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自証三昧 Ⅺ

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自証三昧 11-03
自証三昧 11-04


「おほよそ大宋国に仏祖の児孫と称するおほかれども、まことを学せるすくなきゆゑに、まことをおしふるすくなし。」これ大宋国、中国の当時の話だけども、何時の時代もそうでしょう。どの職業においてもそうでしょう。だからものを学ぶ私達の方からすれば、出来るだけ、出来るだけその道に精通した人に、その事はついて学ぶのがお勧めですよね。

一回ものを学んでしまうとですね、次に中途半端な人について学んだ時に、又一からやり直さなきゃならんし、前に学んだものが中々厄介なんだよね、何処かに出てきて。あっちの人はこう言う風に教えたとか、何でああなのとか、そんな時間がかかる。ストレートに、今教えられている通りに行かないよね。不思議なもんだね。

この頭でも、バリカンで昔刈ってたけども、下手な人が刈ると虎刈りになる。筋が出来る。その後のそれをきちっとこう刈るのは非常に難しいじゃん。最初にズーっと同じ様に毛の長さを同じ様に刈ってくと綺麗に刈りあがるんだけど。そう言うのと似てる。
「そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。」今取り上げた様な事を見てみると、ものがどう言う風になって、結末がどう言う風になっているか、この先どういう風になっていくかって事が、皆それによってはっきりする。

「紹興のころ、」これ年代ですね。「なほかくのごとし。」1131年から1162年を紹興の頃と言う風になってますが。道元禅師がお生まれになるよりもどうですか。四、五十年前か五、六十年前。「なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」わずかですね、わずか道元禅師が中国にお渡りになったのは、紹興の頃から百年位ですよ、後。百年位経つと、こんなになっちゃうって言ってるんですね。「いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」一度火が消えると、火を起こすのに大変だと言う事かしら。

「今は仏祖の大道なにとあるべしとだにもしらざるともがら、雲水の主人となれり。」これ言う必要ないね。「しるべし、仏々祖々、西天東土、嗣書正伝は、青原山下これ正伝なり。」達磨大師から順次伝わってきて、六祖大鑑慧能、そしてその後で、青原行思禅師の流れと南嶽懐譲禅師の流れに二人の弟子が出来ますので、なっていきます。そう言う中で、嗣書正伝は、道元禅師は青原禅師の方を優位にこうやって見ておられますね。

その背景になる流れは、ご自分が南嶽懐譲禅師の系列の臨済宗の明全と言う、栄西禅師のお弟子の明全さんについて学んでるんだけども、この明全さんが、この仏法の真意についてはご自身もはっきりしなかったので、一緒に道元禅師と中国に渡って、勉強をし修行をして、早くそう言う事に気づいたら、どちらか早く気づいた方がそれを助けようという様な約束をして、中国に渡って行くって言う様なストーリーがある。史実があります。

そう言うものを見てもですね、この南嶽懐譲禅師の系列に嗣書と言う受け継いで行く正しいものが正伝して来なかったと言う事が言えるかもしれない。青原の方はどう言う人がいたかって言うと、天童如浄と言う人が中国におられて、その人に道元禅師はついて、仏法の正しいものを受け継いで来た訳ですね。そう言う史実の上でのも、そう言う事が厳然としてある、言う事でしょうかね。

「青原山下よりのち洞山」洞山良价、宝鏡三昧を著した方ですかね。「おのづから正伝せり。自餘の十方しらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の児孫なり。雲水に声明をほどこす。」道元禅師はこの洞山良价禅師を高く、何時も評価しておられますが、洞山高祖と言っている位。徹底の仕方がですね、底抜け本当に素晴らしいなって言っているのでしょうね。でやっぱりその流れの中から大勢の立派な人が育ってる。

「宗杲禅師、生前に自証自悟の言句をしらず、いはんや自餘の公案を参徹せんや。」これ自証三昧の巻ですが、自証自悟の言句を知らず、言っております。これは決して一人よがり、自分勝手に人に頼らずにって言う様な、自証自悟って言うのはそう言う意味じゃないですね。間違えると困ります。

そう言うのがちょっと最後の方に書いてあるんで。「いはんや宗杲禅老よりも晩進、だれか自証の言をしらん。しかあればすなはち、仏祖道の道自道他、かならず仏祖の身心あり、仏祖の眼睛あり。仏祖の骨髄なるがゆえに、庸者の得皮にあらず。」
仏祖道の道自道他、仏祖の身心。仏祖の眼睛、仏祖の骨髄、ここに皆仏祖と言うものをつけておられますが、言葉をもう少し選んですればですね、真実ですよね。真実。真実を本当に自分ではっきりさせた人を、今しばらく仏祖と言うでしょう。私達も真実の中にすっと生き続けているんだけども、その真実がどの様になってるかって言う事が、はっきりしないまま過ごしてる事が多いでしょう。

簡単なものを取り上げてみますとね、先ず一人一人の生活してる時に、人間には六官と言われる様な道具があるから、それらがどう言う風に活動してるかって言うと、こうやって、首をこうやって(首を右から左へ回す)ずーっとこうやってやるとですね、先ず眼を開けてこうやってやると、こう言う風になるって言う事がわかるでしょう。毎日使ってるんだもんね。何時も眼を開けて、こうやって、何処へ行ったってこうやって使ってるから。

それどうなってるか、皆さん分かりますよね。どうなってますか。え?不思議ですよね。皆やってるんだけど、それがどうなってるか、良く分からない。目はですね、色んなものこうやって見えてですね、どんな物が見えても、眼って苦しんだ事が無い、知ってますか。悩んだ事が無いですよ。必ずその通り、こうやってその通りあるだけ。一切悩まない、苦しまない。今見てる時、他のものを探さない。それがこうやって今見てる時の様子ですからね。見ていて他のものを探す様な愚かな事はしない。

で見たのに、何処にも残らないって言うのも不思議でしょう、こうやって。何時こう言う風になるか知らないでしょう。こうやって。その様にしたって事は、自分に一つも無いんでしょう。ただ目を開けて、こうやってやるとそうなるんだもんね。もしこの事が本当に自分で納得が行ったら、普段何を問題にしてこんなに悩んでるんだろう。こんなに素晴らしい働きをして生活してるのに。

まだ何かしなきゃ本当の生き方が出来ない、と思ってるのは変じゃないですか。これがもう皆さんの求めている最高の在り様そのまま示してるじゃないですか、今、何時でも。見て好き嫌いは出て来ませんよ。言っときますけど。好き嫌いは見てる事じゃないから。見たものに対しての各自の判断、分別、評価です。それを見てると思ったら、大間違い。聞いてもそう。

どんなものが聞こえて来ても、それで煮えくり返る様にはならない。腹が立つとか。その通りその音がしてる時に、その通り在るだけで、音が止むと何もしないのに何処にも探しても無い。底抜けそう言う風になってる。それで十分でしょう。それ仏祖の身心でしょう、仏祖の眼睛でしょう、仏祖の骨髄でしょう、仏祖の道でしょう。自分もそうだけども、他の人もそうなってるでしょう。

普通の人の様に自分達も思ってるかもしれないけど、この内容はそんな凡人の考えてる様なつまらないものじゃないって言う事でしょう。自分で思い間違えたんでしょう、本物を見ないで。自分の本物見ない。他人を見て羨ましく思うって。そういうんだって、皆、自分で間違えたんでしょう。自分の素晴らしさを何で見ないんだろうね。生涯他人の眼で物を見ないで済む様に出来てるじゃないですか。自分の持ってる眼だけで、間違いなくちゃんと物が見える様に出来てるじゃないですか。

他人の耳を一切借りなくて自分の耳だけで、どんな音がしてもその通りちゃんと聞くことが出来る様になってるじゃないですか。それだのに他人の様子を見て羨ましく思うって、何だろう。まあ色んな事が上げられるんだけど、自証と言うのはそう言う事ですね。自らの本当の在り様があるから、それに触れてみると、自分の素晴らしさが分かる、そう言う事に気づいた代表者として仏陀と言われる、自覚せるもの、自分の本当に在り様に目覚めた人がおられる。

それは坐禅してもそうだけど、坐りながら、自分の坐ってるものを眺めてる坐禅は、坐禅にならない。二人ずれだからですよ。本当に坐るって言う時は、眺めるって言う様な事は、絶対無いものでしょう。ね。眺める様な坐禅をするから、行き着いたとか行かないとか、未だだとか、あれがこれがって、次から次へ色んな事が、思いが浮かんで、思いが浮かぶと、またその思いに騙されて、知らない内にすぐ思いを相手にして時を過す様になってる。

あれだけ是非善悪を思わずとかって、ね。どんな事が坐ってる時出て来ても、一切それに対して自分の考え方で取り扱う事をするなって、もう口が酸っぱく成る程に書いてある。にも拘らず、知らない内にすぐ考え方の方に行ってしまう。それは坐ってる時に、坐ってる自分を眺める様な気配の坐り方をしてるからでしょう。一緒になってる時には、そう言う事は絶対起きないものじゃないですか。坐っていて坐ったてる事忘れてしまうって言う位なんでしょう。坐って、本当は。

そうすると、又そう言う言葉を聞くと、忘れてしまわなくちゃとか思われると困るので、話って言うのは難しいな、と思うんだよね。真意を捉えて貰わないと、何時まで経っても考え方で堂々巡りをしていて、その言いたい処伝えたい処まで入って来ない。ねぇ、それだけはちょっと要注意でしょう。私達もだから晩進のうちでしょうけど、「宗杲禅師よりも晩進、だれか自証の言をしらん。」自ら証する、自らはっきりさせると言う時に、今申し上げてる様な在り方が問われる。

一生生きていて、何回も何回も話しますが、一生人が生きていたって、本当に見てみると、今こうやって、此処でこうやってる事だけですからね、この身体で。この事を知るのに、余所の時間帯、余所の場所に行って知るって言う事は、絶対にありっこない。この真相を本当に知るのに。今此処でやってる以外に無い。で、既に今だから、向かう用がない。探す用がない。それが基本です。

生涯、それで、人は終わるんですよ。他人の事は一切やらない。だから他人の事を学ぶんじゃない。他人の事だと思ってる事が、全部自分の様子だから。ね。こうやって。他人の事だと思ってる事、全部自分の様子なんですよ。自証って言うんだけども。こんな小さなものだけを相手にしてるんじゃないですよ、自証って。

まあそう言う事で、一応ここは読み終わりと言う事で。ちょっとだけ休憩をして次へ行きますか。
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自証三昧 Ⅹ

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2018.11.27
正法眼蔵の自証三昧、もう少し残っていると思いますが。402頁3行目から。一下り読んで始めたいと思います。

「圜悟禅師は古仏なり。十方中の至尊なり。黄檗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり。他界にもまれなるべき古仏なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あわれむべき娑婆国土なり。いま圜悟古仏の説法を挙して、宗杲上座を撿点するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらす、いかにいはんや師よりも優れたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。」

