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正法眼蔵を学ぶ

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坐禅箴 Ⅱ

音声はこちら ↓


坐禅箴_02_01
坐禅箴_02_02
坐禅箴_02_03
坐禅箴_02_04
坐禅箴_02_05


これだけで本当は良いわけですね。

だけどこれに対して、道元禅師という方は、色んな事をこうやって話をしておられるから、それをちょっと読んで味わってみたい。


「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。」

薬山と言う方が、今話してる内容ですね、「大師の道かくのごとくなるを」、今申し上げた様に、

平たく砕いた様な事があるでしょ。「証して」と言う事は、聞いて貰った皆さんが、自分自身の事だから、

そう言われれば確かにそう言う風になってるなって、思ったんじゃないですか。

思うより確かな内容に出合って、立証されたんでしょう。こうやって。パン!どうですか。ここでやったから

立証されたんでしょう。本当にそうだなって。いい加減な事言ってないなって、分るでしょう。

悟ると言うことは、頭で理解する様な分かり方ではない。


人間の思慮分別は入らないじゃない、こうやって。パン!入る前に音がちゃんとパンとする。

そう言う在り方なんですねぇ。「かくのごとくなるを証して」そして「兀坐」って言うのは坐禅を

する時ですね。学びなさいと書いてある。「参学すべし、」こう言う自分の在り様に学びなさいと言う事です。

ああ本当に思量を離れてるってこう言う事なんだって。


そしてそれを本当に実践してみる。それが兀坐正伝するって言う事でしょう。正しく坐禅をすると言う事でしょう。

これが分らなければ、幾ら足を組んで真面目そうな顔をして、こんな事してたって、みな作り事でしょう。

人は立派だって言うけども、自分自身がこんな事(思考上の取り扱い)やってて、どこが救われるって。

こんな事とは違うでしょう、問題が。


だけど一般的に坐禅て、その位の事しか伝わってない。だから動いちゃいけないとかさ、40分なら40分動くなって。

本当に全く坐禅て言う事を知らない。素人の人に教えるんだから、それで通るじゃない、知らなくても。

初めて来た人は、真面目そうにそう言われれば、あ、そう言うもんかって言って、受け継いで行く訳でしょう。


だけどやってみてですね、どこが効果があるって、どこがどうなってるか、さっぱり手探りでやってみても、何も分らないって。

そう言う事が、そう言う話の中で体験する人達は、自分で感じてるのにも拘らず、今度どっかに行った時に、いや教えられて

こうやって坐ったんだけどって、自分の中では手ごたえが無いとかって言う話を何でしないんだろうね。聞かないんだろうね。


もしこれがスーパーに行って買い物してですよ、これが美味しいよって言って売ってくれたものが、家へ帰って食べたら、

全く大して美味しくないなって感じたら、あすこで売ってたものはあまり美味しくないって、こっちで買って食べたのとは全然味が

違うって、で、こっち(美味しい方)へ行くじゃないですか。何で自分がやってる事なのに、自分で責任持たないんだろうね。

自分で満足できなかったら、そのまま置かないんじゃないですか、本当は。


そう言う事があるから、独参するのです。聞いて貰って。で、一般の色んな処で、そう言う事は使われるんじゃない。

真面目に本当にものを学ぶ人は、必ず自分の中ではっきりしないものがあったら、それをはっきりさせたいって言う思いが強い

から、隙があったら色んな人に、こう尋ねみるんじゃないですかねぇ。居る訳でしょう、色んな人が世の中に。

その分野その分野で専門の人がいるんだから、聞いたら良いじゃんね。聞いてみて評価しないと駄目ですよね。

人の噂で評価しても、エー。


私らあの、他所で話をしに行く時に、紹介してくれる人がたまに居るじゃないですか。私の話を一度も聞いた事のない人が紹介

する。あの人の話はね、って。あなた聞いた事ないから止めてって、私の紹介するの無理じゃない、ね。

聞いた事もないのに、人をこうだとかああだとかって紹介して。そんな無責任な事するべきじゃないです。

聞けば分りますって、紹介してくれって。今から私話すから、聞いたら分りますよ、だから皆さん聞いてください、って、

そうやって紹介してほしい。ねえ。それから評価をしてほしい。聞かないで評価しても無理。こう言うのもそう。

実践しないで評価しても無理。


エー、今朝も話して来たんだけど、先日21日かな、大阪に行ってた。大阪に行ったら、壮年の男性がお見えになって、私も随分

色んな事を読んだりして研究して来てるって、坐禅の事については殆ど分っておりますけどって言われた。

で、私はその言葉を聞いた時、あなた坐ってないのに、よく坐禅わかるねぇって、言ってしまった。酷い事言ってしまった。ねぇ。


頭で考えて、人の書いてある文章読んだり色んな物を読んで、こう言う風な、考え方を止めるとこうなるとか、皆知ってるんです。

