FC2ブログ

坐禅箴 Ⅷ

音声はこちら ↓

坐禅箴Ⅷ_01
坐禅箴Ⅷ_02
坐禅箴Ⅷ_03
坐禅箴Ⅷ_04

「彫龍」彫った龍ですね、「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」って言うんだけども、じゃ本当の龍ってこの世の中に居るのかって言ったら、普通に考えたら、龍自体が架空の動物ですから、本当にには居ないものです。此処で真龍って何を指すかったら、皆さんの本当の、自分の本当の在り方を指す。それを真龍と指してます。生まれてから後、で自分の考え方を中心にして、彩りをつけたり、色んな事をやっていくものの方を彫龍と言います。どっちが大事かって言うと本物の方が大事だと一応言ってる訳ですね。

これを普通に蛇に例えたら、彫刻の蛇よりも生の蛇の方を相手にした方が、本物がよく分かるということです。絵を見るよりも実物を見るほうが良い。レコードを聴くよりは生の演奏に触れた方が良いという事です。みなそうなってるじゃないですか。だけど知識がはびこって来て、今のこうやって電子機器の様な物が発達したもんだから、実物ほとんど抜きになってきてる。実物よりも本物に近いぐらい今の電子機器って物はリアルに物を想定させるもんだから、それで済んでるけど、やっぱり仮想の物は仮想です。お花なんかでも造花の花を見ると、本物の花よりも綺麗だ。ウワーっと思う様な花が売られてるね。その位今は素晴らしい技術がある。それでも矢張り本物とは違う。本物を知ろうと思ったら本物で学ばないと分からない。偽物でいくら勉強しても本物は分らない。ね。そう言う事が「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とこう言う事です。

「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。」彫龍は彫龍、真龍は真龍でそれぞれ持ち味があって、違ったものがはっきりそこで勉強できる力を持ってる、どちらも。だから良いのでしょう。これが真龍 も彫龍も同じ様に見えちゃったら、皆さん大変でしょう。騙される。(笑)そんなことはないですね。

そこで身近な事を道元禅師がおっしゃってる「遠を貴することなかれ、」この当時も最近ででもそうだと思うけどもで、日本の方なんかヨーロッパとか欧米から入って来た物が、日本の文化よりもすぐ尊ぶ癖があったでしょう。舶来品とか言って。他所の国の物を非常に高く思う気風があった。これを逆にすればですね、自動車なんかでもそうだけども、国産車って言うけどもねぇ、日本の車だって外車ですよ、アメリカ行けば、イギリス行けば、フランス行けば、日本の車は外車ですよ。だけど日本人はそうは思わないんだねぇ。他所から入って来た車だけを外車だと思ってるから、外車に乗りたいって言う人沢山居た。何か外車に乗ると、少し何かリッチになった様な気になるんだねぇ。日本の車の方が、他所へ行ってみたら良く分る様に、素晴らしい性能の良い車です。だからトヨタでもこんなに売れるのでしょう。伸びてる。誇りに思って欲しい、日本の文化を。

そういうような処に遠くにあるものを大事にする。私なんかも静岡県から来てるから、この高知に、もし同じような人がいても、ですね、皆さん方は高知の地元に居る人よりも私の方が絶対他所から来た人としてですね、持ち上げてくれる。隣にどんな立派ない人がいても、何だって、その位にしか扱わないんでしょう、皆さん。不思議だね、人間てね、近いものは凄く安っぽくするんです。で、日本の人達はすぐ海外の人材派遣か何か知らないけど、他所に行って名声を上げると、日本の人達はすぐもてはやす。日本ではうだつが上がらないんだけど、他所に行くとウワーって言って、そのウワーっていった処帰って行くと、愚かだから、ウワーって言うんですよね。それ位日本の文化は今低いと思うね。そう言う様な事が「遠を貴することなかれ、」「遠を」今度は蔑んだ様な事をするなって言ってる。

どちらにしてもものの本当の価値を見失わないようにしなきゃ駄目じゃないかなと言ってる訳です。近くにあるから遠くにあるから、そう言う様なものによってものの真価が見失われる様な生き方をしてはないじゃないかとって言ってるのね。誰かが褒めたから立派、誰かを貶したからつまらなくなるって言うもんじゃないじゃないですか。そのもの自体は。そう言うものでしょ。

その後、「遠に慣熟なるべし。」って言う事は、今申し上げてる様な事です、慣熟って言う事は。物事に十分慣れて上手になる。木の実で言えば、木からもぎ取らないまま熟すって言う事ですね。それを完熟と言います。早いうちにもぎ取って、バナナなど青いうちにも見とって室に入れて色が付いて甘くなるのを待って売り出すって言うのは、完熟のバナナではない。木についたまま赤らむ、そう言うもの食べたことがある人はよく分ってる。全然美味しさが違う。パイナップルにしたってそう、同様に。マンゴーにしたってそう。色んな物、トマト、胡瓜何でもいい。色んな物見てごらん。そっから切り離して慣熟っていう事は得られない。そう言う事実から切り離して慣熟って言うものは得られない。本当にその事実そのものに親しく居るって言う事が、ものを本当に見極めるだけの力がつく道です。坐禅もそうです。坐禅をして他の事やるんじゃない、坐って。考え方で坐禅どうのこうのって取り扱うんじゃなくて、坐っている自分自身の今の在り様が、本当にどうあるかって言う事を自分の身体ではっきりさせる。そういう道です。

でその後に、近の事も出てるけども、同じ様に近い方も書いてありますが、その後「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」さっき目も話したけども、目。目ってどういう働きをしてるか、皆さんこれここは今日まで生きてきてるから、目がどういう風に物を見てるか、っていうことは私が説明しなくても知り尽くしてると思うけども、目って不思議ですよ。何時でも今見えてる様子だけですよ。他の事は絶対目に映りませんよ。今見えてる様子だけですよ。何処をこうやって見ても、今見えてる様子だけです。前に見た物が一切出てこない。知ってますよね。

こうやってやって見ても分る。(扇子を開いて見せる)これ前に見た物が一切出てこないでしょう。今こうやって触れてる物だけが、こうやってあるだけでしょう。これだけだって凄い事でしょう。もし皆さんがそう言う風な生活をしてごらんなさい。今見えてる様子だけだったら、どういう風になるか分かりますか、生活が。あれがこれが、って言わなくなるのでしょう。そうやって目に学ぶんです。目はそう言う風になってる。どんな良いものもどんな醜いものも、一つもどこにも残さない。どっちにも軍配を上げない。同等にきちっと、どんなに汚れてる物でもどんなに美しい物でも同じように優劣をつけずに、ちゃんと受け取って生活する力を持ってます。

ここは(頭)違う。自分の中で気に入るものと、気に入らないものと思ったら、気に入らない物はいい加減に必ず扱う。気に入る物は丁寧扱うかもしれない。そう言う風な、何だろう、偏見を持った生活に変わるじゃないですか。眼はそう言うもの持ってませんよ。それだから道を歩いてても危なげなく歩けるのです。全部その通りちゃんと見る力を持ってる。ドブがあれば、穴が開いてれば、木が倒れても、ねぇ。そうやって皆さん毎日生活して居る事をご覧なさい。こんな楽な事はない。問題が一切起きないんだもん、それで。 実際そうでしょう、眼って。
(質問あり)
はい?
(問題が起きないからドブにそのまま歩いて行っても大丈夫?)
大丈夫ですよ。
(そうなってるなら、)
そうなってる筈なのに、生活を聞いてみると、色んな問題が起きて困ってる訳でしょう。
(そうじゃくて、皆避けるでしょう。坊さんがわざわざドブ突っ込んで行かないでしょう?)
エー?
(行く訳じゃないでしょう)
何処へ?
(ドブ)
勿論です。
(でも、もしどちらも同じなら隔て無くドブにも足を入れて行くんでしょう)
何で?
(だって同じなんでしょう)
だからそれは考え方と言うもんでしょう。
(揚げ足だったかもしれない)
考え方だからそうなるでしょう。皆おなじ様に見ようとする。眼はみんな同じ様に見ようとはしない。全部その通り違って物が見えるんです。それでいてしかも差別意識は何にも持たない。そう言う優しい働きをしてます。そう言う処が違うんですね。考え方と実物、考え方ってそうやって一つの定義を教えると、全部一様にそうやって、同じだから良いじゃないかって、そう言う働きをさせようとする。優劣がないならば、綺麗汚いがないならば、ドブの中だってそのまま避けずに行きゃいいじゃないかって言う様な考え方を起こすんじゃないの。それが優劣を起こしてないことじゃないかっていう風に (そう思い込む)思うだけじゃない。だけども眼はそんな事はしないじゃない。そうなってますよ。

