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三十七品菩提分法・七等覚支(三)

それから更には、最後の念覚支

七覚支念覚支_01

七覚支念覚支_02


若し出世の道を修する時は、善能く覚了して常に定慧をして均平ならしむべし。

若し心、沈没せば、当に拓法・精進・喜等の三覚分を用つて、起るを察せんことを念ずべし。

若し心、浮動せば、当に除・捨・定等の三分を用つて摂せんことを念ずべし。

故に念覚は常に二盈の間にありて調和中適す。是れ念覚分なり。 (法界次第初門中之下)

此の七、通じて覚分名づくるは、無学実学の七事能く到るが故に、通じて覚分と名づく。

気づくということでいいでしょうかね。覚、気づかないとわからない。いろんなことが気づかないとわからない。覚って言うことは

気づくでしょう。自覚でもそうだ、気づくっていうこと。ああ本当にそうだ、そういうことが在って、修行が出来るんでしょう。

言われていること、聞いて、見て、やってみて、いろんなこと触れてみて、わかる。気づく、気づく中にズレているとか、ちゃんと

言われた通りやれているとかってことを気がつく。気づくから修正が出来る。気づかなければ進みませんね。当たり前の話でしょ。


で、道元宣禅師がどういうにそれを言っておられるかって言うのを、読んでみます。

「念覚支」は、露柱歩空行(露柱、空を歩みて行く)なり。此のゆえに、口似椎、眼如眉(口は椎に似たり、眼は眉の如し)な

りといふ
 とも、なおこれ栴檀林裏爇栴檀、獅子窟中獅子吼(栴檀林裏に栴檀爇し、獅子窟中に獅子吼す)なり。

「露柱歩空行(露柱、空を歩みて行く)なり」こんなこと言われても困るよね。柱がそこら辺歩いてるって、どういう事だって。

四次元の世界か、いう風になるでしょう。歩いている時に、歩いてること知らずに歩いてるってことがあるじゃないですか、

みなさん。いちいち、今、私が歩いてます、歩いてます、歩いてますって、ズーっと歩くたびに、そんなこと気にしながら歩いてる人

なんか殆どいないよ。息してます、息してますって、そんな風にして息している人も居ない。ものを見てます、見てますって、

聞いてます、聞いてますって、そんな風にしている人は誰も居ないって言って良いでしょう。

実際にやってる時には、本当にこの様に、「露柱、空を歩みて行く」位、どこにも引っ掛かりがないじゃん。

見るとか聞くとかやるとかいう様なことがあるけど、実際どうしたらそうなるかってことが、気に掛からないでやれる位

うまく出来てる。やれてる。


私の師匠なんかも時々言うんだけど、階段をですね、歩く時にね、高いとか低いとか何センチあるかって考えながら、

一段ずつ歩くとね、足が上手く上がらないって。さっさ、さっさ、ってこう歩いて行く時に何ともないんだけど、一段ずつ気をつけて、

今このさっきの所とかって、そうやって測る様にして、見ちゃ上がりって、そんな上がり方して、ほんとに躓くよって言ってました。

面白いね。そういうこと無しに本当にやれてる。そういう内容に気づくべきじゃないですか。

「此のゆえに、口は椎に似たり、眼は眉の如し」という表現になるんでしょうね。


不思議な表現だね。柄のない気槌と書いてある。こういう木が置いてあって、其の上に木の破片のような物が在って、

それを持ってその下の木に当てると音が、その上のを言うんですよね。下の砧(チン)と言います。椎・砧と言って、それで一つの

動具になっているんですね。口の開けようが無いって言う様に訳してありますね。


「口は椎に似たり、眼は眉に似たり。」普通に考えれば、口は、五官の中に、眼耳鼻舌身てあるけど、口というのはないですね。

舌なんですね。口って何かって言うと空洞なんですね。空洞のところを口って言うんですね。面白いですね。

そういうことでしょうかね。


「眼は眉に似たり」眼が眉に似たらどうなるんですか。眉はものを見るって言う様なことは言わないですね。

そういう道具ですけれど、ここにくっついてるんですけれ。実際皆さんの眼は、ものを見る時に眼の存在を知らない。

ものが見えるばかりです。何処かで習ってるから、自分の顔を描いた時、眼って言うのが描けるから、これがものを見るって思って

るから、ものを見てる時に、眼がものを見てるって言う風に理解してるっけど、ものを見てる時、眼って何処にも出てこないですね。

ものが見えてるだけですね。そういう様な状況を「眼眉の如し」って言うんですね。


だけども、「なりといふとも、なおこれ栴檀林裏に栴檀爇し、獅子窟中に獅子吼すなり」

その時に本当にそのことをしているんですね。その事がその事を本当にしている。眼らしいものが何にも無い。

口らしいものが何も無い。「オーイ」って言う時に口らしいものが別にあるわけじゃない。「オーイ、」面白いね。

ライオンが吼えるにしてもそうです。「獅子窟中に獅子吼す」 「ウァーオー」 パラマウント映画か何かでみた。

昔映画で見た、最初に。凄いな。あんなんですね。獅子窟中に獅子が本当に吼える様子。

香木、栴檀といわれる良い香りがする林の中にあって、この香木を燃す。燃さなくても、栴檀の香りがする中なんだけど、

更に燃すと良い香がする、獅子は別に吼えなくても獅子に違いないんだけど、吼えると又一段と獅子らしくなるんだな。

そういうことですね。

皆さんもその人に違いないけど、一人一人その人に違い無いけど、それを本当に使ってみると、そのものの良さがそこに歴然をし

て現れる。折角この世に生を受けて、こうやって居るんだから、このものを、生きている間にフルに使って、このものの良さをそこに

再現する必要があるんじゃないですか。それが生きている良さなんじゃないですか。面白さなんですよ。

それが自覚にいう、さっきのにあげて、本当に救われたい、「若し出世の道を修する時は」世間をいづる、救われると言うことでしょ

そういう、人の本当に救われる道、あり方を学ぼうとする時は「よく覚了して」目覚めて、「常に定慧をして均平ならしむべし」

均等ですね。智慧と禅定、静かに本当に余分なものをつけずに、その通りに生きてみるということと、そういう風に、余分なものをつ

けずに居る時のものの在り様は、本当にどうなっているかって真実を知る力、それ智慧です。そういうものが均等で無いと、ものが

本当に良くわからない。

そして、たまたま心が沈んだりする様な時は、先ほど挙げた前の拓法とか精進とか喜覚支とかっていうような三覚分を以って、

心を起こることを「察せんことを念ずべし」どのようになってるかってことを、そういうものを使って自覚してごらん。

又心が浮ついてしょうがない様な時は、後の除・捨・定の三つのものを用いて、そして、実際その時にどうなっているか言うことを

見てごらん。そうすれば必ず修行きちんと出来ますよと書いてある。


これで、七等覚支。三十七も表題があげてあるけれども、どれ一つでも実践してみたら、

それによって、正しいことが理解できるようになっている、って言うことは間違いのないことですね。

(6月25日御提唱の八正道・正見 7月25日御提唱 分は八月末までにお届けします。 )
( 講義の本は道元著「正法眼蔵(三)」水野弥穂子校注 岩波文庫  です)
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三十七品菩提分法・七等覚支(二)

捨覚分 

七覚支 捨覚_01.

