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転法輪 Ⅳ

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「いはゆる転法輪は、仏祖儀なり。」脚注を見ると坐禅の姿って言う事が書いてある。転法輪は仏祖儀なりって言うその仏祖儀の注釈が、仏祖としての所謂威々儀って言うのはまあその訳で良いと思いますが、その隣に坐禅の姿ってこう限定するのですね。それじゃ、その他の日常生活してるのは仏祖の転法輪でないのかって。

仏祖の転法輪というのは二十四時間ですからね、法を転じて。ある時は転じある時は転じてないなんて仏祖は無い。一日中お釈迦様の説法ですよ、お釈迦様は。他の人の事はやらないもんね。お釈迦様の口から出て来るものは全部お釈迦様の説いたことです。

皆さんだってそうでしょう。自分の口から出たものは、全部自分の様子です。一日中喋る時に。他の人のものは出て来ないじゃん、エー喋る時に。必ず自分のものしか出て来ない。文字を書くんだって他の人の書いた文字なんか出て来ないよ。似た様な事は学んであるかも知れないけど、必ず自分の書いてる字ですよ。坐ってる時だけそう言う事が出来るなんて、そんな、そんな本当におかしいじゃないですか。

その転法輪、色声挙念して色声打失すって。だから先程来、声色だったらパン!(両手を打つ)これは音ですね、こうやってやった場合(物を見せる)物です、色です。そう言うものをこうやって取り上げて、ものの真相、皆さん方が本当に生活してる時どうあるかって、示すわけじゃないですか。不思議でしょう。

こうやってこれ見てご覧、この見た通りになるんでしょう。これ以外の物を見てる様な様子になる人はないでしょう、これ見てご覧って言って。もしこれ見てご覧って言った時、これ以外の物が見える様だったら、此処を見てないと言うことでしょう。エーそう言う事でしょう。

パン!これだってそうでしょう。これパン!どう言う風になるかって。音がしてない時には、音は聞こえないんだけど、パン!音がすると聞こえる。音が止むと聞こえないのでしょう。こんなの誰だって常識で知ってるでしょう。だけど皆さん方は常識で知ってる筈なのに、日常は何故悩むかって言ったら、さっきあの人があんな事言ってる、おれは面白くねぇって言うのがどう言う事か分かりますか。音がしてないんですよ、もう。

してないのに、さっきあいつあんな事を、俺をいじめてって。そう言う事ですよ。聞こえてないんですよ。聞こえてないもので、何で問題にあるんですか。何で腹を立てるんですか。もう一回勉強して下さい。そう言う事を伝えてるんですよ。これはパン!簡単な事だって言うけど。だって一切聞こえてないでしょう、叩いた音は。聞こえている人は居るかしら。パン!叩いた時だけパンと聞こえるだけで、それで十分でしょう。

どうもしないのに、何処にも聞いたものが残らない様に生活できてるでしょう。もう払う用ないじゃないですか。邪魔になるもの一切ないって言う事でしょう。問題になるもの一切持たずに生きてるって事でしょう、それは。違いますか。それだのに生活してると、この事とは違う生き方してるでしょう。と言う事は、パン!こうやって学んでないと言う事でしょう。この事に。

これ見て(右)、これ見て(左)、否応なしにこっち見たら(左)、この事(右)から離れるんですよ。生活ってそうやって生活してるでしょう。何時までも先ほどの物にくっついてなんか居られないでしょうが。どうもしないのに、全部そう言うものから離れて生活が出来てるじゃないですか、実際に。此処でやってみたって。間違いないでしょう。

こっち、私の方から右見て下さい、右見たら右の様子が、左見て下さい、左の様子がになるでしょう。それ難しい人誰も居ないでしょう。その内容を叩いてご覧、どう言う風になってるかと言ったら、先ほどの様子が一切ないと言う事でしょう。今こうやって触れてる様子だけが何時もあるって言う事でしょう。問題起きないんでしょう。

あれとこれとって、此処には比論言う様な、比べて論ずると言う様な事を書いてあるけど、並べて論ずるなんて言う事は実際には無いのでしょう。眼がもしですね、先程見てた様子と、今見えてる様子って言って、何時も比べて物を見てはっきりさせるんだったら、疲れちゃって大変ですよ。ものすごい疲れると思うよ。

だって本読んでたって、こうやったら先程の、先程読んでた様子が此処に出てきてご覧なさい。どっちが今見てる様子だって、それをするだけだって大変じゃないですか。だけどこうやって今見てる様子しかないじゃないですか。一頁めくったって先程の様子は何処にもないじゃないですか。今見えてる様子だけじゃん、何時でも。こんなにはっきりしてて読めるでしょう。

それだのに日常生活は、どうしてこれとは違った生活を人はする。どっかに何か残ってる様な生き方をずーっとして、そして、それをどうかしなければすっきりしない様に思ってる。そんな風になってないでしょうが。そう言う事が此処で声色を云々って言う様な、挙拈して、取り上げてですね、「声色を打失す。」て真実の事を皆さんに伝えるのでしょう。

ただ単に物が見えるとか聞こえるとかって言う程度の事じゃないです、この事が。人を心底救ってる内容が其処にあるじゃないですか。ね。あらゆる声色を超出して「転法輪す。」ってある。確かに声や色を取り上げてあるんだけど、そう言う事にひっかかってる様子じゃなくて、本当に素晴らしい内容がそこで戴ける様に出来ている。

「あるいは眼睛を抉出して転法輪す。」って、眼の本当の活動の様子が自分で手に取る様に見えるから、成程自分の思ってる事と、考えてる事と違うって言う事、よーく分かるじゃないですか。「あるいは拳頭を挙起して」って、こうやって(拳を挙げる)勉強する訳ですね。「あるいは鼻孔をとり、」って、鼻を捻るとかって言う。

これは故事があって、エー野山を一緒に歩いてたら、足元から鳥がパタパタパタって飛び立った。そしたら、師匠が、「あれは何処へ行った」って言ったら、その弟子がですね、鳥を指差して「あっちへ飛んで行きました」って言ったんですね。そしたら師匠がその弟子の鼻をいきなり摘んで捻った。「痛い」って言ったんです。「何だ」って、「ここに居るじゃないか」って言う様な話がある。

ねぇ。人間、物を追っかけて行きますから。自分の事忘れちゃうんだね。鳥は向こうへ飛んで行ったと見てる。それ全部自分の様子ですよ。さっきから話してる様に。鳥の様子じゃないですよ。自分の今の様子なんですよ、眼の。知らないうちに、別な物を自分で見てるって言う風に思う、だから。すっかり自分の事忘れちゃって。鼻捻られると吃驚するよ。何するんですか。もう鳥は飛んで居なくなったかと思ったら、なんだ未だこんな処に居るのかって言われるんですよ。エー。こう言うな故事がある。

「あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり。」ってそれは今話した事ですね。で、「而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空ととるすなはちなり」って言うのはそう言う事です。鳥が空を飛んで行く時の様子と、鼻を捻った時の様子、それから「明星をとり」って言う様なことがある。

これはお釈迦様の事で良いのでしょう。十二月八日朝方、金星の輝きを目に触れた時に、それでお釈迦様は悟りを開かれたって言う事になってる。どんな物によって人は真実に目覚めるか分かりません。真実に目覚めるって言う事は、言い換えれば、自分を此処に置いて、物を向こうに見てる様な間は、真実を見る事は無理。

こうやって、今って言うのはこう言う事をさして、今って言うでしょう。今って言う中にはですね、向こうとこっちって言う事は無いじゃない。もし向こうとこっちって言う事があったら、今って言わないよね。そう言うもんでしょう。今って隔たりがある様なものじゃないでしょ、今って。距離がある様なもんじゃないでしょう。これから作り直す様なもんじゃないでしょ。だってもう必ずちゃんと完璧に出来上がっているでしょ。

『一人発真帰源』と言われるけど、これから今の様子に、今の様な在り方になるって言う様な事は、今には無いですよ。もういきなり今ですよ。何にもしないんだよ、今って、もう。その中で皆さん生きてる。どっか又手を付けないと完全な今にならないなんて、そんな事は絶対無い。今って言うのはもう無条件です。それは向こうとこっちは無い、一枚です。誰だって。そう言う風になってるものでしょう。

