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三十七品菩提分法 四念住 観法無我

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三十七品 四念住 観法無我_01
三十七品 四念住 観法無我_02
三十七品 四念住 観法無我_03

 もう一つ、「観法無我(法はこれ無我なりと観ず)」法はものですね、ルールでいいでしょうかね。全てのものの成り立ち、決まり、活動法、ルール、大きなものと小さいものがあって、此処にこうやって見せるとですね、人間てこう言う風に見えるのは、ルールですね。これはこれ、これはこれって、こう言う風に見えるんですね。誰が決めるんじゃないんだけど、きちっとこう言う風に。これがこう言う風に(入れ替わって?)見えると言う事にはならないですね。ルールです。犯すことの出来ない在り方なのですね。パン! こっちで叩いたのと、バシッ!こっちで叩いたのと、ちゃんと違って聞こえるように出来てるんですね。誰も決めたんじゃない。
 大きな音、こうやって音でも、この音とこの音が同じように聞こえるなんてことは、絶対無い。必ず、パン! この音はこの音、パン! この音はこの音の様に聞こえる様になってる。これルールです。人が決めたんじゃない。それを、私達は法とも言い、ダルマともいう。或いは正法、正しいものの在り方とも言うんです。それにはですね、決まりがないとある。無我。中心になる何かものがない。
 一般的に無我って言えば、私を立てないと言う事でしょうかね。俺がって言わない。私がって言うのは、我が在ると言うんですね。俺が、俺が、俺が見てる、俺が聞いてる、俺がやってる、それが我があるって言われる。厄介ですね。人と必ず争いが起きる、それを守ると。自分の主義主張だけで、それを通そうとしたら、必ずぶつかる。だけど、もののルールの中には、この眼でもそうだけど、我が無いから、どれにでもその通りになる。
 耳にも我が無いから必ず音がしたら、音がした通りになる。コン、コン、コン。 そう言うことがこう説かれてる。坐った時には坐ってる。立てば立った様になる。どうして坐ってる事から立った時に、どうして離れるか知らないんだけども、必ず、立った時には坐ってる事が一切無くなる。そう言う時に、あああの人は坐ってるとこう言うんですね。これルールです。そう言う中に決まりが何もない。決まりが何も無いんだけども、そんなにきちっとしている。主義主張も何にもないんだけど、そんなにずれずに、きちっとしたルールがある。不思議ですね。
 で、まあ見ていきますが、「長者長法身、短者短法身なり」 長いものは長い短いものは短いと、こう言ってるだけです。当たり前のことでしょう。これが、竹薮に連れて行った、修行する時に。どういう風に修行したらいいか。竹薮に連れて行って、あっちの竹を見てごらん、こっちの竹を見てごらんて、こうやって教えた。そしたら、その人はあっちの竹は長い、こっちの竹は短い、それで良いって。
  「現成活計なるがゆゑに無我なり」 現成活計てのは、今の皆さん方の生活している真っ只中の様子は、そうなってると言う事です。障子に向かった時に、私が障子を見てるって言わなくても、必ず障子を見てる様になるんでしょう。襖の方をこうやってやると、必ず、襖の方を見てる様になるのでしょう。私がって言わなくても、誰がなったのか知らないですね。襖のようになって、障子の様に、誰がなったのか知らないんです。ただ、その様にこうやってなるんです。こんな事が言われてます。
 狗子に仏性なし、「狗子(いぬ)仏性無なり」まあ、こんなのはあまり触らない方が良いのかも知れない、皆さんに。面倒臭くなって仕方がない、頭の中が。仏教を学んだ人がですね、仏性があるか無いかって話になると、凄い苦労する。何故苦労するかって言うとですね、仏性と言う言葉、文字が指すものが、如何いう事を指すかわからないのに、勉強するからです。誰も教えないのに、自分の中に、読んだ途端にパッと何か掴むんですね。仏性って言うものを。不思議ですね。仏様らしい。
 じゃ仏見たことがあるかって、生きた仏見たことないのに、仏って多分こう言うものだって、皆描いてるんですね。だからそうやって、描いたものをですね、街中歩くと、あれが仏様じゃないか、これが仏様じゃないか、自分の描いたものに近い様なものに出合うと、すぐそうやってくっついて行く。そんなもの勝手な推理でしょう、自分の滅茶苦茶な。酷く言ったら。当てにならない。
 だから勉強するのに、先ず、そう言う概念を持たないって言う事が、本当に修行は大事なんです。兎に角知らないうちに、そうやって皆持ってますね。だから坐っても、なかなか無心になれませんって言って。無心になれないって、無心て言う事知らないから、なれても無心じゃないと思ってるんだ。ええっ!やれてても、無心て言う事知らないから、それが無心だと思わなければ、やれてないって言うんです。持っててもあることに気づかないんですね。不思議ですね。
 「狗子仏性無なり、狗子仏性有なり」 犬ころに仏性が有るとか無いとか言う話なんだけど、有るとか無いとか言うものは人間にとってですね、面白いですね。無(ム)って言うと、無(な)いっていう風に読むんでしょう。先ず卑近な話をすれば、無ムって言う音声があるのにも拘らず、ムって言ったら無(な)いって言うんです。聞こえない様なこと言うんでしょう。えっ!ムって言ったら、聞こえてるにも拘らず、無いって。文字を見て、ムって言ったら、書いてある字があるにも拘らず、無いって言う。それ位可笑しなことしてるんですよ。有るって言う字が書いてあっても、無いって言う字が書いてあってもですね、そう言う事が行われているだけなんですよ。それが心の様子なんですよ。
 有という字に向かうと有、無という字向かうと無っていう風なものがちゃーんとその通りに頂ける様に、人はなっている。それが心と言われるものの働きなんですね。知らなくても、字を知らなくても、其の通り、子供でもだからなるんです。だから勉強出来るんです。それが無と言う字だって、わからないと書けないって言うことはないですね。この様に書いてごらん、この通り書いてごらんって言うと、見えてるからその通り書くんです。それが何だかわからなくても良いんです。その通り書けるようになると、役に立つ。言ってご覧って言って、声を出させて、あああって言って、そうやって皆さん方こうやって日本語の発音が出来る様になってる。それが何だって知らないですよ、何も。
