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坐禅箴 Ⅹ

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次の頁ちょっと行きますが、「江西の曰く『図作仏』」道元禅師がそれに対して、「この道あきらめたっすべし」江西の馬祖道一禅師が、お師匠さんが、お前何してるんだ、坐ってた時に、いや図作仏ですって言ったんですね。道元禅師がその事に対して、先ず作仏って言うのはどう言う風に捉えているか、皆さん。仏となるって、一応文字上はそうなってるじゃん。仏を作るとか仏に成る、ね。皆さんはどう言う風にとらえるんですかね。「作仏と道取するはいかにあるべきぞ。」どう言う事が作仏と言う内容なのか。
 で、道元禅師が皆さんの答えを待つ前にご自身の口から「仏に作仏せらるるを作仏と道取するか。」これが一つでしょう。自分の方でどうもしないのに、こうやって物に眼がふれると、否応なしに、その通りこうやって、その物がこうその通り見える様になるのか。そう言うものを作仏と言うのか。チリチリチリチリ音がすると、チリチリチリチリ自分で聞こうとも何ともしないのに、否応なしいきなりチリチリチリチリ音がしてる様にチリチリチリチリこうなる。そう言うあり方を作仏と言うのだろうか。
 「仏を作仏するを作仏を道取するか。」一々今の様子そのものにこうやって居るだけですね。距離も時間もかからない。向かうと言う距離が無い。尋ねてそこに到ると言う距離がない。こうやってチリチリチリチリ。だけど人間はこうやってやると、向こうで音がしてこっちで聞くって云う風に理解してる人は、距離を持ってる人でしょうねぇ。もう一回自分の耳で確かめてみると、こうやって、チリチリチリチリ音がする時に、向こうからこっちへ音が聞こえてきたって言う風に聞こえるか、距離あるか。自分の耳で確かめてみて下さい。時間的な表現では、今って言うものは絶対に人が手を付ける事の出来ない様子ですよ。作るんじゃないからね、今の様子って。今の様子に其処へ行くなんて言う事はない。今と言う有様は初めっから存在しているのではない。どこからか来て今になるのでもない。去来もなし。そうやって過ごすのかって言う事です。
 「仏を作仏するを作仏と道取するか。」「仏の一面出両面出するを作仏と道取するか。」一々今の様子だけだって言う事でしょう。一面出両面出って事は。その時にその時の顔の様子がある、その時その時の様子が只、その時にあるだけ。その時にもう一つの様子が出て来た事無いでしょう。不思議だねえ。
 例えば私がこうやって手を動かした時、私が手を動かす時に、もう一つの手の動かし方が出て来る事が無い。次にこうやっても、一面出両面出って言うけど、何時も只その様子だけが、こうあるだけです。で、こうやった時に作り変えてこんな事やる事ない。これで終わっちゃう、もうこの事は全部。こんな生活をしてるって事でしょう。だけど人間は、こうやった後、これを問題にする、終わってちゃってから問題にする。気に入らんて。エー。実物は皆さんが気に入るとかいらないとかって言うものが起きる前に終わっちゃう。こんな素晴らしい生活を皆さんしてるんですよ。だけどこの事を自分で気が付かないから、終わった後の事しか取り上げた事ないじゃないですか、生活で。眼が眠ってるのと同じですよ。真実の様子が其処に在りながら見る力が無い。自分の眼が眠っているから。ねぇ。無いなら難しいですよ、探すのに。だけども、誰しもそう言う事が行われてるじゃん。こうやった時にやり直して見るなんて事ないでしょう。この通り見えて終りでしょうが。そしたら文句言わなくなるでしょうが、あれがこれが。
 「作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。」その時限りで何処にもその様子が残らない。ねぇ。その時限りでその事は何処にも残らない。こうやって確かに見たに違いないけど、見終わった時に、今見た物が何処にも無い。こうやって見せた、確かに皆さんその通り見えたでしょうが。だけど、こうやってやり終わった時に、そのやった事が何処にも無い。抜け殻も無い、脱落って言うけど、抜け殻も無い。それ位皆さんの思ってる事と違う生き様をしてる。そう言う自分の在り様を「図作仏」と言うのか作仏と言うのか、と言う様な事を道元禅師は幾つも身近な事を、自らの口で皆さん方に問いかけている。答えはあなた方がその中で出すのですよ。本当にこの道元禅師が言ってる様な事なのかどうかって事は、自分自身で、自分自身が生活してる様子の中で、この身体、身心の活動してる様子で。それが「耳目をして聡明ならしむ」って言う事です。他の人にやって貰ったって分かる訳がない。物を見るんだって、音を聞くんだって、他の人の身体で見たり聞いたりする事は、どんなにやったってはっきりしません。だけども自分自身の上でやると、こうやってチリチリチリチリ(鈴を振って)他の人の耳で聞いてないでしょう。他の人の目で見てないから、隣に居て、どう言う風に見えますかなんて言う必要がないじゃない。その通りの様子しか出て来ないんだもん、こうやって。これがこうやった時に、その通り以外の様子が、こうやった時に出て来るんだったら、非常に問題になるけど、出て来ないでしょう。だから一切混乱しないじゃん。そう言う風な過ごし方をしてるのを、作仏と言うのかって言ってるんです、仏様。仏様の過ごし方って、そう言う過ごし方をしてる。それは誰しもが今やってる事ですよ。
 ちょっと屁理屈を付けてみれば分かる様に、こうやった時に(物をみせる)その通り見えるだけだったら、迷うって言う事はないでしょう。エー。迷うって言う事は比べる物があって、どっちが本当だろうって言う様な事の時に迷うって言うんでしょう。単純にその事だけが出て来て、何を迷うんでしょう。迷わないじゃない。で、これだけしか出て来ないから、見るのに苦しむ事は無いじゃないですか。悩む事は無いじゃないですか。本当は皆さんそうやって毎日生活してるんですよ。だけど此処まで自分の心底、心の、心底、心の様子に触れないから、考え方の上だけのものを見てるから、分からないだけですよ。頭に思い浮かべた事の方を重要視してるから。その方が気になる訳でしょう。明日雨が降るかなー、エーそう言う様な事を思い始めると、今天気の中にこうやって生活してても心配になる訳でしょう。雨が降ってないのに。不思議ですねぇ。
 「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏を道取するか。」今ずーっと話して来た様な人の在り様ですね。眼でも耳でも、身体全ての活動がそう言う風になってますけども、万般です。何もかもそう言う風になってます、誰しも。本質的な働きってそう言う風になってます。今の事を後でやるったら、今の事をやってるとは言わない。今の事は今やるだけです。後ではやらない。後でやる用がない。
 これで見終わったんです。(扇を開いて見せる)だけど、何かこうやった時に、良く分からないってふっと思うと、もう一回やって下さいって言うんですよ。良く分からないから。もう一回こうやってやってあげる。そうすると、前のものと今のものをこうやって比べて、前のものはああ言う風になってたのかなって、そう言う風な勉強をしてる。そうじゃない。今の様子を学ぶだけなんですよ。学ぶって言う事は何時でも。さっきはっきり見なかったからお願いしますって、何回でもやって上げるけどね、皆さん見てるものは何を見てるかったら、必ず今の様子だけじゃないですか。さっきの様子を見てる訳じゃない。それだのに人間はさっきこうやってやった時に良く分かんなかったけど、なるほどさっきああなってたのかって、こうやってみるんです。さっきああなってたって見るんじゃないです。今こうなってるんですよ。(扇を見せる)分かるかしら、こう言う処。不思議だね。そうやっちゃ、さっき分からない事が分かった様な気になって。そうじゃない。今の事が今分かると、さっき分からなかった事必要なくなるんだよね。それだけじゃん。
 「この図に葛藤しもてゆく」かって、こう言うお互いの様子、一緒になりながら活動してる様子、それだけで修行して行くのでしょう。葛藤は物に絡まり付く蔦だとか藤とかそう言う様な事で、一般的には、邪魔者って言う様な意味に葛藤ってのは取ってるけど、此処でこうやって読んで見ると、葛藤ってのはそう言う取り方はしてないね。葛藤って、本当に向こうとこっちって言われる物が一緒になりながら活動してる。物を見る時だってそうでしょう。向こうの様子と皆さんが見てる様子が別々な事は無いでしょう。必ず一緒でしょう。
昨日、面白い事を言う人がいた。何かね、鏡がこうあって、こちらで手を上げる、右手を挙げると鏡の中はどっちの手が上がってるでしょう、って言うんだって。。エー。こうやってこっち、鏡の外に入る人が右手を挙げた時、鏡の中に写るでしょ、これが。で、鏡の中の手はどちらの手を上げてるでしょうって。これがですね、学者がですね、結論がつかないんだって。愚かだと思いませんか。こっちは右手だけど、あっちは左手だって言う人がいるらしい。だけど一番はっきりしてるのは、鏡がこうあったら、こうやって鏡に近づけてみると、向こうの手とこっちの手が別の手でないって事良く分かるでしょう。だから向こうに見える手とこっちにある手だもんだから、別々になる様に思ってるんだね。考え方ってこうやって迷わされる。実物は迷いませんよ。こうやってやると、間違いなくこうやって近づけて行くと自分の手そのものの様子ですから。こっちの手じゃないってのが良く分かる。逆に写ろうがどう写ろうが、自分の今の手の様子に違いないって言う程はっきりしてる。こんな話が昨日あって、エー学者ってつまらんなって話したんだけど。
(それ右っていうんでしょう)そう。
(右って言うから駄目なのよね。)言っても良いけど、言葉は幾ら言ったって良いんだけども自分の中で言いながら、はっきりしないんだよ。
(学者は何処が分からないんですか)右の手か左の手かって、鏡の中に写ってるのは右のてなのか、こっちは右の手を上げてるけど、向こうは右の手を上げてるのか左の手をあげてるのかって、そう言う質問らしい。
 で、それで私はついでだから、皆さん右と左知ってますよね、って。右と左知ってますよね、何処からが右で、何処からが左ですかって。お尋ねしてみたら、答えが出ない。知ってるでしょう。何処から右で何処から左ですか。(笑)右の様子とか左の様子とか言うけど、どこからが右の様子ですか、此処ですか、此処ですか、左の様子ってここら辺からですか。エー。
 (どっからか無いんですね。)無いんですよね。実物の方は何にも迷わない様に出来てる。こっち(頭)が分からなくしてるだけ、考え方。言葉を知ってるために。
 こうやってる時(正面向いてる)右左と、こうやってる時(横に面す)右左は全然違う。自分の向いてる位置に依って全く違ってくるのよね。ねぇ。それ位自己中心に生きてると言う事だよね。物の真相そのものに学んでない。だから道を聞いてもですね、電話で、あなた何処に今居ますかって言って、いや此処に居るんだけどって言って、その道を右にずーっと行って下さいって、その先行くと左に曲がって下さいって、だけどこっち向いて聞いてる人とですね、こっち向いて聞いてる人ではですよ、全然違いますよ。ちゃーんと聞いて、言われた通り行ったんだけど、無いって。面白いね。一番最初が分かってない、ね。一番最初をちゃんと見てない。物の真相を明らめるって事はそう言う事です。一番物の最初、人間の分別を入れる前にはっきりしてる状況がある。その物に触れないと、物の真相は掻き回されて分からなくなる、考え方で。皆さんが困るのは、皆そうじゃない。
 事実を見て悩む事は無い。事実が悩むんじゃない。考え方が悩ませるだけじゃない。ああ倒壊しちゃって、昨日まで住んでた家が。そう言う事でしょうね。だから救いってものは、そう言う処に在るじゃない。壊れたものは壊れてるって事が自分ではっきりしたら、立ち直って行くでしょう。ところが、壊れた事を悩んだり苦しんだりしてる処からしか物を見てないじゃない。壊れる前の様になってればこんなにならないんだけどって、そう言う思いだけに居る人は大変ですよ。親しい方と死に別れてもそう。色んな過酷な事が世の中に起きてくるけど。事実は人を苦しめる事は無い。考え方が人を苦しめます。あああったら良かった、こうあって欲しいって言う思いが強いから、許せないんです、今の事実をそのまま。受け入れられない。だけど事実って言うのは受け入れるしかないじゃないですか。無い様にしようと思ったって無理じゃない。それが物を本当にはっきり明きらめる人でしょう。どうなってるかって言う事が分かる人。そうすると立ち上がる力が其処にある。まあその位で良いのかな、時間。あと、何か聞いてみたい事や気になってる事があったらどうぞ、此処で。公開独参みたいなもんですね。やりましょう。