まあそう言う処ですね。エーまあ難しい事は書いてある訳じゃないので、理解はいくと思いますが。じゃあその、どう言う処が、圜悟禅師あるいは黄檗禅師とですね、この宗杲、大慧のシュウコウと読むか、ソウコウとかなが振ってあるので、一応しますが、その方々と何処が違うのかと言う事だけが、多分問題になるでしょう。読んでね。皆さんも知りたい処でしょう。

先程、到着した時に、方丈さんと少し話しをさせて頂いたんですが、その感じる事はですね、一般にものを学ぶ時におそらくそうじゃないかと思うんですが、何故か自分を此処に置いて、そしてこうやって眺めるから、最初からもう向こうのものをこちらに受け入れると言う様なものの知り方しかない、じゃないかと思うんです。それが幾ら勉強して幾ら修行しても、其処から勉強してる人とですね、はじめっから自他の隔ての無い処から触れてる人の違いでしょう。

今日も天気が良いもんだから、私も寺でも近くに居られる方が弁当を持って来た。坐禅堂で坐るのも良いんでしょうけども、ちょっと話をって言うもんだから、階段の所に腰を下ろして話をして。景色が其処にずーっと在るから、そう言う所でこう言うに過ごしたんだけども。向こうにある景色を見るって言うんじゃなくて、イキナリその中に居るのですね。どうしたら一緒になれるかって言う様な事じゃないですね。そう言う事が皆さんにもなんとなく分って頂けるんじゃないですか。

カラスがカアーって鳴いたりしてるんですけど、カアーって言うと、要するに向こうでカラスが鳴いてこっちで聞いたって言う様な風に、普通は大概の人はその位の捉え方をしてる。それ常識でしょう。だけども、自分でカラスが鳴いてる時に、どうなってるかって事を、自分の事だからこうやってよく見てみると、カアーって言うだけなんですね。ここでやっても同じなの、カアーって。こっちで私がカアって言ったから、皆さんの方で聞こえたって言う様な気配は何処にも起きない。

そう言うのはこれだけ話してるから、何となく分るんじゃないかしら。実際にはそれ位自分らしいものって何処にも無い内に活動してるんですね。自分らしいもの立てずに。見ずに。だから聞いてるとも何とも無いでしょ、カアーって言った時に。いきなりカアーって言う風になる。それで後で、ああ今カラスが鳴いたの聞いたって、そう言う風に位置づけてるんだけど、その位置づけをする前に、そう言う風に皆さんは生活をしてる。こう言うのが祖師方でしょう。仏祖方。こう言う事がここら辺でも問われるのでしょう。

「宗杲上座を撿点するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらす、いかにいはんや師よりも優れたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。」尋ねて行って其処に到達しないと、その事が分らないって言う様な勉強の仕方を多くしてるけど、こうやってパン!(打掌される)やると分かるけど、尋ねて行く時間が無い。距離が無い。いきなりパンて言うでしょう。それでそれを聞こうと思う頃には、もう音はしてない位、終わっちゃってる。全部味わい尽してる。こう言う事が誰でもが本当は生活の中で行われてる。

これを知らないと修行する時に必ず何処かに向かって行くのでしょう。尋ねて行くのでしょう。物を見てる時だって、その物を見てる時に尋ねて行く距離は無い。もういきなりその物ですからね、こうやって。二十四時間おそらくそう言う風に人は生活してる。それを平易な言葉で言えば今の在り様。今の様子があるばかり。

今の様子ってのは、もう少し説明しておくと、前から在るって言う事はない、今の様子ってのは。前からあるんだったら、今の様子とは言わない。じゃ今の様子が何処から出てくるかって、出て来る場所も無い。不思議なものですね、今の様子って。

でこうやってあるんだけど、今の様子があるんだけど、その様子が何処にも留まった事がない。消える場所も無い。隠れる場所も無い。去る場所も無いまま展開してる、今の様子が。何処にも残らない。だから底抜けそう言う自分の様子にこうやって触れてみると、垢の付き様がない。問題の起こし様が無い。それが天下泰平と言う事でしょう。救われていると言う事でしょう。

仏様って言うのは、そう言う自分の真相に本当に触れてはっきりした人達でしょうね。で自分を立てて物を見てる限りはそう言う事がはっきりしないじゃん。今と言う様子の中には、向こうの時間帯とこっちの時間帯って言うものは無いのが今の様子でしょう、説明をすると。ここら辺だけが今の様子って言う事はない。全部ですね。全部が今の様子だから。いきなり、もう手をつける必要がない。手をつけて今の様子に変えると言う事はない。で今の在り様って言うものが、片時も自分の上で無くなった事はない。もっと言えば、今の様子から離れて生きてるなんて人は誰も居ない。

だけども、頭の中に何処かに未だ他の世界がちらつくんだよね。それは事実にこうやって学ばないからだと思う。考え方で学ぶと、考え方で学ぶと言う事は事実から離れますから、距離が出来る。距離が出来ると対比する事が起こる。対比する様になるとものが分からなくなる。良いとか悪いとか必ず分別する様になる。そしてその分別をする中心は自分ですから、自分で好き嫌いの上で分別を使って、好きなものを取り嫌いなものを退ける様な生活をするから、何処まで行ってもけりがつかない。それがものを知らない時の勉強の仕方でしょう。ねぇ。

今ずーっと話をした様に、今の様子って本当に何処から出てくるかって場所が無い。何処に行ったって言う場所も無い。そう言う風にして活動してる。それで何処も欠けた事が無い。不足した事が無い。余分なものが一つも無い。余るって言う事が無い。そんなものがこう言う様な処に問われるのでしょう。

まあ、そこら辺がね、色々話したけども、智と言われるものの圜悟禅師あるいは黄檗禅師と、今大慧の宗杲と言われる人の違いでしょう。皆さん方も自分で比べてみると、そう言う事聞いてみて、自分の様子と祖師方のもの在り様と言うものに関して、自ずから違いを感じるでしょう。

「しかあればしるべし、宗杲禅師は減師半得の才におよばざるなり。」師の半徳を減ずるって言う。師匠についてものを知ってですね、人にその内容を伝える時に、正しく伝えなかったらですね、折角ちゃんとした人についてもですね、人にその人を紹介する時にこう言う事が起こるのじゃないですか。何もしなきゃそのまま伝わるんだけど、自分が入って紹介すると、とんでもない事になるんでしょう。ね。

「たヾわずかに華厳・楞厳経の文句を」華厳経とか楞厳経とかいったお経がありますが、そう言う文言ですね、文句を「暗誦して伝説するのみなり。」のみなりって言うんだけども、「暗誦して伝説するのみなり」って言うんだけど、暗誦出来るって言う事は、一般的に言えば聡明な人です。聞けばすぐ、あすこにこう言う事が書いてある、何行目、何ページの何処何処にこう言う事がある。すぐ出てくる。試験やると百点満天取れる人です。ねぇ。

だけどもそれを自分の血肉の様に本当に受け取れない間はですね、やっぱりつまらないんじゃないですか。「いまだ仏祖の骨髄あらず。」自覚が自分で本当にない、その内容が。やっぱり本に書いてある、経本に残してある事の様に受け取っている。本来はそうじゃないでしょう。そう言う示してあるものが、自分自身の真相ですよ。内容ですよ。

「宗杲おもはくは、大小の陰倫、」下にもあるけど、世を逃れて、陰士とかって言うんでしょう。「わづかに依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、これを仏法をおもへり。」やっぱり自分自身の真相と比べてみると、他所に何かそう言うものがある様に受け取ってる。

改めて皆さんにこうやって話しをしますけども、他所に何かあるって言う事はないでしょう。こうやって、あの人がこの人がって言ってる事を触れて御覧なさい。他所に何かがある訳じゃない。それ全部自分の今の様子ですからね。あの人もこの人も、あんな事言ってるこんな事やってるって。それ自分の様子ですからね。その位の事は、もうこれ以上言わなくても大丈夫でしょう。そこら辺で躓く人いるかしら?躓いちゃって、ついて来れない人、そんな事ないでしょう。それで随分変わるじゃないですか。

今まではそうやって、あの人がこの人がって、他所の人の事の様に、思ったり、見たり、考えたり受け取ってきた。そうじゃないですよ。あの人がって思いを起こすのは、正しく自分の中で自分が起こすんですよ。聞いて、あの人があんな事言ってるって受け取るのは、必ず自分の聞いた上で自分がやってる事ですよ。向こうの人の事では絶対ない。色んな現象がそこに、目の前でこうやって起きてる。そうすると、そう言うものを触れて、あの人があんな事やってるって、愚かだなと言ったり、素晴らしいなって言ったりしてる、全部このもの(自己の身心)の様子ですよ。

そう言う事が少なからず分かってくるとですね、今までの勉強の方法とは違うじゃないですか。人を問題にしなくなる。他所の事を問題にしなくなる。自分自身の今の在り様に、本当にこう親しく何時でも居る様になる。

そうでないと、自分の中で起こした思いがですね、あらぬ事をさせるじゃないですか、自分で。こんなに一生懸命修行してるのにどうして私ははっきりしないんだろう。そう言う思いを自分の中で起こすとですね、又考え方を中心にして修行を始めるじゃない。だって自分は行き着いていないと思う訳だから。そしたら探し始めるじゃない。他所に尋ね始めるじゃない。そうすると自分の今の真相から、絶対離れて行きますね。自分の真相って言うのは、二十四時間自分の様子から離れた事がない。尋ねて行く用がない。そう言う風にして行くのが、修行の正当な在り方じゃない。

鳥が飛んできて、シュー、シュシュシュシュ、そう言う風なのをこうやって触れてる時に、その通りこうやっていないと、鳥の活動してる通りにこうやっていないと、どうなってるかがはっきりしない。先ほどの事なんかに絶対触れてられない、それにこうやって触れるって言う事は。必ず今の様子だけがこう在ると言うことです。そうするとはっきりする。そう言う事が分からないと、こう言う風にして、「依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、」見解を起こして、で、ものが分った様な気になるから、一応暗記ができ諳んじる位の力が有る訳だから、理解は出来るでしょう。ねぇ。

蔵の中に、昨日も話した、蔵の中に金塊が有る。自分の家の蔵の中に。で此処に蔵を空ける鍵があるって言う様な事がある。それ蔵を空けなくたって、その位の事は理解がいくじゃない。中に金塊があるから、その金塊を使ったら、こんなになる、あんなになる、こんな事も出来る、あんな事も出来るって、もう一杯色んな事が思える。だけども、ねぇ、それは思えるだけであって役に立たないでしょう。

だから自分で自分の本当の在り様の処にこうやって届く様に、ちゃんと鍵を開けて入って、他所に目を向けずに、自分自身の今の在り様にこうやって触れると、自分自身の中にある金塊に手が届く。で、それを自分で使いこなす力が有るんでしょう。そう言うものが、皆さんが今修行すると言う事でしょう。

