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三十七品菩提分法 四神足 Ⅱ

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三十七品 四神足_02_01
三十七品 四神足_02_02
三十七品 四神足_02_03
三十七品 四神足_02_04
三十七品 四神足_02_05

 兎に角こうやって、昔の人は一杯色んな項目を作ったもんだねえ。次の処、「『進神足』は、百尺竿頭驀直歩なり。」物凄い高い竿の上ですね、百尺竿頭、その高い高い、こういう竿の上で、ここにいて、足を一歩進めろって、足が竦む、それは。こっから進んだら落ちる。そういうのが分かるから、手放せない、と言う事が一つあるんだけども、道元禅師がこれに対して、「いづれのところかこれ百尺竿頭」と言っておられる。そう言う表現をしてるんだけど、じゃあ実際に百尺竿頭って、こう言われているのは如何いう場所を言うのか。如何いう処を指してるのかって皆さんに問われてます。高い竿の上の話じゃないって言ってるんです。ね。
 言葉から言えば高い100mもある様な高い竿の上に自分が今居て、そっから、オイ足を一歩出して進めって、言われている様な言葉なんだけども、道元禅師はちゃんと知っておってですね。百尺竿頭っていうのは如何いう処をいうのかって、皆さんに水を向けてます。だから皆さんが如何いう処か、それを知る必要がある。寄り付くことの誰もが出来ない程高い場所って、間違いなく今でしょう。そう言う今って言う様なものでも、そこにしがみついたら、それを捉まえたら不自由になるから、進んでご覧って言うんです。手放して。
 だから次にある「いわゆる不驀直不得なり。」まっすぐに行くことは出来ません。今って言うのは進む場所が無いんですね。求めて何かして今になるって言う様な開きがない、距離が無い。ポン!音がするんだってそうでしょ。聞くっていうんだけども、ポン!何するんですかね。ポン!こうやって、ポン!音を聞くっていうけど、カチッって言うだけじゃないですか。ポン!物を見るって言うんだけど、これだけじゃないですか。どこにも進む場所なんかないですよ。イキナリこうやって、見るたってこの通りの事が、その通りすぐあるんだけじゃない。エー何って、そうまで言って見なきゃわからない様な気配がない。不思議に出来てる。思いを離れてますね。
 「驀直一歩はなきにあらず」でも、そういう風に本当に進むとか進まないとかって言う事の無い確かな生き様が在るんじゃないかって、こう言ってるんです。「遮裏是甚麼処在」そう言う表現。遮裏、今って言っていいですかね。遮裏。これいずれの処にかある。言葉としては今って言う事、皆さん概念として知っているんだけども、今って何処から来るんでしょう。エー、来るとこなんか、もしあったら、それ今じゃないですよね。どうかして、これから今になるったら、今じゃないですよね。今ってそういうものなんですね。「遮裏是甚麼処在」何処から来る所も無いし、何処へも行く所も無い。そういう活動体です。影も形もない、そういうものを表すのに、今と言う言葉を使ってるんですね。
 だから進むとも退くともいうんですね。「説進説退。」「正当進神足時、」正当って言うのは、今の事実に本当にぶち当たっている様子です。本に当たる。本当とかって言う言葉があります。本当には、って私はよく使うんですけど、何で本当って言う様な事を言うんですかって、この前、質問された。此処に物があると、この物を説明する時に、外からこうやって説明してるのは当たらないんですね。この物を外から見て、色々言ってるだけであって、そう言うのは本当じゃない。本当って言うのはこの事ですからね。この事になると説明が要らなくなる。説明をしている間は、本当じゃないんですよ。不思議に。正当って言うのもそうです。真っ只中。真っ只中って言うのは、ご存知の様に、ズレが無いんですね。音がしてる真っ只中ってのは、あっちで音がしてこっちで聞いてるって言う様な気配は全く無い。物が見えてる時でもそうです。あっちにあってこっちで見てるって言うような気配ではない。そういう風に出来てるんですね。何もかも尽十方界、何もかも。
