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他心通 Ⅷ

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「いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。」名付け用がない。本来、本来名前なんか何も無い。心とか念だとかって色んな言葉が使われてますけど、元々は何も無い。活動してる様子があるだけ。それに対して人が、その活動の様子が少し違うから。物だってそうでしょう。色に名前がついてた訳じゃない、最初から。何の名前もついてないけども、その通りの様子がこうある。そうするとその通りの様子にこう触れると、違って見えるからねぇ。自ずから違って見える。それに対して違ってる物は一纏めに、こう言う風に見える物はこう言う風に名付ける、こう言う風に見えてる物はこう言う風に名付けるって、色んな名前が付く様になった。本来はそう言うものでしょう。
 「心かならずしも念にあらす、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、他心通しるべからず。念の心ならんとき、他心通しるべからす。」気づくって言うのは後ですからねぇ。最初は知らないの。パン!どうなったか、知らない。パン!こうやって、何がどうなったか知らない。だって聞いたって気配全然無いでしょう、自分で。聞きに行かないでしょう、こうやって。自分の見解が入る余地がない。パン!こうやって。だから正しく伝わるじゃない、誰でも。自分の聞き方ってものが無いから。本当の他心通ってそう言う風になってる。
  「しるべからず」ってあるけど、「他心通しるべからず」とある。他心通ってこうなってるああなってるって言う様な事、知る様な世界じゃないんですね。それがイキナリそれなんです。これパン!これがイキナリそれ。何かを持って来てそれに変えて分かる様な世界じゃない。何百回も話してるかもしれないけど、本当に私達は、今日一日こうやって触れてみても、この頂いてる身心、この活動する物がありますが、これが色んな処にこうやって行ってですね、これの在る所が自分の生きてる場所ですからね。他で生きてる人は居ない。この身体の在る所が自分の生きてる場所です、何時でも。他の所で住んだ事が無い。で、この身体がいるって言う事は、自分の居る場所が確保されてるって言う事ですよね、何時でも。 この身体がここにあるって言う事は、自分の居る場所がちゃんと確保されてるって言う事です、何処行ったって。其処へ行ってから私の坐る場所って、そんな事ないでしょう。歩いてる時、歩いてる時に自分の居場所がちゃーんと確保されてる。何時でもちゃーんと確保されてる。しかもこの物の活動以外の事を人はしないんじゃないですか。逐一挙げてごらん。他の人の活動一切しないじゃないですか、これは。だから自分が何をしてるかもしる要がない。知らなくて良いんじゃない、自分が何をしてるかって。自分の様子以外無いの。そんなものわざわざ取り上げてあーだこーだって言う必要がない。それだから太平楽で生活が出来るのでしょう、気にならずに。
 だけど野暮な考え方が人間の中に起きて来たもんだから、自分の事だと思わなくなったもんねぇ。こうやって眺めれば、ああ他所に色んな物が一杯あるって、そう言う風にしか見てないんだもん。自分の眼で見ないと、こう言う物は出て来ないですよ。エー。此処にこうやって在っても、在る事さえも知る事が出来ないんですよ。この身体が無いと。私が喋ってる物が聞こえるって言う事は、皆さん方、これが有るから聞こえるんですよ。私が喋ってるから聞こえるだけじゃないですよ。皆さんの身体があるから身心があるから、その上に音声が再現されて行くじゃない。現象として現れるじゃない。本当にそれだけなんじゃない、生涯生きていて。しかもその活動たるやですね、その場限りで何処にもその事は残らない。実物としては何処にも残らない。
 ビデオテープの様なCDの様なああいう物の中に、録画が出来る様に、記録が出来る様に、人間の機能もなっている。あれ見てごらんなさい。自分の身体の中に、そのままの事実がこの中にしまわれてるかって、そんな事ないでしょう。こうやってゴツンと叩かれた物がそのままこの身体の中に、今その通りの事がこの身体の中に、大きさも痛さも場所も時間も、同じ所がそのままこの身体の中に蓄えられるなんて事は絶対ないじゃないですか。だからこんな小さなものの中に何十時間もの録画が出来たり、映像が蓄えられるのは、本当にミジンコの様な小さな物の集まりが、こうそこに何か電磁波の様な物でこう切り刻まれるって言う様なシステムがこの人間の身体の中にも、物を蓄えるって言うのはそう言う事なんでしょう。で蓄えられたからって言って、蓄えられてる事を何時知るかって言うと、思い出した時に初めて自分の中にそう言う物が有ったって気づくだけじゃない。ビデオだってCDだってそうでしょう。そこに置いて在ったって映像が見える事はないでしょう。ちゃんと機械にかけて、要するにプレーヤーみたいなのを回すと磁気を通して映像として画面に出て来ると、そうするとこの中にもそう言うものが入ってたんだなってそう言う理解をする訳でしょう。これ見てたって映像は出て来ないですよ。だたドーナツがあるだけで。四角いこんな何かチップがあるだけですよ。本当に人間もそう言う風に生きてる。考え方って膨大な事を想像させるねぇ。
 ここで注意してほしいんだけど、「他心通しるべからず」他心通しるべからずって言うのは、他心通が分からないって言う意味ではないのね。「心の念ならん時、念の心ならん時」ものと一緒になっている時と言う風に平易に約せば良く分かるでしょう。物と一緒になって一つになっている時には見る事が出来ない。無いのではない。その活動自体、そのものが行われていても、その活動がどうなっているって言う風に見る事が出来ない。外から離れてみないと、それは眺められない様になってる。前にも話したかもしれない。お風呂の中に身体を全身浸けるとですね、お風呂の中に入ってる様子はどうなってるかって眺める事は出来ない、ね。お風呂の中に入ってる様子は有りながら。お風呂の中に入ってる様子はどう言う事だって眺める事は出来ない。外に出てみると、ああ風呂に入るとああなるんだって言う風に理解する事は出来るね。そう言う様なもんでしょう。そう意味合いが「しるべからず」と言う表現になってるので。
 次、行きます。「しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの雉草修田にもおよぶべからず、」雉草修田、下にもある様に、お百姓さん農業を営んでる人達と言う風に訳してますね。お百姓さんて、百姓と書くから百種類位の仕事をするのでしょうね。お百姓さん。農業、田んぼだけじゃない百位仕事をする、って言う事になると、西天の五通六通よりはずっと農業を営んでいる人の方がって言う、道元禅師の言い分も、何となく肯がえるのじゃないですか。すべて所用なし。「都無所用なり。」都と言う字は全てと読みますね、すべて用うる所なしと上にこう言う返ってきます。
 「かるがゆえに、震旦国より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず」そう言うものを相手にして来なかった。本当に修行なさる人達。「その要なきによりてなり。」それ必要が無いからだ。「尺壁はなほ要なるべし、」一尺、三十三センチ直径、位の玉。「尺壁はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。」中国ではこの玉を大事にしていますね。日本でもこの前年号が改正されたけれども、三種の神器と言われる物の中には、玉(ギョク)と鏡と剣(ツルギ)って言う風にして、その中に玉が入ってます。ねぇ。「尺壁なほ宝にあらず、」それでもですね、そう言う一応大事にされるけども、もっと大事な物は「寸陰これ要枢なるべし。」今ここでやらなかったら、何時やるのかって言ってるのですね。「寸陰これ要枢なるべし。」パン!必ず今ここでやるしかないのです、学ぶのに。寸暇を惜しまずって言う事はそう言う事です。長い時間何かを、一辺を留めてそこを大事にするって言うんじゃなくて、何時でもそうじゃないですか。人が生きてるって言う事は。今ここで活動してる以外に、自分の命の在り様って無いじゃないですか。パン!頭で考える時間は過去から現在、現在から未来ってずーっと長い時間を想定させるけども、自分自身のこの身心に目を向けてご覧なさい。如何言う風にこれは生きているかって、ここで活動してる様子だけじゃないですか。何時でも。他に沢山な物をも持ち込んで生活してる人は居ませんよ。パン!こんなに単純明快。修行する場所が、もう明快。
