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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (八)

音声はこちら↓

三十七品 正業道支 8_①
三十七品 正業道支 8_②.
三十七品 正業道支 8_③



「あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり」

維摩の一黙と世尊の一黙と同じだと思っている。この思うという文字ですね、三文字おもふと書いてある。

思うって言うこと、これは中々味わってみる必要がある。思うんですよ。維摩の一黙と世尊の一黙が同じだと思うんです。

同じじゃないんです。思うんです。この人達は皆そう思っているだけなんです。だからつまらないでしょ。

ああだとかこうだとか思うだけ。活路はないですね。生きていく道はない。開けない。


「さらに分別の光明あらざるなり」折角思慮分別を使うんだったら、ものが本当にどうなっているか、

って言うことをはっきりさせる力があってもいいじゃないか。思うんじゃなくて。そういう風に使うのでしょう。

「かくのごとくおもひいふともがら」ここにも思いというのがでて来ました。

思ってそういうことを言ってる、審細に参学すべしって言うんだけど、参学はしてない。学ぶんじゃないんだよ。

自分の頭の中で、ああじゃないかこうじゃないかって思うことをやってるだけ。それは修行には一切ならない。

もうちょっと身近なことで言えば、食べ物のレシピがそこにあって、それをここに開いて読んで、材料はこういう物、

切り方とか調理のしかたとか火の通し方とか熱の加え方がどうだとか何分だとか、ふた開けるとか閉めるとか味付けるとか、

いっぱいいろんなこと書いてある。これずーっと読むと大体出きた様に思える位ちゃんと書いてある。それがレシピでしょ。

でこれをここへ置いといてですね、読んでは何回も読んでは、ああなるほどこんな風に。

一日やってもですね、ご主人が帰って来た時に食べさせるものが何もない。出来ない。普通はですね、作ってみるんですね。

作ってみると、出来栄えがそこにあるから、それを自分で食べてみると、味もわかる。

レシピ読んで完了したところで味がわかるかって、そんなことは無理です。ああいう味がするんじゃないか、

こういう味がするんじゃないかって思うだけです。本当にここに有るように思うということだけなんですね。

人がやってるのは殆どそうです。


パン!こうやってした時に思うんじゃない。実際この音に触れるって言うことがあるじゃないですか。

そうするとイキナリ音がしたら音がした通り、パン!ちゃんと人はなるようになってる。

修行ってこういうことでしょう。修行するってどういうことかって、パン!こうやってやると、

こういう風になるって言うことが修行でしょ。パン!

自分の方で何かしてその様に作るって言う様なことは、一切修行の中ではしません。

自分の方から造作するあり方は、ここに挙げてある梵天とか自在天の教えなんですね。仏法ではないのです。


こうやって、パン!音がしたって聞きなおすなんてことをやったことないでしょう。

イキナリそれで完結です。パン!終わりです。やり直せないんです。パン!

やり直せるんだったら、皆さんが考えているような修行したら良いじゃないですか。

何回も何回もやったら段々立派になってくる。そんなことは絶対にありっこないです。この音パン!

