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坐禅箴 Ⅳ

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坐禅しんⅣ正_01
坐禅しんⅣ正_02
坐禅しんⅣ正_03


でも人間の生活の中には、似た様な物を沢山成造している訳ですね。機械でも何でも。お皿でも。だから同じものが一杯あるってよく言うじゃない。あれはもうちょっとよく見て下さい。よく見るとですね、同じ物は何処にも無いのです。こうやって皿が二枚あってね。同じじゃん、てよく言うじゃないですか。ここに今あるってことは別だって言う事ですからね。そうでしょう。もう最初から。別の物だって言う事でしょ。こっちの皿こっちの皿。それだのに人間は、こうやって見た時に同じ物があるって。こんなになってる。これは単伝じゃない。こうやって伝えてるのは複伝ですね、ねぇ。

正しく伝えてない。正伝て言うのは、こうやってこう言う風に伝わるじゃん。必ず単伝で伝わってくるじゃん。それがそれ。それがそれに違いない。これとこれ、似てるって言う事はあるよね。似てるって言う事は別のものだって言う事を表現してるって言う事でしょう。ちゃんとだから言葉は正確に伝わってる筈なのに、人間が理解をする時、間違える。

でもあの皿を持って来てくれって言って、一枚だけって言わないからね。五人いるから五枚欲しいって言うと、ちゃんと五枚持って来る。同じものをお願いしますって、一応そうやって言葉は使うじゃん。同じものは無いんだけども。同じ様なものを五枚持って来るって言うことですね。ちょっと屁理屈みたいだけども、よく見てみると、違うね。まあ。そう言う事がありますね。

「すでに釈迦牟尼仏より直下」直下、じきげって言う。直下って言ってます。「直下に三十六代なり」これは薬山と言う方はお釈迦様から三十六代目の祖師であると言う事です。正しく仏法の内容、あるいは仏法の内容と言うよりは、自分自身の真相をはっきり明らめた人だと言う事ですね。

「薬山より向上をたずぬるに三十六代に釈迦牟尼仏あり」遡っていけば三十六代前にお釈迦様が居られるとこう言う事でしょう。下ってくれば三十六代目で自分が居るという事。上っても下ってもですね、代が変わる、その三十六代がですね、こっちから数えたら、三十七代になって、向こうから数えたら三十五代になるって言う様な事は無いと言う事ですね。

道を歩いてもそうでしょう。こっちから行くと坂が七つあるんだけどって言った時には、必ず下り坂って言うのも七つある。上り坂だと思ったやつは、こっちから行った時に見たもの。同じ道だから、それが其の儘下り坂になる。ね。そう言う様な事を、一杯こう実物の中でも行われてる。

「かくのごとく正伝せるに、思量箇不思量あり。」そう言う中に、この坐禅と言われるものが正しくその様に伝わって来てると、こう言う事です。だから人間の思量があるから、不思量とかって言う事だとか非思量がどう言う内容だとかって言う事も、思量があるから一応分かる。だけど一応思量で分かるんだけど、それは自分がこれ思量してる範囲で分かってるって言う事も分かってる。で思量を外れて、思量から、全くそう言うものが付かない状況がどう言う事であるかって言う事を今は学ばなければならないと、こう言う事です。

其処までやらないと、言葉はあっても、実物が無い。非思量の実物が無い。そうすると、自分の中でどうなるかって言うと、理解が出来ない。味わえない。それやるためには、必ず自分で、自分のこの身体を借りてやる以外に方法は無い。何億に人が居ようがしょうが無い。自分でやる以外に方法がない。それで修行と言うものは、人から勧められてやるものじゃないと言う事になるじゃない。宗教の根本はですね、だからコントロールされる様なもんじゃないですね。

瞑想や何かで陥りやすいのは、あの、ああ言うものの考え方に、終いにはコントロールされて、洗脳されて行くって言うのが、殆どの修行の欠点じゃない。最大の弱点じゃない。危ない。だから宗教は麻薬だとか言う様な事を言われるのは、そう言う事じゃない。
仏法においては、そう言う事一切起きない。強制されて、その様に見ろって、やって、その様に見える訳じゃないから。誰にも強制されない。その様に聞きなさいって言うけど、誰かの力を借りて、その様に聞くなんて事は無い。必ずその様にパン!聞ける様になってる。注意深くしてないと、そう言う事忘れちゃって分からなくなるという事は無いの、これ本質的に。すごいね。

他の勉強はそうじゃない。ちゃんと頭にそう言う事、置いといてやらないと、すぐに役に立たない。ねぇ。こんなのが「すでに思量箇不思量底あり。」で。

ここはね、次の所の一画はですね、さほどの事は書いてない。ざっと読んでいきますね。だけどもと言う事、「しかあるに」今話した様な事が本当にある。だけども最近はですね「近年」最近の人たちは、本当にものの分かりの悪い人が多くてねって、「杜撰おろかなる杜撰いはく」ですね。

どんな事を、じゃ最近の人達は言ってる、これ道元禅師が中国に渡ってる頃だから、1230年にならない位の頃です。その辺の時に、こんな事が大体言われている。「功夫坐禅、得胸襟無事終、便是平隠地也(功夫坐禅は、胸襟無事なることを得終りぬれば、便ち是れ平隠地なり。)」これで修行が終わったって。こう言う風になれば修行が終わったんだって言う風に伝えてる。

胸襟無事って、胸襟は分かりますよね。自分の心の中と言って良いでしょう。ね。その中に何事も無い様になれば、そうすれば、毎日生活してて、穏やかだからそれで良いって、その位の事しか言ってないって言うんです。

この「見解」自分の見方、理解の仕方ですね、「なほ小乗の学者におよばず、」仏教に大乗と小乗ありますが、小乗って言うのは自分だけ救われれば良いって思ってる様な、小さなものの考え方をするものを、小乗仏教と言います。大乗仏教って言うのは、自分が救われたら、その素晴らしさが自分で分かったら、全ての人に縁があれば、それを伝えて行こうと言う大きな願いを持った人達が、大乗仏教と言われてるね。

で、だからそう言う時に、「なほ小乗の学者におよばず、」自分の事だけよかれと思ってやってる人よりも、まだそれはつまらないものの見方や考え方・理解の仕方だと道元禅師が言っておられます。

「人天乗よりも劣なり。」一般のなんだろう、道徳律とか言う様なものも入るのでしょうね、人天乗。こうすればああなる、ああすればこうなるいって言う様な事があるから、それを守っていく様な事がありますが、そう言うものよりも詰まらないと言ってる。「劣なり。」「いかでか学仏法の漢といはん。」本当に仏法を学んでる人とはとうてい言い難い。

「現在大宋国に」そう言う「恁麼」です、その様な功夫している人が多い。「祖道の荒無かなしむべし。」折角素晴らしい正しい教えが今も伝わっているのに、何たる事だと言っておりますね。これが一段ですね。また似た様な人がいると言うので、挙げてあります。

「また一類の漢あり、」それどう言うことか、『坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり』坐禅は、今自分達が悩んだり苦しんだりしてるから、それがどうしたら良いかって言う時に使ってですね、それがはっきりすれば、後は要らないって言うんでしょうね。『かならずしも仏祖の行履にあらず。』それは悟りを開かれた仏様や祖師方の在り様とは違う。

『行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安穏(行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安穏なり。)』行くもまた禅、坐もまた禅、と読んでおりますが、何をしていてもって言う事でいいですかね。何をしていても禅の在り様だって言う風に捉えてる。そう言う風な考え方でものを見ているって言う事です、これね。

考え方でものを見ているのと、実際に本当にその時、その事しかない確かさと言うのは、全然違うって言う事でしょうね。研究するとか、ものを学ぶ人は、殆ど実物じゃなくて、そう言う学問的にものを見て、勉強している。それで結論も頭の中で出した結論で、そうなってるって、そうなりますって言や、それでなった様な気になってるじゃない。こう言う様な事を道元禅師は厳しくやっぱり見て、それは違うって言う事ですね。

「ただいまの功夫のみにかかわることなかれ。」ってこう言う人達はだから言うって言うんでしょう。もっと一杯やることがあるって言うんでしょうね。だけど修行って、やる事一杯無いですよ。今自分達がこうやってる時に、本当にどうなってるかって言う事だけがはっきりすれば、済む事じゃない。この一点だけ。カッチ(□の中にカ)一解とか一大事とか、色々な言い方しますけど、これが一番大きな問題じゃない。

もっと普通の話をすれば、今皆さん方がそれぞれ問題になってる事だけが解消、本当の意味で解消されれば、すっきりする訳でしょう。他の事はそのまま普段の通り生活してて良い訳でしょう。

「おほくこの見解なり。臨済の余流と称するともがら、」これは余所でこれを裏付ける様なものが残されておりますが、どうして「臨済の余流と称すともがら、おほくこの見解なり。」って言う事になるかって言うと、元を尋ねて行くとですね、圜悟克勤と言う人の後に大慧の宗杲と言う人が流れの中に出てきますが、その時に、きちっとした処までこの大慧の宗杲さんって方が修行が終わらない内に、圜悟禅師が亡くなってしまって、その後もですね、修行して本人がはっきりしたって、きちっと自分ではっきりしたっと言う処まで行かないまま、色んな事を後世に、文言と文章も作ったりして伝えたって事があるので、こう言う事になります。皆見解、仏法が皆見解になっちゃった。

