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虚空 Ⅵ

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もう一つ二十一祖婆修盤頭さんのものが上げてあります。

『心同虚空界(心は虚空界に同じ)
示等虚空法(等虚空の法を示す)
証得虚空時(虚空を証得する時、)
無是無非法(是も無く非法も無し)』


ま、言えば一つ本性の様なものでやってみてもそうでしょう。パン!(打掌)心は虚空界に同じ。何処がどうなったんでしょう。パン!こうやった時に、ですね、何処がどうなったんですか。パン!こうやった時に。これだけの身体があるけど、何処で聞いてるのでしょう。パン!どうなったんですか。パン!パン!エー。一塵も動かさず、一相をも破らず。何にも何処もなんともないよ。だけど、こんな、パン!こんなに成るんだよ。不思議でしょう。

心は虚空界に同じ。虚空と等しき時法を示すべし。等虚空の法を示す。ねぇ。皆さんこうやって虚空を証得した時、是もなに非法も無し。仏法だと思わないでしょう。パン!こんな事が。自分の生きてる真実だと思わないでしょう。仏法って他にある訳じゃないですよ。

こうやって、パン!こうやった時に、この事自体が仏法の様子なんですよ。こうやってパン!それ、しかも各自、自分自身の様子ですよ。これ。パン!何百人ここに居ようが、必ず自分自身の様子です。他の人の聞いてる様子は一切ない。その時も是もなし非法もなしでしょう。良いとも悪いとも何ともない。只その通りパン!音がするばかり。

物だってそうでしょう。その通りこうやってなるばかり。皆そうでしょう。この身体で。六根全て。六根は清浄なりとあるでしょう。六根清浄。何か残る様なものは六根の中に一つも無い。思いだってそうですよ。何処にも残らないですよ。思った時だけその事がふっと出てるだけですよ。思いの出てない時は、思いがあるとか無いとか問題にする事すら無い。思ってない時は何処にも無いよ。それ位何ともないものなんだけど、出るとすぐ掴む。そう言う悪い癖がある。修行の方法を知らないから。だから心意識の運転を止めるとか、念想観の測量を止めるとか、是非善悪を思わないとか、細かく注意がされてる。

次の処ももうすこし。「いま壁面人と人面壁と、相逢相見する牆壁心・枯木心。これはこれ『虚空界』なり。」壁面人と人面壁と、何だろう。こうやって壁に向かってる時に、向こうから言うのとこっちから言うのとって言う事でしょう。ね。それだけの事でしょう。片一方でものが成り立つ訳ない。人が出会った時に、片一方だけの事は無いもんね。必ず向こうからの様子とこちらからの様子が、それが別々にあると言う事も無いでしょう。こうやった時、そっちの様子とこっちの様子が別々ってそんな事絶対ないじゃんね。必ずどちらから言っても、その様子だけですよ。わかりますか。それが腹の立たないと言う事なんです、本当は。

だけど皆さん方、こうやって向かった時、何だって腹の立つのは、自分のそう言う風に隔ての無い在り方で今触れてる事知らないじゃない。こっちの様子と向こうの様子が違うと思ってるんだよ。そんな事ありっこないでしょう。見て下さい、毎日の生活で。どんな時でも必ずこうやってそのものに向かって触れた時、必ず向こうに触れてる様子と、こっちに触れてる様子が別々にあるなんて事はない。必ず同時ですよ。時間がずれたらこうならないんだもん。触れるって言う事にはならないんだ。

「相逢相見する』鏡に影を宿すがごとし、」とあるじゃないですか。「人の悟りを得る、月の水に宿るがごとし、月濡れず水破らず、」そう言う表現がある。鏡に向かった時もそうでしょう。鏡の中に写ってる様子は外の様子と違ったら、変でしょう。そんな鏡、無いでしょう。必ず鏡の中の様子って、面前の鏡の前の様子でしょう。皆さんそうでしょう。『相逢相見する』ってそう言う事でしょう。

『牆壁心これ枯木心』脚注には何か難しい事が書いてありますよ。いずれも古仏心て。これじゃ分からないでしょう。『牆壁心これ枯木心』と言う事が古仏心て言われたって分からんでしょう。古仏心てどう言うものかってもう一回聞きたくなる。エー。誰でもそうなるって事じゃないですか。どんなものに触れたって必ずそう言う風になる様になってる事じゃないですか。何時の時代でも。世界中のどんな境遇の人でも。そう言うのが古仏心なんでしょう。間違いの無い正しい在り方でしょう。

そこに出会った人の通りにならない人いますか、こうやって。初めてでも必ずそこで出会った人の通りになるのでしょう。そう言うものを本当に自分の様子として大事にしてないでしょう。向こうの人の事だと思ってるもんね。そう言う扱いしかしないじゃない。こう触れた時、向こうの人の様子だって、そう言う風にしか見てない。そうじゃない、それが自分自身の今の在り様なんですよ。自分自身の内容なんでしょう。

それを説明するために、宝鏡三昧の様な事があって、鏡の中はそうなってるでしょうって言う訳でしょう。自分自身の内容って、皆外のものが写ってる、それが自分の中の内容じゃないかって言うのでしょう。毎日生活したってそうじゃない。自分の外に有るものだと思ってるもの、皆自分の内容なんでしょう、生活してる時。だけど知らない人は、やっぱり向こうの事だって、ずーっとそう言う風に見てるから問題になってるんでしょう。まあそう言う風な事があるじゃんね。

「応以此身得度者、即現此身、而為説法」これは観音経かなんかあるのかな。どこかで読んだ事ないですか。以身得度者とは何を言わんとするのか。その物を以てその物を示す以外に、その物を示す方法は無いって言う事でしょう。ね。それが一番適切な方法なんでしょう。その物を本当に示したかったら、その物を以てしたら、必ずその物が分かる様になってる。

皆さんが学ぶんだってそうでしょう。薔薇の花がどう言うものかったら、薔薇花に触れると、薔薇の花が教えてくれるでしょう、どうなってるか。皆そうでしょう。一々その物がその事を教えてる。ねぇ。他の物でその事を学ぶって言う事はないじゃない。どんな物でもそう。良い事でも悪い事でも。正しい事でも間違ってる事でも、必ずその事によってその事を学ぶからはっきりするのでしょう。

間違っている事が間違ってるとわかる人は、利口な人だと言われるのでしょう。悪い事が悪い事だと気がつくと、人は正しく生きられる様になるのでしょう。他のものを以て正す必要が無いのでしょう。だから反省出来ない人は、自分のやった過ちに気がつかないじゃないですか。そう言う人は中々保釈されませんよ。外へ出したら、だって自分のやった事がどう言う事だったか分からないから、又同じ事をするじゃん。ああこう言う事がこう言う風になって、これはいけない事なんだって言う事が分かると、改心出来るのでしょう。ねぇ。

「応以他身得度者、即現他身、而為法説これ『示等虚空法』なり。」今申し上げた通り、その事がその事を本当に説いてるじゃないですか、どれでも。だけどいつ頃から、人間は何か比べる物が無いと、物が分からないって言う風な理解をしてる人が多いですよ。あれ何だろうね。比べる物を持ってきて、物が分かる様に思うのは何だろう。何が分かるんだろう。その物が分かるんじゃないよね。その物を知るのに、他の物を持って来る用がないんだもん。そうなってませんか。

今こうやって生活してる時に、何か他のものを以て来なきゃならないって思う人の方が変じゃないですか。そうやってやるからおかしくなるんじゃないですか。なんでそう言う気が起きるんでしょうか。今こうやって生活してる時、まだ足りない様な気が何で起きるのでしょう。『示等虚空法』とあるけど、その虚空に等しい真実と全くずれない内容が示されているって言う事がよく分からないから、足りないと思うのでしょう。

じゃどう言う事かと言ったら、今の様子に本当に目を向けて、そのものの内容を自分ではっきりさせる、そう言う力がないって言う事だけじゃないですか、問題は。迷うとか苦しむとか色んな事を表現するけど、それ何かったら、今の様子が自分ではっきりしないって言う事だけじゃないですか、内容は。

じゃもっと言うと、何でそうやって今の様子がはっきりしなくなるかって言うと考え方を入れて見るからでしょう。実物には人間の考え方なんか一切付いてないですよ。何回も申し上げるけど。事実には人間の見解なんて一切付いてない。善し悪しなんて。是非なんて一切付いてない。そう言う風にしてストレートに触れてみないと、ものの真相は分からないじゃないですか。それ、だから坐禅するのでしょう。人間の見解を離れて事実そのものにこうやって親しく居てみるのでしょう、自分自身。

