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三十七品菩提分法 四正断 Ⅲ

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 「滅は滅を跳出透脱するを滅とす。」不思議な表現ですね。本当にこう言う事が、人の様子としてあるんでしょう。滅は滅を跳出透脱すると言う事が。何処にもくっつかないんですね。その時その事が行われただけで、後にも先にも何処にも無い。それは振り返って見て下さい。今日まで生きて来た様子を見て下さい。何処にも、そうやってずーっと生きて来たんだけど、今のこうやって生きている様子の中に、過去何十年のものを、こうやって引っさげて生きてる人は居ない。残らない様に出来てるからでしょう。だけど、この(頭)不思議なんですよね。ここら辺かここら辺か知りませんが、人間に記憶能力とか再生能力って言うのが有るもんだから、これが心意識と言われる、心と言われる様な表現で伝わって来ているものでしょう。摩訶不思議ですね。感情もその内の一つなんでしょう。
 色んなものが混ざり合うと、そこに科学反応を起こして特殊なものが発生するって言う表現のほうが分かりやすいでしょう。単独でいる場合には何でもないんだけど、混ぜると大変な事になる。その混ぜ方もですね、同じものをこやって混ぜるにしても、どちらを先にこうやって入れるかによって、全く違う反応が起きるって言う様な事もあるでしょう。塩酸なんかもそうでしょう。台所の洗剤なんかでもそうでしょう。混ぜると大変な事になる洗剤があるでしょう。単独だったらきれいに洗えるんだけど。そう言うの情報として皆さん知ってると思う。その一つ一つの中に問題があるんじゃないんだけども、混ぜると全く違う現象が起きるんですよね。それで取り乱すのでしょう。その時に私達に一番支えになるのは、この事実と言うものでしょう。苦しくなってどうしょうもない時はですね、此の事実に学んだらいい。
 お母さん達と勉強する事があるんだけども、もう20年も昔に拒食症になって、10kgを割った様な子供を持ったお母さんがいた。どうする事もできないから、親は苦しむねえ、変わってあげたい位。それでもどうすることも出来ない。そう言う時にですね、事実というものは人を救うんですね。思いの中で生きたら人は救われないね。気がどうかなっちゃう。ふっと思いを離れて、今の事実にこうやって触れてみると、子供にさわると温かみがある。それだけで救われるのですね。面白いですね。
 そうやって、今、20年位経って、もういい年になる。30位になる。この頃はお菓子を焼いたりなんかして、ピアノを弾いたりして、まだ一人で社会に出て生活費が稼げるまでにはなってないけど、まあお母さんとしては一安心ですね。一旦拒食症になると、そんなに長い年月がかからないと、元の様には戻って来ないって、大変なことですね。だけど事実というものは本当に人を救いますよ。
 それから次の三つ目の処、「『未生善令生』」ここ短いね、ここちょっとしか書いてない。未生善をば生ぜしむいふは、お父さんお母さんがこの世に生まれない前の在り方に学ぶと言うんですね。それから、朕兆以前、この世が未だ姿形を現さない前に、まあ学ぶと言うんでしょうね。明挙(みんこ)って。そういう時がどうなってるか。それどっか遠い話かって言うと、今こうやって、私達が居る時に、何もしないでこうやって居てみる時です。此方の方から、自分から何も仕掛けていない。何処かへ何かを探し求める、そう言う事一切しないで、こうやって居てみる時、そうやって過ごす事が、未だ生ぜざる善を生ぜしむると言う事になる。そうやって過ごしてると、善いものがそこに必ず出て来る。不思議ですね。それ代表的なのは坐禅です。坐って何をするわけじゃない。本当にそのままこうやって居てみる。自分の方から一切何もしないで。そういう時の過ごし方です。威音王以前もそうですね。
 透明な水晶の玉がそこに置いてある様なもので、何もしないんだけど、その回りで起こる諸現象が、そのまま水晶の様子を変えていく、って言ったら分かり易いかしら。色も形も、桜の花が咲くと、水晶が桜の花の色に変わる、雨が降ってくると雨にぬれた様になる。不思議です。そうやって過ごすんです。すると善い事が生まれる。まあこういうな事がここに書いてある。
 それから、既に生じた、已生ですよ。已生の善をば、已に善い事が行われている。それをもっと伸ばしていく、増やしていく。「『已生善令増長』は、しるべし、已生善令生といわず、令増長するなり。」善を生ぜしむとは言わない。善を増長すると言う。増して、増す長くする。増やすと言う意味でしょう、増長。今やってる善い事をそのまま続けて行くと増えていく、とこう言う事でしょう。そりゃもう当たり前の話でしょう。
 「自見明星訖、更教他見明星(自ら明星を見ること訖りて、更に他をし明星を見せしむ)なり。」私が明けの明星を見た様に、あなたもやって御覧なさい。そうすると私が見た様に同じ様にきっとなりますよって、お釈迦様がすすめたんですね、今。今日も色々話をした。見たものだけて、こやって、本当に自分の思いを添えずに、こうやって正しくその通りにこうやって見るだけで居てごらん。そうすると人は苦しまないよって、体験した者が、皆さん方にそうやって伝えてる。それを聞いた人がよしって言ってやってみると、増えていくでしょう。あ、本当だって、やってみたら、それそう言う事です。
 「眼晴作明星なり。」景色をこうやって、皆さん眺める事があると思いますが。どこが違うかって言うと、同じ景色にこうやって触れているんだけど、どこか勘違いしてる処がある。それは、向こうのものを自分が今見てる、って言う風な人が多いからでしょう。見えてるって言う事は、このものの今の生きてる活動なんですよね。向こうの事じゃなくて、見えてること自体が今生きてる証拠なんです。このもの生きてる活動してる証拠なんです。音が聞こえるって言う事は、このものが活動して生きてる証拠なんです。向こうの音を聞くんじゃないんです。ご飯たべた味が分かるって言う、このものが今生きてる証拠なんです。ご飯の味と言うんだけども、自分の生活してる外に、今ご飯の味がしているのではないね。そこら辺が皆さんががもう一つ勉強してほしい処でしょう。
