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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (二)

音声はこちら↓ ( 音声が出にくい時2,3度試みて下さい)

八正道支 正業道支_02_01

八正道支 正業_道支02_02




普勧座禅儀の普勧と言うのが出てきました。「普勧すらく」普く一切に勧める、「普勧すらくは尽十方の

天衆生・人衆生・龍衆生・諸衆生、はるかに如来の法を慕古して、いそぎて出家修道し、仏位祖位を嗣続すべし。」
先輩

たちがどういう風な生き方をして、どう風になられたか、その道筋をよく学んで、正しい生き方を修行してほしい、と言うことですね。


「禅師等が未達の道をきくことなかれ」ここで言う禅師はですね、禅を指導する師匠を全て禅師というので、

今使っているように、どこどこの禅師ってトップの様な、そういう肩書きではありません。

ものがよく解ってないで導いてる人の話を聞いて学ぶな、とこう言ってるんですね。


「身をしらず、心をしらざるがゆえに、しかのごとくいふなり」

本当の有り様を知らない人にですね、聞いてもしょうがない。日本のお坊さんが。

今、海外から出家したお坊さんが多いんですが、そういう人達が質問するのに、「あなたはどこで悟られましたか」って言う質問を

される。しどろもどろでいると、「失礼します」っていなくなる。

これは日本の文化には殆どあり得ないことです。日本の文化はですね、相手がどの様な方であってもですね、

そういうことは失礼だから聞かないっていう風な暗黙の了解が、人の前で絶対そういうことはしないって。

だけどよその文化は違いますからね。これが日本のお坊さん達にいい刺激になるのでしょうね。本当に。なると思うんですね。


「あるいは又すべて衆生をあわれむこころなく、仏法をまぼるおもひなく、ただひとすじに在家の屎糞をくらわんとして悪狗

となれる人面狗・人皮狗、かくのごとくいうなり」


その職にあって、その職のいいところを利用して、人の心を扱えばですね、お布施とか何かそういう様なものは引き出せるし、

頂ける。それは本来のお坊さんの有り様ではないと、こう言ってるんですね。

ひどいことを言えば、飼い猫や飼い犬がそんなつまらないわけじゃないんだけども、犬や猫はですね、飼い主の気に入るように、

身体をすりすりしたりすると、美味しいものが頂けたりするという様なことですね。嫌ですね。噛んだりすると棄てられちゃう。

飼い犬に手を噛まれるなんて言うことになると、下手したら殺されてしまうかもしれない、こうなっちゃうと。

そう言う様な志の低い人たちとは一緒に座るなといっておりますね。喋るなといってますね。

「同依止すべからず」そこに一緒に止まって生活するなって。


だけども、これは一面であって、こういう、じゃ、人達を誰が救うのかって言ったら、これを捨てちゃったら、

つまらないから一緒に居るなそこに、っていう風にして捨てたらですね。救う、何時、誰によって救われるのでしょう。

ここには、だから、ちゃんと読まなきゃならない道筋がある。

自分が修行する、今修行する上では、そういう者を相手にしてはならない。導く側から言ったら、そういう人を捨ててはならない、

と言うことですよ。取り違えると、本当にただここに書いてる様にですね、皆自分の気に入らない者、皆捨てる、近寄せないって、

そうなっちゃう。


病気してる人が医者のとこ来たら、うつるからあっち行けっていう様なもんですね。病原菌持って来ちゃ、わしにうつるから、

とても診れない、あっち行けって。それじゃ救われない。医者はそういう病原菌持った人を診るんですね。

だから指導する立場からの話と、修行する立場の話と、ここはちゃんと読み分けて。


「かれらはすでに、生身堕畜産なり」このまま人間の皮をかぶっているけど、内容はつまらんとこう言っておりま

す、求めているものが。そういうものに気づかせていくものは、やっぱり指導者でしょう。だけど、修行する仲間のまだ修行している

間はですね、そういうものに見向きもしないで、正しい方向に行きなさいといっておりますね。


「出家人もし屎糞ゆたかならば、出家人すぐれたりとはいはまし」在家人の屎糞をくらわんていうのがあるから、

「出家人もし屎糞ゆたかならば、」「出家人の屎糞、この畜産におよばざるゆえにかくのごとく道取するなり」

犬畜生よりも劣るといわれちゃう、ひどいね。食べ物の良い犬やそういう家畜はですね、糞もですね、価値がある、昔肥料にする時

に。出家人の様にですね、菜食のような質素なものを食べている人たちの屎糞っていうものはですね、肥料にした時に、

さほど価値がない。それで、昔、お百姓さん達は、裕福な人たちが住んでいる町に糞尿を買いに行った。最近までそうですよね、

化学肥料ができるまでは、汲み取りに行った。そういうのこういうの読むと良くわかる。犬畜生よりも。


「在家心と出家心と一等なりといふこと、証拠といひ道理といひ、五千餘軸の文にみえず、二千餘年のあとなし。五十代四

十餘世の仏祖、いまだその道取なし。」
それぐらい隔たりがある。それを一緒にしてはならない。いわんとする心は見た

目じゃないですね。本当にそういうものを志してるのかどうかということでしょう。だって今、こうやったって出家と在家は、ここに、

別にないじゃないですか。本当にそういうことを求めるか求めないかによって、少し違いが出てくるだけでしょう。


「たとひ破戒無戒の比丘となりて、無法無慧なりといふとも、在家の有智持戒にはすぐるべきなり」こんなことが

言われるんですねえ。そんなに出家って素晴らしいことなのか。滅茶苦茶な奴でもって言うんですね。

それでも、在家で人に立派な人だ、あるいは日常の生活がきちんとしてて乱れてない、そういう尊敬すべき人だと言う人よりも、

出家人は尊いって道元禅師がいわれるんですね。


ひと度出家すればっていうことですよ。いいですか。ひと度出家をすればって。お寺に生まれたから、書類一枚登記をして出家した

っていう風に言う、そういう出家じゃないんです。それは出家したんじゃない。登記上処理しただけであって、本人はなにも、

一度も出家してない。知らないうちに坊さんになってたっていうだけなら、そういうこととは違います。


出家人の尊いってこと、ひと度その心を起こして出家した、その後、どの様に生活してても、そのひと度、本当のことを学ぼうと思っ

て出家したその心は、何よりも尊いと、こういうんです。何にも変えがたい、その純真な心のあり方と言うものは。

もちろん続けば再三言うことないんですね。まあその辺で終わっておきましょう。手厳しいな道元禅師という方は。

読んでいるとだんだん恥ずかしくなって来ることが多い。

( 円通寺講話会 次は2016 9月24日(土)18:30から20:30)


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  1. 2016/08/14(日) 21:25:52|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
  3. | コメント:0

三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (一)