そうやって坐るんでしょう。その自分の見解を付けてない自分の今の在り様そのものにこうやって居てみるから、自分の事がはっきいりするのでしょう。坐るってそう言う事やってるんでしょう。ただ形を作って、そこに時間が過ぎたら終わる様な坐禅は、坐禅じゃないよね。話にならない。そんな事で済むなら、別に修行する用ない。

「被十二時使、および使得十二時」時間に使われる人、時間に追いまくられている人と時間を有効に使う人って言う様な表現ですね。皆さんはどっちの人か。同じ時間の中に居て、時間に追い回される人と、時間を有効に使える人って言う様な事がここに上げられるんでしょうね。

これ趙州禅師の言葉ですね。趙州禅師は、私は時間に使われた事はない、何時も時間を有効に使って生きてる。忙しくてしょうがないとか何か言ってる人達は、あるいは時間が無くてとか色々言ってる、そう言うのはこの非十二時使ですね。使得十二時は十二時を使い得たりとある。「『これ証得虚空時』なり。」虚空を証得する時なりって言うんでしょうね。『証得虚空時』本当にものがどうあるかと言う様な事が、はっきり自分でする。

「石頭大底大、石頭小底小、」大きいな石は大きい。小さい石は小さい。何の事はない。何だって、それが何だって。とことん突き詰めたら、そう言う事でしょう。「『無是無非法』なり。」本当にそうでしょう。大きい石は大きい、小さい石は小さい。良いとも悪いとも無いね。どっちが正しいとか正しくない、そんな事はない。本当に。それで良いのでしょう。邪魔にならないでしょう、それで。条件があって、条件にかなうかどうかの時には、十分それに対応して行けば良いことで。大きな石が欲しかったら。大きな石を持って行くし、小さな石が必要だったら、小さな石を使えば良い。

「かくのごとくの虚空、しばらくこれを正法眼蔵涅槃妙心と参究するのみなり。」こんなにですよ、正法眼蔵、涅槃て言うのはお悟りの世界でしょう、涅槃。悟りの世界って言う事は、救われている、迷われない、苦しまない。妙心て言う事は妙なる心だから、絶妙な働きをするって言う事でしょう。余分な事を考えなくたって、人と出会った時に必ず其処で活動が始まるでしょう。

早い話が、お友達が余命一ヶ月持つかねぇ、とかって言って、病状を友人がこう伝えて来て、暫く行ってないけどそんなに悪いのかって、聞かされて、行くまでに、もう頭の中に一杯色んな事が思い浮かばれて、そうすると、八割方は二の足を踏むね。なんと言って顔を出したら良い、何を話たら良いだろう、それ位、それはもう困ってますよ。涅槃妙心だから、このままこの身体を其処へ運んで行けばですね、ちゃーんと対応が出来る様になってる。

で、胡散臭い様な顔をして行ったら、駄目じゃん。矢っ張り俺死ぬのかなーって思う様な事を印象づけるだけだから。エー。そんな事のために来て欲しくないじゃん、誰も。あの人と会うと気が晴れるとか、気持ちが良いとか、楽しいとかって思わせる様な面会をすべきじゃない。それがこっち側の在り様でしょう。本人よりもこっちの方が悲痛になって、こんなになっちゃって、こんなになって、どうするんですか。見舞いにも何にもならない 。

又来てよって言われる様な見舞いに行くべきじゃない。楽しかった、又来てって。それは本当に何も用ないですよ、こっちに。あすこに行ったらこおれもしてやろう、あれもしてやろうって言う様なものを持って行ったらですね、本人と親しく会話をするなんて事は出来ない。只自分の思いを遂げて来るだけ。で、良く出来たと思って自分で○付けてるだけ。そんなつまらない生き方は駄目。涅槃妙心になんかとてもならない。

だって眼だって、さっきから話す様に、自分の方で何にも構えないのに、そこへ行ったらその通り、何時でもどこへ行ったってその通りになるんだもん、良いじゃない。こんなに難しいもの、こんなに複雑そうなものって言ったって、見るのに何の苦もなく何ともないんだもん。

こんな難しい話は聞いてられないって、思う事とは違いますからね。其処に居れば、否応なしにちゃーんと聞ける様に出来てる。で、終わればそれで済むもん。皆さん終わってから、あの事はこの事がって、それを持ち出して家の中で争いが始まる。あれが涅槃妙心だったら大変です。あれは涅槃妙心じゃない。あんなつまらない事してどうするんだろう。

「のみなり」って言うのは、本当にその時その事をやってるだけって言う事でしょう。「のみなり。」ピヨンピヨン跳ねるやつじゃないですよ。言っときますけど。痒いとかって言うあれじゃないですよ。「のみなり。」

生きてるって言う事は、本当にその時にその事が展開されるだけで、皆終わってく。自分の好き嫌いを遙かに超えて。もう否応なしで終って行く。どうしてそれだけに居れないんだろうね。それは考え方が強いからでしょう。事実を自分の思う通りにしようなんて言う傲慢なものの考え方を持ってるって言う事は大変な事じゃないですか。

皆そんな考え方で居たら、それは混乱するに決まってますよ。こんなに世の中が進んでもですよ、最後に困るとですね、人間は智恵があってですね、グーチョキパーで、これだけでですね、決着をつける。これだけねぇ頭が進んで、文化が進んで、文明が進んで、色んな物も凄い進んだ筈なのに、最後は困るとこんな単純な事で決めるんだよ。

これに対して何も文句言わないんだよ。この決まりの通りでこうやると、はいって言って。何だろう。これは法に従うだけじゃないですか。ルールに。グーに勝つのはパー、パーに勝つのはチョキって決めてあるから、その法に従がったもので、否応なし皆さんが納得するんです。こんなに素直にルールが決まってる。仏法の代表的なものでしょう。大の大人がやるんですよ、それを。笑っちゃうじゃない。

だけど皆さんが生活してるのは、そう言う風にこのものの在り様はなってますよ。見てごらん。眼耳鼻舌身意、人間の働き、全てそう言う風になってる。

と言う様な事で。これが、この虚空の巻きが説かれたのは、ここにもある様に、道元禅師が四十六歳かな、五歳かな、現在の永平寺は、この頃大仏寺と言う風に言われていた。最初に大仏寺で説かれたものだと、奥書があります。ね。そう言う、それで先程、「大仏まさに」とか何か言う道元禅師の名前、ご自身をそうやって上げておられる、そう言う巻きです。晩年の方ですね。五十四歳だから、そんな晩年でもないか。短い巻きですね。以上で虚空の巻きは終わります。

正法眼蔵沢山あるもんだからですね、一巻ずつ終わって行くとですね、まだ有るって言う風に勉強しないで下さい。これがあの振り返ってみればですね、当時の方々はですね、その巻き、その巻きしか聞いてないんですよ。他の巻きは一切無い。それだけ。そこで聞いてそれで終わり。そうやって勉強した筈なんですよ。ところが今日の人達は九十五巻とかって有ると思ってるから、九十五巻の中の一巻を今勉強してるって、そうやって思ってるじゃん。

全然違いますよ。そんな風にして当時の人は聞いた人は一人も居ない。今の学者もそう言う人多い。皆さんが生活するんだってそうでしょう。必ず今の事だけで生活するじゃないですか。エー。あとは酷い事を言えば、思い起こす能力があって、それを盛んに思い起こす事やって、そっちの方を大事にしてる。本当は今こうやって触れている事実の方に私達は学ぶ必要があるんじゃないですか。

正当即今、「恁麼の事を得んと欲せば、すべからく恁麼人なるべし。」必ずその事が問われてる。而今の山水とか説かれてる。必ず今の事が問われる。人間の一番弱点て言うか、一番の欠陥は、恐らく今触れていながら、今の事を、本当にこう相手にしないって言う処が、人間の一番愚かな事じゃないですかね。それを本当に教えてくれたのが釈尊でしょう。それが只管打坐と言われる過ごし方でしょう。諸法の実相に参ずるともあります。

まあ年明けだから、少しそう言う、ものを学ぶ時の在り様って言うものについて少しお互いにもう一回点検してみて頂けたらと思う訳です。終わります。(虚空の巻き終り)


