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鉢盂 Ⅳ(終) 正法眼蔵第七十一

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「鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。但似渾身、合成鉢盂なり。但似虚空、合成鉢盂なり。但似鉢盂、合成鉢盂なり。」色々な言い方をしております、ねぇ。色んな言い方をしますけども、その時に出会った事によって、その時の様子が必ず在ると言う事じゃないですか。その事に出会った事に依って、その時の様子が出て来るのでしょう。その時に出会わない事で、その時の様子が出て来た事が無いじゃん。当たり前の話じゃん。

文章にするとこんな厄介な文章になるかもしれない。読んで見れば、そう言う事が書いてあるだけでしょう。「鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。」その時にその事しかないって言う事でしょう。その時にその事しか無い、他の事がそこへ差し挟む事が出来ない様になってるって言う事が、罣礙せらてるって言う事でしょう。

時間的にも場所的にもそうですよ。必ずその時にその所で行われるものは、他の物が一切そこに差し挟まれない様になってるでしょう。詳しく見てみたら、皆そうなってます。で、それがよく分かってみると、其の儘どうしなくても大丈夫だって事が、よく分かるでしょう。

染汚せらるって言うのもそうでしょう。赤い薔薇にこうやって触れたら、その物に、その物を見てますから、それ以外の色に成る訳がないじゃん。必ず赤い薔薇に触れたら赤い色に成るのでしょう。その赤い薔薇の色に邪魔をされて、他の薔薇がそこに有ってもですよ、隣に有っても邪魔されずに、赤い薔薇は赤いまま、その物に邪魔されて、他の色がそこに入って来ない様に見える様になってるじゃないですか。ま、そう言う様な事を、こんなに丁寧におっしゃっておられる。

「いま雲水の伝持せる鉢孟、」一緒に修行してるお坊さん達がそれぞれ持っている食器ですね、「すなはち四天王奉献の鉢盂なり。」人は生まれた時に、自分の食い扶持を、皆持って生まれて来ると言う様な言い方を、俗にするのでしょう。で、修行道場もお坊さん達が増えると、その数に従って大体食事が集まって来る。

一軒の家でもそうでしょう。人、口数、口数が増えれば、大体その口数が増えた分位は、食事が賄える様になってる。そう言う力を皆持ってる訳でしょう。働かないと駄目ですよ。ねぇ、皆それぞれ自分の本分の働きがあるから、自分の本分の働きをすると、そうやって食べられる。

赤ちゃんなんか何も働かないと思ってるけど、赤ちゃんが生まれると、周りに居る人がですね、色んな物を持って来るでしょう。徳があるのよ、ちゃんと。人に一つも施した事の無い様な人でもですよ、赤ちゃんが居て、そうすると、可愛らしい子がそこに居ると、つい今まで誰にも上げた事が無い人が、自分の持ち物の中から、何か子供にこうやって上げる、そう言う徳分もある。病気をして休んでる人が居ると、働いてないらしいんだけど、人に慈悲心を起こさせる力もある。色んな、本当に不思議な力を人間は持ってるね。

「鉢盂もし四天王奉献せざれば現前せず。」四天王が本当に厄介だね。こう言う文章をだすもんだから、凄く厄介になる。東西南北を守ってくれる仏様として四天王が置かれていますね。それは後に人間がそう言う位置づけをしたのでしょう。今の事実に対して。説明するのに、そう言う色んな言い分を付けて説明したのでしょう。頂いてる、この身心と言われるこの大きな器、それがそうやって全ての物に依って守られて来たのでしょう。

そうでなければ、この世に生まれてこうやって此処に現存する事が出来ない。その条件が整わないと、人間の形としてこの世に生まれ落ちないし、生存出来ないじゃん。そう言う様な事が、この四天王の奉献すると言われる様な言い分になるのでしょう。

「いま諸方に伝仏正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり。」伝えられている、仏様の正法眼蔵の様子として伝えられている鉢盂。正法眼蔵って言う、真実と言う言葉に置き換えておいても、そう問題は無いと思います。俗っぽいって言われれば、それまでです。正法眼蔵って言うものを真実と置き換えてしまうと、あまりにも俗っぽいかも知れない。

何かそうやって特殊なものの様に言葉を使う事によって、私達もたぶらかされて来た事が沢山ある。言葉を知らないからねぇ。言葉の示してるものが、ちょっとニュアンスが違うと、違うものが有る様に思うじゃない。空だとか禪だとか真実だとか真如だとか仏性だとか、もう色んな言葉が沢山使われてるもんだから、色んなものが有る様に思ってるけど、ただ、パン!(机を竹篦で打つ)こうやって音がする時に、その通りの事があるって言うだけ話でしょうが。

世界中にどの位の言語があるか知れないけれど、言語は沢山あるけども、その一つ一つの言語の示す物は、一つ物を色んな言語で示してる。そうでないと言語が役に立たないじゃないですか。違った物を違った言語で示すんだったら、駄目ですよね。同じ一つの物を色んな言語で示してるだけであって、沢山言語が有るからって言って、物が一杯有る訳じゃないですよね。そのもの示す、そうやって示してるに違いない。

例えば、人について各自異なる名称が付けられていますが、どれもその人を示すものです。似た名前(同性同名)がある場合には、何時、何処で生まれたのかと言ったものを付けますと、誰のことかはっきりします。そう言う物が、「正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂」と言われる事でしょう。

古今を透脱するとは、古今東西と言っても良いでしょう。世界中と言っても良いでしょう。ありとあらゆるものを通じてと言っても良いでしょうが、そう言うものから皆、そう言う縛られている物からかけ離れる程確かな、今様子があるんじゃないですか。今の様子って何処から出て来るのでしょう。古今、古今、古今を問わないよ、今の様子って。今の様子って残った事がない。不思議だからね。不思議だね。そう言うの知ってるでしょう、皆さん。今の様子は絶対残らない。透脱。そう言う面白い働きをするものでしょう。「古今底の鉢盂なり。」

これ皆さん、自分の応量器ですね。自己なりとも参学するなりとあったでしょう。鉢盂は自己なりと参学するなり、って言うのも有ったでしょう。仏祖の身心なりと参学するって言う事ですね。本当にこう言う風に出来てるんでしょう。

「しかあれば、いまこの鉢盂は、鉄漢の旧見を覰破せり。」これ修行してる人達でしょう。私達の古いものの見方、どこかに既存の概念としてものを見てる様なもの、皆打ち破る力がある。それが幸せな世界を生み出すのでしょう。輝かしい日々を生み出すのでしょう。そうでないと何時までも前のものに囚われた、そう言うつまらない生活しかしない。そうすると生きてても楽しくない人生になるのでしょう。

現実でもそうだけども、私なんかこうやって何時も話すんだけど、生きてるって事、本当にねぇ、一度も体験したこと無い事しかやらないんだね。生きてるって事、その事だもんね。今こうやって横をこうやって向くにしたって、一度もいまだかってやった事が無い。今初めてやる。皆そうですよ。

そう言う事に自分が触れているのにも拘らず、この新鮮で採りたてで、胡瓜だったら、なんかもいで来たばっかりみたいな、素晴らしい美味しそうな物なのに、実物の方を相手にせずに、一週間位前に買って来た冷蔵庫に入れてある様な物を出して来て、とやかくやる様な生活してる訳でしょう。何でこんな古くなっちゃったとか。それは面白くないに決まってますよ、そんな生活したら。

「木橛の商量に拘牽せられず、」木で作った器だとかって言う様な話になるのでしょう。そう言う事を取り上げてる。商量って言うのは、物がそこに有った時に、値段をつける時にお互いですね、最初に、大根一本でもこいで来るとですね、値段が付いて無いから、作った人と買い手が居る場合に、そこでお互い話あって値段が作られるって言うのが、商量と言われる。それをお坊さん達の世界では問答をすると言っています。値踏みをする、ね。商量するってのはそう言う事です。

