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「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅱ

音声はこちら ↓

とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_01
とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_02
「とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_03
「とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_04


『前に食べたものと今食べたものの違い、それは味なのではない。前にたべたものの中にある味を想像して、それを頭

の中で今食べているものと比べているのだと言われているのを聞いて、心にとても気づくものがありました。

今を理解することは頭で思った時、それは過ぎていることなのに、今と思ってしまっている。それを相手に伝える時、

どの様にするのが一番分かりやすいかを知りたいです。』



この人は少なからず、聞いて何かを、このように理解してくれたんですね。気づく事があったんですね。

一方は味の話をしているんで、一方は今食べている味そのものの様子ということが少なからずわかってる。

だけど、これ、分からない人、結構多いんですね。今食べているものの味がしてる時に、この前食べたものの味を、

話をあるいは思い起こしている。何かそこに比べる味があるように思っている。

一方は思い起こしているものであって、味じゃないんですね。あの時のライスカレーはとかって言ってるんです、それ皆、

味じゃない。それはよく分かるでしょう。何をやっているか。思い起こしているだけの話であって、

味なんかどこにもしてないでしょう。でも人間て、味だと思っているんですよ。味がしてると。

今食べている味がしている様子と比べるんですよね。天地ほど次元が違うものですよ。べる値がないに一方は。

まあそう言う事を、こうやって自分の様子の中で、話をとおして、少しこう気づいてくれた人がいるって言うので、

嬉しかったんですが。

だけど今度は、それを人に伝える時、どのように伝えるのが一番分かりやすいかと言う様な事がこの人の中に残っている。

あなたが感じた通り伝えれば良いじゃないか。あなたが気づいた通りが一番早いじゃないですか。

自分が理解出来たことでやるのが一番人に伝えやすいでしょう。自分の中で理解できてないものを使って人に話すなんて、

難しいじゃないですか。自分で理解出来たものなら、どんなにでも話ができるじゃない。

自分に理解出来てないものを扱って人に正しく伝えようと思うから難しいじゃん。格好良すぎるじゃん。

格好良く生きる事などではない。本当の自分が生活して、ちゃんと理解できた事だけでよいじゃないじゃん。一杯あるでしょう。

自分の生活している事だから、自分でちゃーんと分かる事が一杯あるでしょう。


★『少欲のところで、少しのことでも満たされる心があれば幸せであるとおもうのですが、あれが欲しいこれが欲しいと

ならずに、心が満たされる完成があればよいのではないかと思うのですが、これは少欲とは違うのでしょうか。』



これ、一般の人が考えている欲が少ないって言う事。いろいろ欲しがっている人が、そう言う人が少し欲張りをしなくなったって

言う風な意味合いの少欲。仏教で示している、お釈迦様が残された、少欲として示されいるものとは全然違うね。道理を聞いて、

少しでも余分な、欲しがる気持ちを抑えて、そうすると物が少し整理されるだとか思ってる。悪くはない。

やたらに欲しがっているものを少し制御が出来るって言うのは、悪くはない。

そう言う事と違うでしょ。お粥をすすってる時に、もうそれだけで、他のもの一切その時に持って来なくても、満喫できるんでしょ、

お粥の味を。そうやって食事を頂いてるのでしょう。そう言う事から比べると、何か少し抑えるということとは違うじゃないですか。

抑えて、やっと自分の理想的な生活に近づくと言う様な事とは程遠いね。


★『目の前に起きていることを、あるがままに受け止めると言う事は、まさにお釈迦様の言うとおりのことであり、

分別をしないということが涅槃ということはわかります。然し、お釈迦様は社会生活を営むと分別をしないわけにはいかないから、

サンガ(坊さん達の集団ですね)を造り、修行をし、道元禅師は山奥に入り修行をしています。現代の日本の僧侶は社会に身を

置きながら涅槃に到るための修行をする、なるべく毎晩坐禅をするようにしていますが、涅槃の世界は遠いです。』



こんな風にとらえているんですね。分かりますっていう割りには、何か矛盾があるんじゃないですか。

あるがままに受け止めると言う事は、目の前に起きてる事をあるがままに受け止めるという事は、

方にお釈迦様の言うとおりのことであり、分別しないと言う事が安らぎになると言う事が分かる。

なんで、こう言う風に生活しないんでしょうかね。こう言う風に生活したら別に社会生活するのに困らないのでしょう。

でもこの方は社会生活営むと、必ず分別が起きてきて、ある決まりのある集団の中で、決まりに従っていると、

分別から離れられる、だからお釈迦様はそういう規律のあるものを作ってそこで過ごしたって、思ってるんですね。


道元禅師の話もついでに出してくれてる。何で山奥に入って、修行したか。町の中に出てくると、見たもので分別が起こって

修行にならないからだと思っているんでしょう。生涯、山の中にいるのかって、誰にも会わずに。

それじゃ、素晴らしいものが自分で手に入って、見つかっても、一人で全部それを食べ終わって死んでいくだけであって、

なにもその素晴らしい味わいも分けて味わう人がいないってのは、寂しいでしょう。この素晴らしさを共有出来る人がいるから

素晴らしいのでしょう。そうでなけりゃ教えなんか伝わりませんよね。受け継ぐ人がいないんだもん。変だなって思うんだけどね。

「現代の日本の僧侶は社会に身を置きながら涅槃に到るための修行をする」これ、みんな事実のほうに目が向かないから、

こういう話になるんじゃないかね。じゃ、どうしてそう言う風に事実のほうに目が向かない様に育って行くのかって言ったら、

教える人が皆、そういう風に教えて来たってことでしょう。学校でもそう。

