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正法眼蔵 三十七品菩提分法 第一部あとがき

 井上貫道老師の三十七品菩提分法提唱は、二○一六年一月から十一月まで、円通寺講話会(岡山県倉敷市玉島)にて行われました。
 三十七品菩提分法は、主に小乗仏教の悟りを得るための方法であるとされています。日本では大乗仏教でこれが取り上げられる事は希です。道元禅師は、釈迦の説かれた教えとしての仏教があるだけで、大乗と小乗の違いは、異なる時代と文化で教えられた故であるとして、二つの仏教を区別されませんでした。
 道元禅師はこの三十七品菩提分法をとりあげ、修行の在り方を説かれています。それは小乗仏教の修行の方法とは異なった展開になっています。身心を対象として観て修行によって良くする方法と異なり、この身心は既に天然自性身であり、修行は本来備わっている本性を、自己の身心に学びあきらめる道とされています。
 井上貫道老師は、道元禅師のこの教えを嗣がれ、禅の根本「正しく法の生滅を観る」只管打坐の修行の在り方を提唱されています。それは私達の身心すなわち六根の活動作用のまま、自分の見方、考え方、感情、思いを差し挟まずにいることであり、道元禅師の真意を具体的な事実で示され、訳されて行かれます。三十七品菩提分法について、「仏法を伝える為に三十七も方法を挙げて説かれていますが、どれか一つでも実践をして下さい。一つの方法の中に、それ以外の三十六のもの全てが含まれています。」と述べられます。
 三十七品菩提分法は四念住、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道と三十七の表題で示されています。この第一部は四念住、四正断、四神足の構成となっています。四念住は観身不浄、観是受苦、観心無常、観法無我です。四念住を例に上げて、提唱内容を紹介します。
 観身不浄について、一般には身を不浄と観て煩悩を起こさない様に、と説かれますが、道元禅師は違った展開をされます。
 「『観身不浄』といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり」今の観身、身体を見ればですね、全体皮で包まれている、臭皮袋って言い方をします。これの中に臭い物が一杯入ってるって言うんですね。えー?って思いませんか。是(この身心)が全てだって、中々思えないでしょう。この部屋にこれだけの色んな物があるって言うことは、誰がやるのですか。他の人がやりますか、誰か。必ずこの一袋皮と言われるこの身体が、こうやって感じ取ってる訳でしょう。尽十方界、皆、自分自身の様子でしょう。他の人の様子なんか一つも無いんですよ。それ位この一袋皮、尽十方界なんですね。
 「これ真実体なるがゆえに、活路に跳々する『観身不浄』なり。」生き生きした様子でしょ、活路って。生活って言うのも、生き活き(イキイキ)と書くじゃんね。「不跳ならんは観不得」不跳ならんは観ることを得ず。何時までも前のことに留まって居る様では、今の様子がはっきり観ることが出来ないという意味ですね。前のものを問題にしてる間はパン!本当に音に触れることは出来ない。 「正当観は卓々来なり」本当に自分自身のこう様子を見ると言う事が大事なんでしょう。卓々高く立つ様とかすぐれた様とか言って訳してますけども、大事な事だといってるんです。自分を本当に観るって言う事が。それだけで十分なんですね。だって、この上で問題が起こるんだから。この各自分自身の、この身心の上で問題が起こるんだから。他処で問題が起こった事ないんだから、生涯。問題が起こるって必ず、この自分自身の上で問題が起こる。他の人の身体の様子ではない。そんなのは百も承知でしょう。
 「身はこれ不浄なりと観ず」私達も学校に行って習った時に、この不浄観て言うのをですね、どういう風に先生方が、教えてるかって言うと、此処に美味しいご馳走があるとするとですね、人間はその美味しいものを食べる事に執着するから、物に。だからそういう時に、障子の桟に付いている塵を指で集めて取ってご馳走の上に乗せて食べるって、そうやって不浄観っていうのは、そうやって教えられた。人間も、あの人は綺麗な人だって惚れるようなことが事が在った時に、何だ愛欲かな、そういうものにこう引っ張られるのはいけないから、綺麗な人を見た時は、身体の中は糞(いばり)だらけって、そういう風に思えと言って、そうするとその執着しなくなるって。そういう風にこの観身不浄って言うのを習った。