七覚支 捨覚_02

七覚支定覚支_01

七覚支定覚支_02_

七覚支定覚支_03


若し所見の念著の境を捨する時は、善能く所捨の境の虚偽不実なることを覚了して、永く追憶せず。是れを捨覚分と為す。
 (p492 法界次第初門中之下)

七等覚支の中にこういうことが書かれています。事実に対していろいろな思いが起きてきて、そういう思いでものを見るようにな

るけれども、本当の有り様を知るのには、そういう後から付けた思いを捨てる離れる、相手にせずに、今の事実だけでいてみる、

そういうことが大事だって、それを追いかけたり、思い起こしたりして行くようなことをしないのが捨覚支という修行法だと言うように

なっているんですね。

それに対して、道元禅師

設使将来、他亦不受(設使:たとひ将来すとも、他も亦受けじ)なり。唐人赤脚学唐歩、南海波斯求象牙(唐人赤脚しにし

て唐歩を学し、南海の波斯象牙を求む)なり。


さっきから話している様に、こうやってものを見ている時に、私の見方は、とか言うようなものをつけていませんね。

自分の本当に今見えている様子だけで足りるということですね。「たとひ将来すとも」他の人が私は、私は、私は、って

いろんな人達がその話を持ってきても、「他も亦受けじ」。今見えている様子だけで、他のものいらないんですよ。こうやって。

くっつけるものは何もない。そういう風にできてますよ。


「唐人赤脚しにして唐歩を学し、南海の波斯象牙を求むなり」唐人お吉じゃないけど、中国の方なんでしょう。唐人、唐の人。

「赤脚にして」ということは、裸足でしょうかね。で、当然、その人の歩き様でしょう。「唐歩を学し」ってあります。

その人が歩いてるのに他の人の歩いてる様子がそこに出てくる訳がない。

井上が裸足で歩いてる時に、方丈さんの歩き方が出てきたら可笑しいよね。皆そうでしょ。

一人一人、自分が裸足で歩いてるとこに、他の人の歩いている様子がそこに出てくるなんてことはない。

他人の歩き方があるに違いない。違いないんだけど、一切、自分の歩く中にそういうもの受け入れないですね。持ち込まない。

持ち込む用がない。歩く時に。他の人の足で歩くんじゃないんだからね。いいでしょ。


もうひとつあります。「南海の」ペルシャというんですかね。ハシノク王という王様がいた。

下にあるけど「象牙を持ってくる人が象牙を求む」というように訳されている。

余分なことをしないでいい様に出来ているってことでしょう。はじめっから、誰もそうだけど、自分の生き様でしょう。

これから、修行して初めて自分の生き様になると思ってる人がいたら、大間違いでしょう。

だけど、修行するっていうのは、ひょっとしたら、そういう風に思い違いをして修行している人、沢山いる。

思いをとうして見ると、自分の今生きてることが、自分で満足しないから、もっと違った人になって初めて本物になるって思ってい

る。初めから、ずーっと本物の自分ですよ。それを知らないと大変なことになる。そういう様なことに対する示唆ですよね。

「象牙を持ってくる人が象牙を求む」あなた象牙持ってるじゃない、象牙探してるけどって言われたんでしょう。何を持ってるのか。

探さなくたって、あなた今既に持ってるじゃないか象牙をって。そういうに、象牙もってること知らないで、

何をウロウロしてるんだって、こう言ってるんですよ。それがどうして捨覚支になるか。

捨てるって言うことは、そういう間違った余分な思いで修行している、そういうもの全部離れてごらんって言う意味で、捨なんです

よ。知らないと、そういう自分で付けたものを持って、そしてそれを目標に立てて探し歩く。


胃がんになったご主人が回復をしたので、久しぶりに街にでて、お父さんに美味しい物を食べさせてやろうって計画して、

一緒に街に行って、多分あそこに行ったらこういうものがあるだろうって行ったんだけど、その日に自分が思ってたメニューがそこ

のお店になかった。しょうがないから、見せて貰って、他の何かにしようと思って見たら、どれもご主人の食べられるようなもの無い

って、そういう様な状況になって、奥さん折角一日休んでご主人と一緒に来たのに、がっかりして、ご主人は「いいよ、別に食べ物

無くったって」って言ってくれたらしいんだけど、奥さんが家に帰るまで、ずーっと、もう、しょげちゃって、立ち直れないようなこと話し

てた。


人間て目標を立てて進むのは、良いようだけど、その目標が見当たらないとこんなにつまらない生き方になるのかって、

つくづく思ったって。帰りの道中だって、いろんなことに出会ってるのにですね、もう一切目に入らない。

見えないのでなく、見えていることに用がないです。考えることが中心の生活ですから。自分の頭全部塞がれちゃってる。

そのことだけでシャットアウトされて、家に帰っても、思い描いていた食事が出来なかったことを悔いて、何のために今日一日休ん

で連れて行ったんだろうって、そんな風にして悩んでいた、と言うこと。


これ、皆さん方も、人を育てたり、子供を育てたりするいろんなことがあるけれど、そういう中で、目標をたててやんなさいとかって、

一応言うんだけど、下手に目標を立てただけで行くとですね、人間その目標を見失うと、生きている甲斐が無いように思うくらいひ

どくなるね。


「何もかも無くなりました」って言う時に、残っているものは何かって言うと、「何もかも無くなりました」って言う人がそこに居るってい

うことですね。これは見失ってはならないことですよ。だけど、自分の言葉で自分を見失うんですよね。

何もかも無くなってしまった。そうやって自分で発言すると、本当に何もかも無くなってしまって、どうすることも出来ないっていう風

に思い込む。何もないよねって。



道は十方に通ずるって言うじゃないですか。一本だけじゃない。無限にあるんだよ、進む道は。だけど、一筋って、こうだって目標た

てて行くと、それだけしか求めて行かないから、本当に不自由になる。自分で自分を縛る。良さそうなんだけど。

こういうものはちょっと話して置きたい。「南海の波斯象牙を求む」に似たり。

定覚支です。

若し諸の禅定を発す時は、善能く諸禅の虚仮を覚了して、見愛妄想を生ぜず。是れを定覚分と為す。(法界次第初門中の下)

