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他心通 ⅩⅣ (終)

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 その次にはこんなのを上げてある。「他拳頭通あるべし、」拳頭、拳の、握り拳の頭と書くんでしょう、拳頭。「他眼睛通あるべし。」眼の様子だってそうでしょう。今申し上げてる通りで。不思議だねぇ、一生涯、あの人がこれがって言って私達は眺めてるけども、余所の物の様に言いながら眺めてるけど、見てみると全部ただ自分の眼の働きだけですからね。エー。そうでしょう。ああ紅葉がきれいだなぁとか、良寛様の像がこうやって何時も彼処に来るとあるけど、色々眺めてる。皆よそ事の様に一応頭の中見てるんだけど、やってる事は皆、自分自身の眼の今の働きそのもの以外に無いじゃない。それが他眼睛通と言うんでしょう。どんな物でもこうやってすぐ通じるんだよ、皆さんの眼はいきなり。初めての物もすぐこうやって取り挙げてみても、ちゃーんとその通りに通じる様に出来てる。筒抜け、底抜け。
「すでに恁麼ならば、」そのように出来てるんならば、「まさに自心通あるべし、」って事は、今度は自分の様子ってのが、それで初めてあーって気が付きそうなもんだ。自他を頭に置いている様なものじゃない、自心通って。その様に自他を離れた活動してるって言う事が、自分の様子の中に、自分の様子ってものは初めから自他なんて言うものは一つも立てないで活動してるって言う位の事が分かるんですね。自身通もそうでしょう。今日まで他人の身体で生きた事が一度も無い。一時たりとも他人の身体で生きた事が無い。全部ただこの戴いてる自分自身の身体の様子だけですよ、ずーっと。これは本当によくよく知ってみる必要があるんじゃないですか。これが分からないから、常識として、あいつがこいつがって言う様な物にひっかき回されてるのでしょう。どうしてもそう言う見方しか出来ないのでしょう。其処に仏道を学ぶ用があるじゃない。
 一般の学問は、自他を立てた上の話だもん。本物の様子を見ると、自他は無いですよ。どうして自他が無いかって言う事を証明する一つの裏打ちとして、証拠として挙げるんなら、今申し上げた様に、ずーっと今日まで他人の身体で生きた事は一度も無いと言う事でしょう。在るのは自分の中で、あの人が、あれがっていう風に見てるって言う事が、自他を立てさせてるだけであって。自分の中でそうやって自他の線を立てて見る稽古をしたもんだから、自分の頭の中が何時も闘いを挑んでるんじゃない、どっちが本当だろうかとか、どう在るべきだろうかって。
 じゃ身近な話で、皆さんの眼で物を見る時、どっちが本当だろうって見えた事ありますか、そんな風に。今見てる時に、どっちが本当だろうって、もう一つの見え方が無いと言う事じゃないですか。もう一つの見え方は、頭の中で描いた物と比べるのでしょう、って言う事は、速やかに言え老僧即今いずれの処にか在るかって言われた時に、今の様子に触れてないのでしょう。頭の中に描いた物取り上げて、あれがどうのこれがどうのって、そう言う答えしか出て来ないんでしょう。本当にこうやって触れてる時の様子に居てご覧なさい。如何する事も用が無い、いきなりその通り。そうなってるじゃないですか。そう言う事によって、従来自分が学んで来たものの見方と、本質的な自分の在り方の違いが少なくとも先ず理の上ででもですね、整理が付く。で、理の上で一応整理がついたらですね、この理が正しいって言う事がある程度理解出来ますから、理よりは本物に触れてみたいって言う事になるのじゃないですか。それが修行をさせるのでしょう。理だけではつまらないなって。ほっとけないんです。
誰も勧めないんだけど、本人が理が分かるとですね、その道理の本当の様子の処迄触れた事が無いと、自分が満足できないって言う事がこの中に出て来るですねぇ。それでほって置けずに、否応なしに修行する様になってる。そして本物に出会うと、あ、なんだ理の通りだったって言うよりも、理なんか要らない、本物って。覚えとかなくても良いんですねぇ。こうやったらこうなる、ああやったらこうなるって言うのは、道理も覚えとかなくても、本物って言うのは、そんな物一つも要らないんです。だから本当に普通の人なんです。特別な人に一つも成らないから良いんです。何か学ぶと偉くなっちゃうと言うのは、変なんですよ、ね。
 「かくのごとく道取現成せん、」今話してる様な事が自ずから行われるんじゃないですか。「おのれづから心づからの他人通ならん。」どうもしなくてもって言う言い方もあるでしょう。「おのれづから」自然と言う熟語があるでしょう。おのずからしかり。手取早い話が、今の自分の在り様って言うものは、自ずから。どうもしないのに、今の様子の中に抜き差しならない様に居るじゃないですか。作り手も居なければ、今の様子に赴いて其処まで行ったって言う事もない。そう言う物を平常心と言うんでしょう。エー。他心通って、だから私達が普段使ってる自他の他じゃないんですよね。向こうとこっちって言う物を立てた上で、向こうの様子が、向こうの人の心が分かるって言う様な意味合いではない。他心通って。コン!(机を打つ)こうなるのでしょ。向こうで音がして、こっちで聞くって言うんだけど、こうなるんでしょう。いきなりこの事がそのまま伝わる様になってるでしょう。間髪を入れずって。こうやってやると(物を見せる)いきなりそう言う事がその通りに見える様になってるんでしょう。そう言う事で良いんだよね。一応道理として見せておきたい。
 そこで、「しばらく問著すべし、拈他心通也是、拈自心通也是。」色んな事を言うけれども、色んな事取り上げて言ってるけれども、どうだと言ってる。はっきりしてるかと言う事でも良いでしょう。自分の様子だから、こうやって見せた時に、他心通を拈ずるやまた是なりや、「拈他心通也是、拈自心通也是。」言葉ってねぇ、他心通とか自心通とか言うと、従来学んで来てるから、どうしても自分の様子とか他人の様子とかって言う風に読むのでしょう。
 で、勉強の仕方はですね、一つは自分の耳に聞いて見ると良く分かる。自心通、他心通、耳って言うのは正直だから、その通りにしか聞こえないんですね。良いとか悪いとかって言う事を聞かれても、是とか非とかって言うんだけども、非の打ち所が無いですね。「自心通是なりや」って言ったら、間違いなく「自心通是なりや」ってその通りにしか聞こえない程、是非を論ずる用が無い様に出来てる。ところが人間が聞くって言うのは、前にああ言って、今こう言ってるって言う風に理解するのでしょう、ね。さっき自心通、今他心通って言う風に聞いたって言う事になると、皆さん方は自心通なのか他心通なのかって言って、考え始めるのでしょう。
 もう一回自分の耳で勉強してみると、「自心通也是」「他心通也是」って言う時に、前に言った言葉と今聞いてる言葉が一緒に其処に出て来るなんて言う事は絶対に無いのです。そう言うものが仏道を学ぶ人の在り様です。何に勉強、何処に目を付けて学ぶか?それは考え方じゃないから。実物その物にこうやって学んでみると、そう言う風になってる。ところが頭で学ぶと、さっき他心通って言ってる、今自心通って言ってる、そう言う風に。その様に聞こえないんだからしょうがないじゃん。同時に他心通と自心通ってのが、此処で一緒に聞こえる様な事はない。
 喋るんだって、自心通と他心通が同時に喋るなんて言う事は出来ない。だから滅茶苦茶にならないじゃない。何言ってるか分からない様にはならない。一緒に喋ると何言ってるかわかんなくなりますよね、きっとね。こんなに明確になってる。こう言う様な事を皆さんにちょっと知って貰って、自分の様子だから本当にどうなってるか見届けて頂いたら、速やかに言えって言うんだから、どうですかったら、はっきり答えが出る訳でしょう。じゃ常平生、何を問題にして言い争ったりしたり、葛藤が起きるかって言ったら、こう言う自分の消息を本当にはっきりしてないからでしょう。ここに仏道の仏道たる所以があるでしょう。
 良いとか悪いとかはまあしばらく置くといってます。「是即旦置」「汝得我髄」汝我が髄を得たりって言う事は、今申し上げている様に、誰しもの真実の在り様を話した時に、皆さんもその通りなってると言う事が、一応今の処理解が出来るんじゃないですか。そうやって言われてみれば、確かにそうだなって。もうちょっと願わくは欲しいのは確信ですね、自分で。言われている内容が自分の様子として自分で確信が得られるか。それが本当に得られる処に、その他心通と言われる所以があると言うんでしょう。仏祖諸仏方の悟られた内容を本当に自分でも体験をして、あ、成程こう言う事を気が付かれたんだなぁって言う事がはっきりするって言う事が、仏教で言う他心通でしょう。
