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坐禅箴 ⅩⅡ

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200126_坐禅箴ⅩⅡ01
200126_坐禅箴ⅩⅡ02
200126_坐禅箴ⅩⅡ03


「南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。」馬祖道一が坐禅こうしてますって言うもんだから、その時に師匠は、其処にあった磚を取り上げて石の上にこうやって、(磚を摺る動作される)こうやって摺り合せて見せたって言う事ですね。そしたら馬祖が「大寂つひにとふにいはく、『師、作什麼』」お師匠さん何してるんですかって、こうやって尋ねたって言うんですね、問われた。それに対して道元禅師がこう言う事を「まことにたれかこれを磨塼とみざらん、」師匠がこうやって磚を石の上でやってるのを見て、こう言う風にやってるって言う風に見ない人が何処に居るって言ってます。
 子供に聞きゃあ分かるよ。この通り師匠がやってる通りにこうやって子供はその通りに見ますよ。大人はこの通りに見るんだけども、見る事に用が無くて、何してるんだろうって言う問いが中心になるんじゃない。不思議ですねぇ。「たれかこれを磨塼とみん。」 誰がこうやった時に、その通りだって決めるんだろう。誰も決めないんだけど、皆さんがこうやってる時に、こう触れるのを否応なしこうやってる様子にしか見てないんだもんね。これ以外の様子に見えないでしょう。それだのに考え方って言うのは、何をしてるんだろうって、分からない様な問い方をするんだね。何処が分からないんだろう。こうやってやってる時にこう見て、何が分からないんですか。これ以外に無いじゃないですか、見せるものは。やってる通りの事全部見せてるじゃないですか。みせてるんだけど、それ不思議でしょう、何やってるんだって思うんでしょう。ここ面白いね。こう言う処で道元禅師が突いてるね。
 「しかあれども、磨塼はかくのごとく『作什麼』と問せられきたるなり。」って言う事は師匠がこうやってる時に、一般の人もそうでしょうけけども、こうやってやってるのを見た時、その通り見えてる筈なのに、それは何してるんですかって、きっとそう言う風な問いが出て来るよと言ってる。「『作什麼』なるは、必ず磨塼なり。」言う事は、その問いですね、その問いの答えはこうやってやってる事に違いないじゃないかって言ってる。何やってますかって問うんだけれども、その答えは、こうやってる事に違いないじゃないかって。見ていながら、分からない様な事を言ってるって事でしょう。後にも出て来ますね。「水をもしらず、水をみるをもしらざるなり。」とこう今読んだ処にある。そのものに触れていながら、そのものがどう言う事なのか人間は分からない人が多い。
 次の処へ行きますよ。「此土他界」日本であろうが中国であろうが、アメリカであろうがフランスで、インドであろうが、何処の国であろうがですよ、「此土他界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。」どこの国へ行ったって、こうやったら何処の国の人であっても、老若男女貧富貴賤、色んな違いがあっても、眼はこうやって見せたら、そう言う風にしか絶対狂いが無い程確かにこう言う風にしかならないじゃないか。これが仏法と言われるものです。疑いの無い事実です。だから世界中通用するでしょう。
  次の処いきますよ。「自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、」先ず一つは、自分でやってる事は自分ではっきりしない。自分で言ってる事が自分の中で疑いを起こす。その様に「万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。」何時いかなる事に触れても、こう言う風にその時にその事やってるだけです。こうやった時にこの事がこの事をやってるだけ。こうやったらこの時にこの事をやってる。皆一々その時にその事がその通り行われてるだけだよと言ってます。何処を見ても。身体でやってみると分かるでしょう。こうやった時、こうやってる様子があるだけ(一つの動作される)こうやったら(別の動作される)こうやってる様子があるだけ。こうやったらこうやってる様子があるでしょう。それ以外の事を同時にやった試しが無いもんねぇ。何でも無い話ですよね。考えてみれば当たり前の事が書いてある。それがはっきりするって言う事が、私達に必要なんでしょう。ものが良く分からない人は自分中でごちゃごちゃになるのよね。
 だから、「しるべし、仏をみるに仏をしらず、」「会せざるがごとく」とあります。私の師匠はこうやって、パン!(手を打って)参禅をすると、パン!こうやって、分かるかって、言う。周りに居る、人の話を、先輩方の話を聞くと、音はしますって言う。パン!音は聞こえますって。音が聞こえるって言う事は、他に何か未だ自分でよく分からないものがあるって思ってる答えですね。探っているものが未だこうやった時にある。本当はパン!これで全部でしょう。何も隠さずに全部皆さんに上げたでしょう。こうやって。パン!この音を何不足ない筈なのに、手叩いて何してる。
 エー「いかなるか仏」言うと、パン!私はそんな事聞いてないって聞くわけです。私が聞いてるのはそんなパーンって叩いてくれって言ってるんじゃない。仏様って何?どう言うことですかって聞いてるのに、何でパン!こんな事で答えになるのかってパン!パン!思うじゃない。パン!そう言う事が人の上に多く行われるから、折角ちゃんとしたものを伝えてるのに、「仏をみるに仏をしらず、」本当にそうなってるって事が伝えられてる筈なのに、そこで疑いを起こす。
 お釈迦様がコンパラゲと言う花を持って来て、大勢居る時にこうやって見せた。ここと同じです。コンパラゲをこうやって花を見せる、と誰でも否応なしこの捧げた花がその通り見える様になってる。何してるんだろうって多くの人は、お釈迦さん何してるんだろうって。殆どの人が、花を持って来て取り上げてこうやってやるけど、何してるんだろって、殆どの人が思った。その中で一人だけニコッと笑った人がいる。これはこう言う事が良く分かってる人です。
 で、お釈迦様の子供さん、阿難尊者って言う方、後にお弟子の迦葉さんに、お悟りを開いた証として、身につけておった金襴のお袈裟を譲られたけども、それは私もその譲った時に居て見てるから、確かに渡したの知ってるんだけど、二人の間でわたしに知らない何かひそひそ話をして、大事な話が他にあるんじゃないかって尋ねた。法を伝え伝えるって言う事はそんな事じゃないと思ってる訳。だけども真実を伝えるって言う事は、磚を石にこすってる時に、磚を石にこすってる様に伝わるって事が真実を伝えるって言う事でしょう。違いますか。それ以外に無いでしょう。だけど人間はこんな事は仏法とは関係ないと思うんだよ。仏法ってもっと素晴らしいものだと思う。だけどこれが素晴らしい事なんでしょう。こうやったら必ずこう、他の様子がこうやった時に出て来ないって言う事が、正しくものを伝えてるって言う事なんでしょう。疑い様の無い事実なんでしょう。で、他に探したって無いから、これで済む。
 こんな事がもう一つは「会せざるがごとく、」分からない人が多いなあと言ってます。それは例えて見ると、「水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。」良いですね。しかも「現前の法、」今皆さんが生きた眼で触れているこの事実ですよ、「眼前の法、さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。」この他に、そう言う事はどうでもいいと、今こうやって見えてる事なんかどうでもいい、その他にもっと素晴らしい事がどっかにあるんじゃないかって思って勉強する様な人は、仏道を学ぶ人ではないよ、とおっしゃってる、です。「仏学にあらざるなり。」仏学って仏を本当に学ぶって言う事は、こうやって誰でも、今、目の前に展開されているこの事実に触れて、なるほど本当に間違いないって言う、そう言う事が仏道の学び方なんだよ、とおっしゃってる。これで大体終わっといてですね、あと三十分位、何か此処で質疑を、疑問が在ったり聞きたい事があったら聞いて下さい。どうぞ。此処までにしておきます。