 「一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。」 まあざっと一杯色々書いてくれてあります。何故こんなに似た様なことを沢山書くかって言うと、人間には癖があって、素直に中々ならない。これ一つずつその書いて在るとおりに触れて行って御覧なさい。必ずその通りに変わって行きます、書いて有るとおり。だけど、何だ同じ様なもの沢山並んでるな、これ一体何だって思い始めると、もうこの書いてある事を学ぶ事とは全く違うことやってますよね。自分の頭の中で描いてる事を相手にしてるだけであって、この文章に書かれている事を問題にはしていません。そういうのも分かるでしょう。
 色んな日常の中で現象が起きる。色んなものに触れた時に、その現象に触れた時に、現象と言う事実に触れた時に、その事実を本当は大事にすべきなんだけども、事実に触れたらすぐ、それは何だって言う風に扱い始める、人間は。それは何だって扱い始める時には、もう事実は抜きです。考え方で捉えたものだけが相手になってるんです。それで考え方の中で捉えたものを相手にしてやっても、中々、解決がつかなくなる様になってるんです。事実を抜きにして考えてるからです。本当に解決する時には、必ず事実を抜きにしてやったら駄目なの。どんな事でも、問題が発生した事自体が、今の事実の中にあるでしょう。その事実の他に問題があるのじゃないでしょう。
 時々使うんだけども、例えばこのストーブが消えた場合、どうしてこのストーブの火が消えたかって言う時に、此処に何台かのストーブが有った時に、火の消えたストーブを放っといてですね、それ以外のストーブをこう色々開けてみて、どうなってるんだるう、どうして火が消えたんだろうって勉強する人も中にいるよ。だけどこっちのストーブが消えたわけじゃないから、幾らこれを研究しても、本当にどうして消えたかって言う真相は、この(消えたストーブの)中にしかないんだよ。似た様なストーブが有ってもですよ、本当にこれが消えたら、この中に消えた原因があるんです。そうやって勉強してるはずなんですよ、一般社会でも、利口な人たちは。そう言う事が、こう言う風に同じ様なこと一杯並べてですね、本当に其のことでこうやって学べるかって言う事です、一つ一つ。他のことすぐ持ってくるんですよね。
 「かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を『観法無我』と参学するなり。」 一切法の中に、一切法は無い。どういうことを言うかと言ったら、その事が本当にその事であるだけだ。その時にその時の様子が本当に有るだけ。この音を聞きたかったらパン! この時に聞く以外ないのです。何十年生きてても。この音 パン! この音をパン! 聞きたかったら、今こうやって触れるしかないんです。もう一回出してみてって、出しますけども、パン! さっきの音を聞くことは出来ないんだ。ね、そう言う風になってますよ。で、今、パン! こうやって出した音が、本当に一度で聞けるようになったら、それで、今までどう言う風に聞いたら良かったんだろう、って事が全部解決する様になってます。
 「しるべし、跳出渾身自葛藤なり。」 もう本当に、この一人一人自分自身の身心と言われる、このものの在り様に学ぶ以外にないですね、ものを学ぶ時に。そういうものの学び方が、体験をした人達が書物に残してあって、こう言う風にしたらそれが分かるとか、言う様なことが書いてあるものが沢山ある。だから、皆さん方書物を読むんですね。だけど書物に書いてあることは煎じ詰めたら何かって言ったら、書物を読む必要がないということです。この自分自身の有り様に目を向けられて学ぶ力があれば、それで十分。どんな立派なものだって、書いてるものはその人が、自分の身体を通して体験した事を残しただけでしょう。それだけじゃないですか。
 釈迦牟尼仏言、「一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)」 こう言う風に生活をしていく。これ位楽なことはない。しかも聖胎ですね。ひじりの身体と言っていいのか。聖胎長養なんて言う長い言葉があるかしら。「しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。」 等覚とか妙覚とかって言う、悟りの内容に52位の階段をつけて示した人がいるんですが、そういう学問研究の中に、こう言う表現があるけども、まあ一言で言えば、どの様な状況にあろうがって言う事です。どの様な人であっても、本当にただ、今自分自身の在り様の中で、こう言う風なことをしっかりとこうやって見届けていく。一つには、身は不浄なりと観ず、二つには受は是苦なりと観ず、三つには、心は無常なりと観ず、四つには、法は無我なりと観ず。
 これがお釈迦様がやられた修行です。だから仏教では最初に、三法印と言う表現がある。すなわち、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静って言う様な三法印です。ものの真理として、そう言う言い方がされてます。「すでに『一切諸仏菩薩』とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。」 お悟りを開いた人ばかりじゃありません。修行している人たちも皆これによって修行して行くのです。
 こう言う風なあり方を、「まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、」 悟りを開いた立派な方々の生き様って言う様なものは、内容を見ればこう言うことなんだって言う事です。何をしてるかって、同じように毎日生活して、一緒にそこで生活をしてるけど、触れている処が違うんですね。ただ漫然と居るのと、本当にその内容をきちっとこうやって頂けてるかによって、全く違う。
 ものは本当に分からないと、同じ生活していて居るんだけど、全然違うんですね。で、生き様も全て変わって来るんですよ。何してるか分からん、人の様子だから分からないかも知れないけど、何十年も付き合ってる人が周りに沢山居るので、良くわかる。そう言う人たちが変わってくるの。全く人生が変わって来る。やってることは何かったら、別に今までと変わった生活している訳じゃない。毎日同じことやってます。
 だから、この先ず四念住ってね、四つのものの触れ方があります。一応そこで終わりにしたいと思います。この位の箇条書きになって、タイトルが付いてると、皆さん勉強しやすいですね。(終わり)