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坐禅箴 Ⅸ

2019.9.29 (前半は前回とダブっています)

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最初少し読んでから入りたいと思います。

「江西大寂禅師ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽ある時とき大寂のところにゆきてとふ、『大徳、坐禅図箇什麼』。
 この問、しづかに巧夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に巧夫すべし。」


まあその辺までこう見てもらって。此処でお師匠さんとお弟子さんの間に交わされたものがありますね。この江西の大寂馬祖道一禅師と言っておりますけども、馬祖禅師は南嶽大慧懐譲禅師の、南嶽懐譲禅師の高弟、お弟子さんの中でも優れた方です。そのトップに位置する位の方が、馬祖道一禅師です。江西の大寂禅師。
その方を道元禅師は評価するのに、お師匠さんについてですね、「密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。」って言う事は、ものの本当の在り様がよーく伝わっている人だと言う事です。まだ勉強不足な人ではない、と言う意味ですね。「密受心印よりこのかた、」と言う事は。一般にはね、ここがはっきりしないもんだから、この後出て来る会話がですね、えらい方向に進展して行く事が多い訳です。で、そこを先ず押さえといて欲しい。
 そしてそう言う方が常に坐禅をしておられる。馬祖道一禅師がですねぇ、常に坐禅をしておられるので、お師匠さんがある時そこへ行きましてね、「あなたは坐禅をして何をしていうるのか。」と聞いてます。皆さんは坐禅をして何をしようとするのでしょう。まあそれはちょっとそこへ置いときますね。
「この問、しづかに 巧夫参究すべし。」って言う事は、私達に向けられている言葉でしょう。ね、お互いに、坐ってして一体何をしようとしているのか。で、道元禅師がその内容について幾つか挙げておられる。先ず一つは、「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」どう言う事かって言うと、今坐って居る時に、今坐っている事の他に未だ何か向かうべきもの、を頭に描いているか、或いは求めているのか、立てて坐っている、そうじゃなくて、本当に今坐っている時に、今坐っている様子だけがあるだけなのか。
 坐禅で分かりにくい時はですね、こう言うものをこうやって見てみると分かる。チーン!(おりんを鳴らす)音がした時に皆さん音を聞きますけど、この音を聞く時に、この音の他に何か聞きに行きますか、この音を聞く時にチーン!他のものを聞きに行く様な事をしますか。しないでしょう。この音を聞くって言う事は、チーン!です。ところが皆さんの坐禅はひょっとすると、坐禅をしながら、どっかに向かうもの持ってませんか。「悟りたい」とか「はっきりしたい」とか「すっきりしたい」とか、「あれが問題で解決すると良いな」とか、色んなもの持ってるでしょう。こう言う時はどうですか。チーン!その様になりたいとかそんな風に聞こえますか。何にもそう言うもの無しに只本当に音がチーン!するばかりでしょう。チンチン!
 こう言う事が、今問われてる。「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」本当に坐っていると言う事は、今坐っている様子だけだと言う事でしょう。それが本当に坐っている時の様子でしょう。
同じ様に、「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」こうやって坐っている他に、格外ですから、この他に何か坐禅の、本当の坐禅の坐り方がどっかにあるのか、若しそんな事があるんだったら、変でしょう。更に「すべて図すべからざるか。」図は描くでも良いですよね。図るでも良いですよね。要するに、平易な言葉で言えば、もう一つの絵が、自分が今坐っている時に、もう一つの絵が有るのかって言う事です。これ今坐ってる時、そこにもう一つの坐ってる様子が出て来る様な事があるのか。そしたら、若し出て来るんだったら、そっちこっちって比べる物が出て来ますから、坐禅をしてる時にそのままでは居られなくなるのでしょう、優劣とか是非。二つ出て来たら。ところが有り難い事に、坐ってる時に、本当に此処は「すべて図すべからざるか。」って、道元さんが言っておられる。他の絵の様に、坐ってる絵が、もう一枚の絵が出て来ないんですよ、こうやって坐ってる時に。誰が坐ってるのを見たって。今坐ってる様子だけでしょう、ねぇ。
 「当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。」坐ってる時に、どの様に本当になってるかって、尋ねてます。「審細に巧夫すべし。」だから、よくよくつまびらかに、はっきりさせる必要があるって、先ずそうなってますね。それが皆さんにも要求される。
 「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とある。考え方で取り扱ってるものと実物その物の違いがはっきりしてますから、坐禅をするって言う事は、考え方の上のものを取り扱わない。実物真龍に、生き物の様子、それに用がある。考えの方は彫龍です。ああだった、こうだったとか、ああじゃないか、こうじゃないか、こうなるんじゃないか、皆描いてるもの、それが彫龍と言いますね。彫り物の龍。真龍の方は、今この全身で活動してる生き生きとした様子そのものです。で、そう言う思考の上のものを愛するよりも、進みて自分自身の真相そのものを、本当に相手にする、問題にして向き合って行かなければ、坐禅にならないと言う事です。
 「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学すべし。」両方ともそれぞれの働きが有りますけれども、一方は考え方の上のものを取り扱っては、決着がつかないって言う事がはっきりしてる。何処まで行っても。論理を推し進めて、斯くある、本当になるほどそうなってるな、理解ちゃんと出来るって。幾ら、本当に不思議ですねぇ、理解では自分の中がですねぇ、許せないものがある。それだから、修行する時に、考え方で修行しないのね。そう言う事が、ここに「雲雨の能あることを学すべし。」って言うんですね。雲を呼び雨を降らせる力とあります。考え方に頼れば、そう言う風な働きになる。真実の物に本当にこうやって触れていると、そのものに依ってはっきりする。どちらも力がありますけど。
 エー「遠を貴することなかれ、遠を賤とすることなかれ」人間て不思議な動物でですね、特に日本(人)の生き様の中に舶来品なんて言う言葉が使われていますね。他所から来た物は凄く素晴らしいものの様に思う癖があるじゃない。日本の物も他所の国からすれば舶来品ですよ。その位日本の文化そのものにも、他所の国に劣らない素晴らしいものが有りながらですねぇ、本当に近くの物は駄目ですね、遠くの物を大事にする癖が有る、一つはね。もう一つは逆に、遠くの物を卑しい、つまらないって言う扱いをする働きもある。まあどちらもあるんだけども、「遠に慣熟なるべし。」ってあります。どちらもですね、善し悪しを付けずに、親しくそのものにこうやって居てみる必要がある。遠いから、他所から来たものだから大事だとか、他所から来たものだからどうでも良い、どっちもそう言う思いを付けずにそのものに親しくこうやって居るって事が慣熟ですね。