仏教を教えてる学校でも、そういう風に仏教を教えるのでしょう。自分の今生活している事と仏教が、やっぱり乖離してる。


そんな人はいませんよ。今生活している他に、何があるんですか。ええ。お釈迦様だってご覧のように、自分の生活している中の

様子じゃないですか、全部説いてる事は。それ以外の話なんかひとつもないじゃないですか。

昔の人だってお坊さんは社会に身をおいてたんじゃないですか。別に社会から離脱した、どっか別世界で生きてた人なんか

いませんよ。現実ばなれした処で生きてるように思っている。


お寺に来ると、皆さんもそう、お寺から帰ると世俗に戻ってて、言うんですね。ここにいるときだって、

自分の本当の生活じゃないですか。今こうやって。だけど、あそこら辺から入ってくると、何か違った世界って、うちに帰るとねって、

なんかどっかでそういう区分けをして見てる。お寺にいる間はいいけど、家に帰ると。何を見てるの、

ずーっと自分の生活じゃないですか。場所が違う位のものじゃないですか。


分別って言う言葉が出てますが、こっち来る前日、浜松にいたら、立派そうな紳士がですね、

「思慮分別って言う言葉がありますけど、それどういうことでしょうか」って尋ねられた。あなたが知ってる通りでしょうって、

言ったんだけど、思い測るということと、物を分けて考えるっていう事じゃないですか、って言ったら、分かった様な分からない様な

顔してるから。しょうがないから、もうちょっと、じゃ、何か具体的にやってみましょうって言って、あなた方こうやった時に、

手が合わさっているって言う事知ってますね。(両手で合掌の形をする)それは、思い測ったんじゃないですか。それ、思量。

分別ってどういうことかって言うと、こうやって手を合わせる処の様子があるけど、ここの(右手と左手が一緒になっている)様子は

どうなってるかって聞かれたら、知りたいから、どうしてもこうやって(手を開く)見る。くっついている処の様子って、

そこどうなってますかって言うと、こうやって見る癖があるじゃないですか。開けたら分かると思うから。

でも開けた途端にですよ、こうやってた(手を合わしていた)ところの様子から、全部離れちゃうんですよね。分別ですよ、それ。

分け隔てなの。せっかくちゃんとしてるものを、こうやって分け隔てて本当のものを見ようってする、無理です。

分別はそういう様になってる。事実を見る時には、分別したら、絶対に見えないですね。

こうやってる(手を合せた)様子を知るのには、こうやってる(手を合せた)様子の中でやらないと、こうやってる(手を合せた)ことは

分からない。分け隔てて、なるほどと見る、開いている所を見る、こうやってる。そういうちょっと話をしときました。


だって、このままじゃ(手を合わせたままでは)、分からないじゃないかって言いたいでしょうね。そんなことはない。

この通り分かっているじゃないですか。やってごらん。こうやって手を合わしている様子がこの通り分かるんです、誰でも。

こうやってるのは、手を合わしてるのじゃないって事わかってる。こうやってこんなによくわかるってる。

こんなことが毎日の中で行われている。


毎晩坐禅をするようにしてる。いい事ですね。さすが。「でも彼岸の世界は遠い」こうやって音が、パン!した時、

その通りいきなり聞こえるのに、遠いかしら。その様に、本当に音がした時、聞くのに、

どうしても時間がかかって遠くて出来ない。そんなことは無いでしょ。

こうやって見せたって、いきなりちゃんと、この通り見えるでしょ。このことを知らないんだよね。こういうことが彼岸の世界、

覚りの世界、救われてる様子だってこと知らない。

だから何か覚りの世界とか救われている世界って言うのは、どっかあっちの方にあるように思っている。


本当にこういうの、有難いアンケートなんですね、私としては。こういうことを頂くことによって、どういう風にしてこの先、話をしたら、

こう言う事が本当に理解して貰えるかって言う事を示唆されている。


『少欲の意味を今までは欲張らないことだと思っていたので、その時にその事だけをやる、という説明は

新しい発見でした。結局八大人覚もその事を説明している内容なのだとおもいました。

正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。

他人、他者との比較がなくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。』



少欲、そういうには話したはずじゃないけど。まあ、少欲は欲張らないことだと思ってたんだけど、

そういうことと違うって事にきづいた事はいいですね。

私が言ったのは、ポン!こうやってやるとほかに何も加えなくても、それだけで、

この音が、ポン!ちゃんと頂けるようになってる。

そういう生活をしてるって言う風に話をしたんですけどね。その時にそのことだけをやる、それで少欲、欲しがらない、欲張らない、

ただ本当にそのことだけで、満ち足りている、言う様な事を、こうやって一応受け取ってくれているのでしょうね。


「結局八大人覚もその事を説明している内容なのだなとおもいました」それで結構なんですけども、そう簡単に片付けられると。

「正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。他人、他者との比較が

なくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。」


人と比べなくたって自分自身の向上が望めるに決まってますよね。他の人が、どのようなことをしようが、

このものが実践しなければ、このものは向上しません。それだけです。

自分でやると、ちゃんと自分のやったことが自分の上で育つように出来ている。自覚以外の何者でもない。

気づくって言うのはみな自覚でしょう。この自分自身の身心、体や心の働きの上で気づくのでしょう。

この身体でやってないことで、何か気づけることなんかありますか。無理じゃないですか。気づくって言う事は、

必ず自分がやってることでしょう。その上でしか気づけませんよ。


音がしたって気づくんでも、他人の身体では無理。あそこに座布団があると気づくのでも、他人の身体では無理。

触っている事、他人の身体では無理、絶対。皆、自分の身体でやるんですね。その時に、その事に触れて、どうなってるかを、

人の力を借りずに全部自分の様子がわかるようになってる。


教えられないとわからないんじゃない。これだって教えられないとわからない?