これで終わりです。後にも先にも聞きたくても聞くこと出来ない。そういう風に私達は生活が成り立っている。


だから、修行する時に自分の見解、考え方を用いずに、本当にパン!この事実に、

こうやって学んでみる必要がある。知らない人は自分の考え方の上から、思いの上から学ぶから、最初に思いがあるのですね。

ああなりたい、こうなりたい、ああなったらいい、こうなったらいい。そういうものを目の前に掲げといて、

それに向かってこうやって進んでいって、そういうものを修行だと思っている。それ二重生活でしょうが。

実際の生活に二重生活してる人なんかないですよ。もうひとつの在り方を生きてる人なんかいません。


ただ考え方っていうものは、今だけで生きてるものと別に、こうやっていろんなものを思い起こさせる力があるから、

その考えがはびこってくると、考え方に近寄っていくんですね。

どこまで近寄って行ってもですね、考えの方に近寄って行って真実がはっきりするって言う事は不可能です、それは。

道が全く違います。それお分かりでしょう、そういうこと。


これパン!何処で聞くんですか。この音を何処で聞くんですか、この音を。

一切自分のものを持ち込んで聞くっていうことはないでしょう。少しでも自分の考え方をそこに入れて聞こうとしたら、

必ず余分なことでしょう。それが、はっきりさせなくするのでしょう、この音を。そういうこと本当に勉強してほしいですね。


「すべていまだかって仏法見聞の参学なしといふべし」まあ道元禅師はそういっておられる。

仏法っていうものがどういうものであるかって言う事を、聞いたことも学んだことも全くない人だから、

思慮分別を相手にした学び方をするんです、とこういってる。これは現在でも同じですよ。


「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」ということはですね、

衣を着ていたら、頭を剃っていたら、皆素晴らしいお坊さんだと思うんじゃないですか、一応。

それは外見であって、内面はそんなことじゃないよって。これもそうです。同じでしょ。

お隣の中国の大国の人は皆立派な素晴らしい人だって。かって日本の人は西洋とか諸外国から入ってくる文明に、

非常に弱くてですね、日本の文化というものはすごく程度が低いものだと言う風に扱って、よその舶来品って言う、

よその文化を尊ぶ習慣があった。本当は今見直されているように、日本の文化って言うものは世界でも冠たるものですよ、

あらゆる面で。そうおもいます。


高級なホテルに行ってですね、五つ星位のホテルに泊まって、そこのシェフの作って出してきた料理、それは確かに立派です。

だけども、家に帰ってですね、ご飯たいて味噌汁たべた方が美味しいっていうのは、何だって、私も思うんですね。

会計すると何万って言う、一食何万もする。家じゃ2,3百円、そっちの方がはるかに美味しい。

折角の材料をこねくり回してですね、一番のその素材の良さを失っているんじゃないかって思う位、

不思議なこと料理ってのはしてますね。それが何か優秀な人達がやってる。


で、これ肩書きに弱いってこともあるじゃないですか。

「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」というような事は、

そういうことも通じるでしょう。何か肩書きがあったり、何処何処の学校出てるっていうと、皆そこを出ると素晴らしいのかって、

そこだってピンからキリまであるって。同じ学校でも。


「その道理、明らめやすかるべし」そういうことは誰でもちょっとすればよくわかることじゃないか

て言っております。何が言いたいかって言うと、騙されるなって言うことでしょう、そんなものに。


いわゆる『正業』は僧業なり」正しく行う一日の生活(生業というもの)の基本は、

お坊さんたちが修行している様子だと。それを超えるものはない。これ道元禅師が自分で修行の道場作って、

そこで後継者を、あるいは立派な人を育成しようとして道場を開いてますから、当然こういう見識でしょう。

何処でやるよりも私のところに来て一緒に修行したら、これが一番だよって言っておられるでしょう。


「論師、経師の知るところにあらず」ああでもない、こうでもないってやってる様な人達の知る範囲ではない。

こっちは実物で生きてる、実物で。一日中。一方はここから上で(頭?)生きてる。ここで取り扱っている。

でああじゃないこうじゃないって、あすこにこういうことが書いてある、ここにこういうことが書いてある、あっちの人の言い分は、

こっちの人の言い分はって、そんなことをこちょこちょ、こちょこちょやっている。そんなことじゃない、って更に詳しく書いてある。


「僧業といふは、雲堂裏の功夫なり」雲堂という建物、生活の場所はですね、一般の人達の家庭の生活とは

違うって言うことなんですね。生まれると、生きて行くためにどうしてもいろんな生業をしないと生活が出来ないから、

給料をもらうために俸給を頂く為に働く、云う様なことが一般社会のあり方でしょう。この当時の出家って言うのは、

家族を持っていませんからね、だから家族を養うために坊さんたちが働かなきゃならないって云うことは一切ないのですね。

今の坊さん、私もそうですけど、家族を持ってるから、家族の養成の為に、学費を出すとか、教育費とか生活費とか、

そういうものを、子供たちが自分で稼げないから、親が働いてそれで育ててる。

そこら辺になると、お寺って云うんだけども、雲堂というような感じは今、私の寺でもないですね。

在家と全く変わらない位になってしまっている。

比較してみると、昔のそういう道場っていうのはこれぐらい純粋に出来てるんですね。


「仏殿裏の礼拝」こういうところで礼拝をするにしても、仏様に拝んだら何か頂けるんじゃないかって

云う様なことはやっておりません。それは在家の人が言うことです。神仏に礼拝をして。

お坊さんたちの礼拝はそんなことしません。違うんですね。

後架って言うのはその修行道場の裏に所謂洗面所があってですね、顔を洗ったりする様な場所がある。

そういう所ですね。汚れてるから顔を洗う訳じゃないんですね。自分の顔が汚れてるから顔を洗う訳じゃないですよ。

そういうの見てください。ないし合掌したり、問尋したり焼香したりお湯沸かしたりしているわけですが、

一日の生活逐一挙げてありますね。ここに大体。何をしておっても、本当にその事をその時に親しくやっているだけ。

字を書くにしたって、ただこうやって線をズーっと引いているだけじゃないですか。


リーンリーン(携帯電話が鳴る)ああやって鳴ったらその鳴ったのに従って動いているだけ、

あれでいいんじゃないですか。外のことやらない。凄い単純なんですよ。もっと云ったら、単純ていうか外の事できないのですね。

こうやってる時に(指で字を書く)、もう一つのことが私のこの指で出来ない。こうやってものを書いてる時に、

もう一つのことやろうたって出来ないでしょうが。これをこうやって見てる時に、もう一つのものを見ようたって、

これを見てる時にもう一つのものを見よう思ったら、どちらも見ることが出来なくなるでしょう。

そういう風にして単純にそのことを、本当にその事を取り組んで生きてる。そういうものが僧業という坊さんたちの生き様です。


果たしてじゃあ、厳密に坊さんという人がそういう風な生き様を、今してるかって問われたら、

答えは各自で出せばいいんですけれど、若しそういうことが行われてなかったら、

衣を着ていようが頭を剃っていようがなんら在家の人を変わらない。

そういうことが、「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」っていう様な内容になるんです。


頭を以って尾に換えるというんですね。「以頭換尾するのみにあらず」脚注で生き方の転換と訳してあります。

そのものを以って本当にそのものを実践する以外にないじゃないですか。「以頭換頭」頭を以って頭に換える、

心を以って心に換える、仏を以って仏に換える、道を以って道に換える。どれを挙げてみてもそうでしょう。

そのものを以って本当にそのものを味わうんでしょう。


でも考え方っていうのは、このことをやっていながら他のことに心を向けるんですね。そうでしょう。

仕事をしてても、今仕事してるんだけども、他の事に心を向けてる人沢山いるでしょう。

菜っ葉切ってる時に他の事位考えられますからね、手を切らずに。だから他の事を考えられるから、

他の事を考えて、あれやったらこれやったらって、こと効率が良いと思うじゃないですか。幾つもいっぺんに仕事ができて。

どういう風にきった?って言うと、初めて自分の切ったとこ目を向けて、どういう風にきったかって言われて、

あれ、こんな風になってって。知らないんだよ切ってても、自分で。こんな無責任な生き方してる。


これ料理人だったら大変ですよ。料理人の素晴らしい人たちは皆、今やってることきちっとやってますよ。

他に心を向けるような一級の料理人はいませんよ。その場を離れない、火をつけたら。焼き物をしても、蒸し物をしてても。

少し位離れてもね、ガスをつけて乗せといてもどうこう無いもんだから、火をつけてどっか行って来るでしょう。

味噌汁がぐつぐつしてても。そういう生活の自分の有り様を比べてみて御覧なさい。

人間位のものでしょう、他の事やるのは。殆どのものは蝶々でもこうやって飛んでる時ただこれだけですからね。

これだけをやってる。他の事やってませんよ、飛んでる時に。それで飛んでいけるんだからいいじゃないですか。

こう言うな処よーく見て下さい。「これすなわち正業なり」あやまりて仏法の商量すれば、

眉や髭が落ち思わず顔が崩れる、とあるんですね。「面目破顔するなり」「あやまりて仏法の商量すれば」

間違って仏法のことを取り上げれば、とんでもないことになるよといってるんでしょ。

そういう生き方をしないようにしたいものですね。
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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (七)

音声はこちら↓

三十七品 正業道支 7 ①
三十七品 正業道支 7②
三十七品 正業道支 7③
三十七品 正業道支 7④



あるいは邪人おほくおもはく、「言説動容はこれ仮法なり、寂黙凝然はこれ真実なり」

かくのごとくいふ、また仏法にあらず。梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所計なり。

仏法いかでか動静にかゝはらん。仏道に動静ありや、動静なしや、動静を接すや、動静に接せられるやと、

審細に参学すべし。而今の晩学、たゆむことなかれ。

現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。両三箇あるにあらず。

維摩は是にして一黙あり、いま一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし。

あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。

かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかって仏法見聞の参学なしといふべし。

大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなから。その道理、あきらめやすかるべし。

「いわゆる『正業』は僧業なり。論師、経師の知るところにあらず。

僧業といふは、雲堂裏の功夫なり、仏殿裏の礼拝なり、後架裏の洗面なり。

乃至合掌問訊、焼香焼湯する、これ正業なり。以頭換尾するのみにあらず、以頭換頭なり、以心換心んあり、

以仏換仏なり、以道換道なり。これすなわち正業なり。あやまりて仏法の商量すれば、眉鬚堕落し、面目破顔するなり」



続きますがそこら辺で。当時の人が如何おもってたか、と言うよりは、今の私達がものを学ぶ時に、

どういう風にものを扱っているかと言う事を見て貰ったほうがいいのでしょう。


「あるいは邪人おほくおもはく」間違ったものの考え方をしている人たちの様子ですね。

言葉に表す、或いは文字に表す、そういう風な日常の様子がありますが、それが本当のものでないと言うんですかね。

「仮法なり」本当のものはどういうものかって言ったら、「寂黙凝然」静かにして

今こうやって居る、そういうものが本当の有り様だって言う風に考えておられる人が当時もおられたのでしょう。

今も居るかもしれません。


よくよくこうやって触れてみるとですね、真実以外の生き方をしてる時間は一秒たりとも無いのですね、ものの推移として。

だけども、捉えてどの様に思うかってなると、こういうものはつまらない、こういうものは立派なものだ、

っていう風にものに対して、今の有り様に対して人が評価をしている。

そういうことによって、こちらは真実でないこちらは本当の様子だって、言う風に分けてる人が当時もいたのでしょうね。

今も居るかも知れません。それはどこに問題があるかって言うと、人の考え方で取り上げている話であって、

実物そのものの様子ではないということです。実物そのものの様子にはですね、初めから優劣も何もないですね。

そして必ず今のこの有り様を除いて他の生き方をしている人は一人も居ない。

そういうことを各自よく自分を味わって貰ったらいいでしょう。


道元禅師はかなり強烈なことを言っておられますね。「かくのごとくいふ」全く「仏法にあらず」

そういう風なものは仏法を論じてるって言うんでしょうけれども、仏法とはかけ離れている、人の考え方の上の話。

例えば、教本を読めば仏法を論じてるって思うかも知れないけれど、そうではないですね。そういうことが日常にもあるでしょう。


「梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所計なり。」

 仏法以外の教えを元にして、ものを考えている人達の言い分ですね。仏法以外のものという表現だと,

とっつきが悪いかも知れないから、事実以外の、人の考え方の上のものをとり上げて、どうこう言ってる人達です。

で人間の考え方の中には、ここにある様に梵天とか自在天とか言われる様にですね、一応高級そうなものの考え方が,

あるじゃないですか。最高のありかたとか一番の幸せとかって言う様なものを人は考えますから、

そういう考え方の上で話をすると、お互いに考え方同士のものが触れあった場合にはですね、なるほどって理解が行って、

手を結んでそうだそうだそうだって、一緒に進んで行く、そういう程度のことですね。


そこで、「仏法いかでか動静にかゝはらん」と言うような事が出てきます。

人の言い分、考え方、思考、そういうものに左右される様なものではない。

だから、皆さんが真実とか言う様なものを、世界中の人がものを学ぶ時の根底においてですね、

誰も狂いがないから、それを本当に相手にして、どうなってるかってことを勉強していく。

自分自身の様子もそうですね。自分自身の様子を考え方の上で取り扱っている人は自分自身のことがよくわからない。

そういう風になってます。


「仏道に動静ありや、動静なしや、動静を接すや、動静に接せられるやと、」

静かだとか動いているとか、言う様なことですね、動靜。静かとか動いているとかって言う様なものは,

ものの見方の中に出てくる。本当に自分達の様子、触れて御覧なさい。


間単に言えばですね、手一つこうやって動かした時にでもですよ、(右手を右の方に伸ばして広げる)