もう一つ、「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」誰かがそう言ってたからって、それを信じるっていうこともあるでしょう。「耳をかろくすることなかれ、」って言うと人の言ってることなんかどうでもいいじゃないかっていう扱いもあるでしょう。軽くするんだから。だけど、本当にここで言いたいのは、その後に耳や目をしてですね「耳目をして聡明ならしむべし。」とあります。これがここで言いたいこと。あなた方の持ってる耳や目の働きを通して「聡明ならしむべし」っていうことは、聡明って知ってますよね、や聡明な方だから。エー、ね。聡明が方でしょう、皆。だから聡明ならしむって、本当に自分の目や耳で実験してみるとその様に皆はっきりしてるでしょう。

こうやって見ると分る。(扇子を開いて見せる)こうやって。皆はっきりしてる。どの位はっきりしているかって言うと、 同時に二つの様子が出てこないって事が、聡明な人の在り様じゃないですか。二つの聞こえ方をが、こう、チンチンチンチン(おりんを打つ)しないという事が聡明な皆さんの耳の様子のじゃないですか。だけど実生活を見ると聡明じゃない人の方が多い。チーン聞いて腹立つんだもん。チーン聡明じゃないですよ。見て腹が立つんだもん。何でですか。こうやって色んな物にふれて、見たり聞いたりして腹が立つ。

もう一回勉強しときますけども、見たり聞いたりする時にもう一つの様子って出てこないんですよ。もう一つの様子が出てこない時に腹が立つ人って居ないんですよ。もう一つの様子が出てこない時腹が立った人居ますか。なんでこんなもんだけだとか言って、そう言う事さえも無いのでしょう。その事だけがあるから。それが皆さん方の毎日の根底の様子です、生活の。誰もがそう言う上で生活をしてます。だけども考え方を通して物を見てるために、こう言う事が自分の上で行われてるって事を殆ど見過ごしてる。或いは、触れたことがない。

坐禅て言うものは、そう言う自分の本質に触れる唯一の道です。坐って何もしないで、チーンこうやって音がした時に居てみると良く分る。その通りの音がするだけで、一切問題がない。明確にその通りの音が、音がしてる間中聞こえて、音が止んだ途端に、どうもしないのに聞こえなくなるほどすっきりしてます。皆さんはこの音が、し終わってから、さっき聞いた音を取り上げて、そしてああでもないこうでもないってと言って生活してっる。それは音を聞いてるわけじゃない。

物もそうです。見終わった後にそれを思い起こしてあれがこれが、って言ってます。それは物を見てるって言うことではない。全然次元の違う世界ですよ。滓(かす)、滓を取り扱ってる。もう完全に味わい尽くした後の物です。味わい尽くすというものは、音がしてる時、音がしてる時だけでなきゃ、音は聞けないんですからね。音が止んじゃってから音を聞く事はないですからね。物はそこに触れてる時にしか見えないから、触れてる時以外にその物を見るっていう事はないのです。そう言う風に基本的に私たちは生活してる。そう言う自分の本質というものに触れさせる道が、禅と言われる。坐って言うのは、そう言う時間です。そう言う様な事が此処に二人の会話を通して、その中で道元という方がそれを教材にして皆さん方にこの様に色々述べておられる。それを、坐禅をする時のテキストとして申し上げて、今日は終わりにしておきます。



スポンサーサイト



坐禅箴 Ⅶ

2019.6.23
音声はこちら ↓

坐禅箴Ⅶ_01
坐禅箴Ⅶ_02
坐禅箴Ⅶ_03
坐禅箴Ⅶ_04
坐禅箴Ⅶ_05



道元禅師は、西暦の1200年のお生まれで1254年、54歳を一期として亡くなられた世界的に今脚光を浴びておられる方ですが、その道元禅師が残された正法眼蔵と言うものがありますが、その中の坐禅に関する巻ですが、正法眼蔵坐禅箴というタイトルで残されたものを今読んでおります。

前置きはこのくらいにして本文ですが、今日の処、230ページ、上の右肩の方に頁数がありますので江西大寂禅師という書き出しのところから行きます。一行(くだり)読んでみます。

「江西大寂禅師ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽ある時とき大寂のところにゆきてとふ、『大徳、坐禅図箇什麼』。
 
 この問、しづかに 巧夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に巧夫すべし。
 
 彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賤とすることなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし。」


云々、という事で話を進めます。 ここに江西の大寂と言う方と、お師匠さまの南嶽慧譲と言う方が居られて、江西の大寂と言う弟子がここで坐っておられるとですねぇ、お師匠さんの南嶽慧譲が来られて、大徳、あなた、あなたで良いですかね、あなた坐禅して何の図をかはかるとか、そういう風に読むかね、坐禅して何してるのかということで、簡単に言えばそういう事です。坐ってるけど坐って何するんだ、何してるんだ、そう言う質問をされた。

皆さんが今日坐ってくださってるから、そこへ私が行って、坐ってるけど何してるのって一人ずつ聞いてるって言う事です。そしたら皆さん方、どういう風に対応するのかと、いう風にして投げかけてる訳ですね。これ古い話じゃなくて,今ここで皆さん方にそうやって勉強の教材を投げかけてると言う事です。でこちらで先輩がですね、その皆さんに代わって色々なことを話しておられますから、それを参考にしてここで勉強会をいたします。

「この問、しづかに巧夫工夫参究すべし。」お前さん坐禅してるけどそれ何してるんだ。言われた事を、「しづかに巧夫参究すべし。」自分に問いかけて。自分でも坐ってるんだけど、坐って一体何してるんだろう、何するんだろう、どう在ったら良いんだろう。言葉はたくさん知ってると思います、坐禅するって。そして実際にあちらに行って坐った、こちらに行って坐ったというような人、結構世の中には多い。

だけども坐禅って本当にどういう事してるんだろう、って言われた時に、よく分からないって言うのが正直なとこじゃないですか。かろうじて分かるのは、先程の様に形を作って教えたことをそのまま実行している。こうやって居る。

まあ此処では一応坐禅についてだけですけども、広く、広義ですね、広い意味でこの問いを扱ってみるとですね、皆さんが色んな事毎日やってますけど一日の中でも色んな事してますけど、その今やってる事、それ何?って言われる。ねぇ。戸を開けて外に出る。それ何?お手洗いに行ってお手洗い済ます、それ何?スリッパの履く、脱ぐ、それ何?そう言う問いです。分かりきってる筈なんだけも、なんか良く分からない。やってる事があるにも拘わらず。そう言う処が皆さん方に中に、生活の中に見て取れるんじゃないですか。

其処で、どうして「そのゆゑは、」何でそうやって勉強をしなきゃいけないか、「そのゆゑは」まず第一番目に、「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」これが一つ目ですね。坐ってる時に、坐ってる事以外の何かがあるかって言っております。ひょっとすると坐って悟りを求めるとかって言う様な人が居たら、坐禅より他に何かを求めるものがあると言う人でしょう。此処では「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」ですから、坐ってる事より他に何かあるかと言ったら、無いのじゃないかと一応言ってる訳です。皆さん方はどういう風になってる、坐禅をしてまだ何か他に求めるもの持ってる様な事をしているとしたら、第一問目で引っかかるんですね。

それから「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」坐ってるにもかかわらず、坐ってる事に、坐ってることを大事にせずに、似た様な話になるのでしょうけども、格外ですから坐禅をしてることの他に、何か素晴らしいもの、或いはもっと違ったもののあり方、そういう様な事を求めているのか。これが二つ。もう一つは「すべて図すべからざるか」描くものが一切ないのか、と言う事は、本当に坐禅してる時坐禅してる様子だけなのかと言っております。こう言う事が道元禅師によって皆さんに向けられてる訳ですね。

「当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。」当時って言うのは昔じゃありませんよ。今まさに座っている時って言うのが当時です。今まさに坐ってる時に、坐禅せるにいかなる図か現成する、どのように本当になってるかと尋ねる、問著する、この様な事をですね、「つまびらかに功夫すべし。」審細に工夫すべし。で、審細に巧夫する時にですね、ああじゃないか、こうじゃないかって考えるって言う事ではない。実際に坐ってるものに触れて、その事実がどうなってるかっていう事を見届けるっていうことです、正しく。「つまびらかに、」そうでないと勝手に坐ってる事の他に、ああなってるこうなってるという思いを巡らしてるような事、それは修行にならない。