これは一般に坐禅の時といっていいでしょう。坐禅をする時。「能く諸の禅の虚仮」、本物と偽者って言うことでいいでしょう。それを

自分で見分ける能力があるから、ちゃんと本物なのか偽者なのか、それを見分けて、そしてそれに愛惜を生じたり、それから余分

なつまらない思いを発生させてすわるようなことをするな、とこういってるのね。是をいわゆる定覚分と言ってるということなんです。


それに対して、道元禅師の言い分、

「定覚支」は、機先保護機先眼(機先に保護す機先の眼なり)。自家鼻孔自家穿(自家の鼻孔自家穿ぐ)なり。

自家把索自家牽(自家の索を把りて自家牽く)なり。しかもかくのごとくなりといへども、さらに牧得一頭水牯牛なり。

働き、機です。「機先に保護す機先の眼なり」物にふれたと同時にですね、ふれたものがそのまま、皆さん方、見るとも無しにです

ね、そのまま今触れている様子がある。一番簡単なので皆さんが納得いくのは、眼をつぶって眼を開けた、って言うのをやってみ

るとよくわかる。どうなるか。眼を開けたと同時に全てのものがある。今、こうやって、こうやってやる。

パッとやったら、眼を開けただけで、もうすでにある。見たなんて、後から思う話でしょ。そういうの、お解りになるでしょ。

眼を開けただけですよ。

眼を開けたら飛び込んでくるって言う表現もあるかも知れないけれど、あらゆるものが。だけど、そんな時間はないよ、飛び込んで

来るなんてゆとりはない。開けたと同時にって言う様な、そんなずれはない。瞬時にって言うような表現当たらないんだよ。

みんなそんな。間髪を入れずとか、それらしい表現なんだけど、実際そういうもの全部当たらない。

こんなでも、やってごらん、こんなになるのよ。凄いことでしょ。「機先に保護す機先の眼」私達のそれは機能です。働きです。

そういうことちゃーんと、皆さん行われているじゃない。そういう眼じゃないですか。

屁理屈を言えば、物が見えるって言うことは、先に物があるんじゃないですか。物がなけりゃ見えるなんて無理だよね。

音だってそうでしょ。音がしなければ、聞こうと思ったって聞こえないじゃないですか。

音がよく聞こえた時には、パン!パン!聞こうと思わないじゃない

ですか。凄いですね。機先に保護す機先の耳、と言う事でしょうかね。そういうこと。不思議ですね。


これが皆さん持ってる、狂わない確かさ、禅定としてのもの。いつでもきちっと、そのいうこと定まってます。

そういうことから外れたことがない。そのものに向かって、そのものの通りに見えないってことはないでしょ。

そのものに向かって、そのもの以外のものの見え方するなんて事ないでしょ。そういう風にきちんとしてます、いつでも。

嘘を言えば、必ず嘘を言ったようになる。ひっくり返れば、必ずひっくり返ったようになる。人の好き嫌いを超えてますね。

そういうものを定と言う。

諸々の定と言うと、いちいちきちーんと、そういう風にして、犯すことの出来ないように定まってる。

決めるって決めてあるんじゃないんだけど、そういう風になるんですね。決めてあるもの何にもないんだけど、必ずそういうになる。

狂ったためしがない。乱れたためしがない。それが皆さんが坐禅している時の自分の真相です。本当の有り様です。


今度は鼻の話が出てくる。「自家の鼻孔自家穿ぐ」自家、わがやというんですかね。自分の鼻は自分の鼻で、人の鼻を借りずに、

ちゃんと呼吸も出来るし、香りも嗅げるようになってます。


身体の方、自家の縄と読むんですかね、検索の索、索を把りて自家牽く。一日中そうじゃないですか。この自分の体の様子ばかり

じゃないですか。24時間。この身体の有り様以外の生活をしようと思っても無理。それだけど、考え方は面白いですね。

考え方っていうのは、こうやって私以外の人が、こんなにいろいろいるって、見るんですね。これが自分で、これは自分じゃないって

いう。だけどそういう風に言わせていること、そういうに見てること、誰がやってるかと言うと、みんな自分がやってる様子でしょう、

ここに隣にいろんな人がいるって判るのは。他の人がやってませんよね。自分自身の身体でやってることでしょう、今。

そして、それは私ではないって、そういう風に理解したり、比べたり、そういうことは、みんな自分の中でやってるでしょう。

違いますか。そんな風には、私達勉強してこないんだよね。だけどもこうやって話してみれば、こっちの方が確かなんでしょう。

どうですか。私が言ってる方がおかしいかしら。一日24時間、他人の有り様ってあるかしら。他人の有り様って。

自分のこのものの有り様だけじゃないですか、一日中。


それ凄い難しいことかしら。そんな事いわれたって、あそこに自分でない人がいるんじゃないって。

私ここに坐ってるのに、あっちの人が動いてるじゃないか、本読んでる人がいるんじゃないかとか、首振ってる人がいるじゃない

か、あれ私じゃないよ、間違いなく私じゃないって、言ってますけど、そう言わせているのは誰が言わせるのですか。

誰が言わせてるのですか。みんなこのものの働きでしょう。どこを取ってみても。向こうのことのように言ってるけども、

その言ってること自体もみんなこのももの中でやってることでしょう。これ除いてそういう不満出てこないでしょう。

こういう風になってるんですね。「自家の索を把りて自家牽くなり」