 それをこう眼晴の明星となるというんですね。「眼晴作明星」眼晴は眼ですね。眼が金星になると言ってます。向こうにある物をこっちの私が触れても、それが見えるとか言う様な範囲じゃないんですね。いきなり自分の血肉なんですね、その事が。桜を見てる時に、桜を外して人生は無いのですよ。その今、桜にこうやって触れて、桜が見えてる事が、皆さんの人生そのものなんです。そう言う響きですね。
 その次のやつは厄介なのがあるね。「胡乱後三十年、不曾闕塩醋(胡乱後三十年、曾って塩と醋とを闕)」て言う事ですかね。悟りを開いてから後三十年、是も故事がある。馬祖と言う人との間に交わされた故事がある。後ろの方に補注に出てる。487ページ。皆さんの無いかも知れない。ちょっと読んでみる。
 南嶽大慧禅師、馬大師の化を江西に開くに、師衆に問うて曰く、「道一衆の為に法を説くや否や」衆曰く「已に衆の為に法を説ける」師曰く、「総に箇の消息を通じ来ることを見ず」
南嶽大慧禅師の下に馬祖道一と言う人がお弟子さんでいて、お悟りを開いて後を継いだ一人です。南嶽慧讓さんの。その人がお悟りを継いだ後、一般の方々にその教えを広めようとして会場を設定したんですね。その時にお師匠さんの南嶽がですね、そこに来ている人達に尋ねた。あの、あなた、あそこの馬祖道一の所に行ったかって言う様な事で、「道一衆の為に法を説くや否や」あの馬祖道一っていう人は、あなた方の為に教えを説いているかどうかって聞いております。
 そしたら、そこに行った事のある人は、確かにあの人は教えを説いていますって言った。そしたらその南嶽、師匠さんがですね、「総に箇の消息を通じ来ること見ず」あれが本当にどう言う事を言ってるか全体象がよくわからないから、一つ私が聞き方を教えるから実験して、あれがどう言う事を言うか聞き取って、そしてどう言う事を言ったか、私のとこへ帰ってきて伝えてくれ、とこう言う事ですね。
 で、どう言う風な事をやったかって言うとですね、「一僧を遣し去りて曰く」「彼が上堂の時をまちて」、馬祖道一が説法する時を待ってですね、前にずーっと進んで行ったら、「作麼生と問うべし、伊が道底の言語記し将ち来れ」作麼生と言っただけで、相手がどんな事を返して寄こすか、どう言う事を言ったか、ちゃんと耳に聞き留めて、私の処へ来たら、どう言ったか伝えてほしいって、一人のお坊さんに試験をするのですね。自分の弟子の道一、馬祖道一って言う人が、どう言う説法をしてるか、どういう風な境涯、心境にいるか言う事を、師匠が調べようとして、一人のお坊さんにそう言う試験の仕方を教えて、それを実行させる。そしたら、ここで引かれているような事を言われるんですね。
 馬祖曰く、「胡乱後三十年、不曾闕塩醋(胡乱後三十年、曾って塩と醋とを闕)」こう言う風に言ったんですね。それを帰って来た人から聞いて、あれもしっかりした内容になってるね、って言って絶賛をしております、師匠が。内容を見たらわかりますねえ。かって塩と酢とを欠かずと言う事は何不自由なく生きております、という意味でいいでしょうか。あれから後、あなたの処で修行して悟りを開いてから、もう30年にもなるんだけども、あれ以来本当に何不自由なくこうやって居る事が出来ますって。それは凄いことでしょう。エー、それを聞いて師匠は許した。
 要するに、悟りを開いた後ですね、その悟りの内容をずーっと30年片時も休まずに、ずーっと実践してるって言う事でしょう。それだから、そこに大勢の人が修行に来て、学びに来た時に、何時どの様な人が来ても正しい教えを聞くことが出来る。これが時々になるんだとですね、気に入った時だけ話をして、気に入らん時はやらないとですね、うまく折り合いが付いた人は聞くことが出来るけど、そうでない人は行っても、なんだこんな程度かって言う風になってしまうね。
 お医者さんで、もし例えを上げたらですね、今日は診て貰えたけれども、明日は診て貰えないてな事になるんでしょう。ねえ。一命に関わりますよね。だけど医者は、必ず行ったらきちっと患者さんに対応して、それを所見を出して対応するのでしょう、何時でも。それだから皆さん方が信頼するのでしょう。まあ、というのに近いですね。
 「たとえば増長するゆえに已生するなり」その様にやってれば、広がって行くに違いない。たった一人の力でもそうでしょう。お釈迦様さんが悟りを開いて45年、亡くなるまで説法をした。その事がこうやって三千年になんなんとする今日ですよ、日本に色んな人を通して伝わってきて、こう言う事を、今聞く事が出来る。途中で、皆放棄されたら、こう言う事は今、続きませんよ。凄いことですね。最初たった一人の人が築いた事ですよ。
 今だって、広い世界中で、たった一人の人の行為が世の中を救う様な現象が起きてるでしょう。インターネットみたいなものを使うから、一気に世界中に映像が流れて、いい意味で正しいことが伝わって、国が入れ替わることもあるでしょう、間違った政治をしてる人が。昔だったら到底考えられない、抹殺されて。今は凄いですね。誰の口も塞ぐことが出来ない。だけどインターネット等は悪用すべきではない。ね。基本的にそうです。悪用すべき事ではない。善を増長するために使うのが常套手段でしょう。そう言う事だけは基本的に置かないと大変なことになるね。
 この故に谷が深ければ柄杓の柄が長くなると書いてある。面白い表現でしょう。谷が深ければ、そこに谷川に流れている水を汲む時にですね、柄杓の柄が長くないと汲めないと、こう言う事でしょう。ね。まあ下まで降りていけば別でしょうけど。
 「只為有所以来(只有るが為に所以に来る)なり。」その様に活動する様に出来ているでしょう。バン!音は聞こえたままで、必ずどうもしないのに無くなる様に出来てる。そうやって生きてると、善いと言う事はずーっと広がるんでしょう。それ知らないと、音が止んだ後の事を何時までも取上げて、くよくよしなきゃならない様な生活が始まる。
 これ高齢の社会に段々なって行くから、看護の問題が沢山社会では取上げられますが、看護する時に相手の様子をこうやって見た時に、看護する方が参っちゃうね、殆ど。それは自分の思いが強いから、自分の思い通りにならないとイライラするんですね。何回言ったらわかるんだ、さっきも言ったじゃないか、こんなことも出来ないのかって親に言う。そりゃ元気でちゃんとしてた頃には、そう言う話をしたら一回でわかったから、それが年が行って、言ってもわからなくなると情けなくなる。自分の親なのに。何でこんな事がわからないんだって。それが年が行ったり、病気をしたって言う事なんでしょう。
