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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正精進道支

正精進道支 (一)  2016 10.22 のご提唱はここ迄
 
音声はこちら ↓
正精進道支一_01
正精進道支一_02
正精進道支一_03


つぎ行きます。

「正精進道支とは抉出通身の行李なり、抉出通身打人面なり。倒騎仏殿打一匝、両匝三四五匝なるがゆゑに、

九々算来八十二なり。重報君(重ねて君に報ず)の千万条なり。換頭也十字縦横なり、換面也縦横十字なり。

入室来、上堂来なり。望州亭相見了なり、鳥石嶺相見了なり。僧道前相見了なり、仏殿裡相見了なり。

両鏡相対して三枚影あるをいふ」



まあそういう風なことが書いてあります。段々漢字が多くなってきて読んでいると頭が痛くなる文章になって来てますね。

内容は、それほどどうこうのことじゃないでしょ。

「正精進道支とは抉出通身の行李なり」本当に見てみると、一日二十四時間考えてみれば、

一日二十四時間あるという風になってる。だけどもこの今の様子は、その中の選りすぐった真髄ですよね、今これ。

たったそれだけで生きてるんですよ、今。一杯あると思ってるんだけど、本当に今こうやってる様子しかない。

生涯そうです。本当にそう。「抉出通身打人面なり」顔つきだってそうでしょ。

一日中、こう並べれば色んな顔つきがあるに違いない。だけど、必ず、今の顔つきの様子しか皆さんは他の顔つきの様子を

見せたことがない。見せられないんですよね、他の顔つきを、今。今見せてる顔つきの様子しかないんですよ。

「抉出」そこだけをくり抜いて出してくるって言う様な言い方をしてるけど、本当に今のそういう有り様しかない。

こんな難しい文章を何で引いてくるのかと思うんですけど、好きですね、道元禅師。いろんな事沢山知ってるからでしょうかね。


さかしまに仏殿に乗って一匝する。さかしまに仏殿に乗るって言うと、馬に乗るんならわかるけど、

この本堂にさかしまにのるって言う様な言い方ね。さかしまっていうのは味噌なんでしょう、こういうもの読む時に。

普通に乗ったんじゃ普通です。さかしまに乗るって言う事は此方から向かって行くって言う事じゃやないでしょう。


こういうことだってそうでしょ。パン!(両手で打つ)聞きに行かなければ聞こえないって言う、

そんなことはないでしょう。何もしないでパン!こうやって私がたたいたら、

いきなり聞こえるように出来てるでしょう。皆さん方は音がしたらパン!聞きに行かないと

パン! 自分の方から耳を向けて聞きに行かないと其の事が聞こえないと思っている位、

そういう生活をしてるんだけど、さましまって言うのはこうやってパン!何も自分の方ではしないでも

その通りにあるってことが、さかしまなんでしょう。ものが見えるんだってそうでしょう。

こっちから向かうと見えると思ってるんだけども、戸を開けた途端に、飛び込んでくる位向こうから入って来るんでしょう。

こっちから何もやらないでしょう。そういう有り様をさかしまって言うんですよ。皆さんが考えているのと逆です。


人の話もそうです。聞いて理解をしないとわからないと思っているけど、人の話は理解しようなんて思って聞くと、

わからなくなるんです。知ってますか。理解しようと思ってそこに自分の考え方を入れるから、

あいてが喋っている通りに聞こえなくなるのです。間違った聞き方をする様になるんです。

自分の好きな様な聞き方に。自分流の聞き方になって行くんです。それをやらないんです。

そういうことが逆さまに仏殿に乗るとか言う表現になるんですね。


一回りとか二回りとか三回りとか四回りとかあります。五匝、一々そういう生活をしてるってことでしょう。

そう言う事が精進なんです。正しい精進のあり方。一切混じりっ気のない純粋に生きてる。だから掛け算をする九々。

ここ八十二となってる。多分書き間違いなんだろうね。九々八十一ですよね。間違い。

何かの原文がそうなってるからそのまま挙げてあるんでしょうけけど、八十一で大丈夫でしょう。

例えばそこの脚注のある様に、無門関、無門録の上巻なんかの雲門のお話を載せてあります。引いてあります。

原点はこういうことでしょう。九々八十一となってますね。だから道元禅師が何でか掛け算間違えた。そう言う事で良いでしょう。

誰がやっても九々八十一ですね。


「重ねて君に報ず」だから改めて、くどい様だけど申し上げる皆さんに。ものの真相はこの様になってますよ。

「千万条」だから、一々ものの真相はこうなってますよって皆さんに示すわけですね。

だから示された人は、教えられるんじゃなくて、自分自身の生活してる内容で、それを見てみると、

ああなるほど、言われてる通りだ、本当にそうなってるって言う事がよーくわかるはずです。


パン!とこの音がしてって言うんだけど、音がしない間は、音がしてるかどうかひとつも気が付かないんだけど、

パン!こうなった時に、イキナリ聞くとか聞こえたとかって言う事じゃない、ガチャーと言うだけですから、

こんなになってる。パン!そこには人の見解って言うものは一切入ってない。従ってこれをうけた時に、

自分の中が乱れるとか、崩れるとか、問題が起きるって言う事一切なしにキチッとした生活をしてます。

パン!これどうしたんでもない。パン!これだけで、何時音からはなれたのかも知らない。

ね、気が付かないでしょ。何時音からはなれたか、全然知らない。


ところが皆さんの日常生活を聞いてみると、朝、あいつにあんなこと言われたとか、会社に行ってあんなことが在ったとか、

夫婦の間がこうだったとか、何か近隣の人にこんなこと言われたとか、言う様なことがしょっちゅう問題になってる。

どこでそれが響いてるんでしょうか。実験してみますよ。パン!実験してみると、パン!

音はこうなるんですよ。こういう風にしかパン!人にはならないんですよ。

今聞こえてる人は一人も居ないんですよ、ね。パン!こうやって言われたんだけど、

今聞こえてる人は一人も居ないでしょう。それ、信じられるでしょう。どうですか。

これに対して疑いのある人、それはそうだけどって言うんでしょう。


「審細に参学すべし」よーく自分のことだから、パン!おろそかにせずに、生活の中で

パン!パン!勉強しなさいと、こう言ってるんです。

これはパン!わかるけどって、パン!これはかろうじてそういわれれば、

そうわかるけど、人に言われたやつはそう簡単には離れられない、忘れられない、やめられないとか、

じゃ自分の耳に聞いてごらん。そんなことをしてる耳があるか。パン!パン!パン!