一般の物価だってそうでしょう。何か作った時、何でそれだけの値段が付けられるかって言う時には、皆商量するのでしょう、会社の中で。人件費が幾らだとか、材料費が幾らだとか、運搬費が幾らだとか、製作する時に、考えてそう言う物が要る人達が、どの位日にちが掛かってそう言う物が考案されたとか、要するに有形無形の物が皆、噛み合わされて、じゃこの位人件費も掛かったし、この位人が居て何年掛かってこれが出来たんだからって言うと、この位で売れば何とかなるかって言う様な事で出て来るのでしょう。

それをやらないと、今度は買い手の人達との間で、具合よくその値踏みしたものが折り合わないと、商品は売れなかったりするのでしょうね。まあそう言うのが商量と言ってる。そう言うものに縛られないとある。応量器だから、一人一人自分の、見るにしても聞くにしても食べるにしても働くにしてもそう、その人の持ってる力一杯にしか受けられない様になってる。それ以上だと溢れてしまう。

難しいよね。同じ給料を払って、仕事内容を見るとですね、じゃあ均等に仕事をしてるって言う事が言えるかって言うと。何処で均等性を保つかって言うと、八時間労働だったら、八時間そこに居てそれなりに、まあそうですね、八時間過ごしてくれれば、一応同じとして線を引くのでしょう。だけど厳密に言ったら、同じ八時間そこで働いていても、評価が違うって言うのが、今問われて居る訳でしょ。考え方が最近問われてる訳でしょ。難しいよね、そう言うのは。

だけども自分自身の事をこうやってよく見てみると、他人が自分よりも沢山ご飯を食べる時に、沢山食べていてもですね、用ないもんね。自分一杯で、お腹一杯になるんだったら、向こうの人が二杯食べてようが十杯食べてようが、羨ましいなんて事無いでしょう。何だろうね、そう言うのは。何処が違うんだろうね。遊んで居ても二十四時間、一生懸命やっても二十四時間超える事はないとか言う様なものもある。大丈夫でしょう。

だけど何処で人はイライラするのでしょう。人の事がやっぱり気になるんでしょうねぇ。良い仕事してる人達は、あまり他人のやってる事気にしないね。ひたすらに自分の事やっていますね。それで大体間に合ってますね。不思議。そうすると良い評価も大体ある。不思議に。良い評価される。それで良いのじゃないかなぁと思うんだけど。そう言う様な事が、商量に縛られないと言う様な事に当てはまるんじゃないかと思いますがね。

「瓦礫の声色を超越せり。」その瓦で出来てるとか、その色がどうだとか、コンコンと弾いてみるといい音がするとか言う様な事ですかね。値踏みをしてるのでしょう。器とかお袈裟の出来栄えとかって言う様なもの。そう言う世俗の判断、そう言うものを超えて居るって言うものがあるんじゃないですか。「石玉の活計を罣礙せざるなり。」石はつまらない方でしょうか。玉は素晴らしい方でしょう、ねぇ。優劣と言って良いでしょう。それぞれその物はその物の良さがあって、比べる事が、本来出来ないのでしょうねぇ。

もし比べる事があるとすれば、そこに条件と言うものを持ち込んだ時に初めて、その条件にどれだけ叶うかと言う事に拠って、暫く役に立つとか立たないとかって言う様な活計ですね、計り事がそこで行われる。それも条件が変われば、立ちどころに今決めたものが転換する位、何だろう決まり事は無い。「罣礙せざるなり。」と言われる所以でしょう。

昨日は良いって言っても、今日は駄目って言う位、極端に変わる訳でしょう。そうすると頭の固い人はついて行けない訳でしょう。エー。何で昨日は良いって言ったのに、今日は駄目だって言う風に、前のものを持ってますから。だけども眼はさっきまで赤い物を見てても、白い物を見た時に、こんなに苦も無くサラっと変わる力を持っていて、腹も立たない。エー。そう言うのが私達の本来の活動の様子の一端でしょう。こうやって学んでいくのでしょう、自分自身の様子に。何処が問題になってるか。

「碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり。」ものを本当に学ぶ時に、もう一度繰り返しておきますけども、人間の見解をつけずに実物そのものにこうやって触れてみるって言う事が要求されると言う事でしょう。それが人が、殆どの人が見ない世界じゃないですか。誰もが生活をしている中で使っているんだけけど、自分のそうやって自分の見解をつけずに触れている時の自分の在り様を、殆どそこに目向けた事がない。

人間の多分欠陥として、最大の欠陥じゃないですか。自分が今生きているにも拘らず、生きてる真相、本当に生きてる時の在り様ってどうなってるか、って言う事を触れた事が無い。皆考え方の上でものを見てる位の処しかやらない。と言う様な事の指摘が、そこに有る様に、「碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり。」と言う事は、そう言う事を指すのでしょう。今本当に各自、自分自身のこうやって在り様に触れて貰いたい。

坐禅をするって言う事だってそうでしょう。今の自分自身の真相に触れるって言う事でしょう。そうすると、自分で学んで来た、考えていた、思っていた、そう言う様子と全く違う自分の活動してる様子がある、それが本来の人の在り様じゃないですか。何処で学んだって良いじゃない。自分自身の様子だから。

で今日は鉢盂と言う、応量器と言われる器、食器に、それを題材にして道元禅師、何でこんな事を取り上げたか知りませんけれども、ある日こんな事を話されたんでしょうねぇ。お坊さんたちの跡継ぎをする人を、一方では羅喉羅と言います。これは羅喉羅はお釈迦様のお子さんが羅悟羅と言われる人だったからですね。もう一方は応量器って言う表現をします。まあ隠語です。お坊さん跡を継ぐ人の事を、あの人は私の応量器だとか。そうやって受け継いでいく者としてですね、上げられます。不思議な入れ物ですね。これ一つだけを貰って、一生涯使う。

人が生まれて来た時に、この自分と言う、身心と言われる応量器を一つ頂いて、で、この応量器は生涯使う。普通使ってる食器は、そこへ行った時に色んな食器が有って使ってますけど、このものの食器としてのものは、この身心です。そう言う物が今日応量器と言う風にして、鉢盂(ハウ)って言う風なもので道元禅師が取り扱っておられると言う事ですね。まあ、割と、これ短い文章でございます。一回で終わりです。良かった。言う事にしましょう。


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鉢盂 Ⅲ 正法眼蔵第七十一

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エーとどのつまり如何だって。「畢竟如何」如浄禅師は自らそうやって、おっしゃってる。「浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す』。浄慈寺って言うお寺があって、そこに天童寺に来る前に如浄禅師は居られて、で、今は浄慈寺から天童寺に、この頃天童寺って言ってたかどうか知りませんが、天童山と言う山があって、そこに引っ越して来られた、って言う事ですね。移過して、移って来て、で相変わらずここでご飯を食べてるって言う事でしょう。

鉢盂、向こうで食べてた器をこっちへ持って来て、ここで食べてるって言う事でしょう。鉢盂って言うのは、先程幾つも色んな人の学び方が、こう挙げてあったから、身体と思う人もあれば、仏様の眼だと学ぶ人もあれば、光明と学ぶ人もあれば、器と学ぶ人もあれば、真実体と学ぶ人もあれば、涅槃妙心と言う風にして学ぶ人もあれば、仏祖の転処として、そう言う様子を学ぶ人もあるって言う様な事が挙げられて居る通りですね。

本当に言いたい事はですね、この身、この身心一つで私達は生涯過ごしているって事が言いたいだけです。何処へ行っても何時でも、この頂いてる身心一つの活動だけで生活してるって言う事です。それがここで表題になってる鉢盂なんです。こう言うものです。