それは坐禅した人じゃない。頭で知ってるだけ。だからそれだけものがよく分ってても、それでそのままで居れない。

まだ自分の中で満足出来ない。それは理解してるだけだからです。ねぇ。飲まないのに、そのものの味が分る訳がない。

百万の、万巻の書と言うのかね、色んな物を借りて来て、味について書いてある本を読んだって、飲まない間は絶対にそこに到達

する事はない。坐禅てそう言う確かに道です。やれば必ず、やったでそうなる。


この音だって、パン!こうやって今、聞かなかった前に誰も戻れませんよ、もう。聞いちゃったから。

考え方で、いやーそれは聞かない事にしようとか、ほっときゃ良いとか色んな事やったって、聞かない前には戻れませんよ。

そう言うものです。ものって、ねぇ。その様にそんな風に坐禅て言うのは正しく伝わってる。


「兀坐の仏道につたはれる参究なり。」それが実践をすると言う事じゃないですか。坐禅は頭の中で考えて、

物を読んで理解する様な事とは違う。だから「上智下愚を論ぜず利人鈍者を選ぶ事なかれ」と言われる。

どんな人でも出来る、坐禅は。仏道の仏の字も知らなくても、禅宗の禅の字も知らなくても、一字も知らなくても坐禅は出来る。

学校へ行かなくても。文字が読めなくても、それは自分自身の在り様に触れるからです、今。


自分自身の在り様に触れたら、自分自身がどうなってるかは、誰からも聞かなくても分かる様になってる。

こうやって触れた時に(扇を開く)、誰からも聞かなくてたって、字が読めようが読めまいがこの通りなる。良いでしょう。

だから世界中何処へ行っても役に立つんでしょう。この確かさがあるから。


まあこう言う風な薬山の弘道大師と言う方が話をされてる様な内容ですね、「兀々地の思量ひとりにあらずといへども、

薬山の道は其一なり。」
体験してる人は薬山弘道大師だけじゃなくて、数えれば、取り上げれば幾らでも居るでしょう。

だけども、これ位文言の中でですね、明確に残ってる資料が少ない。だから道元と言う方は、この薬山の弘道大師とこのお坊さん

の会話をですね、坐禅の指南の中に取り入れてる訳ですね。


こう言う事が本当に分かったら、坐禅がちゃーんと出来る。こう言う事が分からないと、ただ漫然として、形を作って時間が過ぎる

のを待ってるだけですよ。多少はね、普段ザワザワしてるより、静かな所でこうやったら気持ち良いに違いない。

そう言う事は起きる。だけどそれ以上の事を本当にやろうとしたら、この考え方を離れてる事実って言うものに、こうやって触れる

って言う事をしなかったら、坐禅にはならない。


「いはゆる『思量箇不思量底』なり。」その内容は、何回も繰り返すけども、「箇の不思量底を思量す。」

この考え方を離れてる、事実と言うものは人間の思慮分別を離れてる、曖昧にならない確かさがある、これに学んで

いかなきゃ駄目だって言う事です。


その後にも、「思量の皮肉骨髄なるあり。」とある。それはそうでしょう。この身体で考えてる時の在り様も

あれば、それから、「不思量の皮肉骨髄なるあり。」って、考え方を離れてる、事実そのもので生活してる様子、

両方あるじゃないですか。それでどっちを今使うかって言うと、この不思量の皮肉骨髄というものを相手にして坐禅をするのです。

こんなことは、ってなるんでしょうね、「まことに不思量底たとひふるくとも、」これ別に弘道大師の前から、

こう言う事は言われてる。


日本だってそうでしょ。「下手な考え休むに似たり」って言う位使われてる訳でしょう。皆さん使うでしょう。

「下手な考え休むに似たり」マインドフルネスって、そう言う事も今やってるのでしょう。

仕事の上で余分な考え方しないで居てごらん、楽になるからって。全国的に今。道具ですよ。だけどあれは人間の考え方で

扱ってる。修行として効果があるって言う事を知ってるから、そうやって教えてる。


坐禅は違いますよ。そんな作り事はしてません。本質的に自分達がそう言う生活をしてる事があるのに気が付かないでいるから、

ここに目をつけてごらんって言ってる。そうするとよく分かるから。繰り返すけど、考えてない時、悩まないんだから。

あの人があんな事言ってって思った時に、その言った人の事が気になったり、自分の中が面白くないなと思ってるだけでしょ。

それやらない時は、ただその通りにきこえて、何ともない。


あんな事やってって、見たものに対して自分の思いを付けると、居た堪れなくなるんでしょう。だから自分の家で行われる事と、

他所の家だと思う所でこう触れるものが、皆さんかなり違うでしょう。少々他所の家汚れてるの見てもですね、「ああ」その位で

終わるじゃないですか。自分の家の汚れてるやつは、「ああ」ってそれ位じゃ終わらないですよ。何処が違うでしょう。

見るときに自分の考え方を、こっちは物凄く付けてる。こっちはもうどうせ自分の家でないからしょうがないなって、手をつけても

しょうがないなって言って、考え方をやめてるんですね、ちょっと起こるんだけど。こっちは考え方を何時までも止めないんだよ。


それ皆さん体験してる筈。大阪の震災がこの前あったけども、殆ど忘れてるでしょう。忘れてるから良いのでしょう、また。

あれがずーっと生活する時に何時もここに今出て来て御覧なさい。大変でしょう。ところが実際は、思い出した時だけ、その事が

