虚空 Ⅵ
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虚空_Ⅵ_01
虚空_Ⅵ_02
虚空_Ⅵ_03
虚空_Ⅵ_04
虚空_Ⅵ_05
虚空_Ⅵ_06
もう一つ二十一祖婆修盤頭さんのものが上げてあります。
『心同虚空界(心は虚空界に同じ)
示等虚空法(等虚空の法を示す)
証得虚空時(虚空を証得する時、)
無是無非法(是も無く非法も無し)』
ま、言えば一つ本性の様なものでやってみてもそうでしょう。パン!(打掌)心は虚空界に同じ。何処がどうなったんでしょう。パン!こうやった時に、ですね、何処がどうなったんですか。パン!こうやった時に。これだけの身体があるけど、何処で聞いてるのでしょう。パン!どうなったんですか。パン!パン!エー。一塵も動かさず、一相をも破らず。何にも何処もなんともないよ。だけど、こんな、パン!こんなに成るんだよ。不思議でしょう。
心は虚空界に同じ。虚空と等しき時法を示すべし。等虚空の法を示す。ねぇ。皆さんこうやって虚空を証得した時、是もなに非法も無し。仏法だと思わないでしょう。パン!こんな事が。自分の生きてる真実だと思わないでしょう。仏法って他にある訳じゃないですよ。
こうやって、パン!こうやった時に、この事自体が仏法の様子なんですよ。こうやってパン!それ、しかも各自、自分自身の様子ですよ。これ。パン!何百人ここに居ようが、必ず自分自身の様子です。他の人の聞いてる様子は一切ない。その時も是もなし非法もなしでしょう。良いとも悪いとも何ともない。只その通りパン!音がするばかり。
物だってそうでしょう。その通りこうやってなるばかり。皆そうでしょう。この身体で。六根全て。六根は清浄なりとあるでしょう。六根清浄。何か残る様なものは六根の中に一つも無い。思いだってそうですよ。何処にも残らないですよ。思った時だけその事がふっと出てるだけですよ。思いの出てない時は、思いがあるとか無いとか問題にする事すら無い。思ってない時は何処にも無いよ。それ位何ともないものなんだけど、出るとすぐ掴む。そう言う悪い癖がある。修行の方法を知らないから。だから心意識の運転を止めるとか、念想観の測量を止めるとか、是非善悪を思わないとか、細かく注意がされてる。
次の処ももうすこし。「いま壁面人と人面壁と、相逢相見する牆壁心・枯木心。これはこれ『虚空界』なり。」壁面人と人面壁と、何だろう。こうやって壁に向かってる時に、向こうから言うのとこっちから言うのとって言う事でしょう。ね。それだけの事でしょう。片一方でものが成り立つ訳ない。人が出会った時に、片一方だけの事は無いもんね。必ず向こうからの様子とこちらからの様子が、それが別々にあると言う事も無いでしょう。こうやった時、そっちの様子とこっちの様子が別々ってそんな事絶対ないじゃんね。必ずどちらから言っても、その様子だけですよ。わかりますか。それが腹の立たないと言う事なんです、本当は。
だけど皆さん方、こうやって向かった時、何だって腹の立つのは、自分のそう言う風に隔ての無い在り方で今触れてる事知らないじゃない。こっちの様子と向こうの様子が違うと思ってるんだよ。そんな事ありっこないでしょう。見て下さい、毎日の生活で。どんな時でも必ずこうやってそのものに向かって触れた時、必ず向こうに触れてる様子と、こっちに触れてる様子が別々にあるなんて事はない。必ず同時ですよ。時間がずれたらこうならないんだもん。触れるって言う事にはならないんだ。
「相逢相見する』鏡に影を宿すがごとし、」とあるじゃないですか。「人の悟りを得る、月の水に宿るがごとし、月濡れず水破らず、」そう言う表現がある。鏡に向かった時もそうでしょう。鏡の中に写ってる様子は外の様子と違ったら、変でしょう。そんな鏡、無いでしょう。必ず鏡の中の様子って、面前の鏡の前の様子でしょう。皆さんそうでしょう。『相逢相見する』ってそう言う事でしょう。