こんなにうまく生活が各自出来てるのに、何でこの素晴らしい生き方に諸手を挙げて賛成してついて行かないんですか。

つまらない自分の考え方の上の生活にどうして戻って来て、そして考えの上で、これをどうしたら忘れるだろうかとか、

どうしたら気にならずに居られるだろう、そんなことばかりやってる。良いですか。

パン!どこに残ってるんですか。


「重ねて君に報ず」皆さん方に重ねてそういうことを告げる。しかも千万条ですよ。数えればきりがないほど、

その確かさを皆さん方にこうやって、二十何年、こうやってここに来てやってますよ。これだけですよ、やってることは。

他の事は一切やってませんよ。それだのにまだはっきりしない。こんなもんですよね、人間てね。

真面目に勉強してるような顔はするけど、本当に。


「換頭也十字縦横なり、換面也縦横十字なり」 六番目に何かどんなことが書いてあるって。

要するに自由自在な働きをしてるって言う事を言いたいだけでしょう。十字って言うのは、縦横の線が交わってる処を、

十字って言うのでしょう。それは何処を指すかったら、今でしょう。十字ってのは今ですよ。

空間と時間帯を縦横に並べて、こうやって交わる処を十字というのでしょう。今ですな。ここですな。

縦横っていうのは同じ事でしょう。縦横十字。本当にそこで活動してるんですね。この身体のない所で活動した人いないんですよ。

人が生活するっていうことは、この身体のある所だけで生きていく。外国から此処まで来るにしても、

必ずこの自分の身体のある所で、ズーっと来ただけ、そういう経過をして此処に来てるだけです。

別に他では何もありません。一生涯そうです。ただ、この身体と共にあるだけです、人間は。不思議ですね。


部屋に入って来る時、お堂に登って来る時、或いは有名な場所がある、こうやって望州亭とか円通寺の山頂とか、

いろんな所こう有る訳ですけど、必ずそういう所に行けばその通りに、相見了とあるけど、その通りに必ずなる。

出会ったら出会った様に必ずなる。それ、相見了っていいます。相見っていうのは出会うっていうことですね。

会見互いと言いますけど、片方だけで行われることはない、ね。ものを見る時は向こうだけってことはないでしょ。

必ずこのものと一緒になっているんですね。


まだ一杯書いてある、「僧堂前相見了なり、仏殿裡相見了なり。」 何処でも良いですね。

何時でもこの身体が其の所に、その場所で一緒になりながら活動してるんです。他には無いですよ。

考えっていうのはあらぬ事を、思ってもみないことまで思う道具ですからね。面白いね。

だからひっちゃかめっちゃかになるんですね、考え方に学ぶと。


「両鏡相対して三枚影あるをいふ」 鏡と鏡と相対すると、どの位の姿が映し出されるかって、

何かそういう法理があるでしょうが。聞いたことありませんか。鏡と鏡を向かい合わせると、

お互いどんどんどんどん映しあっていくから、物凄い枚数がこう映し出されるんですね。不思議なんですね。

此処で要約して三枚って言う風にしてあります。


例えば三輪空寂ってお経を唱える時に、そういうのがありますが、三つ巴って言うんですかね。

三枚、三つの輪がうまく融和する様な状況、自分と相手とそのものが触れ合う様子って言う様なことですかね。

もうちょっとわかりやすく言えば、この三枚って言うのは、各自の身心と、時間帯の今と言う時と、場所的に言う此処の三者が

三枚でしょう。これ三つある様に思うけども、一つのものの様子ですよ。サイコロの面体が、だけどもどれもサイコロですね。

一の目でも、六の目でも。そう言う様なことですかね。両鏡相対して三枚影あるという。


三身一体って言う表現が、私は他の所の教えを勉強したことが無いので、内容を十分には知らないけども、私が使うんだったら、

私と今と此処、そう言うものが別のものでない、そう言う風に三身一体って言うのは使いたいね。

自分を離れて今、って言う時なんか絶対にありえない。自分を離れて此処って言う場所なんか有り得ないのですね。


だけど考えって言うのは、私が死んでも円通寺は残る、そう言う風に考えるものですね。で、そやって話をすると、誰だって、

そりゃあなたが死んだって円通寺は残るよって、誰もそう思ってますから、そう言う風に返事するんだけど、

自分が死ぬるとですね、どうなるかって、一切のものが消えるって言うことさえも知らないですね。不思議ですね。

自分が亡くなると一切のものが消えるとか、なくなったとか、残るとか残らないとか、皆が問題にしてることさえ、

何処にも出て来ない、こんなにすっきりしてるって言うことでしょうかね。良いでしょうね。

まあこの辺で。ちょっと残しちゃったんだけど。全部終わるつもりでいたんだけど、余分なこと話たんで長くなってしまいました。

すみません。じゃもちょっと残して、終わりにします。


次回 円通寺講話会 は 11月26日(土)18:30~20:30 講本 水野弥穂子 正法眼蔵 (三) 岩波文庫

(三十七品菩提分法は終わり、第六十一龍吟に入るかと思われます。)
(龍吟は後にして、三十七品菩提分法の、四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支前半 を順次お届けします)



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  1. 2016/11/16(水) 19:16:52|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
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三十七品菩提分法 八正道  正命道支