ポン!音がしないと聞こえませんね、音がすると聞こえたでしょ。

そういうの聞く時に、よし聞くぞって言って構えなくても、音がすると、聞いたともなんとも思わない内に、音がちゃんとする。

そんな風に出来てるって話しをこうするじゃないですか。私がそうやって話をしたから、その事に気づくわけじゃないじゃない。

ポン!これに学ぶと、皆、私が言ってる様な事、皆、この中にあるんでしょ。

音がやむと聞こえなくなる様になってる。言われて気づいたように思ってるけど、そうじゃない。

本当は、ポン!こうやってこれに触れると、他人に学ばなくても皆その事がこの中にあるでしょう。

あんなにちゃんと聞こえたのに、どこにも残ってないって言う様な事だって、ポン!

この通りですよ。皆、この中に、人から学ばなくても、分かるようにできてるでしょう。

どうしてそういう自分に力があるのに、発揮出来ないようになっちゃったんだろうね。


本当に人を育てるってのは、そうやって昔から育ててきたんでしょう。教えたんじゃないんだよね。

実際のことをそこでやって見せるんです。色んなお仕事なんかで、そこに弟子入りしてるとですね、師匠がそこで生活をしてる。

その生で生活してるものに触れてるから、学べたんじゃない。皆。

学ぶ時に最初の頃は、ただやってる事がその通りあるだけで、何をやってるかよく分からない。それは自分の考え方の方が

優先してるから。だけど、親しくそのやってる事実にこうやって触れてると、なるほど、ああ、なるほどって、そうやって、

気づいていったんでしょう。だから10年ぐらい一緒にいると、大体奉公は終るじゃないですか。独立してもいいよって言って、

暖簾わけをされる位力が付くじゃないですかで。良い本当に修行法だったと思います。


今は早い。どうして早いかと言うと、頭の方で理解していくから、身体がついていかない。頭は一応理解できるけど、

それで力が付いたように思っちゃう。代議士の秘書をやってると、自分が代議士の名詞を持って、人と接すると、知らないうちに

自分が偉くなる人いるからね。面白い。別に偉くなったんじゃない。その人のところに仕えてるだけじゃない。

その人の名詞持っているだけの事なのに、自分も同じくらい偉くなった様に。気をつけないといけない。


色んな事がありますが、ここら辺で。多少役に立ったら、あとは読み物に。

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「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ

音声はこちら ↓   2016.6.27 円通寺講話会 朝のご提唱

とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_01.
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_02
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_03
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_04