「桃花をとり」色んな事が出て来ます。故事がある。大体時間になるから、故事はまあいい。桃の花に触れて真理に目覚めるとか、言う様な事がある。とどのつまりは、「この宗旨あきらかに転法輪なり。」と言う事は、自分達の真相、自分自身の真相に触れて、自分自身の事が、あ、成程本当に今まで想像してたのとは違う、こんなにちゃんとしてる。そう言う気づきがないと、法輪を転ずるって言う事は出来ない。普通の話は出来る。普通の話で勿論良いんだけど、普通の話だけじゃ皆さん納得できないじゃん。

こんなのパン!普通の話でしょ、でも。音がして、音がした時に聞こえ、音が止んだら聞こえなくなる。そんな話な話ですよ。だけど内容は皆さんが思ってるのと全然違うでしょう。普通の話ですよ。こっち向かえば見える、こっち向かったらこっちが見える、普通の話ですよ。だけど内容全く違う事話してるの分かるでしょう、皆さん。こんな風に自分の事見た事ないでしょう。もし私が今皆さんに話してる様な内容が、本当に自分で頷けたら、これが求めてた事なんでしょう、皆さんが。違いますか。すっきりしてるんだからいいじゃないですか、これで。

他に、他にどっかに素晴らしい教えがあるんじゃあないんですよ。仏教ってそう言うもんですよ。必ず自分自身の中にこう言う事が行われてる。その事に気がついた人ですよ、仏陀って。それで楽になったんですよ。釈迦と言う人が。だからその後そう言う事がずーっと語られる様になったから、法輪を転ずると言う事になるじゃん。

で、「転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、」ここでは不離叢林と言うのは修行道場って言う事になるでしょうけど、じゃ修行道場って何処かったら、間違いなくこの身体のある所ですよ、修行するのは。この身体で修行するんだから、この身体のある所で修行する。

この身のある所は何処ですか。何時も皆さん。何時でもここなんでしょう。何時でも今なんでしょう。今以外の所で生活した人無いんですよ。不離叢林ですよ、絶対。離れる事は無い、今生活してる事から。この身体のあるここから離れた事はない。他の所で生活する事はない。それが不離叢林です。修行の道場に入ってるだけじゃない。本当の意味はそう言う事が不離叢林ですよ。直身これ道場です。

どんなに長く生きたって、今こうやっている以外の所で生活しないんだもん、しょうがないじゃん。この身体のある所でこのものの生活するだけで。その時に、人間に眼耳鼻舌身て言う五官があって、そして更にものを解かる力があるから、そう言うものが展開するだけじゃないですか、この中で。他にはやってないでしょう。

ものを間違えている人は、物が、外から見える物が入って来たり、聞こえる物が入って来た物に対して、その通り受け取らないから、自分で勝手にそれに対して好き嫌いをつけたりして物を見てるから、ごちゃごちゃになってるだけじゃないですか。誰も他の人がごちゃごちゃにさしてませんよ。

物事に触れた人が、自分で、あんな事をしてって、そうやって見て、そうやって思うんです。ものにそんなものは一つもついてないですよ。人が喋っている時、またつまらない事言ってるなって、そんなものは一つもついてないですよ。聞いた人がそうやって、聞いた時に自分の中で、そう言うものを付けて聞いてるんですよ。変ですよ、それは。

又あんな事やってる、又あんな事言ってるなんて、喋ってる人は一人も居ませんよ、悪いけど。エー。何回も何回も同じ事言ってるって、そう言う風に聞く人が居るけど、喋ってるの聞いてて御覧なさい。今喋ってる通りの事がそこで行われているだけですよ。さっきもなんて言う風には、絶対に聞こえませんよ。あの時もって、そんな風には絶対に聞こえないものですよ。

だけどこんな簡単な事、皆さんやらないんだもん、やれてる筈なのに。全く違う生活をするんだもん、変じゃない。そう言う事がしないのが功夫参学って言う事です。本当にどうなってるか、自分の生身で、今どうなってるかを目を付けて学んで行く事じゃん。聞いてごらん、又今日もあんな事言ってるって、そんな風に聞こえた人一人も居ない筈だよ。あいつこの前ちゃんと教えたのに、まだあんな事やってるって。そんな風には見えないんだよ。その触れた人が、自分の中でつけたものですよ。ついてないのに。

嘘だと思うんならやってごらん。そしてそれが言ってる通りに、あ、本当に自分で余分なもの付けてるって言うのが分かって、付けないで生活してみてごらん。絶対に変わるから。こんなに楽になる生き方って無い。最初についてないだもん、ついてない儘居りゃいいじゃない。エー。何で付けるの。それ正しく見たり聞いたりしてるって事じゃないって事でしょう。

ここでは「長連床上に請益辨道するをいふ。」と書いてあります。まあ修行の道場では坐禅堂が一番根本の道場だから、坐禅の道場で坐って、自分自身の真相に親しくこうやって向き合うって言う事が、坐るって言う事です。坐るって言う事は、自分を何か変える事じゃないですよ、自分で。何もついてないものを、何もついてないままこうやって居てみると言う事です。

こうやって、パン!大きい音とか小さい音とか一切そう言うものついてない、パーンて言うだけじゃない。そう言う風な聞き方を皆さんした事がない。すぐこうやってやると、パン!あ、ちょっとさっきのよりまずいなって、パン!さっきの音の方が良かったとか、パンパン!大きい音だとか小さい音だとかそう言う風にしているじゃない。殆どの人は、本当に音がしてるだけで居てみるなんて事やらないじゃない。こんな簡単な事なんですよ、修行って。

それ、そう言うの難しい言葉では不思量って言うんですよ。不思量底を思量せよ。人間の考え方の範囲じゃないんです。どうしたらそうなれるとか、なるとかって言う、一切そんな問題がない。パン!この通り触れてると、一切ついてないんだよ。良いとか悪いとか大きいとか小さいとか、そうあるべきだとかそれじゃいけないとか一切ない。

本当にその通り、こうやって音がパーンとしてそれでいきなり聞こえて、それで終わり。何処にも跡形もないほど、残りもしない。こんなにきれいさっぱり、清清しい生活をしてる。

その事実に触れるって言う事ですよ、坐禅をするって言う事。坐禅をして何かするんじゃない。何もしないと、そう言う事よーく分かるじゃないですか。見たものや聞いたものにすぐ自分の見方や思いをつけるから、分からなくなるじゃない。それは修行じゃない。修行ってそう言う事じゃない。そう言う事がずーっと法輪を転ずるって言われる中に説かれて来た事です。

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転法輪 Ⅲ

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「衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり。」悟りをも超え、悟りにも用のない人になる。そんなものを尊ぶ気配があったら、つまらないでしょうが。どんなに綺麗な物を眼は見てもですね、それをずっと眼に焼きつけたまま生活してる様な眼だったら、眼の役に立たない。物が見えなくなっちゃう。眼はどんな素晴らしいものを見ても、その通り見えただけで一切眼に遺さないから、何時でもこうやって何処に触れてもその通り見えるんでしょう。

耳だってそうでしょう。どんな素晴らしい事を聞いたって、そのものを耳に残してる様な耳だったら、次の音声を聞く時に、皆邪魔だ。一切持ち物が無い、そう言う生活をしてる。身体全体そうでしょう。さっき生活した様子を今蓄えてる人は、一人も居ませんよ。今生活してる様子だけですよ、何時も。否応なし先ほどの様子は何処にも無い。それが今生きてる様子だと言わせるんでしょう。先ほどの様子が残ってたら変ですよ。生き活きした生活なんか出来ませんよ。

だけど考え方って言うのはしつこいもんだから、終わってしまった事なのに、在る様に必ずやるんですねぇ。そりゃ思えたら思えるって言う事が出て来るから、間違いなくそう言う事が思えたには違いない。だけど思えると言う事と事実は違いますからね。ね。さっきああ言う音がしたって思える事と、音がしているパン!事とは違いますからね。思えた中にはその事実は無いんですからね。