 人の話でもそう。あの人の話は良い、この人の話はつまらないってそう言う評価をした上から人の話を聞く様な事はしない。本当に喋ってる通りに居てみる。そうすると此処にある様に、熟すと言う事がある。あの、渋柿でもそうだけど、木に付いたままですね、時間が経つとですね、甘みがちゃーんと増してくる様になってる。だから熟する迄待てと言います。上は慣れるだから、習慣性ですね。それを習い性とするって言う事でしょう。何時でもその事と仲良く只居る、そう言う過ごし方をする。それに色んなもの付けない。もう熟したんじゃないかって言って、こうやって、チンチンチンチン(おりんを打つ)もう熟したんじゃないかって、チンチンチンメロンでも何でも、触っちゃ押さえたりするとですね、腐っちゃうんだよ。待てないんだよね、中々ね、熟れるまで。人間にはなんかそう言う変な働きがあるね。
 遠い方も近い方も同じだと書いてある。「近を賤することなかれ、」旦那さんが奥さんの事を身近に居るから扱いが乱暴になる。奥さんは旦那さんが身近にいるから、フンって言って扱う。そう言う様な事が一つは上げられる。だけど他所の人と触れるとですね、全然違う態度取るでしょう、ねぇ。自分のものだと思ってるから、もの凄いぞんざいに扱う。この位言えば分かりそうだと思って、ぞんざいに扱う。そう言うな事が一例です。エー「近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、」自分の子供は他所の子供よりも、誰よりも大事だって言って、そうやって抱え込む様なものも、近を身近なものを尊しとする様子でしょう。そうするとやっぱり我が子だけ可愛い様じゃ不味いんでしょう。正しくものを本当にこうやって受け取る生き方に成らないじゃん。平等と言う様な言葉もあるけども、同じ様にこうやって分け隔てなく扱える力ってものが私達に求められてる。「近に慣熟なるべし。」
 そこで更に、具体的な事を道元禅師が上げておられる。「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」目は物が見える道具です。こうやって見て。大事にもしなければ粗末にもしないと言うのが、目を本当に使って物を見てる時の在り様でなければならない。目には物を見る時、優劣を付けないから。是非を付けて物を見た事がない、眼は。本来の眼。ところが知らない人はすぐ、見てる事と考える事を一緒にしてしまう。見て色んな事を思う事も、見てる事だと思ってる。そうじゃない。あれは考えてる事です。目は絶対に思うと言う事を付けない。それでこの眼に学ぶ必要があるのです。純粋に皆さんの持ってる眼に学んでみると、色んな事がはっきりするじゃない。眼は一切好き嫌いを起こさないから、どんな物でもその通り、いい加減に見た事は一度も無い。どちらもいい加減に扱わない。それだから素晴らしいんでしょう。そこへ、考え方をちょっと見てる物へ付けると、すぐ見た物に対して優劣をみるから、優劣を見ると、折角ちゃんと見てるんだけども、どうでも良いって思わせるから、フンと、こうなる。ねぇ。そう言う事が如実に行われてる訳でしょう。
 耳でもそう。「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」で、大事な事はその次にありますね。「耳目をして」耳や眼、こう言うものの働きを借りて、「聡明ならしむべし。」ってある。真相、ものの在り様を本当にはっきり見届けなさいって言うんですよ。その眼の、耳や眼を以て聡明に、大寂禅師が坐ってる時の様子にこうやって触れて見るとどうなってるかって言う事でしょう、皆さんが。今坐ってる様子以外に何もそこに無いのでしょう。まあ一、二の例をあげれば、「耳目をして聡明」の部類のものを上げれば、何回もこう話してるかもしれませんが、眼って言うものは本当に今触れてる様子だけですよ、何時でも。見えてる物は。それに疑義を持つ人は居ないと思う。
 眼って何時でも今こう触れてるものがあるだけ。もう一つの見え方って言うものは絶対に無い。何処へ向かったってそうでしょう。その通りの様子があるだけで、もう一つの見え方が一緒に出て来るって事無いでしょう。耳だってそうでしょう。チリチリチリチリ(鈴を鳴らす)こうやってもう一つの聞こえ方が一緒に出て来る事は無いでしょう。必ずその音がしてる時、その時に音が、その通りあるだけで。音が鳴り止んでから、チリチリチリチリチリ聞こえると言う様な事ない。これで聡明になったでしょう、皆さん。なりませんか、皆さん。
自分の生活見てご覧なさい。こんな風に成ってないでしょう。昔聞いたもの、昔見たもの、そう言うものと道連れに生きてるでしょう、皆さん。それ自分の今の様子と違うじゃないですか。こっちはこうやって、チリチリチリチリこれがちょっとおかしいんじゃって、こうやって喋ったものでも、喋り終わると何処にも取り上げるものが無い。そう言う風に耳はなってるでしょう。だけど皆さんはそうじゃないじゃない。あの時あの人酷い事私に言ったって、ずーっと。何回でもそうやってそれを問題にして生きてるでしょう。聡明じゃないでしょう。愚図でしょう。それ、作り変えるんじゃなくて、実際にそう言う風になってるでしょう、皆さんの今の耳は。音がしてると聞こえて、音が止むと聞こえないでしょう、間違いなく。なんで普段もその様に生活しないんだろう。
 眼はこうやって向かってる物が必ず見えるだけです。向かってない物が見える事は眼には無いです。昔あーだった、こーだったって言う様な事はこんな処に出て来ない。こうやって向かった時に、昔あーだったって、そんな風に見える事は無い。それは頭の中で描いてる方の話であって、見えてる事とは違います。こう言う事が行われると言う事が、「耳目をして聡明ならしむ」と言う事でしょう。これが皆さんが修行してる様子じゃない。ねぇ。自分の事だから誰に聞かなくても、やってみると間違いなくそうなってる、一方では。そうなってる自分があるにも拘わらず、生活はそれと全く違う生活をして苦しんでるって言う事を見ると、ああ自分は、本当の事を大事にしてないなぁ、こう言う生活をしてるからつまらなくなるんだって言う事が良く分かるでしょう。
 これがゴミだって事も良く分かるでしょう。だからこのゴミを取ったら綺麗になるのでしょう。付かないのでしょう、こうやって物を見る時に。ゴミが一切付かずに物を見てるでしょう、何時も。その通りの様子があるだけ。一切ゴミが付かないじゃん。
 江西の大寂禅師が坐ってる時、坐ってる様子、本当に底抜け坐ってる様子だけで、一点も手を付けて何かする気配が無い。それが坐ってる時の皆さんの在り様じゃない。知らない人は坐って何かやるのでしょう、他の事を。どうですか。坐るって何か他の事をやる様に思ってませんか。本当に只こうやって、今坐ってる様子だけで、こうやって居ますか。ああ考えちゃいけないとか、手を付けちゃいけないとか、何かそう言う、色んな事やってませんか。教えられた事を頭に描くから、ああこんな事やっててはいけない、思いが出て来たら手を付けないで放っとけば良い、気にしない様にしてれば良いんだとか、只このまま居れば良いとか、ありのまま、もう色んな事を頭に描いてですね、それじゃ坐ってる時に何枚もの絵が有るって言う事でしょう。皆さんどうですか。眼でこうやった時に、何枚もの絵がいっぺんに浮かびますか。今の様子だけでしょう。そうやって過ごす。こんなに丁寧に、兎に角道元禅師が示しておられる。