今朝ここに提起しましたのは、少し体裁が違う。それは現代に生きてる人達が、どういう風なものの考え方をしてるか、

学びをしているかと言う様な事に、かかわる様なものです。

古い時代の修行、勉学、参禅、そうしたものは資料として沢山残ってますけども、それはそれで、

味わいは非常に深いものがあるに違いないですけども、現代のものはどういう風になってるかって事、

参考になるのじゃないかと、そう言うな事をちょっと思いまして、ところによっては時々話の後に、

アンケート用紙を配ってですね、収集しているんですね、色んな事を。そういうものの中のひとつのものです。

これ対象になった時の教材は、正法眼蔵の八大人覚って言うものの話をした後のアンケートですね。

だから少欲とか知足と言うような言葉がたくさん出てきます。

読みながら何か話をしていきたい。


「とある研修会でのアンケート」より・の質問

★『「少欲」の教え「禅」の状態で、自分の思慮分別なしで、現代社会を送るのは大変難しいと考えますが、

心が乱れたり、迷ったりした時に、坐禅などをして立ち戻るという生活の仕方では駄目でしょうか』



って言う様なことが書いてある。これ読んでみると、色々面白いですね。

この人がどういう状況にあるか、どういう風にものを学んでいるかって言う事が、ものすごくよく、こう見えてくる。


補足をするのに、先だってこんな話があった。セラピーとかなんか言うのがあるんですか、

そういうものを職業にしている婦人です。深層心理やなんか勉強するとか言ってましたけど。最近スランプでですね、

ひとつもそれやる気が起きない、どうしたらいいのかって。

自分の生活とそういう仕事がですね、両立出来る様な方法は何かないかって言われたんですね。

何をこの人は思っているのかなあ、って。人生に何かと両立するなんて言う事はないですね、人生の中に。一本道ですよね。

今やってることだけで、もうひとつ何かをそこに立ててですね、これとこれだって、そんな風な生活はないですよね。

でも殆どの人はそうやって、もうひとつの生き方があって、並立して両方が上手くいくといいなって思ってる人は沢山いる。

それは思ってるんですよ。ここに書いてある様に。思ったり考えたりしている上の話であって、

実物の方に目がひとつも行ってない、って言う事をその方に話したんですね。


ここもそう思うんですね。ひどいね。一番最後なんかひどい。「坐禅などをして」って、坐禅などをして、

何処へ立ち戻るんでしょう。そう言う生活を勉強って言うんですね。

自分自身の生活している他に、もうひとつ生活があると思っているから、先ほどの話の様に、

両立するとか言う様なことを考えるのですね。生活っていうのは、もうひとつの生活なんかしている人は居ないですよ。

ずれっこないですよ。乱れるとかですね、迷ったりする事なんか絶対ないんです、生活って。

本当に今の在り様だけですから。比べるものなんかないでしょう。もうひとつの生活。どうですか、そう言う事は。

考え方の上だったら、そうやって比べるものが出てきて、どっちが本当だろうって。生活はですね、今生活しているものと、

もうひとつの生活しているものが何処にあるんですか。もうひとつ比べる生活なんか。

そんなものを持って生活している人は一人も居ないのでしょう。どうですか。

要するに、話を、これだけこの方にしたにも拘らずですね、私の言わんとする事は、殆ど解ってない、通じてない。

がっかりするなって、ひどい事言うと、そう思うんですね。それ位、一方は考え方で取り扱っている。

こっちは一生懸命、今の事実をこう見せてるんだけど、中々噛み合わない。


で、少欲の教えって、何か八大人覚説いた時に、少欲の教えってのが、自分の生活している事と別にあると思っている、先ず。

少欲って、見て御覧なさい。自分たちの生活を。

桔梗の花を見る時に、ただ桔梗の花に向かったら、それで他に何もそれ以上に、求めるものも何もなくて、

ちゃーんと桔梗の花が見えるのでしょう。本当に少欲を行じているのでしょう。

音を聞くのにも、パン!(机を扇子で打つ)この音を聞くに、ただこの音だけがパン!

