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三十七品菩提分法 五根 Ⅲ

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三十七品  五根 _03_01
三十七品  五根 _03_02
三十七品  五根 _03_03


「『定根』は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。

こゝをもて、入驢胎、入馬胎なり。いしの玉をつゝめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。

地の山をいたゞけるがごとし。尽地尽山といふべからず。しかあれども、頂寧より跳出し跳入す。」



定は勿論、皆さん方が一番親しんでおられる禅定ですね。その根本、定の根本を見る。

眉毛を惜しまず、「惜取眉毛なり」あるいは「策起眉毛なり」とあります。

いきなりそう言う言葉が羅列されているので、とっつきにくいのかも知れませんけども、きちんとしていると言う事ですね。

皆さんの顔をご覧になると、目の上にお眉毛がこうちゃんと付いてます。そう言う事ですね。極普通の事です。

特別な事ではありませんね。


そこに理解を頂くために少し蛇足をすればですよ、皆さんの日常生活を見て貰うとよく分かる。

鐘がチーンとなると、必ずチーンと鳴った様に誰もがなるのね。先ほどやったでしょ、チーン。そうすると、必ずそう言う風になる。


或いはこの本堂の前を歩くと、そこに、立てば芍薬ですが、芍薬の花が咲いておりました。

芍薬の花の所へ、こうやって目が行くとです、牡丹の花を見る様にはいかない様にできてる。必ず芍薬の咲いてる通りに、

自ずから皆さんが成る。決まるんですね、きちっと。それから一つもずれないよ。定まってます。


そう言う事がこうやって挙げてある。だから、このゆゑに因果を昧ませないとか因果に落ちないとかって言う様なことになってる。

必ず、そのものに触れたら、そのものに触れた様に、それ以外の事は起きない様になってる。

嘘を言っても嘘を言ってない様になるんだったら、大変ですね。嘘を言うと必ず嘘を言った様になるから、

あ、あれ嘘を言ってるって言う風にして言われる。そうすると修正される訳ですね。それで世の中丸く収まるのでしょう。


「ここをもて、入驢胎、入馬胎なり。」ロバとか馬とかって言う事がありますけども、それは動物の事を、

兎に角挙げているわけじゃない。色々な縁に従って、色々な状況に、こうやって成って行くということでしょうね。

円通寺の境内に足を一歩踏み入れると、自分の家で生活をしていた様には絶対にならない。そう言うのが驢胎に入るとか、

本堂に足を運ぶと、外にいた様な様子にならない、そう言うのが馬胎に入るって言う様な事です。


文字通りのこう読んでいくと分からなくなるね。どうしてロバの腹の中に入って行くだとか馬の腹の中に入って行くだとか、

何を言おうとしてるかって、そう言う様なものが、まあ一般的に難しいのですが、皆さんの目でやってみると、一番よく分かる。

入驢胎、入馬胎って、こうやってその文字通りに、こうやって眼もその様にずーっとなって行くんですね。

書いてある通りにこうやって。不思議ですね。人はそれを字を読んでると言うんですけども。必ずその通りこうなっている。


「いしの玉をつゝめるがごとし」ダイヤモンドなんかの原石でもそうでしょ。石の玉を包めるがごとく、

「全石全玉なりといふべからず」じゃそのダイヤモンドが入ってる原石は、全部ダイヤモンドかって言うと

そうじゃない、とこう言っているのでしょうね。「地の山をいたゞけるがごとし」山は何で出来てるかって言ったら、

土地の盛り上がりに拠って出来てる。だけども、土が全部山かって言うと、そうじゃないでしょうね。

高い所だけを一応山と言うんでしょう。土の盛り上がった。どの位の高さ迄を山と言うか知りませんが、

小山とかって言ってますが、そう言うこと挙げてある。


最後の処「しかあれども、頭寧より跳出し跳入す。」とある。それは単に頭じゃないですよ。

頭寧を頭って言うんだけれど、こっから出入りするって言う事じゃなくて、本当に、この一人一人頂いてるこの身心、身体や心と

言われる身心、このものの働き、ここから全部出てくるんですね。皆さんも重々ご承知だと思います。

世の中にありとあらゆる物があると言おうがですね、このお互い一人一人、自分自身というものが無いとですね、

ものを知る力が無い。音がしていても音を聞く力が無い。これ(身心)があると物が見えたり、音が聞こえたり、

味がしたりするんですね。全部ここ(身心)から出入りするんですね。


でも考えようによっては、私が居なくたって、円通寺は残るし、音がすれば聞こえるはずだと、鳥が鳴いたら私が居なくても、

と思うんです。思う事と実際は違うんですね。「私が居なくっても」、それは私が居る証拠でしょう。

そう言う事皆さん勉強してみてるんでしょう。定根、すべてその様にきちーんとしてます。

人間の持ってる六官の働きって言うものは、皆そう言う風に出来てる。こう言うものを借りて、修行して行くわけですね。

なるほど本当に自分が今迄考えていた或いは理解していたそう言うものと、ものの本当の在り様はこんなにも違うかって言う事を、

この身体で生活している、そこで学ぶのですね。


いつもやってるから、又やると、あんまり喜ばないかも知れない。バシッ!(机を打つ)こうやって、

こうやって勉強するんですよ。バシッ!バシッ!何かわかりますか。こうやって勉強するって

バシッ!これ聞こえますかって言うと、聞こえますって大概帰ってくるね。わかりますかって言うと、

首傾げるんですね。バシッ!音が聞こえると言う事と音がわかると言う事はどの位違うのですか。

どの位違うんだろう。バシッ!音が聞こえると言う事とバシッ!音が分かると言う事は、

どの位ちがうのでしょう。音が其の通りバシッ!聞こえると言う事は、音を理解してるって事じゃないでしょうか。

バシッ!どうですか。バシッ!そう思いませんか。バシッ!