あの時にあの人に叩かれたって思ったって、無いですからね。そう言う事を皆さん自分の事だからはっきりして下さい。それがはっきりしないと、色んな事が思えると皆騙されるじゃない。で、隣の人に聞いて、この前あの人が私叩いたよねったら、ああ知ってるよ、私も見てたからってやる。ホラやっぱりあの人叩いたじゃないって、間違い、私が言ってる事間違いないよねって。間違いないねって言う話になると、いかにもここに叩いた様子が残ってる様に理解してるでしょう。そりゃ思いの上の展開だけであって、事実が展開してるんじゃないんですよ。そう言う事はこうやって少し話せばわかるでしょう。どっちがおかしいか。百人中百人が殆どそう言う生活をしてるから、普通の人と話をしてもですね、気がつかないんだよね。

それでこういう仏祖と言われる様な人と出会うとですね、初めてその真相をしっかり知ってるから、どうって言って、こう言われると、ああなるほど、そう言う事かって、少し眼が開けるじゃないですか。思い出さなくたって、何も問題ないでしょう。エー、思い出さないと生活に支障が生じるなんて事ないでしょう。損しちゃう事ないでしょう、別に。あいつこの前俺を叩いたって忘れちゃったら損しちゃうとか。仕返ししてやらなきゃって思ってるけど、仕返しなんか要らないでしょう。別にそんなものがない方が、爽やかな生活が今出来るのでしょう。叩かれた事は間違いないかもしれないけど。

今やられてないんだから良いじゃないですか。今やられてないから、思い出したからって、これ危害加えられる事は一つもないでしょう。どうですか。この前叩かれた事を思い出した時、これに危害が何か加えられますか。そんな事無いでしょう。思い出して、それ思い出した事によって危害を加えられるんだったら、大変ですよ。

危害を加えるのは、自分がそう言う事を思い出したものに対して、自分であの野郎って、それが自分をいじめるんですよ。向こうじゃないですよ。思い出した事に対して、自分が、又つまらない事を自分でそう言うに思う。だから思い出した事は別に問題無いじゃん。思い出しただけだから、それで終わればいいじゃない。ほっときゃ必ず出てきただけで終わるさ。

音と同じ様に、パン!音がした時だけ聞こえる様に、思った時だけそのことがあるだけで、思ってない時は続く事はないから、大丈夫。エー。思ってない時まで続く様だったら、それは何とかしないと変になっちゃうからね。ところがうまく出来てるじゃない。思った時だけその事があるだけ、そう思えるだけ。だけど思った途端に、自分の考え方で相手にして行く。そうすると何時までも相手にしてる間はなくなりませんからね。

これがどうだ、これがどうだ、これはどう言う事だったって言って、手放さないんだものその事を、思い出した事を。すっきりする訳がないじゃない。握っといて、どうやったら放せるんだろうって考えてる。これ握っといて(物を握る)これがどうしたら手から放す事が出来るんだろうって考えてる。愚かでしょう。どんないい考え方が出来たって、握ってる間は離れませんよ。ああすれば手放れる、こうすれば間違いなく手放れるって結論を出したって、絶対離れませんよ。手放すって事はただこれだけですよ。(持ってる物を放す)他に難しい事何も無い。

「仏祖の師資なり、」師匠と弟子の様子として、「仏祖の皮肉骨髄なり。」この身体全体、どれを取り上げても、そう言う真実の在り様があるじゃないですか。それから例え従来の兄弟、それから全ての人々、衆生ですね、今まではそう言うものの、兄弟とか衆生とか分け方をして来たんだけども、ものがよく見えてみると、先程来話をしてる様に、本当にこのものの活動だけじゃないですか。

今日まで物を見て来たって言うけど、色んな物が在る在るって言って来たけど、それ何かったら、一人一人が見た物だけですよ。本当に自分が見た物だけですよ、在るって言うのは。自分の眼で見た物だけですよ。一切他の人の見たもの無いですよ。嘘だって思う人居るかしら。今だってそうでしょう。ここに色んな物、こう在る在るって言うんだけど、皆それは自分の見てる様子ですよ。他の人の眼で見てる様子なんか一切無いですよ。

あの人があんな事言ってる、この人がこんな事言ってるって聞くんだって、皆自分の耳で聞いてる様子ですよ。他の人の身体で聞いた音声は一つも無いよ。これから、ああ鳥が鳴いてるとか、虫が鳴いてるとか、猫が、犬が、赤ちゃんが茶碗の音がするとか歩いてる音がする、色んな音がするんだって、皆自分の耳で聞いてる様子だけですよ。それだのに向こうの音って言う風に理解してるんでしょう。自分の事とは別な事だって言う風に理解してませんか。一番厄介な事ですね、これね。

「仏祖これ兄弟なるがごとく」ってあります。それ位向こうとこっちが隔てがなく親しくなるんですね。ものが本当に分かると。自分を立てれば相手が必ず出てくる。自分を立てない時は、向こうとこっちの隔てがない。だから無私公平とか言う言葉使うでしょう。私が無いって言うのは一番公なものの在り方。上に立つ人は必ず無私公平でなきゃならない。私を問題にしない。そうすると公にものが見える様になる。私を立てたら必ず問題になるな。仏教では無願と言う事を言うんですよね。願を立てない。無心とも言う。心らしいものを立てない。それはものと本当に親しく一つになって生活してる時の在り様です。それを仲良しと言うでしょう。

赤ちゃん、何歳位までかな、三つ子の魂って言うから、大体緑子は三歳位まで、昔の人はそう言う事が、人間で行われてたと言ってるのでしょう。三つ子の魂百まで。私が見てるって言う赤ちゃん居ないからね。物を見て、私が聞いてるとか、私がおっぱい飲んでるって、そう言う認識をしてる赤ちゃんは居ないからね。飲んでるんだけども、これがおっぱいだって、、これが水だって、そう言う風な認識はない。認識は無いけど、水とおっぱい飲ませて、違う事がおのずから分かってる。

音を聞いてると思わないけどパン!(両手を叩く)こうやってやると、パン!(別の場所で叩く)こっちでやると、こうやって首を振る。ああ、それを見て大人は聞こえてるんだなーって安心する訳ですね。だけど赤ちゃん自身は、音を聞いたともなんともない。それ位自分を言うものが一切なしに、その音の通りに生活してる。『一人発真帰源』。

そう言う事が三歳位まで行われてて、人間の大人の脳と比べると、人間の脳の八割位は三歳迄にって言うのが学説でしょう。それで人間は育ってるんです。三歳までの間は一切自分て言うものは出て来ない。知らないんだよ。こうやって触れても、見てるとも何ともない。この通りこうなるんだけど、見てるとも何ともない。無感覚ではない。だけどこれが感覚だとか言って言う事もない。不思議な、兎に角不思議だね。

あの三歳位の間にですね、自我心が芽生えていたらですね、お母さん何で言うの?お父さんて、必ず反発されますよ。一切反発が出ないって言う事は、自我心が全く無いからですよ。赤ちゃんに。素直でいい子だねと親が思うけど、自我心が無いから素直になるしかないじゃないですか、エー。対立するもの持って無いんだもん。で、ものが分かるって言う風になるって事は、自我が芽生えたという風に言われる訳です。そうすると厄介な事になり始めるでしょ。何で言ってる通りにやらないのかと。

で、大人の方は、自分が言った通りにやる様に育てたいもんだから、そうすると、その通り育つと良い子だって言うけど、そうでないと何でって言っていじめるから。何を言われてるか、子供は分からないんだよ、本当は。それ位私達は自分の考え方を子供に押し付けて、何か自分の思う様に育てる事を、教育だと教えられちゃったね。本当は違うんじゃないかな。こうやって、『一人発真帰源』て、こう言う在り方を、本当に学ばせると言う事が真の教育じゃないのかね。

何回も繰り返すけども、だから例えそれが間違ったものでも、って言う様な事がここに出て来る。軸にある文言ですね。例えそれが「偽なりとも」、今のこの句は「超出の句」って言うのは、取り扱った人が、どう言う人がそれを正しく取り扱うかによって、価値が出て来る。

「たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、」首楞巌経と言うお経の中に書いてるからって言って、安易にそれが正しいとか間違っているとかって言う取り扱いをするのはどうかなと言ってる。そう言うのは、ものを学ぶのに力の無い人だと言ってるのね。鵜呑みにするのは駄目ですね。

どんなに素晴らしい人が話しをした事でも、鵜呑みにしてそれを善しとするんじゃなくて、検証、その内容をですね、自分の身心を、この身体を通してですね、実際に実践してみて、本当にどうなってるかって言う事に触れてみて、ああなるほど間違いないって言うその確証があって受け入れるって言う事が、ものを学ぶって言う事ですよね。