この「依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、」を、「これを仏法と計せるをもて、はかりしりぬ、仏祖の大道いまだ参究せずといふことを。」日常の生活の中で、修行している時の殆どの場合が、考え方を中心にして、考え方を使わなかったらどうなるかって言う風にして生活してたら、やっぱり考え方を離れた訳じゃないもんね。それ注意すべきでしょう。

ああ、こうやって色んな事を思うから、こう言う事を思うのを止めたら良いんだって言って、そう言う風に思う事じゃないもんね。それはあくまでやっぱり考え方の中でやってるだけであって、本当に伝えたいのはそう言う事じゃない。考え方を本当に止めてごらん、離れてごらん、起こさずにその活動してる様子だけでいてごらんて言う事は。「分りました。そう言う風にすれば良いんですね。」って言って帰って行く。分ったかなと思うと、ああ、ちゃんと考え方で掴まえて帰るだけですね。そう言う処をちょっと見ておいてほしい。

「圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらはず。」圜悟禅師に大慧の宗杲さんは最終的に参禅をされて、その後圜悟禅師が亡くなった後は他所にも行かなかったと言う事です。「みだりに大刹の主として雲水の参頭なり。」じゃ、この宗杲さんと言う方は、どう言う風になったかと言うと、圜悟禅師が亡くなった時に、圜悟禅師のお葬儀を主葬として、まあ分り易く言えば、導師を勤めて、圜悟禅師のお葬儀の導師を勤めてお送りした人です。圜悟禅師の葬儀の導師を努めると言う事は、言ってみれば後を継いだと言う事ですね。圜悟禅師の後を任された。

圜悟禅師は亡くなる前にですね、まだ許す事は出来ないんだけど、他に人がいないって、この人を置いて、言うのでしぶしぶこの人に任したんでしょうね。だからみだりに大きなお寺の住職として、大勢のそこに来る修行者の指導する「参頭なり」引っ張って行く人ですね。難しいもんですねぇ。

「残れる語句大法のほとりにおよばず、」書き物やなんかが多少残っている。人天の眼目なんて言う様なタイトルのものがある。道元禅師は酷評をやっぱりするのですけれども。ひどい評をして、何処に人天の眼目となる様な内容があるかって言ってこき下ろすんですけど。一応タイトルは人天の眼目と言って、これを見れば修行がちゃんと出来るって言う様な位の事は書いたものが残ってるんですよね。

そう言うものですね、「残れる語句」だけども道元禅師がお読みになってみると、「いまだ大法のほとりにおよばす。」「しかあるをしらざるともがらおもわくは」これ何時頃の時代の事さすのでしょうね。私達もこうやって此処で勉強してるけども、もし宗杲禅師の物を読んで、皆さんが如何いう風にそれをうけとるかって言う事に関わってきますね。「しらざるともがらおもはくは、宗杲禅師、むかしにもはぢざるとおもふ。」先輩の圜悟禅師や黄檗禅師、まあ色んな方が居られるんでしょうけど、そう言う錚錚たる人と比べても、恥ずかしくない立派な人だって思う。

「みしれるものは、あきらめざると決定せり。」一緒に生活をなさった方々、大慧の宗杲さんと一緒に圜悟さんの所で修行してる人達は、その毎日の成り行きを目の当たりに見聞してますから、見聞きしてますから、はっきりするって言うことですよね。本当に圜悟禅師が、大慧の宗杲さんを、それで良いって許したら、必ずそう言う事がその当時伝わってる。

「ついに大法をあきらめず、いたづらに口吧々地のみなり。」原稿があってそれを読めば、自分に内容が無くたって、同じ内容の事を外に向けて喋る事は出来る、言う事ですかね。で、聞いたら素晴らしい事言ってるって言って、おおすごいなこの人は、って思ったら、他人の原稿だったって言う様な事でしょうか。エー、だから聞いてる間はいいけども、質問するとすぐ分かるね。書いてない事を質問されると、力が無いとそれ以上出てこんもんね。

だからこうやってトークする必要がある訳じゃない。色んな仏法だけでなく、色んな勉強する時に、必ずその人と直に会って話しをしてみると、その人の様子が必ずさらけ出される。そうやって皆さん方も人を知るのでしょう。その人がどう言う人か、

「しかあればしりぬ、洞山の微和尚、後鑑あきらかにあやまらざりけりといふことを。」前回、前々回あたりに読んだ所に、この圜悟さんの前の方に参禅した洞山の微和尚という人に参禅をした処がありますが、その方は折りある毎に宗杲さんがですね、気が付いたとか、何か修行の上ではっきりしたとか言って、色んなものをもって来るんだけど、それを点検して、まだ到ってないと言う事で、本当にそれは、その一線はですね、はっきりするまで決して人情にほだされたり、その誠意に騙されてですね、許す様な事はしなかった。

人間て中にはそう言う事もあるじゃないですか。これだけ一生懸命やってる、可哀相だからまあ良いにするかとか、ほだされるって言う事がある。だけど、その一線を崩すとですね、大変な事になると言う事を、この洞山の微和尚さんて言うのは良く知っておって、その絶対に踏み越える事はしなかったんですよね。

「宗杲禅師に参学せるともがらは、それすゑまで微和尚をそねみねたむこと、いまにたえざるなり。」そのそねみねたむって言うんだけども、その、なんだろうね、道元禅師のこの「そねみねたむこと、いまにたえざるなり。」って言う言い方をする中には、もうちょっと温かみがあるのかね。法を重くするゆえにって言う、後を哀れむゆえに、今を大事にする。百年千年後の事を本当に大事に思うんだったら、今絶対いい加減な事はしないって言う事でしょうかね。それが本当のものを伝えて行く時に大事な事なんでしょう。

先輩達の所に参禅をしておった時に、たまたまそこを通りかかった時、中でお話をしてるのが耳に入ってるのを聞くとですね、ああもうちょっと許すのを待って、はっきりしてから許せば良かったって言う様な事を、師資でそう言ってる方が居られた様な話も聞いてます。後になって、失敗したなと思うんですよね。

まあこの位出来たからこの辺で良いにしてやろうかなんて言って許した事がですね、後でやっぱりとんでもない事になってる、言う様な話し伺った事もある。あるんでしょうね、そう言う事。あら、自分を可愛がるとね、これだけ一層懸命やってるのに、あの人あんなにやってるのに、何であの人許さないんだろうって言う様な事が聞こえたり、そう言う目で見られると、こっちが弱いとなびくじゃない、ね、そう言う様な事が、こう言う処の文言の中に隠れてるんじゃないですか。

「微和尚はたゞゆるさざるのみなり。準和尚のゆるさざることは、微和尚よりもはなはだし。」その後に、もう一人の人に参禅してる、なんだっけ、この準、まあ後で見て下さい。「まみゆるごとには勘過するのみなり。」点検をして、本当に徹しているか、本当にそこに行き着いているかって言う事をこうやった時、及ばないって言うものが見えると、本当にこうやって何回でもさ許さなかった。

でもこれ人柄でしょうかね。同じ許さないにしても、この準和尚の方は、面白いね、「ねたまず、」あの人にそうやって言われるんなら仕方がないかなぁって言うだけの力があるのかね。徳だけじゃなくて力があるんだろうと思う。「而今」今ですね。「およびこしかたのねたむともがら、いくばくの懡なりとかせん。」それを本当に許さなかった人を立派な人だと思うのと、なんで許さなかったんだろうって思う人が居る訳だけども、何で許さなかったって方の人柄を見ると懡欏と言うんでしょうね。

自分ではっきりしていないのに、はっきりしたって言って、持って行って許して欲しいって言う事を考えた時に、恥ずかしい限りだと言う事でしょう。

で、こう言うものが人に備わってるから、自分で本当に徹したか徹しないかって事を、人に尋ねなくても分かる様になってるからいいじゃんねぇ。修行するのに。自分の中で本当に疑いが全部取れると言う事があるから、取れない限りは、どうしてもどんな風に自分をなだめてみても、納得の行かないものが僅かでもこう残るじゃない。それが本当の決着をつけさせる道にですね、誤りを犯さない、そう言うもの誰にでもある。

だけども疎かに生きると、自分でそれをないがしろに、この位でいいやって言う風にしてしまう。それは後々何かあった時に、自分でも寂しいし、辛いし、恥ずかしいし、情けない事が必ず起きる。まあ、それは本当に忘れないで欲しいのね。そう言う純真にものを追求する、人の為ににやるって言う事も勿論あるんだけども、自分がはっきりしなければ、人の為にそのはっきりした事を伝えたくたって無理だから。そう言う恥かきにならない様にしようと言う事ですね。

自証三昧 Ⅸ

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「後稍経載、湛堂示疾(後稍載を経て、湛堂疾を示す)。」一緒に修行生活をしておられたけれども、湛堂禅師がその後に身体の不調をとなえられた。そこで学んでる宗杲さんとしてはですね、こんな事を聞いています。「『和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事(和尚百年の後、宗杲阿誰に依附してか、以て此の大事を了ずべき)』」。まあ百年て言うことはあなたが死んじゃった後はって言う事でいいでしょうか。あなたがなくなった後は、私の今この問題になる事をだれに勉強したら解決がつくのか。本当は自分が解決するまで生きてて欲しいって言う事でしょうけど、ねぇ。中々それを許さない。そう言う事があるでしょう。

そこで湛堂さんがその人に、「嘱曰」って事は授けたのでしょうね。こう言う事を言って。「湛堂嘱曰『有箇勤巴子、我亦不識他。然雖、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出来参禅也。(湛堂嘱して曰く、『箇の勤巴子といふもの有り、我もまた他を識らず。然りと雖も、你若し他を見ば、必ず能く此事を成就せん。你若し他を見んよりは、了に更に他遊すべからず。後世参禅を出来せん)』」

エー園悟克勤という人、勤と書いてありますがゴンと読んでる、今は。園悟禅師と言う方がおられる。勤巴子と言うのは園悟克勤という方です。少し禅書に堪能な方は碧巌録と言うものをご存知かも知れません。碧巌録はこの園悟禅師の手によって出来ています。禅宗の三大著書として、無門関、碧巌録、従容録と言う大体この三つが禅宗では珍重されています。

まあそう言う経緯もありますが、兎に角湛堂さんはこの園悟禅師に会った事はない。面識もないんだけども、何かを見て何かに触れてこの人はすごいと言う事知ってるというんですね、やっぱり。この人以外にあなたが私が亡くなった後、ついて学ぶ人は居ない。他所に行ったら駄目だとまで言っておられる訳です。有難いですよね。探さずに済む。あっちゃこっちゃ色んな所探さずに。この眼のちゃんとした湛堂さんがお墨付きの人だ。この人ならば間違いない。あなたの今問題になってる事を解決する指導を必ずしてくれるから其処に行きなさいと言っておられる。

