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大修行 あとがき・内容紹介

正法眼蔵・大修行の巻きは 2018年2月から4月にかけて岡山県倉敷市玉島円通寺講話会で提唱されました。この巻きでは「百丈野狐」の故事が取り上げられています。

井上貫道老師が提唱の中で述べられています様に、道元禅師は百丈野狐話は達磨大師以後初めて聞かれる様になったと指摘され、近来の禅僧達とは異って、疑義を呈されています。貫道老師は、「道元禅師の様な指摘をした人は居ない」と述べられ、道元禅師の言葉を読み解かれ、その真意を明らかにして、本当の修行の在り方を示されます。この話は「各自自分自身のことですよ。」と、私達自身の在り方に学ぶ事を、一貫して説かれています。

この百丈野狐話の概要は、百丈禅師が百丈山に住職される以前にある老人がいて、過去に「不落因果」と答えた為に狐の身体に堕ち五百生過ごしたが、百丈禅師が「不昧因果」と答えたら元の人間に戻って救われた。更にその話の直後、裏山に狐の死骸があって、亡僧の事例に倣いこの狐の葬儀をした、と言うものです。弟子の黄檗禅師がこの話を聞いて疑を呈し、百丈禅師を掌で打つと言うとのやり取りもあります。

道元禅師は、以下の様に疑義を呈されています。

因果の道理から言って、「不落因果」で狐になり、「不昧因果」で人間に戻ることがあるか。
間違って答えたら狐になり、正しく答えてたら、人間にもどる事があるか。
救われる、悟る状況とはどう言う事か。
また従来の禅僧達の言い分「撥無因果」「競頭道」あるいは理会の仕方について、詳しく検証しておられます。
狐を亡僧の事例によって葬儀をすることについても疑問を呈されています。

井上貫道老師は、これら道元禅師の疑義を解明されるご文章を解読されて行かれます。

一部抜粋しますと、
道元禅師の「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、」「『不落因果』もしあやまりならば、『不昧因果』もあやまりなるべし。」
「私達がものを悟るって言う時にですね、その文言を読んでその意味合いが解って悟るって言う事じゃないですよ。それは理解したって言うだけですよ。ああ因果に落ちないんだ、ああ因果を昧まさないんだって言う風に理解しただけであって、悟るって言う事はそう言う事によってじゃないですよね。」
「同じ言葉だけども、良いとか悪いとか、その言葉が正しいとか間違ってるとか、一概にそんな評価の出来るものじゃないよね。因果って言うものは。」

「老人道の『後五百生堕野狐身』は、作麼生是堕野狐身(作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身)。」って言う話ですね。不落因果って言う答えをしたために自分が五百年ずーっと狐の身体になったと言う話なんですけど、それを道元禅師は、本当に人間がですよ、人間が何か尋ねてですね、間違った事を言ったら狐になったのを見たかって言ってるんだ。そんなに成ることないじゃんね。絶対になる事ないよね。」

「百丈禅師が野狐に堕すって如何いう事かって言う事を、此処で皆さんに問われ「かならず野狐身に堕すべからず。」誤って、不落因果って言うものを聞いた時に、自分の理解が誤ったとしてもですね、誤ったから狐に身体が変わるというものではない。しかし、この百丈野狐の話って言うものを、近来の禅僧達が説いてる疑いもせずに。こう言うものに対して、道元禅師の様な指摘をした人は殆んど聞いた事がない。」

老人の脱野狐身について、
「もし傍観の一転語すれば傍観脱野狐身すといはば、従来のあひだ、山河大地いく一転語となく、おほくの一転語しきりなるべし。」傍らに居る人がですね、声を掛けて、もしそれによって何かが起こるんだったら、手当たり次第そう言う風に変化してるのじゃないか、って言う様な言い方をされているのでしょう。

「しかあれども従来いまだ脱野孤身せず。」本当に一転語によって変わるって言うのは、言葉、言葉を発したから変わるんじゃなくて、その言葉によって、自分の従来の見解、そう言うものが本当に落ちてしまう。ただその響いてる様子だけにこうやって居るって言う体験をするから変わるのですね。」

「いまの百丈の一転語に脱野孤身す。」たまたま百丈禅師が不昧因果と言われた事によって、何故かコロッと従来のものが取れてしまった。そう言う処にこの方が触れたのでしょう。「これ疑殺古先なり。」いにしえの人のこの先輩達のね、言ってる事疑うと言う事が一切無くなる。ああ本当に自分が、自分の見解が取れるって言うとこんな風になるんだって言う事が、自分でもはっきりするじゃないですか。」

「山河大地いまだ一転語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。」山や河や大地に私達が触れてもですね、従来の自分の考え方からすっかり離れる、そう言う時節があるでしょう。生爪をはがした痛さによって悟った人がいる。竹薮に石が飛んでいって音がした。その音によって悟った人がいる、桃の花の咲き匂う中に佇んでいて、その桃の花が散っていくのに触れて悟る人がいる、本当に山河大地、ありとあらゆるものが私達を救ってくれる一転語として活動してるんでしょう。何でそうなるか理由も何も無いよね。理由は後から、自分で自分を納得させる為にするのですが、それらを一切かりずに、コロッと変わるんですね。

「不思議なものだね。悟るって。自分の本心にこうやって触れる。こちらからその様になろうと思って、努力してやったら絶対に行き着く世界ではない、と言う事が言える事でしょう。何もしない世界って言うのは、人が自分で何もしないようにしようと思って作れる世界じゃないでしょう、ね。言葉はよく知ってるけど。何もしないって言う世界はですね、人が作るんじゃないですよね。少しでも作り事が自分の中にあったら、何もしない様子には絶対触れる事が出来ない」

「『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。」
「不昧因果と言う事はですね、因果の道理がはっきりしている人だから、それだからそう言う狐の身体になった様なものから抜け出せるんだって言う風に理解してるって言うんでしょうね。これが二つ目の昔から、この大修行の話について伝えられて来ているものの理解の仕方です。道元禅師、これもおかしいよと言って、指摘してる訳ですね。ものの道理としてこう言う事を見とく必要があるんでしょう。
言葉を聞いて、その言葉の意味してるものが理解出来たから人が救われて行くって言う様な事ではない。その証拠に皆さん色んな日常の中だって、言葉を見たり読んだり聞いたりしてですね、その内容が、意味が分ったら楽になりますか。例えば、人は争わなければ穏やかに居れるって言う様な事を言われて、ああそうか、本当にそうだよなって言って、それが理解出来たら争わない様になるのかしら。実践(修行)の中に現成するのでしょう。理解の中に争いの無い世界が出現するのではありません。」

狐の葬儀の件について
「いま百丈の『依法火葬』すといふ、これあきらかならず。」文献には百丈がそうやって頼まれてですね、狐を火葬にふしたって、その火葬にふす時にお坊さんの事例に倣ってやったって言う様な事を書いてあるけど本当かな、どうかなって言ってるんですね。「これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、至菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。」お釈迦様の時代からずーっと見て来るにですね、そんないい加減な事は一つもやった事がないとおっしゃってる。だからそう言う事が書いてあるけども、これは間違いじゃないかって。

「たれか先百丈なることを証拠する。」それが昔の百丈禅師の亡骸だってって、何をもってそう言う事を言ってる。何処にそれをはっきりさせる証拠があるのか。ないじゃないかと言ってるんです。「いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を驕慢すべからず。」これが道元禅師のこの取り上げた文献に対する見解ですが、こういうものが幾つか今でもあるでしょう。誰か立派な人が言ったから、そのままそれを間違っていても踏襲して行く。それでは駄目です。」

以上のように、貫道老師は提唱されています。仏法を学ぶことは、人の見解を持ってしては、あるいは人為的なには到達できない世界であり、思量分別を放れる事が第一の修行の要点である事を、示されています。最後の百丈禅師と黄檗禅師のやりとりまで、従来の禅僧の論を超えた斬新な展開で、全編を通じて、真実の修行の在り方を学ぶ事ができる提唱だと思います。







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大修行 Ⅹ

音声はこちら ↓

大修行Ⅹ 01
大修行Ⅹ 02
大修行Ⅹ 03
大修行Ⅹ 04
大修行Ⅹ 05


「また黄檗『合作箇什麼』と問著せんとき、『模索得面皮也未(模索して面皮を得たりや未だしや』といふべし。」それがどの様になったかってあなたは聞くけども、私に聞くのはいいけども、聞くんだったら、あなたはその時に、目の前で実際にですね、ここに有る様に、面の皮ですね、狐でもどっちでも良いんですけど、面の皮、本当にその時の様子がどうなってるかって言う事をはっきり見届けているのか、言ってます。聞くのは良いよね。聞く力がある。聞くのは良いけども、あなた自身はどうかって。

「また你脱野狐身也未(你野狐身を脱せりや未だしや)」あなた自体がそういう風な狐の身体とかって言うものを解脱をした、所謂狐から人間に戻ったって言う様な言い方でしょう。そう言う様な事が本当にあるのか。或いは迷ってたものからはっきりした世界に、自分できちっと行ったと言う事があるのかどうかって、と言うべし、とあります。

問われたのにですね、問い返してますね。答える時に、問われた時に問い返す力があるんですね。あなたそうやって人に色々な事言うけど、あなた自身はどうなんですかって、すごいですね。襟をただせと言う事でしょうか、問う方も問われる方も。上下の関係じゃないですね、この問答って。仏法で問答するって事は上下の関係じゃないですね。師匠が居て弟子が居て、上から下に、そう言う関係じゃない。対等なんですよ、問答する時に。その位の力がなくちゃ。法戦と言いますが、命をかけて正法を手に入れるんです。

ものを交渉する時だってそうじゃないですか。上下の関係でものの交渉したら、もう初めから勝負は決まってるじゃないですか。そうじゃない対等に喋れる力がないと駄目でしょう。対等に喋れる力があるって言う事は、本当に私もちゃんとしてますよと言う事がはっきりしてなきゃ無理だよね。 

