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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (六)

正業道支 (六)   2016.9.24 御提唱はここ迄

音声はこちら ↓
正業道支 六ー①
正業道支 六ー②
正業道支 六ー③
正業道支 六ー④


「はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩より

もすぐれたる維摩比丘をみん」


維摩と言う人が居士として取り扱われておりますけども、在家のまま終わったので、道元禅師は、若しあの人が本当に出家を

してたら、もっと素晴らしい生き方が残ったんじゃないかって、こう言っております。


「今日はわづかに空生・舎利子、文殊・弥勒等をみる、いまだ半維摩をみず」

まあ有名なお話として紹介されているものの中に、維摩居士が病気をなさった時に、お見舞いに誰が行くかって言う時に、

皆しり込みをして、維摩と言う人が力があるので、しり込みして、其の時に文殊菩薩という方が選ばれて、しょうがなくってって

言うと怒られるかもしれない、誰も行かないわけにいかないから、文殊菩薩が代表して維摩の病床を見舞うって言う劇的な場面が

紹介されていますが、其の時に維摩は黙っておられたという、その時の維摩が黙ってる様子を「維摩の一黙雷の如し」

って言うんですね。雷のようだって。寄り付けなかったというんでしょう。お見舞いの言葉のひとつも言えずに、そこに文殊菩薩が

立ち往生したのでしょうかね。その位維摩は力があったという事を残してる。その位の維摩と言う人の話を道元禅師が

ここに出してきてるんだけども、それでも、もしこの人が本当に出家をして修業をなさったら、もっと、

もう少しましに成ったんじゃないかって、道元禅師は言うんですね。それ位出家と言うものが尊い内容を持ってると言う事を

言いたいって言う事ですね。そういうことがずーと続きます。


「いわんや三四五の維摩をみんや。もし三四五の維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみずしらず、保任せざるなり。