皆さんが色んなものを学ぶ時だってそうじゃない。分かりましたって言う時見てごらん。必ず自分のこの身心を通してやって、実践して、あ、こう言うことだったんだって、あ、なるほどこうすると、言ってる通りこうなるなって、それがあると自分のものになるのでしょう、初めて。それ迄は学んだって言ったって、自分のものになってないから、学んだうちに入らないじゃないですか。記憶をしてるだけじゃない、そう言う事を。それじゃ使い物にならないじゃない。だけど力のある人って必ずやるじゃない。

実践しないで、色んなもの書いてある本を一杯部屋の中にずーっと本棚にこう並べといて、何か質問したら、あ、この本にそう言う事が、答えが書いてありますよ、って出してきてどうするんだろう。エー。楽譜だって必ず楽器を通して音を出して初めて、楽譜の価値があるのでしょう。楽譜を並べておくだけでは音が聞けないんだよ。ベートーベンの書いた楽譜をここに置いといたって、別に音がする訳じゃない。だけど音がすると、ここに居る人が無条件で、音に触れただけで、皆その通りになってる。

実物ってそれ位人を教化する力が持ってる。何も知らない人が音をきいただけで、音の通り全部否応なしに変わって行く。すごいもんですよね。有難うって一言言っただけで変わる訳ですよ。だから人が聞いて。頭一つ下げただけで人が変わる、それを見て。そうやって使う。これ(身心)幾ら使ったって減らないもんだから、良いんだよ、使って。でもあいつだけには頭下げたくないって言う様なことは、厄介だね、何時までたっても。

「参学眼睛とすべからず。」こう言う様なものの学び方が間違ってる人は、眼が開いてる様な風には言われないって言うんでしょう。「而今」て言うのは今ですね。今の句を諸々の句に比べて、あーだこーだって言う様な事、「比論すべからざる道理おほかる」「そのなかに一端を挙拈すべし。」その中の一つを今日は道元禅師自分で取り上げたって言う事ですね。歴史の中にそうやって、あのお経は偽経じゃないか、本物じゃないじゃないかって言う様な事を言ってるものでも、見てみると、こう言う風に自分のお師匠さんがそれを取り上げて、それを話始めると、その元に書いてあった偽経とか云々とか言ってる様な事と全く違う味わいがするって言う事でしょう。

転法輪 Ⅱ

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まあそこで、そう言う首楞巌経にある一句を、如浄禅師がお釈迦様の言葉として持ち出して、それに対して自分の言い分が次に挙げてあるね。「師拈云、」って言う事は。如何言う事を言ってるかというと『既是世尊所説、』お釈迦様のおっしゃってる事だと。『未免尽作、奇特商量。』たったこれだけの言葉でですね、今私が話しを展開した様に、この言葉の内容がこうやって取り沙汰される訳じゃない。

商量って言うのは商いですよね。大根一本ここへ出して、あなた幾らで買う、あなた幾らで買うって、私がじゃあそれで良い事にしようって言って決める。そう言うの商量って言うじゃん。お互いにやり取りして。値段ついてませんからね。最初ね。畑に植わってる大根、値がつくまでにはそうやってやるじゃん。ありとあらゆるものそうでしょ。初めから値段のついてるものなんか一つも無いでしょ。そう言うの商量って言う。

お坊さんの世界では、あの、真実の在り様がどうあるかって言う事を、お互いに言葉をかわして探るって事が商量するって言ってます。問答って言って良いでしょう。そう言う事があるけども、『天童則不然、』お釈迦様はそう言う言い方をしてるけど、私ならって言って如浄禅師が自分の心境を言葉にだして、こう言っておられる。

『一人発真帰源、乞児打破飯椀。』物乞いをする子供ですね。上の方丈の間へ行ったら、良寛様の書いたものがかかってましたけども、お坊さん達は自分で物を作るって事をせずに来たから、托鉢をして人に物を食物を乞い、そして修行の足しにして、生活の足しにして行った。それから、そう言うのを乞子と言います。乞食じゃないですね。

飯椀を打破すって言う事は、食べる器ですね、お椀、お椀を壊すって言う事は、用が無い人になるって言う事じゃんね。人に乞わなくても、人から貰わなくても、もう自分だけで十分満足の行く人になったと言う意味です。それは修行が終わったと言う意味です。まだ食べないと腹が一杯にならないって言うのは、お腹の空いてる人じゃん、一生涯、いつも腹を減らしてる人は貪りの心しかない。満ち足りてる人は、何時でも満ち足りてる。

「美食飽人の喫に当たらず」って言う句がありますけど、お腹が一杯になったら、どんなに旨い物を目の前に出されても用がないって言ってます。要らない。ねぇ、本当にそうでしょう。腹一杯になったら、どんな美味しいもの其処へ出されたって、食べたい気はするけれども、身体がもう要求しない。受け付けない。それを無理して食べたら、ゲボッって言う。気持ち悪くてしょうがない。そんな愚かな事はしない。それ位自分自身が満足するとですね、もう欲しがらなくなる。

ものが欲しい間は自分の中に不足があるんでしょう。なんか不足してるもの有る様に思ってるから、ものを欲しがるんでしょう。すぐ何か欲しがる人はそうじゃないですか。何か欲しがるのは、自分の中に足りないと思ってる。

人間使ってるこの眼はですね、何も持ち物がない。不思議な道具ですね。向かうと必ず、その事がすぐそのまま戴ける様になってる。そのまま戴けるって言う事は、必ずその通り見えるって言う事ですよ。エー、その事が。自分のものにする訳じゃないんだけども。その時にその通りその事が見えたら、それ以上欲しくないでしょう。どうですか。それに向かってその通り見えて、それ以上何かつけたら、この通り見えてると言う事じゃなくなっちゃうもんね。変な事になるでしょう。

だけど人間の思いって言うのは、こうやって見てて、これ以上に何か見える事を望むんですね。ものを知らないって、恐ろしい事をするんですね。とんでもない事をするね。これで100%大満足なんでしょう。これに向かってこの通り見えたら。違いますか。どんなもんだってそうでしょう。それに向かってその通り見えたらそれで何の不足もないでしょうが。それが綺麗なと思っているものであろうが、汚いと思っておるものであろうが、気に入らないと思っているものであろうが、好きだと思っておるものであろうが、どんなものでもただその通り見えるんですよ。

だけど残念ながら人間の好き嫌いの思いを其処につけると、それだけで居れなくなる。目が眩む。とんでもない事を考える様になる。こんなもの見たくもないって言う。エー、見えてるのに、こんなもの見たくもないって言う、変でしょう。今食べた味がしてるもの、何だこんなものって吐き出す様になるって事でしょう。変でしょう。今生きてる、実際にこの身体でやってる事を捨てたら、人は何処で生きるの? 生きる場所なんか無いですよ。満足の行くって言うのはそう言う事ですよ。皆さんそれぞれ自分の事だから、よーく見て下さい。

で、ここに五祖山法演和尚、仏性法泰和尚、夾山圜悟克勤和尚、そして大仏は道元禅師ですね、4人がこのお釈迦様がおっしゃった『一人発真帰源』と言う、その事に関して、それぞれ自分の、何だろうね、境地と言うか心境と言うか、そう言うものを、各自自分の表現をしておられる。それが其処の句です。

五祖法演山禅師のを見ると、『十方虚空、築著磕著』一々本当に何もかもそう言う風に成ってるなぁって言うのが『築著磕著』でしょうね。『十方虚空』ありとあらゆるものが、本当におっしゃってる通り『一人発真帰源』そういう様子で出来てるって言う。

仏性法泰和尚さんの『十方虚空、只是十方虚空』と読むんでしょう。本当にその通りだ。何もかもって、言ってる訳じゃん。夾山圜悟禅師は『十方虚空、錦上添花』ああすごい、すごいなぁって。素晴らしいなぁって。綺麗な上に又綺麗。素晴らしい上に又素晴らしいって言って、その内容に触れた時に、自分で大満足がやっぱり行ってるんでしょう。綺麗な句だね。