『牆壁心これ枯木心』脚注には何か難しい事が書いてありますよ。いずれも古仏心て。これじゃ分からないでしょう。『牆壁心これ枯木心』と言う事が古仏心て言われたって分からんでしょう。古仏心てどう言うものかってもう一回聞きたくなる。エー。誰でもそうなるって事じゃないですか。どんなものに触れたって必ずそう言う風になる様になってる事じゃないですか。何時の時代でも。世界中のどんな境遇の人でも。そう言うのが古仏心なんでしょう。間違いの無い正しい在り方でしょう。
そこに出会った人の通りにならない人いますか、こうやって。初めてでも必ずそこで出会った人の通りになるのでしょう。そう言うものを本当に自分の様子として大事にしてないでしょう。向こうの人の事だと思ってるもんね。そう言う扱いしかしないじゃない。こう触れた時、向こうの人の様子だって、そう言う風にしか見てない。そうじゃない、それが自分自身の今の在り様なんですよ。自分自身の内容なんでしょう。
それを説明するために、宝鏡三昧の様な事があって、鏡の中はそうなってるでしょうって言う訳でしょう。自分自身の内容って、皆外のものが写ってる、それが自分の中の内容じゃないかって言うのでしょう。毎日生活したってそうじゃない。自分の外に有るものだと思ってるもの、皆自分の内容なんでしょう、生活してる時。だけど知らない人は、やっぱり向こうの事だって、ずーっとそう言う風に見てるから問題になってるんでしょう。まあそう言う風な事があるじゃんね。
「応以此身得度者、即現此身、而為説法」これは観音経かなんかあるのかな。どこかで読んだ事ないですか。以身得度者とは何を言わんとするのか。その物を以てその物を示す以外に、その物を示す方法は無いって言う事でしょう。ね。それが一番適切な方法なんでしょう。その物を本当に示したかったら、その物を以てしたら、必ずその物が分かる様になってる。
皆さんが学ぶんだってそうでしょう。薔薇の花がどう言うものかったら、薔薇花に触れると、薔薇の花が教えてくれるでしょう、どうなってるか。皆そうでしょう。一々その物がその事を教えてる。ねぇ。他の物でその事を学ぶって言う事はないじゃない。どんな物でもそう。良い事でも悪い事でも。正しい事でも間違ってる事でも、必ずその事によってその事を学ぶからはっきりするのでしょう。
間違っている事が間違ってるとわかる人は、利口な人だと言われるのでしょう。悪い事が悪い事だと気がつくと、人は正しく生きられる様になるのでしょう。他のものを以て正す必要が無いのでしょう。だから反省出来ない人は、自分のやった過ちに気がつかないじゃないですか。そう言う人は中々保釈されませんよ。外へ出したら、だって自分のやった事がどう言う事だったか分からないから、又同じ事をするじゃん。ああこう言う事がこう言う風になって、これはいけない事なんだって言う事が分かると、改心出来るのでしょう。ねぇ。
「応以他身得度者、即現他身、而為法説これ『示等虚空法』なり。」今申し上げた通り、その事がその事を本当に説いてるじゃないですか、どれでも。だけどいつ頃から、人間は何か比べる物が無いと、物が分からないって言う風な理解をしてる人が多いですよ。あれ何だろうね。比べる物を持ってきて、物が分かる様に思うのは何だろう。何が分かるんだろう。その物が分かるんじゃないよね。その物を知るのに、他の物を持って来る用がないんだもん。そうなってませんか。
今こうやって生活してる時に、何か他のものを以て来なきゃならないって思う人の方が変じゃないですか。そうやってやるからおかしくなるんじゃないですか。なんでそう言う気が起きるんでしょうか。今こうやって生活してる時、まだ足りない様な気が何で起きるのでしょう。『示等虚空法』とあるけど、その虚空に等しい真実と全くずれない内容が示されているって言う事がよく分からないから、足りないと思うのでしょう。
じゃどう言う事かと言ったら、今の様子に本当に目を向けて、そのものの内容を自分ではっきりさせる、そう言う力がないって言う事だけじゃないですか、問題は。迷うとか苦しむとか色んな事を表現するけど、それ何かったら、今の様子が自分ではっきりしないって言う事だけじゃないですか、内容は。