だからこの自分ていうものを本当に勉強しなきゃならない理由があるんじゃないですか。

一生涯このものの働きだけだから、このものの有り様がどうあるかってことを勉強しないと、本当に使いこなせないでしょう。


「しかもかくのごとくなりといへども」、それはそうに違いないけれども、「さらに牧得一頭水牯牛なり。」って言うことはですね。

このものの働きって言うのは飛びぬけ面白い働きをするっていうことですよね。放牧をされた牛のように、何かに縛られて自由が効

かないんじゃなくて、本当にとことん何ものにも縛られずに、自由に活動が出来る。このものを縛るものは自分の見解ですよ。

他にはないですよ。


私初めてだからって遠慮する。見て御覧なさい。自分の中で自分を侵さない様にする。いや私はそんなところに坐る身分じゃない。

教える側じゃないとか、いろんなことを自分の中で想像して、自分を不自由にして、私ごときがそんなところで偉そうなことを言う立

場じゃない。言いたいことがあるにも拘わらず、そうやって言えなくして。

別に威張れって言ってるわけじゃない。言いたいことがあったらどうぞって言われた時に、言ったらいいんだけれども、

いや、こんなの皆さんに言ったらどうって思うかしら、で、言わずに帰って、家でぐずぐず口うるさく。

折角、力が在って、人の為になる意見もあるんだったら、そこで喋ったら良いじゃない。人を害するようなことじゃないんだもの。

建設的なことだったら、やったら良いんじゃないですか。他の人では気がつかないこともあるんだもの。ああいい意見だねって、取

り上げてくれるかも知れない。それだのに、そうやって、自分で自分を、あの人は好きは人だから、この人は嫌いな人だから、

嫌いな人のやったことはやらない。そうやっちゃ、好き嫌いを自分で起こして不自由になって。


物を頂くんだってそうでしょ。こんなものを俺に、嫌だって言って。自分の中でそうやって見を立てるから。折角頂いたのに受け取る

力がない。別に頂いたから全部自分のものにしなくたって良いじゃないですか。ありがたく頂いて、活用できるんだものいっぱい。

全部自分のものとして使おうと思うから、多分こうしたことが起こるんでは。

家なんかでも、野菜やなんかいっぱい持ってきてくれる人がいる。いっぱい野菜があれば、2.3人位で生活してるから、一週間も置

くと傷んじゃう。キュウリでもナスでも。だから尋ねてきた人に、キュウリある?野菜いっぱいあるんだけど持っていく?と言うと、あ

りがとうって言って持って行きますよ。そうすると、腐らずにちゃんと役に立つでしょう。この前ありがとうって、今度は何か在ったや

つ持ってきてくれる。うまく物事ってなるもんだね。自分とこへくれたから、全部自分のものだと思って扱うからヤッカイですよ。しか

も自分の好き嫌いで扱う。不自由になってしまうね。


全部自分の見解で自分を不自由にしてますよ。他にはないよ。「又あんなことやって」って、そういう自分の中でものの見方起こす

ためにですね、たまんなくなるんじゃないですか。実際に今、今やっていることが今やっている通りあるだけなのに、

「あの子はまた、何回言ったら判るんだろう」って、そう言う。本当に聞いてごらん。あれ本当に見てごらん。

今やってること、今話されてること、今そこであるだけですよ。他にはないですよ。自分の思いがそうさせるんです。そう言うことが

取れると、ここにある放牧された牛のように、本当に自由に活動ができる。そういうに誰もなってますよ。


来る時に、イチローの話をしてるおばちゃんがいた。「人に笑われて、それをバネにして、ああやって立派に生きてる人がいるんだ

ね」って、話をしてる人がいた。そうだねって、話をして、私はかってこういう人がいたよって話をした。


物をやってるのに、第一人者の人がそこに、仕事をした人がいた。そこへその人が行った。同じ人間だから、この人がやれるんだ

ったら、私にもやれん訳がない。そうやって学んで、やっぱり第一人者になってる人がいる。イチローと大して違わない。

ものの、ちょっと受け取り方が違うかもしれないが。ものに触れてですね。それがみんな自分を活かしていく力になる。

受けとり方の下手な人だと、とてもこんなこと出来ないっていう風に自分を塞ぎますよね。そうやってものを学んだ人だと、人が来て

も、「僕が出来たんだから、あなただって出来るよ。やってごらん、教えるから。こうやってやるんだ」って、本当に上手に教える。

難しいなんて一切言わない。「こうやったらこうなるじゃん。ああ出来たじゃん。それでいいじゃない」って、そうやって教える力を持っ

てる。

学ぶ方は、なんか難しいことがあると思って学ぶと、なかなか出来ない様な気になっても、「そんなことは無い、私の言う通りにやっ

たら、言うとおりに間違いなくできるから」って、「僕もそうやって学んで来たから」って、立派な指導者ですね。

全然偉ぶるところが無い。教え様も、全部自分の持ってる力を、そこに伝えてる。だけど学ぶ方は、一朝一夕には出来ないから、

それはしょうがないね。でもそうやって教えて貰うから、ちゃんとついていく。下手な人は難しいことだからって教えるから、難しいこ

とだって教えられると、びびるじゃん。下手なんだ。そういう、「さらに牧得一頭水牯牛なり」

三十七品菩提分法・七等覚支(一)