他の動き様がないのでしょう。見て貰えばわかる。私の手こうやって動かした時、私の手の動きがこれ以外に無いのでしょう。

そういう風な働きをしてます。動いたとか動かないって言う様なことは出て来ないですね。

動かしたとか動かされたとかって言う様なものは、何処かに自分で何かを認めている所からこの動きをみるからです。

考え方があるんですよ、見方が。最初に点を打つんです。ここから距離が出てくるんですね。

こっからあそこまでってやるから、距離が出てきます。だけど今こうやって見てる時に、遠いと思われてるものも、

窓をパッとあけると一気に見える。近いものも遠いものも一気にパッと見える。

普通だったら遠いものは時間がかかって段々見える。そういう風になってる。


空をみて星が見える。昨日も何かメールを頂いた。夕べ面白い天体ショーがあったらしい。見損ねてしまったんだけど。

そういう計算上ではですね、何億光年とかって言う桁外れな年数がかからないと光が届かないはずなんだけど、

不思議ですね、パッとやると星が見える。もうちょっと言うと比べるものがないということです。動きの中に。

もうひとつの様子があれば比べられるけど、もうひとつの様子が無い。そういう処にこの動靜と言う様なことが挙げられる。


本当にものを見てみるとですね、いつもその今活動している様子以外に何も無い。だけど何も無いはずなんだけど、

人間は考える能力があるものですから、昨日のことも思い起こすことが出来るし、これから先のことも考える力があるから、

いろんな対象物が自分の中に在る様になってきます。それは思いの上の話。

そういうものを仏法は扱っているのではない。そういうことを知っといて貰ったらいいでしょう。


「審細に参学すべし」つまびらかに、自分自身のことだから、よーく見てください。

「而今の晩学、たゆむことなかれ」今の私たちのことですね。而今の晩学。

「たゆむことなかれ」って言うことはよそ見をするなってことです。本当に今どうなってるか、

自分自身のことだから、自分自身の様子に親しくふれて、そのことををはっきりさせなさい。そういうものが仏法なんですね。


先ほど、暎道さんがご挨拶に来ていただいた時に、絹の布に英文で色即是空・空即是色と言うものが縦書きに、

英語で書かれている。英語が縦書きに、書かれているものを頂いた。

色即是空、皆さん方がこうやって生活していると、ものが色々あると思ってるでしょう。色ですね、このものの有り様。

だけどもそのものがあるって有り様がですね、目とものが触れると、ただそういうことがそこに現ずるだけですね。

現れるだけですね。知っていますよね。自分の眼とものが触れるとそういう風に在るように、そこに本当に在る様に、

間違いなく在る様にこうやって見えるんですね。それで、それを見た人はあそこにものが在るって言う風に思って、

ここに記憶していきます。そういう風な生活をしてる。

だけども色即是空だからこんなになってますね。ものがあるっていうんだけれども、

実際には眼には向かっているものの様子だけが見えるだけです。いつでも。他にはないですね。いつでも。

もし、そういうことが審細につまびらかに、はっきりしたら、まさしく人はそれだけで成仏、救われていくでしょうね。

多くの人が問題になるのは、見たもので、それがいつまでも気にかかるからでしょう。

気にかかることと、見えてるか見えてないかってこととは、全然次元が別ですよ。自分の眼だからやって御覧なさい。

こうやって涅槃図に向かってると、涅槃図以外の物が見えることはないですよ。今見えてる様子だけです。

いつでも。どうしてそうなのか。不思議ですね。


で、向かった所のものだけが見えさえすれば、生活するのに何の不自由もない。

幾らこうやって向かって、ものが見えたからって、何処にも見たものが残らずに、

こうやってものが何時でも見えるってことが真空なんですね。残り物が一切ない。清浄です。

残り物が無かったら、皆さん、生活して問題にならないでしょう。どんなに酷い事が触れた時に見えても。


午前中にいた所に神戸から、わざわざ、何で神戸から浜松まで来なくてもと思ったんだけど。

「而今の晩学、たゆむことなかれ」他で何かを学ぶのではない。

自分自身の、今こうやって生活しているそのもので学ぶんです。

だから今、一例を挙げたけども、皆さんの使っている眼はものを見る時に、色即是空空即是色、

音を聞くときに色即是空空即是色。パン!(机を打つ)音は何処から出てくるのでしょう。パン!パン!パン!

音がする時、パン!音は何処へ消えて行くのでしょう。音が止むと聞こえない。

こうやって毎日生活してるでしょう。パン!


それだのに、パン!何が問題で苦しむんですか。パン!

何が問題でパン!腹が立つんですか。何か問題で、パン!争いが起きてるんですか。

パン!聞いたことで。問題はそれだけですよ。何処でパン!聞いたものに対して

争いがおこるか。パン!何処で聞いたものに対して腹が立つか。何処で聞いたものでイライラするか。

まあパン!言わずともがな、必ず自分自身のパン!様子の中で今パン!

この触れたものに対して、一念わずかに自分の中で思いがチラッと動くとたちまちやられるだけなんじゃないですか。

他の人のことで、他の人の身体の中で問題になることは一切無い。


そうやって「而今の晩学、たゆむことなかれ」審細に参学すべしと言うようなことでしょうね。

沢山本を読めという様なことじゃない。(咳される)ごめんなさい。何か自分の身体だけど言う事きかない。


そこで当時の中国に渡られた道元禅師が見聞きしてきた内容を残しておられるね。

現在この中国、自分の渡って来て今居る中国を見ると、

「仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし」お釈迦様の悟られたというか気づかれた、

そういうものがどういう内容であるかってことを伝えてきたわけですけれど、

そういうものを本当に理解をしている、悟ってる人は全く居ないっていうことですよ。断絶せるが如し。

それがご自身が中国へ渡って、諸山いわゆる立派なお寺の住職をしている或いは名だたる人、

誰からも敬われている沢山の人達に、そういう所を転々と時間をかけて歩かれた時に感じたことなんでしょうね。


皆さんに関係ないかもしれませんが、毎朝のお勤めで曹洞宗では、お釈迦様からこう伝統として受け継いでくる仏様や祖師方の

名前をずーっとこう読み上げて行くのですが、道元禅師までは、更に螢山禅師位までは、このお二人位までは、

仏祖という仲間に入るんですね。仏祖。だけど、そっから先はですね、そっからのちは自分の師匠の処まで来る間に、

その他の人達は今仏祖と呼ばれてない。一度学会の、研究している、そういう高名な先生方に聞いてみたいを思いますが。

日本でどの辺まで真実の教えが伝わった人として継承されているのかなーって。そういう勉強があると思うんですが、

一度聞いてみたいなと思ってるんですけど。


「両三箇あるにあらず」両三箇あるにあらずってことは、二人とか三人ですね。

数えることが出来ないっていうことでしょう。二人でも三人でもいればいいですよ。断絶せるがごとし、皆無と言っていいのでしょう。

そういう中で、奇しくも如浄禅師という方にお会いになったということですね。


そういう方々がどういうことを言っておられるかと言うと、

「維摩は是にして一黙あり、いま一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり」

まあ黙ってると物事はあまりばれないのでいいのでしょうね。黙秘権というのがあって、

黙ってると割りと物の全容がわからない。隠すのに最高。幾らつついても何も言わないでただこうやっていられると、

つつく方がつつき様が無くなってお手上げになる。黙の使い方を間違えてますね。沈黙は金って言う格言もあるでしょう。

黙って座ればピタリと当たるって言う位大道で占いをしている人達が言うくらいです。


黙るって凄い力なんですけれども、かって維摩居士という方の病床を文殊菩薩が見舞ってくれた時に、

お相手するのに黙ってそこに居られた。そういう風な姿を維摩経の中にも残しておってですね、ああいうあり方は素晴らしいと、

こういう風に言ってる。だから維摩の様に一黙、黙るということをしない様なものは、維摩よりも劣ってるって、

そういう風に思ってる人だって言うんですね。情けないことに本当に「さらに仏法の活路なし」

活路を開けって言うんだけども、つまらん頭の中で考えているだけだから、思い切った活動がひとつも出来ない。

三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (六)

正業道支 (六)   2016.9.24 御提唱はここ迄

音声はこちら ↓
正業道支 六ー①
正業道支 六ー②
正業道支 六ー③
正業道支 六ー④


「はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩より

もすぐれたる維摩比丘をみん」


維摩と言う人が居士として取り扱われておりますけども、在家のまま終わったので、道元禅師は、若しあの人が本当に出家を

してたら、もっと素晴らしい生き方が残ったんじゃないかって、こう言っております。


「今日はわづかに空生・舎利子、文殊・弥勒等をみる、いまだ半維摩をみず」

まあ有名なお話として紹介されているものの中に、維摩居士が病気をなさった時に、お見舞いに誰が行くかって言う時に、

皆しり込みをして、維摩と言う人が力があるので、しり込みして、其の時に文殊菩薩という方が選ばれて、しょうがなくってって

言うと怒られるかもしれない、誰も行かないわけにいかないから、文殊菩薩が代表して維摩の病床を見舞うって言う劇的な場面が

紹介されていますが、其の時に維摩は黙っておられたという、その時の維摩が黙ってる様子を「維摩の一黙雷の如し」

って言うんですね。雷のようだって。寄り付けなかったというんでしょう。お見舞いの言葉のひとつも言えずに、そこに文殊菩薩が

立ち往生したのでしょうかね。その位維摩は力があったという事を残してる。その位の維摩と言う人の話を道元禅師が

ここに出してきてるんだけども、それでも、もしこの人が本当に出家をして修業をなさったら、もっと、

もう少しましに成ったんじゃないかって、道元禅師は言うんですね。それ位出家と言うものが尊い内容を持ってると言う事を

言いたいって言う事ですね。そういうことがずーと続きます。


「いわんや三四五の維摩をみんや。もし三四五の維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみずしらず、保任せざるなり。