この鉢盂は、眼耳鼻舌身意って言う六つの感覚器官が付いてる面白い鉢盂だから、外界に有る物が眼を通じてこの中に入って来ると言って良いか、見える。外界にある音声が、聞こえると言って良い。そう言う風にして、皆この中に、この鉢盂の中に皆入れて、それで生活してる訳ですよね。それを栄養素として生きてる、活動してる。一切この自分自身の身心の他で何かをした事がない。毎度そう言う事がずーっと説かれるのでしょう。色々なものを挙げて。

だけど超えがたい、人間に超えがたいものがある。それはこうやって居るとですね、どうしても自分の事だとは思えない。(笑) 自分の、自分の身心の様子だとは思わない。向こうに有る物を私が見てるとしか思えない位の人が殆どじゃないですか。何時からこれ、分ける様になったんですか。自分と自分以外のものに。こうやって、今、生活してる時に、見る前に皆、物が先に在るんですよ。エー。こうやって今、こうやって見る前に先に皆物が有るんですよ。在るでしょう見る前に。

それどう言う事かと言ったら、向こうとこっちと分けてないって事でしょう。見るって言うのは、向こうとこっちを分けるんでしょう。分かりますか。見るって言うのは、向こうにあって、こちらに自分が居て、向こうに物があって、そう言う風なものを見るって言うんでしょう。だけど見る前に先に在るんでしょう。在るって言う事は向こうとかこっちとか、はなから言わないのでしょう。それ全部自分の様子だからね、最初から。

こうやった時に、こうあるって事が、ねぇ。そう言う自分達の今の在り様に、こうやって一度触れてみないと。考え方を離れないと、それ分からない。これを(自分を指す)私を思ってる上から物を眺めてるから無理じゃん、どうしても。これは私って言って、これだけを区切って物を見てる上からものを考えたら、絶対無理。修行の一番皆さんに必要視されてるのは、そこじゃないですか。

自分自身の事だけど、自分自身と言うものを立てて物を見始めた処からしか物を見た事が無い。そうじゃなくて、本当の自分の今の様子にこうやって触れてみると、自分らしいものが一つも無しに生活してる実体がある。それがここでも祖殺、そせいと書いてありますが坐殺ですね。坐って殺すと書いてある。何を殺すかったら、自他の分別の心が死ぬると言う事でしょう。それが坐ってる時の在り様じゃないですか。そう言う事を、まあ重要視する訳です。

「奇特事はまさに奇特人のためにすべし。」その事を本当に知りたいと思っている人に向かって説かないとですね、いくら真実を説いてもですね、自分の求めてるものが全く違うものを求めてる人にはですね、話しても聞き入れる力が無い。それ普段の色んな仕事だってそうでしょう、お互いに向き合ってやる時に。今必要なものがあったら、その必要なものをその必要な人に示せば伝わるけど、そうでないと伝わらないじゃないですか。この通りですよね。

「奇特事はまさに奇特人のためにすべし。」だからものを学ぶ時に、自分のものを持ってここに学びに来ると、その自分の持ってるものが邪魔をしてですね、幾らここで皆さんに差し上げてもですね、入らない。只ここに居て聞いてれば、私の喋る通りに聞こえる。それが一番良い聞き方。

皆、そうやってると分からないと思うから、一生懸命考えながら聞くじゃない。考えながら聞くとですね、音がしててもその通り聞く力が無くなっちゃうんです。不思議ですね。物がそこにこうやって展開してても、その通りこうやって見る力がなくなる。理解しようと思って、考え方を一生懸命こうやって入れてやると。そう言うもんでしょう。体験があるでしょう。エー。良さそうなんだけど、そうなるんですよ。やると。無条件の時が一番良い。

「奇特事には奇特の調度をもちゐるべきなり。」その事を本当に伝えようと思ったら、その事を以て伝えるって言う事でしょう。生活しているのを見てごらんなさい。必ずその時にその事を以て、その時の事が伝わる様になってるじゃないですか。他の事を持って来て伝えた事無いじゃないですか、その時に、一切。だから何の奇時の事かあらん、て言う位平凡じゃないですか。ああやって戸が開いた時に、戸が開いた様子がそのまま伝わる様に出来てる訳でしょう。他のもの何も持って来ないでしょう。ねぇ。

「これすなはち奇特の時節なり。」何もしないんだけども、何もしないと、その時にその通りの事が、そのままそこにちゃーんと現れる様になってる、伝わる様になってる。こう言うのを奇特の事と言うのでしょう。奇特の時節と言うのでしょう。本当に滅多に無いんじゃなくて、本当に、本当にその時それ以外に無い程、奇特の事なんでしょう。奇特の時節なんでしょう。だけどそれ平凡な事でしょう。常にそう言う事で成り立ってるでしょう。

「しかあればすなはち、奇特事現成せるところ、奇特鉢盂なり。」特殊な事じゃない。奇特鉢盂って言ったら、そう言う事でしょう。本来のそのものの持ってる良さが、そこで発揮される訳でしょう。皆さんの本来の力が、何時でもそこで発揮されるのでしょう。ものに出会うと、そこで色々な諸現象に出会うと、こちらでどうもしないのに、その諸現象に出会うと、このものは見事に対応出来る力を持ってるじゃない。

対応が出来なくなるのは、一に自分の中で、ああじゃないかこうじゃないかって、考え方を弄ぶ様になると、たちまちこれが不自由になると言う事を体験してるでしょうが。他の人が誰も苦しめてないんだよ。不思議に。自分の考え方が自分の中で起きると、その自分の考え方で自分が不自由になって動けなくなってるんですよ。

あの人ああ言う事言ってるけど、こっちの人こう言ってるって、どっちだろうって、そうやって思い始めるともう自分でどうしようもない。すぐそう行き詰まる。道は十方に通ず、ですからね。あの、何処へでも行けるんですよ。一つや二つのものじゃないんだよ、進む道は。決められてる訳じゃない。どんなにでも何処へでも自由にこうやって行ける力持ってる。

「これをもて四天王をして護持せしめ、諸龍王をして擁護せしむる、仏道の玄軌なり。」まあここでは、そうやって四天王とか龍王とかって言う様なものを挙げてありますけども、何が真実を大事に守ってくれるか分からないね。一応そう言う架空のものを挙げてある、四天王とか龍王とか。誰が来ても、どんな人が出て来ても、この真実と言うものは打ち壊す事が出来ない。そう言うものでしょう。真実って。そう言うものが仏道の玄軌と言われる。奥深いものの道理って言うんだけど、奥深いって言うと、何か下の方をずっと見ていく様な気がするんだけど、目の当たりにそうでしょ、真実って言うのは。

事実はどんな事をしても歪める事は出来ない。だけど問題は、考え方の上だけで色んな事を言うから、それを取り上げて争い事が起きてる。そう言う事は平常行われてる訳じゃん。で、皆さんに力をつけて貰うためには、うわべの事だけでものを判断するんじゃなくて、本当の真相をちゃーんと触れて見極めてほしい。そう言う様なものが有る訳でしょう。

「このゆゑに仏祖に奉献し、仏祖より附囑せらる。」そう言う事があるから、眼のはっきりした人達を大事にして、そしてそう言う人達によってですね、この事が語り継がれて、それを皆さん方も頂いて実践して行くって言う事になるのでしょう。

次の段、「仏祖の堂奥に参学せざるともがらいはく、」って言う事は、ものの真相を本当に勉強した事のない人は、うわべだけでって、今話した様にうわべだけでものを取り扱ってるって言う様な事が、道元禅師が示しておられるでしょう。

例えばですよ、仏様方がかけている袈裟、私達もかけている袈裟、「仏袈裟は、絹なり、布なり、化絲のをりなせるところなりといふ。」要するに、この物の素材とか織り方とかそう言うものだけを取り上げてる。袈裟って何を指すかって言う事まで勉強していないと言う事でしょう。