例えば、もうちょっと身近な事で、此処に鐘があるから、こうやって鳴らしてみる。良いですか。チーン(おりんを鳴らす)こうやって鐘の音が出てなってるの。その時に皆さん方はこの鐘の音にチ-ンこうやって触れた時、チーンこの鐘の音がですね、二つの聞こえ方三つの聞こえ方、そう言う風な聞こえ方のする人が、まず居るかどうかです。この音を聞いた時に、チーン二つの聞こえ方がするか、もしこの音を聞いた時、二つの聞こえ方がする様だと、「坐禅より向上にあるべき図」とか「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」と言う様な事に当たるのですね。

別な事があるかないかって、チーンもう1回確認してみて、「すべて図すべからざるか」言うと、ただこの様に聞こえるだけか。チ-ンって、今一応実験してみたんです。皆さんどうですか。難しくはないでしょう。これ、チーン聞いて貰えば分かる。チ-ンこうやった時、もう一つの聞こえ方がするかどうか。本当にただ音がしてる通りに、ただ聞こえるだけなのか。

これもの凄い重要な事なの。首をひねるほど難しい事じゃないです。実際、今ここでやってるわけだから、チーンねぇ。もう一つの聞こえ方する人居たら、ちょっと手を挙げて。あれは髪をいじってるだけで手を挙げたんじゃないですよ。(笑)(丁度この時髪をいじっていた人が居た。)

これはもう少し裏打ちをしたり、参考に意見をつけるとですねぇ、この通りチ-ン聞こえてるって言う事は、生活をしてる時にですよ、一切問題が起きないっていう証拠じゃないですか。そう思いませんが。こうやった時、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切問題おきないでしょう。皆さんが色々な事で問題が起きる時には、必ず比べるものがあるのでしょう。あっちがこっちがとか、あれがこれがって。日常の中で問題起こる時、見てごらんなさい。必ずそうでしょう。だけど、今こうやって生活してる時、こうやって音を出した時に、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切何処にも問題が起きる処無いでしょう。争うものがない。ずれた試しがないよ。チ-ン

本当は皆さん毎日そうやって生活してるんじゃないですか、自分の本質は。だけども、じゃあ、人と会話をした時にですよ、こんな風にうまく聞いてる人がいるかしら。チーン 向こうの人が喋ってる通りにただ聞いて居れる人がいるかしら。居ないでしょう、此処に。誰もって言って良い程。

「格外に」チーンあるいは「向上に」余分なことを必ずなんかつけて聞くのでしょう、話をしたら、すぐ。本来の耳ってそんな風になってないでしょう。此処でやってみれば分かる。こうやった時に、何もついてこないでしょう。この音がするばかりでしょうが。そして音が止むと、どうもしないのに、もうそっから一切離れて切って、問題にする音が一つもこの中に響いて無い。そういう風にして生活してる筈でしょう。だけど皆さん方は喋り終わった後に、ガンガンガンガンガンて、音がずーっとしてるのでしょう。

何を聞いてるのでしょう。あいつあんな事言って、何を取り扱ってるのでしょう。音じゃないですよね。音じゃないですよね。音はしてる時にこの様に聞こえて、もうひとつの聞こえ方が出ない様に聞こえるんだから。で、音が止むとこの様にどこにも聞こえてない訳だからね。人間の声でもそうでしょう、今私喋ってるけど、何処にも、喋るの止めると何処にも聞こえてないでしょう。

こんなことを勉強するんですよ。坐禅て。仏教ってこう言う事をやっている。誰しもの自分の今生活してる事実がどのようになってるかって事を自分自身ではっきりさせる道です。すると、こうやって過ちが自分の中で行われる事で苦しんでる事、みんな整理される。音がしない時に聞こえる人居ないのでしょう。音がしない時、聞こえる人いますか。では人間喋っていない時、何が問題になるんですか。喋ってる事が問題になってるんじゃないでしょう。皆さんの中に記憶したものを呼び起こして取り上げて、それを自分の考え方でつついてるって言う事が問題になってるでしょう 。

こうやって、チーン(おりんを打つ)こうやって勉強する。今、耳の勉強をしたけど、人間の視聴覚教室って言って、目と耳はものすごい生活の中で大きな位置を占めてるから、目の方もやってみると良く分かる。こうやってみなさんに見せた時に、(扇子を開いて見せる)もう一つの見え方がある人? 出てこない 。こうやってやったら、こう言う風に見えるだけでしょう。もう一つの見え方出て来ないでしょう。もしもう一つの見え方が出て来たら、こんな風に見えない訳でしょう。上手く出来てるでしょう。必ずこの通りに、その通りの様子が見えるだけです。だから自分の中で何にも混乱が起きない。すーっとこう見てごらんなさい。何処に向かったってその通りの事がこうあるだけで、重なって何かが二つの見え方が出て来るなんて事はない。

もしあるとすれば、頭の中に思い浮かべた事を、こうやってやりながら見てるって言う事でしょう。それは見てるという事とは違うでしょ。考え方を相手にしてるって言う事でしょう。本当に皆さん方、自分の眼に学ぶと、こう言う風になってる。これだから生活していてですね、どんな事が目の前で起こっても、トラブル起きたことがない。起きない様になってるんです。どんなこと起きても。トラブルを起こす人は自分の中で昔体験した事とか、ありもしない事を思い浮かべて、今の現実と見比べる様な愚かな生活をしてるって言う事だけです。

ものを知らないとそういうこと平気でやる。他の人に聞いたって、なるほどって納得してくれる様な話です、これは。皆大体そういう生活してるから疑わないんですね。そう言う愚かな生活をしてる事が当たり前だからです。正しいと思ってる。

よーく見てみると、人間はそんな風に生活してないでしょう。今やってみて良く分るでしょう。もう一つの見え方なんか絶対無いのです。今日はその位勉強して帰りゃ十分だよね。エー、後は、自分の生活してる中で私が言ったことが本当にそういう風になってるかどうか、自分で審細に、詳にはっきりさせたらいいじゃん。それは皆さんがやる仕事です。修行ってそう言う事を、必ず自分の体でやらないと、この事は分からないんです。他の人にまかしといては。

この音一つ聞くんだって、チーン他の人に任せて聞かないんだもん。必ずこの自分の身体で聞いて初めて、音がどうなってるかがわかる。チーンそう言う風に修行って言うのは絶対に自分でやる意外に無い。やらないと分らない。 頭で考えてても無理。頭で考えてる事と事実は違いますからね。ね。頭で考えてる事と事実が違うのと同時に、皆さん方は事実と頭の中で考えてる事をどっちを大事に生きてるんですか。どっちを大事に生きてるんでしょう。もし頭の中で考えてる事を大事に生きてるとしたら愚かでしょう。そう思いませんか。事実の方がずっと重要性があるのでしょう?

私は時々、変な話をしますけども、例えばここに名医がいる。私が患者として先生とこへ行く。その時に私の体の現状をきちっと見ないで、名医と言われる先生がですね、メスを取って手術をするだろうか。そんな先生はいないと思いますよ。名医と言う人ほどその患者さんの現状がどうあるかって事をきちっと見る。だから正確に手術ができる。どんな技量があっても実物がどうなってるか分からずに切ったらですね、とんでもない事になりますよ 。

世の中のありとあらゆるもの対応する時に、一番必要なものは、実際に今どうなってるか、と言う事がはっきりしなかったら、そっから先は進まないんじゃないですか。勝手に想像して、ああしたらこうしたらと思ってやってるけど。そういう勉強でもあるんですね、これ。何故かって言うと事実の方は無かった様はできないのです、ね。考え方の方はどんなでも扱えるじゃないすか。考えだから、別に。だけど事実の方を無くすって言う事は絶対ない。それで修行する時にこの実物の方で学んでいくのです。考え方でなしに。先程もちょっと坐禅と言う事を話したけども。坐禅は考え方を相手にするのではない。実物に触れると人間は、 理解出きる力を持ってる。実物がどうなってるか、考えなくても。こんなの考えなくたって、チーンその音を聞いたら、その音が分かるようになってるでしょう。頭を捻ってですね、考えないと、チーンどんな音がしてるかって、わからないってことないでしょう。

(質疑:ミュージシャンだと自然に感情が音になってしまうでしょう。頭でしようとしなくても。)

パンパンパンパン必ずしもそうじゃないでしょう。感情移入して音楽を奏でる人もいる。それは勿論いるでしょう。いるけども音自体って言うものには、感情移入はにない。

(居ますよ。音自体に。)

それは音と感情というものは別です。音を縁にして感情は起こるけど、音と感情は別です。そう言う事です。こうやって音がして、好き嫌いの音にはならない、音は。この通り聞こえるだけです。聞いた人が自分の聞き方によっては、好きな音、嫌いな音って言う風に位置づけるけど、音自体には、元々好き嫌いがない。感情が入らない様になってる。そう言う事、知っといてほしい。

(それは自然と起きる人の場合は、自然と起きることじゃない、認識だけのとこにして行くって事が禅?)