 だのに、そう言う風に理解が出来ないから、やっぱり自分の正当性を主張して、どうしても、そう言う風な見方や聞き方や触れ合い方しか出来ない。こうした時、正師についてやって、こう言う師匠の所で勉強すると、その今触れている様子だけで、こうやって居れるようになる。楽になります。実際に今触れてる以外に、本当は無いのでしょう。だけど、今触れている様子に、こう今触れている様子の中に、どんどんどんどん自分でつまらないもの増長するんですよ。まあ、良い事ならいいですよ。プラス思考と言うのでしょう。正直に言えばこれもあやまちを起こすのでしょう。ありもしない事をどんどんどんどん増やして、そうして苦しんでいるのでしょう。
 また、あんな事をって言うんだけど、聞いてごらん、またあんな事をとはいわないんだよ。今言ってることがただ聞こえるだけです。ここ(頭)はさっきも昨日の事も皆知ってるもんだから、何回言っても本当にもう、いやんなっちゃうって。いやんなちゃうのはこっちの方です。向こうじゃない、ね。そう言う様な事がこうやってある。ただあるが為にゆえにきたるなり。活動はそう言う風に、本来持ってる活動そのまますれば、善い事が必ず増長する様になってる。
 この前も100歳を超えた人の所行って話をした。元気な方ですよね、100歳の。97歳の時に、転んで脊椎をちょっと痛めて、ベットに寝たきりになって、もうこれで起きられなくなって人生終わるのかなって、本人も言ってましだけど、今年行ったらお彼岸に買い物に行って来たって。で、その娘さん(70過ぎてる)方が居て、私がお母さんはどう言う風にして、100歳を超える迄過ごして来たのかねーってって聞いたら、考えたってしょうがないもんねって、そう言ってるんですね。考えてもしょうがないって言ってですね、考えないで居れる人なんて殆ど居ない。だけどこのお祖母ちゃんはですね、考えても、考えたってどうにもならないって言う事を知ってるから、考えてもどうにもならないってのが分かったら、それ以上自分で追求しないで来た。そのうち何とかなると。
 じゃどの位100年の人生で色んな事があるかったら、それは想像を絶する位色んな体験があって、人から見たら苦しいとか大変だったと思う様な事があるのに、苦もなくそれを体験しながら、今日まで生きてる。不思議ですね。考えてもどうしようもない事は考えないんです。じゃ何もしないのかって言うと、考えないで居るといろんなことが出来る様になると。
 このお祖母ちゃんは日本刺繍をして殆どの人生を過ごして来た。90になってオーストラリア大使館での要請があって、刺繍の手ほどきをされた。超一流の刺繍ですよ。私も見に行ったけど、こんなとこ(手もとで)刺繍生活してるんですよね、毎日、こんな事で。トンボの羽なんかこうやって刺繍したり、蜘蛛の糸を刺繍したり、兎に角色々面白い、見ると。よくもまあこんなことが、こんなって思う位丁寧な仕事してる。一針一針縫っただけ。ねえ。大体糸を十分の一位にこう解いて、細い糸にして、それを使ってこう刺繍するんですね。一本の糸。だから一センチ位のとこ刺繍するのに、どの位時間がかかるか分からない。そんな人生ですよ。
 世界旅行をするわけでもなんでもない。見る人によっては、それを見て凄い世界を見るんですね。これだけ見せられて、ワーって。そういう、人に感動を与えるだけの力持ってる、針一本で。エー、どれが大きいのですかね。どれが凄いのですかね。世界中駆け巡ってるのと。この手もとのわずかな場所で生活するのと。まあ面白いなあ。


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三十七品菩提分法 四正断 Ⅱ

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 更に、こんな事も道元禅師が言うのですかね。「不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。簡単な事を言えば、昨日は、はいそれで結構ですよって言ってですね、今日になったら、いやあれは違ってるよって、そう言う事ですね。そうすると聞いてる人はですね、だって昨日は良いって言ったじゃない、何で今日は悪いって言うんだって、そう言う風になるんでしょうね、一般の人は常識的に。
 だけども、皆さん方の持ってる自分の耳に聞いてみると、昨日は良い、今日は駄目だと言った時に、ただそう言う風に聞こえるだけであって、皆さんの問題にするような事は起きません。どこで問題が起きるかって言ったら、昨日良いって言ったのに、今日なんで悪いって言うんだって言う風に聞くからです。これは先程の言葉で言えばですね、未来来たりて現在となると言う事です。そう言う事は無いんでしょう。
 昨日は良いって今日は悪いって言った時に、昨日は良いって言ったのに、何で今日は悪いって言うんだって言って、昨日良いって言ったんだ今日も良いって言う筈じゃないかって言う風にしたら、未来来たりて現在となるのでしょう。これ、もっとリアルな事云えば、昨日借りたお金ですね、返さんでも良いってことになるわけですね。その位ひどい事になるのでしょう。そんな事あってはならないのでしょう。
 眼だってそうでしょ。昨日咲いてた桜、今日咲いてる桜、見て御覧なさい。皆さんの眼はどうなるかって、昨日見た桜は昨日見た桜、今日見た桜は今日見た桜ですよ。絶対にそれが混乱してですね、入れ替わったりする事も無し、ね。良いじゃないですか。そう言う風に出来てますよ。昨日は咲いていなかったのに今日咲いてるって言うかもしれないけど。別に昨日の事を今日持ってくる訳じゃない。眼は今咲いてる様子、今触れてる様子しか絶対に見ない、人間の眼って。これだけ長い人生生きてきてもですね、人間の眼はどういう風にものを見てるかったら、今向かったものだけが見える。他のものは一切、目に映らない。不思議でしょう。