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虚空 Ⅴ

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もう一つ話題が上げてある。これも馬祖の処の話ですね。
「洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、『講什麼経』(洪州西山の亮座主、因に馬祖に参ず。祖問ふ、『什麼経をか講ずる』)」この亮と言う座主がですね、お話をなさっておったんでしょうね。『講ずる』ですから、講義をしておられた。お話をしておられた。そこへお師匠さんの馬祖がこう来られて、何を話してるんだって言う。そしたら、心経を取り扱っていると言う。何をもってか講ずる。心経を話すのに、どう言う風にして心経を話すのか。

それにたいして、『将心講』馬祖が追求されるのに、『心は工伎児の如く』。心意識とこう三つが取り上げられていますね。先ず心と意、『心は工伎児の如く、意は和伎者の如し。』次に六識とありますが、識はですね、『六識は伴侶たり。争でか経を講得することを解せん。』心意識って言う様な事がよく使われますけどね。

心は下にも注釈が有る様に、工伎児、どう言う風な事を上げてみたら分かるかって言ったら、眼で申し上げると、こうやって成ると言う事ですね。(周囲を見回す)「工伎児の如く。」巧みな俳優となってますけども。其処に置かれているものに触れると、その通り、どんどんどんどんこれが変化して行く。変化するって言うと、分かりにくいかも知れないけど、その通り、其処に置いて有るものに触れると、その通り見えると言う事でしょう。それがこの心の様子でしょう。

皆さんそれを眼の様子だと思ってるから。そうじゃない。眼はそう言う風に働くのが、心の在り様です、それが。心、心って他にあるんじゃないですよ。眼で言う時には、心の様子は見えると言う事です。耳の様子で、心の様子を見ようとすると、音がすると言う事です。下にも有るけども、六識の伴侶たりとある。必ず音がしたら聞こえる。聞こえたら必ず、それが理解出来る力が其処にあるって言う事が、六識の伴侶です。音がしただけじゃない。音がしたら必ず音がした事が分かる。ねぇ。

六根六境六識って言う風にして仏教では説くでしょう。人間に六つ感覚器官が備わっておって、それに対する相手としての六境、物があったり音が有ったり香りが有ったりする。それに触れると、味がするとか、物が何色をしてるとか、動いたとか動かないとか、そう言う風に必ず分かる力を持ってる。それが、六識でしょう。

この六根六境六識はですね、三六、十八界と言いますけども、これで人間の生きてる世界の全てが説かれている。これを逸脱するものは無い。これ以上の物は万法と言えども無い。諸法と言えども、この十八界をでる物は無い。これだけで人間は生活してる。それが仏教の説でしょう。説き方でしょう。だから仏道を学ぶ時に、必ず自己を学ぶのでしょう。ありとあらゆるものと言ったって、この各自自分の身心の上の様子以外無いじゃないですか。このものの上に、音だって、この身体で聞かない限りは音にならない。この身体で触れない限りは、物は見えないんですよ。この身体でやらないと味がしない。香りもしない。

だけど人間の考え方は、自分が居なくても世界は有るって思うんだもんね。思うのは勝手ですよね。だけど、その私が居なくてもこの世の中は残るって、よーく見てみると、何だ生きてる人がちゃんとそう言ってるじゃないかって言う事がよく分かるでしょう。死んでしまった人が言ってる訳じゃない。私が居なくなってもって言うのは生きてる人の上の話で、亡くなってない。自分が居なくなってる話じゃない。そう言う事がもの凄くはっきりしてるんだけど、自分でも居なくなった様な事を思ってる。

変だね、考え方って。それ位人を騙す。私が居なくなったって(死んでも)円通寺は残るに決まってるって、皆思ってるでしょう。エー。それは皆さんが今生きてる時の話ですよ。生きてる人が扱ってる上の話ですよ。自分が居なくなった時に、そう言う扱いした人何処にいますか。居ないじゃないですか。そう言うのもよーく見てみると面白い。

『いかでか経を講得することを解せん。』こんな風になってるけど、お前いったいどうだ、と言うのでしょう。それに対してこの座主が、『心既に講不得ならば、』講不得と言うのは、話をする用がないって言う事でしょう。話が出来ないんじゃないですよ。もう既にそうなってるならばって言う事でしょう。私が説明する前に、すでにそうなってるならば。『これ虚空講得すること莫き麼。』私が説明する前に既にそうなってるんだったら、虚空説くとか説かないと言って言う事要らないじゃないかって言う事でしょう。

馬祖が言われるのに、『却って是虚空講得せん』その通りだって言う事でしょう。実物が何時でもその真相を説いてるって事でしょう。だから皆さんどうもしないのに、こうやって何時でもその真相に出会える訳でしょう。もし虚空がですね、ある時は説きある時は説かなかったらですね、説いてない時に会ったらですね、虚空の様子が分からない。ところが四六時中、虚空は虚空の様子を説きっぱなしだから、皆さん方は知ろうと思ったら、何時でも出来る。どうもしなくても。

そう言う事が心経の内容なんでしょう。般若心経。心経の内容なんです。そう言う事が、自身の真相が説かれている般若心経なんでしょう。一応其処まで聞いて、この座主はですね、払袖して退くとあるから、長い袖は、無い袖は振れないけども、あれば払袖して、こうやって袖を振って、後ろ向きにスッとこうやって帰って行く事が出来る。払袖ってそう言う事でしょう。袖を払って行った。

その時にですね、『座主』って声かけられた。思わず知らず後ろを振り向いたのね。師首を廻らすとある。その時に、『生より死にいたるまで、只是這箇』何時でも只こう言う風にあるんだって。それを聞いて合点が行ったのでしょう。『省あり。』それは単なる頭で理解したんじゃない。自分自身そう言う時の様子で気がついた。それ以後この人は山に入ってですね、ついに生涯山から下りて来なかったと言うのでしょう。まあそう言う話が其処にちょっと上げてある。

タイミングが良いね、この馬祖さんね。これ、意表をつくんですね、もう話が終わって自分は成る程って、一応講師ですから、講釈師ですから、ものを話すのに、ああそう言う事かって、理解が行ったもんだから、よしって帰ったんでしょうね。その帰った時に、後ろ向きになった途端に声かけられた。はっと後ろ向いた。自分でどうしたかも知らないじゃない。何でそうなったか分からない。

普通だったら、私の名前呼んだから後ろ向いたと思ってるでしょう。エー。そう理解するのでしょう。そうじゃないでしょう。声に反応したのでしょう。それ心の様子です。心の様子です、皆さんの。どうしたんでもない。カアーって言ってカラスが鳴いた。聞いたのでも何でもなし。そう言う風になるんでしょう。ねぇ。そう言う処に、心の真相って、よーくこう受け取れる処がある筈。

「しかあればすなはち、仏祖はともに講経師なり。」悟りを開かれた人仏や祖師方ってのはその様に常に経を、真実を説き続けている人。「講経は必ず虚空なり。」経を説くと言う事は、必ず真実を説くと言う事でしょう。そうでなかったら、説く意味が無いじゃないですか。くだらない事を長々やったって。覚えてどうするんですか、そんなもん。「虚空にあらざれば一経をも講ずる事をえざるなり。」

皆さんの眼だってどの位虚空の様子を体現しているか、見て下さい。こんな小さな眼だけども、皆さんが虚空って思ってる大きな世界、何ともなく入れるんですよ。物理学者じゃ計算出来ない。こんな小さな目の中に、大宇宙をこうやってこうやって皆入れて生活出来る。エー。何億光年の光をこうやって見る力がある。千里向こうの山を見る力がある。凄いですね。こんな大きな働きをしてる。それで、どんなに見ても留まった事がない、この中に。これ底抜け大きい。もうあれだけ見たから、入らないって言う様な入れ物じゃない。

「虚空の辺際を得べからざるがごとく、」とあるでしょう。虚空って言うのは、ここからここ迄が虚空って言う様な広さの世界じゃないものを、虚空って言うんでしょう。だけど人間の描く虚空は有限ですよ、殆ど。虚空にならない。そう言う事も勉強した方が良いかもしれない。