4つ目が正業道支、これについて物凄い長い文章が出てきます。

音声はこちら↓

八正道支 業_01_01

八正道支 業_01_02

八正道支 業_01_03

八正道支 業_01_04

八正道支 業_01_05


「正業道支は、出家修道なり、入山取証なり」

業の字は、家業とかって言う業ですね。その家その家、その職その職で使う業。だからここではお坊さんの世界、仏様の世界では

出家して修行すると言うことが正しい生業だということです。出家、行いとして。

しかも入山取証とあるように、自分自身のことを、本当に、自分自身に向かってはっきりさせる、ということがそこにある。

他人のことをどうこうやるんじゃないのね。なぜ他人のことを差し置いてやるかって言うと、理由は簡単です。

一日中兎に角、人って言うのは他人のことは一切やってないからです。


各自ご自身のことを見て貰うとよくわかる。この中で、他所の人のことをああも思い、こうも思い、人の言ったことを取り上げて、

ああも思い、こうも思いしているだけであって、それ以外のことは何もないんですね。取り込んでやる時に、そのまま取り込むだけ

ならいいんだけど、取り込んどいといて、目茶目茶にその取り込んだものを自分の取り扱いでかきまぜしてですね。

自分でそれを見て、上手くいかないとか、面白くないとか言ってるんですよ。変な事してるね、人間て。


ものはよそから見えたり聞こえりして入ってくる時は、本当に先ほどからある、その通り、皆その通り入って来るだけですよ。

一切付け加えしたりすることなしに。それだのに、入って来た途端に、自分の中で勝手な想像して、扱い方をする。

目茶目茶に切り刻んじゃって、何がなんだかわからないようにしといて扱う。それだもんだから皆困ってるんでしょ。


それも自分の中でやってることを知らない。相手がそう、自分にそうさせてるって、殆ど誤解してます。

あいつがあんな事いうから、あいつがあんな事やるからって、皆そういう風に誤解してます。

そういう風に受け取ったのは自分でしょう。

あんな事言ってる、あんな事やってるって、そういう風な受け取り方をしたのは自分でしょう。

実際にはそんな風には入ってこないんでしょ。その通り、やってる通り、その通り、言ってるその通り、

ただ入って来るだけであって、何もごちゃごちゃしてない。


そういう事が、最初に正見として挙げられるんですよ。正しくものを取り扱わない、大変なことになるという。

そしてものがどうなってるか、正思惟、正しくその有り様が、事実に触れて判断ができるっていう事です。

勝手な自分の想像を中心にして、ものを判断するんじゃなくて。

そしてそのことを、文章に表すなり、言葉に表わして、正しく伝えるってことが正語でしょう。まあそう言うことがありますね。


で、四番目正業道支。「釈迦牟尼仏言、『三十七品是僧業』」僧業と書いてあるんですかね。

今、ずっと挙げて来てる三十七品目の修行の仕方が、坊さん達が修行する上で正しい業だという事を、お釈迦様が言われている。

「僧業は大乗にあらず、小乗にあらず」時代の流れでですね、大乗とか小乗とかって言う仕分けがされてますけ

ども、ものの本質としては大きな乗り物、小さな乗り物っていうものは元々ないものですね。

自己中心になって生活するようになると小さくなる。自分を立てずに生活すると大きな働きが出来るって言うので、

昔から大乗と小乗というのが言われている。

自分だけ救われればいい、悟ればいい、幸せになればいい、そういうな小乗で小さい。最初から修行する時に、

一切の衆生をどうやったら幸せに出来るだろう、救えるだろうって言う大きな願いで修行してる人達の方は大乗でしょう。


だけど、そういう風なものにどちらにもひっかからないのがお坊さんたちの業。で、現実のお坊さん達の社会には一応代表して、

三つ位の分れがあると言う。「仏僧・菩薩僧・声聞僧等あり」これは人の修行のあり方で、

志の如何によって分類されたのでしょう。本当のものを、本当の救いを求めようとするものは仏僧でしょう。

菩薩僧、願いを起こしてと言う様な事もあるでしょう。人の話を聞いたりしてと言うものもあるでしょう。


願わくは本当の、どうせやるなら、本気になって本物を求めるという事を、同じ時間を過ごすんならやって頂きたい。

そうでないと、もったいないですね。私は在家だから、という風なことを頭において聞くのは、こう言うもの持って聞くっていうのはつ

まらない事でしょう。それだけ自分で、勝手に壁を作って、自分の中に受け入れない体制を作って、ものを学び始めるっていうのは。

ものを学ぶ時、下手でしょう。そんな壁は何処にもない。自分で勝手に作って、これは私は在家だから用がないって言っちゃ、

聞いたものカットしていく。用があってもなくても全部その時に触れているんだから、大事に扱っていったらいいと思う。

坊さんであろうが、在家であろうが、ものを大きく学ぶってのはそういう事でしょ。

今は私に直接用がないからって言う様な事を考えたら、それは学べないんですよ。ああでも後で、あの時学んどきゃ良かったって

言う様なこと、よく言うですよ。触れていてもそうやって、勝手にそれを入れずに過ごす。それ下手なんですよね。

そういう風なことがこういう仏僧とか菩薩僧とか声聞僧とかって分け方の中の姿でしょ。皆さんはだからどこを目指すかね。


「いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続せることあらず」

出家に、身の出家、心の出家て言うようなことが言われます。出家っていうのは、当時は、今の坊さんの様に、

何か特別なことがあったんじゃない。在家の人がそのまま志を起こして、自分の本当の救いってというものを求め始めた人達を、

わずかに後の人達が、自分達と違うから、あれはお釈迦様のグループだって言う風にして、出家集団ていう様にに分けたんでしょ

うね。それだけですよ。


後になると、それが一つの生業になってるから、最初からお坊さんらしい何か集団がいる。

で、最初からお坊さんらしい集団がいる中にはですね、自分が出家した気気がないから、不思議なお坊さんが出来るんですね。

他所から見るとお坊さんだと思うんだけど、本当にお坊さんかなと思うような、在家よりも、在家の人がいるよね、出家の中には。

それはお坊さんの本業をやろうって言う気がどこにもない。だから一度も出家してないですよね。


出家ていうのは三界の火宅を出でるということでしょ。出世間という言い方もしますけれど、出世をするって言われてる。

三界の火宅を出でる。もうちょっと言えば、自分の考え方を、一度、本当に手放してみる、って言うことですね、出家。

自分の考え方手放さなければ、ものの真相なんていうものは絶対にわかるもんじゃない。

日常いろんなものに触れていても、すぐ触れたものに、自分の見解をつけて生活してるんだから。

見解抜きで実物そのものにこうやって触れるということがない限りはですね、ものの真相はわからない。

出家っていうのはそういう人たちなのね。自分の見解を本当に一度離れて。だから、そのままでも出来んことはない。

着物を変えなくても。衣に替えなくても。頭を剃らなくても。そういうの心の出家というんでしょう。


身の出家っていうのは、一応外からみても、お坊さんらしい色んなことをやる。

じゃ外から見た、頭を剃ったり、衣を着ただけで出家になるかったら、やっぱり、この自分の見解を本当に離れない限りは、

出家とはやっぱり言わんね。衣紋掛けって言われます、衣を着てるから。天麩羅とかって言います、衣を着てるって。

これ、つまらない話ですかね。聞きばなしにして下さい。フッフッフッ・・・。


一度だから、こう言う出家せざるものって、出家ってどういうことを言うのかって言うのは、出家の人も在家の人も、考えて頂く必要

があるんでしょう。そうでないと本当のことは受け取れない。受け継ぐことも出来ない。それは当然でしょう。

「仏法の大道を正伝せることあらず」


で、そこに在家の話がちょっと出てきます。「在家わずかに近事男女の学道といへども」これは優婆塞、優婆夷

とかって言う。お受戒会なんか行くと、在家の男性に対しては優婆塞、女性の信者にたいしては優婆夷、サンスクリット語を漢字に

当てた言葉で書かれた席札が男女席をおなじくせず、掲げられています。日本流に言えば、信士・信女ですね。信仰の信ですね。

それを信ずる人と信仰する女性、信士、信女、言われます。


そういう中にですね、本当に道を明らめた、ものの真相をキチッと最後まで明らめきった人は、道元禅師は、居ないと言っておられ

る。「達道のとき、必ず出家するなり」従来のものの考え方から一度、必ず、全部を離れきらないと、