 「随神足到也、随神足至なり。」至れり尽くせり。何回も話しますけど、今って言うのは至れり尽くせり。人が之から何かしてその様になるって気配は全く無い。そう言う風にして皆さん、今生きてるんですよ。だけど考え方は違いますよ。これを抜きにしといて、自分の理想をこう描いて、その理想がどっかにかなうものが、あるんじゃないかって、探し始めてる。かなりの方々は、そう言うものに対して、自分が宝物を握ってるのに、これを知らないで、何処にあるんだろうって、こうやって探してる。そう言う風にしてるの、愚かだって言ってます。法華経なんかにそう言うことが沢山書いてある。それ位人間は、自分自身の素晴らしい出来栄えって言うか、内容を本当に知らない。生まれてから、ズーっと自分と親しく生きてるにも拘らず、一番自分の事知らない。
 四つ目の処で、思惟。思惟は思い図るという事ですかね。いろんな事が観察できる、考える事が出来る。「『思惟神足』は、一切仏祖、業識忙々、無本可拠なり。」 本当に何処からこうやって、今の様子が出て来るんでしょうかね。不思議じゃないですか。今の在り様が何処から出てくるかわからないけども、先程の様子ではない。どう言う風になってるんでしょうかね。捨てもしないのに、全部入れ替わってしまう位、すっかり。普通に入れ替わるって言うと、前の物がどこかに行って、新しいものが来るって言う風な気配なんだけど、この今の皆さんの在り様って言うのは、入れ替わるって言う様な表現では当たらない。前のものが無くなって新しいものが来るって言う様な気配で、今の様子が在るって言う人は、一人も居ませんよね。ほんとに不思議なんだ。自分の身体の様子、それから精神活動の様子でも見てください。とことんそうです。それから認識の働きでもそうでしょ。
 その後へ出て来るのは、「草鞋」草履って言うんですね。「草鞋思惟あり」靴でもいいですよ。靴履いて歩いてると、靴はいてる今の在り様がずーっとある。どうするんでも無い。靴はいてると、靴はいてる様子が、今の様子がずーっと出て来ます。で、わからない人は一人もいません、どうなってるか。人に聞かなくても、ちゃーんと自分の履いてる靴の様子がわかる様になってる。
 「空劫己前自己思惟あり。」 これ如何いう事を言いたいかって言うと、理屈で如何こうしなくてもわかるって言う事です。もっと簡単な例を挙げれば、一度も体験した事の無いものに触れてもですね、困らないという事です。こうやってパン!一度も聞いた事の無い事に触れても、ちゃんと、パン!音がするとわかる。一度も見た事のないものに触れても、そのものに触れるとわかる様に出来てる。空劫己前。自分が生まれる前と言って良いのでしょう。父母未生以前と言って、両親が生まれる前の自分って言っていい、そういう、前後にはそう言う言葉が沢山使われるけど。未経験のものに触れてですよ、触れたらイキナリその事がわかる様になってる。こんな不思議な動物なんですね。何回か触れたらやっとわかるんじゃないですね。
 で、それらを纏めて、ここで「これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。」ってあるんですね。躊躇無しなり。躊躇は皆さん使うから知ってるでしょう。ちょっと何か、ちょっとこうとどまる様な気配を躊躇って言うんでしょう。何か動くんですね、躊躇するって。そこに踏み留まる様な気配があるでしょう。だけど、無いよ。
 この音だって、パーン!躊躇する気配なんか無い。イキナリそうなっちゃうんだもんね。物でもこうやって見せられたら、イキナリそうなる。エエッって言う様な気配はどこにも無い。ズバッとそのまま、イキナリ。それ位、如意ですね。思い通り。自分の最高に願っている通りに、これが活動する、無条件で。否応なしにそう言う風になる。それが人の本質です。だけど考え方がそこに出てくると、考え方の方が優先するもんだから、事実なんかどうでもいい、自分の思ってる様になる事が幸せだと思ってる。そうじゃないですよ。赤いものに触れたら必ず赤くなる、見える。白いものに触れたら必ず白く見える様に出来てる。是で大満足なんでしょう。これが心底満足な世界なんでしょう。