 多分学校でそういう風に聞いたと思うんだけど、全然違うんですよね、道元禅師のは。そう言う綺麗とか汚いとかって言うことの話をしてるわけじゃない、とこう言ってるんですね。これが此処の大事なとこなんです。「夜半見明星の道理」夜半て言うんだけど、明け方でも良いでしょう。お釈迦様は明けの明星をご覧になられた。明けの明星っていうのは、午前何時ごろかしら、まだ夜が明ける前ですね。明星は金星です。金星は他の星よりも、ちょっと人間の肉眼で見た時に明るく見えるし、大きく見えるからよく目立つ星です。見ている時は見るという事はない。見ている人も出てこない。明星が瞬いているだけです。自覚も無い。そういうことを観身不浄と言うんだって。まさしくそれを読んでみると、どこに身は不浄だって観るなんて、そういう綺麗とか汚いって事は一切問題になってないね、確かに。これ大事な事ですね。
 「浄穢の比論にあらず。」観身不浄というのは一般に考えておられる様に、綺麗とか汚いって言う、相対的なものの見方の上の話ではない。「まさに拈処に通路ある道理を参究すべし」って言う事は今やってるものを取り上げて、その中に勉強する本当の道があるということを学びなさい、とこういってます。私達は、己事究明と言って、自分自身が本当にどうあるかって事を学ぶんです。これさえ学べば全て学べるんです。」
 『観受是苦』について、
 「『受はこれ苦なりと観ず』と読むのでしょうね。まあ平易なことから少し話してみたいんだけど、受は是苦なりと観ず。他人の話を耳にした故に問題が起きる、って云う様な事が皆さん方普段やってることです。この自分の身体に人の喋ってる事が聞こえて来なければ、その人が何を言っていても問題は多分起きない。聞くと起きるんですね。
 その内容を見ると『自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず』と説明してある。向こうの物をこっちに受け入れるとか、あっちの物をこっちに入れるとか、自分のものをとかって言う風な事ではない、と言う事が全部ここに書いてある。有るとか無いとか。これは簡単に言えば最初から受け入れると言う様な、向こうに物があって、こっちに人が居て物を見るって言う様な構図に成っていないと言う事です。どうでしょう、理解いくかしら。基本的には皆さんが考えている様な在り方でないと言う事です。もっと平易な言葉を言えば、最初から全部ちゃんと備わっていると言う事です。何一つ欠ける事の無いほど完璧になってると言う事です、最初に。別々になっていないのです。
 苦しみの中で、最初に仏教で挙げてあるのは生老病死って、それを四苦、四つの苦しみと言ってます。その最初は、生まれると言う事が苦しみの最初に挙げられてある。えっ生まれる事が苦しみなのかって、それはそうでしょ。生まれたから死ぬるのです。生まれたから老いていくのです。老いの苦しみ。生まれて来たから、病にかかったりして、傷を負ったり色々するのです。もっと別な事を言えば、生まれて来たから生きていくために、皆さん、遮二無二苦しんで生きて、生活して、生きるために苦しんでるんでしょう。自分だけならまだしも、家族が居たりすると、尚そう言う事が出て来る。まあ一般にはそうやって苦しむんですね、それで。」
  「『自己に問著すべし』一体苦しみって何だって言ってるんですね。『作麼生是苦』苦しむ、苦しむって言うけど、一体何だろう、苦しむって。その苦しんで居る時に、色々考えている事を全部止めてしまって生活しても、何も失うものは無い。あれを考えてなかったら生活が滅茶苦茶になって、失われたものが一杯出てくるって、そんなことは一切ない。皆さん方余分な事考えてない時楽でしょう。ずーっと抱えてた方が楽しいんですか、苦しみを。それを相手にしてる方が生き甲斐のある人生なんですか。そのために長い時間を使うんですか。終わった事手をつけて気に入る様に直すんですか。そう言うの修行とは言わないね。」
 観心無常について、
 「『観心無常』心無常を観ず。ここで心と言う字が使われているけども、皆さんが常識的に、心って何かものを思うって、そういう風な意味合いの文字ではありません。心と言うのは一切のものを指すんですね。全てのものを指す代名詞です、心て。無常って言うのも皆さん良く知ってると思うけど、常なし。生活自体をよく見てもらえば、もう明白ですね。全部、身体中何処を見たって、先程の事やってる人は一人もいない。そういう風に出来てるのですね。