こうやって聞こえさえすれば、それで100%、パン!この音を聞くことになるのでしょう。

他に何もそれ以上のことをやらないんです。そうやってちゃーんと少欲を行じているんでしょう。

「グァー、グァー」(牛蛙の鳴き声)グァ-、グァーって、あれみな少欲ですよ。

まだ何か欲しいって言う様な事はひとつもやってません。その鳴いている様子だけで、鳴いている事、皆ちゃーんと足りてる。

若しあそこに何かつけたら、ああいう風に聞こえなくなるんだよ。折角鳴いてても。少しでもつけたら、

もうその通り見えなくなるでしょう。だから自分の生活を見ても、皆、ちゃんと少欲を行じているじゃないですか。


しかも「禅」の状態でって、又自分の生活の他に、何か特殊なそういう境地があると思ってる、頭に描いている。

本当に面白いね。短い文章なんだけど。


これがスタートですからね。この人のものを学ぶ様子が。こんなにズレてるんですよ、事実と。

自分の生活している、今生活している事実と、この人が質問していることはこんなに最初がズレてるんですよ。

本人知らないですよ。だから、一生懸命そういうもの描いて、そこに向かって、それを探して尋ねようとしている。

これ二重構造って言うんでしょう。二枚舌ですよね。だから幾らやったってこの人は満足するところまで行きませんよ。

「坐禅なんかをして立ち戻るというような生活は駄目でしょうか」って。駄目でしょうね。こんなことやってよい訳がない。


でもこれ、普通に読んで普通に回答したら、同じ立場からこれを読んで同じ様に、これに対して回答したら、

そう言う風にして行ったらきっと良いでしょうってなるでしょう。両方考え方だから。両方思い方の人だから、それで、

話はうまく合致するでしょう。そう言う風な話をするとたぶんこの人は喜ぶ。私のような回答すると、ちょっと何言ってるの、

私の質問してることに正確に答えてないじゃないかって、たぶん反論が返ってくる。

これを何回も何回もやることによって、やっと、ああ、ものの本当の有り様は、自分が考えている事と違うんだなって事に

気づく時節が来るって事でしょう。


★『仏の教えを聞かない受け入れない人に、それでも聞いてもらいたい時、どの様に伝えたらよいのでしょうか。』

仏の教えを聞かない受け入れない、それは自分の中に確たるものの考え方を持ってるからそんなもの用ない、

と言う事でしょう。立派な人でしょう。自分のご意見をちゃんと持ってるって言う。

だけども、この方からすれば、それはそうだけれども、もっと確かな事があるよ、それを伝えたいんだけどって、言うのでしょうね。


で、何でこの人がどの様に伝えたらよいのでしょうかって言わなきゃならないかって言う事は、自分でその仏教っていうものが

如何いうものであるかって事が、根底でよくわかってないからでしょう。


私だったらこう言う事を聞かれたら、「ちょっとこっち来てごらん」

「聞きたくない、あなた人の話しなんか聞きたくないって言ってんだけど、そういわずに来てごらん」

そうするとこの人は知らずに、自分で人の話を聞いてるとも何にも思わないのに、私の前に、進んで来ますよ。

おうチャンと聞いたじゃないですか。絶対聞きたくないっと思っているはずなのに、

ちゃんとそんな事を超えて聞いてる事実があるじゃないか。難しい事は一切ないです。


あそこに書いたものがあるから見てごらん。書いてあるものを見る事が禅の教えだと思わないからね、そう言う事は。

禅の教えってもっと別なものだと思ってるから。それが、素直にそうなる、そう言う風になってる事が禅の内容なんです。

本質なんです、誰もの。


子供に禅の教えなんて特別なもの教えないでしょ。普通にそれどうやってやるかったら、見てごらんって、

ここに何か見るものがあって見せると、子供がちゃーんとそれを見てると、それでそのものが分かる様になってるでしょう。

こっちが教えなくても。そうやって勉強してきたんでしょう。「食べてごらん」食べると、教えないんだけど、味がちゃんとする。

その味を教えようと思ったって、ものすごい難しい事だけれど、食べさせると教えなくても、そのままズバッとその味が分かる様に

出来てる。こんなに禅の教えって素晴らしいじゃない。だけど、そういうのは禅の教えだと思っていない。

そりゃ、そう言う風に食べりゃ味がするよって言う位にしか思ってない。


ものに向かえばそれが見えるって、当たり前だと思ってるんですね。面白いね。だから、そう言う風に、

自分の今生活している事の他に禅の教えがあるって言う風に、殆どの人が思っている。


誰もそんな風に、たぶん教えなかったと思うんですけどね、正当な流れの中では。いつの間にかそう言う風になってる。

仏教とか禅の教えって言うものが、自分の生活とは別に、そしてそれを取り入れるって言う風な学び方になってしまっている。

だから、ウカウカしているとわからなくなってしまう様な、そう言う学び方が出て来る。


だけど最初から自分の様子ばかりだって事になると、取り逃がすなんて事はない。

うっかりしてた、忘れてしまうって言う様な事はない。いつでも、その中で、それを使って生きている。だから役に立つ。

よそから学ぶものはないですね。思い起こさないと出て来ない、急いで来たら、忘れて来ちゃったって言う様なことは

ないものですよ。せっかく学んだのに、あそこの本箱の、あそこにそう言う事記憶しているものがある。

あれ持って来ないと分からないって言う風なものではないですね。

災害が起きて、学んだものが、そこにあったものが皆流出してしまったら、今まで学んだものが全部なくなってしまう様な

勉強なんですよね。仏教とか禅というものはこれが(身心を指す)居さえすれば絶対になくならないほど確かです。

不思議なものですね。


★『一般の方へ一番分かり易く伝えるにはどうすればいいでしょうか(禅語を使わずに)』

「オーイ」その位で十分です。一番わかりやすい。「オーイ」と言われたら何だろうと思う人は沢山いますけど、

何だろうと思うことではないですね。「オーイ」


雲門という方の所に香林という人が参禅に行ってた。師匠の雲門は「オイ」  香林という人は「ハイ」18年。

ただそれだけ18年間。他に何も雲門はやらない。18年経ったある日気付いたんですね、香林が。そういう歴史がある。


★『悟り、覚り→修証一等では?』

こんなの仏教学を勉強した人達、禅を勉強した人達の頭の中にある文言です。

言葉がですね、整合性があるかどうかって言う様な事を聞くのでしょう。そう言う事もあるから、それはそれでいいですけども、

頭の中で言葉を、整合性を考えて、これはこう言う風な事言ってる、これはこう言う意味だという答えがいくら出てもですね。

それは修行にはならないじゃん。覚えた知識なんですね。


ちなみにこういう方に、じゃ修証一等ってどう言う事を自分で思っておられるかって、質問してみると、これがよく分かる。

修行と覚りというものが別々にあるなんて事はないですよ。


やってみますよ。パン!音を聞くと言うことと、音がわかるということは、パン!