それが今でも使い方が悪いと公案を、臨済の方達は公案と言うものをやりますが、あれを見てると、答えを如何いう風にして出して来るかって言うと皆考えでしょう。坐って、そこに何が書いてある、どう言う事を言おうとしてるかって、すーっと坐りながら、その文言を頭の中に浮かべて、遣り取りを頭に浮かべて、それ如何いう事だってずーっと坐禅中にそういう事、ずーっとやってる。或いはその他の時でも、その公案をずーっと頭に置いてないと、お師匠様の処であれはどうなった、あれは如何いう事か分かるかって言われた時に、答えられないので、一生懸命考える。全部見解なの。

(臨済の坐禅て言うのは、非思量では無いと?)恐らく。恐らく。(僕はそう思ってますけれど、違うと言う人もおりますので、尚確認です。)、ああ余り余分な事を言うとね、差し障ると言う事でしょう。要らん事でしょう、自分の修行するのに。まあそう言う事にしておおきましょう。

これは気をつけなきゃならないのは、自分がはっきりしてない時に、人がはっきりしてるとか、してないとかって言う様な事は、真に失礼な事でしょう。(はい。)これ立派人が、こうやって言う分には問題ない、ねぇ。分かってない人が分かった様な事を言うのは、それは絶対注意しなくちゃいけない。人の褌で相撲を取るって言う事があるから、こう言うのを書いてあるのを見ると、わが事に様にこれ使ってしまうとえらい事になる。(各宗派としては慎重にそのあたりやってますね。それ分かります。)ね。それで良いでしょう。

「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」ここまでで終わっておきたいと思う。

初心晩学の要機って言う様な事が最初にあげてあるので、この事を示している当時の人達が、どう言う風に初心て言うものを見てるんだろう、晩学って言う言葉を使ったり、段々年数が重なって行くと言うことでしょう。お前今日はじめて来たじゃないか、あなたは何年もやってる、そう言う風なものの見方があるから、そう言う時にですね、じゃ初心て、そんなにつまらないものかって、一つは言ってる訳。

でこっち、何十年もやってるって言うけども、本当に今こうやってる事は、何十年もやってる事かって言ってる訳です。どちらも、今、生まれて初めて触れてる様子じゃないかと言うのが、ここで言いたい事ですね。だからあの、私の方が古いですとか、私の方が初めてですとかって、遠慮する必要が無い様になってる。威張る必要の無い様になってる。皆触れる処は初心です、生きてるって事、しょうがないじゃん。そう言う風になってる。今迄にやった事が無い事やるだけだもん、生きてるって事、全部。

(新しい日々、じゃなくて瞬時?)そう。新しいって事、言う事を仏教では大清浄って言う。大きい清浄。きれい。底抜けきれい、ね。古い物が何処にもない。それが大解脱って。全てのものから放ち解かれてる。(それを解脱って言うんですか)そうですよ。だってそうでしょう。内容としては言葉はだから難しいんだけども、事実を見てみると、何だ、って思う位簡単な事なのですよ。

そんな風に出来てるんだけど、ここの頭は、相変わらず古いもの一杯相手にして、有る様に思って生活してるから、この坐禅を本当にしてみないと、この事がはっきりしない。(先ほどの大解脱の他、もう一つは?)大清浄。清浄セイジョウって普通読む。仏教用語では清浄ショウジョウ。これが皆さん方の毎日過ごしてる様子なんです。

だから他の事持って来て見ないでしょう、これ見る時に。イキナリこれで済むじゃない。音を聞くんだって、何か持って来て聞かないんだもん。パン!いきなりパン!この音だけで、済、ちゃんと出来てる。皆、初めてでしょ。初心でしょ。そうやって過ごすと修行になる。この内容が非思量だから、初心て言うのは。手のつけ様がないじゃない。

未だかって自分の上で起こった事が無い事だから。自分の中にあるものを出して来るんじゃないからね。非思量って。古漬けみたいに。無いんだよ。この中に非思量って言うものが。あったものを出して来て触れる様な事じゃない。初心て言うものが非思量の正体。

音だって、パン!(打掌)何処からこう出してくるかって、どっかに有ったもの此処に引き出して来る訳じゃない。こうやってパン!音が出る様になってるだけだからね。これ位人間の考え方を離れてるものを、実際に体験して生きてる訳じゃん、本当は。だけども、何回も何回も言うけど、本当に人間て、こっから上で(頭)生きてるんだよ。考え方で生きてるだけって言っていい位つまらなくなってる。それを坐禅は、本当の自分の在り様そのものにこうやって居る。

自分自身のこの生き様ってものは、絶対に忘れようたって忘れられない、離れようたって離れられない様にできてるから、これだけで何時も初心で生活してるそれで十分。ということで。
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坐禅箴 Ⅲ

2018.12.2 (六月の分と一部重複します)

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坐禅しんⅢ正_01
坐禅しんⅢ正_02
坐禅しんⅢ正_03
坐禅しんⅢ正_04



この資料、「坐禅箴」の資料の一枚目の終わりの五行目位からですかね。その繋ぎまで読んで話をします。

「大師云、『非思量』。」これは何だろう、思量、不思量、非思量って、こう三つ位単語が並ぶんだけど、思量は勿論、実物では無いのですね。例えば、こうやってパン!(打掌される)あ、音がしたって言う風に扱ってるのが思量ですね。で、不思量って言うのは少なくとも、パン!あ、成る程、音と考えてる事が違う、って言って、この音の方にこうやって居る位が、不思量ですね。で、この本当に音だけをどういう風にして頂くことが出来るかったら、それはもう最終的に、これパン!に拠るしかない。

この音を聞くにしても、この音を知るにしても。思量に一切用がない。実物そのものですから。不思量にして現れる。人がどうこうする前にパン!だから、聞くとか聞いたとか聞こえたとかではない。パン!こう言うものがここで非思量と言われるね。

生活の中で基本に成っているのは、必ず事実ですよ。実物でしょう。実物は人間の思量の及ぶ範囲じゃない。それだのに人間は思慮分別を持ってそれを知りたがる。それで実物に触れている様でも、何だろう、コーティングがしてあると言ったら分かるかね。あの透明、無色のコーティングがしてあるので、実物の様に見えるし実物を間違いなく扱ってると思ってます。(質問:思ってる?)思ってる、殆ど。

ところが実物には、そう言う人間の思慮分別が加わってない時が、その実物の本当の在り様なんですね。だから、この非思量って言う事が役に立つ。修行するのに、必ずこの事で時を過ごして行く訳。

もうちょっと具体的にものをこう見てみると、簡潔に言ったらですね、時節因縁と言う様な事を使いますが、時節って言うのは時です。時って言うのは皆さんが一番よく使ってるのは、今と言う表現です。今って言うものはですね、掴まえ処が無い様なんだけども、今から離れて生きてる人は一人もいない。何時でも。だけども、その何時でも今の様子に居る今の内容はどう言う風になってるかって言うと、先ほどのものは一切ない。

滝の水が流れてる様子を見てもですね、滝がずーっと流れて、水が流れてるって言う風に見てるけども、その水の流れてる内容はって言うと、何処にも先ほどの水が流れてるって言う事は。永遠に無い。必ず今の流れてる水の様子だけなんですね。それ先から、上から落ちて来るって言うんだけど、必ず本当に今の流れてる水の様子だけなんです。それでも人間は物の見方があるから、ずーっと何時も同じ様に滝が流れてるって言って、そう言う風に固定概念で物を見てる。実物の内容は何処にも固定されるものは、一切無い。掴まえるものさえない。

そう言う風にして、今って言うものは展開されてる。その時節って言うものは、そう言うものを時節と言います。時と言います。これが人間の本質です。(路面電車の音)ゴトゴトゴトゴト、ゴトゴトゴトゴトって、これ時です。音がしている時です。何処に触れるかって言うと、ゴトゴトゴトって、必ず今の音に触れるしかないんです。否応なしに。そうやって皆さん毎日生活してるんですよ。

それだのに色んな事が気になるのじゃないですか、ねぇ。それは思量の世界の方で扱ってる話でしょ、考え方の。事実の方に学ぶと、見事にそう言う事が解決されて生きてるじゃない。あれがこれが気になってるって言うけど。本当の生き方をするんだったら、この事実に根ざしていなければ、生きてる意味が無いじゃないですか。

机上の空論て言うけども、頭の中で、ああだとかこうだ、ああだったとかこうだったとかって言う事で人生が済むなら、寝床の中へ入って一日寝て考えてりゃ良い事じゃん。ご飯も、ああお昼時だなあ、食べたらあんなに成るこんなに成るって言って、作らなくても済むじゃん。ねぇ。食べた様な事思ってりゃいいじゃんねぇ。味がした様な事、思ってればいいじゃんねぇ。ご飯が終わった様な事、考えてればいいじゃんね。そんなの人生じゃないもんね。

皆、実物を本当にそこで実践してやってるじゃん。それは因縁と言われる様に、一応このもの(自分を指す)一応ね、一人一人これだけのものがあるから、このもの(自己=身心)とこれ以外のものが、必ず一緒になって動くのを因縁と言います。時節因縁。それは各自、此処で、今、触れる以外に無い。この身心と言われる各自の持ってる身心と、そこで、この身心のある所で、今こうやって、これが触れてる証拠でしょう。こうやって。