道元禅師は『十方虚空、発真帰源』パン!(両手を打ち合わす)おっ、この通りだ、って言っているのでしょう。これはこの通りだって。他のものを持って来ないですよ。この音を聞くのに、パン!道元禅師と言う方は。これはすごいでしょう。

皆さんだって、この音を聞くのにパン!他の音を持って来てこの音を聞くって言う事は絶対しない。本当にこの音を聞くのには、この音だけで、パン!一つも他のもの要らない。それよく分かるでしょう。どんなものだってそうじゃん。そのものを本当に知りたかったら、そのもので、他のもの一切用無いじゃない。こう言う処に道元禅師と言う方の力がよーく分かるね。

さて、まあ其処までざっと行って、今取り上げた物はですね、首楞巌経と言うお経の中で言われている事だけど、この言葉はですね、先ほどちょっと補注で読んだ様に、かって数人の人、祖師方が同じく、ここでは五人がこう取り上げてあるんですけども、「挙しきたれりいまよりこの句、まことに仏祖骨髄なり」眼のはっきりした、物を本当によく知ってる人が正しく取り上げれば、みんな素晴らしくなると言っておられますね。力の無い者が取り上げたら滅茶苦茶になると言う事が、ここに言われている。まことに仏祖骨髄とか仏祖眼睛と言う言い方はそう言う事です。

何故そう言う事を言うかって言うと、首楞巌経のものはこれを偽りのお経だって言ってる人達が居る。一方ではそうではないと言う両者の説がある。行ったり来たりしている。で、どちらが本当かって言う。定かでないと言ってる訳ですね。これはそもそも、お釈迦様が亡くなった後に、唐の時代に、神龍年中ってありますが、唐の時代にインドの物を訳された人が居る。それは、その訳した人が問題になるのでしょう。

旧約と新訳、聖書にも旧訳と新訳がある様にですね、お経にも訳した時代によって、新訳、旧訳があって、下にも脚注があると思いますが、玄奘三蔵、皆さんがよく知ってる玄奘三蔵、孫悟空の西遊記の元になってる人ですね。それは新訳と言ってですね、言ってみれば、原語を訳す時に、かなり意訳に近い、内容を十分に分かる様に中国語に変えている。旧訳の人達のものは原文をなるべく原語に近い硬い訳をしたんですね。

私が今喋ってるのは、多分新訳の系列です。この眼蔵を読んでいるのは。旧訳の人の様な眼蔵の訳仕方をすると、恐らく聞いていて分らない。それは熟語を一つずつ解説して行くから、熟語を一つずつ解説しているうちに、文脈が切れちゃう、皆。新訳はそうじゃない。大まかに大体如何いう事が言われてるかって事を、ざっと説かれるから、非常に分りやすいと言う事でしょう。まあそれはさて置いて、「疑著するところ、」とあります。疑う処、眼のつけて疑う処はそう言う風に最近、当時で言えば最近訳した人の、その人の訳を疑う。原文を疑っていると言う訳ではない。それは一杯ありますよ。

今何か西郷どんとかって言うNHKの大河ドラマが始まってるのかな。それでこの前、林真理子さんて言う原作者が話してた。司馬遼太郎さんて言う、こう所謂歴史書物ではかなり権威のある人とされている。だけどあの人の書いてあるものは脚色したものが多くて、歴史の事実として信用するに足りないものである、と言っておられた。吃驚しますね。

あの人が書いてあるものは歴史上本当にある様に殆ど理解してる。もっと原文を沢山読みなさい、資料を。現実に残ってる資料を
読むと違うよって、それが歴史を正しく認識する道だって言う事をおしゃっておられた。だからあの人の書いてあるものをそのまま引用して歴史として登用するのは、バツだそうです。

私の知ってる方でも、司馬遼太郎さん本当にぞっこん惚れ込んでいる人がいて、あの人の言う事皆本物だと思って、話をする時、私に伝えてくれる人がいる。そう言うの聞いてて、なるほどなあって、私も最近思いました。

それ仏教に関しても、私は最近そう言う事を思う事があります。原典があるんだけども、その原典をどの様に訳して近代に伝えてるかによって、修行の方法が全く違う、全く違いますね。訳す人を疑うって、道元禅師はウンウン、と思いますね。

それだけども、そう言う事も現実にあるけど、それはさて置いて、この様に眼のしっかりした、開いた人がですね、取り扱ったら、皆素晴らしいものに成るんだよとおっしゃってる。もうそこから違うんだって。同じものを扱ってるんだけども、ものは同じ様に扱ってるんだけども。食材が同じだって、料理だってそうじゃないですか。腕の良いコックさんがそれを扱うと、皆さんがもう一回食べに行こうって言う様なお店になってるでしょう。

刺身って言うのは料理かなって思うんだけども。刺身は包丁さばきの腕が問われる、と言われてます。要するに包丁をきちっと研げて、そして切る事によってその切れ味によって刺身の出来不出来が決まる。そう言う料理なんですね。別に味付ける訳でも何でもない。煮る訳でもない、焼く訳でも蒸す訳でも何でもないですよ。不思議な料理だと。包丁人て言います。

同じ紙の上に絵の具を塗るんだけど、価値があるものになるかならないか、そう言う事でしょう。白い紙の上に墨でグジュ、グジュ、グジュっとすると、書いた人の力によってたちどころにそれが変わるんでしょう。

あいうえお、いろは48文字しかない。あの48文字を使って、歌を詠んだり、詩を書いたり、文章を書いたり。ねぇ。あれ以上増える訳ないじゃないですか、字数が。アルファベット27文字。それであんなに言葉が沢山喋られる。もう色んなものを見ても、そう言う事でしょう。使う人によって著しく価値の違うものが出て来る。そう言うものを後の人がそれを見て、学んで自分も使える様になるって言う事が、文明として伝わって来るのでしょう。

ここにこんな事が、例えですね、瓦とか、今の、なんだろう、煉瓦と言う様なものですね。「瓦礫なりとも、」それから「黄葉なりとも、」って言うのは紅葉ですよね。黄色くなった葉っぱ、紅葉した。「優曇華」って言うのは少し珍しい花でしょう。「金襴衣」綺麗な金ぴかのものですね。まあそれは一口で言えば、どんな物でもって言う事でしょう。立派な物だと思っているものつまらない物だと思っているもの、どっちでもって言う事でいいでしょう。兎に角そう言う物でも、仏祖方がそれを取り上げれば。

その物の良し悪しを論ずるんじゃないんですね、仏祖って。本当にどうなってるかだけなんです。自分の思いとか人の思いとかじゃなくて、ものが本当にどうなってるかって言う事が問われる。それが仏祖達のものを取り上げる時の皆さんに見せる時の真意なんですね。

価値があるとか無いとかって言うんだけど、物には別に価値のある物と無い物とある訳じゃないですよ。人がそれに対して条件を入れた時に、その条件にかなうと暫く価値のある、その時には価値のある物として評価される。で条件が変わると先ほど価値のある物がですね、価値が無くなることもあるんだよね。邪魔になる位酷い物になる事もある。だから物自体には優劣は無いです。価値のある物無い物って、そう言うものついてない。そこまでものの真相に触れる必要がある。

人間もそうじゃないですか。お互いに。立派な人とかつまらない人って言われるけども、本当はそんな事ないでしょう。絶対ないですよ。その人でなければ、他の人が変わってやる事が出来ないんだもん。一人一人。何億人いたって自分に変わってくれる人なんか世の中にいないんだよ。それ位のものですよ。それだのに、勝手に自分が詰らないものの見方をして、どんどんどんどん価値を自分で下げてる。そう言う見方しかしないから、そりゃ行き詰るに決まってますよ。人間、そうなったら。ね。仏道ってそう言う事を救ってあげる道でもあるじゃないですか。自分自身で。

「仏祖すでに拈来すれば、仏法輪なり、」だから指一本こうやって挙げて、(指一本挙げる)法を説く訳でしょう。何やってるんだろうと思うでしょう。こうやって。ものが分かる人は、こうやってやられたら、それで頷くのでしょう。ものが分からない人は、こうやった時に、先ずそれは何だろうって考え始めるんだよね。これは勉強にならないですよ。良いですか。言っときますけど、こうやった時に、それは何だろうって考え始めたら勉強にはならない。見てるんじゃない、もう既に。