坐禅箴 Ⅷ

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「彫龍」彫った龍ですね、「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」って言うんだけども、じゃ本当の龍ってこの世の中に居るのかって言ったら、普通に考えたら、龍自体が架空の動物ですから、本当にには居ないものです。此処で真龍って何を指すかったら、皆さんの本当の、自分の本当の在り方を指す。それを真龍と指してます。生まれてから後、で自分の考え方を中心にして、彩りをつけたり、色んな事をやっていくものの方を彫龍と言います。どっちが大事かって言うと本物の方が大事だと一応言ってる訳ですね。

これを普通に蛇に例えたら、彫刻の蛇よりも生の蛇の方を相手にした方が、本物がよく分かるということです。絵を見るよりも実物を見るほうが良い。レコードを聴くよりは生の演奏に触れた方が良いという事です。みなそうなってるじゃないですか。だけど知識がはびこって来て、今のこうやって電子機器の様な物が発達したもんだから、実物ほとんど抜きになってきてる。実物よりも本物に近いぐらい今の電子機器って物はリアルに物を想定させるもんだから、それで済んでるけど、やっぱり仮想の物は仮想です。お花なんかでも造花の花を見ると、本物の花よりも綺麗だ。ウワーっと思う様な花が売られてるね。その位今は素晴らしい技術がある。それでも矢張り本物とは違う。本物を知ろうと思ったら本物で学ばないと分からない。偽物でいくら勉強しても本物は分らない。ね。そう言う事が「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とこう言う事です。

「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。」彫龍は彫龍、真龍は真龍でそれぞれ持ち味があって、違ったものがはっきりそこで勉強できる力を持ってる、どちらも。だから良いのでしょう。これが真龍 も彫龍も同じ様に見えちゃったら、皆さん大変でしょう。騙される。(笑)そんなことはないですね。

そこで身近な事を道元禅師がおっしゃってる「遠を貴することなかれ、」この当時も最近ででもそうだと思うけどもで、日本の方なんかヨーロッパとか欧米から入って来た物が、日本の文化よりもすぐ尊ぶ癖があったでしょう。舶来品とか言って。他所の国の物を非常に高く思う気風があった。これを逆にすればですね、自動車なんかでもそうだけども、国産車って言うけどもねぇ、日本の車だって外車ですよ、アメリカ行けば、イギリス行けば、フランス行けば、日本の車は外車ですよ。だけど日本人はそうは思わないんだねぇ。他所から入って来た車だけを外車だと思ってるから、外車に乗りたいって言う人沢山居た。何か外車に乗ると、少し何かリッチになった様な気になるんだねぇ。日本の車の方が、他所へ行ってみたら良く分る様に、素晴らしい性能の良い車です。だからトヨタでもこんなに売れるのでしょう。伸びてる。誇りに思って欲しい、日本の文化を。

そういうような処に遠くにあるものを大事にする。私なんかも静岡県から来てるから、この高知に、もし同じような人がいても、ですね、皆さん方は高知の地元に居る人よりも私の方が絶対他所から来た人としてですね、持ち上げてくれる。隣にどんな立派ない人がいても、何だって、その位にしか扱わないんでしょう、皆さん。不思議だね、人間てね、近いものは凄く安っぽくするんです。で、日本の人達はすぐ海外の人材派遣か何か知らないけど、他所に行って名声を上げると、日本の人達はすぐもてはやす。日本ではうだつが上がらないんだけど、他所に行くとウワーって言って、そのウワーっていった処帰って行くと、愚かだから、ウワーって言うんですよね。それ位日本の文化は今低いと思うね。そう言う様な事が「遠を貴することなかれ、」「遠を」今度は蔑んだ様な事をするなって言ってる。

どちらにしてもものの本当の価値を見失わないようにしなきゃ駄目じゃないかなと言ってる訳です。近くにあるから遠くにあるから、そう言う様なものによってものの真価が見失われる様な生き方をしてはないじゃないかとって言ってるのね。誰かが褒めたから立派、誰かを貶したからつまらなくなるって言うもんじゃないじゃないですか。そのもの自体は。そう言うものでしょ。

その後、「遠に慣熟なるべし。」って言う事は、今申し上げてる様な事です、慣熟って言う事は。物事に十分慣れて上手になる。木の実で言えば、木からもぎ取らないまま熟すって言う事ですね。それを完熟と言います。早いうちにもぎ取って、バナナなど青いうちにも見とって室に入れて色が付いて甘くなるのを待って売り出すって言うのは、完熟のバナナではない。木についたまま赤らむ、そう言うもの食べたことがある人はよく分ってる。全然美味しさが違う。パイナップルにしたってそう、同様に。マンゴーにしたってそう。色んな物、トマト、胡瓜何でもいい。色んな物見てごらん。そっから切り離して慣熟っていう事は得られない。そう言う事実から切り離して慣熟って言うものは得られない。本当にその事実そのものに親しく居るって言う事が、ものを本当に見極めるだけの力がつく道です。坐禅もそうです。坐禅をして他の事やるんじゃない、坐って。考え方で坐禅どうのこうのって取り扱うんじゃなくて、坐っている自分自身の今の在り様が、本当にどうあるかって言う事を自分の身体ではっきりさせる。そういう道です。

でその後に、近の事も出てるけども、同じ様に近い方も書いてありますが、その後「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」さっき目も話したけども、目。目ってどういう働きをしてるか、皆さんこれここは今日まで生きてきてるから、目がどういう風に物を見てるか、っていうことは私が説明しなくても知り尽くしてると思うけども、目って不思議ですよ。何時でも今見えてる様子だけですよ。他の事は絶対目に映りませんよ。今見えてる様子だけですよ。何処をこうやって見ても、今見えてる様子だけです。前に見た物が一切出てこない。知ってますよね。