見えますかって言うと、見えますと言う。分かりますかって言うと、何ですかね、どうなるんですかね、本当に面白いですね。

言葉がちょっと変わるとですね、わかんなくなる。見えますかって、見えますって言いますよね、大概ね。難しくないですよね。

分かりますかって言うと、変な顔し始める。難しくなるんですね。


じゃこうやって見える中で、大きさも分かれば、色も分かれば形もわかれば、皆分かってるでしょう。

見えてると言う事がそう言うことなんでしょう。だのに何で分かりますかって言うと、分からない。

この見えてる事の外に何かあると思うのでしょうね。バシッ!聞こえてる事の外に何かあると思うのでしょうね。

もしバシッ!こうやってこの音の外に、聞こえてるものがあるんだったら、おかしいですよ。

バシッ!この音聞く時に。これ見る時に、この外の物が何か見える様だったら、おかしいですよ。

そうやって勉強するんです。そうすると凄い簡単でしょう。出来ない人は一人も居ない。

バシッ!難しいって言う人は一人も居ない。

バシッ!バシッ!こうやって生活が出来る様になったら、人は楽になりますよ。

バシッ!ところがこうやってやった時に、これは何だろうと、どういうことだって言う風になると疲れるよね。

バシッ!何を探るんです。何を欲しがるってるんでしょう、まだ。

バシッ!何か隠してるものが何処かにあると思うのでしょうかね。こうやって。定根、兎に角そうやって、

こんなにキチンとしているでしょう。バシッ!こんなにきちっとしてるでしょう。見て御覧なさい。


「『慧根』は三世諸仏不知有なり、狸奴白牯却知有なり。為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、

いわれざるなり。鼻孔有消息なり、拳頭有指尖るなり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。」



智慧の慧ですね。慧。慧根。これも皆さん持ってるのでしょう。「三世の諸仏はあることを知らず」

「狸奴白牯却知有なり」
仏様方はある事を知らないけども、狸、それから牛ですかね、そう言う物はある事を知る。


「為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、いわれざるなり。」私、ここ大好きですね。

この「なんとしてかかくの如くなるといふべからず、いわれざるなり」これ、大好きな言葉です、読んでみて。

パン!どうしてそうなるのって、中々言われないんだ。如何してそうなるのって言われても、

為甚如此って言われる前に、本当にそう言う風になってるね。じゃ言えないから分からないのかって言うと、そうじゃない。

こんなにちゃんとしている、ギシギシギシギシ(机の上で音を出す)でも如何してしそうなるって言われても、

言われても言われないですね。こういう消息、こう言うものの在り方があるんじゃないですか。


人間はすぐ理由をつける、理屈をつける。それがつかないと、収まりがつかない様な人がいたくさん居る。

仏様方はそう言う屁理屈は一切ないね。「あることを知らず」いいでしょう。自分に持ってる智慧なんだけども、

どうしてこう成るのか知らないですね。知らないけど、必ずこうなるんです。パン!(机を打つ)こうやって

必ずそうなるんです。パン!それ皆智慧ですよ。パン!