一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊・維摩弥勒・維摩善現・維摩舎利子等、いまだあらざる

なり。いわんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。

維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆえなり」


出家しなかった所以だとここまで書いてあります。一度本当に何もかにもから手離れてみるって言う位、

出家って言うことはあるんじゃないですか。家だけじゃない、家を出づるだけじゃなくて、自分を縛っているいろんなものの見方や

考え方、ありとあらゆるものから、本当に全部外れてみるって言うことが、真の出家でしょう。


「当時唐朝・宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ」

維摩のことを良く知らないと同時に、仏法の本当の在り様を知らないから、維摩のそういう態度をみて、あの人は立派な人だと、

やることもなすことも全て立派だ、という風にして賞賛をしてる禅師方がこの当時沢山おられた。


「これらのともがら、あわれむべし、言教をしらず、仏法にくらし」まあ一言でいうと、維摩のことを知らないと

いうよりも、自分自身が本当に救われるという事がどういうことか体験がないと言っていいのでしょう。

人の体験した事を聞いたり見たりしてああなる、こうなると言ってるのですね。自分自身が体験してそうなった事とは

全く違うでしょう。人の話でしょう、それは。自分が、人が救われた話を読んで、救われるってこうなるんだなって、

そういう風に理解して、それにそれで救われたって事になるわけじゃないでしょう。

で、ものを学ぶ時に、そういう事が理解できると、自分も同列になった様に思うんだね。思いがちだね。違うよね、全然。

誰かが食べた物の味わいを文章に書いてあるのを読んだ。ああ、何それはこんな味がするんだって。

それ食べた人かって言ったら、食べた人じゃないよ。人の話を聞いて想像しただけだよね。そういう勉強の仕方のなかに、

そういうものすごい開きがあるという事を、こうやって示してるんでしょう。皆さんがどっちを取るかってことですよ。

当然とるべき道は自らが自ら体験して納得する方が正解なんでしょう。それで初めてものの真意っていうものが判るんでしょう。

何でそっちの道を取らないか、いうことでしょう。

だから、「言教をしらず」言葉や教えっていうもの、本当の在り様を知らないと言われるのでしょう。

文字は月(事実)をさす指であると。指の指し示している実物に用があるのでしょう。

文言に書いてある教えっていうものは、そういう風にすべきだという事を書いてあるにもかかわらず、それをああそうかって、

それで終わっちゃって、其の文言を離れて実際に自分でやってみて、なるほど書いてあるとおりだったって処まで行かないって

言う事でしょう。それは文言を知らないってことでしょう、書いてあることを。折角読んでも意味がないということでしょう。

それでは。そう思いませんか。

「仏法にくらし」っていうんでしょ。仏法の話が書いてある。それを読むと、ああ仏法ってこういうことかって、

こだわりを離れるとかね、色々かいてあるじゃないですか。なるほどと本当にそうだなって、そうなったら楽になるなって、

皆書いてあるじゃない。それ読んでそういう風に理解して、それで楽になった人見ことがない。それは思うだけの話。

その辺ではつまらないでしょ。


「あるいは又あまりさえは、維摩と釈尊と、その道ひとしとおもひいへるおほし」

お釈迦様と維摩居士とその悟った心境の上において、なんら違いがないって言う風に受け取っておる人がおられる。

「これら又いまだ仏法をしらず、祖道をしらず、維摩をもしらず、はからざるなり」

一言いえばお釈迦さまって言うのは、誰かから学んだ人じゃないですね。維摩はお釈迦様の悟った内容をどこかで文言を見て、

そういう指南書があって、それに従って行をつんで、なるほどって至った人です。其れ位違いがあるよね。

一番最初にものを本当にこう見つけるってことはどれ位至難なことでしょうかね。


野山に行ってその雑草を食べて、これが薬草であるか、或いは毒薬であるかって言うようなことをはっきりさせるために、

トリカブトなんか食べちゃって、死んだ人いるんじゃないか。あれ、綺麗な花だからね。今頃行くと。

綺麗だから、私も長野に案内され、山荘に行った時に、回りに沢山咲いていたから、綺麗だなって思って取ってきたら

怒られました。すぐ手を洗ったほうが良いよって。毒ですって。そういう身近なことでもそうでしょう。

今はいろんな知識があって、殆ど過ちがなくて生きられる時代になってはいるけど、

それでもまだまだ私たちが知りえないものが一杯ある。


地球の中でもほじくると歴史が変わってくる。最近インカより古いものが発見されましたね。面白いですね。

現代でも、まだ知られなかった時代の歴史が地中の中から出てくる。埋まっちゃうのかね。どういう風にしてあんな深い処に

隠れてしまうのかしらないけど。土を埋めるとか埋めないとかって話も、今日本でもあるけど。

自分たちの前の文化を全部土の中に埋めて、新しい文化を上に創り上げて来たのが、大体の征服民族のあり方なんでしょかね。

だからその更に深い処に未知なものがあるんでしょうね。


「かれらいわく、『維摩黙然無言して諸菩薩にしめす、これ如来の無言為人にひとし』」さっき話した話です。

黙っているっていうやつはですね、測りしれない内容を持つんです。喋るとボロが出るけど、黙ってるやつはね。裁判でもそう。

黙秘権て言うのがあって、口を割らないっていうやつが一番厄介。どんなことをしても口を割らないって言うのが本当に厄介なもの

なんですね。守る、ひとつの術でもある。普通はだから、色々言われると喋らずにいられなくなるんでしょうね、人間て。

ある所迄喋らずに頑張っても、どうしても色んなことで苛められると、そのまま喋らずに居られなくなると言う。

不思議な動物ですね。あれで、大概最後は根を上げるのでしょう。自分の中に隠し持ってる物があると。何にもなきゃそのまま

いれるでしょう。まあそういうなこともありますけど、「黙然して声なし」そういうなことをされると、

しり込むのでしょうかね。「これおほきに仏法をしらず、学道の力量なしといふべし」

黙られるとどうしようもなくなってしまう。扱いに困るっていう。黙ってそこに居られると。

どうしていいか分らなくなるって言うことを見ると、こっちに力がないって言うのよく分るでしょう。

そんな不自由なもんじゃないでしょ。 


「如来の有言、すでに自餘とことなり、無言もまた諸類とひとしかるべからず」

喋るにしても黙ってるにしてもですね、力のあるものと無いものと同じ様に黙っていても違うでしょ。

黙っているから同じだと思ったらとんでも無い。皆東へ向かって歩いていくから同じかと思ったら、求めてるものが皆違うって言う様

なこともあるでしょう。内容をだからよく見てみると、よくこういうことがあるでしょう。


「しかあれば、如来の一黙と維摩一黙と」よく似ているけども、比べるっていう、対照にする価値があるかって

いうんですね。「相似の比論にすらおよぶべからず」これは道元禅師がいかに力があるかっていうことでしょう

ね、この文章を見ると。こういうことがこの維摩の一黙とか、お釈迦様の黙っている時の有り様を、道元禅師がみて、内容が、

維摩が黙っているのとお釈迦様が黙っているのとは比べ物にならんと言ってる。


じゃもうちょっと身近に一人一人自分のことで勉強してみてください。隣の人が黙ってるのと自分が黙ってるのと比べて、

どうするんですか。もっと言ったら、自分が黙ってる時に、他人が黙ってることが、自分の黙ってる中に本当にあるかしら。

それ難しかったら、こうやって物を眺める時に、自分がこうやって物を眺めている時に、隣の人も見てるかも知れないけども、

隣の人が見てる様子が自分がこうやって物を眺めてる時に、何処に出てくるんでしょうか。

これだけ大勢の人が一緒に物を見てるんだけど、ひとつも他の人の眺めてる様子が出て来ないっていうのは誰しもの真相でしょ、

在り様でしょう。それ位比べるものなんかないですよ、本当。もし比べるようなものの見え方がしたら、おかしいのよ、他の人と、他

の人はどんな風に見てるんだろうって。そんなもの一切用がない様に出来てる。それで良いでしょう。それが誰しもの真相です。

考え方は違いますよ。考え方は今申し上げる様に、自分がこうやって見てると、他の人はあれをどういう風に見てるんだろうって、

そういうことを想像するんですよ。本当にこうやってる時に、その通り見えてる事が、物を本当に味わう力なんでしょう。

まあそういう様なことをこうやって見ておきたいですね。


「言説はことなりとも黙然はひとしかるべしと憶想せるともがらの力量をさぐるには仏辺人とするにもおよばざるなり」

書いてあるじゃない、ね。「黙然はひとしかるべしと」勝手に想像するんだよね。「憶想するともがらの」


思うことと実際こうやって見えてることとは全然違いますよ。「かなしむべし、かれらいまだ声色の見聞なし」

皆さんだって本当に、物や音声、そういうもの見聞きすることがどういうことかって、「コンコンコンコンコン」(机を打つ)