音声はこちら ↓

択法覚支
択法・精進覚支
精進覚支
喜覚支
喜覚支2

除覚支1
除覚支2
除覚支3
除覚支4


一者、拓法覚支 
二者、精進覚支
三者、喜覚支
四者、除覚支   
五者、捨覚支
六者、定覚支
七者、念覚支


「択法覚支」は毫釐有差、天地懸隔なり。このゆえに、至道不難易、唯要自揀択《唯自ら揀択せんことを要す》

のみなり。



「毫釐有差」一番目の択法覚支。これはこの言葉は、普勧坐禅儀などにも引かれているのでしょう。

「毫釐有差、天地懸隔なり。このゆえに、至道不難易、唯要自揀択《唯自ら揀択せんことを要す》のみなり」

好き嫌い、えり好みするな、と言っております。これ三祖様の言葉ですか。


修行をして行く、お悟りを開く。等覚。七つの等覚。七等覚。どの位の事を、毫釐も差有ればって言う様な事、言うのかしら。

教えられて分かると言う事がま先ず挙げられますね。教えられてわかるって言う事でしょ。

隔たりが出来たって言う事でしょう。もともとそう言う生活をちゃんとしているにも拘らず、教えられたからああなるほどそうだ

って思って、気が付く。気がついただけ隔たりがあるのでしょう。


気がついたもんだから、喜ぶでしょう。喜ぶって言う事はよさそうなんだけども、本来はそんな喜憂、喜びや憂いって言うもの、

持たないものでしょう。それが一番穏やかなんでしょう。天地はるかに隔たりますよ。だから、悟りと言う様な事も取上げられるは、

悟るとなんか人が変わった様になる。本来ちゃんとしていたものに気がついただけですよね。

だから穏やかであって当たり前なんですよね。だけど、今迄気がつかなかったもんだから、気がつくと、喜ぶんだよね。

それを披けらしたりして騒ぐもんだから、何か凄いように思うんだけど、本当はもっとおとなしいものでしょうね。


道に至るのに難しい事はない。難易、易しいとか難しいとかって言う事は無い。

こういう事を示されても、わかりにくいんだろうけど、こうやって、バシン!(机を打つ)こうやって見ると,

よくわかるでしょう。バシン!(机を打つ)これを聞くのにですよ、易しいとか難しいとか

バシン!(机を打つ)言わないんですよね。ただ音が響いている通り、こうやって居てみるとですよ。

揀択、選り好みをせずに、バシン!(机を打つ)こうやって居てみると、この通りになるんじゃないですか。

バシン!(机を打つ)これが、日常生活の、人間のあらゆる会話です。バシン!(机を打つ)


ところが、人間の会話はこの音と少し、皆さん方受け取り方が違うようです。バシン!(机を打つ)

会話になるとですね、ただ聞いてるだけじゃ役に立たないって、皆思うじゃないですか。バシン!(机を打つ)

何を言わんとしてるのか、内容がわからなきゃ聞いても意味が無いって思ってる。どころが、

バシン!(机を打つ)ただ聞いてると何を言ってるのかわかる様になってるんですね。


何故ただ聞いてると分かる様になるかって言うと、余分なものを一切そこにつけずに、相手が言ってる通りに入って来るからです。

あれがレコードする時にですよ、相手が喋ってるのをレコードする時に、私達が聞くようにですね、あの人、あんな事言ってるけど、

こうじゃないかとか、ああじゃないかとかって言う様なものが一緒に録音されてテープが出来たらですね、今度かけて聞いた時に、

なんだろうと思うんでしょう。そんな風には入らないんですよ、録音て。本当に自分の考え方(見解をつけず)はもう一切無しに、

相手が喋ってる通りの事だけが、その通り録音できる様になってる。


この様に皆さんも聞いたら、何回聞いてもはっきりするんでしょう。ところが、こう言う聞き方を殆どしてないんだよね。

それはもう体験上、皆さんよく分かるでしょう。それは人を見たりするのですよね。過去に出遭った事のあるその人達の思いを、

そこに皆引き出して、そう言うものを並べて聞くから。そう言う事を兎に角しないんです。揀択、選り好み、選り嫌いをしない。

これが達磨さんから三代目の鑑智僧燦禅師の残されたお悟りの境涯を唱ったお言葉の冒頭にある。仏法の真髄なんです、これ。


これが一番目の終わりだもんね、道元禅師。択法覚支。こうやって選り好みを離れてみると、真実の様子がよーく分かるって

言ってるんですね。好き嫌いをしないって大変な事でしょう、皆さん、生活の中で。

目が皆さんの持ってる目が、物を見る時好き嫌いをしたら、如何いう事になるんですかね。

あのへんで、転ぶ人がたくさん出て来る。耳も好き嫌いをしないからいいんですよね。本当にこの身体は好き嫌いをしない様に

生活してるんですよ。考えも好き嫌いをしていないのに、考えが考えに騙されるんです。

自分を中心にして自分の気に入る様な事を考えるもんだから。


「精進覚支」は、不曾攙奪行市なり。自買自売、ともに定価あり、知貴あり。屈己推人《己を屈して人を推す》に相似なりと

いへども通身撲不砕なり。一転語を自売ることいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。驢事未了、馬事到来なり。



二番目に行きます。「精進覚支」「不曾攙奪行市なり」って読むんですかね。奪ったり、何だろ。

町を歩いている時に色んなものに出会った時に、それを自分の思いを中心にして如何こうする様な気配無しで、

歩いてみるといいですね。知らない場所に行って散策をする、或いは景色を愛ずる時に、本当にただ、そこの今の有り様だけに、

こうやって触れている、そう言う様なこう生活してみると、いいと思うのね。


「自買自売」本当に「自買自売」って言うけども、自ら売り自ら買うって言うけども、

何回も同じ様な事を申し上げるけども、このものの活動以外にないんだものしょうがないよね。あの人があんな事言ってる、

あれがあんな事やってるって言う様な事でも、皆「自買自売」でしょう。自らの様子でしょう。

そう言う風に見たり、そう言う風に聞いたり思ったり、誰がやってるかったら、向こうじゃない。全部このものの今の働きですよね。


それだのに、あの人があんな事言ってるって思うと、自分がやってる事だとは思ってない。何故か向こうの人がそう言う事言ってる

っていう風に聞いてるんです。本当に自分が今、その通りの音声に触れて、その通りの音声を自分が今聞いてると思わないのね。

人の事の様にこう思わされると言う処に、もう一度見てみる必要があるんでしょう。


「ともに定価あり、知貴あり」どうやって値段つけるのかね。定価あり。一番はっきりしてるのは、

そのことがそのことであるって言う値、値段は一番はっきりしてるでしょう。幾らだとは言わないですよ、

そのことがそのことであるって言う値段は。ものすごくはっきりしてますよね。

「知貴あり」その事ことがその事であるって言う事がどれ位尊い事か。

かけがえの無い命って言う表現があるね。他に比べるものの無いものの在り方、それがこう言う知貴でしょう。

他のものにとって変える事の出来ない、皆そのものに、そのものに価値があるのでしょう。それで十分でしょうね。


「屈己推人《己を屈して人を推す》に相似なりといへども通身撲不砕なり。」己を屈して人を推す、

これも先ほど触れた様に、何か自他の関係がある様に、こう見えるんだけども、実際にはやってみるとよく分かる通り、

このものの自活動だけですよねえ。一日中、各自自分、このものの自活動しているだけです。そっから一歩も出ない。

だから、人に叩かれて壊れる様な気配のものは無い。本当にうまく出来てる。


「一転語を自売ることいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。」一転語って言葉ひとつでですね、