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坐禅箴 ⅩⅠ

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2020. 1.26

少し読みます。
「しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、図は作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。且問すらくは、この一図、いくそくばくの作仏を葛藤すとかせん。この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。このとき、尽作仏の条々なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、みなともに条々の図なり。一図を回避すべからず。一図を回避するときは、喪身失命するなり。喪身失命するとき、一図の葛藤なり。
 南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。
 大寂つひにとふにいはく、『師、作什麼』
 まことにたれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく『作什麼』と問せられきたるなり。『作什麼』なるは、必ず磨塼なり。此土他界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。現前の法、さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。」

  まあその位まで読んで。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師、お師匠さんとお弟子さんの間で色々な問答が交わされておりますが、その中の様子ですね。前の方が上手に続かないと、皆さん、頭の中が上手く続かないかもしれませんが。江西大寂禅師って言うのは、南嶽の後を継がれた馬祖道一禅師ですけども、馬祖道一禅師大寂さんの言われる様子は、「坐禅かならず図作仏なり。」とまず出て来ております。皆さん方も坐ると言う事は、そこに坐ってる様子が必ずあると言う事でしょう、ねぇ。坐るって言う事は、先ずこの身体のこうやって坐ってる様子が先ずあると言う事でしょう、図作仏。必ず作仏の図なり。こうやった時に、こうなってない人は居ないでしょう。それは坐禅以外の事でもそうですよ。
 例えば、こうやった時に(一つの動作をしてみせる)こうならない事はないでしょう。こうやってやると、(別の動作)必ずこうなるのでしょう。こうやってやると(更に別の動作)必ずこうなるでしょう。その様に、今の様子がきちっとその通りの形をそこに見せると言う事ですね。それ以外の事が出て来ない。こうやった時に、これ以外の様子が、ねぇ、見て下さい
 あの眼蔵を読むって事は、こっち(プリントを示す)に用がないのです。私が話してる時に、こっち(老師)を見て貰わないと意味がないのね。こっち(プリント)を見てるって事は、自分の考え方で読んでるだけですから、家でやっても同じです、それだと。そうじゃない。こうやってやったら、必ずこう言う風な状況が出て来る、こうやったら必ずこう言う状況になって行くんですね。それがここに言う「坐禅かならず図作仏なり。坐禅かならず作仏の図なり。」 と言う事です。
 もっと普通に話をしたら、何時でも今の在り様しかない。この皆さんの身体、誰の身体でもそうですけど、皆さん自分の身体一つしかないから。ね。二つあれば同時に二つの形が出て来るけども、一つしか無いから、身体でやってる時は、必ず今の身体の様子しか絶対無いです。坐禅以外でもそう言う事が、此処に先ず書いてある。ね。その形は、図ですね、「図は作仏より前なるべし、図は作仏より後なるべし、作仏より正当恁麼時なるべし。」って、所謂何時でもと言う事です。
 あの、時間的に皆さんは過去とか現在とか未来とかって言う三世の時間帯をこう想像するもんですから、そう言う事が前とか後とか正当恁麼時って言う風になってます。何時でもこうやったら、さっきもこうやったら、こうなってる。これから先もこうやったら、こうなってる。今もこうやったらこうなってると言う事です。それが、どう言う事か、皆さんがどれ位感じるかね。この身体が皆さん一つしか無いから、その時にその通りの形しか絶対に何時何処に居ても、その時の形が一つしかないと言う事はですね、手を付けてどうする必要も無いと言う事でしょう。二つ以上あれば、どっちが正しいとか、どう在るべきだとか当然選ぶのでしょう。
 ところがこの身体で生活してる時に、何時でも今の身体の様子しか無いって言う事は比べるものが出て来ないです。もう一つの在り様って。これが私達が生きてる時の内容です。ところが考え方で自分を見てる人は、さっきああだったとか、今はこうだけどもって言って、そう言う見方をすると、頭の中で思い起こしてる姿と今坐ってる姿があって、それを自分で勝手に想像してるものと事実を比べて生活するから、修行の上で大変な厄介な事を繰り広げる様になってます。坐禅と言うのは、そう言う事をしないと言う事ですね。こうやって自分の身体に学んで行く訳です。
 皆さん方に問う、「且問すらくは、」皆さん方にちょっと聞いてみますけどと言う事ですね。暫く問うというんですね。「且問すらくは、この一図、いくそくばくの作仏を葛藤すとかせん。」今話した様に、一図ですから、この一人一人の自分の身体一つしかない身体の様子は、何時でも二つの動き方を同時にしないって言う事が一図です。それはどの位、いくそばく、長い時間ですね。そう言う事を本当にやってるんだろう。皆さんが知らない前からずーっと人間はそう言う働きしかしてない。なのに、何時からか知らないけども、今の様子ともう一つ前の様子と言う風なものを比べて見る様になった。考える様になった。それが一般の人の過ごし方じゃん。それは事実と思い浮かべたものとを、同じ次元のものとして扱ってるって言う、とんでもない間違いをしてるでしょ。
 もうちょっと違った事をいえば、味噌汁でも良いんですけども、昨日飲んだ味噌汁と今飲んでる味噌汁って言って、味を比べる訳でしょう。今飲んでる味噌汁は間違いなく此処で味がしてる。昨日飲んだ味噌汁はって言うんだけど、此処に味が無いでしょうが。自分の身体でやって見れば分かる。昨日飲んだ味噌汁の味は、今、味はしてないでしょう。それなのに比べるんですねぇ。価値があるかしら。比べられるかしら。(比べますね。-参加者の発言)それが普通の人でしょう。だけどよく見たら、こっちは味がしてない、思い起こしてる中には。味じゃない。自分の付けておいしかったとか不味かったとか、しょっぱかったとか薄かったとかって言う思いだけです。それを味がしてる様に勘違いしてる。こっちは否応なしに、今その通りの味がしてる。で、よく見ると、この今味がしてる様子だけなんですね、生きてる時に。こっちは無いんです。思い浮かべてる様子だけで、味ではないのです。
 こう言う事が分かるから、坐禅をする時に考え方の方を取り上げないんです。坐禅するって事は考え方の方を取り上げて坐らない。この事実だけにこうやっている。事実だけに居るって難しい様だけど、身体は、事実はそう言う風に一図しか描かないから良いじゃないですか。ずーっと何時でも。(参加者-事実は痺れがきれたとかああもう終わらないかなとか)それは思いですからね。(ああこっちは思いですか)思いです。(事実はああ足が痛いとか)この通りの様子があるだけ。だけどこの通りの様子も人によっては、もの凄く痛いって言う人もいれば、ちょっと耐えられるとか、ちょっととか言う人も居る位、思いって言うのは、一つのものに対して様々な意味を持つ。(痛いまでは事実)痛い迄は事実。(痛いからもう終わらないかって言うのは思い)そりゃそうです。(思いが何時も出て来てしまう)
 思いが出て来ると嫌になって来るでしょう。お仕事でも嫌気がさすと、そこの仕事がつまらない。本当に良い仕事をしてる時には、そう言うつまらない事やらないで生活してるって言う事が、皆さんは体験上あるじゃないですか。本当はそうやって知ってる筈なんです。こんな事が、「いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。」