だからこの上に付けてる袈裟を外すと、たちまち無くなってしまう。本当の袈裟って言うのは、剥がせる様なものではない。剥ぎ取れる様なものではないのが、袈裟の真意です。まあ袈裟功徳の巻もあるから、そう言う処をまた重ねて、もし勉強する事があったら、読んでみて頂いたら良い。

それと同様この食事の器ですね、「仏鉢盂は、石なり、瓦なり、鉄なりといふ。」それはどう言うもので出来てるかって言う事だけを見てると言う事です。木で出来てるお椀だとか、鉄で出来てるお椀だとかって言う様な事ですね。「かくのごとくいふは、未具参学眼のゆゑなり。」ものを本当に学ぶ力が無い人達だと言ってる。

私が此処へ来てしょっちゅう話してるんだけど、「こうやって見てごらん」て言うと、参学眼の無い人は、こうやって見た時に、何だろうって、何を言わんとしてるんだろうって、分からない。こうやってやるとこう言う風になるでしょ、こう言う風に見えるでしょって。
それが何だって言うんですよ。毎日そうやって物を見て生活してる訳でしょ。だから参学眼が無いとそれが何だか分からないから、そんな中でもの勉強が出来る訳がないと思ってる。

そうじゃない。よく見てみると、こうやって見た時に、説明をさせて貰ってる様にですね、皆さんの眼はこうやって否応なしに、前見てた物からこう離れて、今見てる物だけで、こうやって生活が出来る様になってるって言う事が参学眼のある人です。

だから悩んだ事無いでしょう、こうやって見てて。何かと比べて見ないでしょう。今見えてる様子だけでしょう、何時でも。それが眼の様子ですよ。だからどんな物がこうやって見えてもその通り見えるだけで、それで人が苦しむって事無しに生きてるじゃないですか。それが参学眼のある人です。

耳だってそうじゃん。参学眼が無いと、音がする様に聞こえる、音が止んだら聞こえなくなるってその程度じゃん。参学の力ある人は、もし本当にそうだったら、何で朝叱られた事が夜になっても自分で腹が立つかって言った時に、これはおかしいぞって思わない方が変じゃないですか。聞こえないんだもん。聞こえてないのに腹が立つ。

そう言う事を問題にしてるって事は、参学眼が無いでしょう。本当の耳の様子がどうなってるかって事を、毎日使って聞いてるんだけど、知らないじゃない。一応音がした時に聞こえ、音がしなくなると聞こえないって事分かってる筈なのに、それでも自分の生活の中では何の役にも立ってない。ねぇ。それが参学眼が無いと言うんですよ。他の事で勉強するんじゃないですよ。

「仏袈裟は仏袈裟なり、さらに絹・布の見あるべからず。絹布等の見は旧見なり。」固定概念、固定観念、下に訳してある。何処かで習い覚えた滓だって言う。本当に自分の眼で見てごらん、ね。「仏鉢盂は仏鉢盂なり、さらに石瓦というべからず、」鉄だとか木だとか言うべからず。

こう言うのは、よーく味わって見て欲しい。人間の考え方を通じて見ているものと、実物に触れている時の自分の様子とが違うと言う事を言いたいだけですよ。実物に触れてる時には、そう言う鉄だとか石だとか木だとか布だとか絹だとかって言う風に見え方は一切しないじゃないですか。その通り見えるだけじゃん。

だから優劣も無いじゃん。じゃ優劣が無いから違いが分からないのか、違いは分かります。良いじゃない。誰からも教えられなくても、違いは分かる。ごちゃごちゃに成った事がない。それがものに本当に学ぶ時の私達の在り方でしょう。自分の考え方を離れて物に触れるって言う事は、そう言う事でしょう。それを知らないと旧見を持ってる訳でしょう。昔学んだものの見方って言うものを持って、そう言うものを持って、そう言うものに向かって、ああ、ああ成ってるこう成ってるって言う風な見方をしてる。それとは違うんですね。

まあそこは一段そう言う事があって、「おほよそ仏鉢盂はこれ造作にあらず、消滅にあらず。」こう言う事がだから、言われるのでしょう。この仏鉢盂って言うのが邪魔になるかも知れません。ものを理解する時に邪魔になるかも知れません。ちょっとものを置き換えて話をすれば良く分かるでしょう。

今こうやっている様子って言うものは、本当に作った人、誰も居ないですよ、今のこの様子。そう思いませんか。今のこの在り様って、誰が何時作ったんですか。皆今のこの様子が在るんだけど、誰も作らないですよ。「造作にあらず、消滅にあらず。」もそうですよ。今の様子って言うのは、こうやっているとですね、ドンドンドンドン変わって行くでしょう、内容は。だけども、変わって行く時にですね、前の物が消えて新しい物が出て来たって言う風に変わらないんですよ。(手を出して、グーからパーになる迄手を広げて見せる。)

これを見てるのと同じです。こうやって見てると、ずーっとこうやって見えて行く時に、前の物が無くなって新しい物が出て来るって言う風には見えないじゃないですか。やってみたら分かるでしょう。こうなるだけでしょう。何時も今の様子が見えてるだけじゃん。どっかから出て来るって気配も無いじゃん。有った物が無くなって行く気配もって言うのも無いでしょう。それが皆さんの今生活してる様子ですよ。

「去来せず、」行ったり来たりしない。「得失なし。」ああさっきまで見えてた物が無くなっちゃたって、それは考え方の上ではある。考え方の上ではある。眼の様子の中では、さっきの物がなくなっちゃったって言う風に見えてない。今物が出て来たって言って、頂いたと言う様な、得たと言う様なものはない。得失らしいものは何も無しにこうやっている。これよく見てごらん。

「新旧にわたらず、」古いとか新しいとかって言わない。道元禅師って言うのは、どう言う風に本当に過ごしておられるかって、こう言うのを見ると、よーく分かるでしょう。何処で修行をしてるか、間違いなく今の自分自身の、一人一人自分自身の在り様の中に目を向けると、こう言う事がはっきりしてるじゃないですか。

「古今にかかわれず、」これが奇特の事でしょう。何の奇特の事かあらんて言う事でしょう。極、平凡だって言うでしょう。だけども説明して見ると、こう言う風になってるでしょう、それ。「仏祖の衣盂は、」お袈裟と応量器ですね、「たとひ雲水を採集して現成せしむとも、」って言うのは、修行寺でお坊さん達を集めて、このお袈裟を付けて応量器を取り扱って修行してるって言う事ですね。「雲水の籮籠にあらず。」籮籠は魚を捕まえたり獣を捕まえる網ですね。そう言うのを籮籠と言います。このお袈裟や食器ですね、そういう物を取り扱って、お坊さん達を閉じ込めておく様な物じゃない。

「たとへ草木を採集して、現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。」これはどう言う事を言うかって言うと、お袈裟を作るのに、蚕や、あるいは木の芯を叩いて糸を紡ぎ出したりするって言う様な事ですね。それから草木がある、そう言う様なものをくり抜いて食器を造ると言う様な事です。そうやって物を作る。「現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。」そう言う草や木、そう言う様な物に捕まってですね、身動きの出来ない様なものじゃない。

その内容は「その宗旨は、」その一番言い現わしたいもの、知って貰いたい処、「宗旨は、」「水は衆法を合成して水なり、」今何とかって言う探査機がどっかに下(お)りたとか下(お)りないとかって言うニュースがありますが。物は、物はですね、一つっきりでは存在し得ないですね。合成って言うんですけど。寄り集まってって言う事でしょう。適切な言葉は、縁起と言われる言葉です。ね。

片一方だけでは物事は絶対生じないんですね。もう既にここに居るって事が、全ての物と一緒になってこうなってる訳ですから。エー。何処へ行ったってそうでしょう。このものだけがって言う様な事は有った事一つも無いじゃないですか。必ずそこへ行った時に、そこに在る全ての物と一緒になって今の在り様が構成されるんでしょう。