だから次もあるけど、「鼻孔に消息あり」鼻で香りが嗅げるでしょうけども、色んな香りがすると、

その香りの通りになるんだけど、どうしてそう成るって屁理屈はつけられますね。屁理屈は付けられるんだけど、どうしてそう、

薔薇の所へ行くと薔薇の花の匂いがするのって言われて、理屈をつけたから、解説をしたから、

薔薇の花の所行ったら薔薇の花の匂いがするようになった訳じゃないって事でしょう。


赤い花の所へ行くと赤い花の様に見えるんだけども、分かったからそう言う風になるんじゃないって言う事があるでしょう。

そう言う所に、この「三世の諸仏あることを知らず」と言う様な事があったりですね、

「何としてかくの如くなると言うべからず言われざるなり」って言う様な事があるんですね。

目が物を見るなんて言う事は、皆さん知らなかったでしょう。

耳が音を聞いてるなんて事は誰も知らなかったでしょう、育って来る時。知ってますか。

自分で今、耳で音を聞いてるとか、目で物を見てるとか、そんな風にして育って来た人は一人も居ないんですよ。

これを口に入れたらこういう味がするんだとかって、そんな風にして味わって育ってきた人は一人も居ない。

大人になると皆それに理屈が付く様になる。理屈が付くと初めて分かるように思ってる。理屈つけないで、

何にもないんだけども、皆ちゃんとはっきりしてたんでしょう。

それ、皆さんが持ってる本来の智慧でしょう。知らないんですよ。「三世の諸仏あることをしらず」


不思議な事を書いてあるもんですね。拳の先に尖った指があるって言うんですかね。それはそうでしょ。

手を離れて、これを離れて指がどっかにあるなんて人はないですね。必ずこうなってます。「驢は驢を保任す」

驢馬は驢馬って言う事を間違いなくちゃんと保ってる、他のものを借りなくても。

井戸は必ずその井戸によって井戸と言う事がはっきりする様になってる。まあもうちょっと言って見れば、いちいちですね、

そのものがそのものをきちっと示してるって言う事でしょう、何時でも。それ智慧なんでしょう。


万物、もうありとあらゆるものを見ても、その事が一々その事をきちっと示しているという事が智慧なんでしょう。

智慧の根本、そうなんじゃないですか。このマイクを如何いうものかって知るのに、このマイクで十分足りるのでしょう。

幾つもマイクを持って来て、兎に角やらなくても。だから自分自身の本質、自分自身が如何いうものであるかを、

本当に見届けたかったら、この自分自身だけで十分でしょう。この自分自身を持ち合わせていない人は、ここに誰も居ない。

材料がちゃんと揃ってますから、いつでも勉強できる様になってる。


「おほよそ根嗣根なり。」とある。その事によってその事がはっきりする様に出来てるのでしょう。

それでいいじゃないですか。その事によってその事がはっきりする様にできてる。他の物一切持って来なくてもいい様に出来てる。

こんないい勉強の仕方があるね。


37も項目あげてありますけど、色んな挙げ方をしてるけども、どれでもいい。実践してみてくれたら。
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念根