ものの真相に触れない様に出来てるって言いたいんですね。

だから、外から見て出家をしたって言う様な風に極端に見える訳じゃない。

このままでありながら、本当に一度、今までの持ち物を全部離れ切らないと、ものの真相はわからない。


簡単な話、このコップの中に一杯ものを入れようと思った時に、如何するかと言ったら、この中に少しでも何かものが、

先に入ってたら一杯にする事が出来ないって、皆さん良く知ってるでしょう。少なくともこの中に一杯ものが入るってことは、

一度全部すっからかんになる必要があるのでしょう。

そうでないと、一杯になったって言うんだけど、前のものに足したってことになる。


「出家に不堪ならんともがら、いかでか仏位を嗣続せん」出家、まあちょっと世俗の話になるかも知らんけど、

お坊さんになったんだけどと言って、衣を着るのを嫌がったり、頭を剃るのを嫌だって言う人がいる。その位の人がですね、

ほんとに自分の持ち物を一回全部捨てるかって、無理でしょう。

その位のものでさえ手放せない人が、自分の持ち物全部捨てることが出来るなんてとても思えない。

今持ってる持ち家とか財産とかあるかもしれない。ほっといて修行に来なさいって言っても、中々、出家しても出来ない人が居る。

放って来なさいと言う事は、別に取り上げる訳じゃないからいいじゃない、放っておくだけで。

だけど、放っておくだけでも怖がって出来ない。


学んだ学問を使わないで勉強する、そんなもの使わないから置いときなさい、って言っても、学んだ学問をですね、

手放すことが出来ない。あそこでこう習った、あの人にこういう事言われた、ここにああいうことが書いてあった、

って言うようなものを、皆持ち込んでくる。だから、いつでもザワザワザワザワしてる。自分の中に新しいものが入ってくると、

すぐ前の学んだものと、こうやって、自分の中で、カチンコ、カチンコして、どっちがいいだろう、どっちが本当だろうって。

ひどい人は自分の気に入る方をとるだけであって、人の話なんか聞いちゃいない。学んでいる様なこと言ってるけど、ただ、

自分の中に入れて自分の好き嫌いだけで、自分の気に入ったほうだけを取って、それを実行していかにも修行してる様に思う。


そういう様なことが、こういう処に「出家に不堪ならんともがら」堪えられない。出家したんだけど、

本当に身も心も出家するってことに堪えられないような人はですね、それは仏様の位、そういうものを受け継ぐこと無理でしょう。

まあいろんなこともっと出てきます。段々生臭い話が出てくる。まあざっと読んでみますね。


「しかあるに、二、三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほく、いはく、『在家の学道と出家の学道と、これ一等なり』といふ」

一般の人もお坊さんも、特別、違いはないよ、と一口に言うのでしょう。今も言うわけでしょう。それはどういうことかって言うと、

「これただ、在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり」ひどい表現ですね。

ものすごいひどい表現ですね。ボロクソ。こういう表現だと腹立たない位ですね。あまりにもひどすぎて。

それ以上説明する用ないでしょう。


「あるいは国王大臣にむかひていわく、『万機の心はすなわち仏祖心なり、更に別心あらず』といふ。」

ここでもやっぱり、国王とか、そういう大臣だとか上位にいる人たちの心と、仏様の心とは違いがないって言って、

一応おだててるんでしょう。何でおだてるかって言うと、

「王臣いまだ正説正法をわきまえず」本当のことは知らない、本当のことは説かないんだけど、

そういう人に近づいてですね、肩書きとして勅旨号だとか大師号とか国師号とか、禄をもらうとか、言う様な事のために、

相手をおだてて、権勢に近づいているって、本当にくだらないって言ってるのですね。


「かくのごとくの道ある諸僧は調達なり」丁度、お釈迦様の時代に、異母弟になるのかな、提婆達多というライバ

ルが居て、提婆達多と言う人はお釈迦様を亡き者にしようと、再三、色々なことを企てて悪事を働いた、という風に伝えられてる。

そのために地獄に落ちたと言われてるんです。力があるとですね、生半可に自分に力があるもんだから、

私だってお釈迦様とそう違わないじゃない、どうしてあっちばっか、あんなに持て囃されて大事にされる。

俺の方も、少しどうにかしてくれよ、というのが提婆達多でしょうね。あいつが居なきゃ俺もっと幸せになれる。

ひょっとしたら私の方が王位継承になるんじゃないかと言う様なことかね。その位、変な気持ちを起こして、石を投げたり、

いろいろする。それ位、まあ、今二つ挙げた例はですね、愚かなことだって言ってるんでしょう。


「てい唾をくらはんがために、かくのごとくの、小児の狂話あり。啼哭といふべし」どっかで見た風景ですね。

テレビ画面を通して大泣きしてました。使い込んで。啼哭てそういうんですね。


「七仏の眷属にあらず、魔儻畜産なり」畜産て書いてあるけど、畜生というのでしょう。畜産業て今言うのかな。

要するに、全部そういうあり方に対して、道元禅師流の評価なんですね。耳が痛い。これでも気が付かないか、これ位馬鹿にして

も、お前自分が馬鹿にされて、間違ってることやってること気が付かないかって言う位、徹底、注意、喚起してるのですね、言葉で。

普通だったらこれ位言われれば、改めて改心する。


「いまだ、身心学道をしらず、」学道、ものを学ぶ時には、必ずこの身体と心、これいただいて、

これで勉強する以外にないですね。頭で勉強するってことをやらないですね。学道、頭でやらない。考え方でやるんじゃない。

この身体全体で。

出家も身心出家ですね。身の出家もあれば心の出家もある。この身心ともに出家するってこともあるでしょう。

王様とか大臣についた人が、その国の法律とか政府の仕組みに暗かったら、そりゃうまく治められないのでしょう。

仏道に於いてもそうでしょう。仏様や祖師方が大事にしてきた、本当の有り様って言うようなものを垣間見ることが無かったら、

どうしていいかわからない。


在家の方で有名な方たちのいうことをちょっとそこで挙げてありますね。維摩居士、龐薀居士、李附馬とか、楊文公とか、長恨歌

を書いた白居易(白楽天)とか、ああいうの皆居士ですけれど、一応嗣法の人として歴史の中では挙げられているわけだけど、

道元禅師の眼から点検されると、許されないとこう言っておりますね。そういうことがこう挙げられる。


「維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし、学未到少なからず」維摩居士と文殊菩薩とので会い。

維摩居士が病床に伏せっている時に、誰か見舞いに行けって言われたけど、誰も恐れ多くて、行きたがらなかった時に、

文殊菩薩が代表してお見舞いに行ったって話がある。その時に、維摩居士は黙っておられた。一言も発しなかった。

黙雷の如しっていう表現をしてますね。黙っていたんだけど雷にうたれたような位。維摩居士黙って病床で伏せってる、

文殊菩薩がお見舞いに行って、如何ですかって言った時に、黙っておられた維摩居士の様子に触れた時に、文殊菩薩が震え上が

るって言っていいのか、それ位強いものを感じられたんでしょうね。それ位の歴史に出てくる維摩居士って人だけど、道元禅師は、

、ものの真相の上において未だ底をついていない、あるいは学ぶ上において学び切っていないと言う様なこと

を言っております。それどういうことでしょうかね。


道元禅師の言ってること、示されていろことを、自分に力が無いのに、これをその通り真に受けてですね、これを使っては大変なこ

とになる。道元禅師が言ってると、これいいじゃないかと思うけど、自分に力がなくてこんなことを人に言ったら、おかしいでしょう。

自分が維摩居士よりも力がない人がですよ、道元禅師がそういってるんだから、貴方たいしたことないねって、

そんなことを言ったらおかしくなる。だから自分でよく自分のことを見て、こういうの使わないととんでもないことになるね。


龐薀居士は、有名な石頭希遷禅師とか丹霞天然禅師と言う様な人、あるいは馬祖と言う様な人に歴参して、当時の第一級の人に

禅を学んで、一応馬祖の所で許しを得た、それ位力のある人です。そういう人に対しても道元禅師は「祖席に参歴せし、

薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばす。ただわづかに参学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり。」