いや、基本的に感情とは別になってる。

(なってない人が一杯居る。)

なってないんじゃない。なってないんじゃなくて、そこが自分でよく分からないから、チーン音がした時に、嫌いだとかっていう風に思ったとすると、チーンこの音が嫌な音だと言う風に聞いてる。

(好き嫌いですらないんですか。)

ないですよ。音は。

(でも揺さぶられる、、、)

それはだから思いと言うものと、目の働きと思いの働きは全然分野が違う 。そうそう。耳で音を聞いてる分野と目で見てる分野とは全然違う。目で見てる中に耳で聞いてる分野が入って来ない。絶対、あの目、耳、鼻、口とかこう言う感覚器官あるけど、絶対よその感覚器官の中を侵す様な事はない、入って。だから目は目の働きをするし耳は耳の働きをするんです。これがごっちゃになっちゃったら大変なんです。そんな事はないです。

(ごっちゃじゃなくなって行く?)

そこを皆さん自分のことだから、はっきりさせないと。ものが分からないとごっちゃになるように受け取ってる人がたくさん居る。それでそのごっちゃになってる様なものの扱いの上で、どうしたらちゃんとなるかっていう風にするから、最初からごっちゃになってないのにごっちゃになってると思ってるものを手をつけて何かしようとするから余計に変なる。そう言う事です。まあそんな事があります。ね。その辺で審細に参究すべし。もうちょっと先へ行ってみますね。先程読んだところまでやってみたい。



坐禅箴 Ⅵ

音声はこちら ↓

坐禅箴Ⅵ_01
坐禅箴Ⅵ_02
坐禅箴Ⅵ_03



「羅籠打破すれば」羅籠打破って言うのは、そう言う人間を縛ってるものの考え方や思い、そう言うものを本当に取っ払ったらって言う事です。ねえ、鳥を捕まえる籠とか獣を確保する網とかって言う様な物が、羅籠と言われてる。そう言う物を全部取り払うと本当に自由になる。坐ってる様子がそのまま仏様になるって言う事でしょう。それ以外に無いじゃないですか。

こうやって今も説明している。こうやった時に(おりん棒をみせる)こうやったらこの通りになるのでしょう。当たり前の事だけども、こうやったら(横にする)こうなる。こうやったら(立てる)こうなる。だけど自分の考え方を中心にすると、こう言う風になったり、こう言う風になったりするのは嫌だって思いがあるとですね、こうやった時に気に入らないって言う風になるのでしょう。こうやった時、気に入らない。で、気に入る様になる事が修行が進んだり、終わった事だと思ってる。そうじゃないですよ。今そう言う思いを皆さん方の中で持ってるんだったら、嘘ですよ。

人間の眼だってそうでしょう。自分の気に入る様になんてなりません。必ず向こうの姿のまま、眼が触れるとその通りになるだけですよ。何時でも。眼ってそうですよ。一つも自分の見方を持ってない。我儘なものの見方は眼は一切持ってない。どんなものでもこうやってそのものに触れたら、必ずその通りに見える様になってる。こんなに優しい働きをしてる。

逆らった事一切ない。好き嫌いを一切起こさない。どんなものでもそこに有れば、その通りこうやって。自分は嫌いだと思っても、こうやってそう言う事を飛び越えて、必ずその通りになる。ねぇ。考え方を離れると、そう言う事よーく分かる。 「羅籠打破すれば、」そういうもの本当に打ち破って、全部手放れてみると、自分のそうやって生活してる様子が自分ではっきりする。

「正当恁麼時」って言うのは、今です。今そうやって自分の考え方や見解と言うものをすっかり離れた様子の時です。ものに対して好き嫌いを起こさずに、こうやって触れる。具体的にはそう言うものです。ね。自分の好き嫌いを通さずに、付けずにこうやってものに触れてる時に、皆さんどうなるでしょう。

人間関係でも会社に勤めて色んなお仕事について、転々と職を変わる人沢山聞く。どうしたら耐えられるかって、そこで人間関係。そこを辞めてもですね、次の所へ行っても同じ様に人間関係ですね、自分が変わらない限りはですね、場所が変わっても、これはクリヤー出来ない。

正当恁麼の時、好き嫌いを、そう言うものの見方を止めてみると初めて、人間のつきあいの中で融通が利くようになる。嫌な奴だなあと思って、そうやって向かったら、素直に聞ける訳がないじゃないですか。ねえ。それ向こうの責任じゃないですよ。こっちが自分の中であいつ嫌だなあと思ったのは、こっちの責任ですよ。こっちが自分の中で、向こうに相談もせずに、勝手に自分の中で思うんですからね。ねえ。

向こうに、「ゴメンあなたの事、嫌いだって今から思うからね」って言って、「じゃどうぞ」って言って、「嫌な奴だ」って、そうやってやってる、そんな事しないんだからね。誰にも相談しないで、自分の中で勝手に相手の事を、そうやって蔑んでみたりする思いを、ふっとこの中で起こして、その事が触れた時に、人間関係をうまく行かさない様にしてるんだからね。

だからこうやって、正当恁麼の時って言うものが大事でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分の在り方にこうやって目を向けてみると、ああ成る程こう言う事を自分でやってるから、こんなつまらない生き方になるんだって言う事が分かる。

そうすると、「千古万古」だからずーっとですね、途切れなく何時の時代でも「ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。」どんな人とでも付き合う力が出て来るでしょう。そう言うもんでしょう。自分の中で、嫌だなあって思う心を持って、こう触れると、嫌なな人の中には親しくこう入って行く力が無くなるじゃないですか。それ自分の付けたものですよ、勝手に。

坐禅て言うのはそう言う風にして坐ってる時に、自分の素肌って言うか、余分なものを一切付けずに活動してる直の生活してる、その自分にこうやって親しく居てみるって言う事、そうすると、自分の本当の在り様が直に伝わって来るじゃないですか。伝わるなんて時間が要らない体験。

こうやって触れるとどういう風になってるって思うんじゃんないですよ。こうやってやると、こうやった時に、どう言う風になってるって思わなくても、こうやって触ったら、触ってる様子がいきなりちゃんとはっきりするのでしょう。考えなくてもこうやって触ったら、触った時の様子が自分の上にちゃんとあるからね。

人間は考えないと分からないと思ってるのね、殆ど。そんな事ないですよ。自分自身の今生活してる実物に、自分自身が触れたら、自分自身がどうあるかって言うのが、眺めなくても分かる。

こうやって抓った時にですね、眺めなくても否応なし、こうやっただけでこうやった事がどうなってるかはっきりしてます。やってみりゃわかる。エー。考えなくたって分かるでしょう。痛いとか痛くないとかって言う様な事を表現をしなくたって、この通りの事が出て来るんだもん。摘まんだ強さの通りの内容がその通りずれずに出て来るんだもん。

パン!こうやって、もうその通りの事、いきなりこの上に出て来る。如来、如去と言われる様に、出た来た様になるけど、何処にも出て来た場所も時間も見届けられる様なものの無い活動です。坐禅てそうやって自分の考え方を使わずに、生身のものにこう親しく居る時間です。そうすると、次にもある「進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」一々その事によって。

皆さんはつまらない事だって思う様な事でもですね、さっきもちょっと有ったけども、人が歩いてて転んだ。そう言う現象が起きた時に、あまり転ぶって喜ぶ人は居ない。だけども、ロボットを作っている人達はですね、人が歩いてる時に転んだって言う事があるとですね、その転ぶ事って言う事の中で、どうやったら人間の様に歩くロボットが出来るかって言う事を学ぶんですねぇ。この転ぶ中に、転ばないって言う事が隠されてます。不思議なもんですねぇ。

病気はしたくないっていうけども、病気をした時に、病気をした中に、病気はどう言う事が起こるかって言う事が、この病気をしたらどういう事が起こるかって言う事が、皆その中に示されてる。それ位捨てるものは一切ない。本当にここに有る様に、「したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」って言う様な事ですかね。