そうすると、因縁だから、こう言う物(物を見せる)に触れると、触れた様になるし、こう言う物に(別の物を見せる)触れると、触れた様になるし、こうやって触れた物の様に、これが因縁によってきちっと、もうずれずに行くって言う事が、仏法と言われる法則です。人間がどんな事をしても犯す事の出来ないほど、はっきりしてる。ねぇ、簡単でしょう。

こういう物(紙を示す)を見せたら、こういう風に見えるし、こういうもの見せたらこう言う風に見える様になってるじゃん。絶対ずれないじゃん。気をつけてなければって要らん事じゃん。気を付けてなくてもこうやってりゃ必ずそうなる。それ位我儘な事が一つも無しにスムーズに生活してるって事が仏法の様子です。法です。ルール。

パン!ここで音がしたのと、パン!(別の場所を打つ)ここで音がしたの聞き分けなくても、皆さんが聞き分けなくても間違える事はない。ここで音がしたのと、ここで音がしたのが、ちゃんと違う様に聞こえるのが良いじゃない。パン!パン!そう言うものが皆、事実はそうやって人間の思慮分別の外です。

思慮分別に非ずって言うんだけど、思慮分別を超えている。超越してるって言う事です。それが非思量と言われる実物です。修行するのには、だから必ず実物でやる。じゃ自分の実物って何かったら、今、ここでこうやってる事以外にない。

何処行ったって、これ何時も話するんだけど、人間て何処に行ったって、このもの(自己の身心)抜きに生活しないんだよ。相手にしてるの、これだけ。(自分を示す)これが色んな所へ行くと、必ずその行った場所と一緒に成りながら、これが活動する。

その活動の中に、眼があるから、そこへ行くとそこの景色が、その通り見える様になってる。耳があるからそこで音がしてるのがその通り聞こえる様になってる。で香りがすると、そこで香りが嗅げる様になってる。それ全てこの身体でやってるものばかりです。生涯。生涯、一人一人この自分自身のこの身心の活動してる様子だけです。

それも丁寧に見ると、今、今そこで、この身心のある所で、今活動してる以外の事は一切無い。昨日の事を思い出すんだって、ここで今やる。明日の事を考えるんだって、今此処でやる。それ位何処にも行かない。

さっきもちょっと面白い話があったから取り上げてみるんだけども、人間の中でですね、あれもこれもって色んな事が浮かばって、もう大変て、言う人が例え居たらね、よく見てみると、自分の中でどう言う事が行われてるかって言うと、あれもこれも一杯って言う、そう言う思いがただ出ただけなんです。あれもこれもって一杯あるんじゃないんですよ。

あれもこれもって、言葉だってそうでしょ。あれもこれも一杯ある訳じゃない。あれもって言うと、あれもって言う事が其処に言葉として出てくるだけであって、これを人間はすぐ、瞬時のうちに、こんな風に(一杯の仕草)思うんだよ。そうやって使って来た。
昨日あそこであの人にって思い出すと、昨日あそこであの人にって言う様な事を、本当はただ言葉の上でも、昨日って言う言葉が

ふっと浮かんで、あそこでって言う言葉がふっと浮かんで、あの人がってここで(頭)で浮かんでるだけですよ。何も無いんだよ。思いって、それだけ。実物、非思量って。思いの内容はそう言う風に出来てる。

だからどんな事が出て来ても、そのままほっといて大丈夫なの。扱う用がない。それを処理する用がない。しかもですね、思った時だけしかその思いは無いから、思ってない時は何処探したって無いんだよ。で、もっと丁寧に見てみると、出てきた思いがずーっと止まずに、ずーっとあるって言う人なんか聞いた言がない。無理なんだよ。次の思いが出る時には、間違いなく前の事が消えちゃってる。

もの見るんだってそうでしょう。さっき見てたものが、次見る時にくっついて来ない様になってる。音を聞くんだって、さっき聞いた音が次ぎ聞く時について来ない様になってる。皆そう言う風に活動してる実物は。だけど人間は何処で思い間違いをするかって言うと、そんな事言ったってって、思うからね。思うと思った時に、さっきああ言う音したじゃない、さっきああ言う事があったじゃないって。

それはその時に、そう言う思いが自分の中でふっと浮かぶんだから、そうすると、その思いに騙されて、残ってるって言う風に思うんだよ。その時に。やってる事はその時そう言う思いが出ただけ。だから知らないと、この思いを、どうしたら静かになるとか、出ない様になるとか、邪魔にならない様に早く片付けるにどうしたら良いとか、そう言う事を又人間は思うんだよ。で何処まで行っても、思量の中から出ない。これでは修行にならないでしょう。本物がどうなってるかって事に触れないんだもん、これでは。本物に触れる為には、考え方でない、実物にこう触れると、いきなり成る程ってなるじゃん。

ゴトゴトゴトゴト(電車の音)ゴトゴトゴトゴト考える用がないじゃん。あれとこれが違うって、パン!あっち、今音がしたのと、パン!こっちの音がしてるの違うって、考えてやっと分かるのかしら。そんな頓馬な人は居ないんだよ。皆もっと素晴らしい出来栄えなの。自分の事だから、そう言う事がはっきりすると、楽になるでしょう。力も付くでしょう。安心もするでしょう。そう言う事が仏道の在り様です。だから皆さんと一緒に勉強する訳じゃん、自分の事を、本当に。

そこでですね、続き、「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、」そりゃ修行するのに、今申し上げた様に、実物そのものに拠らなければ、実物そのものがどうなってるかって言う事、はっきりする訳がないから、ねえ。間違いなくその事を知りたかったら、その事に用があるのでしょう。そう言う事ですね。必ず、「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」そこまでがそう言う事じゃない。

ところが人間は何か事があるとですね、その事が気になり始めるとですね、その気になった思いを相手にして真実を探す癖があるじゃない。それじゃ駄目なんだよ。もう一度色んな事思う事じゃなくて、真実がどうなってるかって言う時、真実に目を向けないと駄目なんです。そうすると、ものがはっきりする。

料理作って味わった時に、どうも味がとかって色々問題になった時に、もうその作った料理はほっといてですね、その思ってる事だけを相手にしてですね、どうするんですか。そんな事はないのでしょ。そのちゃんともう一回こうやって味見してみるんでしょう。そうすると、どうなってるかがはっきりするのでしょう、これが事実だから。で、自分の考え方や思いが付いている色んな見方してたもの止めて、ただ素直にその頂いたものの味がしてるだけで、こうやってやる様にすると、ものがどんな味がしてるかがはっきりするじゃん。

それ人間の言葉だってそうでしょう。今聞いたけども、何だかよく分からないって言うんだけども、よく分からないって言う時には、必ず自分の中で聞いたものに対して、ふっと思いが起きるんですねぇ。その思いを相手にすると、分からないって言う風になってる。だけど、もう一回テープなんかとってあれば、聞き直してみると、あれそんな風に喋ってたんだって思う位、自分がちゃんと聞いたと思う事と、本当に喋ってる内容が違うじゃん。

だから皆さんが普段人と話をする時に、自分の思いを入れずに、ひたすら相手の喋っている通りに、こうやって居てみるって言う事が修行になる。そうすると、それを段々やると、そうやって生活してると腹を立てる対象がないんだよ、聞いてる時に。頭にくるって言う事がない。頭にくるって言う時は、必ず聞いたものを自分で分別、判断したものが付いた時にやられるだけ。振り返って、皆さん自分の事だから、振り返って見て下さい。どう言う事が行われたか。

言葉に問題があったって言う事はないでしょう。頭に来たって言う位、頭に来るんでしょう。言葉に来るんじゃないんです。言った言葉に問題がある訳ないじゃん。ねえ。あいつあんな事したって。やった事に用があるんじゃなくて、それを認めた自分の捉え方が気になってしょうがないのでしょう、ね。そう言うものです。

だから必ず、この修行をする時には、「不思量底を思量するには、」考えてないって言うと、考え方を離れるってどう言う事だって言う風に勉強する時には、この非思量を用いる。考え方の付いてない、考え方の一つも付いてない事実に学ぶと言う事じゃん。事実には、何回も申し上げるけど、人間の考え方は一つも付いたものが無い。だからどんなものが其処にあっても、邪魔にはならないじゃん。邪魔にするのは人間の見方だから。

見解は誰か他人が起こした事が問題になるのではない。必ず自分の中に起こしたものが自分で気になるだけです。それに対して。そうすると、蹴飛ばしたりなんかする様になる。

「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」この事実って言うものはどう言う風になってるかって言う事でしょう。「非思量にたれあり、」これ自分の様子に間違いないんでしょう、非思量って。他の人の様子じゃないでしょう。こうやって生活して、考え方をつけていない在り様って。皆誰しもが、自分自身のの在り様として、根底にそう言うもので生活してるんでしょう。

先ほど来申し上げた様に、生涯、生涯ですよ、人間はこの自分だと思ってるこの身心の、これ一つで、このものの活動だけなんですよ、最初から。だからこう言う風なもの読んだ時に、「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」って言う風になってるのは、それ位何処にも行かないほどちゃんとしてるって言う事じゃないですか。この非思量が、自分の上に。どっかへ尋ねて行かなきゃならない、探して来なきゃ得られない様なものじゃない、最初から。