こうやって音を聞く時にですね、隣の人がどういう風に聞こえるだろうとかって、そうやって憶想する、

そんなことはしないでしょうが。そんな聞き方をする人いないでしょ。でも日常の生活は常にそういう、

他人のありようが気になっている風な、似たようなものの取り扱いをして生活してるんでしょう。

所謂各自の見解、自分のものの見方や考え方をつけて見聞きするのでしょう。

物を本当に見聞きするって言うことは人間の考え方や見方を付けたら、物が正しく見聞きできないってことは百も承知でしょう。

そうじゃないですか。だって物には人間の見方ついてないんだよ。考え方。ただ事実がその通りあるだけ。

その事実にこう触れると、その事実の通りに分るように出来てる。考えるんじゃなくて、探るんじゃなくて。

でも学んできた知識を通さないと何かはっきりしないように思う人が多いじゃないですか。この音ポン!(机を打つ)を聞くのに、

他の音と比べて聞く人なんかいないじゃないですか。これを見るのに他のものと比べて見るってことは無いでしょうが、

本当にこれを見るのに。これだけに目を向けるのでしょう。そういうことを皆さん知ってるはずですよ。

それだのに、そういうことがわからないから、「かれらいまだ声色の見聞なし」声色を跳び越えるという様な

「光明あらんや」そういうはっきりしたものの在り様が無いじゃないか。こういっておられる。

「いわんや黙の黙を学すべしとだにもしらず、ありとだにもきかず」この音「ポン!」を聞くのに、

他の音一切持ってこないのですね。これを(扇子)見るのに他のもの一切借りる用が無いんですよ。これだけでこれが見える。

そんな当たり前のことでしょう。でもそういうことを「ありとだにもきかず」ありとだにも知らずでしょう。

だから常に何か比較対照する物を、学ぶ時に出しているのでしょう。それでごちゃごちゃするのでしょう。


「おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり」一つとして同じものなんかないよね。

いちいち全部そのものがそのものを表すだけであって、オンリーワンっていう様な表現をするのでしょうかね。

「いかでか釈尊と諸類とおなじといひ、おなじからずと比論せん」

一生他人の生き方をこの身体は一切しません。他人のことを一切しません、他人のことはこの身体は。

本当に生涯この一人一人、各自の身体の様子だけです。徹底して底抜け。それだのに他人のことが気になってしょうがない。

それ位自分のことを見ないで他人のことばっかり気にして生きてるってことでしょう。

だからこのものの本当の良さが分らないのでしょう。


「これ仏祖の堂奥に参学せざるともがら、かくのごとくいふなり」

仏の堂奥に参学せざる人たちがそういうことを伝えるんですよ。仏祖堂奥の参学人はそういうことはやっぱり言わないでしょう。

ものの堂奥って言うと凄い奥の方で、誰もみたことが無い様に思うかも知れないけど、本当のものの在り様って話だけですよね。

誰しもが今生活してる、本当のものの在り様ってそういうことになってるんじゃないですか。

それは反論の余地がないと思うんですね。一日中見たって、他人の生活はしないんだものしょうがないじゃない。

他人のことどうこう言ってる自分の生活はあるんですよ。ね。他人のことをどうこう言ってる自分の生活はあるけど、

それも他人のことじゃなくて、自分がどうこういってるんであって、そういうところ丁寧にこう触れてみてほしいね。


兎に角、八正道支の中で、道元禅師が正業道支について本当に文言を沢山残しておられる。

これが私たちが生活しているど真ん中の話だからでしょう。これ抜きにして、仏法は無いでしょ。後のものは皆短いですよ。

全部殆ど短いさらさらと書いてある。

ここだけこんなに長々といろいろ書いてある。これは先ほど來話した様に、現代風に見てみると、修行道場のあり方って言うものが

凄く大切にされてきているのでしょう。お寺に生まれたからって、お寺で過ごしてても、修行道場に行った様にはならないですね。

本当に、自分のとこでもそう思う。自分の寺では育てられない、情けないけど。道場に出すと変わりますから。

それ位修行の道場て、やっぱり有難い場所です。そういうことで一応終わります。


(円通寺講話会に継続して御参加の方が、1月~6月の録音ディスクをお貸し下さいました。この場をかりてお礼申し上げます。
前後しますが、三十七品菩提分法の四念住から七覚支半ばまで、来春にかけてお届け出来ればと思います。)

次回円通寺講話会 2016.10.22(土)18:30~20:30

三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (五)

正業道支 (五)

音声はこちら ↓

正業道支 五ー①
正業道支 五ー②
正業道支 五ー③
正業道支 五ー④


それから、お釈迦様のことも出ております。さっきも話した通り、その「かたじけなく父王の位をすてて嗣続せざることは」

王位を継がなかったと。それは王様の位に就くってことが、つまらないからやらなかったのではない。

「仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり」仏様の跡継ぎをする方が、国の跡継ぎをするよりも、