人間の考え方から言えば、怪我をしない方が良い。怪我をした時に、何で怪我しちゃったんだろう、怪我しない方が良いとか色々思うんだけど、皆その事が人を救うう大事な事なんですね。腹が痛い時に、みんなさんよく分かるけど、腹が痛くなかったら、どうするんですか。腹が痛くない方が良いでしょう。腹が痛い時、腹が痛くない方が良いって皆思ってるけど、腹が痛い時腹が痛いから、ありがたい事に病気が分かるのでしょう。気づかしてくれるのでしょう。

だけど人間の考え方はそうじゃないからね。痛い時に痛くない様にしたいって、そういう風に考えるんです。修行もそう考えてる、さっきの様に。ねえ。坐って、もう少しこうなったら良いってものを他に持ってるじゃないですか。そうでない。そっちへ進む様な事はしない。そのままの状況の中で、居てみないと本当に良さが分からない。

苦しい時に苦しくない方が良いに決まってる。だけども苦しい時に苦しみの中に居てみると、それがどう言う事か良く分かる。よく分かると、その苦しみの中で人は救われるんだね。不思議だね。他のものを持って来なくても、それで救われる。

悪い事はしない方が良いけども、悪い事をした時に、悪い事をした様になるから、それをちゃんと自分でこうやって見ると、悪い事をするって言う事こうなるって言う事がわかるとですね、悪い事しなくなるんです。悪い事をしても、それが悪いと思わないから、悪い事止めないだけだからね。

だから収監されて独房の様な中に入って、酷い事した人達は自分をみつめ直す事をさせられるでしょう。で、反省文とか何か色々書くでしょう。その自分がやった事に対して気づく迄は出さないじゃないですか。気づかない間は、自分がやった事がどう言う事か気づかない間は、反省にならない。

他のもの持って来なくても良い様に、皆出来てる、そのもので。そう言う様なものが、進むとか退くとかって書いてある、進歩退歩とかありますが。どれを取り上げても、そのもので人は十分勉強が出来る。修行が出来る。で、知らない人は、自分の今体験してる事が嫌だから、他の気に入ったもの持ってきて、それで何かしようと思うから、全部現実から逃避するじゃないですか。そんなの救われる訳がないじゃん。現実を逃避したら。

修行の大事なのは、そういう風に必ず自分自身の今の、隠しようのない自分自身の在り様、そのものに学ぶって言う事ですね。参ずる、学ぶ。学ぶって言う事は、直に自分自身そのもので居れるって言う事です。毎日こうやって生活してるんだけど、自分自身がどう言う風に生活してるかって事に本当に人は疎いよ。

ものを食べたってそうでしょう。口に入れればその入れたものの味が間違いなくする筈なのに、どんな味がしてますかって聞いても、良く分からん。そんな風にはなってない、この機能、器官、舌って言うのは。口に入れたらそのものの味がですね、誰でもはっきりする様に出来てる。生まれた初めて口に入れたものでも、食べてですね、それでも味がちゃんとする。

生まれて初めてこうやって出された物をでも、見えない事はない。皆はっきりしてる。そう言うものですよ。不思議でしょう。生まれて初めてで、体験が無いから良く分からないと思うでしょう。

だからその前に、「初心いずれのところにかおく。」って言う様な事を、この前の処に、終りの方の文章だったんだけども、ものを始めるのに、一度もやった事の無い処からしか始められないじゃないですか。エー。私、初めてだからって尻込む人が居るけど、ものを最初に学ぶって言う事は、誰だって一度もやった事のない処から始まるんだよね。だから尻込みする用がないじゃないですか、初めてって言って。そう言うもんじゃないですか。

初めてこうやって見せられて、(おりんを見せる)、ちゃんと見えるんだもん良いじゃない。初めて聞いて、チーン!ちゃんと聞こえるんだもん、良いじゃないですか。本当は分からない事なんか何も無いよ。

坐禅も初めてって言うけど、何十年もやってる人って、今日坐るのは初めてですからね。そう言うもんですよ。何十年も坐って来たたって、今日坐る坐禅は初めてですよ。皆初めてですよ。おれは何十年も坐ってるからって、そんな坐禅は無い。そんな偉そうな顔する坐禅なんか絶対しない、出来ない。初めて一緒に今、坐るんです。そう言うものですよ。

まあこれで、この辺迄。四時だからあと三十分位、質疑、何でも聞いてみたい事や言いたい事があったら、どうぞ。


坐禅箴 Ⅴ

音声はこちら ↓

坐禅箴Ⅴ_01
坐禅箴Ⅴ_02
坐禅箴Ⅴ_03
坐禅箴Ⅴ_04
坐禅箴Ⅴ_05


2019.3.24 

資料の方、取り上げて下さい。上の方頁数が打ってありますが、229、左側ですね。二枚目位になりますね。中間辺に段落がありますが、「初心いずれのところにかおくべし。」と言う切れ目がある、「しるべし」と言う処からですので。一段落ちょっと読みますね。

「しるべし、学道の参究には坐禅辦道するなり。その榜様の宗旨は、作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案現成なり。身仏さらに作仏にあらず、羅籠打破すれば坐仏さらに作仏をさえず。正当恁地麼のとき、千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」

こう言うお示しがあります。今日皆さんここへ集まって頂いて、一時勉強をする訳ですが、そう言うものが、ここに言われる学道と言われるものですね、道を学ぶ。人の本当の生き様は、生き方はどうあったら良いのか、って言うのが、学道でしょうね。それを参究だから、究めて行く。

それには坐禅が一番だと、先ず書いてあるね。「坐禅辨道するなり。」で先ほど坐禅をして頂いたんだけども、坐禅て言うのは、最初にリハーサルをした様に、身体の、坐る時の身体の形を一応教えますけども、あれが坐禅と思ったら大間違い。あれは只、形、フォームを作っただけです。だからあれで修行が済むなら簡単な事ですね。

そうじゃない。必ずだから、その形が出来て、10分20分30分40分を、大体一区切りにして時間を作りますから、その40分の間、自分がどういう風にその形の中で過ごしているかっると言う事が重要な問題になるんですね。で、自分自身の生身の活動をしてる様子に直に居る、直に触れていると言う事が坐禅をする所以です。人間はですね、物事にこう触れる時にですね、直に触れるのが非常に下手。

要するにこうやって見ても、すぐ見てる様子だけで居ない。見えてる間の中に自分の見方をすぐこうやって入れる。考え方を入れる。その代表的なものは言葉が入って来るでしょう。古い畳だとか、傷んでるとか、こうやって見ると分かるから、そういう風なものをこう付けて、そう言う風な事をやり始めると、こう見てる事とは違うのですね。それは見た人が、自分の中で見た物に対して付けた見解なんです。

眼には綺麗だとか汚いとかって言う風な見え方は一切無い。本当にこの通り見えるだけなんです。そう言うの分かるかしら。違うんですよね、考え方を入れるのと直に触れるのとは。それが人間の身体ですから、眼の様子があったり、耳の様子があったり、鼻の様子があったり、舌の様子があったり、味ですね、舌の様子があったり、身体の触覚、様子があったり、心を、思いを浮かべる力があるから、そう言う働きがありますが、それ一々坐ってる時、そう言うものが、全身の活動がこうやってると有りますから、それに自分の思いを付けずに過ごすって言う事が、自分の真っさらな活動してる本物に触れると言う事です。

一番多分分かりにくいのは、こうやって居ると色んな事が思い浮かぶ、そうすると音でもそうですが、パン!(打掌される)聞こえると、すぐ聞こえたものに対して自分の見解を付ける。思いもそうですよ。浮かぶとそれすぐ取り上げて、ああ未だこんなこと思ってるとか、またこんな事が出てきちゃったとか、邪魔だとかうるさいとか、そう言う風な見方を人はしやすい。

だけども思いそのものは、只浮かんだり消えたりするだけですから、人に何の邪魔もしてません。そこまで人間の思いを付けずにこうやって居てほしい、坐る時に。だけど、坐禅の中で思いを起こさない様にするって言う風に学んでいる人が結構居る。何も思わない様に、何も思いが出ない様にする事だと思っている人がいる。そんなのは嘘です。嘘です。浮かんだ思いを、浮かんだ思いに対して、自分の考え方で取り扱わないと言う事だけは、注意がされてる、ね。それは坐る時に大事な事です。まあその位にして先にちょっと行きますけど。