今私達はものを学ぶ時、じゃ何処へ誰についたら良いかって尋ねる時に、誰が何処へ行ったら良いって示してくれる様な人、どれだけいますか。これだけネットや色んな物がこう盛んで、世界中が開けっぴろげられて、情報が行き来してる中でですよ。それだのに何処へ行ったら、私ら弟子が出きたりなんかした時に、修行何処へ行ったらいいですかって。

修行寺は幾つかありますよ、曹洞宗でも30近く。だけど何処の寺に修行に行ったら良いかって言われた時に、即答できる所がない。道場はある、人も居る。だけどもって言う様な事は。それは別に仏道だけじゃないじゃないですか。色んなものを本当に学ぼうとする時に。そう言う事がどこにでも見受けられるんじゃないですか。まあそう言う時にこう言う事があると有難いね。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開発を擬すといへども、ついに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず。」だから幾ら頼まれても嗣書を授ける事が無かった。湛堂と言う人は立派な人だと言うんですね。あの手この手を使って嗣書をくれって言って誘惑するんだけども、一切そう言う誘惑に組せずにですね、清廉潔白。仏道の本来の在り様をですね、貫き通した。

これだけやられるとですね、可哀相だからまあやるかって言う様な事になるのよ。段位が上がって来るのでも見てごらん、何段とかって。十段位あると六段以上だと大概もう名誉職ですからね。ドンドン上がって来ますね、積むの。ねぇ。実力は五、六段が一番有るのでしょう。教授よりも準教授の方が実力があるでしょう、大学でも。悪いけど。

「『なんぢいまだしきことあり』と勧励する」まだ駄目だって言って励ました。勧める。「微和尚の観機あきらかなること、信仰すべし。」これは最初の微和尚の話ですね。「『正是宗杲疑処』を究参せず。」ああやって途中で自分の欠点、一番大事な処に欠落してる処をこう気づかされたにも拘らず、また何時の間にかその事は放っといて、所謂博学の人の様なものの学び方に流れてしまう。「脱落せず、打破せず、大疑せず、被疑礙なし。」それ位人間て、この本物を自分で触れて自覚するって言う事はないがしろにされやすいんだね。

さっきの話を持ち出せばですね、録音して来た鳥の声を聞いて、本物だと思ってられる位の事ではにですか。録音したの聞かしといて、山行って鳥の声聞くと、あ、録音と同じだって言う人が居る。エー。どっちが本物だ。あ、録音と同じ様に鳴いてるって。全く捉え方が違うよね。それ位基準になるものがですね、そのバーチャルの方が本物だと思ってるのよ。だからこうやって宗杲禅師もですね、自分の欠点があるにも拘らず、いつの間にかそれを問題にしなくなっちゃうんですねぇ。

大勢の人にちやほやされてですね、自分のそこの至らない処なんかやらなくたって一生済んじゃうもう。肩書きがあって、良い地位にいて、皆から大切にされてちやほやされれば、百年位すぐすぎちゃうよ。そう言うもんでしょう。

「そのかみみだりに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。」まあ滅茶苦茶ひどいねぇ、道元禅師。人をこき下ろす段になると、この位もうコケにする。立ち上がれない位言われちゃった。この位言われると、もうすごいね。こうやって奮起させるんですよね。本物を求めなさい。これ昔の様に書いてあるけど、今此処で、私達は自分の事としてこれを学んで行かなければ意味がない。はっきりしないにも拘わらず、ただその証となる嗣書って言うものを欲しがるって、これは、って言ってるのですね。

「無遠慮なりといふべし、」まだ続くね。エー「道機ならずといふべし、疎学のいたりなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。」こうこんなに、まあ滅茶苦茶ひどいねぇ。どれを取り上げても。エー、道元禅師がいかに清廉潔白な人だったかって言う人柄が、こう言う文章を読むとわかる。

かって自分の弟子が鎌倉の北条の所に行って話をした時にうまい話があって、お寺になんか寄進をすると言う様な話を頂いて帰って来たのでしょう。だけどその方は得々として帰って来て、道元禅師に報告をしたら、その人の修行してる、自分の坐ってる単と言われる、この白雲閣でも高い所へ坐ってますね、あの坐ってる一画を切り取って、そして下の何尺か土を掘って全部捨てたって。それ位道元禅師って言う方は、そう言う事に関しては清廉潔白に人だったって言う。これは逸話じゃなくて実話として残ってる。

普通の人だったら、よくやった、永平寺もこれで助かるって言って、喜んでそれを受け入れるんだろうけど、そう言う仏道に関しては、道元禅師って言う方は微塵も世俗のそう言う温情を入れない人だった。ねぇ。そう言うのがこう言う先輩から学んでるのでしょうね。

「貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、仏祖の語句をしらざることを。」自証三昧、自証自悟と言う句があるけども、真意はそんな自分勝手な物を知るって言う内容を言ってるんじゃないって言う事ですね。

「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟ときかず、学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。」さっき来ずーっと話してきてますけども、何回も繰り返しますけども、本当に自分自身の様子にこうやって触れてみると、朝から晩まで、ただ、この自分の頂いている自分自身の身心の活動以外にない。それはもう決定的なんでしょう。誰でも。

色んな物見るんだって、この自分の身心を借りて見た物だけですよ。色んなものを聞くって言ったってこの身心を借りて聞くだけですよ。全てこの身心を借りて、今、そのものに触れて事が成り立ってるだけですよ、一日中。一切他の人の活動は無い。何回も申し上げますけど。分かった様な、分からない様な話でしょう。

だって私は是だけだと思うから、どうしても是だけが私だと思う。こっちに居る人は私じゃない、外に居る、向こうの人だって。じゃそう言う思う事は誰がやるのですか。そう言う風に位置づけてるのは、誰がそう言う風に位置づけるんですか。誰か他の人が、是が私で、これは余所の人だって、そんな事誰も他の人がやってませんよ。みんなこのものの中でやってる事ですよ。あの人は良い人だ、この人も良い人だ、あいつはって、そうやってるのも、みんなこのものの中でやってる事ですよ。

それ位丁寧に触れてみると、本当にこう言う事が、稽古はこれ自証なりと言う事じゃないですか。古をうやまう、稽古。お稽古をするって言うのは、自分の生まれてから後につけた癖を、一切無くなるまで物事に親しむって言う事が稽古でしょう。茶道にしても華道にしても弓道、剣道、あらゆるものがそう。万代、よろずですよ。エー渉る、それから猟をするんですけどね。それを何だろう、眼を通して獲得するって言う事ですかね。

だってこんな難しい文章だけども、平たくこうやって言えばですよ、皆さんが知ってる物って、全部自分で見たものだけですよ。エーそうでしょう。自分で見たものだけでしょう。ああ言う物がある、こう言う物があるって知ってるのは。自分の目で見ない物は、ああ言う物がある、こう言うものがあるって無理でしょう。そう言う事ですよ。万代、よろず。

自悟ですから、自分ではっきりしてるでしょう。人に聞く用がないでしょ。こうやって物に触れた時に、どうなってるって。見りゃちゃんとその通りになってるんだもん。その通りになってるから、人に聞いてどうかしなければはっきりしないなんて事、一切無いでしょう。の、筈なんですよ。筈なんだけども何故か人に尋ねて聞くと、やっと分かった様な気になる。

停電で真っ暗になると、面白いなって思う。あの真っ暗の中でもですね、食べ物を鼻に持って行く人は居ない。ちゃんと口に持って行って食べてる。何も見えないって言うんだけど、面白いね。自分の様子って言うのは、あんなに真っ暗になると本当によく分かる、一切他の人の様子が無いって言う事が。明るいと何か他の人の様子がある様に見えるんですよ。真っ暗になると本当に自分の様子ばかりですよ。で自分の様子って言うのは、真っ暗な中で、ものすごいはっきりする。見えないんじゃないんのね。真っ暗で見えないんじゃない。真っ暗だともの凄くはっきりする。不思議だね。

「学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、」本当に学ばないから、そう言う風にはっきりしないだけじゃないって、言ってるんでしょう。かくのごとく誤り、自ら取り違える事がある。かくのごとくなるによりて、そう言う事だから、エー宗杲禅師の門下には「一個半個の真巴鼻あらず、」ひどい事になってきた。この大慧宗杲さんも流れを汲む者の中には、本物は育たなかったと言う事になると、こう言う風に位置づけておられる。

最初が駄目なら次も駄目って言う事に何故なるのかって言ったら、駄目な人が許すって言う事は駄目でしょう。はっきりしない人が、人をはっきりしたって許すって言う事は変でしょうって言う事でしょう。許された人も何で許されたか分らないまま、許されたって言って受け継いで、次の人に受け継がなきゃいけないからって、なんだかよく分らないけど良しって言って次の人に渡して行く様な事になったら、本当に何がなんだか分らなくなるって言う様な事が、道元禅師の時代に既にこうやって道元禅師が実感しておられるのね。

「おほくこれ仮底なり。」ケチって面白いね。こう言うカナがふってある。「仮底なり。」真実でない事ってなってますから、ケチってそう言う違った字を使うといいかも知れない。あの人ケチだねって、真実でないっていいかも知れない。

「仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくのごとくなり。只今の雲水」今の修行してる人達、「かならず審細の参学すべし。」自分自身の事だから、宗杲さんの様な過ごし方をして良しとしてはならない、と言うんですね。自分自身の事だから、はっきりしてるかしてないか位はよく分るでしょう。何がはっきりしてるのか、何がはっきりしてないのかも、自分でよく分る訳でしょう。「疎慢なることなかれ。」愚かに、そして高慢て言うか、自分勝手であってはならない。

まだ続くね。「宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、」先ほど話しが有った様に、自分が亡くなった後はどうしたら良いかって言う事に関して、湛堂さんが示した通りにですね、って言う事ですね。「参圜悟禅師於京師之天寧。」エー其処に圜悟禅師がおられるので、圜悟禅師に参禅をされた。「圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。」これは宗杲禅師が自分で気づいた処が有って、自信をもって圜悟禅師の処に行って、こんな様子です、こんな事がありました、こんな風になりましたって言う様な事を申し上げたんでしょうね。

それを聞いて、圜悟禅師が「『未也、』」届かない。未だそれでは駄目だ。「『子雖如是、而大法故未明。』」色々あったり、そうやって言うけれども、未だはっきりしてないねって言われちゃった。

ここで一つ皆さん方と問題提起ですが、人に駄目だと言われて退くのか、人に良しと言われて納得するのか。或いは人に良しと言われ様が駄目だと言われ様が、狂わない程確かなものが自分にあるのか、言う事が問われるんじゃないですかね、一つは。そう言う力があるから、本当は圜悟禅師の処に赴いて、自分の内面を露呈して、そしてお互いに腹を割って話し合う。そうすると、成る程という様な事が伝わるのでしょう。そこまで腹を割って全部さらけ出してやらない事にか隠し事が少しでもあったら駄目でしょう。