  で、今ここって言うのは向かう要がない。尋ねる要がないって事がもっと大事なの。今既に、今既に今だから、尋ねる要がない。探さなきゃ分からない様なものじゃない。それが皆さんの寸陰です。普通皆さんが取り上げてる寸暇を惜しまずとかって言うのは、向こうに時間をチラッと認めて、それをこちらから大事にしようって言う様な気配じゃないですか。仏道で言う寸陰を大事にするって言う事はそんな事はしません。尋ねる、向かう一切ない。イキナリそのままです。パン!向かう要が無いじゃないですか。こうやって。尋ねる要が無いじゃないですか。こうやって、聞くにしたって。(カツ!ゴツ!と音がする)カツッ、ゴツ、皆そうでしょう。そんな大事な生き方をしてる。そんな大事な所がある。
  「五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。」他の人の生き様しないんだもん、しょうがないじゃんねぇ。私達は生涯って言ったって、ずーっと自分自身の生き様だけで、生涯おわるじゃない。サボろうったって、いい加減に生活してたって、皆自分自身の様子じゃん。そんなの人間の考え方って言うのは、自分でいい加減にしたり、ふしだらに過ごしたりすると、そんな物はって言って粗末に扱う様な考え方を起こすから駄目じゃない。皆自分自身の命そのものですよ。ゴミみたいなものでも。それ位大事なものですよ。考え方って言うのは自分で自分をそうやって見た時に、つまらないと思うと立ち処にそれを蹴飛ばして、それだから修行がまっとう出来ないじゃないですか。気に入ったものだけで修行するんじゃないですよ、言っときますけど。腹が立つ事によって腹の立つ修行がするのでしょう。そうでしょう。痛いときには痛い事によって、痛い事学ぶのでしょう。考え方としては無い方が良いに決まってるじゃん。そんなの当たり前ですよ。それをやっちゃたら、とんでも無い事になるでしょう。ね。
 「おほよそ他心通のちから、仏智の辺際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。」まあずーっと話して来たから、一般の五通六通と言う神通力を得る修行と仏道で言う他心通って言うものの在り様って言う物が根本的に違うって言う事は、少なからず何となく香り位はこうやって聞いてると感じてくれるんじゃないかと思っておりますが。
 「しかあるを五位の尊宿ともに三蔵さきの両度は国師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。」もう一回だして来ておりますが、この三蔵と慧忠国師のやり取りの物を取り上げて、五人の立派な祖師方が評価をしておられるけど、その内容をみると、その方々はいずれも、前の二回はちゃんと答えてるって言う風に受け取って、最後の一回だけは十分に答えられていない。最後の一回は如何したかと言ったら、「良久して対なし」答えられなかったって言うのが三回目の様子ですから、それで、三回目は駄目だって言う風に見てるって言う事、それは道元禅師から見てみると、道元禅師ご自心見てみると、それこそ節穴だなあと言っておられます。私達もこうやってもう一回一緒に触れてみると、確かに聞いてる事と答えてる事が全くちぐはぐだっての良く分かる、前の二回。三回目は全く答えられないから。
「国師は仏祖なり。三蔵は凡夫なり。」ものが本当に分かってる人とものが全くわからない人、「いかでか相見の論のおよばん。」そこへ出会って話をするんだけども、初めからその基盤が違う。時々出しますけれども、同じ道路をこう走るにしても、乗用車でこう走る人と二階バスの上にこうやって座って此処を走る人では、同じ道路をこう眺めていても見えてる物は全く違う。それは分かるでしょう。道路同じ所を走るんだけど、自分の目の位置が違うと見え方が違うじゃん。道路同じ所走っても。こう見えるああ見てるって二人が話してもですね、全然噛み合わないじゃん、って言う様な事です。凡夫と国師の間の同じ所を走って同じ話をして問題にしてる様に聞こえるけども、全く話にならない、言う事です。
 こうやって音を聞いてもパン!そうでしょう。自分を立てて聞いてる人と自分を抜きに、パン!音その物にいる人では同じ音を聞いてても全く違うでしょう、問題にしてる事が。自分を立ててる人は、必ずああ向こうで音がしてって言うんだよ。エー。だけど本当にパン!こうやって音をこうやって触れてると、向こうで音がしたって事は何処にも起きない。だけどパン!ここで出すのと、パン!ここで出したのは同じ様には絶対聞こえない様になってる。もうその通りキチッとその通り聞こえる様になってる。良いでしょう。自分で何にもしないんだけど。自分を立てると言う事になると違うんですね。自分を立てると距離が出て来るでしょう。ね。
 物を測る時に、必ず定盤星と言ってパン!一点を打って、此処からって言って、こう測るのでしょう。基準がなしに物を測らないですよ、重さでも何でも。必ずこうやった時、ゼロになってる所に物を置くじゃん。針がゼロになってる所に。それが秤の一番基なの。そうでないと、それがはっきりしていないと測る度に違う。自分を立てないって言う事と自分を立てるって事はそれ位違う。今って言うのを何処へ置くんですか、皆さん。言葉として使ってるけど、もし仮に今ってこうやって点を打ったら、それはズレてますよ。今じゃないですよ、必ず。トン!こうやって点を打って其処って、其処って指さしたらもう。そう言う事をやる前にあるんです、今って。何もかも今なんて要らん話ですね。まあ幾つかそう言う事をちょっと挙げておきますけども、「三蔵は凡夫なり、国師は仏祖なり。」だから皆さん方も国師に学ばないと、三蔵に学ぶとその程度の事しか分からん、と言う事で一応その位の時間で良いでしょう。
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他心通 Ⅶ

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「経論師と斉肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。」経論師って言うのは、三蔵法師って言う方は、経・律・論、この三つを究め尽くした学者を三蔵法師といっております。だからその中に論師も入るでしょう。そう言う方と肩を斉しくするって思うのはですね、まあどうかしてるって言う、言い方ですかね。そんな風な受取り方を、若しするんだったら、それはとんでもない間違いだ。気が狂っている。ものを取り違えるにも甚だしいと言う事ですね。
 「他心通をえたらんともがら、国師の在処しるべしと学することなかれ。」本当に他心通って言うものを会得していない人はですね、国師の「汝道、老僧即今在什麼処」って言った時に、どこにおられるかって言う事ですが。「国師の在処しるべきと学することなかれ。」国師のおられる処が分かっていると思ってはならない。全然違った事を頭の中で、想像して答えてる。他心通って知らない人はそう言う風に、何か神変不思議な、神通力の一つとしてですね、他心通って言うものを一般の学問の中では挙げてますけれど、仏教で言う他心通って言うのは、最初からこうやって自他の無い世界なんです。皆さんが生まれた事も知らない、自分が居る事も知らない、自分が物を見てる事も知らない、見てるとも知らない、そこに物が有るともしらないで一緒になりながらずーっと活動をして来た。そしてまあその内に自他を分ける様になる。自我心が芽生えて来て、その辺になると認識って言うものが自分の中に育つもんだから、見たとか聞いたとか分かるって言う様な事になって来て、両親を区別して見る事があったり、乳水、乳と水を分けて味わっている事をしる様になってくる。まあ人間てそう言う処からしか自分の様子を知らない。仏教はこの一番最初に生まれた時の様子まで、今の自分の中でそれをこうやって触れる世界です。こうやってパン!一番最初に触れた時は、音がしたとか聞こえたと言う風にならないんです。パン!こうやって、分かりますか。こうやってパン!こうやった時、音がしたとか聞こえたとかって言う様な事は一切無いですよ。パン!こう言う世界を皆さん毎日生きてるんですよ。