「その榜様」在り様ですね、内容はどう言う事が言われてるかって言うと、「作仏をもとめざる行仏あり。」って言うんだから、坐ってる時に、何かもう少しどっかに高い目的に進むとか、進んだ境地に行くとか、今の在り方よりも変わる様な事をこう求め様とする様な事は、坐禅の中でしない。

皆さん方は坐禅をする時に、そんな事言ったって、最初に坐禅をしたら何か良いことあるんじゃないかって言う事を頭に置いて、変わる事を求めてる様な坐禅になると、此処で注意してる事ですね、作仏を求める行仏になる。ああなりたい、こうなりたいって言う風なものを、目標を持って坐る様な坐禅をすると、坐禅にならない。

例えば実験をしてみますね。こうやってチーン!(おりんを打つ)音がした時に、ああなりたいこうなりたい、ああ言う風に聞きたい、こう言う風に聞きたいって言う様なものが、若し人が持って、こうやって音がしたチーン!聞くとしたら、この本当に出てる音を聞く事にはならないでしょう。どうですか。

コーン!(おりんを打つ)こうやってああなりたい、こうなりたい、ああ言う風に聞きたい、こう言う風に聞こえたら良いなって思う様なもの持っていたら、コーン!この通り聞けなくなるんじゃないですか。この様にコーン!聞こえるだけでしょう。進みもしなければ退きもしない。何もしないって言う事が、この通りの音がちゃんとチーン!伝わっている様子なんでしょう。

こうやって坐禅をするんです。知らない人はすぐ何処かに自分の思いを使って、手を付けて、それを造作と言いますね、造り変える。自分の思ってる通りの様なものを求めて、それを造り変えて行く様な事が修行だと受け取ってる。それ間違いですよ。こうやってやった時に、こう見えるだけですよ。この他の、こうやった時に他の見え方がする様な事を求めたら、これを見る事にならないですよ。

だけど、人間って生活してると、殆どの人がそう言う生活してるんだよねぇ。それだから決着がつかない。幸せな生活が出来なくなってる。こうやった時にコーン!この通り聞こえればもう完璧なんでしょう。(笑)違いますか。こうやって、コーン!この通り聞こえたら、もう何もする用が無いでしょう。修正する用がないでしょう。本当はそう言う風に皆聞いてる訳でしょう。コーン!

だけど聞いた途端に、すぐ自分の考え方がこう出て来るんですね。出て来て、ただ聞こえるだけじゃつまらないとか、ただ聞こえるだけでそんな事が修行になるかとか、そう言う風な思いがふっと出て来ると、こうやって立ち処に違った事をする。ねぇ。そう言う事をしないって言う事が、「作仏をもとめざる行仏」です。

で、その時にその事があるって言うのは、当然の事じゃない。その時その事以外の事があったら、その時その事があるとは言わないもん。そうすると真理から皆崩れてくる。そう言うの、注意事項ですよね。「行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに。」今坐禅をしてるって言う事はですよ、仏を作るって言う様な事ではない。或いはこれから仏になるって言う様な事ではない。

良いですか。チーン!これからちゃんと聞こえる様な人を作らないじゃないですか。皆ちゃんとこれで、今聞いた時にチーン!ちゃんと聞こえる様になってるじゃない。これから何もしないでしょう。何かしないとちゃんと聞こえる様にならないかって、そんな心配無いのでしょ。チーン!何もしないんだけど、ちゃんとこの通り聞こえるでしょう。チーン!聞こえるでしょう、こう言う風に。行仏ですね。「さらに作仏にあらざるがゆゑに、」他に何もする事は無いでしょう。チーン!こうやって聞こえる。これだけで良いです。

人間同志の会話だってそうでしょう。人が話してる時に、何で俺の事をそんな悪く言うんだろうって、そう言う風に聞くから変になるじゃないですか。向こうが喋ってる通りにただ聞こえるだけじゃん。どんな酷い事を言われても、向こうが喋ってる通りに聞こえるだけで、喋り終わるとそれで終わって行く様になってる。

それを人間は変な動物だから、自分に対して自分の事を酷い事を言ってるって言う風に感じるとですね、そこにムラムラっとする様な気持ちを起こしてですね、ただ聞いては居られなくなる。ただ聞いては居られないって言う事は、向こうの言ってる事を自分の好き勝手な聞き方に変えて聞くって言う事です。向こうはそんな事言ってないのに、自分の聞き方で変えてしまって聞いてるって言う事。

皆さんそう言う生活の中で実感ないですか。向こうの人はそんな事言ってないのに、勝手に自分の方で。私が勧めるのはだから、若しそれがよく分からなかったら、向こうが言ってる通りこう文字に起こしてみるって言うと良く分かる、向こうが言ってない事を、自分の中で聞いた時に、一杯付けてる文章を作り直して聞いてる。

電話でもそう。そんな事言ってないのに、自分でその間をこう埋めて、自分で聞きやすい様に、自分の都合の良い様に作り変えて聞いてる。それをやったら、絶対修行にならない、と言う事ですよ、これ。言わんとする事は、そう言う内容。

「公案現成」って言う事は、今目の当たりにですね、公に。誰でもが分かる様に此処で行われてるって言う事です。どんな事が例えば有るかって言うと、チーン!一つには音が出ない間は聞こうと思っても、音を聞く事が出来ない。チーン!音がしたら、自分で聞こうと思わないのに、ちゃんと聞こえる様になってる。で音を止めようと思わないのに、チーン!音が鳴っただけで、鳴りやまると音が何処にも無くなる様な生活をしてる。これは「公案現成」、公に此処で嘘の無い、目の当たりにやってる事ですねぇ。コーン!

こう言うものに学んで欲しいんですよ、だから。チーン!皆さんの生活は、チーン!人間の言語を聞いてると、チーン!言葉が止んだ後にですね、まだ響くんですよ。そうじゃないですか。喋り終わったのに未だ響くんですよ。離れ切らないんだよ。

さっきああ言ったじゃないって。この前ああ言ったじゃないかって。今でもまだそう言う事をやってる人が居るかもしらん。小さい時、母は父は、根に持ってる。これはこうやって公案現成ってのは、チーン!今こうやって実際に皆さん勉強してみると、人間の耳はそんな風に絶対なってない。音がしてる間しか聞こえない。チーン!音が無くなったら、否応なしに何処にも響かないものです。

自分の事だのに、そう言う事が行われてる事を自分で知らない。如何したら執着から離れる事が出来るだろうかと思ってる。執着しようがないじゃないですか。コーン!聞いたんだけど。何処にも残らないでしょう。こう言う風な耳で毎日生活してるんでしょう、本当は。

何処か違うでしょう、でも、皆さんの生活は。こんなすっきりしてないんでしょう。チーン!何でそうなってるんでしょう。チーン!それは自分の考え方を、この聞いた後に付けてる事が問題なんでしょう?音は既に終わったんだけど、終わったものを此処(頭)で取り上げてる。あの時ああだった、こうだったって言う事で。

それは音ではないですよ。音は全然しませんよ、取り上げても。取り上げて音がする人?こうやってチーン!さっき井上がチーンと叩いたって、取り上げて音がする人?音はしませんよ。思いだけですよ。音がしたって思いだけですよ。音は一切しません。

そう言う事もはっきりしないから、人は思うと悩むんです。未だ残ってる様に。本当は残ってないじゃないですか。チーン!残ってないから、次に喋った時に、耳は全然邪魔にならずに、今喋ってる事だけがちゃーんと耳に入る様になってる。ねぇ。若し残ってたら、喋る時に、前に喋ったものが此処で一緒になって、よく聞き取れないって言う様になるけど、そんな事はない。そう言う事が公案現成として、今目の当たりにそう言う活動してる訳でしょう。

だのに皆さん方は自分の事に、そうやって触れないじゃない。禪の勉強とか仏教の勉強しようと思うと、とてつもない変な事を想像して。自分自身の今の在り様に学ぶって言う事が、仏教の根本ですよ。他には無いですよ。他に何か書いて有るものを学ぶんじゃないですよ。

これ(坐禅箴)だって他に書いてある事を学ぶんじゃないですよ。ここに(坐禅箴)書いてある事は、今の皆さん方の在り様がどうなってるかって事を書いてくれてるんです。間違ってる生き方をしてる人と、ちゃんとしてる生き方があるって事を明確に書いて、あなた方はそれ読んだ時に、自分はどっちなんだろうって、これ読んで知る力を持っていて、ああこう言う風にしていたって分かるから、それを此処で実践するじゃない。実践すると、後は答えは私が出さなくても、自分の中に答えがちゃんと出てくる。