一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊・維摩弥勒・維摩善現・維摩舎利子等、いまだあらざる

なり。いわんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。

維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆえなり」


出家しなかった所以だとここまで書いてあります。一度本当に何もかにもから手離れてみるって言う位、

出家って言うことはあるんじゃないですか。家だけじゃない、家を出づるだけじゃなくて、自分を縛っているいろんなものの見方や

考え方、ありとあらゆるものから、本当に全部外れてみるって言うことが、真の出家でしょう。


「当時唐朝・宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ」

維摩のことを良く知らないと同時に、仏法の本当の在り様を知らないから、維摩のそういう態度をみて、あの人は立派な人だと、

やることもなすことも全て立派だ、という風にして賞賛をしてる禅師方がこの当時沢山おられた。


「これらのともがら、あわれむべし、言教をしらず、仏法にくらし」まあ一言でいうと、維摩のことを知らないと

いうよりも、自分自身が本当に救われるという事がどういうことか体験がないと言っていいのでしょう。

人の体験した事を聞いたり見たりしてああなる、こうなると言ってるのですね。自分自身が体験してそうなった事とは

全く違うでしょう。人の話でしょう、それは。自分が、人が救われた話を読んで、救われるってこうなるんだなって、

そういう風に理解して、それにそれで救われたって事になるわけじゃないでしょう。

で、ものを学ぶ時に、そういう事が理解できると、自分も同列になった様に思うんだね。思いがちだね。違うよね、全然。

誰かが食べた物の味わいを文章に書いてあるのを読んだ。ああ、何それはこんな味がするんだって。

それ食べた人かって言ったら、食べた人じゃないよ。人の話を聞いて想像しただけだよね。そういう勉強の仕方のなかに、

そういうものすごい開きがあるという事を、こうやって示してるんでしょう。皆さんがどっちを取るかってことですよ。

当然とるべき道は自らが自ら体験して納得する方が正解なんでしょう。それで初めてものの真意っていうものが判るんでしょう。

何でそっちの道を取らないか、いうことでしょう。

だから、「言教をしらず」言葉や教えっていうもの、本当の在り様を知らないと言われるのでしょう。

文字は月(事実)をさす指であると。指の指し示している実物に用があるのでしょう。

文言に書いてある教えっていうものは、そういう風にすべきだという事を書いてあるにもかかわらず、それをああそうかって、

それで終わっちゃって、其の文言を離れて実際に自分でやってみて、なるほど書いてあるとおりだったって処まで行かないって

言う事でしょう。それは文言を知らないってことでしょう、書いてあることを。折角読んでも意味がないということでしょう。

それでは。そう思いませんか。

「仏法にくらし」っていうんでしょ。仏法の話が書いてある。それを読むと、ああ仏法ってこういうことかって、

こだわりを離れるとかね、色々かいてあるじゃないですか。なるほどと本当にそうだなって、そうなったら楽になるなって、

皆書いてあるじゃない。それ読んでそういう風に理解して、それで楽になった人見ことがない。それは思うだけの話。

その辺ではつまらないでしょ。


「あるいは又あまりさえは、維摩と釈尊と、その道ひとしとおもひいへるおほし」

お釈迦様と維摩居士とその悟った心境の上において、なんら違いがないって言う風に受け取っておる人がおられる。

「これら又いまだ仏法をしらず、祖道をしらず、維摩をもしらず、はからざるなり」

一言いえばお釈迦さまって言うのは、誰かから学んだ人じゃないですね。維摩はお釈迦様の悟った内容をどこかで文言を見て、

そういう指南書があって、それに従って行をつんで、なるほどって至った人です。其れ位違いがあるよね。

一番最初にものを本当にこう見つけるってことはどれ位至難なことでしょうかね。


野山に行ってその雑草を食べて、これが薬草であるか、或いは毒薬であるかって言うようなことをはっきりさせるために、

トリカブトなんか食べちゃって、死んだ人いるんじゃないか。あれ、綺麗な花だからね。今頃行くと。

綺麗だから、私も長野に案内され、山荘に行った時に、回りに沢山咲いていたから、綺麗だなって思って取ってきたら

怒られました。すぐ手を洗ったほうが良いよって。毒ですって。そういう身近なことでもそうでしょう。

今はいろんな知識があって、殆ど過ちがなくて生きられる時代になってはいるけど、

それでもまだまだ私たちが知りえないものが一杯ある。


地球の中でもほじくると歴史が変わってくる。最近インカより古いものが発見されましたね。面白いですね。

現代でも、まだ知られなかった時代の歴史が地中の中から出てくる。埋まっちゃうのかね。どういう風にしてあんな深い処に

隠れてしまうのかしらないけど。土を埋めるとか埋めないとかって話も、今日本でもあるけど。

自分たちの前の文化を全部土の中に埋めて、新しい文化を上に創り上げて来たのが、大体の征服民族のあり方なんでしょかね。

だからその更に深い処に未知なものがあるんでしょうね。


「かれらいわく、『維摩黙然無言して諸菩薩にしめす、これ如来の無言為人にひとし』」さっき話した話です。

黙っているっていうやつはですね、測りしれない内容を持つんです。喋るとボロが出るけど、黙ってるやつはね。裁判でもそう。

黙秘権て言うのがあって、口を割らないっていうやつが一番厄介。どんなことをしても口を割らないって言うのが本当に厄介なもの

なんですね。守る、ひとつの術でもある。普通はだから、色々言われると喋らずにいられなくなるんでしょうね、人間て。

ある所迄喋らずに頑張っても、どうしても色んなことで苛められると、そのまま喋らずに居られなくなると言う。

不思議な動物ですね。あれで、大概最後は根を上げるのでしょう。自分の中に隠し持ってる物があると。何にもなきゃそのまま

いれるでしょう。まあそういうなこともありますけど、「黙然して声なし」そういうなことをされると、

しり込むのでしょうかね。「これおほきに仏法をしらず、学道の力量なしといふべし」

黙られるとどうしようもなくなってしまう。扱いに困るっていう。黙ってそこに居られると。

どうしていいか分らなくなるって言うことを見ると、こっちに力がないって言うのよく分るでしょう。

そんな不自由なもんじゃないでしょ。 


「如来の有言、すでに自餘とことなり、無言もまた諸類とひとしかるべからず」

喋るにしても黙ってるにしてもですね、力のあるものと無いものと同じ様に黙っていても違うでしょ。

黙っているから同じだと思ったらとんでも無い。皆東へ向かって歩いていくから同じかと思ったら、求めてるものが皆違うって言う様

なこともあるでしょう。内容をだからよく見てみると、よくこういうことがあるでしょう。


「しかあれば、如来の一黙と維摩一黙と」よく似ているけども、比べるっていう、対照にする価値があるかって

いうんですね。「相似の比論にすらおよぶべからず」これは道元禅師がいかに力があるかっていうことでしょう

ね、この文章を見ると。こういうことがこの維摩の一黙とか、お釈迦様の黙っている時の有り様を、道元禅師がみて、内容が、

維摩が黙っているのとお釈迦様が黙っているのとは比べ物にならんと言ってる。


じゃもうちょっと身近に一人一人自分のことで勉強してみてください。隣の人が黙ってるのと自分が黙ってるのと比べて、

どうするんですか。もっと言ったら、自分が黙ってる時に、他人が黙ってることが、自分の黙ってる中に本当にあるかしら。

それ難しかったら、こうやって物を眺める時に、自分がこうやって物を眺めている時に、隣の人も見てるかも知れないけども、

隣の人が見てる様子が自分がこうやって物を眺めてる時に、何処に出てくるんでしょうか。

これだけ大勢の人が一緒に物を見てるんだけど、ひとつも他の人の眺めてる様子が出て来ないっていうのは誰しもの真相でしょ、

在り様でしょう。それ位比べるものなんかないですよ、本当。もし比べるようなものの見え方がしたら、おかしいのよ、他の人と、他

の人はどんな風に見てるんだろうって。そんなもの一切用がない様に出来てる。それで良いでしょう。それが誰しもの真相です。

考え方は違いますよ。考え方は今申し上げる様に、自分がこうやって見てると、他の人はあれをどういう風に見てるんだろうって、

そういうことを想像するんですよ。本当にこうやってる時に、その通り見えてる事が、物を本当に味わう力なんでしょう。

まあそういう様なことをこうやって見ておきたいですね。


「言説はことなりとも黙然はひとしかるべしと憶想せるともがらの力量をさぐるには仏辺人とするにもおよばざるなり」

書いてあるじゃない、ね。「黙然はひとしかるべしと」勝手に想像するんだよね。「憶想するともがらの」


思うことと実際こうやって見えてることとは全然違いますよ。「かなしむべし、かれらいまだ声色の見聞なし」

皆さんだって本当に、物や音声、そういうもの見聞きすることがどういうことかって、「コンコンコンコンコン」(机を打つ)

こうやって音を聞く時にですね、隣の人がどういう風に聞こえるだろうとかって、そうやって憶想する、

そんなことはしないでしょうが。そんな聞き方をする人いないでしょ。でも日常の生活は常にそういう、

他人のありようが気になっている風な、似たようなものの取り扱いをして生活してるんでしょう。

所謂各自の見解、自分のものの見方や考え方をつけて見聞きするのでしょう。

物を本当に見聞きするって言うことは人間の考え方や見方を付けたら、物が正しく見聞きできないってことは百も承知でしょう。

そうじゃないですか。だって物には人間の見方ついてないんだよ。考え方。ただ事実がその通りあるだけ。

その事実にこう触れると、その事実の通りに分るように出来てる。考えるんじゃなくて、探るんじゃなくて。

でも学んできた知識を通さないと何かはっきりしないように思う人が多いじゃないですか。この音ポン!(机を打つ)を聞くのに、

他の音と比べて聞く人なんかいないじゃないですか。これを見るのに他のものと比べて見るってことは無いでしょうが、

本当にこれを見るのに。これだけに目を向けるのでしょう。そういうことを皆さん知ってるはずですよ。

それだのに、そういうことがわからないから、「かれらいまだ声色の見聞なし」声色を跳び越えるという様な

「光明あらんや」そういうはっきりしたものの在り様が無いじゃないか。こういっておられる。

「いわんや黙の黙を学すべしとだにもしらず、ありとだにもきかず」この音「ポン!」を聞くのに、

他の音一切持ってこないのですね。これを(扇子)見るのに他のもの一切借りる用が無いんですよ。これだけでこれが見える。

そんな当たり前のことでしょう。でもそういうことを「ありとだにもきかず」ありとだにも知らずでしょう。

だから常に何か比較対照する物を、学ぶ時に出しているのでしょう。それでごちゃごちゃするのでしょう。


「おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり」一つとして同じものなんかないよね。

いちいち全部そのものがそのものを表すだけであって、オンリーワンっていう様な表現をするのでしょうかね。

「いかでか釈尊と諸類とおなじといひ、おなじからずと比論せん」

一生他人の生き方をこの身体は一切しません。他人のことを一切しません、他人のことはこの身体は。

本当に生涯この一人一人、各自の身体の様子だけです。徹底して底抜け。それだのに他人のことが気になってしょうがない。

それ位自分のことを見ないで他人のことばっかり気にして生きてるってことでしょう。

だからこのものの本当の良さが分らないのでしょう。


「これ仏祖の堂奥に参学せざるともがら、かくのごとくいふなり」

仏の堂奥に参学せざる人たちがそういうことを伝えるんですよ。仏祖堂奥の参学人はそういうことはやっぱり言わないでしょう。

ものの堂奥って言うと凄い奥の方で、誰もみたことが無い様に思うかも知れないけど、本当のものの在り様って話だけですよね。

誰しもが今生活してる、本当のものの在り様ってそういうことになってるんじゃないですか。

それは反論の余地がないと思うんですね。一日中見たって、他人の生活はしないんだものしょうがないじゃない。

他人のことどうこう言ってる自分の生活はあるんですよ。ね。他人のことをどうこう言ってる自分の生活はあるけど、

それも他人のことじゃなくて、自分がどうこういってるんであって、そういうところ丁寧にこう触れてみてほしいね。


兎に角、八正道支の中で、道元禅師が正業道支について本当に文言を沢山残しておられる。

これが私たちが生活しているど真ん中の話だからでしょう。これ抜きにして、仏法は無いでしょ。後のものは皆短いですよ。

全部殆ど短いさらさらと書いてある。

ここだけこんなに長々といろいろ書いてある。これは先ほど來話した様に、現代風に見てみると、修行道場のあり方って言うものが

凄く大切にされてきているのでしょう。お寺に生まれたからって、お寺で過ごしてても、修行道場に行った様にはならないですね。

本当に、自分のとこでもそう思う。自分の寺では育てられない、情けないけど。道場に出すと変わりますから。

それ位修行の道場て、やっぱり有難い場所です。そういうことで一応終わります。


(円通寺講話会に継続して御参加の方が、1月~6月の録音ディスクをお貸し下さいました。この場をかりてお礼申し上げます。
前後しますが、三十七品菩提分法の四念住から七覚支半ばまで、来春にかけてお届け出来ればと思います。)

次回円通寺講話会 2016.10.22(土)18:30~20:30


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  1. 2016/10/09(日) 19:42:25|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (五)

正業道支 (五)