 で、まあこれで一応この巻は終わり。まだ続くかと思って。本当はこれで修行は終わったんですよ。この前、まあちょっと余談ですが、今何時?まだ一時間経ってない。余談ですけどねぇ。道元禅師の残された著作と言うか著述と言うか、一杯有るんだけど、何でこう言う物が残されて居るんですかねぇって、尋ねられたんだけど、よくよく考えてみるとですね、その時に出会った時に其処で話した事なんですね。だから聴衆が違う。対象が違うから、色んな話がされたと言う事なんだろうね。足りなくて、あの時に十分話さなかったから、後九十四巻喋るとか、そう言う話じゃないんだよね。で、聞いている時の事を考えてみると良く分かるじゃないですか。正法眼蔵九十五巻今残ってるって言うんだけど、その当時聞いてる人は、他の巻なんか出て来ないよね。こうやって聞いてて。エー、無いんだもん。書き物が大体残ってないんだ、その頃は。今喋ってる処で、道元禅師の喋ってる時に其処に居た人達がその事をそのまま聞いて、それで修行は全て終り。後一切余分な物を持って来て勉強したって事はないんだね。
 だけど今の学者って言う方は九十五巻とか大部な道元禅師の著作を全部並べといて、一言なんか引っかかると、ずーっと検索して、あそこにここに、あの時代にはこの時代には、あそこにって、そう言う風にするから、何を言おうとしてるか分かんなくなっちゃう。それ学問の弊害でしょう。もう一度本当に学んでる時の自分達の在り方を自分で見てみると、そう言う勉強をすべきではない。 どんなに前に素晴らしい物が説かれていてもですね、次の会場へ行った時に、今の様に前の物を印刷して渡しといて、それから今日話をするって言う様な事は当時無いよね。
 時代考証をしておられる人達の物を借りると、弁道話が説かれる前に、普勧坐禅儀と言うものは、一応原文が出来ていると言う事が、弁道話の中に書いてあると言う事でしょう。だから一番最初に普勧坐禅儀が作られたには違いない。だけどそれは残っていない。その後に九州の国におられた、お隣の国から来ておられた修行僧、楊光秀とかって言う方が国に帰られるかどうか知りませんけども、その方の為に、現成公案と言うものを、語録として、これで、これだけ書いとけば、修行に間違いなく全て役立つって言う様な内容が現成公案に書かれているんですね。あの頃はだから正法眼蔵って言うタイトルは無かった。だけども道元禅師って言う方は、ご自分が人に差し上げる原稿を手元に残してるんだろうねぇ。亡くなる前にもう一回手を入れた十二巻本と言う物が残った。その中に現成公案の巻が入れられてる。だけどそれは恐らく他の人は見てない。
 そうこうしている間に、その後学道用心集って言う様な十項目の物が残されている。あの、十項目で非常に一つ一つの文章が短いし、言ってみれば凄い事を簡潔に書いてある。先ず第一を見てみると、本当に勉強してみたいなって言う気持ちを起こしなさいと書いてある。それ何事でもそうでしょ。これやってみたいなぁって言う気が起きなければ、中々そっちに足が向かないないじゃない。志の無い人に喋ったって、本当にね、何でもないんですよね。ゴミみたいなもんですね、どんな良い物でも。興味がないから。それが第一番目に書いて有る。菩提心を起こしなさいって書いてあるでしょう、ね。今度はその教えを聞いたら、必ず実践しなさいと書いてあるじゃない。そりゃそうでしょう。聞いて実践しないんなら、聞く意味が無いじゃない。エー、こうやって読む意味が無いじゃないですか。実践しないんだったら。自分の本箱に買って来た本がこう並べてあるだけじゃん。沢山並べてあると、余所から来ると、「あなた凄いねーこんなに勉強してるんですか。」って言われて、ちょっと気分が良い位のもんじゃないですか。何の役にも立たない。そのうちに仏道って言うのはどう言うものであるかって言う様な事が説かれてくる。そう言う事も最低限知っておかなきゃならない事が幾つか挙げて有る。
 あと肝腎なものは、正師を求めると言う事。ものを学ぶ時に、同じ学ぶんだったら、超一級の、その道の超一級の人の処に最初に行きなさいと言う。昨日の、昔のフィギュアスケートの選手のインタビューを見てたら、名古屋の方ですね、小さい時から伊東みどりさんとか一級の選手と同じリンクの中で、自分が三歳位の頃からこうやって見てる。それがもの凄い役に立つと言って勧めてました。一緒に其処にこうやっていると居ると。そんな話聞いて、仏道もそうだと思う。だから修行の道場に行って、一緒に大勢の人と修行するのでしょう。その時にどう言う道場を選ぶかって言ったら、そこにちゃんとした人が居るか居ないかで、昔は道場を選んで居た筈なの、ねぇ。プロ野球だってそうでしょう。皆良い選手がいる所に行きたいでしょう。それが憧れで、それを見たりして育って行く訳でしょう。全国の人達。
 まぁそう言う様な事があって、最後にその学道用心集説かれてるのは、直下承当って言うんだから、上等(笑い)ですよね、上等な。直下承当って言うのは、ウンもスンも無しにイキナリ否応無しに今の様子そのものの処にこうやって居てみると 、物の様子がはっきりするって言う事でしょう。こう、こうやって坐ってると。だって一切従前の様子が無いんだもん。こうやってると。先程まで過ごしてた様子が一切無いんだ、この上で、何処にも。そう言う先程の活動一切してない。何時でも。あれが邪魔だ、これが面倒くさいとか言う様な気配のもの一切無しに活動してる、底抜け。それで修行が終わって行くじゃない、って言う様な事が最後に書いて有る。 最初にそれ持って来りゃ良いじゃないかと思うけど、何で最後にするのかと思って。一番最初に持って来たらすぐ終わると思うんだけど。まあそんな余談ですが、この前なんで沢山な物があるかって、色々書かれているかって言う様な事を聞きたいって言う話が有ったんで、こんな話をちょっとね、思いました。休憩ちょっとします。



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他心通 ⅩⅢ

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2019.11.23
他心通の処が少し残っておりまして、講本の二十九頁四行目から。ざっと読んで始めます。

 「国師の三蔵を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて国師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かって仏法を見聞習学せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。
 第一番に三蔵もうす、『和尚是一国之師、何却去西川看競渡』。しかいふに、国師いまだいはず、『なんぢ三蔵、まことに老僧所在をしれり』とゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、国師よりのち数百歳のあひだ、諸法の長老、みだりに下語、説道理するなり。前来の箇々、いふことすべて老師の本意にあらず、仏法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。
 いま仏法の中に、もし他心通ありといはば、まさに他心通あるべし。他拳頭通あるべし、他眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの他人通ならん。しばらく問著すべし、拈他心通也是、拈自心通也是。速道速道。是即旦置、汝得我髄、是他心通なり。」

 
 まあ最初の方の事は、道元禅師が述べておられる通りでしょう。何を注意しておられるかって、道元禅師が何処を捉えて、五人の尊宿の欠点と言うか、見落としている処があるのじゃないかって言っておられるかって言うと、三度ながら速やかに言え、和尚いずれの処にかある、と言う様な事が三回も繰り返し問われると言う事は、慧忠国師がですね、大耳三蔵の答えを聞いて、本当に人の話を先ず聞いてないなって言ってるのでしょうね。エー「初めよりすべて国師の所在」居る場所ですね、所在。思う処。そう言う何処を本当に聞いておられるか、尋ねておられるかって言う事が、大耳三蔵には分かっていないって言う事ですね。「身心をしらざるゆゑに」と言う事は、仏法を見聞習学していないと言う事です。