 この前取って来た写真だってどうやって見るかと言ったら、今此処にあるから、それに触れるとそのことが見える。考え方の上ではこの前取った写真だと言うのがわかるから、この前取った写真を見てるって思うだけの話であって、実際に見てるのは、今ここにある写真を見てるだけなんですけども、そう言う風に人間は誤解する点があるね。
 一般的には、この話は通用するんでしょ。「これ、この前取った写真です」って言って、ああそうだって、皆通用している。内容はこの前の写真を見てるんじゃないんです。今、この前取った写真を、今此処で見てるんですね。面倒くさいね、説明すると。説明すると物凄い面倒臭いんだけど。そう言う風にして、何処からも余分な枝葉が分かれて来ない様になってる、未生です。ただその事がその事として本当にあるだけで、一切そこから枝葉が出て来ない。根も葉も。根も葉もないと言われますよね。根も葉もつけるのは皆さんです。無いのに。
 二つには、「『已生悪令滅』といふは、已生は尽生なり、尽生なりとは半生なり、半生なりとは此生なり。」まあ少しずつ読んでみます。今すでにあると言う事、已生。抜き差しならない、今既にあることを已生と言います。私達が生きてるって言う事は、例えば人生50年としたら、その中の今生きてるのは、これ位の処って理解する人も居る。50年の人生の中で何時間て言う風に、その中の何時間の中の今、そういう風に短い時間だって言う風に、理解する人もいるけどもね。
 已生は尽生なりってあるけども、今こうやって生きてる事が人の様子としては全部です。だから皆さん方が生活してる時、今触れた時、今触れてる事によって、その人が全部評価される。何時でもそうです。今触れた処で勝負される。この前まではいい人であろうがですね、今やってる事が悪いと、一気にそういう評価になる。そりゃこういう事があるからでしょう。生きてるって事は、今生きてる事が全部なんです。他には無いんです。だけども、24時間のうちのわずかな時間、円通寺で過ごしてるって、そう言う風に人間は理解しやすいもんですね。
 そんな事はない。次にもある様に、「尽生なりとは半生なり」全てっていうのは、今こうしてる事だって言うんです。では、そう言うのを理解するために、お月さまの様子をこうやって眺めると、満月の時は月が全部見えるのかって言うと、三日月の日は三日月で全て、半月の日は半月で全部なんですね。それでいいでしょう。丸く見えると、全部見たって思うんですよね、人間て。不思議ですね。だけど、半分しか見えてない時、半月がみえるのか、全部でしょう。違いますか。見えている月と、頭に描いている丸い月を比べて、半分しか見えてないと言うのでしょう。
 (手をこうやって見せて)裏側もあるでしょうって、こうやって。半分しか見えないんだけど。で、これで全部でしょう、今見えてるのは。こうやってても、これで全部でしょう、と言う事を言ってるんですね。手には裏と表があると理解してますから、中々承知出来ないのです。
 さらに、道元禅師は「半生なりとは此生なり。」と言っている様に、やっぱり最終的には、これしかないじゃないかって言ってるんです。今ここやってる事しか。全部全部って言うけど。他に何があるかって言ってます。自分の生きる様子。ここでこうやってる以外に無いのでしょう、今。
 「此生は被生礙なり、」何か邪魔されるものが有るかって言うと、無い。今の様子って言いますけど、今の時間帯の中に他の時間帯が一切入って来ない。どんな事をしても、今の時間帯の中に他の時間帯は、これから先も入って来ない。時間てそう言う風に出来てますね。ものってそう言う風に出来てます。
 頭の中は違いますよ。頭の中は色んなものが、過去のものも入れられるし、未来のものもつぎ込まれるから、何がなんだかわからなくなる位、この中に有ると思い込ませる。だけど、眼をちゃんと開いて、自分の今の在り様に、こうやって目を向けてみると、コンコン、こうやって音を一つ聞いてたって、他のものがこの音の所に、この音以外のものなんて、コン、この音の中に入って来れないんですね。
 こうやって指一本見せた時に、こうやった時に、他の物が見える様にはならないのですね。不思議ですね。これ、皆が毎日生活してる自分の在り様ですよ。だから、こう言う道元禅師の様な方が出て、こう言う事をきちっと、こう示されているものを、文章を通して、もう一回こうやって触れてみる事によって、私達が自分の事に気づくんでしょう。言われてはじめて気づく。それ位、自分のことに関して無関心ですね。本当にはどう言う風になってるか知らない。だから知らないために、見たものや聞いたもので腹が立つんですね。問題が起きるんですね。
 見たものや聞いたものが幾らあっても、その時そういう活動するだけで、後にも先にも絶対尾を引かない。全身そうですよ。全身、そう言う活動をするんですね。コロコロ、コロコロ色んなものに触れると、色んな変化をしながら、どこにも留まらない程自由に活動してます。だから、あんな苦しかった生活の中に居ても、たちどころにこうやって、すっきりして生きられるんでしょう。それ、皆さん方の底抜け凄い力です。
 「跳出生之頂寧なり。」人間の頭で考えてる様な事と事実は、これ位差があると言う事でしょう。実物の方はこんなに、皆さんが予想だにもしないほど素晴らしい活動してる。それを知らないで、頭の中でつまらない事を取上げて、問題にして生きてる。いつも話の途中で一言位言ってるんですけど、人が悩んだり苦しんだりするのは、もう本当に、いつにですよ、その人が自分の中で色んな事を思ってるだけですよ。事実と言うものはね、人を苦しめないんだよ、本当に。
 手術をして腹を切って痛いと言う事があってもですね。痛いと言う事が人を苦しめないんですね。痛いだけです。皆さんその痛いのは人が苦しんでると思うかもしれないけど、苦しむって言う事はそう言う事じゃないですね。ああじゃないか、こうじゃないかって言う様な事で、人が苦しんでるんですね。お腹が痛くても、痛いなーって思う様なのは、こうやってお隣のものが見える。いいじゃない、腹が痛くても、音が、鶯が鳴くとちゃーんと聞こえる。一つも苦しまない様に出来てる。面白いですよ。病気をした人に、何人か会って、この前も会って、そう言う話が沢山された。それちょっと紹介して休憩しますか。