このとおりです。音がしてから何かしてやっと、修行して、パン!音が分かる様になるなんて言う様な事は

ありません。パン!と言っただけでもう終わりです。それは行としては聞くと言うことでしょう。

証としてはその通りの音が、パン!今、はっきりしていると言う事ですよ。それ位、本当は修証一等ですよ。別にあるんじゃない。

皆そうでしょ。そういう風にもうひとつのあり方なんてないんですよ。だからこんなに安心して生活が出来るんです。


★『まあ一応老師って私のこと指してくれてるから、「老師の研修を受けて、当たり前のことを当たり前のように説明して

いるけど、終わったあと、常に思うのは、解答の無い研修というか、答えにたどり着かない感覚になってしまいます。』



こういう風に言われちゃった。で、私が気になるのはですね、当たり前の事を当たり前の様にって言うのは良いですけど、

本当に何かパン!こうやるとこう言う風に聞こえるでしょって言うと、この方もそうでしょうが、

井上さんが説明してるって、本当にそうやって思ってくれるんですね。パン!見てごらん、向かうとその通り、

いきなりその様になるでしょうって、説明だと思ってるんですよね。


今ここで実際やってるんでしょう、皆さん、この体でその事を。パン!説明なんかじゃない。事実でしょうが。

エー、実物そのものでしょう。どうですかって、パン!こうやって、パン!音がすると、

その通りちゃんと聞こえる。音がしなくなると聞こえなくなってませんかって。

これ説明だと思うから、終わった後に思うのは、解答の無い研修になる。これ、パン!説明じゃないから、

ちゃんと解答したんじゃないですか。パン!答えにたどり着いてるんじゃないですか。エー、着いてませんか。


音がしたら、ちゃんと音がした、音が止むと音が聞こえなくなってる。

だから、片付ける用もないし、整理しなきゃならない用も無いしって。ちゃんと、いろんなこと話すんですけど、

皆答えにたどりついているじゃないですか。どうしたらそうなるかって言う事じゃない。こうやってやるとその通り見えるでしょう。

ちゃんと解答しているじゃないですか。答えに辿り着いてるじゃないですか。


そうやって、そうやるといきなりその通りになるって事は、皆さんが迷わない、苦しまない、乱れ無い、どうしたら良いかって、

そう言う事を一切飛び越えて、いきなり大満足の生活が、今出来てるじゃないかって、ちゃんと答えじゃないですか。

研修できたんじゃないですか。こういうの読んでると本当に面白いなあ、私としては。

皆さんはどうかね、こんなもの、教材でこうやって見せられて。

★『他人の振りを見つつも、自分の振りを改善しなければならないと感じ、修行においても実用されるのだろう。

我々だけが坐禅をしていれば良いのではなく、生きている時間を禅と知れば良いのではないかと思った。』



まあ、色々あるね。昨日来られた方が、最初に円通寺の勉強会に来た時に、どんな話をしたかって覚えていて、

赤ちゃんか、ちっちゃな子が縁側から落ちそうになっている時に、ああ、危ない、落ちそうだって、それを私が話をしたらしい。

それが、赤ちゃんのことじゃ無いですよ、あなたのことですよって、どうもそう言ったらしい。

それが引っ掛かったって、昨日話をしてました。


そういうのがこう言う事でしょう。「他人の振りを見つつも自分の振りを改善しなければならないと感じ」を

何か向こうの事を見ている様な、向こうの人の事のように思ってる、人間にはそう言う誤解があるじゃないですか。

確かに普通に言えば、赤ちゃんをみて、赤ちゃんが縁側から落ちるじゃないかって思うから、危ないって、そっちへ、そっちへと

言うんだけど、そう言う風に思っている事が皆、自分の有り様の話でしょ。

そしてそれに自分が気が付くから、これがその思った通りに活動するのでしょ。

向こうの事なんかひとつもやってませんよね。そういうのよくみると面白い。


修行においても、本当はそうやって、他の人のことなんかないよね。他人の事が気になる間はね、修行にならない。

修行って他人のことをどうこう言うんじゃないんです。それをつついて、自分の思ってる様うに相手がなったらって、

そしてそれが出来たら、自分はどうなるんですか。自分の思ってる様に相手がなってくれたら、自分の修行は終わるんですか。

気分はいいでしょう。自分が思っている事を、向こうがちゃんとその通り修正してやってくれると、気分はいいでしょう。

だけど、こっちの問題はどうなるんですか。この自分の中から色んなものが発生する訳ですからね。


「生きている時間を禅と知れば」って、まあ理解としては悪くは無いかもしれんね。そんな事を知ってどうするんですか。

一日24時間ずーっと自分の様子ばかりですって話をすると、ああ確かに一日24時間自分の生活ばかりだなって、

知ってどうするんでしょ。それで済むわけじゃないでしょ。知ることじゃないですね。

ああそうだ、ああなるほどと、知ることじゃないですよね。


自覚って何か、知る事と違うんですよね。自分の実物そのものに触れることでしょ。そして、それを本当に生活の中で使っていく。

それだから実行力とか効果がでるんでしょ。覚るってこういうことだって知ったって、なんの役にも立たないじゃない。

ああそうなればいいな、と思うんじゃん、きっとそうなったら幸せになれる、こういう風にある、ああいう風になるって、

色んな事を思うだけじゃない、知ってますか。

★『事実を事実として受け止める、見るもの聞くものをそのままに受け止める、言葉によって惑わされる、

そのように感じました。』



感じてくれたんだからいいんでしょうかね。突っ込みとしてはですね、ありのままに事実を受け止めるって言うんだけど、

事実を事実として受け止めると言う様な、そういう構図にはなってないね。


これは詳しく見てみると、自他の見(ケン)と言って、向こうとこっちという見方が、自分の中に潜んでいる。

だから受け入れると言う事が出てくるんですね、言葉として、どうしても。


最初にも申し上げた様に、生活している事は、受け入れるとか、その様になるとかって言う様な事は一切無い。

向こうとこっちって言う様な事は一切無い、生活の中では。


考えの上にはある。今生活している様子を表現する時に、あっちの方に、ほら灯篭があるでしょう、向こうで鐘が鳴ったでしょう、

という風にして、表現する事はありますけど、内容は、自他を立てる事は一切ありませんね。

だから向かって何処かに行って、本当になるって言う様な事は無い。はじめから本物の中にいるんだけども、

考え方が邪魔をして、本物の生き様をしてるって事を、自分で触れる事が出来ない様になってる。考え方が邪魔をして。

それが、穴があくって言うか、取れると、いきなり本物の生き方をしている自分にぶち当たる。

あーなんだ、最初からちゃんとしてるわって、結論がつくんですよね。

修行の第一歩のズレ 

2016.6.25 円通寺講話会で、三十七品菩提分法 七覚支を提唱してくださっている間で、お話してくださいました。

参加者から質問が出て、変化のある展開になりました。

修行第一歩のずれ①

修行の第一歩のずれ②