相手に出来る。こんな風になってるからでしょう。パン!音がした時に聞こえて、音が無くなると聞こえない様に

なってるから、私達、こんなに生活が楽にできるじゃん。


思った時だけその事が、相手ができるんでしょう。阪神の大震災とか大阪の震災とか。思ってない時にそれが出て来たら、大変で

すよ。思った時に出てきただけだから、それで別に取り上げなけりゃ済む事じゃん。事実を否定するのではありません。

気になる事があったら、やって上げれば済む事じゃん。気にかからない時に、そのことを相手にしないし、出来ないものです。

慈悲心は皆あります。無視する事とは違います。現地に赴くと、その現実に触れて活動が始められる様になってます。

他人のそうした行為を見聞して、敬意を払う心を失わない事が、人を救う力になってます。

思いを離れるって、そい言う実に不思議な事を皆さん体験してるじゃん。何時までもしがみついてなんか、生きてないよ。実際に。


昨日ああだった、この前もああだったって愚痴をこぼす人が居るけど、今どうですかって。昨日もああだった、さっきもこうだった、

本当私はどうしたら良いんだろうって、悩み事をぶつけてくる人が居るけども、それは此処でそう言う事話してるだけであって、

何にもそう言う内容が問題になってる事じゃないですよ。


もっと極端な話をすれば、わかる。「家に居ても頭がおかしくなる位色んな事が次から次へ出て来て、どうしょうもないから」って

言って「来たんです。」って言う。喋ってる事と事実がどの位違うか、分かりますか。私の処へ来たって言う事は、どうしようもない人

じゃないって言う事でしょう。エー、もう手が付かないどうして良いか分からないなんて事は、ちゃんと井上さんと言う処へ尋ねて

来る力があるって言う事は、物凄いちゃんとしてるでしょう。


それで喋ってる事が、そう言う自分の内容を喋れると言う事は、自分がどうなってたかって言う事、皆ちゃんと知ってるって事でしょ

う。手が付かないんじゃなくて。それ位自分で言ってる事がありながら、自分の内容を全く見てない。

で、指摘すると、今あなたそう言ってるけど、どっか苦しい処有りますかって。いや、今は無いですって。今無いのに、何処に

手を付けて何を整理しようとするんだろう。それ位考え方って言うのは、人を迷わせてる。

真実がどうなってるか見えない様になってる。考え方の上で生活をしてると。


言ってるけども、別に言ってる事がある訳じゃないですよ。頭が変になるって。色んな事が次から次へ思えて、もう何、どうして

良いか分からないって言う事言ったって、そんなに正確にちゃんと話してるじゃないですか。

それだけの事が行われてるだけであって、自分の中でそれ以外の事、何も起こってないですよ。分かりますか、そう言うの。


この前あの人と話してたらね、こんな事言われて腹がたってって、そう話したって、ただ自分の中で思い出として取り上げてる話で

あって、ここで何もそんな事が行われてないよね。思ってるだけだよね。違いますか。あの時ああだった、こうだったたって、

思ってるだけの話でしょう。人間てこれ位、自分の真相って本当にどうなってるかを知らない。思いの上だけで生きてるから。

だから不思量底って言うのが必要なんです。

人間の考え方を離れてる事実にこうやって触れると、全く違う生き方をしてる、皆さん。


もう人の話なんか聞けないって言う人だって、「ちょっとここまで来て」って言うと、すっと来るよ、エー。「何、何」ってここへ来て、

あんた今人の話なんか聞いてられないって言ったじゃないって。ちゃんと人の話聞いて、来るじゃんて。変ですよね。

自分の思ってる事と自分がやってる事と全然違う。こう言う事が皆見えるんですよ、自分で。思量を離れると、考え方を。

考え方でものを見る事を止めてみると。嘘だと思うなら、実験して御覧なさい。


「さらにこれ如何思量なり。」これ脚注に「更にいうなら如何という思量である。」ってこんな風に訳したって、

それは無理です。それはどう言う事ですかって、尋ねる力がほしいって言ってるんです。考え方を本当に離れるって言うんだけど、

それどう言う事ですかって、もう一回念を押して聞いてみたいって言うだけじゃないですか。


「兀々地に思量なからんや、」ただ坐ってるったって、何もしないでただ坐ってるって言ったって、パン!

パン!
(扇で打つ)こんなにはっきりしてるじゃないですか。パン!パン!パン!パン!皆さん坐ってる

時、こうやって、ね。ここでこうやって音がパン!したのと、ここでパン!したのと、

自分で量らないのに、思いで量らないのにちゃんと、こうやってこんなにはっきりしてるじゃない。同じ様には聞こえないのでしょう。

ここでパン!こうやったのと、ここでパン!

ここで音がした様に聞こえるし、ここで音がした様にちゃーんと聞こえるのでしょう。ただ坐ってるだけなのに、ね。

音の話をすると、聞きにいきたくさせるので、音がしない時はしない時の様子がある、ということです。身心の活動がある。


「兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。」どうしてそうやって坐ってるのに、こう言う真相に、皆さん方が