 言葉としては難しいけども、ずーっと真実の在り様って言うものは誰しもがそう言う生き方をしてるんだけども、考え方が付くと、この事が覆われて、真実が覆われて、そのまま見れない様になる。それで坐禅をする時に、考え方を暫く相手にしないで、事実だけにこうやって居てみると、こう言う事がはっきりする。これが坐禅の、何故坐禅をするか、だから坐禅は形を作ってこうやってる事だけじゃないって言う事が良く分かるでしょ。形作ってこれだけで居たら、役に立たないじゃない。この自分自身のこうやって一図に居る。皆さんも他の意味で一途って使うじゃないですか。ねぇ。一途ってまっすぐって、まっしぐらって言って使うでしょう。よそ見をしない。これでも良いですよ、一図。よそ見をするなって、注意されませんか。ね。そうでしょう。本当に何かやる時によそ見しない様に注意する。今向かってる事だけにこうやって居させる。
 「この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。」そう言う事が次から次へずーっとある、と言う事でしょう。葛藤って言うのは、文字からすれば、蔓とか藤とかって言うから、一本の木にまつわりつく様な性質の物。皆各自自分自身と言うこの身心を頂いてますから、この身心を見ていくと、何処へ行っても周りの環境と物がこの身体の上に現れる様に出来てる。外に行ったら必ずどうもしないのに、外に行った様に必ず変わって行く。トイレに行ったらトイレに、ご飯食べたらご飯食べてる様にすぐ変わる。そんな風にこの身体に、離れずに一緒にこうやって活動してる。そう言うものが葛藤の様子です。邪魔にはならない。普通の葛藤はあれが纏わり付くと木が枯れる。
 もうちょっと補足すれば、私達が考えてる様に、向こうとこっちと言う様な線が無く、物と一緒になって活動する様に、本来これは出来てる。もうちょっと補足をすれば、私達が考えてる様に、向こうとこっちって言う様な線、さかい目が無く、物と一緒になって活動する様に本来これは出来ている。何処へ行っても。こうやって今隣の人達が喋っている様子が在ると、聞こうと思わないのに、その事と一緒にこうやってなってるでしょう。そう言う様な事が、皆この葛藤と言われるような様子です。
 「このとき、尽作仏の条々なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、みなともに条々の図なり」一々その時の在り様です。前にも後にもない、その時の在り様がその時にその通り行われて、どうもしないのに、何処にもその活動した様子が残らない活動してる。生きたものってそうなってます。皆さんの生活で、生きてる実物の生活は体験したのにも拘わらず、何処にも残っていない。あるのは今の体験してる様子だけが展開してる。不思議でしょう。
 こうやって実際に目でこうやって見ても、こうやって部屋の中を見た時に、今見てる様子だけしか出て来ない。先程見たに違いないんだけど、見えてたに違いないんだけど、こうやって今見てる様子しかない。音もこうやって、トントントントントン(連続して打つ)ずーっと音を聞いてるんだけど、どの音を聞いてるかと言ったら、必ず、今してる音しか聞かない。さっきした音をこうやった時に聞かない。こう言う風になってるのね。こう言う様な事が、「かならず尽作仏の端的なる」端的だから、端的って言う事は取りも直さず、ですかね。自分で何かする気配は何にも無いのが端的です。
 こうやってやると、皆さんそこに居て、私がこうやってやると、(扇子の表を出して、裏返しにする)皆さん裏返しにしないのに、裏返しにした様になるでしょう。見えるでしょう。それもどの位の早さで成るのかね。端的だから。ね、こんなに早くずれが無く、この通りになるでしょう。こう言うのが端的と言います。一切人の見解が入らない。こんな面白い活動して生きてる。これ坐禅の時の内容だと、南嶽さんと馬祖が話の中でやってる事を、道元禅師がこう言う風にキチッと皆さんに説いておられるね。
 次の処に、「一図を回避すべからず。」回避すべからず、今こうなってる様子を回避するって事は、そっから逃げて行くって言う事でしょう。回避出来ない、こうやった時に。こう、嫌だって言って、こうやった時、こうなってる事から、どっか行きたくても、こうやったら必ずこうなるでしょう。逃げて行かれない、今。否応なしこうなるでしょう。こうやってやれば、こうなるでしょう。こんな風になっております、と言っております、と言う事です。で、一図を回避する事があったら、逃げて行く様な事をしたら、たちまち自分の本当の在り様から脱落してつまらない人になるぞ、と、此処では命を失うと書いて有る。「喪身失命」
そうでしょう。今見てる事、今見てる時に、今見てる事から離れる様な生き方をしたら、どう言う事ですか。今こうやって触れてる時に、この触れてる事から離れる様な生き方をしたら、変でしょう。エー。だけど人間はそう言う風なとんでもない事を求める。それが出来ると修行が出来た様に思ってる。そうじゃないよね。
 「喪身失命するとき、一図の葛藤なり。」自分自身のそう言うつまらない動きをした時に、やっぱりそう言う動きをすると、その通りの自分がそこに出て来る。それで自分で気づく訳です。ああこんな事をするとこんなになるなって、分かるのですね。余分な考え方をして、今見ている事の他に物を見ようと思うって言う様な事をしたら駄目だって言う事が分かる様になってる。本当に物を見るって言う事は、今触れてる時に、その通りこう在れば、それで良いのでしょう。それ以外の物が見えるなんて事をやったら変なんでしょう。まあこう言う話がそこで説かれて、その時に、今度はお師匠さんの、これ、馬祖道一禅師がこうやって坐ってる時に、何をしてるのかって、師匠の南嶽さんに問われたから、作仏を図るって言って馬祖が言われたから、その作仏を図るって言うのはどう言う事かって言う事に対しての、道元禅師の在り様が説かれてます。
 皆さん方がどう思うかは別として、道元禅師が本当に坐ってる時にはそうなってるんじゃないかって言って、勉強の、何だろう、足しになる様に呼び水をさして、皆さんはどうかと、私はこう言う風に本当に自分の様子として在るんだけど、あなた方は私が今話してるのを同じなのか違うのか、或いはもっと全く違う事をやってるのかって尋ねておられます。且問ですから。暫く問う皆さん方に。
 もう一回ざーっとやると、この身体は一つだから、何時いかなる時でも自分の在り様と言うものは、二重の身体の動きがそこに見えると言う事は無い。良い事につけ悪い事にゆけ、苦しんでいる事であろうが、楽しんでいる事であろうが、どんな時でも間違いなく、その時の様子だけしかそこに現れていない。徹底して。それが昨日今日始まった事じゃない。自分の知らない時からずーっとそう言う、これはそう言う活動しかしてない。これから先も。で、とどのつまり、先程もちょっと触れた様に、その事は、二つの様子が無いと言う事は、先ず悩まない、苦しまない、不安にならない、争いが起きない、もう全ての条件がそれで満たされているって言う事です。
 皆さんが問題になる時は、必ず一図じゃないです。もう一つの様子があるんです。それが何かといったら、この中で思い起こしている事が問題になるんです。実物の方は必ず一図です。私がこうやって袖をこうやった時、もう一つの様子を私がやりたくても出来ない。手だってそうです。こうやってやった時に、もう一つの様子を同時に作れない。必ず今の様子だけです。それが底抜け人を救ってる時の内容でしょう。これからどうかしなくても。それが本当に皆さん方の自分の様子として、自覚ができたら。一切の問題ないが働きをしてるって事が自分で良く分かる。
 そう言うものが禅の修行と言われてる。禅て何をするか、自分自身の今の真相そのものに目覚めるって言う事です。それが本当にどうあるかって言う事。それを釈尊がやって、斯くあるって言う事がおわかりになった内容が伝えられてるものを総まとめして、仏教と名付けています。内容は各自、自分自身の真相です。そう言う事が、まあこの一段の話の中に示してありますね。