自分の迷いや苦しみや、そう言うものがすっかりこう取れて、すっきりする様な、そう言うものを一転語といいますね、言葉。

翠巌と言う人は、毎日自分で、「翠巌!」って言って、「ハーイ」って言って返事をして生活した人です。いいでしょう。

「しっかりしてるか」って自分で問いかけて、「ハイ」って返事して、大丈夫ですって、そうやって生活した人。

そう言う人もいる。皆さん方もその位の事はやったらいいじゃん。


「驢事未了、馬事到来なり。」ものの推移って言うものはそうでしょう。

例えば家なんかでも、母さんと朝の連続テレビ小説、じゃない、朝ドラ、ああいうの月曜日から土曜日まであるから見てる。

時間があるとみてる。でも面白い事にですね、人が来たり、色々な用事が出来ると、そんな事にかまっていれないから対応する。

何か見なれかった様に思うじゃないですか。その時間に。でも次の日見るのに何も支障も無い。

エー、一回のドラマが見れなくてもですよ。


皆さんだってそうでしょ。これが全部終わらなきゃ次の仕事できないと思ってるかも知れないけど、そんな事は無いでしょ。

次の仕事が始まると、途中でも、それで次の事がちゃんと出来る様になってるでしょ。だけど、人間の考え方ってのは強烈だから、

一応一日の日程を組んで、何時から何時までこう言う事をしますって言って、厳格な人はその通り、こうやらないと気がすまない。

で何割出きたか、盛んにやってますけど、あまり効果は無いね。要らん事だとおもう。


現実の生活の中では、そんな決めたこと中心に生活してたら、役に立たないよ。

思いもよらない事が次から次へ発生するんだもん。ちゃんとそれについて行ける様になってるじゃない、その変化に。

だけど、こっちがきちっとしたもの持ってると、なんか、こっちを崩されたくないもんだから、そっちの変化についていかないんだよ

ね。これ災害の時、如何するんですか。エー、教えられたマニュアルが此処にあってですね、避難する時に、こうなったらあそこへ

行くんです、と言って、目の前が大変な事になってる所、わざわざそっちへ行きますか。

それは現状に従って変化するのが一番自然なんでしょう。そう言う風な事も、こうやって勉強するのでしょう。

精進をするって言うんだけども、精進覚。


思いが強いと、人間は何となく二重生活してる様な気になるんですよ。今やってる事をやりながら、気になる事があるのよ。

どうしても。それは絶対精進出来ませんよ。純粋に物事に向かえない。茶碗ひとつ洗いながらでも、他の事を考えてる。

それは茶碗を洗うわずかな時間だけど、茶碗を本当に洗ってるだけだとすっきりするんだよ。何であんな事になるんかね。

だけども茶碗洗ってる時に、考える力が有って、他の事が出来るもんだから、色々事やった方が能率がいいとか効率がいいとも

思うかから、色んな事やるんだけども、心此処にあらず。ほんと面白いね。

だからやり終わった時、自分が何してたか知らないじゃない。


庭で草取りさせても、面白い人が居てね、猫の様にですね、そこでくるくるくるくる回る人がいる。草取りながら、此処に並んで、

こう向こうへ、取ったら前へ進めばいいだけなんだけども、ここでくるくるくるくる回って、自分の足の下に草を踏みつけて

見えない様にしている、草取って。だから終わったと思って前へ進むと取り残しがある。面白いね。

こういうのも、「驢事未了、馬事到来なり。」中々これ味のある句でしょう。


「喜覚支」は、老婆心切血滴々なり。大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒《大悲千手眼、

さもあらばあれ、はなはだ多端なり。臘雪の梅花先づ漏泄す、来春の消息大家寒し》なり。しかもかくのごとくなりといへども、

活鱍鱍、笑呵呵なり。



「喜覚支」「老婆心切血滴々なり」とあります。お年を召したお母さん方がの在り様に、

老婆心と言う事が言われますね。お節介とは言いませんが、非常に色んな事を気にかけてくれる。

今、そう言う人も少なくなって来た。下手な事言うとうるさいと言われるものだから、中々人を心配してくれるお年寄も減ってきた。

あそこにいい人がいるんだけどって言う様な事を、昔の人は人に勧めたの。

それで、しり込みしてる人でも、機縁ができて結婚したりする様なこともあった。


或いは職業なんか探してる場所でも、何かこの頃家にいるけど、どうしてるの、イヤ仕事が無くて、あ、そういえばあそこで

何かこの前、あんな事言ってたよ、行ってみたらって、兎に角そうやって、情報を色々知っていてですね、

良かれと思う事を勧めてくれる。やるかやらないかはその人です。別に強制するわけじゃありません。老婆心切てのは。


それだからいいんですよね。あれがお節介で、その通り、どうしても私の言う通りがもって、言う風になったら,

うるさくてしょうがない。それはちょっと行き過ぎです。そうじゃない。本当にただ情報をそこに提供して促してくれる。

そう言うのが老婆心でしょう。見て見ぬふりは出来ない言う位、いつも我が事の様に、人の事が大事にされてる。

そう言うのがこの老婆心の様子でしょう。


「大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒《大悲千手眼、さもあらばあれ、はなはだ多端なり。

臘雪の梅花先づ漏泄す、来春の消息大家寒し》なり。」
こんな句があげてあります。


千手千眼と言う観音様ですね。大悲千手眼。異様な観音様の様に聞こえるけれども、これが皆さん方の本来の活動を、

時間をずーっと並べてその時々の目の働きを挙げれば、まあ千位じゃ終わらない。手の動きだって、千本位じゃ終わらない位、

一日の中では色んな、この手がですね、活動してる。そう言う事を表した観音様なんだよ。だから観音様というのは、

皆さん方の素晴らしさを表している、象徴している仏様ですよ。とりも直さず自分自身のことです。


「さもあらばあれ、はなはだ多端なり。」本当に何をどうしてるのかわからない位、色んな事、こうやってますね。