 胆管癌になった方が居てですね、まあそれが発見されて、こう言う癌ですよ、これは非常に今手術が難しい癌だから、かかるとですね大体何割位の人が亡くなる、手術して3年位で何割位亡くなるって、そう言う話ずーっと、この人に説明するわけですね。手術前に。凄いですね。手術中にも終わるかも知れないって話をもうリアルに、どんどん、医者って凄いですね。家族を呼んで聞かせて。じゃやりますかって、はいお願いしますって、中々言われない位、厳しい話なんでしょうね。
 それでもその方、それを聞いて、お願いしますって言って、手術して、もう3年経った。その3年の間に、又3回位手術をしてます。で病院に居て手術をした後、入院してるんだけど、その間でもですね、つくづく言ってましたね。事実と言うのは、本当におっしゃる通り、自分を苦しめないもんですね。実感ですね。ただ今の在り様があるだけ。今の在り様があるって事は、眼には物が見え、耳には音が聞こえ、口には味がするという事でしょう。身体には色んな感触があると言う事でしょう。普段と何も変わらない。そう言う、豊かな生活が今出来ている、って言う様な事ですね。
 病気をすると、この身体が自分のものでないって言うのがよくわかる。要は、自分の思いでどうする事も出来ない。そう言う体験が無いと、これを自分のものだと思って、自分の思い通りに動かそうとして、動かないとイライラするんですね。ところが、自分のものでない、自分の思い通りにならないものなんだという事を、理解できる様になると、人は変わる。大きくなりますね。度量が一変に変わるんです。許せる人にもなる、色んな事が。受け入れられる。だから出来たら、ちょっと位病気をしたらいいかもしれない。一病息災っていいますから。別に身体をいじめなくても、病気しますからね。色んな病気がある。まあ病気した人と触れると、色んなそう言う面白い体験談が聞けますね。
 で、その方の奥さんは、ご主人が入院してる間、毎日病院に通ってくるんだけども、戸をあけてニコッとして入ってくる、ニコッとして。でどんな話をするかって言ったら、いつもと全く変わりが無い、普段の取りとめもない話をして、それで帰っていく。面白い奥さんですね。凄い楽になるって言ってますよ、ご主人。説明を聞いたから、何時どうなるかわからない様な病気ですよ、手術しても。それで入院してるんだけど、そうやって毎日来る時に、そんなこと一切苦にしないで、体が、こういう事を実践してるんでしょう。思いが一杯の人は戸を開けられないんです。どんな顔をしているかって、何て声をかけて良いかって、本当に大変です。毎日行くのに。帰る時だって、さっと帰れないじゃないですか。まあそう言うな事が身近なとこにある事です。
 そこでですね「これをして滅ならしむるといふは、調達生身入地獄なり、調達生身得授記なり。」これは故事があって、お釈迦様の在世の頃に、提婆達多と言う、従兄弟位になる人ですかね、その方がお釈迦様の事を妬ましく思って、殺すまでは行かないんだけども、例えば通りかかった所を上から石を落として怪我をさせたどか、まあ色んな故事が残されてます。その罪によって、地獄に落ちたって言う話があるんですよね。まあ地獄って、苦しんだという事でしょうか。そう言う事がこう引き合いに出されてるんだけども。
 一言で言うと、滅ぼすと言う時にですね、どういう風にしたら滅ぶかって言うと、一緒になるとですね、不思議なんですね、争う気持ちがなくなるんですね。病気でもそうです。治りたい一心で、早く何とかしようと思うよりも、病気と仲良くすることがですね、絶妙な過ごし方なんですね。悪人と言われる人を救うのにですよ、どうやったら救えるかったら、その人の所に近づいて行って一緒に生活をしない限りはですね、その人を救ってあげること出来ませんねえ。溺れてる人だってそうでしょ。手を差し伸べて初めて救えるんですね。離れていては無理なんですね。そう言う処にも生身ですよ。生身ってあります、なまみです。なまみでその中に入っていく。
 身近な事でもそうでしょ。人が苦しんでいる時に、所謂同情するというのとは、もうちょっと意味が違うと思います。兎に角一緒になる時間持たないと、心開いてくる事は恐らく無い。心が開ける、相手の心が開けて全部さらけ出せる様になれば、大概の問題は解消できますね。不思議ですね。これ信頼感が沸くからでしょう。そう言うためには一緒にならないと無理です。
 此の食べ物の味はどんな味がするって言った時に、食べずに味わいを知る事は無理です。食べないと、此の食べ物がどんな味がするか、やっぱりわからないです。腐るとどういう風になるかも、食べて皆、体験したんだ。これ位、これ食べると、下痢をするとか、腹痛が起きるとか言う様なことを、皆体験したんだよね。ひどい時には、それによって亡くなった人も実際に居るでしょう。で、これは猛毒だって言う事になったのでしょう。兎に角そうやって悪を滅ばすって言うのに、一緒にならないと、その悪い事を本当に根絶やしにする力が出て来ない。遠くの方でこっちの方から色々言ってるだけじゃ無理。犬の遠吠えみたいなもんです。
 「調達生身得授記なり。」必ず自分の本質的な事が、どんな状況の中でも失われていないから、気づけばその場で人は救われる様になってる。教材が、材料が悪いから、環境、そう言うものが悪いから救われないのじゃないのですね。貧乏であろうが豊かであろうが関係ない。学問があろうが無かろうが関係ない。若かろうが年行っていようが、必ず自分自身の内容ですから、気がつきさえすれば、そこで救われる様になってることがこの授記といわれます。あなたも間違いなく悟れますよ、仏様になれますよ、幸せな人になれますよって言う事を、釈迦が皆さんに授けたって言うんですね、授記。
 で、何故そう言う事が言えるかって言うと、今話してる様に最初から人の本質は、そう言う風に飛びぬけて素晴らしい出来栄えをしてるんです。ただ自分の事でありながら、気づかない。気づかないとですね、あっても無い様なものなんですね。自分の家にお薬があってもですね、気がつかなければ、飲むことは無いでしょう。それを飲んだら治るって言われてるんだけれども、自分の家に有っても気がつかないと。だから仏道の修行って言われますけど。だから必ず仏道の修行というのは、別に専門の人に用があるんじゃなくて、自分自身の事だから、自分自身が自分自身の本質に目覚めるって言う事が、自分を救う唯一の道ですからね、生きているうちに。やってほしいですね。