はるかに優れているからだ。だから道元禅師は権勢におもねることを生涯、しなかった。

帝の下で、帝の庇護を受けて何かすることを、道元禅師は本当に生涯嫌った人ですね。


少し時代が下るとですね、勅使なんとか禅師とかって、禅師号を帝から貰って、紫衣の衣を賜ったとかって、

そんなことで自分を欺ようになってくる。それは不自由な人になったって言うことでしょう。本当のことが言えないような状況になる。

何時死んでも、本当のことを言って殺されても大丈夫な位置になければ、本当のことなんか喋れるもんじゃない。

命を懸けてるんですよね、皆、一言一言。出家ってそういうものなんでしょうね。


「三界の天衆生・人衆生、ともに頂戴恭敬するくらいなり」全ての人からやっぱり崇められる、敬われる、

そういう生き様、それが出家。そんな風にして何ものにも縛られない生活ができたら私も良いなって、思う人は沢山いる。

何で出来ないかって。ねえ、何故できないか。怖いのでしょうね。今こうやって生活が安定しているものから離れる。

住む場所も無いで生活するってことがどれ位大変なことか。蓄えも何にもない、着の身着のままで、一人で生活することが、

どれ位大変なことかって、やってみないとわからない。一人になったら楽だなって、今思うんだけど、実際に一人になったら、

そんな楽じゃないって言うこともある。


「梵王・釈王の同坐するところにあらず」一応世の中ではそれなりの地位の人でしょう。

梵天・帝釈天、天部に位する立派な位置の人達だけども、そういう人達と一緒に仏様方と座るような位置にない。

皆それは仏様の眷属なんです。仏様の働きを助ける役をしているだけであって同列ではない。


「いわんや下界の諸人王・諸龍王の同坐するくらいならんや。無上正等覚位なり」それ位飛びぬけて素晴らしい

と言ってるんですね。「くらいよく説法度生し、放光現瑞す」法を説いて生きとし生けるものを救うということですね。

そして光を放って瑞を現ず、輝いている。「この出家位の諸業、これ正業なり」手本となるのは、

そうやって出家した人達が本当にこう生きている生き様は、一番素晴らしい生業じゃないかと勧めておられる。


「諸仏七仏の懐業なり」本懐とする処と言うことです。「唯仏与仏にあらざれば究尽せざるところなり」


本当にものの真相がわかっている人同士でなければ、こういうことの大切さを知ることが出来ない、味わうことが出来ない。

「いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし」

これはあの、我田引水ではなくてですね、出家した、そういう人達がそこにおられたら、出家をしていない人達はそれを大事にして

ほしい、とこういうことです。少なくとも真理に目覚めた人達をですね、疎かにするって言うことは、

自分自身がそういうものを疎かにして生きていく類になるからでしょうね。


もっと平たいことを言えば、立派な人がそこに居たら、自分は同じような事が出来ないにしても、

その立派な行為をしている人を大事にする気持ちだけは失いたくない。中には立派な生活をしている人を見ると僻んでですね、

僻む人が居る。そしてそれをこき下ろすようなタイプの人が居ます。それはあってはならないと言うような意味ですね。


「釈迦牟尼仏言、『出家受戒すれば、是れ仏種子なり。巳に得度せる人なり』」出家をして守るべき大事な戒めを

受けて、それを守っていく出家受戒ですね。悪いことをするな、良いことをしなさい、人のためになることをしなさいって、

まあそれが受戒の一番身近な話です。そういうことを守って行く訳ですね。「是れ仏種子なり」仏の種子、種、

だから出家は必ず仏になるんですね、育つと。蝮の子は大きくなると必ずそのまま蝮になる、筍は竹になる言う様なことですか。


得道って言う字がありますが、得道というのと得度は違いますね。坊さんになるのを得度式といいます。出家得度といいます。

人を救うことが出来る人になる、得度。人を救う人になるというのが得度なんでしょうね。度の字は渡すという意味と救うという意味

があります。人の先達になれる人。自分の修行だけじゃなくて多くの人達もそのようにして、苦しみから、悩みから、

幸せな生き方の出来るように勧める力が得られる。そういう人になる。まあそのために出家するのでしょう、出家得度する、

坊さんになるっていうことは。自分の幸せが一番中心ではないでしょう、元々。

自分の幸せだけを願うんだったら、在家の人と殆ど変わらないのでしょう。だから人にいじめられようが、何しようが、

この道を成就するために進んでいかなきゃならない。貧乏になろうが。


「しかあればすなわちしるべし得度といふは出家なり」説明がちゃんと書いてある。得度というのは出家をするこ

とだ。「未出家は沈淪にあり」出家しない間は、ああも思い、こうも思いして、ウロウロしてるだけで、一向に修行

が進まない。よし!って言って一歩踏み出す。それが出家なんでしょう。

「かなしむべし」そういう状況にあるのでは、出家せずにそういう落ちぶれた、あるいは心が沈んで色んな物に

悩まされたり、苦しむ様な生活を送っている、そういうところにズーっと居るのは悲しむべしということですね。


「おおよそ一代の仏説のなかに、出家の功徳を讃嘆せること、称計すべからず」数え切れないほど、

出家をすることが尊いって言うことが記述が一杯ありますよ、見て御覧なさいと。

「釈尊誠説し、諸仏証明す」お釈迦さまもそういうことを説かれているし、他の仏様方もそういうことを

証明されておられる。

「出家人の破戒不修なるは得道す」出家してですよ、お坊さんになって、破戒不修っていうのは、

外から見たら真面目さを欠いている様な生活をする人が居るかもしれないけども、そういう人は出家したことによって、

自分の今の生活を恥じて、正しい道行を進める力が出家にはあると言ってます。それはそうだとおもいますね。


「在家人の得道いまだあらず」本当にものを学ぶ時には、今までのものを全てかなぐり捨てて、

飛び込んで行くって、所謂出家をするのでしょう。本気になった時に、兼業でやる人は居ません。

あちらとこちらを兼業してものを学ぶって言うようなことはしません。そういう風に出来てますね。


「帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず」尼さんですね、僧尼。何で敢えて尼さんをここに出すかって

言うと、この時代は明らかに男尊女卑かもしれない。日本なんかでは、もう代表的な男尊女卑。女性は物の様に扱われて、

政治の材料に扱われ、あっちへこっちへと政略結婚させられ、そういう風に女性が軽視されている時代のことをちょっと頭において

見るとよくわかる。そういう時代でも出家をした女性(尼さん)に、一国の国王、帝者ですね、礼拝する、

お坊さんに対して礼拝する時、帝が尼さんに礼拝する時、尼さん達はこうやって、そのままお拝をするのを、

こうやっているというんですね。これが受け方なんですよね。こっちに一緒にはいつくばって、いや申し訳ないって頭を下げるような

ことはしないです。「僧尼答拝せず」向こうが頭を下げたから、こっちも頭を下げるかって言うとそういうことは

しない。礼拝をしない。

「諸天の出家人を拝するに、比丘比丘尼またく答拝せず」まあ、その他のものでも、出家の人を敬う時に礼拝を

するけど、其の時に出家の人達は、それに対して一緒にお拝をして受けると言うことがない。

「これ出家の功徳すぐれたるゆえなり。もし出家の比丘比丘尼に拝せられば、諸天の宮殿・光明・果報等、たちまちに破壊

墜堕すべきがゆえにかくのごとし」
出家した人達に拝まれるっていうことは、皆さん方もこそばゆいでしょう。

どうですか。自分の菩提寺の和尚さんが、自分の家にお参りに来た時に、皆さんをお拝をして拝まれたら、

受けるのにどうしていいかわからん位困るでしょう。

やめてほしいって言いませんか、まあそんなことはしないで和尚さん、そういう時の姿がこうやって想像出来ますね。


「おほよそ仏法東漸よりこのかた、出家人の得道は」ここは得道ですね。「稲麻竹葦のごとし」

たくさんのお坊さんが出家し道を得ていく。「在家ながら得道せるもの一人もいまだあらず」

これが歴史的なことなんでしょう。

「すでに仏法その眼耳におよぶは、いそぎて出家をいとなむ」日本の国では、将軍や武将達が最後に出家を

してお坊さんになったものが、歴史上たくさんありますね。でもあれらはどこまで本当の意味で出家をしてるかって言うと、

よくわからない。こういう出家とはおそらく違うでしょう。


「はかりしりぬ、在家は仏法の在処にあらず」もし在家の中に仏法が本当にあるんだったら、こんなに在家の

人達が苦しむことはないでしょうね。普段の生活のままで皆救われているはず。

出家すれば修行がしやすい、私たち在家だから修行するのに非常に恵まれてないって言って、悩む人がいるかも知れないけど、

別に誰もですよ、在家のままで居なさいって縛っている人は居ない。

じゃ出家したら、在家の人よりも生活自体が豊かになるかって言ったら、そんなことを望んで出家したら大間違いですよね。

旨い物が食べられるとか、豊かなものがきれるとか、美しいおべべが着れるとか化粧ができるとか、何かそんなことを、

それが目的だったら出家はすべきじゃない。


有難いことで、出家は出家して飢え死にをした人を聞いたことがないっていうのが私の持論です。衣を着て、ちゃんとまともな業を

生業としている出家の人がですね、世の中でどっかで飢え死にしちゃったって、そんな話は聞いたことがない。

滅茶苦茶なことをしていたら、ひょっとしたら飢え死にするかも知れないけど。出家ってやっぱりそういうものですね。

質素にそして清潔で生き生きとしていて、清清しくって、惚れ惚れとする様な生き方なんじゃないですか。持ち物が少ないから、

片付けなくても、いつでもこの身一つで、全国歩ける。出家してるから、そこで、どこで死んでも、殆ど問題なくお別れが出来る。

家族が居たり親族が、取り巻きがあると、中々思うようにならない。出家は良いですね、思う存分やっていけるでしょう。


「万機の身心すなわち仏祖の身心なりといふやからは、いまだかつて万法を見聞せざるなり」

出家も在家もそう違わないって言う様なことを言ってる人は、この仏法の本当の有り様って言うものは知らない。

また出てくるんですね、こういうことを言っております。「黒闇獄の罪人なり」味噌・糞、一緒にものを見てるような

人とこういうのでしょう。言葉が汚いから、もうちょっといい言葉使ったほうがいいのでしょうけど。


「おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり」自分が何を人いってるか、どの様な、自分が生き方をしてるか、

自分自身のことを本当に見ていない、一番愚かなって言って良いのでしょう。国賊だと言われてますね。

宝でなくて、国のつまらないものだね。

「万機の心をもて仏祖の心に同ずるを詮とするは、仏法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ」

ものを本当に良く知っている人は、こうやって出家してる人を上位に置くというか、大事にするって言うことが本当だと言う事を

知っておられる。


日本にも国師って言う様な称号があります。弘法大師も国師でしょう。最澄さんも国師。国師っていうのは帝の上に位置を

していて、帝たちが困った時に相談をして教えを乞う、そういう位置の人ですね。そういう人を日本でも昔設けていた。


「しるべし、仏法のすぐれたりといふこと。万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも、仏祖の身心おのづから万機の身心と