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三十七品菩提分法 四念住 観心無常

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三十七品 四念住 観心無常_01
三十七品 四念住 観心無常_02
三十七品 四念住 観心無常_03

 「観心無常」心無常を観ず。ここで心と言う字が使われているけども、皆さんが常識的に、心って何かものを思うって、そういう風な意味合いの文字ではありません。心と言うのは一切のものを指すんですね。全てのものを指す代名詞です、心て。無常というのも皆さん良く知ってると思うけど、常なし。生活自体をよく見てもらえば、もう明白ですね。先ほどの事をやってる人は一人も無い。全部身体中、何処を見たって、先程の事やってる人は一人もいない。そういう風に出来てるのですね。
 何処にこだわるのでしょうかねえ。何処に捉まって悩むんでしょうかねえ。悩むものが無い、残って無いよ。問題にするものが無いんだよ。それが無常の様子なんですよ。皆さん、そんな風に無常って観てないでしょう。常が無いって、その程度のものじゃ、詰まらない。本当に観て御覧なさい。きれいな言い方をすれば、一度も経験したことの無いことばかりを、人はするって言うことです、生きてるということは。
 今、こうやって見る時にしたって初めてです、これ見たのは。さっきの見たのとは違います。さっき見たら、さっきやったことです。今やったのは初めてです、初めて。一度も今までやったこと無い。それなのに、此処の頭は、又って、又々って、そうやってます。そんな見方はしてません。先程のもの一切無いのです、こういう時にそれは身体全部です。人間の身体だけじゃなくて、此処に心と挙げてある様に、全ての物がそう言う風な活動をしてるんです。こういうのは心無常を観ずるというんです。勉強の仕方として、ここまでやったら、必ずすっきりするでしょう。
 「曹谿古仏いはく、『無常者即仏性也』」そう言う事があるから、本当にこの無常の様子がわかってみると、仏様がどういうことを本当に気づかれたかって言う事が、よーくわかると言っておられる。
 「しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり」 ありとあらゆる物が無常無常だって言う風に言うんでしょうけど、その内容はこの様にですね、出来ているのですね。こんな簡単なことだけど、人間が、中々先程のものが出て来たり、何年も前のものがでて来たりする様に思ってる。私が喋ってる様に思ってるんですよ。本当にそういうことがあるんじゃなくて思ってる。ただ思ってるんです。そう言う事、そういう風に、そう言う見方をもって。実際はそんな事はない。そこ迄皆さん方が、心というものを見ることが出来るか、ものの有り様って言うものを正しく観ることが出来るか。そう言う行です。四念住の中の観心無常っていうのは。
 永嘉真覚大師と言う人が居ますが、中国に。その人が残された言葉にこういうものがある。『諸行無常一切空」あらゆる活動、諸行、本当に今活動している様子が、今あるだけだ、後にも先にもどこにも、その事が、活動したにも拘らず、残ってないと言うのですね。空。「即是如来大円覚』仏様のお悟りになった内容はそう言う風に素晴らしいよ、ってこう言ってます。「今の『観心無常』すなわち『如来大円覚』なり」本当に今の様子が、今展開してるだけだって言うことに気が付いたら、必ず救われるんですね。有り様を手をつけて直すなんて言う事は出来ない。良いですか。
 パン! この音を聞きなおすなんて事出来ない。パン! 済んじゃった。パン! 何もしないのに。パン! 其の通り聞こえるんだから良いじゃないですか。どっか半分のみしかパン! 聞こえない様なことは無い。全部そっくりそのまま、ちゃ-んと大円覚と言われる様にですね、何不足無い。そう言う風な様子がある。そう言うことがはっきりしている。
 覚は悟るでしょう。自覚でしょう。用が無いよね、直すなんて必要が無い様に出来てるでしょう。もし、皆さんが仮にですね、間違ってる事気がついた時に、直しちゃったら、どうするんですか。物凄く修正能力のある人が居てですよ、ここにこうやって間違ってるものが見えたら、すぐ直しちゃったらどうですか。見た途端に直しちゃったら、気づくって事はなくなるでしょう。
 これ、身体のことでですよ、自分が痛いのに、痛くないっていう風にする人がもしいたら、痛い時に痛くないっていう風にする人がいたら、自分の身体を、病気を気づくって事が出来ませんよ。良さそうなんだけど、痛い時、痛くない方が良さそうなんだけども、痛い時本当に痛いんで、それを手をつけて直す様なことしたら、わからなくなる。お医者さん行っても。此処が痛いのに、ここら辺が痛いのに変えて言ったら、此処痛いんですけどって、えっ?なんとも無いですよって帰される。実際は此処が痛かった。
 だけど人間、そういう動物なのね。何か悪い事があると、正しくしようとするんですね。そうじゃない。間違ったことが間違ったことだってはっきりする事が、ものをただす唯一の道なんでしょ。過ちを過ちと知れるは聖人です。凡人は過ちを誤魔化す。それは凡人なの。こういうな事がこう言う処に皆出て来るね。
 「心もし不観ならんとするにも」 見ない様に、そう云うものを見ない様にしようとする。でも、「随他己するがゆゑに」 て言って、必ず、全ての動きと一緒にこうやって生活してますから、本当に自分だけ此処に居るなんてことは出来ないんですよね。見て御覧なさい。今、此処にいる様子を見て御覧なさい。
 全ての物を自分の内容として生きてるでしょ。畳を抜きに生きてる訳じゃない。部屋を抜きに生きてる訳じゃない。この空気全部払って生きてる訳ではない。そう、本当に、全部何処までが自分の様子か分からない位、随他己ですよ。境目がないんです。此処までが自分のことだって。ここは物凄い明確だから、この身体の見える辺だけ自分だと思って、後は人の事と思ってるんだけど。そんなことはない。
 で、こういうもの(相手-境-としてのもの)が、もし無かったら、眼は育たない。眼のこれ皆栄養ですからね。これ食べて生きてる、眼は。こう言う風に見えるって事が、眼を育てるんです。真っ暗闇の中に眼を置いてみる。ものが見えなくなるんですね。働きを失ってしまう。一切音の無い部屋の中にずーっと何年も過ごさせると、聴力がなくなる。寝たきりにして置くと歩けなくなる。全部それ、随他己だから。身の周りのことが皆この身体の栄養素にもなってる。別のものじゃないよね。