その中から僅かでも、今の物を取り除いてってと言う事は無いほど、そう言う風にしてものが成り立つのでしょう。そこにあるゴミ一つだって取り除いて、そしたら今の様子ではなくなっちゃうんだから。それ位全てのものと一緒になって物事が現れる様になってる。水だってそうでしょう。雲だってそうでしょう。「水を合成して水なり。」って。その物を本当に集めて、その物の様子になるんでしょう。その物以外の物を集めても、その物には成らない。そう言う言い方をするのでしょう。

自分の様子って言うものを見てもそうでしょう。全部自分の様子なんだけど、眼耳鼻舌身意って。全ての様子を集めて、自分と言うものの今の様子があるのでしょう。身体全体の様子を、何一つとして取り除く、排除する物は無い。誰もそうでしょう。



鉢盂 Ⅱ  正法眼蔵第七十一

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「先師天童古仏、大宋宝慶元年、住天童日(天童に住せし日)、上堂云、『記得、僧問百丈(記し得たり、僧百丈に問ふ、)『如何是奇特事(如何ならんか是れ奇特の事』。百丈云、『独座大雄峰』。『大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問浄上座、『如何是奇特事』。只向他道『有甚奇特』。畢竟如何、浄慈鉢盂、移過天童喫飯』(大衆、動著すること得ざれ、且く者漢を坐殺せしめん。今日忽ち人あって浄上座に問わん、『如何ならんか是れ奇特の事』と。ただ他に向かって道うべし。『甚の奇特かあらん』。畢竟如何、浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す。)』。」

まあこう言う様な事が如浄禅師がおっしゃられてる、と言うものを引いております。かつて百丈禅師がですね、百丈禅師の処で、あるお坊さんが百丈禅師に、百丈懐海禅師ですね、百丈さんは馬祖道一禅師のお弟子さんになるんですかね、尋ねられた。世の中で一番尊い、素晴らしいって言う事は如何言う事でしょうか、と言う風に訳して良いでしょう、奇特の事。あの人は奇特な人だって言う風に使うかもしれません。そう言うの聞いた事ありませんか。ね。人には中々出来ない様な事って言う意味に使っているのかしら。エー。

ここ訳では滅多に無いって言うになってます。有難いって言う事でしょう。有る事が難しい。有難い、とか。有難いって言う言葉はそう言う事でしょう。絶対にほかに出て来ない様な在り方をいつも有難い、有難いって。もうその時限り、その時、後にも先にも絶対無い様な、そう言うものを有難いと言ってます。他では触れられない。そう言うものが奇特の事でしょう。

じゃ何時でもそうじゃないですか。エー。何時でもそうだと皆さんは有難くなくなちゃう。たまにだと有難いと思ってるけど。この何時でもそうだって言う内容が、一回こっきりなんですね。後にも先にも其処に戻って来ることさえも出来ないでしょう。戻って来た人いますか、ああ有難い処に。そんな事ないでしょう。それ位有難い事ですよ。

で、その有難い内容って言うのは、もっと違った表現をしたら、どう言う事になるかったら、素晴らしいと言う事でしょう。希少価値があると言う事でしょう。世の中で一つしか無い事ですよ。皆さんは、宝石でも価値のある宝石って、如何いう物が高く取り扱われてるかって言うと、希少価値があるやつでしょう。有難いって言うのは希少価値なんか遥かに超えるんですよ。

毎日、皆さん生きてる、こんな有難い事は無いですよ。後でどっかでやるなんて事はない。だから自分の命の尊さを知ると、人は変わるでしょう。で、命の尊さを知る一つの道筋としては、やっぱり病気をなさったりしてですね、明日まで命が持つかって言う様な事がなんとなく感じられたりする体験を持つとですね、人生観が変わるじゃない。本当は初めっから人は生まれたら必ず死ぬと言うのが分かってるんだけど、もう一回ですね、生きてる間そう言う命に対する向き会い方をしないと、殆どの人が命って言うものは、明日死ぬなんて思ってる人居ないんだよ。エー。それ位あの、ウカウカ生きてる。まあそう言うな事も出て来るでしょう。

百丈禅師はどう言う風に答えられたかと言ったら、「独坐大雄峰」大雄峰って言うのは、当時百丈禅師がおられた場所が大雄峰と言う名前が付いているお山でしょうね。そこにおられた。そこで、だからここで坐ってるって言う事でしょう。こうやって、こうやって坐ってる。別に坐ってるって言う事に特別重点を置かなくたって良いでしょう。今皆さんがそこに居るって言う事でしょう。それが皆さん一番尊い事なんでしょう、今。

何を置いてもですよ、誰も、今ここにこうやってるって事が、これが尊い事なんでしょう。これがもし無かったら、どうなるんですか。これは、今こうやってるって事は、これから何かして、生きるとか死ぬるとかって言う様な事を遙かに超えてる。一切の心配なしにちゃんとしてるって事でしょう。

だけどもその真相を知らない人は、ここに居ながら、明日はどうやって過ごそうか、心配だなあって、そう言うものの学び方しか知らない。自分の実物にこうやって目を向けて見ると、この今ここにこうやって居るって事が、とてつもない内容なんでしょう。自分の真実そのものに触れてる様子です。何億の人が居ようが、他の人よりも自分自身の、生きている自分自身の様子にこうやって居るって言う事が、自分としては一人一人これ以上大事な事は無いでしょう。「独座大雄峰」。

だからその後にあった、何だっけ、「大衆不得動著、」を出され、うろたえるな、って言ってる。「不得動著」。これから何かする様なものじゃ無いでしょう、今こうやってる事は。毎度申し上げてますけど。これから何かしなきゃ、何処かに不足、不満、不平、そう言うものが有るかと言ったら、今のこの自分の在り様ってのは、一切そう言うものが無しに、もう完璧にちゃんとしてるんじゃないですか。

でも考え方は違いますよ。考え方って言うのは、自分の真実を見ないんだもん。頭の中で描いてる事を尋ねるだけだもん。しかし自分の真実生きてる今の様子にこう触れると、どうする用も無い程ちゃんとしている。そんなに素晴らしい生き様を、今ここで展開してるじゃない。

「且教坐殺者漢。」だから自分の本当のそう言う真相に坐ってですね、お目にかかってごらんと言うのでしょう。自分の素晴らしさに気づかないなんて、一生生きていたって、これほど哀れな事はないでしょう。お釈迦様が自覚された、自覚をされたって事は、自分のこの素晴らしさに気づいたのでしょう。誰もそうなってるって言う事でしょう。今の自分自身にこうやって触れてみると、今の自分自身がどれ位素晴らしい生き様をしてるかって言う事でしょう。

こんな不思議なものが世の中に出て来たんだよねぇ。こんな不思議なものが、エー。両親になる人が居られて、その縁を借りて出て来たには違いないけども、じゃ両親になる方がですね、このものを作るのにどれだけ何をしたんでしょう。

受精が行われて受胎して、そこに生命が宿った。その後ですね、母胎の中で、何だろう、核分裂かな、色んな物がドンドンドンドン分裂して、人間らしい形に成って行くのでしょう。その間お母さんが何か手助けした事無いですね、自分のお腹の中で。やってる事は自分の生命を育んで、栄養を取っている事によって育って行く。

その育って行く中でですね、身体の中に、何だろう、地球二回り半位の長い血管張り巡らされる、人間の身体の中に。その道路を身体の中に張り巡らす仕事だって、誰もした訳じゃない。臓器が色々有る。五臓六腑とか、或いは手足とか皮肉骨髄とか、色んな分け方があるけど、この身体に。これらが育つのに、誰がどうしたんだろうねぇ。今でもそう言う風にして人は育って来る。人間だけじゃない。あらゆる物が大体そうです。植物にしても、他の動物にしても。