坐禅箴 Ⅹ

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次の頁ちょっと行きますが、「江西の曰く『図作仏』」道元禅師がそれに対して、「この道あきらめたっすべし」江西の馬祖道一禅師が、お師匠さんが、お前何してるんだ、坐ってた時に、いや図作仏ですって言ったんですね。道元禅師がその事に対して、先ず作仏って言うのはどう言う風に捉えているか、皆さん。仏となるって、一応文字上はそうなってるじゃん。仏を作るとか仏に成る、ね。皆さんはどう言う風にとらえるんですかね。「作仏と道取するはいかにあるべきぞ。」どう言う事が作仏と言う内容なのか。
 で、道元禅師が皆さんの答えを待つ前にご自身の口から「仏に作仏せらるるを作仏と道取するか。」これが一つでしょう。自分の方でどうもしないのに、こうやって物に眼がふれると、否応なしに、その通りこうやって、その物がこうその通り見える様になるのか。そう言うものを作仏と言うのか。チリチリチリチリ音がすると、チリチリチリチリ自分で聞こうとも何ともしないのに、否応なしいきなりチリチリチリチリ音がしてる様にチリチリチリチリこうなる。そう言うあり方を作仏と言うのだろうか。
 「仏を作仏するを作仏を道取するか。」一々今の様子そのものにこうやって居るだけですね。距離も時間もかからない。向かうと言う距離が無い。尋ねてそこに到ると言う距離がない。こうやってチリチリチリチリ。だけど人間はこうやってやると、向こうで音がしてこっちで聞くって云う風に理解してる人は、距離を持ってる人でしょうねぇ。もう一回自分の耳で確かめてみると、こうやって、チリチリチリチリ音がする時に、向こうからこっちへ音が聞こえてきたって言う風に聞こえるか、距離あるか。自分の耳で確かめてみて下さい。時間的な表現では、今って言うものは絶対に人が手を付ける事の出来ない様子ですよ。作るんじゃないからね、今の様子って。今の様子に其処へ行くなんて言う事はない。今と言う有様は初めっから存在しているのではない。どこからか来て今になるのでもない。去来もなし。そうやって過ごすのかって言う事です。
 「仏を作仏するを作仏と道取するか。」「仏の一面出両面出するを作仏と道取するか。」一々今の様子だけだって言う事でしょう。一面出両面出って事は。その時にその時の顔の様子がある、その時その時の様子が只、その時にあるだけ。その時にもう一つの様子が出て来た事無いでしょう。不思議だねえ。
 例えば私がこうやって手を動かした時、私が手を動かす時に、もう一つの手の動かし方が出て来る事が無い。次にこうやっても、一面出両面出って言うけど、何時も只その様子だけが、こうあるだけです。で、こうやった時に作り変えてこんな事やる事ない。これで終わっちゃう、もうこの事は全部。こんな生活をしてるって事でしょう。だけど人間は、こうやった後、これを問題にする、終わってちゃってから問題にする。気に入らんて。エー。実物は皆さんが気に入るとかいらないとかって言うものが起きる前に終わっちゃう。こんな素晴らしい生活を皆さんしてるんですよ。だけどこの事を自分で気が付かないから、終わった後の事しか取り上げた事ないじゃないですか、生活で。眼が眠ってるのと同じですよ。真実の様子が其処に在りながら見る力が無い。自分の眼が眠っているから。ねぇ。無いなら難しいですよ、探すのに。だけども、誰しもそう言う事が行われてるじゃん。こうやった時にやり直して見るなんて事ないでしょう。この通り見えて終りでしょうが。そしたら文句言わなくなるでしょうが、あれがこれが。
 「作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。」その時限りで何処にもその様子が残らない。ねぇ。その時限りでその事は何処にも残らない。こうやって確かに見たに違いないけど、見終わった時に、今見た物が何処にも無い。こうやって見せた、確かに皆さんその通り見えたでしょうが。だけど、こうやってやり終わった時に、そのやった事が何処にも無い。抜け殻も無い、脱落って言うけど、抜け殻も無い。それ位皆さんの思ってる事と違う生き様をしてる。そう言う自分の在り様を「図作仏」と言うのか作仏と言うのか、と言う様な事を道元禅師は幾つも身近な事を、自らの口で皆さん方に問いかけている。答えはあなた方がその中で出すのですよ。本当にこの道元禅師が言ってる様な事なのかどうかって事は、自分自身で、自分自身が生活してる様子の中で、この身体、身心の活動してる様子で。それが「耳目をして聡明ならしむ」って言う事です。他の人にやって貰ったって分かる訳がない。物を見るんだって、音を聞くんだって、他の人の身体で見たり聞いたりする事は、どんなにやったってはっきりしません。だけども自分自身の上でやると、こうやってチリチリチリチリ(鈴を振って)他の人の耳で聞いてないでしょう。他の人の目で見てないから、隣に居て、どう言う風に見えますかなんて言う必要がないじゃない。その通りの様子しか出て来ないんだもん、こうやって。これがこうやった時に、その通り以外の様子が、こうやった時に出て来るんだったら、非常に問題になるけど、出て来ないでしょう。だから一切混乱しないじゃん。そう言う風な過ごし方をしてるのを、作仏と言うのかって言ってるんです、仏様。仏様の過ごし方って、そう言う過ごし方をしてる。それは誰しもが今やってる事ですよ。
 ちょっと屁理屈を付けてみれば分かる様に、こうやった時に(物をみせる)その通り見えるだけだったら、迷うって言う事はないでしょう。エー。迷うって言う事は比べる物があって、どっちが本当だろうって言う様な事の時に迷うって言うんでしょう。単純にその事だけが出て来て、何を迷うんでしょう。迷わないじゃない。で、これだけしか出て来ないから、見るのに苦しむ事は無いじゃないですか。悩む事は無いじゃないですか。本当は皆さんそうやって毎日生活してるんですよ。だけど此処まで自分の心底、心の、心底、心の様子に触れないから、考え方の上だけのものを見てるから、分からないだけですよ。頭に思い浮かべた事の方を重要視してるから。その方が気になる訳でしょう。明日雨が降るかなー、エーそう言う様な事を思い始めると、今天気の中にこうやって生活してても心配になる訳でしょう。雨が降ってないのに。不思議ですねぇ。
 「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏を道取するか。」今ずーっと話して来た様な人の在り様ですね。眼でも耳でも、身体全ての活動がそう言う風になってますけども、万般です。何もかもそう言う風になってます、誰しも。本質的な働きってそう言う風になってます。今の事を後でやるったら、今の事をやってるとは言わない。今の事は今やるだけです。後ではやらない。後でやる用がない。
 これで見終わったんです。(扇を開いて見せる)だけど、何かこうやった時に、良く分からないってふっと思うと、もう一回やって下さいって言うんですよ。良く分からないから。もう一回こうやってやってあげる。そうすると、前のものと今のものをこうやって比べて、前のものはああ言う風になってたのかなって、そう言う風な勉強をしてる。そうじゃない。今の様子を学ぶだけなんですよ。学ぶって言う事は何時でも。さっきはっきり見なかったからお願いしますって、何回でもやって上げるけどね、皆さん見てるものは何を見てるかったら、必ず今の様子だけじゃないですか。さっきの様子を見てる訳じゃない。それだのに人間はさっきこうやってやった時に良く分かんなかったけど、なるほどさっきああなってたのかって、こうやってみるんです。さっきああなってたって見るんじゃないです。今こうなってるんですよ。(扇を見せる)分かるかしら、こう言う処。不思議だね。そうやっちゃ、さっき分からない事が分かった様な気になって。そうじゃない。今の事が今分かると、さっき分からなかった事必要なくなるんだよね。それだけじゃん。
 「この図に葛藤しもてゆく」かって、こう言うお互いの様子、一緒になりながら活動してる様子、それだけで修行して行くのでしょう。葛藤は物に絡まり付く蔦だとか藤とかそう言う様な事で、一般的には、邪魔者って言う様な意味に葛藤ってのは取ってるけど、此処でこうやって読んで見ると、葛藤ってのはそう言う取り方はしてないね。葛藤って、本当に向こうとこっちって言われる物が一緒になりながら活動してる。物を見る時だってそうでしょう。向こうの様子と皆さんが見てる様子が別々な事は無いでしょう。必ず一緒でしょう。
昨日、面白い事を言う人がいた。何かね、鏡がこうあって、こちらで手を上げる、右手を挙げると鏡の中はどっちの手が上がってるでしょう、って言うんだって。。エー。こうやってこっち、鏡の外に入る人が右手を挙げた時、鏡の中に写るでしょ、これが。で、鏡の中の手はどちらの手を上げてるでしょうって。これがですね、学者がですね、結論がつかないんだって。愚かだと思いませんか。こっちは右手だけど、あっちは左手だって言う人がいるらしい。だけど一番はっきりしてるのは、鏡がこうあったら、こうやって鏡に近づけてみると、向こうの手とこっちの手が別の手でないって事良く分かるでしょう。だから向こうに見える手とこっちにある手だもんだから、別々になる様に思ってるんだね。考え方ってこうやって迷わされる。実物は迷いませんよ。こうやってやると、間違いなくこうやって近づけて行くと自分の手そのものの様子ですから。こっちの手じゃないってのが良く分かる。逆に写ろうがどう写ろうが、自分の今の手の様子に違いないって言う程はっきりしてる。こんな話が昨日あって、エー学者ってつまらんなって話したんだけど。
(それ右っていうんでしょう)そう。
(右って言うから駄目なのよね。)言っても良いけど、言葉は幾ら言ったって良いんだけども自分の中で言いながら、はっきりしないんだよ。
(学者は何処が分からないんですか)右の手か左の手かって、鏡の中に写ってるのは右のてなのか、こっちは右の手を上げてるけど、向こうは右の手を上げてるのか左の手をあげてるのかって、そう言う質問らしい。
 で、それで私はついでだから、皆さん右と左知ってますよね、って。右と左知ってますよね、何処からが右で、何処からが左ですかって。お尋ねしてみたら、答えが出ない。知ってるでしょう。何処から右で何処から左ですか。(笑)右の様子とか左の様子とか言うけど、どこからが右の様子ですか、此処ですか、此処ですか、左の様子ってここら辺からですか。エー。
 (どっからか無いんですね。)無いんですよね。実物の方は何にも迷わない様に出来てる。こっち(頭)が分からなくしてるだけ、考え方。言葉を知ってるために。
 こうやってる時(正面向いてる)右左と、こうやってる時(横に面す)右左は全然違う。自分の向いてる位置に依って全く違ってくるのよね。ねぇ。それ位自己中心に生きてると言う事だよね。物の真相そのものに学んでない。だから道を聞いてもですね、電話で、あなた何処に今居ますかって言って、いや此処に居るんだけどって言って、その道を右にずーっと行って下さいって、その先行くと左に曲がって下さいって、だけどこっち向いて聞いてる人とですね、こっち向いて聞いてる人ではですよ、全然違いますよ。ちゃーんと聞いて、言われた通り行ったんだけど、無いって。面白いね。一番最初が分かってない、ね。一番最初をちゃんと見てない。物の真相を明らめるって事はそう言う事です。一番物の最初、人間の分別を入れる前にはっきりしてる状況がある。その物に触れないと、物の真相は掻き回されて分からなくなる、考え方で。皆さんが困るのは、皆そうじゃない。
 事実を見て悩む事は無い。事実が悩むんじゃない。考え方が悩ませるだけじゃない。ああ倒壊しちゃって、昨日まで住んでた家が。そう言う事でしょうね。だから救いってものは、そう言う処に在るじゃない。壊れたものは壊れてるって事が自分ではっきりしたら、立ち直って行くでしょう。ところが、壊れた事を悩んだり苦しんだりしてる処からしか物を見てないじゃない。壊れる前の様になってればこんなにならないんだけどって、そう言う思いだけに居る人は大変ですよ。親しい方と死に別れてもそう。色んな過酷な事が世の中に起きてくるけど。事実は人を苦しめる事は無い。考え方が人を苦しめます。あああったら良かった、こうあって欲しいって言う思いが強いから、許せないんです、今の事実をそのまま。受け入れられない。だけど事実って言うのは受け入れるしかないじゃないですか。無い様にしようと思ったって無理じゃない。それが物を本当にはっきり明きらめる人でしょう。どうなってるかって言う事が分かる人。そうすると立ち上がる力が其処にある。まあその位で良いのかな、時間。あと、何か聞いてみたい事や気になってる事があったらどうぞ、此処で。公開独参みたいなもんですね。やりましょう。