ならんとき、万機の身心なるべからず」
たとえ出家も在家も同じだと言ったにしても、って言う様な表現をしております。

やっている様子、今の有り様をこうやって触れていると、幾ら同じだって言ってみても違うじゃないかっていうことですね。

苦しんでいる人と苦しんでない在り方、ものに触れて言語に触れて、それに振り回されている人と振り回されないで生きている人。

自ずから、人間として同じ様に生きていると言いながらですよ、それ位違うじゃないか。


「万機心と仏祖心と一等なりといふ禅師等、すべて心法のゆきがた、様子をしらざるなり」

これはだから745年位昔の文章ですね、道元禅師の時代ですから。道元禅師が説かれているこの当時も、こういう風にですよ、

在家の方々のあり様と仏様方の在り様と何ら違わないって言う様なことを言ってる禅師、そういう人がいたんでしょうね。

書いてあるからいたんでしょう。それらは、本当に仏法というもののあり方を一度も勉強したことのない人が言ってるんだと、

こう言ってるんですね。


「いはんや仏祖心をゆめにもみることあらんや」当時もこういう人が禅師として、世の中をリードしていたって

言う事ですよ、これは。こういうことを道元禅師はこんなに身近に語っておられる。確かに中国を通して、日本に仏典、教典とか

そういうものが輸入されて、運び込まれて、あって、それを読みこなして解説をしてる書物、あるいは書き物が残ってはいるんだけ

ど、そういうことと仏法は違うじゃないですか。

今でもそういう風に、万機心と仏祖心と一等だと思っている人はたくさん居るかも知れません。あれは研究であって、論説であっ

て、概念であって、生きた仏法ではない。仏法ってこういう教えであるとか、こういう風な考え方をするものだとかって

言うようなことをを一杯説いてても、皆概念ですよ。仏法そのものじゃない。仏法ってそんなものじゃない。

生きて私たちが毎日の中で使って、本当にそれが生きてるようなものでなかったら、仏法と言わないじゃんね。


自分の部屋に書籍の棚があって、そこに沢山の素晴らしい人の書いた本を積んであるのと同じ様なもの。あれ広げると、

こういう事が書いてある、ここにああいう事が書いてあるって、そんなのが何の役に立つんですか。言い過ぎでしょうか。

智識を豊かにしてくれますから、話をする職業にとっては役立つかもしれませんが。

そういうのを「仏祖心をゆめにもみることあらんや」とこういうのでしょう。


「おほよそ梵王・釈王、人王・龍王、鬼人王等、おのおの三界の果報に著することなかれ」

そんな途中の財宝、途中の幸せに目をくれて、そこらで楽しんでいるようじゃしょうがないと言うのでしょうかね。

大地も掘ってると、途中で水がそれなりに、穴を掘ればそこにですね、浸み込んできて水がたまるんですよね。穴掘ってくと。

だけど、それ位の水で井戸が掘れたと思う人は殆ど居ない。水脈をちゃんと当てるまできちっと掘る。そうすると何時までたっても

枯れない井戸になる。そうでないと、雨が降ったときに、その雨水が集まってきて、かろうじて穴掘ってある所にたまると、

それだけは吸い上げることが出来るから役に立つ。だけど其れ吸い上げちゃうと又暫くたたないと溜まらない。そういう井戸を

空井戸とか言うんでしょう。本当の井戸は汲んでも汲んでも水が減らない位の、そういう水脈を掘り当てる。そういうのが

昔の井戸を掘る人達の技量だった、技術だったですね。

仏道もそうなんだとおもう。本当の底抜けの幸せって言うものがあるじゃないですか。

三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (四)

八正道  正業道支 (四)