ああなるほどって理解が行かないのかって。難しい事じゃないでしょうが。

今やった通り終わってて、こうやったらパン!パン!こうやって。考えなきゃ分からない様な話じゃないでしょう。

考えないとパン!パン!こう言う事がこう分からないかしら。エー。あっちで鳴った、こっちで鳴った、色々考え

なくても、ただ坐ってるだけで、こうやったらパン!パン!パン!パン!(連打)その通りにこうやってなってる

んでしょう、皆。


これ、向上ですよ。飛びっきり上等ですよ。この上ないと書いてある。上に向かうと書いてある、向上。人間の考えてる様な世界じゃ

ないって言う事です。更に向上を目指せとかって、その上に行きなさいって言う事を使うけども、こう言う事が人間の向上ですよ。

人間の考え方を離れてる素晴らしさが、こうやってあるじゃない。パン!パン!すごいですね。

止めないのに、音を聞いたものを自分で捨てないのに、聞いただけで何処にも残らない様な生活をしてる。エー。


普通は聞いたものを片付けないと無くならないのでしょう。そう思ってるでしょう。だけど聞いただけで無くなるんですよ。

ほら、聞こえたものを消した気配は誰もしない。こんなにうまい生活してるじゃない。上等ですね。飛びっきり上等でしょう。

だから次から次へ音がしても、前の音が邪魔にならずに何時でも聞けるって言うのは、残ってないからでしょう。

それが皆さんの本質的な生活なんでしょう。


ところが考え方がちょっと出て来ると、本当は残ってないのに、思いが出て来るから。思いの方に意識がこう行くとですね、現実に

今触れてるものの方に気が向かないんだもん。パン!パン!パン!パン!それでものがはっきりしなくなるん

じゃない、ねぇ。それが皆さん方が普段愚かだと言われる生活、そう言う事じゃない。


俗語でよそ見をするなと言います。よそ見をしたら、こうやってて見てて、よそ見をしたら、今見てるものこれ見えなくなるの当たり前

じゃない。これ見てごらんって言ったのに、こうやってやってよそ見したら、見えなくなる。よく分かりませんか、当たり前じゃない。

如何いう風な生活してるかって、よそ見をしてるから、分からなくなるだけじゃん。

こうやってたら、誰だって無条件で分かる訳じゃない。


それ生活してる、何時でもそう言う風に、今の在り様から離れない生活してる筈でしょう。

今から離れた生活なんかしないんだもん、誰だって。今生活してる在り方だけじゃないですか。実際にやってるのは。

努力しないと今生活してる処に行き着かないなんて言う事はないでしょう。最初から、皆、今の様子の中に居るじゃないですか。

今と別に生活するって事はないじゃないですか。


それ位ピッタリしてる生活してるにも拘らず、考え方がサッと起こると、すぐよそ見をする。で、考え方の方が強烈だから。

皆さん好きなんだよね。気になるんだよ、考え方って。自分の思ってる通りの事が思えないもんだから。

そんなの放っといて全然問題ないですよ。本当に、そういう思える事、一切手をつけずに、放っといても生活に何の支障も無い。


それだのに考え方が出て来て気になると、それで手放しで居る力がない。要するに、真実の方を大事にする力が無い。

大事にするものを間違えてる。偽者のお金を掴まされて、それを大金持ちに成ったと思って、偽札を一杯持って歩いてる。

使ってみると、これ駄目ですって言われるだけじゃん。本当の価値があるものを大事にしないと駄目だよ。


だから「賤近の愚にあらずんば」と言う事があるじゃないですか。酷い事、道元禅師言うね。これ賤って浅ましい

とかって言うんですよ。どちらにしても愚かだって言う意味でしょ、賤近も愚も。

考え方と真実と、どっちが大事かって言う事を見誤るなんて言う事は、正に「賤近の愚」なんでしょう。

偽者と本物があった時に、偽者を大事にする様な人は愚かなんでしょう。


じゃあ自分の中で、どっちが本物なんですか。考え方と今生きてるものと。実際に生きてる、生活してる。そんなの言わなくても分る

事でしょう。言わなくても分かる事だけど、自分の生活見ると、実物の方を相手に生きてるなんて、殆どしないんじゃないですか。

悪いけど。時間がありゃ、考え方が出て来たもの相手にして時を過ごしてるのでしょう。あそこ掃除したらいいな、あれもこうしたら

いいなって、そうやって過ごしても、何処も何も綺麗にもならないし、修理も出来ないのでしょう。よく知ってるでしょう。


で、時間がたって、色んな事をこうすれば良かったんだけどって、どうして上手く行かないんだろうって。やらないもんね。

考えてるだけだもんね。考えて如何にも出来た様な答えを出すんじゃない。こうやったらああなるって、答え出るもんだから。

それ皆思量の上の話でしょ。考え方の上の扱ってるから駄目じゃん。不思量ですよ。

考え方じゃなくて実物を扱うっていう事が坐禅なの。考え方じゃなくて。実物には人間の思い量りがついてないんじゃないですか。


考えなくてもお百姓さんが畑や田んぼに行くとですね、その現場に行ってこうやって触れるとですね、どうしたらいいか分かる様に

なってる。水が入ってないと水をひく、草が生えてると抜く。稲と違うものがあるとちゃんと抜くのでしょう。

考えてやってる訳じゃないですよ。行くと、そこに行くと実物に触れると、ちゃーんと分かる力を持ってるんです。


だけど一般的には犬を連れてっておしっこしたら、ヒューっと掛けるとか、糞したら集めるとかと教えて、そうそういうことを知って

ないと出来ないと思ってる。そうじゃない。出したらわかるんだもんそこで。何で止まったかなぁと思うと、こんなことやってブルブル

とやって、コロコロと出てくる。それで出てくると、そのまま行くか行かないかだけだから。大事に拾って帰る訳でしょう。


まあそうやって、ここは「賤近の愚にあらずんば」愚かでなかったら、こういうことをちゃんとするんじゃないかっ

て。次にある「兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」本当に坐るっていうことはどういうことかって、