坐禅箴 Ⅸ

2019.9.29 (前半は前回とダブっています)

音声はこちら ↓

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最初少し読んでから入りたいと思います。

「江西大寂禅師ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽ある時とき大寂のところにゆきてとふ、『大徳、坐禅図箇什麼』。
 この問、しづかに巧夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に巧夫すべし。」


まあその辺までこう見てもらって。此処でお師匠さんとお弟子さんの間に交わされたものがありますね。この江西の大寂馬祖道一禅師と言っておりますけども、馬祖禅師は南嶽大慧懐譲禅師の、南嶽懐譲禅師の高弟、お弟子さんの中でも優れた方です。そのトップに位置する位の方が、馬祖道一禅師です。江西の大寂禅師。
その方を道元禅師は評価するのに、お師匠さんについてですね、「密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。」って言う事は、ものの本当の在り様がよーく伝わっている人だと言う事です。まだ勉強不足な人ではない、と言う意味ですね。「密受心印よりこのかた、」と言う事は。一般にはね、ここがはっきりしないもんだから、この後出て来る会話がですね、えらい方向に進展して行く事が多い訳です。で、そこを先ず押さえといて欲しい。
 そしてそう言う方が常に坐禅をしておられる。馬祖道一禅師がですねぇ、常に坐禅をしておられるので、お師匠さんがある時そこへ行きましてね、「あなたは坐禅をして何をしていうるのか。」と聞いてます。皆さんは坐禅をして何をしようとするのでしょう。まあそれはちょっとそこへ置いときますね。
「この問、しづかに 巧夫参究すべし。」って言う事は、私達に向けられている言葉でしょう。ね、お互いに、坐ってして一体何をしようとしているのか。で、道元禅師がその内容について幾つか挙げておられる。先ず一つは、「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」どう言う事かって言うと、今坐って居る時に、今坐っている事の他に未だ何か向かうべきもの、を頭に描いているか、或いは求めているのか、立てて坐っている、そうじゃなくて、本当に今坐っている時に、今坐っている様子だけがあるだけなのか。
 坐禅で分かりにくい時はですね、こう言うものをこうやって見てみると分かる。チーン!(おりんを鳴らす)音がした時に皆さん音を聞きますけど、この音を聞く時に、この音の他に何か聞きに行きますか、この音を聞く時にチーン!他のものを聞きに行く様な事をしますか。しないでしょう。この音を聞くって言う事は、チーン!です。ところが皆さんの坐禅はひょっとすると、坐禅をしながら、どっかに向かうもの持ってませんか。「悟りたい」とか「はっきりしたい」とか「すっきりしたい」とか、「あれが問題で解決すると良いな」とか、色んなもの持ってるでしょう。こう言う時はどうですか。チーン!その様になりたいとかそんな風に聞こえますか。何にもそう言うもの無しに只本当に音がチーン!するばかりでしょう。チンチン!
 こう言う事が、今問われてる。「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」本当に坐っていると言う事は、今坐っている様子だけだと言う事でしょう。それが本当に坐っている時の様子でしょう。
同じ様に、「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」こうやって坐っている他に、格外ですから、この他に何か坐禅の、本当の坐禅の坐り方がどっかにあるのか、若しそんな事があるんだったら、変でしょう。更に「すべて図すべからざるか。」図は描くでも良いですよね。図るでも良いですよね。要するに、平易な言葉で言えば、もう一つの絵が、自分が今坐っている時に、もう一つの絵が有るのかって言う事です。これ今坐ってる時、そこにもう一つの坐ってる様子が出て来る様な事があるのか。そしたら、若し出て来るんだったら、そっちこっちって比べる物が出て来ますから、坐禅をしてる時にそのままでは居られなくなるのでしょう、優劣とか是非。二つ出て来たら。ところが有り難い事に、坐ってる時に、本当に此処は「すべて図すべからざるか。」って、道元さんが言っておられる。他の絵の様に、坐ってる絵が、もう一枚の絵が出て来ないんですよ、こうやって坐ってる時に。誰が坐ってるのを見たって。今坐ってる様子だけでしょう、ねぇ。
 「当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。」坐ってる時に、どの様に本当になってるかって、尋ねてます。「審細に巧夫すべし。」だから、よくよくつまびらかに、はっきりさせる必要があるって、先ずそうなってますね。それが皆さんにも要求される。
 「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とある。考え方で取り扱ってるものと実物その物の違いがはっきりしてますから、坐禅をするって言う事は、考え方の上のものを取り扱わない。実物真龍に、生き物の様子、それに用がある。考えの方は彫龍です。ああだった、こうだったとか、ああじゃないか、こうじゃないか、こうなるんじゃないか、皆描いてるもの、それが彫龍と言いますね。彫り物の龍。真龍の方は、今この全身で活動してる生き生きとした様子そのものです。で、そう言う思考の上のものを愛するよりも、進みて自分自身の真相そのものを、本当に相手にする、問題にして向き合って行かなければ、坐禅にならないと言う事です。
 「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学すべし。」両方ともそれぞれの働きが有りますけれども、一方は考え方の上のものを取り扱っては、決着がつかないって言う事がはっきりしてる。何処まで行っても。論理を推し進めて、斯くある、本当になるほどそうなってるな、理解ちゃんと出来るって。幾ら、本当に不思議ですねぇ、理解では自分の中がですねぇ、許せないものがある。それだから、修行する時に、考え方で修行しないのね。そう言う事が、ここに「雲雨の能あることを学すべし。」って言うんですね。雲を呼び雨を降らせる力とあります。考え方に頼れば、そう言う風な働きになる。真実の物に本当にこうやって触れていると、そのものに依ってはっきりする。どちらも力がありますけど。
 エー「遠を貴することなかれ、遠を賤とすることなかれ」人間て不思議な動物でですね、特に日本(人)の生き様の中に舶来品なんて言う言葉が使われていますね。他所から来た物は凄く素晴らしいものの様に思う癖があるじゃない。日本の物も他所の国からすれば舶来品ですよ。その位日本の文化そのものにも、他所の国に劣らない素晴らしいものが有りながらですねぇ、本当に近くの物は駄目ですね、遠くの物を大事にする癖が有る、一つはね。もう一つは逆に、遠くの物を卑しい、つまらないって言う扱いをする働きもある。まあどちらもあるんだけども、「遠に慣熟なるべし。」ってあります。どちらもですね、善し悪しを付けずに、親しくそのものにこうやって居てみる必要がある。遠いから、他所から来たものだから大事だとか、他所から来たものだからどうでも良い、どっちもそう言う思いを付けずにそのものに親しくこうやって居るって事が慣熟ですね。