そりゃ生れ落ちた頃から、ずーっとそう言う生活をして来て、そう言う生活の時には、自分で認識をして知るって言う事がまだ育ってないから、この通り非思量のまま、ずーっと生活して来た。で、生活の方はそのままずーっと生活してるんだけど、その上に認識作用が起きて来たもんだから、その内容をちらっと見て、ああ、ああなってるって見る様になった。そこから事実から離れる様になっただけです。

事実と言うものは、ああ成ってるって言う風に眺める必要の無いものです。自分の事実だから。そうやって坐る時も自分の真相そのものに、こうやって、自分の真実の様子そのものに、こうやって親しく居るって言う事が、坐禅をしてる時の様子です。坐禅するってそう言う事を坐ってしてます。不知最も親切とも示されています。親しいと言う事は、自他の区別が無いのです。

「兀々地たとひ我なりとも、」って、これいいでしょう。間違いなく坐ってる事は自分の様子に違いないって言う事で良いでしょう。「思量のみにあらず、」だから皆さんが考える事が中心だと思ってるけど、「思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」本当に坐る時、ただ坐ってる様子がそのままあるだけだって言ってます。それが坐ってると言う事です。本当に。坐ってる時に坐ってる様子が本当にあるって言う事が、坐るって言う事でしょう。それ以外の事やってたら、それは坐ってる事じゃない事やってる訳でしょう。

あの電車もああやって、音でも、電車の音を本当に聞くんだったら、あの電車の音がしてるだけの音がしてるのが、正しく聞いてる時の事でしょう。それ以外の事を交えて聞くって言う事は、電車の音をそのものを聞くと言う事にならないでしょう。ね。じゃどうしたらそのものだけが聞こえるかって言って、こうやってると、何もしないと、そのものだけがちゃんとその通り聞こえる様になってる。他の音でもそうでしょう。一々皆、その音に他の音を交えない。音も他の音と混同しない様に出来てます。そう言う事です。

「兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。」言われてみれば、そう言う風に、その時にまじりっけもなく、何も無くその音がその通り聞こえてるって事は一応理解できるんだけども、理解は出来るんだけど、本当に音を聞いてる時に、音を対象物として捉えると言う事はないのでしょう、と言うのですよね。「兀々地たとひ兀々地なりとも、いかでか兀々地を思量せん。」そのものがそのものを見るって言う事は無い。そのものがそのものを聞くと言う事も出来ない。ね。

いいですか。音を出しますが、パン!(扇子で畳を打つ)この音が、この音がですね、パン!この音がこの音を聞くと言う事は無いでしょう。(音がですか。)音自体が、このしてる音自体が、自分でって言っていいかな。音が音を聞くって言う事は無いでしょう。そう言う事。

坐ってる時、だから自分の坐ってる事があるには違いないんだけども、本当に坐るって言う事は、今こうやって坐ってる、ああ、ちゃんとそうなってるって、それは坐ってるんじゃない。考えてる。自分が坐ってる様子を此処に置いといて、外に自分を置いて、自分を自分で観察してる様な坐り方をしてるって言う事じゃん。本当は変じゃないですか。変ですよ。

お茶一杯飲んでても、其処には人は顔を出さないよ。(おいしいなって言うのは何ですか。)それは飲んだ物に対する自分の見解。そんなもの付いて、入ってこないもん。美味しいなんて、そんな風にはならない。自分の目は自分に付いてるんだけども、目が自分の目を見るって言う事は無いとかって言う、そう言う表現でやれば分かりやすいかもしれない。

一番親しく居るって言う時には、そのものと一緒になってるから、一緒になっている時には、眺める物がおのずから無くなる。眺める物が無いんだけども、疑うって事は無い。これ本当に自分が見てるだろうかって、疑う必要無いでしょう。

写真撮る人がいるんだけどね、写真撮る人が、大概こうやってカメラを向けて撮ってる場合はですね、どの写真を焼増してみてもですね、自分が写ってない。ね。でもこうやって並べたら、あ、僕が取った写真だってすぐわかる。居ないんだよ。私は。居ないんだけど、写真見たら、間違いなく私が撮った写真だってわかる。他の人の撮ったのじゃないって事が分かる。不思議だね。自分が見えなくても。
だってこうやって物見てて、これ私が間違いなく見てるって言わなくたって良い様になってる訳でしょ。信じなければって用ないでしょ。そう言う事です、ね。「兀々地いかでか兀々地を思量せん。」本当に坐ってる時には、内容はそう言う風になってる。信じる必要がない。それを眺めて、点検してどうなってるって言う様な事じゃなくて、今、活動してるそのままでいる。それが全部自分の内容だから、最初から。

「兀々地仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。」これ位人間の考えで取り扱ってる範囲と桁違いだって言う事だね。仏量だから、お悟りを開くと、そう言う事が分かるんじゃないかとか思ってる人がいるけど、お悟りを開いて分かる程度の量じゃない。法量と言う、仏法の真実の様子はそうなってるって言う様な事が、一応理解出来るんだけども、遥かにそう言う人間が、真実はこうなってる、ああなってる言う様な思い慮ってる内容を超えています。

こういう事がずーっと書いてある。会量、会量は、一応理解が出きた、はっきりしたと言う様な事があるけども、そのはっきりした事だって、もうこれで終わりって言う様な内容で生きてる訳じゃない。一日中、眼だってそうでしょう。どの位物をこう見てるか分からん位、生活してますよ。こんな事が書かれてる。

「薬山かくのごとく単伝すること」って言うのは、この主人公の薬山弘道大師と言う方がですね、坐禅についてお話、示されている内容です。坐禅て言うものはこう言う事だって、示されてる。『兀々地思量什麼』『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』またそれに対して、『不思量底如何思量』と問われたから、『非思量』と答えられた。こう言う風な内容の事をここで「薬山かくのごとく単伝すること」と言う事ですね。それを詳しくさっき、昨日触れてみた内容。

エー単伝て言うのはですね。こう言う風な事を言います。パン!そのものがそのものを伝える。パン!そのものがそのものを伝える。皆そう言う風になってます。他所のものが、このものの様子を伝えるって言う事はない。どんなものでも。必ず、そのものがそのものを伝える様になってる。それ単伝と言います。だから間違いが起きない。絶対に間違いが起きない。そのものがそのものを伝える。他のものを持ってきてそのものを伝えるって言う事はない。

坐禅箴 Ⅱ

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坐禅箴_02_01
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これだけで本当は良いわけですね。だけどこれに対して、道元禅師という方は、色んな事をこうやって話をしておられるから、それをちょっと読んで味わってみたい。

「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。」薬山と言う方が、今話してる内容ですね、「大師の道かくのごとくなるを」、今申し上げた様に、平たく砕いた様な事があるでしょ。「証して」と言う事は、聞いて貰った皆さんが、自分自身の事だから、そう言われれば確かにそう言う風になってるなって、思ったんじゃないですか。

思うより確かな内容に出合って、立証されたんでしょう。こうやって。パン!どうですか。ここでやったから立証されたんでしょう。本当にそうだなって。いい加減な事言ってないなって、分るでしょう。悟ると言うことは、頭で理解する様な分かり方ではない。

人間の思慮分別は入らないじゃない、こうやって。パン!入る前に音がちゃんとパンとする。そう言う在り方なんですねぇ。「かくのごとくなるを証して」そして「兀坐」って言うのは坐禅をする時ですね。学びなさいと書いてある。「参学すべし、」こう言う自分の在り様に学びなさいと言う事です。ああ本当に思量を離れてるってこう言う事なんだって。

そしてそれを本当に実践してみる。それが兀坐正伝するって言う事でしょう。正しく坐禅をすると言う事でしょう。これが分らなければ、幾ら足を組んで真面目そうな顔をして、こんな事してたって、みな作り事でしょう。人は立派だって言うけども、自分自身がこんな事(思考上の取り扱い)やってて、どこが救われるって。こんな事とは違うでしょう、問題が。

だけど一般的に坐禅て、その位の事しか伝わってない。だから動いちゃいけないとかさ、40分なら40分動くなって。本当に全く坐禅て言う事を知らない。素人の人に教えるんだから、それで通るじゃない、知らなくても。初めて来た人は、真面目そうにそう言われれば、あ、そう言うもんかって言って、受け継いで行く訳でしょう。

だけどやってみてですね、どこが効果があるって、どこがどうなってるか、さっぱり手探りでやってみても、何も分らないって。そう言う事が、そう言う話の中で体験する人達は、自分で感じてるのにも拘らず、今度どっかに行った時に、いや教えられてこうやって坐ったんだけどって、自分の中では手ごたえが無いとかって言う話を何でしないんだろうね。聞かないんだろうね。

もしこれがスーパーに行って買い物してですよ、これが美味しいよって言って売ってくれたものが、家へ帰って食べたら、全く大して美味しくないなって感じたら、あすこで売ってたものはあまり美味しくないって、こっちで買って食べたのとは全然味が違うって、で、こっち(美味しい方)へ行くじゃないですか。何で自分がやってる事なのに、自分で責任持たないんだろうね。自分で満足できなかったら、そのまま置かないんじゃないですか、本当は。

そう言う事があるから、独参するのです。聞いて貰って。で、一般の色んな処で、そう言う事は使われるんじゃない。真面目に本当にものを学ぶ人は、必ず自分の中ではっきりしないものがあったら、それをはっきりさせたいって言う思いが強いから、隙があったら色んな人に、こう尋ねみるんじゃないですかねぇ。居る訳でしょう、色んな人が世の中に。その分野その分野で専門の人がいるんだから、聞いたら良いじゃんね。聞いてみて評価しないと駄目ですよね。人の噂で評価しても、エー。