音声はこちら↓

三十七品 正命道支_01
三十七品 正命道支_02
三十七品 正命道支_03
三十七品 正命道支_04.
三十七品 正命道支_05


次が正命道支6番目になるんですか。五番目か。八正道の五番目、正命道支。

命というのは生活ということでしょうかね、訳したら。同じ前のも生活には違いない。

正業道支って。似た様な内容でしょうけれども。


「早朝粥、午時飯なり」命を支える。朝はお粥を食べ、昼はご飯を食べる。

それから「在叢林弄精魂なり」修行道場にあってですね、本当にそう言う風にして、

親しく自分の今出来てる様子にこう在るということですかね。

精魂を傾けるっていうんだけど、精魂を傾けるって言うことは、今やってることに親しく居るってことじゃないですか。

余所見をせずに、それず外れずに。身も心も全て今やってるだけでこうやって居てみる。

考え方がそこにおこるとたちまち生活している事実からですね、浮き上がってしまうんですね、考えっていうのは。

事実からすぐ目が離れる。嘘だと思うなら皆さんやって御覧なさい。

考え始めたらすぐ今の生きてる自分の事実から離れていきますよ。


「曲木座上直指なり」曲木っていうのは坐る処の椅子なんですけども、腕の処にこう曲がったものがつけてある

から、曲木って言うんです。けどもそういう処に坐ってお話をする。

それから「老趙州の不満二十衆、これ『正命』の現成なり」立派な生き様をしている所には、

人はそう集まらないって言っていいのでしょう。なんだろう、中々そんな所に居れないものでしょう。

厳しいっていうんだけど、正しいって言った方が良いのでしょう。厳しいって言うといじめみたいなものになるんで。

修行を、正しい修行をされているって言うことになると、人間は中々窮屈みたいで居れないのかも知れない。

それは考え方が中心になって生きてる人はですね、自分の考えてることと生活してる内容が、あまりにもかけ隔てがあるからです

ね。お粥出てきた時に、お粥食べる時にこんなことしてて何になるって思うじゃないですか。

ご飯出てきたらご飯食べるだけ、お茶出てきたらお茶、お掃除のときお掃除するだけ、礼拝する時礼拝するだけ、

こんなことして一日やってて何になるんだろうって、何時も思うから、とてもそんなとこに居れないでしょう。

私の求めてるのはそんなもんじゃない。お寺に来たら、もっと何か立派な、らしいもの学べて、素晴らしい人になれるって、

何かそういうものを求めて生活入ってきますから、そういう人たちはとてもこんな生活じゃ耐えられないですね。

だから二十人に満たなくなるのは目に見えてます。二十人も居りゃ立派なもんです。


「薬山の不満十衆」十人に満たない。

うちの師匠なんかでもそうだったけど、貧乏な寺で食べるものとて無い。在家の参禅の方が来ると昼になっても帰らないと、

師匠がご飯時だなって言って、なんか出さなきゃ悪いって思うんでしょうね。お米もないからご飯も無い。

台所に行くと井戸から汲んである水が水桶にある。そっからこうやって水を汲んで皆に出して其れで参禅をしていた。

そんな状況で私らもそういう処で育ったから、来る人達が子供さん達の食べ物まで取っちゃ悪いって言う様な言い方された。

そういう中で育ったんだけど、貧乏だって思ったことが無い。水一杯で皆有難く其れを頂いて参禅をして帰ってました。


お坊さん達も四、五人はいつもお寺に寝泊りしてる。一緒に修行してる人がいたけど、殆ど蒲団を引いて横になってるのを、

私が小さい頃はみたことが無い。私が気が付くといつでも坐ってるって言って良い位坐ってる。もちろん一日中坐ってるにしても、

時々外に行って歩いてきたりしていますけども、四、五人の人が順番に食事の準備をして、バケツに一杯位の水を汲んできて、

一日その一杯の水で過ごすような生活をしてる。質素というかこんなに簡潔な生き様をしてる人は居ないなと思う位、

そういう生き方をしてる。だから普通のひとは耐えられないね。そういうものがお坊さん達の世界の様子でしょうね。

求めるものが違うんだよね。まあ「これ正命の命脈なり」

「汾陽七八衆」これも人の名前です。汾陽の所では七、八人。

そんなに沢山の真面目にやる人が集まる訳はない、言ったら悪いけど。それは仏法だけじゃなくて普通のことでもそうですよ。

世界のトップを目ざす人達を見て御覧なさい。そんなに沢山居るわけじゃない。やれない、そんなには。


「これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆえに」 要するに、金儲けとか名声とか

何かそういうようなものを目的にしているんじゃないですね、修行すること生きて行くことは。

本当に自分自身が心底満足の行く有り様、そういうものを成就しよう、成し遂げよう、それがわかったら、人にもそういうことを、

勧めて救える、救ってあげる、そういうことを心がけているんであって、これだけやったら他の人よりも裕福な生活が出来るとか、

そんなこと望んでいるのじゃないですね。そういうことが、この辺に挙げられている「もろもろの邪命を離れたるがゆえに」

釈迦牟尼仏言、「諸声聞人、未得正命」そういうところ引いておられます。

自分中心にして自分の幸せだけを考えているようなあり方をしている人達は正しい生き方は出来ない。

相手のことを本当に思う時に、自分のことを問題にする人はない。それが皆さん知っていることでしょ。

治療する医師にしてもそうです。自分のこと忘れて人の為にただやってる。それが尊いのでしょう。

知らないうちに自分のこと忘れるんですね。やってることだけに。それが自分の様子ですから。自分のこと忘れてますね。

自分ことは何処へも行かない。それがそのまま人を助けることになる。

ところが自分のことがどうしても気になって、自分の思い通りにならないと、腹が立つような生き方では人をも育てられない。

子供もまともに育てられないって言って良いのでしょう。いろいろ家庭の中で問題が起きる時見て御覧なさい。

何で親が子供をいじめるか。自分の思い通りにならないだけじゃないですか。

子供を育てる時に自分の思い通りにならないからって、子供をいじめてどうするんですか。


「しかあればすなわち、声聞の教行証、いまだ正命にあらざるなり。しかあるを、近日庸流いはく、声聞・菩薩を分別すべ

からず、その威儀戒律ともにもちゐるべしといひて、小乗声聞の法をもて、大乗菩薩法の威儀進止を判ず」
とあります。

声聞とか縁覚とか菩薩とかって言う名称があるんだけど、人のものを学ぶ時のランクづけをしてるんでしょうかね。

三段階ぐらいに分けております。

その中で声聞という、声を聞くって言うんですけども、声聞。人の教えを聞いて学んでいくような在り方でしょうかね。声聞。

本来は人の教えを聞いてものを学ぶんじゃないですね。自分の様子は人に聞いて学ぶことは一切ありません。ね。

人から教えられて学ぶものはないですね。自分がどうなってるかってことを学ぶのに。だけどちょっと力のない人は、

人に教えられないと自分の様子がどうなってるか見る力がない。そういうものなんですね。


こうやって毎日ものを見てるんだけども、どうなってますかって、どういう風に自分は生活をしてますかって、

水をむけてあげないと、毎日見てることがどうなってるかを見たことがないんですね。

一生懸命見ないとものが見えないと思っている。パッと見ただけで、ちゃんと其の通りみえるんですね。

修行するとかしないとか関係なく、こうやって見える力がある。


一般的には小さい子はものがよくわからないと大人は思ってるじゃないですか。かなりそういう面があるでしょ。

小さな子の方が能力が低いと思って、ものが良くわからないと思って、そんなことはないですよ。大人以上ですよ。

誰も教えないのに、モデルの車、こやって10台ぐらい在って、パッとみせると、ひっくり返そうがどうしようがすぐわかる。

大人はですね、最初に見た方向に並べて貰わないと其れがどうなってるか分からない。それ位大人はたいした能力はないな。

何処で学ぶんだか分からない。本当に。


おっぱいと水の違いを誰が教えたか。誰も教える人はないよ。だけどちゃんとその違いが分かる。

水が欲しい時におっぱい飲まされても、赤ちゃんは喜ばない。何で。泣いてるから、お腹が減ってるからおっぱい飲ましたらいい、