じゃもっと言うと、何でそうやって今の様子がはっきりしなくなるかって言うと考え方を入れて見るからでしょう。実物には人間の考え方なんか一切付いてないですよ。何回も申し上げるけど。事実には人間の見解なんて一切付いてない。善し悪しなんて。是非なんて一切付いてない。そう言う風にしてストレートに触れてみないと、ものの真相は分からないじゃないですか。それ、だから坐禅するのでしょう。人間の見解を離れて事実そのものにこうやって親しく居てみるのでしょう、自分自身。
そうやって坐るんでしょう。その自分の見解を付けてない自分の今の在り様そのものにこうやって居てみるから、自分の事がはっきいりするのでしょう。坐るってそう言う事やってるんでしょう。ただ形を作って、そこに時間が過ぎたら終わる様な坐禅は、坐禅じゃないよね。話にならない。そんな事で済むなら、別に修行する用ない。
「被十二時使、および使得十二時」時間に使われる人、時間に追いまくられている人と時間を有効に使う人って言う様な表現ですね。皆さんはどっちの人か。同じ時間の中に居て、時間に追い回される人と、時間を有効に使える人って言う様な事がここに上げられるんでしょうね。
これ趙州禅師の言葉ですね。趙州禅師は、私は時間に使われた事はない、何時も時間を有効に使って生きてる。忙しくてしょうがないとか何か言ってる人達は、あるいは時間が無くてとか色々言ってる、そう言うのはこの非十二時使ですね。使得十二時は十二時を使い得たりとある。「『これ証得虚空時』なり。」虚空を証得する時なりって言うんでしょうね。『証得虚空時』本当にものがどうあるかと言う様な事が、はっきり自分でする。
「石頭大底大、石頭小底小、」大きいな石は大きい。小さい石は小さい。何の事はない。何だって、それが何だって。とことん突き詰めたら、そう言う事でしょう。「『無是無非法』なり。」本当にそうでしょう。大きい石は大きい、小さい石は小さい。良いとも悪いとも無いね。どっちが正しいとか正しくない、そんな事はない。本当に。それで良いのでしょう。邪魔にならないでしょう、それで。条件があって、条件にかなうかどうかの時には、十分それに対応して行けば良いことで。大きな石が欲しかったら。大きな石を持って行くし、小さな石が必要だったら、小さな石を使えば良い。
「かくのごとくの虚空、しばらくこれを正法眼蔵涅槃妙心と参究するのみなり。」こんなにですよ、正法眼蔵、涅槃て言うのはお悟りの世界でしょう、涅槃。悟りの世界って言う事は、救われている、迷われない、苦しまない。妙心て言う事は妙なる心だから、絶妙な働きをするって言う事でしょう。余分な事を考えなくたって、人と出会った時に必ず其処で活動が始まるでしょう。
早い話が、お友達が余命一ヶ月持つかねぇ、とかって言って、病状を友人がこう伝えて来て、暫く行ってないけどそんなに悪いのかって、聞かされて、行くまでに、もう頭の中に一杯色んな事が思い浮かばれて、そうすると、八割方は二の足を踏むね。なんと言って顔を出したら良い、何を話たら良いだろう、それ位、それはもう困ってますよ。涅槃妙心だから、このままこの身体を其処へ運んで行けばですね、ちゃーんと対応が出来る様になってる。
で、胡散臭い様な顔をして行ったら、駄目じゃん。矢っ張り俺死ぬのかなーって思う様な事を印象づけるだけだから。エー。そんな事のために来て欲しくないじゃん、誰も。あの人と会うと気が晴れるとか、気持ちが良いとか、楽しいとかって思わせる様な面会をすべきじゃない。それがこっち側の在り様でしょう。本人よりもこっちの方が悲痛になって、こんなになっちゃって、こんなになって、どうするんですか。見舞いにも何にもならない 。
又来てよって言われる様な見舞いに行くべきじゃない。楽しかった、又来てって。それは本当に何も用ないですよ、こっちに。あすこに行ったらこおれもしてやろう、あれもしてやろうって言う様なものを持って行ったらですね、本人と親しく会話をするなんて事は出来ない。只自分の思いを遂げて来るだけ。で、良く出来たと思って自分で○付けてるだけ。そんなつまらない生き方は駄目。涅槃妙心になんかとてもならない。
だって眼だって、さっきから話す様に、自分の方で何にも構えないのに、そこへ行ったらその通り、何時でもどこへ行ったってその通りになるんだもん、良いじゃない。こんなに難しいもの、こんなに複雑そうなものって言ったって、見るのに何の苦もなく何ともないんだもん。