修行第一歩のずれ③



これ(除覚支)を読んでいく前にね、一言二言話してみたい。

それはですね、修行をお互いする訳ですが、ものを聞いたりして学んで修行するんだけど、一番最初の立脚地が、どうなっている

かって言うことを、お互いにきちっと見届けるということがひょっとすると欠けている場合が多い。

そのためですね、幾らお話をしてもですね、自分の今立っている場所がですね、

基本的にズレた処にいて話を聞くもんですからね、同じ話を実践してもですね、言った通りに絶対にならないんですね。

そういうことが、日常生活全般いろんな所で、皆さんも十分、触れて知っていることだと思うんですね。

仏道の中、それ特に大事だと思うんです。

人の最初ってどういう風になっているか、その立脚地に皆さんがどうあるのかってことが、一番最初に問われる。


「こっち来てごらん」て、自分の見ている所と同じ場所に立たせてみて、こうやって見せると、

「ああほんとに」って言って良くわかるんですね。

それは目線を同じくすると言っているようなことで、皆さん方使っているでしょう。

大人と子供が会話をするとしても、大人がこうやって、上からものを言うとか、同じ目線で話をするっていうように、

一般社会でもそういうな言葉を使いますね。


正法眼蔵が今までずーっと難しいと言われているんだけども、それはつくづく思うんだけど、

自分のたっている立場がですね、この辺の処に(手で机の高さを示される)居て、正法眼蔵をみてるんですね。

道元禅師はこの辺で(手で目の高さを示される)生活している人なんですね。

この辺で生活するとですね、喋っているとおりなんです。本当に書いてあるとおりよくわかるんですよね。

それだけのことなんです。

じゃ、この道元禅師の、この辺の位置って言うのは何を意味するのと言ったら、人の一番最初の様子を言うんです。

高いんじゃないんですよ。自分達の境涯より高い処にあるんじゃないですよ。

人の一番最初のこうやって、パン(扇で机を打つ)、音でも聞いて御覧なさい。誰もこのように聞こえるんでしょう。

パン!(机を打つ)やさしいとか難しいとか一切なしに、パン!(机を打つ)音がするでしょう。

そのとおり聞こえる。こういう処に道元禅師という人は居るんです。この辺から、勉強をしてんですよ。

ところが多くの人は、パン!(机を打つ)あっ、音がした、音が聞こえた、そういう処からこうやって勉強しているから、

もうその第一歩がずれているんです。わかりますか。自分の見解が入っているから。

分別という熟語がありますが、見るっていうことは分別ですよね。わかりますか。見るっていうことは分別ですよ。

今見えているにもかかわらずですね、それを向こうにものを置いて、こちらからもう一回見直す。

見えているって言う時には分別ないですよ。分け隔てなんかしてませんよ。もうこの通りの事がこうあるだけですから。

だけども、それは何?って、それは?って指すってことはですよ、向こうにものを置いてこっちに人が立ったと言うことですよ。

分けたんですよ、向こうとこっちを。見てる時はそういうこと無いですよ。

「それどういうこと?」パン!(机を打つ)

それどういうことって、パン!もう済んだことに対して、

それを置いといて、こちらから自分をそこから離して、パン!(机を打つ)

今触れていること パン!から離して、それは?って言って、向こうとこっちを分けて、そしてこうやって尋ねる。

だから最初の様子ではないです。

一番最初の様子 パン!分かれてないですよ、向こうとこっちと。

修行するときに、そういうことが本当に大事です。


くしくも、この前お話したかも知れませんが、道元禅師の残された普勧坐禅儀という坐禅の手引書に、最初にこういうことがキチン

と書いてある。ものの道理として、一番最初が。誰のことか、どうなっているかということが最初に書いてあります。

それから、坐禅するのにどうしたら良いかということがかいてある。


ある方が、自分のお父さんが病気をなさって、病院に入って手術をして、まあそれから退院をしてこられた間の話ですが、

病院に行った時、お父さんの様子を見ると、痛々しい苦しんでいるような感じが見受けられたのでしょうね。

だから家に帰って仏壇の前に行って手を合わせて、

「私はお父さんに何もして上げられないけれど、せめて痛くないように、苦しまないように、何とかしてあげて」って、

ずっと家でご本尊様の仏壇に手を合わせて、そうやって過ごしてたと言うんです。

やがて退院して帰って来たから、そういう話の中で、

「お父さん病院にいる時に、痛そうだし苦しそうだったから、こんな風にしてたんだよ」って話をしたら、

お父さん曰く、「痛くも苦しくも何ともなかった」って。

「私はどこも痛くなくて何も苦しんでなんかなかったよ」って言う話。これだけなんですよ。

これ、凄く面白い話ですよ。考えさせられるっていうか。何を私達はしてるんだろう。

人の動きを見てですよ、人の様子を見てですよ、ありもしないことを自分の中で想像してですよ、苦しんでいる。

本人のほうはケロッとしている。

それは一番最初がズレてたからじゃないですか。

ご本人が病院行って、お父さんに触れた時に、ふっと、苦しんでる、痛がっているって、そういう風に思って見たんでしょう。

思いを入れて。そこから自分の行動が著しく変わった行動になってますよ。

それを一生懸命やっていることが、お父さんに対する何か親孝行の一端のように思って、ひたすらそういうことをやったんでしょう。

同じ手を合わすんでも、そういうつまらない見方をせずに手を合わしてたら、自分も楽なのにね。不思議でしょ。


こうやってお互いに向き合ってて、あなたが私にね、「右へ行って下さい」て話しかけて、私はこっからこっちへこう歩いて行く。

「右へいくとね柱があるから、そこを曲がって下さい」って。私はこう右へ行って柱もない、曲がる場所もない。どうしてだろう。

「いや幾ら行っても、右へ行って柱もないし、曲がる場所もないんですよね」

「じゃ反対行ってみてください」って、反対へ行ったら、言われている通り柱が在って曲がる場所があった。

というようなことがですね、日常行われているんです。


わかりますか。一番最初のを抜きで話してるからね。こうやって目の前で見えてればいいですよ、お互いに。

これを電話なんかでやってる場合、どっち向いているかわからないですよね。

自分がこっち向いてる、私(老師)もこっち向いてると思って話しするわけですね。

同じ方向向いて電話聞いてると思うから、「右行って下さい」って言うのでしょう。そうすると、そういうことがあるよ、というんだけど、

こうやって聞いてると、右左が逆なんですよね。不思議でしょ。


これ、修行の基本の処で人はそういうような一番大事なことを忘れていないかということ。どんな正しいこと伝えても無理です。

真逆の方向にいるわけだから、それを実践しても絶対に言われた様にはならない。


だから、今話した道元禅師の在り様とか私達の在り様とか、幾つもあるんじゃないんですよ。

お釈迦さまの在り様とか幾つもある訳じゃない。

基本的に、一番最初はみんな同じなの。パン!(机を打つ)