 「心もしあれば観もあるなり」およそ、この身体があってですね、心の無い人は居ません。身体だけあって心の働きの一切無い人は居ません。植物の様になった状況に置かれるとか、脳死の様な状況に置かれると言ってもですよ、それでも触わったら、必ず触った様に身体は反応します。本人の認識が無いかも知れないけども。そう言う風にできてますね。
 「おほよ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり」 最高の境地って言われる様な事が言われてもですね、その内容は何かって言ったら、ただこの真実なんだと言う事です。無常と言われる真実は、本当に後にも先にも無い、今の在り方だけで貫かれてるんですね。昨日のこと思い出すことは出来るけど、昨日の事は今日やれない。明日の事を思う事はあるけれど、明日の事は今出来ない。本当に今やってることが、今やってる所で今あるだけですよ。これ最高の境地なんですよ。それで何も言う事ないでしょう。それ以上何か欲しいですか、まだ。何か足りないものがありますか。
今やる事してると、生活はちゃんと成り立つんでしょう、色んな職業についてる人は。その職業その職業、その場その場、その時その時の在り様をきちっとその様に過ごしたら、いい仕事が皆出来るのでしょう。そう言うものが心を本当に観ると言う事なんですね、観心。
 [心かならずしも常にあらず」 何か心らしいものが、いつもあるかって、そんなものは無いですね。その心らしいものが無い働きを、暫く心と言うのです。向かったら、赤い薔薇に向かうと赤く見える。白い薔薇に向かうと白く見えるって言う働きがあるということです。何にもこういう風に見なければいけない、って言う決められたものは何も無い。何にも無いんだけれども、その触れたものによって、その通りの色に見事に変わって行くんですね。変わったからって言って、それが何処に留まるかって、くっついてるかって言うと、次のものにこうやって触れると、コロコロと皆そのものから離れ切って生活してる。だから心必ずしも常にあらずと言う事でしょうかね。
 「離四句、百非を絶する」って言うんですけど、四句って言うのは、有句無句ですかね。有るとか無いとか言う様なこと、代表的に言われるでしょう。沢山のものが、そうじゃない、そうじゃない、そうじゃないって言って挙げられるんですね。向かったものの見方は、固定的な観念を持ってみる癖があるもんだから。でも不思議ですよ。人と話してみるとよーくわかる。自分の中にはね、そんな固まったものの見方なんか絶対してないと思う位の人でもですね、いつの間にか自分の考え方を持ってますね。いろんな処に顔を出す、それが。多分そう言う事ですね。
 生活して何か触れた時、気になる時は、必ず自分の中、知らずにこうあるんじゃないかってものを持ってますね。だからそれにこうやって触れると反応するんですね。何であんなんなんだろう、なんであんなことするんだろう、あんな言い方するんだろう、とか言う様なことが気になるって事は、ちゃんと自分の中にこれらしい、こうあるべきらしいもの持ってるんですよね。だから自分をつまらなくしてるって事、気づくべきですね。
 この前も言ったんだけど、坐禅は無になるんでしょう。無心になるんでしょう。何処で学んだの? 如何いう風に、無心になるって、如何いうことか知ってますか?って言うと、皆、この頭の中でちゃんと持ってるんですね。ああじゃないか、こうじゃないか。だから、此方から幾ら話をしても素直に受け入れない。自分の勉強したものの見方と違う話をすると、あの人変じゃない、何であんなこと言ってるんだろうって言って、私そんなこと学びに来たんじゃないって言って、受け入れない。それ位自分の中にものを掴むということはですね、不思議な状況が起きるんですね。
 ですから、本当に素直になる時には、何にもこれ(自分を指す)が持ってない時に、人の話したことさっと入って来て、ものがわかる。修行に時間がかかる人は必ずそういうもの(持ち物)が、沢山自分にある。溜め込んでるね。そういうもの全部離れたり、断ち切ったりする様子が四句を離れ、百非を絶するって言う様な事になるんでしょうね。そうすると、此処に有る様に、牆壁瓦礫って言う、そこら辺にある、皆さんが大事にしない様な石ころとか壁とか壊れた様な塀だとか言う様なものに触れた時に、気づくんですね。いつもだと、そんなもん何んだって言う風に見てるんですね。求めてるものと違うと思ってるんですね。石ころなんか見て、これが仏道の勉強か、仏教の勉強かって、石ころ見てごらんて言われて、そんなの仏教の勉強だと思わないでしょうが。壁あそこにあるから、壁見てごらん、何、それ?それが何だって、そう言う風になるね。勉強にならないですね。
 此処にもある。「石頭大小」 てある。石頭って石の頭って書くんだけど、石頭山という所に行くと、石が、大きな石やら小さな石が一杯あるよって言う話しが有って、それが挙げられているわけです。それが勉強になるんです。向かえば、皆さん方が使ってるありのままに、って言うものの見方がある。その通りにそれを頂くって言う力ですね。それをすると変わって来るんですね。
 私達の見方の中には、先ず好き嫌いとか、善し悪しとか、是非とか、大まかな事言えば、そう言うもの、必ず見た瞬間起こってる。そう言う見方位しかしない。ありのままになんか見る人は殆ど居ない。ものを見るって言う時に、他のものと比べて見るって言う事は無いですよ。これを見てごらんと言う時に他のものと比べて見ることはないですよ。それだのに、ちゃっとこうやってこれだけ見ても、大きいとか小さいとか、美しいとか、何ですか、それ、出て来るのは。何かと比べてるのでしょう。知らずにやってるんですよね。そのままその事を、本当にそのままありのまま見てるんじゃ無いんですね。気が付かないでしょう。
 皆さん。簡単なことだけど。本当に言葉は、ありのままって良い言葉があるんだけど、ありのまま見るって、本当に出来るかしら。やってるかしら。だから此処では、「牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり」 ってこう言う風に出てくるんですね。
 修行するって特別な何かものがあるんじゃない。今やってる、触れてるそのものでやるんですね。そのものでやるんだけど、その時にこう言う風な事が気をつけないと出来てない。まあ、難しいって言わせるのは、そう言う処かも知れないね。で、これで、一応、観心無常って言うのが終わる。