尋ねる力があるでしょう、って言うんでしょう。本当に坐るって、ただこんなことやってるだけじゃないって言うことでしょう。

形を作って時間の間ただこうやってすごすって言う事じゃないのでしょう。それで解決はしないのでしょう。


一番問題になってるのは、こうやってる時に、思いが出てくるものを相手にしてるものが殆どだから、思いを相手にしなかった時

どうなってるかって言う事を本当にやってみるって事が問われてる訳でしょう。そう言う事を教えてくれる所に行かない限りは、

本当につまらない事しますよ。坐禅て。何十年もやってるって、坐ってるって。坐ってどうなったんですか。イヤーよくわからないっ

て。何でよく分からないんだったら、そのまま居るんだろう。


縫い物して上手くここを縫えないって言って、普通はそれらしい人のとこ行って、どうやって縫ったらいいんでしょうかって、

その位聞きに行くでしょう。問著する力量ですよ。或いは思量あるって、自分でそこが問題になってたら、それを問いただして

解決するぐらいの力があるんでしょう。教えてくるのをただ待ってるのかしら。口開けてぼた餅が口の中へ棚から落ちてくるのを

待ってって言う様な表現があるけど、そんな愚かな事はしないのでしょう。ねぇ。


そして道元禅師はそこに、薬山様が言われた、「大師云、『非思量』。」本当に思慮分別を離れてる、実物が

具体的に何を指すかって言ったら、今活動してるこの全身心の活動してる様子がみな非思量でしょう。

考え方を起こしてもの見てないじゃないですか。見たものに対して考え方を起こすかもしれないけど。

音を聞く時に考え方を先にして聞くって事ないじゃない。聞こえた後に考え方を起こすのでしょう。食べた後に、味がした後に、

それがうまいとかまずいとか愚図愚図いうのでしょう。愚図愚図言う前にはどうなってるかと言うと、本当に好き嫌いを超えた味が

その通りしてる。そういう確かさの素晴らしい生き方をお互いしてるのでしょう。文句言わずに済む。


そういうのが真理を味わうって言う事でしょう。皆ズレていませんか、どっかがね。

「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なり」もうはっきりしてるじゃないですか。そうあるべきじゃない。

人間の考え方の前に皆ちゃんと活動してる。生きてる事だってそうでしょう。自分で作って生きてる人なんかいない。

先に皆生きてる様子にいるんじゃないですか。今生きてる様子を作ってやってる人なんかいませんよ。今生きてる様子、

どうしてるか全然知りませんよ。人が手を加えた事一切ない。はっきりしてるでしょう、そう言う事。

だから安心してられるのでしょう。作らなくてもいつでも今の中にいるから。


「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」本当に思量から離れてる様子を学ぼうと思った

ら、この有り様を使う以外にないじゃないですか。人間の思慮分別を起こす前に生活してる事実があるんだもん。

これに学ぶしかない。考え方を止めるって言う様なことでは届かない。


まあその辺まで読んどけば。だいたい時間だから。後五時までだから30分位あるから、これを基調としてですね、あとそう言う日頃

の感じてる事があったり、ここはどうもとか思う事があったらどんどん質問してみて下さい。

そうするともう少し理解が深まると思う。


(次回ご提唱は2818.9.30.予定)




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  1. 2018/09/04(火) 09:34:31|
  2. 坐禅箴
  3. | コメント:0

坐禅箴 Ⅰ

音声はこちら ↓ 2018.6.24 高知市でのご提唱です。

坐禅箴_01_01
坐禅箴_01_02
坐禅箴_01_03
坐禅箴_01_04


地元の○○さんが坐禅会を開いて少しでも多くの方と一緒に坐ってみたいんだと言う事で、会場まで暇があったら

来てほしいと言うもんですから、私でよければと言うことで、どうぞと言う事でお受けしました。

そう言う事で始まったので宜しくお願いいたします。

でその折にですね、何か話をして、と言う事でお選び頂いたのが、この正法眼蔵の坐禅箴と言う巻をちょっと参考に

読んでほしい、とこう言う主旨でした。それで手元にコピーをして頂いたものを用意して貰っております。

まあ聞いて貰ってれば良いんじゃない。

ちょっと一頁だけ読みますね。


「坐禅箴 観音導利興聖宝林寺」

「薬山弘道大師、坐次有僧問(薬山弘道大師、坐次に有る僧問ふ、)、『兀々地思量什麼』」


まあそう言う風に読んだら良いでしょう。


「師云、『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』。僧云、『不思量底如何思量』。師云、『非思量』」