パン!これ以外の聞こえ方する人、一人もいないね。

パン!こういうところから勉強して行くんですよね。


と、言う事を、最近つくづくいろんな人と話していて、何でこうなっちゃうんだろうって、考えてるんですよ。

有る所へ行って話をして、アンケートに、井上さんはいつも、パン!こうやってやると、パン!聞こえるでしょって、

説明してくれる、と書いてある。

私、説明なんかした覚え一回もない。

事実をこうやって、パン!見せているんだけど、聞いている人は説明をしてると思っているんだね。説明をされてると思っている。

パン!叩くと音がして、音が出ると、そのように聞こえるって、それ説明だと思ってるね。

びっくりしますね、書いてあるの読んで。こんな勉強しかしてないんだって。これじゃ、何遍話ても無理だなって思って。


ある参加者「説明というのは成り立たないんですか」

老師 「これ説明ですか。パン!実際に、今こうやって、パン!あなたがこの通り聞こえている。説明なんかじゃないじゃん。」

参加者「世の中に説明というのは成り立たないんですか」

老師「 いや、これを説明だと思ったら、大間違いだってこと。パン!」

参加者「もっと複雑なこと説明、」

老師 「複雑なことなんかありません!」

参加者「世の中に、出だしが躓いたから、もうわけがわからなくなってるって、 和尚さんが言ったから、音だと説明でないとわかる

んです。世の中複雑なことを説明するのかどうか、そこらわからない」

老師 「あなたが初めて出会う人だって、誰かわからないということないでしょ」

参加者 「わからないことない?」

老師 「初めて出会った人だって、今出会っているこの人がですね、誰だかわからないってことないでしょう。

この人に間違いないって言うこと知ってるでしょう。実物だから。所謂人間がわからないって言うのは、

名前がわからないとか、どこの生まれだとか、そういう後でつけたいろんなこと知らないとわからないと思ってるんですね。

そうじゃない。実物です。実物の中に全部あります。」

参加者「でも実物たって、何もわからない」

老師 「そんなことはないですよ。全てわかりますよ。喋れば音声もわかるし、顔がほころびれば、ほころんだ様子もわかるし、

辛そうな顔すれば、そのようなこともすぐわかる。その通りになってますよ。全部実物って。あなたが思ってるのと違って、

むつかしいからわからないとかってそういうことじゃなくて、その通りの様子がそこにあるだけです。

人はそれに対してむつかしいとか、ややこしいとか、複雑だとかって、そう見方をするだけじゃない。

小さな子はですね、30画位の漢字を見せたって、それがむつかしい漢字だなんて思いませんよ。」

参加者「わからんでしょうね」

老師 「そのとおり見える。大人は子供にはこんな画数の多い字はむつかしいって思って教えない。

だけど、『一』って書いてある字とですね、画数がいっぱいある字を子供は見てですね、

どっちがやさしくて、どっちがむつかしいなんてことはない。

どちらもその通りいきなり見るんです。それ位皆さんが考えているのと違うんですよ。

若し子供がですね、むつかしいことは、大人が思うように見えないんだったら、生活成り立たないですよ。日常生活が。

子供でもそこにある現実のところに行ったら、その通りのことその通りみな見えるんだ。

むつかしいといって、よくわからないって、そんな風には見えないです。必ずその通り見える」

参加者「政治のこと、政治の動きわからない」

老師 「わからないんじゃなくて、言ってる通りのことがあるだけであって、それ以上は人の推測でしょう。

これから先のことがわかる人なんか誰もいませんよ。政治家だって、想像してるだけじゃないですか、皆。

たぶんこうなるんじゃないか、ああなるんじゃないか。で、時間が経ってみると、言ってた通りになると、

ほら、私が言ってた通りじゃないかって言うだけの話じゃないですか。ね。そうなってるんですよ。

むつかしいって言うのは、皆さん、そうやってありもしないことを知ろうとする。それは難しいに決まってるじゃん。

ありもしないことを知ろうと、聞こえない音がどんな音がするだろうって、難しいに決まってるじゃん。

参加者「計画を第3者が練ることがあるでしょう。第3者がどんどん政策を作って、もうわからないですよ」

老師 「その通りじゃないですか。作った通りじゃないですか。作ったとおり、どこがわからないですか。」

参加者「難しい」

老師 「その先はこうやったらどうなるかってことで、推測するとわからないだけでしょう。計画したの発表したら、その通りのこと、

    それみんなわかるじゃない。」

参加者「わからんですよ」

老師 「そんなことはない。後でゆっくり、その先話しましょうね。皆さん方も、こういうご意見あるから、後でお茶飲む時間あるから、

    そういう時にこの話もうちょっと皆で聞いて煮詰めてみますか。今はちょっと置きましょう。」


ざっと申し上げてきたことは、一番最初がどうなっているかが狂っているとですね。どんなにその上に教えても、

正しくものが伝わらないということを言いたいんですね。


だからもうちょっと違ったものを上げとけば、色眼鏡って言う話がよくある。

最初に色眼鏡を掛けていることを自分が知らないでものを見てる時は、その通りの色でしか見えないから、

色眼鏡をかけてることなんか知らないですよね。だけど、色眼鏡かけてない人と出会ってみると、

同じものを見てて、色の話が違う。どうしてだろう、同じもの見て。どうして貴方そういう風に、私はそういうに絶対見えない。

眼鏡をかけていること自分で知っていれば、取りますよね。

この眼鏡かけてるからこういう風に見えるんだとわかるからいいんだけど、こういう眼鏡のような色眼鏡でない場合、

いわゆる勝手な思いと言うようなメガネはですね、勝手な自分の思いって言うような色眼鏡はですね、

こういう形のあるもの掛けてるより、ついてないからわかんないんですよね。

何時それをかけたか、何時自分勝手なものの見方をしたか、知らないんですよ。

それでなかなか話をしても、わからない。だけどちゃんとした人がそこに来て、お前、色メガネかけてるからそうなってる。

はずしてみろって、はずしてくれると、あ、本当だ、あなたの言ってる通りだって、こうなる。


それ修行する第一歩です。

何で師について学ぶか、

何故、指導者が必要なのか。

何故、達磨が中国に来る必要があったか、

ということです。

こんなことが日常の中にいっぱい形を変えていますね。問題が起こる時は必ず第一歩がズレてる。

そこからものが勉強されるために、難しいなあ、わからないなあってきっと言うんですね。

それだけの話です。