その中で、12月ですかね、「臘雪、」雪の降り積もる中で、梅の花が先ず花を開く、「漏泄す。」

花が開くと咲いた事が現れる。 「来春の消息大家寒し。」まだ外気も冷えているが、

もう春が近づいてくるんだなあって言う様な事でしょうね。


「しかもかくのごとくなりといへども、活鱍鱍、笑呵呵なり。」一々、もう生き生きとした働きをしてる。

生活と言う熟字を見ると、生き活きと書いてあるねえ。ところが、生活、生き生きしてない生活の人結構いる。

腐った鯛の様に生活してる人が居る。でも腐っても鯛だからいいかも知れない。

魚が釣りあげられると、そこで、ピンピン跳ねる様な、活きのいい状況ですかね。

「活鱍鱍。」採りたての様子って言うんでしょうかね、何時でも。初物って言う表現もあります。

生涯の中で、一回しか出会わない初物。そういうものを味わって行くのが生活と言う事でしょう。


今日もまたご飯か、今日もまた味噌汁か。イチロー選手は毎朝カレーを食べると言うけども、今日もカレーか。そうじゃない。

本当にその時初めて、そのものに触れる。これ本当にそうでしょう。昨日の事を今日やる人はいませんよ。

似た様な事はやるかも知れない、それは一応言っときますが、似た様な事をやってるかも知れないけど、内容は全く違う。

昨日の事をやってる訳じゃない。全部今はじめて取上げる事です。そう言う処を見ると、もう、活鱍鱍ってのがよくわかる。

生き生きしてる。


皆さんだって初めて出会うって言う時には、心が躍るのでしょう。予想をはるかに超えるのでしょう。それ位面白いのでしょう。

だから喜ぶと言う字が書いてある。「喜覚支」喜覚支って読むのかね、喜び。

又、又って言う風なものの見方になると、人間は段々つまらなくなってくるね、本当に。あれは人を台無しにすることばですよね。

又、又、段々しょげてくる、力が出ない。ほら初めてでしょうって言って出されたら、驚きと感動と、ねえ年を取らない。

そういうものの触れ方があるじゃないですか。目を輝かしていれるような触れ方が出来るじゃないですか。


子供を見るにしてもそう。家の子、またーあんな事をしてる、そういう見方しかしてない様な育て方したら、

子供はのびのび育たないよね。芽を摘んじゃうよね、子供の伸び行く新芽を。

無限に伸びていく能力を、皆そうやって摘んでしまうじゃないですか、それじゃ。


「笑呵呵、」声を上げて、大きな声をあげて、腹の底から笑いが出て来る。

腹の底から笑える様な生き方っていいですね。今まで生きて来た中で、腹を抱えて、本当に笑う様な事に、

どれ位人は出会っているのでしょうか。一度も、もし無いとしたら、淋しいですよ。エー。一度も。本当に腹を抱えて笑う。

そんな出会いは無いですか。自分のこの素晴らしさにもし出会ったら、そりゃ人は腹を抱えて笑うでしょうねえ。

何-んだ今迄一緒にずーっと過ごして来たのに、自分のこんな素晴らしさがある事を知らなくてって、自分の愚かさに腹を抱えて

笑うかも知れないね。まあ色々ありますね。じゃ丁度いいところですね。この辺で。(2017.3.16書き起こしに 変更)






2016.6.26   ここから録音あり

p491 持っている人は見てください。(法界次第初門中の下)

1 択法覚分 智慧をもて諸法を観ずる時 善能く真偽を簡別して、謬りて諸の虚偽の法を取せず、故に択覚分と名づく。

ものを学ぶ時に、その内容等が正しいか偽りであるかっていうことをよく知って、正しい方を選んで信行するということですね。


2精進覚分 精進して諸の法を修する時、善能く覚了して、謬りて無益の苦行を行ぜず、常に勤心を持て真法の中にあり

て行ず、故に精進覚分と名づく。


「謬りて無益の苦行を行ぜず」とそういうことが記されています。間違ってやってはならないことをやって、

効果があるように思っている。そういうことをしたのでは精進にならないということですね。

3 喜覚分 若し心に法喜を得ば、善能くこの喜は、顛倒の法によりて生ずるにあらざることを覚了して、歓喜して真の法喜に住す。故に喜覚分と名づく。

真実のありように触れて、本当にこうなっている、っていうそういう喜び。そういうものを大事にして生きていく。

間違えると、所謂自分の感情、そういうもので、気に入ったものがあると喜ぶ、そういうこともありますが、

そういうことはないということですね。


今日のところ行きますよ。p491 法界次第初門中之下

4 除覚分 若し、諸見と煩悩とを除く時、善能く覚了して諸の虚偽を除き、真正の善根を損なわず、故に除覚分と名づく。

煩悩、いわゆる自分の頭の中で、ありもしないことを色々に想像して思い起こす。そういうことと、真実のありようというのは違いま

すから、どちらを除くかと言えば、真実でない、自分勝手に作り出した、自分の中で想像したようなものを、そういうものを本当に相手にし

ないで行くということですね。


ここから P291 道元禅師の本文

「除覚支」は、もしみづからがなかにありてはみづからと、群せず、他のなかにありては他と群せず。我得你不得なり。

灼燃道著、異類中行なり。


「もし自らが中にありてはみづからと群せず」難しいこと書いてないでしょ。「もし自らが中にありてはみづからと群せず」

そのものと一緒になった時には、一緒になってるって言うようなことは出てこないのでしょう。どうですか。そうなってませんか。

いろんなものと一緒になった時に、私は今一緒になってます、という様なものが中に介在するっていうことはないでしょう。

無くなるのでしょう、一緒になると。「他のなかにありては他と群せず」他のものもないですね。

どんなものでも、今その中に一緒になって、こうやっている時には、自分というものは絶対立たないですよ。それほど仲良しです。

仲がいい時は自分というものが立たない時です。お互いどちらも。

そこに故事が引いてある。「我得你不得」私はいただいたけど、あなたはいただいてないって言ってます。

後の方に、面白い事書いてある。(P491 291の10行目の補)