これだけの教材があって、これに対して道元禅師が色々お話を進められております。


「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。兀坐の仏道につたはれる参究なり。

兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

いはゆる『思量箇不思量底』なり。思量の皮肉骨髄なるあり。不思量の皮肉骨髄なるあり。

僧のいふ、『不思量底如何思量』

まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。

賤近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。

大師云、『非思量』。

いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。

非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」



まあそこら辺まで読んでおけば。人物その他についてはですね、それほど詳しく知らなくても、話は進むと思います。

だからそれは抜きにして。薬山と言う和尚さんがおられて、其処にあるお坊さんが来て、この様に尋ねられたって言う事です。

坐っておる時一体どうしていたら良いかって言う事です。『兀々地箇如何思量』と言う事はね。

坐っておる時、何をしてたらいいか。普通は皆さんさっきも話した様に、静かにこうやってる時があるとですね、

自分の頭の中に思い浮かんで来る事を相手にして、それを詮索して、ああも思いこうも思いして過ごすのが、

普通坐ってる時じゃないですか。


じゃ坐禅の時、坐禅の時はそう言う事と同じで良いのかって言ったら、同じだったら別に坐禅する意味がないじゃないですかね。

そう言う事が基本にあるから、坐禅をしてる時にどうあったら良いかって事が問われてます。

でそれに対して、この薬山と言う方、お師匠様になるかね、方がですね、言われるのに

「箇の不思量底を思量す。」今こうやってる、箇のって言うのは。

「箇の」ってなにを指すかって言ったら、今誰もが今こうやってる、この様子です。今こうしてる。

今の皆さんこうしてる様子、誰もが今こうやってる、この様子です。こうしてる。今の皆さんこうしてる様子、誰もあるでしょ。

エー「箇の」って。何処を指すって言う様な言葉じゃないです。全部なんですね。

「箇の」って言ったら、今の様子を指す代名詞です。

何もかも入る、「箇の」って言ったら。自分達の、一人一人、今こうやってる様子。

「箇の不思量底を思量す。」この考え方で取り扱っていない事実、それが不思量底です。


あのこう言う風な話し方をしたら、少し理解が行くと思うけども、物にはですね、どんなものにもそうだけど、

人間の考え方は付いてないです。

例えばこうやって見た時に、天井って言う風についてない、見た時に。天井って言うのは、私達が生まれてから後の、

あれを天井って言うんだって言う風に学んでるから、見るとそう言うものが頭の中にふっと出て来て、

で、天井って言うんだけども、本当に見てる時には天井とも何とも言わず、あの通りの様子がただあるだけじゃないですか。

上を見なさいって、一応言うんだけど、こうやった時に。皆言葉が先なもんだから、今、ねぇ。問題になるんだけど、

言葉の前に先に事実が皆あるんじゃないですか。


色でもそうじゃないですか。この前NHKで何かやってた。信号機の話あった。聞いてた。青赤黄、青黄赤か。

何で日本はあの色を青と言うのかって言う話があった。こんなのの濃い色ですよね。グリーンですよね。

で、言葉から言うと問題になる。何であれ青って言って言うって。他所の国ではグリーンって言ってるのにって、

日本だけどうしてあれを青って言うって問題になるんだけど、皆さんの眼はですね、青を言おうがグリーンと言おうがですね、

ズレた事がない。その通りの色がちゃんと見えてます。

それ位人間が生まれてから後に付けたものに関係ない程確かな生活をしてるって言う事です。これが不思量です。


ねぇ、決めたのは後ですからねぇ、見えている色に対して。こう言う呼び方をしようって言って、人間が後で約束してグリーンとか

青とかってつけて。その時、もしつける時に、赤ってこう言うものを呼ぶ様にしたら、今だってこれを赤って呼ぶんでしょう。ねぇ。

元々名前無かったんだよ。こう言う風に見えるだけ。(手元にある茶碗を持ち挙げて)


今でもそうじゃないですか。色んなもの見て御覧なさい。名前が付いてる訳じゃない。見ると、薔薇とか菊とかって言うけど、

別に名前が付いてないですよ、見た時に。こうやって人が居るんだって、エー誰も名前なんか付いてない。見えるのはこう言う風に

見えるだけです。だけど知ってますからね。知ってるから、あ、あの人って言って、その名前の方で呼ぶんでしょう。


こう言う処に不思量って言って人間の思慮分別、ものを分けたりする、そう言うもの付いてない世界があると言う事じゃない

ですか。どっちが素晴らしいって、別に何も付いてないでしょ。こうやって色んなもの出した時、ものには、どっちが素晴らしいって

付いてないでしょ。どっちが価値があるって、何も付いてないですよね。


付いていますか。これこうやって見て、どれが価値があるって付いてますか。そんな風に見えますか。

正直にこの通り見えるだけでしょう。見て御覧なさい。だから全然思量を離れてるでしょう、人間の考え方を。最初から。

そう言う事知ってますか。


人と出会っても、良い人悪い人って、そんなの付いてませんよ。あれは見た人が、自分の中で自分の主観で、自分の中に

基準があって、それを比べた時に良い人悪い人って言って、そう言う勝手な見方に変えたんです。

見えてるものにはそんなの一切付いてない。


これが此処で薬山の弘道大師が言われている『箇の不思量底』なんです。考え方を離れて。考え方でない。思いの方でない。

良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、若いとか年が行ってるとか、男性だとか女性だとか、綺麗だとか汚いとか、