 うちにお見えになってる方が奥さんに、家に帰ってから、向かったらその通り見えるじゃないかって、そう言う話を奥さんにしたら、それがどうしたの?って言われたって。(笑い声)あなた何それは?そんな事勉強してるの、それは何?って言われたって。それ位にしか思わないですね。それちょっと説明すりゃ、すぐわかるでしょ。
 赤いものに触れた時、本当に赤くその通り見えなくなったら、世の中どうなるんでしょう。錯乱状態になりますよ。何でもない事だって言うんだけど、この当たり前とおもってることが、どの位大切なことか。例えば、信号機のことを挙げれば、あそこに三色ついてる。あれがその色の通りに、もし皆が見えなかったら、あんなものつけといたって、何の役にも立ちませんよ。てんでに自分の思いでこうやって見て、自分は赤いものに触れても青だと思って行ったら、大変な事になりますよ。これちゃんと、誰が決めたんじゃなくて、青いものに触れると必ず青く、黄色のものに触れると必ず黄色になったことがわかるように出来てる。私の勝手な思いで生活するんじゃない。それ基本なんでしょ。それが無かったら、信号機、役に立たないでしょ。自分の思い通りやったら。
 帳簿に数字が書いてあっても、一つ位0が多くたっていいじゃないって、書かれて御覧なさい。十桁が十一桁になって御覧なさい。この一つ0がついただけで、大変な事になりますよ。文章だってそうでしょ。てにをはが違っただけで大変な事になりますよ。どの事に触れてみても、必ずその通りになる様に出来てるんですね。人の思いとは別に。それ位厳密にルールが行われてる。それを法と言います。仏法とか法。法というものは、人が作るんじゃない。誰でも必ずその様にしかならない。パン!ここで鳴ったのと、パン!こっちで鳴ったのと同じ様に聞こえるたって、無理なんです。パン!こっちで鳴ったものはこっちで鳴った様にコン!こっちで鳴ったらこっちで鳴った様にしか聞こえない様になってるんですよ。
 そう言うの如意と言うんですね、如意。それにお釈迦様の言葉を、道元禅師が引いておられる。「釈迦牟尼仏言、『未運而到名如意足(未だ運らさずして到るを如意足となづく)』」これからどうかしてそうなるって言うのではない、って言ってるんですね、お釈迦様は。パン!これから、何かして、そうなるんじゃない。これ一番よくわかるでしょう。そんなに上手く生活が出来る様になってる。愚痴を言わずに。易しいとか難しいとか言う事、一切言わずに。パン!こうやってそうやって、きちっとそのことが生活が出来る様になってる。その様に生きられるようになってる。誰もそうやって生きてる。だけどそっちの方を見ないで、自分の思い通りになる事の方を探すもんだから、宝物を皆捨てるじゃん。
 そりゃ、あの介護する様子なんか見てればよくわかる。自分の思いが強くなって、自分の思い通りに介護出来なかったら、皆イライラしてるでしょう。病院にいくと綺麗な若い看護婦さんが、患者さんをよく面倒見てる。皆あれで救われる。で、ああいう所で、ああ言う人と結婚したらきっと幸せだと思って、結婚して、結婚するとですね、病院に居る様に、中々看護婦さん成らない、と言った話を聞いた事がありますが、面白いでしょう。何ででしょうね。自分の思いを使わないんですね、病院に居るときは。だからあんなに上手く行くんですね。ところがイザ自分の生活になると、自分の思いを中心にして生活するから、色んな所でぶつかる様になる。出来るにゃ出来るんですね、やろうと思ったら。
 同じ事に触れていて、疲れる生活するのは下手な人でしょう。どっちにしても介護しなきゃならないのにさ。あ、又、又、うるさい、あんな事言ってるって。そうやって聞きながら介護するって、本当に疲れると思う。何で鶯が何回も鳴いても、又うるさいって言わずに聞くのか、どうしてこの人が同じ事を言うと、うるせーって聞くんだろうね。同じ事何回聞いても、一方は問題にならない、一方は問題になるって、如何いう事でしょう。ちょっと考えてみる必要があるんじゃないですか。
 物を見たってそうでしょう。何回も見ても、アーってこうやって新緑の景色を、こうやって眺めて、邪魔になるって気配はついてないのでしょう。だけど人間がやってる、自分の思い通りでない動きを何回も何回もすると、何回言ったら分るのって言う風に扱ってる。何処が違うんでしょう。どっか勘違いしてるんでしょうね。