 「他心通は、西天竺国の土俗として、これを修得するともがらまゝにあり。」一般の方々も他心通と言う事を勉強している人がおられると言う事ですかね。で、一般の人達が勉強している他心通って言うのはこの仏教で言ってる他心通とは違うって言う事は、先程からずーっと述べて来てますけども、「発菩提心によらず、大乗の正見によらず。」二つあげてあります。菩提心によらず、道そのものの在り様ですね。道って言うのは、もう少し言ったら、真実そのものと言う風に直訳しちゃっても良いと思います。道、阿耨多羅三藐三菩提と言う様な原語ですから、この上ないものの在り様、比類無き在り様、絶対これ以外の様子は無いと言う程確かな様子を、阿耨多羅三藐三菩提、約して道を言う字で表してます。道と言うものは、そう言うものですね。「大乗の正見によらず。」自分自身の真相を本当にはっきりあきらめた人、そう言う人のものの在り様に学んでいない。
 「他心通をえたるともがら、他心通のちからにて仏法を証究せる勝躅、いまだかってきかざるところなり。」一般に言う他心通を得た人の力によってですね、仏法の内容がはっきりしてって言う様な事を未だかって聞いた事が無い。此処に、ピッタリした例にはならないかもしれないけど、アマチュアとプロと言う世界が、例えば有るとすれば、アマチュアの有段者と、プロの有段者では格が違うね。私の近くの方、この前お亡くなりになった方が、私の弟子と碁を打つので、亡くなる迄よくその方の自宅に行ってお相手をしてた様ですけども、アマチュアの五、六段て言えば、相当地域では力があるけど、プロの初段には叶わないね。その位開きがある。まあそう言う身近な例を挙げておいたら分かり易いかと思うので、その位の違いがあると言う事で良いでしょう。
 「他心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく発心し修行せば、おのづから仏道に証入すべし。」逆にですね、一般の他心通を勉強してものが分かったって言う人でも、志を更に起こして、本気になって仏道の修行をすれば、本当の他心通って言うものが手に入るって言う事あるよって、言っておられます。「たゞ他心通のちからをもて仏道を知見することをえば、先聖みなまづ他心通を修得して、そのちからをもて仏果をしるべきなり。」もし一般に言う他心通を得てですね、その力で仏道の内容を本当に熟知する事が出来るって言うんだったら、昔の祖師方仏祖方も、皆最初にこの他心通を一般に言う他心通を勉強して、それで物を学んで来た筈なのに、そう言う事をして先聖はだれも居ないと、ね。「しかあること、千仏万祖の出世にもいまだ有らざるなり。 すでに仏祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。」自分なりの真相をしるのに何処へ目を向けて、他所へ目を向けて行く必要があるか、って言うのはもう明確な答えでしょう。
 だけども一番最初に自分を見た時に、自分てつまらないなって思う人が多いから、それ以上は自分の中に素晴らしい事があるって言う風に捉えないから、そこへ持って来て仏道と言う様なタイトル、課題が其処にぶら下げられると、そっちにパン食い競争みたいに、その吊るしてある仏道って言うのをパクっと食べに行くねぇ。そう言う様な修行になる。それは間違いでしょう。どうしてかって、こうやってパン!この音を聞くのに、他のものを聞きに行かないのでしょう。この音を本当に知りたかったら、パン!これだけで、他の物に目を向けて聞きに行く様な事をしない、って言う事が本当の在り方でしょう。
 こうやってこの茶碗の中に入ってるお茶の味を味わうのに、もっといっぱい茶碗持って来てって、入れて来てお茶って、そうやって飲む人はいないのね。必ずその物だけで良い様に出来てる。それ時間的にも場所的にも物質的にも全ての条件の上で、取り替える事の出来ない物が私達の生きてる生き様そのものでしょう。生きてるって言う事は取り替えるなんて事はない。やり直して生きるなんて言う事はない、出来ない。それを相手にしないと駄目なんです。今やってるものに対して嫌悪感があるから、捨ててもっと良い物が欲しいって言う、そう言うものの見方の上から物をとり扱ってる様な処に仏道の修行は無い。それ、よそ見をしてるって言います。ねぇ。
 次の処へ行きますが、「仏道に不中用なりといふべし。」そんなものは要らんと言ってる、役に立たない。「他心通をえたるも、他心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。」やってみますよ。物が良く分かる人と良く分からない人が居るかもしれないけれど、こうやった時に、(扇を開く)良く分かる物の見方と良く分からない物の見方がこうやった時に、何処に出て来るんだろう。こうやって見るのを臨済宗、こうやって見るのを曹洞宗って色々言うかもしれないけど。パン!一声ですからね。パン!物が良く分かる人も、分からないと思ってる人も居るけども、こうやった時に、良く分かるとか分からないと言う事に関係なく、聞こえる様に出来てるのでしょう。パン!良く分からないと聞こえなくて、良く分かると未だそれ以上の物が何か出て来る、そんな事は無いですね。基本がそうなってるから、誰でもはっきりする様になってる訳でしょう。もし二通りの様子があったとしたら、どっちが優れてるって言う事になり、片一方しか無い人は中々上達しないでしょう。しかしこれは上達するとかしないとかパン!関係無い。パン!イキナリそうなって終りです。こう言う様な事が先ずあるでしょう。
 「仏性を保任せんことは、他心通も凡夫もおなじかるべきなり。」こう言う今見せた様なパン!ものの本質的な在り方を仏性と名付けてるじゃない。パン!悟った人の聞き方、パン!凡夫の聞き方って言うものが無いんです。仏性には。音が聞こえる時、そう言うものがつかない。音、パン!音がその通り聞こえるだけ。そう言う働きを持ってる。ねぇ。そう言う風な在り様を暫く仏性と言ってる。
 「仏性を保任せんことは、他心通も凡夫も人しかるべきなり。学仏のともがら、外道二乗の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。」仏様の世界、自分の真相を本当に自分で自覚する、そう言う学び方をやってる方々、それ以外の色んな教えがあるでしょうけど、それ以外の色んな教え方の物を素晴らしいと思ってそちらに学びに行くのは、仏道を学ぶ人の在り様ではない、とおっしゃっております。少なくとも皆さんはそう言う処に行かない処までたどり着いて頂いてるとは思う。未だ他の何かを学びに行かないと、って思ってる人が居るとしたら、それでは仏道は学べませんよ。
 今説明して見せた通りじゃないですか。パン!こうやってやるのに、この音を本当に聞くのは何時ですか。音がしてる時にしか絶対に聞く事は出来ない。パン!生涯に一度だけですよ、この音を聞くのは。二度とこの音は出て来ないですよ。パン!こうやったって、これはさっきの音じゃないですからね。こうやってパン!さっきの音じゃない。パン!聞くのは何時もパン!今の音がしてる様子に触れて、その音がはっきりするだけです。それ以外に物を本当にはっきりする道は無いじゃない。その事実を離れて、その事実がどうあるかって言う事を知る道は他に無い。そうでしょう。そんなの子供でも知ってるんじゃない。後でもう一回見たらって言うんだけど、後で見る事なんか、人はないからね。
 夏休みに甲虫がこうやって、見てる。死んじゃった。お父さんが又甲虫、どっかから捕まえてきて、あれは死んじゃったけど又持って来たからって、これを見れば分かるんじゃないかって。一応常識では許すじゃないですか。だけども違う物を見てますからね。この最初に見てた甲虫の研究をしてるんじゃないんですよ。だけども一般の人は殆ど同じ種族で甲虫の仲間だからって言って、こうやって見てる訳でしょ。足が動いてる様子だって、その足が動いてる時にしか触れられないんだもんね。食べてる時も食べてる時でないと、食べてる様子は触れられないんだもんね。他には見れないんだよ。後でって言うんだけど、後でやったって、後でやるって言ったって、必ず今見てるだけなんだよ。エー頭は後でやってると思ってるけど、自分の様子を見ると今触れてる様子だけですよ。後でやるって言うのは無い。今出来ないから後でって言うけど、後でなんかやらない。必ず今です。あの時の事を今やってるって言うんだけど、あの時の事なんか、やっちゃあいない。見てごらん、自分のこうやっている時は、あの時の事なんかやってないじゃない。今やってるだけじゃない。パン!何時でも。その位人間の考え方と真実は違う。考え方はそうやって、あの時の事を今やれてると思っている。そう言うものの見方をしてる。実際はあの時の事なんかやってないよ。今やってる事に触れて、今やってる事がはっきりしてるだけです、何時も。