こうやってやって見ても分る。(扇子を開いて見せる)これ前に見た物が一切出てこないでしょう。今こうやって触れてる物だけが、こうやってあるだけでしょう。これだけだって凄い事でしょう。もし皆さんがそう言う風な生活をしてごらんなさい。今見えてる様子だけだったら、どういう風になるか分かりますか、生活が。あれがこれが、って言わなくなるのでしょう。そうやって目に学ぶんです。目はそう言う風になってる。どんな良いものもどんな醜いものも、一つもどこにも残さない。どっちにも軍配を上げない。同等にきちっと、どんなに汚れてる物でもどんなに美しい物でも同じように優劣をつけずに、ちゃんと受け取って生活する力を持ってます。

ここは(頭)違う。自分の中で気に入るものと、気に入らないものと思ったら、気に入らない物はいい加減に必ず扱う。気に入る物は丁寧扱うかもしれない。そう言う風な、何だろう、偏見を持った生活に変わるじゃないですか。眼はそう言うもの持ってませんよ。それだから道を歩いてても危なげなく歩けるのです。全部その通りちゃんと見る力を持ってる。ドブがあれば、穴が開いてれば、木が倒れても、ねぇ。そうやって皆さん毎日生活して居る事をご覧なさい。こんな楽な事はない。問題が一切起きないんだもん、それで。 実際そうでしょう、眼って。
(質問あり)
はい?
(問題が起きないからドブにそのまま歩いて行っても大丈夫?)
大丈夫ですよ。
(そうなってるなら、)
そうなってる筈なのに、生活を聞いてみると、色んな問題が起きて困ってる訳でしょう。
(そうじゃくて、皆避けるでしょう。坊さんがわざわざドブ突っ込んで行かないでしょう?)
エー?
(行く訳じゃないでしょう)
何処へ?
(ドブ)
勿論です。
(でも、もしどちらも同じなら隔て無くドブにも足を入れて行くんでしょう)
何で?
(だって同じなんでしょう)
だからそれは考え方と言うもんでしょう。
(揚げ足だったかもしれない)
考え方だからそうなるでしょう。皆おなじ様に見ようとする。眼はみんな同じ様に見ようとはしない。全部その通り違って物が見えるんです。それでいてしかも差別意識は何にも持たない。そう言う優しい働きをしてます。そう言う処が違うんですね。考え方と実物、考え方ってそうやって一つの定義を教えると、全部一様にそうやって、同じだから良いじゃないかって、そう言う働きをさせようとする。優劣がないならば、綺麗汚いがないならば、ドブの中だってそのまま避けずに行きゃいいじゃないかって言う様な考え方を起こすんじゃないの。それが優劣を起こしてないことじゃないかっていう風に (そう思い込む)思うだけじゃない。だけども眼はそんな事はしないじゃない。そうなってますよ。

もう一つ、「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」誰かがそう言ってたからって、それを信じるっていうこともあるでしょう。「耳をかろくすることなかれ、」って言うと人の言ってることなんかどうでもいいじゃないかっていう扱いもあるでしょう。軽くするんだから。だけど、本当にここで言いたいのは、その後に耳や目をしてですね「耳目をして聡明ならしむべし。」とあります。これがここで言いたいこと。あなた方の持ってる耳や目の働きを通して「聡明ならしむべし」っていうことは、聡明って知ってますよね、や聡明な方だから。エー、ね。聡明が方でしょう、皆。だから聡明ならしむって、本当に自分の目や耳で実験してみるとその様に皆はっきりしてるでしょう。

こうやって見ると分る。(扇子を開いて見せる)こうやって。皆はっきりしてる。どの位はっきりしているかって言うと、 同時に二つの様子が出てこないって事が、聡明な人の在り様じゃないですか。二つの聞こえ方をが、こう、チンチンチンチン(おりんを打つ)しないという事が聡明な皆さんの耳の様子のじゃないですか。だけど実生活を見ると聡明じゃない人の方が多い。チーン聞いて腹立つんだもん。チーン聡明じゃないですよ。見て腹が立つんだもん。何でですか。こうやって色んな物にふれて、見たり聞いたりして腹が立つ。

もう一回勉強しときますけども、見たり聞いたりする時にもう一つの様子って出てこないんですよ。もう一つの様子が出てこない時に腹が立つ人って居ないんですよ。もう一つの様子が出てこない時腹が立った人居ますか。なんでこんなもんだけだとか言って、そう言う事さえも無いのでしょう。その事だけがあるから。それが皆さん方の毎日の根底の様子です、生活の。誰もがそう言う上で生活をしてます。だけども考え方を通して物を見てるために、こう言う事が自分の上で行われてるって事を殆ど見過ごしてる。或いは、触れたことがない。

坐禅て言うものは、そう言う自分の本質に触れる唯一の道です。坐って何もしないで、チーンこうやって音がした時に居てみると良く分る。その通りの音がするだけで、一切問題がない。明確にその通りの音が、音がしてる間中聞こえて、音が止んだ途端に、どうもしないのに聞こえなくなるほどすっきりしてます。皆さんはこの音が、し終わってから、さっき聞いた音を取り上げて、そしてああでもないこうでもないってと言って生活してっる。それは音を聞いてるわけじゃない。

物もそうです。見終わった後にそれを思い起こしてあれがこれが、って言ってます。それは物を見てるって言うことではない。全然次元の違う世界ですよ。滓(かす)、滓を取り扱ってる。もう完全に味わい尽くした後の物です。味わい尽くすというものは、音がしてる時、音がしてる時だけでなきゃ、音は聞けないんですからね。音が止んじゃってから音を聞く事はないですからね。物はそこに触れてる時にしか見えないから、触れてる時以外にその物を見るっていう事はないのです。そう言う風に基本的に私たちは生活してる。そう言う自分の本質というものに触れさせる道が、禅と言われる。坐って言うのは、そう言う時間です。そう言う様な事が此処に二人の会話を通して、その中で道元という方がそれを教材にして皆さん方にこの様に色々述べておられる。それを、坐禅をする時のテキストとして申し上げて、今日は終わりにしておきます。



坐禅箴 Ⅶ

2019.6.23
音声はこちら ↓

坐禅箴Ⅶ_01
坐禅箴Ⅶ_02
坐禅箴Ⅶ_03
坐禅箴Ⅶ_04
坐禅箴Ⅶ_05



道元禅師は、西暦の1200年のお生まれで1254年、54歳を一期として亡くなられた世界的に今脚光を浴びておられる方ですが、その道元禅師が残された正法眼蔵と言うものがありますが、その中の坐禅に関する巻ですが、正法眼蔵坐禅箴というタイトルで残されたものを今読んでおります。

前置きはこのくらいにして本文ですが、今日の処、230ページ、上の右肩の方に頁数がありますので江西大寂禅師という書き出しのところから行きます。一行(くだり)読んでみます。

「江西大寂禅師ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽ある時とき大寂のところにゆきてとふ、『大徳、坐禅図箇什麼』。
 
 この問、しづかに 巧夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に巧夫すべし。
 
 彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賤とすることなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし。」


云々、という事で話を進めます。 ここに江西の大寂と言う方と、お師匠さまの南嶽慧譲と言う方が居られて、江西の大寂と言う弟子がここで坐っておられるとですねぇ、お師匠さんの南嶽慧譲が来られて、大徳、あなた、あなたで良いですかね、あなた坐禅して何の図をかはかるとか、そういう風に読むかね、坐禅して何してるのかということで、簡単に言えばそういう事です。坐ってるけど坐って何するんだ、何してるんだ、そう言う質問をされた。

皆さんが今日坐ってくださってるから、そこへ私が行って、坐ってるけど何してるのって一人ずつ聞いてるって言う事です。そしたら皆さん方、どういう風に対応するのかと、いう風にして投げかけてる訳ですね。これ古い話じゃなくて,今ここで皆さん方にそうやって勉強の教材を投げかけてると言う事です。でこちらで先輩がですね、その皆さんに代わって色々なことを話しておられますから、それを参考にしてここで勉強会をいたします。