 人の話でもそう。あの人の話は良い、この人の話はつまらないってそう言う評価をした上から人の話を聞く様な事はしない。本当に喋ってる通りに居てみる。そうすると此処にある様に、熟すと言う事がある。あの、渋柿でもそうだけど、木に付いたままですね、時間が経つとですね、甘みがちゃーんと増してくる様になってる。だから熟する迄待てと言います。上は慣れるだから、習慣性ですね。それを習い性とするって言う事でしょう。何時でもその事と仲良く只居る、そう言う過ごし方をする。それに色んなもの付けない。もう熟したんじゃないかって言って、こうやって、チンチンチンチン(おりんを打つ)もう熟したんじゃないかって、チンチンチンメロンでも何でも、触っちゃ押さえたりするとですね、腐っちゃうんだよ。待てないんだよね、中々ね、熟れるまで。人間にはなんかそう言う変な働きがあるね。
 遠い方も近い方も同じだと書いてある。「近を賤することなかれ、」旦那さんが奥さんの事を身近に居るから扱いが乱暴になる。奥さんは旦那さんが身近にいるから、フンって言って扱う。そう言う様な事が一つは上げられる。だけど他所の人と触れるとですね、全然違う態度取るでしょう、ねぇ。自分のものだと思ってるから、もの凄いぞんざいに扱う。この位言えば分かりそうだと思って、ぞんざいに扱う。そう言うな事が一例です。エー「近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、」自分の子供は他所の子供よりも、誰よりも大事だって言って、そうやって抱え込む様なものも、近を身近なものを尊しとする様子でしょう。そうするとやっぱり我が子だけ可愛い様じゃ不味いんでしょう。正しくものを本当にこうやって受け取る生き方に成らないじゃん。平等と言う様な言葉もあるけども、同じ様にこうやって分け隔てなく扱える力ってものが私達に求められてる。「近に慣熟なるべし。」
 そこで更に、具体的な事を道元禅師が上げておられる。「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」目は物が見える道具です。こうやって見て。大事にもしなければ粗末にもしないと言うのが、目を本当に使って物を見てる時の在り様でなければならない。目には物を見る時、優劣を付けないから。是非を付けて物を見た事がない、眼は。本来の眼。ところが知らない人はすぐ、見てる事と考える事を一緒にしてしまう。見て色んな事を思う事も、見てる事だと思ってる。そうじゃない。あれは考えてる事です。目は絶対に思うと言う事を付けない。それでこの眼に学ぶ必要があるのです。純粋に皆さんの持ってる眼に学んでみると、色んな事がはっきりするじゃない。眼は一切好き嫌いを起こさないから、どんな物でもその通り、いい加減に見た事は一度も無い。どちらもいい加減に扱わない。それだから素晴らしいんでしょう。そこへ、考え方をちょっと見てる物へ付けると、すぐ見た物に対して優劣をみるから、優劣を見ると、折角ちゃんと見てるんだけども、どうでも良いって思わせるから、フンと、こうなる。ねぇ。そう言う事が如実に行われてる訳でしょう。
 耳でもそう。「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」で、大事な事はその次にありますね。「耳目をして」耳や眼、こう言うものの働きを借りて、「聡明ならしむべし。」ってある。真相、ものの在り様を本当にはっきり見届けなさいって言うんですよ。その眼の、耳や眼を以て聡明に、大寂禅師が坐ってる時の様子にこうやって触れて見るとどうなってるかって言う事でしょう、皆さんが。今坐ってる様子以外に何もそこに無いのでしょう。まあ一、二の例をあげれば、「耳目をして聡明」の部類のものを上げれば、何回もこう話してるかもしれませんが、眼って言うものは本当に今触れてる様子だけですよ、何時でも。見えてる物は。それに疑義を持つ人は居ないと思う。
 眼って何時でも今こう触れてるものがあるだけ。もう一つの見え方って言うものは絶対に無い。何処へ向かったってそうでしょう。その通りの様子があるだけで、もう一つの見え方が一緒に出て来るって事無いでしょう。耳だってそうでしょう。チリチリチリチリ(鈴を鳴らす)こうやってもう一つの聞こえ方が一緒に出て来る事は無いでしょう。必ずその音がしてる時、その時に音が、その通りあるだけで。音が鳴り止んでから、チリチリチリチリチリ聞こえると言う様な事ない。これで聡明になったでしょう、皆さん。なりませんか、皆さん。
自分の生活見てご覧なさい。こんな風に成ってないでしょう。昔聞いたもの、昔見たもの、そう言うものと道連れに生きてるでしょう、皆さん。それ自分の今の様子と違うじゃないですか。こっちはこうやって、チリチリチリチリこれがちょっとおかしいんじゃって、こうやって喋ったものでも、喋り終わると何処にも取り上げるものが無い。そう言う風に耳はなってるでしょう。だけど皆さんはそうじゃないじゃない。あの時あの人酷い事私に言ったって、ずーっと。何回でもそうやってそれを問題にして生きてるでしょう。聡明じゃないでしょう。愚図でしょう。それ、作り変えるんじゃなくて、実際にそう言う風になってるでしょう、皆さんの今の耳は。音がしてると聞こえて、音が止むと聞こえないでしょう、間違いなく。なんで普段もその様に生活しないんだろう。
 眼はこうやって向かってる物が必ず見えるだけです。向かってない物が見える事は眼には無いです。昔あーだった、こーだったって言う様な事はこんな処に出て来ない。こうやって向かった時に、昔あーだったって、そんな風に見える事は無い。それは頭の中で描いてる方の話であって、見えてる事とは違います。こう言う事が行われると言う事が、「耳目をして聡明ならしむ」と言う事でしょう。これが皆さんが修行してる様子じゃない。ねぇ。自分の事だから誰に聞かなくても、やってみると間違いなくそうなってる、一方では。そうなってる自分があるにも拘わらず、生活はそれと全く違う生活をして苦しんでるって言う事を見ると、ああ自分は、本当の事を大事にしてないなぁ、こう言う生活をしてるからつまらなくなるんだって言う事が良く分かるでしょう。
 これがゴミだって事も良く分かるでしょう。だからこのゴミを取ったら綺麗になるのでしょう。付かないのでしょう、こうやって物を見る時に。ゴミが一切付かずに物を見てるでしょう、何時も。その通りの様子があるだけ。一切ゴミが付かないじゃん。
 江西の大寂禅師が坐ってる時、坐ってる様子、本当に底抜け坐ってる様子だけで、一点も手を付けて何かする気配が無い。それが坐ってる時の皆さんの在り様じゃない。知らない人は坐って何かやるのでしょう、他の事を。どうですか。坐るって何か他の事をやる様に思ってませんか。本当に只こうやって、今坐ってる様子だけで、こうやって居ますか。ああ考えちゃいけないとか、手を付けちゃいけないとか、何かそう言う、色んな事やってませんか。教えられた事を頭に描くから、ああこんな事やっててはいけない、思いが出て来たら手を付けないで放っとけば良い、気にしない様にしてれば良いんだとか、只このまま居れば良いとか、ありのまま、もう色んな事を頭に描いてですね、それじゃ坐ってる時に何枚もの絵が有るって言う事でしょう。皆さんどうですか。眼でこうやった時に、何枚もの絵がいっぺんに浮かびますか。今の様子だけでしょう。そうやって過ごす。こんなに丁寧に、兎に角道元禅師が示しておられる。

