは、悪くはない。

そう言う事と違うでしょ。お粥をすすってる時に、もうそれだけで、他のもの一切その時に持って来なくても、満喫できるんでしょ、

お粥の味を。そうやって食事を頂いてるのでしょう。そう言う事から比べると、何か少し抑えるということとは違うじゃないですか。

抑えて、やっと自分の理想的な生活に近づくと言う様な事とは程遠いね。


★『目の前に起きていることを、あるがままに受け止めると言う事は、まさにお釈迦様の言うとおりのことであり、

分別をしないということが涅槃ということはわかります。然し、お釈迦様は社会生活を営むと分別をしないわけにはいかないから、

サンガ(坊さん達の集団ですね)を造り、修行をし、道元禅師は山奥に入り修行をしています。現代の日本の僧侶は社会に身を

置きながら涅槃に到るための修行をする、なるべく毎晩坐禅をするようにしていますが、涅槃の世界は遠いです。』



こんな風にとらえているんですね。分かりますっていう割りには、何か矛盾があるんじゃないですか。

あるがままに受け止めると言う事は、目の前に起きてる事をあるがままに受け止めるという事は、

方にお釈迦様の言うとおりのことであり、分別しないと言う事が安らぎになると言う事が分かる。

なんで、こう言う風に生活しないんでしょうかね。こう言う風に生活したら別に社会生活するのに困らないのでしょう。

でもこの方は社会生活営むと、必ず分別が起きてきて、ある決まりのある集団の中で、決まりに従っていると、

分別から離れられる、だからお釈迦様はそういう規律のあるものを作ってそこで過ごしたって、思ってるんですね。


道元禅師の話もついでに出してくれてる。何で山奥に入って、修行したか。町の中に出てくると、見たもので分別が起こって

修行にならないからだと思っているんでしょう。生涯、山の中にいるのかって、誰にも会わずに。

それじゃ、素晴らしいものが自分で手に入って、見つかっても、一人で全部それを食べ終わって死んでいくだけであって、

なにもその素晴らしい味わいも分けて味わう人がいないってのは、寂しいでしょう。この素晴らしさを共有出来る人がいるから

素晴らしいのでしょう。そうでなけりゃ教えなんか伝わりませんよね。受け継ぐ人がいないんだもん。変だなって思うんだけどね。

「現代の日本の僧侶は社会に身を置きながら涅槃に到るための修行をする」これ、みんな事実のほうに目が向かないから、

こういう話になるんじゃないかね。じゃ、どうしてそう言う風に事実のほうに目が向かない様に育って行くのかって言ったら、

教える人が皆、そういう風に教えて来たってことでしょう。学校でもそう。

仏教を教えてる学校でも、そういう風に仏教を教えるのでしょう。自分の今生活している事と仏教が、やっぱり乖離してる。


そんな人はいませんよ。今生活している他に、何があるんですか。ええ。お釈迦様だってご覧のように、自分の生活している中の

様子じゃないですか、全部説いてる事は。それ以外の話なんかひとつもないじゃないですか。

昔の人だってお坊さんは社会に身をおいてたんじゃないですか。別に社会から離脱した、どっか別世界で生きてた人なんか

いませんよ。現実ばなれした処で生きてるように思っている。


お寺に来ると、皆さんもそう、お寺から帰ると世俗に戻ってて、言うんですね。ここにいるときだって、

自分の本当の生活じゃないですか。今こうやって。だけど、あそこら辺から入ってくると、何か違った世界って、うちに帰るとねって、

なんかどっかでそういう区分けをして見てる。お寺にいる間はいいけど、家に帰ると。何を見てるの、

ずーっと自分の生活じゃないですか。場所が違う位のものじゃないですか。


分別って言う言葉が出てますが、こっち来る前日、浜松にいたら、立派そうな紳士がですね、

「思慮分別って言う言葉がありますけど、それどういうことでしょうか」って尋ねられた。あなたが知ってる通りでしょうって、

言ったんだけど、思い測るということと、物を分けて考えるっていう事じゃないですか、って言ったら、分かった様な分からない様な

顔してるから。しょうがないから、もうちょっと、じゃ、何か具体的にやってみましょうって言って、あなた方こうやった時に、

手が合わさっているって言う事知ってますね。(両手で合掌の形をする)それは、思い測ったんじゃないですか。それ、思量。

分別ってどういうことかって言うと、こうやって手を合わせる処の様子があるけど、ここの(右手と左手が一緒になっている)様子は

どうなってるかって聞かれたら、知りたいから、どうしてもこうやって(手を開く)見る。くっついている処の様子って、

そこどうなってますかって言うと、こうやって見る癖があるじゃないですか。開けたら分かると思うから。

でも開けた途端にですよ、こうやってた(手を合わしていた)ところの様子から、全部離れちゃうんですよね。分別ですよ、それ。

分け隔てなの。せっかくちゃんとしてるものを、こうやって分け隔てて本当のものを見ようってする、無理です。

分別はそういう様になってる。事実を見る時には、分別したら、絶対に見えないですね。

こうやってる(手を合せた)様子を知るのには、こうやってる(手を合せた)様子の中でやらないと、こうやってる(手を合せた)ことは

分からない。分け隔てて、なるほどと見る、開いている所を見る、こうやってる。そういうちょっと話をしときました。


だって、このままじゃ(手を合わせたままでは)、分からないじゃないかって言いたいでしょうね。そんなことはない。

この通り分かっているじゃないですか。やってごらん。こうやって手を合わしている様子がこの通り分かるんです、誰でも。

こうやってるのは、手を合わしてるのじゃないって事わかってる。こうやってこんなによくわかるってる。

こんなことが毎日の中で行われている。


毎晩坐禅をするようにしてる。いい事ですね。さすが。「でも彼岸の世界は遠い」こうやって音が、パン!した時、

その通りいきなり聞こえるのに、遠いかしら。その様に、本当に音がした時、聞くのに、

どうしても時間がかかって遠くて出来ない。そんなことは無いでしょ。

こうやって見せたって、いきなりちゃんと、この通り見えるでしょ。このことを知らないんだよね。こういうことが彼岸の世界、

覚りの世界、救われてる様子だってこと知らない。

だから何か覚りの世界とか救われている世界って言うのは、どっかあっちの方にあるように思っている。


本当にこういうの、有難いアンケートなんですね、私としては。こういうことを頂くことによって、どういう風にしてこの先、話をしたら、

こう言う事が本当に理解して貰えるかって言う事を示唆されている。


『少欲の意味を今までは欲張らないことだと思っていたので、その時にその事だけをやる、という説明は

新しい発見でした。結局八大人覚もその事を説明している内容なのだとおもいました。

正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。

他人、他者との比較がなくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。』



少欲、そういうには話したはずじゃないけど。まあ、少欲は欲張らないことだと思ってたんだけど、

そういうことと違うって事にきづいた事はいいですね。

私が言ったのは、ポン!こうやってやるとほかに何も加えなくても、それだけで、

この音が、ポン!ちゃんと頂けるようになってる。

そういう生活をしてるって言う風に話をしたんですけどね。その時にそのことだけをやる、それで少欲、欲しがらない、欲張らない、

ただ本当にそのことだけで、満ち足りている、言う様な事を、こうやって一応受け取ってくれているのでしょうね。


「結局八大人覚もその事を説明している内容なのだなとおもいました」それで結構なんですけども、そう簡単に片付けられると。

「正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。他人、他者との比較が

なくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。」


人と比べなくたって自分自身の向上が望めるに決まってますよね。他の人が、どのようなことをしようが、

このものが実践しなければ、このものは向上しません。それだけです。

自分でやると、ちゃんと自分のやったことが自分の上で育つように出来ている。自覚以外の何者でもない。

気づくって言うのはみな自覚でしょう。この自分自身の身心、体や心の働きの上で気づくのでしょう。

この身体でやってないことで、何か気づけることなんかありますか。無理じゃないですか。気づくって言う事は、

必ず自分がやってることでしょう。その上でしか気づけませんよ。


音がしたって気づくんでも、他人の身体では無理。あそこに座布団があると気づくのでも、他人の身体では無理。

触っている事、他人の身体では無理、絶対。皆、自分の身体でやるんですね。その時に、その事に触れて、どうなってるかを、

人の力を借りずに全部自分の様子がわかるようになってる。


教えられないとわからないんじゃない。これだって教えられないとわからない?