こんな難しい話は聞いてられないって、思う事とは違いますからね。其処に居れば、否応なしにちゃーんと聞ける様に出来てる。で、終わればそれで済むもん。皆さん終わってから、あの事はこの事がって、それを持ち出して家の中で争いが始まる。あれが涅槃妙心だったら大変です。あれは涅槃妙心じゃない。あんなつまらない事してどうするんだろう。
「のみなり」って言うのは、本当にその時その事をやってるだけって言う事でしょう。「のみなり。」ピヨンピヨン跳ねるやつじゃないですよ。言っときますけど。痒いとかって言うあれじゃないですよ。「のみなり。」
生きてるって言う事は、本当にその時にその事が展開されるだけで、皆終わってく。自分の好き嫌いを遙かに超えて。もう否応なしで終って行く。どうしてそれだけに居れないんだろうね。それは考え方が強いからでしょう。事実を自分の思う通りにしようなんて言う傲慢なものの考え方を持ってるって言う事は大変な事じゃないですか。
皆そんな考え方で居たら、それは混乱するに決まってますよ。こんなに世の中が進んでもですよ、最後に困るとですね、人間は智恵があってですね、グーチョキパーで、これだけでですね、決着をつける。これだけねぇ頭が進んで、文化が進んで、文明が進んで、色んな物も凄い進んだ筈なのに、最後は困るとこんな単純な事で決めるんだよ。
これに対して何も文句言わないんだよ。この決まりの通りでこうやると、はいって言って。何だろう。これは法に従うだけじゃないですか。ルールに。グーに勝つのはパー、パーに勝つのはチョキって決めてあるから、その法に従がったもので、否応なし皆さんが納得するんです。こんなに素直にルールが決まってる。仏法の代表的なものでしょう。大の大人がやるんですよ、それを。笑っちゃうじゃない。
だけど皆さんが生活してるのは、そう言う風にこのものの在り様はなってますよ。見てごらん。眼耳鼻舌身意、人間の働き、全てそう言う風になってる。
と言う様な事で。これが、この虚空の巻きが説かれたのは、ここにもある様に、道元禅師が四十六歳かな、五歳かな、現在の永平寺は、この頃大仏寺と言う風に言われていた。最初に大仏寺で説かれたものだと、奥書があります。ね。そう言う、それで先程、「大仏まさに」とか何か言う道元禅師の名前、ご自身をそうやって上げておられる、そう言う巻きです。晩年の方ですね。五十四歳だから、そんな晩年でもないか。短い巻きですね。以上で虚空の巻きは終わります。
正法眼蔵沢山あるもんだからですね、一巻ずつ終わって行くとですね、まだ有るって言う風に勉強しないで下さい。これがあの振り返ってみればですね、当時の方々はですね、その巻き、その巻きしか聞いてないんですよ。他の巻きは一切無い。それだけ。そこで聞いてそれで終わり。そうやって勉強した筈なんですよ。ところが今日の人達は九十五巻とかって有ると思ってるから、九十五巻の中の一巻を今勉強してるって、そうやって思ってるじゃん。
全然違いますよ。そんな風にして当時の人は聞いた人は一人も居ない。今の学者もそう言う人多い。皆さんが生活するんだってそうでしょう。必ず今の事だけで生活するじゃないですか。エー。あとは酷い事を言えば、思い起こす能力があって、それを盛んに思い起こす事やって、そっちの方を大事にしてる。本当は今こうやって触れている事実の方に私達は学ぶ必要があるんじゃないですか。
正当即今、「恁麼の事を得んと欲せば、すべからく恁麼人なるべし。」必ずその事が問われてる。而今の山水とか説かれてる。必ず今の事が問われる。人間の一番弱点て言うか、一番の欠陥は、恐らく今触れていながら、今の事を、本当にこう相手にしないって言う処が、人間の一番愚かな事じゃないですかね。それを本当に教えてくれたのが釈尊でしょう。それが只管打坐と言われる過ごし方でしょう。諸法の実相に参ずるともあります。
まあ年明けだから、少しそう言う、ものを学ぶ時の在り様って言うものについて少しお互いにもう一回点検してみて頂けたらと思う訳です。終わります。(虚空の巻き終り)