多少そこにて、いろんなことを聞き覚えたり学んだかも知れないけれどもって、そういう言い方を道元禅師はこの方にされておりま

す。これもそのまま、道元禅師の言葉を自分で受け取って使っては罰が当たりますな。


その他の「自餘、李附馬、楊文公等は、おのおの参飽とおもふといへども」もう学び飽きた、十分に修行し終わっ

たと思うといえども、「参飽とおもふといふといへども」思うと言うと言えども、「乳餅いまだ喫せず」 乳で作ったお餅。どういうことか言ったら、仏法の真髄と言うことでしょうかね。

同じ食べていても、ご飯でもそうだけど、同じ食べていても、良く噛まないと髄の味を味わうことがない。口を通るんだけど、

お腹にも入るんだけど、真髄を味わうためには良く砕かないと、骨を噛み砕かないと髄は味わえないね。

お魚食べる人も、背骨を噛み砕くと其の中に髄があって美味しいですよ。それ位守られているもんです。髄って。骨髄もそうです。

「いわんや画餅」 絵に描いた餅って言うんでしょうかね、「画餅を喫せんや」 

画に書いた餅は飢えに満たずって言うのが一般の言い方です。。画に描いた餅では、食べても腹は膨れんって言う、そんはことはない。

皆さんものを見てるのはどうですか。これでものを見て、あるいは音が鳴ると、音を聞いて、これ皆画に描いた様なもんでしょう。

それで十分足りてるでしょう。面白いね。


実物と思われてるものの内容はですね、何も留まってるものは無いですね。パン(机を扇で打つ)確かに聞いたって言うんだけど、

音がしたに違いない、聞いたに違いない、だけど、音は「パン」の時にそうあっただけで、どこにも無い。こういうの画に描いた餅っ

ていうんでしょ。これ、聞いた、聞こえたって取り上げているものは、実物じゃないですからね。

だけど花の絵が描いてあると、花の絵がちゃんと見える。そこらへん歩いて花に触れると花に触れた様になる。

そういうなことが画餅(ワヒン)を食べるというんですね。なかなか味わいのある言葉ですよ。

正法眼蔵の中にも、眼蔵の画餅の巻ってある。もし時間があったら読んでみて。


「いわんや仏祖の粥飯を喫せんや」じゃ仏祖方の食べるお粥とかご飯と、皆さんが食べるご飯とお粥と、

ものが違うのかって、そうじゃない、同じお粥同じご飯なんだけれども、今話した様に、仏祖方は同じものを、皆さんと同じようなも

のを食べてるんだけど、味わいが違うんですね。だって生活だってそうでしょ。ここに仏祖方が居たら、

一緒にこの様に生活してるんだけど、同じ様にこうやって見てるはずなんだけれど、距離のない触れ方をして生きてる人と、

向こうにあるものをこうやってこちらから眺めてると思って見てる人と、随分違うんですよね。そういうことです。

わかりますか、そういうの。自分をここに立てて、ものをやっぱり殆どの人は見てるんですね。仏祖方はこうやってる時に、

自分らしいものはすっかり無しに生活してる。その親しさが違う。

皆さんだって、だから、自分を立てなくなれば、まさに仏祖の宿飯を喫すると言うことになるでしょう。

特別、仏様のお粥とかご飯ってある訳じゃないですよ。


「未有鉢孟なり」鉢孟って応量器って言うんでしょうけど、御飯の入れ物ということで一般には解釈されるんでしょう。

深い意味のとり方をすれば、鉢孟ってことは、自己そのものですよね。自分自身、これが鉢孟なんですよね。一切のものを盛る器

です。食べ物だけじゃなく、応量器と言われる、一人一人、自分にピッタリ沿った器が一つだけある。

自分の体と寸分違わない大きさの器がある。それが皆さんの身体です。この身体の中に、全てのものを頂くんですね。


そうやって生きてるのね。この身体の上に取り上げないものは、頂かないものは、自分の取り扱いにならない。自分のものとして取

り扱いに一切ならない。わかりやすく言えば、聞いたことの無い音は知らない。見たことの無いものは見えない。

思ったことの無いものは出てこない。いう風になってる。世の中にどれほど色んなことがあろうとですよ。

皆さんが問題にできるのは、この自分の上で頂いたものだけです。


ニュースでもそう、世界中に色んなことがあるに違いない。だけど、知らない間は取り上げることさえできない。まあ逆に言えば、

取り上げなくてもいいっていうことでしょうか。知らなかったことを間違えてやった時には、罪は軽いんでしょう。不思議ですね、

罪って。知っていて犯すと重いんですね。


ドーピングなんかもそうでしょう。「飲んだものを吐き出しなさい」って言われるっていうことは、その飲んだものが、

どういう風な効果があるかってことを、あらかじめ知らされていて、飲んだらすぐ、何時間かの内に吐き出すということかな。

だからやっぱり同罪なんですよね。本当に知らずにやったって言うんだったら別ですね。被害者ですね、人に飲まされちゃってそう

なっちゃ。まあ色んな社会のニュース聞いても、そういうことよくあります。


「あわれむべし、一生の皮袋いたづらなることを」本当に一生涯この頂いている身体一つで生活してるのに、

これをどういう風に扱うかを知らない。この素晴らしさ尊さ、そういうことを知らないで扱っているという。

もったいないなーと言っております。


  1. 2016/08/14(日) 21:05:00|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
  3. | コメント:0

三十七品菩提分法 八正道  正思惟道支・正語道支

正思惟道支

音声はこちら ↓

八正道支  正思惟 __01

八正道支  正思惟 正語_02_

八正道支 正思惟 正語_03

八正道支 正語_04

八正道支 正語_05


えーそういうことですが、「正思惟道支」「作是思惟時、十方仏皆現なり」 この思惟をなす時って、

どういうことをやるんですか。思惟ってのは思い、考え方を使うんですね。思慮分別使うんですけども。

今話した正見なんかにしてもですね、話している内容は思惟をしないと話が出来ないのですね。

事柄がそういうことが行われていても、思惟をしないと話が出来ません。

「こうやって触れるとその通りになるでしょう」って言うことは、実際にやれてることを思惟してるんですね。どうなってるか。

だから皆さん方、その思惟をしたことで話をしてます。そうすると、その今、実際生活してる内容がそこに、

皆さんに伝わるようになってる。それが伝わると、なるほどという風なことになるでしょう。

それは私が話していることを聞いてどうこうじゃないでしょう。各自、自分自身の今の様子に目を向けて学ぶんです。

下手な人は私が喋っていることを聞いて何かしてるんです。それは勉強にならない。


簡単なこと言いますとね、お茶ひとつ出されてもですよ。わたしが飲んでお茶の話をしてる時に、それ聞いて、

お茶の味ってそういうもんだって勉強しても何にも勉強にならないでしょう。実際自分が飲むと一番よくわかる。

絶対100人の人が飲んでも100人の人の飲んだ味なんてのは、自分で自覚なんか絶対出来ない。

他の人のことだから、駄目なんです。勉強するってのは、必ず、この自己の身心を借りて、この上でやる。いちいち自覚です。

他人の様子は一切用いません。聞くんだって皆さんそうでしょ。今、自分の耳で聞いてるだけでしょ。他人の耳で聞かないでしょ。

その自分の耳で聞いてる様子に学ぶんでしょ。

そういう風に、「作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば十方現、諸仏現、これ作是思惟時なり」なんですね。