三十七品菩提分法 四念住 観受是苦 Ⅱ

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三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_01
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_02
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_03
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_04

 「これ一上の神通修証なり」苦しみもですよ、例えばですね。徹底痛い時、他の事を一切考える余地が無い。ただ痛いだけで居るから救われますね。病気をしたり手術をしたり、いろんな経験のある人はよく知ってる。貧乏だってそうです。もう捨てるものの無い程貧乏になった時、人は救われるようになってる。そういうものを俗の言葉では、窮鼠猫を噛むとかって言うでしょう。追い込まれた鼠がですね、猫を噛む。逆です。普通はね、猫が鼠を取るんだけど、常識外の事が出てくる。力が出て来る。少しでも、貧乏でまだ豊かになろうという気持ちがある間は苦しむけど、徹底貧乏になると、何も失うものが無い。いいでしょう。そういう世界がある。貧乏になると人は救われる。
 だから、追い込まれて、追い込まれた時、自己破産するのでしょう。そういう制度が社会にあるでしょう。全部捨てるんですね、自己破産て、持ってる物。そうでしょ。そうすると、それ以上はいじめない様になってるでしょ。借金地獄とか。その代わりお金は多分貸してもらえませんね、銀行行っても。ブラックリストに載っちゃうから。だけども、この身一つあれば生きて行かれる。そういう制度がありますね。神通修証面白い世界があるね。
 「徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり」縛られている、繋がっている、不自由なって言う様なことが無いと言う事でいいでしょうか。人間を不自由にするのは、ひとえに自分の考え方です。自分の考え方が自分を不自由にするのですね、縛って。繋がっているとか切れないとか、中々断ち切れないとか、皆そう。実際はそんなことありません。見事にそういうものから離れきった生活をしてます。
 嘘だと思うなら、簡単に、こうやって、ここに涅槃図が掛けてありますが、こうやって涅槃図をご覧になって、ストーブを見て、壁の様子を見てる時に、どういう風に人はなってるかって言うと、そのものをひとつずつちゃんとこう受け入れるからですね、前のものは全部自由に離れ切って、そのものをキチンとこうやって見れるように出来てる。前に見たものが邪魔をしてですね、次に見る時中々見えない、そう言う事は一切無い。でもここの中にチラとでも、ああ、あれはって、そう言う物が思い浮かぶと、見てるはずなのに見えない。
 人の話でもそうです。何言ってるんだろうって、人の話を聞いた中の話を理解しようと思って、いろんなことやって聞いてるとですね、話は聞けないものです。話を本当に聞くんだったら無条件です。相手が何を言ってるかなんて探らなくていい。聞こえてるだけに居てごらん。そしたらものはわかる。間違いないですよ。それだとわからないを思うから、聞きながらそれ何言ってるんだと言う事だろうって、頭をひねくりながら聞いてるから、喋ってるのに追いつかないじゃないですか。ここで喋っていたこと、ずーっと問題にして、私はどんどんどんどん喋ってるんだけど、ここだけを問題にしてる。喋り終わった時、どうでしたと言うと、何喋ったかわかんない。文脈が繋がらない。それが日常の会話でも殆どそうです。
 折角喋ってるんだから、黙ってそのまま居れば。其の通りに全部ここに聞こえる様に出来てる。それに自分の考えや思いや、色んなものをつけて聞いたら、滅茶苦茶になっちゃうんですよ。人の言ってることとは違うんですよ。私なりの受け取り方、私なりの理解の仕方に換えて、それさっきの甘い果物を苦い果物に換えているということです。そやって人は苦しむんですね。自分の考え方に縛られて。もっと自由に出来ます。
 こういう前を通るなって、横向いて通っても言い訳でしょ。常識じゃない、人の前を通る時はとか、人の前を横切るんじゃないと、そんなことはない。常識に縛られる。何で子供だと、チョロチョロちょろちょろ、ニコニコしながらこうやって通らせる。大人が通ると。お菓子がこう置いてある。子供が来て、こうチョッとと食べると、ああって、大人が食べると、どういうあの人は育ち方してるんだって、そこまで言われる。育てた人の顔が、親の顔が見たいってまで言われる。面白いな。
 だけどこうやって人が並んでる時に、何処に坐るかによって問題が起きる、ひょっとすると。他の所に呼ばれた時にですよ、披露宴とか、そこへテーブルがあるから、何処でも坐って良いかって言って、変な処坐るとえらい事になる。本当は決まりが無いんですよ。決まりは誰かが持っていて、その頭の中に決めたものが不自由にさせる。一度そういうものから離れてみると面白い。そう言う様な事が神通力です、人の持ってる。誰もが持ってます。特別な事じゃない。
 医者の資格が無ければ施術をしてはいけないか、今は問われる。昔、まだ医療が発達していない頃は、そこで何かが有ったら、親が出来るだけのことをしたりしている。例えそれで一命を失ったにしても。そんなことがありますね、挙げれば。今は決りが沢山出来て、その決りが沢山出きたことによって不自由でしょうがない、色んな施設でも。
 介護の施設だって聞いてみると本当に大変。利用される人が、ちょっと食べたい物があるんだけど買ってきて欲しいって言っても、出来ません。出来ない訳じゃないんだけども、約束で、私は出来るけど、私がやっちゃうと、所に帰ってから報告したら、何でそんなことしたって言われるって言ってる、出来ないって言ってる。不自由な世界になったね。掃除も出来ない。汚れてるから掃除してって、そういう約束になってないって。一時間居る間、どの様なことをして貰ってもいいはずなんだけど、賃金払って。約束の無いことはしない。面白いね。そう言う様に、神通力のある人はそう言う事からこう外れてですね、自由に人が喜ぶことやって上げる。そういう力持ってますね。まあそう言うものが本当の意味の神通力なんですね。富士山の上をこっから飛び越えるって言う様なことじゃないです。
 「このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり」って読むんですかね。衆生っていうのは、生きとし生けるものですね。その中に私達も皆入るわけでしょう。ものを本当によく知らないと、そういう生活の中で、ほんとわずかな事で人は苦しむ様になってる。
 「衆生は自にあらず、衆生は他にあらず」隣のひとは自分とは関係が無いかって、そんなことは無い。もう既に一緒にここでこうやって生きてるんですね。自分の血肉の中の様子なんです、これ。一人一人見て御覧なさい。此処の頭はですね、これだけは私、他のは皆他所のことだって言う風に理解してるね。もう一回見てみると、此処にこれだけの人が居るって事は誰がやってるか。
 ものすごく平易に言えば、皆さんの眼がこれだけのものをこうやって今、見てるんです。他の人の眼の様子ではないですね。それ位、これ全部自分の生きてる内容なんです、これが。眼が、自分の眼が活動してる様子なんで、此処にこれだけの人が居るってことが見えるってことは。自分の眼が今、活き活きとして活動してることなんです、これが。どうでもいいなんて言うことじゃないですよ。これが全部自分の内容だから、これに学んで行く訳でしょう。ね、そこで転んだりすると、ふっとその転んだ様子に触れると、このものが対応する様になってる。何処で学んだかは知らないんだね。知らん顔しては行かないんですね。
 自動車を運転してる人が多いと思うんだけども、此処に横断歩道がこうある。ここに年老いたおばあちゃんが立ってる。此処を車でずーっと走ってる。何気なく走ったんだけど、横断歩道の所一応見える。人が居る。走ってる間、この隣の人と話をしたんだけど、あのおばあちゃんは渡るのか渡らないのか、よくわからないって言うんです。運転してます。運転してる時に、非常に気になるって。渡るなら渡る、渡らないなら渡らない、意志表示がきちっとできれば良いんだけど、わからない。わからないから凄い気になって怖いって言ってました。