  「たゞ道心あり、仏法を学せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。」だからこうやって皆さん、本当に自分の事を真面目に追究し学ぼうとしてる人は、彼らよりも遙かにすぐれてる。一般に土俗の人達が学んでる他心通ですね、五通六通。それは例えが引いてある。「頻伽の卵にある声、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。」下にちょっと脚注があるんですよね。「迦陵頻伽。雪山に住むという声の美しい鳥」それはですね、殻の中にありて未だ出でざるに発する声の微妙なること、よその鳥よりもすぐれていると言うんです。そう言う事が、大智度論と言うものの中に書いてあるって言うんですが、それを引いておられる。不思議な鳥ですね。卵の中で鳴き声がする。まあそれはその位で良いでしょう。
 「いはんやいま西天に他心通といふは、他念通といひぬべし。」漢字が心と念と、漢字が違うと人間は、何だろうねぇ、受取り方が急にかわるのかね。「念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。」念が起こると言う事は気づく事が有るでしょう。だけども、念が未だ起きない時の様子って言う事になると、茫然と言う事、手の付け様が無くて、知るよしもないと言う事でしょう。
 で、こうやってやってみますけど、パン!こうやって音を聞く時に、パン!念が起きない処の様子があるでしょう。先程から話してるから。聞こえたとか音がしたとか言う様な事が一つも入らない時にパン!あるでしょう。だけども私達は茫然ではない。はっきりしてる。念の起きない程はっきり、起きる時よりも起きない時の方がよりはっきりしてる。念ずる時って言うのは、パン!ああ音がしたって言って、それを相手にして眺める世界です。そっちの方が皆さん方、はっきりしてる様に思うかもしれないけど、本当は、パン!念が起きない時に、聞こえたとも聞いたとも何ともない、そう言う触れ方をしてる時が在る筈です。はっきりしない、茫然としている人に対して、道元禅師は「わろふべし。」自分の事なのに、そうやって念が起きたって事を気づかない時の自分の様子を本当に知らないなあって言ってます。一番大事な処なのに、一番核心なのに。
  例えばもうちょっと卑近な例を言うと、すぐ腹が立つんですよって、如何したら腹が立たなくなりますかって言う事を聞く人が居ます。すぐ腹が立つって、どんなにすぐ腹が立つって言ったって、腹の立つ前があります。ここに見ないと言われる様に、腹が立ってないと言う事があるのでしょう。すぐ腹が立つって言ったって、立つって言う以上は、縁に触れて腹が立ったって言う事、気づくって言う事でしょ。その前に腹が立ってない処があるから、腹が立ったって言うのでしょう。エー。一番最初から腹が立ってるなんて人いないでしょう。だってピャーと叩かれて、腹が立ったって言う人居ないでしょう。腹が立ったって言うまで、腹が立っていないでしょう。人の話聞いてもクソっと、人の話聞いて頭に来ちゃったって言うけど、頭に来るって言う事は、頭に来ない前の聞き方してるって言う事があるのでしょう。なんで其処を触れないんですか、皆さん。それが救いなんでしょう。どうもしなくても良い様になってるじゃないですか。どうしたら腹が立たない様になるだろうって、腹の立ってない自分の様子があるじゃない。それを知らないから、それをちゃんと大事に出来ないだけじゃない。問題が一切起きないで生活してる自分の様子が有りながら、それを知らないから、問題が起きた処からしか自分を見てないから、扱う場所が違うじゃないですか、ね。そう言う事が、この所にも少し挙げてある。

他心通 Ⅵ

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「そののち、国師おもはく、」そこで慧忠国師はですね、「たとひ仏法に他心通ありといひて、他心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずとおもへり。」三蔵の心の様子を見ると、そう言う風な受取り方をしてるなぁって言う事が、慧忠国師から見るとよく分かっていると言う事ですね。仏法で言う他心通と俗に言う他心通とは、比べものにならないにも拘わらず、三蔵は自分の他心通を得た上から仏法の様子を覗って、多分仏法で言う他心通はこんな事かなって言う様な見方をしておられると言う事なのですね。
 「三蔵たとひ第三度わづかにいふところありとも、前両度のごとくあらば道処あるにあらず、摠じて叱すべきなり。」答えを見てみると、いずれも質問してる事に対して全く聞く耳持って無い。普通に皆さんが読んでも分かるでしょう。私は今何処に居ますかって聞いた時に、如何して西川とか、川ですね、あるいは橋の上とかって言う様な話をするのでしょうね。それは全然違う所を見てるでしょう。目の前にこうやって、私今何処に居ますかって言ったら、其処にいるのに決まってるじゃないですか。それを答えないって言う事は、喋ってる事をそのまま先ず聞いてないって事でしょう。他心通を得る、得ないよりも、人の言ってる事を全く聞けてない位、愚かだと言う事でしょう。もう本当に話にならない。何か特殊な事を持ってくるでしょう。他心通、三蔵さんは答に。そう言う所を見て貰うと、良く分かる。
「いま国師三度こゝろみに問著することは、三蔵もし国師の問着をきくことをうるやと」先ず一つは私が言ってる事が正しく聞けてるかどうか、「たびたびかさねて三番の問著あるなり。」一回じゃあ中々分からない人が居るから、二回目三回目、同じ事を三度話せば大体何を言ってるか分かりそうなもんだと言う事なんだけども、二回目を言ってもよく分からない。三回目言ってもよく分からない、言う事ですかね。これが一つ目ですね。
 それから「二者いはく、国師の身心をしれる古先なし。」国師の身心をしれる古先なしって言う事は、ここでは慧忠国師のと言う方を対象にして出しておられますけれども、各自皆さん方も自分自身の本当の在り様がどうあるかって言う事を知らないと言う事を問題にしておられます、道元禅師は。国師の名前を借りて、この正法眼蔵を読む時に、これは古い人の話じゃないんですよ、言っときますけど。今皆さん方の様子を、色んな人の名前を挙げて、それを借りて自分自身の在り様をこうやって学んでゆく、そう言う書物です。昔、あの人とあの人がこんな会話をしたら、こんな話になったって言う様な事を取り上げているのでは無いですよ。そんな昔話の話なら、聞いて覚えたってしょうがないじゃないですか。皆さん方もだから自分の身心の在り様ってどうですか。
 皆さんの持ってる眼を何時も挙げますけども、眼や耳や、色んな物を挙げて話をしますけども、こうやって此処の隅からずーっと一回り首を回して、こうやって目を開けたまま首を回すとですね、こう言う風になってるでしょう。こう言う事知ってますか。毎日生活してる、こう言う生活を皆さんがしてるって言う事を。それだけじゃあ分かりにくいんだろうねぇ。どうなってるか私が説明をしなきゃわっからない事じゃないと思うんだけども、まあ念のためちょっと解説を付けてみる。この隅からあの辺まで行ったら、もの凄く変わった事がよく分かるでしょう。だけど、その変わって行く間、どう言う風になってるかって言うと、ずっと今見えてる様子があるだけじゃない。今見えてる様子が。何処へこうやって目を向けても、今見えてる様子があるだけです。それ一つです。今見えてる様子があるだけって事は、前の様子は何処にも無いと言う事で良いでしょうか。良いですか。今見えてる様子だって事は先程見てた様子は何処にも無いと言う事で良いでしょう、ね。でその二つを合せて、もう一回言ってみると、対比するものが、何時も私達は眼で物を見る時に、もう一つの見え方って言うものを持ってないと言う事ですね。比べるものの見え方を持って無い。今見えてる様子だけで、何時も生きてる。眼、良いでしょう、やってみて。今見えてる様子だけしか無いでしょう。こうやって仏道と言うのは勉強するんです。自分の身心を通して。
 ところが、日常の生活は、物に触れると必ず苛立つものをどっかに持ってるでしょう。それどう言う事かと言ったら、あの時に彼奴があんな事をって、言う様なものを、ちらっとこうやって思い浮かべてるって事でしょう。それ何処へ思い浮かべてるかって言うと、眼に思い浮かべてるんじゃないですよ。眼にはこうやって今の様子しか、絶対眼って言うものはない。普通の言葉で言えば、多分この頭の辺に思い浮かべる能力があるので、記憶装置みたいな物があって、そう言うものをふっと思い浮かべて、それを自分で、こっち頭の中の方に眼を向けて見ている。そうするとこの見えてる様子と、頭の中に浮かんだものを見てる様子があるから、ものが二つ、比べるものが有る様に生活しているんじゃないですか。ところが実際に自分の眼でこうやって確かめてみると、こう言う風になってるって事です。こう言う風になってると、皆さんが問題にする事が、一切端から起きない様になってるって言う事でしょ。