「ああ本当に」って言うようなことを使います。「ああ」、言葉にならない位、気が付く時は、「ハッ」その位で大体済む位でしょ。

言われたていたこと、書いてあったこと気が付く時。

「作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども」こちらに自分がいて、向こうにものがあって、

そして触れて何かがわかるというような、そういう在り方じゃないね。これも皆さんよく知ってるでしょう。


最近、草刈をしてて草の上に転がった。何で転がったかというと、いきなりチクッとしたからです。足長蜂がいて刺された。

危ないなと思ったから、逃げたんですけど、一箇所だけですんだ。ああいう時でもそうですね。

蜂が刺したとか、やられたとかじゃなくて、只、本当にそういうことの動きがあるだけで、もうこれ見てると、面白いですよ。

「自己にあらず、他己をこえたりといへども」誰が何をやってるかって知らない位、何のことかわからない位、

面白い動きをしてる。いっぱいありますね、そういうな事。


「而今」て言うのは今、今という表現の、時間らしい見方を越えた、正確な表現を而今と言うでしょう。

「思惟是事己、即趣波羅奈なり」実際のことが自分で、実際にそのとおりのことが自分でわかって初めて、

説法が出来るんでしょう。消化不良のものを話しをすると、途中で支離滅裂になる、人間は。

だから、自分でわからないことは喋らないことだな、それ以上。はっきりしてるとこだけでいいんじゃないですかね。

これ以上はわかりませんので他の人に、って言えば良い事で。それをわかりもしないことまでわかったようにやると、

責任が取れない。普通嘘をつくとか言うようなことでしょ。何でそんなことをするんでしょうかね。

ちょっと格好良く見せたいからですかね。ちょっと格好良く見せたいためにやってると、今日、来る時、こんな話を聞いたんだけど、

ばけもんって言うんじゃなくて、何だっけ、何もんか、あ、ポケモン、ポケモンとかって言う、こうやって探しながら歩いてる話が

あって、誤ってホームから落ちて、電車を止めるようなことになる。

デパートで、エスカレーターの所で、あまり大きな音がしたから、人がびっくりして後ろを見たら、買い物を全部そこらに散らかして

倒れていた。そういう人が最近いるらしい。ここわずか2、3日の話ですよ。

何でそんな話になったか知りませんけど、説法からだったか、ものがよくわかってないでやるとですね、

そういう過ちを犯すって事がいいたいんだけど。楽しいことは結構だけど、安全なとこでやってほしいですね。


「思惟の処在は波羅奈なり」なんで思惟をするか。思い図るのか。どうなっているかを検証していくのか。

それは人に伝えるためでもあるんでしょう。皆さんだってそうでしょう。人に伝えるためには、それはどうなっているかってことが、

自分で理解できないと伝えられないんじゃないですか。お料理だってそう。実際に自分でやって出来ていてもですね。

この思惟、正思惟が、正しく思惟する力が劣っているとですね、自分は出来ても他人には伝えられないってことがありますね。


お釈迦さまもお悟りを開いて、暫くはですね、最初に話してみたんでしょうけれども、最初に話した時に、ポカーンと、皆、

してたんでしょうね。[何言っているのかよくわからない]って感じだった。

それ位、お釈迦様の世界と、普通の人達が暮らしている世界が違うということです。一方は考え方を中心にして生きている、

一方は事実を直接扱っている。だからもの凄い開きがあるので、同じものの話をしてるはずなのに、全然わからない。

そういうのを易しく表現すればですね、同じものを見ていると思っていますが、見ている場所が違うんですね。位置が。

だから同じものを見てるんだけど、見え方が全く違うから、いくら説明されても、自分の今見てる中に、そういうものが見えないもん

だからわからない。だけど、同じ位置、同じ立場に立ってこうやってみると、何にも難しいことはない。誰でもそうでしょ。そこから、

同じ位置から見れば、同じように大体見えるようになってる。


そう言う事が正思惟をする所以でしょう。で、たくさんのものが今日まで伝わってきたわけです。不思議ですね。

誰が残そうっていう気配が無いのに、口伝にしても残ってくる。役に立つものって、大体、ずーっと残って来るんですね、

棄てられずに。役に立た無いものは、皆さんの買い物と同じように、目ざとくその時に、何か気が向いたから買って帰るけど、

暫く押入れにしまっとく。その内買ってきたこと忘れてる。あること忘れる。時が過ぎていく。そういうの一杯家の中に溜まってる。


もうひとつ別な表現で、道元禅師はこの正思惟のことを挙げておられるね。これ坐禅の時にも使われてる、

薬山弘道大師のお話です。

「古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量」そういうに読むんですかね。

これが坐禅をする時の一番大事な過ごし方。坐禅をして何をしているのか。考えるごとをするな、思慮分別にわたるな、

それは考え方をやめるって、一応言われているんだけども、ここでも考え方をやめたら、やめた時はどうなっているか、

って言うことは見逃さないのですね。考え方を本当にやめてるとどうなっているかと言う事は、見逃してはだめなんですね。


じゃ、どういう風にしてそれを勉強するかって言うと、「不思量底如何思量」今までは思慮分別を使って、

考え方をやめてる時どうなってるか、ああなってる、こうなってるって、思慮分別を使って、こうやってものを追求したんだけど、

そういう追及するなと言う事でしょう。「不思量底」」考えてない時はどうなってるかって、考えたらだめでしょう。

その答えは非思量です。

人間の思慮分別に渡らない、そういうものの付いて来ない、今生活している実生活そのものに学んでごらんと、こう言うんですね。


蝉の声だって良いじゃないですか。「ジィー」あの通りに、あの通りのことが一番良くわかる様になっている。だって今までは、

ああ、あそこで蝉が鳴いている、あれは何の蝉だとか、沢山鳴いてるとか、声が大きいとか小さいとか、

そういうの皆思量の範囲でしょう。それをやめて、鳴いてる様子だけで、こうやって居てみる。

そう言う事がここにある様に「これ正思量、正思惟なり」

こういうことが正しくものごとを思慮分別してるといわれることなんだと言ってるんです。一般に使う思慮分別とは違うんですね。

自分の思いをそこに差し挟んで、ものを評価するようなことはしない。

「破蒲団」とある。坐禅の時の様子だということです。「これ正思惟なり」

こういう言い方は学校の時に聞かなかったかしら。


次に正語道支

正しく言葉を使う、と言う。禅宗では不立文字、教外別伝て、文字によらずにって言うんですかね。言外の響きっていうんですかね

そりゃ「赤い」という風に書いてあって、赤いという字を見るとですね、人間は想像をするもんですから、

赤いという字に赤い色は無いんだけど、そうでしょう。赤いペンで書いてあれば、赤く見えるんだけど、

黒いインクで赤いって書いてあってもですね、人間は赤いって読むと赤く見えるらしい。

不思議な動物だね。皆さんそういう風になりませんか。赤い、青いって言うと、緑、白いって。

皆そういう風になんか色がそこに出てくるでしょ。文字に表したもので色は出てこないはずです。

あれは私達がその都度文字に触れた後に、そっから推測する。


だから、こういうことが言われている。カナがふってあるから、「啞子」と読むんですが、アシと言うんでしょうかね。

口偏がつけてあるから喋れないという人でしょう。今は、こういう、人を差別する、表現の上であまり良くない使い方だって言うん