と思って、おっぱい飲ませるお母さんが居るけど、子供でもですね、水が欲しい時がある。水分。おっぱいと水分では違う。

ああいうものが、大人は子供が泣いてるって聞き分けられるだけの人が中々居ない。ましてや初めて子供をもうけた場合、

体験初めてだから良く分からないって、大人は必ず思うんです。じゃ、赤ちゃんは?赤ちゃんも初めての体験ですよ。

おっぱいも水もはじめての体験なのに、どうして違うことが分かるんですか。誰も教えないのに。

こんなに素晴らしい能力みんな持ってるでしょ。


声聞っていうそう言う位の人達です。教えられてやっと自分のことが分る位の程度の人、そう言う位の修行をしてる人を、

声聞と言います。別にここからここまで声聞、ここから菩薩っていう風にここの中に分かれてるわけじゃないんですよ。

だから安心して下さい。自分で分けないで下さい。本当に誰しもがちゃーんとした生き方をしてるものがあるんだけど、

それが自分でわかるようになったら、立派な生き方になる。そう言うことが問われますね。

「しかあればすなわち、声聞の教行証」修行の過程でしょう。見たり聞いたりして、それが実行に移されて、

実行した結果なるほどって言う様な、納得の行く処まで行く、そう言うことが教行証でしょ。そう言うこと一応やってですね、

行くんですけど、「いまだ正命にあらざるなり」最初から話してるように、

声聞ていうもののあり方をしている人達は、その程度だからものの本質が分るのにそれ位開きがある。

だけども、「しかあるに」最近力の無い人達、つまらない人達が、「庸流いわく」声聞も菩薩も

分け隔てる必要が無いじゃないか。どっちも用いたら良いじゃないか、声聞の人の様子も菩薩の人のあり方も用いたら良いじゃな

いかと言ってですね、小乗声聞の法を以って、つまらないものを以って、立派なものの在り方を評価する。


丁度ですね、悟りを開いた人がそこにいた時にですね、悟りを開かない人がそこに居てですね、開かない人はですね、

悟りを開いた人の内容を素晴らしいってって、誉められて悟りを開いた人が喜ぶようだったら可笑しいでしょ。そう思いませんか。

ものが分らない人に誉められてなんになるんですか。ものが良く分る人に誉められて初めて価値があるのでしょう。

そう思いませんか。ダイヤモンド一つでもそうでしょう。鑑定する人に力があって、力のある人が鑑定したものだから、

これが認められるんであって、鑑定の力の無い人がこれは素晴らしいもんですって、こうやって置いて、

誰がそれをじゃ買って行くかって。


最近はそうじゃないですよ。お坊さん達修行をしてんですよ。在家の坊さんじゃない修行もしたことが無い人が誉めると、

何かいい気になってる。そう言う姿が沢山ある。かって私が修行してた時に、そう言う身近なことを見聞した。見聞きした。

その方が本を出される時に、誰に序文を頂くかって言った時に、東大の名誉教授か何か言う人に、肩書きのある人に序文を書い

てもらった。何で仏法の話を書いてある本の序文にですね、そういう人に序文を書いて貰い出さなきゃならないか。

何の価値があるか、それが。この人に誉められて。こんなもの大事にしてるって言う事を見聞きした時に、この本は読むに足りない

って思いますね、私なんか。第一級の人がそれを読んで、ああ、この内容だったら、是非私が序文を書かして貰いたいって、

言う位の人に書いて貰ったら、其の本は価値があるよ。まあそんなことはそこらへんにいっぱい転がってる話ですよ、これ。


「釈迦牟仁仏言、『声聞持戒、菩薩破戒』」かって聞いたことのある歌にですね、悪を憎むを善だと思う、

悪いことを憎むのが善いことだと思う、その憎む心が悪だと言う様な、そう言うことを残してる人がいた。

そう言うのがこの文章にピッタリするんでしょうね。声聞の持戒、悪いことするなって言うでしょ。正しいには違いない気配があるじ

ゃないですか。だけど其の前に善し悪しをつけるって言うことが問題なんでしょ。

菩薩って言うのは善し悪しをつけないで生活している。そうすると、声聞の人からすると、菩薩のやってることは破戒じゃないかっ

て、どうでも良い様な、善し悪しをつけないで、よく平気で居るなって、ものがわからない人からすればそうですね。

もの学ぶ時に善し悪しがちゃんと分って、善い事をする悪い事はしない、それが正しいのじゃないかって声聞の人は思うんですね。

だけどものが本当に良く分ってる人はですね、本当にものに最初から善し悪しが無いって言う事が基本なんですね。

感じませんか、そういうこと。そうやって、お互いこうやって、あの人はいい人悪い人がってそういう事やることがつまらないですよ。

一切のものに対して、そうやって善し悪しの見を以って見ない、向かないって言うのが菩薩の戒律の守り方なんです。

小乗の人の戒律の守り方は、最初からものに対して善しあしをつけてる。そして悪いことはしないようにしよう、善いことをしようって

初めから優劣がもうある。そういうな事が、声聞の持戒は菩薩の破戒って言われるような言い分になるんでしょうね。

いろいろあります。

一例だけ挙げて内容をもう一回みますが、「しかあれば、声聞の持戒とおもおへる」声聞の人はこれが戒を守っ

てるんだってそう思える内容だけども、「もし菩薩戒に」比べてみれば、声聞の人達は戒をしっかり守ってるって

内容は、正しいものを間違えて受け取ってる、破戒ですね。


その他のことも定とか慧とか言うようなものもそれと同じようだと言う風にあげてあります。

具体的にもうひとつ「不殺生」、ものを殺さないという事ですかね。命のあるものを殺さないと言うようなものを挙げてもですね、

「自ら声聞菩薩あひにたりとも」同じように命あるものにを殺さないち言うことに関して似た様なことを、

やってるけど、「かならず別なるべきなり」内容が違う。みんな東の方へ向かって歩いてるからって言って、

内容を見てみると目的が違うって言う様なことがあるでしょう。同じ方向に歩いていれば皆同じかってそんなことはないですよね。


近年、この第一不殺生戒ってのがあるんだけど、はじめに。殺さないって言う戒があります。こういうなもの問題になって物議をか

もしたことがある。その代表的な話をすればですよ、狩をする人、所謂鳥や獣や魚やそういう生き物を取ることを生業をしている

人、それから取ったものを今度は料る人ね、そういう人に対して長い間私達は偏見を持ってた。卑しい職業、身分の低い者だって

言う風なものの見方をしてきたんでしょうね。

食べる人は誰が食べるかって言うと、そういう風に批判をしてる人が一番沢山食べるんですよ。自分の手を汚さないでですよ。

人がそうやってやったやつを食べてるんで、私はものを殺してませんて言うような顔をして食べてるんですね。

殺させてるのはあなた方のほうじゃないって言うことを知らずにやってる。そういうな長い間日本の国の中であっても、

取り上げられてます。やっとこのごろそういうものが正当な見方で出来るようになってきたんじゃないですかね。


特に日本の国ではそういうことが近年まであったでしょう。まあ今でもひょっとしたら、そういうものの見方をまだ何処かで伝え聞い

て、そう思い込んでる人が居るとしたら改めるべきでしょう。或いは生き物に対して、植物と動物の違いって言うよう様ものを勘違い

してですね、動物に対しては殺すってことを非常に意識が強いんだけど、植物についてはあまり殺すって言う意識はないですね。

だから、平気で買ってきた物が枯れて、或いは腐ってもですね、動物が死んだのと違う感じがするじゃないですか。

同じ命のあるものですよ。或いは茶碗やこういうものでも、皆そういう机でも命あるものですよ。座布団でも。

どうやってそれを大事に扱うかって言うようなこと。

昔はこの不殺生戒は本当に動物だけに対してやってたかも知れない。原点は人が人を殺さないって言うことだったはずなんです

ね。自らの命を自ら粗末にしない。あるいは両親、近いところから言えば両親を殺さない。他のものは何処の国でも取って食べて

るんですね。国によっては食べるものが違うじゃないですか。何故違うかっていうと、其の国にはそういう動物が居なかったからで

しょう。インドでは牛を大事にする、豚を大事にする国、羊を大事にする国、ウサギを大事にする国いろいろあります。それによって