 体験したにも拘わらず、色んな事を体験したにも拘わらず、それを綺麗に片付けなきゃならないとか、離れなければ、忘れなければ、思い出さない様にしなければって言うような事をして、引っかからない様にしたいと思うんだけど、これは(自分を指す)見事にその引っかからない生活を今やってるんでしょう。ここに仏道の素晴らしさがあるでしょう。仏道って自分自身の真相を自分自身で見届けると、なんだ自分で思ってたのと違う素晴らしい自分の生き様がちゃんと自分の上に出来ているのに、これを知らずに勝手にここ(頭)だけで苦しんでるって事、よーく分かるでしょう。こう言う事が自覚をした内容でしょう。自分自身の真相に触れて、自分自身がどう在るかって言う事がはっきりしたら。誰の力も借りる用がないじゃん、自分を救うのに。誰の力を借りなくても迷わない様に、狂わない様に、騒がない様に、乱れない様にキチッと生活をしてる。それが皆さん方の今の在り様でしょう。こう言う事がここに挙げられるでしょう。
 「国師の身心をしれる古先なし。」慧忠国師と言う方はこう言う自分自身の真相を本当に良く知っておられる人だ、と言って道元禅師は賛嘆をしている訳です。と言う事は、私と同様にって言う事ですよ、道元禅師が。ねぇ。道元禅師は慧忠国師の身心の在り様をこうやって評価出来るって言う事は、ご自身が国師と同じ様な内容をちゃんと自分でもしってるから、それが確かにこの人はしっかりしてるって言い切れるんです。そうでしょう。色んな事の時、そうでしょう。皆さんが人を評価するにしても。まあ次行きます。
 「いはゆる国師の身心は、三蔵法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。」 三蔵法師がですね、本当に見る事の出来ない位、もう最初から違うですねぇ。皆さん方も私がこう言う解説を残さなければ、多分三蔵法師の様な見方で終わっちゃうんですよ。それ以上の物を自分の様子の中に見る力がない。パン!音を聞いても何もしないのに、もう終わっちゃった。すっからかんに聞いた物何処にも残ってない。こんな生活を皆さんしてるんですよ。パン!何処にも今聞いた物残って無い、確かでしょう。じゃあ何で、日頃グズグズ言うんですか。何を問題にするんですか。酷い人は四十年も一生、あの時に、って言うものを抱えて、死ぬ時まで恨み辛みを言い続けて行くのでしょう。あわれですよね。向こうが苦しめるんじゃあないんですよ。自分自身が、パン!こう言うちゃんとした生活をしてる事を知らなくて、何処かに、あの人に言われた事が自分の何処かに刺さって、棘が刺さって取れないって言う風に理解してる。何処にも刺さりませんよ。パン!聞こえただけで、もう終わっちゃったよ。全部消化しきった。滓も残らない。完全に消化してる。こう言うものを仏様の生き様と言うのでしょう。誰もがやってますよ。ただ自分ではっきりしないからすっきりしないだけじゃんね。
 人に言われて、そう言われりゃそうかなと思う程度の処にしか居ないから、役に立たないだけ。本当に自分の事だから、パン!自分が触れてはっきりさせて欲しい。そう言うものが仏道として伝わって来ているのでしょう。仏道ってだから、自分の生活している事以外に仏道なんてものは無いんですよ、特別にその他に。ところが仏道を学ぶって言うと、自分の生活の他に何かもの凄く素晴らしいものがあるって言って、そう言う物を学ぶ様に勉強してる。それは三蔵法師の様な勉強の仕方です。眼って言うのは、どう言う風に物に触れたら、見たら良いかって言う事を何も覚えてなくても、何時でも其処に有る物をこうやって出会うとイキナリ、見てからその様になる何てことは無い。物に触れてその様に見てからその様に成るなんて事はない。知らない内にもうその通りなってる。誰も何もしないんだよ、こうやった時に。何もしないのにその通りなってる、こうやって。こう言う様な事があるから、道元禅師こんな事をおっしゃるのでしょう。「見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。」
 「十聖三賢及ばず、補処等覚のあきらむるところにあらず。」本当に自分の真相に触れた人でなければ、この事はどんなに立派そうな人でも無理だとおっしゃってる。分かり易い話がですね、エー外国、何処の国でもいいですけど、フランスでも何処でも良い、ドイツでも。そう言うですね、その国に行った事の、足を踏み込んだ事の無い人がですね、その国の在り様を本当に知るって言う事はないじゃないですか。如何言う風に、その国に足を踏み入れない人がですね、その国の様子を知ってるかって言うと、今彼処でああいう風なニュースが入って来た、今流行がこうなってるとか、あの人が、行った人がこんな話をしたって言う様な事をやってるだけじゃない。あなた行った事ありますかと言ったら、無いって言うのでしょう、其処の国行った事が無ければ。じゃその色々行った様な話をしてる事は、行った話じゃないって事は明確でしょう。どんなに行った事のある人より素晴らしいとか言う、そうですよ、その国に行った事がある人よりも行かない方が色んな情報を沢山知っておって、今。面白いと思いませんか。行った人が、エッそんな事って、行った事の無い人話を聞いて、そんな事が有るって言う位、行った事の無い人の話を聞いて、本当に思う位。だけども一番肝腎な処、あなたが本当に行ったかって聞いた時に、行かないって行ったら、それは何だって言ったら、行った事の無い人の話だって言う事でしょう。どんな素晴らしい人でも、十聖三賢、補処等覚とか言う様な人でもですね、それは自分の真相そのものに、本当にこうやって触れた事の無い人達を指してるからです。
「三蔵学者の凡夫なる、いかでか国師の渾身をしらん。」大耳三蔵と言う人は凡夫だと道元禅師はおっしゃっておられる。只の人だって。ちょっと学問が出来る物知りだ、博学だって言う程度じゃないかと言ってるのでしょう。そう言う人が如何して国師の全身心の様子をはっきり知る事が出来るだろうか。一応国師とここは言っておりますけども、あなた自身で良いでしょう。三蔵法師あなた自身、自分自身の事が有りながら、自分自身をはっきり知らないのか。自分自身をはっきりさせないって言う事は、全ての物に触れた時に、物がはっきりしない人になるって言う事でしょう。そうでしょう。自分が色んな物に触れるんだもん。それで理解をするんだもん。その時に自分自身がどうなってるかが自分ではっきりしない処から、物を見たり、聞いたり、触れたり、味わったり、匂いを嗅いだり、考えたり、それはっきりする訳がないじゃない。それで、己事究明、自分自身を本当に知り尽くすって言う事がどれだけ古来から重要視されてるか。何処の国の人だってそうでしょう。本当に物を学ぼうと思ったら、そう言う事を抜きには出来ないでしょう。他の人が生活するなら別ですよ。自分自身が生活するんだから、自分自身ではっきりされなければ、はっきりする道理が無いのね。隣の人に飲んで貰ったって、自分で飲まないと、本当の味は分からないと言うのと同じじゃないですか。
 どんなに丁寧に、百人に飲んで貰って、百人飲んだ人の話を聞いて、自分で一人で飲むよりもそっちの方が確かだと思う人がいるからでしょう。ねぇ。千人飲んで貰って、千人の答えを聞いたら、自分で飲むよりももっと微細な処まではっきりするんじゃないかと思ってるからでしょう。逆でしょう。誰にも力を借りなくても、自分で飲んだら、間違いなくはっきり、すっきりするのでしょう。どうしてそうなるかって言うと、舌と言うものは自分の口の中に入れた物しか味が出て来ない様になってる。自分の舌に載せない物の味は、味わわない様になってるから、何時でも。上手く出来てるね。比べなくてもちゃんと分かる様に出来てるんですよ。物を見たってそうでしょう。何かと比べなかったら、物がはっきり見えない、そんな事はない。
 だけども学問て言うのは、何か他の物と対比して比べる事によって、大体成り立っている様に思いますねぇ。論文にしてもそうじゃないですか。あっちの方がこう言う事言ってる、こっちの人がこう言う事言ってる。ここは辻褄が合わないじゃないかとか、何か言って論文を作って、それを学会に出して何か少し変わった見方で、成程って頷く人がいると、取り上げられ通って行くのでしょう。素晴らしいとか、大して素晴らしくはないですよ。殆ど、殆ど素晴らしくないですよ。次の人がもっと困る様になるだけじゃないですか。又違った評価をした論文が出るんだから。後になればなるほど、一つの物に対して色んな評価をした論文が出る程、それを読んで頭の中がごちゃごちゃになるだけじゃないですか。