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もう一つ二十一祖婆修盤頭さんのものが上げてあります。
『心同虚空界(心は虚空界に同じ)
示等虚空法(等虚空の法を示す)
証得虚空時(虚空を証得する時、)
無是無非法(是も無く非法も無し)』
ま、言えば一つ本性の様なものでやってみてもそうでしょう。パン!(打掌)心は虚空界に同じ。何処がどうなったんでしょう。パン!こうやった時に、ですね、何処がどうなったんですか。パン!こうやった時に。これだけの身体があるけど、何処で聞いてるのでしょう。パン!どうなったんですか。パン!パン!エー。一塵も動かさず、一相をも破らず。何にも何処もなんともないよ。だけど、こんな、パン!こんなに成るんだよ。不思議でしょう。
心は虚空界に同じ。虚空と等しき時法を示すべし。等虚空の法を示す。ねぇ。皆さんこうやって虚空を証得した時、是もなに非法も無し。仏法だと思わないでしょう。パン!こんな事が。自分の生きてる真実だと思わないでしょう。仏法って他にある訳じゃないですよ。
こうやって、パン!こうやった時に、この事自体が仏法の様子なんですよ。こうやってパン!それ、しかも各自、自分自身の様子ですよ。これ。パン!何百人ここに居ようが、必ず自分自身の様子です。他の人の聞いてる様子は一切ない。その時も是もなし非法もなしでしょう。良いとも悪いとも何ともない。只その通りパン!音がするばかり。
物だってそうでしょう。その通りこうやってなるばかり。皆そうでしょう。この身体で。六根全て。六根は清浄なりとあるでしょう。六根清浄。何か残る様なものは六根の中に一つも無い。思いだってそうですよ。何処にも残らないですよ。思った時だけその事がふっと出てるだけですよ。思いの出てない時は、思いがあるとか無いとか問題にする事すら無い。思ってない時は何処にも無いよ。それ位何ともないものなんだけど、出るとすぐ掴む。そう言う悪い癖がある。修行の方法を知らないから。だから心意識の運転を止めるとか、念想観の測量を止めるとか、是非善悪を思わないとか、細かく注意がされてる。
次の処ももうすこし。「いま壁面人と人面壁と、相逢相見する牆壁心・枯木心。これはこれ『虚空界』なり。」壁面人と人面壁と、何だろう。こうやって壁に向かってる時に、向こうから言うのとこっちから言うのとって言う事でしょう。ね。それだけの事でしょう。片一方でものが成り立つ訳ない。人が出会った時に、片一方だけの事は無いもんね。必ず向こうからの様子とこちらからの様子が、それが別々にあると言う事も無いでしょう。こうやった時、そっちの様子とこっちの様子が別々ってそんな事絶対ないじゃんね。必ずどちらから言っても、その様子だけですよ。わかりますか。それが腹の立たないと言う事なんです、本当は。
だけど皆さん方、こうやって向かった時、何だって腹の立つのは、自分のそう言う風に隔ての無い在り方で今触れてる事知らないじゃない。こっちの様子と向こうの様子が違うと思ってるんだよ。そんな事ありっこないでしょう。見て下さい、毎日の生活で。どんな時でも必ずこうやってそのものに向かって触れた時、必ず向こうに触れてる様子と、こっちに触れてる様子が別々にあるなんて事はない。必ず同時ですよ。時間がずれたらこうならないんだもん。触れるって言う事にはならないんだ。
「相逢相見する』鏡に影を宿すがごとし、」とあるじゃないですか。「人の悟りを得る、月の水に宿るがごとし、月濡れず水破らず、」そう言う表現がある。鏡に向かった時もそうでしょう。鏡の中に写ってる様子は外の様子と違ったら、変でしょう。そんな鏡、無いでしょう。必ず鏡の中の様子って、面前の鏡の前の様子でしょう。皆さんそうでしょう。『相逢相見する』ってそう言う事でしょう。
『牆壁心これ枯木心』脚注には何か難しい事が書いてありますよ。いずれも古仏心て。これじゃ分からないでしょう。『牆壁心これ枯木心』と言う事が古仏心て言われたって分からんでしょう。古仏心てどう言うものかってもう一回聞きたくなる。エー。誰でもそうなるって事じゃないですか。どんなものに触れたって必ずそう言う風になる様になってる事じゃないですか。何時の時代でも。世界中のどんな境遇の人でも。そう言うのが古仏心なんでしょう。間違いの無い正しい在り方でしょう。