 実際に自分の生活している様子を見ると、ただ今の活動があるだけですよ、いつも。そんなに一杯ないですよ。又、又、又、又同じ事を、何回も何回も、それはここ(頭)で勝手に作った話ですよ。こっちの本物の体で活動してる様子には、そんな事一切なしに、今の在り様だけでいつもこう生活してる。底抜け、今の在り様だけで。邪魔にしないで。そう言うの、こう見てみると面白い。
 道元禅師がそこに一言つけてある。「しかあればすなはち」今、話して来た人の在り様、「ときこと」下にもある、鋭い、抜き差しならないという事でしょう。鋭いという事は。今の在り様って言うものは、錐の先の様に鋭いですね。抜き差しならない。その事をはずして生きることが出来ない程、きちっと何時でもその事だけで、こうシャッシャッとこうやって生きてます。
 四角い方は「方あること、のみのはのごとし。」鑿ってこんな風に先がこうなって、これトントンって、刃がこう付いてる。それ位切れ味がいいねえ。いつも、スカッとしてる。今の在り様に、何か余分なものがくっついてどうこうするって言う様なことは一切ない。これが自分たちの本質です。
 仏様が何を皆さんにこう見せたいか。各自自分の本質がそういう風に出来てるから、それを見届けて欲しいって言ってるんです。他に差し上げるものはないんですね。自分の素晴らしさを本当に知りたかったら、他所に求めたってわかるわけが無い。それ、ものの道理です。だけど人間は苦しむと、自分に向かって目を向けるって事ないですね。一番大事な素晴らしいもの持ってる自分を捨てといて、素晴らしいもの他所に求めるから無理です。
 そういうこと気が付いたのは、先人としては釈迦が代表的な人でしょう。今だって知らない人は、皆他所に求めさせますよ。行ってごらんなさい。色んな所、道場に、色んな人の所へ行ってごらん。必ず、自分の今こうやって生活している事以外の処に何か本物が有る様な話になる。嘘でしょう。生きてる事自体が他所で生きてる人なんか居ないんだもん。何時だって、今生きてる様子があるだけだって。他のどっかで生きてる場所があるわけじゃない。本当に生きてる場所はこのものがこう居る所で生きてる以外に無いから、他に求めるようなものがある話は嘘でしょう。
 道元善禅師だって、そう言う事で、随分人に騙されて、暫く修行が出来ずにいたんでしょう。だけど、バン!これを聞くのに何処へ行くんですか。どっか探す所があるんですか。こうやってバン!この音聞くのに、今。そんな事はないでしょう。そう言う風に修行すべきでしょう。そう言う事が「未だ運らさずして到る」って言うんでしょう。それを普通に言うと、これから今になるのではない、言うようなことでしょう。今って言うのは、これから今になる、そんな事は一度だってない。これからも無い。じゃ何処から来るかって言って、来る場所も無い。去る場所もない。そう言う展開をしてるんですね、今って。不思議ですね。
 だからポピュラーなお経の中の般若心経には、不生不滅とかああるじゃないですか。生まれもしなければ、滅びもしない。今って言うものはそう言うものでしょう。増えもしなければ減りもしない。汚れも付かなければ綺麗にもならない。と言う様なことが般若心経に書いてある。



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三十七品菩提分法 四神足 Ⅰ

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三十七品 四神足_01_01
三十七品 四神足_01_02
三十七品 四神足_01_03
三十七品 四神足_01_04

  四神足
   一者、欲神足
   二者、心神足
   三者、進神足
   四者、思惟神足
 「『欲神足』は、図作仏の身心なり。図睡快なり、因我礼你なり。おほよそ欲神足、さらに身心の因縁あらざるなり。莫涯空の鳥飛なり。徹底水の魚行なり。
 『心神足』は、牆壁瓦礫なり。山河大地なり。条々の三界なり、赤々の椅子竹木なり。尽使得なるがゆゑに、仏祖心あり、凡聖心あり。草木心あり、変化心あり。尽心は心神足なり。