「且教坐殺者漢。」自分自身こう言う様子。眼が物を見る力を、誰が何時養ったか。パン!耳が付いて音がすると聞こえる様になってる。聞こえるとそれがどう言う音か分かる様になってる。そんなの誰が作ったの。誰も教えた訳じゃない、作った訳じゃない。それを本来の自己と言うのでしょう。そう言うものが坐って、自分自身の今の真相に触れてみると、はっきりするじゃないですか。皆こんなに素晴らしく出来てるじゃない。

だけど、誰かに学んでものが分かる様になったと思ってるでしょう。そんな事は無いですよ。パン!口の中に物が入ると味がする。誰かが教えた訳じゃないですよ、誰も。手足を動かすって、どうやって手足を動かす事が出来る様になったんでしょうねぇ。呼吸をする。食べた物を外に排泄する。もうありとあらゆる事、どれ挙げてみても素晴らしい出来栄えですねぇ。エー。

これを作ろうと思うと、お金ではちょっと間に合わない。一兆や十兆や、その位の額では出来ないよ、これだけ素晴らしいものは。そう言う素晴らしいものが自分だから、その自分を粗末にしちゃいけないんじゃないですか。で他の人と比べると、何か自分がつまらない様に思うって、そんな事はないですよ。

「且教坐殺者漢。」坐ってって言う事は、本当に自分自身の様子に親しく在って。眺める様な間柄ではない、尋ねる様な間柄ではない親しさに居るって言う事が、坐殺する様子です。本当に坐るって。実物そのままで居てみる。

観察をするって言う事は、自分を外に置いといて眺めるって言う事ですから、実物そのものに居ると言う事とは、遙かに違うでしょう。そっちの方が分かりやすいんだけども、観察した方が分かりやすいんだけど、観察は実物そのものの様子ではない。概念の上の話、ね。そう言う事も、勉強して行って知ってるとは思いますけども。

そこで、兎に角、今日たちまちに人に会って、如浄禅師、私に尋ねる人が居たら、どう言う風に答るかって、如何ならんか是奇特の事って尋ねる人が居たならば、私はその人に向かって答える。どう言う風に答えるか。「何の奇特かあらん。」特別な事なんか一つも無いよ。そうでしょう。特別な事は一つも無い。

特別な事は一つも無いけども、この眼で物を見るんだって、特別な事は無い。ずっーとこんな事やってんだけど、内容を見ると、今申し上げた様に、どうしてこうやったら、こうなるのか分からん。何時そう言う風になったのか。誰からも学ばないのに、誰でもこうやってやると、そう言う風になる力を持ってる。

そこに物があれば、その通り必ず見える。しかもそこに私流の見方なんか一切起こさない。それが皆さんの眼です。私はこう見える、あなたは違うでしょうって、そう言う風にならない。眼には私の見方って言うのは無い。ねぇ。何の奇特の事かあらんて言うけど、奇特の様子が無いって言う事が、それ位よーく見てみると飛び抜けた状況なんだね、一つ一つが。

耳だってそう、何時も申し上げてる。音がすれば確かに聞こえるんだけど、聞いただけで、それを取り除いた人は一人も居ない、聞いたものを。自分で処理して。止めた人は一人も居ない。止めないのに、聞いただけで何処にも残って無い。そう言う耳って働きをしてる。だのに、滓みたいにですね、聞いた物が引っかかる人沢山居る。エー。

いまだに、小さい時に、私は五歳の時に母に捨てられたって、この前もどっかでそう言う男性に会った。何か自分の中で引っかかってるものが有るって言ってる、おっしゃってた。だけどそれは、そう言う思いを自分の中で起こした時だけ、それが辛うじて感じられるだけ。ねぇ。そう言う思いを起こしてない時に、自分の中に、五歳の時に捨てられた、あの母はって、そう言うものは一切無しで生活してる。思ってる時だけ出て来るだけだから、思いが邪魔にならないでしょう。思ってない時もずーっと続くんだったら大変だけど。

思いって不思議なものですね、音と同じです。鳴ると聞こえる。聞こえてもそのまま何処に行ったのか分からん。思いも出て来るんだけど、何処へ行ったか、誰も手を付けない内に跡形も無い。なのに問題にする人は、鐘の音と同じ。ものを、聞いたもの、何時までもそこへ掴んで問題にしてるのと同じ様に、思いもそうです。それはやられるに決まってますよ。掴めばそこに残るじゃないですか。だけど自分の真相、自分の本当に生きてる様子にこう触れてみると、そう言う活動をしてる人は誰もいない。

それが私達を救うのでしょう。ああ本当に自分の思ってる事と違う。こう言う風になってるって言う事が、自分で分かる。それが分からない人は、考え方でどうしたらこの今、厄介になってる自分で問題にしてるものが取れるか、離れられるか、止まるかって、無理です、それ考え方でやったって。

そうじゃない。考え方でやるんじゃなくて、自分自身の真相に触れると、そう言う風な活動をしてないものが、このものの真相なんです。それが自覚の内容なの。何時だって自由にこうやって物を見る時に、皆さん知ってる通りじゃないですか。前に見た物は一つも出て来ないじゃないですか。これで良いじゃないですか。

だけども体験した、前に体験した、あの時に私を叩いたとか言う様なものが、今でもこうやって頭の中に出て来て、過ぎるんでしょう。それ思った時だけそう言う事が浮かぶのでしょう。で、浮かんだものの中に、叩いてる様子が今自分の身体の中に有るか。

私もお腹を切って手術した事があるけど、確かに思い起こせば痛かった様な気もする。二、三人でお腹を押さえて貰わないと、はぜちゃうんじゃないかと思う位痛かった様な感じもある、当時。だけども今思い出しても、身体の隅々何処を探しても痛みが生じない。ただそう言う事が有ったって言う事が思えるだけ。思いってそう言うものですよね。

ところがそう思えない人が居るんだよね。それは正体を自分でちゃーんと見破らないからでしょ。自覚しないからでしょ、本当にどうなってるか。人に用が、他人に用があるんじゃなくて、自分自身の事を自分自身で触れて、正体をちゃんと自分で見切ったら、そう言う事がはっきりして、あー何だって終わるじゃないですか。エー。それが救いじゃないですか。仏教ってそう言う教えじゃんか。

それで、まあ、何の奇特の事あらんって一応如浄禅師は、別にって言う位の事言ってるんだけども、別にって言うのは、この位の内容があるって言う事を言っときたいですね。間違えるとああ何だ、何でも無いのかって思われると困るから。

当たり前だって言う事がこれ位、平凡て言う事がこの位素晴らしい内容を持っているって言う事です。平凡だから良いのでしょう。ね。一般の人は平凡でない他人よりも、凄く飛び抜けて素晴らしいとかって言う様なものに成る事を望んでいるかも知らん。それ厄介ない事ですよ。誰にも気づかれない位平凡なのが一番。それ幸せなんですよ。靴を履いてたって、良い靴は履いてる事を知らない位じゃないですか。あれ平凡なんですよ。ねぇ。気にならないんだよ。良い物は一切。


鉢盂 正法眼蔵第七十一

2019.2.23

音声はこちら ↓

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今日は415頁の鉢盂の巻き。少し拝読してから始めたいと思います。

「鉢盂。」「七仏向上より七仏に正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝しきたり、第二十八代の祖師、菩提達磨高祖、みづから神丹国に入りて、二祖大祖正宗普覚大師に正伝し、六代つたはれて曹谿にいたる。東西都盧五十一代、すなはち正法眼蔵涅槃妙心なり、袈裟・鉢盂なり、ともに先仏は先仏の正法を保任せり。かくのごとくして仏々祖々正伝せり。」