そこに出会った人の通りにならない人いますか、こうやって。初めてでも必ずそこで出会った人の通りになるのでしょう。そう言うものを本当に自分の様子として大事にしてないでしょう。向こうの人の事だと思ってるもんね。そう言う扱いしかしないじゃない。こう触れた時、向こうの人の様子だって、そう言う風にしか見てない。そうじゃない、それが自分自身の今の在り様なんですよ。自分自身の内容なんでしょう。
それを説明するために、宝鏡三昧の様な事があって、鏡の中はそうなってるでしょうって言う訳でしょう。自分自身の内容って、皆外のものが写ってる、それが自分の中の内容じゃないかって言うのでしょう。毎日生活したってそうじゃない。自分の外に有るものだと思ってるもの、皆自分の内容なんでしょう、生活してる時。だけど知らない人は、やっぱり向こうの事だって、ずーっとそう言う風に見てるから問題になってるんでしょう。まあそう言う風な事があるじゃんね。
「応以此身得度者、即現此身、而為説法」これは観音経かなんかあるのかな。どこかで読んだ事ないですか。以身得度者とは何を言わんとするのか。その物を以てその物を示す以外に、その物を示す方法は無いって言う事でしょう。ね。それが一番適切な方法なんでしょう。その物を本当に示したかったら、その物を以てしたら、必ずその物が分かる様になってる。
皆さんが学ぶんだってそうでしょう。薔薇の花がどう言うものかったら、薔薇花に触れると、薔薇の花が教えてくれるでしょう、どうなってるか。皆そうでしょう。一々その物がその事を教えてる。ねぇ。他の物でその事を学ぶって言う事はないじゃない。どんな物でもそう。良い事でも悪い事でも。正しい事でも間違ってる事でも、必ずその事によってその事を学ぶからはっきりするのでしょう。
間違っている事が間違ってるとわかる人は、利口な人だと言われるのでしょう。悪い事が悪い事だと気がつくと、人は正しく生きられる様になるのでしょう。他のものを以て正す必要が無いのでしょう。だから反省出来ない人は、自分のやった過ちに気がつかないじゃないですか。そう言う人は中々保釈されませんよ。外へ出したら、だって自分のやった事がどう言う事だったか分からないから、又同じ事をするじゃん。ああこう言う事がこう言う風になって、これはいけない事なんだって言う事が分かると、改心出来るのでしょう。ねぇ。
「応以他身得度者、即現他身、而為法説これ『示等虚空法』なり。」今申し上げた通り、その事がその事を本当に説いてるじゃないですか、どれでも。だけどいつ頃から、人間は何か比べる物が無いと、物が分からないって言う風な理解をしてる人が多いですよ。あれ何だろうね。比べる物を持ってきて、物が分かる様に思うのは何だろう。何が分かるんだろう。その物が分かるんじゃないよね。その物を知るのに、他の物を持って来る用がないんだもん。そうなってませんか。
今こうやって生活してる時に、何か他のものを以て来なきゃならないって思う人の方が変じゃないですか。そうやってやるからおかしくなるんじゃないですか。なんでそう言う気が起きるんでしょうか。今こうやって生活してる時、まだ足りない様な気が何で起きるのでしょう。『示等虚空法』とあるけど、その虚空に等しい真実と全くずれない内容が示されているって言う事がよく分からないから、足りないと思うのでしょう。
じゃどう言う事かと言ったら、今の様子に本当に目を向けて、そのものの内容を自分ではっきりさせる、そう言う力がないって言う事だけじゃないですか、問題は。迷うとか苦しむとか色んな事を表現するけど、それ何かったら、今の様子が自分ではっきりしないって言う事だけじゃないですか、内容は。
じゃもっと言うと、何でそうやって今の様子がはっきりしなくなるかって言うと考え方を入れて見るからでしょう。実物には人間の考え方なんか一切付いてないですよ。何回も申し上げるけど。事実には人間の見解なんて一切付いてない。善し悪しなんて。是非なんて一切付いてない。そう言う風にしてストレートに触れてみないと、ものの真相は分からないじゃないですか。それ、だから坐禅するのでしょう。人間の見解を離れて事実そのものにこうやって親しく居てみるのでしょう、自分自身。