 私はその時に、ちゃんとわかってるじゃん、そんなにはっきりしてるじゃん。あなたがあのおばあちゃんが躊躇してる事までちゃんとわかる。自分の考え方が強いから、あの人ちゃんと合図しないからって言って、ぶつかった時にきっと何か言うんだよね。そうじゃない。こっちの方がちゃんとわかってるんですよ。危ないってのがわかったら、危ないってのが分かったら、気をつけて行きゃいいんだけど、あっちがって言うんですね。
 で、こちらに垣根がある。なんとなく影がチラチラって動いたって、見えてるんです。知ってるんです。だけども、よく分からなかったって言うんです、それを。おかしいでしょう。これ誰がいたか、何が有るか分からないけど、ちょっと何か動いた様子がちゃんと分かってる。だけども、はっきりしないって言うんです。分からないって言うんです。だから急に飛び出してきたって言うんですよ。そんなことは無い。わかってるんですよ。物凄い能力でしょ。だけど自分の方がって言うもんだから、時々大変なことが起こる。
 前の車が止まった。前の車が止まるって事は何かあるに違いない。止まったもんだから、右が抜けられるってすっと抜けると、ドーンて歩いてる人ぶつけたり、自転車ぶつけたりする。知ってるんですよね、前の車止まった、こうやって前の車止まったら、自分の目には入らないにしてもですよ、その前の車の向こうのことは入らないにしても、一番は前の車が止まったってことは、はっきりしてる。急に止まったって。そりゃ急にはとまるんですよね。兎に角自分の思ってる通りになるってことは殆ど無い。だけども自分の思ってる通りで無い事が、この身体でですね、全部分かるように出来てる。
 いろんな仕事をしてるけど、そこに相手になる人が居たら、ここに自分がいるとその人の動きをこうやって触れてると、全部分かるようになってる。全部分かるんだけども、自分の思いと違う動きをしてると、素直にそれに沿って行きたくないって人は沢山いる。問題じゃないですか。こういう処はそう言う事ですね。「自にあらず、他にあらず、更有苦衆生」あるいは「将謂衆生苦、更有苦衆生」
 その後に「つひに瞞他不得なり」とある。これが今話したことですね。人に騙されるって言うの事は無い。どんなことでもちゃーんとしてるのですね。あの人が言ってる事嫌になっちゃうって言う事は、その前にその人の言う事をちゃんと聞いてる様子があるから、そういう風な判断が出きたって事でもあるでしょう。きっと聞いてる時には、あんなこと聞きたくないって聞いていませんから、ちゃんと聞ける。聞いた後に、そうやって自分の考え方でそれを処理しようとするから、いろんなことが起きてくる。他の瞞を得ずというんですかね。騙されないと言う意味でしょうかね。
 パン! 音一つ聞かしてもですね、パン! 如何いう風に聞こえましたかって言って、人があーだこーだって色々なことを言う人が居てもですね、自分のパン! こうやって今、耳で聞いてる音はですね、一切人に騙されませんね。物凄いはっきりしてる。誰の力を借りなくても、ちゃーんとしてるじゃん。えっ、そんな風に聞こえたのって、人が色んな話、そんな風に聞こえるの?って言うかも知れないけど、こうやってパン! 聞いてる時に、一切人のことに騙されませんよ。そういう風に出来てる。その通りにきちっと聞こえる様に出来てるんですね。これが私達が見ていく処なんですね、修行の上で。
 四つの四念住って、四つの思いですね。そのうち今、二つ目。「受はこれ苦なりと観ず」というところやってる訳です。甘いものは徹底甘い、苦いものは徹底苦いって言うのが次のとこですね。だけども「苦これたやすく模索著すべきにあらず」皆さん方は自分の生活の中で、悩みや苦しみや色々のもの抱えてる時に、本当にどうなってるか、何が問題で如何いう風になってるか、それを修行の上で教材として扱っていく必要があるでしょう。
 「自己に問著すべし」自分に問いなさいという事でしょう。 相手がこう言う事言ったパン!相手がこう言う事言ったら、その通りに聞こえる。それが先ず最初でしょう。そっから先はどういう事が展開されるかって言ったら、それに対して、自分の見方や考え方や色んなものがおきて来て、手をつけて、自分を悩ますのでしょう。向こうが言ったパン! この事が皆さんを苦しめるのじゃないんでしょう。如何ですか。
 まして耳は振動が有る間だけ聞こえるんです。聞こえてないものを問題にしてるのは誰ですか。聞いた後、それを留めて、問題にしてるのは。こうやって叩いたら、痛いかも知らんけど、その後痛みがちゃんととれる様になってるね。だけど、叩かれた事が思い出に残ってるから、その人を見ると、この前酷いことをしたって、まあちょっと一言位言いたくなる。じゃ今その叩かれた痛みがこの身体に有るのかって聞かれたら、問題にする場所だってどこにも無いです。自問すべし。
 「自己に問著すべし」 一体苦しみって何だって言ってるんですね。「作麼生是苦。」苦しむ、苦しむって言うけど、一体何だろう、苦しむって。その苦しんで居る時に、色々考えている事を全部止めてしまって生活しても、何も失うものは無い。あれを考えてなかったら生活が滅茶苦茶になって、失われたものが一杯出てくるって、そんなことは一切ない。皆さん方余分な事考えてない時楽でしょう。ずーっと抱えてた方が楽しいんですか、苦しみを。それを相手にしてる方が生き甲斐のある人生なんですか。そのために長い時間を使うんですか。そのこと手をつけて気に入る様に直すんですか。そう言うの修行とは言わないね。


三十七品菩提分法 四念住 観受是苦 Ⅰ

音声はこちらから↓

三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_01
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_02
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_03
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_04

 「『観受是苦』といふは、苦これ受なり。自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟苽を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄に苦きなり。有心無心に苦きなり。これ一上の神通修証なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず、更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜苽徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく模索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦。」
 「『観心無常』は、曹谿古仏いはく、『無常者即仏性也』。しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。永嘉真覚大師云、『諸行無常一切空、即是如来大円覚』。今の『観心無常』すなわち『如来大円覚』なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他己するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。おほよ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらす、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。」
 「『観法無我』は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を『観法無我』と参学するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり」
 「釈迦牟尼仏言、『一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也』しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに『一切諸仏菩薩』とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。」