「この問、しづかに巧夫工夫参究すべし。」お前さん坐禅してるけどそれ何してるんだ。言われた事を、「しづかに巧夫参究すべし。」自分に問いかけて。自分でも坐ってるんだけど、坐って一体何してるんだろう、何するんだろう、どう在ったら良いんだろう。言葉はたくさん知ってると思います、坐禅するって。そして実際にあちらに行って坐った、こちらに行って坐ったというような人、結構世の中には多い。

だけども坐禅って本当にどういう事してるんだろう、って言われた時に、よく分からないって言うのが正直なとこじゃないですか。かろうじて分かるのは、先程の様に形を作って教えたことをそのまま実行している。こうやって居る。

まあ此処では一応坐禅についてだけですけども、広く、広義ですね、広い意味でこの問いを扱ってみるとですね、皆さんが色んな事毎日やってますけど一日の中でも色んな事してますけど、その今やってる事、それ何?って言われる。ねぇ。戸を開けて外に出る。それ何?お手洗いに行ってお手洗い済ます、それ何?スリッパの履く、脱ぐ、それ何?そう言う問いです。分かりきってる筈なんだけも、なんか良く分からない。やってる事があるにも拘わらず。そう言う処が皆さん方に中に、生活の中に見て取れるんじゃないですか。

其処で、どうして「そのゆゑは、」何でそうやって勉強をしなきゃいけないか、「そのゆゑは」まず第一番目に、「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」これが一つ目ですね。坐ってる時に、坐ってる事以外の何かがあるかって言っております。ひょっとすると坐って悟りを求めるとかって言う様な人が居たら、坐禅より他に何かを求めるものがあると言う人でしょう。此処では「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」ですから、坐ってる事より他に何かあるかと言ったら、無いのじゃないかと一応言ってる訳です。皆さん方はどういう風になってる、坐禅をしてまだ何か他に求めるもの持ってる様な事をしているとしたら、第一問目で引っかかるんですね。

それから「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」坐ってるにもかかわらず、坐ってる事に、坐ってることを大事にせずに、似た様な話になるのでしょうけども、格外ですから坐禅をしてることの他に、何か素晴らしいもの、或いはもっと違ったもののあり方、そういう様な事を求めているのか。これが二つ。もう一つは「すべて図すべからざるか」描くものが一切ないのか、と言う事は、本当に坐禅してる時坐禅してる様子だけなのかと言っております。こう言う事が道元禅師によって皆さんに向けられてる訳ですね。

「当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。」当時って言うのは昔じゃありませんよ。今まさに座っている時って言うのが当時です。今まさに坐ってる時に、坐禅せるにいかなる図か現成する、どのように本当になってるかと尋ねる、問著する、この様な事をですね、「つまびらかに功夫すべし。」審細に工夫すべし。で、審細に巧夫する時にですね、ああじゃないか、こうじゃないかって考えるって言う事ではない。実際に坐ってるものに触れて、その事実がどうなってるかっていう事を見届けるっていうことです、正しく。「つまびらかに、」そうでないと勝手に坐ってる事の他に、ああなってるこうなってるという思いを巡らしてるような事、それは修行にならない。

例えば、もうちょっと身近な事で、此処に鐘があるから、こうやって鳴らしてみる。良いですか。チーン(おりんを鳴らす)こうやって鐘の音が出てなってるの。その時に皆さん方はこの鐘の音にチ-ンこうやって触れた時、チーンこの鐘の音がですね、二つの聞こえ方三つの聞こえ方、そう言う風な聞こえ方のする人が、まず居るかどうかです。この音を聞いた時に、チーン二つの聞こえ方がするか、もしこの音を聞いた時、二つの聞こえ方がする様だと、「坐禅より向上にあるべき図」とか「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」と言う様な事に当たるのですね。

別な事があるかないかって、チーンもう1回確認してみて、「すべて図すべからざるか」言うと、ただこの様に聞こえるだけか。チ-ンって、今一応実験してみたんです。皆さんどうですか。難しくはないでしょう。これ、チーン聞いて貰えば分かる。チ-ンこうやった時、もう一つの聞こえ方がするかどうか。本当にただ音がしてる通りに、ただ聞こえるだけなのか。

これもの凄い重要な事なの。首をひねるほど難しい事じゃないです。実際、今ここでやってるわけだから、チーンねぇ。もう一つの聞こえ方する人居たら、ちょっと手を挙げて。あれは髪をいじってるだけで手を挙げたんじゃないですよ。(笑)(丁度この時髪をいじっていた人が居た。)

これはもう少し裏打ちをしたり、参考に意見をつけるとですねぇ、この通りチ-ン聞こえてるって言う事は、生活をしてる時にですよ、一切問題が起きないっていう証拠じゃないですか。そう思いませんが。こうやった時、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切問題おきないでしょう。皆さんが色々な事で問題が起きる時には、必ず比べるものがあるのでしょう。あっちがこっちがとか、あれがこれがって。日常の中で問題起こる時、見てごらんなさい。必ずそうでしょう。だけど、今こうやって生活してる時、こうやって音を出した時に、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切何処にも問題が起きる処無いでしょう。争うものがない。ずれた試しがないよ。チ-ン

本当は皆さん毎日そうやって生活してるんじゃないですか、自分の本質は。だけども、じゃあ、人と会話をした時にですよ、こんな風にうまく聞いてる人がいるかしら。チーン 向こうの人が喋ってる通りにただ聞いて居れる人がいるかしら。居ないでしょう、此処に。誰もって言って良い程。

「格外に」チーンあるいは「向上に」余分なことを必ずなんかつけて聞くのでしょう、話をしたら、すぐ。本来の耳ってそんな風になってないでしょう。此処でやってみれば分かる。こうやった時に、何もついてこないでしょう。この音がするばかりでしょうが。そして音が止むと、どうもしないのに、もうそっから一切離れて切って、問題にする音が一つもこの中に響いて無い。そういう風にして生活してる筈でしょう。だけど皆さん方は喋り終わった後に、ガンガンガンガンガンて、音がずーっとしてるのでしょう。

何を聞いてるのでしょう。あいつあんな事言って、何を取り扱ってるのでしょう。音じゃないですよね。音じゃないですよね。音はしてる時にこの様に聞こえて、もうひとつの聞こえ方が出ない様に聞こえるんだから。で、音が止むとこの様にどこにも聞こえてない訳だからね。人間の声でもそうでしょう、今私喋ってるけど、何処にも、喋るの止めると何処にも聞こえてないでしょう。

こんなことを勉強するんですよ。坐禅て。仏教ってこう言う事をやっている。誰しもの自分の今生活してる事実がどのようになってるかって事を自分自身ではっきりさせる道です。すると、こうやって過ちが自分の中で行われる事で苦しんでる事、みんな整理される。音がしない時に聞こえる人居ないのでしょう。音がしない時、聞こえる人いますか。では人間喋っていない時、何が問題になるんですか。喋ってる事が問題になってるんじゃないでしょう。皆さんの中に記憶したものを呼び起こして取り上げて、それを自分の考え方でつついてるって言う事が問題になってるでしょう 。

こうやって、チーン(おりんを打つ)こうやって勉強する。今、耳の勉強をしたけど、人間の視聴覚教室って言って、目と耳はものすごい生活の中で大きな位置を占めてるから、目の方もやってみると良く分かる。こうやってみなさんに見せた時に、(扇子を開いて見せる)もう一つの見え方がある人? 出てこない 。こうやってやったら、こう言う風に見えるだけでしょう。もう一つの見え方出て来ないでしょう。もしもう一つの見え方が出て来たら、こんな風に見えない訳でしょう。上手く出来てるでしょう。必ずこの通りに、その通りの様子が見えるだけです。だから自分の中で何にも混乱が起きない。すーっとこう見てごらんなさい。何処に向かったってその通りの事がこうあるだけで、重なって何かが二つの見え方が出て来るなんて事はない。