「又一日圜悟上堂、挙五祖法演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。」自分の心境を歌に綴って示された。「圜悟笑曰、『我不欺汝耶』」欺かざらんやって言う事は、本当にやれたかどうかって言う事をはっきりしているって言う事でしょう。はっきりしていれば私は許すけれども、はっきりしてなかったら許せないと言う事でしょうね。

こう言う出会いがあって、湛堂和尚さんに紹介をされた圜悟禅師にお会いになって、やっぱりこの圜悟禅師って、湛堂師匠が後あそこに行きなさいって示されただけの人物だって事を実感したのでしょうね。騙せなかった、圜悟禅師を。宗杲さんの色々な技能を以ってしても。それでここにある様に、「これ宗杲禅師、のちに圜悟禅師に参ずる因縁なり。」離れられなくなった。

「圜悟の会にして書記に充す。」共産国に行けば書記長ってすごい位置ですが、私達の書記って言うのは記録係と言っていいのでしょうかね。記録は大事ですから、後代の人の為に記録をちゃんと残さないといけない、重要な仕事なんですね。間違った記録をすると次の時にえらい事になるから、間違わずに正確に記録を残して行く。

「しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。」道元禅師がこの宗杲さんの事をこうやってつついみると、圜悟禅師に出合った後もですね、あれ以後それらしくはっきりしたって言う様な事が何処にもこの見あたらないとおっしゃってる。
「みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。」今度は圜悟禅師の所を去って、自分で一軒を構えて人のために法を説く様になった時もですね、自分の今迄の中でこう言う事があってはっきりしましたって言う様な事に一つも触れた事がないと言っているのですね。

「しるべし、記録者は」圜悟禅師の歴史的な文章を残した、記録をした人達は「『神悟』せるといひ、『得大安楽法』と記せりといへども、」そう言う風な事が書いてあるけども、「させることなきなり。おもくおもふことなかれ。」書いてあるけども、実際にはそこまで行ってないって、道元禅師は大慧宗杲さんを評価しております。評価じゃない批評しております。批判しております。

何故こう言う事が、こんなに正法眼蔵の中で残されたかって言う事を考える時にですね、自分の後を本当に学んでちゃんとして頂く為には、ここがはっきりした人に継いで貰わないと駄目だと言う事が、道元禅師にあるからでしょう。程々の人って言うのは一杯いるんじゃない、学問をして。

ちょっと余談をしますが、私の幣師は小学校出たか出ないか位の学問しか無い様な人で、私が小さい頃、親ですから父親ですから、膝の中でよく人の話をしてるのを聞いてたんだけど、うちの父ちゃんは何でこんな父ちゃんの所へ人が来るのかなって思う。それ位学問の非常に優れた人達が多かった。僕はあんまりそう好きでもなかったけど、そのうちに段々東大、京大、九州大、北大、国立の大学出てる様な双そうたる人達が私の師匠の所へ参禅に来る。何を学ぶんだ。エー。小さいながらもおもいますよ。

で私の師匠の寺は檀家が二十軒かそれ位しかない様な、破れた様な小さな寺で、当時はこの位の建物しかない、寺が。こんな中に五人の子供が居て、一般のお寺さんから修行に来てる人が十人位はいたと思う。そう言う人達がこんな狭い所で暮らしてるんですよ。もう立派なお寺を捨てて修行に来る。吃驚。

中には臨済の方なんかは余所の師匠さんの所で、要するに印可といわれて、免許証がきちっと出されてる。そう言う人が参禅に来る。もう終わったんじゃないの、修行がって、ね。完全に終わってる筈。そのために出してる訳だから。そう言う人が修行に来るって何だろうって。そう言う中で小さい頃育った。それは不思議な縁ですね。そう言う所に産み落として貰って、知らない内にそう言う中で育った。今思うと、それは有難い事ですね。

「おもくおもふことなかれ。たヾ参学の生なり。」こんなに言われちゃうとかわいそうだね。これは道元禅師のお言葉だから、皆さんが自分が道元禅師になった様に、こんな風に使わないで下さいよ。ねぇ。道元禅師はこれだけの事が言えるだけの力がある。人の褌で相撲を取っては駄目、ね。

道元禅師がそう言ってるから、臨済はつまらないって、曹洞宗だから臨済はつまらないって言ったら、笑われる。そうじゃない。本当に言いたい事は、ちゃんとした眼を開きなさいって言って勧めてくれてるって言う事だけが、私達に必要な事でしょう。このとおり行ったら、今の臨済宗は全部、そう言う感じじゃないですか。あんな所に行って学ぶなって言う風に受け取れちゃうじゃないですか。そんな事になったら、本当に何だろう、大変なご迷惑をかけるから、それは今の人がどれだけ臨済の真意を復興してる人が居るかって言う事にかかるじゃないね。曹洞宗も同じでしょう。エー思うことなかれと言われる言葉の中には、そう言う受け取り方をして頂く必要があろうかと思います。

エーまあその辺で。時間ですから。

自証三昧 Ⅷ

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自証三昧Ⅷ 01
自証三昧Ⅷ 02
自証三昧Ⅷ 03
自証三昧Ⅷ 04
自証三昧Ⅷ 05

まあ暫くそう言う時をすごして。あちらこちら歩いてる時、「遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、」そう言う方の所に足を留めて、雲門と言う方の残されたものや雪竇と言う方が残された物を紐解いて学んだ。それが「参学のはじめなり。」と。本当に自分自身の事を相手に学び始めたと言う事ですね。「雲門の風を会せずして、」しかしその雲門禅師が残された物を通して、自分がどうあったら、どうあるべきかって言う様な事をこうやって勉強するんだけども、どうもその言われてる所がしっくりいかない。

それで今度は洞山の微和尚と言う人の所にこうやって足を留めて、そこで又学ぶ。どの位の年月か書いてございませんが、そこで学んでいる間に、色々な気づきがあるでしょうから、それを呈示して自分の気づいた事を和尚の所に持っていって話しをするんだけども、いやーそれじゃ未だ未だ、それじゃ駄目だって、中々許してくれなかった。

でついでにその微和尚さんと言う人の人物を紹介するために、芙蓉道階禅師という方の教えを正しく受け継いだ方だと、道元禅師が取り上げて、そこら辺にゴロゴロ居る様な程度の人じゃないというんですね。肩を並べる様な人じゃない。飛びぬけて素晴らしい人だと言う事を一言付け加えてあります。まあそれだけの立派な人の所だから、暫くこうやって居るのでしょう。

「杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず。」毎日一緒に生活をしているんだけども、微和尚さんと言う人の様子にこうやって触れているんだけども、何処に本物の様子があるんだろう、自分の学びたいそう言うものが自分でこう見て取れない。「模著することあたはず。」どうしてそういう風になるかって言うと、一番の原因はですね、色んなことを学んでいるもんだから、どうしても今こうやって生活してる事の他に、仏法あるいは禅と言うものがあるって言う風に多分認識してる、

ここに来られる方だって、そう言う方は多分何人かは居るんじゃないですか。或いは当初そう言う風に思っていた人、沢山居ると思うんです。何故かそう言う風に伝わってるんですね。仏教を学ぶ、禅を学ぶって言うと自分自身の今生活してる事の中にその全てがあるって言う風には思っていない。気づいていない。

だから他所に何かそう言う素晴らしいものがあるんじゃないかって言って、そこに微和尚さんが一緒に生活してると、その人の中から何かそう言うものがあるんじゃないかって、こうやって見てるから、結局は自分の事に目を向けなんですね。これ最悪のパターン。何年居ても自分自身に目を向けない。人の様子ばっかり見てる。エーそうじゃないですよね。必ず自分自身の、この身心、身体の様子、心の活動の様子そのものにこうやって触れると、ものがどうなってるかがよく分かる。もう少し申し上げると、他人の事として見ている自分の様子に用があるのです。それが、「人の振りにて我が振り直す。」と言う事です。

そこにこう書いてるでしょ。「いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。」下にも注釈があると思うんだけども、「六塵の中に仏祖の眼睛があること」六塵の中って言う事は眼耳鼻舌身意って言う六官、人間の備えている六官の働きの中にって言う事です。それ以外の所に、仏祖の眼睛、お悟りを開かれた人達、自分自身の本質を自覚された人達の様子ってのはあるのではない。皆自分自身の中にそう言うものを発見されてる。自覚されてる。そう言う事を知らないと言う事ですね。ちゃんと此処に書いてありますが。

「あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、」私達の教えの中には師匠さんから弟子に正しく法が受け継がれたって言う証のために、嗣書と言うものを受け継いで行きます。お香を焚いてそう言う嗣書を受け継いで、それが教えをちゃんと受け継いだ証明書になるもんだからそう言う話が伝わってるのを聞いて、私にもその嗣書を頂けないだろうかって言って、おねだりに、この大慧の宗杲禅師が微和尚さん所に来るわけですね。

だけども「しかあれども微和尚ゆるざず。」「つにいはく、」それだからどうしたって言う事になるのですかね。その時に微和尚さんがこう言う事を言ってる。「なんぢ嗣書を要せば、」嗣書が本当に欲しいんだったら、いい加減な生活をするな。いい加減に生活をするな。「倉卒なることなかれ、」ですね。「直須功夫勤学すべし。」今すぐに此処でしっかりと功夫勉強して修行しなさい。そうすれば授けると言う事ですね。

「仏祖受授不妄付授也。「(仏祖の受授は妄りに付授せず。)いい加減な事で証明書は出さないよ。大学の入試の問題もありましたけども、経歴詐称と言うな事はあってはならない。仏道においてもそうでしょう。

「吾不惜付授、(吾付授を惜しむにあらず、)」決してあなたに嗣書を授けると言う事を固辞してる訳じゃない。残念な事に、あなたがちゃんとそう言うはっきりした眼を備えてないから、上げたくても上げられないと言っているのですね。温情にほだされてあげることをしたら、大切なものを皆根こそぎ崩して崩壊してしまう様な事になる。取り返しの付かないことになるから、私にはそれは出来ないというのが、微和尚さんの真意でしょう。

ときに宗杲いはく、「本具正眼自証自悟(本具の正眼は自証自悟なり)、」元々備わって正しいものの見方って言うものは自ら証し自ら悟る、人からどうこうされる様なものじゃないじゃないかって言う様な屁理屈を言っておられるのね。「豈有不妄付授也(豈に妄りに付授せざることあらんや)」だからいい加減なみだりにくれって言ってる訳じゃないですよ、って言う様な事を微和尚さんに言った時に、微和尚さんは「微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ)」って言う。

この笑い、笑みはどういう笑みを含んでいるかって言うと、やっぱりそうかその程度しか分かってない、しょうがないなぁって言って、失笑ですね。思わず笑いを漏らすんでしょうね。まだ続くんですね。この大慧宗杲さんの様子がずーっと長くこのあと続いていきますが。