 次に「生身入驢胎」ってありますが、どんな所でもこの生身で入って行くと言う事でしょう。人間以外のとこですね。驢胎って。ロバとか言う様な時に使うんですか。自分の子供だから救う、他所の子だから見てみぬ振りって言う様なこともあるのでしょうけど、そう言う時にこうやって、生身で何処へでも入っていける力ほしいですね。此の頭の中が自分で一線を引いてですね、不自由にさせるんですね。本当は救えるのに。それ、色んな事であると思います。
 「生身作仏なり。」この身体、生きてるこの身体で、本当にそうやって素晴らしい働きをする。「かくのごとく道理を拈来して、」こう言う在り方を取上げてですよ、「『令滅』の宗旨を参学すべきなり。」既にそこに出てきた悪を滅ばすという時に、どう言う風にして、その悪を滅ぼすかって言う様な事を、こうやって勉強してほしい。


三十七品菩提分法 四正断 Ⅰ

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三十七品 四正断__01_04
三十七品 四正断__01_05

 四正断 あるいは四正勤と称ず
一者、未生悪令不生(未生の悪をば不生ならしむ)
二者、已生悪令滅(已生の悪をば滅ならしむ)
三者、未生善令生(未生の善をば生ぜしむ)
四者、已生善令増長(已生の善をば増長せしむ)
 「未生悪令不生」といふは、悪の称、かならずしも定まれる形段なし。たゞ地にしたがひ、界によりて立称しきたれり。しかあれども、未生をして不生ならしむるを仏法と称じ、正伝しきたれり。外道の解には、これ未萌我を根本とせりといふ。仏法はかくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、悪未生のとき、いづれのところにかある。もし未来にありといはば、ながくこれ断滅見の外道なり。もし未来きたりて現在となるといはば、仏法の談にあらず、三世混乱しぬべし。三世混乱せば諸法混乱すべし、諸法混乱せば実相混乱すべし、実相混乱せば唯仏与仏混乱すべし。かるがゆゑに、未来はのちに現在となるといはざるなり。
 さらに問取すべし、「未生悪」とは、なにを称ずべきぞ、たれかこれを知取免見取せる。もし知取見取することあらば、未生時あり、非未生時あらん。もししかあらば、未生法と称ずべからず、已滅の法と称じつべし。外道および小乗声聞等に学せずして、「未生悪令不生」の参学すべきなり。弥天の積悪、これを未生悪と称ず、不生悪なり。不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。

 未だ生ぜざる時、悪と言う表現自体が、限定されてこうだって言う様なものは中々見当たらないと言うのですね。それは皆さんも知っている様にですね、時によっては、時代によっては、それが悪いと言われていた事でも、時が変わって、時代が替わったりすると、それが見直されて、良い事になる事もある。逆の事もあります。中々善悪と言う物は、決め難いと言う事でしょう。それはそれで、その通りだと思います。
 「ただ地に従い界によりて立称すべきなり、」とありますから、その土地柄とか、その場所とか、習慣とか、色んな人間の世界の中で、標準になってるものを以って、それは良いとか悪いとか、一応定めてあると、こういう事ですね。食事なんかでも、お隣の大陸の方には、お腹が一杯になったら、そこら辺に、ピッピッってやって、吐き出すような国があります。汚いな、と日本では思うけど、その国では、もうこれ以上食べられない位沢山頂きました、って言うご挨拶の様ですね。そういう国もある。だから、エッっと思うかも知れませんね。そう言うの身近な事で色々あります。
 ま、それ等はそれとしてですね、「未生をして不生ならしむるを仏法と称じ、正伝しきたれり。」これについて色々述べて行く訳ですね。音が聞こえない時、音が未生、生まれない時、音が聞こえない時、そう言う一例を以って、こう触れていくとよく分かると思う。音がしてない時に、人間は問題にするものが無い。もう少し事を具体的化して喋れば、相手から入って来る言葉が無い時に、その人の言葉が入って来ない時に、何を言ってるんだって言う様な事には、ならないのでしょうね。入って来ない、喋ってないから入って来ない。その時はどういう風になるかったら、そのままで、此処にある様に「未生悪令不生」とありますが、相手から、相手が喋ってないから、相手が喋る事で問題が起きる事はない、良いでしょう。
 質問あり。被害者にとっては?
 被害者にとってって言うんだけど、被害者って言う感覚だって、決められないでしょ。自分の中に何か設定してるものがあって、それに違反する様な行為があると、不条理だと言って、皆さん腹を立てたり色々するのでしょう。自分の中に設定の無い時に、ゴーンってぶつかった時、ただ痛いってそう言う事があるだけで、済んでしまうでしょう。不思議ですね。普通だったら腹が立つかもしれないけれど、自分の中に相手を認めていないで、現象だけがおきた場合には、それだけで済む力を持ってる。そう言うのも面白いでしょ。
 だけど、嫌な人から言われるのと、好きな人から言われるのでは、同じ事でもどうして結果が変わるかって言う事を見た時に、悪って言うのは決めづらいんですね。皆さんだって、嫌だなあって言うんだけど、好きな人から言われるとそうでもない。嫌な人から言われると、凄い抵抗がある。じゃ、その好きだとか嫌いだとか言う事をどう言う風に決めたかって言ったら、自分の中に何かあるのでしょうね、決める標準が。だからその自分が決める、人に対しての、この人いい人だとか、悪い人だとかって決めてるんだけど、他の人に聞いてみると、私が決めてるのと違う評価になっている。これ位難しいんですね、善悪って。だからそれ以上ここでは言及しない。それでもっと本質的な事を、道元禅師が話してるんですね。
 質問あり。音が、「未生をして、不生ならしむる、」と言うのは?
 まだ生じないんでしょう。不生だから出て来ないんでしょう。音がしない時音が出ないんでしょう。聞こえないでしょう。それを言うんです。
 聞こえないから問題が発生しないことが?
 発生しないでしょう。それでいいでしょう。
 聞けばする?