だから信憑性が一番あるでしょう。人が何か言ってくれるのが信じなさいって言うよりも、自分の中にこう食べたらそう味が出て来る様に、聞いたらその音が聞こえる様に、これは一番信憑性があるでしょう。本当に聞こえてるかなって、チーン!本当に聞こえてるかなって、何、そんな事思う人無いでしょうが。それ位確かな事じゃない。そうやって勉強して欲しい。

身仏と言うのは、この一人一人の身体の本当の在り様ですね、「さらに作仏にあらず、」これから何かするって事は、人間の生活の中でありません。良いですか。チーン!こうやってこれから聞く人は有りません。エー。こうやって、これから見る人は有りません。必ずその時にもう終りです。後でやるって事は無いです。

こうやって(おりんの棒を見せる)後でこれを見るって言う事はありません。出来ない。この時で無ければ、この事は見る事も出来ない、触れる事も出来ない。だからちゃんと眼を開けて、こうやって触れる必要があるじゃない。こんな事って頭で考えてる余地が無い。そんな暇は無い。こうやって。間に合わない、そんな事やってたら。

これを(おりん棒)後でやるって事は無いでしょ。こうやったのを後で見るって事は無いでしょ。その時にしか見る事ないもん。そうやって生活してるんですよ。だけども何か他の事考えてるとですね、「あ、分かりました。後でやります。」って言うじゃないですか。後でやった試しありますか。茶碗が食べた後、此処に置いてある。あ、後であらいます、後で洗いますって言う人でもですね、台所に行ってこうやって洗い始めるとですね、後でやってない。今やってる、ねぇ。今やってる。後でなんか絶対出来ないもん。

あ、分かりました、じゃあ後で集めますって、集め始めると、見てると今集めてるだけじゃん。それ位人間は自分のやってる事が言語と一致しない。それで苦労する。実物の方で、こうやってやってみると、よく分かるじゃない。絶対ここに書いた様に「身仏さらに作仏にあらず、」後でやるなんて事はない。この身体で。必ずこの身体は今やってるだけです、それで終り。

ここ(頭)が気に入らないだけじゃん。こっちに自分の考え方がある、そう言われてもって言って、自分の考え方で取り上げると、この事実をないがしろにして、自分の思ってる様に事実を変えようと。それは傲慢と言うものじゃない。無理じゃない。事実を自分の思ってる様に変えるなんて事は絶対出来ない。そう言うもんでしょう。

事実を自分の思いて変えられる様な世の中になったら、世の中は何を頼りにするんですか。事実と言うものは、人がどんなに介入しようと思っても、絶対そこに入って行って崩す事の出来ない確かさがあるから、真実が永遠に大事にされている訳でしょう。ねぇ。何でそう言う自分の真実の、生きてる様子に学ばないのでしょう、皆さんね。考え方を中心に学ぼうとしてる。自分の考え通りにする事を修行が出来たと思ってる。そうじゃない。それは大きな誤りですよ。学ぶ時に。




坐禅箴 Ⅳ

音声はこちら ↓ 

坐禅しんⅣ正_01
坐禅しんⅣ正_02
坐禅しんⅣ正_03


でも人間の生活の中には、似た様な物を沢山成造している訳ですね。機械でも何でも。お皿でも。だから同じものが一杯あるってよく言うじゃない。あれはもうちょっとよく見て下さい。よく見るとですね、同じ物は何処にも無いのです。こうやって皿が二枚あってね。同じじゃん、てよく言うじゃないですか。ここに今あるってことは別だって言う事ですからね。そうでしょう。もう最初から。別の物だって言う事でしょ。こっちの皿こっちの皿。それだのに人間は、こうやって見た時に同じ物があるって。こんなになってる。これは単伝じゃない。こうやって伝えてるのは複伝ですね、ねぇ。

正しく伝えてない。正伝て言うのは、こうやってこう言う風に伝わるじゃん。必ず単伝で伝わってくるじゃん。それがそれ。それがそれに違いない。これとこれ、似てるって言う事はあるよね。似てるって言う事は別のものだって言う事を表現してるって言う事でしょう。ちゃんとだから言葉は正確に伝わってる筈なのに、人間が理解をする時、間違える。

でもあの皿を持って来てくれって言って、一枚だけって言わないからね。五人いるから五枚欲しいって言うと、ちゃんと五枚持って来る。同じものをお願いしますって、一応そうやって言葉は使うじゃん。同じものは無いんだけども。同じ様なものを五枚持って来るって言うことですね。ちょっと屁理屈みたいだけども、よく見てみると、違うね。まあ。そう言う事がありますね。

「すでに釈迦牟尼仏より直下」直下、じきげって言う。直下って言ってます。「直下に三十六代なり」これは薬山と言う方はお釈迦様から三十六代目の祖師であると言う事です。正しく仏法の内容、あるいは仏法の内容と言うよりは、自分自身の真相をはっきり明らめた人だと言う事ですね。

「薬山より向上をたずぬるに三十六代に釈迦牟尼仏あり」遡っていけば三十六代前にお釈迦様が居られるとこう言う事でしょう。下ってくれば三十六代目で自分が居るという事。上っても下ってもですね、代が変わる、その三十六代がですね、こっちから数えたら、三十七代になって、向こうから数えたら三十五代になるって言う様な事は無いと言う事ですね。

道を歩いてもそうでしょう。こっちから行くと坂が七つあるんだけどって言った時には、必ず下り坂って言うのも七つある。上り坂だと思ったやつは、こっちから行った時に見たもの。同じ道だから、それが其の儘下り坂になる。ね。そう言う様な事を、一杯こう実物の中でも行われてる。

「かくのごとく正伝せるに、思量箇不思量あり。」そう言う中に、この坐禅と言われるものが正しくその様に伝わって来てると、こう言う事です。だから人間の思量があるから、不思量とかって言う事だとか非思量がどう言う内容だとかって言う事も、思量があるから一応分かる。だけど一応思量で分かるんだけど、それは自分がこれ思量してる範囲で分かってるって言う事も分かってる。で思量を外れて、思量から、全くそう言うものが付かない状況がどう言う事であるかって言う事を今は学ばなければならないと、こう言う事です。

其処までやらないと、言葉はあっても、実物が無い。非思量の実物が無い。そうすると、自分の中でどうなるかって言うと、理解が出来ない。味わえない。それやるためには、必ず自分で、自分のこの身体を借りてやる以外に方法は無い。何億に人が居ようがしょうが無い。自分でやる以外に方法がない。それで修行と言うものは、人から勧められてやるものじゃないと言う事になるじゃない。宗教の根本はですね、だからコントロールされる様なもんじゃないですね。

瞑想や何かで陥りやすいのは、あの、ああ言うものの考え方に、終いにはコントロールされて、洗脳されて行くって言うのが、殆どの修行の欠点じゃない。最大の弱点じゃない。危ない。だから宗教は麻薬だとか言う様な事を言われるのは、そう言う事じゃない。
仏法においては、そう言う事一切起きない。強制されて、その様に見ろって、やって、その様に見える訳じゃないから。誰にも強制されない。その様に聞きなさいって言うけど、誰かの力を借りて、その様に聞くなんて事は無い。必ずその様にパン!聞ける様になってる。注意深くしてないと、そう言う事忘れちゃって分からなくなるという事は無いの、これ本質的に。すごいね。

他の勉強はそうじゃない。ちゃんと頭にそう言う事、置いといてやらないと、すぐに役に立たない。ねぇ。こんなのが「すでに思量箇不思量底あり。」で。

ここはね、次の所の一画はですね、さほどの事は書いてない。ざっと読んでいきますね。だけどもと言う事、「しかあるに」今話した様な事が本当にある。だけども最近はですね「近年」最近の人たちは、本当にものの分かりの悪い人が多くてねって、「杜撰おろかなる杜撰いはく」ですね。

どんな事を、じゃ最近の人達は言ってる、これ道元禅師が中国に渡ってる頃だから、1230年にならない位の頃です。その辺の時に、こんな事が大体言われている。「功夫坐禅、得胸襟無事終、便是平隠地也(功夫坐禅は、胸襟無事なることを得終りぬれば、便ち是れ平隠地なり。)」これで修行が終わったって。こう言う風になれば修行が終わったんだって言う風に伝えてる。

胸襟無事って、胸襟は分かりますよね。自分の心の中と言って良いでしょう。ね。その中に何事も無い様になれば、そうすれば、毎日生活してて、穏やかだからそれで良いって、その位の事しか言ってないって言うんです。