 「受はこれ苦なりと観ず」と読むのでしょうね。まああの平易なことから少し話してみたいんだけど、受は是苦なりと観ず。人の話を耳にした故に問題が起きる、って云う様なことが皆さん方普段やってることです。
 この自分の身体に人の喋ってる事が聞こえて来なければ、その人が何を言っていても問題は多分起きない。聞くと起きるんですね。それは物でもそうです。その人がやってるのに、こうやって触れると、やっている様子が自分に見えると、それから問題が起きる。口に物をいれて味がすると、其の味を相手に問題おこす。触れれば触れたものが問題になる。匂いがすれば匂いがしたものが問題になる、言う様なことが、此処で一般的に言う、観受是苦ですね。それは皆さんよくご承知でしょう。生活の中で毎日っやってることですから。何で問題が起きるのか。苦しくなるのか。本当はですよ、本当はその受け入れた事で人が苦しむ様な風にはなってないと言う事を学ぶということです。これで。
 ちょっと逸脱するかも知れません、話が。皆さんがこうやって物があるあるって、こうやって見てるんだけども、頭の良い方たちは良くわかってる様です。見えると言う事を説明するのにですね、テレビを見ていて、あの画面の中に人が居たり物が在ったり、色んな物が本当に在る様に見えるでしょう。だけども一枚のガラスの様なものに映ってる映像でしかない、本当に。何も無いんですね、中に。人らしいものも触れるものは無い。美味しそうに食べてる映像が出て来ても、物を持ってる映像が出て来ても、そこに茶碗が在ったりするわけではない。家が建ってるものが在っても、そこに別に箱が、家らしい箱がある訳じゃない、ただ映像なんですね。これは皆さんが今、現に物を見てるのと同じ内容なんです。皆さんがあの様に見てるんですね。テレビを見てる様にものが見えてるだけです。
 あの、私あんまり、科学者じゃないし勉強してないから、詳しい事は知りませんが、全ての物から光が反射されてですよ、吸収しないものが反射されてる。それが光波ですよね、光の波。その波が長い波があったり、短い波があったりする光。長い方は赤い色に近い、紫の方が短いっていう風になっていて、虹を見るとどういう風になるかわかるでしょう、色が。人間の目を通すと、その波が人間の目に入って来る時に、長いものと短いものの違いに拠って、こっから目に入ると屈折をして色が分かれてくる、と言うのが大体、私達が学んでいることですね。そしてそれが皆さんの網膜にダッダッダッダッダッダッッダッーーーとくっ付くと、赤いとこがこう沢山あると、それが丸く赤いところが出来れば丸くみえる。四角にこうダッダッーとなると四角に見える、こう言う様なことですね。それで物があるって言う風に認識してる。実際にはそういう活動してるだけですね、眼って。
 で、言ってるんです、仏教ではだから、そういうものに対して、ものの本当の姿は形が無いといってます。実相は無相、本当の姿というものは形の無いものだと言うんです。信じきれないでしょう。で、こちらから向かって物をみるってことは、だから一切ないのですね。見えるって言う事は全部向こうから入って来るんです。向こうの発した光がこっちへこう来て行われているだけで、こっちから幾らやっても無理なんです。でも人間はそうは思って無いからこうやって向かうと見えると思ってます。こっちから向かうと見えると思ってる。常に向こうから光がこうやって発射されると、物がただこうやってると、その通りこう出会うだけです。こんな仕組みなってる。
 だから、こうやって、目の前に紙一枚でもこうやってやると、たちまちに映像が消えるでしょう。それは光の波が目に届かないからです。今まで届いてたものが、これによって遮られるから、映像が消えるんです。どういう映像が出てくるかと言うと、ここに出されたこのものから出されてる光が入ってくるだけだから、これだけが見える。そんな風になってますね。
 これが何で仏教と関係があるかって思うかも知れないけども、仏様の教えって言うのは、そういう風にして、私達自分自身がどの様に本当になってるかって事をきちんと見極めた教えです。これがわからないと必ず何か見た物が残ってるっていう風に人は思います。観って言うのは見るんですね、どうなってるか。
 受はこれ苦なり。苦はこれ受なり。読んでいきますね。苦は是受なり。必ず、そのものと一緒になりながら、活動する様にできてる。自分の好きでも嫌いでも、そこに行けばそこへ行った処のものと必ず一緒に生活する様になる。一方から言えば、それ厄介なことかも知れないけど、裏を返してみれば、それだから生きられるのですね。こうやってものに向かった時にですよ、向かった時に好きなものだけ見えて、嫌いなものは見えないって言う様な、もし人が居たらですね、大変ですよ。好きでも嫌いでも必ず其の通りにこうやって全部受け入れられる様に出来てる。
 その内容を見ると「自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず」と説明してある。向こうの物をこっちへ受け入れるとか、あっちの物をこっちに入れるとか、自分のものをとかって言う風な事ではない、と言う事がここに書いてある。有るとか無いとか。これは簡単に言えば最初から受け入れると言う様な構図になってないと言う事です。向こうに物があって、こっちに人が居て物を見るって言う様な構図に成ってないんですね。どうでしょう、理解いくかしら。
 皆さんが物を見る時に、そこに物があるって気づく前に、見えてるって言う事があるから気づくのでしょう。気づいてから見える訳じゃないでしょう。えっ?どっちが先だと思いますか。有る有るって気づいたから、そこに物が出て来るのかしら。見えるのかしら。じゃないでしょう。有るものに気づくだけなんでしょう。有る物に気づいた時に私たちは見えたって思ってるのでしょう。本当は違うでしょう。本当はそんな事する前に、ちゃーんとその通りになってるでしょう。
 こう見えてるって、こうパッとやった時にもう既に全部あるでしょう。要するに有るってことは見えてるでしょう。見ようと思わないのに、こう目をむけたら全部出て来るでしょう、一気に。そしてその見えてる中で、こうやって人が何人いる、あの人がいる、この人がいる、初めての人だって、こうやってやり始めるのでしょう。そういうな事を此処で言っております。
 基本的には皆さんが考えている様な在り方でないと言う事です。もっと平易な言葉を言えば、最初から全部ちゃんと備わっていると言う事です。何一つ欠ける事の無いほど完璧になってると言う事です、最初に。もしそう言う事が皆さんが理解できたら、是でいっぺんに楽になるでしょう。私たちは何か、どうかしないと本物になれない、どっか欠けてるんじゃないか、足りないんじゃないか、そう思うからそこをこう手をつけて、自分の理想の様な形にしようとしてるでしょう。ところがよく見てみると、そうじゃないんですね。手をつけなくても、完璧にそれで出来てるんですね。
 「生身受なり」これ生身って読むとよく分かるでしょう。生身に受ける、この一人一人の今生きてる自分の有り様です。ここの部屋に是だけの事がこうやって見えるって言う事だって、これだけ沢山の人が集まったって、やってる事は一人一人自分自身の有り様だけですね。他の人の見てる気配なんて何処にも入って来ないでしょ。生身のこの身ものの受けてる有り様だけです。だけども色んな考え方があるから、隣の人はどう言う風に見えるんだろう、あの人はどんな風に見てるんだろうって、そう言う思う力があるから、人のことが気になる。人のことが気になると、自分が本当には見ている、触れている様子の方には用が無くなる。それは愚かなことですよね。自分のやってる事見ないで、人のやってる事ばかり気にして生きてるって愚かでしょう。
 「生身苦なり」って言うんですね。苦しみの中で、最初に仏教で挙げてあるのは生老病死って、それを四苦、四つの苦しみと言ってます。その最初は、生まれると言う事が苦しみの最初に挙げられてある。生まれる事が苦しみなのかって、それはそうでしょ。生まれたから死ぬるのです。生まれたから老いていくのです。老いの苦しみ。生まれて来たから、病にかかったりして、傷を負ったり色々するのです。もっと別の事を言えば、生まれて来たから生きていくために、皆さん、遮二無二苦しんで生きて、生活して、生きるために苦しんでるんでしょう。自分だけならまだしも、家族が居たりすると、尚そう言う事が出て来る。まあ一般にはそうやって苦しむんですね、それで。楽しむ方法、勉強しないとだから駄目でしょう。
 「甜熟苽を」甘く熟した瓜、何だろ、スイカでも良いかね。「苦葫蘆に換却するをいふ」下にも脚注がありますが、折角素晴らしい出来栄えなのに、人はその事を知らないで、滅茶苦茶な取り扱いをして苦しむ様に生きてる、と言う事です、この言葉は。甘い瓜をわざわざ苦いものに換えてしまう。それはものを知らないからでしょう。ものをよく知ってたら、そんな馬鹿なことはしないでしょう。甘いものは甘いまま食べるでしょう。じゃ、どうして甘い瓜を苦いものに変えてるか。実例を皆さん御自分の生活の中で見て御覧なさい。頬っぺたを一つイキナリ叩かれた。それだけの事なのに、「何をお前やるんだ」って言う風にしてすぐ換えるでしょう。これ問題が起きますよね。実際はパン!これだけの事なのに、「何だお前は」ってそう言う風に取り扱う。
 ちょっと年が行って物覚えが悪くなって、同じ事を何回も何回も繰り返す様になると、聞いてる人が「又」って。全部こう言う事ですよ。換えてるんですよ。よく見てください。その時にその通りのことがこう喋られているだけで、他に何もないですよ。又喋ってるとか同じことをとか、一切そう言う事はないんですよ。そういうの知ってますか、皆さん。頭の中で操作した話なんですよ。実際の耳は、音っていうのは空気の振動ですが、言葉がある訳じゃない。空気の振動が耳に、鼓膜にこう触れると、振動が起こったら伝わるだけなんです。音ってそうなってる。それを皆さん勉強したことがあるから多分知ってる。だから振動が止まると音は何処にも聞こえない。そうなってるんです。
 ところが人間は言葉を学んだから、振動してる音を聞くんじゃなくて、其れを言葉に換えるんですね。音を聞いてると思ってるんですね。カラスはカーカーって言うんだけど、カラスに聞いてごらん、カーカーって言ってない。猫はニャーニャーって言う、ニャーニャーってそんな風には言ってない。人間が作った擬音です。既成の概念を作って、大体猫ってたらそういう風に鳴く、犬ってワンて鳴く、そう言う風にもう決めちゃった。そうすると、犬の鳴き声は?って聞くと、ワンって。それが本当に犬が鳴いている声だと思ってる。それ聞いてごらん、違うから。
 それはその振動した時だけ音が出るんですね。その他の時、一切音してない。ああ言うものでもそう。(音がする)ほら、あるんですね、なのにここが優秀なもんだから、さっと捉まえて、さっきああ言う音がした。又ああ言う音がしたって、そうやって。それは聞いてるんじゃ無いんですよ。これは頭の中の話。
 こういう音をここで甘い瓜を苦い瓜に換えるとこう言うんですね。折角それで済んでるのに、問題なくその時その事だけで済んでるのに、それが問題になるように生きてる。こんな難しい言葉で書かなくたっていいのにって思うんだけど、道元禅師という方は優秀な方なんでしょうね。こんな言葉を持ってきて私たちに頭へ、どうかなりそう。
 「これ皮肉骨髄ににがきなり」一旦そうなると、じっとしてられない位苦しむのですね。自分で勝手に思い違いをしただけなのに、身体全身。ひどい時には、だから自滅してしまう。してるじゃないですか、現実。自分を自分で苦しめて、追い込んで。心らしいものがあろうが無かろうが、信仰心があろうが無かろうが、苦しむ時にはその様にして苦しむのですね。徹底苦いですよ。