ポン!音がしないと聞こえませんね、音がすると聞こえたでしょ。

そういうの聞く時に、よし聞くぞって言って構えなくても、音がすると、聞いたともなんとも思わない内に、音がちゃんとする。

そんな風に出来てるって話しをこうするじゃないですか。私がそうやって話をしたから、その事に気づくわけじゃないじゃない。

ポン!これに学ぶと、皆、私が言ってる様な事、皆、この中にあるんでしょ。

音がやむと聞こえなくなる様になってる。言われて気づいたように思ってるけど、そうじゃない。

本当は、ポン!こうやってこれに触れると、他人に学ばなくても皆その事がこの中にあるでしょう。

あんなにちゃんと聞こえたのに、どこにも残ってないって言う様な事だって、ポン!

この通りですよ。皆、この中に、人から学ばなくても、分かるようにできてるでしょう。

どうしてそういう自分に力があるのに、発揮出来ないようになっちゃったんだろうね。


本当に人を育てるってのは、そうやって昔から育ててきたんでしょう。教えたんじゃないんだよね。

実際のことをそこでやって見せるんです。色んなお仕事なんかで、そこに弟子入りしてるとですね、師匠がそこで生活をしてる。

その生で生活してるものに触れてるから、学べたんじゃない。皆。

学ぶ時に最初の頃は、ただやってる事がその通りあるだけで、何をやってるかよく分からない。それは自分の考え方の方が

優先してるから。だけど、親しくそのやってる事実にこうやって触れてると、なるほど、ああ、なるほどって、そうやって、

気づいていったんでしょう。だから10年ぐらい一緒にいると、大体奉公は終るじゃないですか。独立してもいいよって言って、

暖簾わけをされる位力が付くじゃないですかで。良い本当に修行法だったと思います。


今は早い。どうして早いかと言うと、頭の方で理解していくから、身体がついていかない。頭は一応理解できるけど、

それで力が付いたように思っちゃう。代議士の秘書をやってると、自分が代議士の名詞を持って、人と接すると、知らないうちに

自分が偉くなる人いるからね。面白い。別に偉くなったんじゃない。その人のところに仕えてるだけじゃない。

その人の名詞持っているだけの事なのに、自分も同じくらい偉くなった様に。気をつけないといけない。


色んな事がありますが、ここら辺で。多少役に立ったら、あとは読み物に。



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  1. 2016/12/27(火) 18:56:27|
  2. 学道上の事
  3. | コメント:2

「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ

音声はこちら ↓   2016.6.27 円通寺講話会 朝のご提唱

とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_01.
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_02
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_03
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_04




今朝ここに提起しましたのは、少し体裁が違う。それは現代に生きてる人達が、どういう風なものの考え方をしてるか、

学びをしているかと言う様な事に、かかわる様なものです。

古い時代の修行、勉学、参禅、そうしたものは資料として沢山残ってますけども、それはそれで、

味わいは非常に深いものがあるに違いないですけども、現代のものはどういう風になってるかって事、

参考になるのじゃないかと、そう言うな事をちょっと思いまして、ところによっては時々話の後に、

アンケート用紙を配ってですね、収集しているんですね、色んな事を。そういうものの中のひとつのものです。

これ対象になった時の教材は、正法眼蔵の八大人覚って言うものの話をした後のアンケートですね。

だから少欲とか知足と言うような言葉がたくさん出てきます。

読みながら何か話をしていきたい。


「とある研修会でのアンケート」より・の質問

★『「少欲」の教え「禅」の状態で、自分の思慮分別なしで、現代社会を送るのは大変難しいと考えますが、

心が乱れたり、迷ったりした時に、坐禅などをして立ち戻るという生活の仕方では駄目でしょうか』



って言う様なことが書いてある。これ読んでみると、色々面白いですね。

この人がどういう状況にあるか、どういう風にものを学んでいるかって言う事が、ものすごくよく、こう見えてくる。


補足をするのに、先だってこんな話があった。セラピーとかなんか言うのがあるんですか、

そういうものを職業にしている婦人です。深層心理やなんか勉強するとか言ってましたけど。最近スランプでですね、

ひとつもそれやる気が起きない、どうしたらいいのかって。

自分の生活とそういう仕事がですね、両立出来る様な方法は何かないかって言われたんですね。

何をこの人は思っているのかなあ、って。人生に何かと両立するなんて言う事はないですね、人生の中に。一本道ですよね。

今やってることだけで、もうひとつ何かをそこに立ててですね、これとこれだって、そんな風な生活はないですよね。

でも殆どの人はそうやって、もうひとつの生き方があって、並立して両方が上手くいくといいなって思ってる人は沢山いる。

それは思ってるんですよ。ここに書いてある様に。思ったり考えたりしている上の話であって、

実物の方に目がひとつも行ってない、って言う事をその方に話したんですね。


ここもそう思うんですね。ひどいね。一番最後なんかひどい。「坐禅などをして」って、坐禅などをして、

何処へ立ち戻るんでしょう。そう言う生活を勉強って言うんですね。

自分自身の生活している他に、もうひとつ生活があると思っているから、先ほどの話の様に、

両立するとか言う様なことを考えるのですね。生活っていうのは、もうひとつの生活なんかしている人は居ないですよ。

ずれっこないですよ。乱れるとかですね、迷ったりする事なんか絶対ないんです、生活って。

本当に今の在り様だけですから。比べるものなんかないでしょう。もうひとつの生活。どうですか、そう言う事は。

考え方の上だったら、そうやって比べるものが出てきて、どっちが本当だろうって。生活はですね、今生活しているものと、

もうひとつの生活しているものが何処にあるんですか。もうひとつ比べる生活なんか。

そんなものを持って生活している人は一人も居ないのでしょう。どうですか。

要するに、話を、これだけこの方にしたにも拘らずですね、私の言わんとする事は、殆ど解ってない、通じてない。

がっかりするなって、ひどい事言うと、そう思うんですね。それ位、一方は考え方で取り扱っている。

こっちは一生懸命、今の事実をこう見せてるんだけど、中々噛み合わない。


で、少欲の教えって、何か八大人覚説いた時に、少欲の教えってのが、自分の生活している事と別にあると思っている、先ず。

少欲って、見て御覧なさい。自分たちの生活を。

桔梗の花を見る時に、ただ桔梗の花に向かったら、それで他に何もそれ以上に、求めるものも何もなくて、

ちゃーんと桔梗の花が見えるのでしょう。本当に少欲を行じているのでしょう。

音を聞くのにも、パン!(机を扇子で打つ)この音を聞くに、ただこの音だけがパン!