「のち湛堂準和尚に参ず。」ここを諦めたののでしょうね。機縁がかなわなくて、しょうがないから他所に又歩みを進めて、この湛堂さんの所に参禅をされた。

「湛堂一日問宗杲云、『汝鼻孔因什麼、今日無半辺』。(湛堂一日、宗杲に問うて云く、『汝が鼻孔什麼に因ってか、今日半辺無き』。」こんな質問をされるんですね。いつもちゃんとした顔に鼻が付いてるんだけど、今日は半分しかないけどどうしたんだって。何を云われてるか、もう本当に皆さんだってこんな事言われたら、何だろうと思うんじゃないですか。ものが分らないとこう言う質問されると言葉に騙されてですね、自分の様子をすっかり見失うのじゃないですか。

ものがはっきりしてたら、色んな質問されたって、自分の様子を見失うって事はないでしょう。そう言うもんでしょう。言葉について行くから。人間てそう言う所が非常に強いじゃないですか。綺麗だねって言えば喜ぶ。汚いねっと言うとプッと、顔が人相が変わるじゃないですか。それぐらい言葉によって。自分の素晴らしさを本当に知ってる人は、そんな言葉に左右されずにこのまま居れるでしょう。どうでしょう。

「杲云、『宝峰門下』」これ山の名前ですかね。宝峰山。何であなたの門下だからです、と言う様な事を言うのですかね。あなたの門下だから鼻が半分だ。で「湛堂云、『杜撰禅和』」とせんとかありますが、ずさんと読むと今の人にはわかるでしょう。物事が杜撰だとかって言って使われているのね。ものが良く分ってないなぁって言ってる。

更に又何日かたったのでしょうかね。「杲、看経次、湛堂問、『看什麼経』」。何を読んでるの?何を見てるの?といったんです。見りゃわかるでしょと言う様な、そう言う返事はないね。そう言う乱暴な返事はないけど、「杲曰、『金剛経』」。金剛経ですって。おお金剛経を読んでるのかって言う事で、「湛堂云、『是法平等無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低』」。金剛経の中にこう言う事が書いてあるのですね。この法は平等にして、高いとか低いとか言う事が無いのだったら、何としてか雲居山は高く宝峰山は低いのかって。金剛経の中に、全てのものは平等にして上下がない優劣がないって言う事が書いてあるんだけど、どうしてあっちの山は高くて、こっちの山は低いのかって、こう言って問われた。

皆さんはどうですか。全てのものが平等で平らにこうなってるんだよってちゃんと念を押しといてですよ、どうしてあっちの敷居はたかくこっちの敷居は低いのかって言うんでしょう。そうすると前に経に書いてある事を言われてる事がですね、頭にこびりつくもんだから、そこから高いとか低いとかって言う事が言われるとですね、困るね。お経に書いてある事と違う事になるじゃないですか。高い低いが無いのが仏法の様子だって書いてあるのに。どうしてあっちが高くてこっちが低いって。確かに高い低いはある。同じだとは言えない。困るんだろうね、それ答えるのに。

エー、で、宗杲さんが「是法は平等、無有高下」そう答えておられますけども。それに対して湛堂さんが言うのに、「你作、得箇座主」文字に書いてある講釈はできるけれども、やっぱり駄目だなぁ。確かに文字に書いてある事は、「是法は平等、無有高下」って書いてあるから、そう言う事を言ったでしょう。それは尋ねてる事に関して言えば、ものがよくわかってないと言う事でしょう。ただ文字に書いてある事を其の儘意味として取ってるだけ。その位の力しかない。

「使下(はせしむ)」と有ります。そこから離れて行く、下って行く、下がって行く。下がりなさい、あちらへ行きなさいって言う事ですね。まだ続くんですよ。この湛堂さんと言う人が、いかに大慧の宗杲さんと言う人を育て上げようとしているかって言う事、それから大慧の宗杲さんもくらいついてる様子があるんだけども、ことごとくかなわない。

「又一日、湛堂見於粧十王処。問宗杲上座曰『此官人、姓什麼、』」十王堂ってこの辺にもあるのかしら。私らの所にも十王堂がある所がありますが、十人の官人がこう並んでる、そう言う建物がありますが、まぁ立派な人を其処に置くのでしょうね。置いて拝んでるって言う様な事なのでしょう。

その方々の装いを粧う所を見てって言うんだから、お掃除でもしておられたんじゃないですかね。其処に湛堂さんが通りかかって宗杲さんに訪ねた。此の人たちの姓はなんていうんですか。「杲曰『姓梁』」。梁って言う姓ですよって言っております。

「湛堂以手自摸頭曰」頭をこうやって(なでる仕草)やったって言う事ですかね。湛堂さんが自分の頭を手でこうやってそして『争奈姓梁底少箇幞頭』。私も梁と言う姓なんだけどもって言うんですね。自分の頭にはこうやって手で触ってみるとですね、そこに十王堂に祭ってあるやつには皆帽子が被せてある。だけど私の頭にどうして被り物が無いのかって言ってるのですね。同じ梁と言う姓なのにって。面白いね、こう言う質問をするのね。

で、これに対して宗杲さんが、『雖無幞頭、鼻孔髣髴』。頭に帽子は無いけども、鬚はフサフサしてるじゃないかって言う様な事言っております。そんな事は聞いておらんと言ってるのでしょう、湛堂さんは。皆さんがこう言うやりとりを聞いて、禅問答は木に竹を接ぐが如し言う風になるんです。何をいってるか問われているものと答えるものが全く違う脈絡に成っているから。読んでも分からんて言うでしょ。こう言うの禅問答って大概皆さんそう言ってます。

どうしてそんな風に相手の言ってる事に答えることでギャップが起きるのかね。それは相手の尋ねてる真意が分からんからじゃんね。だからちゃんとした答えが出来ないって言うだけの事じゃん。経論の学生として勉強してきてるもんだから、本当にやっぱり言葉にもう翻弄されるね。

向こうは帽子を被ってる、こっちは何でかぶってないかって言うと、その何故かぶってないかって、この何故って言う字はですね、見事に皆さん方の心を引っかき回すんですね。たちまち分からなくなる、何故って言われると。どうしてだって言われると。理屈を考えるんでしょう。理屈を考える前に、このとおり、こっちは無いだけじゃん。あっちはあるだけじゃんない。

何であの花は白いんだ、何でこの花は赤いんだって見えるんだって、理屈を考えるから難しくなるじゃないですか。その理屈が分からないと答えにならないと思うから、一生懸命考えるわけでしょう。どうして、何故かって言われると。これがあの見事な問いの発し方ですね。

で子供と話てるとよく分かる。これ、何回も使いますけど、子供達は大人に対して、何故どうして何故どうして何故どうして何故どうしてって言うと、必ず大人は手を上げて万歳ですね。答えられない。自分が生まれてから後学んだ事だけは答えられる。それを全部喋り終わるともうその先は無い。ね。

子供はその先を知りたいじゃない。本当にどうなってるかって。だって大人が答えてる様な事は、コン!(机を扇で打つ)こうやった時に、何故こう言う風に聞こえるのって、大人に子供が質問する時に、こう言う風にコン!聞こえる事はわかってるんですよ、子供は。

ところが大人はコン!こうやって子供がですね、何故こうやってやると、コン!こう言う風にきこえるのって、子供が大人に訪ねた時、分からないと思ってるじゃないですか。だからこれを説明して、コツンて言うからコツンと聞こえるんだと、色々一生懸命説明するんだけど、そんな事は子供だって百も承知。そんな事を聞いてるんじゃないですね。それで大人が参るじゃないですか。だから子供と遊ぶといい修行になる、力がどれだけ自分にあるか、よく分かる。

結局は自分は人から聞いて鵜呑みにしてる様なものだけを弄んでるだけだと言うだけじゃない。本当に自分で自覚した内容がないと言う事じゃない。人から貰ったものじゃなくて、自分で本当に確信を得てるものが無い。それが無かったらやっぱり力があるとは言わないじゃない。ねぇ。そう言うな所をこうやって見透かされるんでしょう。

「湛堂一日問宗杲云、『杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説。請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否』」。大体の様子はですね、湛堂さんが宗杲さんに言われるのに、私の教えてる事はですね、たちどころにあなたは理解をしている。その内容をもう少し詳しく言えば、話をさせようとすれば、ちゃんと話が出来る。参禅をさせようと思えば禅について教える、指導する事も出来る。あるいは古人が残した頌古とか拈古とか言う様な物、文章の内容もですね、作る事ができれば内容を解説する力も十分にある。

「小参普説。」直接面とむかって質疑をやることですね。あるいは請益、老師の前に行って自分の心境を吐露して、吐き出して、それを語るという様な事、まあ全てですね、何をやらしても卒がなく出来る位力があると言って、褒めたかどうかは分かりませんが、一応湛堂さんは宗杲さんに対してそう言う評価をしてます。厄介な奴ですね。本当に。一を言えば、私が一を言えば十を語る位の力を持ってると言っていいでしょう、教える事はないといって良い位厄介な人です。

だけども、だけどこの湛堂さんがですね、何でこんな何回も何回も色んな回答を載せているけども、許さなかったって言う事があるかって言うと、「『祗是你有一件事未在、』」それだけあなたは何でもこなして出来るけれども、残念な事にこの事に関してコン!だけはコン!お前よく分かってないなって言われたのね。ねぇ。

そしたらその宗杲さんがですね、『甚麼事未在』何が何事か未在なる。一体何が私の中で不足なのか。何処が、この一件の事って言うんだけど、この一件の事、この一件の事って何だって言ってるんですね。だってお前こうやって訪ねた時に、そんな事も分らんのかって云われる訳でしょう。そこまで追求された時に、自分でやっぱり自分の中にはっきりしないものあるって気づいてたじゃない。

もっとひどい事を言えば、どんなにものを理解出来てですね、きちっと清算できて、人に説明が出来る位はっきり喋れてもですね、本当に大丈夫かって言われると自分の中で動くものがある。大問題じゃないですか。もっと平易な事を言えば、あなた本当にその事実を自分で触れた事があるのか。頭の中でこう言う事はこう言う事だ、こうなってるああなってるって考えて答えが出てるだけであって、本当にそのもの自体にこうやって自分が直接にお目にかかったりする事があるかって言うことじゃない。

見て来なかったって見て来た様な事は言えるんだよね。食べなくたって食べた様な事は言える訳でしょう。今の世の中なんかもっとそれがリアルに出来る訳でしょう。仮想と言われる、バーチャルと言われる世界が横行してる訳だから。実物に触れなくたって、実物以上の知識を人に与える訳でしょう。

録音取ってきて鳥の鳴き声だって聞かせる訳だもん。じゃそれ本物の鳥の声を聞いた事かって言ったら、いやそれはって。録音聞いたって事でしょう。エー。じゃやっぱり自分の中で、コンコンコンコン!(続けて机を打つ)本当にその鳥の声を聞いたってコンコンコンコン!言う事になってないと言う事、知ってるじゃんね。そう言う事ですよね。エーこの一件の事って。コンコン!これが無ければはっきりしないのでしょう、本当は。