三十七品菩提分法 四念住 観身不浄 Ⅱ

音声はこちら↓

三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ①
三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ②
三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ③

「まさに拈処に通路ある道理を参究すべし」って言う事は今やってるものを取り上げて、その中に勉強する本当の道があるということを学びなさい、とこういってます。
 例えばって「浣衣の法」洗濯の法ですね、着物を洗う。「水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる」それはそうでしょ。水の中に着てる物入れればこういう風になるでしょ。やってみればわかる。綺麗な水の中に着てた物を入れれば、当然水がそれによって汚れるのでしょう。で衣の方はって云うと当然水浸しになるのでしょう。
 さて次のところですね。この水を用いて洗うと書いてある。「この水を換却して浣洗すといえども」水を取り替えて、洗濯機でもそうでしょう。洗い何分とか濯ぎ何分とかって、なってるから、水を取り替えてるでしょ。最初に入れた水のままで、最後まで濯ぎまでするってことはない。新しく綺麗な水いれて洗って行くね。そう言うな事。
 「なほこれをもちゐる、これ衣をあらふなり」で一番洗い、両番洗い、一回二回洗う綺麗になったなって言う風になる。「見浄ならざれば」一回洗っても二回洗ってもまだ汚れが残ってるって事が見つけられたならば、「休歇に滞累することなかれ」そこで止めるなって。でしょ。綺麗になるまで洗うのでしょう。何の不思議は無い文章でしょう。
 「水尽更用水なり」水を取り替えて更に洗う。「衣浄更浣衣なり」そうやって何回も洗っていく。「水は諸類の水共にもちゐる」ってありますが、泥水で洗っても綺麗になるって言うの、知ってますか。皆さん足なんか洗う時、泥水で洗っても、泥取れるでしょう。汚いもので洗ったら取れないと思ってるから、そんなことは無い。そういうな事がある。諸類の中に、諸類の水ってありますが、雨水もあれば、水道水もあれば、川に水もあれば、お風呂を沸きわかした使った水を使って洗う人もいるでしょう。もったいないから。一回で流しちゃうって言う様な事しないで。兎に角共に用いる。衣を洗うのに良いと。
「水濁知有魚の道理参究すべきなり」水が濁っているって言う事はそこに魚がいると言う事。水が綺麗でないということはまだその衣に汚れがあるということです。濯ぎをする時、濯ぎの水が綺麗になって初めて、皆さん止めるでしょ。洗濯って。ああもう最近は人任せだから、知らないんだよね。洗った人がいないとわからん。
 「衣は諸類の衣もともに浣洗あり」お袈裟も洗うし衣も洗うし内衣も洗うし、色んな物洗います。まあ洗い方にもまた方法があるんですが、それはさて置いて、「恁麼工夫して」この様に工夫して、「浣衣公案現成なり」衣を洗うということに拠って、ものの真相を学ぶほど、とこう言う事でしょうか。今洗濯をしてることに拠って、本当に何をするか、この後にも又こう言う事が書いてある。いいですか。
 「しかあれども浄潔を見取するなり」本当に自分自身の中の問題があって、綺麗さっぱり片付いたかどうかって、修行って。心底手放しで安心が行くようになったか。少しでも何処かに、まだ気にかかる問題があることあるか、と言う様な事を此処でいっているのです。それをないがしろにするようでは、修行はダメだといってるのですね。洗濯と同じように。だから「浄潔を見取する」わけですよ。自分自身眺めて、自分の内容が本当に自分自身でどこからつついてみても大丈夫かどうかって言う事を、そうなってるかどうかを見るわけでしょう。
  足袋などは大体脱いだら裏返しにして先ず洗うでしょう。そのまま、脱いだままで外側だけ洗って良しにしない。裏返しにします。洗う前にポケットなどは裏返しをして、そこにこうゴミが入っているかどうか見て、それをちゃんと払う。洗濯機なら、洗濯機の中に入れて洗うのでしょう。でないと、あそこの洗濯機の中には、ゴミ取る袋の中に入るようになってますから溜りますけど、ああいうのが皆溜まるわけでしょう。溜まるから良いって言うもんじゃないですね。その前に綺麗にしといて洗った方が良いに決まってます。
 「この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水の衣を染却するを本期とせず」何が本当に問題になるかって、「汚染水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり」汚れた水を以って衣を洗う本期あり。そこに見るべきものがある。
 掃除をして雑巾を使いますが、雑巾を水の中で洗う。雑巾の汚れが取れて水が汚れる。その汚れた水の中でザブサブザブザブやってる。そうすると、汚れた水なのに雑巾がどんどん綺麗になっている、と言う事もあるでしょうね。水が綺麗になった位洗った雑巾で雑巾がけをしなければ、雑巾がけの意味がない。知ってますよね、それ位。まあああ言う須味壇とか仏様達がおられる様な大事にしている所もある。じゃあって言って床もある。六角堂もある。どちらも同じ様に大事に扱います。上には上巾って言って、布巾が綺麗なものでなきゃ、汚れたものでなすったてしょうがない。
 「さらに火風土水空を用著して衣をあらひものをあらふ法あり」まああるでしょう。いろんなものを用いて綺麗にする方法が。「地水火地風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり」あるでしょう。皆さんが毎日の中でやっておりますから、みて頂ければいいじゃん。
 「今の観身不浄の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋観蓋不浄、即ち嬢生袈裟なり」嬢生袈裟。人間は一枚の着物を、縫い目のない伝衣って言うんですけどね。羽衣、伝衣、縫い目のない着物を頂いて生まれてくると言うことでしょうかね。この嬢生袈裟。誰も頂いてます。さっきは皮袋と書いてあった。体皮と書いてあった。体皮って何か肥料みたいに聞こえるかも知れませんが。皮袋、縫い目のないお袈裟。所謂皮膚ですね。そう言うもの。身を覆い、観を覆い、衆生を覆うというのでしょうね。「蓋身蓋観蓋不浄」不思議だね。
 これ(この身体を指差し)が世の中に出てくると、一緒に全部が出て来る。これ(身心)が出てこない前には、あることさえも知らない。まさかの、あることさえも知らない。知ることが出来ない。これ(身体)が出て来ると一緒に、全てのものがこれ(身体)と一緒にパッと出て来る。これ(身体)だけが出るんじゃないんですね。どう言う事を言うかって言ったら、全てこのもの(身体)の上に現れるんですよ。それ普通は見えたとか、聞こえたって言うんですね。全部この(身体)上に現われたことです。
 そういうことで、この蓋の字を使ってます。蓋い尽くす。不思議ですね。これ(身体)が出て来ない限りはそう言う事起きないんです。それが最終的にはどこかに、こう消えていく時に、さっと見事に何の問題も無く終わる。亡くなった人が何かした事は、一度もないでしょう。亡くなった人が人に災いを起こした事有りますか。そんな事ないでしょう。何処にも無いですよ。ただそれは、生きてる人が自分の中で亡くなった人のことを思って、気にしてるだけです。その事が自分を苦しめたりするだけですよ。ああしといてあげれば良かった、あれを言われたんだけれどやらずに済んじゃったとか、色々気になることが自分の中にある。そのことが問題になってるだけであって、亡くなった人が皆さん方を苦しめたり何かした事は一切ない。そう言う事は知っといてほしい。
 「袈裟もしこの嬢生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり。ひとり商那和修のみならんや」出て来ると、兎に角このものにピタッとピタッとくっ付いて出てくるんだよね。こういう袈裟(老師の着られている)とは違うんです。本質的なものです。誰も持ち合わせてしる。天下一品の一枚しかないお袈裟です。だから「毀傷せざるは」と言う様な教育勅語にあるのですかね、身体をいじめて傷つける云々って言う様な事は、そう言う生き方をするのが親孝行だって言うのがあるでしょう。まあそれは良いとして、仏祖もこういうものをもちいてるね。商那和修尊者だけではない。
 「この道理よくよくこころをとどめて参学究尽すべし」まあそれでやって下さい。こういう道理がある。洗濯の様子もある。ここで観身不浄って言うのは一応終わってるんですね。この辺でやめておきましょうか。いずれにしても、こうやって道元禅師も、どの様に本当に取り組んで日々いるか、こう読んで良くわかる気がしますね。今こうやってる事、洗濯なら洗濯、そこに丁寧に自分の様子を見てます。私達が洗濯って、中に入れて、自動だから時間がたつと綺麗になってると思ったら、ただ干す位の程度です。今、そうなってる。
 まあ昔ほど、そのこびりついた汚れが付くほど今の人は着ませんからね。毎日といって言い程洗ってる。凄い清潔感ですよね。そういう意味ではいまは。だから敢えて洗剤を入れて洗わなくても、殆ど大丈夫な位綺麗なものじゃないかと思う位ですけどね。あれ毎日洗剤を入れて洗うんで、それで水を汚している、流す時に。そっちの方が問題かも知れない。お風呂だってそうでしょ。毎日入ってるんだったら、殆ど石鹸やシャンプーで身体を洗う必要はないと思う。ああやって折角自分の身体を守るものがあるのに、皆それを落してそして肌を傷める様にして生きてる。それはお化粧の宣伝じゃないけど、きっとやってますよ。見てるとそう言う事言ってる。ものの本質を知らないから、何か滅茶苦茶やっちゃうんだよね。やらなくても良い様な事。そういうな事もこう言う処に観身不浄。自分自身の身体を見ると言う事が大事だと言う事が書いてある。
 観身は身観なり。身は不浄を観ずる時に、身を観ると言う事は、この身体の様子に学ぶと言う事、その他の事ではない。「正当観」そうやって自分の本当の今の身体の様子にこうやって居るって言う事が飛び抜けて大事な修行なんだと書いてあるでしょ。だけど私達はそういう風に多分してない。身体を観るよりも何処を観るかって言うと、自分の中に出てきた気に入らない思い、問題にしてる思いが出てくると、そのことを問題にしてるんですね。身体なんか観ない。そう思いませんか。身体なんか観てないですよ。思いが出てきて、その思いの中に色んなものが問題になってると、それを問題にしてるだけですよ。それじゃ修行にならないって書いてあるんです。
 その時に、そう言ういろんな出てきた思いが問題になってる時でも、そんなこと放っておいて、自分の今の身体の様子に目を向けなさいと言う事です。これが今の第一の観身不浄のところで一番中心になることでしょう。それをやってみて下さい。こうやって教えてくれてるんですから、実物に用があるんですよ。考え方の上の話じゃなくて、実物に。自分が生きてるこの実物、今の実物がどういう風に生きてるか、そっちの方をよく観なさいって言ってる。
 もう何も考えられないって言って、そう言う人でも、こうやって指すと何も考えられないから見えないのかって、そんなことはないんだ。あの通り見える。話なんか聞いちゃ居られないって言っても、「美味しいケーキがある、食べる?」って聞くと、「はい」。食べるとちゃんと味がするんだよね。そう言う風にして身を観ずるんですよ。身体の方を、考えじゃなくて。そうすると、整理しなくてもちゃんと生きてる自分の様子がある。と言う事で終わります。