ああ言う様々なものがある。あれ全部思量ですよ。人間の思い量ってるものです。

実物にはそう言うのが一切付いてない。少なくともそう言う事を皆さん、生活の中で本当は知ってると思う。

で、こっちに学ぶんですね。その人間の思い慮りの付いてない事実の方に、私達は目を向けてものを学ばないと、とんでもない事

になるじゃないですか。一人一人、考え方は違うんだもの、見たものに対する評価が。


お腹の減ってる人は、これいいねって言って、お腹一杯の人はこんなもの要らないって言う位、同じものに対して評価が違う訳で

しょう、ねぇ。そう言うものを取り払うと、このものの様子が、どちらもその通り、こうやって触れる事が出来る。それで初めて、

正しいものがこうやって触れる事が出来る訳じゃない。

そう言う事があるから、この薬山様が、『箇の不思量底を思量せよ』って、その考え方を離れてる事実に

学びなさいと言ってるんです。


で、このお坊さんは、じゃ考え方を離れてるって、考え方を離れたら、思い量る事ができないのじゃないかって。そりゃそうでしょう。

『箇の不思量底』『不思量底如何思量』考え方でないものはどうやったら良いかって言って、言われたって

困るじゃないかって言ってるんです。だから弘道大師が、『非思量』その通り考え方でないまま行きなさいと。


じゃさっきもちょっと触れた人が居るけど、生活の中で困ってる時は、間違いなく自分で勝手なものの見方をしてる事が、

自分を苦しめるんですね。それが止んでる時は必ず在る。そう言うもの使ってない時が、付けてない時が。その時自分に触れると

吃驚する。ああこんなに素晴らしい生き方をしてるって思う位、吃驚する。悩みも苦しみも一切無い。

ちなみに皆さん、これもよく知ってるけども、考えてない時にですよ、ものを思ってない時に悩んだ人は誰もいない。


エー、自分の中で何か考え方を相手にしてない時にですね、悩んだ人誰も居ないよ。じゃ、考え方を相手にしていない時に、

生きてる事実がないのかと言ったら、生きてる事実は絶対失われずに、ちゃんと在るじゃない。良いじゃない、考え方離れても。

生きてる事実さえあれば。しかも考え方離れると、問題なくなるんだもん。グジュグジュしてるのは、自分の頭の中で色んな事

思った事、自分の頭の中で考えてるだけじゃないですか。人が悩んでるって。それ明確でしょ。


だのに自分の考え方が止まってる時に、どうなってるかって言う事を、本当にこうやって触れる力が無い。

そう言う勉強をする力が無い。これが伝えられてる坐禅です。坐禅てそう言う時間です。

人間の思慮分別を離れてるものの実体。事実そのもの。


音でもそうじゃないですか。こうやって。パン!(扇で畳を打つ)音は大きいとも小さいとも聞こえない。

パン!この通りこう言う風に聞こえるだけです。パン!だけど私達は音を聞いた瞬間に、

大きいとか小さいとか付けるのはですね、分別するのでしょう。どっか昔聞いた音を、ちゃっと思い起こして、今聞こえたものと

比べるんだ。だけども耳に聞いてみるとよくわかるんだけど、こうやった時に、比べる音なんかしてない。

この音だけが、パン!その通り聞こえる。パン!それだのに分別がそうっやって、

思量分別が動いてこの音を聞かない、この通り。これで皆さんの生活がごちゃごちゃになってるじゃない。


人と話をして御覧なさい。人と話をした時に、相手が言ってる通りに聞く人なんか、百人中一人も居ないよ。

エー百人が百人全部その通り聞かない。間違いないよ。振り返って、自分の生活してる中で、自分の事だから見てご覧なさい。

人の話を聞いてる時に、人が喋ってる時に、本当にただその通りに聞いてる人なんか居ないよ。


先ず、今こうやってペンを持って何か書こうとする人は、すぐ聞いたら自分の考え方に、ああ、ああ言う事言ってる、こう言う事

いってるって、そう言うものをここに書き留めるんです。用が無いですよ、それは。それをやったら、聞かないんだよ、本当は。

自分の都合の良い事やってるだけなんだよ。本当にそれは。だって自分の頭の中で理解出来る様に、人の話を理解するだけ

じゃないですか。こっちの伝えたい事とは違うじゃないですか。自分の力の範囲で理解してるだけじゃない。

ただ聞いてるとそんな事要らないじゃない。それが勉強の仕方なの。


ただ聞いてるだけじゃ分らないかって、そんな事はない。パン!ただ聞いてるだけで分るでしょう。

パン!全部聞こえるでしょう。この通り。どっか途中、半端な聞き方するって事無いでしょう。

パン!こうやって、エー。一つもこの音に対して、欠ける事の無い様にちゃんと聞こえるでしょう。

付け足す要もないし、ねぇ。取り除く何か邪魔なものも無いじゃない、こうやった時に。パン!

これで良いじゃないですか。こうやって生活すると修行が出来る。それ『箇の不思量底を思量する』って

言う事です。これ位人間の考え方を最初から離れきってる、人の在り様があるじゃないですか。


だけどそこの処は殆どの人が見落としてる。自分の考え方に上に浮かんだ時に初めて問題にする。相手にするじゃん。

何故かって言ったら、こんな事は当たり前すぎるからです。パン!問題にならないじゃないですか。

パン!こうやってやった時、その通り聞こえるって。それが何だって思う位、何でもない様子でしょう。


だけどもちょっと屁理屈をつければですね、パン!こうやった時にこの通り、もし聞こえなかったら、

世の中滅茶苦茶ですよ。何時の時代でもどんな人でも、パン!こうやったら必ずその通り聞こえるって

言うのが基本だから。


もうちょっと偉そうな事を言うと、聞いた話ですけども、大体人はですね、満二歳位、三つ子の魂、満二歳ですね、成るまでの時は、

これは(自分を指す)自分だとは思ってない。自我意識って無い。もうちょっと小さい時を見ると分る。

こうやって赤ちゃんがこうやって(扇を開く)こう言うものに触れてる時ですね、自分でこれ見てるって自覚が無い。

自覚が無いけど、こうなってる。


こうやってやって、パン!音を聞いてるって自覚はない。自覚はないけど、パン!こうなりま

すね。こっちでやってパン!(右側で)こうやって、こっちでやってパン!(左側で)