「また『你答他学人、不落因果也未(你、他の学人に不落因果と答へしや未しや)』といふべし。」実際にあなたは色んな人が参禅に来た時に、実際に不落因果って色んな人に言ってみたのか。その時に不落因果って言った時に、狐になった人がいるのかって言いたいのでしょう。

不昧因果と言ったら救われたって言う。その不落因果と不昧因果と言う言葉があってですね、百丈山に居たこの方がですね、五百年前にある修行者が自分の所に訪ねて来た時に、因果に落ちるかどうかって言った時に、不落因果、因果には落ちないって答えたら、その答えた為に自分はですね、こんな哀れな狐の様な身体になってしまいましたって、言ってるのですね。

それで百丈禅師の所で毎日参禅をして、何時までたってもお話が終わっても一人だけ其処に残って居る人が居るもんだから、お前さん誰だ、イヤー私は実は五百年前にこう言う事があって、修行者に因果に落ちるかどうかって尋ねられた時に、不落因果って言って、因果に落ちないって答えたら、こんな身体になっちゃったので、どうかあなた私に一言言って、これを元の様な身体に戻してほしいって言った時に、百丈禅師が不昧因果とおっしゃったら、それで元の身に戻ったと言う、まあ長い前段の話がこの会話の元になってる訳ですね。

だからそう言うものを踏まえた時に、ここで黄檗に敢えて道元禅師が、時代は随分違ってるんですけども、もし自分がその時代に居たら、黄檗禅師にこう言う風に対応するけどなって言ってる訳ですね。あなたはその時に、学人一人ずつそうやってやってみたのか。

所謂百人に聞いてみたって言う様なものあるじゃないですか、統計で。そうすると百人に聞いてみた時、皆狐になったならば、不落因果って言う言葉はまあ確かに人をそう言う風にさせる力があるんだなって言う事が分かるけども、あんたやった事ないんじゃないかって言いたいんでしょう。それだのに勝手にそうやって、古人がそう言う話をしてるのをそのまま持って来て、そんなもっともらしい話をしてるけど、大丈夫かって。

要するに言葉によって人が騙されるんじゃんないですよね。言葉によって人が悟るのじゃないですよね。そう言う事から離れるから悟るんですよね。人間の理解、思慮分別から離れるから、初めて真相に触れるんです。それが言葉であったり、音であったり、物であったり、香りであったり、味であったり、様々な事があるけど、その触れた時に言葉じゃなくて、真実そのものがそのままの自分で居れるから、初めて分別を離れた体験をすると、従来の見解らしいものが無い処まで死にきる。ここではその事さえも知る人が居ない。気づくと言う時は我にかえる。自我心がめばえると、この違いがはっきりする、分かる。

それまでは考え方、思慮分別で、ああそうか、こういう風になってる、ああなってるって、その程度の分かり方しかしないから届かないだけじゃないですか。実物に触れていても。人間がものを触れて探るって言う時は、こちらに条件があって、自分の知りたいって言うものだけをこうやってみて、分かったと思い込んでるんですよ。ねぇ。それ以外の事、尋ねないもんね。ものに触れたって。自分に力が無いんだもん。自分の中で思った事だけじゃん、尋ねるのは。

だけど、真実は自分の思ってる事以上に色んなものが、ちゃんとそこに在るでしょう。それは沢山の人とやってみるとよく分かる。あなたそんな事を思うのって、私そんな事一つも思った事はない、なるほどそう言う事もあるかって、思える位あるんですよ。そう言うものでしょう。道元禅師と言う方は、実に面白いなあとおもいますね。こう言うの読んでると。

「しかあれども、百丈道の」百丈が言われる『近前来、』汝に与えて言わんって言うんですかね。『与你道』。『近前来、』って言うのは、前へおいでって言う。「こっちへおいで、あんたに教えてあげるから」。質問があった時にね、「これ如何いう事でしょうか」って質問した時に、「まあそっちに居ないで、こっちへ来てごらん、教えてあげるから」って言う事でしょう。

「すでに合作箇這箇(合に這箇を作すべし)の道処あり。」這箇も恁麼も大体同じでいいでしょうかね。そう言う事をしてごらんと言うんですね。教えるのには矢張り近くへ来た方が良いよね。手を取る様にって言うじゃないですか。手を取って教えるとか。誰にも聞かせないけど、あなただけに言ってあげるから、来てごらん。それは人って面白いですね。自分だけに向けられるって言うのは、ものすごく親密感があって、心に入って来るんですね。これですっかり虜になるんですね。

「『黄檗近前』す、亡前失語なり」前へ来てごらんて言われたら、思わず自分をすっかり忘れてしまって、すっすっすっと前へ出てきた。素直な正直な人ですね。いままでに問題にしてた事すっかり忘れて、相手が言われた通りすっと前へ出てきた。

「『与百丈一掌』する、」ってある。黄檗は百丈の前に、こっちへおいで、すっすっと行って何をしたかって言えば、いきなり百丈の頬っぺたをぴしゃーと叩いた。如何言うことかねえ。ねぇ。「そこばくの野狐変なり。」まあ野狐変よりも豹変でしょうかね。エー。「百丈、拍手笑云、」その黄檗の所作に対して、応対に対して、褒めておられるのでしょうね。手を打って笑って云く、パーン!(打掌す)中々のもんだなって言うのでしょう。

「将為胡鬚赤、更有赤鬚胡」胡の、胡人、エビスですね、胡ってのは民を虐げた、野蛮だと言う風に、ちょっとそう言う響きがあるんです。胡ってね。南蛮とかって言うのも蛮の字がついてるから野蛮と言う意味でしょう。それは漢人、漢の方の人からすると、そう言う見方が昔は中国に有った様ですね。

胡人は、胡は鬚が赤い、更に赤鬚の胡が有るって言う。同じ事を言ってるのでしょうけども、何だろう、こう言う表現ねぇ。胡の鬚は赤いって思っていたら、今度は赤鬚の胡がいたって言う事でしょうかね。これは黄檗と百丈の間柄を示す言葉に使われている訳ですよね。何だお前もって言う様な事ですね。わしだけがちゃんとしてるかと思ったら、お前もなかなかだなぁって、言う様な表現ですよね。そう言う許し方をしてる。皆さん方も似た様な表現は色んな処で使うでしょう。

初めましてって人間が出会った時に、向こうの人だけが私に対して初めましてって言うけども、初めましてってこっちから言ったって、初めてでしょうって言う事でしょう、ねぇ。片一方だけで初めましてって言う事ないじゃない。だから同等なんです。初めましてって言う時には。あなた従妹って言った時に、こっちも従妹だね。片一方だけじゃない。そう言う表現ですね。それもっと言えば、それ位親しいと言う事でしょう。

「この道取、」こう言う受け取り方ですね、「いまだ十成の志気にあらず、」完璧ではないと言うのでしょう。「いまだ十成の志気にあらず、わづかに八九成なり。」この完璧って言わないところが中々落ちですね。仕事なんかでも最後までちゃんとやらなかったもんですからって言う。会話の中に、そう言う会話が帰って来ますよ。ちゃんと最後までやらなかったもんですから。何処が仕事の最後なんだろうねぇ。そう言うのを言ってみると、十成にあらず八九成って言うの、よくわかるでしょう。

これで仕事最後までやったって言う様な事は、仕事には無いですよね。一応は自分の計画してるものが出来れば、自分では完璧にやれたと思ってるんだけども、その程度じゃんね。そうでしょう。八九成でしょう、やっぱり。「たとひ八九成をゆるすとも。いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九なきものなり。」まあこう言う風な表現してますけど、本当に生活の中で、そう言う様な会話が僅かな時に為される、人が何でそんな事で苦しむんだろうって、最後までやれなかったって。

じゃこうやって物を見る時に、何処迄見たら最後まで見たって言うのって、エー。掛け軸一つでも、何処まで見たら、最後まで見たって、何処で掛け軸がちゃんと見終わったって言う様な事があるの。何も無いですよね。切が無いじゃないですか。もうこれで良いって、そんな事ないです。だけど一応こうやったら、その通り見えるって言うので、これで終わりかなって言う様な気配があるけど、そんな事は無い。終わらないもんね。

人の話だってそうでしょ。最後まで聞けって言うけど、人の話最後まで聞いて、何処がその人の話最後だって、一日中聞いたって終わりゃしない。だけどその喋ってる時、喋ってる通り聞くって言うのを一応最後まで聞くと言うのでしょう。ねぇ。

「いまだ十成の志気にあらず、八九成なり。たとひ八九成をゆるすとも、いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九成なきものなり。」切りがないと言っているのでしょうね。だから面白いのでしょう。もうこれで終わりって言う人生になったら詰まらないでしょう。エー。一回聞いたからって、そう言う人いるじゃないですか。どうですかったら、イヤこの前聞いたから、もう良いですって。そう言うもんじゃないでしょう。この前食べたから、もう結構。そう言うもんじゃないでしょう。

だけど頭の中に、あああすこのものはこの前食べた時、あんな味がしたから私は要らない。美味しくないってそう思い込んでる。そうやって店の前を通り越して過ぎていく。詰まらないねぇ。こっちの身体の状況も違うし、向こうの作り手の状況も違うし、皆本当にその時に変わってる筈。それだから人が面白く生きられるんでしょう。話をしたり、色々して。そう言う楽しく生きる生き方を知らない。また、またって言う。また、また、またかって。

お釈迦様だって、こうやってやったら、「あ、またかって」言う様な見方をしてる様な、参禅者がいたら、それは修行、絶対無理だよ。出てきたお釈迦さん、またコンパラゲを、今日もコンパラゲを、あんな事やってる、そんな風にして触れてたら、絶対修行にはならない。ねぇ。そう言うもんじゃないですか。そう言う処を勉強してもらうと良いと思うね。