で、注意される。元々の字は別に人を差別するために作ったわけじゃない。事実を正確に表した言葉なんですね。

だから一切の言葉を見ればわかるように、全部そのものを表しているから、違いが全部出てくる。違いというのと差別を言うのと、

どこが違うんでしょうかね。他人と違う、差異があるという使い方をすると、差別でないというんだけど、字は同じですよ。

差別と書いて大丈夫です。


よくよく見ると、どこが問題かって言うと、言葉が問題じゃなくて、その言葉を使っている人の気持ちの中にですね、

問題があるんでしょう。若し、和尚さんのこと、坊主といったら、あれは決してお寺の方々を馬鹿にした言葉ではありません。

だけど、あそこに変なものをつけると言うと、上の方に糞なんてつけると、そうすると、なんとなく嫌な匂いがしてくるのね。

生臭と、色んな坊主がいる。だけど、坊主っていうのはお寺の建物、何々坊って言う建物の主に対する敬称なんです。敬った。

社長さんって言うような意味です。会長さんって、校長先生とかっていう意味。それなのに何時からか知らないけど、あれを使う、

坊主と言う。響きが悪くなるのかね。そんなんで、人を馬鹿にしているように聞こえる様になるんですね。

坊主と言われたら、敬われてると思ったら非常に良い。有難うって。そういう人がお坊さんにみんなやるもんだから、

面白いですね。からかうと腹立てる。よけい面白くて。坊主って。


言葉よく見てみると、本当はなんでもないね。言葉を聴いて自分で自分を苦しめるような受け取り方をするのが上手なんですね。

まあそれはさて置いて、そこに在る様に「啞子自己なり不啞子なり」注の方に脚注の方にもあるけども、

こんな言葉があるんですね。「儞若一生不叢林、不語十年五載、無人喚儞作啞漢」15年位黙って修行道場で

過ごしていたら、人はあなたのことを口の聞けない人だとは絶対言わないって言うんですね。黙々として過ごしているだけで、

人はそれで、その人の身体全体の様子が、その事実を語っているから、それを読み取るんですよ。


さっき来る時にも、お話を頂いたんです。まあ類したことを考えるとですね、何か仕事を頼む時に、2,3人の人を挙げた場合に、

一番目の人が行って交渉して、二番目、三番目の人交渉して、同じことを交渉してもですよ、ものが成立するかしないかってこと

は、同じことを言うんだから誰が行っても良いことだと思うけど、そうはいかないのね。それはその語ってる一言一言に、

その人の人生の全てが裏打ちされてるからでしょう。それだけの重みがある、その人に、言葉に。ただ喋ってるだけじゃない。

人を動かすだけの力を持ってるね。そういうことを考えると、我々の日々の生活がどうあったらいいんだって事を、反省させられま

すね。本当に口を開かなくてもですよ、黙っていても、その人が行くと人は動く。凄いもんですね。


で、そこに下に書いてあるのは、「諸人中の啞子は未道手なり」一般に言う、喋れないという人は、

本当にただ喋れないだけだって。仏道で言うしゃべれない、喋らないと言うのはそう言うこととは違う。

全身で喋っているから良いじゃん。「啞子界の諸人は啞子にあらず」

本当に自分のことを自分でやってる様な人の様子は啞子とは言わないんですよね。


目も、ものを言うんですね。目。目は語るとかって言うんだけど、こうやって、ちょっとこういう目を取り扱って見ただけで、

どうあるかが全て、そのまんまのことがいただける、そこまで行くと「諸聖を慕わず」よそのどんな立派な人がいようが、

そういうものに用がなくなる。人が羨ましく思える間は、自分のことを見て、何か自分の中に欠けるものがあるんでしょうね。

満たされないものがある。未だ欲しがっている間は、つまらないでしょう。


「己霊を重んぜず」何か特別な素晴らしいあり方っていうのを大切にするような気配のない。

「口是掛壁」口を壁にかける、忘れてしまうって言うことですかね、喋るのを。掛けっぱなしで、口を壁に。

喋ろうと思った時に取りに行かないと、言う様なことかしら。


坐ってる様子なんかもこういう事を言うのでしょう。坐禅する時に、口を壁に掛けて坐るのでしょう。

だけど、口では喋らないけど頭の中で喋ってる人がいる。坐りながら。人には聞こえないんだけど頭の中で。あれはだめですよ。

坐りながら頭の中で、自分中でいろんな会話をしている、ものすごい喋る。そうではなく、「一切口掛一切壁なり」

その時に本当にその事だけで、居れる。


禅宗の修行道場では三黙の道場なんて言うこと言われてます。人が集まる所では口を開かない様に一応注意はされてる。

お手洗い、お風呂、僧堂。僧堂は寝る場所であり、三度の食事する場所であり、坐禅をする場所ですから、

この三つの場所で喋らないって事は、もう殆ど喋らないということですかね。


喋らないで人間が生活するとですね、よっぽど気を使っていないとですね、物事が出来ないですね。やってみるとわかります。

普通は、言われたことをやってるんだけど。耳からひとつも指令が入って来ない、あれやれ、これやれっていう事入って来ないと、

自分の目で見て、そして動くしかない。そうすると、注意力もの凄く育つんですね。人から言われて動くようになると、

言われないと動かなくなっちゃう。それ現代の病みたいなもんですね。

昔は丁稚なんかに行った人たちを見ると、皆教えられるって言うことは殆どない。其処にいて、そして盗み取って来る。

そうやって勉強した。人から教えられたものじゃないから、身につくことはきちっと身につきますね。いい勉強ですね。

坐禅もそういう、修行もそういうにありたい。


喋らない代わりにお寺では色々な鳴り物があるから、音を出す。音を聞いて、それは音がしたら何をするかってわかる音。

何処で音がしているか、音がすればわかるようになってますから。それから音がすれば、それは太鼓の音なのか、鐘の音なのか、

拍子木の音なのか、それもわかるようになってるから、色んなことが、音を聞いただけで、瞬時のうちに判断できる。

誰に言ってるって事はないですね。全山そこに居る人に、一様に同じように聞こえる様に音を鳴らしてます。

だから音を聞くとピッと動く。うまく出来てるね。

口頭でやると、好きな人だ、嫌いな人だって言われると、言った事に変な反応起こしてやらないかも知れない。

そういうことさえも起させないで、鐘が鳴ると、上手く出来てます。エーまあ、正しい言葉ですね。正語道支。

ここで丁度休憩するといいでしょう。

  1. 2016/08/13(土) 20:34:07|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
  3. | コメント:0

三十七品菩提分法 八正道  正見

三十七品菩提分法 八正道 八聖道とも称ず  2016.6.25提唱

一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正精進道支
七者、正念道支
八者、正定道支



音声はこちら↓

八正道 正見01

八正道 正見02

八正道 正見03

八正道 正見04

八正道 正見道支 05.



仏教学を勉強すると必ず学ぶ、八正道、四諦八正道。そのお題目は次にあげてるようになってますね。

先ず一つ目に正見道支、二者、正思惟道支、三者、正語道支、四者、正業道支、五者、正命道支、六者、正精進道支、

七者、正念道支、八者、正定道支。

覚える時は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。そういう風に、下の二字を省いて覚えるんですけど。