音声はこちら ↓

正業道支 五ー①
正業道支 五ー②
正業道支 五ー③
正業道支 五ー④


それから、お釈迦様のことも出ております。さっきも話した通り、その「かたじけなく父王の位をすてて嗣続せざることは」

王位を継がなかったと。それは王様の位に就くってことが、つまらないからやらなかったのではない。

「仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり」仏様の跡継ぎをする方が、国の跡継ぎをするよりも、

はるかに優れているからだ。だから道元禅師は権勢におもねることを生涯、しなかった。

帝の下で、帝の庇護を受けて何かすることを、道元禅師は本当に生涯嫌った人ですね。


少し時代が下るとですね、勅使なんとか禅師とかって、禅師号を帝から貰って、紫衣の衣を賜ったとかって、

そんなことで自分を欺ようになってくる。それは不自由な人になったって言うことでしょう。本当のことが言えないような状況になる。

何時死んでも、本当のことを言って殺されても大丈夫な位置になければ、本当のことなんか喋れるもんじゃない。

命を懸けてるんですよね、皆、一言一言。出家ってそういうものなんでしょうね。


「三界の天衆生・人衆生、ともに頂戴恭敬するくらいなり」全ての人からやっぱり崇められる、敬われる、

そういう生き様、それが出家。そんな風にして何ものにも縛られない生活ができたら私も良いなって、思う人は沢山いる。

何で出来ないかって。ねえ、何故できないか。怖いのでしょうね。今こうやって生活が安定しているものから離れる。

住む場所も無いで生活するってことがどれ位大変なことか。蓄えも何にもない、着の身着のままで、一人で生活することが、

どれ位大変なことかって、やってみないとわからない。一人になったら楽だなって、今思うんだけど、実際に一人になったら、

そんな楽じゃないって言うこともある。


「梵王・釈王の同坐するところにあらず」一応世の中ではそれなりの地位の人でしょう。

梵天・帝釈天、天部に位する立派な位置の人達だけども、そういう人達と一緒に仏様方と座るような位置にない。

皆それは仏様の眷属なんです。仏様の働きを助ける役をしているだけであって同列ではない。


「いわんや下界の諸人王・諸龍王の同坐するくらいならんや。無上正等覚位なり」それ位飛びぬけて素晴らしい

と言ってるんですね。「くらいよく説法度生し、放光現瑞す」法を説いて生きとし生けるものを救うということですね。

そして光を放って瑞を現ず、輝いている。「この出家位の諸業、これ正業なり」手本となるのは、

そうやって出家した人達が本当にこう生きている生き様は、一番素晴らしい生業じゃないかと勧めておられる。


「諸仏七仏の懐業なり」本懐とする処と言うことです。「唯仏与仏にあらざれば究尽せざるところなり」


本当にものの真相がわかっている人同士でなければ、こういうことの大切さを知ることが出来ない、味わうことが出来ない。

「いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし」

これはあの、我田引水ではなくてですね、出家した、そういう人達がそこにおられたら、出家をしていない人達はそれを大事にして

ほしい、とこういうことです。少なくとも真理に目覚めた人達をですね、疎かにするって言うことは、

自分自身がそういうものを疎かにして生きていく類になるからでしょうね。


もっと平たいことを言えば、立派な人がそこに居たら、自分は同じような事が出来ないにしても、

その立派な行為をしている人を大事にする気持ちだけは失いたくない。中には立派な生活をしている人を見ると僻んでですね、

僻む人が居る。そしてそれをこき下ろすようなタイプの人が居ます。それはあってはならないと言うような意味ですね。


「釈迦牟尼仏言、『出家受戒すれば、是れ仏種子なり。巳に得度せる人なり』」出家をして守るべき大事な戒めを

受けて、それを守っていく出家受戒ですね。悪いことをするな、良いことをしなさい、人のためになることをしなさいって、

まあそれが受戒の一番身近な話です。そういうことを守って行く訳ですね。「是れ仏種子なり」仏の種子、種、

だから出家は必ず仏になるんですね、育つと。蝮の子は大きくなると必ずそのまま蝮になる、筍は竹になる言う様なことですか。


得道って言う字がありますが、得道というのと得度は違いますね。坊さんになるのを得度式といいます。出家得度といいます。

人を救うことが出来る人になる、得度。人を救う人になるというのが得度なんでしょうね。度の字は渡すという意味と救うという意味

があります。人の先達になれる人。自分の修行だけじゃなくて多くの人達もそのようにして、苦しみから、悩みから、

幸せな生き方の出来るように勧める力が得られる。そういう人になる。まあそのために出家するのでしょう、出家得度する、

坊さんになるっていうことは。自分の幸せが一番中心ではないでしょう、元々。

自分の幸せだけを願うんだったら、在家の人と殆ど変わらないのでしょう。だから人にいじめられようが、何しようが、

この道を成就するために進んでいかなきゃならない。貧乏になろうが。


「しかあればすなわちしるべし得度といふは出家なり」説明がちゃんと書いてある。得度というのは出家をするこ

とだ。「未出家は沈淪にあり」出家しない間は、ああも思い、こうも思いして、ウロウロしてるだけで、一向に修行

が進まない。よし!って言って一歩踏み出す。それが出家なんでしょう。

「かなしむべし」そういう状況にあるのでは、出家せずにそういう落ちぶれた、あるいは心が沈んで色んな物に

悩まされたり、苦しむ様な生活を送っている、そういうところにズーっと居るのは悲しむべしということですね。


「おおよそ一代の仏説のなかに、出家の功徳を讃嘆せること、称計すべからず」数え切れないほど、

出家をすることが尊いって言うことが記述が一杯ありますよ、見て御覧なさいと。

「釈尊誠説し、諸仏証明す」お釈迦さまもそういうことを説かれているし、他の仏様方もそういうことを

証明されておられる。

「出家人の破戒不修なるは得道す」出家してですよ、お坊さんになって、破戒不修っていうのは、

外から見たら真面目さを欠いている様な生活をする人が居るかもしれないけども、そういう人は出家したことによって、

自分の今の生活を恥じて、正しい道行を進める力が出家にはあると言ってます。それはそうだとおもいますね。


「在家人の得道いまだあらず」本当にものを学ぶ時には、今までのものを全てかなぐり捨てて、

飛び込んで行くって、所謂出家をするのでしょう。本気になった時に、兼業でやる人は居ません。

あちらとこちらを兼業してものを学ぶって言うようなことはしません。そういう風に出来てますね。


「帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず」尼さんですね、僧尼。何で敢えて尼さんをここに出すかって