坐禅箴 Ⅷ

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「彫龍」彫った龍ですね、「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」って言うんだけども、じゃ本当の龍ってこの世の中に居るのかって言ったら、普通に考えたら、龍自体が架空の動物ですから、本当にには居ないものです。此処で真龍って何を指すかったら、皆さんの本当の、自分の本当の在り方を指す。それを真龍と指してます。生まれてから後、で自分の考え方を中心にして、彩りをつけたり、色んな事をやっていくものの方を彫龍と言います。どっちが大事かって言うと本物の方が大事だと一応言ってる訳ですね。

これを普通に蛇に例えたら、彫刻の蛇よりも生の蛇の方を相手にした方が、本物がよく分かるということです。絵を見るよりも実物を見るほうが良い。レコードを聴くよりは生の演奏に触れた方が良いという事です。みなそうなってるじゃないですか。だけど知識がはびこって来て、今のこうやって電子機器の様な物が発達したもんだから、実物ほとんど抜きになってきてる。実物よりも本物に近いぐらい今の電子機器って物はリアルに物を想定させるもんだから、それで済んでるけど、やっぱり仮想の物は仮想です。お花なんかでも造花の花を見ると、本物の花よりも綺麗だ。ウワーっと思う様な花が売られてるね。その位今は素晴らしい技術がある。それでも矢張り本物とは違う。本物を知ろうと思ったら本物で学ばないと分からない。偽物でいくら勉強しても本物は分らない。ね。そう言う事が「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とこう言う事です。

「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。」彫龍は彫龍、真龍は真龍でそれぞれ持ち味があって、違ったものがはっきりそこで勉強できる力を持ってる、どちらも。だから良いのでしょう。これが真龍 も彫龍も同じ様に見えちゃったら、皆さん大変でしょう。騙される。(笑)そんなことはないですね。

そこで身近な事を道元禅師がおっしゃってる「遠を貴することなかれ、」この当時も最近ででもそうだと思うけどもで、日本の方なんかヨーロッパとか欧米から入って来た物が、日本の文化よりもすぐ尊ぶ癖があったでしょう。舶来品とか言って。他所の国の物を非常に高く思う気風があった。これを逆にすればですね、自動車なんかでもそうだけども、国産車って言うけどもねぇ、日本の車だって外車ですよ、アメリカ行けば、イギリス行けば、フランス行けば、日本の車は外車ですよ。だけど日本人はそうは思わないんだねぇ。他所から入って来た車だけを外車だと思ってるから、外車に乗りたいって言う人沢山居た。何か外車に乗ると、少し何かリッチになった様な気になるんだねぇ。日本の車の方が、他所へ行ってみたら良く分る様に、素晴らしい性能の良い車です。だからトヨタでもこんなに売れるのでしょう。伸びてる。誇りに思って欲しい、日本の文化を。

そういうような処に遠くにあるものを大事にする。私なんかも静岡県から来てるから、この高知に、もし同じような人がいても、ですね、皆さん方は高知の地元に居る人よりも私の方が絶対他所から来た人としてですね、持ち上げてくれる。隣にどんな立派ない人がいても、何だって、その位にしか扱わないんでしょう、皆さん。不思議だね、人間てね、近いものは凄く安っぽくするんです。で、日本の人達はすぐ海外の人材派遣か何か知らないけど、他所に行って名声を上げると、日本の人達はすぐもてはやす。日本ではうだつが上がらないんだけど、他所に行くとウワーって言って、そのウワーっていった処帰って行くと、愚かだから、ウワーって言うんですよね。それ位日本の文化は今低いと思うね。そう言う様な事が「遠を貴することなかれ、」「遠を」今度は蔑んだ様な事をするなって言ってる。

どちらにしてもものの本当の価値を見失わないようにしなきゃ駄目じゃないかなと言ってる訳です。近くにあるから遠くにあるから、そう言う様なものによってものの真価が見失われる様な生き方をしてはないじゃないかとって言ってるのね。誰かが褒めたから立派、誰かを貶したからつまらなくなるって言うもんじゃないじゃないですか。そのもの自体は。そう言うものでしょ。