「枯木の赤肉団なり」
枯木の赤肉団って言うのは、この生身の身体の事を指すのですが、あえて枯木てつけてあるのは

ですね、この身体はですね、五官を見てみるとわかる様に、本当にただその通りに一緒になってこう活動するだけなんですね。

枯木の様な、これに触れた時に、良いとも悪いとも、そこから芽が出て来ないです。この通り触れるだけです。

大きいとも小さいとも何とも言わないです。ガシャーン!(茶碗の側で机を打つ)こうやって音を聞いても、

ガシャーン!あっちで鳴った、こっちで鳴ったとか、一切そういうの出て来ない。

ただその通り、そう言うの枯木って言います。枯れ木です。


じゃ枯れ木だったら、ガシャーン!こうやって音がしたら、感じないのかったら、そんな事はない。

枯れ木も山の賑わいと言う位枯れててもですね、そこにあると、庭に枯れ木た植わっててもですね、風情があるもんですね。


道元禅師が説明しておられる。「赤肉団を枯木といふ」本当のこの生身の身体の事を枯木と言いますって

言ってる。この生身の身体はウンともスンとも言わない。その時その事があって、そのままそれで終わり、何時でも。

愚図愚図言わせるのは、本当にここら辺(頭)だけじゃない。


「枯木は念根なり」極端な事上げればですよ、人がどの様に生きてるか、見て御覧なさい。

取り上げた時だけ、その事に触れるだけでしょう。思いとしてもそうでしょう。取上げた時だけその事に触れるだけでしょう。

取上げてない時に、その事に触れた人がいますか。あれがどうだこれがどうだって、取上げてない時に、

それが問題になった人いますか。だからこうやって居れるんでしょう。


取上げないのに、いつもその事が気にかかってる様だったら、大変ですよ。これだけ色んな事が起こるんですからね、

世の中で、毎日。その事が自分で取上げないのに、いつも気にかかってるんだったら、どうなるんだろう。

こんなに色んな事があるんだけど、取上げてない時には気にもならない。問題に一切ならないで生活が出来る。


それは喉が渇いて、お水をこう飲んでる時、災害の真っ只中で、それだけで全ての事から離れてる。

そういう時間を持ててる、人は。あれ、救いですよ。ご飯を食べてる時に幸せになるとか、ちょっと風呂に入らして貰って、

アーって、ちょっと弁当作ってもらって食べた時に、全ての思いから離れるから。ただ今やってる事だけに、こうやって居れるから、

人は救われるのでしょう。違いますか。


「摸索当の自己、これ念なり」下には手探りをして探すって言うけど、思いって言うものは、

そう言う風なものでしょう。「有身のときの念あり、無心のときも念あり」身体の事は、

身体を認める時の思いもあれば、身体を認めない時の、知らないで動いてる働きもある、本当でしょう。


この前映画館に行った人の話を聞いた。映画館に行って映画を見てる時に、自分を振り返ってみると、

どう言う風に過ごしてたかって言うと、画面の様子がって言う様なことはないって言ってました。

映画の画面が如何こうって事は無い。本当に日常茶飯にこうやって、こうやってって触れてる様な感じ。

自分は観客なんだけども、見てるなんて言う気配は無く、そこで映写されてる様子が、本当にそこに目の当たりに、

本当にある様に、こうやって活動してるだけ。

ご覧の様に、自分らしい身体らしいものは一つも認めないのに、活動してる様子がちゃんとあるんですね。


映画館から出てきて、ああ映画見ていたんだって、ふっと自分に、我に帰るとですね、じゃ映画を見てる時と、

映画館から外へ出てきた時と、内容が違うのかって言ったら、今も、映画館に行って我を忘れていた様子も全く変わらない。

だけど不思議ですね、こうやって映画館に入って行くと、此処スクリーンがあると、何かそこに写されてる物をこうやって

見てますから。だけど皆さん、この位のテレビの画面でもですね、見てる時にどの位の大きさに見えるかわかりますか。

テレビを見てる時、本当に見てる時には、回りに色んな物があっても一切見ないでしょう。

テレビがこうあって、ここら辺に色んな物がこう有るじゃないですか。だけど初めはテレビみるから、そう言う様子が全部

こう見えるんだけども、見てると、テレビの大きさがこの位だって言う風に見てる人は、一人もいませんね。

どうしてああなるんでしょう。不思議ですね。その位に見える様になって来ると、見てる気配が全く無くなる。

見てる気配が全く無くなって、どう言う風になってるかって言うと、実物がそこで展開されてる位な感じになってる。


だから、人って少なくとも、それ位の体験は誰でもしている。本当に物をこう触れる時には、大体そう成ってるんじゃないですか。

人らしいものが無くなるんです。自分らしいものを立ててるものが、知らないうちに消えてしまうんですね。


「有心の念あり、無身の念あり。尽大地の命根、これを念根とせり。尽十方仏の命根、これは念根なり。

一念に多人あり、一人に多念あり。しかあれども、有念人あり、無念人あり。

人にかならずしも念あるにあらず、念かならずしも人にかゝれるにあらず。

しかありといへども、この念根、よく持して究尽の功徳あり。」



長々と道元禅師が色々示されておられるけども、今申し上げた様なことです。誰でも少なくとも、ちょっと気をつければ、

そう言う風な生活をしてます。知らない内に忘れちゃうんだね、全部これ。仕事をしててもそうでしょ。

仕事をしてる事忘れてやってるじゃないですか。そう言う時のことを本当にこう触れてみると、何も言うことは無いでしょ。


自分をたてて観察してる様な気配とは全く違う。後で如何こうするって言う様な事はしないでしょう。

その時の様子だけでしょう、ずーっと。それで終わりでしょう。それが本当に生きてる時の様子でしょう。

そんな事が究尽の功徳なんでしょう。測り尽くす事が出来ない、究め尽くす事が出来ない位豊かな内容なんでしょう。


これ誰しもが持ってるんですよ。生活してるのに、ただそう言う事に触れてその内容の豊かさを知らないと、

やっぱり自分の考えてる、教えられた学んだ何か特別な境地とか特別な世界、そう言うものを頭に描いてる。

そう言うものだけを追い求めるって言うのが、何か修行してるらしい、ものを学んでるらしい気配になってる。

それは皆まやかしですよ。だから仏教は、宗教は阿片の様なものだって言われる様な事になるのでしょう。

本物は違うよね、本物は。


ちょっと別の角度から言えば、人は何時不満が起きるのですか、何処で問題が起こるのですか、何処から不満が起きるんですか。

問題が起きるんですか。イライラするのですか。見た事ありますか、自分でも。

少くとも最初からずーっと腹立ってる人居ませんからね。腹が立ったって言う以上は、その前は腹が立ってなかったに違いない。

じゃ何処からどうして腹が立ったか。腹が立つって言うのはこのものの上の働きですから、

他のものを見たって見つかりませんよね、原因は。じゃ、これ、これ触れてたら、何処から腹が立つ様に、

どうなって腹が立つ様になったか、明確にわかるようになってる筈ですから。


本当はどうなってるかって、きちっと見定めて大丈夫だって、そこまでこれがやるのでしょう。誰がやるんですか。

自分がやるしかないじゃないですか。他の人じゃ点検できないですよ、これ、自分の内容どうなってるか。

手出せないんだよ、他の人は一切。これに対して。自分でやるしかない。自分がやるしかないんだよ。

その位の事はわかっているんだけども、誰か人がやってくれると思ってる。ねえ、もっといい話があればと思ってる。

寝て朝起きたらちゃんと出来てれば一番いいのでしょう。そんな修行は無い。これ極普通の話ですよ。


勉強そうやってやるんじゃんね。難しくはない。滅茶苦茶ひどい事を、言葉浴びせかけられてもですよ。

聞いているとですね、ただその通りの事が聞こえるだけなんですね。それ不思議な位そうですよ。腹が立つもんじゃないですよ。

ちゃーんと聞いてると。何言ってるんだっていう風なもの交えてこうやってやると、段々変になってくる。

何故変になるかって言うと、向こうが言ってないのに、自分で色んなもの、そこへ付けて聞くから、変になるんです。

それわかるでしょう。向こうの人は、私が聞く様なやり方してないですよ。


ひどい事を、確かにひどい事かも知れないけど、その通りの事が言われているだけで、

何だ、あいつ俺の事をそんな風に言うんだって言う風には、聞こえて来ないもんなんですね。

それは自分が付けた言葉なんです、聞く時に。向こうの人が付けたんじゃないんですよ。

聞く人があいつ俺に対して何であんなひどい事言うんだっていう風につけて聞くってことは、私の責任ですよ。

間違えてるでしょ、聞き方が。向こうが言ってない事を、向こうが言った様に受け取るって変じゃないですか。

過ちはそう言う所で起こるのでしょう。必ず自分が余分な事してますよ。


それをやらないと、本当にその通りの事が、ただその通りにうけがえる様に出来てる。だから静かに話し合いも出来るし、

静かに注意も出来る。静かに話し合いが出来て、静かに言われるから、静かに向こうも黙すんです。

腹が立ってから相手に注意して御覧なさい。腹が立った時に、腹が立って注意したら、先ず聞く前にその人も腹が立つ。

あと聞きゃしないよね。そういう風に出来てる。面白いと思うよ。これ位の時間でいいかしら。

勉強の仕方をちょっと、少し知ってもらって、楽しんで生活して貰えたら良い。

三十七品菩提分法 五根 Ⅰ

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三十七品  五根 _01_04
三十七品  五根 _01_05