音声はこちら↓

正業道支 四ー①
正業道支 四ー②
正業道支 四ー③
正業道支 四ー④
正業道支 四ー⑤


「かくの如くなるに」そういう生活をしているということです。「かくのごとくなるに」

ここで中国の昔話を引き合いに出されている。

達磨大師から6代目の大鑑慧能と言う禅師様の話をですね、「曹谿古仏たちまちに親を辞し、師を尋ねる」

慧能禅師はお母さんと一緒に生活をしておられた様ですが、お母さんを人に委ねて、そして五祖弘忍禅師の所に

足を運んで行かれる。「これ正業なり」これが正しい業(なりわい)だというのでしょう。


短い話ではありますが、文献によると、慧能様の様子を一緒に生活している近隣の人たちが見て、お母さんを大事にしておられる

のはいいけれども、あなたの今の内容を見ると、ここにいてはもったいないというのでしょうかね。

あそこに弘忍禅師と言う立派な人がいるから、そこにいって、あなたが今得られた心境、そういうものを提示して教えを乞い、

もっと人の為に成る様に生きてほしいって言うのが村民、一緒に暮らしていた人達の願いで、お母さんのことは我々が面倒見る

から是非そっちに行ってくれって言って、送り出されているような内容があります。

まあそれは、それぞれその人のもってる素晴らしさが見出されると、今でも色んな職業でそうでしょう。

あなたはこのまま埋もれたんじゃもったいないから、もっと本当にやりたいんだったら、ちゃんとした人がいるから、

あそこの所行って学んでごらん、て言って応援してくれるでしょう。ましてや自分たちの親だったら、

子供たちがそういう力があったら、何が何でも子供の為に何かして上げようって言って、そういう姿がどこにでも見受けられる。


街に行った時に、金剛経を聞いて、お経の内容にこう触れてもですね、「発心せざりし時は」ってあります。

お経を読んでるのに触れても、例えばどんなに美味しいものを食べてもですね、気が付かないって言うことがあるじゃないですか。

発心て言うのは、少なくとも心を開くとありますが、発心、自分自身の本当の有り様にこうやって目が向いた時、

それ発心て言いますね。発心する、心を開くって言う。出発の発ですね。気づきがあるんですね、何か。ああなってみたいな、

いいな、何で、何となく気を引かれる、何で私があの人に気を惹かれるんだ、どっかに心にそうやって気づきがある。

そういうことないが間は暫く、薪を切って、或いは束ねて、そういうものを背負って街に行って其れを売って生活の足しにしていた。

「樵夫として家にあり」今までと変わらない生活を続けておられた。

だけども、金剛経をきいて「仏法の薫力あるときは」お経を聞いて何か自分の中に気づきがあったんですね。

どういう風になってるかというと、金剛経の一節に「応に住する所なくして 而も其の心を生ず」と、

そう言う文言があります。その辺のことを聞いて、自分自身の生活を振り返った時に、ああ自分自身の生活してることと、

お経の中に言われていることは、全く同じだなあと感じたんでしょうね。お経ってこんなことが説かれてるんだ。

こんなことが仏様が悟られた内容って言われてるんだ。何だ私が生活してる内容と変わらないじゃないか。

じゃもう少しこのことを本当に勉強してみたいな、と言うことでしょう。

それで、「重担を放下して出家す」何が重担って言えば、父母を養うと言うのが子供の勤めですから、お母さんを投げ出していくっ

て言うのは、一般的に言ったらひどいやつですからね。そういう肩に重荷があるじゃないですか。

お父さんお母さんを送って生涯、それが子供の、一応当時の考え方でしょう。それを投げ出してですよ、出家した。


「しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまれることあたわずといふことを。」

出家する人、沢山今もいますよね。自分の幸せだけを願って出家するわけじゃない、出家って。人々の本当の幸せを、

どう在ったら幸せが得られるかって言う大問題、それを解決して、人にもそれを勧め導く、そういう様なものが出家の在り様でしょう。

だから、そういう願いのある人は、世の中のあらゆる職業と比べた時にはるかに別世界の位置にあるんですよね、

出家っていうのは。道元禅師もだから高く出家の在り様って言うものを評価しておられる。


そういうなことが出ておりますけれど、「諸仏みなかくのごとし」歴史に残る人達を見ると、

諸々の仏や祖師方は皆そうやって、在家の生活のままいた人はない。


「出家すべからずといふともがらは」そのままで良いじゃないか、在家のままで、やれんことはない、

言う様なものを勧めるって言う事はですよ、「造逆よりもおもき罪条なり」いわゆる父母を殺すとかって言う様な

のは、罪の中で相当重い、五逆罪と言って首を刎ねられる位の重い罪状になってるけど、それよりも重い罪だって言ってます。


お釈迦様のことを振り返って、こうやって取り上げてみればよくわかる。小国とはいえ、小さな国とは言え、一国の王子をして生れ

落ちて、その国の興亡を占うような位置に育ってるんだけど、長ずるに従って出家を志した。従って留めようと思って、結婚をさせて

子供ができて、手足に足枷をつけて、奥さんも居れば子供も居るからまさか出家はしないだろうと言う様なことでしょうか。

ましてや一国の、後に国王になっていく。そういうものを釈迦は全部振り切って出家した。

当時は多分ものすごい酷評だと思いますよ。何が不満だって、先ず出てくるじゃないですか。生活としてあらゆるものが、

すべて恵まれているのに、何が不満で、別にそういうものに不満があって出家したわけじゃないですよね。このままで居て、

人が本当に幸せになるのにどうしたらいいかって言うことに対して、ひとつもきちっとした答えが見つからないでいる、

そのジレンマの中から立ち上がった人でしょう。当時のインドを見ても、まだ仏教は無い。

人が本当に救われる教えって言うものは、当時のインドにもまだ無い。そういう中で一人、奥さんと離れ、子供をおいて、

国を捨て、地位名誉財産全てを投げ打って、一人修行に入っていく。当時は出家したとは言わない。世捨て人だね。

で、その社会の中で、立派に行をしていると言われる様な人の所に先ず足を運んで入門して、そこで修行していく、

いろんな修行していく。だけど一向に埒が明かない。総なめに一応歩いてますね、所謂ベストテンに入る位の指導者のところ全て

尋ねて歩いた。これ以上のものは無いと言う所まで勉強して、それでも満足がいかないから、そういうもの全てやめた。

その時の批判なんてのは、「とうとうあれも堕落したか、」言う位酷評でしょう。それでもそういうものにめげず、

一人菩提樹の下で坐り始めて、端坐6年といわれている、6年も。そういうのが出家の一番最初の在り様ですね。

家を出た、家をはなれた、在家といわれる持ち物全部手放して行った。素っ裸になって行った。

今まで身に付けた、学んだもの全部離して行った。お米の籾を取って、糠を取って、精米してって言う様なことですね。

お釈迦様はそういう風な生き方をして、私たちに指標となるものを残されたんですね。それが今日まで伝わっている。

したがって、そういうものを踏み止まらせてやらせない、そちらの方に行かせない、縛って不自由にさして、自由にそういう修行が

或いは勉強ができないようにするっていうことは、非常に重い、罪になると言っておられる。


今日の私たちでもそうでしょう。一人一人が本当に自由に、どんなにでも勉強ができる、修行ができる、伸びていく力があるんだけ

ども、ひょっとすると親や周りの人が、すぐ口を出して、「どうせあなた出来ないんだから、やめな」とか「この前もやったけど

途中でやめたじゃないか」とかってそういって潰しにかかるわけでしょう。挙句の果ては、自分でもそういうことが起きると、

段々、ああやっぱり俺もだめかな、やってもどうせだめかなって潰れて行くでしょう。

それは非常に罪として大きいということでしょう。折角花が咲く力を持ってるのに、花も咲かせないでそこで枯れさせてしまう様な

ひどい事をしてる。人権の上で言えば、一番ひどい差別のいじめ方でしょう。パワハラとか何かいろんなこと言うけど、

そんなものと比べものにならない位じゃないですか。このいじめ方って。

しかも他人からいじめを受けるのでなく、自分で自分をいじめてるんですよね。

皆持ってるのですよ、伸びる力。自分自身を救える力を。

それを完成させる道筋を閉ざしてしまうって言うのは、本当に罪深いことだと思うね。

また自分自身もそういう外圧に負けてですね、挫けてしまうようなことでも詰まらないと思いますけどね。


もうひとつ出てくる「調達よりも猛悪なりといふべし」って。仏様の弟子の中に、

調達って言う人がいるんですね。俗に言う提婆達多と言っておられますが、異母弟、お釈迦様の異母弟。

生涯対立してた人でしょうかね。お釈迦様のことを常に羨ましく思ってた。だから、ないがしろにして、どうにかして自分がお釈迦様

よりも目立ちたいとか言う様な、そういうことを常に心がけた人だから、事ある毎に、命を奪おうとか言うような悪巧みをした、

代表的な人として調達という人が歴史に残っています。提婆達多、そういう人よりももっとやり方が卑劣だとこういうのでしょうかね。

後、六群比丘とか色んなものがあります。下(脚注)にも書いてある。それに類した人を導く、統率していくグループが幾つか、

その当時もあった。そういう人たちを総じてこうやって点検してみると、皆其の類だとこういってるのでしょう。

だからそんなものと一緒に話をする必要がない。そういう所で話をしていてもですね、幸せにはなれない。ともに語るべからず、

「共語すべからず。一生の寿命いくばくならず」まあ早い言葉で言えば何時死ぬかわからんということでしょう。


うちに最近来てる若い方が、まだ30そこそこの若い女性がいた。どうしたのと言ったら、「明日の事なんか考えてられません。

今やらなきゃ次何時やるのかって最近思ってる」って。その位の若さでそういう人がいるのかね。本気になって勉強する。

今、今を除いてやれる時なんかないって言ってる。どうしてそんなになったのかね、聞いてみたいんだけど、

その位の気概を持っている人がいる。大事にしてあげたいなと思うね、そういう気持ちは。


「かくのごとくの魔子畜生等」と共に語るというようなことを、光陰むなしく渡ること莫れでしょう。

つまらないことをつまらない仲間と喋ってる暇なんかないとこういってる。何時自分の命が終わるかもわからない中で。

こんな風に自分の人生を感じる人はなかなか居ない。「無常」という話は知ってる、世の中を。無常感というものも持ってる人は

居るけど、切実に自分自身がそういう風な立場でですね、生活、方向を向けていく人は本当にまれでしょうね。


死の宣告を受けてですね、それでも今日一日何となく終わっちゃうんだよね。そうじゃないですか。あと3日とかあと一週間とか

あと一ヶ月あと一年とかって言って宣告をされてもですよ、その間本当に自分が何を日々していけば良いかって言うようなこと、

本当に感じてですね、毎日を大事に生きていく人なんて、ほんの僅かですよ。殆ど今までの通りザーっと流れて

終わっちゃうんだよ。人間てこんな弱いものですね、実行力において。


そういう中において、大先輩のお釈迦様という人は振り返ってみて、凄い人だなと思う。

世の中全てを敵に回して一人立ち向かったんだ。自分の道を切り開くのに。どうあろうが。しかも80まで存命って、

よっぽど堅固な自分自身に対する自己管理をした人でしょうね。

今の様に色んな面で恵まれてれば、まあ80の人はザラですけれども、日本では。%呈示と一人一人の命の有り様は、

全く別ものです。他人に変えられない命ですからね。確立が高いかあらと言って、必ずしも自分がその中に入れるかどうかは

わからない。


「いわんやこの人身心は」人の身心は「先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。」

今、道元禅師がここでお話をする時に、ここにお集まりになってる方々は、どこかで、先世て言うのは何処かでいいでしょう、

何処かで仏法を見聞きしてきた。仏法がどういうものであるか、そういう風な中で育ってきたお互いじゃないか。


「公界の調度なるがごとし」公に置かれた調度品のもののようだって、この身心、自分一人一人ですね、

私のものではない、公のものだ、私が勝手に自分の思い通り使うようなそういう小さな存在ではない、とこう言ってるのでしょう。

この一人一人の身心ていうのはそういう大事なもの。こういうことだって振り返ってみると、いつの間にか、

私用物として我が儘にして、自分のことだけで窮窮として生きてますよね。


「魔族となすべきにあらず」まあつまらない仲間でしょう。悪魔とかって、別に言わなくても、魔と言う、人を幸せに

しないグループでしょう。折角素晴らしいそういう中に育ってきたお互いだから、其の素晴らしいものは、

そんなつまらないものにしてしまう、そういうことはすべきではないじゃないか。


「魔族とともならしむべきにあらず」悪い仲間と毎日一緒に生活して、よからぬことを生業として生きるなって

言うことです。するなって言うことでしょう。折角この世に生まれてきて、そういう素晴らしいことに出会ってるんだから、

もっとキチンとした生き方があるから、そっちの方と歩みなさいと、こう勧めてくれてるんでしょう。


「仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。」

悪狗って悪い犬って書いてありますから、つまらない人って言うことでしょう。ものの道理がわからなくて愚痴ってる仲間、

そういう人の叫びやなんか。それを聞くと面白いもんだからね、人の愚痴ってるのを聞くとね、面白いもんだから、

(人には変な処があって、他人の不幸を見聞して、自分の方がそれより良い生活してると)、ついそういうので一日過ごす

訳でしょう。我々は自分でやるべきことが有るんだけども、回りからそういうのに触れると、本当にやるべきことよりも、

今触れてる(思いの上で取り扱う)ことの方に気が向くもんだから、つい一日それで終わってしまう。


結構いいお年寄りの人がですね、スマホのゲームに嵌っている。何時間も。それだけの年の人でも嵌るんだよね、ゲームに。

で、子供たちがそれやってると、そんなことしてって言って叱るんだけど、叱るだけの力はないね、自分で嵌ってますから。

かと思うと、そこらへん歩いてる人が最近居るのでしょう、何か追いかけて。

ポケモンですか、あれが人の本当に歩む人生なんですかね。もっとやるべきことあるでしょう。


でもあれで、生業が成立する業者も居る。あれを開発して世の中に出して売ってる、儲けてる人も居ると言うことでしょうかね。

携わっている人もあまり良いことではないと思っているのかもしれないけども、売れるって言うことで、儲かるって言うことで、

良しとしてる人のいるんでしょう。儲かれば良いんじゃないでしょうね。

儲かると、自分の家庭生活が豊かになるから良さそうだけど、後で出てくるけど、邪命食というんでしょうね、そういうの。

「悪狗と同坐同食することなかれ」まあこれ、普通に読んだら良いでしょう。


同じ様なことがもう少し述べられております。達磨大師のことですね。嵩山高祖大師。お隣のインドからですね、

インドの国を離れて、お隣の中国に来られた。「仏祖の正法まのあたりつたわれしなり」とある。

それによって初めて正しいものが中国に招来された。

「これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず」書いておられる様にですね。

フリー(出家)だから出来るって言うことでしょう。どこにも所属してないから、単身で自由に中国に渡ってこれるんでしょう。

一切の制約がない。出家だから、家のことも、家族のことも、そういうことにとやかくされることがないから、

そういう身分にいるから、正しい教えを受け継いだものが、中国に渡ろうとすれば渡ってこれる。


「祖師西来以前は」達磨さんが中国に渡って来る迄は、「当地の衆生人天」ここで示す当地は

当然中国でしょう。日本が入っているかどうかわかりません。「いまだかって正法を見聞せず」

正しいものの在り方って言うのを見たり聞いたりすることは無かった。


「しかあれば、しるべし正法正伝、ただこれ出家の功徳なり」本当にそうやって身を捨て家を捨てる。

自由な境涯にいるからそれが出来るんだと。出家をしてもお寺に入ると、たちまちにお寺に縛られて。出家って言うんだけど、

私たちは現況はそうです、お寺に縛られて。本来そうじゃなかったはずなんだけど。