こうやって聞こえさえすれば、それで100%、パン!この音を聞くことになるのでしょう。

他に何もそれ以上のことをやらないんです。そうやってちゃーんと少欲を行じているんでしょう。

「グァー、グァー」(牛蛙の鳴き声)グァ-、グァーって、あれみな少欲ですよ。

まだ何か欲しいって言う様な事はひとつもやってません。その鳴いている様子だけで、鳴いている事、皆ちゃーんと足りてる。

若しあそこに何かつけたら、ああいう風に聞こえなくなるんだよ。折角鳴いてても。少しでもつけたら、

もうその通り見えなくなるでしょう。だから自分の生活を見ても、皆、ちゃんと少欲を行じているじゃないですか。


しかも「禅」の状態でって、又自分の生活の他に、何か特殊なそういう境地があると思ってる、頭に描いている。

本当に面白いね。短い文章なんだけど。


これがスタートですからね。この人のものを学ぶ様子が。こんなにズレてるんですよ、事実と。

自分の生活している、今生活している事実と、この人が質問していることはこんなに最初がズレてるんですよ。

本人知らないですよ。だから、一生懸命そういうもの描いて、そこに向かって、それを探して尋ねようとしている。

これ二重構造って言うんでしょう。二枚舌ですよね。だから幾らやったってこの人は満足するところまで行きませんよ。

「坐禅なんかをして立ち戻るというような生活は駄目でしょうか」って。駄目でしょうね。こんなことやってよい訳がない。


でもこれ、普通に読んで普通に回答したら、同じ立場からこれを読んで同じ様に、これに対して回答したら、

そう言う風にして行ったらきっと良いでしょうってなるでしょう。両方考え方だから。両方思い方の人だから、それで、

話はうまく合致するでしょう。そう言う風な話をするとたぶんこの人は喜ぶ。私のような回答すると、ちょっと何言ってるの、

私の質問してることに正確に答えてないじゃないかって、たぶん反論が返ってくる。

これを何回も何回もやることによって、やっと、ああ、ものの本当の有り様は、自分が考えている事と違うんだなって事に

気づく時節が来るって事でしょう。


★『仏の教えを聞かない受け入れない人に、それでも聞いてもらいたい時、どの様に伝えたらよいのでしょうか。』

仏の教えを聞かない受け入れない、それは自分の中に確たるものの考え方を持ってるからそんなもの用ない、

と言う事でしょう。立派な人でしょう。自分のご意見をちゃんと持ってるって言う。

だけども、この方からすれば、それはそうだけれども、もっと確かな事があるよ、それを伝えたいんだけどって、言うのでしょうね。


で、何でこの人がどの様に伝えたらよいのでしょうかって言わなきゃならないかって言う事は、自分でその仏教っていうものが

如何いうものであるかって事が、根底でよくわかってないからでしょう。


私だったらこう言う事を聞かれたら、「ちょっとこっち来てごらん」

「聞きたくない、あなた人の話しなんか聞きたくないって言ってんだけど、そういわずに来てごらん」

そうするとこの人は知らずに、自分で人の話を聞いてるとも何にも思わないのに、私の前に、進んで来ますよ。

おうチャンと聞いたじゃないですか。絶対聞きたくないっと思っているはずなのに、

ちゃんとそんな事を超えて聞いてる事実があるじゃないか。難しい事は一切ないです。


あそこに書いたものがあるから見てごらん。書いてあるものを見る事が禅の教えだと思わないからね、そう言う事は。

禅の教えってもっと別なものだと思ってるから。それが、素直にそうなる、そう言う風になってる事が禅の内容なんです。

本質なんです、誰もの。


子供に禅の教えなんて特別なもの教えないでしょ。普通にそれどうやってやるかったら、見てごらんって、

ここに何か見るものがあって見せると、子供がちゃーんとそれを見てると、それでそのものが分かる様になってるでしょう。

こっちが教えなくても。そうやって勉強してきたんでしょう。「食べてごらん」食べると、教えないんだけど、味がちゃんとする。

その味を教えようと思ったって、ものすごい難しい事だけれど、食べさせると教えなくても、そのままズバッとその味が分かる様に

出来てる。こんなに禅の教えって素晴らしいじゃない。だけど、そういうのは禅の教えだと思っていない。

そりゃ、そう言う風に食べりゃ味がするよって言う位にしか思ってない。


ものに向かえばそれが見えるって、当たり前だと思ってるんですね。面白いね。だから、そう言う風に、

自分の今生活している事の他に禅の教えがあるって言う風に、殆どの人が思っている。


誰もそんな風に、たぶん教えなかったと思うんですけどね、正当な流れの中では。いつの間にかそう言う風になってる。

仏教とか禅の教えって言うものが、自分の生活とは別に、そしてそれを取り入れるって言う風な学び方になってしまっている。

だから、ウカウカしているとわからなくなってしまう様な、そう言う学び方が出て来る。


だけど最初から自分の様子ばかりだって事になると、取り逃がすなんて事はない。

うっかりしてた、忘れてしまうって言う様な事はない。いつでも、その中で、それを使って生きている。だから役に立つ。

よそから学ぶものはないですね。思い起こさないと出て来ない、急いで来たら、忘れて来ちゃったって言う様なことは

ないものですよ。せっかく学んだのに、あそこの本箱の、あそこにそう言う事記憶しているものがある。

あれ持って来ないと分からないって言う風なものではないですね。

災害が起きて、学んだものが、そこにあったものが皆流出してしまったら、今まで学んだものが全部なくなってしまう様な

勉強なんですよね。仏教とか禅というものはこれが(身心を指す)居さえすれば絶対になくならないほど確かです。

不思議なものですね。


★『一般の方へ一番分かり易く伝えるにはどうすればいいでしょうか(禅語を使わずに)』

「オーイ」その位で十分です。一番わかりやすい。「オーイ」と言われたら何だろうと思う人は沢山いますけど、

何だろうと思うことではないですね。「オーイ」


雲門という方の所に香林という人が参禅に行ってた。師匠の雲門は「オイ」  香林という人は「ハイ」18年。

ただそれだけ18年間。他に何も雲門はやらない。18年経ったある日気付いたんですね、香林が。そういう歴史がある。


★『悟り、覚り→修証一等では?』

こんなの仏教学を勉強した人達、禅を勉強した人達の頭の中にある文言です。

言葉がですね、整合性があるかどうかって言う様な事を聞くのでしょう。そう言う事もあるから、それはそれでいいですけども、

頭の中で言葉を、整合性を考えて、これはこう言う風な事言ってる、これはこう言う意味だという答えがいくら出てもですね。

それは修行にはならないじゃん。覚えた知識なんですね。


ちなみにこういう方に、じゃ修証一等ってどう言う事を自分で思っておられるかって、質問してみると、これがよく分かる。

修行と覚りというものが別々にあるなんて事はないですよ。


やってみますよ。パン!音を聞くと言うことと、音がわかるということは、パン!