「しかあれどもいふべし、百丈道処通方、」「雖然未出野狐窟。黄檗脚跟点地、雖然猶滞螗螂径。与掌拍手、一有二無。赤鬚胡、胡鬚赤。(然りと雖も未だ野狐の窟を出でず。黄檗の脚跟点地せり、然りと雖もなほ螗螂の径に滞れり。与掌と拍手と、一は有二は無。赤鬚胡、胡鬚赤。)」

こんなのが最後みつけてある。百丈と黄檗の間の話のケリですが、「道処通方」お話をしてる、会話をしてる、問答をしてる。その処の様子って云うものはそう言う力があるなと。

「然りと雖も」道元禅師の見識でしょうね。「未だ野狐の窟を出でず。」じゃどうか、「黄檗の脚跟点地せり、」足元ですね、黄檗禅師の。どういう風になってるか。「然りと雖もなほ螗螂の径に滞れり。」「螗螂のよく徹を拒むこと、大道免径に遊ばず」と、何かあれは何だ、証道歌の中にあるかな。そう言う処の句を借りて来てるのでしょう。僅かにって、言う表現を道元禅師はしてますね。大道、大きな道は免径に遊ばず、螗螂のよく徹を拒むことを、言う様な事を言ってますが、カマキリの通る位の細い道、そう言う処に滞ってるって、道元禅師がおっしゃってるのでしょう。「螗螂の径に滞れり。」いかにもなんかつまらない事やってるなぁって、言う評価をしてる様だけども、そうでもないですね。

エー、ピシャーと叩く与掌ですね、と言う事と、百丈禅師がハァー、パン!パン!パン!(打掌)なんか手を叩く時に、例えば皆さんがスポーツなんか見てた時に何か良いプレーがおきた時なんかパンパンパンパンパンて皆がダーっと一緒に手を叩く様になったり、立ったりする、ウェーブが。こう言うの見ると良くわかるね。手を叩くって。詰まらない時に手叩かないじゃんね。

所謂絶賛をする様な中に、この拍手ってあるよね。あの大会なんかの後でもそう。或いはお話をしたり、演劇が終わった中でも、暫く経つと誰ともなく拍手がこう起こると、一気にバァーっと拍手が起こる様なああ言うな力があるじゃん。拍手って中々そう言う表現力です。ピシャーっと叩かれた。

一つは有二つは無。有無ですね。有る。一々そう言う事が、その時に有る様子ですね。並ばないんですよ、有と無は。同時に有と無が出て来る事はないのですよ。人間は有と無が同時にあると思うから、あの本当だろうか嘘だろうかって悩むじゃない。ね。腕を組んでウムって言うのは、この事ですね。有と無がですね、どっちだろうって。こう思う時には、ウムーって言うんだけど、実際には有と無は絶対に並ばないんですよ。一緒には出て来ない。

間違った時に、間違わないって言う事が一緒に出て来ることなんかないから、間違ったって言う。それだのに間違ったとか間違わないってとか言う言葉がこうやって取り上げられると考える様になる。考える前に良く見てごらん。この通りです。一は有二は無です、ね。有と言う時は有、無と言う時は無です。それ位はっきりしてると言う事です。

下もそうでしょ。「赤鬚胡、胡鬚赤」エー、同じ一つのものの表現でしょう。一つのものの表現だけど、胡の鬚は赤い、赤い胡の鬚、同時にそう言う事が起こる訳はない。だから人は苦しまない、悩まないのでしょう。皆さんが生活の中で苦しむ時には、同時に二つの事がある様に殆ど考えてるんですよ。だけど、実際見てごらん。

こうやって今生きてる事だって、もう一つの様子なんかないじゃないですか。パン!パン!!(扇で机を打つ)それが救いなんでしょう。不落因果とか不昧因果とか、因果の道理ってそう言う風になってますよ。だけど私達が学んできたものの学び方はそうじゃない。必ずものを並べて、並べないと真意が分らない様に勉強してきたじゃん。比べる事によって初めてものの真相が分るって言う風に、大体学んで来てる。パン!この音はこの音だけでちゃんと学べる様になってるじゃないですか。パン!この音を聞くのに、他の音持って来たら、本当に学べないのでしょう。パン!要らん事なんでしょう。そう言う事をよーくこう言う処で勉強して欲しいですね。大修行です。

大修行って言われるのは、絶対いつでも今そう言う処に生きてる。だから大修行です。欠けた事がない。そっから外れた事がないほど大きな修行。どっか行ってやるんじゃないです。今やってる事を止めて他の事をやるのじゃないです。そう言う修行じゃないです、仏道って。だってこれをパン!聞くのに、さっき聞いた事を止めてって言う風な事は要らない事じゃんね。

これを見るのに、先に見せた事を止めてこれを見るって事ないじゃん。これを見さえすりゃ良いじゃん。さっきの事用がないのでしょう、これを見るのに。さっきの事の方に頭を向けてたら、こうやってても見れないのでしょう。だけど頭の中をこうかち割ってみると、さっきの事の方に重点が行ってるでしょう。生活って殆どの人が。

今に生きてるんですよ。誰も今に生きて、今の様子にこうやって触れている筈なのに、これ位今の事から離れた生き方をしてる為に、自分の真相が分らない。それで悟りをひらくって言う事は、ただ今の真相に、パン!イキナリ触れるからはっきりするだけじゃない。そう言う時節があるじゃないですか。ものに本当に触れるって。あって気づくんだけど、どうして何が気づいたの、何を気づいたの、あって言うけど。どうなったのって、自分で何もしませんよ。気づいた時に。だけど気づくと変わるんですよ、人は。もうイキナリ。

不思議だね。眠ってた人が、あっ、て気づくとね、起きてるんですよ。どうもしないのに、もう起きてるんですよ。エー不思議ですね。探してるものが有って、気づいた時には既に手中にあるんです、イキナリ。気づくってすごい面白いですよ。何かどうしたじゃない。
そう言う大修行ですね。ちょっと時間過ぎましたけども。(終り)



大修行 Ⅸ

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大修行Ⅸ_02_01
大修行Ⅸ_02_02
大修行Ⅸ_02_03
大修行Ⅸ_02_04
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「黄檗便問、『古人錯対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇什麼(古人錯対の一転語、五百生野狐身に堕す。転々不錯ならば、箇の什麼にか作るべき。』」

黄檗希運という方がですね、この百丈野狐の話に関して、こう言う事を述べられたと言うんですね。昔の方が誤って不落因果と言う言葉をつけたために、野狐身に堕した。狐になったと言うんだけどもって言う前段の話があるのでしょう。それで五百年ずーっとそのまま狐になったままで来たんだけれども、もし最初からですね、そう言う誤りがなかったならば、この什麼にか作るべき、最初から誤りがなかったならば、如何いう風になってるんだろうって。

「いまこの問、これ仏祖道の現成なり。南嶽下の尊宿の中に黄檗のごとくなるは、さきにもいまだあらず、のちにもなし。」まあ実に素晴らしい処をついてるなあと言ってるのでしょう。事件が起きて、その事件を検察と刑事かな、両者が立ち合って裁判を進めて、判事が居て進められていくのでしょうが、お互いに色んな事象を取り上げて、真実が見極められて行く訳だけども、そう言うストーリーの中の一つみたいなもんですね、これ。

百丈禅師の百丈野狐の話にはそうなってるけども、あれ誤ったから、言葉が、返す言葉が間違ったから狐になったって言うんだけど、もし返す言葉が間違いなかったら、一体あの人はどう言う風にその後なってたんだろう。狐にならずにいたのか、言う様なことかな。こう言う事を聞いたのは、道元禅師の時代をみると、後にも先にも黄檗だけだとおしゃっておられる。

それはそれとして、「しかあれども、老人もいまだいはず、『錯対学人』と。」誤って学人に対すとは言っていない。間違ってそう言う事を言ったとは言ってない。「百丈もいまだいはず、『錯対せりける』と。」誤って対するとは言っていない。だのに、「なにとしてかいま黄檗みだりにいふ、」どうして黄檗禅師は、『古人錯対一転語、』と言うんだろう。

これは聞いた人が勝手に自分の受け取り方をしたのであって、ねぇ、自分の中で相手が言った言葉を、勝手に自分なりの受け取り方をしたのであって、言った人が問題がある訳じゃないですよね。皆さんが日常会話をして腹が立ったりするのだって、見て御覧なさい。

向こうの言ってる事が直接に皆さん方にどうこうじゃないですよ。それを聞いてから自分の中でですね、あいつ俺にこんな酷い事言って、そう言う風に思いはじめた処から問題になってるだけですよ。これ社会一般常識は通らないじゃないですか。今のは、一般常識ではそんな事言うと、和尚さん変な事いうなあって言います。

人間以外の動物がですね、自分がそこを通った時に、大きな声を出した時に、別に他の動物はその人にどうかしようと思ったんじゃなくて、たまたまその時そう言う大きな声が口の中から声が出ただけであって、人が居なくても出たかも知れない。(笑)ねぇ。それだのに、人はそこで俺に向かって吼えたとかって、そう言う風にとるのでしょう。そう言う事が人の上にあるんじゃないですか。

『古人錯対一転語、』ってのはそう言う事じゃないですかね。百丈も老人も誤ってとか言って、学人に対して誤って言ったと、そう言う事は言ってないって、ここに道元禅師が示しておられますが、それだのに何で黄檗禅師がそう言う事を言ってるかって言う真意はですよ、パン!こうやって叩いて、分らない事がないようにちゃんと皆さんに伝えてるんだけど、パン!仏法の真意はって言ってパン!何あの人やってるんだって、そう言う風になるでしょう。エー。私仏法の真意を聞いてるのに、あの人机を叩いたって。何やってるんだって。