私らあの、他所で話をしに行く時に、紹介してくれる人がたまに居るじゃないですか。私の話を一度も聞いた事のない人が紹介する。あの人の話はね、って。あなた聞いた事ないから止めてって、私の紹介するの無理じゃない、ね。聞いた事もないのに、人をこうだとかああだとかって紹介して。そんな無責任な事するべきじゃないです。聞けば分りますって、紹介してくれって。今から私話すから、聞いたら分りますよ、だから皆さん聞いてください、って、そうやって紹介してほしい。ねえ。それから評価をしてほしい。聞かないで評価しても無理。こう言うのもそう。実践しないで評価しても無理。

エー、今朝も話して来たんだけど、先日21日かな、大阪に行ってた。大阪に行ったら、壮年の男性がお見えになって、私も随分
色んな事を読んだりして研究して来てるって、坐禅の事については殆ど分っておりますけどって言われた。で、私はその言葉を聞いた時、あなた坐ってないのに、よく坐禅わかるねぇって、言ってしまった。酷い事言ってしまった。ねぇ。

頭で考えて、人の書いてある文章読んだり色んな物を読んで、こう言う風な、考え方を止めるとこうなるとか、皆知ってるんです。それは坐禅した人じゃない。頭で知ってるだけ。だからそれだけものがよく分ってても、それでそのままで居れない。まだ自分の中で満足出来ない。それは理解してるだけだからです。ねぇ。飲まないのに、そのものの味が分る訳がない。百万の、万巻の書と言うのかね、色んな物を借りて来て、味について書いてある本を読んだって、飲まない間は絶対にそこに到達する事はない。坐禅てそう言う確かに道です。やれば必ず、やったでそうなる。

この音だって、パン!こうやって今、聞かなかった前に誰も戻れませんよ、もう。聞いちゃったから。考え方で、いやーそれは聞かない事にしようとか、ほっときゃ良いとか色んな事やったって、聞かない前には戻れませんよ。そう言うものです。ものって、ねぇ。その様にそんな風に坐禅て言うのは正しく伝わってる。

「兀坐の仏道につたはれる参究なり。」それが実践をすると言う事じゃないですか。坐禅は頭の中で考えて、物を読んで理解する様な事とは違う。だから「上智下愚を論ぜず利人鈍者を選ぶ事なかれ」と言われる。どんな人でも出来る、坐禅は。仏道の仏の字も知らなくても、禅宗の禅の字も知らなくても、一字も知らなくても坐禅は出来る。学校へ行かなくても。文字が読めなくても、それは自分自身の在り様に触れるからです、今。

自分自身の在り様に触れたら、自分自身がどうなってるかは、誰からも聞かなくても分かる様になってる。こうやって触れた時に(扇を開く)、誰からも聞かなくてたって、字が読めようが読めまいがこの通りなる。良いでしょう。だから世界中何処へ行っても役に立つんでしょう。この確かさがあるから。まあこう言う風な薬山の弘道大師と言う方が話をされてる様な内容ですね、「兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。」体験してる人は薬山弘道大師だけじゃなくて、数えれば、取り上げれば幾らでも居るでしょう。だけども、これ位文言の中でですね、明確に残ってる資料が少ない。だから道元と言う方は、この薬山の弘道大師とこのお坊さんの会話をですね、坐禅の指南の中に取り入れてる訳ですね。

こう言う事が本当に分かったら、坐禅がちゃーんと出来る。こう言う事が分からないと、ただ漫然として、形を作って時間が過ぎる
のを待ってるだけですよ。多少はね、普段ザワザワしてるより、静かな所でこうやったら気持ち良いに違いない。そう言う事は起きる。だけどそれ以上の事を本当にやろうとしたら、この考え方を離れてる事実って言うものに、こうやって触れるって言う事をしなかったら、坐禅にはならない。

「いはゆる『思量箇不思量底』なり。」その内容は、何回も繰り返すけども、「箇の不思量底を思量す。」この考え方を離れてる、事実と言うものは人間の思慮分別を離れてる、曖昧にならない確かさがある、これに学んでいかなきゃ駄目だって言う事です。

その後にも、「思量の皮肉骨髄なるあり。」とある。それはそうでしょう。この身体で考えてる時の在り様もあれば、それから、「不思量の皮肉骨髄なるあり。」って、考え方を離れてる、事実そのもので生活してる様子、両方あるじゃないですか。それでどっちを今使うかって言うと、この不思量の皮肉骨髄というものを相手にして坐禅をするのです。こんなことは、ってなるんでしょうね、「まことに不思量底たとひふるくとも、」これ別に弘道大師の前から、こう言う事は言われてる。

日本だってそうでしょ。「下手な考え休むに似たり」って言う位使われてる訳でしょう。皆さん使うでしょう。「下手な考え休むに似たり」マインドフルネスって、そう言う事も今やってるのでしょう。仕事の上で余分な考え方しないで居てごらん、楽になるからって。全国的に今。道具ですよ。だけどあれは人間の考え方で扱ってる。修行として効果があるって言う事を知ってるから、そうやって教えてる。

坐禅は違いますよ。そんな作り事はしてません。本質的に自分達がそう言う生活をしてる事があるのに気が付かないでいるから、ここに目をつけてごらんって言ってる。そうするとよく分かるから。繰り返すけど、考えてない時、悩まないんだから。あの人があんな事言ってって思った時に、その言った人の事が気になったり、自分の中が面白くないなと思ってるだけでしょ。それやらない時は、ただその通りにきこえて、何ともない。

あんな事やってって、見たものに対して自分の思いを付けると、居た堪れなくなるんでしょう。だから自分の家で行われる事と、他所の家だと思う所でこう触れるものが、皆さんかなり違うでしょう。少々他所の家汚れてるの見てもですね、「ああ」その位で終わるじゃないですか。自分の家の汚れてるやつは、「ああ」ってそれ位じゃ終わらないですよ。何処が違うでしょう。見るときに自分の考え方を、こっちは物凄く付けてる。こっちはもうどうせ自分の家でないからしょうがないなって、手をつけてもしょうがないなって言って、考え方をやめてるんですね、ちょっと起こるんだけど。こっちは考え方を何時までも止めないんだよ。

それ皆さん体験してる筈。大阪の震災がこの前あったけども、殆ど忘れてるでしょう。忘れてるから良いのでしょう、また。あれがずーっと生活する時に何時もここに今出て来て御覧なさい。大変でしょう。ところが実際は、思い出した時だけ、その事が相手に出来る。こんな風になってるからでしょう。パン!音がした時に聞こえて、音が無くなると聞こえない様になってるから、私達、こんなに生活が楽にできるじゃん。

思った時だけその事が、相手ができるんでしょう。阪神の大震災とか大阪の震災とか。思ってない時にそれが出て来たら、大変ですよ。思った時に出てきただけだから、それで別に取り上げなけりゃ済む事じゃん。事実を否定するのではありません。気になる事があったら、やって上げれば済む事じゃん。気にかからない時に、そのことを相手にしないし、出来ないものです。慈悲心は皆あります。無視する事とは違います。現地に赴くと、その現実に触れて活動が始められる様になってます。他人のそうした行為を見聞して、敬意を払う心を失わない事が、人を救う力になってます。

思いを離れるって、そい言う実に不思議な事を皆さん体験してるじゃん。何時までもしがみついてなんか、生きてないよ。実際に。昨日ああだった、この前もああだったって愚痴をこぼす人が居るけど、今どうですかって。昨日もああだった、さっきもこうだった、本当私はどうしたら良いんだろうって、悩み事をぶつけてくる人が居るけども、それは此処でそう言う事話してるだけであって、何にもそう言う内容が問題になってる事じゃないですよ。

もっと極端な話をすれば、わかる。「家に居ても頭がおかしくなる位色んな事が次から次へ出て来て、どうしょうもないから」って言って「来たんです。」って言う。喋ってる事と事実がどの位違うか、分かりますか。私の処へ来たって言う事は、どうしようもない人じゃないって言う事でしょう。エー、もう手が付かないどうして良いか分からないなんて事は、ちゃんと井上さんと言う処へ尋ねて来る力があるって言う事は、物凄いちゃんとしてるでしょう。

それで喋ってる事が、そう言う自分の内容を喋れると言う事は、自分がどうなってたかって言う事、皆ちゃんと知ってるって事でしょう。手が付かないんじゃなくて。それ位自分で言ってる事がありながら、自分の内容を全く見てない。で、指摘すると、今あなたそう言ってるけど、どっか苦しい処有りますかって。いや、今は無いですって。今無いのに、何処に手を付けて何を整理しようとするんだろう。それ位考え方って言うのは、人を迷わせてる。真実がどうなってるか見えない様になってる。考え方の上で生活をしてると。

言ってるけども、別に言ってる事がある訳じゃないですよ。頭が変になるって。色んな事が次から次へ思えて、もう何、どうして良いか分からないって言う事言ったって、そんなに正確にちゃんと話してるじゃないですか。それだけの事が行われてるだけであって、自分の中でそれ以外の事、何も起こってないですよ。分かりますか、そう言うの。