 仏法の見聞習学する時に、まあ例えば学道用心集の中にもですね、学道の人って言う様な事があって、道を学ぶ時にどうしても最初に知っておいて貰わなきゃならない事がある。「我、法を重くする時」とか言う様な、「法、我を重くする時」って言う様な言い方をなさっておられて、この事について詳しく正確に知っているのは、私しかないんじゃないかって言う様な事を、道元禅師は学道用心集の中に言っておられますね。どう言う事があるかって言うと、自分を中心にして物を見ると言う事と、自分をほっといて物の様子の方から学ぶと言う両説、二つの学び方があるって言う事が仏法の中で説かれておって、仏法って言うのは、その自分の方から物をこう学びに行く様な事はしない、と言うのが仏法の本義だと言う事が説かれておって、その事を知るのは、ちゃーんとお師匠様から法を受け継ぐ様な、そう言う学び方をした人の中でないと伝わっていないと言う事です。そう言う様な事が仏学と言う事に説いてあります。これは普段皆さん色んな人と話しても多分良く分かる事ですよ。あっちの人の言い分が素晴らしい、こっちの人の方が劣ってるとか色んな様な事を、こう人が集まると評価してくれる様な人達が結構沢山居る。
 いずれにしても、その評価している人達が、じゃご自分でですね、一度でも良いから、自分のそう言う見解を離れた処に触れた事があるかって言うと、そう言う事の全く無い、自分のものの上からしか話をしておられないって言う様な事ですね。それはもう仏法を学んだ人じゃない。聞いた事も無いのですね。だから聞いた事が無いから、どう言う風に勉強して行ったら良いかって事が皆目分からない。そう言う過ごし方をしてる人に出会って、その人を見ていれば、多少なりと触れるから分かると思いますが、そう言う事は少ないですね。この時代でもそうなんでしょうね。道元禅師ご自身も自らの体験の中でそうなんでしょう。日本の国をずーっとこれはと言う人の所をこう訪ね歩いても、そう言う事を伝えてくれた、導いてくれた人は居られない。で、意を決してお隣の中国に足を運んでルーツを訪ねるけども、褒める人は居てもそれ以上の事をはっきり教えてくれる人に出会わない。諦めている時に如浄禅師に出会うと言う様な、まあずーっと流れになってますね。その位当時も少なかったんだろうと思いますねぇ。
 「この宗旨あるゆゑに」こう言う大事な事があるから、「第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。」前見て貰えば分かる様にですね、同じ言葉できいておられます。「汝道」と言うんですよね。「汝道、老僧」この即今と言う様な事も、非常に響いているでしょう。よそ見すると即今の様子が分からないから。私は今何処にいますかって言うと、こうやって探す様では、ねえ、離れてる証拠でしょう。即今って言うものは探す様な事はない。今そのまま自分の在り様ですから。でもこの老僧って言う言葉を聞くと、仏法を勉強してない、或いは見聞した事のない人はですね、「老僧即今在什麼」って言って、老僧と言われると、もう自分を此処に置いて、慧忠国師と言う老僧を其処に見てますから、こう言う設定の上からものを学ぶ様になるんですね。仏道を学んだ事のない人って。これ常識だから仕方がないでしょう。確かにこれは私、あちらにおられて、向こうの人が喋って、私はどこに居るって、向こうの人が話しているのをこちらで聞いてるって、そう言う風にしか受け取ってませんから。これ日常の会話でも、皆さん殆どそう言う風にしか受け取らないじゃないですか。それで通りますからね。常識だし。皆そうやって話してますから。だけど自分自身の様子にこうやって参じてみると、向こうとかこっちとかって言う事が無しにこう行われてるじゃんねぇ、何時でも。頭の中で線を引くじゃないですか、向こうとこっちって。こう見てる時、向こうとこっちって言う見え方はないでしょう。エー
 遠いとか近いとかって言うのでも、皆此処に自分を置いて物を見るからでしょう。本当に見てる時にはその物と一緒になってるでしょ。なってませんか。どんな物でも、見る時にはその物と一緒になってるね。遠いものって言ってるんだけど、距離なんか無い。近い物って距離がない。いきなりその通りの様子にこうなってる。こう言う風な勉強を仏道はして来てる訳ですね、自覚の宗教って言うけども。自分自身本当にどう言う風に生活してるのか、どの様に今在るのか。生まれて後教えられた様に、自分と他人と言う様なものが一線を画する様な、そう言う生活でないって言う事が問われるでしょう。こんな処ちょっと見とくと、分るのかなぁと思うんで。
それから「第一番目に三蔵もうす、」答えた様子がありますね。「しかいふに、国師いまだいはず、」その答えに対して、慧忠国師が『老僧即今在什麼』って言う問いに対して三蔵が答えた答えを聞いてですねぇ、ああお前は良く分かっているなぁって言う風に許してないって言うのですね。あなたは実に私の今何処に居るかを良く知ってるって言う風には言っておられないと言ってます。
 「たゞかさねざまに三度しきりに」問われた。それは一回目も良く分かってないから、聞いてる事が相手によく通じてないって言うのが、慧忠国師が分かるから、三回位同じ事を言えば耳を傾けるんじゃないですか。ねぇ。なんで三回も同じ事を聞くんだろうって、自分に何処かおかしい処があるのかなって言う位の事は気づくんじゃないですか。「この道理をしらずあきらめずして、」こう言う事もこの五人の挙げた尊宿の方々の、この二人のやり取りについて言葉を付けられた物を見ると、そこら辺がはっきりしてないなって言うのが、道元禅師の鋭い処でしょう。
 「前来の箇々、いふことすべて国師の本意にあらず、」三度ともですね「仏法の宗旨にかなはず。」仏法の宗旨って言うと、此処でも人間て変なものだねぇ、言葉が、ちょっと表現が違うとですねぇ、同じものだと思えないんですよね。物をよく知ってる人だったら、ピーナツ、南京豆、落花生って言ってもねぇ、分かるんですよね。そうでしょう、あああの事だって分かるんだけど、物を本当に一度も見た事が無い人は、言葉によって何を指してるか分からなくなる。三つ別々の物が有るって言う風に理解する訳です。仏法と言う様な特別なものがある、禅と言う様なものがある。
 仏法って言うのは真実ですよねぇ。じゃあ昔から使ってるその真実って言葉だけで良いじゃないかとおもうんだけど、ここに言葉の面白さがあるね、ずーっと同じ言葉使ってると、その内に人間は言葉だけを捉えて物を知ってる様に思う様になる。所謂概念で聞いていく様になるから、言葉に滓が溜まる。ああ空って、ああ空ねって。何か分かった様な気になって、空って使うんですね。あ、無、そう無ねって言って、それらしい物を皆自分の中で捉まえるでしょう。本当はそう言う意味じゃないでしょう、どれもこれも。そう言う事でない事を表した言葉なんでしょう皆。だのにその内に、それを使ってると、ああ空、と言う様な物が有ったり、無っと言う様な物が有ったり、何も引っかからないらしい様な世界らしい物を描くじゃん、皆。それでこうやって新しい言葉に用がある。
 人を叱る時でもですね、今まで人を馬鹿にする言葉を沢山知ってる。そう言う言葉で人を叱ると、必ず今でも揚げ足取られますよねぇ。人を馬鹿にしてって、あの人。だけども全く違う言葉だったら、それが馬鹿にされてるとは思わない。だから仏教なんかでは単板漢って言うよ。単板漢。単板漢って言うのは背中に板を貼り付けてる人って事ですね。蒲鉾みたいな人って言う事ですね。離れられない。物がくっついて自由にならない人って言う意味でしょう。そう言うの、人をけなす言葉として使う訳ですよね。そうするとこう言う処で使っても、何も馬鹿にされてるとは思わない。不思議だね、知らなきゃそうでしょう。だから知るって言う事、厄介な事だねぇ。知ると災いが起こる。で、南泉普願禅師と言う方は、知ると言う事は所詮妄想だと言ってる。頭で勝手に描いた世界の話だって言ってるんですねぇ、知るって事は。凄い事を言う人ですね。本当にそうです。不知もっとも親切、と言う様な事が、だから言われる。知らぬが仏とも言われる。皆さん方色んな言葉を聞いても、こうやって耳に残らない事が、こんなに爽やかに生きてられるんですよね。聞いた事が一々耳に残ってると、それに引っかかるのでしょう。あいつあの時あんな事言った、こんな事言ったとか。ひでえ奴だとか、皆引っかかる訳じゃん。