トンチンカンだって思うのは、皆さんが勝手に思ったんでしょう。パン!そんなの自分の聞いてる答えじゃないと思うのでしょう。その位自分の中に、こう言う答えが返って来るだろうって、もうこっちで教える前にあるんじゃないんですか。その事の方が問題じゃないですか。どうですか。自分の中にちゃんと答え持ってるでしょう。予想している。希望している。

だからこうやった時に、パン!何でそんな事やるんだろうって。何にもなしで聞いてごらん。パン!こうやって。その通り答えになるよ。

頭の良い方達は、特にそうやって、もう質問した時に自分の中に、向こうから返ってくる、答えが返ってくる、自分の中にちゃーんと答えをもってる。何を確かめてるかったら、自分の中の答えが、向こうの言った事が、同じ様な答えを言ってくれるかどうかを楽しみにしてる。で同じ様な答えが返ってくると、あっ俺の思ってる事はこれで良いんだなって、それで納得する。そう言う勉強の仕方をしてる。それは全然話にならないよ。だったら最初から聞く用がない。まあそこら辺ちょっと置いといて。

「もし錯によれりといふならんといはば、」誤ってると言う事であるならば、「黄檗いまだ百丈の大意をえたるにあらず。」こう言う風に黄檗が『古人錯対一転語、』と言ってる、誤ってと言う様な事を言われてますけれども、そう言う風な一般的に考えている様な内容だったら、黄檗はですね、百丈の真意を本当に戴いてる、嗣法をした弟子ですからね、法を受け継いだ人だけど、何だ百丈禅師の真意がわかってないと、それじゃあと、って言わざるを得ないといってます。百丈禅師の真意を黄檗はちゃーんと理解してるのでしょう。それは今、色々取り上げた様な事です。

「仏祖道の錯対不錯対は黄檗いまだ参究せざるがごとし。」もしそうであるならば。誤るとか誤らないとかって言う、仏道で言ってる様子は本当にただその時に、今日は良し昨日も良し。昨日は是今日は不是。まあ色んな言い方がありますが。「これやってくれ」「ハイ」「ちょっと待ってくれ、それ止めれくれ」「エー今良いって言ったじゃないですか」言う様な事に引っ掛かる訳でしょうが。

本当に自分自身のこう在り様を見ると、どうしても先に何かやられた事が、今の動く時にですね、引っ掛かるんですね。だけども、皆さんの眼は先程見た物が、次見た時引っ掛かった事ありますか。ないですよね。皆さんの耳は先程聞いた事が、次の話を聞く時邪魔に成った事ないですよね。食べ物でもそう。先ほど食べた物が今食べる時に、先ほどの味が残ってて、邪魔になるって言う様な事がないんですよね。歩く時でもそう。先ほどまで坐ってたけども、立つ時に坐ってた事が一切問題無しに立って歩いていけるんですよね。そう言う風にうまく出来てるんだけども。

ひょっとすると人はすぐ掴まるね。今の本当の様子にこうやって居ないんだよ、それだけですよ、注意すべき点は。どうしてもどっかのものを持って来るんですよ。現実には無い事をすっと持ってくるんですよ。思いを想起して。そしてそれを今比べて、身動きが出来ない様になる。これ人間の特性みたいなもんでしょう。誰もが持ってる。気をつけないと。イラッとする様な事が起きる時には、必ず今だけの様子にいないよ。その時には変なものを必ず自分の中で、チラッと起こしてる。

仏道にはそう言う事がない。是と言う時は是、非と言う時は非、それだけです。さっき是と言って今何で非を言うんだって、そう言うな事はない。耳に聞いてみればよく分かる。エー。眼に学んでみればよく分かる。そんな事は一切しない。先ほどの生活をしてる事はこの身心、身体中を挙げて、何処にも無いのですね。だけどものがよく分からないと、やられるんですね。思い起こした事で、すぐ。そっちを大事にするからねぇ。思い起こしてる事の方を事実より。変だねぇ。世界が中々平和にならないのもそうじゃないですか。

過去の事を取り上げれば、人類はずーっと争いをして来た民族じゃないですか、何処の国も。エー。一軒の家だってそうでじゃないですか。自分自身の中だって、毎日葛藤してるのでしょう。そんな事を取り上げたらきりが無い。昔からずーっと部族が、種族が、人種が、国が、色んな事を分けて考えてる。お互いにぶち当たるに決まってますよ。何時までたったって。

だけども現実見て御覧なさい。これだけ色んな事が問われてるのに、何で日本にこんなに観光客が多いんですか。エーすごいですよね。その人達にインタビューしてみりゃよく分かる。昔こう言う事があったけどもって、でも今無いって皆認識してますよ。だからこうやって来るのでしょう。昔酷い事をした国だって、そう言う認識では来ない。ねぇ。何でそっちの方を大事にしないんだろうね。そっちを大事にしたら、もっと早く世界は平和になるのじゃないですかね。

「この一段の因縁に、先百丈も錯対といわず、今百丈も錯対といわずと参学すべきなり。」誤って如何こうって、間違って如何こうって言う事はですね、その事がその事として本当にあるだけなんだけど、受け取り方としては、受け取る方が勝手にその事実だけでない受け取り方をするって言う事が、この誤ると言う表現になるでしょう。事実はですね、誤るとか間違えるとか間違えないとかって言う事はないですよ、事実には。その通りの事があるだけです。だけども自分の立場から、条件を入れた立場から見ると、それはって言う風な見方が出て来るだけですよ。気に入るとか入らんとか。そう言う風に本来学ぶべきでしょう。

花だって綺麗とか汚いとかって言うものが一切着いていない、こうやって見ても。その通りに今咲いている様子がそのままあるだけだ。だけどそれを見る人が自分の中で基準を持っていると、その基準に合えば、綺麗な花だと言い、その基準に合わなければ汚いなと言う風に表現してる。そしてその表現が次の行動を著しく酷い事にさせるのでしょう。ものを本当に大事にする力が無くなってしまう。まあそこら辺で。

「しかありといへども、野狐皮五百枚、あつさ三寸なるをもて、曾住此山し、為学人道するなり。」てな事がありますが、五百枚、野狐の皮が五百枚というのは、一生二生三生っと言って、五百生って数え方をしてますから、一生に一枚ずつ皮を脱ぎ捨てて行くと、五百枚になるのでしょうね。そうすると、その厚さが三寸位と言う事なんでしょう。だけども皆さんが実際に、日々私達も昨日の様子から完全にこうやって抜け出して、今日の様子に変わっていくのだけども、不思議ですね、何処にも脱ぎ捨てた皮さえない。それが良いんじゃないですか。ねぇ。

「野狐皮に脱落の尖毛あるによりて、」とあります。野狐の皮は脱ぎ捨てた後の尖毛が、毛の穴がある。「今百丈の一枚の臭皮体あり。」人間の百丈禅師の様子を見るとですね、本当に何時でも今の様子だけですね。私達もそうでしょう。必ず、どんなに色んな生き方を今までして来たにしてもですね、不思議ですね、今こうやってる様子だけですよ。よく眺めて見て下さい、自分を、今ここで。

今こうやってる様子だけじゃないですか。ああもあった、こうもあったって、色々思う事は一杯あるけど、本当に自分自身の様子に触れてみいると、こうやっている様子そのものしかない。これで十分でしょう。もう一枚欲しいですか。或いはもう一人の自分が居たら良いですか。よく出すけど、もう一人の自分が居たら、大変ですよ。常に相談していかないと。なかなか厄介ですよ。物を見てる時にはそれで良いかとか、音が聞こえてる時、それ大丈夫とか、常に語りかけられると厄介でしょうがない。自分一人だからね、そのままで皆済む。探さずに済むって良いですねえ。歩いててもねぇ。連れが居ると気になってしょうがない。旅行行くとよくわかる。一人で居るってのは本当に大丈夫と、何処へ行っても大丈夫。

「度量するに、」それを測ってみると、面前の狐と自分がこう触れあっている様子がありますが、それを測ってみると、「半の野狐皮の脱来なり。転々不錯の堕脱あり、」エーそりゃここにある、測ってみると半分は野狐って言う風な言い方をしてるのはですね、お互いにこうやって向き合った時にですね、エーどう言う風になってるかって言うと、所詮はですね、向こうの人の中には入って行かないですね。

例えば物を見るにしても、狐の見てる見方もあれば、こっちの、百丈が見てる見方もあって、それがここで行われているんだけど、必ず百丈は百丈の見てる様子だけであって、狐の見てる様子には入って行かない。こう言うのを見ると半分だって言うのがよくわかりますね。測ってみると。

お互いに向こうとこっちのものが居るんだけども、向こうの事は絶対やらないですね。自分と自分以外のものの触れ合いなんだけども、必ず自分自身の様子だけで、向こう側の様子って言う風な事はない。向こう側の人の様子って事はない。これで半分という事でしょうね。半分ずつの真実を持ってるって下になってますけども、半分ずつの真実じゃなくて、人は必ず各自自分自身の様子だけなんです。不思議ですねぇ。

「転々不錯の堕脱あり、」そりゃそうでしょう。何時もこの様子があるじゃないですか。転んだと言い、躓いたと言い、傷したと言い、エー腹が痛いと言い、頭に来たと言い、エー何だろう、腹が立ったと言い、嘘を言ったと言う、間違った事をやったと言う、様子が色々言われてもですね、よーく見てみると、一々その通りの事がそこで行われているだけです。もう一つの在り方は決してありません。

嘘を言ってる時に真実と言うものがあるとしたら、嘘を言ってると言う事がその時の真実です。それだけで十分でしょう。それが本当にそう言う事だって分かる事によって、人はきちっと改める事が出来る様になってる。他のものを持って来なくても大丈夫です。間違ってる事が間違ってるって事がはっきりすれば、それで改められるのでしょう。間違ってる事をやってても、間違ってる事が間違ってるって自分で認識が出来ないから、改める事が出来ないだけじゃないですか。