そうやって坐るんでしょう。その自分の見解を付けてない自分の今の在り様そのものにこうやって居てみるから、自分の事がはっきいりするのでしょう。坐るってそう言う事やってるんでしょう。ただ形を作って、そこに時間が過ぎたら終わる様な坐禅は、坐禅じゃないよね。話にならない。そんな事で済むなら、別に修行する用ない。
「被十二時使、および使得十二時」時間に使われる人、時間に追いまくられている人と時間を有効に使う人って言う様な表現ですね。皆さんはどっちの人か。同じ時間の中に居て、時間に追い回される人と、時間を有効に使える人って言う様な事がここに上げられるんでしょうね。
これ趙州禅師の言葉ですね。趙州禅師は、私は時間に使われた事はない、何時も時間を有効に使って生きてる。忙しくてしょうがないとか何か言ってる人達は、あるいは時間が無くてとか色々言ってる、そう言うのはこの非十二時使ですね。使得十二時は十二時を使い得たりとある。「『これ証得虚空時』なり。」虚空を証得する時なりって言うんでしょうね。『証得虚空時』本当にものがどうあるかと言う様な事が、はっきり自分でする。
「石頭大底大、石頭小底小、」大きいな石は大きい。小さい石は小さい。何の事はない。何だって、それが何だって。とことん突き詰めたら、そう言う事でしょう。「『無是無非法』なり。」本当にそうでしょう。大きい石は大きい、小さい石は小さい。良いとも悪いとも無いね。どっちが正しいとか正しくない、そんな事はない。本当に。それで良いのでしょう。邪魔にならないでしょう、それで。条件があって、条件にかなうかどうかの時には、十分それに対応して行けば良いことで。大きな石が欲しかったら。大きな石を持って行くし、小さな石が必要だったら、小さな石を使えば良い。
「かくのごとくの虚空、しばらくこれを正法眼蔵涅槃妙心と参究するのみなり。」こんなにですよ、正法眼蔵、涅槃て言うのはお悟りの世界でしょう、涅槃。悟りの世界って言う事は、救われている、迷われない、苦しまない。妙心て言う事は妙なる心だから、絶妙な働きをするって言う事でしょう。余分な事を考えなくたって、人と出会った時に必ず其処で活動が始まるでしょう。
早い話が、お友達が余命一ヶ月持つかねぇ、とかって言って、病状を友人がこう伝えて来て、暫く行ってないけどそんなに悪いのかって、聞かされて、行くまでに、もう頭の中に一杯色んな事が思い浮かばれて、そうすると、八割方は二の足を踏むね。なんと言って顔を出したら良い、何を話たら良いだろう、それ位、それはもう困ってますよ。涅槃妙心だから、このままこの身体を其処へ運んで行けばですね、ちゃーんと対応が出来る様になってる。
で、胡散臭い様な顔をして行ったら、駄目じゃん。矢っ張り俺死ぬのかなーって思う様な事を印象づけるだけだから。エー。そんな事のために来て欲しくないじゃん、誰も。あの人と会うと気が晴れるとか、気持ちが良いとか、楽しいとかって思わせる様な面会をすべきじゃない。それがこっち側の在り様でしょう。本人よりもこっちの方が悲痛になって、こんなになっちゃって、こんなになって、どうするんですか。見舞いにも何にもならない 。
又来てよって言われる様な見舞いに行くべきじゃない。楽しかった、又来てって。それは本当に何も用ないですよ、こっちに。あすこに行ったらこおれもしてやろう、あれもしてやろうって言う様なものを持って行ったらですね、本人と親しく会話をするなんて事は出来ない。只自分の思いを遂げて来るだけ。で、良く出来たと思って自分で○付けてるだけ。そんなつまらない生き方は駄目。涅槃妙心になんかとてもならない。
だって眼だって、さっきから話す様に、自分の方で何にも構えないのに、そこへ行ったらその通り、何時でもどこへ行ったってその通りになるんだもん、良いじゃない。こんなに難しいもの、こんなに複雑そうなものって言ったって、見るのに何の苦もなく何ともないんだもん。