 それは、皆さんが般若心経を読んで勉強する時に、よく分からないからって本屋さんに行って般若心経を解説してる本を買ってくる。一冊買って来て、良く分からん、もっと誰かのが良いんじゃないかって、三冊も買って来て読むと、段々何そう分からなくなってくる。誰に聞いても大体そう言う事になってるね。面白いね。何ででしょう。はっきりしない人が自分なりに、こう思うああ思うって言う事を書いてあるだけだからでしょう。それは個人的な見解でしょ。別に仏法じゃない。般若心経の真意ではない。そう言うな事がこう言う事と全く同じでしょう。「いかでか国師の渾身をしらん。この道理かならず一定すべし。」今話して来てるような内容は、皆さん方が心にしっかり受けとめて、正しくその通りだって受け止めて貰う必要があるって言う事です。
 「国師の身心は三蔵の学者しるべし、みるべしといふは謗仏法なるべし。」知らない人が知ってる人の様子を評価するって言う事はとんでもないと言うんでしょう。ねぇ。お菓子屋さんでプロの人が作った食べ物を、物を作った事の無い人が、これは出来栄えが良いとか悪いとかって言われたくないって言うじゃないですか。あなた方に言われたくない。逆だもん。仏法もそうですよ。お坊さんもそうですよ。在家の人達にあの和尚さんは良い和尚さんだとか、立派だとかって褒められて、それで浮かれててもしょうがない。本当に眼の開いた人が、ああ、あれはちゃんとしてるなって言って、言ってくれたら、少し肯がっても良いでしょうけど。そう言うものでしょう。


他心通 Ⅴ

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2019.6.23

少し読んでから始めます。

「しかあるを、古先みなおもはくは、国師の三蔵を叱すること、前両度は国師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、国師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。国師の三蔵を叱することは、おほよそ三蔵はじめより仏法也未夢見在なるを叱するなり。前両度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ他心通をしらざることを叱するなり。
国師まづ、仏法に他心通ありやと問著し試験するなり。すでに『不敢』といひて、ありときこゆ。そののち、国師おもはく、たとひ仏法に他心通ありといひて、他心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずとおもへり。三蔵たとひ第三度わづかにいふところありとも、前両度のごとくあらば道処あるにあらず、摠じて叱すべきなり。いま国師三度こゝろみに問著することは、三蔵もし国師の問着をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。」

 
 まあその辺迄読んで入りたいと思います。両話に引かれている話がそこに、今日初めての方はちょっと読んでないかもしれないので、それが分からないと、難しいかもしれませんが。もう一度そこの処をこうみてみるとですね、この大耳三蔵と言う方がお見えになって、インドの方でご修行なさったのでしょう。で、他人通と言うものを得たって言う、自称そう言う事を言っておられるので、帝が本当にこの方は他人通を得たかどうかって言う事を知りたくて、慧忠国師とですね、この方の間で問答を交させると言う舞台設定になっております。
 そしてどんな事が行われたかって言うと、最初に先ず「あなたは他人通を得ましたか」と、大耳三蔵に聞いておられます。それが第一回目。それに対して「不敢」いいえって言う様なへりくだった言い方で挨拶をしておりますね。それに対して二回目に『汝道、老僧即今在什麼処』と。「私は今何処にいるか、さあ言ってごらん」と言う様な事を、二回目に又尋ねておられます。それに対して三蔵は「和尚はこれ一国の師なり。」慧忠国師と言う方は、帝のお師匠さんにも成る様な、そう言う位置に居る人だって言って、一応受け取めておられるのでしょう。
 『何得却去西川看競渡(何ぞ西川に却去いて競渡を看ることを得んや。)』西川と言う川の方に行ってですね、舟がお互いに競っている様なものを見るって言う事ですかね。「看ることを得んや。」そう言う事を看る事が出来るでしょうか。そう言う二番目のやり取り。
 三回目に又同じ様に国師は、『汝道、老僧即今在什麼処』三度目の答え、「和尚はこれ一国の師なり、」と同じ様に敬って『和尚是一国之師、何得却去天津橋上、看弄猢猻(何ぞかって天津橋上に在って、猢猻を弄するを看ることを得んや。)』橋の上で、猿が、大きい猿と小さい猿ですかね、それがですね、遊んでいるって言う事ですかね、「弄することを看ることを得んや。」そう言う答えをしておられる。
 もう一回あるんですね、もう一回国師が、『汝道、老僧即今在什麼処』三回目はとうとう三蔵様はですね、「良久して去処を知ること罔し。」ですから、黙ってしまってお答えにならなかったと言う様な、ざっとそう言うものを受けて此処に入って行くと分かり易いかと思います。
 多くの方々が、五人の代表的な人がこのやり取りについて後にですね、評価をしてるって言っていいのかね。内容を吟味してそれぞれご意見を述べられて居る方々が、道元禅師がそこにその方々の言い分を挙げておられるのですけども、そう言うものを総じて取り上げて道元禅師がですね、「古先みなおもはくは、」その五人の方々がこの二人のやり取りを見て、どの様に先ず捉えているかって言うと、一回目二回目は国師の尋ねている事に、一応答えて居ると言う事ですかね。「前両度は国師の所在をしれり、」ですから、『老僧即今在什麼処』って言う問いに対して、ちゃんと答えているって言う風に受け取っておられる。「第三度のみしらず、みざるがゆゑに、」だから、国師に叱られたと言う風に受け取っておられる。そう言うことが先ず大変な間違いであると言う事を道元禅師が指摘をしておられるんですね。国師の三蔵を叱ると言う事は「おほよそ三蔵はじめより仏法也未夢見在なるを叱するなり。」大耳三蔵法師の他心通と言うものと、仏法で言っておる他心通の先ず一番最初の違い、皆さんもほぼ感じていると思うんですけども、こうやって今ですね、皆さん方が今ここで生活してる時に、何処から何処までが自分の生活ですか。今こうやって居る時に、何処から何処までが自分の生活の様子ですか。何処から他人の様子ですか。そう言う事を触れて見て貰うと良く分かるでしょう。
 多分皆さん方の頭の中には、これは(自分の身体を指す)自分だと思っておりますから、此処からちょっと離れてるものは他人事の様に理解してるんでしょう。だけどもよーくこうやって見てみると、こうやって物を眺めて居ててもですね、眺めてもですよ、色んな人が今日これだけ来てるって、お互い眺めて見てもですね、相手の様子が全然無いのよね。自分がこう眺めてる様子がずーっとあるだけでしょう。何処まで見て、遠くまでこう見ても。そう言う風になってませんか。一切他所の人の見てる様子が、今自分がこう見てる時に出て来ない。誰もそうじゃないですか。仏法ってそう言う風な確かさがある。三蔵法師の見てる他心通って言うのは、初めっから自分を此処に立てて、対象物を立てて、そして物を眺める、そう言う自他の関係の上で相手の心を見るとか読むとか知るとかって言う風な程度の事しかやってない。これが仏法の他心通と三蔵法師の他心通の、道元禅師がおっしゃりたい処はそう言う事でしょう。
 もっと違ったものを例に挙げれば、何処からが右で、何処からが左ですか。皆さんエー、こうやって何処からが右で何処からが左ですか。右左って言う言葉、知ってるでしょう。使ってるでしょう。今のは自他の話だけど、自他だと分かりにくいから、皆さんが使ってる右左、使ってるから分かりそうなもんじゃんね。何処からが右ですか、こうやった時に。どっから左ですか。そう言う勉強した事無いでしょうね。漫然と右と左があると思ってますから、どこかにこう区切る場所を見てるのでしょう。そう言うものが三蔵法師の勉強してる世界です。仏法の世界はこう言う風になってます。