言うと、この時代は明らかに男尊女卑かもしれない。日本なんかでは、もう代表的な男尊女卑。女性は物の様に扱われて、

政治の材料に扱われ、あっちへこっちへと政略結婚させられ、そういう風に女性が軽視されている時代のことをちょっと頭において

見るとよくわかる。そういう時代でも出家をした女性(尼さん)に、一国の国王、帝者ですね、礼拝する、

お坊さんに対して礼拝する時、帝が尼さんに礼拝する時、尼さん達はこうやって、そのままお拝をするのを、

こうやっているというんですね。これが受け方なんですよね。こっちに一緒にはいつくばって、いや申し訳ないって頭を下げるような

ことはしないです。「僧尼答拝せず」向こうが頭を下げたから、こっちも頭を下げるかって言うとそういうことは

しない。礼拝をしない。

「諸天の出家人を拝するに、比丘比丘尼またく答拝せず」まあ、その他のものでも、出家の人を敬う時に礼拝を

するけど、其の時に出家の人達は、それに対して一緒にお拝をして受けると言うことがない。

「これ出家の功徳すぐれたるゆえなり。もし出家の比丘比丘尼に拝せられば、諸天の宮殿・光明・果報等、たちまちに破壊

墜堕すべきがゆえにかくのごとし」
出家した人達に拝まれるっていうことは、皆さん方もこそばゆいでしょう。

どうですか。自分の菩提寺の和尚さんが、自分の家にお参りに来た時に、皆さんをお拝をして拝まれたら、

受けるのにどうしていいかわからん位困るでしょう。

やめてほしいって言いませんか、まあそんなことはしないで和尚さん、そういう時の姿がこうやって想像出来ますね。


「おほよそ仏法東漸よりこのかた、出家人の得道は」ここは得道ですね。「稲麻竹葦のごとし」

たくさんのお坊さんが出家し道を得ていく。「在家ながら得道せるもの一人もいまだあらず」

これが歴史的なことなんでしょう。

「すでに仏法その眼耳におよぶは、いそぎて出家をいとなむ」日本の国では、将軍や武将達が最後に出家を

してお坊さんになったものが、歴史上たくさんありますね。でもあれらはどこまで本当の意味で出家をしてるかって言うと、

よくわからない。こういう出家とはおそらく違うでしょう。


「はかりしりぬ、在家は仏法の在処にあらず」もし在家の中に仏法が本当にあるんだったら、こんなに在家の

人達が苦しむことはないでしょうね。普段の生活のままで皆救われているはず。

出家すれば修行がしやすい、私たち在家だから修行するのに非常に恵まれてないって言って、悩む人がいるかも知れないけど、

別に誰もですよ、在家のままで居なさいって縛っている人は居ない。

じゃ出家したら、在家の人よりも生活自体が豊かになるかって言ったら、そんなことを望んで出家したら大間違いですよね。

旨い物が食べられるとか、豊かなものがきれるとか、美しいおべべが着れるとか化粧ができるとか、何かそんなことを、

それが目的だったら出家はすべきじゃない。


有難いことで、出家は出家して飢え死にをした人を聞いたことがないっていうのが私の持論です。衣を着て、ちゃんとまともな業を

生業としている出家の人がですね、世の中でどっかで飢え死にしちゃったって、そんな話は聞いたことがない。

滅茶苦茶なことをしていたら、ひょっとしたら飢え死にするかも知れないけど。出家ってやっぱりそういうものですね。

質素にそして清潔で生き生きとしていて、清清しくって、惚れ惚れとする様な生き方なんじゃないですか。持ち物が少ないから、

片付けなくても、いつでもこの身一つで、全国歩ける。出家してるから、そこで、どこで死んでも、殆ど問題なくお別れが出来る。

家族が居たり親族が、取り巻きがあると、中々思うようにならない。出家は良いですね、思う存分やっていけるでしょう。


「万機の身心すなわち仏祖の身心なりといふやからは、いまだかつて万法を見聞せざるなり」

出家も在家もそう違わないって言う様なことを言ってる人は、この仏法の本当の有り様って言うものは知らない。

また出てくるんですね、こういうことを言っております。「黒闇獄の罪人なり」味噌・糞、一緒にものを見てるような

人とこういうのでしょう。言葉が汚いから、もうちょっといい言葉使ったほうがいいのでしょうけど。


「おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり」自分が何を人いってるか、どの様な、自分が生き方をしてるか、

自分自身のことを本当に見ていない、一番愚かなって言って良いのでしょう。国賊だと言われてますね。

宝でなくて、国のつまらないものだね。

「万機の心をもて仏祖の心に同ずるを詮とするは、仏法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ」

ものを本当に良く知っている人は、こうやって出家してる人を上位に置くというか、大事にするって言うことが本当だと言う事を

知っておられる。


日本にも国師って言う様な称号があります。弘法大師も国師でしょう。最澄さんも国師。国師っていうのは帝の上に位置を

していて、帝たちが困った時に相談をして教えを乞う、そういう位置の人ですね。そういう人を日本でも昔設けていた。


「しるべし、仏法のすぐれたりといふこと。万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも、仏祖の身心おのづから万機の身心と

ならんとき、万機の身心なるべからず」
たとえ出家も在家も同じだと言ったにしても、って言う様な表現をしております。

やっている様子、今の有り様をこうやって触れていると、幾ら同じだって言ってみても違うじゃないかっていうことですね。

苦しんでいる人と苦しんでない在り方、ものに触れて言語に触れて、それに振り回されている人と振り回されないで生きている人。

自ずから、人間として同じ様に生きていると言いながらですよ、それ位違うじゃないか。


「万機心と仏祖心と一等なりといふ禅師等、すべて心法のゆきがた、様子をしらざるなり」

これはだから745年位昔の文章ですね、道元禅師の時代ですから。道元禅師が説かれているこの当時も、こういう風にですよ、

在家の方々のあり様と仏様方の在り様と何ら違わないって言う様なことを言ってる禅師、そういう人がいたんでしょうね。

書いてあるからいたんでしょう。それらは、本当に仏法というもののあり方を一度も勉強したことのない人が言ってるんだと、

こう言ってるんですね。


「いはんや仏祖心をゆめにもみることあらんや」当時もこういう人が禅師として、世の中をリードしていたって

言う事ですよ、これは。こういうことを道元禅師はこんなに身近に語っておられる。確かに中国を通して、日本に仏典、教典とか

そういうものが輸入されて、運び込まれて、あって、それを読みこなして解説をしてる書物、あるいは書き物が残ってはいるんだけ

ど、そういうことと仏法は違うじゃないですか。

今でもそういう風に、万機心と仏祖心と一等だと思っている人はたくさん居るかも知れません。あれは研究であって、論説であっ

て、概念であって、生きた仏法ではない。仏法ってこういう教えであるとか、こういう風な考え方をするものだとかって

言うようなことをを一杯説いてても、皆概念ですよ。仏法そのものじゃない。仏法ってそんなものじゃない。

生きて私たちが毎日の中で使って、本当にそれが生きてるようなものでなかったら、仏法と言わないじゃんね。


自分の部屋に書籍の棚があって、そこに沢山の素晴らしい人の書いた本を積んであるのと同じ様なもの。あれ広げると、

こういう事が書いてある、ここにああいう事が書いてあるって、そんなのが何の役に立つんですか。言い過ぎでしょうか。

智識を豊かにしてくれますから、話をする職業にとっては役立つかもしれませんが。

そういうのを「仏祖心をゆめにもみることあらんや」とこういうのでしょう。


「おほよそ梵王・釈王、人王・龍王、鬼人王等、おのおの三界の果報に著することなかれ」

そんな途中の財宝、途中の幸せに目をくれて、そこらで楽しんでいるようじゃしょうがないと言うのでしょうかね。

大地も掘ってると、途中で水がそれなりに、穴を掘ればそこにですね、浸み込んできて水がたまるんですよね。穴掘ってくと。

だけど、それ位の水で井戸が掘れたと思う人は殆ど居ない。水脈をちゃんと当てるまできちっと掘る。そうすると何時までたっても

枯れない井戸になる。そうでないと、雨が降ったときに、その雨水が集まってきて、かろうじて穴掘ってある所にたまると、

それだけは吸い上げることが出来るから役に立つ。だけど其れ吸い上げちゃうと又暫くたたないと溜まらない。そういう井戸を

空井戸とか言うんでしょう。本当の井戸は汲んでも汲んでも水が減らない位の、そういう水脈を掘り当てる。そういうのが

昔の井戸を掘る人達の技量だった、技術だったですね。

仏道もそうなんだとおもう。本当の底抜けの幸せって言うものがあるじゃないですか。


  1. 2016/10/09(日) 19:03:26|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (四)

八正道  正業道支 (四)