このとおりです。音がしてから何かしてやっと、修行して、パン!音が分かる様になるなんて言う様な事は

ありません。パン!と言っただけでもう終わりです。それは行としては聞くと言うことでしょう。

証としてはその通りの音が、パン!今、はっきりしていると言う事ですよ。それ位、本当は修証一等ですよ。別にあるんじゃない。

皆そうでしょ。そういう風にもうひとつのあり方なんてないんですよ。だからこんなに安心して生活が出来るんです。


★『まあ一応老師って私のこと指してくれてるから、「老師の研修を受けて、当たり前のことを当たり前のように説明して

いるけど、終わったあと、常に思うのは、解答の無い研修というか、答えにたどり着かない感覚になってしまいます。』



こういう風に言われちゃった。で、私が気になるのはですね、当たり前の事を当たり前の様にって言うのは良いですけど、

本当に何かパン!こうやるとこう言う風に聞こえるでしょって言うと、この方もそうでしょうが、

井上さんが説明してるって、本当にそうやって思ってくれるんですね。パン!見てごらん、向かうとその通り、

いきなりその様になるでしょうって、説明だと思ってるんですよね。


今ここで実際やってるんでしょう、皆さん、この体でその事を。パン!説明なんかじゃない。事実でしょうが。

エー、実物そのものでしょう。どうですかって、パン!こうやって、パン!音がすると、

その通りちゃんと聞こえる。音がしなくなると聞こえなくなってませんかって。

これ説明だと思うから、終わった後に思うのは、解答の無い研修になる。これ、パン!説明じゃないから、

ちゃんと解答したんじゃないですか。パン!答えにたどり着いてるんじゃないですか。エー、着いてませんか。


音がしたら、ちゃんと音がした、音が止むと音が聞こえなくなってる。

だから、片付ける用もないし、整理しなきゃならない用も無いしって。ちゃんと、いろんなこと話すんですけど、

皆答えにたどりついているじゃないですか。どうしたらそうなるかって言う事じゃない。こうやってやるとその通り見えるでしょう。

ちゃんと解答しているじゃないですか。答えに辿り着いてるじゃないですか。


そうやって、そうやるといきなりその通りになるって事は、皆さんが迷わない、苦しまない、乱れ無い、どうしたら良いかって、

そう言う事を一切飛び越えて、いきなり大満足の生活が、今出来てるじゃないかって、ちゃんと答えじゃないですか。

研修できたんじゃないですか。こういうの読んでると本当に面白いなあ、私としては。

皆さんはどうかね、こんなもの、教材でこうやって見せられて。

★『他人の振りを見つつも、自分の振りを改善しなければならないと感じ、修行においても実用されるのだろう。

我々だけが坐禅をしていれば良いのではなく、生きている時間を禅と知れば良いのではないかと思った。』



まあ、色々あるね。昨日来られた方が、最初に円通寺の勉強会に来た時に、どんな話をしたかって覚えていて、

赤ちゃんか、ちっちゃな子が縁側から落ちそうになっている時に、ああ、危ない、落ちそうだって、それを私が話をしたらしい。

それが、赤ちゃんのことじゃ無いですよ、あなたのことですよって、どうもそう言ったらしい。

それが引っ掛かったって、昨日話をしてました。


そういうのがこう言う事でしょう。「他人の振りを見つつも自分の振りを改善しなければならないと感じ」を

何か向こうの事を見ている様な、向こうの人の事のように思ってる、人間にはそう言う誤解があるじゃないですか。

確かに普通に言えば、赤ちゃんをみて、赤ちゃんが縁側から落ちるじゃないかって思うから、危ないって、そっちへ、そっちへと

言うんだけど、そう言う風に思っている事が皆、自分の有り様の話でしょ。

そしてそれに自分が気が付くから、これがその思った通りに活動するのでしょ。

向こうの事なんかひとつもやってませんよね。そういうのよくみると面白い。


修行においても、本当はそうやって、他の人のことなんかないよね。他人の事が気になる間はね、修行にならない。

修行って他人のことをどうこう言うんじゃないんです。それをつついて、自分の思ってる様うに相手がなったらって、

そしてそれが出来たら、自分はどうなるんですか。自分の思ってる様に相手がなってくれたら、自分の修行は終わるんですか。

気分はいいでしょう。自分が思っている事を、向こうがちゃんとその通り修正してやってくれると、気分はいいでしょう。

だけど、こっちの問題はどうなるんですか。この自分の中から色んなものが発生する訳ですからね。


「生きている時間を禅と知れば」って、まあ理解としては悪くは無いかもしれんね。そんな事を知ってどうするんですか。

一日24時間ずーっと自分の様子ばかりですって話をすると、ああ確かに一日24時間自分の生活ばかりだなって、

知ってどうするんでしょ。それで済むわけじゃないでしょ。知ることじゃないですね。

ああそうだ、ああなるほどと、知ることじゃないですよね。


自覚って何か、知る事と違うんですよね。自分の実物そのものに触れることでしょ。そして、それを本当に生活の中で使っていく。

それだから実行力とか効果がでるんでしょ。覚るってこういうことだって知ったって、なんの役にも立たないじゃない。

ああそうなればいいな、と思うんじゃん、きっとそうなったら幸せになれる、こういう風にある、ああいう風になるって、

色んな事を思うだけじゃない、知ってますか。

★『事実を事実として受け止める、見るもの聞くものをそのままに受け止める、言葉によって惑わされる、

そのように感じました。』



感じてくれたんだからいいんでしょうかね。突っ込みとしてはですね、ありのままに事実を受け止めるって言うんだけど、

事実を事実として受け止めると言う様な、そういう構図にはなってないね。


これは詳しく見てみると、自他の見(ケン)と言って、向こうとこっちという見方が、自分の中に潜んでいる。

だから受け入れると言う事が出てくるんですね、言葉として、どうしても。


最初にも申し上げた様に、生活している事は、受け入れるとか、その様になるとかって言う様な事は一切無い。

向こうとこっちって言う様な事は一切無い、生活の中では。


考えの上にはある。今生活している様子を表現する時に、あっちの方に、ほら灯篭があるでしょう、向こうで鐘が鳴ったでしょう、

という風にして、表現する事はありますけど、内容は、自他を立てる事は一切ありませんね。

だから向かって何処かに行って、本当になるって言う様な事は無い。はじめから本物の中にいるんだけども、

考え方が邪魔をして、本物の生き様をしてるって事を、自分で触れる事が出来ない様になってる。考え方が邪魔をして。

それが、穴があくって言うか、取れると、いきなり本物の生き方をしている自分にぶち当たる。

あーなんだ、最初からちゃんとしてるわって、結論がつくんですよね。



  1. 2016/12/26(月) 19:31:39|
  2. 学道上の事
  3. | コメント:3

三十七品菩提分法 八正道  正定道支

音声はこちら ↓  

正定道支 ①
正定道支 ②
正定道支 ③
正定道支 ④
正定道支 ⑤



次は正定道支。一般に言う坐ると言う事でしょう。禅定。

「脱落仏祖なり」坐ってる時に、どういう風に本当にあるかって言う事です。

次のも「脱落正定なり。」脱落って言うものは、字の通りですね。

そう言う今の在り様から全部離れきってる、脱けきってる。脱け落ちると書いてあるでしょ。

坐ってる時に、仏様だとか、悟りを開いた人だとか、そんな様な事は全く問題外でしょう。

本当に、今、自分のこうやっている様子があるだけ。

この様子の中に坐っているらしい気配さえもすっかり忘れてしまっているのでしょう。それが坐ってる時の皆さんの様子でしょう。

坐ってる事が気になってる間は、十分坐れてないでしょう。

これでいいのだろうかとか、気になってる間は坐っちゃ居られないでしょう。こっち(頭)が働くんですよ。どうしても。

これでいいのかな、、こんな事何時までもやってて、ただこんな事してて、どうする。

折角坐ってるんだけど、坐ってる事にひとつも目が向かない。それじゃ坐禅にならないでしょう。

「他是能挙(他是れ能く挙す)なり」他って言うのは何を指すかって言うと、坐ってる様子でしょう。

坐ってる事が坐ってる事実を本当に教えてくれるんでしょう。それ以外にないんでしょう。坐るってどういう事だって言われたって。

説明の仕方としては、坐ってる事が一番坐ってる内容をよく説明するのでしょう。だって、これが実物だもん、坐ってる。

これに学んだらいいのでしょう、坐ってる。

坐ってる事に学ぶって言ったら、やっぱり、自分の考え方で、あーのこーのって取り扱う事を止めなければ、

この坐ってる様子だけに居れないじゃないですか。考え方で取上げたら、すぐ坐ってる事とは別な方向に行くでしょうが。

頭の中で描いてる事だけを相手にする様になるでしょうが。それをやったら坐禅にならない。

折角坐ってるにも拘らず。それだから坐禅をする時に注意されるのでしょう。


「剖来頂寧作鼻孔(頂寧剖き来って鼻孔と作す)なり」凄い表現ですね。頭を勝ち割ってって、言う事ですかね。

頂寧を剖き来る。脚注がありますけども、予想外の展開ですね。

自由な、何者にも囚われない大きな働きをしてる、坐ってる様子というものは。


例えられる話としては、水晶の玉の様な物が有って、それを青い葉っぱの上にこうやって置くと青くなる、赤い絨毯の上にこう置くと

赤くなる、言う様な例えがある。このもの本当に坐っていて、その時、その時の在り様に、コロッコロッっと

否応なしに変わっていくねえ。「白露の 己が心を そのままに 紅葉に置かば 紅の玉」。


こっちにひとつも何も作り事しないんだけども、こうやって坐ってるだけで、今の有りとあらゆる環境の中に居ると、

その通りに一緒になって、コロコロ、コロコロ動いて行く様になってる。どれが本当の自分だって言って、取上げる事が出来ない位、

どれもこれも自分の在り様以外に無い。こっちが好き嫌いを持ってものを見ていると、それ全部受け入れる能力が無くなる。

それで愚図愚図言うのでしょう。もっと面白い展開をしてるんですよ、これは。自分の想定外のもの凄い活動をしてる。

何でそう言う事に、こうやって身をゆだねてみないんですかね。面白いですよ。人生が楽しい。


「正法眼蔵裏、拈優曇花なり。優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑(百千枚の迦葉有りて破顔微笑す)なり」