何を食べて良いかって言う、国で決まりが自ら出来てくるじゃないですか。


兎に角全ての生き物はですね、お互い、お互いを食べて生きてるんだ、そういう風に出来てます、全て。弱肉強食じゃなくて、連鎖

として全てそういう風に出来てる。で何処で殺すとか言う様なことが問題になるか。一番問題になったのは、自分の気に入らないか

らって言って、相手を自分の思い通りになる様にきゅっと締めてしまって言うような殺し方をすることが問題になったんでしょう。

そういうことはしないんですね。


でそこの内容を見てみると、必ず自分ていうものが最初にたって、自分の思い通りになるかならないかって言うことで、殺生すると

かしないかってことをやってきたのが声聞の戒律の守り方なんです。大乗の戒律は全てのものの生き物に対して、

命あるものとして平等に扱って来たじゃんね。それ位同じ殺生に関してもですね、取り扱いが違う。

まあそういう様なことがあって、最近では食肉生産業者って言うんですね。食べる食肉を生産する、殺すんじゃなくて生み出す、

生かすと書いてある生産、そういう風に扱ってます。


「天地懸隔の論におよぶべからざるなり」今の内容を見てみると、その位ひとつの戒律の守り方でも、

声聞のものの考え方と、そういう考え方をしてる人と本質的なももの扱いをしてる人の戒律の守り方はこんなにかけ隔てがあると

いう、違いがあるということでしょう。で私たちはその上等な方を実践していくのでしょう。

「いわんや仏々祖々の正伝の宗旨と諸声聞と、ひとしからんや」だから同じ訳がないじゃないか。

声聞の人たちのものの考えと仏祖の方のももの取り扱いが同じなんて言う風に扱う、そんなことがあってはならない。

「正命のみにあらず」正しい命のあり方だけじゃなくて清浄の命あり。「清浄命あり」

本当にものに、あらゆるものを見てもですね、人が取り上げて思ってる様なもののあり方ではないですね。

第一に優劣がない、ものには。人間はそうは思えない、ものに対して。優劣がないなんて思えない。善し悪しがないなんて思えな

い。綺麗とか醜いとかっていう様なものだってあると思っている。糞ころがしって言うのは糞の中、糞を相手に生活してる。

昆虫です。何よりあれを愛する昆虫ですね。地球は糞の塊の様なもんです、全て。内容を見ると。あらゆるものが、生きてるものが

排泄したものが、全部地球の上にあるんだよね。糞ころがしみたいなもの。人間がものの見方ってそういう風になる。

本当に見てみると優劣なんかないよね。好き嫌いなんて大体ないじゃないですか。


皆さんの耳だってそうでしょ。ポン!ポン!ポン!(机を打つ)どんな音だってしたら聞くんでしょ。

好き嫌い超えてその通り。聞いた上であれが嫌いだこれが嫌いだって言う話があるんで。

聞いている時に好き嫌いをして聞いている人は居ない。全部その通り聞くから、後で自分の思いに比べた時に、

気にいるとか気に入らないとかって言うことをやってるだけ。ものを見るたってそうでしょ。そこにありゃ全部見るんでしょ。

その時になんてことはないのでしょ。そういう大きな生活をしてるじゃん。博愛主義とかって言うんだろうけど。

一切のものを嫌わずに受け入れるだけの能力がある。こういう風に生活してるのに、自分を立てると、

たちまち小さな世界になるですね。自分で首を絞めるのでしょう。そういうの処をみると小乗の命っていうのがよくわかるでしょう。

どういうものが本当に素晴らしい在り方か。


「しかあればすなはち、仏祖に参学するのみ正命なるべし」本当によくわかってる人に学ぶって言うことが、

ものの命を学ぶ時に正当だと言うんでしょう。「論師等の見解、もちゐるべからず」良さそうなんだけどね、

いろいろ評価が出来て。評論家って居るじゃないですか。あんな楽な仕事はないですね。誰でも出来る、評論家なんて。

責任ないんだもん、殆ど。言ったって。あーだこーだって言ったって。多分こうなるでしょう、ああなるでしょう。色んなこと言って、

一週間たったら、ああなったって。合ったとか合わなかったとかって取り上げてるけど、その程度じゃないですか。

人を混乱させるような職業ですね。あれに対して今度は視聴者が好きなタイプの評論家が居て、この人が好きだとか言って、

その人の言い分をまともに受けて、そうやって生きてるだけじゃない。こんなこと離れるべきじゃないですか。本当に。

そういう風にして本当はものを学ばないといけないのでしょう。だから新聞なんかでも一社だけ読むと偏ってますから、

だから何社か新聞を取ってみると、同じ事柄に対して意見がみんな違う、そうすると全容が大体見えてくるってのが、

今のあり方です。


「味得正命なるがゆゑに、本分命にあらず」ものが本当にわかってない人の生き方だからって、

書いてあります。本物の生き方じゃないって、それは。本当の生き方ではない。


  1. 2016/11/14(月) 19:29:16|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (八)

音声はこちら↓

三十七品 正業道支 8_①
三十七品 正業道支 8_②.
三十七品 正業道支 8_③



「あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり」

維摩の一黙と世尊の一黙と同じだと思っている。この思うという文字ですね、三文字おもふと書いてある。

思うって言うこと、これは中々味わってみる必要がある。思うんですよ。維摩の一黙と世尊の一黙が同じだと思うんです。

同じじゃないんです。思うんです。この人達は皆そう思っているだけなんです。だからつまらないでしょ。

ああだとかこうだとか思うだけ。活路はないですね。生きていく道はない。開けない。


「さらに分別の光明あらざるなり」折角思慮分別を使うんだったら、ものが本当にどうなっているか、

って言うことをはっきりさせる力があってもいいじゃないか。思うんじゃなくて。そういう風に使うのでしょう。

「かくのごとくおもひいふともがら」ここにも思いというのがでて来ました。

思ってそういうことを言ってる、審細に参学すべしって言うんだけど、参学はしてない。学ぶんじゃないんだよ。

自分の頭の中で、ああじゃないかこうじゃないかって思うことをやってるだけ。それは修行には一切ならない。

もうちょっと身近なことで言えば、食べ物のレシピがそこにあって、それをここに開いて読んで、材料はこういう物、

切り方とか調理のしかたとか火の通し方とか熱の加え方がどうだとか何分だとか、ふた開けるとか閉めるとか味付けるとか、

いっぱいいろんなこと書いてある。これずーっと読むと大体出きた様に思える位ちゃんと書いてある。それがレシピでしょ。

でこれをここへ置いといてですね、読んでは何回も読んでは、ああなるほどこんな風に。

一日やってもですね、ご主人が帰って来た時に食べさせるものが何もない。出来ない。普通はですね、作ってみるんですね。

作ってみると、出来栄えがそこにあるから、それを自分で食べてみると、味もわかる。

レシピ読んで完了したところで味がわかるかって、そんなことは無理です。ああいう味がするんじゃないか、

こういう味がするんじゃないかって思うだけです。本当にここに有るように思うということだけなんですね。

人がやってるのは殆どそうです。


パン!こうやってした時に思うんじゃない。実際この音に触れるって言うことがあるじゃないですか。

そうするとイキナリ音がしたら音がした通り、パン!ちゃんと人はなるようになってる。

修行ってこういうことでしょう。修行するってどういうことかって、パン!こうやってやると、

こういう風になるって言うことが修行でしょ。パン!

自分の方で何かしてその様に作るって言う様なことは、一切修行の中ではしません。

自分の方から造作するあり方は、ここに挙げてある梵天とか自在天の教えなんですね。仏法ではないのです。


こうやって、パン!音がしたって聞きなおすなんてことをやったことないでしょう。

イキナリそれで完結です。パン!終わりです。やり直せないんです。パン!

やり直せるんだったら、皆さんが考えているような修行したら良いじゃないですか。

何回も何回もやったら段々立派になってくる。そんなことは絶対にありっこないです。この音パン!