正法眼蔵の中で、表題としてですね、こう言うものが取り上げられている。下にも脚注がありますが、まあ仮名はハウとふってあるのですが、そう読ませて貰いますが。ご飯を食べる時の食器。あそこに円通寺さん登って参りますと、本堂の脇に良寛禅師の立像が有りますが、こうしておられる(左手を掌を上にあげる)、ここ(左掌)に載っているのがこの鉢盂です。ハウ、何かハウって言うと英語みたい。

ほうう、一番大きなものを。あれ五組セット。まあ部品で言うと六つ入ってます。一番小さいのをテッパツと言ってですね、応量器をここに置く時に、器が底がこう丸くなってるんですから、ゴロゴロしない様に、一番小さなやつをここへ置いて、その上へ載せるとピタっとこう収まる様になっております。味噌汁のお椀なんか下に、少しこう椀の下に丸く彫った物が付いてるでしょ。ああ言う様なものが一つあります。あと五組でセットになってますね。

円通寺さんで朝お粥を頂く時は、四つかな。五つあるのかしら、一つ外してあるかも知れません。まあ大体五つ。そう言う物で応量器が出来ております。永平寺にお参りして宝物殿に行って拝見すると、道元禅師のお使いになってた鉄鉢と言う、木でなくて鉄で出来た応量器があります。かなり大きい。あれは托鉢をしたりする時に、あれに入れて貰って、あと煮炊きをする様に出来てるのかなと思いますけどね。出来る様に。まあそれはその位にしておきます。応量器。

それがですね、出家をする時に、尼師壇と言う、尼師壇と言うのは礼拝をする時に敷く引き物です。ここに畳んでありますが、こう言う物が礼拝をする時に使う敷物。それから、応量器をお袈裟と、これが三物みたいに、三つの物として、出家すると頂いております。一生使うものなんですね。一生涯使う。

で、もう一つ加えて言うと、そのお袈裟とそこに今読んだ処にありますけども、袈裟と鉢盂は正法を伝える時に、証として次の方にそれを授けた。悟りを開かれて、眼の開いた方と言う証明のために、その二つの物がですね、代々六代、中国の大鑑慧能禅師の処迄、曹渓に至るまでそう言う物が伝えられて来たと言う経緯があります。そう言うな事が最初にざっと述べてありますね。

鳩摩羅什、旧約をされた方ですが、その元に僧肇と言う方がおられますが、その方が般若心経などの訳に非常に貢献をされた方だと言う事で、近年の研究論文なんかをこう見てみると、あの方も正伝の仏法を伝えられた方と一応されているんですけれども、道元禅師も指摘をしておりますけど、お袈裟を伝えてないと言う事ですね。それでお袈裟が伝わっているのはこの曹渓六祖の系列の人だけが伝わっていると言う事ですが。その六祖はこの悟りを開いた方の証明として伝えて来た袈裟をですね、これを伝える事を止めた。

要するに、それまでは一師印承って言って、一人の師匠に一人の弟子だけが相続をするって言う事で、お悟りを開いた人が何人いてもですね、その中の代表者だけが受け取って来たんですね。それで六祖はですね、それを改められて、今後はそう言うものを伝えずに、何人かの人達が同等にこうやって法を伝えて来る様な形になっております。今も曹渓山にお袈裟は残されていると言う様な事を、曹渓山に行った方に聞いた事があります。私は中国に渡っていないので知らないですけれど。

最初の三行四行五行までのその正伝と言う事は、計算をすれば分かる様にですね、イコールで右と左が必ず一緒になると言う事でしょう。伝えると言う事は、伝える人と伝えられる人が必ず居ると言う事ですからね、伝えると言う事は。片一方だけでは成り立たない訳ですよね。ものが伝わるって事は。そうでしょう。

それが内容が同等で無かったら、伝えていく間に段々減って来ちゃったら、なんかしたら困るじゃんね。あるいは伝えている間に段々増えて来ても困るんですよ。そう言うものでしょう、正法って。正しいものって言うのはそう言うものです。

音を一つこうやってパン!(打掌)聞いて貰っても分かりますけども、二代三代あとになって、こうやってパン!音を聞くと、それ以上に音が、色んなものくっついて聞こえるって事は無い訳です。何時の時代でも。こうやったらパン!その通りに増減無く、増えも減りもしない。そう言う風に聞こえる様に出来てるから良いんでしょう。

物を見てもそうでしょう。昔の人はこうやって見たら、今の人が見たら色が違う様に見える様になると、困るんですよ、ね。まあそう言う事が正伝として、ここでは人の上の話として挙げてあります。その辺までで良いですかね。

「東西都盧五十一代、」これは道元禅師のお師匠様、如浄禅師様の代迄で、インド、中国併せてですね、東西って言うのはインド、中国、併せて都盧、全て併せて五十一代と言う事ですね。その様に正しいものが伝わって参りましたと言う事です。その時にそれを現わす物として、「袈裟・鉢盂なり、ともに先仏は先仏の正法を保任せり。」今申し上げた様な事です。

「かくのごとくして仏々祖々正伝せり。」これはお悟りを開いた人達の話として取り上げておりますけれども、誰しもの本来の在り様です。で、問題になるのは、私達はその事に気づいてないので、中々肯がえないって言う事がありので、それで、皆さん方に自分の事だから、それを自分ではっきりして欲しいって、それがお釈迦様の悟りを開かれた、所謂自覚をしたと言う内容になるでしょう。

自覚をするって言う事は、他所から何か貰う物は無い。自分自身の最初から様子そのものに気づくと言う事ですね。本来の自分の在り様に気づく。それが自覚の内容です。それは修行する時に非常に、基本的に大事な事でしょう。

今、信仰の殆どがですね、偶像と言ったら怒られるかも知れませんが、向こうに神仏、拝むものを立てて、そして私達はその前に額ずいて、向こうから何か教えを頂く様な形で、或いはそれを求めて行く様な形で修行するのが殆どでしょう。それ誰も疑わない位そう言う風に、今なってます。これが一番怖い事じゃないですか。教えを勧めるのに。間違ってるんじゃないですか、第一歩が。まあそう言う事を、ちょっと申し上げておきたい。

そこで次の処行きますよ。「しかあるに仏祖を参学する皮肉骨髄、拳頭眼睛、おのおの道取あり。」こう言う風な事が言われると言う事は、そうでしょう。お悟りを開かれた方々の内容が如何いう事かって言う事を学ぶのに、自分自身の皮肉骨髄、自分自身の眼の在り様とか、挙頭とありますけども、頭を挙げるにしても手を挙げるにしても何でも良いですけど、「おのおの道取あり、」一人一人自分自身の様子に学ぶ以外に無いのでしょう。どうあるかって言う事を学ぶ時に。

もっと丁寧に言えば、他人のやってる事は無い訳だからね。他所の人のやってる様子ってない訳でしょう。皆さん今生きてる、皆さん今それぞれ自分の事見てごらん。自分の様子見てごらん。他の人の何かをやってる事は無いでしょう。そう言うものに対して、何か疑いのある人? だってやるって言う事は、この自分の身心の活動だけでしょう。何をするにしたって。生きているって言う事はそうでしょう。そうじゃないですか。この身心の活動以外に自分の生きてる様子って無い訳でしょう。

ああやって、電話があそこで鳴ってるって、誰がそれやるんですか。必ずこの身心を借りてしか聞く事が出来ないのでしょう。この身心を借りないと、あそこで鳴ってる事が気が付かないのでしょう。隣に人が居るってこうやって見た時に、そうやって見ている事自体、本当に自分の身心の活動だけでしょう、やってる事が。

あの人はあの時あんな事言ってたって思う事だって、皆そうでしょう。あすこでああ言う事があったって思い出すんだって、皆この自分の身心の様子でしょう。一切他人事がない。で、それを相手に学んでいく訳でしょう。「おのおの道取あり。」