この数値の並べ方、37あるんだけど、4、5、7、8と出てくるんですよね。面白いですね。

四念住、四正断、今日やった四神足、4が3つ出て来る。次に、これから5根、5力と出てきて、それから7、七等覚支、最後に

八正道支って、まあそう言うもの出てきますけど。誰がこんな風に並べたか知らないけど。


五根   

一者 信根
二者 精進根
三者 念根
四者 定根
五者 慧根



「信根はしるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強為にあらず、自己の結構にあらず。

他の牽挽にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身以信を信と称ずるなり。

かならず仏果位と随他去し随自去す。仏果位にあらざれば、信現成あらず。

このゆゑにいはく、仏法大海信為能入(仏法の大海は信を能入と為す)なり。おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところなり。

「『精進根』は省来祇管打坐なり。休也休不得なり、休得更休得なり。大駆々生なり、不駆々者なり。大駆不駆一月二月なり。

釈迦牟尼仏言、『我常勤精進、是故我己得成阿耨多羅三藐三菩提』(我常に勤め精進せり、

是の故に我れ己に阿耨多羅三藐三菩提を成ることを得たり)。

いはゆる『常勤』は、尽過現当来、頭正尾正なり。『我常勤精進』を『我己得成菩提』とせり。

『我己得成阿耨菩提』のゆえに『我常勤精進』なり。しかあらずは、いかでか常勤ならん。しかあらずは、いかでか我己得ならん。

論師経師、この宗旨を見聞すべからず、いわんや参学せるあらんや」

「念根は枯木の赤肉団なり。赤肉団を枯木といふ。枯木は念根なり。摸索当の自己、これ念なり。

有身のときの念あり、無心のときも念あり。有心の念あり、無身の念あり。尽大地の命根、これを念根とせり。

尽十方仏の命根、これは念根なり。一念に多人あり、一人に多念あり。しかあれども、有念人あり、無念人あり。

人にかならずしも念あるにあらず、念かならずしも人にかゝれるにあらず。

しかありといへども、この念根、よく持して究尽の功徳あり。」

「『定根』は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。こゝをもて、入驢胎、入馬胎なり。

いしの玉をつゝめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。地の山をいたゞけるがごとし。尽地尽山といふべからず。

しかあれども、頂寧より跳出し跳入す。」

「『慧根』は三世諸仏不知有なり、狸奴白牯却知有なり。為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、いわれざるなり。

鼻孔有消息なり、拳頭有指尖るなり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。」



*録音はここから

次の処、五根ですが、先ず第一番目が信根。信。「信根はしるべし、自己にあらず、他己にあらず」

最初に出てきますが、パン!(机を打つ)音なら音で、こうやって、パン!