こんな難しい話は聞いてられないって、思う事とは違いますからね。其処に居れば、否応なしにちゃーんと聞ける様に出来てる。で、終わればそれで済むもん。皆さん終わってから、あの事はこの事がって、それを持ち出して家の中で争いが始まる。あれが涅槃妙心だったら大変です。あれは涅槃妙心じゃない。あんなつまらない事してどうするんだろう。
「のみなり」って言うのは、本当にその時その事をやってるだけって言う事でしょう。「のみなり。」ピヨンピヨン跳ねるやつじゃないですよ。言っときますけど。痒いとかって言うあれじゃないですよ。「のみなり。」
生きてるって言う事は、本当にその時にその事が展開されるだけで、皆終わってく。自分の好き嫌いを遙かに超えて。もう否応なしで終って行く。どうしてそれだけに居れないんだろうね。それは考え方が強いからでしょう。事実を自分の思う通りにしようなんて言う傲慢なものの考え方を持ってるって言う事は大変な事じゃないですか。
皆そんな考え方で居たら、それは混乱するに決まってますよ。こんなに世の中が進んでもですよ、最後に困るとですね、人間は智恵があってですね、グーチョキパーで、これだけでですね、決着をつける。これだけねぇ頭が進んで、文化が進んで、文明が進んで、色んな物も凄い進んだ筈なのに、最後は困るとこんな単純な事で決めるんだよ。
これに対して何も文句言わないんだよ。この決まりの通りでこうやると、はいって言って。何だろう。これは法に従うだけじゃないですか。ルールに。グーに勝つのはパー、パーに勝つのはチョキって決めてあるから、その法に従がったもので、否応なし皆さんが納得するんです。こんなに素直にルールが決まってる。仏法の代表的なものでしょう。大の大人がやるんですよ、それを。笑っちゃうじゃない。
だけど皆さんが生活してるのは、そう言う風にこのものの在り様はなってますよ。見てごらん。眼耳鼻舌身意、人間の働き、全てそう言う風になってる。
と言う様な事で。これが、この虚空の巻きが説かれたのは、ここにもある様に、道元禅師が四十六歳かな、五歳かな、現在の永平寺は、この頃大仏寺と言う風に言われていた。最初に大仏寺で説かれたものだと、奥書があります。ね。そう言う、それで先程、「大仏まさに」とか何か言う道元禅師の名前、ご自身をそうやって上げておられる、そう言う巻きです。晩年の方ですね。五十四歳だから、そんな晩年でもないか。短い巻きですね。以上で虚空の巻きは終わります。
正法眼蔵沢山あるもんだからですね、一巻ずつ終わって行くとですね、まだ有るって言う風に勉強しないで下さい。これがあの振り返ってみればですね、当時の方々はですね、その巻き、その巻きしか聞いてないんですよ。他の巻きは一切無い。それだけ。そこで聞いてそれで終わり。そうやって勉強した筈なんですよ。ところが今日の人達は九十五巻とかって有ると思ってるから、九十五巻の中の一巻を今勉強してるって、そうやって思ってるじゃん。
全然違いますよ。そんな風にして当時の人は聞いた人は一人も居ない。今の学者もそう言う人多い。皆さんが生活するんだってそうでしょう。必ず今の事だけで生活するじゃないですか。エー。あとは酷い事を言えば、思い起こす能力があって、それを盛んに思い起こす事やって、そっちの方を大事にしてる。本当は今こうやって触れている事実の方に私達は学ぶ必要があるんじゃないですか。
正当即今、「恁麼の事を得んと欲せば、すべからく恁麼人なるべし。」必ずその事が問われてる。而今の山水とか説かれてる。必ず今の事が問われる。人間の一番弱点て言うか、一番の欠陥は、恐らく今触れていながら、今の事を、本当にこう相手にしないって言う処が、人間の一番愚かな事じゃないですかね。それを本当に教えてくれたのが釈尊でしょう。それが只管打坐と言われる過ごし方でしょう。諸法の実相に参ずるともあります。
まあ年明けだから、少しそう言う、ものを学ぶ時の在り様って言うものについて少しお互いにもう一回点検してみて頂けたらと思う訳です。終わります。(虚空の巻き終り)
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