 そう。
 もう少し具体的な、皆さん方の日常の生活の中で取り上げてみるとですね、朝でがけに、何か一言言われた事が、気に入らない言葉をかけられた時にですね、どういう風に皆さん生活してるかと言うと、此処にある様に、喋った時には聞こえるんですよね、音だから。喋ってない時には聞こえないんですよね。それが本来なんです。だけど、今喋ってないのに、朝喋られた事が、一日中問題になるって、これは間違ってないかと、こういってるんです。おかしいんじゃないか。具体的にはそう言う事ですね。
 仏法ってそう言う風に出来てる。喋っている時にだけ喋っている事が聞こえ、喋り終わると聞こえなくなる。そう言う風な様子、在り方を誰しもが本当に、基本的にやってるんだけども、自分のそう言う過ごし方をしている事に、気がついてない。殆どの人は、頭にカチンと来たら、その言葉がどっかに残ってる様にして生きてる。そして、それを相手にして一日中、仕事しながらでも、暇があると思い出しては、何かぐずぐず言ってるのが、道からかなり逸れてると言う事でしょう。こうした正しい在り方をずーっと伝えてきたのが仏法です。
 音がした時に聞こえるだけじゃ詰まらないじゃない、と思うかもしれないけど、音がした時だけ聞こえるからいいんでしょう。これが次の音を聞く時に、前の音が残ってたら、「コン!コン!コン!コン!」厄介でしょうがない。そんな人誰も居ないんだよね。いつでも「コン!」音がしたら、その通りスパーっと入ってくれる、聞こえる。音がしてないものは一切入って来ないよ。この身体、この通りです。そう言う風に生活してれば、本当に問題ないでしょう。それだけと言うんだけども、今、ガラガラって音がしたら、あれは何だとかって、そう言う風にして自分の中で、音がしてない事を問題にするんです。
 そこでですね、外道と言われる、道から外れてる人の理解の仕方が述べてあって、これによって、今話してる様な事がどれ位正しいかって言う事を、きちっと道元禅師が述べられてますね。道から外れてる人達の理解の仕方の一つにはですよ、「これ未萌我を根本とせりといふ」どう言う事を言ってるかと言うと、音がした時に、喋った時に聞こえたんだけども、喋り終わってからも、聞こえてないんだけども、さっき喋ったことはある、ってそう言う風に言うんですね。
 さっき見たものは、今見えないけれどもあるって、そう言う風に理解するんですね。自分の上で、こうやって涅槃図がこうある、触れると涅槃図が見える。障子の方に向かうと障子が見えるって言う風になってるので、障子を見てる時、涅槃図は見えないんだけども、涅槃図はある。そう言う風に理解するんですね。
 それは目の上から言ったら間違いでしょう。見えてないんでしょう。実際に見えてないのに、さっき見えた物が無くなってないって言う風に理解してるんですね。じゃ目に聞いたら、さっき見た涅槃図なんか何処にも無い。だけど間違ったものの理解をする人達は、まだ見たものが目に焼きついていると、理解をするって言うんです。これが一つ目です。どっちが、皆さん方は正しいと理解できるでしょうか。
 こっちへ来る時も、ちょっと勉強会があって寄って来たんだけど、人って面白いですよね。見たもの聞いたもので、苦しむ人と苦しまない人がいる。苦しむ人はどう言う風にして苦しむのかって言うと、無くなっているにも拘らず、問題にするんですね。さっき、ああいうこと言ったでしょうって。さっき、ああいうことやったでしょうと。
 皆この頭の中に残された残像と言われるか、記憶と言われるか、そう言うものを思い起こして、それを相手にして生きている。そう言うの私達は、妄想と言います。或いは煩悩と言います。有りもしないものを有るように思い起こして取り扱っている。だから、煩わしくなるし、悩ましくなる。無いものだから、取り除こうと思っても、中々取り除けない。有ればですね、取り除くことが簡単なんだけど、思いって言うものは、実質取り除く様なもの無いんですね。こう言うものが大体、「これ未萌我を根本とせりといふ」
 「仏法にはかくのごとくなるべからず。」正しいものの在り方の中には、そう言う事はないって言うんですね。パン!こんなにはっきり聞こえるんだけども、聞こえただけでどこにも残らない。わかりますね。こんなにはっきり聞こえたんだけれど、どうもしないのに、聞こえただけでもう無い。パン!要するに、これ役に立ったんですね、聞こえたんですから。音がした時にパン!聞こえれば役に立つ。音がしない時に聞こえたら、役に立つどころじゃなくて、大変なことになる。
 そこで、暫く皆さん方にお尋ねしますけど、「しばらく問取すべし」皆さんに聞いてみたい、尋ねるけどって言うんです。「悪未生のとき、いづれのところにかある。」悪いと言う事が、いまだ生まれない時に、悪いと言う事は一体何処にあるのか。若し未来にありと言えば、今は無いけど、今にそう言う悪いって言うことが出て来るという受け取り方は、「ながくこれ断滅見の外道なり。」断滅って、続くとか続かないとかって言う事ですね。どこかで断ち切れるとか、なくなるとか、言う様な事じゃないですね。悪いって言う事が、初めっから無いですよね。有るとか無いとか問題外。
 「もし未来きたりて現在となるといはば」これもよくわかるでしょう。向こうにあるものがこっちに来てって、そう言う話になったら、それは仏法の話ではない。春が過ぎて夏が来るって言う様なことは、仏法では言わない。後にもありますが、未来が来たって現在となるんだったら、過去現在未来と言う設定が混乱しちゃって、滅茶苦茶になると言っておられます。それはそうでしょ。過去は過去、現在は現在、未来は未来だから、過去現在未来というのは、きちっとしてる。これが未来のものが来て現在になっちゃったら、どうなるの。そんな事はない。
 今皆さんの生活だって、見て御覧なさい。何かと入れ替わって、現在の生活になる人なんかいませんよ。明日の生活が此処に来てって言う様な人は居ない。これから先も永久にそんな事はない。考え方は、明日のものが、計画したものが、明日になると計画通りに行ってと言う様に見るのでしょう。けど、実際はそう言うことは起きないのですね。