 ところが私達の本質的な物は、耳って言う物は、その時に聞こえて、どうもしないのにそのまま何処にも残った気配が無い。そう言う活動をしてるじゃない。それでもちゃんと言葉を聞くと聞こえるから凄いねぇ。エー、覚えて無くても、一つも覚えて無くても、その音がするとその通り聞ける力がある。鳥の声でも犬の鳴き声でも人間の喋る言葉でもそう。言葉を忘れちゃってる人が聞いたら、言葉が喋ってる通りに聞こえなくなるって言う様な事は無いですね。見て文字を覚えてなくてもですね、見ると必ずその文字の通りに見えるんですね。これで役に立つんですよね。まあ、あのちょっとそう言う処も見て、「仏法の宗旨にかなはず。」「あはれむべし」お気の毒様、と言う事ですね。
 「前後の老古錐、」さっき挙げた人達でしょう。五人のね、前にも挙げた人達。「おのおの蹉過せること。」ずれていると言う事でしょう。見誤っていると言う事ですかね。本当の処をきちっと見ていない。「いま仏法の中に、もし他心通ありといはば、まさに他身通あるべし。」心という字と、身体と言う、身と言う字をあてて、他心通が二つあげてあります。この身体を離れて心の様子って無いのですね。この身体の働きの様子を心を名付けた。心の字を以て心と名付けたんですね。で、仏法は必ず身心一如と言っています。身と心を分ける事は無い。そりゃそうでしょう。身体抜きで物が考えられる人が居ますか。自分の身体抜きで、あんな音がするとか、あんな物があんな風に見えるとか、こんな味がするとか、触るとこうなるんだとか、そうでしょう。全ての活動見てご覧なさい。この身体を抜きにした活動は無いじゃない。三界唯一心と言われる所以でしょう。
 ここで言えば、三蔵法師が、大耳三蔵がですねぇ、慧忠国師の前にこうやって向き合って居るのでしょう。確かに三蔵さんから言えば、慧忠国師って向こうに居る人の様に見えるに違いない。今、両隣の人、こうやって自分の様子だと思えない。向こうの人の様子だと言う風に見える、その事が他心通でしょう。自分の様子なんでしょう。相手を見てる。それが自分の身体の上で皆行われるのでしょう。他の人の身体の上で、隣に今日あの人来てる、この人来てるって事が分かる様な人は、誰も居ないのでしょう?分かりますよね。そう言う事が他心通なんです。仏法で言う他心通。
 三蔵様の言う他心通は、あああの人は彼処にいるけど何考えているんだろうって、何か探らないと良く分からない様な他心通です。こうやって居るといきなりその人の様子がそのまま自分の上にあるんだよ。そうでしょう、探らなくても。だから向き合って居ると、相手の様子そのものが自分の上に有るから、自ずから分かる様になってるでしょう。それが分かると対応の仕方が変わるのでしょう。ねぇ。ところが自分を中心にして物を見ると、あっちの人あんなになってるけど、どうしちゃったんだろうとか言い様な事で、そこからどう言う風に対応してあげたら良いかって言う様な動きだから、本当に役に立たないじゃない。ね。他心通って言うものの面白さはそう言う処にある。



他心通 ⅩⅠ

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今度は仰山のお答えを取り上げております。「前の両度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見」。まあこれが仰山の答えですかね。それを挙げて、「仰山なんぢ東土にありながら小釈迦のほまれを西天にほどこすといへども、」とありますから、中国におられながらインドの方まで、この仰山の人徳、或いは得た境地と言うものが評価される位、お釈迦様に匹敵する位な評価を得ておられたと言う事が挙げてあります。こう言う方でも、って言う事が大事なんですね。この位世に素晴らしいと評価される方でさえもこの程度だと言いたいのでしょう。沢山ありますよね、そう言う事例は。肩書きなんてものは一杯ありますから。
「いまの道取、おほきなる不是あり。」十分でないと言って良いでしょう。その内容として、境心に渉ると言う事と自受用三昧に居ると言うこの二つの表題が、名目が挙げられていますけど、別々に上げられていますけども、この仰山と言う方は、こう言うものは違ったものがある様に思っておられると言うのでしょう。私達だってそうでしょう。色んな事があるって言うと一杯有る様に思うでしょう。だけどよーく見てみると、一杯色んな物が有るって言って何やってるかって言うと、何時でも今の様子だけだもんねぇ。そう言う事知らない、矢っ張り。こう言う人でもね。縁起とか、仏教では縁起とか空だとか無だとか、ね、不思量だとか、無我だとか、無念だとかもう一杯言葉があるけど、二つはないんですよ、内容は。二つも三つも色んな事が在るんじゃないんですよ。
 コン!こうやって、この真実をただ伝えるために、皆さん方に言葉を聞かせると、すぐ言葉に概念を持って執着するから、そう言う物を全部こう打ち破るためには新しい物を、コン!こうやって見せるだけですよ。コン!コン!新しい言葉で。コン!どんな良い言葉でもそれを握ると滓が付くのよ、汚れがつくのよ、よごれが付いてくるのよ。ねぇ。そう言う事があるから、こうやっておりますけども。「ことなるにあらず。」道元禅師が先ず取り上げてる。カラスの鳴き声と雀の鳴き声って言うんだけど、「ことなるにあらず。」
 分かりますか。現実にですね、今こうやってる時に、もうもう一つの自分の生き様って言うものは絶対に出て来ないって言う事なんですよ。だから何時もこんなにすっきりしてるじゃない。今の様子だけじゃない。考え方って言うのは不思議ですね。今の様子がこうなってるにも拘わらず、そこに過去に体験した物を思い起こして、今現在そこにある様にそれを取り上げて比べて見る様な事しゃっと起こす。そうすると、境心渡るとか自受用三昧に入るとかって言う様な様子が、こう違った様子が有る様に、こうやって思える様になるじゃないですか。握る事と放す事を同時にやれる人って無いんですよ。握る事と放す事が有ります、確かに。境心に渡る、自受用三昧に入る、在りますけども、やってみると良く分かる。二つは無いのですよ。やれないのです。だから大丈夫なんです。色んな物を見るんだって、一杯色んな物があるけど、その物を見る時他の物を見ないから大丈夫です。だからその通りこう見えるんです。
 「かるがゆゑに、渉境心と自受用とことなるゆゑにみず、といふべからず。」良いでしょう。「しかあれば、渉境心と自受用とのゆゑを立すとも、」そう言うものを立てるとも、二つを立て、二つ乃至それ以上のもの立てるとも、「その道取いまだ道取にあらず。」本当の自分の様子を見てみると、人間が想像してる、喋ってる、使ってる、表現してる様子と本当の様子はこんなに違うよと言うのでしょう。坐ってる時と立ってる時横になっている時、自分の様子は一杯あるって言われるけど、よーく見てみるとその時の様子しか何時も無い。それで十分でしょう。考え方でやられるって言う事は、そう言う事があるから、考え方だとやられる。実物はこんなに人を苦しめないではっきりしてます。
「自受用三昧にいれば、他人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を証すべからず。修証あるべからす。」その物と本当に一緒になったら、見る事が出来ない、言う様な事があったら、悟れないじゃないか。お釈迦様が明けの明星に触れた時に、どう言う風になった。その物と一つになったから、明けの明星を見てるとか言う様な気配が全く無い処まで落ちたには違いない。そうやって其処まで落ちたから、我に返った時に先程の様子がどうあったかって事がはっきりするって言う事でしょう。よく使う身近な例は、人が寝ると言う行為があるけども、誰も寝た事のある人ばっかりだから知ってるでしょう。何処から寝始めたか知ってる人がいますか。此処から寝ました、無いってあれを言いたいんですよね。エー。それだのに、確かに寝ていたって確信が持てるのは何ででしょう。知らないと言う事があるからでしょう。寝たって言う事を知らない自分が居るって事がはっきりしてるからでしょう。何処をつついても寝てた時の自分の様子が出て来ないって事が、自分を本当に寝てたんだなって自分を許せるのでしょう。あれ、ちらっとでも時々つついたら、寝てるなーって分かるとですね、無理なのよ。そう言う事です。卑近な例を挙げればそう言う事がここに言われてるね。