 向こうの山と手元の様子がこうやった時に、遠い物が暫く経ってやっと見えてくるって言う様な事は無い。星空、遠い処に星が多分あるのでしょう。だけどもこうやった時に足元の草も一緒にこうやって見える。誰もそう言う事体験してる訳でしょう。近い物は近いから早く見える。遠い物は遠いから時間がかかるって思ってるのでしょう。だけど戸を開けた途端に全部みえるのですね。不思議でしょう。如何してそう言う風に考えてる事と事実は違う様になるかって言うと、ここに基点を置くからでしょう、考えるって言う事は。眼は基点を何処にも置いてないですよ。何時だって、こうやってそのままその通りの事がそのまま、すぐ時間も何もかからず、全部スッと終わる。これ他心通と言われるゆえんです。向こうの様子その物が自分の今の在り様だから。ねぇ。眼ってそうでしょう。こうやって向こうの様子その物が、今自分の様子でしょう。こう言うものが仏法の他心通ですね。仏法の他心通って言うよりは、本物の在り様でしょう。仏法って言う表現を付けるとややこしい。本当の在り様はこうなってるでしょう。何も皆さん努力しないのに、虚空とか独坐大雄峰とかね、色んな物に触れると、その通り皆。読むのは難しいかもしれないけど、その通り見えるって言ったら良いでしょう。時間かかんないですよね。エー。
 向こうに有る物をこっちの人が見るんだけど、そう思ってるんだけども、こうやってやると、何時でもイキナリその事が何時でもこう有る。何の苦労もしないのに、その通りその事がそのまま、イキナリ。その通り見えるって事は、その事がよく分かってるって言う事で良いでしょう。駄目ですか。意味が分かるとか、誰が書いたかとか、何時頃そう言う事が、悉く丁寧に説明がつかなければ分からないと言うのでしょうか。そうじゃないでしょう。今見てる事の中に、そうやって後々説明をする事が全部あるのでしょう。ねぇ。後から出て来る訳じゃないのでしょう。こうやった時に。今見えてる物の中に、説明しようとする内容全部有るのでしょう、余さず残さず。だから研究をすると、内容が明白になってくる。読める様になったり、誰が書いたとか、何時頃のだとか、意味はどうだとかって言う様な事まで皆分かる様になってる訳でしょう。ね。
 基本的にはだから、イキナリその事実にそのまま、それを生け捕りにして生活してると言う事でしょう。仏法の様子って、そう言う自分自身の生活してる様子はそうなってますよ。ところが、私達は何故かしらないけども、自分と他人を、何時分けたのか知らないんだけど、さっきの右左と同じ様に、何時分けたんだか知らないけど、自分と他人を見事に分けて生活してる。その自分と他人を分けた上から生活が始まってるから、今日の様に複雑で、皆さん方がちょっと何かあると混乱する訳です。本来の自分の様子にこう触れてみると、混乱した事が無い。こうやって音を聞いてもですね、パン!パン!ズレないんだからね、その時に、一つも。パン!パン!もう一つの聞こえ方がパン!しないんだから良いじゃない。
 それを人間は、彼処でテーブルを叩いた音だ、こっちでテーブルを叩いた音だ、あの人が叩いた、パン!とかそう言う事を皆付けて、そう言うものの見方をしてる。 ところが皆さんの耳はですね、パン!井上がテーブルを叩いたって言う風には聞こえない。分かりますかね。分かる?パン!良いですか。井上が叩いて、叩いた音が今聞こえるって言う風には聞こえない。良いですか。何を言ってるんだろうと思うかもしれないけど、これが大事でしょう。耳に聞いてごらんなさい。パン!耳はパンて言う音が響くだけ。あの人がって言うのはついて来ない。パン!あすこでって言うのもついて来ない。あれを叩いたって言うのもついて来ない。パン!
 目はこうやってひろげるとですね、(扇を開く)井上が扇子を開いたとか、井上が扇子を閉じたって言う風には見えない様になってる。わかりますか。自分の目でこうやって見てて下さい。井上が扇子を開いてる、閉じてる、そう言う風に見える人?そう言う風に見える?この扇子のこう言う様子が見えるだけでしょう。あの人が開いたりあの人が閉じたりしてるって言う風には見えないのでしょう。そんなものついて来ないのでしょう。分からない人?こうやって物が見える様になったら、人は幸せになりますよ。こうやった時に、開いてる人が一緒に、あの人が開いてる、あの人が開いてるって、そう言う風に見える様になると厄介になる。あの人があんな事を言ってるって、そう言う風に聞こえる様になると厄介になる。まあその位にちょっとしときますね。
 更に道元禅師がおっしゃるのに、慧忠国師が如何して三蔵さんを叱ったかと言う事はですね、およそ三蔵ははじめより仏法って言うものを未だ夢にだも見た事がない。仏法のぶの字も触れた事が無い、だから叱ったんだと言っております。今申し上げた様な事です。
 普通生活をしてると、不思議に自分の本当の在り様って言うものを知らない。あの人が私をひどく叱ったって言う風に聞くのですね。耳に音声を聞いているとですね、不思議ですね、その音だけが耳には響く様になってる。そこに人がくっついてこない。それが耳の素晴らしさです。あれ、耳に喋ってる人がくっついて聞こえると厄介です。
 眼だってそうです。あの人が動かしてると言う事が一緒にくっついて見える様になると厄介ですね。こう言うの見て下さい。見てる私は出て来ないのでしょう。この様子だけが見えるのでしょう。見える、自分が見えるには違いない筈なのに、自分が何処にも出て来ない。見てて、色んなもの見てて。向こうの様子だけでしょ、見えるのは。それ確認してみて。こうやって、今、ちゃーんと見てる時には、自分て言うのは何処にも出て来ない。此処に出て来る人?もしこうやって見た時に。クーラー見た時、あそこら辺に自分がついてて、そんな風に見えないのでしょう。それが皆さんの毎日使ってる眼の働きですよ。そう言う風にして一日中眼は物に触れた時に活動してる。それだのにものを知らない人は、必ずそこに余分なものを付けて見る。無い物を想像して。でもお互いに話をしてもですね。分からない者同士だから、それをお互い承認するんですね。だって私が見てるって。私がって、だれもそうやって思ってますから、そう言う話をして、間違いないって承認してくれるから、ああ矢っ張り私が見て、あなたも私が見てる、皆自分で物を見てるって言う風にして理解してます。だけど本当にものに触れてる時には、自分は出て来ないですよ。 鈴虫、もう鳴かなくなったけど、今、コオロギが鳴いてるかな。コオロギの鳴いてる声にこうやって触れてると、聞いてる人が無い。コオロギの鳴いてる声がばかりがする。ね。そう言う様な事がある。
 こう言う処に、道元禅師が、仏法と言うものを見たことが無い、仏法の様子、自己の真実、自分の本当の生き様って言うものに触れた事が無い人だって言って、そこを叱っておられる。
 前の、「前両度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。」三回とも全部駄目だって言ってる。「おほよそ他心通をえたりと自称しながら、」三蔵は他心通を得たって言って、自分でも誇らしげに言っておられるけども、本当に他心通のたの字も知らないと言う事を叱責された。まあ難しい事は無いです。そこはそう言う事ですね。
そこで、「国師まづ、仏法に他心通ありやと問著し試験するなり。」三蔵さんにですね、本当の他心通を得ているかどうか、それを調べるために、『汝得他心通耶』そうやって聞かれた。エーそしたら、先ず一回目「『不敢』といひて、ありときこゆ。」不敢と言う事はいいえって、得たかって言って、いいえって言う事は、先程申し上げた様にですね、中国の国では、自分を少し卑下して、知って居ても卑下して知ってる事に対してお返事をする時には、いいえ、敢えて、言う風に言うのが普通の様です。日本でも知ってますかって、いいえって言うんだけど、そのいいえは、良く分かってます、って言う意味の表現があるでしょう。似てますけどね。


他心通 Ⅳ

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 「国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。」慧忠国師は必ずしも老僧ではない。目の前に居る慧忠国師を指して、老僧と言うのではない。今申し上げてる様に、対象物として向こうに有る様に思ってる物が、皆自分自身の今の様子ですからねぇ。他人の事じゃなくて、自分自身の様子がそうさせてる。「老僧かならず拳頭なり。」と言わせる所以でしょう。「老僧かならず拳頭なり。」と言う事は、向こうの事じゃなくて自分自身の在り様がそのままですね。脚注には真実の人って、拳頭を真実の人って訳しておられます。自分自身の様子です。