もしあるとすれば、頭の中に思い浮かべた事を、こうやってやりながら見てるって言う事でしょう。それは見てるという事とは違うでしょ。考え方を相手にしてるって言う事でしょう。本当に皆さん方、自分の眼に学ぶと、こう言う風になってる。これだから生活していてですね、どんな事が目の前で起こっても、トラブル起きたことがない。起きない様になってるんです。どんなこと起きても。トラブルを起こす人は自分の中で昔体験した事とか、ありもしない事を思い浮かべて、今の現実と見比べる様な愚かな生活をしてるって言う事だけです。

ものを知らないとそういうこと平気でやる。他の人に聞いたって、なるほどって納得してくれる様な話です、これは。皆大体そういう生活してるから疑わないんですね。そう言う愚かな生活をしてる事が当たり前だからです。正しいと思ってる。

よーく見てみると、人間はそんな風に生活してないでしょう。今やってみて良く分るでしょう。もう一つの見え方なんか絶対無いのです。今日はその位勉強して帰りゃ十分だよね。エー、後は、自分の生活してる中で私が言ったことが本当にそういう風になってるかどうか、自分で審細に、詳にはっきりさせたらいいじゃん。それは皆さんがやる仕事です。修行ってそう言う事を、必ず自分の体でやらないと、この事は分からないんです。他の人にまかしといては。

この音一つ聞くんだって、チーン他の人に任せて聞かないんだもん。必ずこの自分の身体で聞いて初めて、音がどうなってるかがわかる。チーンそう言う風に修行って言うのは絶対に自分でやる意外に無い。やらないと分らない。 頭で考えてても無理。頭で考えてる事と事実は違いますからね。ね。頭で考えてる事と事実が違うのと同時に、皆さん方は事実と頭の中で考えてる事をどっちを大事に生きてるんですか。どっちを大事に生きてるんでしょう。もし頭の中で考えてる事を大事に生きてるとしたら愚かでしょう。そう思いませんか。事実の方がずっと重要性があるのでしょう?

私は時々、変な話をしますけども、例えばここに名医がいる。私が患者として先生とこへ行く。その時に私の体の現状をきちっと見ないで、名医と言われる先生がですね、メスを取って手術をするだろうか。そんな先生はいないと思いますよ。名医と言う人ほどその患者さんの現状がどうあるかって事をきちっと見る。だから正確に手術ができる。どんな技量があっても実物がどうなってるか分からずに切ったらですね、とんでもない事になりますよ 。

世の中のありとあらゆるもの対応する時に、一番必要なものは、実際に今どうなってるか、と言う事がはっきりしなかったら、そっから先は進まないんじゃないですか。勝手に想像して、ああしたらこうしたらと思ってやってるけど。そういう勉強でもあるんですね、これ。何故かって言うと事実の方は無かった様はできないのです、ね。考え方の方はどんなでも扱えるじゃないすか。考えだから、別に。だけど事実の方を無くすって言う事は絶対ない。それで修行する時にこの実物の方で学んでいくのです。考え方でなしに。先程もちょっと坐禅と言う事を話したけども。坐禅は考え方を相手にするのではない。実物に触れると人間は、 理解出きる力を持ってる。実物がどうなってるか、考えなくても。こんなの考えなくたって、チーンその音を聞いたら、その音が分かるようになってるでしょう。頭を捻ってですね、考えないと、チーンどんな音がしてるかって、わからないってことないでしょう。

(質疑:ミュージシャンだと自然に感情が音になってしまうでしょう。頭でしようとしなくても。)

パンパンパンパン必ずしもそうじゃないでしょう。感情移入して音楽を奏でる人もいる。それは勿論いるでしょう。いるけども音自体って言うものには、感情移入はにない。

(居ますよ。音自体に。)

それは音と感情というものは別です。音を縁にして感情は起こるけど、音と感情は別です。そう言う事です。こうやって音がして、好き嫌いの音にはならない、音は。この通り聞こえるだけです。聞いた人が自分の聞き方によっては、好きな音、嫌いな音って言う風に位置づけるけど、音自体には、元々好き嫌いがない。感情が入らない様になってる。そう言う事、知っといてほしい。

(それは自然と起きる人の場合は、自然と起きることじゃない、認識だけのとこにして行くって事が禅?)

いや、基本的に感情とは別になってる。

(なってない人が一杯居る。)

なってないんじゃない。なってないんじゃなくて、そこが自分でよく分からないから、チーン音がした時に、嫌いだとかっていう風に思ったとすると、チーンこの音が嫌な音だと言う風に聞いてる。

(好き嫌いですらないんですか。)

ないですよ。音は。

(でも揺さぶられる、、、)

それはだから思いと言うものと、目の働きと思いの働きは全然分野が違う 。そうそう。耳で音を聞いてる分野と目で見てる分野とは全然違う。目で見てる中に耳で聞いてる分野が入って来ない。絶対、あの目、耳、鼻、口とかこう言う感覚器官あるけど、絶対よその感覚器官の中を侵す様な事はない、入って。だから目は目の働きをするし耳は耳の働きをするんです。これがごっちゃになっちゃったら大変なんです。そんな事はないです。

(ごっちゃじゃなくなって行く?)

そこを皆さん自分のことだから、はっきりさせないと。ものが分からないとごっちゃになるように受け取ってる人がたくさん居る。それでそのごっちゃになってる様なものの扱いの上で、どうしたらちゃんとなるかっていう風にするから、最初からごっちゃになってないのにごっちゃになってると思ってるものを手をつけて何かしようとするから余計に変なる。そう言う事です。まあそんな事があります。ね。その辺で審細に参究すべし。もうちょっと先へ行ってみますね。先程読んだところまでやってみたい。



坐禅箴 Ⅵ

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「羅籠打破すれば」羅籠打破って言うのは、そう言う人間を縛ってるものの考え方や思い、そう言うものを本当に取っ払ったらって言う事です。ねえ、鳥を捕まえる籠とか獣を確保する網とかって言う様な物が、羅籠と言われてる。そう言う物を全部取り払うと本当に自由になる。坐ってる様子がそのまま仏様になるって言う事でしょう。それ以外に無いじゃないですか。

こうやって今も説明している。こうやった時に(おりん棒をみせる)こうやったらこの通りになるのでしょう。当たり前の事だけども、こうやったら(横にする)こうなる。こうやったら(立てる)こうなる。だけど自分の考え方を中心にすると、こう言う風になったり、こう言う風になったりするのは嫌だって思いがあるとですね、こうやった時に気に入らないって言う風になるのでしょう。こうやった時、気に入らない。で、気に入る様になる事が修行が進んだり、終わった事だと思ってる。そうじゃないですよ。今そう言う思いを皆さん方の中で持ってるんだったら、嘘ですよ。

人間の眼だってそうでしょう。自分の気に入る様になんてなりません。必ず向こうの姿のまま、眼が触れるとその通りになるだけですよ。何時でも。眼ってそうですよ。一つも自分の見方を持ってない。我儘なものの見方は眼は一切持ってない。どんなものでもこうやってそのものに触れたら、必ずその通りに見える様になってる。こんなに優しい働きをしてる。

逆らった事一切ない。好き嫌いを一切起こさない。どんなものでもそこに有れば、その通りこうやって。自分は嫌いだと思っても、こうやってそう言う事を飛び越えて、必ずその通りになる。ねぇ。考え方を離れると、そう言う事よーく分かる。 「羅籠打破すれば、」そういうもの本当に打ち破って、全部手放れてみると、自分のそうやって生活してる様子が自分ではっきりする。

「正当恁麼時」って言うのは、今です。今そうやって自分の考え方や見解と言うものをすっかり離れた様子の時です。ものに対して好き嫌いを起こさずに、こうやって触れる。具体的にはそう言うものです。ね。自分の好き嫌いを通さずに、付けずにこうやってものに触れてる時に、皆さんどうなるでしょう。

人間関係でも会社に勤めて色んなお仕事について、転々と職を変わる人沢山聞く。どうしたら耐えられるかって、そこで人間関係。そこを辞めてもですね、次の所へ行っても同じ様に人間関係ですね、自分が変わらない限りはですね、場所が変わっても、これはクリヤー出来ない。