この前あの人と話してたらね、こんな事言われて腹がたってって、そう話したって、ただ自分の中で思い出として取り上げてる話であって、ここで何もそんな事が行われてないよね。思ってるだけだよね。違いますか。あの時ああだった、こうだったたって、思ってるだけの話でしょう。人間てこれ位、自分の真相って本当にどうなってるかを知らない。思いの上だけで生きてるから。だから不思量底って言うのが必要なんです。人間の考え方を離れてる事実にこうやって触れると、全く違う生き方をしてる、皆さん。

もう人の話なんか聞けないって言う人だって、「ちょっとここまで来て」って言うと、すっと来るよ、エー。「何、何」ってここへ来て、あんた今人の話なんか聞いてられないって言ったじゃないって。ちゃんと人の話聞いて、来るじゃんて。変ですよね。自分の思ってる事と自分がやってる事と全然違う。こう言う事が皆見えるんですよ、自分で。思量を離れると、考え方を。考え方でものを見る事を止めてみると。嘘だと思うなら、実験して御覧なさい。

「さらにこれ如何思量なり。」これ脚注に「更にいうなら如何という思量である。」ってこんな風に訳したって、それは無理です。それはどう言う事ですかって、尋ねる力がほしいって言ってるんです。考え方を本当に離れるって言うんだけど、それどう言う事ですかって、もう一回念を押して聞いてみたいって言うだけじゃないですか。

「兀々地に思量なからんや、」ただ坐ってるったって、何もしないでただ坐ってるって言ったって、パン!パン!(扇で打つ)こんなにはっきりしてるじゃないですか。パン!パン!パン!パン!皆さん坐ってる時、こうやって、ね。ここでこうやって音がパン!したのと、ここでパン!したのと、自分で量らないのに、思いで量らないのにちゃんと、こうやってこんなにはっきりしてるじゃない。同じ様には聞こえないのでしょう。ここでパン!こうやったのと、ここでパン!。ここで音がした様に聞こえるし、ここで音がした様にちゃーんと聞こえるのでしょう。ただ坐ってるだけなのに、ね。音の話をすると、聞きにいきたくさせるので、音がしない時はしない時の様子がある、ということです。身心の活動がある。

「兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。」どうしてそうやって坐ってるのに、こう言う真相に、皆さん方がああなるほどって理解が行かないのかって。難しい事じゃないでしょうが。今やった通り終わってて、こうやったらパン!パン!こうやって。考えなきゃ分からない様な話じゃないでしょう。考えないとパン!パン!こう言う事がこう分からないかしら。エー。あっちで鳴った、こっちで鳴った、色々考えなくても、ただ坐ってるだけで、こうやったらパン!パン!パン!パン!(連打)その通りにこうやってなってるんでしょう、皆。

これ、向上ですよ。飛びっきり上等ですよ。この上ないと書いてある。上に向かうと書いてある、向上。人間の考えてる様な世界じゃないって言う事です。更に向上を目指せとかって、その上に行きなさいって言う事を使うけども、こう言う事が人間の向上ですよ。人間の考え方を離れてる素晴らしさが、こうやってあるじゃない。パン!パン!すごいですね。止めないのに、音を聞いたものを自分で捨てないのに、聞いただけで何処にも残らない様な生活をしてる。エー。

普通は聞いたものを片付けないと無くならないのでしょう。そう思ってるでしょう。だけど聞いただけで無くなるんですよ。ほら、聞こえたものを消した気配は誰もしない。こんなにうまい生活してるじゃない。上等ですね。飛びっきり上等でしょう。だから次から次へ音がしても、前の音が邪魔にならずに何時でも聞けるって言うのは、残ってないからでしょう。それが皆さんの本質的な生活なんでしょう。

ところが考え方がちょっと出て来ると、本当は残ってないのに、思いが出て来るから。思いの方に意識がこう行くとですね、現実に今触れてるものの方に気が向かないんだもん。パン!パン!パン!パン!それでものがはっきりしなくなるんじゃない、ねぇ。それが皆さん方が普段愚かだと言われる生活、そう言う事じゃない。

俗語でよそ見をするなと言います。よそ見をしたら、こうやってて見てて、よそ見をしたら、今見てるものこれ見えなくなるの当たり前じゃない。これ見てごらんって言ったのに、こうやってやってよそ見したら、見えなくなる。よく分かりませんか、当たり前じゃない。如何いう風な生活してるかって、よそ見をしてるから、分からなくなるだけじゃん。こうやってたら、誰だって無条件で分かる訳じゃない。

それ生活してる、何時でもそう言う風に、今の在り様から離れない生活してる筈でしょう。今から離れた生活なんかしないんだもん、誰だって。今生活してる在り方だけじゃないですか。実際にやってるのは。努力しないと今生活してる処に行き着かないなんて言う事はないでしょう。最初から、皆、今の様子の中に居るじゃないですか。今と別に生活するって事はないじゃないですか。

それ位ピッタリしてる生活してるにも拘らず、考え方がサッと起こると、すぐよそ見をする。で、考え方の方が強烈だから。皆さん好きなんだよね。気になるんだよ、考え方って。自分の思ってる通りの事が思えないもんだから。そんなの放っといて全然問題ないですよ。本当に、そういう思える事、一切手をつけずに、放っといても生活に何の支障も無い。

それだのに考え方が出て来て気になると、それで手放しで居る力がない。要するに、真実の方を大事にする力が無い。大事にするものを間違えてる。偽者のお金を掴まされて、それを大金持ちに成ったと思って、偽札を一杯持って歩いてる。使ってみると、これ駄目ですって言われるだけじゃん。本当の価値があるものを大事にしないと駄目だよ。

だから「賤近の愚にあらずんば」と言う事があるじゃないですか。酷い事、道元禅師言うね。これ賤って浅ましいとかって言うんですよ。どちらにしても愚かだって言う意味でしょ、賤近も愚も。考え方と真実と、どっちが大事かって言う事を見誤るなんて言う事は、正に「賤近の愚」なんでしょう。偽者と本物があった時に、偽者を大事にする様な人は愚かなんでしょう。

じゃあ自分の中で、どっちが本物なんですか。考え方と今生きてるものと。実際に生きてる、生活してる。そんなの言わなくても分る事でしょう。言わなくても分かる事だけど、自分の生活見ると、実物の方を相手に生きてるなんて、殆どしないんじゃないですか。悪いけど。時間がありゃ、考え方が出て来たもの相手にして時を過ごしてるのでしょう。あそこ掃除したらいいな、あれもこうしたらいいなって、そうやって過ごしても、何処も何も綺麗にもならないし、修理も出来ないのでしょう。よく知ってるでしょう。

で、時間がたって、色んな事をこうすれば良かったんだけどって、どうして上手く行かないんだろうって。やらないもんね。考えてるだけだもんね。考えて如何にも出来た様な答えを出すんじゃない。こうやったらああなるって、答え出るもんだから。それ皆思量の上の話でしょ。考え方の上の扱ってるから駄目じゃん。不思量ですよ。考え方じゃなくて実物を扱うっていう事が坐禅なの。考え方じゃなくて。実物には人間の思い量りがついてないんじゃないですか。

考えなくてもお百姓さんが畑や田んぼに行くとですね、その現場に行ってこうやって触れるとですね、どうしたらいいか分かる様に
なってる。水が入ってないと水をひく、草が生えてると抜く。稲と違うものがあるとちゃんと抜くのでしょう。考えてやってる訳じゃないですよ。行くと、そこに行くと実物に触れると、ちゃーんと分かる力を持ってるんです。

だけど一般的には犬を連れてっておしっこしたら、ヒューっと掛けるとか、糞したら集めるとかと教えて、そうそういうことを知ってないと出来ないと思ってる。そうじゃない。出したらわかるんだもんそこで。何で止まったかなぁと思うと、こんなことやってブルブルとやって、コロコロと出てくる。それで出てくると、そのまま行くか行かないかだけだから。大事に拾って帰る訳でしょう。

まあそうやって、ここは「賤近の愚にあらずんば」愚かでなかったら、こういうことをちゃんとするんじゃないかって。次にある「兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」本当に坐るっていうことはどういうことかって、
尋ねる力があるでしょう、って言うんでしょう。本当に坐るって、ただこんなことやってるだけじゃないって言うことでしょう。形を作って時間の間ただこうやってすごすって言う事じゃないのでしょう。それで解決はしないのでしょう。

一番問題になってるのは、こうやってる時に、思いが出てくるものを相手にしてるものが殆どだから、思いを相手にしなかった時どうなってるかって言う事を本当にやってみるって事が問われてる訳でしょう。そう言う事を教えてくれる所に行かない限りは、本当につまらない事しますよ。坐禅て。何十年もやってるって、坐ってるって。坐ってどうなったんですか。イヤーよくわからないって。何でよく分からないんだったら、そのまま居るんだろう。

縫い物して上手くここを縫えないって言って、普通はそれらしい人のとこ行って、どうやって縫ったらいいんでしょうかって、その位聞きに行くでしょう。問著する力量ですよ。或いは思量あるって、自分でそこが問題になってたら、それを問いただして解決するぐらいの力があるんでしょう。教えてくるのをただ待ってるのかしら。口開けてぼた餅が口の中へ棚から落ちてくるのを待ってって言う様な表現があるけど、そんな愚かな事はしないのでしょう。ねぇ。