 『進神足』は、百尺竿頭驀直歩なり。いづれのところかこれ百尺竿頭。いはゆる不驀直不得なり。驀直一歩はなきにあらず、遮裏是甚麼処在、説進説退。正当進神足時、尽十方界、随神足到也、随神足至なり。
 『思惟神足』は、一切仏祖、業識忙々、無本可拠なり。身思惟あり、心思惟あり、識思惟あり。草鞋思惟あり、空劫己前自己思惟あり。これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。
 釈迦牟尼仏言、『未運而到名如意足(未だ運らさずして到るを如意足となづく)』しかあればすなはち、ときこと、きりのくちのごとし。方あること、のみのはのごとし。」

 三十七菩提分法って言って、三十七のお題目が、いわゆる命題があって、それについて随時述べられておられる。今日のところ、四神足。四つの神足です。終わりの方にもあった様に、如意足って書いてあるね。これを又如意足と言う。「未だ運らさずして到るを如意足となづく」 これらが大体、これ神足の処を読んだ時の、分かり易い言葉なんでしょうね。
 巡らさずして到るって、どういうことかと言ったらいつもやるんですけど、 パン! こうやって、音でも、音がしてる所までパン!思いを馳せなくても、イキナリ聞こえるということでしょうね。そういうの如意足っと言う。こうパン! 出た音を、どこも遜色なく、そのままこうやってパン! 頂ける様に出来てる。そう言う風なの如意足と言う。で、身体全体の働きを見ても、皆、そう言う風に出来てる。この様な事が、大体ここら辺の言いたいことなんですね。道元禅師特有の言い回しが出るから、かえって難しいのかも知れない。
 「ひとつには、図作仏の身心なり。」なんて言う風になってる。仏様がどういうものだろうかって言って、頭の中で描いて、そう言うものをこう求める様な気配があるのですかね。図作仏。「図睡快なり」 快く眠ると言う事ですかな。それから「因我礼你なり。」ってありますけれども、我によって汝を礼す。敬うって言う事なんかを見た場合、自分だけで敬うって言う様なことは起きて来ませんね。必ず相手が居て行われることでしょ。
 「おほよそ欲神足、さらに身心の因縁あらざるなり。」人間の考えている様な事とは違うと、こう言う事ですね。向うで蛙か何か知らんけど、鳴くと、こっちに居て聞こえるって言う、それ人間の理解なんですね。けど、そう言う事とは違うんですね。違うって事は、そう言う理解をする前に聞えるんですね。向うで鳴いて、こっちで鳴いたら聞えるって言う風な理解の前に。ギャッギャッって言ったら、そう言う風に、イキナリそうなるんですね。そう言うなことを、こういう処で、、更に身心の因縁にあらざるなりって、こういう表現をする。皆さんが考えているのとは違うって言ってる。
 人がこの世に生まれた時に、全ての環境と知らない内に一緒になった。別々に生まれて来る人はない。生まれるとイキナリその全ての環境と一緒に生活する様に出来てる。誰も教えないし、誰も作った訳じゃない。そういう処見ると、さらに身心の因縁にあらざるなりと言う事がよくわかる。
 鳴いたって言うのが理解できないと、聞こえないって言う事ではないですね。エエッ、不思議ですね。鳴いているとも何とも思わないんだけど、グワッグワッって。その様子を見ると、未だ巡らさずしてって言う事ですね。此方で何にもしないのに、そう言う事ちゃーんと行われてる、もう既に。こうやって目を開けると、全ての物がこうなるんですね。見ようと思う前に、皆見えてる。既にある。不思議ですね。そう言う所なんかでも、「莫涯空の鳥飛なり。徹底水の魚行なり。」もうこれで終わりって言う事はないですね。際限がないですね、ずーっと。だから幸せに生きられるでしょう。無限の活動が出来る様になってる。
 それがどの様な悲惨な状況の中に自分が置かれてもですよ。このものの有り様と言うものはそう言う風になってる。けども、考え方の強い人はですね、この素晴らしい働きを見失って、自分の考え方で身動きが取れなくなって、苦しむんですね。だから仏道っていうのは、今回のこう言う災害なんかの時でも、本当に役に立つと思う、自分を知ると。人はもともと、他人によってどうこうして生きてる動物じゃないですね。これ、本来自分の力で皆生きてるはずなんだけど、何か、ジーっとしちゃうんですね。一人で自由に活動が出来なくなる。そう言う時に、静かに時間を取って、余分な事がなくなるとですね、それだけでも楽になるね。