 「三世混乱しぬべし」過去現在未来って言うものがごちゃ混ぜになって、何が何だかわからなくなる。そうすれば今度は諸法、あらゆる物と言うものが物が滅茶苦茶になる。それ、例えて言えば、ニュースなんか見て御覧なさい、。三日前に取ったニュースを今日流して、日付を今日の何時何分て言って映像を流すと。そのまま信用する人は、あれ、今日こんなこと起こったって言う風になるのでしょう。これ世の中混乱するでしょう。世界中、今ボタン一つで、その位の映像、パーっと一気に広がる位の能力が今あるから、人の頭の中、滅茶苦茶になりますよね。株の取引してる様な人だってそうでしょ。ちょっと誰かがどこかで一言言っただけで、相場が変わるのでしょう。中にはそれで死ぬ人も出るんでしょう。苦しんで。その位乱れるんですよ。
 だけど事実は、昨日の事は今日には変えられない。絶対に変えられない。こんなに長い歴史があったって、その時にあった事はその時、昨日3月25日、私の誕生日でもあるんですが、昨日能登の大地震があった日なんですね。もう5年位経つのかね。そう言うメモリアルであってもですね、何年たっても変わらない。3.11とか、あれは変わったら困るんですよね。時代がたったら入れ替わっちゃう様な事だったら。そう言う事はない。未来が来たって現在になる様なことがあったら。そう言う事になります。だからそう言う事は無いですね。もし仮にも、そう言う風な入れ替わりがある様な事があれば、あらゆるものが乱れる。乱れれば、真実の在り方って言うものがはっきりしなくなる。真実の様子がはっきりしなければ、唯仏与仏って言うんだけども、本当にお互いがですね、信頼し合える世界は無くなるんですね。こんなに丁寧に書いてある。
 「かるがゆゑに」だから「未来はのちに現在となるといはざるなり。」未来はのちに現在になると言わざるなり。いいでしょう。道元禅師の頭の、明晰な頭って言うのがよく理解出来ますね。こんなに丁寧にものをちゃんと示している。
 もう一つお尋ねします。「さらに問取すべし」未生悪とはどう言う事を言うのか。「未生悪とは、なにを称ずべきぞ、だれかこれを知取見取せる。」もし、少しでも悪が生まれてないって言う様なものを知ったり見たりするって言う様な事があるんだったら、違うじゃないかって言ってるんですね。これよく読んでほしい。いいですか。もし知るとか見るとかって言う事があればですね、気がつくとかつかないとかって言う事が起きてくる。そうしたら、ないとは言われないじゃないか。本当に音がしない時に、音がするとかしないとかって言う事が一切問題にならないのでしょう。今音がしてないって言う様な事はないのでしょう。わかりますか。
 修行の上で言えば、例えば無心とかって言う様な事を、或いは無我とかって、何か認めるものが何も無くなる、或いは自分らしいものが無くなるって言う表現でしょうけれど、もしそう言うものが本当に無くなったって言う様な事が、皆さん方が、無くなったって言う様な事が、もし言われる様だったら、それは見てる人がいるという事でしょう。無いのじゃなくて、無くなった事を見てる人がいる。自分が居なくなったってものを見てる人がいる。本当に無い時には、そう言う事が起きないとこう書いてあるんですね。
 だから修行してる人の仲間で問題になるのは、そう言う事です。私は気がつきましたって、気がつく何かが残ってる。もしお釈迦様が悟った時に、何か気がつくものがあったら、今日の様にはならない。本当に知る人が居ないんです。そう言うものが基本的に体験としてあるんですね。これは皆さんも体験したらわかる。「もし、しかあらば」だから未生の時とか非未生の時とかって言う風なものが出て来るのだったら、未生の法という事は出来ない。じゃどういう風に言うかって言ったら、已滅の法と言いなさい、とこう言うんですね。無くなったって言って喜ぶんでしょうかね。
 「外道および小乗声聞等に学せずして」それ、どう言う事を言いたいかって言うと、正しいものを教えてる者に学びなさい、とこう言うんですね。外道とか小乗とか声問て言うのは、そう言う意味で、ものがはっきりしていない処がある。そう言う者に学ぶと、よくわからないと言う事です。
 「未生悪令不生の参学すべきなり。」だから本当にものが生まれていない時、皆さんだって、日常そうでしょう。見たもの聞いたもの、それだけで居る時には、問題が自分の中で起きてない。それを十分に学ぶべきでしょう。知らないと、すぐ見たもの聞いたものに自分の思いをつけて、そして問題にしてる。それだけですよね。だから滅茶苦茶ひどい事を言われてる時でもですね、相手の言ってる事が、その通り聞こえてるだけの時には、人間て何も傷つけられないものですよ。嘘だと思うならやってみて下さい。俺に何でそんな事言うんだって、そう思った途端やられるんです。
 じゃ誰がそう言う風にさせるか言ったら、一人自分が自分の中で詰まらない思いを起こして崩れていくだけです。だから百人そこに居てもですね、そう思わない人は、ハァ-ハァ-って言って、人が、あいつは馬鹿じゃないかあんな事言ってて、平気で聞いていられる。面白いでしょう。それ位、自分に対して言われてる感じがすると人は一気に変わる。脅かされていると思って、一気にものの見方考え方が変わってとんでもない事をやり始める。そう言う事があるから、第一にこう言うものが出てきたんです。勉強の仕方として。
 「弥天の積悪、これを未生悪と称ず、不生悪なり。」今話してる通りです。滅茶苦茶、一般から言えば、ひどい事をそこで言われてるんだけど、ただその事がその事として、こうやってあるだけだったら、問題にならないですね。そんなにひどい言葉が飛び交ってても。それあんまり難しい事じゃないでしょ。だって他所の人の事だと思って聞いてる時は、皆やってるでしょ。自分のことだと思って聞いた時に、たちまちやられるだけですからね。どっちもやってるでしょ。他人の事だと思っていようが、自分の事だと思っていようが、相手から喋ってくる言葉が二つも三つもあるわけじゃない。その通りの事が、ただ聞こえてくるだけだけど、こっちの受け取り方が違うと、そんなにいろんな風になるんです。
 で、それを暫く止めて生活してみると、こう言うに、第一、「一者、未生悪令不生(未生の悪をば不生ならしむ)」と言う、これが行です。これ、あの勉強するって言うよりも実践しなければ意味がないですよ。こんな事を幾ら覚えたって、沢山知ってたって何の意味もない。生活の中で、これを実践してみるんです。そうするとよくわかる。