正当恁麼の時、好き嫌いを、そう言うものの見方を止めてみると初めて、人間のつきあいの中で融通が利くようになる。嫌な奴だなあと思って、そうやって向かったら、素直に聞ける訳がないじゃないですか。ねえ。それ向こうの責任じゃないですよ。こっちが自分の中であいつ嫌だなあと思ったのは、こっちの責任ですよ。こっちが自分の中で、向こうに相談もせずに、勝手に自分の中で思うんですからね。ねえ。

向こうに、「ゴメンあなたの事、嫌いだって今から思うからね」って言って、「じゃどうぞ」って言って、「嫌な奴だ」って、そうやってやってる、そんな事しないんだからね。誰にも相談しないで、自分の中で勝手に相手の事を、そうやって蔑んでみたりする思いを、ふっとこの中で起こして、その事が触れた時に、人間関係をうまく行かさない様にしてるんだからね。

だからこうやって、正当恁麼の時って言うものが大事でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分の在り方にこうやって目を向けてみると、ああ成る程こう言う事を自分でやってるから、こんなつまらない生き方になるんだって言う事が分かる。

そうすると、「千古万古」だからずーっとですね、途切れなく何時の時代でも「ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。」どんな人とでも付き合う力が出て来るでしょう。そう言うもんでしょう。自分の中で、嫌だなあって思う心を持って、こう触れると、嫌なな人の中には親しくこう入って行く力が無くなるじゃないですか。それ自分の付けたものですよ、勝手に。

坐禅て言うのはそう言う風にして坐ってる時に、自分の素肌って言うか、余分なものを一切付けずに活動してる直の生活してる、その自分にこうやって親しく居てみるって言う事、そうすると、自分の本当の在り様が直に伝わって来るじゃないですか。伝わるなんて時間が要らない体験。

こうやって触れるとどういう風になってるって思うんじゃんないですよ。こうやってやると、こうやった時に、どう言う風になってるって思わなくても、こうやって触ったら、触ってる様子がいきなりちゃんとはっきりするのでしょう。考えなくてもこうやって触ったら、触った時の様子が自分の上にちゃんとあるからね。

人間は考えないと分からないと思ってるのね、殆ど。そんな事ないですよ。自分自身の今生活してる実物に、自分自身が触れたら、自分自身がどうあるかって言うのが、眺めなくても分かる。

こうやって抓った時にですね、眺めなくても否応なし、こうやっただけでこうやった事がどうなってるかはっきりしてます。やってみりゃわかる。エー。考えなくたって分かるでしょう。痛いとか痛くないとかって言う様な事を表現をしなくたって、この通りの事が出て来るんだもん。摘まんだ強さの通りの内容がその通りずれずに出て来るんだもん。

パン!こうやって、もうその通りの事、いきなりこの上に出て来る。如来、如去と言われる様に、出た来た様になるけど、何処にも出て来た場所も時間も見届けられる様なものの無い活動です。坐禅てそうやって自分の考え方を使わずに、生身のものにこう親しく居る時間です。そうすると、次にもある「進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」一々その事によって。

皆さんはつまらない事だって思う様な事でもですね、さっきもちょっと有ったけども、人が歩いてて転んだ。そう言う現象が起きた時に、あまり転ぶって喜ぶ人は居ない。だけども、ロボットを作っている人達はですね、人が歩いてる時に転んだって言う事があるとですね、その転ぶ事って言う事の中で、どうやったら人間の様に歩くロボットが出来るかって言う事を学ぶんですねぇ。この転ぶ中に、転ばないって言う事が隠されてます。不思議なもんですねぇ。

病気はしたくないっていうけども、病気をした時に、病気をした中に、病気はどう言う事が起こるかって言う事が、この病気をしたらどういう事が起こるかって言う事が、皆その中に示されてる。それ位捨てるものは一切ない。本当にここに有る様に、「したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」って言う様な事ですかね。

人間の考え方から言えば、怪我をしない方が良い。怪我をした時に、何で怪我しちゃったんだろう、怪我しない方が良いとか色々思うんだけど、皆その事が人を救うう大事な事なんですね。腹が痛い時に、みんなさんよく分かるけど、腹が痛くなかったら、どうするんですか。腹が痛くない方が良いでしょう。腹が痛い時、腹が痛くない方が良いって皆思ってるけど、腹が痛い時腹が痛いから、ありがたい事に病気が分かるのでしょう。気づかしてくれるのでしょう。

だけど人間の考え方はそうじゃないからね。痛い時に痛くない様にしたいって、そういう風に考えるんです。修行もそう考えてる、さっきの様に。ねえ。坐って、もう少しこうなったら良いってものを他に持ってるじゃないですか。そうでない。そっちへ進む様な事はしない。そのままの状況の中で、居てみないと本当に良さが分からない。

苦しい時に苦しくない方が良いに決まってる。だけども苦しい時に苦しみの中に居てみると、それがどう言う事か良く分かる。よく分かると、その苦しみの中で人は救われるんだね。不思議だね。他のものを持って来なくても、それで救われる。

悪い事はしない方が良いけども、悪い事をした時に、悪い事をした様になるから、それをちゃんと自分でこうやって見ると、悪い事をするって言う事こうなるって言う事がわかるとですね、悪い事しなくなるんです。悪い事をしても、それが悪いと思わないから、悪い事止めないだけだからね。

だから収監されて独房の様な中に入って、酷い事した人達は自分をみつめ直す事をさせられるでしょう。で、反省文とか何か色々書くでしょう。その自分がやった事に対して気づく迄は出さないじゃないですか。気づかない間は、自分がやった事がどう言う事か気づかない間は、反省にならない。

他のもの持って来なくても良い様に、皆出来てる、そのもので。そう言う様なものが、進むとか退くとかって書いてある、進歩退歩とかありますが。どれを取り上げても、そのもので人は十分勉強が出来る。修行が出来る。で、知らない人は、自分の今体験してる事が嫌だから、他の気に入ったもの持ってきて、それで何かしようと思うから、全部現実から逃避するじゃないですか。そんなの救われる訳がないじゃん。現実を逃避したら。

修行の大事なのは、そういう風に必ず自分自身の今の、隠しようのない自分自身の在り様、そのものに学ぶって言う事ですね。参ずる、学ぶ。学ぶって言う事は、直に自分自身そのもので居れるって言う事です。毎日こうやって生活してるんだけど、自分自身がどう言う風に生活してるかって事に本当に人は疎いよ。

ものを食べたってそうでしょう。口に入れればその入れたものの味が間違いなくする筈なのに、どんな味がしてますかって聞いても、良く分からん。そんな風にはなってない、この機能、器官、舌って言うのは。口に入れたらそのものの味がですね、誰でもはっきりする様に出来てる。生まれた初めて口に入れたものでも、食べてですね、それでも味がちゃんとする。

生まれて初めてこうやって出された物をでも、見えない事はない。皆はっきりしてる。そう言うものですよ。不思議でしょう。生まれて初めてで、体験が無いから良く分からないと思うでしょう。

だからその前に、「初心いずれのところにかおく。」って言う様な事を、この前の処に、終りの方の文章だったんだけども、ものを始めるのに、一度もやった事の無い処からしか始められないじゃないですか。エー。私、初めてだからって尻込む人が居るけど、ものを最初に学ぶって言う事は、誰だって一度もやった事のない処から始まるんだよね。だから尻込みする用がないじゃないですか、初めてって言って。そう言うもんじゃないですか。

初めてこうやって見せられて、(おりんを見せる)、ちゃんと見えるんだもん良いじゃない。初めて聞いて、チーン!ちゃんと聞こえるんだもん、良いじゃないですか。本当は分からない事なんか何も無いよ。

坐禅も初めてって言うけど、何十年もやってる人って、今日坐るのは初めてですからね。そう言うもんですよ。何十年も坐って来たたって、今日坐る坐禅は初めてですよ。皆初めてですよ。おれは何十年も坐ってるからって、そんな坐禅は無い。そんな偉そうな顔する坐禅なんか絶対しない、出来ない。初めて一緒に今、坐るんです。そう言うものですよ。

まあこれで、この辺迄。四時だからあと三十分位、質疑、何でも聞いてみたい事や言いたい事があったら、どうぞ。