「心経を講ずるにも、身経を講ずるにも、」身と心、身心一如と言いますけども、身体を離れて心の働きは無い。心の働きだけがあって、身体の無い人って、そんなのも無い。それが仏教の定義です。常識です。必ず身心て言うのは一緒に、或るいは大祖様が何かどっかに書いてたかもしれないけど、三祖大師假く呼んで心となし、龍樹假くなづけて身となす。龍樹は身の方を、身と言う字を以て現わし、三祖僧燦大師は心と言う字を以て、一切の物を表すと言う様な事が、歴史の中に、同じシン言う身体と心使ってますけども、どちらも真実を表す言葉として使っているので、二つある訳じゃないですね。これはご承知の通りでしょう「ともに虚空をもて講ずるなり。」

「虚空をもて思量現成不思量現成せり。」ものを考えるんだって、思う、或いは思いを離れると言う事でも、皆この今の事実を離れては無い。有師智、無師智、師匠さんについてそう言う事を知る、師匠無しにそう言う事が分かると言う事ですかね。どちらもあるのでしょう。生知、生まれながらにしてって言う様な事もあるでしょう。学んでから分かるって言う事もあるでしょう。だから本覚とか始覚って言う。始覚本覚って言う思想が、天台なんかでは問題になる訳でしょう。

「ともに虚空なり。」仏になる、祖師になる。悟りをどちらもひらく。自分自身の真相を本当に自覚する。それは矢っ張りこの真実の様子に触れて、諸法の実相と言われる虚空の様子に触れて初めて、その事が分かるのでしょう。

パン!(打掌)何処へ行くのでしょう。この音はパン!どこへ行ったのでしょう。聞こえたんだけども、何処へ行ったんでしょう。隠れる場所も無い。こう言う風に働いているのが、皆さん方の虚空の様子でしょう。大空の何とかって言うんでしょう。跡形も無い。消えた場所もん無い。しまった場所も無い。パン!そう言う大きな働きをしてる。後にも先にもその時限りで完璧に終わってる。一点の非の打ち所が無い程見事にその音、パン!その音、パン!手の付ける用が一つも無い程、その音に対してそうやってはっきりした生活をしてる、この様な事が問われるのでしょう。


虚空 Ⅳ

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「石鞏・西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども」まあこの馬祖の時代から後に、そう言う曹洞、臨済、法眼、潙仰、雲門、五家ですね、そう言う流れを分けて、宗称する人達が出て来た。五人代表的な人を、自分達の党首として上げて、その下に学んでるって言う風にして、沢山党首を分けるとですね、曹洞宗で言えばですね、永平寺と総持寺があるから、曹洞宗では二人禅師が出れる事になる。これ永平寺だけだと曹洞宗で一人しか禅師にはなれない。そうすると寂しがる人居るね、きっと。二つあるとポストが二つある。一つになると、半分だから凄い寂しがる。

五つ、禅宗の中に五つ仏祖が出た訳でしょう。仏祖が出た訳でしょう。そうするとその党首になる訳でしょう、五人。で、五家七宗になれば、臨済の中にまた二つの流れが出て来る訳で、七つに分かれる。そんな風にして、日本の中でも色んな人の流れを上げてですね、誰々の流れ、誰々の流れって言う様な事を上げてですね、その人の下で付いて学んでって言う風に思ってる。

それは本当にものを学ぶのにですね、愚図ですねぇ。何を、そう言うのを学んでるかったら、一人一人の癖みたいなものを学んでるだけですよね。本当に学びたいのは癖じゃないんだよ、その一人一人の。仏法を学ぶって言う事でしょう。仏法には偏見はない。あの人がこの人がって言うものの見方は一切ついて無い。だから仏法を学ぶ。

ところが五家とかって言う様なものを学ぶ様になると、皆、家風って言って、違いがあるじゃない、色々な。その違いを喜ぶじゃない。だから曹洞宗、臨済宗ってどっか違いが無いと困るんだよね、学者は研究するのに。一緒だったら学説成り立たないわけ。で、しょうが無いから一生懸命どっか違いを見つけて、その違いを見つけると発表して、その発表が出来るとなんか優秀だって言ってこう何か言われるのでしょう。そんな物を我々はまた学ぶんだね、知らないと。仏法を学ばなきゃだめじゃないのかね。そう言うな事でしょう。これもね。

「虚空を見聞測度せるまれなり。」本当の事を学ばないって言う事でしょう。「石鞏・西堂より前後に、弄虚空を擬する」弄ぶ、そう言う人達が一杯居たけけれども、手を付けるって言う事はした人は本当に少ない。

三日位前にも、私もお正月が終わる前にって言って、二人でお見えになった方がいて、話を二時間位した。その時に、曹洞宗で只管打坐って言うんだけど、只管打坐って余分な事を考えずに只坐るんですよね、って言う話をその方がしたもんだから、それは只管打坐じゃないんじゃない、って言った。只管打坐ってそう言う事じゃない。坐る、坐る事です。ここで、ああじゃないこうじゃないって喋る事じゃない。只管打坐はこう言う事だ、ああ言う事だ
って喋る事はどんなに喋ったって、只管打坐じゃない。

そう言う事でしょう。だけど言わないと、それで勉強したと思ってる。理解ですよ、それ只の。そう言う風に理解してるだけであって、なーんにもやってない。だから、「修せざるにはあらわれず」って。実際に実践しなかったら、只管打坐ってのはそこに出て来ない。実物が出て来なかったら、実物の味わいなんか絶対にする事は出来ない。どんなに考えたって。だから皆さん実践するのでしょう。ねぇ。

だからこう言う人達は「著手せるすくなし。」って、そう言う事を言うんでしょう。ね。考え方の上で、あーじゃないこーじゃないってそう言うのを弄んでるだけであって、本当の事に一つも手を付けない。まあ「すくなし。」と一応道元禅師が「すくなし。」と遠慮しておられる。こう言うところが道元禅師様の優しい心遣いかもしれません。

「石鞏は虚空をとれり、」その嗣法の弟子として、石鞏って言うのはやっぱりしっかりしておられる。この頃まだ西堂の智蔵さんは、その処が少しまだ不徹底なんでしょうね。「覰見せず。」虚空って言うものがどういうものであるかって事を、本当に見届けておられない。

「大仏まさに石鞏に為道すべし、」道元禅師が、じゃあ石鞏様に私がもう少し申し上げてみたい事があるって言うのですね。石鞏の為に言うという、「為道、」どう言う事を、「いわゆるそのかみ、西堂の鼻孔をとる、」石鞏が西堂様の鼻を掴んで捻った。それが虚空を捉むと言う事ならば、自らも「みづから石鞏の鼻孔をとるべし。」お前も西堂の鼻をこうやってって言う事でしょうかね。「みづから石鞏の鼻孔をとるべし。」「指頭をもて指頭を取ることを会取すべし。」自分でこうやって触れてみるとそう言う事がよくわかる。他人の事じゃないと言う事が。

隣の人の鼻でなくてもいい、身体でいいから、こうやって触ってごらんなさい。お互いにこうやって隣の人触ってごらん。やってごらん、触ってごらん。どうなってるか分かりますか、やってみて。自分の様子だけしか出て来ないもんね。違う?自分の、今指で触ってる様子だけが出て来る。やってごらん。

ところが人間はどう言う風にその時に思ってるか、って言う事です。私が隣の人に触ってると思ってる。だけど、思ってる事と、実際にこうやってやった時に違うじゃないですか。向こうの人の様子は出て来ないんですよ、触った時。必ず、自分の指の今触ってる様子だけです。そう言う風に理解をするのでしょう。会得する、「会取すべし。」

実際にやってみれば分かる事です。やらないから分からない。皆さん本当にああそうだって、頭で考えてるから、頭で理解する、やらなくて。やってごらん。やると頭で理解してる事と違うから。違いますよ。でもやらなくても大体分かるもんだから、やらないって言う。大体分かるって言う事とはっきり分かるって言う事とは、全く違うんだよ。疑いが残らないんです。それが修行になるんです。

「しかあれども、石鞏いささかの捉虚空の威儀をしれり。」先ほど来話をして来た石鞏と言う人は、西堂の鼻をこうやって捻り上げた。そう言う力がある。虚空を捉むと言う事はこう言う風にして捉むんだって。傍から見てる人は、それは西堂の鼻を捻っただけじゃないかって、やっぱりそう言う風に見るのでしょうね。

そりゃこうやって隣の人を触らないから。触らない人はそうですよ。触ってみると、石鞏が西堂の鼻を捻ったんじゃなくて、本当に自分の様子なの、どっちも。西堂も石鞏に鼻を捻られてるって言う様な様子は、何処にも出て来ない。自分の忍痛、痛さが身体を忘れる位痛さが其処にあるだけ。そう言う風な事が虚空を捉まえた時の威儀です。姿、形、在り様。