この「見解」自分の見方、理解の仕方ですね、「なほ小乗の学者におよばず、」仏教に大乗と小乗ありますが、小乗って言うのは自分だけ救われれば良いって思ってる様な、小さなものの考え方をするものを、小乗仏教と言います。大乗仏教って言うのは、自分が救われたら、その素晴らしさが自分で分かったら、全ての人に縁があれば、それを伝えて行こうと言う大きな願いを持った人達が、大乗仏教と言われてるね。

で、だからそう言う時に、「なほ小乗の学者におよばず、」自分の事だけよかれと思ってやってる人よりも、まだそれはつまらないものの見方や考え方・理解の仕方だと道元禅師が言っておられます。

「人天乗よりも劣なり。」一般のなんだろう、道徳律とか言う様なものも入るのでしょうね、人天乗。こうすればああなる、ああすればこうなるいって言う様な事があるから、それを守っていく様な事がありますが、そう言うものよりも詰まらないと言ってる。「劣なり。」「いかでか学仏法の漢といはん。」本当に仏法を学んでる人とはとうてい言い難い。

「現在大宋国に」そう言う「恁麼」です、その様な功夫している人が多い。「祖道の荒無かなしむべし。」折角素晴らしい正しい教えが今も伝わっているのに、何たる事だと言っておりますね。これが一段ですね。また似た様な人がいると言うので、挙げてあります。

「また一類の漢あり、」それどう言うことか、『坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり』坐禅は、今自分達が悩んだり苦しんだりしてるから、それがどうしたら良いかって言う時に使ってですね、それがはっきりすれば、後は要らないって言うんでしょうね。『かならずしも仏祖の行履にあらず。』それは悟りを開かれた仏様や祖師方の在り様とは違う。

『行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安穏(行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安穏なり。)』行くもまた禅、坐もまた禅、と読んでおりますが、何をしていてもって言う事でいいですかね。何をしていても禅の在り様だって言う風に捉えてる。そう言う風な考え方でものを見ているって言う事です、これね。

考え方でものを見ているのと、実際に本当にその時、その事しかない確かさと言うのは、全然違うって言う事でしょうね。研究するとか、ものを学ぶ人は、殆ど実物じゃなくて、そう言う学問的にものを見て、勉強している。それで結論も頭の中で出した結論で、そうなってるって、そうなりますって言や、それでなった様な気になってるじゃない。こう言う様な事を道元禅師は厳しくやっぱり見て、それは違うって言う事ですね。

「ただいまの功夫のみにかかわることなかれ。」ってこう言う人達はだから言うって言うんでしょう。もっと一杯やることがあるって言うんでしょうね。だけど修行って、やる事一杯無いですよ。今自分達がこうやってる時に、本当にどうなってるかって言う事だけがはっきりすれば、済む事じゃない。この一点だけ。カッチ(□の中にカ)一解とか一大事とか、色々な言い方しますけど、これが一番大きな問題じゃない。

もっと普通の話をすれば、今皆さん方がそれぞれ問題になってる事だけが解消、本当の意味で解消されれば、すっきりする訳でしょう。他の事はそのまま普段の通り生活してて良い訳でしょう。

「おほくこの見解なり。臨済の余流と称するともがら、」これは余所でこれを裏付ける様なものが残されておりますが、どうして「臨済の余流と称すともがら、おほくこの見解なり。」って言う事になるかって言うと、元を尋ねて行くとですね、圜悟克勤と言う人の後に大慧の宗杲と言う人が流れの中に出てきますが、その時に、きちっとした処までこの大慧の宗杲さんって方が修行が終わらない内に、圜悟禅師が亡くなってしまって、その後もですね、修行して本人がはっきりしたって、きちっと自分ではっきりしたっと言う処まで行かないまま、色んな事を後世に、文言と文章も作ったりして伝えたって事があるので、こう言う事になります。皆見解、仏法が皆見解になっちゃった。

それが今でも使い方が悪いと公案を、臨済の方達は公案と言うものをやりますが、あれを見てると、答えを如何いう風にして出して来るかって言うと皆考えでしょう。坐って、そこに何が書いてある、どう言う事を言おうとしてるかって、すーっと坐りながら、その文言を頭の中に浮かべて、遣り取りを頭に浮かべて、それ如何いう事だってずーっと坐禅中にそういう事、ずーっとやってる。或いはその他の時でも、その公案をずーっと頭に置いてないと、お師匠様の処であれはどうなった、あれは如何いう事か分かるかって言われた時に、答えられないので、一生懸命考える。全部見解なの。

(臨済の坐禅て言うのは、非思量では無いと?)恐らく。恐らく。(僕はそう思ってますけれど、違うと言う人もおりますので、尚確認です。)、ああ余り余分な事を言うとね、差し障ると言う事でしょう。要らん事でしょう、自分の修行するのに。まあそう言う事にしておおきましょう。

これは気をつけなきゃならないのは、自分がはっきりしてない時に、人がはっきりしてるとか、してないとかって言う様な事は、真に失礼な事でしょう。(はい。)これ立派人が、こうやって言う分には問題ない、ねぇ。分かってない人が分かった様な事を言うのは、それは絶対注意しなくちゃいけない。人の褌で相撲を取るって言う事があるから、こう言うのを書いてあるのを見ると、わが事に様にこれ使ってしまうとえらい事になる。(各宗派としては慎重にそのあたりやってますね。それ分かります。)ね。それで良いでしょう。

「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」ここまでで終わっておきたいと思う。

初心晩学の要機って言う様な事が最初にあげてあるので、この事を示している当時の人達が、どう言う風に初心て言うものを見てるんだろう、晩学って言う言葉を使ったり、段々年数が重なって行くと言うことでしょう。お前今日はじめて来たじゃないか、あなたは何年もやってる、そう言う風なものの見方があるから、そう言う時にですね、じゃ初心て、そんなにつまらないものかって、一つは言ってる訳。

でこっち、何十年もやってるって言うけども、本当に今こうやってる事は、何十年もやってる事かって言ってる訳です。どちらも、今、生まれて初めて触れてる様子じゃないかと言うのが、ここで言いたい事ですね。だからあの、私の方が古いですとか、私の方が初めてですとかって、遠慮する必要が無い様になってる。威張る必要の無い様になってる。皆触れる処は初心です、生きてるって事、しょうがないじゃん。そう言う風になってる。今迄にやった事が無い事やるだけだもん、生きてるって事、全部。

(新しい日々、じゃなくて瞬時?)そう。新しいって事、言う事を仏教では大清浄って言う。大きい清浄。きれい。底抜けきれい、ね。古い物が何処にもない。それが大解脱って。全てのものから放ち解かれてる。(それを解脱って言うんですか)そうですよ。だってそうでしょう。内容としては言葉はだから難しいんだけども、事実を見てみると、何だ、って思う位簡単な事なのですよ。

そんな風に出来てるんだけど、ここの頭は、相変わらず古いもの一杯相手にして、有る様に思って生活してるから、この坐禅を本当にしてみないと、この事がはっきりしない。(先ほどの大解脱の他、もう一つは?)大清浄。清浄セイジョウって普通読む。仏教用語では清浄ショウジョウ。これが皆さん方の毎日過ごしてる様子なんです。

だから他の事持って来て見ないでしょう、これ見る時に。イキナリこれで済むじゃない。音を聞くんだって、何か持って来て聞かないんだもん。パン!いきなりパン!この音だけで、済、ちゃんと出来てる。皆、初めてでしょ。初心でしょ。そうやって過ごすと修行になる。この内容が非思量だから、初心て言うのは。手のつけ様がないじゃない。

未だかって自分の上で起こった事が無い事だから。自分の中にあるものを出して来るんじゃないからね。非思量って。古漬けみたいに。無いんだよ。この中に非思量って言うものが。あったものを出して来て触れる様な事じゃない。初心て言うものが非思量の正体。

音だって、パン!(打掌)何処からこう出してくるかって、どっかに有ったもの此処に引き出して来る訳じゃない。こうやってパン!音が出る様になってるだけだからね。これ位人間の考え方を離れてるものを、実際に体験して生きてる訳じゃん、本当は。だけども、何回も何回も言うけど、本当に人間て、こっから上で(頭)生きてるんだよ。考え方で生きてるだけって言っていい位つまらなくなってる。それを坐禅は、本当の自分の在り様そのものにこうやって居る。

自分自身のこの生き様ってものは、絶対に忘れようたって忘れられない、離れようたって離れられない様にできてるから、これだけで何時も初心で生活してるそれで十分。ということで。