「湛堂曰、『你祗欠這一解在。㘞』」いいですね、今申し上げた様な事です。㘞ってコン!㘞って、このカチって言う字なんですね。こんな字があるんですね。国構えの中にカという字。『若你不得這一解、』得なかったならば、この所がはっきりしなかったならば、『我方丈与你説、便有禅、』喋って居る時だけ、あるいは頭の中でそう言うものを取り上げている時だけ、わずかに禅に触れる。そうでない時はもう全くただの人。

坐禅もそうですよ。坐ってる時だ修行ができてる様なものの考え方の人は居るじゃないですか。禅て二十四時間ですよ。必ず今の真実にこうやってそのまま触れている(真実そのまま)あるって言う風な生き方をさせるのが禅を修すと言う事であって、必ずしも形を作って其処に居る時だけが禅じゃない。そう言う人はあの形を作って居る時だけ禅の修行するけど、あれを止めるとただの人と言う事ですよ。これ意味として。

『你纔出方丈、便無了也。』と読んでますね。そうでしょ。ここで話をしてる間はそう言う事が問われて問題になってるけど、もう語る事を止めたらほんとに只の人じゃないか。『惺々思量時、便有禅、』惺々ははっきりしてるんですね。目覚めている時。それを取り扱ってる時だけは、その事にこうやって触れるけど、頭でそう言うもの取り扱ってない時には全く門外漢。

私も学生の頃、ある教授に質問したら、それは今は授業中じゃあないからって言われました。その人に。エーこの人は授業の時だけ仏教を教えたり禅を説くのかなぁって思った。ある大学の教授です。こんな風に勉強してるんですね、多くの人。立派だなぁって思うんだけども、その事から離れたら、全然問題にしてない。吃驚。現代でもそう言う事がある。

『纔睡著、便無了也。』眠ってしまえばただの人。『若如此、如何敵得生死』本当に自分自身の一大事が来た時に、そんな事で対応ができるかと言っておられますね。「杲曰、『正是宗杲疑処』」お話を承れば、本当に私の一番問題になってる処、其処ですって、白状した。

自証三昧 Ⅶ

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2018.10.27  

393頁始からと言う事で、自証三昧、少し読んでから始めます。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。

しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、『師に伝授すべからず、自学すべし』。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自称するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

大宋国紹興のなかに、径山の大慧禅師宗杲といふあり、もとはこれ経論の学生なり。遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、雲門の拈古、雪竇の頌古拈古を学す。参学のはじめなり。雲門の風を会せずして、つひに洞山の微和尚に参学すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚の法子なり。いたづらなる席末人に斉肩すべからず。

杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるざず。つにいはく、『なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤学すべし。仏祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是你未具眼在(仏祖の受授は妄りに付授せず。吾付授を惜しむにあらず、ただ是你未だ眼具せざることあり。)』

ときに宗杲いはく、『本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也(本具の正眼は自証自悟なり、豈に妄りに付授せざることあらんや』。
微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ』。


まあ続きますが。エー例えばですね、「自分の事は自分でしなさい、」とまあ、よく耳にする言葉だと思いますが、自分の事は自分でしなさいって言うとですね、ここに如何いう事が一般的に言われるかって言うと、最初に自分の事は、って言った時に、もう既に自分の事と他人の事を分けているって言う事に気づくべきですね。

こうやって生活してますけど、何処までが自分の事ですか、今こうやって。此処に他人が一杯居るんですよ、此処にね。こっちから見ると、他人が一杯居る。この他人が私の今生活している内容です。全部。皆さんもそうでしょ。人のものだと思ってる事を、皆自分の身体の中身として使ってる訳でしょう。

この円通寺さん、今此処に来てると、この円通寺さんを自分の身体の様に使ってる訳でしょ。頭の中では、余所のお寺さんだと言う風に認識はしてるけども、実際にはだれも一人一人が、自分の今居場所として、ちゃんと使ってる。

そう言う事が現実にあるんだけども、自分の事はって言うと、例えば私の家なんかでも、自分の事はって言うと、ご飯食べるとですね、食べた人がですね、自分の茶碗だけ持ってくんです。自分の事は自分でするって。そう言う処にまあ、もののもう少し真意を知って頂きたいと言う事がある。まあそんな様な事が最初に出てくるのでしょう。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。」本当に大きな様子と言うものはですね、初めっから自他の隔てがない、ものでしょう。とっつきにくいかも知れませんけれども。

あの人がああやってるって、こうやっていると言ってる事は、皆このものがやってますからね。向こうの人の様に思ってる訳でしょう。「他己を体達する」って、自分の身体の事は自分でよく分かるんだけど、人が動いてる身体の様子をこうやって見て、それがああ言う風に歩くんだとか、ねぇ、あんな風に喋るんだとか言う様な事、身体で皆その事が達観できるって言うことは、このものの様子でしょうねぇ。仏道って言うものは、そう言う風に自他の隔ての無い大きな在り方ですね、最初から。

それも特殊な事じゃないですよ。自他の隔てが無いって事は特殊な事じゃない。よく自分にこうやって目を向けて見ると、二十四時間、兎に角この生まれてきた身心、身体の様子、自分自身の身体の様子の活動以外無いって言う事が、明確ですからね。でも騙されている人は沢山いる。どうしても騙される。頭(考え)って言うのは、そういう風に理解する様になってるのでしょうね。

「たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。」初心て言うのも良い言葉でしょう。でも初心て言うのは、これも良く触れてみるとわかる様に、何処が初心なのかって言うと、何時でも今の様子が初心でしょうねぇ。今の在り様って言うのは、初めて何時も触れるんですねぇ。生涯そうです。生涯初めて触れる。今の様子に触れる。そう言う風にずーっと生活してる。

ところが似た様な事が何回も行われるもんですから、初心だとは思えないんですね。思えない。それは勉強する時に、考え方を中心にしてものを学ぶって言うのが一般ですから。仏道はですね、考え方を中心にして学ぶ行ではない。実物を相手にして、どうなってるかって事が問われる。

で、生きている実物って言うのは、他の時間帯に無いですからね。自分の生きている実物は、必ず今此処で、自分自身の実物にふれる以外にない。それは見て見ると必ず初心なんですよ。初心て言うのは、色々な事がもっと言われる。こうやって触れてみると、例えば、汚れが付いてないと言う様な事も言えるのでしょう。

一番最初に触れる時に、その相手のものに対して、こうだとかああだとかって言う推測の及ぶ範囲じゃない。それ位一切汚れが付いてない所で活動する様に、初心て言うのは出来ている。その初心がですね、何処へ行くのかわからないけども、コロッと何処にも残らない様にして活動してるね、何時も。これ又見事でしょう。

目一つでもそう。こうやって物を見る、巡らしてこうやって見てる時に、本当に前に見た見方なんて一切ない。必ず今見えてる様子だけです、何時でも。古い見方なんて一切してない。それがどの位人を身心共に爽かにさせるか、一点の穢れも無いんだもんね。払う塵もない。それ位スカッ-として、何時でも今の様子にこうやってはっきりすっきりしている。

ところが頭の方でものを勉強し始めると、あの時ああだったとかこの時ああだったとかって言う思いが、プクプク、プクプク出てきて、それを頭の中に描いたものを相手にして、今見てるものが殆どないがしろになる。ひどい事を言えば、実物より頭の中に思い浮かんだ方が大切な事の様に考えてる。

そしてその頭の中に思い浮かんだ事を、どうしたら自分の気に入る様に整理が出来てすっきりするだろうかって言う、そう言う事をやる事が学問であり、修行であり、仏道だと思ってる人も居る。それは本当に気をつけて勉強してもらいたい。頭の中に浮かんだ事をですね、取り上げて整理する様なものでは仏道はない。

何故かって言うと、今申し上げた様に、実物に触れてみると、整理をする用が無い様に出来てる。で、自分で成る程って肯がえる様に成ってるでしょ。自分の今の事実にこう触れて見ると。整理をしなくても良いって事じゃないですか。

だけどもそれでも思いが浮かんでくるから、浮かんでくるとつい思いの方を相手にする。これは修行にならない。修行をするって事は自分自身の今の真相、事実に本当に親しく居るって言う事です。それを難しい言葉で言うと、非思量って言ってます。考え方でない。そう言うものが修行の在り方ですね。

「自初心の参学をめぐらして」だから自分自身の今の在り様にこうやって目を向けてみると、全ての物が「他初心の参学と同参すべし」今の様子の中には、自と他があるにしてもですよ、ズレは無いんですよね。今の様子の中に自分と他人て言うけれども。ズレが無い。距離が無い。あっちの今、こっちの今なんて言う風にはないじゃないですか、ね。今って言うものの中には本当にズレが無い。向こうと言おうがこっちと言おうがですね、今の様子の中には距離が無い。

頭はそうは思わない。あっちこっちって言うと距離が出来るよね、今の中に。それはそうでしょう。こっち見て、こっち(別の方角)見るんだから、距離が出来るに決まってるじゃん。だけど今って言うのは、こうやって居る様子の中の事を言うんだから、今の中にもあっちもあればこっちもある。自分もあれば他人もある。必ずそれがですね、同参と言われる様にですねぇ、ズレずに勉強が出来る様になっている。

もっとひどい事を言えば、一緒にならなければコン!音だって聞こえないんだからしょうがないじゃない。エー、コン!(机を扇で軽く打つ)物だって一緒にならなきゃ見えないんだもん、しょうがないじゃない。同参ですよね。向こうに物があってこっちって、こっちから眺めて見るなんて言う事はない。

それは物理学の表現を借りてもですね、必ず自分のこの身体に物が見えるって言う事は、光の波かな、そう言う物がこう身体に触れた時に、この自分の中で光の粒がですね、色んな形を作り上げていく訳でしょ。青い所とか白いとか黒い所とか、色んなものがこう出来ると映像になって行く。それが自分の眼の、何だろう、この辺(頭を指して)に何か写るらしい。そう言って学んだけど、そう言う風になってる。

音でもそう。周波数と言われる様に、音が耳に触れて鼓膜がこう振動することによって、初めて音になると言う様な事で、言われている通りです。必ずこの身体と物が一緒にならないと見えたり聞こえたり味がしたり香りがしたりですね、触った様子が分るとか、総てそう。必ず同参なのね。腹が立つのも同参なんだ。(笑)まあそう言う所がこう面白いじゃん。

「初心より自他ともに同参しもてゆくに、」と、初めから自他ともに同参しもて行く。今とズレた生活をした事がないと言ったら、もう分りやすいでしょう。これだけ長い人生を送って来たけども、片時も今の在り様から離れた事はない。何時何処へ行っても、必ず今の自分の様子から離れた事はない。そう言う風に誰も生活してるじゃないですか。