音声はこちら↓

正業道支 四ー①
正業道支 四ー②
正業道支 四ー③
正業道支 四ー④
正業道支 四ー⑤


「かくの如くなるに」そういう生活をしているということです。「かくのごとくなるに」

ここで中国の昔話を引き合いに出されている。

達磨大師から6代目の大鑑慧能と言う禅師様の話をですね、「曹谿古仏たちまちに親を辞し、師を尋ねる」

慧能禅師はお母さんと一緒に生活をしておられた様ですが、お母さんを人に委ねて、そして五祖弘忍禅師の所に

足を運んで行かれる。「これ正業なり」これが正しい業(なりわい)だというのでしょう。


短い話ではありますが、文献によると、慧能様の様子を一緒に生活している近隣の人たちが見て、お母さんを大事にしておられる

のはいいけれども、あなたの今の内容を見ると、ここにいてはもったいないというのでしょうかね。

あそこに弘忍禅師と言う立派な人がいるから、そこにいって、あなたが今得られた心境、そういうものを提示して教えを乞い、

もっと人の為に成る様に生きてほしいって言うのが村民、一緒に暮らしていた人達の願いで、お母さんのことは我々が面倒見る

から是非そっちに行ってくれって言って、送り出されているような内容があります。

まあそれは、それぞれその人のもってる素晴らしさが見出されると、今でも色んな職業でそうでしょう。

あなたはこのまま埋もれたんじゃもったいないから、もっと本当にやりたいんだったら、ちゃんとした人がいるから、

あそこの所行って学んでごらん、て言って応援してくれるでしょう。ましてや自分たちの親だったら、

子供たちがそういう力があったら、何が何でも子供の為に何かして上げようって言って、そういう姿がどこにでも見受けられる。


街に行った時に、金剛経を聞いて、お経の内容にこう触れてもですね、「発心せざりし時は」ってあります。

お経を読んでるのに触れても、例えばどんなに美味しいものを食べてもですね、気が付かないって言うことがあるじゃないですか。

発心て言うのは、少なくとも心を開くとありますが、発心、自分自身の本当の有り様にこうやって目が向いた時、

それ発心て言いますね。発心する、心を開くって言う。出発の発ですね。気づきがあるんですね、何か。ああなってみたいな、

いいな、何で、何となく気を引かれる、何で私があの人に気を惹かれるんだ、どっかに心にそうやって気づきがある。

そういうことないが間は暫く、薪を切って、或いは束ねて、そういうものを背負って街に行って其れを売って生活の足しにしていた。

「樵夫として家にあり」今までと変わらない生活を続けておられた。

だけども、金剛経をきいて「仏法の薫力あるときは」お経を聞いて何か自分の中に気づきがあったんですね。

どういう風になってるかというと、金剛経の一節に「応に住する所なくして 而も其の心を生ず」と、

そう言う文言があります。その辺のことを聞いて、自分自身の生活を振り返った時に、ああ自分自身の生活してることと、

お経の中に言われていることは、全く同じだなあと感じたんでしょうね。お経ってこんなことが説かれてるんだ。

こんなことが仏様が悟られた内容って言われてるんだ。何だ私が生活してる内容と変わらないじゃないか。

じゃもう少しこのことを本当に勉強してみたいな、と言うことでしょう。

それで、「重担を放下して出家す」何が重担って言えば、父母を養うと言うのが子供の勤めですから、お母さんを投げ出していくっ

て言うのは、一般的に言ったらひどいやつですからね。そういう肩に重荷があるじゃないですか。

お父さんお母さんを送って生涯、それが子供の、一応当時の考え方でしょう。それを投げ出してですよ、出家した。


「しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまれることあたわずといふことを。」

出家する人、沢山今もいますよね。自分の幸せだけを願って出家するわけじゃない、出家って。人々の本当の幸せを、

どう在ったら幸せが得られるかって言う大問題、それを解決して、人にもそれを勧め導く、そういう様なものが出家の在り様でしょう。

だから、そういう願いのある人は、世の中のあらゆる職業と比べた時にはるかに別世界の位置にあるんですよね、

出家っていうのは。道元禅師もだから高く出家の在り様って言うものを評価しておられる。


そういうなことが出ておりますけれど、「諸仏みなかくのごとし」歴史に残る人達を見ると、

諸々の仏や祖師方は皆そうやって、在家の生活のままいた人はない。


「出家すべからずといふともがらは」そのままで良いじゃないか、在家のままで、やれんことはない、

言う様なものを勧めるって言う事はですよ、「造逆よりもおもき罪条なり」いわゆる父母を殺すとかって言う様な

のは、罪の中で相当重い、五逆罪と言って首を刎ねられる位の重い罪状になってるけど、それよりも重い罪だって言ってます。


お釈迦様のことを振り返って、こうやって取り上げてみればよくわかる。小国とはいえ、小さな国とは言え、一国の王子をして生れ

落ちて、その国の興亡を占うような位置に育ってるんだけど、長ずるに従って出家を志した。従って留めようと思って、結婚をさせて

子供ができて、手足に足枷をつけて、奥さんも居れば子供も居るからまさか出家はしないだろうと言う様なことでしょうか。

ましてや一国の、後に国王になっていく。そういうものを釈迦は全部振り切って出家した。

当時は多分ものすごい酷評だと思いますよ。何が不満だって、先ず出てくるじゃないですか。生活としてあらゆるものが、

すべて恵まれているのに、何が不満で、別にそういうものに不満があって出家したわけじゃないですよね。このままで居て、

人が本当に幸せになるのにどうしたらいいかって言うことに対して、ひとつもきちっとした答えが見つからないでいる、

そのジレンマの中から立ち上がった人でしょう。当時のインドを見ても、まだ仏教は無い。

人が本当に救われる教えって言うものは、当時のインドにもまだ無い。そういう中で一人、奥さんと離れ、子供をおいて、

国を捨て、地位名誉財産全てを投げ打って、一人修行に入っていく。当時は出家したとは言わない。世捨て人だね。

で、その社会の中で、立派に行をしていると言われる様な人の所に先ず足を運んで入門して、そこで修行していく、

いろんな修行していく。だけど一向に埒が明かない。総なめに一応歩いてますね、所謂ベストテンに入る位の指導者のところ全て

尋ねて歩いた。これ以上のものは無いと言う所まで勉強して、それでも満足がいかないから、そういうもの全てやめた。

その時の批判なんてのは、「とうとうあれも堕落したか、」言う位酷評でしょう。それでもそういうものにめげず、

一人菩提樹の下で坐り始めて、端坐6年といわれている、6年も。そういうのが出家の一番最初の在り様ですね。

家を出た、家をはなれた、在家といわれる持ち物全部手放して行った。素っ裸になって行った。

今まで身に付けた、学んだもの全部離して行った。お米の籾を取って、糠を取って、精米してって言う様なことですね。

お釈迦様はそういう風な生き方をして、私たちに指標となるものを残されたんですね。それが今日まで伝わっている。

したがって、そういうものを踏み止まらせてやらせない、そちらの方に行かせない、縛って不自由にさして、自由にそういう修行が

或いは勉強ができないようにするっていうことは、非常に重い、罪になると言っておられる。


今日の私たちでもそうでしょう。一人一人が本当に自由に、どんなにでも勉強ができる、修行ができる、伸びていく力があるんだけ

ども、ひょっとすると親や周りの人が、すぐ口を出して、「どうせあなた出来ないんだから、やめな」とか「この前もやったけど

途中でやめたじゃないか」とかってそういって潰しにかかるわけでしょう。挙句の果ては、自分でもそういうことが起きると、

段々、ああやっぱり俺もだめかな、やってもどうせだめかなって潰れて行くでしょう。

それは非常に罪として大きいということでしょう。折角花が咲く力を持ってるのに、花も咲かせないでそこで枯れさせてしまう様な

ひどい事をしてる。人権の上で言えば、一番ひどい差別のいじめ方でしょう。パワハラとか何かいろんなこと言うけど、

そんなものと比べものにならない位じゃないですか。このいじめ方って。

しかも他人からいじめを受けるのでなく、自分で自分をいじめてるんですよね。

皆持ってるのですよ、伸びる力。自分自身を救える力を。

それを完成させる道筋を閉ざしてしまうって言うのは、本当に罪深いことだと思うね。