全部最初のところに、八正道とあるように、正しいという字がつけてあります。


第一番目の正見。

お釈迦様が、どの様に正しくものを見たのでしょう。

明けの明星を見て悟ったというんだけど、どの様に明けの明星を見たのでしょうね。皆さんはどうですか。

いろんなものを見ると、どの様に見えるのが正しいのでしょう。正しくものを見るというのは、どう言う風に見たらよいんでしょう。


お釈迦様のことを挙げてみれば、ものを見る時に、今までは自分をここに置いて、ものが向こうにあるから、

それをこっちから眺めて、こうやって見てたんでしょう、常に。皆さんと殆ど変わらない。そういう見方をしたんでしょうね。

だけども、たまたま明けの明星に触れた時にですね、我を忘れてるんですね。

今までの様に、向こうに星があって、こっちから人がそれを眺めてるって言う様な気配でない、そういう触れ方をしたんですね。

人がそこに、見る人が入らない場合はですね、過ちは絶対起きないようになってますね。

見る人がいると、その人なりの見方や思い方や触れ方が、ちらちらと入ってきて狂いますね。

そういうことで、あの知ってるでしょう、理論上。


熱湯をいきなりかけられた時、「痛ぁっ―!痛!」。ああいう時見て御覧なさい。どこにも自分らしいものはいないよ。

だから怒る人はいませんね。怒るんだってことやれない。ただ、その時、こんなになってるだけだ。不思議ですね。

そういう終わっていくんだけど、そのあと自分て言うものが出てくると、「何だ。誰がこんなことを!」って、いう風にして、人を見て、

つっかかっていく。もうその時には、お湯がかかった後で、そのことは全部おわちゃってる。こんな面白い、人は生活している。

人が居ないって、もちろんかけられた人が居るには違いない。かけられた人が居てもですね、かけられた人自体が自分を忘れて、

熱さだけで、こうやって動いている。

不思議だね。そういう時の様子に触れてみると、腹のたつ人が居ない。相手がない。こんな生活するんですね、人って。

見たこともない世界ですね、自分のことなのに。こんなことは。びっくりするに決まってますよ。そういう風に、触れたら。

自分のことで、自分で見たこともないもの、そんな世界。こんなになってるなんで思っても見ない。

お釈迦様驚くわけでしょう、金星に触れて。

今までは、自分を立てて、向こうに星を見て、どうなってる、こうなってる、そういう話じゃないですか。その程度こと。

正見て凄いですね。第一番目に正見がでてくるんですよ。


で道元禅師のおっしゃられるのをちょっと読んで、時間になったらやめます。

正見道支」は、眼晴裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂々成

見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。


「『正見道支』は、眼晴裏蔵身なり。」下の方を見てみると、自己の眼晴の中に、身を蔵(かく)す。

「問ふ、如何ならんか是れ透法身の句。雲門云く、北斗裏蔵身。」

北斗の内に身を隠すって、いうこと引いてあります。今話したようなことでしょう。

星に触れているんだけど、見てる人が、居ない。熱湯に触れた時に、騒いでるらしいんだけど、痛さだけがそこに、

熱さだけがあるだけで、人らしいもの一つも出てこない。こういう様なものを身を隠すといいます。その中に身を隠すという。

「しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。」それはそうでしょう。

身体を云々する前に、そういう風に、眼(まなこ)っていうものはですね、否応なしにものに向かうとですね、私が見てるという、

すっかりなくなるようにできているんですね。見えてる様子だけがある。普段皆さん歩いてる時だってそうでしょ。

周りの様子があるだけでしょ。そこに歩いている。どうですか。何処行って歩いてても、歩いているところの、そこあるだけでしょ。

見てるなんて一つも思わないでしょ。何処行っても必ず、その今、自分のいる周りの様子が必ず、こうやってあるでしょう。

その周りの様子があるっていう時に、自分らしいもの一つも、何処にも立ててない。


もっと極端なこと言えば、桔梗の花にこうやって触れて、桔梗の花が見えてる時に、親しくなればなるほど、

自分らしいものがないでしょう。本当に桔梗の花が見えるっていう時には、桔梗の花の様子だけになるんじゃないですか。

そういう体験はないですか。どうしても私が見てるって、というようなことはくっついてますか。

「あー、はっ、はっ」ってこうやって見てる時に、どうですか。すっかり自分を忘れてるじゃないですか。皆さん、どうですか。

云う様なことないでしょうか。まあ、そんなことが、こう挙げてあるんですね。


「向前の堂々成見なりといへども、公案現成なり」下にもあるように、向前、自分で用意する前。

こうだって決めて取り扱う前。以前からっていうのはそういうのでしょう。

「グェーグェー」って、牛蛙って言うのかな、鳴くじゃないですか。自分でそういう風に聞こうと思う前に、必ず鳴いたように先に、

私がどうすることも出来ない、でしょう。で、公案現成とありますように、誰しもがどうしてもそれを犯すことが出来ない。

そのようにしか成らない。「グェー、パン!」(鳴くと机の音と一緒)否応なしにそうなるのでしょう。

私だけはそんな風に聞きたくないって、拒絶してもですよ、そういう考え方を持ってても、「グェ-」そうなるんでしょう。

そういうの公案ですよ。しかもそれが今、ここで、そのとおりのことが実現されてる。抜き差しならないように出来ている。

そういう皆さんが生活している。


「親曾見なり」曾て親しくってある。

何時からそうなったか知らない位、そういう風に親しくものと、分け隔てがなく生活できるように成っている。

行った先々の環境と、身の回りと別々に人が生活するってことは絶対にない。

必ず行った先々の環境と否応なしに一緒になって動くように出来ている。嘘だと思うなら、そこら辺いろいろと歩いて御覧なさい。

必ずそこ歩いてる通りにその環境と一緒になる。

「おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり」こう言う様な状況でなかったら、

仏の世界、自分自身の真相は触れることが出来ない、学ぶことが出来ないって言ってます。それ正見です、正見。

正しくものを見るって。


で、赤ちゃん達の様子を見るとですね。自分で今ものを見てるって言う気配は全くない。じゃ見えないのかったら、

おそらく見えているでしょう。こうやって物を置くと、こやって触ったりして、色々やってますから、見えないってことはない。

だけども、触ってると、見てると、一切、自分の中にそういう自覚は無しに活動ですよ。

音がしたら、音聞いてると大人は思うんだけど、音がしてるって言うことさえも知らない。だけども、「パン!」こうなってますね。

音を聞いてるってことを知らないけれども、「パン!」こうなってますね。


そうやって小さい時は誰も育ってきた。それが人間の、全ての人類の基本です。智慧、基本です。それ位ものを正しく学んできた。

そうやって記憶してる。一切何時記憶したか知らないんですよね。二歳位の間に、だから、学者達の、色々話を聞くと、大人の脳の

大体八割位は二、三歳までに完成されてると言われてます。それ、そういう体験です。一切人がいません。


純粋と言う言い方をするんでしょう。汚れのない、ものの受け取り方が、世界中の人がそうやって育つ。

これ、小さい頃からですね。私が良く聞いて、私が見たっていって、そういうもの記憶する様だと大変。本当に一切ない。

で、今、私達はそういう幼い頃に体験してた様な様子を、今の自分自身の中にもあるから、それに目を向けて、

それがどうなってるか、そういう時のあり方を、自分のこの身心を通して学ぼうって。気づいてほしい。

そういうあり方が仏道といわれている。修行するって言うのはそういうことをするんです。

どっか他所から何か持って来るんじゃない。


一番わかりやすいのは、皆さんが良く知ってる様に、つまらない事を思わない時は、人は一切問題ないじゃないですか。

人が悩んだり苦しんだりするのは、本当に自分の見解を起こして問題を起こしてるだけじゃないですか。

これはもう、腹に命じるべきじゃないですか。何が問題なのか。自分自身の中で起こした自分の見解が、自分で取り扱いが出来な

くて困っているだけじゃないですか。で、世の中には、人間の見解をつけないで、活動している事実って言うのがあるじゃないです

か、間違いなく。事実というものは、人の見解なんか一切付いてないよ。どんなものでも。見たものに人は見解をつける。

自己中自身に、善し悪しについて、是非、色んなものをつけて、そして自分を不自由にしてしまっている。

でお互いそうやってるから、そういう人同士が触れ合ったら、見解上の見解の相違ですからね、うまくいきっこないじゃん。

で自己主張が強いから、自分の意見を曲げないんだから、争いになるに決まってますよ。はっきりしてるじゃないですか。

で、自分の見解をやめたら人間はつまらなくなる、そんなことはないじゃないですか。

自分の見解をやめたって、味も変わらないし、ものを見たって違って見える訳じゃない、人の話だってその通り正しく聞くことが出来

るように、皆なってる、見解をつけなくたって。正しくものが見えたり聞こえたりする。正しく判断が出来る様にちゃんとなってるじゃな

いですか。何にも不自由無いじゃない。


人に勝つために生きてるんですか、皆さん。何か人に負けたらって言うけど、人に勝つために人生を送るんですか。

そんなこと無いでしょう。勝ち負けじゃないでしょう。仏法なんか勝ち負けなんか論じないよ。

仏法の中に殊劣を論ずることなし。どっちが素晴らしいか、どっちがつまらないと言う事は無い。

ただ真偽、本当か偽物かって言うだけ、言うのを相手にしてます。そういうことで、これで。八正道支の一番の正見道支。


ここから 2016.7.23日提唱  P293 


八正道支 八聖道とも称ず。一者、正見道支、二者、正思惟道支、三者、正語道支、四者、正業道支、五者、正命道支、

六者、正精進道支、七者、正念道支、八者、正定道支。



正見道支」は、眼晴裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前

の堂々成見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。

「正思惟道支」は、作是思惟時、十方物皆現なり。しかあれば十方現、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、