「たとひ捉虚空の好手なりとも、」それはそれでまことに素晴らしいと言うのでしょう。だけども道元禅師ご自身がですね、それは素晴らしいけどもと言って言葉を継いでいるのは、「虚空の内外を参学すべし。虚空を殺活を参学すべし。虚空の軽重をしるべし。」まあこんな様な事を道元禅師がおっしゃるんですね。本当にどうなってるかと言う事を知れと言うんです。それは、それを知るのには、その時の様子に親しくいなかったら、分からん。その時を外れては。後で、あの時の事を思い出して、どうのこうのと言う様な事では、こんな事は届かないんですよ。こう言う勉強は。

参学すべしって書いてあるけど、参学は必ずその時にやる。お茶一杯飲んだってそうでしょう。飲んでる時でなきゃ、味なんか分かりっこないじゃないですか。飲み終わってから。それは想像するだけだもん、思い起こして。鳥がサーっとこうやって飛んで行った。見てる時に、後で、そんな無理じゃないですか。飛んでないんだもん。参学ってそうやってやるじゃん。修行は必ず即今でしょう。今を除いて修行する時間帯は無い。何時も今の処で生きてるから良いじゃない。探さなくたって。他所の処で生活した事が無いんだもん。他所の時間帯で。必ず今の様子だけで、こうやって生活してるじゃん、何時でも。

それだのに今の様子って言うものに対して、こんなに人は疎い。今の様子を殆ど放棄してる。全く相手にしてないと言っていいほど、自分自身の今の在り様。それだからこんなに長い間色々やってても、良く分からない訳じゃん。道元禅師も恐らく若い頃はそうだったんじゃない。そう言う勉強の仕方をしてた。

「仏々祖々の功夫辧道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。」一々がだから、ね、今の様子に、本当にこうやって参ずる事が、一々が虚空の真相、ものの本当の在り様を学ぶ在り方じゃないかって、念を押しておられるでしょう。だから教材はなんでも良い。教材は良いじゃん。今のどの様な事でも、それが教材になる。必ずその事によってはっきりする様になってる。

「先師 天童古仏 曰」此処にですね、岐阜県におられた大智禅師が書かれた「渾身是口掛虚空」此処はそう言う風になってます。ここ(講本)は「渾身似口」、是が似と言う字に一字なってる処が違うだけですね。まあ、たまたまそう言う物が、丁度此処に掲げて有るんで。「渾身是口掛虚空」って言う最初の句だけを、道元禅師がそこに上げておられます。(円通寺書院に掲げられている額))

「あきらかにしりぬ、虚空の渾身は虚空にかゝれり。」これは風鈴の詩と言う風になってますが、単に風鈴を軒に掛けて、吊り下がってっている風鈴を詠ったのではなくて、我々の在り様を、如浄禅師が述べられたと言う事ですね。

この身体を見て貰うと分かる様に、この身体はですね、風鈴の様にですね、身体の中に五臓六腑はあるのは確かに、肉も骨も色々あるけども。だけども物が見えるって言う事は、自分の中から出ることはない。音が聞こえるって言っても、音が自分の中から出て来る事はない。味もそう。全てのものはこの中(自己の身心)から出て来るものは無い。触れると、触れると丁度風鈴がですね、中に吊り下がっているものが当たると音が出る様に、私達もそうなってるよね。物に触れると、そう言う物がその通り触れた様になってます。

この中(自己の身心)から出て来ないですね。音であっても。コンコン(机を打つ)この中から出て来ないですよ。音に触れると、その音がちゃんとね、そう言う風に鳴ってる。渾身口に似て虚空にかかる。何処にこの身体が置いてあるか分からん。黒漆の崑崙夜裏に走る、って言う様な句もあるでしょ。真っ暗闇の中に、真っ黒な漆の玉が転がっている、言う様な表現もある。要するに区別が出来ない。そう言う風に存在しているんです、我々は。虚空に掛かる。

そして「問わず東西南北の風」ですから、風鈴がこうぶら下がって、中に振子がこうやって風が吹くとそれによって、東西南北何処から吹いて来ても、その風に当たり位置が違ったりして音がでる。「一等他の為に般若を談ずる。」般若を談ずるって言う事は、その通りの事を皆さんにちゃーんと聞かせるじゃないですか。

これ(自分を指す)だってそうですよ。毎日そうですよ。何処へ行ったって、行った処で縁に触れると、どんなにでもこれが活動しているじゃないですか。その活動の仕方を見ると、般若と言われる様にですね、最高の対応が出来てる。猫に触れた時と赤ちゃんに触れた時、老人に触れた時、もうありとあらゆるものに触れた時に、全てそのものに触れた通り、これは否応なしに変化する様に出来てる。一切自分の我儘を言わない。これ般若の様子でしょう。

それだのに、自分の事だのにそうなってる事を一つも知らない。どうかしたらそう言う事が出来るんじゃないかと思ってる。そうじゃない。やれてますよ、皆。その証拠にどんな物がそこに有っても、必ずその触れた通りに見えるじゃないですか。自分勝手に見るって事はないじゃないですか、必ず向こうの通りに見えるじゃないですか。それでウンともスンとも言わない。良いとも悪いとも。何にもなしにその通り触れてはっきりしてる。サラッとしてこだわりも何にも無い。

「問わず東西南北の風、一等他の為に般若を談ず。」その後がなお良いのは、音がちゃんと記してあるって言う事です。本音と言うんですね。本音。本当に音に触れて見ると。音がどうあるかってのが良く分かる。チリチリチリチリ。て言うのが此処で上げてる風鈴の頌ですが。まあその位にして。言いたい事は、そうやって虚空と言う事を、如浄禅師がこう言う詩の中でも使っておられるから、それを引き合いに出して、皆さん方がどう言う風に勉強してるかって事、参考になるでしょう。




虚空 Ⅲ

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2019.1.26
あけましておめでとうございます。また一年お世話になります。
四〇九ページ、虚空の巻がまだ半分位残っている。後ろから三行目。少し本文読んで、それから入りたいと思います。

「西堂作忍痛声曰、『太殺人、拽人鼻孔直得脱去』(西堂、忍痛の声を作して曰く、『太殺人、人の鼻孔を拽いて直得脱去す』)」。

「従来は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。しかあれども、『染汚自己即不得(自己を染汚することは即ち得ず)』)なり。修己すべし。 石鞏道『直得恁地捉始得』。はなきにあらず、たゞし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。虚空と虚空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、いまだみづからの費力をからず。

おほよそ尽界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁ひさしく虚空の霹靂をなせり。石鞏・西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏・西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面々なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は覰見せず。

大仏まさに石鞏に為道すべし、いわゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭を取ることを会取すべし。しかあれども、石鞏いささかの捉虚空の威儀をしれり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を参学すべし。虚空を殺活を参学すべし。虚空の軽重をしるべし。仏々祖々の功夫辧道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。」


虚空の巻読んでおる訳ですが、先ず申し上げてみたい事はですね、虚空って言う言葉を聞いた途端に、多くの人は大空の様なものを、こう見上げてですね、ああ言うものを虚空って言う風に多分想像してるのじゃないかと思うんですが、どうでしょう。

でもう少し申し上げておきたい事はですね、仏法とか仏道とか或いは禅と言う表現でも良いでしょうけど、それ、一体何を私達にしようとしているか、それはもう明確でしょ。仏道は自覚ですから。自覚をなさった方を仏とも称する訳で、自分自身の在り様を本当に自分自身ではっきりさせる、それが全ての巻きに説かれている事ですね。

だから虚空と言うタイトルが有ってもですね、それ自分自身の内容なんですよ。色んなタイトルが九十五巻説かれていますが、一杯こう名前が付いているじゃないですか。それ全部自分自身の内容を説いているんですね。ところが、今最初に申しあげた様に、虚空って聞くとですね、自分の事じゃなくて大空の事の様に、もうそこからもう全く見当違いな事を始めるって言う事じゃないでしょうか。そこで、自分自身の素晴らしさが自覚出来ると、人は皆幸せになるって言うことでしょう。ねぇ。

それで、ここ中途半端な処でこの前終わったもんだから、変な処から読んでますけれど。馬祖道禅師の元に、この石鞏禅師とか西堂智蔵禅師とか色んな立派な方が沢山、馬祖の元では育っておりますが、これ兄弟弟子ですね、石鞏と西堂。