 「仰山なんぢ前両度は実に国師の所在を三蔵みるとおもひ、しれりと学せば、いまだ学仏の漢にあらず。」最初の一回二回、それは国師の所在をよく知っているって言う風に思って、三度目だけがよく分からなかったって言う風にこれを受け取ってる様では、ものを勉強するのに力が無いなあ。これが道元禅師のお力です。「おほよそ大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前両度も国師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三蔵の国師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もまた国師の所在をしらずといふべし。」三蔵の様子が見てとれないんだったら、仰山自身も自分の真相を本当に明らめたと言う事にはならないのじゃないか。手厳しいですよ。「しばらく仰山にとふ、」今度は皆さん方にって言う事ですね、「『国師即今在什麼処』このとき、」こうやって聞かれた時に、もし僅かに口を開く時に擬せば、「開口擬せば、」開口擬せばって言う事は、口を開こうと思う気配が少しでもあったら、ビャーン、パン!「一喝をあたふべし。」とこう言っております。親しい時の様子って、説明なんかしないじゃないですか。出来ないじゃないですか。お茶飲んでる時、様子はどうですかって、お茶を飲んでる時説明なんか出来ないじゃないですか。それが本当にお茶を飲んでる時の様子なんでしょう。だけどお茶を飲んでるときは、どうですかって聞かれると、つい口を開いて説明したくなるじゃない。そんな事は聞いてないと言う事でしょう。何処を見てるんだって。それが今触れてる時の本当にやり取りをしたい処なんじゃないですか。「即今老僧今在什麼処」尋ねた時に、その通り居る様子がある筈じゃないですか、誰でも。これから答えるんじゃなくて。それが、「即今老僧今在什麼処」って言われた時の様子なんでしょう。聞いてからそれに答えるって言うのは、その時の様子じゃないでしょう。だけどそう言う風にしか学んで来ないんだよね、学問て、我々の学問て。こう言う処に仏法の必要性があるでしょう。釈迦が本当に何をどの様に味わった人なのか、自覚をしたって言うけど。我々が推理してる様な自覚じゃない。到った事の無い人が、ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかって推理した様な答えじゃないんだよねぇ。そんなもん幾らやったって当たらないよ。
 「玄沙の徴にいはく、」玄沙がめされたって言う事ですね。「『前両度還見麽』いまこの『前両度還見麽』の一言、いふべきをいふときこゆ。」玄沙は中々良い処つくな、と道元禅師が一応言っておりますねぇ。「玄沙みずから自己の言句を学すべし。」自分でそう言ったんだけど、あなたはその自分で言った事がどう言う事かよく分かってるんだろうねぇって言ってます。「この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。」見れども見ざるがごとしと言わんが如し。「ゆゑに是にあらず。」と言って、道元禅師が評価しておられます。見如不見、そこにも又書いてある。分かっている様で、本当の処が分かっていないって言う。私の師匠なんかよくこうやってやった。パン!(打掌)こうやって。パン!こんな事やられたって困るよね。修行に来たんですけど、どうしたら良いかしら。パン!分かるかって。これで良いじゃないか。何処が、何処が良いのか、何をしたらよいのか、取り付く島が無いって、大体言う。よーく見てみると、本当にそうですよ。パン!これで大丈夫ですね。終わったじゃん、全部。聞き終わったじゃん。毛筋ほども逃さずに、ちゃんと皆聞き終わったじゃん。しかも何もしないのに、自分で。こうやって過ごす事が修行をすると言う事なんでしょう。一点の非が無いのでしょう。是で。総ざらえして全部がスキッとするのでしょう、これで。今まで問題にしてた事が全部とっぱらわれて、スキッとしてるんでしょう、今。そう言う状況に皆さんなってるでしょう、これで。それだのに此処に有る様に、見如不見、確かに聞いたには違いないんだけど、聞こえたには違いないんだけど、よく分からんなぁって、どう言う事ですか。エー。要するに、考え方の根が切れないんだ。どうしても考え方で、その触れた様子を探って知ろうとするから。それが本当に止まると、この一声でキチッとするじゃない。
 「これをきゝて雪竇山明覚禅師重顕いはく、」この玄沙のお話を今度は雪竇重顕と言う人がそれに対して「敗也、敗也。」敗也ってタクシーじゃないですよ。負けたって言う様な言い方をしてるんだけども、道元禅師は、こう言う時に、負けたって言う様な表現は使わない。本当に物が分からない人が誤った答えをした時に、それは負けたとか言わないんだよね。駄目だって言う。負けるって言うのは、ある程度の、勝負の時にですね、もうちょっとで乗り越えられたかもしれないって言う様な感じの時に、あなたに負けたねって言う風に使うんで、もう左走って行かなきゃならない時に、右に走ってる人に対して、あれは負けたとは言わない、全然方向が違うと言う事ですよ、って言う様な話が此処に挙げてありますね、道元禅師が。「これ玄沙のいふところを道とせるとき、」言い分をそのまま、「しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。」今申し上げた様な事です。
 今度は白雲守端と言う方ですね。「海会の端いはく、『国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見。殊不知、国師在三蔵眼睛裏』。」まあ似た様な色んな表現をしてるけども、道元禅師本当にこう言う方々の言い分に対して厳しいね。その評価の仕方、「これまた第三度を論ずるのみなり。」まず一番初めは、この大耳三蔵と慧忠国師のやり取りをこう見てですね、初めの方の事は問題にしてない、良しと一応してるって言う、そう見過ごしてるって言う事に対して、道元禅師は許しておられない。「前両度もかっていまだみざることを、」しかるべきだと。それじゃ駄目だ、違ってるじゃないかと言う事を、一回一回ちゃんと其処を指摘すべきじゃないか。「いかでか国師を三蔵の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、」この様に言われるのはですね、さっきの挙げた処ですね、国師三蔵の鼻孔上にあらば何としてか見る事が難しいかって、これは近くに居るからって言う意味でしょう、目と鼻の先に居る位近い処に居るから否応なしその事の他に見えない位こうやってやると、他の物が見えないですよね。沢山あるんだけど近づけて見ると。この事しか見えない位なるからですね。「国師の言句いまだきかずといふべし。」やっぱりこう言う言い分を言ってるのをみてみると、読んでみると、味わってみると、あーあって言う処がこう分かる様になってる。「汝道即今老僧在什麼処」皆さんの耳で聞いて貰うと良く分かるでしょう。国師の言句いまだきかずといふべしって。皆さんは皆さんの耳で聞いたでしょう。「即今在什麼処」皆さんはどうですか。「三蔵は鼻孔なし、眼睛なし。」皆さん方は鼻孔もあれば眼睛もあるんじゃないですか。
 あの言わなくてもいい事ですが、言わなくてもいい事だけど言っておきたい。「即今在什麼処」皆さんの耳がある人はどうなるんですか。「老僧即今在什麼処」皆さん耳があれば、その様に聞こえる筈です。だけども、「目の前に居る人、何処に居るんだろう」と、もしそんな風に聞いたら耳の無い人ですよ。違うでしょう、言った事と。「今私何処にいますか」って、皆さん方は、「あれは何処に居るんだろう」って、そう言う風に聞いたら違うでしょう。そんな風に聞こえないでしょう、耳は。何回もやってみますよ。「私は今何処に居るでしょう」ってこうやった時に、井上は何処にいるんだろう、そんな風に聞こえないじゃないですか。「あの喋ってるやつは何処に居るんだろう」ってそんな風に聞こえないのでしょう。そう言う事ですよ、耳が有るか無いかって言う事は。耳は「私は今何処に居ますか」って言ったら、その通りにそれで終わるんですよ。是から答えを出すんじゃないですよ。その通り聞こえた事が答えなんです、耳の。聞いてる、今聞いてる。それが「即今在什麼処」って事の証明じゃないですか。今その通りに此処に在るって事の証明でしょうが。その喋り終わった後に尋ねる場所が無いのでしょう、声って。鳴り終わってから鐘の音を聞く人居ますか。無いじゃない本当は。ゴーンて、それが鐘の音じゃない、聞いてる時の様子じゃない。それが耳が本当にある人じゃん。耳が有りながら、耳が無い様な聞き方をしてるんじゃないですか、皆さん。だって他人の事を聞いてる様にしか居ないんだもん殆どに人が、喋ると。あっちの人が何か言ってる、あれ私のなにかを言ってる、そう言う風にしか聞いてないんだもん。そうじゃないですよ。耳が、それが自分自身の今の活動なんですよ。眼、眼睛がある。眼睛もそうでしょう。後で見た事なんか無いんですよ。絶対に。見る時は必ず今だ。それ眼睛の様子、絶対。「即今在什麼処」って、ズレた試しが無い。尋ねる場所が無い。そう言う活動してるものなんじゃないですか。仏祖の身心と言われるけど。皆さんの本当に知りたい自分自身の真相でしょ、それが。