自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事己、即趣波羅奈なり、思惟の処在は波羅奈なり。

古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。

「正語道支」は、啞子自己啞子なり。諸人中の啞子は未道手なり。啞子界の諸人は啞子にあらず。不慕諸聖なり、不重己霊なり。

口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。 



学校に行ってた時に、増永霊鳳と言う先生に、こういう仏教学とか余乗とかいいます、仏教勉強するための文言等、勉強した時

に、学んだものの一つが八正道だったことを思い出す。


まずその最初の正見です。正しくものを見る、と言う風に見たらいいでしょう、正見。

道元禅師は「眼晴裏蔵身なり」と言われてますね。自分の眼の中に身を隠すと言うんだけども、

まあ、しちめんどくさいね、こういう表現は。それよりも、皆さんが実際、ものをご覧になってる時、どういう風になってるか、

こう触れてみればよくわかる。

今、ここでもやって御覧になって、ものにこうやって触れて、ものを見る時にどういう風になっているか。

知らない内に、自分て言うものが一切なくなって、その通りに、そのものがそういう風に見えるだけでしょうね。

そこに自分が、見てる自分がくっついて来るなんて言うことはないでしょ。

障子見た時に、障子を見てる自分がくっついて出てくるなんてことはないのでしょ。障子の様子が只あるだけ。外を見てもそう。

外の様子がその通りあるだけでしょ。どこにも自分らしい、自分の見てる気配がない。そうじゃないかと思うけど、

そういうのはどうですか。若し、ちらっとでも、それを見てる時に自分が出てきた、そんなことはないでしょう。

一切自分が出てこない。不思議ですね。そういう風に、身を蔵する、隠すようになってる。ものを見てる時に、自分ていうものは、

すっかり、何処にいるのか判らん位消えてしまって、活動としての様子があるだけ。

まあそういうの最初に見て貰っていいでしょうね。

「しかあれど」それはまあさておいて、「身先には須らく身の先眼を具すべしなり」

見るとか見えたとか言う前に、ものの有り様があるということでしょう。ものがそこに在るっていうんだけど、

私達が気がつかないと、要するにものと触れないと、そのことが在るという風に認識ができない。

身体が在る以上はですよ、必ずものと一緒にこうやって活動してる。自分で気がつかない。


一日中、眼をあけて歩いていて、生活してる時に、まあ、大半は見てるなんて思って生きてないね。書物や何かを、こう出されると、

見るってこういう風になるんだけど、じゃその見てる言う風な気配が出てこない時はどうなってるのか。こうなってるでしょう。

こうやってちゃんと見ている、見るという前に見えている中で、あ、蓮の花が、蕾が、あんなに大きくなって、実を満開にしてる、

と見たようなことを言ってるんですね。こういうなことが人には起こる。


「向前の堂々成見なりといへども」って言うことは、今、話したように、何時とは知らずにですね、

何時でもはっきりしてる。ものを見る時に、こうやって差し上げて、皆さん、こうやって物を見る時に、自分で何か見つけて、

加えたり、やり直したり、取り除いたりするっていうことは、一切無いでしょう。

どうですか。こう見るのに、やり直すとか、取り除くとか、付け足すって言う様なことをして、こうやって見るってことはないでしょう。

この通りでしょう。そういうことが、皆さんが気がつく前から、ずーっとそういう風に生活してるんですよ。

「堂堂」だから実に素晴らしいでしょ。一切自分で手をつけないで、本当に見事にその通りきちっとしている。

一つもズレない、その様子は一つもズレない生活している。て言うようなことはわかりますか、話をしていて。難しい話かしら。


屁理屈を少し言えば、これに何か手をつけて、これを見たとしたら、正しくものを見るって言うことには、ならなくなるでしょう。

それはわかるでしょう。正しく見るっていうのは、このありのままに、こうやって受け取ることなんでしょう。

自分の気に入る色であろうが、気に入らない形であろうが、そんなことはどうでもよい。そんなことじゃなくて、この通りに、

自分で一切手をつけずに、自分の思いを中心にして何かやり変えてものを見るっていうことを一切しないってことが、

ものを正しく見る基準なんです。そういうことはずーっと出来てるんでしょう。

そういうことを知らないと、人は自分の思いを中心に見るから、自分の思いを中心にして、見たものに対して、添減というか、

付けたり足したり、加えたり減らしたりする。いい加減ということ。いい加減て言う事をやるんです。あれ、皆、人の思いです。

そういうものを離れた様子があります。


「堂々の成見」これから何もしなくても其の通りにちゃーんと、きちーんとした生活が誰でも出来ているって

言うことです。だから、公案現成って言うようなことが出てくる。誰もが抜き差しのならない、この事実をほっといて、

何かすることが出来ないほど、公案として公なもののあり方、それがしかも、今、実際に自分の上で行われている。

こんな大事なことをほっといて、何をするのか、というので公案現成。


「かって、親しく見るなり。」親しくって言うことは、向こうとこっちと距離がない。隔てがない。

親しくって、そういう見方をするのではない。必ず、そのものに向かったら、そのものが見えるだけ。そのときに距離はない。

見えてるって言うことは距離はない。どういう風に見えるかって言うと、ここにあるものはここにある様に、

あそこにあるものはあそこにある様に見える。それを私達は距離って言ってる。

どうして距離になるかって言うと、見てる人がここに立っててやるから、自分に近い遠いという風に見てるからね。

そういう見方を後からする。最初に触れてる時に、これが立ちませんから、見てる人がいませんから、その通りにみえてるだけで距

離は出てこない。距離が出てこないから同じ場所に見えるかといったら、そんなことはない。不思議ですね。


だから結論として「おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり」道元禅師が使っておられる言葉に、

「自己を忘じる」と言うことがありますが、自己を忘れるということですね。

皆さん方だって、日常我を忘れて時を過ごすって言うようなことは、いろんな生活の中で、少なからず一回や二回体験してる。

仕事しているうちに、仕事している自分をすっかり忘れて過ごす。

そういう時の自分のあり様というものに目を向けたことがないから、あまりそれが大事なことだと思わないから、

すぐに自分の考え方を中心にして、屁理屈を言うのが人間社会では利口な人だっていう風に思われてるから、

出来るだけ屁理屈を言って相手をへし曲げる。へし折るほど屁理屈を言える人利口だって。

そういうところに本来のあり様と随分違いがある。


自分が本当にこう出てこないで生活が出来るようになると、楽なんですよ。自分を立てて生活をしてると、どれ位大変なことか。

皆さんが生活していていろんな問題が起きる時には、全部自分の屁理屈を立てた時でしょう、自分の。

屁理屈が立った時が厄介になってるだけでしょう。ものを学ぶと結構屁理屈言うんですよね。


どんなものに対しても選り好みをしないように少しでもやってって、そういうこと教えると、選り好みしないことが大事だってこと知っ

てますから、そういうことちゃんと守って生きてるはずなのに。自分では選り好みしないつもりで、選り好みしている人を見ると、

選り好みしてる人多いんです。それは選り好みしたってことでしょう。違うんですね。不思議ですね。


八つあるんだけども、ひとつで十分なんだね、本当は。

八正道って八つも挙げてるんだけど、ひとつの中に、皆あとのものが含まれている。


  1. 2016/08/12(金) 20:13:15|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
  3. | コメント:0
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