で、二人が有る時に、虚空を捉まえる事がでいるかって言う様な話になったのですね。その時に石鞏が、西堂に言った時に、西堂はですね、両手で以て、こうやって(両手で前の空を捉まえる仕草)捉もうとしたんですね。それはよく分かる様に、虚空って言うものがここに有って、こうやって捉むってそう思ってるからです。

ところが今日読んだところ、石鞏はですね、それじゃあ捉んだ事にはならないじゃないかって言う様な事でですね、じゃあ兄弟子の石鞏さんあなただったらどう言う風に虚空を捉むのかって言う様な事が、西堂が尋ねている時に、いきなり石鞏は西堂の鼻を、思いっきりねじ上げた。キャー。であまりの痛さに悲鳴を上げたのでしょうね。と言うのが其処の様子でしょう。

で、不思議ですね、この激痛と言うのはですね、従来の人が色々考えている事を、本当に離れきる力が有る。不思議ですね。痛いって言う時にですね、あれがこれがとかって言う様な事は、一切出て来ない。そう言うものじゃないですか。皆さんも体験有るでしょう、色んな時に。我を忘れると言いますけれど、痛さの故に。痛いと言う事だけがそこに転がり出て来る。

其処に、従来、今迄はですね、他人に会うと思っていた。向こうに自分の探して居るものが有ると思っていたのでしょう。ところが最初から自分の様子だって言う、「たちまちに自己にあふことをえたり。」って言う様な事があるじゃないですか。エーどなたかの句にですね、今までは他人の事だと思うたにおれが死ぬとはこいつはたまらん、とかそう言う歌がありますね。誰だったかしりません。探してみて下さい。

私自身も少し若い頃に、前にも話したかもしれませんが、どうしても向こうに人が居て、でこちらに自分が居て、そう言う関係でものが成り立っているとしか矢っ張り思えないんだねぇ。ところがひょっとした折りにですね、えっと気がついたのはですね、人から頼まれた事をですね、一応やるじゃないですか。そうすると、向こうの人の事を私がやってると、矢っ張り思うの、世の常でしょう。そう思いませんか。皆。

ところがよく見てみると、他人の事は一切やってない。自分がこうやってやってる事があるだけ。それは私の中で仏法を学ぶ上でおおいに力になった。なるほど本当にこう言う事がある。「従来は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。」何だ今まで騙されてた。何か人に頼まれると、向こうの人の事やってる様にいつもそう思って騙されてた。そうじゃない。やり始めると、必ず向こうの人のをやってる事じゃない。全部自分自身様子ばかりだなぁ。ねぇ、そう言う様な事があるんじゃないですか。

これ「拽人鼻孔に依って直に脱去することを得たり。」何を離れきったのか。従来の自他の見です。ものを見る。自分とか向こうの事だとかって言う様な、そう言うものの見方をしてたものを、一気に離れるんじゃないですか。相手が居ないんだもん。鼻を捻った石鞏と言う人が居ないんだよ。ギャってやられた時に。それが此処で言いたい事でしょう。

道元禅師と言う方はそう言う事、よーく体験しておられるから、こう言う表現が出て来るのでしょうね。これに対してこう言う表現がある。

次に、しかあれども、『染汚自己即不得(自己を染汚することは即ち得ず)』何処も自分らしいものを汚すって言う事はない。汚染って、普通この字を逆にして、染汚じゃなくて汚染って言う風に使ってる事が多いでしょう。汚れに染まると言う。石鞏に鼻を捻られて、何か人に自分の生き様をですね、滅茶苦茶にされたと言う様な気配は、全く無いと言う事です。あいつが俺をこんなにしたって、そう言う事はないと言う事ですね。どうでしょうか。

そうでないと、やっぱり西堂が石鞏を見ていて、石鞏が俺の鼻を捻ったって言う様な程度の味わいしかない。忍痛のあまり、あまりの痛さに、すっかり何もかも忘れて痛さだけになってる。そう言う様子がこう言う中で読み取れるんじゃあないですか。そうすると、人間はどうなるかって言うと、腹が立たなくなるでしょう。

相手を見てる間は必ず腹を立てるよね。何をするんだって、向かって行くものがあるけど、そう言う事がすっかり無くなる。身心脱落って言われてる、自由な人になるでしょう。誰からも束縛されない人になるでしょう。相手を見ている間は必ず束縛される。自分の中から相手を見てるものが消えない限りは。それが皆さん方の修行だし、自分の本質的な生き方をしてる処に、皆そう言うものが、本当はある。

だけども生まれてから後、自分というものを認めて、自分以外のものを区切って分別して、分け隔てを起こして、そう言う上からものを学んで来てるから、自分の本質が見えていないって言う事でしょう。その本質が見えてない上から、自他のものの見方の上から仏法を学んだら、仏法は絶対に分からない。そう言うものでしょう。

おのれを修すべしとある。「修己すべし。」己を修すべし。自分自身の事だから、自分自身の上でよーく研鑽してくれ。でもう一つこう言う処にですね、似た様な事があるんでしょうけど。明日の朝話そうと思って、弁道話の中からですね、弁道話の中にですね、「修証一等」と言う熟語があります。修行と悟りですね、一等。一等は等しいと言う事ですか。修の他に修行の他に悟りを待つと言う事なかれ。修行して悟りを得るって言う風に思っているのは、仏道の教えではない、外道の見なり、とあります。

これはもの凄い修行する上に大事な事ですね。ものを一番最初に学ぶ時に、それがはっきりしていないと大変でしょう。修行してから悟るって言う風に仏道では説かない。そう言う風に人を導くって言う事は仏道ではしない、と言う事が、道元禅師の書物の中に明記されてる。あの読んだ事のある人は、きっと知ってるでしょう、そう言う事を。

だけども皆さん方はそう言う話を聞くと吃驚するかもしれない。百パーセントに近い人が、修行して悟るって言う風に大体思ってるんじゃないですか。どうしてそんな風になっちゃんだろうね。もの凄い変な事ですよ。

良いですか。パン!(打掌)こうやってやった時に勉強してみると分かる。音がしてから聞こえるって思ってる人多いじゃないですか。そんな事はないでしょう。エー、パン!音がしてから聞こえるなんて事はないでしょう。音がした同時に、もう終わりでしょう。音がしたって事がもう聞こえたって事でしょう。パン!これから聞くんじゃないでしょう。そう言う風に皆生活してるじゃないですか。

一歩足を出したら、足を出すって言うこの修行を、実践をしたら、足を出した時、もう歩いてって言う事で、いきなりあるんじゃないですか。此処まで足が行ってから、歩いたって言う風になるって、そんな事はない。全てそうですよ。修と証は離れないもの、二つ有るものじゃない。修行してからそうなるって事は。「己を修すべし。」って言う中に、見てみるとよく分かる、自分自身。

今生きてる事だってそうでしょう。これからって言う事はないでしょう。今生きてるって言う事は、これから何かして、これからそう言う風に生きるって言う事はない。だけど、人間の考え方は殆どそう言う風になってる、反対だ。そこからこう言う正法眼蔵を読んだら、絶対に分からない。間違えたものの考え方を持った上から、正法眼蔵を読んだって無理。

それ自分自身、ね、己を修すべし、修己すべし。自分自身を本当にこう生活してる様子にこう触れて見ると、よーく分かる。後でやるって事は、人間には一切ない。出来ない、後でやることは、人間絶対出来ない。必ず、今やることだけです。それで終わっちゃう。

物を見るんだって、後で見るって言う事はない。何回やったって、必ずその時に見るだけじゃん、その事を。エー、前の事と比べて見るなんて言う事はしたら、絶対に分からない。

だけど多くの人は、前に見た物を、こうやって見た時に、前ああだったって言う様な事を、こうやって頭に描きながら見るから、はっきりしなくなるんじゃないですか。どうですか。どっちがはっきりするんですか。こうやった時に。これだけの方がはっきりするんじゃないですか。今見えてる様子だけの方が。昔見たものを思い起こして。此処にこうやって見てる時に、昔見た物を思い起こしながら、こうやって見てる方がはっきりするんですか。

人の話を聞くのでもそうでしょう。今喋ってる時に、昔ああ言う事言ったって、そう言う事を思いながら、思い出しながら聞いてる方がはっきりするんですか。そんな事はないでしょう。食べ物を食べてもそうでしょう。口に今入れて味がしてる。あそこで食べた物はあんな味がしたけど言う風な事をやって味が分かるだろうか、と言う様な事が、こう言う処
に皆やるべき事ですね。仏道ってそう言う風になってる。絶対他人の事に用がない。

エー石鞏曰ですね、「石鞏道」石鞏曰く、どんことを言っておられるかって言うと、『直得恁地捉始得』。初めてその様になって、その様な事にならないと、本当の事は分からないよと言う意味です。恁地って言うのは、この中で一番重要な語句でしょう。パン!何処できくんですか。これ何処で。パン!恁地ですよ。恁地。人間の分かる、分からないとかって言うものを一切使わずに、迷わずにはっきりした様子があるでしょう。パン!