それは何だろうって言う様な処から、もう考えてる事を相手にしてるんです。次、今見えてる事を相手にしてないですよ。分かりますか。そうなるの、考え始めると。それは何だろうって思って、思い始めた時には、こう見てる事から離れるんです。考えてる方の事を相手にしてるんです。分かりますか。

パン!(打掌す)こうやって音がして、今した音は何だろうって尋ねたって無理じゃないですか。音はしてないんだもん。ねぇ。音を本当に知りたかったら、音がしてる時に用がある。音が鳴り終わってから、今のは何だろうって言って尋ねたって、影を追う様なもんでしょう。それずれてますよ。そう言う事ですよ。

だから『一人発真帰源』と言うのは、いつでもいきなりその事がその通りに今、ずれずに行われている様子です。これから修行して、そこに行って初めてそう言う事に触れるって言う様な、そんな事じゃない。ポンを言ったらいきなりそうなるでしょう。

これははっきりしてるでしょ。こうやったら。(物を見せる)要するにこの通り見えない人は誰も居ない訳でしょう。自分には学問が無いとか、仏教の素養が無いとか初めて来たとか、若いとか色んな事を条件出してみても、そんな事関係なく、こうやったら誰でもこの通り見えるんでしょ。それがはっきり見えないって人無いでしょう。何だか分からないって見え方してる人は居ないでしょう、こうやって。どうですか。

はっきりしてるんだけども、考え始めると、それは如何いう事だろうって言うと、もう分からなくなる。分からなくなるって言う事は、見えてないんだもんね。それは如何いう事だろうって言う風になった時は、もう見てないんだよ。こっちの中であれは如何いう事だろう、あれは如何いう事だろうって頭の中でやってる事を相手にしてるから、こうやってる時(物を見せる)こんなにはっきりしてるんですよ。

皆さん迷うって言う言葉を使うけど、迷うって言う前には、必ずはっきりしているって言う事が先にありますよ。はっきりしている事に対して疑いを起こすのを迷うって言うんです。初めから分からない事じゃないですよ。必ず最初ははっきりしてますよ。どれだって取り上げて御覧なさい。最初に分からない事はない。皆ちゃんとしてますよ。実物だから。事実だから。その通りの事が展開されてるんだから。はっきりしてますよ。

だけどそのはっきりしてる事に対して、人間の知識って言うのは、自分が生まれてから後に得た知識の中で、それに該当するものが見つからないとですね、分からないと言っちゃうんだね。変な動物だね。分かるってそう言う事じゃないですよね。

何か持ってこなきゃ、お茶一杯飲んでもですよね、何か他の物を持って来て比べないと、お茶の味が分からないなんて事はないじゃないですか。そのものだけでちゃんと分かる様になってるんだけども、言ってみれば、他に飲んだお茶の味と比べると、この味がどう言うことかって評価できるって言う風になってる。勉強、殆ど。単独にこれだけだと評価のしようがないんだよね。

そうなると分からないって言っちゃうんだよね。お茶の味ちゃんとしてるんだけど。比べなくてもちゃーんと分かる味がしてるんだけど。あれよりこっちの方が濃いとか、あれよりこっちが甘いとか苦いとか、暖かいとか冷たいとか言う風にして何かこれがはっきりする様に思ってるんだよ。そうじゃないのね。

だけどもよーく考えてみると、そんな事しなくても、これだけで皆はっきりしてるんじゃない、今飲んだ時。だって他の味しない位はっきりしてる。良いじゃない。エー一切他の味が出て来ない位、その通りの味だけがしてるんだから、迷い様がないじゃない。そう言うものが『一人発真帰源』と言われる様子でしょう。最初から。

だけども訳をすると、間違った訳をすると、一人の人が真実って言うものはどう言うものだって言う事を探し始め、発真ですね、そして源に出くわすとって言う風に訳すとですね、全然意味が違うでしょう。全く違う事になるんですよ。時間をかけて、其処に辿り着かないとならない位の言葉、内容に変わっちゃうんですよ。

これを、パン!(打掌す)聞くのに、時間も距離も何もないじゃないですか。何かやり直した事一つも無いじゃないですか。パン!こうやって。いきなりそのものがその儘でちゃーんと、何もしないのに聞こえてる。こう言うスタイルでしょう。だからこれが分からないと修行する人もさせる人も、もの淒い時間のかかる様に指導するじゃないですか。邪魔なものがあるから外しなさいとか、まだ行き着いてないから、一生懸命そっちへ行きなさいとか言う様になるじゃん。

パン!何処へ行くの?これ聞くのに。何を力をこめて、パン!一生懸命やらなきゃならないものがある、一切要らない事じゃないですか。もし何かそうやって少しでも何かする様な気配があったら、この事からパン!離れて行くじゃないですか。この事に余分な事をつけるじゃないですか。折角生のパン!きちんとしたものを伝えてるにも拘らず、自分でそれへ色んなものをつけて。それがものをはっきりさせなくするのでしょう。

よく分かりました。じゃこれから一生懸命やります。よく分かってないよね。これから一生懸命やる様な話じゃないんだ。じゃやっぱりそれだけ聞いても、自分の中にまだ、今到ってないと言う思いを抱いて、ものを学ぼうとしている。厄介な事だね。パン!何処で一生懸命やらないと、この通り聞こえないって言う、そんな事がありますか。何もしなくてもいいじゃない、そのまま。ちゃんと、こうやって。

腹もたたないし、不満も起きないし、もっと他の聞こえ方をしなきゃ許さないって、そんな事は一切無い。これだけで、この音を聞いて全部すっきりしてるでしょう。そう言うもの朝から晩までずーっと本当にこの体験してる訳でしょう。それだのに自分の事だのに、一つもそう言う事触れない。それが人が困っている原因なんでしょう。そう言うな事が解かると眼が開く。

転法輪 Ⅰ

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正法眼蔵 第六十七   転法輪


「先師天童古仏上堂挙、世尊道『一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞』(先師天童古仏上堂に挙す、世尊道はく、『一発真帰源すれば、十方虚空、悉皆消殞す)』」

「師拈云、『既是世尊所説、未免尽作、奇特商量。天童則不然、一人発真帰源、乞児打破飯椀。(師拈じて云く、『既に是れ世尊の所説なり、未だ免れず尽く奇特の商量を作すことを。天童は則ち然らず、一人発真帰源すれば、乞児飯椀を打破す。)』

五祖山法演和尚道、『一人発真帰源、十方虚空、築著磕著』。
仏性法泰和尚道、『一人発真帰源、十方虚空、只是十方虚空』。
夾山圜悟克勤和尚云、『一人発真帰源、十方虚空、錦上添花』。
大仏道、『一人発真帰源、十方虚空、発真帰源』。

いま挙するところの『一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞』は、首楞巌経のなかの道なり。この句、かって数位の仏祖おなじく挙しきたれり。いまよりこの句、まことに仏祖骨髄なり、仏祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞巌経一部拾軸、あるいはこれを偽経といふ、あるいは偽経にあらずといふ。両説すでに往々よりいまにいたれり。

旧訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、仏性泰和尚、先師天童古仏、ともにこの句を挙しきたれり。ゆゑにこの句すでに仏祖の法輪の転ぜられたり、仏祖法輪転なり。

このゆゑにこの句すでに仏祖を転じ、この句すでに仏祖をとく。仏祖に転ぜられ、仏祖を転ずるがゆゑに、たとひ偽経なりとも、仏祖もし転挙しきたらば、真箇の仏経祖経なり。親會の仏祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇華なりとも、たとひ金襴衣なりとも、仏祖すでに拈来すれば、仏法輪なり、仏正法眼蔵なり。

しるべし、衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり。仏祖の師資なり、仏祖の皮肉骨髄なり。さらに従来の兄弟衆生を兄弟とせず。仏祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ偽なりとも、而今の句は超出の句なり。仏句初句なり、餘文餘句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、参学眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を挙拈すべし。

いはゆる転法輪は、仏祖儀なり。仏祖いまだ不転法輪あらず。その転法輪の様子、あるいは声色を挙拈して声色を打失す。あるいは声色を超脱して転法輪す。あるいは眼睛を抉出して転法輪す。あるいは拳頭を挙起して転法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空ととるすなはちなり。仏祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨あきらかに転法輪なり。転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、長連床上に請益辨道するをいふ。」