百千枚って言うんだけど、百千枚は人でいいでしょう。大勢の人が居てって言う事で。

お釈迦さまが優曇華という花を、手にして差し上げて見せた時に、そこに百千万と言う大勢の人が居る。

その中に迦葉尊者の様に真意のわかる人と、わからない人が居る。わかる人は頷ける、わからない人はきょとんとしてる、

って言うことでしょう。どうしてわかる人とわからない人が出来るかって言うと、構図としては、アー、お釈迦様が出て来た、

花持って出てきたぞって、そうやって見てるからですね。わからなくなるの当たり前じゃないですか。

最初から自分の事だと思ってないんだもん。お釈迦様の事を私が見てる、って言う風に見てるから、どうしてもわからないよ。


眼と物だけの様子でこうやって居ると、その通りの事がただ、そうずーっと有るだけじゃない。そうやって勉強したんですね。

幼い子達は見事にそう言う事を知らずにやってるよね。少し大きくなると、これは「私」って言って、

今の有り様の中から自分だけを切り取って、そしてそれ以外のものは他所のものだって言う風に、ここではっきり自他を分けて、

ものを見る様になった。そこからものを学ぶもんだから、物凄く厄介なの。


現実、今、皆さんが生活してる事取上げてみたって、今って言う中に皆さんこう居るんですよ、だれも。

私の今とか、あなたの今なんて言う様なものが、今の中に幾つもあるわけじゃないですよ。

今って言うのは、そんなもんじゃないですね。ここからここ迄は私の今、こっからここ迄はあなたの今なんて言う風に、

今なんてものは無いじゃないですか。近づくとか触れるとか言う様な事は一切ないですよ、今って言うものには。

そう言うものが今と言われる概念ですよ。誰もそう言う風にして生きてるんですよ。

だけどもそう言う風に生きてるんだけど、どうしても今って何か掴むものがあるんですね。

そりゃ、もう正しく今と言うものを知らない人ですね。取って置いた試しが無いですよ、今って。

置く場所が無いですよ、取って置く場所が無い。しまっておく場所が無い。それだのに、こんな展開してるんですよ。

こんな、こんな、今の様にこう言う展開してる。こう言う展開してるってことは、先程の気配は全く無いじゃないですか、何時でも。

こう言う様子が人の真意でしょう、失う事の無い。正法眼蔵裏って言うけど、ものの本当の在り様でしょう。

誰一人として、それから外れる人はいないでしょう。どっか他に住む場所がありますか。エー、無いじゃないですか、何時でも。

こんなに盤石な中に居るじゃないですか。踏み外す事も無いほど確かな生活してるんです。迷いようが無い。


「活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり」木で作った柄杓が、柄杓があるけども、

それが朽ちてるって言うんでしょう。木杓破。朽ちるって言う事はもうちょっと現実的な話をすると、木で作った柄杓の、

中が普通しっかりしてる物は、こうやって水を入れると溜まるでしょう。底が抜けてないから。

だけども、この杓は傷んでるから、底が無いんだ。底が無いので汲むとですね、どうなるかね。


皆さんの身体だって、もうこれで一杯になったって言う様な事無いでしょう。

これだけ毎日、朝から晩まで色んな物を見てるんだけども、目がですね、もう一杯になって、ちょっと待って、

捨てて来ないと入らないとか言う様な風にならない。耳でもそう、もうあれだけ聞いたから、もうそんなに言われたって入らない、

言う様な事はない。不思議な身体なんですよ。そう言うのを木杓破って言う。この身体の本質。

一応形が有るもんだから、人間て言われてる。だけども、内容はですね、底抜けですよ。手だって一生動かしたって、

未だ動かしきらん位、動くじゃないですか。ね。これでもう使い切って動かなくなったって言う様な事ない位、凄いものでしょう。

そう言う様な面白い様子を指すんですね、木杓破。皆さんの袋は小さいもんだから、すぐ一杯になって、愚図愚図する。

お悟りを開いた人達を桶底を脱するって言うじゃないですか。桶の底が抜けるって。破顔微笑って、顔が破れると書いてるよ。

ニッコリ笑うと今までの顔形が何処行ったか分からん様になるって言う事でしょう。


「このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。」修行するのに年月がかかる人も居れば一夜で終わる人も居る。

人には蒙昧と言うのがあって、すぐれた能力のある人と中々すぐに出来ない人の違いがあるって言う様な事があるから、

一夜で出来る人もあれば、6年もかかる人も居るのでしょう。聞いてすぐ、その通り正しく実践する人は、やっぱり早いのでしょう。

聞いても、納得が行かないからって、やれないって人が結構居るよね。そんな事言われたって、自分の中で納得できなきゃ

れないじゃないかって、あんたの言う通りにやれない。

自分の、皆さんが持っている眼を見て御覧なさい。色んな所にこうやって向かうと、何故かこうやってその通りになっていく。

時間がかかった試しが無い。イキナリそう言う風になる、全部。花開一夜です。花が開く、イキナリそう言う風な様子に必ず触れる。

それでも分からない人は分からないですよ。6年かかる。それが何だ、それがどういうことだ、言う風になるから。

これ、自分の在り様でしょう。こうやって、これが自分の今、真相。これで生活が成り立ってるんでしょう、皆さん。

今日一日だってそうでしょう。こういう状況でずーっと来たんでしょう。これ切り取って並べれば、無限の状況が、

こうダーっと貼り付けられる位、ある訳だけれど、何処にもそう言うものが残らん様になってる。


「劫火洞燃、大千倶壊」物凄い焚火って言うのか、火がこう燃えてるんですね、劫火洞燃。

そう言う中に身を投ずると瞬時のうちに燃え尽きて残らない。そう言うことだね。「劫火洞燃、大千倶壊」

朝から色んなものに触れて来たけど、こうやってやると、イキナリコロッっとこう言う風になるんじゃない、全部が。

どうしたら、そうなれるって言う様な事ではない。紅炉一点雪。


内容としては、「随他去なり。」随他去って、向こうに従って、その通りになるって言う事でしょう。

こっちで如何こうするんじゃないけど、こうやってふれると、向こうの通りになるのでしょう。

必ずこっちでその通りになるんじゃないでしょ。向かうと、その通りに向こうの様子に従って、その通りになるんでしょうが。

こんなに仲良く生活が出来てるじゃないですか。だけどこの中に自分らしいもの、有ると思って握ってると、それが愚図愚図

言うんですよね。それをどうかするんじゃないですよ。それを取り除くんじゃないですよ。

こういう事によって、アッ無いんだと言う事を気づくべきです。勝手に思って、有る様に思ってるけど、無い。

そんなものが自分の中に、本当に無しに、こうやって生活が出来てると言う事に気づくべきなんです。


「この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼晴鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。」全体と言う事でしょう。