また自分自身もそういう外圧に負けてですね、挫けてしまうようなことでも詰まらないと思いますけどね。


もうひとつ出てくる「調達よりも猛悪なりといふべし」って。仏様の弟子の中に、

調達って言う人がいるんですね。俗に言う提婆達多と言っておられますが、異母弟、お釈迦様の異母弟。

生涯対立してた人でしょうかね。お釈迦様のことを常に羨ましく思ってた。だから、ないがしろにして、どうにかして自分がお釈迦様

よりも目立ちたいとか言う様な、そういうことを常に心がけた人だから、事ある毎に、命を奪おうとか言うような悪巧みをした、

代表的な人として調達という人が歴史に残っています。提婆達多、そういう人よりももっとやり方が卑劣だとこういうのでしょうかね。

後、六群比丘とか色んなものがあります。下(脚注)にも書いてある。それに類した人を導く、統率していくグループが幾つか、

その当時もあった。そういう人たちを総じてこうやって点検してみると、皆其の類だとこういってるのでしょう。

だからそんなものと一緒に話をする必要がない。そういう所で話をしていてもですね、幸せにはなれない。ともに語るべからず、

「共語すべからず。一生の寿命いくばくならず」まあ早い言葉で言えば何時死ぬかわからんということでしょう。


うちに最近来てる若い方が、まだ30そこそこの若い女性がいた。どうしたのと言ったら、「明日の事なんか考えてられません。

今やらなきゃ次何時やるのかって最近思ってる」って。その位の若さでそういう人がいるのかね。本気になって勉強する。

今、今を除いてやれる時なんかないって言ってる。どうしてそんなになったのかね、聞いてみたいんだけど、

その位の気概を持っている人がいる。大事にしてあげたいなと思うね、そういう気持ちは。


「かくのごとくの魔子畜生等」と共に語るというようなことを、光陰むなしく渡ること莫れでしょう。

つまらないことをつまらない仲間と喋ってる暇なんかないとこういってる。何時自分の命が終わるかもわからない中で。

こんな風に自分の人生を感じる人はなかなか居ない。「無常」という話は知ってる、世の中を。無常感というものも持ってる人は

居るけど、切実に自分自身がそういう風な立場でですね、生活、方向を向けていく人は本当にまれでしょうね。


死の宣告を受けてですね、それでも今日一日何となく終わっちゃうんだよね。そうじゃないですか。あと3日とかあと一週間とか

あと一ヶ月あと一年とかって言って宣告をされてもですよ、その間本当に自分が何を日々していけば良いかって言うようなこと、

本当に感じてですね、毎日を大事に生きていく人なんて、ほんの僅かですよ。殆ど今までの通りザーっと流れて

終わっちゃうんだよ。人間てこんな弱いものですね、実行力において。


そういう中において、大先輩のお釈迦様という人は振り返ってみて、凄い人だなと思う。

世の中全てを敵に回して一人立ち向かったんだ。自分の道を切り開くのに。どうあろうが。しかも80まで存命って、

よっぽど堅固な自分自身に対する自己管理をした人でしょうね。

今の様に色んな面で恵まれてれば、まあ80の人はザラですけれども、日本では。%呈示と一人一人の命の有り様は、

全く別ものです。他人に変えられない命ですからね。確立が高いかあらと言って、必ずしも自分がその中に入れるかどうかは

わからない。


「いわんやこの人身心は」人の身心は「先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。」

今、道元禅師がここでお話をする時に、ここにお集まりになってる方々は、どこかで、先世て言うのは何処かでいいでしょう、

何処かで仏法を見聞きしてきた。仏法がどういうものであるか、そういう風な中で育ってきたお互いじゃないか。


「公界の調度なるがごとし」公に置かれた調度品のもののようだって、この身心、自分一人一人ですね、

私のものではない、公のものだ、私が勝手に自分の思い通り使うようなそういう小さな存在ではない、とこう言ってるのでしょう。

この一人一人の身心ていうのはそういう大事なもの。こういうことだって振り返ってみると、いつの間にか、

私用物として我が儘にして、自分のことだけで窮窮として生きてますよね。


「魔族となすべきにあらず」まあつまらない仲間でしょう。悪魔とかって、別に言わなくても、魔と言う、人を幸せに

しないグループでしょう。折角素晴らしいそういう中に育ってきたお互いだから、其の素晴らしいものは、

そんなつまらないものにしてしまう、そういうことはすべきではないじゃないか。


「魔族とともならしむべきにあらず」悪い仲間と毎日一緒に生活して、よからぬことを生業として生きるなって

言うことです。するなって言うことでしょう。折角この世に生まれてきて、そういう素晴らしいことに出会ってるんだから、

もっとキチンとした生き方があるから、そっちの方と歩みなさいと、こう勧めてくれてるんでしょう。


「仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。」

悪狗って悪い犬って書いてありますから、つまらない人って言うことでしょう。ものの道理がわからなくて愚痴ってる仲間、

そういう人の叫びやなんか。それを聞くと面白いもんだからね、人の愚痴ってるのを聞くとね、面白いもんだから、

(人には変な処があって、他人の不幸を見聞して、自分の方がそれより良い生活してると)、ついそういうので一日過ごす

訳でしょう。我々は自分でやるべきことが有るんだけども、回りからそういうのに触れると、本当にやるべきことよりも、

今触れてる(思いの上で取り扱う)ことの方に気が向くもんだから、つい一日それで終わってしまう。


結構いいお年寄りの人がですね、スマホのゲームに嵌っている。何時間も。それだけの年の人でも嵌るんだよね、ゲームに。

で、子供たちがそれやってると、そんなことしてって言って叱るんだけど、叱るだけの力はないね、自分で嵌ってますから。

かと思うと、そこらへん歩いてる人が最近居るのでしょう、何か追いかけて。

ポケモンですか、あれが人の本当に歩む人生なんですかね。もっとやるべきことあるでしょう。


でもあれで、生業が成立する業者も居る。あれを開発して世の中に出して売ってる、儲けてる人も居ると言うことでしょうかね。

携わっている人もあまり良いことではないと思っているのかもしれないけども、売れるって言うことで、儲かるって言うことで、

良しとしてる人のいるんでしょう。儲かれば良いんじゃないでしょうね。

儲かると、自分の家庭生活が豊かになるから良さそうだけど、後で出てくるけど、邪命食というんでしょうね、そういうの。

「悪狗と同坐同食することなかれ」まあこれ、普通に読んだら良いでしょう。


同じ様なことがもう少し述べられております。達磨大師のことですね。嵩山高祖大師。お隣のインドからですね、

インドの国を離れて、お隣の中国に来られた。「仏祖の正法まのあたりつたわれしなり」とある。

それによって初めて正しいものが中国に招来された。

「これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず」書いておられる様にですね。

フリー(出家)だから出来るって言うことでしょう。どこにも所属してないから、単身で自由に中国に渡ってこれるんでしょう。

一切の制約がない。出家だから、家のことも、家族のことも、そういうことにとやかくされることがないから、

そういう身分にいるから、正しい教えを受け継いだものが、中国に渡ろうとすれば渡ってこれる。


「祖師西来以前は」達磨さんが中国に渡って来る迄は、「当地の衆生人天」ここで示す当地は

当然中国でしょう。日本が入っているかどうかわかりません。「いまだかって正法を見聞せず」

正しいものの在り方って言うのを見たり聞いたりすることは無かった。


「しかあれば、しるべし正法正伝、ただこれ出家の功徳なり」本当にそうやって身を捨て家を捨てる。

自由な境涯にいるからそれが出来るんだと。出家をしてもお寺に入ると、たちまちにお寺に縛られて。出家って言うんだけど、

私たちは現況はそうです、お寺に縛られて。本来そうじゃなかったはずなんだけど。


  1. 2016/10/08(土) 16:46:05|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
  3. | コメント:0