他心通 Ⅹ

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 「国師すでに仏法の身心あり。」仏法の身心ありって言う事は、本当に眼のしっかりした人だと言う事でしょう。ものを本当に見極めた力のある人、自覚の出来た人、悟りを開いておられる人と言う事で良いでしょう。だから其処に神通修証とかって言う様な物を持ってくる必要がない。そんな物を持って来てどうのこうのって言う必要がない。或いは絶慮妄縁を起こして、何も思わない、何も引っかからないとかって言う様な特殊nなものを取り上げて、言ってる事に対してどうあったら良いとかって言う様な、どう在るべきだとかって言う様な疑いを起こす余地が無い。今既に慮を絶し、妄を忘れてるんですよ。そんな物皆離れ切ってるでしょ。今。『汝道、老僧即今在什麼処』と言う時に、何処にもそう言うものが付いててない。
 「商量不商量のあたれるところにあらざるべし。」これから商量するとか商量しないとか、問答するとかしないとか、会話をやり取りをするとかしないとかって言う事じゃない。イキナリもうその事がそこで行われる。国師は仏性があるかって、或いは無いか。身体は虚空の如くなのかとか言うんでしょうねぇ。「国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。」皆さんのよくご存知の様に、実物には初めから名が付いてないんですねぇ。仏性だとか空だとか無だとか有るとか無いとか、そう言う事が全部本来離れてるじゃない。名前を付けたもんだから、皆さんその言葉や名前にすぐ誘惑されて、つまらない事を考える動物に変わった。言葉の指してる物を見ないとつまらない。言葉を離れて言葉の指してる事実を見るって言う事が、言葉の重要な使い方なんでしょう。それでなければ、言葉が生きて来ないじゃない。ねぇ。「かくのごとくの国師の身心、すべてしらざるところなり。」総括して大耳三蔵と言う方は、本当に身心の在り様ってものを、国師の身心の在り様って言うものを知らない。国師の身心って言うのは本当の在り様って言う事で良いでしょう。他心通に長けた人だと言われていた訳だけれど、大耳三蔵の他心通って言うのは本当につまらないものだって言うの良く分かるでしょう。
 エー道元禅師の褒め方ですが、今曹渓の会下には六祖、達磨さんから六代目、慧能禅師の会下には、青原と南嶽と言う方が代表で二人育たれて、その流れの中に、ここに大証国師慧忠国師と言う方、道元禅師はこの三人を取り上げて丸を付けておられるのかな。ここに何人か名前がこう書いてあるけども、丸とかペケを付けるとしたら、この三人に丸を付けて、後の趙州とかさっき挙げた五人の方ですね、はチェックしてる訳ですね。いまいちだなと言う事かね。そのいまいちの処を見破る必要があると言う事かね。余談ですが、六祖慧能禅師のミイラが残っておられるので、中国に行かれたら拝んで来られるのも良いかと思います。でまあ一段終わりますが。
 今度は五位の尊宿方の、先に挙げた言い分をもって丁寧に道元禅師が看破して行く。何処がその欠点って言うか、到らない処がって言う処ですね。こう言う事が道元禅師がお出来になるって言う事をみるとですね、道元禅師様の力って凄いと思いませんか。看破する力がある。立派な祖師方の言い分を。残した言い分を取り出して。それだけ道元禅師のご心境、ご境界と言うものが、世界に本当に何だろう、このような人は殆ど居ないんだよね。道元禅師の様な方、今、歴史の中で見ても。これだけ素晴らしい内容を本当に自覚してる人。私達は幸いそう言う方の残された素晴らしい文章に出会う事がこうやって出来た訳。今度は私達が道元禅師の言い分をこう読んでですね、それを看破する力がなかったら、矢っ張りつまらないのでしょう。ものを本当に良く知る人って言うのは、その人の様子を十分に理解出来るって事でしょう。ねぇ。お互いに手を取ってって言う位意思が通じて、あんたそう言うけどここはどうかって、そう言ってるけども。こう言うこともあるんじゃないか、こんな風にもなってるんじゃないかって。言われてみると、自分で一応良しとしてても、ああ成程そう言えばそう言う処もあるなと、お前よくそんな処まで見たなって言って、言う様な事があるのでしょう。そうやって業績もあがって良い物が出来て行くのでしょう。もうあの人は立派な人だからって、只拝んで遠くから見て居る様な、そんな間柄じゃつまらないでしょう。一流のシェフになれば、そのシェフの作ったものを食べて、又それを評価する人が出て来る訳でしょう。その評価された事によって、一流のシェフと言う人がそれを聞いて、評価を聞いて、唸る人もいる訳でしょう。こんな奴がいるかって言う様な事になるのでしょう。そうするとそれは価値のある人でしょう。味に対してそれだけの評価が出来る力を持ってると言う事でしょう。
 嗣法を、お坊さん達は嗣法をするって言うけど、嗣法をするって言う事は、祖師方の言い分を評価出来る人になると言う事でしょう。そうでなければ、嗣法する価値が無い。評価って言う事は証明すると言う事ですね。祖師方の言われている事が正しい、間違いありませんと言って、証明する力があって初めて嗣法と言う事が行われる。まあそう言うな事があると思いますが、で中へ入って行きますが。
 趙州さんが答えられるのに、このやり取りの内容を見て、どうして三蔵さんは国師の身心ですね、今、即今いずれの処にかあるかって言った時に、何故答えられなかったか言う事に対して、「国師は三蔵が鼻孔上にあるがゆゑにみず。」と言った。見ずと答えておられるね、趙州。それを取り上げておられます。「この道処」この言い分ですね、「そのいひなし。」下にも訳が有る様に、謂れなし。根拠とするものが無い。「国師なにとしてか三蔵の鼻孔にあらん。」慧忠国師が大耳三蔵の鼻に上に居るなんて、そんな事ありっこないじゃん、ねぇ。ここら辺に乗っかってるって言うんでしょう、三蔵。鼻孔、鼻の孔か。鼻孔だから鼻の穴だね。鼻の孔の中のこの辺にいるのかな。だから見えないって。大体三蔵に鼻孔なんて言う様なものが無いじゃないか、はじめっから。そんな力は無いじゃないかってこき下ろしてます。「もし三蔵に鼻孔ありとゆるさば、国師かへりて三蔵をみるべし。」本当に大耳三蔵の鼻孔って言うものがちゃんと付いてる人だったら、国師がこんなに三回も四回も同じ事を繰り返して尋ねないよ。おおそうかって言う位に、一回ではっきりするって言うんでしょう。 「国師の三蔵をみることたとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔対鼻孔なるべし。」普通にただ鼻と鼻が、顔と顔が向き合って、お互いの顔が見える程度の常識的なものの見方だけが行われているだけで、その真意が本当にはっきり肯える力が無い。「三蔵さらに国師と正見すべからず。」本当の相見て、別にこうやって居さえすれば相見した訳じゃないじゃない。もっと卑近な例を話をすればですね、一緒に毎日生活をしているったって、同じ家で毎日生活をしてるって、別に皆さんご承知の通り、じゃあ本当に近しいのかって、ね。夫婦でもそうじゃないですか。毎日一緒にご飯食べたり一緒に生活してる、一緒に一軒の家にいるからもの凄く親しいのかったら、親しいのが一番良いんだけど、殆どの場合は、殆ど一緒にいるにはいるけど全く論外でしょう。親子だってそうでしょう。そう言う事が問題になってる訳でしょう。上手く行かない。面と向かってたって別に相見してるとは言わない、真に。本当に相見すると言う事は、隔ての無い在り様があって初めて相見をするって言う事になるじゃない。