そして道元禅師はそこに、薬山様が言われた、「大師云、『非思量』。」本当に思慮分別を離れてる、実物が具体的に何を指すかって言ったら、今活動してるこの全身心の活動してる様子がみな非思量でしょう。考え方を起こしてもの見てないじゃないですか。見たものに対して考え方を起こすかもしれないけど。

音を聞く時に考え方を先にして聞くって事ないじゃない。聞こえた後に考え方を起こすのでしょう。食べた後に、味がした後に、それがうまいとかまずいとか愚図愚図いうのでしょう。愚図愚図言う前にはどうなってるかと言うと、本当に好き嫌いを超えた味がその通りしてる。そういう確かさの素晴らしい生き方をお互いしてるのでしょう。文句言わずに済む。そういうのが真理を味わうって言う事でしょう。皆ズレていませんか、どっかがね。

「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なり」もうはっきりしてるじゃないですか。そうあるべきじゃない。人間の考え方の前に皆ちゃんと活動してる。生きてる事だってそうでしょう。自分で作って生きてる人なんかいない。先に皆生きてる様子にいるんじゃないですか。今生きてる様子を作ってやってる人なんかいませんよ。今生きてる様子、どうしてるか全然知りませんよ。人が手を加えた事一切ない。はっきりしてるでしょう、そう言う事。だから安心してられるのでしょう。作らなくてもいつでも今の中にいるから。

「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」本当に思量から離れてる様子を学ぼうと思ったら、この有り様を使う以外にないじゃないですか。人間の思慮分別を起こす前に生活してる事実があるんだもん。これに学ぶしかない。考え方を止めるって言う様なことでは届かない。

まあその辺まで読んどけば。だいたい時間だから。後五時までだから30分位あるから、これを基調としてですね、あとそう言う日頃の感じてる事があったり、ここはどうもとか思う事があったらどんどん質問してみて下さい。そうするともう少し理解が深まると思う。

坐禅箴 Ⅰ

音声はこちら ↓ 2018.6.24 高知市でのご提唱です。

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地元の○○さんが坐禅会を開いて少しでも多くの方と一緒に坐ってみたいんだと言う事で、会場まで暇があったら来てほしいと言うもんですから、私でよければと言うことで、どうぞと言う事でお受けしました。そう言う事で始まったので宜しくお願いいたします。

でその折にですね、何か話をして、と言う事でお選び頂いたのが、この正法眼蔵の坐禅箴と言う巻をちょっと参考に読んでほしい、とこう言う主旨でした。それで手元にコピーをして頂いたものを用意して貰っております。まあ聞いて貰ってれば良いんじゃない。ちょっと一頁だけ読みますね。

「坐禅箴 観音導利興聖宝林寺」「薬山弘道大師、坐次有僧問(薬山弘道大師、坐次に有る僧問ふ、)、『兀々地思量什麼』」まあそう言う風に読んだら良いでしょう。「師云、『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』。僧云、『不思量底如何思量』。師云、『非思量』」

これだけの教材があって、これに対して道元禅師が色々お話を進められております。「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。兀坐の仏道につたはれる参究なり。

兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

いはゆる『思量箇不思量底』なり。思量の皮肉骨髄なるあり。不思量の皮肉骨髄なるあり。

僧のいふ、『不思量底如何思量』

まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。大師云、『非思量』。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」


まあそこら辺まで読んでおけば。人物その他についてはですね、それほど詳しく知らなくても、話は進むと思います。だからそれは抜きにして。

薬山と言う和尚さんがおられて、其処にあるお坊さんが来て、この様に尋ねられたって言う事です。坐っておる時一体どうしていたら良いかって言う事です。『兀々地箇如何思量』と言う事はね。坐っておる時、何をしてたらいいか。普通は皆さんさっきも話した様に、静かにこうやってる時があるとですね、自分の頭の中に思い浮かんで来る事を相手にして、それを詮索して、ああも思いこうも思いして過ごすのが、普通坐ってる時じゃないですか。

じゃ坐禅の時、坐禅の時はそう言う事と同じで良いのかって言ったら、同じだったら別に坐禅する意味がないじゃないですかね。そう言う事が基本にあるから、坐禅をしてる時にどうあったら良いかって事が問われてます。でそれに対して、この薬山と言う方、お師匠様になるかね、方がですね、言われるのに「箇の不思量底を思量す。」今こうやってる、箇のって言うのは。

「箇の」ってなにを指すかって言ったら、今誰もが今こうやってる、この様子です。今こうしてる。今の皆さんこうしてる様子、誰もが今こうやってる、この様子です。こうしてる。今の皆さんこうしてる様子、誰もあるでしょ。エー「箇の」って。何処を指すって言う様な言葉じゃないです。全部なんですね。「箇の」って言ったら、今の様子を指す代名詞です。何もかも入る、「箇の」って言ったら。自分達の、一人一人、今こうやってる様子。「箇の不思量底を思量す。」この考え方で取り扱っていない事実、それが不思量底です。

あのこう言う風な話し方をしたら、少し理解が行くと思うけども、物にはですね、どんなものにもそうだけど、人間の考え方は付いてないです。例えばこうやって見た時に、天井って言う風についてない、見た時に。天井って言うのは、私達が生まれてから後の、あれを天井って言うんだって言う風に学んでるから、見るとそう言うものが頭の中にふっと出て来て、で、天井って言うんだけども、本当に見てる時には天井とも何とも言わず、あの通りの様子がただあるだけじゃないですか。上を見なさいって、一応言うんだけど、こうやった時に。皆言葉が先なもんだから、今、ねぇ。問題になるんだけど、言葉の前に先に事実が皆あるんじゃないですか。

色でもそうじゃないですか。この前NHKで何かやってた。信号機の話あった。聞いてた。青赤黄、青黄赤か。何で日本はあの色を青と言うのかって言う話があった。こんなのの濃い色ですよね。グリーンですよね。で、言葉から言うと問題になる。何であれ青って言って言うって。他所の国ではグリーンって言ってるのにって、日本だけどうしてあれを青って言うって問題になるんだけど、皆さんの眼はですね、青を言おうがグリーンと言おうがですね、ズレた事がない。その通りの色がちゃんと見えてます。それ位人間が生まれてから後に付けたものに関係ない程確かな生活をしてるって言う事です。これが不思量です。

ねぇ、決めたのは後ですからねぇ、見えている色に対して。こう言う呼び方をしようって言って、人間が後で約束してグリーンとか青とかってつけて。その時、もしつける時に、赤ってこう言うものを呼ぶ様にしたら、今だってこれを赤って呼ぶんでしょう。ねぇ。元々名前無かったんだよ。こう言う風に見えるだけ。(手元にある茶碗を持ち挙げて)

今でもそうじゃないですか。色んなもの見て御覧なさい。名前が付いてる訳じゃない。見ると、薔薇とか菊とかって言うけど、別に名前が付いてないですよ、見た時に。こうやって人が居るんだって、エー誰も名前なんか付いてない。見えるのはこう言う風に見えるだけです。だけど知ってますからね。知ってるから、あ、あの人って言って、その名前の方で呼ぶんでしょう。

こう言う処に不思量って言って人間の思慮分別、ものを分けたりする、そう言うもの付いてない世界があると言う事じゃないですか。どっちが素晴らしいって、別に何も付いてないでしょ。こうやって色んなもの出した時、ものには、どっちが素晴らしいって付いてないでしょ。どっちが価値があるって、何も付いてないですよね。付いていますか。これこうやって見て、どれが価値があるって付いてますか。そんな風に見えますか。正直にこの通り見えるだけでしょう。見て御覧なさい。だから全然思量を離れてるでしょう、人間の考え方を。最初から。そう言う事知ってますか。

人と出会っても、良い人悪い人って、そんなの付いてませんよ。あれは見た人が、自分の中で自分の主観で、自分の中に基準があって、それを比べた時に良い人悪い人って言って、そう言う勝手な見方に変えたんです。見えてるものにはそんなの一切付いてない。

これが此処で薬山の弘道大師が言われている『箇の不思量底』なんです。考え方を離れて。考え方でない。思いの方でない。良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、若いとか年が行ってるとか、男性だとか女性だとか、綺麗だとか汚いとか、ああ言う様々なものがある。あれ全部思量ですよ。人間の思い量ってるものです。実物にはそう言うのが一切付いてない。少なくともそう言う事を皆さん、生活の中で本当は知ってると思う。

で、こっちに学ぶんですね。その人間の思い慮りの付いてない事実の方に、私達は目を向けてものを学ばないと、とんでもない事になるじゃないですか。一人一人、考え方は違うんだもの、見たものに対する評価が。

お腹の減ってる人は、これいいねって言って、お腹一杯の人はこんなもの要らないって言う位、同じものに対して評価が違う訳でしょう、ねぇ。そう言うものを取り払うと、このものの様子が、どちらもその通り、こうやって触れる事が出来る。それで初めて、正しいものがこうやって触れる事が出来る訳じゃない。そう言う事があるから、この薬山様が、『箇の不思量底を思量せよ』って、その考え方を離れてる事実に学びなさいと言ってるんです。

で、このお坊さんは、じゃ考え方を離れてるって、考え方を離れたら、思い量る事ができないのじゃないかって。そりゃそうでしょう。『箇の不思量底』『不思量底如何思量』考え方でないものはどうやったら良いかって言って、言われたって困るじゃないかって言ってるんです。だから弘道大師が、『非思量』その通り考え方でないまま行きなさいと。