三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (三)

 正業道支Ⅲ (2016.9.24 御提唱分です)

音声 はこちら ↓

 正業道支 Ⅲー①
正業道支 Ⅲー②
正業道支 Ⅲー③
正業道支Ⅲー④


297頁の終わりから4行目です。

暫く、一ヶ月お休みがあったので。今このやっている三十七品菩提分法の八正道支と言うところを読み始めているんですが、

読み始めて、八つある中の4番目に正業道支って言うのを読んでいますが、ずっと目を通してみると、

道元禅師がこの正業道支について、非常に長いお示しをしておられる。

八正道支の中で一番長い取り扱いをしておられるということが言えます。


どういう風に取り扱っておられるかっていうと、在家の人たちの生活していることと、

出家の人たちの生活の違いをものすごく明確に述べておられるということでしょうかね。丁寧に。

それを述べる前に、今も昔もそうでしょうけれど、生活自体は出家と在家とそれほど違わないので、

そういうことを同じように説くことを道元禅師非常に嫌っておられますね。

その違いは、修行道場と一般の人たちが生活しているものを比べてみると、理解しやすいとおもうんですね。

お寺の生活っていうのは、修行自体がですね、人に認められるとか、豊かになる、

所謂財産的に豊かになるとか地位が上がるとか、そういう様なものを全く持ち込まないんですね。

一般社会では会社に入ってもですね、新入社員として入って、段々こう努力してを地位が上がって、

地位が上がるとともに生活が、いわゆる給料が上がると、そういう様なことで、

豊かな生活というのがひとつの目安になって生活しています。

だけど仏道の方で、修業道場というのはそういうことじゃないですね。それがまあ一番大きな違いなんじゃないですかね。

だから在家の生活のことを、修行道場の中には持ち込まないようになっている。

「世俗の紅塵飛んで入らず」と言う言葉があります。お寺の境内の中、お寺の聖域の中には、在家の生活は持ち込まない。

だから現在に到ってもそういう場所が残るのでしょうね。だけどもお参りの人が多いもんですから、段々世俗化してくる、

というのが門前町を歩いてみると、門前の町に住んでいる地元の方々が、昔の修行道場はとか、昔はとかって、必ず口にされる。

それ位変わってきてることは確かですけど、それでもまだ浄域ですね、お寺は。そういうことが説かれています。

実際にどういう生活をするかっていうことですかね。

それで297頁の後ろから4行目の中間辺に「僧業これ智なり、悟なり、道なり、法なるがゆえに。」

そういう文章のところから見て行きたいと思って。少し読んでいきますね。


「在家たとひ随分の善根功徳あれども身心の善根功徳おろそかなり。一代の化儀、すべて在家得道せるものなし。

これ在家いまだ学仏道の道場ならざるゆゑなり。遮障おほきゆゑなり。

万機心と祖師心と一等なりと道取するともがらの身心をさぐるに、いまだ仏法の身心にあらず、仏祖の皮肉骨髄つたはれざらん。

あはれむべし、仏正法にあひながら畜生となれることを。


かくのごとくなるによりて、曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり。金剛経をききて発心せざりし時は樵夫として家にあり、

金剛経をききて仏法の薫力あるときは重担を放下して出家す。しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまれることあたわず

といふことを。諸仏祖みなかくのごとし。

出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪条なり、調達よりも猛悪なりといふべし。

六群比丘・六群尼・十八群比丘等よりもおもしとしりて、共語すべからず。

一生の寿命いくばくならず、かくのごとくの魔子畜生等と共語すべき光陰なし。


いはんやこの人身心は、先世に仏法を見聞せし種子(しゅうじ)よりうけたり。公界の調度なるがごとし。

魔族となすべきにあらず、魔族とともならしむべきにあらず。仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、