「先師天童古仏上堂挙、」色んな所にこう言う転法輪って言う様なものが書かれているかも知れない。皆さんが知ってる絵柄としては、船に乗った時に舵があるじゃないですか。方位がこう、丸いものにこう十方に柄が出てる、ああ言うものに法輪って似てますが、要するにタイヤですね。今で言えばタイヤ。車のタイヤ、法輪。それを動かすという事は、あっちこっちに赴くと言う事になるでしょう。法輪を転ずると言う事は、皆さん車で走ってる。どこかしこ走ってる。バッチなんかでも見た事ありますか、法輪って。舵の様なあります。まあいいか、その位で、法輪。

お釈迦様がですね、だから教えを説かれる時に、そう言う車に乗って、色んな所へ行ったと思ったら良いと思いますが、その車の輪ですね法輪。輪はですね、今風に言ったら、どんな所へ行ってもですね、この雪が深くなったり、アイスバーンになったり、砂漠の様な所へ行ったり、色んな所へ行ってもですね、へこたれない様な輪なんですね。(フッフッフッ)一切のものを砕いていく力がある位の、力のあるものが法輪と言われてます。まあ戦車の様なものかな。

そうやってものを喩て行くと、皆さんが頭の中に段々自分の事から離れて行きやすいので、もう一回戻しておきますが、このもの(身心)が一日中至る所に行って展開してる様子です。それ以外にはないですね。法輪を転ずるって。皆さん方の輪、輪、輪ですね、輪はちょっと何かあるとすぐ止まってしまったり、パンクしたりですね、色々するじゃないですか。してませんか、毎日。

このたった是だけのものがですね、面白くない顔されただけで、すぐカチンと来たり、もう物をポンと投げただけで、この野郎って動いて、すぐ身動きが取れない位詰まらない働きになるでしょう。そういうのは、法輪を転ずるとはやっぱり言えないのね。じゃどうしたら法輪を転じられるようになれるかと言ったら、自分の真相を本当に自分ではっきりさせるって言う事が、各自自分を毎日の生活の中で正しく生きていく力になる。

お釈迦様はお悟りを開いて初めて、サールナート(鹿野苑)で、ぼ五比丘(元の修行仲間)に法輪を転じたから、そこを初転法輪の地を言ってる。初めて法輪を転じた所として大事にされておりますが。ま、ざっとそんな事を話して。この中にどう言う事が記されているかって言うとですね、この最初に引いているお釈迦様の言われた句って言うものが、大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞巌経、普通首楞巌経と言ってますが、その首楞巌経の中にある言葉なんですね。

それでそれをですね、当時道元禅師が中国に渡って自分のお師匠さん如浄禅師とお会いになった頃にも、このお経は本当のお釈迦様の言っている内容が説かれているもんじゃないんじゃないかって言う事で、偽経ですね、偽りのお経ではないかって言う説を唱える方と、いやまあそうじゃなくて、お釈迦様のものだろうって言う風に唱えておられる二派があって、と言う様な事が先ず挙げられております。

これについて補注の方にいくとですね、道元禅師が宝慶年間に、中国の宝慶年間に如浄禅師にお会いになった頃に、この問題をお師匠様の如浄禅師に尋ねられた時のやりとり、答えも書いてあるので、そこちょっと読んでみますが。五百一頁ね。「拝問す、首楞巌経、円覚経は、在家の男女之を読んで以為らく、西来の祖道なりと。」今申し上げた様に、道元禅師が如浄禅師にうやうやしく質問してる、拝問す。首楞巌経と言うものと円覚経というお経は在家の男女もこれを読んでおられる。一般の方々がこの二つのお経を読んでこう言う事を言ってる。西来の祖道なりと。達磨様から伝わっている教えだと。

しかし、「道元、両経を披閲して文の起尽を推尋するに、」自分がですね、この二つのお経を読んでみると、その内容がですね、「自余の大乗諸経と同じからず。」余所の大乗経の内容と違う。「未だ其の意を審らかにせず。諸経に劣れる言句ありと雖も、諸経に勝れたる義勢全くなきものなるか。」つまらない方はあっても勝れてるって言う事はないって、そう言う風に読んでみて感じると言うのですね。

「頗る六師等の見と同じきところ有り。」六師って言うのは、お釈迦様が修行時代に、当時の思想家の代表として六人の思想(無道徳論、宿命論自然論、懐疑論、快楽主義的唯物論、無因果論的快楽主義、ジャイナ教)異なる思想を持ってる選れた人達が一応世の中にいた。その人達に言い分と殆ど同じだと言っているのですね。同じだと言う事は、つまらないと言う事を言っているのですね。

「畢竟如何が決定せん。」じゃ一体私が今疑問になってる内容、お師匠様はどの様に受け取っておられますか、と言っております。そしてそれに対してお師匠様の如浄禅師がこう言う風に話しておられる。「示して曰く、首楞巌経は昔より疑ふ者有りしなり。」疑う人がいる。「謂ふらくは、此の経は」、後の人の作ったものじゃないかと。「後人の構ふるところなるか。先代の祖師未だ會て此の経を見ざる也。」前の祖師方はこのお経を見ていない。

「近代癡暗の輩、之を読み、之を愛す。」最近のものがよくわからない人、何が何だかよくわからない人が、このお経を読んで、ああ素晴らしいって言う風に評価してるって、こう言う言い方ですね。眼のしっかりした人は、こう言うつまらないものは相手にしなかった、読まなかった、人にも勧めなかったと言うのでしょう。「円覚経も亦然り。」円覚経も又そうである。文の内容、形ですね、文相、文部省じゃないですね、文部大臣じゃない。「文相、起尽、頗る似たり。」

円覚経もやっぱりそういった内容で、偽経と疑われる節があるんじゃないかと言って、ここでは残しておりますが、今読ませて頂いた様に、そう言う事をおっしゃっておられる如浄禅師が、この首楞巌経の一句を取り上げているってこれは又不思議な事ですね。読んだんでしょうね、やっぱり。読んだからその内容がわかって、つまらないと一応言っているんです。


だけども面白いですね。例えば、ここに茶碗を今頂いてますが、徳川家康がここに来て、これでですね、出されたものをこうやって飲むとですね、(お茶を飲む)これは単なる茶碗じゃなくなるんですね。わかるでしょう。これは円通寺に徳川家康が来られた時に、お飲みになった茶碗ですよとこう言う風に変わるんです。言っては失礼だけど、百万もする様な茶碗じゃないと思いますね。これね。そんなに価値がない。だけども徳川家康が飲んだ縁のある茶碗だって事がこう認定されるとですね、なぜかすごい価値がでる。

そう言うものでしょう。どんな物でもそうでしょう。毒薬でさえも、名医が使うとこれは薬になる。人を助ける。昔、赤い紙に包んである粉薬って言うのは劇薬で、私もよく見た事があるけど、危険だから赤い紙に包んで置く。上手に飲ませるとちゃんと効くね。飲みすぎると逝っちゃうね。

山に転がっている木でもですね、あるいは海辺に漂着した木でもですね、色んな形をしてる物を持って来て、名工と言われる人達がそれを扱うとですね、素晴らしい床柱になったり、本当に誰がそれをどの様に扱うかによって、皆変わるんですね。そう言う様な事がこの中に書いてある主眼でしょうね。でそれにはどうしたらいいかって言うと、自分がそれだけの力を持たないと、やっぱり今度は逆にどんないいものが其処に在っても、皆つまらないものにしてしまうんですね。そう言う両面が説かれているんです。法輪を転ずる。

その言葉の中に「一人発真帰源」と言う句が目玉になるでしょう。読み下しでないんですね。読み下すとですね、日本人が理解できる様に、一人の人が本当のものを求める気持ちを起こして、そしてその源に到達したらって、そう言う風に読むとですね、一応わかるじゃないですか。一応わかる。一応わかるんだけども、どこにそう言う読み方をすると弊害が起こるかって言うとですね、これから何かをしてそこに向かわないと達しない様な気配に必ずなる。真実と言うものをそこに置いて、そこに帰るとか戻るとか到達するとかって言う事になると、必ず距離ができる。これはそう言う距離の無い内容です。「一人発真帰源」