今月の初め、お集まりの人に最初に話したのは、こうやって、こうやってる時に、どうあったら修行してるって言う風な事が言える

のか、こうやってて。パンパンパン音がして、こうやって音がして聞こえてる。どうあったら修行になってるのか、

って言う話をちょっとしました。

修行って、そうでしょう。パンパンパンパン、こうやって音がしてる時に、これ放っといて、

どこかで修行するって言う様な事があったら、逃げ出すと言う事でしょ。此処から、今こうやって居る、こうやって生活してるこの事

が有って、この事の他に、どっか修行する場所があるとしたら、今生活してる事ほっぽると言う事でしょう。じゃないですか。

可笑しいでしょ、それだったら。修行って必ず、こうしている時に、どう在るかでしょう。パンパン、こう有った時にどう在るかでしょう。

それだけが大切な修行の在り方なんでしょう。

だから皆さんが、眼と物との関係で、こうやって修行するのでしょう。耳と音との関係でコンコンコン、修行するのでしょう。

不思議ですね。音がしない間は絶対に聞こえない。音がした途端にカチッって言う。カチッとしたって思った頃には音が無い。


こちらによく来られていた方が、何でここに来てたのか、わかったんですが、お母さんがこちらの方に居られたので、

介護に来てたらしい。それで、長くこっちに来てた間に、自分の奥さんが病にかかったので、名古屋の方に戻った。

そしたら、介護してたお母さんが直に亡くなったと言って、物凄いショックで立ち直れないって言う方に、一昨日会いました。

どうしたらいいでしょう。現実問題ですね。


だから、眼と物の関係で、こうやってやれてると、どんな物でもこうやって触れていたって、人は苦しんだ事ないでしょう。

眼と物が触れると、その通りのことがそこにあれば、その通りこうやって見えるんだけども、苦しんだこと無いでしょう。

苦しむって言うのは、少なくとも自分の中で、それを見たものに対して、考え方や思いをつけて変えて行くのでしょう、事実を。

だから誰も他の人がやってないんですね。自分自身の中で、触れたものに対して、自分が思いを起こして。

眼はね、こうやって見てて、こうやって見た時に、離れても、淋しいとも何とも言わないよね。

無くなっちゃったとか、今まで見えてた物がなくなっちゃったとか、一切そう言う事を言わない。ずーっと見えっぱなしなんですよ。

片時も見える事が無くなったって事無いんです。空白な状況なんか起きない。

頭(考え方)は、亡くなったって、心にぽっかり穴が開くんです。それで苦しむ。頭(考え方)が中心だとそうなる。


旅行に出てて、一週間家を空けてても、ここは(頭)理知が働くから、今は旅行に行って居ないんだって思ってるのは、

やられないんですね。死んでしまってもう二度と会えないって思うのは、違うんですよね。

だけど現実は一週間の間、全く会わないんでしょう。ね。旅行行ってて。ここ(頭)はちゃんと帰って来るって、

そう言う風に思ってるから、悩まない。でもたまたま、そう思ってた事が、急変したり、色んな事故の中に巻き込まれたりして、

すると、気が動転するんですね、やっぱりね。如何いう事でしょうかね。

事実と人の考える事、この位違うという事でしょう。ギャップがあるって事でしょう。それで、多くの人の場合は事実よりも、

この考えてる事の方が中心なんですね。こっちの方に物凄くウェイトがかかっている。此方を大事にして生きてるんですね。

仏道は違いますね。ものを学ぶって言う事は、考え方に学ぶんじゃない。本当に実物に学ぶんでしょう。


お粥を一口食べる、どうやってお粥を味わうかって。必ず口に入れるのでしょう。

置いといたまま学ぶって、味を、お粥の味を学ぶって事はないよね。で、入れると何の苦も無くちゃんと分かる。

一度も食べた事の無い人でも、口に入れるとすぐ味がする。で、何かと比べないと、その味が分からないかって、そんな事はない。

それだけで、ちゃんと味は分かるようになってる。そう思いませんか。

だけど私が知る限りでは、何かと比べないと分からない様な気になってる人沢山いるよね。そんな事はないよね。

この音パン!を聞くのに、何かと比べないと分からないなんて事はない。この音パン!

だけで、この事はちゃんと分かるのでしょう。ま、そう言う風になってますね。


「仏祖一枚」って、それを言ってます。人は誰でもそうです。


生涯ただ、この頂いてる身心ひとつで生きていくんです。他には無いよ。短い時間を取り上げてみたってそうでしょ。

この頂いてる身心の活動から一歩も出た事はない。

ここで色んな人がいるって、何のことない、自分の目で見てるだけじゃないですか。

部屋中ありとあらゆるものが、有るって言う風に認識が出来るのは、各自自分の眼で、こう触れている様子だけじゃないですか。

それが如何いう風になってるかって言ったら、その時に必ずそうなるだけの事じゃないですか。

それでこの部屋の様子はこういう風にちゃーんと出来上がるんでしょう。他の人の様子なんて何処にもないですよ。

でも眺めると、隣に自分じゃない人が居るもんだから、ああ、私じゃないって、見てる、自分が見てる事を、自分の事じゃないって

言うんですね。面白いでしょう。これは私の事じゃない。あっちの人の様子だって。そう思いませんか。

向こうの人の様子だって言うじゃないですか。私の様子だとは言わないじゃないですか。

あそこに居るのは、あれはって、見るって。まあそれ位のものが分からないと騙されるって事でしょう。


「これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。」と言うんですね。

三十七に分類した箇条書きにした修行方法を挙げたけども、よく見ればそうやって自分自身の生活してる様子そのものに触れてる

以外に何も無いじゃないですか。


「しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。」って掛け算かなんかするのかね。

下に二乗と書いてあるから、二乗ってのは37×37ですか。じゃないか。37の2乗か、そうするとこの位の数になるんでしょうね。

一つ一つのものに37通りの内容があるって、こう言うことでしょう。正念道支の中に、後36のものが含まれている。

だから、先程申し上げた様に、眼と物の関係で物が見えるって言う中に、仏道の全てがあるんですよ。

耳と音との関係で、聞こえるって言うその様子の中に仏道の全てがある。一々そうです。

だから色んな物で気がつく人が居るのでしょう。


「坐断すべし、脱落すべし。」と書いてある。本当に坐って御覧って言う。

必ずそう言う人間の見解から離れてる時の様子がある。

人間の思いをつけてものを見るって事は、ものを本当に見るって言う時に、邪魔になってるはずでしょう。

眼には物を見る時に、ものの見方って言うもの一切持ってない。だから眼に学ぶとよく分かる。

耳も自分の聞き方って言うもの一切持ってない。自己流のものは一切持ってない、この六官て言うものの働きの中には。

そうやって学ぶと言うのが脱落する道なんでしょう。

何から離れるって、人間のそうやってつけた見解から離れるって言う事でしょう。そう言うものが一切付いてない時の、

自分のまっさらな様子にこうやって触れると、このものの本質がよく分かると言う事でしょう。

そう言うものを体験した人達を一応悟ったとかって言うのでしょう。ね。まあ、その辺で読みきりで。ちょっと休憩しましょう。



  1. 2016/12/22(木) 19:14:49|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
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三十七品菩提分法 八正道  正念道支

音声はこちら ↓   2016.11.26 御提唱分

正念道支 ①
正念道支 ②
正念道支 ③
正念道支 ④
正念道支 ⑤




三十七品菩提分法、あと二つ残っています。少し読みます。

「『正念道支』は、被自瞞の八九成なり。念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり。

念中発智と学するは、纏縛之甚(纏縛の甚しき)なり。無念はこれ正念といふは外道なり。

また地水火風の精霊を念とすべからず、心意識の顛倒を念と称ぜず。

まさに、汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり。


『正定道支』とは、脱落仏祖なり、脱落正定なり。

他是能挙(他れ能く挙す)なり、剖来頂寧作鼻孔(頂寧剖き来って鼻孔と作す)なり。

正法眼蔵理裏、拈優曇花なり。

優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑(百千枚の迦葉有りて破顔微笑す)なり。

活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり。このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。

劫火洞燃、大千倶壊、随他去なり。


この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼晴鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。

仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。

しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。坐断すべし、脱落すべし。」

正法眼蔵三十七品菩提分法第六十



人の身体の事を身心と表しております。

身と心という字を書いて、身心と表してますけれど、身体と心を、どういう風に何時頃から分ける様に、こうなったのでしょうかね。

身体と心が別々にあると言う事はないんだけども、何となく、この身体の活動と違った活動がどこかに、こう認められるもんだから、

そう言うものを心の働きとするのでしょうね。

そう言う中で、この念の字が使われるんだけども、結構厄介な、人間にとっては厄介な文字でしょう。


要するに、「心とて人見すべきものぞなし」って言う様なが残されている様にですね、心って別に何か形らしいものがあって、

見せる様なものは無いですね。

こうやって、コン!(机を打たれる)コツンて、これが皆さんの心の働きなんでしょう。今。コン!