悪いことをしてるって事が分かれば、これが悪いことだって分かればちゃんとするんだけど、自分の今やってる事が悪いことだって分からない限りは、どんなに人が教えたって無理なんですよ。反省ってそう言うものでしょう。反省をさせるとか言うのは。その事が本当にその事であるって事がはっきりするって言う事が大事なんでしょう。

そうすると頭も下げるのでしょう。そうでしたって、間違いなく其の通りですって、言うんでしょう。それが分からないから、頭も下げられないのでしょう。間違ってないって言うのでしょう。そんな無理ですよ、そんなの。それじゃ子供は育たない、健全な。大人がそんなのだったら、子供は育てられませんよ。子供に教えるのは、その事がその事に間違いないって事を教えるだけじゃないですか。

腐ってるものを見たら、腐ってるものはこう言う風になってるって事が分かると、ああ、腐ってるってこう言うのかって、ちゃんと分かるんです。別に腐ってない物を持って来てですね、比べる必要はないんです。健全な物を持って来て何か比べないと、腐ってる物が分からないと思ってる。そうじゃない。この腐ってる物だけで、物はちゃんと分かるんです。匂いも味も何もかも。それで腐ってる時どうなってるか分かる。それが分かると後は如何様にも対処するのでしょう。

それが本当の教育なんじゃないですか、人を育てるって。仏道ってそう言うものでしょう。だから他に何か持って来てやりかえるとか言う様な事は、仏道の中には無い。今各自自分自身のこの真相そのもので、修行が完全に片がつく様になってる。これがどっか余所で時間をかけなきゃ出来ない様な話だったら、もう百人中百人無理です、生きてる間に。出来る様な話じゃない。

ところが有難い事に、今ちゃんとここで、その事が皆行われてる事が修行の基本だから、出来るとか出来ないとか言う話じゃない、もう既に。やれてる。誰でもやれてる。そう言う風に生きてる。その生きてる様子にそのものに居れないから、ものの真相が分からないだけじゃないですか。

「転々代語の因果あり、」その様にして過ごしております。「歴然の大修行なり。」これは目の当たりに、もう誰しもが明らかにはっきりしてる。今の自分自身の真相がはっきりしない為に、人は苦しんでるのでしょう。後は何か知りたいことありますか。他に。今、自分自身のこうやって生きてる真相がはっきりしたら済む事でしょう。

「因果の道理、歴然として私なし」と道元禅師がどっかに残してますが、人間らしいものが介入出来ないんです、因果の道理には。こう活けてある花にこうやって触れたら、いきなり活けてある花の通りに、こうやってなるんだもん、しょうがないじゃん。自分の思いなんかはるかに超えて。それを普通見えるって言ってるけど、そんな程度じゃないじゃないですか、こうやった時に。あすこに花が活けてあるのが見えるって、それでこっちから花を見いるって言う程度の生き様じゃないじゃないですか。こう言う事が、これが自分自身の今の生きてる真相だもん。これ以外の生き方してないんだもん、こうやった時に。ほかの生き方をしてるものは一切無いんだもん、こうやった時に。

それだのに人間は、僅かにあすこに活けてある花を見てるって、その程度にしか受け取ってない。それが普通に言う見てるって言う。だから凡くらだと言われるでしょう。聖人は違うよ。これが自分自身の今生きてる様子そのものじゃない。ねぇ。そう言う風な事が、これ歴然たる事実でしょう。こうやって修行して行くわけでしょう。ああ本当に、間違い無いなぁ、確かだなぁ。まあそこで一段ね。

「いま黄檗きたりて、『転々不錯、合作箇什麼』と問著せんに、いふべし」そう言う風に問われたらですね、「也堕作野狐身」と。」間違いなけりゃずーっとそのまま、狐のままだって言う事でしょう。「黄檗もし『なにとしてか恁麼なる』といはば、」どうしてそう言う事になるのかって、更に尋ねられたら、「『這野狐精』。かくのごとくなりとも、錯不錯にあらず。」この野狐精、この野狐精って言う事は、わからんかって言ってるのでしょう。どうしてそうなるかって。どうしてそうなるかって、実際目の前に居る狐に、その通りの様子がそこに有るのを触れているのに、どうしてそう言う風になるのかって。

例えば歩いてて転んだのに、どうしてそう言う風になるんですかって。説明したくなるじゃないですか。エー皆さんどうして転んだの?って。説明したくなるでしょう。だけど、説明したくなる内容は、転んだその事自体でしょうが。それを見たらはっきりしてるでしょう。あ、こういう風になってるんだって。人ってこうやって、如何してなったの、「なにとしてか恁麼なる」どうしてそうなったのって言うと、すぐ説明をしたくなるものじゃない。何を説明するかったら、そこにある事実を説明するのでしょう。ね。

そこにある事実を、そこに展開された事実を説明するんでしょう。だったら説明する時に、その事実をよく見るって言う事が、説明するのに一番正確なんでしょう、説明するよりも。そっちを見せた方が、事実を見せた方が。それがこの野狐精です。『這野狐精』。 

掃除をした時に石が竹薮に飛んでいって、音がして悟ったって。どうして悟ったんですか。パン!(扇で机を打つ)こうやって説明するのでしょう。だから「かくのごとくなりといへども、」だから、間違っているとか間違ってないとかって言う事じゃない、言うんでしょう。「錯不錯にあらず。」こう言う事実があるから、黄檗の尋ねられた事をそう簡単に、中々素晴らしい、なんて言って、許す訳にはいけないって、道元禅師が手厳しくやっております。

大修行 Ⅷ

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2018.4.21

講本の三百七十八頁の真ん中辺ですか。少し読みますね。

「仏祖の児孫としては、仏祖の法儀をおもくすべきなり。百丈のごとく、請ずるにまかすることなかれ。一事一法もあひがたきなり。世俗にひかれ、人情にひかれざるべし。この日本国のごとくは、仏儀祖儀あひがたく、きゝがたかりしなり。而今まれにもきくことあり、みることあらば、ふかく髻珠よりもおもく崇重すべきなり。無福のともがら、尊崇の信心あつからず、あはれむべし。それ事の軽重を、かつていまだしらざるによりてなり。五百歳の智なし、一千年の智なきによりてなり。

しかありといふとも、自己をはげますべし、他己をすゝむべし。一礼拝なりとも、一端坐なりとも、仏祖より正伝することあらば、ふかくあひがたきにあふ大慶快をなすべし、大福徳を懽喜すべし。このこゝろなからんともがら、千仏の出世にあふとも、一功徳あるべからず、一得益あるべからず。いたづらに附仏法の外道なるべし。くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず。

しかあればすなはち、たとひ国王大臣なりとも、たとひ梵天釈天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聴許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三宝の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈来して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。もし仏法の功徳を結良縁せんとおもはば、すみやかに仏法によりて出家受戒し、大僧となるべし。」


その辺まで読んで。エー読んでみると、世の中には慣例と言うものがあって、あるいは習慣、常識とか色んなものがあってですね、安易に物事の真意をあまり探らずに、事なかれでずーっとこう行くって言う様な事が沢山ある。そう言う中で仏法も気をつけなきゃならない事なのでしょうね。

そんなに難しい事はないから、それでいいでしょう。何か言わないといけないかな。エーどうしよう。読んだからいいことにしたいと思うんだけど。どっか言わないといけない事があるかしら。慣れてしまうと、ものの尊さとか、大事な感じがですね、失われると言う事もあるのでしょうね。慣れるって良い事の様だけども、恐ろしい面もあります。何時も歩いてる道だから慣れてるからいいかと思うと、躓いて転ぶ事もある。

それからここにある様に、大事なものに出会った時に、それを大切にする力があるかどうか。他人の言動に触れてもですね、他人の言動そのものに触れて、自分で心を打たれる様な、そう言うものに出会った時に、やっぱりここにある様にですね、心に響く様な生き方をしえてないとですね、ものは成就しないと思います。

「このこゝろなからんともがら、」とありますね。この心なからんともがら、自分は出来なくても、他人が立派な、あるいは素晴らしい事をしたら、そう言うものを見聞きした時に、それに感動する様な心、それを敬う様な心は欲しいですね。下手をすると、人の素晴らしい動きを見て、大勢の人が誉めると、それを聞いてけなす人がいる。何ででしょうかね。心が淋しいなあって思いますよね。自分は出来なくても、人がやったもので、一杯あるね。一杯ある。

身近な事だったら、前を歩いている人がちょっと何かしゃがんで物を片付けていく姿でもですね、感動するでしょう。そういう様な事柄は、ここ、心ですね。そう言う在り方は、本当に大事にすべきだと思う。それが無いのは、ここに述べられているように、説くこと、口で話すことは話すんだけど、実際にやらないと言う事ですね。

「くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず。」言ってはいるけど、実際何だろう、何かそんな様な言葉があるじゃないですか。言う事とやることが一致するとかしないとか言う様な事が言われますよね。そう言う事ですね。出来れば、口で言ってるだけで実が伴わないのは、やっぱりつまらないと言う事ですね。それは知ってるだけですからね。仏道って言うものはそう言うものではないと言う事がいいたいのでしょう。仏道は必ずこの自分の身心を通して実践がされなければ仏道の意味がない。知ってるだけでは。

そこで先ほどあった、先回あった狐の死骸を坊さんのお葬儀の仕方でお別れをすると言う事をお願いされた時に、それはすべきではないと言う事が、もう一度取り上げられている訳ですね。もし坊さんのお葬儀の仕方で出してほしいんだったら、出家受戒してお坊さんになって、どうぞお願いしますって言って、来なさいと言う事がかいてあります。実と、実際の内容と、そのものがぴったりかなうって言う事が色々な所で大事にされているのでしょう。