こんなにはっきりしてる事がありながら、頭の中に色んな事が思い浮かぶとですね、全然違う生活になるんですね。この大事な、こんなちゃんとした生活が出来てる事をすっぽかしてですよ、思い浮かんだ事を相手にする。カリカリ、カリカリするじゃないですか。誰も気が付かないから当たり前だと思ってるけども、とんでもない事をしてるよね。間違った。所謂頭の中に描いてる妄想です。

確かに体感した、体験した事かもしれないけども、思い起こしてるって言う事は実物ではないって事を十分知ってる。思い起こした事の中に、その体感した事実がそこに現われるって言う事は一切無い。ああだったこうだったって言うだけの話じゃないですか。

もっとひどい事を言えば、なんで過ぎ去った事を取り上げて、今こうやって生活してる事をほっといて、過ぎ去った事を取り上げて行くのか、実を捨てて滓(カス)を掴んで生きてるって言う事でしょう。それで皆さん方が豊かになれない。それだけの事じゃないですか。本物を捨てといて、頭の中に描いてる本物、本物だと思って扱ってたら、大きな間違いでしょう。その位の事は気づいて頂かないとしょうがないね。

「究竟同参に得到するなり。」ここにも書いてある。行き着く処ですよ。究竟同参に得到する。行き着く処は、今、本当に誰しもが、今のこうやってる様子に生きてるって言う事じゃないですか。その在り様に自分が目覚めたらいいじゃないですか。どうなってるかはっきりしたら。その第一人者が釈迦牟尼仏と言われる、お釈迦様と言われる方です。その内容が仏教と言う風にして伝わって来ている訳ですね。その自覚をされた内容が。それで私達もそれを実践する訳でしょう。

「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」手あたり次第、いちいちその事によって、ものが本当にどうあるかって言う事を学んで行くのでしょう。それで良いじゃないですか。捨てるものは無い、学ぶものに。

私の方も台風の余波で広範囲で停電をしてですね、私の住んでる寺も三日停電になった。山の上からこう見てると、電気のついている家が一軒も無いもんだから、非常に空が綺麗に見える。久しぶりにこんなに、真の暗闇の中にいたの、久しぶりですね。何とも言えない不思議な感じ。

で、隣のお寺の和尚さんが、「電話はかかってくるでしょ」って言われたけど、「電気が止まってるから、電話かかりませんよ」って言ったら、エーって言って不思議な顔してた。今の人は電気が止まっても電話はかかると思ってるのかね。携帯使ってるからかね。よくわかりませんが吃驚しました。

後は車で走ってると、信号機がすべて停電で止まっておりますので、役にたっていない。はじめはやっぱり事故が何件かありましたけども、自分で実際に走ってみて、信号機が電気で止まると、良いもんだなって思ったのがですね、必ずお互いに信号機の所で減速して確認しあって、安全ならば進んでですね、全く相手が来ない場合はスイスイと行けるんです。待たなくて済むのね。普段だって一分位、全然来ないのに信号が変わるの待ってるでしょう。こう言う事考えると、随分素晴らしいなぁって思いました。

一方ですよ、子供達が信号機の所でですね、動かない。動けない。どうしていいか分らない。そう言う風に育ってるって言う事も感じました。自分の判断で行動が出来ない様になっている。皆コントロールされて生きてる様になってるのね。これも発見でしたね。こう言うのも皆現代風に言えば、「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」と言う事になるのでしょう。ね。色んな事でものがはっきりして来ます。

「しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは」ってありますね。これがさっき話した、最初に話した様に、自分の事は自分でしなさいって言うと、本当に是だけの事しか自分の事だと思わない位、人間は粗野に出来てます。麁人とありますけども、考えの粗雑な人となってますけど、大まかなものの捉え方しかしてない。だから人はどうでもいいって言う風になる。本当に自分の事がよく分ると、人のことなんか無い。そう言うものでしょう。

だって見える物は全部自分の、此処にも色んな物が見えるって言う事は、全部自分で今やってる事だからね。他の人がやって見てる訳じゃない。必ず自分が見てる様子。その自分の見てる様子の中に、色んな景色がある、現象があると、それに従ってちゃんとこれが行動が出来る様になってる。どうでもいいって言う風な事はないじゃないですか。

考え方は自分の頭の中で考えると、あれは私の事じゃないからって、どうでもいいって言う風に、そう言う風に捉える訳でしょう。眼は違いますよ。自分の眼は全部今自分自身で見てる様子だから、それに対して責任があります。これ。人からどうかされるんじゃなくて、そう言う風に活動できる様になってるじゃん、ねぇ。

まあそう言う事だけども、「『師に伝授すべからず、自学すべし』。」ものがよく分らない人はそう言う風に思うわけね。師匠から何かものを学ぶって無い。自証自悟じゃない。自証自悟だったら、自分で学んで人からなんか学ぶ用がない。そう言う風に考えるんでしょうね。それ位自他の見をちゃんと分けている。物を考えてる、自分と他人を分けてる、考えてるものの見方の上から、こう言う自証自悟と言う言葉を学ぶから、とんでもない事になる。

自分を立てといた上からものを見るのと、自分を立てずにものに触れるのとでは、全然同じものに触れても違う。それは日常皆さんもよーく体験してるじゃないですか。自分らしいものが一つも立たたずに色んな物に触れた時は、ものすごくスムーズに色んな大きな活動もするでしょう。ところが自分を立てた上からものに触れると、すぐ好き嫌いが先ず起きる。或いは人のものに対して善し悪しが起きる。そう言う風な事が起きて、でそれが起きると自分の中で動きが非常に狭くなる。鈍くなる。もっとひどいのは全く取り上げなくなる。ね。取り上げなくなった自分を見ると、人ため何もやってあげられない愚かな自分だってのがよく分ると思います。

「これはおほきなるあやまりなり。」と道元禅師おっしゃってますね。そう言う風にものを受け取るって言う事は、本当根本的な誤りだ。「自解の思量分別を邪計して」自分自身の考え方を中心にしてものを見るからそう言う誤った、間違った、ものの見方が起きるんだって言う事ですね。

エーそれで、「師承なきは、」師匠から、だから受け継ぐって言う様な事が、自証自悟だから要らないって言う様な事ですかね。そう言うものの考え方、受け取り方をしてる人はインドの天然外道なり。ものを本当に学んだ事のない、道から外れた、正しいものの在り方から外れた扱いをしてる人達と同じだと言うのね。「これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。」こう言う事がはっきりしないんだったら、仏道を本当に行じている、学んでいる人とは言えない。

「いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。」何だろう、小乗の人って言うのはですね、自分と言うものを最初に認めた上で、どうあったら良いかって事を勉強していく。だから小乗と言われるんですね。所謂平たく言えば、自分だけ良ければいいって言う位なひどいものの考え方になってる。だから小さな乗り物になるでしょう。大乗って言うのは大きな乗り物、それは全てのものを包含して行く。包んで行く。そう言う違いがある。

だから小乗の人の、ものを、自分を整えるって言うのは、自分の事だけやるのね。だからその辺が汚れていても、自分の屋敷だと思うとこだけ掃除して、そこらに物が転がってても見て見ぬふりして行く様な、そう言うものを積聚って言いますが、ものを修行をして積み上げていく、この身体の上に。そう言う所を見ると大きさが違うでしょう。

お医者さんなんか、どの様な人が来ても、兎に角患者として来たら、差別無く区別せずに次から次へ身体の動く限りは身を尽くしていく。聖職って言われるのは、そう言う事でしょうね。敬われるのは当たり前でしょう。お医者さんなんかね。そう言う意味で。あれが、自分の都合で来た人を診て。この人はって、後にしようとか色々それは嫌でしょう。中にそう言う事もニュースの中で出てくるじゃないですか。地位のある人が先だとかお金を沢山で出す人が先だとか言う様になると、本当に何か寂しいなと思う気もする。

「大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の自児孫と自称するおほし。」どう言う事が大乗、どう言う事が小乗と言う事がはっきりしない、今申し上げた様に、自分自身を中心にものを考えるのは小乗です。

眼は自分自身のものの見方って言うのは一切持ってない。そこに在ればどんな物でも必ず好き嫌いを超えて、必ずこうやってちゃんと受け入れていく力が、だから大乗です。耳もそうでしょう。自分の好き嫌いで音を聞くことはない。それはどんな音でも、その時音がする物を否応なしに受け入れて生活してる。それが本来の人在り様ですよ。そう言う事を仏道と言うものは示している。

「しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。」ものがはっきりしている人は、そんな色々な事に騙されませんよって。それはどうでしょう。自分自身の事がはっきりしていれば、騙されなくなるでしょう。そう言う人に皆さんもなってほしい。

ちょっと誰かが自分に対して悪口を言ったら、カアーっとなる様じゃそれは本当に寂しいですよ。耳に聞いてごらん。自分の悪口をいくら私にこう、どんな人が沢山悪口を降りかけてきても、このものはね、一切汚れませんよ。汚れるのはつまらない事言ってる人の口が汚れるだけであって、こっちが汚れるんじゃない。耳が汚れる訳でもない。ただ、ものを知らないとそれに騙されて、何で私の事をこんなひどく言うんだろうって言って、その言ってる人を相手に喧嘩を売る様になる。

だけども、ものをよく見てみると、本当に、音声と言うものは良くできてるね。喋ってる時にしか聞こえないんだからいいね。(笑)エー喋らない時には一切聞こえないんだから、こんな上手く出来てるんですよ。それだのに一度聞いちゃうとですね、喋ってない時にそれが出てきて、何か自分の中がくしゃくしゃくしゃくしゃしてるって言う人が居るじゃない。聞いてごらん。何処にもそんな喋ってるものは聞こえてませんよ。あれ喋ってる時だけ聞こえるんだって、ね。上手く出来てるでしょう。

本当にそうやって生活してごらんなさい。楽だから。何処にも手をつける用がないじゃないですか。喋ってる時はその通り聞こえて、喋り終わると何にも聞こえない。静かなもんですよ。それで何にも不自由ないですよ。何も不自由はないですよ。喋ってないとき聞こえると不自由ですよ。まあそう言うのね。

実際の人物が登場してくるわけですね。大宋国、中国宋の時代の方です。径山と言う所に大慧宗杲禅師と言う人がおられた。この人の生い立ちがちょっと書いてある。もとはこれ経論の学生、経論を学んでた人。経論を学ぶって言う事は、文字に書いてある物を読んでですね、それがどういう意味だとかって言う事を追求していくんですね。

何でその経論の学生って言う風に言うかって言うと、この自分自身をちょっとないがしろにしてるんですね。書いてある事を勉強するんです。本当は経論に書いてある事を勉強するって言う事は、この事(自分を示す)勉強する事でなければ、嘘なんだけども、ここに書いてる事を、ああこう書いてあるああいう事を書いてあるって言って、それを読み取って意味がわかれば良いって言うのが経論の学生なのね、経論を勉強する人。

本当に経論を勉強するようになれば、必ずそんな事から離れて、この自分自身を観る様になる。そうでなけりゃ経論の意味がないじゃないですか。