証則、正しい悟りの内容はですね、覚知を用いずってあるんですね。知覚です。知るとか悟とか分かるとか、一切そう言うものを用いない。パン!もし覚知に交われば証則にあらず。本当の在り様の中には、分かるとか知ったとかって言うものは一切交わらない様になってる、とおっしゃってる。要らん事です。

迷情およばざるがゆゑに、とある。人の迷うとか迷わないって言う様な気持なんか、全くそこに寄り付く島もない。それ位はっきりしてるじゃん。ねぇ。そう言う様な事が恁地と言うのでしょう。そのように捉えないと、その様な処で味わわないと、この事は分からないぞ、と言ってるのね。誰にでもそうでしょう。こう言う事はあるに違いない。恁地捉始得なきにあらず。誰にでもそう言う事はある、行われてますよ。

「たゞし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。」親しい時にはですね、向こうとこっちと一緒になるなんて事が有りえようが無い。親しいと言う時には、初めっから向こうとこっちって言う事が無いんだよ。それを親しいと言うのでしょう。ところが、一般に親しいって言うのは、向こうを立て、こっちを立てて仲良くするって言う様な事が、親しいと思ってるから。本当に親しいって言う時には、向こうもこっちもないね。そう言う一線を画する物が一切なしに居る様子が親しく居ると言う事ですよね。

皆さん自分自身の事って言うけども、全てのこう言うありとあらゆる物と生活してるけど、何時でも一線を画してなんかいないじゃない。いきなりその周りの環境と打ち解けてって言うか。いきなりこの中に入ってくると、このものが自分の今の様子に全部溶けてしまって、そういう風にして味わってるでしょ。この部屋に入って来たら、いきなりこの部屋の様子が今の在り様として、別に有るんじゃないって事よく分かるでしょう。

だけどもしつこいのは考え方ですよね。考え方は。だから、悟りと言う事、自覚と言う事がどうしても必要じゃないですか。本当に自分のそう言う自他の見が取れてる境涯に触れるって言う事が無いと、自分の考え方で自他は無いって言って決めたって、無理だよね。隣見たら自分じゃない人が居るんだもん。自他は無いったって。一度でいいからそうやって、そう言うものすっかり離れた処へ、こうやって触れてみると、ものがはっきりするでしょう。

「虚空と虚空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、」大空と大空、虚空と虚空でもいいですが、そう言うものが一緒になってると言う事はですね、無いって、最初から。街を歩いてても其処の街の様子と、何時自分が一緒になるかって、ずーっと歩いてても、その街の様子と一緒になった事を知らずにずーっと街を歩いてる。

そう言う時を見ると「いまだみづからの費力をからず。」って。からずですね。費力をからずって言う。力を費やすことをからない。自分の方で何かそうやって努力をして、その様になって事は一切用いないって事じゃない。

こうやって、襖にこうやって目を向けた時に、どうしてこの襖の様に、こうやって襖が其処に有る様に見えるかって言う時に、一切自分の力を費やしてですね、襖をその様にって、一切そう言う見方を使わないのに、こうやっただけで、その通り襖の通り、色、形、皆その通りこう何処へ向かっても皆そう言う風になってるじゃん。

これ日常ずーっとそうですよ。人間同士でもそう。こんなに隔て無く、仲良く生活が出来てる。争った事なんか一度も無いじゃない。それ誰しもの本質ですよ。知らないんだよ。自分たちは殆ど。だからあいつがとか、何だとか、すぐ言うじゃない。そんな事じゃないんだよ、学ぶのは。不思議でしょう。何も力を費やさないって。

道元禅師がおっしゃってるからね。お任せしときます。道元禅師に。私はちょっと日本語が日本人に通じる様に、こう読んでいきますね。

「おほよそ尽界には、容虚空の間隙なし」何処かに穴が空いてて、隙間が有って、其処に何かを入れるって言う様な隙間なんか何処にも無いよね。時間だってそうでしょう。今こうやってる中に、凄い時間を何か差し挟むなんて言う事は一切ない。間隙無し。行事同刊とかって言う様な言葉もあるね。一円相と言う様なものを書く人も居る。切れ目が無いって言う様な事でしょう。

だけども、「この一段の因縁ひさしく虚空の霹靂をなせり。」だけども、石鞏と西堂の話を聞くと、雷に打たれた様な位の衝撃が皆さん方に、このこんな短い話の中にですね、あるんじゃないですか。だからこう言う話が伝わっているのでしょう。残してるのでしょう。私達はそう言う物を参話として、教材として、自分自身の在り様を、こうやって学ぶのでしょう。別に石鞏と西堂の話を聞くんじゃなくて、自分自身の生活してる中に、なるほど本当にそうだって気づくべきでしょう。何処が自分の中で、真実の在り様とずれてるかって言う事でしょう。受け取り違いをしているか。

虚空 Ⅱ

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「石鞏道の『汝還解捉得虚空(なんぢまた通身是手現眼なりやと問著すべし。』」言い換えると、それはって言う事でしょうね。身体全体が手の様だって言うんでしょう。手探りって言うんだけど、手の先にこうやって触れると感じるって言うのは、まさに手眼、手についてる眼なんですよ。こうやってやるとザラザラしてるのとすべすべしてるのとが、皆こうやってわかる。あたかも眼で物を見てる様に、こうやって手で触ると分かるって、そう言う事でしょうね、「通身是手眼」

一日の様子を見ると、この手がですね、千手観音の様に、千本以上の大きな働きをしてる訳でしょう。ねぇ。あれだけ色んな物にこう触るんだけど、触った物が何処にもない。だから次々触っても、何時でもその事がきちっと分かる。こうやって触ったら離れられないと、次の時困る。取るのに困る。そんな事はないねぇ。そう言う風に虚空を扱ってる訳でしょう。

「西堂曰、『解捉得』」捉かむ事がわかりました、どう言う事かって言う。「虚空一塊触而染汚なり。」下にも書いてある。一塊で切れ目の無い。虚空にこうやってお互い居たって、何処から何処までが自分の様子って言って、どっかに切れ目がある人居る?無いでしょう?え? 不思議ですね。「捉すれば即ち染汚なり」って言う事は、その物に触れると、必ずその物の通りにこう変化して行くって言う事じゃやない。

黄色い菊の花にこうやって触れると、赤いこっちの花の色に触れると、必ず染汚と言われる、その通りの色に染まる様になってるじゃない。黄色い物に触れても赤いままで居るなんて、そんな事はない。こんなに、何だろう、穏やかに、和やかに、無理をせずに、仲良く、一つも争わずに生活してるって言う事でしょう。それ皆さんの様子でしょう。

「染汚よりこのかた、虚空落地しきたれり。」そう言う自分の活動してる様子そのものにこうやって触れてみると、成る程って自分の考えてた事と違う。空が地面におっこって来たって言う所もある。虚空落地って。ねぇ。本当に自分の様子に触れて、自分の様子がどうなってるか胸落ちがすると言う事でしょう。はっきりすると言う事でしょう。良いじゃん。他の人の事じゃないもんだから、大騒ぎしなくても静かにそのままで。それで変わるんだもん、良いじゃない、自分で。

「石鞏道の『汝作麼生捉』喚作如々、早是変了也(喚んで如々と作すも、早く是変じ了りぬ)なり。」理解するよりも、ああそうだ本当にそうだって、一々理解するよりもこっちの事実の方がもっとスピーディで問題なくやれてるんでしょう。こうやって見ると分かるじゃん。ああ一々こうやって触れるとその通り成ってくなあって、そんな理解するよりも、もっと確かな事を、ちゃんと今やれてるじゃん。