その中で、「いわゆる、あるいは鉢盂はこれ仏祖の身心なりと参学するあり、」ここで表題になってる鉢盂と言う応量器ですねぇ、それを取り上げておられます。で、この鉢盂って言うもの、ハウ鉢盂はですね、応量器って言うものをどう言う風に取り上げておられるか、扱っておられるかって言うので、色々な方々の言い分がずーっとそこに挙げてあります。

まず第一に「これは仏祖の身心なりと参学」する人が居る。

「仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩揭陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘絺羅(にゅうめつくちら)如来応量器(にょらいおうりょうき)我今得敷展(がこんとくふてん)願共一切衆(がんぐいっさいしゅ)等三輪空寂(とうさんりんくうじゃく)」と言う様な事を、応量器を挟んで、朝でも昼でも良いんですが、ご飯を食べる時に展鉢と言って、その器をテーブルの上に広げる時に、まず展鉢の偈と言うものが唱えられますが、そこにそう言う風に示されています。

「仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩揭陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘絺羅(にゅうめつくちら)」それを見てみると、ここに言われる様にですね、「仏祖の身心なりと参学する」と言われる所以がある。仏様が生まれて、仏生迦毘(カピラ)羅、仏様はカピラ城で生まれて、成道摩揭陀、お悟りを開かれたのは摩掲陀(まかだ)国、説法波羅奈(はらな)、説法は波羅奈と言う所で最初に説法された。入滅拘絺(くち)羅(ら)、亡くなられたのはクシナーラと言う風にして、これがお釈迦様の一代になる訳ですね。だから「仏祖の身心なりと参学する、」と言う様な事になるのでしょう。食べていないと死んじゃうんだね、きっとね。分かりやすく言うとそう言う事じゃないですか。

で、次にありますが。次は方はですね、「鉢盂はこれ仏祖の飯椀なりと参学する」仏様達が食事をする時の器だと。まだ色んなのが有りますよ。次のものは「仏祖の眼睛なりと参学する」眼の様子。どうして食事の器が眼になるのか。眼って別なものが有る訳じゃないですよ。器に向かうと、器にご飯が注がれたりおつゆが注がれたり、或いは食べていくと減ったり、色んな形が全部そこで行われてる。それ器の様子って言うんですね。本当は。

だけど器の様子って言うものが、そのまま自分の眼の様子を抜きにして器の様子は無いのですねぇ。まあ屁理屈を並べればそう言う事でしょう。分かりやすくするためにちょっと屁理屈を言えば、何で器が眼なんだって。器がどうしてお椀と言う様な形になるのか。どうして仏様の身心になるのか。色々な言い方がまだ出て来ますよ。

光明なり。「仏祖の光明なりと参学するあり。」光明って言うのは、その時の活動している様子がそのまま其処に現れている。従って、その時其処で活動していれば、その通りの事が現れている事が皆さんの眼の様子でしょう。それを光明と言います、ねぇ。

色んな物が光を発してるって言う事は、その通りにこう見えるって言う事です。 光りを発してないとですね、見えないですよ。ねぇ。吸収する物と反射する物が有って、それに依って光明と言われる働きになってる訳でしょう。全部吸収しちゃうとどうなるの? 真っ黒になるか、光は。ねぇ。反射する物があるから色んな色が、物が有る様にこうやって見えてる。そう言う様な事が光明の様子。一切の物は色によって形を表すのでしょう。無色透明では物は見えませんね。

或いは「鉢盂はこれ仏祖の真実体なりと参学するあり。」自分自身のこの生きてる様子そのものだって言う風に学ぶと言う。真実人体とかって言いますけど、真実の身体の様子です。それはご飯を食べたって、やってみれば分かりますが、その時に自分の身体と別にですね、向こうでご飯が云々って言う様な事はありません。正しくこの身体の様子なんですね。ご飯を食べるって言う事自体が。別に難しくはないでしょう。

「あるいは鉢盂はこれ仏祖の転身処なりと参学するあり、」物に従って、私達はその時その時、どうもしないのにドンドンドンドン変わって行く。ねぇ。ご飯の器を取ってご飯を食べる、味噌汁の器を取って味噌汁を頂く、たくわんを食べる。おかずがあってそれを食べる。そうするとですね、その物の様子に従って、コロコロコロコロ。只、味が変わるだけじゃないですよ、口の中の。身も心も全てが、その事に依って全部否応なしに変わって行くじゃないですか。

ところが、よく分からない人は、ただ舌の上に味がする、その味が変わってる位にしかものを見てないじゃないですか。そんな事ではないですよ。全部変わりますよ。ご飯を食べてる時に考える事と、味噌汁飲んでる時に考えてる事、同じ考える事だって皆それに依って変わるんですよ、否応なしに。変わるから良いのでしょう。変わらなかったら、自由が効きませんよ。

無罣礙って般若心経で言う。今、方丈さんともちょっと話してたんだけど、無罣礙、何処にも障害がなくて自由に活動ができる力を持ってる。「転処実によく幽なり」とかって言う言葉も有るでしょう。苦しくてしょうがないって、どんなに思ってても、赤ちゃんが其処でニコッと笑っただけでコロッと変わる力を、皆さんも知ってるでしょう。

腹が立ってしょうがないって言うのに、ねぇ、これでも食べてごらんって言って、口に入れるとその口に入れた甘さで、すっかり今まで腹が立ってる事を離れてしまって、ああ美味しかったとかって、それ位転処実にのどかな事が、本当はこの身心で行われてるんでしょう。そう言う大きな入れ物なんでしょう、これ。生涯この一つの入れ物だけで私たちは生きてい行くんですよ。これ入れ物ですからね。

どっかに皮臭袋って書いてあった。皮臭袋って言うのは、臭い物を入れる袋ですね。確かにこの中は臭い物が入ってるかもしれない。外に出さない間は、あまり匂わないもんだから、皆持って歩いてる。中にそう言うものを入れて歩いてるよね。糞とか尿とかって言うのでしょう。中に入ってる間はそう言われない。外へ出るとそう言う。そう言う物を入れて。まあ上手に入ってるもんだから、あまり匂わんで済むけど、入れ物ですよ。

この入れ物はもう少し勉強すると、次に有る様に、「あるいは仏祖の鉢盂の縁底なりと参学するあり。」縁と底と有りますが。無底鉢中とか言う様な事がありますが、この入れ物はですね、一応形が有って縁があったりしますけど、底抜けなんですね、大きさが。今日まで生きてきて、どれだけの物をこの中に入れたかしれないけども、何処にも溜めてない。だから歩く時に軽々しく歩けるでしょう。食べ物だけではない。六官を窓口にして。

あれ、今まで戴いたもの全部入れたのを、それ全部この中に入ってる様なんだったら、重くてしょうがないよ。どれだけ沢山の文言を聞いたか、どれだけ沢山の物を見てきたか、どれだけ沢山の事縁に触れてきたか。もう数える事が出来ない程の沢山のものを体験して来てるんだけど、見てごらん、すっからかんだよ。凄く良い入れ物です。

知らない人はそう言うものが皆自分の中に溜まってる様な生活をしてるから、たまらんでしょう。溜まってないのにたまらん、でしょう。変ですね、言葉って。溜まらないって言いながら、溜まらんって言うんです。溜まらんって言いながら苦しんでる。溜まった様な生活をしてる。ちょっと変だけど。皆さんは、どう言う風に自分のこの身心と言うものを勉強しているか。この食事の器の様に勉強しているのか。

まあ沢山挙げてくれましたが、「かくのごとくのともがらの参学の宗旨、おのおの道得の処分ありといへども、さらに向上の参学あり。」それぞれ味わいのある内容ではあるけれども、それで終りではない。まだまだ色々な味わいがあるよ、と言うのですね。それで、ご自分のお師匠様のお話をそこに引いておられます。