ものをよく知らない人は、それ音がしただけだって。コン!ね。コン!そう言う風に捉えてる。

こうやって、コン!そう言う事が、必ず身体全体の中に、コン!こうやって音を聞いてるだけじゃなくて、

コン!これによってそう言う風な事が起こる様に出来てる。そう言う働きを、念て言ってますね。


だから、そこにも最初に出てきますが、被自瞞て書いてある。自らを瞞せずと読むのかね。

これ、いつも話してる様にですね、人の在り様を見てみるとよくわかるけど、他人の在り様というものは一切無いのですね。

あの人がって、こうやって言ってる事自体が、皆さんよくわかっている様に、自分の働きなんでしょう。

誰も他の人がやってる訳じゃない。あの人があそこであんな事してるって、こうやってやると、

如何にも向こうに何かものがある様に、自分の事とは別に、こう何か有る様に思っているけど、

そうやっている事自体が全部自分の在り様でしょう。そう言う事が問われています。


八、九成というのは、悟は十成を忌むって言って、何ですかね、本当は完璧といいたいのでしょうけれど、

八、九で収めるんですね。ここが面白い処。日本の建築でも、屋根を見るとですね、一番上に尾根がある。

ああ言う風にして残してあるんですね。あれで、屋根葺き終わったと言うんですね。

この様な在り方を、大体八、九成って言うんです。ほぼ完璧て言う様な言い方をするね。

これは内容として無限だと言う事ですね。

これで一杯って言って区切られる様な、そんな小さな働きでないって事を言いたいんです。面白い表現ですね。

念より更に発智すると学するは、父を捨てて何処かに行くって言うんですね。これは故事があるんですね。

捨父逃逝 ものを知らないとですね、本当の自分の在り様を捨てといて、どこかに本物を尋ね様とする、

そう言うものを表現した言葉です。詳しくは辞典引いてもらえば出てきます。

「念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり」簡単な事を挙げてみればですね、

こうやって音一つパン!皆さんに聞かせて、このパン!真意は如何いう風にあるか

って言ったら、これ以外に無いのですね。パン!念よりさらに発智する。

これ聞いてから、パン!この音を聞いてから、何かその先にって言う様なものは無い。

これで、パン!この音の全部なんです。もう。えっ、パン!全部終わったの。

人間て面白いですね。こうやっててパン!どうなりますかって言うと、音は分かるって言うんですね。

音は分かるって言う事は、何か他に分からないものが有る様な気配の言葉でしょう。

それ位、想像力の豊かな動物です、人間って。すぐ考え事でものを捉えるもんだから、折角、パン!八、九成の在り様として、

物が本当にパン!それで全て完璧にこうやって、尋ねる用が無い程確かな事をやっているにも拘らず、

音は聞こえる、この位の事は分かるって言って、まだ何か他に、でも手を叩いた以外の事が有るんじゃないかって、探るんですね。


だから当時、お釈迦様の当時でも、金波羅華を拈じるって言って、こうやってお釈迦様が一枝持って来て、こうやって捧げた。

大勢の人が居るんだけど、花を捧げてこうやってるのは、見えるんですよね、誰もね。間違いなく、こうやったら見えるんだけど、

何だろうって、それが何だろうと言う人が多い。此処に迦葉尊者と言う人が出てきますけど、

迦葉尊者だけは、こうやった時に、真意が分かったんですね。


もうちょっと卑近な例を挙げると、此処に、今、308から309ページが、こう開いてある。

これを読む時にですね、この本を読む時に、何故か、こうやって書いて有る事を読んで行くんだけど、

皆さん方の読み方を聞いて見ると、書いてある以外のことが一杯出て来るんですね。それ何でしょうかね。

こうやって読んでいくと、書いてある事以外のことが一杯出て来るって、何でしょう。そう言う人居ませんか、読んで。

どうですか。本を読む時に、此処に書いて無い事が出て来るんですよ。不思議でしょう。

本を読むってことは書いてある通りにしか読めないのでしょう。後、出て来るものは何ですか。

今、念よりさらに発智するって書いてあるけど、念よりさらに発智するは、と学するは間違ってるとかいてある通りでしょう。

間違いでしょう。こう書いてあるの読んでるにも拘らず、書いて無い事が出てくるって。

自分の勝手な、そこにものをつけたって言うことでしょう。

利口そうだけども、書いて無い事を、こうやってそこへつけてやるって事は、正しく読んでるって言えないじゃないですか。

そう思いませんか。どうですか。それじゃ分からんって。そんなことないでしょ。

書いてる通り読めば、書いてある事分かる様に出来てるでしょ。そうは思いませんか。


だから、人は本を貸してあげてもですね、本を読まない。よっぽどちゃんとした本を貸して上げてもですね、読まない。

自分の勝手な解釈で、こう行くんですね。要するに、自分の頭の中で理解が出来ると読めたと思ってるんですね。

読むって事と理解するって事は違う。基本は此処にあるように、念よりさらに発智するは間違いなんです。

念中に発智と学するは、これも纏縛の甚だしきなり。本当にその通りのことをその通りあるだけが、本当の在り様じゃないですか。

正しくものを受け取るって事はそう言うことでしょう。


中々あの人の言い分は素直に受け入れられません、て言う女性がこの前いました。

そう言う人もいるかなと思うんだけど、正念道支って言われるんだけども、

人は必ずですね、受け入れられるとか入れられないって言う前にですね、本当にびた一文ずれないように、

相手の喋ってることがそのまま自分の処に伝わる様に出来てますよね。そう言う様子を人は聞くって言ってます。

ところが、普通の人の聞き方って言うのは違うんですね。言ってる通りに聞くんじゃなくて、それ、どういう事だって言って、

何が言いたいんだろうって、やってます。それは聞いてるんじゃない、よく分かるでしょう。

自分の頭の中で色んな事を考えてるんであって、全く聞いてる事とは別でしょう。本当に耳を傾け耳を澄まして聞くってその通り、

虫の音でも、鳴いてる通りに、ただいるだけを言うのでしょう。

一切、こっちで何もしないで、虫が鳴いてる通りに、ただそこに居てみる。そう言うのを本当に聞くって言ってるでしょう。

基本的な勉強なんですよ。


ものと目とが触れ合うと見える様になってますけど、それでそれだけで、仏法の全てがその中に漏れなく説かれてるのですよ。

たったそれだけのことで。嘘だと思うんなら検証して御覧なさい。

八万四千の法門と言われる仏教の色んなものを、書いてあるものを。

この目とものが触れてみえる、この働きで全て説明がつく様になってますよ。それ以外に無いんですよ。

他には無いですよ。念中に発智するって言う様な事。


眼とものがどの様になるか、皆さんに何回も話してるから、おおよそ分かっているでしょう。自分の生活ですから、毎日してる。

だけど、それとは違った生活をしてるんだね、人って殆ど。眼の様な生活が、人が出来たら、こんなに苦労しないよね。

難しいことは一切無いでしょ、こうやって。必ずそうなるんじゃないですか。こんなに自由な活動が出来る、底抜け。

なんにも縛られずに。残るものが無い、いつも。対象として取上げて、あれがこれがって言う様な、そう言う生活を、眼はしてない。

本当に今の在り様だけですよ、いつも。こんな清清しい生き方をしてる。本当にこれだけで仏法の全てがこの中にある。

だから釈尊が明けの明星に触れて大悟するのでしょう。だた星を見ただけで、何で全てのものが解決するんですか。

竹に石が当たった音を聞いた位で、何で一生の問題になってる事、底抜け解決するんですか。

カチッと音がする事の中に仏法の全てがある。音ってそう言う風に皆さん勉強してるはずです。

音って音がした時だけ聞こえるからでしょう。

本当音がした時に聞こえるだけで、音がしてない時に聞こえなかったら、人は苦しまないのでしょう。

本当、そう言うもんじゃないですか。


だけども、朝小言言われて、昼の仕事をしている時も、まだ気になるね。それは見て御覧なさい。

自分の耳に聞いて御覧なさい。こんな耳を持ってる人は居ませんよ。

朝小言いわれた事を、昼になっても、まだ喋って聞こえる様な耳を持って生活してる人は、誰も居ないはずですよ。

あれは耳じゃないですよ。自分の中で思いを起こした事を、自分で問題にしてるんですよ。耳の様に生活して御覧なさい。

耳が活動してる様に生活して御覧なさい。腹が立つものなんか、どっこにも抱えてませんよ。

捨てた訳でもない。手放した訳でもない。忘れた訳でもない。

何にもしないんだけど、耳ってそう言う風に、底抜け素晴らしいんですよ。


そう言う事がこうやって「念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝」とか「念中発智と学するは、