肩書きというものがあったりなんかして。肩書きは立派だけども中身が肩書きほどでもないって言う様な事になれば、肩書きはやっぱり用がないですねぇ。そう言うものでしょうねぇ。権威を、肩書きを大事にするんだったら、その肩書きに恥じない様な生き方をして行く事によって、肩書きがつけられた人達が守られて行くと言う事もある。そう言うのも現今の社会の中にも見て取れるとこでしょう。でその辺まででそこは大体終わっときますね。

次の処に行きますが、「今百丈、『至晩上堂、挙前因縁』。この挙底の道理、もとも未審なり。作麼生挙ならん。」どうして夕方になったら、前の因縁て言うのは、前の因縁は前の所見るとよく分かる。長いからやめとこか。前の因縁、ずっと今まで説いて来た処ですから、前に出てきますので、見て下されば良いと思う。

道元禅師はそれを取り上げて、それを取り上げる道理、何でそれを取り上げたのかって、もっとも未審なりって、よく分からないと言ってるんですね。「作麼生挙ならん。」作麼生挙ならん、だから。

「老人すでに五百生来をはり、脱従来身といふがごとし。」従来の身を脱すると言ふが如し、五百年生きて来て。それを受けてですね、「いまいふ五百生、」五百生って言うと、私達はこれ読んだ時に、五百年だ、今西暦2018年、随分昔だな、そう言う風に大体考えるんでしょう、ねぇ。そう言う事があるから、ここに出て来る様にですね、「そのかず人間のごとく算取すべきか、」と。私達が普段使っている様に計算をすべきなのかと。それとも野狐ですから、野狐の在り様としての計算の仕方があるのか。

例えば猫が何歳だと、人間で幾つ位だとかって言う様な計算をしがちじゃないですか。「仏道のごとく算数するか。」仏道ではどんな風に計算するのでしょうかね。人間、野狐。人間の計算の仕方と仏道の計算のしかたは違うのかな。一刹那に三千の生まれ変わりがあるとかって言う様な事も言うのでしょうね。それは科学的にみても、そう言う表現があるでしょう。一秒の映像を撮るのに、何千枚かのコマがある。ダーっと映写なんかの場合ね。そう言うな事が言われる。そう言う事もある。

「いはんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見することあらん。」野狐の眼がですね、百丈さんのですね、様子を正しく本当に見る力があるだろうかと。野狐は野狐の眼の見方であって、人間の目でものを見るのとは違うのではないかと言う事ですかね。「野狐に覰見せらるゝは野狐精なるべし。」それは野狐が見た世界の様子。野狐が見たものは野狐の世界の様子。「百丈の覰見せらるゝは仏祖なり。」百丈禅師、修行をされて本当のものの在り様がしっかり自覚できた、そう言う力のある人のものの見方と言うものは、仏祖と変わりがない。

それだから、悟りを開くとか修行をして、見性をするとか言う様な事の必要性があるのでしょう。先ほども出てた様に、口で仏法を説く事は別に悟りを開かなくても幾らでも説ける。それは例えば、旅行もそうですが、海外に行かなくても海外の事は幾らでも説ける、ねぇ。見て来なくても見て来た様な事は幾らでも説ける訳です。食べなくても食べた様な話は幾らでも出来る。でもそれはやはり実がないじゃないですか。本当に自分のこの身心、身体、心を通して体験したものでないから。

一番手っ取り早いのは、あなたそう言ってるけど本当に食べたの?本当に行って来たのとか言われると、一発でギャフンとすると言う事ですね。何だ、って言って、登ってもいないのに、登った様な話するなよって。食べてもいないのに食べた様な話してどうするんだって言う事になって、終わりですね。で百丈の様な力のある和尚さんになって初めて、仏祖と言われる訳でしょう。

で皆さん方も自分自身の事を自分自身の力でですね、はっきりさせるって言う事が出来れば、誰からもとやかく言われる必要はない。人がとやかく言って自分の中がぐずぐずっと崩れたり、揺れたり、よくわからなくなるって言う事は、そりゃ自分自身が自分自身の様子を本当に一度見てない、触れてないからだけでしょう。仏道ってそう言う事に用があるんじゃないですか。初めから自分自身には違いないですよ。

間違いなく最初から自分自身に違いないんだけども、他所にこの自分は居ないんだけど、それだのに自分自身の事をですね、ああじゃないかこうじゃないか、色々言われると、このものがこのものの中で、言われた事でギクシャクしたり、葛藤を生じたり、疑問が起きたり、苛立ちが起きたりするって事は、自分の本質を自分ではっきり見てないって言う事でしょう。これが仏道の仏道たる所以じゃないですか。仏道何をするかって、何をしたのか。どう言う事になったから、仏道と言われているのか。自覚そのものでしょう。自分の本心を。エーまあそう言う事があるから。

「このゆゑに、枯木禅師」注にもあると思いますが、芙蓉道楷禅師の法を嗣いだ方。芙蓉道楷って言う方は、他所の、眼蔵の中にどこかあると思いますが、干拓事業をした人かな。そして作物を作り、そう言う所を開いて民衆と一緒に生活をした方ですが。そのまあそう言う方の法を受け継いだ枯木禅師がこんな歌を残してる。

「頌曰」読んでみると、
百丈親曾見野狐(百丈親曾に野狐見る、)
為渠参請太心麁(渠参請せられて太だ心麁なり。)
而今敢問諸参学(而今敢へて諸の参学に問ふ、)
吐得狐涎尽也無(狐涎を吐得し尽すや無や。)


内容としては百丈さんがかって親しく自分の目で、目の前にいる野狐を見られたって言う事ですね。「百丈親曾見野狐」そしてその野狐・彼に、請われてですね、なにを請われたかって言うと、野狐身を脱したからお葬儀をしてくれって言って、坊さんのお葬儀をしてくれって言って頼まれたと言う事ですね。「太心麁」これは道元禅師がご指摘してる様に、エー頼まれたから野狐の葬儀を坊さんの形で送ってくれって言われたら、それを受けるなんて言う事が、「太心麁」と言う事でしょう。ものを知らないにもほどがあると言っていいのでしょう。そうやってこの方は指摘しているのでしょうね。

今敢えて皆さん方に尋ねますけども、「問諸参学」、エー狐ですね、「吐得狐涎尽也無」涎となってるかね。涎を全部吐き出すというのかね。「吐得狐涎尽也無」まあもうちょっと穿った言い方をすれば、腹の中を全部見せたかと言う事ですかね。

「しかあれば、野狐は百丈の親曾眼睛なり。」こう述べられている事をうけて、味わってみると、本当に狐はですね、百丈と其処で親しくこうやって触れている様子がある。そして「『吐得狐涎』たとひ半分なりとも、」ここ全部吐き出したかってあるから、半分なりともって言うのが出て来るのですよね。エー「出広長舌、」皆さん方、あの広く長い舌ベロですね、舌。それは何だろう、無限に喋れる力と言う事でしょうか。広長舌を出だす。

普段喋ってる時は、何気なく人と対応が皆さん出来てるじゃないですか。だけどもちょっと違った事を改まって尋ねると、急に自分の口がですね、うまく喋れなくなる。そう言う体験ないですか。普段あれだけ喋ってるから今日頼むよって言ったら、いやとても人の前では喋れませんって言う様な事があるじゃないですか。本来人って言うのは広長舌を出す様になってる。

道元禅師が、谷川の水がですね、夜坐ってる時に、ザーっと音が、途切れなくザーっと響いてる様子を、渓声山色の巻で広長舌といってますね。サラサラ、サラサラ、サラサラサラサラ、本当に淀みなくですね、立て板に水じゃないけども、もうザーっと一日中途切れなく、水がこう流れてる、その音が響いてる、って言う様な表現をしてっますが、人間もそうでしょう。

必ず、音が出る事だけじゃないね、広長舌を出だす。無言と言う喋り方もある。無言と言う喋り方は上手に聞かないと中々聞けない、ね。でも無言の方が重みがあるよね。ベラベラベラベラ喋るより。身体全体で人に今の様子を伝えてますからね、こうやって。目は口ほどにものを言い、とか言う様な事もある。目は口ほどにものを言う。別に喋るわけじゃないけど、目が合っただけで、そう言うな力もある。広長舌って言うのが色々な処にありますよね。

代わって一転語するなり、「代一転語なり。」一転語って言うのは、一言言葉を発して、その言葉によってですね、人が救われて行く様な、そう言うものですね。飛び込もうとしてる、命を失う瞬間、オイ!(大声で)ってそう言う様なものを聞いて、はっと振り返って救われると言う様な事は、まあ一番はっきりしてる一転語でしょう。悪い事をしようと思ってる時に、パンと手を叩いてねぇ。そう言う事もあるでしょう。物を、悪い癖があって、ちょっとこうやって(物を隠す)入れようとする時に、こうやって。そう言うのも一転語です。

「正当恁麼時、脱野狐身、」皆さんがつまらない事を、色々考えたり思ったりしてる時でもそうですが、「こんにちは」って一言声を掛けられただけでですね、今までああでもない、こうでもないって思ってたものがコロッと取れてしまう。不思議なもんですねぇ。ジリジリ電話が鳴っただけで、喧嘩してた様なものが、すっと納まってそこへ立って行く力があったり、兎に角そうやって野狐身を脱する力がある。つまらないものからね、抜け出す力持ってるでしょう。南無阿弥陀仏、一心称名、あれだって皆そうやって人を救う力持ってるでしょう。どうしてそうなるか分らない。

「こっち向いてごらん」、言っただけで、忌まわしいものからこう離れて行く力があるのでしょう。「美味しい物あるから食べに来ない?」皆、親の一転語でしょう。家庭の中で使われてる。「ありがとうね。」看病してもらった時に、看病された方が、ああ有難いなあって、いつもすみませんね、それで皆癒されて行く。あれ皆一転語でしょうなぁ。