その後、「遠に慣熟なるべし。」って言う事は、今申し上げてる様な事です、慣熟って言う事は。物事に十分慣れて上手になる。木の実で言えば、木からもぎ取らないまま熟すって言う事ですね。それを完熟と言います。早いうちにもぎ取って、バナナなど青いうちにも見とって室に入れて色が付いて甘くなるのを待って売り出すって言うのは、完熟のバナナではない。木についたまま赤らむ、そう言うもの食べたことがある人はよく分ってる。全然美味しさが違う。パイナップルにしたってそう、同様に。マンゴーにしたってそう。色んな物、トマト、胡瓜何でもいい。色んな物見てごらん。そっから切り離して慣熟っていう事は得られない。そう言う事実から切り離して慣熟って言うものは得られない。本当にその事実そのものに親しく居るって言う事が、ものを本当に見極めるだけの力がつく道です。坐禅もそうです。坐禅をして他の事やるんじゃない、坐って。考え方で坐禅どうのこうのって取り扱うんじゃなくて、坐っている自分自身の今の在り様が、本当にどうあるかって言う事を自分の身体ではっきりさせる。そういう道です。

でその後に、近の事も出てるけども、同じ様に近い方も書いてありますが、その後「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」さっき目も話したけども、目。目ってどういう働きをしてるか、皆さんこれここは今日まで生きてきてるから、目がどういう風に物を見てるか、っていうことは私が説明しなくても知り尽くしてると思うけども、目って不思議ですよ。何時でも今見えてる様子だけですよ。他の事は絶対目に映りませんよ。今見えてる様子だけですよ。何処をこうやって見ても、今見えてる様子だけです。前に見た物が一切出てこない。知ってますよね。

こうやってやって見ても分る。(扇子を開いて見せる)これ前に見た物が一切出てこないでしょう。今こうやって触れてる物だけが、こうやってあるだけでしょう。これだけだって凄い事でしょう。もし皆さんがそう言う風な生活をしてごらんなさい。今見えてる様子だけだったら、どういう風になるか分かりますか、生活が。あれがこれが、って言わなくなるのでしょう。そうやって目に学ぶんです。目はそう言う風になってる。どんな良いものもどんな醜いものも、一つもどこにも残さない。どっちにも軍配を上げない。同等にきちっと、どんなに汚れてる物でもどんなに美しい物でも同じように優劣をつけずに、ちゃんと受け取って生活する力を持ってます。

ここは(頭)違う。自分の中で気に入るものと、気に入らないものと思ったら、気に入らない物はいい加減に必ず扱う。気に入る物は丁寧扱うかもしれない。そう言う風な、何だろう、偏見を持った生活に変わるじゃないですか。眼はそう言うもの持ってませんよ。それだから道を歩いてても危なげなく歩けるのです。全部その通りちゃんと見る力を持ってる。ドブがあれば、穴が開いてれば、木が倒れても、ねぇ。そうやって皆さん毎日生活して居る事をご覧なさい。こんな楽な事はない。問題が一切起きないんだもん、それで。 実際そうでしょう、眼って。
(質問あり)
はい?
(問題が起きないからドブにそのまま歩いて行っても大丈夫?)
大丈夫ですよ。
(そうなってるなら、)
そうなってる筈なのに、生活を聞いてみると、色んな問題が起きて困ってる訳でしょう。
(そうじゃくて、皆避けるでしょう。坊さんがわざわざドブ突っ込んで行かないでしょう?)
エー?
(行く訳じゃないでしょう)
何処へ?
(ドブ)
勿論です。
(でも、もしどちらも同じなら隔て無くドブにも足を入れて行くんでしょう)
何で?
(だって同じなんでしょう)
だからそれは考え方と言うもんでしょう。
(揚げ足だったかもしれない)
考え方だからそうなるでしょう。皆おなじ様に見ようとする。眼はみんな同じ様に見ようとはしない。全部その通り違って物が見えるんです。それでいてしかも差別意識は何にも持たない。そう言う優しい働きをしてます。そう言う処が違うんですね。考え方と実物、考え方ってそうやって一つの定義を教えると、全部一様にそうやって、同じだから良いじゃないかって、そう言う働きをさせようとする。優劣がないならば、綺麗汚いがないならば、ドブの中だってそのまま避けずに行きゃいいじゃないかって言う様な考え方を起こすんじゃないの。それが優劣を起こしてないことじゃないかっていう風に (そう思い込む)思うだけじゃない。だけども眼はそんな事はしないじゃない。そうなってますよ。

もう一つ、「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」誰かがそう言ってたからって、それを信じるっていうこともあるでしょう。「耳をかろくすることなかれ、」って言うと人の言ってることなんかどうでもいいじゃないかっていう扱いもあるでしょう。軽くするんだから。だけど、本当にここで言いたいのは、その後に耳や目をしてですね「耳目をして聡明ならしむべし。」とあります。これがここで言いたいこと。あなた方の持ってる耳や目の働きを通して「聡明ならしむべし」っていうことは、聡明って知ってますよね、や聡明な方だから。エー、ね。聡明が方でしょう、皆。だから聡明ならしむって、本当に自分の目や耳で実験してみるとその様に皆はっきりしてるでしょう。

こうやって見ると分る。(扇子を開いて見せる)こうやって。皆はっきりしてる。どの位はっきりしているかって言うと、 同時に二つの様子が出てこないって事が、聡明な人の在り様じゃないですか。二つの聞こえ方をが、こう、チンチンチンチン(おりんを打つ)しないという事が聡明な皆さんの耳の様子のじゃないですか。だけど実生活を見ると聡明じゃない人の方が多い。チーン聞いて腹立つんだもん。チーン聡明じゃないですよ。見て腹が立つんだもん。何でですか。こうやって色んな物にふれて、見たり聞いたりして腹が立つ。

もう一回勉強しときますけども、見たり聞いたりする時にもう一つの様子って出てこないんですよ。もう一つの様子が出てこない時に腹が立つ人って居ないんですよ。もう一つの様子が出てこない時腹が立った人居ますか。なんでこんなもんだけだとか言って、そう言う事さえも無いのでしょう。その事だけがあるから。それが皆さん方の毎日の根底の様子です、生活の。誰もがそう言う上で生活をしてます。だけども考え方を通して物を見てるために、こう言う事が自分の上で行われてるって事を殆ど見過ごしてる。或いは、触れたことがない。

坐禅て言うものは、そう言う自分の本質に触れる唯一の道です。坐って何もしないで、チーンこうやって音がした時に居てみると良く分る。その通りの音がするだけで、一切問題がない。明確にその通りの音が、音がしてる間中聞こえて、音が止んだ途端に、どうもしないのに聞こえなくなるほどすっきりしてます。皆さんはこの音が、し終わってから、さっき聞いた音を取り上げて、そしてああでもないこうでもないってと言って生活してっる。それは音を聞いてるわけじゃない。

物もそうです。見終わった後にそれを思い起こしてあれがこれが、って言ってます。それは物を見てるって言うことではない。全然次元の違う世界ですよ。滓(かす)、滓を取り扱ってる。もう完全に味わい尽くした後の物です。味わい尽くすというものは、音がしてる時、音がしてる時だけでなきゃ、音は聞けないんですからね。音が止んじゃってから音を聞く事はないですからね。物はそこに触れてる時にしか見えないから、触れてる時以外にその物を見るっていう事はないのです。そう言う風に基本的に私たちは生活してる。そう言う自分の本質というものに触れさせる道が、禅と言われる。坐って言うのは、そう言う時間です。そう言う様な事が此処に二人の会話を通して、その中で道元という方がそれを教材にして皆さん方にこの様に色々述べておられる。それを、坐禅をする時のテキストとして申し上げて、今日は終わりにしておきます。