  次に玄沙の言われるのは、「只為太近」どうして見えない、分からないかって。これに対し、「まことに『太近』はさもあらばあれ、」そりゃそうだよね近ければって、一応道元禅師も言っておられる。「あたりにはいまだあたらず。」一応言い分としてはって、一応そう言いながら、それでもねぇそれじゃあ駄目だなぁって言ってるんですねぇ。どうしてかって、「いかならんかこれ『太近』。」『太近』て本当にどうなってるのかって、もう一回問われてます。皆さん方もこの問いに対して参究、勉強してみて下さい。甚だ近い。甚だ近いって言う事は、離れてると言う事でしょう。エー、未だ。「おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず。太近を参ぜず。」皆さん方もそうでしょう。パン!(打掌)どの位近いか分かりますか。パン!「太近をしらず。太近を参ぜず。」向こうで手を打った、井上が手を打って、こちらで聞いているって。パンパンパン!そんなのはまさに太近じゃないよね。もの凄い離れてるよね。少し良くなって、あ、成程って、パン!成程そういうことか、それははなはだ近いって言う事を参じてる事ですか。本当に近いって言うのはそんな事じゃないでしょう。よーくそう言う処を見て下さい。「ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なるをしらず。」太近って言う事は、距離が無いから向かい合って一緒になるって言う事がないって言う様な事を知っているだけであって、この消息をパン!知らないって言うことでしょう。ねぇ。聞いてみたら良く分かるでしょう。向こうとかこっちって言う事は一切出て来ない。パン(大きな声で)比べるものが無い、距離が無い。それだのにこんなにはっきりしてるじゃない。分からないんじゃない、って言う様な事を道元禅師が言っておられますが、どうですか。「相見の太近なることをしらず。」って言う事ですよ、それが。
 「いふべし、仏法におきて遠之遠なりと。」仏法において本当の様子と言うものからこうやって見てみると、そう言う受け取り方をしてるのは、本当に物を知らない人の様子だなあと言う事でしょう。「しかももし第三度のみを太近といはば、前両度ははなはだ遠きにあるなるべし。」玄沙と言う人もこの三度尋ねられた時の、前の二度は許しておるけども、三度目が問題になっているって言う風にもし見ているとしたら、それはとんでもない事だ。前に二回も全く大耳三蔵と言う方は分かっておられない。「しばらく玄沙にとふ、なんじなにをよんでか太近とす。」玄沙に問うって言う事は、今皆さん方に尋ねてるって言う事ですよ。太近言って、「なにをよんでか太近とす。」玄沙は近いために見えないと言ってますけども、はなはだ近いって本当にどう言う事を、どう言う様子を指して取り上げてはなはだ近いと言っているのか。そこで、「拳頭をいふのか」ボクシングじゃないですよ、拳をこう持ち上げて、こうやって見せた時、「あるいは眼睛をいふか」って。皆さんの眼の今の様子を言うか。「いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。」生活してる事自体を見て御覧なさい。今から離れた事、一度も無いのですよ。でその今って言うのは、これから何かやって作った事は一度も無いのですよ。皆さんが手を付ける前に、今の様子って皆あるんですよ。だからこんなに安心してられるんですよ。災害って言うのは大変な事で、大問題ではあるけども、その中にあってもこの事だけは失われない。これを本当は伝えておかなきゃならないんじゃないですか。一切の物が無くなったって思ってるかもしれないけども、自分のこの真相はですね、どんな酷い災害の中に在っても、一切失われないほど確かなものです。これが生きていく力を与えるんじゃないですか。凄い事ですよ、これ。




他心通 Ⅸ

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2019.10.26.
 「国師まづいはく、『汝道、老僧即今在什麼処』。この問、かくれたるところなし、あらはれたる道処あり。三蔵のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかず、みざるはあやまりなり。すでに国師いはく、『汝道、老僧即今在什麼処』とあり。さらに『汝道、老僧心即今在什麼処』といはず。『汝道、老僧念即今在什麼処』といはず。もともきゝしり、みとがむべき道処なり。しかあるを、しらずみず、国師の道処をきかずみず。かるがゆえに、国師の身心をしらざるなり。道処あるを国師とせるがゆゑに、もし道処なきは国師なるべからざるがゆゑに。いはんや国師の身心は、大小にあらず、自他にあらざること、しるべからず。頂𩕳あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。国師たとひ行季ひまなくとも、いかでか作仏を図せん。かるがゆゑに、仏を拈じて相待すべからず。
 国師すでに仏法の身心あり。神通修証をもて測度すべからず。絶慮忘縁を挙して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。斯くの如くの国師の身心、全てしらざるところなり。いま曹谿の会下には、清原・南嶽のほかは、わづかに大証国師、その仏祖なり。いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。」


  大証国師のおっしゃっておられる様子は、ここで皆さんと一緒に勉強してみたいのですが。『汝道、老僧即今在什麼処』皆さんはそれを今此処で聞いてですね、如何言う風にそれに対して答えるのでしょうかね。道元禅師は先ずそれに対して、「この問、かくれたるところなし、あらはれたる道処あり。」と言う風に言って、こんなにはっきりしてるじゃないかと言ってる。私は今何処にいますか、私は今何処にいますか。首をかしげる様な難しい質問、何もしてないって言って良いでしょう。ねぇ。もう誰が聞いてもはっきりしてる。そんな確か事なのに、どうしてそれが答えられないのかと言う事でしょう。
 話はちょっとずれるかもしれませんが、仕事をしておられる方がですね、仕事をしながら、昨日もそう言えば此処で上手く行かなかったけども、どうして上手く行かなかったかなあって、ふっと仕事をしていてそう言う事が浮かんでる。そうするとこの人は、不思議だねえ、見事にこの浮かんで来たものを相手にしてですね、追求を始める。結局仕事しないのですね。止めちゃうの。わかりますか。私は今どこにいますかって言われた時に、えっと何かふっと自分の中で思う事が出て来るとですね、この言ってる事から忽ちに離れていくんですね。もう全然今触れてる処でない処に行ってしまうんですね、人間て。それが日常でしょう、殆どの人の。で、思い浮かんだ方は気になってる事が多いもんですから、それをどうしても放って置けなくて、その思い浮かんだ事を相手に、どうしたらここ行くんだろうって言う風に考え始める。仕事しなくなる。まあそう言う様な事が日常の中にあるので、ちょっと加えておきたいと思うね。
 「三蔵のしらざらんはとがにあらず、」まあ、この大耳三蔵と言う人がこの問い聞いてですね、どうもはっきりしないと言う事は許すと言うのでしょう、道元禅師は。そうでしょう。ものをよく知らない人が分からないって言うのは当たり前だから。ねぇ。ものをよく知らない人が分からないって言ったら、何でって咎められる事は殆ど無い。知らないんだから。だけども、五位の尊宿と言われる人、ですね、この方々は一応仏祖の仲間入りをしている、所謂法を受け継いでいる方々です。誰が出て来たかもう一回見てみる。
 一人目はかの有名な趙州従諗禅師ね、南泉普願禅師の元で育った方です。しかも百二十まで存命だったと言う。六十にして再び修行に行き、南泉禅師の処に来て、三十年修行をして、九十になって趙州に観音院と言う寺を建てて貰って、其処で百二十まで三十年教化をされたと言う、まあ余所では道元禅師、趙州は古仏と言って褒めてる位、褒めてるんですよ。だけどこの巻は違うんですね。だからどんなに素晴らしい人であっても、百パーセント全部がもう本当に目が行き届いてるかって言うと、そう言う事でない処が人にはあるから、ね。得手不得手と言っても良いのかもしれないけども。悟ったら大工の仕事も電気工事もパソコンも何でも出来るかって、そう言う問題じゃあないよね。急にドイツ語が喋れる様になるとか、そう言う問題でもないのでしょうね。まあそう言う事が挙げられると思いますが。趙州和尚さん。