「正当恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身なり。」本当にありとあらゆるものから、皆離れ切って私達は生活してるのでしょう。これを私達は参禅をする時に、自分の身心を通して、本当にそうなってる事を如実に体験する。考え方で整理をするのじゃないですね、修行って。先ほど来の事が一切ないんですからねぇ。

池の鯉がパシャッ、跳ねて音がするだけですね。本当に今までのものから全部離れ切って、今のこうやって、そう言う生活に人は居る。そう言う正当恁麼時ですね。今正に皆さん誰でも、本当はそう言う生き方をしてる。それが坐禅をしている時の自分自身に触れる坐り方でしょう。坐禅をして何かするのじゃないですよね。坐禅は本当に今の自分自身そのものに、こうやっている。

長く生きて来ようがですね、何をして来ようが、そんな事じゃない。今自分自身の様子にこうやって触れてみると、こう言う風になってるじゃないですか。何を取らなければ、何をどうしなければならないじゃなくて、必ず今の本当に活動だけが為されている。全身心を挙げて。それで完璧じゃないですか。他にやる事はないじゃないですか、何時でも。ながめる様な間柄ではない。

私達が問題にするのは、今、こうやってる時に、今こうしてる時の事をしっかり自分で出来ないから、何か何処かでもうちょっとちゃんと生きていかなきゃいけない様な気になって、それを後でやり直すとかもう一回とか言ってますけど、そんな事は無理です。そんなのは理想的な話であって、良さそうだけど、無理です。実質は何時でもちゃんと今やってるじゃないですか。やり変えなくて。いきなりです。

こう言う扇子一つだって、こうやって見てもらった時に、(扇を開いて見せる)いきなりちゃんとやれてるじゃないですか、この通り。ところが考え方は見えていてもですね、よく分らないとかって言わせるんですよね。それは見てないからです。見ていると言う事と読めるか読めないかって言う事とは違うんですよ、ね。こうやって字がかいてあったら、(扇子の字を見せる)こうやって見るとですね、字が書いてあるって分るもんですから、つい読もうとする。読もうとすると、読めない字が沢山出て来ると、分らないって言う風になるんです。見えると言う事とは違うんですよ。

見える方はですね、字が読めようが読めないが、読める人が居ようが読めない人がいようがでもですね、必ずその通り見えるんです。頭がいいとか悪いとかじゃないんです。学問があるとか無いじゃなくて、必ずその通り見えるんです。その事が大事なんです。
それが後で見える様になるんじゃなくて、パッと触れた時に、必ずその通りになるんです。音だってそうでしょ。パン!(打掌)音がした時必ずその様になるんじゃないですか。後でそう言う風になる事はない。完璧に何時も生活をしてるんだけども、人間は、「そんなことは」って言う風にして聞いてるから、パン!そんな事が何に用がある、パン!パン!

本当は違うんですよ。こう言う風にこの時に聞こえさえすれば、それで一切問題ないじゃないですか。だけどそう言う風にちゃんと聞かないもん。何言ってるんだろうってやるんですね。不思議ですね。聞くという中に理解をするって言うことを付けるんですが、それは全く次元の違う事ですよ。聞くと言う事と。

赤ちゃん達って言うか、小さい時は、それがごっちゃになってないから、パン!(扇で机打つ)こうやってやると、こういう風になってる。こうやってやると、(扇を開く)こういう風になってる。それを嬰児の行と言います。子供の行いを言ってます。
それは坐禅の時に使っております。子供の様になりなさい。

大人は違います。こうやった時に、パン!すぐ考え方に変えます。見せてもすぐ考え方に変わって行きます。赤ちゃん達はパン!こうやって音をきいたとも何ともない。知らないんです。パン!こうなってただけで、こうなってることさえも知らない、自分が。(笑)パン!そう言う風になってることさえも知らない。だけども、知らないけども、パン!こうなってますね。パン!こうなってますね。見てるとも見えたとも、全くそう言う事が行われないけども、間違いなくこうなってますね。それが人を育てて行くんですねぇ。人間の脳を育てて行く。不思議ですね。

そう言うものが脱と言われる字をつけてあるんですね。「脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身」それは正当恁麼時に行われている。今正に行われている事です。何処かでやるんじゃなく、それに皆さんが居てほしい。それに居るためには、坐って今の自分自身そのものにこうやっている必要があるんじゃないですか、考え方じゃなくて。パン!!(打掌)パン!パン!パン!パン!パン!パン!パン!こうやって坐ってる。パン!こうやって坐ってさえすれば、パン!いいじゃないですか。パン!パン!パン!こんなことを道元禅師がつけてますね。

大修行 Ⅶ

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「一生の生を尽知せず、」自分の生きてる事なのに自分の生きてる内容がどう言う風になってるって言う事をしる、そう言う事がない。知り尽すって、「尽知」ね。今の事でさえも分からないんだもん、「尽知」する訳がない。

「しることあり、しらざることあり。」エー、今こうやって話をすると、パン!分かる処もあればパン!分からない処もあるでしょう。いいじゃないですか。それで勉強すれば。「もし身知ともに消滅せずは、五百生を算数すべからず。」それはいちいちその時にその事がそこで行われて、そのままきちっと終わってるって言う事があるから、あっ次の事が、又次の事がって言って数えられると言うのでしょう。

パン!音だってそうでしょう。音がしただけで、それできちっと終わっちゃうんだもんね。ポンと言うだけで終わっちゃうんだもんね。だからパン!こうやってパン!一回パン!パン!パン!二回三回四回五回ってちゃんと数えられる。これずーっと音が切れずにしてたらですね、何処までが一回なのって困るんですよね。そう言う事ないでしょう。全部きれいにそう言うになってる。

物を見るんだって、くっついてる様だけど、全部こうやって展開していく時に、前の様子からきれいに離れて、その通りこうやって展開してるから良いでしょう。線はないですよ。区切る線はない。だけど前の事みてるって言う事はないですよ。こうやって、(見回す)。これが絶妙ですね。本当にこう言う事を自分の事で、こう学んだらですね、何処をどうしたらすっきりするかって言う必要がないじゃないですか。すっきりしてるじゃないですか。このすっきりしてる生活の方に自分を置かないから。

顔面に物が見えてる事があっても、そんな事はどうでも良いって言って、何時でも暇があると色んな事思って、この前あすこでああだとか、これがどうだとか、そう言う事しか過ごさないんだもん、そう言う過ごし方しか。変じゃない。ボクシングをやってるジムのある人もあるけども、ああ言うリングに上がって闘ってる時に、この前向こうから打ってきたよなぁとかって、そんな風にして闘ってる人、多分いないよね。そんな事やってたら、もう一発でノックアウトされるね。エー、本当に今の様子だけを、相手にする以外にないんじゃないですか。どんなプロだって。もうそれ最低限、絶対それやらなきゃ無理でしょう。

だけど有難い事には、目を開けてると向こうの動いてる通りの速さがその通りちゃんと感じられるから良いじゃんね。何処に手が出てくるか、何処から出てくるかって言う事だって、ちゃーんと見てればその通り見える訳だから。あんなの教えられないよね、コーチがついてて。自分の目で見てればよく分かる。後はその速さに合わせて身体を動かすだけで、当たらない様に。それやらないと無理だよね。こうやったらああなるって言ってるだけじゃ、無理だよね。まあそう言うな事があるでしょう。

「算数することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。」計算が出来ない様だったら、あなた五百生、生まれ変わり死に変わりして五百回したって言い分だって当てにはならないんじゃないかって言ってる。「もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。」そりゃそうでしょう。狐は狐の力を持って知る以外にない。狐が人間の力を以って知るって事はない。そんな事をしたら、それは狐の様子ではないって、当たり前の事でしょう。

各自だってそうでしょう。人がああ言ってるって言う事をただ鵜呑みに信じていて、自分の力だと思ったら大間違いでしょう。だから修行するって言う事がどうしても必要。修行するって事は、この身体を借りて、この自分自身の身体をかりて、本当にどうなってるかと言う事を体感しない限りは、ものはわからないじゃないですか、言われたって。頭で理解してるだけじゃないですか。トマトを食べればトマトの味がする、林檎を食べれば林檎の味がするって、なるほどって。じゃ林檎の味はどんな味ですかって、食べた事のない人にはやっぱり無理だよ。ねぇ。食べると誰からも聞かなくても分かるでしょう。そう言う風に出来てるでしょう。

「誰人か野狐のためにこれを代知せん」代わって、人に代わって、誰かに代わってその事を知るんなんて言う事は無理。あなたは飲まなくても、私が飲んで味がどんな味がするか代わって飲んであげるからって言って、代わってくれるって言うかも知れないけど、それで味が分かるかって言う話です。無理だって言う。

「知不知の通路すべてなくは」知るとか知らないとか言うそう言う道筋が全てなかったならば、「堕野狐身といふべからず。」そりゃそうでしょ。野狐に堕ちたって言う事は、前の様子と変わったって言う事を知ってると言う事でしょう。何処がどの様に変わったのでしょうねぇ。不落因果って言った時に、不昧因果って言う言葉を聞いた時に、何処がどの様に変わったのか。皆さんの耳で確かめればよく分かるじゃん。不落因果、不昧因果、こう言う風に変わるのでしょう。変わりながら何ともないのでしょう。エーそれも大事でしょう。

「堕野狐身せずは脱野狐身あるべからず。」前の様子がどうなっているかって言う事があって、今の様子がどうなってるかって言う事があるから、こう言う事がはっきりする訳でしょう。今までは生活してて何かって言うと自分の中が騒がしかった、苦しかった、問題が一杯起きてたけども、今はこんなに何ともなくすっきりしてるって事が自分で分かるから、ああって、救われたとか言う事になるんでしょう。迷ってないとか言う事になるでしょう。幸せだって言う事になるのでしょう。