纏縛之甚(纏縛>の甚しき)」
と言う様な事になるんですね。

ものが分からないと、何か他にあると思ってる外には無いですよ、今の有り様以外には。


「無念はこれ正念といふは」道から外れた人達の言い分だと言ってる。正しい言い分ではない。

皆さん無念て言う事、言葉知ってるから、聞いてみると分かるんだろうけど、無念てどう言う事なんですかね。

同じ言葉を使って喋っててもですよ、後で出て来るかも知らんけど、同じ言葉を使って喋ってても、内容が違うんですね。

一般に無念て言われたら、自分の中で思いが無いとか、そう言う風な状態を想定して、そう言うものを無念だって言う様に

思ってる。そう言う事と違うでしょう、無念て。それは念があるのでしょう。残念無念(悔しく思う事)をある。

何も思ってないって言う状況が。想像してるって事は、ちゃんとそれだけのものを持ってるのでしょう。

そう言う指摘をちゃんと道元禅師はしてるんですね。考え方を離れないと無念て言う事は本当には分らない。

考え方の上で扱う無念は、必ず無念て言うもの持つんですね。無いって言うのは分ってるのに持つんですよ。

そう言うものが無いのを無念て言う事が分っていても、いつもそうやって持つんですよね。

考え方を離れない限りは必ずやられます。だからそれは正しくないと言っておられる。


「また地水火風の精霊を念とすべからず」四大元素と言いますけれども、

全ての一切のものを作る四つの大切な元素、地水火風そう言うものによって全ての物が構成されてると、

一応言うんですけれど、この身体の中に、何か固まった何かそう言うものが有るって言う風な思いですね。

思い、念としてのものが何かそこにあるって。

音だって何処にも有るわけじゃないですよ。パン!聞こえたけども何処にもパン!身体の中にもないでしょう。

こうやって物を見せたって、身体の中に何も無い。どうですか。

何か身体の中、これ見せてこれが分かったら、こう言う物が身体の中にこうやってありますか。どっかに。不思議ですね。

これと目が触れるとこう言う風になるんですね。所謂皆さん見えるって言ってます。有るって思える様になるんですね。

じゃ何処にって言うと、こう言う風にやった時だけそう言う事があるっだけで、

その他には一切何処にも固まったそう言うものが無いですね。

でも、もう一度人間は自分の目で見ると、あそこにああ言うものが有るって、一応概念化して記憶の中に留めて行く。

で、その概念を相手にして、お互いに生活の中で語り合うもんだから、随分とずれるんですよね、実物と。

思い込んだものと実物は違いますからね。実物の方は皆さんがその時思ったものがですね、

知らない間に全く様を変えていくんですよね。実物って言うものは止まった事がないんだ、事実というものは。そうでしょう。

今と言う時間なんかをみても、何処にも今と言う時間は止まる場所が無いですね。取って置く場所がないですね。

だけども、概念はちゃんと今と言う時間を取って置くことが出来る。何回でもそれを出してくる。

身体の中に、本当はそう言う思いだけがあって、実物らしいものは何もこの中にないですよ。

地水火風、そう言うもので作られているんだけど。


一軒の家だってそうでしょ。色んなものを寄せ集めて、これだけの建物、形が出来るんだけど、ほどいていくとどうなるかって、

地水火風に別れるだけだよ、最後。それぞれ土や木や。何処にも家らしいものが無いよ。

だけど寄せ集めると、皆さんが家が出来たって言う風にな思える様な形になる。そう言う風な事を説いてある。

「心意識の顛倒を念と称ぜず」色んな事が思えるって言う様なことでしょうね。

そう言うものをここで念と言っているのではない。ああ驚いたとか、嫌だなとか、明日如何したらいいんだろうかとか、

色んなことやります。心意識の顛倒。顛倒って逆さまな思いなんでしょ、事実と全く逆のものの捉え方をする。


事実にはですね、よく話出すんだけど、各自の見解らいしものは、、ひとつも付いてない、思いらしいものは。

どんな草木にこう触れても、あっちが綺麗でこっちが汚いとかって、そう言う風な気配は全く無いんだね。

あっちが素晴らしくて、こっちが劣ってるって様なのは何も付いてない。そう言うもの挙げるとよく分かるでしょ。

心意識って言うものは、皆さんがやってる心意識ってのは、あああっちは美しい、こっちは何だかって汚たねえな、そうやって、

そう言う風なもの、心意識の顛倒です。


だけども実際の様子は、その通りがそうあるだけですよ。そうじゃないですか。物にそんなものついて無いでしょう。

分かりにくいのかも知れない。こちらの人の方が若く見える、こちらの人の方が年を取って見えるって言う風に言うけど、

本当はその通り、こうあるだけでしょう。それに自分の思いをつけるんでしょ。

こっちの方が若く見える、こっちの方が年行って見えるって。どうですか。自分の眼に聞いてごらんなさい。こうやった時に。

自分の眼って見解はついてないんですよ。

だから、眼と物との関係で、こうやって触れた時に、やっぱりそう言う中で、仏法の真髄がちゃーんと説かれてるでしょう。

優劣を離れてる、是非を離れてる。争いの起こる余地が無い。

だけど考え方をつけると違うでしょう。それが顛倒の思いと言うんでしょう。般若心経の中にも、多分そう言う言葉があるでしょう。


正念というのは、本当にこうやって、どこにそれらしい念があるか分からないでしょう。

こうやったって(紙片を一枚見せる)エー、念が動いたとか動かないか分からない。ただこう言う風な様子になるだけじゃんね。

眼と物が触れると、こう言う風になるの。こうやったら(紙片の向きを変える)こう言う風になる。

こうやってやるとこう。如何したんでもないけど、そうなるんです。

だけど、修行している人達は、それをただ見てるって、そう言う感覚で居るんですね。

やってみると、目と物はですね、目と物の感覚ではですね、見るって言う気配は何にも無いんだよね。

ただ、こう言う風になるだけじゃないですか。こうなってるだけでしょう。こう言う様子が展開されてるだけでしょう。ね。

向こうの事だとか、こっちの事だとか言わないでしょう。エー、不思議ですね。ここが違うんです。

あっちで何か、井上さんが紙切れ持って遊んでる、みたいな事を思う訳でしょう。私達はそれをこっちで見てるって。

そういう風に思ってるでしょう。それは見てる事とは別でしょう。ここ(頭)の中で取り扱ってる話でしょう。

眼と物と触れてる様子にはそう言う風なもの一切ついて無いでしょう。分かりますか。


まさに、汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり。」って言う風に書いてあるけども、

本当に誰でもそうなってるのでしょう。私がここに居て、向こうに井上さんが居てって、そんな事は何処にも無いじゃないですか。

こうやって。何故かこう言う事がこの通りあるだけで、不思議だね。見てるとも何とも無い。難しいかしら。

まあ、その辺でおきます。こんな事がよくも、ねえ、書かれてると思う。



  1. 2016/12/21(水) 20:03:52|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
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