「しかもかくのごとくなりといへども、」そう言う風になってるのに、って言っておりますがどうですか。「随変而如去也(変るに随がひて如にして去る也)なり。」本当にここの書いてある通りじゃないですか。エー。変わるに従いって。向こうの様子に触れる事によって、否応なしそう言う風になって行くのでしょう。これがもしそうならなかったら、その辺歩けませんよ。自動車なんか乗ってられませんよ。危なくて。必ずその通り、今の触れてる、自分の触れてる様子の通り変わって行くのでしょう。否応なし。それで安全性が保てるのでしょう。それ毎日実践してるんでしょう。

ここで、今自分の様子の中で、そう言う事がずーっと行われてる。こんな所に仏法の真髄が有ると思わないもんだから、見ないじゃない。で、修行するのに、まず仏道を学ぶって言う事は必ず自分を学ぶ事だって言う事は、鉄則なんですよ、ものを学ぶのに。他に用がない。

「西堂以手撮虚空(西堂、手を以て虚空を撮す)。」西堂と言う人は、虚空をどの様にして捉えるのかと言われた時に、こうやってやったのでしょう。ねぇ。その事が此処にまた取り上げられている。ただ虎の頭にのること会して、いまだ虎の尾っぽを捕まえる事を知らない。分かっているんだけど、分からないって言う事でしょう。エー。少しばかりどっか分かった様な気がするけど、本当には良くわからないって言う事でしょう。

兄弟子が言うのに、『汝不解捉虚空(汝虚空を捉せんことを解ぜず)』。兄弟子は弟弟子の西堂に対して、なんだちゃんと修行してるのかと思ったら、その程度かって言ってるのでしょう。道元禅師は、「たゞ不解捉のみにあらず虚空也未夢見在なり。」道元禅師は厳しい表現をしてますね。捉かむ事が出来ないだけじゃなくて、本当に虚空って言う事がどう言う事かも、全く分かってない。

「しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、不欲伊挙似(伊が為に挙似せんと欲わず)」。年代深遠、時が経ってると言う事でしょう。年代深遠。遠い昔の事。伊が為に取り挙げてどうこうしようとは思わない。「西堂曰、『師兄作麼生捉(師兄作麼生か捉する)』。」こうやって聞く力があるっていいですねぇ。おまえ虚空を捉む事しらんなあって言われた時に、ちゃんと兄弟子に、じゃあなたはどう言う風に虚空を捉むんですかって。聞いてみたいじゃない。そう言うもんでしょう。

だけど、聞くべき、聞かなきゃならない、聞くべき質問が出来ない人がいるじゃんね「。何しに来たんですか。」エー?って。「ちょっと待ってください、考えますからって。」質問を考えてする様な人もいますよ。「坐りに来たんですけど」って。「あ、そう坐りに来たの? じゃ坐ったら」って言って。本当は坐りに来たって言うんだけど、どう言う風にして坐るのか分からないから来てる筈なんだよね。そうじゃないですか。

この位の事は、大体絵を見たりなんかしてね、坐るってイメージはあるじゃないですか。だけど、こんな事、本当は何するんだろうって、知りたいんじゃないですか、本当は。坐りに来て何で聞かないんだろうね。偉いね、この兄弟弟子。こうやってお互いに研鑽して切磋琢磨してる。分かった? いやよく分かりません、それで終わっちゃう。よく分かりません、それで終わっちゃう人が多いのでしょう。。

お店に行って出された物あって、買いたい物ここに無いんだけどって言って、で、隣の店に行くのか、何か他に有りませんかって聞く力があるのか、或いは此処に無いんだったら、あなたどっかで紹介してくれるお店があるのか、色々聞く力はあるんだけど、それを駆使出来ないって言う。こちらに力が無いと言う事もあるし、本当に何をしてるんだろう、これは。何をしようとしてるんだろう、自分が今。ウロウロ色んな所に行くんだこれけど。

「(和尚也道取一半、莫全靠某好(和尚も也た一半を道取すべし。全く某好に靠ること莫かれ)」 これ道元禅師です。「和尚も也た一半を道取すべし。)、全く某好に靠ること莫かれ。」なり。

人に聞いてどうするのって、自分の事を。こうやって見てて、あなたどう言う風に見えますかって、人に聞いてどうするの。自分の今こうやって触れて見てる様子があるんじゃないのか、そっちの方が大事じゃないの。

あなたこれ飲んだらどんな味がするって聞いて、それ聞いた味が、こんな味がするあんな味がするって聞いて、要するにどう言う事かって言うとですね、幾ら聞いて理解しても、真味って言うものは、本当の味って言うのは味わえないじゃんね。本当の味を味わうんだったら、間違いなく、自分が今こうやって飲んでる事に拠るのでしょう。他の人が飲んでるの聞いたってしょうがないでしょう。そう思わない ?

そう言う事ですね、道元禅師がおっしゃってるの。その二人のやり取りの間に道元禅師が割り込んで来て、ご自分の意見を述べておられる。こうやってね。

『石鞏把西堂鼻孔拽(石鞏、西堂が鼻孔を把りて拽く)』。って言うんですかね。だからそこで兄弟子の石鞏は西堂の鼻を掴んで思い切って捻り上げた。不意打ちだからね。生半可な事だと、人間てね思いが吹っ切れないんだね。そう言うもんでしょう。

だから叩いてはいけないって、今言われるけども、人を救う時に一番身近なものとして、何やってんだって、ピャーっと叩かれると、ふっと思いを吹っ切れて我に返る。そう言う事があるじゃない。けど、ものを知ってる人が使わなければ、気狂い(言葉が悪いかもしれない)に刃物って言う様な使い方をする様にですね、危ないですよ。叩くって言う事は、間違いなく勧める様な事じゃないですよ、やたらに。この位じゃね、あんまりひっけしない。何やってんだって言われる。何やってんの。思わず自分の事を痛さで忘れる。そう言う処に、こう面白いところがある。

「しばらく西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。」と言う事はそう言うことじゃない。捻られた痛さだけがあって、捻ってる石鞏って言う兄弟子の事、一切そこに出て来ない。一般的にはそうじゃなくて、相手が出て来ますよ。見ている自分もいます。相手が出て来る間は、叩いたとか叩かれたとかって言う事が問題になってます。必ず問題に。

本当にうまく叩いた時には、叩いた人なんか其処に出て来ない。皆さんが何処かに思いきってぶつかった時でも、痛いって言う時に、向こうの物が出て来る人なんかないじゃない。ぶつかった物が出て来るのではなくて、ゴツンでしょう。それは腹が立たない証拠じゃないですか。ぶつかった物が出て来ると腹が立つじゃないですか。そう言う風になってるんですよ。面白いね、これ。

これが「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり」って言う様な表現、道元禅師がおっしゃっておられる。「あるいは鼻孔を石鞏曳くの道現成あり。」鼻を引っ張ってるって言う事が、石鞏の様子でもあるのね。「しかもかくのごとくなりといへども、虚空一団、磕著築著なり。」不思議だね。向こうとこっちというのが消えるんだよね。

これ普通に科学的とか物理的とか、人間の機能的な話をすれば、物が見えるって言う事は、向こうに有る物と、こっちに居る人がですね、光の粒が人間の網膜に映って達した時に初めて、色が感知されて、色が感知される事によって、映像に変わって来る様な事が起こるって言う事でしょう。必ず一緒にならないと物が見えないし、聞こえないし、味がしないし、触ってるって言う事だって、一緒にならなければ触るって言う事にはならない。一緒になると向こうとこっちって言うものは必ず消える。

だけども頭の中は、向こうとこっちの物が一つになったって言う風に見てる。そう言う範囲でしかものを扱わないから、ここの真相まで届かないって言う事じゃんね。こう言う事が、さっきの巻で言うと、大慧の宗杲さんの智慧の範囲じゃない。祖師方の智慧の範囲って言うのは、これ一緒になった処の様子にいるじゃない。だから伺い知る事が出来ないじゃない。別々にいる境涯で、一つになった境涯がどうなるかって言う事は、無理じゃん。

考え方の籠の中にいる人がですね、外へ出た時にどうなるかって結論付けても、外に出る事は無理じゃないですか。出てみないと。どんなに考えたって、籠の中にいる範囲の考え方をしているって言う事じゃんね。だから修行本当にしないと役に立たないと言う様な事が、こう言う処に出て来るでしょう。磕著築著、手当たり次第ですかね。磕著築著。その辺で。ちょっと時間過ぎたけど、ここまで。