それが分からなかったら、無理ですよ。それがなかったら修行したってしょうがないです。今までのまんまだったら。しょうがないじゃない。すっきりしない、苦しんでいる生活ののままだったら。それが離れられるって事、不思議ですよね。しかも何もした訳でもない。ただ自分の本心を、本来の自分の在り様にこうやって目が向いて、なるほどって気がついただけで、何もしなくても良いって言う風になるって言う事が、実に不思議ですよね。

例えてみれば、自分の財布の中開けてたら、お金が入ってたのを見て、ああって一変に何か金持ちに成った様なもんでしょう。じゃあどうしたのかったら、誰かから貰ったのかったって、そうじゃない最初から持ってたんだけど、気がつかなかっただけで。エー、そういうもんでしょう。気がつかないって、こんなに成るんですよ。気がつくとこんな面白くなるじゃん。あと自由に使やあいいじゃん。

「堕脱ともになくは」落ちるとか抜け落ちるとか言う様な事が両方ともなければ、「先百丈あるべからず、」昔はこうだったって言う様な事はないじゃないかって言う。今まではこうだった、昔はこうだったって言う事は起きないじゃないかって言う。そりゃそうでしょう。「先百丈なくは今百丈あるべからず。」前はこうだったから今はこうだって事があるでしょう。「みだりにゆるすべからず。かくのごとく参詳すべきなり。」だから先輩達が立派な人かもしれないけども、そう言う人達の言ってる事を安易にそのまま受け取って良しとするんじゃなくて、本当に自分でよく噛み砕いて学ばないと、とんでもない事になるよとおっしゃってる。

「この宗旨を挙拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、ままにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。」今勉強して来た様な内容をですね、取り上げて、自分の事だからそれで、長い間、これ中国の歴史の総称でしょう。この辺が南朝とか北朝とかって、中国の沢山、国が、小さな国が沢山ある頃の時代の話でしょうね。道元禅師が中国に渡る頃までの間が、その間にままに聞こえる間違った教え、謬説、誤った説き方、正しくないものの理解と言うものがその中にあるから、それを自分で勘破して行くべきだと言うのですね。見破って行けって。

一番人間が陥りやすいのは、人につけた肩書きで大体ものを評価するじゃないですか。あれはもう最悪でしょう。自分の力で、自分の力で本当に触れてみて。だから一言言葉をその人に発してみれば大概わかる。どの位の人か。怖がってやらないだけじゃない。自分に力がないって、勝手に自分で思ってるから。あるいはそんな偉い人にこんな事言っちゃいけないんじゃないかって、そうやって思うから本当の事言わないだけじゃない。

本当の事言ったら良いじゃん。向こうの人が偉い人だったら、どんな事言ったって、そんな事で崩れる様な人は本来居ない筈だからね。赤ちゃんがお母さんに吠えつく様なもんだからさ。幾ら吠え付いたって、お母さん屁ともない筈なんだけど、その赤ちゃんの様な我々が本当の事言って、こうやって投げかけたら、親の方が震えが来ておしっこを漏らす様だったら、大した事ないって言う事でしょう。肩書きに偽りありと言う事でしょう。

だから、人の見てる前で、ものが判断されるって言う事、人は怖がるじゃないですか。裁判所の様な所で裁判する時には、放映は許されないでしょう。今でもまだスケッチは許すけども、動画や写真撮ったもの外に公表はしないでしょう。あれを公表すべきだって言う意見もあるでしょう。そうすると本当の事が誰が見ても分かる。ああ言ってるけどもって、その身体全体から発してるものでわかるんだよね。これからそう言う風な時代がくるのかも知れない。それもこないのかも知れない。

仏道の上においてはそうあるべきでしょう。だから必ずこうやって相対して修行する時にやってますよね。独参でもそう。お互いに何も隠すもの無い。全部されけ出したままぶつかってる。上下ではない、修行する時に。学ぶ。

もう一下り。「老非人また今百丈に告していはく、」こっから又内容が少し違う。「『乞依亡僧事例』。」乞う亡僧の事例に依って言う事言ってます。狐の身を脱したからって言って、そこに裏山に行ったら、狐の死骸があったって言って、それを持って来てですね、お葬式をするのね。その時に、この狐のお葬儀をするのに、お坊さんのお葬儀の仕方に倣って葬儀をしてほしいって、頼んだ訳ですね。それに対しての問題点です。

「この道しかあるべからず。」それはものの道理として違ってますよと言うんですが、どの様に展開して行くかね。「百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。」狐のお葬儀をするのに、お坊さんの葬儀の様にしてくれって言われた時にですね、ハイッて言ってそのままお坊さんの葬儀で狐を送ったって言う事に対して、多くの今までの方々がですね、善知識、立派な人たちはですね。この話を聞いて何にも自分の中に、それ変じゃないかって言う様な気さえも起こさなかったって言うんでしょう。驚きもしない。

「その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。」先ず一つはですね、死んだ狐はお坊さんかって言ってます。見てごらん。死んだ狐坊さんじゃないじゃないか。エー。「得戒なし、」お坊さん達は受戒を受けて、戒律を受けて出家して、それを守って行く。狐は大体そんな事したことないじゃないか。エー、それから「夏臘なし、」って言う事は夏、まあ四月から九十日位を一夏といって夏の修行期間になってる。それを夏臘と言います。一年一回夏の修行が九十日、冬の修行もある。年に二回九十日ずつ冬と夏の修行期間がある。夏臘は夏の方ですね。そう言う修行した様子もないじゃないか。

さらに「威儀なし、」エーお坊さんとしての衣をつけるとか言う様な事も、食事の仕方とか、坐禅をしたとか、一切ないじゃないか。「威儀なし、」「僧宗なし。」お坊さんとしてのやるべき事を、色々ありますが、そう言う事一切してない。「かくのごとくなる物類、」そう言う死んだ狐って言うのはそう言うものなのに、「みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の事例に準ずべきならん。」

今この社会だって在家の人のお葬儀の方法とお坊さん達の葬儀に仕方は判然として違いますよね。あるいはお坊さんの世界だけじゃなくても、皇室の葬儀と一般の人も違うでしょう。私も死んだから皇室と同じ様に、ああ言う葬儀にしてくれって言ったら、だれがやるんでしょうか。そんな事はありません。お金を一杯出すからって言ったって、それは無理です。そう言う問題とは違うでしょう。そう言う事を上げてみるとよくわかるね。

「死優婆塞、死優婆夷、」男の在家の信者、それは優婆塞ですね。それから優婆夷は女性の信者です。現代では信士とか信女とか居士とか大姉とかって言う様な分け方をしていますね。そう言う在家の方々がもしお願いする事があれば、「もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。」もしそれが狐の葬儀をするのに、坊さんの葬儀に準ずる事が出来るんだったら、今もそう言う風にお願いしたら出来るんじゃないかって、皮肉をちょっとこめて言っておりますが。

「依例をもとむるに、あらず、きかず。」そう言って頼まれても、それを聞き入れもしないし、やらないじゃないか。「仏道にその事例を正伝せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」仏道ではそう言う事は、過去から現在まで一つの事例もない。「おこなはんとおもふとも、かなふべからず。」そう言う気持ちがあっても無理だって。もしそう言う風にやってほしいんだったら、得度して出家すればすぐ坊さんとしてお葬式出しますよ、と言ってます。

「いま百丈の『依法火葬』すといふ、これあきらかならず。」文献には百丈がそうやって頼まれてですね、狐を火葬にふしたって、その火葬にふす時にお坊さんの事例に倣ってやったって言う様な事を書いてあるけど本当かな、どうかなって言ってるんですね。「これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、至菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。」お釈迦様の時代からずーっと見て来るにですね、そんないい加減な事は一つもやった事がないとおっしゃってる。だからそう言う事が書いてあるけども、これは間違いじゃないかって。

「岩下の死野狐、」山の岩場の所のどっかにですね、死んだ狐がいる。「岩下の死野狐、」「たとひ先百丈の自称すとも、」それが昔の百丈の姿だって言うかも知れないけど、「いかでか大僧の行李あらん、」狐にそんな立派な坊さんとして修行した気配が何処にあるかって言っているんですね。「仏祖の骨髄あらん。」ましてやお悟りを開かれた、真理を見極めた、ものの真相を本当にはっきりした、そう言う様な人の様子はどこにも見当たらないじゃないか。

「たれか先百丈なることを証拠する。」それが昔の百丈禅師の亡骸だってって、何をもってそう言う事を言ってる。何処にそれをはっきりさせる証拠があるのか。ないじゃないかと言ってるんです。「いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を驕慢すべからず。」これが道元禅師のこの取り上げた文献に対する見解ですが、こういうものが幾つか今でもあるでしょう。誰か立派な人が言ったから、そのままそれを間違っていても踏襲して行く。それでは駄目です。

私等も近年になって人権の勉強をする機会があって、人の中に差別がある。立派な人と立派でない人がって言う様な、日本に根強く残ってる文化がある。そう言う事が指摘されて、今日もまだいるとおもいますが、人の語らいの中に悪戯にそう言うものが消えないでいるよね。大変な問題ですよね。あの人は、あの家はって言う様な、そう言う見方をするでしょう。こう言う勉強なんですよ。今話して来た事は。こう言う間違ったものの見方、改まらないのが幾つもある。

仏教って言うのはそう言う事をきちっとさせなければいけない事でしょう。それで自殺する人もいるんだからね。そう言う見方をされて。結婚が出来なかったり、就職がうまくいかなかったり。こんなに世の中が進んでるのに、まだそう言う事が、そう言うものの見方が根強くどっかに残ってる。改めなきゃならんこと一杯あるね。まあその位で。(2018.3月分終)