これで終わりです。後にも先にも聞きたくても聞くこと出来ない。そういう風に私達は生活が成り立っている。


だから、修行する時に自分の見解、考え方を用いずに、本当にパン!この事実に、

こうやって学んでみる必要がある。知らない人は自分の考え方の上から、思いの上から学ぶから、最初に思いがあるのですね。

ああなりたい、こうなりたい、ああなったらいい、こうなったらいい。そういうものを目の前に掲げといて、

それに向かってこうやって進んでいって、そういうものを修行だと思っている。それ二重生活でしょうが。

実際の生活に二重生活してる人なんかないですよ。もうひとつの在り方を生きてる人なんかいません。


ただ考え方っていうものは、今だけで生きてるものと別に、こうやっていろんなものを思い起こさせる力があるから、

その考えがはびこってくると、考え方に近寄っていくんですね。

どこまで近寄って行ってもですね、考えの方に近寄って行って真実がはっきりするって言う事は不可能です、それは。

道が全く違います。それお分かりでしょう、そういうこと。


これパン!何処で聞くんですか。この音を何処で聞くんですか、この音を。

一切自分のものを持ち込んで聞くっていうことはないでしょう。少しでも自分の考え方をそこに入れて聞こうとしたら、

必ず余分なことでしょう。それが、はっきりさせなくするのでしょう、この音を。そういうこと本当に勉強してほしいですね。


「すべていまだかって仏法見聞の参学なしといふべし」まあ道元禅師はそういっておられる。

仏法っていうものがどういうものであるかって言う事を、聞いたことも学んだことも全くない人だから、

思慮分別を相手にした学び方をするんです、とこういってる。これは現在でも同じですよ。


「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」ということはですね、

衣を着ていたら、頭を剃っていたら、皆素晴らしいお坊さんだと思うんじゃないですか、一応。

それは外見であって、内面はそんなことじゃないよって。これもそうです。同じでしょ。

お隣の中国の大国の人は皆立派な素晴らしい人だって。かって日本の人は西洋とか諸外国から入ってくる文明に、

非常に弱くてですね、日本の文化というものはすごく程度が低いものだと言う風に扱って、よその舶来品って言う、

よその文化を尊ぶ習慣があった。本当は今見直されているように、日本の文化って言うものは世界でも冠たるものですよ、

あらゆる面で。そうおもいます。


高級なホテルに行ってですね、五つ星位のホテルに泊まって、そこのシェフの作って出してきた料理、それは確かに立派です。

だけども、家に帰ってですね、ご飯たいて味噌汁たべた方が美味しいっていうのは、何だって、私も思うんですね。

会計すると何万って言う、一食何万もする。家じゃ2,3百円、そっちの方がはるかに美味しい。

折角の材料をこねくり回してですね、一番のその素材の良さを失っているんじゃないかって思う位、

不思議なこと料理ってのはしてますね。それが何か優秀な人達がやってる。


で、これ肩書きに弱いってこともあるじゃないですか。

「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」というような事は、

そういうことも通じるでしょう。何か肩書きがあったり、何処何処の学校出てるっていうと、皆そこを出ると素晴らしいのかって、

そこだってピンからキリまであるって。同じ学校でも。


「その道理、明らめやすかるべし」そういうことは誰でもちょっとすればよくわかることじゃないか

て言っております。何が言いたいかって言うと、騙されるなって言うことでしょう、そんなものに。


いわゆる『正業』は僧業なり」正しく行う一日の生活(生業というもの)の基本は、

お坊さんたちが修行している様子だと。それを超えるものはない。これ道元禅師が自分で修行の道場作って、

そこで後継者を、あるいは立派な人を育成しようとして道場を開いてますから、当然こういう見識でしょう。

何処でやるよりも私のところに来て一緒に修行したら、これが一番だよって言っておられるでしょう。


「論師、経師の知るところにあらず」ああでもない、こうでもないってやってる様な人達の知る範囲ではない。

こっちは実物で生きてる、実物で。一日中。一方はここから上で(頭?)生きてる。ここで取り扱っている。

でああじゃないこうじゃないって、あすこにこういうことが書いてある、ここにこういうことが書いてある、あっちの人の言い分は、

こっちの人の言い分はって、そんなことをこちょこちょ、こちょこちょやっている。そんなことじゃない、って更に詳しく書いてある。


「僧業といふは、雲堂裏の功夫なり」雲堂という建物、生活の場所はですね、一般の人達の家庭の生活とは

違うって言うことなんですね。生まれると、生きて行くためにどうしてもいろんな生業をしないと生活が出来ないから、

給料をもらうために俸給を頂く為に働く、云う様なことが一般社会のあり方でしょう。この当時の出家って言うのは、

家族を持っていませんからね、だから家族を養うために坊さんたちが働かなきゃならないって云うことは一切ないのですね。

今の坊さん、私もそうですけど、家族を持ってるから、家族の養成の為に、学費を出すとか、教育費とか生活費とか、

そういうものを、子供たちが自分で稼げないから、親が働いてそれで育ててる。

そこら辺になると、お寺って云うんだけども、雲堂というような感じは今、私の寺でもないですね。

在家と全く変わらない位になってしまっている。

比較してみると、昔のそういう道場っていうのはこれぐらい純粋に出来てるんですね。


「仏殿裏の礼拝」こういうところで礼拝をするにしても、仏様に拝んだら何か頂けるんじゃないかって

云う様なことはやっておりません。それは在家の人が言うことです。神仏に礼拝をして。

お坊さんたちの礼拝はそんなことしません。違うんですね。

後架って言うのはその修行道場の裏に所謂洗面所があってですね、顔を洗ったりする様な場所がある。

そういう所ですね。汚れてるから顔を洗う訳じゃないんですね。自分の顔が汚れてるから顔を洗う訳じゃないですよ。

そういうの見てください。ないし合掌したり、問尋したり焼香したりお湯沸かしたりしているわけですが、

一日の生活逐一挙げてありますね。ここに大体。何をしておっても、本当にその事をその時に親しくやっているだけ。

字を書くにしたって、ただこうやって線をズーっと引いているだけじゃないですか。


リーンリーン(携帯電話が鳴る)ああやって鳴ったらその鳴ったのに従って動いているだけ、

あれでいいんじゃないですか。外のことやらない。凄い単純なんですよ。もっと云ったら、単純ていうか外の事できないのですね。

こうやってる時に(指で字を書く)、もう一つのことが私のこの指で出来ない。こうやってものを書いてる時に、

もう一つのことやろうたって出来ないでしょうが。これをこうやって見てる時に、もう一つのものを見ようたって、

これを見てる時にもう一つのものを見よう思ったら、どちらも見ることが出来なくなるでしょう。

そういう風にして単純にそのことを、本当にその事を取り組んで生きてる。そういうものが僧業という坊さんたちの生き様です。


果たしてじゃあ、厳密に坊さんという人がそういう風な生き様を、今してるかって問われたら、

答えは各自で出せばいいんですけれど、若しそういうことが行われてなかったら、

衣を着ていようが頭を剃っていようがなんら在家の人を変わらない。

そういうことが、「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」っていう様な内容になるんです。


頭を以って尾に換えるというんですね。「以頭換尾するのみにあらず」脚注で生き方の転換と訳してあります。