どっちの事なんですかね、って言うことで、自分のことなのか、向こうのことなのか。パン!どっちからも

外れるんですね。パン!信ずる用が無いですね。パン!信というものは、

そう言う風に出来てます。


それがどう言うこと言うって、「自己の強為にあらず」ってあります。私の方で無理強いして、

音がその通りだって決めるのではない。音がした時に。パン!その通りだって、間違いない、そうやって

決めるものは何も無いんですね。無理強いして。それだのに、必ず、パン!必ず、そうなるんですね。

「自己の結構にあらず」自分で決めるんじゃないんですね。「他の牽挽にあらず」向こうが

そう言うなこと引きずって来て、引っ張って、そうさせるのでもない。

自分で「自立の規矩にあらざる」ってあります。自分でそう言うこと立てて、そうだって決める気配の無い。


「東西密相附なり」とある。知らない、知らないのに必ずそうなる。 と、言う事が先ず最初の信根の、

信のところに、信ずるって言う事を取上げてます。人間的な作為は一つも無いのですね。

コン!(机を打つ)こうやって、人が何かしてる気配は何も無い。目と物が触れると、必ずそうなるだけですね。

どちらからの働きかけでもない。洋の東西を問わず、必ずそうなってますね。


それは今と言う時と人が別々に生きてないからです。もし、別々に生きてるなら、一度こっちに受けこまないとそうならないですね。

それを、もうちょっと屁理屈を言えば、今と言う時はですね、もう一つ別の時間帯をもたないですね。

今と言う時はもう一つの時間帯をもたないから、どっちが本当とか言う様な事は一切起きない。一枚岩なんです、最初から。

比べるものなんか、何もないですね。今って言う時はそういう風になってます。だから信ずる要がない。

これから手をつけて何かする気配は全くないですね。


「渾身」とあります。身体全部総ざらえしてですね、信に似るとある。と言うのを、そう言う風に人が何かする

気配が全くなくて、そうなれてる様子を此処では信と名づけたんです。道元禅師がおっしゃっておられる。揺るぎがないのでしょう。

「必ず仏果位と随他去し随自去す」仏様の境涯と寸分ずれのない活動を皆さんがしてますよ、

とこう言っておられる、初めっから。これは各自の今の実活動です。説ではありません。

皆さんが今、もしそう言う風な在り様でなかったならば、「仏果位にあらざれば、信現成あらず」本当の事は

行われない。人がそこに介入して、何かそれをやって初めてそうなる様なことだったら、物事は成立しないって言うんです。

今ここに、掛け軸がある。この掛け軸に、向かっても良くわかる事でしょう。どうもしないんですよ。これだけですよ。

ここだけですよ。これだけですよ。(掛け軸の方向に向く)この掛け軸の通りになるんですよ。


一生懸命見たからって、なるわけじゃないですよ。いい加減な見方をしたから、別な見え方がでてるって事ないですよ。

本当に人の思いで変わる様な気配は全くない。眼はそう言うことやってるって気配は、眼自体は何にもそう言う気配はない。

そしてものがこう見えてるんですよ。それを仏果位と言うんです。仏様のお悟りの境涯と言うんです。

この様になってるから、必ずこう言うことが行われる。もし、そうでなかったら、大変な事です。修行してやっと物に向かったら、

その通りに見える様だったら、生まれた人がどの位たったら、こうやって向かった時、その通り見える様になるんでしょうね、

大変な事です。だけども、生まれた時から、必ずそう言う風に、誰から学ぶ訳じゃないんだけど、誰に教えて頂いた訳でもない

のに、こう見える様に出来てる。て、言う様なことですね。


「このゆゑにいはく、仏法大海信為能入(仏法の大海は信を能入と為す)なり」仏様の教えを本当に勉強しようと

思うんだったら、こう言う自分の在り様、それに学ぶんだ。それ以外にないでしょう。

多くの人は、これから修行して何かしたら本物になると思ってるんですよね。そうじゃない。

最初から自分自身に違いないんだけども、残念なことは、自分自身を自分自身で信じられないですよね。で、これでいいいのか、

こんな事で、だから自分がこうやって見てても、人に聞かないと、これで本当にちゃんと見えてるだろうかって、その位でしょ。


コンコンコンコン、(机を打つ)こうやって聞いても、あなたどういう風にこうやって、コン

聞こえるんですかって聞いて、それでやっと自分が聞いた事を、あ、これでいいんだって。そうやってしないと信じられない位、

力がない。不思議な事だとつくづく思うんだけど、コンコン、こうやってコンコンコンコン。

どの位の年月生きるか知りませんが、本当に他人の身体で何かする事はない。音一つでも全部自分の耳でしか聞かない。

不思議ですね。自分の耳で聞いた音しかないんだ生涯。自分の耳で聞いたものが音と言われるんです。


それだのに、他人がどういう風に聞こえるかって事を聞かないと、自分の聞いていることだけでは安心できない。

こうやってる時に、どう言う風に聞こえるかなんか、他人に聞く用がないでしょうが。他人に聞かなくていい様に出来てるでしょう。

コンコンコンコンこうやって聞こえる時に、他人が如何いう風に、これを聞いてるんだろうって、

コンコンコンコンそんな事を確認しなくてもいい様に出来てるでしょう。


「仏法の大海は信を能入と為す」沢山な仏法の広い深いと言われる教えがあるけども、

そう言うものを本当に知るのに、どうやったら良いかと言ったら、ただこの様に出来てる自分の在り様、

そこから入るだけじゃないですか。他の人の事を学ぶんじゃないですよね。自覚って言うんだけども、仏様の事を

「自覚した人」って言うんだけども、自覚って言うのは、他所のものを尋ねて悟るわけじゃない。

自分自身がどうなってるかをはっきりさせる事を自覚すると言うんです。自覚した人を「仏」とインドでは

言ってるんですよ。他には無いです。


「おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところ」と言われる処はと、今示した処と言うことですね。