ちょっとやってみますよ。こうやって、パン!(打掌す)こう言う風な事がこう言う言葉の内容を一番よく皆さんに伝える。この今音がしたものを、パン!聞くのに、音がしている所に向かって行って初めて其処に到達するって言う様な事は一つもしない。分るかしら、そう言う事。

だけども分らない人は、やっぱり、あそこで井上が手を叩いて音がしたのを、私達がこっちに居て、それを聞いて今聞こえたって、そう言う風に理解するんですね。そんな風になってないのわかりますか。パン!あなたが何処へも向かいませんよ。一つも向かわない。いきなり音がしただけですよ。で音と一つもずれてませんよ。帰源と言われるけど、いきなりそのものにズバッと居るんです。発真て言うけど。それを聞こうって言う気を起こさなくても、パン!エー何にも起こさないのに、其処に居るだけで、その通りいきなりなるんです。

これ見てごらんて言った時に、(物を見せる)見てごらんたら、必ずもうこうなってるでしょう。こう言う風に見えてるでしょう。これから何かやらないと、本当に見えるんじゃないかって、そんな必要は一つもない。これ朝から晩まで、そう言う皆さん生活してるでしょう。知ってますか。自分の事なのに。

今日も途中で電話が鳴ったから出たら、新潟の方が、本当に修行するのに何も手を付けないで大丈夫ですかって、電話が来ました。常々そう言ってるもんだから、修行するのに何もしなくてもいいよって言ってる。本当に何もしなくていいですかって。

皆さん、こうやって、パン!音を聞くのに、何かしましたか?今。エー パン!一生懸命耳を傾けなきゃとか。何も知らないうちにパン!なるでしょう。普段色んな音がする時だって、皆そう言う風に聞いてるでしょう。それは物を見るんだって、こうやってやった時に、別に何もしなくたって、こっち向いたらその通り生けた花があったり、字が見えたり、皆ちゃんとその通り見えるんでしょう。そっちのものと見た内容が違って見えるなんて事はどんな物だってないでしょう。必ずその通り見えるでしょう。

やってごらん。こうやってずーっとやってごらん。(周りを見回す)その通りなる。その通り見える。敢えて言えば、首を皆さんこう曲げる位のもんですね。見るのに別に何もこっちでやってませんよ。それが本当に信じられないんだよね。信じられないからまだ何かしないと、本当に大丈夫って言えないと思ってる。それは頭の中で理解しようと思う勉強ばっかりしてるから。

実践をしないと駄目。自分のこの身体で、今どう言う風に本当になっているかって言う事の見定めを、こう触れてみてやらないと駄目です。こうやってやったら必ずこうなる。こうやったら必ずこうなる。そう言う事がここに出て来る「一人発真帰源」と言う。誰もそう言う風に本当に生きてる。その真相を述べてる。これが皆さん欲しいんでしょう。こう言う事が自分で本当に納得がいく人に成りたいんじゃない。

それを変わった言葉で言うと、悟りを開くと言うんじゃないですか。悟りを開くって言う事はそう言う事でしょう。自分自身の本当の様子触れて、何だちゃんとしてるじゃないって言って、大安心のいく人になるって言う事でしょう。それ迄は今の自分を半信半疑じゃない。疑いが殆どって、半信じゃなくて殆どかもしれない。疑いが殆ど。信じられる処は殆どないのかも知れない。だから自分の事をつまらないって大体思ってるんでしょう。

もっと別な話をするとですね、しょっちゅう来て下さっている人には、又かと思うかも知れないけども、人ってどんな風に生きてるんだろう。一日の事を振り返って見ると、朝起きてから夜寝るまででもいい、何時何処の所にこう触れてみても自分の活動してる事だけなんですよ。他の事は一切無いよね。ずーっと。 

見てごらん、さっきから、自分の勤め先かどっか知りませんが、ここまで来るまでの間どうしてたかって、この身体の様子ばっかりでしょうが。歩いて来るなり、車に乗って来るなり。全部この身体の様子がずーっとあっただけでしょう。他の事はないでしょう。この身体の上にものが見えたり、聞こえたりしてるんでしょう。それこの身体がやって来たんでしょう、全部。違いますか。何処を掴まえてみたって、この身体の今活動してる様子だけだったんじゃないですか。これすごい重要な事なんですよ。ものを学ぶのに。

多くの人の場合、どう言う風にそれを取り扱っている、或いは理解してるかって言うと、自分と他所のものがあるって言う風に理解してるんですね。それを一つ論破するために、物が色んな所に有るって言う風に皆さん感じてるのは、どう言うことかって言ったら、自分の眼で見てるだけですよ。自分の眼の上に写ってる様子ですよ。それを物が有るって言う風にしてるんですよ。それはだから向こうに物が有るんじゃないですよ。分りますか?そう言うの。分らない人?

鏡を覗くと、鏡の中に色んな物が写ってる事知ってますね。鏡の中に物は何も無いですよ。写ってる様子があるだけですよ。だけど何処へ鏡を向けても、外側に有ると思ってる物の様子全部鏡の中にある。皆さんの眼もそう言う風な働きをしてる。だからそのものに向かわなかったら、そのものにこうやって触れてない時は、そのものは絶対見えない様になってる。

物が見えるって時は、必ずそのものと一緒になってるって言う事です。しかも自分の眼の上に展開してる活動です。他の音声にしても味にしても触覚にしても嗅覚にしても味覚にしても、皆そうですよ。この身体の上に現れた物を、皆さん方は美味しいとか痛いとか苦しいとかつまらないとか、何言ってんだとか、色んな事言って、皆この身体でやってるだけですよ。向こうの人の事じゃないですよ。

一日中そうなんですよ。と言う事は、一生涯そうだって言う事ですよ。この身体一つの様子だけ。そこで、ここに一人と言う言葉が最初に出て来る。世の中のありとあらゆる事って言うのは、ただこの上に現じた事ですよ。皆さんだって一日中の様々な出来事を知るって言うんだって、この身体の上に伝えられなかったら、世の中の様々な事が有るとも無いとも問題になってないでしょう。必ずこのものに伝わった時に、その事が問題になる。在る様に思える様になる。

もうちょっと穿った事を言えば、このものの上に想起されない事、思い起されない事、映像として出て来ないものは、一切人間の自分の生活してる中で問題にしようと思っても出来ない。あれが、って言う時には必ずあるんだ、そう言うものが自分の中に、思いが、捉えてるものが。考えてないと、思い起こしてない時には、あれがって言うものはない。その時に人が苦しんだ試しがない。悩んだ試しがない。人が悩んだり苦しんだりするって言うのは、本当に自分の中で勝手に自分が、有りもしないことを思い起こして、そしてそれを相手にし始めるって言う事が、そう言う処で見てみると、よーく分かると思う。

発真帰源て、ものの、本当のものの在り様って言うものはですね、人が思っている様なものではない。人の思いを超えてます。例えば松が生けてある。美しいとか美しくないって言う、気に入るとか入らないとか、色んな事を言いますけど、こう触れてみると分かるけども、一切そう言うものはついてない。発真帰源て言うものは。純粋にその通りあるだけなんだよ。それが源に帰するって言う事でしょう。実物を本当に触れると言う事でしょう。そう言うのあんまり気にした事がないでしょう。

勉強するってただそれだけですよ。本当に勉強するのは。そこままではっきりすると、「十方虚空、悉皆消殞」と言う風になっていくじゃん。何だって言う位楽になるじゃない。一切問題が無くなる。

ものがわからなきゃ、人は疑うに決まってますよ。そうでしょう。どうなってるか、それ如何言う事だろう。どうしたら良いんだろう。考え方なんか止まる訳がない、ものがはっきりしないと。探し物だってそうでしょう。無くなったって言うだけ、見つからないって言うだけは分かってるんだけど、あれがって言ってそれを探してる物の見つからない間は、四六時中、心にかかる。気にかかってしょうがない。

だけど不思議でしょう、あの探し物って。その探してる物見つかっただけで、どうもしないのに、あんなに、どうしたら、何処にある、どうしたんだろうって、色んな事が一辺に無くなる。ここに有るよ、「十方虚空、悉皆消殞」、ああ、って言うだけ。もう一切それ以上探す事はしない。見つかった。不思議ですねぇ。止めろって言わないんだけど、見つかると止まっちゃうんだよ、全部。探すこと。気にかかってる事が本当に無くなっちゃう。そう言う体験無いですか。エー。