 寝れる人は幸せですね。この位狭い所だったって、何分でもいいですけど、寝れる様な力があったら、良いね、楽になる。広い所でなきゃ寝れない訳じゃない。つらいけどね、少しつらいけども。それから、外に出ればかなり広い場所が有って、自由に歩ける、ですね。こうやって本当に空を飛ぶ鳥がですね、どの位空を飛んででもですね、もう空を飛びきっちゃって、これ以上飛べないって言う様な、そう言う空間じゃないですね。
 水の中を泳いでる魚でもそう。家も最近、またメダカを飼ってるんですが、こんなちっちゃな水槽の中に入れて、卵も産んでる。我々からすれば、この小さな水鉢の中で、一日中泳ぎまわって飽きないかなって思うじゃないですか。あれらは平気でその中で、一日中尽きることなく、チョロチョロチョロチョロ、いいですね。人間も本当はそうなってるのでしょう。だけど、この考え方って言うのは、本当に不自由な身体にさせるんですね。こんな所は嫌だとか、こんなんじゃ生活できないとか。
 「『心神足』は、牆壁瓦礫なり。」 神足のことを禅定って訳しているんですね。下の方で見ると。禅定って言う訳だと、何か特殊な事だけども、心が安らぐっていう風に読むと、非常に楽でしょう。特別な事じゃない。心がどうしたら安らぐのか。ああでもない、こうでもないって言う思いが無いときは、心がかなり安らいでるんでしょう。そういうつまらない思いを離れて、今実際どうなっているかに、こうやって親しく自分が居てみると、豊かな生き方をしてるってことが、気が付くはずです。如意足って言う。思い通りと言っていい位、満足できる状況にある。
 次のでもそうですね、「心神足」。それに対し「牆壁瓦礫」 ってある。何の事かわからない位不思議な言葉を、そこにピタっとこう持ってくる。皆さんがこうやって、垣根とか壁とか瓦とか、何か土で作った瀬戸物の様な、そういうもの色んな物、そこに挙げてあるけど、一々その物に触れたら、その物に触れた様に必ずなると言う事でしょう。
 新芽に触れると、新芽に触れた様に必ずなる。だから、あそこから歩いて来て、この新緑の中を歩いて来ると、どうした訳じゃないけども、枯葉の中を歩くのとは違うんですね。不思議ですね。気分悪くなる人はほとんど居ない。あそこから歩いてきて。もうそう出来てるんですね。必ずその通りになるんですね。
 それは一般的には、向こうにある風景を見てるって思ってる位の受け取り方しかしない人が多い。本当は自分の今の活動してる様子なんです、全身が。緑に触れると、カメレオンみたいにこの身体が全部緑になる位、変わるんだよね。あやめの花に触れると、あやめの花に触れた様に、すっと変わってくんですね。
 そういうな事、此処に書いてある。山河大地もそう。普通は向こうに山があったり、川があったりって、大地があったりって、それ、そういう風にして生活してる殆どの人が。だけど、山があったり、川があったり、大地があったりするって事は、全部今の自分の在り様なんですね、皆いつでも。詳しく見てみれば、よくわかる。先ず、他の人がやってる事は無いですね。此処にこういう障子があるにしたって、障子が認識できるものは、必ず一人一人、自分の今の在り様でしょう。この身心を借りて、障子がこうやって、これ自分の眼の働きって言っていいでしょう、此処に障子があるのは。ただ単に障子がこうあるんじゃなくて、目の働きが障子をこうやってあらしめる。そういうことですね、これ。
 「条々の三界なり」 仏教用語で三界って、欲界、色界、無色界って、人の心の在り様で、一応三つ位分けるのでしょう。しつこい人とか、サラッとしてる人とか、何も持たないとかって言う位に分けるんでしょう。欲界って言うのは、しつこい人ですね。(フッフッフッ)色界って言うのは、ただその物がその物としてある位、無色界になると、その事がそんなに、あるとか無いとか問題にならずに生活出来る位、サラッとしてる。そういう風にして、欲界、色界、無色界って言うの立ててある。その位の事です。