 それから玄沙の師備、これは雪峰義存の一粒種として育った人です。雪峰が特にこの玄沙は自分よりも凄いなあって何時も褒めてる位優秀な出来栄えのいい人ですかね。それから仰山ですね、慧寂。潙山の霊祐禅師の弟子です。潙山と言う方も凄い方ですが、潙仰宗って言って潙山と仰山と言う、このお師匠さんと弟子の仰山と二人で潙仰宗と言う様な、師弟で一つの宗派の元に成ってる事が後に言われる間柄の人ですね、仰山。それから海会の端て言うのは守端と言う人がいたと思うね。白雲守端、語録も残ってると思いますが。最後に雪竇重顕ですね。そう言う方々がこの五位の尊宿、皆歴々たる方です。
 そう言う方々に対して道元禅師は、「 五位の尊宿のきかず、みざるはあやまりなり。」何でここを、ちゃんとこう触れて行かないんだろうって言う事ですね。サラッとこう見てしまっては大事な処、本当に見過ごしていないのだろうかと言われております。どう言う処がその見逃している処かって言う事が、この後ずっと問われて行きます。道元禅師のお力によって。
  「すでに国師いはく、『汝道、老僧即今在什麼処』とあり。」その他の次の様な聞き方はしていないと言ってる。「『汝道、老僧心即今在什麼処』といはず。『汝道、老僧念即今在什麼処』といはず。」ねえ、他の事は尋ねて居ない。心の様子だとか言う様な事を特別聞いてはいない。本当にだれも分かる様に、私は今何処にいますかって。目の前でですよ、目の前で、私は今何処に居るんでしょうって。「もともきゝしり、みとがむべき道処なり。」本当にどう言う風になってるかって言う事でしょう。「しかあるを、しらずみず、」それだのに、自分の眼で自分の耳で、確かめる力が無いじゃないか。他人の目や耳を借りなくたって、自分の耳で、私は今何処にいますかって言われたら、皆分かるでしょう。まあその先があるから先に行きますが。
 「国師の道処あるをきかずみず。」本当に不思議ですねえ。今私は何処にいますかって言った時に、私の喋ってる様子と皆さん方が聞いてる様子が別々に二つある訳じゃないですよ。そう言うの分かりますか。耳で確かめて見て下さい。私は今何処にいますかって言った時に、皆さんの聞いてる様子と私が喋ってる様子と二つ出て来る人いますか。無いでしょう。ねぇ。分かりますか?そう言うの。分からない?こう言う物を(コップを見せる)こうやって取り上げて見せてもですね、自分の今見てる様子とこっちでこうやって上げてる様子と二つは無いのでしょう。こうやってやると、一緒にこう言う事がただその通りあるのでしょう。そう言う事が大事な事なの、ね。そう言う事が「国師の道処あるをきかずみず。」と言われてる所以です。道元禅師が、何も見たり聞いたりしてないって、三蔵と言う方は。何を見たり聞いたりしていないかって国師が言ってるかって言うと、こう言う処なんです。向こうの人の様子って言う風に見たり聞いたりしてるって言う事は、本当に見たり聞いたりしていない人なんですね。ねぇ。そんなの子供でも知ってる筈ですよ。だけど大の大人でもよく分からなくなった今。此処で(頭)でしか勉強してないから。実物そのままでこうやって触れると良く分かるんだけど。最初に慧忠国師と言う人が其処におられて、私が、大耳三蔵と言う此処にいて、ここで会話が始まるから、その時に最初に向こうに国師がいて私がこっちにいると言う事を、ちゃーんと私を立てた上でこう会話が始まってるんですね。この三蔵さんの在り様って言うのは。大問題でしょう。
 皆さんも日常そうでしょう。知らない内に向こうに物があるって言う風に見てるのでしょう。こうやった時に、向こうに物があるなんて言う風に見える試しがない。イキナリその様子があるのでしょう、イキナリ。取り込んだ事なんか無いでしょう。向こうの様子を見てから取り込むみたいな。その通りそこに在る通りの様子が出て来るだけなんでしょう。その時自分の中に入れたなんて気配は何にも無いじゃん。もっと丁寧に見てみると、自分らしいものは何も出て来ない。この様子だけがあるじゃん、何時も。その何時もこの様子だけが在るのが、自分の今見てる内容じゃないですか。触れてる時の在り様じゃない。分かりにくい処も在るかもしれないけども、「かるがゆえに国師の身心をしらざるなり。」こう言う初めから大きな隔たりがあるから、国師の本当の在り様って言うものを三蔵って言う方は知る余地も無い。
「国師の道処あるを国師とせるがゆゑに、もし道処なきは国師なるべからざるがゆゑに。」慧忠国師はこう言う仏法の身心としての、本当の在り様をしっかり見届けてる人だと、言う事でしょう。だから国師と言われるのでしょう。ねぇ。「いはんや国師の身心は、大小にあらず、自他にあらざること、しるべからず。」三蔵と言う人は、慧忠国師の身心の在り様が大きいとか小さいとか見てると、或いは向こうに居るとか私はこっちに居るとかって、自他のそう言う様な物を見てるだけであって、本当にそう言うな物からすっかり離れ切った生活をしてる国師の様子ってものを知らない。
 皆さんだって朝から晩まで晩から朝までずーっと見てごらんなさい。自分のこの身心の活動してる様子だけですよ。彼処に木魚がある、彼処に鏧子がある、彼処に礼盤がある、彼処に坐蒲がある、机があるとか、掛け軸があるとか良寛さまの木像がある、そうやって言ってる事みてご覧なさい。自分の様子でしょうが、今。他の人が一切やってない。だのにどこか向こうに有る物を私が今見てるって言う風に捉えてるのが、まあ普通の人です。それは考え方でやってるんですよ。考え方ってそう言う風に見てますよ。向こうとこっちって。
 今って言われる時間帯を見てご覧なさい。今って言う時間帯はコン!(机を打つ)向こうとこっちって物は絶対無いものなんですよ。知ってますよね。コン!今って言うものは向こうとこっちって言うものが立たない。立たないですよ、今って言うものは。向こうとこっちって言うものは。コン!向こうの今とこっちの今ってそんな風に成らないんだもん、しょうがないじゃん。それだのに考え方は、向こうとこっちって言うものを立てるんです。それを分別と言いますけど。事実はそんな風になってない。こう言う事を、三蔵は知らないと言ってる訳ですね。
 「頂𩕳あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。」目も鼻も頭も耳も身体も全てあるんだけど、自分の事をすっかり忘れてしまってる位、愚かだなあと。「国師たとひ行季ひまなくとも、」皆さんだってそうでしょう。国師が暇がないんじゃなくて、皆さんだってずーっと自分自身の様子で生きてるのでしょう、暇なく、休みなく怠りなく離れずに。片時も自分の様子から離れた事が無い。だのに他人の様子が有る様に思うんじゃないですか。それ他人の様子だって言う風に、こうやって見てる事自体が自分の働きなんですからね。あの人がって。誰がそう言う風に見てるんですか。あの人があんな事言ってる、あの人あんな事やってるって、それ誰がやってるんですか。見た時にあの人がって言うものは付いて来ないですよ。聞いた時に、あの人があんな事を言ってるって言う風には付いて来ないですよ。見てご覧なさい。こうやって、あの人があんな事やってるって、そんな風には見えないですよ。その通りの様子が只あるだけですよ。それをあの人がってそう言うのを付けてみてる。無い物を付けるんです。あの人があんな事を、そう言う風に聞くんです。ね。そう言う事が、ここらで言われる事でしょう。
 で、そう言う風に上手く出来てますから、「いかでか作仏を図せん。」図せん、図らん、描かんで良いですかね。仮名がふってあるので、まあその通り読んでおきますが。他に描くものなんか無いじゃないですか。本当にどうあるんだろうかとか、仏様の様子はとか、一切無い。これからどうなるかって、そんな事でもない。皆さんがものを見る時にやり直しながらこう見てる人いない。人の話を聞く時に、修正をしながら聞くなんて事はない。コンコンコンコンコン皆さんの方で一つも手を付けずにそのままその通りの事がちゃーんと行われているのでしょ。見てご覧なさい。作仏を図する事なんかしてませんよ。「かるがゆゑに、仏を拈じて相待すべからず。」特殊な物を頭に描いてその様な風にに成ろうとする。頭に何時も素晴らしい世界と言うものを描いて、どうしたらそう言う風な処に私達も着く事が出来る、行く事が出来る、得る事が出来る、でそう言う風に描いてる人がいるとしたら、それは間違いでしょう。コン!どうしたらその様に聞く事が出来る、要らん事でしょう。どうしたらその様に見る事が出来るだろうって、要らん事でしょう。必ずズレずにキチッとそんな風な生活をしてるじゃない。それが今、『汝道、老僧即今在什麼処』と問われる内容でしょう。面白いね、質問て。私は今何処に居ますかって言うと、向こうの人の様子をこうだと思うから、すっかり自分の事忘れちゃうんだよね。