一生涯他人の事はやらずに、人は生きて行くんですよ。本当にただこの頂いている、この身心の活動だけです、生涯。

もう間違いない。それから一歩も出ない。嘘だと思うなら、自分でよーく観察して御覧なさい、自分のこと。一切よそ事はない。

全部このものの活動ばかりです。だけどどこからか知らないけど、騙されて他人のことが問題になる。


あの人があんな事をしてるって、誰がそれやってるんですか、それを。誰のことですか。あの人あんな事やってるって、

それ誰のことですか。向こうの人の事ですか。あの人あんな事言ってる、それ誰の事ですか。向こうの人の事ですか。

そう言うの皆さん、どの位理解頂けるかしら。だって矢張り向こうの人がああ言ってるじゃない、そう言う風になるのかしら。

やっぱりあっちの人があんな事やってるじゃないかって、そう言う風になってるのかしら。


自分の耳で聞いてることでしょ。自分の目で見てることでしょ。他の人がやってる事じゃないでしょう。

それで、見たもの聞いたものに対して、思ってる事だって他の人がやってる事じゃないでしょう。

あんなことやってる、あんなこと言ってるって思うのは誰がやってるんですか。他の人がやってる訳じゃないです。

こっちの人がやってる訳じゃないでしょ。全部自分がやってる事なんでしょう。


その位の事は皆さんだって、自分で分かるでしょう。分からないから向こうにちょっかい出す、こっちにちょっかい出すんでしょう。

ねえ。本当は自分の活動でしょ。このものの活動でしょ。だからそれ以外の何物でもないでしょ。

だからこのもの(自分自身を指す)を勉強するんでしょう。

で、このもの(自己の身心)を勉強して、このものがどうあるかって事がはっきり自覚できるんでしょう。

はっきりしたら疑いが取れるんでしょう。疑いが取れたら、うろたえないのでしょう。力が出るのでしょう。

心配せずに済むのでしょう。何か聞かれても、分からないと分かるまで気にかかるんでしょう。それが厄介なんでしょう。

はっきりしてる人は、すぐその場でそれで終わるのでしょう。だからいつも何も持たずに、こうやって平気で居れるんでしょう。

手ぶらで居れるから楽なんでしょう。


今日も80すぎたお婆ちゃんが、この頃忘れ物が多くてねって。さっき話してて、此処へ来たら、置いた物忘れてきちゃった、とかって

言ってましたけど、持ってると忘れるけども、本来自分て言うものは忘れてきたって言う試しが無いでしょ、今まで。

今日は急いで来ましたから、自分を忘れて来てしまいましたって言う人誰も居ない。

自分て言うものは絶対どっかに置き忘れてくる様なものじゃないです。持ち歩くわけでもないですね。

こんなもの(コップを取って)と違って、持ち歩く物じゃないから、そこへ置いて自分がこっち来たら、これだけ置きっぱなしになる

と言う様なものじゃない、自分て言うものは。これ(自己の身心)だけ、これ(自己の身心)さえあれば生きられるのでしょう。

何処行っても。


次のところへ行きますよ。精進、精進根。「『精進根』は省来祇管打坐なり」坐ってですよ、省みる。

省みるって言う事は、自分の考え方で取上げる、取り扱う前の在り方に目を向けるという事です。やさしい事を挙げればですね、

物ひとつ見ても、良いとか悪いとかって言うものはこれにはついていませんね。見た後に、自分の見解で、

自分にとって良いものであるとか悪いものであるとか、価値があるとか無いとかつけるんですね。

好きなものだとか嫌いなものだとかって。これには何にもそういうもの付いてません。

こっちにあるんですね、好き嫌いとか善し悪しとか。役に立つとか立たないとかって事は皆こっちにある。これには無い。

そう言う風な在り方を祇管打坐。坐ってですね、省みると言います。


要するに、人間の見解がつく前のあり方に触れてみる。人に触れてもそうです。その人に善し悪しは無いですね。

好き嫌いも無いですね。どんな人だって。いきなり触れた時に、ただその事がその通りにあるだけでしょう。

ちょっと時間が経つと、自分の考え方を中心にしてその人を見てますから、色んな見方が自分の中に起って来て、

そして差別をする。で、ひどい事になれば、そのまま思い込んで、その人はそういう人だって第一印象をちゃんと握ってですね、

もう、あの人はこういう人だって決めてしまう。そう言う付き合い方をする。


次に会った時もそうです。えらい迷惑です。だから坐ってですね、自分の考え方、見解がつく前のあり方に

こうやって親しんでみるって言う事が、ここで言われる坐禅をして省みるという事です。坐禅と言うのは、そう言う事をしてるのね。

作り変えるんじゃなくて、自分の余分なものをつけずに、直にそのものに触れている時の在り方にこう親しんでみるって言う事が、

坐禅をする所以です。


精進ですけども、「休也休不得なり、」休もうと思っても休めないって書いてある、精進。

今の在り様に居たくないから、もう止めちゃおうかと思っても、今の在り様から逃れられないっていう風なことですね。

いつもちゃんとしている。


音が入ってくれば、トントン、音がすれば、必ず、トントントントン、自分が嫌でも好きでも、

ちゃんとその事が、こう休み無くちゃんと聞ける様に出来てる。これ、精進仏と言う。精進の仏様です。

トントントントン。怠ったことが無い。いい加減にこう聞くことは無いですね、耳は。


人間の思いは違いますよ。面倒くさいって言う風に思うと、いい加減に何か聞いてる様に思ってますけど、

耳はそんなことは無いですよ。人がうるさいなーと思いながらでも、ちゃんとこの通りにしか聞かないですよ。

精進、精進してます。止めた事は無い。


もし人が思う様に、自分の思いでこの五官の働きが、ある時は働き、ある時は働かなくなったら、生活が大変ですよ。

心臓だってそうでしょ。呼吸だってそうでしょ。本当に精進ですよ。休んだ事はないですよ。時々休まれると困る。

皆、ちょっとでも休むと大変な騒ぎになるでしょう。心肺停止とかって。


「休得更休得なり」そこにも出てる。祇管打坐ってのが上に付けてあるんだけど、それは要らん事でしょうね。

訳の中に。一切の人間的な事をやめて、更にやめる事である。徹底して人間的な見解をつけないで、過ごしてみると言う事、

これが一度必要だって言う事でしょう。非思量、これなり。


かって、そういう出会いのあった人がいる。中国の古い歴史の中に。ある所で修行していた坊さんが、本当にどうしたら

悟れるかって尋ねた時に、良いとか悪いとかって言うものの見方を本当にやめた時に、ものはどうなってるかって言われた。

人間的な見解を一切やめてみたらどうなるか。それでコロッと、アッて言って気が付いた人が居る。

知らないうちに人は自分の見解でものを見てますね。何時つけたか知らない、自分でも。だからこう言う事が大事なんでしょう。

人間的な見解、ものの見方本当に離れて、徹底して離れてみるという事が。


「大駆々生なり、不駆々者なり。」その次に「一月二月なり」とある。まあ、言ってみれば、

本当に何処まで行っても、怠らずに今の在り様でって言うのはやすみ無くあるんでしょうね。

死んでからも、人が死んでからも今の在り様って言うのは無くならない位ちゃーんと。

もうここで止めて、人が死んだらもう終わりって、そんな程度の精進じゃないですね。宇宙が崩壊してなくなったとしても、

今の様子はずーっと限りなくあるでしょうね、徹底して。ものの道理としてそうなってる、精進。


「釈迦牟尼仏言、『我常勤精進、是故我己得成阿耨多羅三藐三菩提』(我常に勤め精進せり、是の故に我れ己に阿耨多

羅三藐三菩提を成ることを得たり)」


時々、時々だったらこうはならない。ずーっと休み無くそうやっているから、最高の境地、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができた。