じゃさっきもちょっと触れた人が居るけど、生活の中で困ってる時は、間違いなく自分で勝手なものの見方をしてる事が、自分を苦しめるんですね。それが止んでる時は必ず在る。そう言うもの使ってない時が、付けてない時が。その時自分に触れると吃驚する。ああこんなに素晴らしい生き方をしてるって思う位、吃驚する。悩みも苦しみも一切無い。ちなみに皆さん、これもよく知ってるけども、考えてない時にですよ、ものを思ってない時に悩んだ人は誰もいない。

エー、自分の中で何か考え方を相手にしてない時にですね、悩んだ人誰も居ないよ。じゃ、考え方を相手にしていない時に、生きてる事実がないのかと言ったら、生きてる事実は絶対失われずに、ちゃんと在るじゃない。良いじゃない、考え方離れても。生きてる事実さえあれば。しかも考え方離れると、問題なくなるんだもん。グジュグジュしてるのは、自分の頭の中で色んな事思った事、自分の頭の中で考えてるだけじゃないですか。人が悩んでるって。それ明確でしょ。

だのに自分の考え方が止まってる時に、どうなってるかって言う事を、本当にこうやって触れる力が無い。そう言う勉強をする力が無い。これが伝えられてる坐禅です。坐禅てそう言う時間です。人間の思慮分別を離れてるものの実体。事実そのもの。

音でもそうじゃないですか。こうやって。パン!(扇で畳を打つ)音は大きいとも小さいとも聞こえない。パン!この通りこう言う風に聞こえるだけです。パン!だけど私達は音を聞いた瞬間に、大きいとか小さいとか付けるのはですね、分別するのでしょう。どっか昔聞いた音を、ちゃっと思い起こして、今聞こえたものと比べるんだ。だけども耳に聞いてみるとよくわかるんだけど、こうやった時に、比べる音なんかしてない。この音だけが、パン!その通り聞こえる。パン!それだのに分別がそうっやって、思量分別が動いてこの音を聞かない、この通り。これで皆さんの生活がごちゃごちゃになってるじゃない。

人と話をして御覧なさい。人と話をした時に、相手が言ってる通りに聞く人なんか、百人中一人も居ないよ。エー百人が百人全部その通り聞かない。間違いないよ。振り返って、自分の生活してる中で、自分の事だから見てご覧なさい。人の話を聞いてる時に、人が喋ってる時に、本当にただその通りに聞いてる人なんか居ないよ。

先ず、今こうやってペンを持って何か書こうとする人は、すぐ聞いたら自分の考え方に、ああ、ああ言う事言ってる、こう言う事いってるって、そう言うものをここに書き留めるんです。用が無いですよ、それは。それをやったら、聞かないんだよ、本当は。自分の都合の良い事やってるだけなんだよ。本当にそれは。だって自分の頭の中で理解出来る様に、人の話を理解するだけじゃないですか。こっちの伝えたい事とは違うじゃないですか。自分の力の範囲で理解してるだけじゃない。ただ聞いてるとそんな事要らないじゃない。それが勉強の仕方なの。

ただ聞いてるだけじゃ分らないかって、そんな事はない。パン!ただ聞いてるだけで分るでしょう。パン!全部聞こえるでしょう。この通り。どっか途中、半端な聞き方するって事無いでしょう。パン!こうやって、エー。一つもこの音に対して、欠ける事の無い様にちゃんと聞こえるでしょう。付け足す要もないし、ねぇ。取り除く何か邪魔なものも無いじゃない、こうやった時に。パン!これで良いじゃないですか。こうやって生活すると修行が出来る。それ『箇の不思量底を思量する』って言う事です。これ位人間の考え方を最初から離れきってる、人の在り様があるじゃないですか。

だけどそこの処は殆どの人が見落としてる。自分の考え方に上に浮かんだ時に初めて問題にする。相手にするじゃん。何故かって言ったら、こんな事は当たり前すぎるからです。パン!問題にならないじゃないですか。パン!こうやってやった時、その通り聞こえるって。それが何だって思う位、何でもない様子でしょう。

だけどもちょっと屁理屈をつければですね、パン!こうやった時にこの通り、もし聞こえなかったら、世の中滅茶苦茶ですよ。何時の時代でもどんな人でも、パン!こうやったら必ずその通り聞こえるって言うのが基本だから。


もうちょっと偉そうな事を言うと、聞いた話ですけども、大体人はですね、満二歳位、三つ子の魂、満二歳ですね、成るまでの時は、これは(自分を指す)自分だとは思ってない。自我意識って無い。もうちょっと小さい時を見ると分る。こうやって赤ちゃんがこうやって(扇を開く)こう言うものに触れてる時ですね、自分でこれ見てるって自覚が無い。自覚が無いけど、こうなってる。

こうやってやって、パン!音を聞いてるって自覚はない。自覚はないけど、パン!こうなりますね。こっちでやってパン!(右側で)こうやって、こっちでやってパン!(左側で)こうやって動くのを見てると、あ、聞こえてるって言うのは、私達から見ると分る。だけど本人は音を聞いてるとは全然自覚がない。こう言うの皆不思量底です。人間の思量ではない。思い量りではない。

これが人間の脳の大体七割から八割、今皆さんが使ってる脳の七割から八割位、その二歳位までに、この体験が作ってる。人間の考え方が入らないから、世界共通なんです。ズレないです。自分の思い方で聞いたり見たりしてないから。不思議ですね。そう言う事で人間の脳が出来てる。大人になってから自我意識が出来てから学んでるのは、ほんのわずか。6歳までに90%、12歳までに100%完成すると言われている。それで仏道でもやっぱり子供の時の事を修行に用いる。赤ちゃんの様になりなさい、教える。

赤ちゃんは、パン!こう言う風に聞いてるんです。赤ちゃんはこう言う風に見てる。もう一回話しますけど、赤ちゃんはこうやって(扇を振る)見てる時に、自分が見てるって知らないんです。知らないけど、本当にこの様になってます。一分もずれない程この通りなってる。どうしたんでもない。こうやった時にパン!その様に聞こうとも何とも思わないけど、その通りに、パン!必ず生活してます。

それがここで言う『箇の不思量底を思量す』或いは『非思量』と言われる世界です。今でも皆それは使ってます。大人になると皆問題にしなくなっていますが。だって、こうやって聞く時に、自分の聞き方なんか出来ないじゃないですか。良いですか。私が今から音を出すから、それぞれ好きな様に自分の聞き方で聞いて下さいって、こうやってパン!とやった時に、自分の思う様な聞き方なんか出来ないうちに終わっちゃってるでしょ、皆。

やってみますよ。パン!エー。無理でしょう。これだけちゃんと用意してて、今からやるから自分の考え方、聞き方で聞いて下さいよって頼んどいても、パン!ってやったら、そう言う事全然動かない内に、音がパンと終わるだけでしょう、ねぇ。こう言う事皆やってるじゃないですか。やってるんだけど、こんな事取り上げた話に触れた事がないから、大事にしてないじゃないですか。

本当はこれがお釈迦様が気づかれた、人の根本じゃないですか。自分が今まで勉強して来た、思って来た事と、本当に底抜け違うって。人の考え方で如何こうしてる世界じゃない生き方を人がしてる。その処、内容に触れてみると、皆さんが本当に願ったり叶ったり、最高の様子で出来てるじゃないですか。

これパン!(扇で打つ)どうもしなくたって、その通りなれるんだもの、良いじゃない。何か努力した人いますか。パン!こうやって。私がこうやって叩いて、パン!この様に聞くのに。何か難しいとか。何も無いじゃないですか。いきなりちゃんとそうなる。パン!その通りなる。こんなに上手く生活してるじゃないですか。後で聞くって事はないでしょう。音がした時にパン!ちゃーんとずれずに聞ける様になってる。

誰から聞き方を学ばないと、音がしてもパン!分らないって言う事はない。誰からも学ばないのに、こうやってやると、パン!(扇で打つ)ちゃんと自分の力で分る様になってる。大きくなる間に、音がしたらこういう風に聞かないと分らないと言って、学んで聞いた人はないですよ。誰も教えていない。誰からも学ばないのに最初からこうやって生活して来た。パン!

だけどこう言う事が、自分の中で行われてる大事な事だって、ひとつも気にしてないし、教えてくれないから、人間て言うのは自分て言うものが、自意識というものが出きた上からしか見てないから、自意識、自我意識が出きた時からの様子って言うものは、必ずものを対象として見てますよ。此処で音がしたからパン!私が今聞こえるって、そう言う風に理解してる。

だけど自意識、自我意識の無い時には、ここでパン!音がしてこっちで聞こえるなんんて言う風な聞こえ方はない。いきなりパン!こう言う風になるのでしょう。しかも聞いたとも何とも思わないのにパンと言う。自分の身体に入って来たとも何ともないじゃないですか。そんな事一切ないじゃない。耳があって音が聞こえるとかって言う事さえもない。音がするばかり。パン!こう、こうやって。今なんです。パン!音がするばかり。音がするって事が聞こえてる証拠じゃない。それ以上要らないじゃないですか。こう言う風に出来てる、非思量って。

本当に人の思慮分別、思い量りではない。これが人の根底にある。それで人間の頭が育ってきた。七割から八割。その後わずかしか育ってないですよ、ねぇ。面白いね。そう言うの。これは医学的にも立証されてる。まあこれだけが本文の処の内容です。