 そこに柱があるって、こうやって言ってるけど、自分自身の様子でしょう。高橋さんも来ておられる。自分自身の様子ですよ。名前を挙げて、何か向こうの人の様にこうやって言ってるけど、全部一人一人自分自身の今様子ですよ。「おい、ちょっとそれ取って」って言って、そうすると何かこう言う色々動くけど、全部自分自身の様子ですよ。エーどっかで騙されるんだよね、知らない内に。自分の事じゃないって言う風にきっとなってる。だけど口が酸っぱくなるほど、耳に蛸が出来るか烏賊になるか分かりませんが、兎に角何回も何回も話していますけど、本当に一切他人の様子は無いのです。生涯そうやって、このもの(身心)の自活動をして終わってるんです。
 で、騙される人はその自活動の中に自分と他人の様子を立てて葛藤するわけです。単直に言えばそれだけじゃん。なんで俺を馬鹿にする、そんな言い方はないだろう。だけど耳に聞いてみるとですね、馬鹿にしたって言う様な事は無いし、そんな言い方って言うものも無い。あれは皆聞いてる人が自分の中でつけた言葉でしょう。そう言うものの見方をするから、自分の中で、お前何言ってたって言う風にしか受け取れないから、腹の立つ材料を自分の中で思い起こすのでしょう。だけど不思議だねぇ。そうやって自分の中で腹の立つ様な材料を思い起こすと、火が付いてくるんだねぇ、その思いに。居たたまれなくなって来る。「あいつ会う度にあんな事俺に言う、本当に。」問題はそれだけだからね、本当は。自分の中でそうやって思った事が自分を苦しめてるだけですよ。
 それ余りひどく言うと、じゃ向こうはどうでも良いかって言う風に思われるのでちょっと心外ですけれども。勿論一人一人がそう言う風に生きていくとですね、人をそうやってけなす様な事は無くなって来る訳じゃない。自己責任て言う風に言うとですね、向こうはどうでも良いって言う風に取られるから、そう言う狭い範囲の話じゃない。自己責任と言う風な、狭い話ではない。自分の中でそう言うものを起こして問題が起きてるって言う事だけを知って貰えば良い。その証拠にやってみれば分かる。どんな事が思えても、それを相手にしないで、思えた事にこうやってそのまま居て、思えただけで皆終わって行くじゃん。それ自分で手をだすと、そのまま終わらない様になって行くじゃん。そう言う事だけをこうやって勉強したら良い。「老僧かならず拳頭なり。」って言う位、本当に自分自身の様子ですよ。
 エーそれで「大耳三蔵はるかに西天より来たりといへども、」遠くインドからおこし頂いたけれども、「この心をしらざることは、」こう言う仏道の真意、自分自身の真相を知らない言う事は、「仏法を学せざるによりてなり。」インドに居て、仏教の発祥国だから、色んな何だろう、経文や戒律や論理の展開された物が残っているのでしょう。だから玄奘三蔵さんもあの頃中国を後にして、お隣のインドまで長い旅をして、そして沢山のそう言う経文を持ち帰って中国で翻訳をされて、一応こう言う事が仏法の内容として有るって言う様な事が翻訳された、中国語で中国の人に紹介されたって言う事になるのでしょう。で、この大耳三蔵はインドの方で、そう言う中で勉強した方です。だけども何で仏法を学ばなかったのかねぇ。
 私が思う中でですね、こう言う方が居る。話をしてですね、論理を展開して、なるほど、ああそう言う事だったらこうなるんだって言う事が、論理の上で理解されないと実践出来ない人がいる。不思議な人がいるね。もし仏道でそう言う事をやってたら、無理ですよ。悟るって言う事はどう言う事ですかって、こう言う事だ、ああ言う事だ、なるほどそう、それが悟るってこう言う事だって分かってから修行をする、そう言う人ってないじゃないですか。もし分かったら用が無くなる。学問じゃ分からないんですよね。ここにあるお茶の味はって、飲まずにお茶の味は分からないって言う事でしょう。仏道を学ばない人は実践しないんだよ。ここだけ(頭を指す)で勉強する。
 考え方を止めてごらん、そしたら楽になりますよって、そうかなぁ、考え方を止めたらああなるこうなる、そうするとこうなるから楽になるかなぁ。まあ本当にこうなるんだって分かるとですね、分かった様に思って、やらない。沢山居る。離してごらんて、離してみると、(扇子を手から離す)離すって言う事がどう言う事なのか、他人から聞かなくても良く分かるじゃん。離したらどうなりますかって言うと、ああなるこうなるって、思考を相手に一生懸命やるのよ。それは絶対仏道の修行ではない、学んでる人では。
 こうやって部屋を一回り見て、こうやって見てみると、どう言う風になるかよく分かるでしょう。人間の生きてる様子って、毎日生活してる、物に触れて生きてるんだけど、どう言う風に生きてるかって、こんな風に生きてるんですよ。執着なんか絶対しないんですよ。どんな物を見ても。しないと言うより出来ないんですよ。次の物を見るって言う事になると。否応なしに前の物から自然に離れる様になってる。そんなに上手く毎日物を見て生活してるのに、あいつが俺を叩いたとかあいつを俺をって言って、何か有った事が離れないでいるってのは何ですか。そしてそれがどうしたらすっきり出来るんだろうって考えて、どう言う風にして修行するんですか。
 本当はこうやって修行するんでしょう。これ実践だから、やってみると、ああなるほどこんなになってるんだって、別に何もしなくてもちゃーんと分かる。自分が思ってる事と全く違う位、みごとに出来てるって言う事でしょう。今すぐ手を付ける以前に出来てるから役に立つんでしょう。これ何日も何年もこうやってやっと出来る様になったら、何時使えるって。この様子って今既(気づいた時)に出来てるから、皆この様にこうやってやってみると(目を開いて部屋を一巡りさせる)、皆そんなになってる。これから修行してそうなる必要が無いほど、自分の様子としてこう言う生活をしてるって言う事、これが自分の真相に目を向けて自覚するって事じゃない。これに気が付くと一気に終わるじゃない。
 こう言う事を大耳、大きな耳、どの位象の様にこんなパタパタするのかしら、大耳三蔵、よっぽど何でも耳に入る位大きな耳なんだろうね。こうきっとね、意味合いとしてはね。一つも漏らす事無い位、聞ける大きな耳って言う事かも知れないね。それ位大耳三蔵って言うネームはですね、きっと素晴らしい名前なんだろうと思うけども、それでも仏道を学ぶって言う事を知らない。道元禅師はここを厳しく言うんですね。
 「いたづらに外道二乗のみちをのみまなべるによりてなり。」常識的な、普通の自分を立てておいて、物を向こうにおいといて、そしてどうかする様な、そう言う世界でものを学んでいるだけだ。二乗って言うけど、一乗って言うのは、ただ何時でも今の様子があるだけですよ。一乘。二乗って言うのは、今の様子の中に必ず過去の様子とか未来の様子をこうやって引き寄せて生きてる人。乗り物が二つ有るから、どっちへ乗ったら間違い無く進むだろうと思う位選択をしなきゃならない。だけども誰も一乗の世界に本当は居るのでしょう。法華経にも説いてある。必ず唯一乗、今の様子以外に生活する場所が無いんだもん。他の所で何かした試しが無い。こんな事は何百回となくここで話して来てる。そしてしかもこの自分の身心と言う、このものの在る所でこのものが活動する以外に無いって言う位、これははっきりしてる。それ仏道の様子です。一般の教えの中にはそう言う事は説かれない。必ず自分と自分以外のものを分けて最初に見てる。時間でも。
 「国師かさねてとふ、」慧忠国師が「『汝道、老僧即今在什麼処』。ここに三蔵さらにいたづらのことばをたてまつる。」いたずらの言葉って言うのは考え方で取り上げた話って事です。事実でなく。「国師かさねてとふ、『汝道、老僧即今在什麼処』。ときに三蔵ややひさしくあれども、」暫く、その三回問われて、三回目にですね、今まで二回答えた事が慧忠国師に本当に受け入れて貰ってないなって事を少し感じ始めている。だから、「ウーン何て言ったら良いか」って言って居る処が、ややひさしくあれども。それでも「茫然として祇対なし。」結局考え方の上でしか物を見てないって言う事でしょう。本当に自分自身の今の生き様そのものにこうやって居たら、こんなへぼな事はしない。
 そこで、「国師ときに三蔵を叱していはく、『『遮野狐精、他心通在什麼処(遮の野狐精、他心通什麼処にか在る)』。」かくの如く叱られたけれども、三蔵なお言う事なし。気が付かなかった。そこまで言われても、自分の話を、対面して話をしてる内容がズレいて、ああって、自分の様子がズレてる事さえ気づかない。だから謝る事も無い、出来ない。通じる道がない。「通路なし。」「祇対せず、通路なし。」これじゃあ他心通にならない、と言う事でしょうね。
 道元禅師と言う方のご文章を本当に拝見して読んでると、道元禅師が常日頃ご修行している中に、どう言う風に生活しておられるって言う事が、目の当たりにこう見える気がしますね、こうやって。本当にこうやって過ごされた人なんだと、道元禅師と言う方は。