こうやって動くのを見てると、あ、聞こえてるって言うのは、私達から見ると分る。だけど本人は音を聞いてるとは全然自覚がない。

こう言うの皆不思量底です。人間の思量ではない。思い量りではない。


これが人間の脳の大体七割から八割、今皆さんが使ってる脳の七割から八割位、その二歳位までに、この体験が作ってる。

人間の考え方が入らないから、世界共通なんです。ズレないです。自分の思い方で聞いたり見たりしてないから。不思議ですね。

そう言う事で人間の脳が出来てる。大人になってから自我意識が出来てから学んでるのは、ほんのわずか。6歳までに90%、

12歳までに100%完成すると言われている。それで仏道でもやっぱり子供の時の事を修行に用いる。

赤ちゃんの様になりなさい、教える。


赤ちゃんは、パン!こう言う風に聞いてるんです。赤ちゃんはこう言う風に見てる。

もう一回話しますけど、赤ちゃんはこうやって(扇を振る)見てる時に、自分が見てるって知らないんです。知らないけど、

本当にこの様になってます。一分もずれない程この通りなってる。どうしたんでもない。こうやった時にパン!

その様に聞こうとも何とも思わないけど、その通りに、パン!必ず生活してます。


それがここで言う『箇の不思量底を思量す』或いは『非思量』と言われる世界です。

今でも皆それは使ってます。大人になると皆問題にしなくなっていますが。

だって、こうやって聞く時に、自分の聞き方なんか出来ないじゃないですか。良いですか。私が今から音を出すから、

それぞれ好きな様に自分の聞き方で聞いて下さいって、こうやってパン!とやった時に、自分の思う様な聞き方

なんか出来ないうちに終わっちゃってるでしょ、皆。


やってみますよ。パン!エー。無理でしょう。これだけちゃんと用意してて、今からやるから自分の考え方、

聞き方で聞いて下さいよって頼んどいても、パン!ってやったら、そう言う事全然動かない内に、音がパンと

終わるだけでしょう、ねぇ。こう言う事皆やってるじゃないですか。

やってるんだけど、こんな事取り上げた話に触れた事がないから、大事にしてないじゃないですか。


本当はこれがお釈迦様が気づかれた、人の根本じゃないですか。自分が今まで勉強して来た、思って来た事と、本当に底抜け

違うって。人の考え方で如何こうしてる世界じゃない生き方を人がしてる。その処、内容に触れてみると、皆さんが本当に願ったり

叶ったり、最高の様子で出来てるじゃないですか。


これパン!(扇で打つ)どうもしなくたって、その通りなれるんだもの、良いじゃない。

何か努力した人いますか。パン!こうやって。私がこうやって叩いて、パン!この様に聞く

のに。何か難しいとか。何も無いじゃないですか。いきなりちゃんとそうなる。パン!その通りなる。

こんなに上手く生活してるじゃないですか。後で聞くって事はないでしょう。

音がした時にパン!ちゃーんとずれずに聞ける様になってる。


誰から聞き方を学ばないと、音がしてもパン!分らないって言う事はない。誰からも学ばないのに、こうやって

やると、パン!(扇で打つ)ちゃんと自分の力で分る様になってる。大きくなる間に、音がしたらこういう風に

聞かないと分らないと言って、学んで聞いた人はないですよ。誰も教えていない。

誰からも学ばないのに最初からこうやって生活して来た。パン!


だけどこう言う事が、自分の中で行われてる大事な事だって、ひとつも気にしてないし、教えてくれないから、人間て言うのは

自分て言うものが、自意識というものが出きた上からしか見てないから、自意識、自我意識が出きた時からの様子って言うもの

は、必ずものを対象として見てますよ。此処で音がしたからパン!私が今聞こえるって、そう言う風に

理解してる。


だけど自意識、自我意識の無い時には、ここでパン!音がしてこっちで聞こえるなんんて言う風な聞こえ方は

ない。いきなりパン!こう言う風になるのでしょう。しかも聞いたとも何とも思わないのにパンと言う。

自分の身体に入って来たとも何ともないじゃないですか。そんな事一切ないじゃない。耳があって音が聞こえるとかって言う事さえ

もない。音がするばかり。パン!こう、こうやって。今なんです。パン!音がするばかり。

音がするって事が聞こえてる証拠じゃない。それ以上要らないじゃないですか。こう言う風に出来てる、非思量って。


本当に人の思慮分別、思い量りではない。これが人の根底にある。それで人間の頭が育ってきた。七割から八割。

その後わずかしか育ってないですよ、ねぇ。面白いね。そう言うの。これは医学的にも立証されてる。

まあこれだけが本文の処の内容です。





  1. 2018/09/02(日) 16:26:31|
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