悪狗の叫吠をきくことなかれ。悪狗と同坐同食することなかれ。」


続きますが、「在家たとひ随分の善根功徳あれども」出家と在家と、一応上げてありますけれども、

一般に生活している人達の善根功徳を積むと言う時は、神仏にものを供えるとか、

人様に何か良いことをしてあげるとか言う様なことが主であって、ここに在る様に、

自分自身の身心、身心の善根功徳を疎かにしない、この一人一人自分自身の在り様に対して目を向けて、

どうあるべきかって言う生活をすることを殆どしておらない、こう言ってるんです。

人のこと、こうやって眺めているということは、殆ど他所の人がどうのこうのって、こうやって眺めてるのね。

あの人はあの…、そういうことに対してものすごく明確に指摘が出来る力がある割にはですね、

自分自身のそういうこと知らない、目を向けてやってないっていうのはよくわかると思うんですけど、どうでしょうかね。

あの位他人に目を向ける位の力を、自分に目を向けたら、ものすごく人は変わるはずなんですよね。


悩んでいる人なんかと話しているとそうなんですけど、周りの人が云々って、ああいう風なことをしてて、

こういうことやってて、何か色々評価をきちっとしておられる。他人のことが気になってるんですよね、人の言動が。

言動が気になってることが自分の中の悩みなんでしょう。そういうこと知らないですね。

向こうの人のことのようにしか見てないです。私がそう見てるってこと知らないですね。私が、今そう見て思ってるって。

向こうの人のことじゃない。


で、身近な話を挙げてみればですね、ものを見た時に、誰でもものに触れたら、見えるんですよ。

そのものに触れた時に、見える時に、こやってそのまま見えてるだけでいるのか、ものが見えた途端に、

そこに自分の考え方、ものの見方がこやってすぐ付くのか。自分のものの見方や考え方がもの見た時に付いたら、

それはものを見てるんじゃないでしょうね、そのものを。事実には、人の見方や考え方は付いてませんからね。

こうやって、蟻にしてもケースにしても何にしても布団にしても。そういうことは皆さんご存知でしょう。

見えている時には問題になってないですよね。ものに触れて見えてる。だけど、自分の見方や考え方が付き始めると、

邪魔だとか、もっとあっちの方こうしたらとか言って、いろんなことが出てくる。

それ誰がやってるかっていうことに気がつかないことが、身心の善根功徳疎かなり、と言われることでしょう。


自分のやってることなんです。自分の身心の活動の様子なのに、それに対して向こうのことを自分でも見てるって思ってる。

向こうのことの話をしてるって思っている。そういう捉え方を一般にはしてるんではないでしょうかね。

そういうの疎かと言うんでしょう。身心の善根功徳に疎かだって言うんでしょう。

自分自身のことなのに、自分自身でそれに触れろことがないってことは、一番大事なものをないがしろにして生きてる。

正業の中で、正しく業を行うという中で、そういうことが出家と在家の大きな違いなんじゃないですかね。

一応僧業にある人たちはそういうことを、出家をした時から、それが主眼で学んでますからって言うのが大前提なんですよ。

大前提なんだけども、出家してもですね、こういうことに触れないことが多いかも知れない、今の時代。

まあ道元禅師の時代もそうだったんじゃないですか、批判されてますから。


「一代の化儀、すべて在家得道せるものなし」在家の生活をしながらですよ、

道を本当にあきらめるということはなかった、と言われている。ある程度のところまでは行く。

それで、道元禅師は越前に理想的な道場を作ったのでしょう。それが今の永平寺でしょう。

だからあそこは道元禅師の本当の本拠地のでしょうね。後輩、後世の人を育てる道場として、

それがまあ800年近く続いているのでしょう。

「これ在家いまだ学仏道の道場ならざるゆえなり」

一般の家庭では生活が主ですからね。生きていくために、食べていくために、何かしていかなきゃならない。

お坊さんたちは修行のためにそういう道場があって、そこで修行をしさえすればいい。

当時そうやって多くの人に保護されて修行の道場が運営されていたのでしょう。修行したくたって、皆さん見て御覧なさい。

時間を作ってこないと、自分自身に目を向ける時間はなかなか無い。一日振り返ってみると、何をしてたんだろうと思う位、

忙しく一日が終わって、引っかきまわされて生きてるような状況でもあるでしょう。

そういうのをこうざっと挙げれば、仏道を学ぶ道場ではないなって、そういう感じは確かにあると思いますね。

修行の邪魔をしたり遮ったりしているものに、子供を抱えてとか、小さい子供を育ててるとか、

そういうようなものがあげられるでしょう。

「万機心と祖師心と一等なりと道取するともがらの身心をさぐるに、」って言うのは、

出家も在家も違わないって言う風に、一口に言っている人達の内容を見てみると、言っておられる。

「いまだ仏法の身心にあらず」やっぱり甘いということでしょうね。

在家の人も出家の人もそう違わないじゃないかっていうこと自体がその指導をする人に甘さがあるのじゃないか。

「仏祖の皮肉骨髄つたわれざらん」悟りを開かれた、正しいものの在り方が明確になって人たちの生活と

比べてみると、ズレがあるなーと、こういってるんでしょうね。身は出家、外から見た形も出家をしておっても、

生活の内容が本当にこうやって、仏祖方の生活と変わらない内容で生きるっていうことは注目すべきことでしょう。


一応頭を剃って、私も衣を着て、こういう格好していると、外から見ると、ああ私達と違ってお坊さんだって見る。

そういう偏見で私を見てくれるためにですね、なんとなく向こうの方が指導者として、私達の方が学ぶ者と、

一応立ててくれているから、これで、いま成り立ってますけれども、素っ裸にされてみると腹の中迄割ってみると、

何だ大したことないなって言われるかも知れない。

だけども身近な話続けてみますけれども、ものに触れて、目がものに触れるとみえる、見えて腹が立つ人と立たない人がいる。

これが一番大きいことでしょう、生活のなかで。毎日いろんな所でいろんな現象に触れるんでしょう。

触れると其の現象がそのとおりこうやって伝わるに違いない。だけど、その伝わった時に、たちまちその現象に振り回されて、

これがイライラ、ムカムカする人と、そうでない人が出来るんですよね。それが仏祖の皮肉骨髄といわれる所以でしょう。

仏祖の皮肉骨髄っていうのは、ものに、どんなにものに触れても、それによって乱されることはない。かき乱されることはない。

そういう生き様をしてるでしょう。ものがわからない人は、耳に触れた音声によって、自分の内容がかき乱される。

「学仏道の道場ならざるがゆえに」ってあるようにですね、そこが、今触れてる処が、

それが本当は道を学ぶ道場なんでしょう。勉強の仕方を知らないから、自分がものに触れた時に、

自分の内容がどうなっているか、見る力がない。それ以外、他に問題はないでしょう、生活してて。


今朝も朝起きて、こうやって自分の様子に触れてみると、本当人間の動きっていうものは、今こうやっているだけです。

手ひとつでもこうやった時こういう手の動きがあるだけで(手を動かしてみせる)、他に何もしてないです。

首をこうやった時こういう動きをしているだけで(首を回してみせる)。いちいちそうなんですよ。

それが一日中、次から次へそういう動きをしている。身体全体が。皆さんだってそうでしょう。他には何もしてないよ。

階段こうやって上ってくる時だって身体全体で階段上って来てる様子が、ただその時に、一段一段あるだけでしょう。

それが生活ということでしょう、実際の。そういうところに目をつけて居てみると、

豊かに幸せに生きていられる人とそのものが自分を苦しめるようになっている人の別れる目があります。


だけど、実際にはものが人を苦しめるんじゃないんですよね。自分の中でつまらないものをこう起こす癖がある。

見方が、見解といいますかね、そういうものをつけてそして評価をする。そうすると自分の思っている通りになっていないって

言う風に、こうやって思えると、何で?ってなるんですね。嫌う気持ちがそこに、自分の中に起きてくる。

邪魔にする気配が自分の中に起きてくる。取れるとか取れないとか、うまくゆくとかいかないとかって眺めるようになる。

そういうものがずーっと蔓延する人は、かくのごとく惨めな生活をするわけでしょう。他にはないですよ。

誰もそれ(苦しめる様な事)やった人ほかにはいないですよ。自分自身が自分自身の中で、今触れたものに対して、

そうやって生きてるんですよ。


それが何時どこからそういうことが起こったか、自分で見たらいいじゃないですか。はじめから付いてる人なんかいないんだから。

熱が出てきた、昨日はどうやって過ごしてましたか、蚊に刺されたとか言う様なことで、海外へ行ってたんですかとかって調べる。

じゃちょっと血液をとかって調べる、ああ感染してますねとか言うようなことになるんでしょう。


お腹が痛い、どうしたんですか、何時ごろから痛む、いや昨日からって、昨日食べた物はどんなもの食べられたかって、

振り返って、その食べてる頃はどうだったか、いや別に何でもなく食べた、どの位時間がたってそういうことが起こったか。

いろいろ聞いてみると、大体原因がわかってくる。というのが健康の調べ方でしょう。

人間の心の在り方もそうでしょう。必ず自分で何か余分なものを拾って来るんですね、病原菌を。

それで拾って来ただけならいいけど、自分の中で増殖する、ものすごい勢いで育てる、どんどんどんどん。

それで、それが発症するとたまらなくなる、こういうことじゃないですか。


そういうことがですね、ここに挙げてある様に「身心の善根功徳おろそかなる人」っていうのは、

そういうこと本当にしない人がおろそかなのね。修行の道場では本当はそういう風な一日の生活を指導すべきものなんですね、

修行道場って。だけど今日の修行道場でそんな話聞いたことがない。不思議だね。

修行の道場行って何をやるかって言うと、お寺に入ってお寺の仕事が一人前に出来る、所謂専門的なノウハウを習得する。

お経が読めるとか儀式が出来るとか。そういうことが今日の主流になってきたためで、この当時もそうでしょう。

この当時でも大山(たいさん)の住職がそういう人結構道元禅師の目から見ても多かったのでしょう。批判しておられる。

800年近くたったけど、殆ど改まってない。

「あわれむべし」悲しいことだ、もったいないことだ、辛いことだ、残念なことだというのでしょう。

「仏正法にあいながら畜生をなれることを。」

本当にものの正しい在り方がちゃーんと今一人一人の身心の上で行われているにもかかわらずですよ、

それに全く触れることなく、いたずらに自分の中で、つまらないものの考え方をして、貪りを起こしたり、怒りを起こしたり、

愚痴を言ったりして、そういうものが畜生といわれる惨めな在り方、の表現なのでしょ。道元禅師のいわれるところは。


  1. 2016/10/07(金) 21:16:29|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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