そういう風にお釈迦さまがおっしゃってる。


それをとりあげて、道元禅師は、「いはゆる『常勤』は、尽過現当来、頭正尾正なり。」過去、現在、未来ですね。

片時もゆるぎなくと、こう言う事ですかね。何時でもと言うことですかね。頭の先から足の先まで、全部正しい本物だ。

今の在り様って言うのを取り替えて、作り直した人が居ますか。そんな風にして生きる人は居ませんよね。

今の在り様ってのは、作り直して、取り替えてあるものではない。

そう言う事が頭の先から尾っぽの先まで正しいって言う事でしょう。だってそういう風に出来てるでしょう、今って言うのは。

どうですか。手をつけてやり直してどうかするって言う様な事じゃないでしょう、今って言うのは。今すでにこうあるっていう事は。

それ過去も現在もこれから先も、未来も必ずそうでしょう。それを常勤って言う。常に勤める。


「『我常勤精進』を『我己得成菩提』とせり」今取り替えずに、手をつけてやり直さないで、

こうやって出来てる事が、成仏の内容だって言ってるんです。悟りの内容。救われている。

安心の行く、底抜け心底人が安心して救われている様子だって言ってるんですね。他にはありません。


「『我己得成阿耨菩提』のゆえに『我常勤精進』なり」そういう風に出来てるから、逆に言えば、

常にその事を勤めていると言い切る事が出来るのじゃないかと。人は否応なしに今の様子だけで生きてるんですよ。

今の様子ってのは本当に手をつけてやり直して、今の様子を作った人は誰もいない。これからもそう。

もう既に出来てるんです、いつも今の様子ってのは。探してきてその様に成るなんて気配は何処にもない。見てごらん。 

それこそ心底成仏の世界でしょう。一点も不満な点は無いですよ。欠ける点はないですよ。それ皆さんの生活してる実態ですよ。


「しかあらずは、いかでか常勤ならん」もしそうでなかったら、こういう風な在り様ってのは

出て来ないんじゃないか。ちょっと怠ける人だったら、こんなにならない訳でしょう。だけど怠けようが怠けまいが、

そんな事関係なく、今って言うものは失った人は一人もいないじゃないですか。有難いでしょう。

これがもし、努力してなかったら失われたら、どうするんですか。人間が考えてる様な在り方だったら。


しかあらずは、いかでか我己得ならん。」もしそうだったら、自分がそう言う事を本当に得るって事は、

何時になったら、そう言う事が得られるのか。僅かな数えられる人だけが得られる、その位の可能性しかないじゃないかって

言いたいのでしょう。だったら仏教なんか要らないのでしょう。

どうせやったって、選ばれた僅かな人でなきゃその事が得られないんだったら、初めからやったって無理なんでしょう。

そんな教えを人に広めてどうするんですか。愚弄してるじゃないですか、人を。馬鹿にしていませんか、もしそうだったら。


これをやっていったら、そのうち仏様になれるよって教えておいて、いや実はやったって、この人とこの人とこの人位しか

そういう風にはなれない、他の人なんか幾らやったってなれないんだって言う様な事があったら、教える要が無いでしょ。

そうじゃないと書いてある。最初からちゃんと出来てる。ただ、自分でそのこと気づかない、知らない。大前提がそうなんです。

ちゃんと今って言うものは、誰でもが頂けてるじゃん。

その今を頂くのに、何処から、何回も言うけど、何処からかもって来る訳じゃない。或いはやり直して今をきちっとした今に作り直す

訳じゃない。今ってそう言う風な出来栄えなんですよ。徹底人間が思ってるのとは違う。

全部そう言うに出来てるから、皆さんが使う様に、時間の流れる様にって、人は知らずに救われて行くじゃないですか。

「論師、経師この宗旨を見聞すべからず、いわんや参学せるあらんや」普通に文章に書いてあるものを

紐解いて、あーでもない、こーでもないって言って研究してる人達はこう言う真実の在り様って言うものを、見たり聞いたりした事が

無いだろうと言ってる。これ道元禅師がおっしゃってる。

それは当時、道元禅師、自分が学んだ、色んな立派な人といわれる人の所へ行って学んだ時に触れてみると、

こう言う自分自身の在り様てものを説いた人が一人も居ないんだよ。

本当にどうなってるかって事を見届けた話を誰もしてないって事があるから、こう言う事を残されてる。


だからそういう勉強をした人は一人も居なかったのでしょう。お経の、そう言う経論には色んな大事な事が書いてあるけれども、

ただそれは経論の中に書いてあるだけであって、人の上の話としてどうあるかって事を、本当に聞いた事が無かったんでしょう。

じゃ学んで覚えたってどうしょうも無いじゃないですか。物知りになっただけじゃん、沢山。


そんなので救われるかしらん、人が。あすこにああ言うことが書いてある、その答えが、こっちにはこう言う風に書いてあるって。

その答えをこうやって引っ張り出して、整合性をそこに出して、一応誰が聞いても非の打ち所の無い様な解答書が、

例え出来たにしても、じゃ自分はどうかって言われたら、書いてる事とは違うって言う風になったら、書いてある事が何の役に

たつんですか。本当に勉強するってことは此のものがどうあるかって事を、勉強するために経論が残されているのでしょう。

そう言う風な勉強は当時無かったのでしょう、殆ど。勉強の仕方ね。