そのものを以って本当にそのものを実践する以外にないじゃないですか。「以頭換頭」頭を以って頭に換える、

心を以って心に換える、仏を以って仏に換える、道を以って道に換える。どれを挙げてみてもそうでしょう。

そのものを以って本当にそのものを味わうんでしょう。


でも考え方っていうのは、このことをやっていながら他のことに心を向けるんですね。そうでしょう。

仕事をしてても、今仕事してるんだけども、他の事に心を向けてる人沢山いるでしょう。

菜っ葉切ってる時に他の事位考えられますからね、手を切らずに。だから他の事を考えられるから、

他の事を考えて、あれやったらこれやったらって、こと効率が良いと思うじゃないですか。幾つもいっぺんに仕事ができて。

どういう風にきった?って言うと、初めて自分の切ったとこ目を向けて、どういう風にきったかって言われて、

あれ、こんな風になってって。知らないんだよ切ってても、自分で。こんな無責任な生き方してる。


これ料理人だったら大変ですよ。料理人の素晴らしい人たちは皆、今やってることきちっとやってますよ。

他に心を向けるような一級の料理人はいませんよ。その場を離れない、火をつけたら。焼き物をしても、蒸し物をしてても。

少し位離れてもね、ガスをつけて乗せといてもどうこう無いもんだから、火をつけてどっか行って来るでしょう。

味噌汁がぐつぐつしてても。そういう生活の自分の有り様を比べてみて御覧なさい。

人間位のものでしょう、他の事やるのは。殆どのものは蝶々でもこうやって飛んでる時ただこれだけですからね。

これだけをやってる。他の事やってませんよ、飛んでる時に。それで飛んでいけるんだからいいじゃないですか。

こう言うな処よーく見て下さい。「これすなわち正業なり」あやまりて仏法の商量すれば、

眉や髭が落ち思わず顔が崩れる、とあるんですね。「面目破顔するなり」「あやまりて仏法の商量すれば」

間違って仏法のことを取り上げれば、とんでもないことになるよといってるんでしょ。

そういう生き方をしないようにしたいものですね。


  1. 2016/11/12(土) 19:35:37|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (七)

音声はこちら↓

三十七品 正業道支 7 ①
三十七品 正業道支 7②
三十七品 正業道支 7③
三十七品 正業道支 7④



あるいは邪人おほくおもはく、「言説動容はこれ仮法なり、寂黙凝然はこれ真実なり」

かくのごとくいふ、また仏法にあらず。梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所計なり。

仏法いかでか動静にかゝはらん。仏道に動静ありや、動静なしや、動静を接すや、動静に接せられるやと、

審細に参学すべし。而今の晩学、たゆむことなかれ。

現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。両三箇あるにあらず。

維摩は是にして一黙あり、いま一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし。

あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。

かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかって仏法見聞の参学なしといふべし。

大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなから。その道理、あきらめやすかるべし。

「いわゆる『正業』は僧業なり。論師、経師の知るところにあらず。

僧業といふは、雲堂裏の功夫なり、仏殿裏の礼拝なり、後架裏の洗面なり。

乃至合掌問訊、焼香焼湯する、これ正業なり。以頭換尾するのみにあらず、以頭換頭なり、以心換心んあり、

以仏換仏なり、以道換道なり。これすなわち正業なり。あやまりて仏法の商量すれば、眉鬚堕落し、面目破顔するなり」



続きますがそこら辺で。当時の人が如何おもってたか、と言うよりは、今の私達がものを学ぶ時に、

どういう風にものを扱っているかと言う事を見て貰ったほうがいいのでしょう。


「あるいは邪人おほくおもはく」間違ったものの考え方をしている人たちの様子ですね。

言葉に表す、或いは文字に表す、そういう風な日常の様子がありますが、それが本当のものでないと言うんですかね。

「仮法なり」本当のものはどういうものかって言ったら、「寂黙凝然」静かにして

今こうやって居る、そういうものが本当の有り様だって言う風に考えておられる人が当時もおられたのでしょう。

今も居るかもしれません。


よくよくこうやって触れてみるとですね、真実以外の生き方をしてる時間は一秒たりとも無いのですね、ものの推移として。

だけども、捉えてどの様に思うかってなると、こういうものはつまらない、こういうものは立派なものだ、

っていう風にものに対して、今の有り様に対して人が評価をしている。

そういうことによって、こちらは真実でないこちらは本当の様子だって、言う風に分けてる人が当時もいたのでしょうね。

今も居るかも知れません。それはどこに問題があるかって言うと、人の考え方で取り上げている話であって、

実物そのものの様子ではないということです。実物そのものの様子にはですね、初めから優劣も何もないですね。

そして必ず今のこの有り様を除いて他の生き方をしている人は一人も居ない。

そういうことを各自よく自分を味わって貰ったらいいでしょう。


道元禅師はかなり強烈なことを言っておられますね。「かくのごとくいふ」全く「仏法にあらず」

そういう風なものは仏法を論じてるって言うんでしょうけれども、仏法とはかけ離れている、人の考え方の上の話。

例えば、教本を読めば仏法を論じてるって思うかも知れないけれど、そうではないですね。そういうことが日常にもあるでしょう。


「梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所計なり。」

 仏法以外の教えを元にして、ものを考えている人達の言い分ですね。仏法以外のものという表現だと,

とっつきが悪いかも知れないから、事実以外の、人の考え方の上のものをとり上げて、どうこう言ってる人達です。

で人間の考え方の中には、ここにある様に梵天とか自在天とか言われる様にですね、一応高級そうなものの考え方が,

あるじゃないですか。最高のありかたとか一番の幸せとかって言う様なものを人は考えますから、

そういう考え方の上で話をすると、お互いに考え方同士のものが触れあった場合にはですね、なるほどって理解が行って、

手を結んでそうだそうだそうだって、一緒に進んで行く、そういう程度のことですね。


そこで、「仏法いかでか動静にかゝはらん」と言うような事が出てきます。

人の言い分、考え方、思考、そういうものに左右される様なものではない。

だから、皆さんが真実とか言う様なものを、世界中の人がものを学ぶ時の根底においてですね、

誰も狂いがないから、それを本当に相手にして、どうなってるかってことを勉強していく。

自分自身の様子もそうですね。自分自身の様子を考え方の上で取り扱っている人は自分自身のことがよくわからない。

そういう風になってます。


「仏道に動静ありや、動静なしや、動静を接すや、動静に接せられるやと、」

静かだとか動いているとか、言う様なことですね、動靜。静かとか動いているとかって言う様なものは,

ものの見方の中に出てくる。本当に自分達の様子、触れて御覧なさい。


間単に言えばですね、手一つこうやって動かした時にでもですよ、(右手を右の方に伸ばして広げる)