 「赤々の椅子竹木なり。」 赤々は赤裸々で良いでしょう。真っ赤な嘘とかって使うんですね、赤いって。何も付けてない。その儘の時に、赤いと言う字使います。赤ちゃんて言うのは、生まれた儘って、一糸纏わず、汚れが一切付いてないって言う様な事。赤いって言うのは、そういう風に使う。赤々。椅子でも良いし、竹でも木でもいいんだけど、テーブルでも座布団でもいいんだけど、本当にその事がその通りある、と言う風に、そう言う風に私達は、悉く手当たり次第そのものを自分の生命として、今使ってる。
 だけど、此処の頭は、各自面白い頭でねえ、此処は円通寺さんで自分の家じゃないって決めるんですね。自分の今生きてる場所なんだけど。そう言う風に決めると、ここの道場の使い方が変わってくる。だけども本当に自分が、今ここに生きてる場所として戴いてるって言う事があると、ここを大事にしない人はいない。大事にしないとまずいです。自分の本当に生きてることを、自分で大事にしない人は最低ですよね、最悪の人ですね。何時何処にいても、この身心が有る場所が自分の生きてる場所だから。もっと言ったら、終焉の地なんだね。いつでもそこが。死に場所です。生きてると思ってるから、生きてる場だけ使うんだけど、本当に死に場所ですよ。そこに如何いう風に、最後終われるかって言う事、何時でもそう。ここ、これが自分の死に場所ですよ、何時も。
 「仏祖心あり、凡聖心あり。」 そこに、そう言う事によって人の在り様が変わるんでしょう。同じ事を使っていて、同じものに触れていて、気がつく人とつかない人では、同じ事に触れていても違うんだものしょうがないね。「草木心あり」草や木、草木の心って言うのは、人間の様に思慮分別に渡らないんだろうね。だけども、根っこがこう色んな所へ伸びていく。肥料のある所や水のある所へ伸びていく。上の方も芽がこうやって、蔓なんかこうやって巻きついて伸びていく。あたかも意志が有るが如くに、不思議なことですね。一本の木を見ると、相当な葉っぱがついているんだけど、どの葉っぱの先までもちゃんと水分が行き渡るように吸い上げている。すごいなあと思う。それが行き渡らなくなると、その葉っぱはポロッと枯れて落ちる。
 「変化心あり」変わりづめ変わってると言っていいでしょうね。滞ったためしがない。ちょっと午前中も他所にいたんだけども。事実というものは、本当に不思議なもんですね。事実っていうのは間違いなくあるんだけど、何処にも留めておくことが出来ない。不思議なものですね。事実って言うのは絶対に掴んで留めて置くことが出来ない。これだけ進んだ、技術がすすんで、ビデオとか色んな物で、こう映像が取れたり、音声が取れたりするんだけど、あれは事実を取ったんじゃないね。写真ですからね、皆。写真て本物じゃないでしょ、知ってる通り。事実は留まらないですよね、あんな風に。だからさっき会った人でも、今度会うと全然違う。
 さっきも話が出ておったんですけど、先程までは元気だったって言う様な人が、ほんの少しの間にコロッと変わってしまう、変化のもの凄く大きなことですね。だけど、自分自身のこう様子をみても、先程の生き方をしてる人は誰も居ない。先程の生き方をしてる人は誰もいない。本当に、いつも今の在り様だけですね、生きてるの。で、事実というのはなくならないんだけども、取って置けない。ね。真実と言うのは取っておっけない。風がサーっと吹いたって、その様子に触れて、そう言う事が体験出来るんだけど、その風が吹いて風に触れた様子ってのは、取っとく事が出来ない。要らん事なんですね。取っとかなくても良いように出来てる。取っといたら困るのでしょう。変化心て、そういう風に出来てる。
 「尽心は心神足なり。」尽心。全ての在り様ってのはそういう風に出来てる。もうちょっと言えば、向こうとこっちという風な境がなく、一緒にひとつの球のように動いてるって言う事です。その証拠には、今という時間を別々に生きた人は一人も居ない。これから先もそうですね。今というものと別々に生きる人は、一人も居ない。それが人が誰しもが戴いている宝物でしょう。平等に戴いている。欠ける事の無い、ちゃんと住む場所がある、今と言う。それだけで十分なんでしょう。これだけ広い世界があるんだけども、自分の住む場所は、必ずここだけですよ。これで十分です。是だけの広さがあれば、ここだけで十分。何処行ったって、ここだけで住んでるんでしょう。