「玄沙志備一日鼓山の来るを見て乃ち一円相をなして之を示す」玄沙の志備が向こうから鼓山と言う方が来た時に、こうやって見

せた。(扇で円を描く)こうやって。そしたら向こうから来た鼓山がですね、「人々這箇を出づる事こと不得」

どういうことかと言ったら、こうやったら必ずそういう風になるよって、言ったでしょうね。

師曰く、玄沙が「情(まこと)に知んぬ、汝、驢胎馬腹裏に向かって活計を作すことを」つまらんこと言ってると言っております。

で、じゃあって、鼓山が玄沙に、つまらんことと言うんだったら、あなたはどうなんですかって、逆に質問して来た。

そしたら玄沙がですね、同じように、「人々這箇を出づる事こと不得なり」。そうやって同じ言葉を返した。

それに対して、鼓山「和尚与麼に道ふも、却って得たり。某甚と為してか道不得なる」あなたと同じように私も言ってるのに、どうして

私の言い分は受け入れられないのですか。

その時玄沙が言うのに、「我得你不得」っていう風に答えたんです。


そりゃそうでしょ。皆、一人ひとり自分の有り様であって、人の有り様に一切用が無いように出来ているでしょう。

一日中生活見て御覧なさい。たびたび取り上げてますけど、これだけお寺の中の、今の様子をこうやって見るのにですね、

それぞれ眼を持ってるんですよ。眼を持ってるんだけど、人の目で物を見るのに、一切用が無いんだよね。わかるでしょう。

一切人の眼で見てるものなんか無いでしょ。こうやって全部、各自自分の目で見てるだけであって。

さっきもあったように、「如ぜず」人の様子とごちゃごちゃに交わるなんてことは絶対ないんですね。生活してて。

あの人の見方が、この人の見方がっていうようなことは出てこないです。

こうやって見てて。本当に自分の、今、目でみてる様子だけです。そういうのはどうですか。私の言ってること、おかしいかしら?。

どうですか。そんなことはないって言う人いますか。

本当に自分の眼で見てる様子だけでしょ。想像はしますよ。他の人はどんな風に見てるんだろうかとか、どんな風に見えるんだろう

って、想像は幾らでもします。だけど、実際に自分の目の様子でこうやって見てみると、生活してる様子を見てみると、

こうやって必ず自分の様子だけで、他人に用ないじゃないですか。あなたがどう見ようが。

で、困った事ないでしょ、それで、自分の今見えてる様子だけで。他人の見た様子はどうだって話をされて、確認するんだって、最

終的には自分の目で確認するだけでしょ。他人の目で確認なんか絶対にないのでしょう。


参加者「最初のとき、後で他の人がどう思ったかって聞き合わせせにゃ、世の中が成りたたんような気がする」

老師  成り立ってる。自分の様子で。他人の様子なんか一切なくったって成り立ってるじゃん。成り立ってるでしょう。

どうですか。成り立ってないかしら。

何か他人の見た様子無いとなんだかわからなくなる、そんな事ない。全部自分の今の様子だけでちゃんと成り立ってるんじゃない

ですか。何かそれに対して、自分で自信が無いって言うのがあるんでしょう。

つまらないこと考えるもんだから、こんなんでいいかしらって思うもんだから、自信がなくなるんでしょう。

で、他の人の見え方を気にする。

同じように見えるというと、ああ自分のも間違い無いなあって、一応認識すると、そういうのが一般なんでしょう。

今日まで全部自分の目で見たものだけですよ、認識が出きたものは。他の人の目でみたものは認識のうちに入らない。

不思議ですね。それなのに、この頭は、今おっしゃるように、他の人はどう見えるんだろうってこと想像する能力があるんもだから、

それがわからないと、これだけじゃ十分じゃないんじゃないかって、そうやって思うようになってきた。面白いなあ。


もうひとつ、灼燃道著、異類中行って言うようなこと道元禅師が言っておられ、その因縁話がある。493頁ですね。

師(道吾宗知)、南泉に見ゆ。泉問ふ、「闍梨名は什麼ぞ。師曰く「宗知」。泉云く、「智不倒の処、作麼生か宗なる」。

師曰く、「切に忌む、道著することを」。泉云く、「酌然道著すれば、即ち頭角生ず」。三日後、師と雲厳と、後架に在りて把針す。

泉、見て乃ち問ふ、「前日道えり、智不倒の処、切に忌む、道著することを。道著すれば、即ち頭角生ずと。

合に作麼生か行履せん」。師、便ち身を抽んでて、僧堂に入る。泉、便ち去りぬ。師却来して坐す。

巌問ふ、「師適来何ぞ和尚に祇対せざりし」。師曰く、「汝、得恁麼霊利なり」。巌、措くこと罔し。

却て去って南泉に問うて云く、「適来の因縁、知頭陀何ぞ和尚に祇対せざりし」。泉云く、「他は却て是れ異類中の行なり」。

巌云く、「如何ならんか是れ異類中行」。泉云く、「道ふことを見ずや、智不倒の処、切に忌む、道著することを。道著すれば、即ち

頭角生ず。直に須らく異類中に向かって行いて始得なるべし」。


えー、南泉と道吾と雲巌3人が出てきますけど、南泉さんに相見した。南泉さんが、「名前はなんというんですか」言ったら、

道吾が、「宗知」と言う。名前にあやかってですね、南泉が、「智不倒の処、作麼生か宗なる」。智不倒の処、知るとか知らないと

か、認識できるとかわかったとかいうようなものが差し挟まれない処、そういうものがものの本質だろう、と言うんでしょ。

その南泉の言い分に対して、「切に忌む、道著することを」言い分は良いけれども、そういうようなものに引っ掛かるような処が若し

あれば、それは、智不倒の処って言いながら、智不倒の処じゃなくて、智に棹を指すような内容になってるんじゃないかって。

そうやって指摘をしてます。「酌然道著すれば」それに対して南泉は、おおそうだよ、そうやってそういうところに引っ掛かるとな、

すぐ問題が起きるんだよって「頭角生ず」って言ってる。

三日後、道吾と雲巌が後架にあって、縫い物をしていた。それを南泉がご覧になって問う、「前日言えり、切に忌む、智不倒の処、

道著することを。道著すれば、頭角生ずと。まさに作麼生か行履せん」

道吾は立ち上がって僧堂に入っていった。南泉はその場から立ち去った。

道吾は後架に戻ってきて坐った。雲巌が訪ねた「師適来何ぞ和尚に祇対せざりし」

道吾に、どうして先ほど南泉禅師と話し合わなかったのか。

道吾は雲巌に、「あなたは本当に頭が切れますね」

雲巌は其の言い分に取り合わず、その場を去って南泉禅師に問うた。「適来の因縁、どうして貴方に訊ねなかったのでしょうか」

南泉禅師は「道吾は異類中の生活をしているんだよ」

一緒に生活をしていてもですね、ひとつも他人の在り様の中に、一緒に生活をしていても交らずにですね、独立独歩ですね。

きちんとして生活がでいてるというので異類中の行。めちゃくちゃな人の話してる真ただ中にいて、その話聞きながら、ひとつもそう

いうのに染まらないというに行ける力があるっていうことを異類中の行といいます。

このような話したら、雲巌が、「異類中行とはどの様なことでしょうか」

南泉禅師「彼道吾が言っていたでしょう。切に忌む、道著することを」、道著すれば必ず、頭角を生ずるって、だから彼はそのことを

本当に、そういう風なことにならないように実践している。それが異類中の行という、こうやって示したんですね。そんなようなことが

こういう、ここにある通りのやり取りの原点です。