 何処にこだわるんでしょうかねえ。何処に捉まって悩むんですかねぇ。悩むものが無い、残って無いよ。問題にするものが無いんだよ。それが無常の様子なんですよ。本当に観て御覧なさい。きれいな言い方をすれば、一度も経験したことの無い事ばかりを、人はするって言うことです、生きてるという事。」「無常と言われる真実は、本当に後にも先にも無い、今の在り方だけで貫かれてるんですね。昨日のこと思い出すことは出来るけど、昨日の事は今日やれない。明日の事を思う事はあるけれど、明日の事は今出来ない。本当に今やってることが、今やってる所で今あるだけです。これ最高の境地なんですよ。それで何も言う事ないでしょう。」と、今の在り様以外に無く、今、ここ、私、の在り様が観心無常であると説かれています。
 観法無我は、「『観法無我』法はものですね、ルールでいいでしょうかね。全てのものの成り立ち、決まり、活動法、ルール、大きなものと小さいものがあって、こう言う風に見えるのは、ルールですね。これはこれ、これはこれって、こう言う風に見えるんですね。誰も決めるんじゃないんだけど、きちっとこう言う風に。犯すことの出来ない在り方なのですね。それにはですね、決まりがないとある。無我。中心になる何かものがない。」
 更に、『狗子仏性無なり、狗子仏性有なり』を上げて、 「犬ころに仏性が有るとか無いとか言う話なんだけど、有るとか無いとか言うものは人間にとってですね、面白いですね。無(ム)って言うと、無(な)いっていう風に読むんでしょう。先ず卑近な話をすれば、無ムって言う音声があるのにも拘らず、ムって言ったら無(な)いって言うんです。聞こえない様なこと言うんでしょう。えっ!ムって言ったら、聞こえてるにも拘らず、無いって。文字を見て、ムって言ったら、書いてある字があるにも拘らず、無いって言う。それ位可笑しなことしてるんですよ。有るって言う字が書いてあっても、無いって言う字が書いてあってもですね、そう言う事が行われているだけなんですよ。それが心の様子なんですよ。有という字に向かうと有、無という字向かうと無っていう風なものがちゃーんとその通りに頂ける様に、人はなっている。それが心と言われるものの働きなんですね。」
 「『一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。 』まあざっと一杯色々書いてくれてあります。何故こんなに似た様なことを沢山書くかって言うと、人間には癖があって、素直に中々ならない。これ一つずつその書いて在るとおりにこうやって触れて行って御覧なさい。必ずその通りに変わって行きます、書いて有るとおり。
 だけど、何だ同じ様なもの沢山並んでるな、これ一体何だって思い始めると、もうこの書いてある事を学ぶ事とは全く違うことやってますよね。自分の頭の中で描いてる事を相手にしてるだけであって、この文章に書かれている事を問題にはしていません。 色んな日常の中で現象が起きる。色んなものに触れた時に、その現象に触れた時に、現象と言う事実に触れた時に、その事実を本当は大事にすべきなんだけども、事実に触れたらすぐ、それは何だって言う風に扱い始める、人間は。それは何だって扱い始める時には、もう事実は抜きです。考え方で捉えたものだけが相手になってるんです。」と、その事がその通り伝わる事の大事さを話されています。
 最後に、「『釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)』こう言う風に生活をしていく。こんな安楽なことはない。しかも聖胎ですね。ひじりの身体と言っていいのか。これがお釈迦様がやられた修行です。ものは本当に分からないと、同じ様に生活していて居るけど、全然違うんですね。それで、生き様も全く変わって来るんですよ。何してるか分からん、人の様子だから分からないかも知れないけど。何十年も付き合ってる人が周りに沢山居るので、良くわかる。そう言う人たちが変わってくるの。全く人生が変わって来る。やってることは別に今までと変わった生活している訳じゃない。毎日同じことやってる。事実を相手にするのと思いを相手にするのでは、同じ物を見て居る様で、全く異なる世界なんですね。」
 この様に、道元禅師のご文章に沿ってその真意を正しく説かれ、実際の修行のあり方を示唆して下さるご提唱だとおもいます。


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