他の動き様がないのでしょう。見て貰えばわかる。私の手こうやって動かした時、私の手の動きがこれ以外に無いのでしょう。

そういう風な働きをしてます。動いたとか動かないって言う様なことは出て来ないですね。

動かしたとか動かされたとかって言う様なものは、何処かに自分で何かを認めている所からこの動きをみるからです。

考え方があるんですよ、見方が。最初に点を打つんです。ここから距離が出てくるんですね。

こっからあそこまでってやるから、距離が出てきます。だけど今こうやって見てる時に、遠いと思われてるものも、

窓をパッとあけると一気に見える。近いものも遠いものも一気にパッと見える。

普通だったら遠いものは時間がかかって段々見える。そういう風になってる。


空をみて星が見える。昨日も何かメールを頂いた。夕べ面白い天体ショーがあったらしい。見損ねてしまったんだけど。

そういう計算上ではですね、何億光年とかって言う桁外れな年数がかからないと光が届かないはずなんだけど、

不思議ですね、パッとやると星が見える。もうちょっと言うと比べるものがないということです。動きの中に。

もうひとつの様子があれば比べられるけど、もうひとつの様子が無い。そういう処にこの動靜と言う様なことが挙げられる。


本当にものを見てみるとですね、いつもその今活動している様子以外に何も無い。だけど何も無いはずなんだけど、

人間は考える能力があるものですから、昨日のことも思い起こすことが出来るし、これから先のことも考える力があるから、

いろんな対象物が自分の中に在る様になってきます。それは思いの上の話。

そういうものを仏法は扱っているのではない。そういうことを知っといて貰ったらいいでしょう。


「審細に参学すべし」つまびらかに、自分自身のことだから、よーく見てください。

「而今の晩学、たゆむことなかれ」今の私たちのことですね。而今の晩学。

「たゆむことなかれ」って言うことはよそ見をするなってことです。本当に今どうなってるか、

自分自身のことだから、自分自身の様子に親しくふれて、そのことををはっきりさせなさい。そういうものが仏法なんですね。


先ほど、暎道さんがご挨拶に来ていただいた時に、絹の布に英文で色即是空・空即是色と言うものが縦書きに、

英語で書かれている。英語が縦書きに、書かれているものを頂いた。

色即是空、皆さん方がこうやって生活していると、ものが色々あると思ってるでしょう。色ですね、このものの有り様。

だけどもそのものがあるって有り様がですね、目とものが触れると、ただそういうことがそこに現ずるだけですね。

現れるだけですね。知っていますよね。自分の眼とものが触れるとそういう風に在るように、そこに本当に在る様に、

間違いなく在る様にこうやって見えるんですね。それで、それを見た人はあそこにものが在るって言う風に思って、

ここに記憶していきます。そういう風な生活をしてる。

だけども色即是空だからこんなになってますね。ものがあるっていうんだけれども、

実際には眼には向かっているものの様子だけが見えるだけです。いつでも。他にはないですね。いつでも。

もし、そういうことが審細につまびらかに、はっきりしたら、まさしく人はそれだけで成仏、救われていくでしょうね。

多くの人が問題になるのは、見たもので、それがいつまでも気にかかるからでしょう。

気にかかることと、見えてるか見えてないかってこととは、全然次元が別ですよ。自分の眼だからやって御覧なさい。

こうやって涅槃図に向かってると、涅槃図以外の物が見えることはないですよ。今見えてる様子だけです。

いつでも。どうしてそうなのか。不思議ですね。


で、向かった所のものだけが見えさえすれば、生活するのに何の不自由もない。

幾らこうやって向かって、ものが見えたからって、何処にも見たものが残らずに、

こうやってものが何時でも見えるってことが真空なんですね。残り物が一切ない。清浄です。

残り物が無かったら、皆さん、生活して問題にならないでしょう。どんなに酷い事が触れた時に見えても。


午前中にいた所に神戸から、わざわざ、何で神戸から浜松まで来なくてもと思ったんだけど。

「而今の晩学、たゆむことなかれ」他で何かを学ぶのではない。

自分自身の、今こうやって生活しているそのもので学ぶんです。

だから今、一例を挙げたけども、皆さんの使っている眼はものを見る時に、色即是空空即是色、

音を聞くときに色即是空空即是色。パン!(机を打つ)音は何処から出てくるのでしょう。パン!パン!パン!

音がする時、パン!音は何処へ消えて行くのでしょう。音が止むと聞こえない。

こうやって毎日生活してるでしょう。パン!


それだのに、パン!何が問題で苦しむんですか。パン!

何が問題でパン!腹が立つんですか。何か問題で、パン!争いが起きてるんですか。

パン!聞いたことで。問題はそれだけですよ。何処でパン!聞いたものに対して

争いがおこるか。パン!何処で聞いたものに対して腹が立つか。何処で聞いたものでイライラするか。

まあパン!言わずともがな、必ず自分自身のパン!様子の中で今パン!

この触れたものに対して、一念わずかに自分の中で思いがチラッと動くとたちまちやられるだけなんじゃないですか。

他の人のことで、他の人の身体の中で問題になることは一切無い。


そうやって「而今の晩学、たゆむことなかれ」審細に参学すべしと言うようなことでしょうね。

沢山本を読めという様なことじゃない。(咳される)ごめんなさい。何か自分の身体だけど言う事きかない。


そこで当時の中国に渡られた道元禅師が見聞きしてきた内容を残しておられるね。

現在この中国、自分の渡って来て今居る中国を見ると、

「仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし」お釈迦様の悟られたというか気づかれた、

そういうものがどういう内容であるかってことを伝えてきたわけですけれど、

そういうものを本当に理解をしている、悟ってる人は全く居ないっていうことですよ。断絶せるが如し。

それがご自身が中国へ渡って、諸山いわゆる立派なお寺の住職をしている或いは名だたる人、

誰からも敬われている沢山の人達に、そういう所を転々と時間をかけて歩かれた時に感じたことなんでしょうね。


皆さんに関係ないかもしれませんが、毎朝のお勤めで曹洞宗では、お釈迦様からこう伝統として受け継いでくる仏様や祖師方の

名前をずーっとこう読み上げて行くのですが、道元禅師までは、更に螢山禅師位までは、このお二人位までは、

仏祖という仲間に入るんですね。仏祖。だけど、そっから先はですね、そっからのちは自分の師匠の処まで来る間に、

その他の人達は今仏祖と呼ばれてない。一度学会の、研究している、そういう高名な先生方に聞いてみたいを思いますが。

日本でどの辺まで真実の教えが伝わった人として継承されているのかなーって。そういう勉強があると思うんですが、

一度聞いてみたいなと思ってるんですけど。


「両三箇あるにあらず」両三箇あるにあらずってことは、二人とか三人ですね。

数えることが出来ないっていうことでしょう。二人でも三人でもいればいいですよ。断絶せるがごとし、皆無と言っていいのでしょう。

そういう中で、奇しくも如浄禅師という方にお会いになったということですね。


そういう方々がどういうことを言っておられるかと言うと、

「維摩は是にして一黙あり、いま一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり」

まあ黙ってると物事はあまりばれないのでいいのでしょうね。黙秘権というのがあって、

黙ってると割りと物の全容がわからない。隠すのに最高。幾らつついても何も言わないでただこうやっていられると、

つつく方がつつき様が無くなってお手上げになる。黙の使い方を間違えてますね。沈黙は金って言う格言もあるでしょう。

黙って座ればピタリと当たるって言う位大道で占いをしている人達が言うくらいです。


黙るって凄い力なんですけれども、かって維摩居士という方の病床を文殊菩薩が見舞ってくれた時に、

お相手するのに黙ってそこに居られた。そういう風な姿を維摩経の中にも残しておってですね、ああいうあり方は素晴らしいと、

こういう風に言ってる。だから維摩の様に一黙、黙るということをしない様なものは、維摩よりも劣ってるって、

そういう風に思ってる人だって言うんですね。情けないことに本当に「さらに仏法の活路なし」

活路を開けって言うんだけども、つまらん頭の中で考えているだけだから、思い切った活動がひとつも出来ない。


  1. 2016/11/12(土) 18:58:32|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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