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三昧王三昧 Ⅲ

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「『欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉攝之。(三昧を証せんと欲ひ、三昧に入らんと欲はば、種々の馳念、

種々の散乱、皆悉くに之を攝すべし。)』」
どんな様子があっても、その事が本当にその事だって言うだけで、

こうやって居てみると、騒がなくなるね。騒ぐって言う事はその事に対して余分な事するのを騒ぐって言うんでしょう。だって既に

そう言う今やってる事があるんだから、それを無くさなきゃいけないって手を付ける事が、余計煩雑な事をするのでしょう。

それに手を付けないでそのまま居ると、それ以上は活動しなくなるんじゃないですか。


闇金でお金を借りて、時間が来た時に払えないって、又そのお金を借りるために金融業者に闇金のお金を借りる。

そう言う様なものに似てるんじゃないですか。それで終いには払えなくなるでしょう。どんどんどんどん。

利口な人は一番最初に気づいた時、その気づいた事をそのままそこで全部さらけ出すのでしょう。

そしたら一番早い方法なんだけど、恥ずかしいからやらないんでしょう。出来るだけ人に知られないで、

これが片づいたらと言って。そこに付け込んで来る訳でしょう、貸す方は。


修行もそうじゃないですか。恥ずかしい事であろうがなんだろうが、自分の今の様子を全部そこへそのままこうやってさらけ、

好き嫌いをせずに。摂するって言う事は何もかも頂くんでしょう、そのまま。


そう言う風にして、「『如此修習、証入三昧王三昧。(此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。)』」

坐禅の中でも、普勧坐禅儀の中にもあるけど、どの様な事が坐禅をしてる時に思えても浮かんできても、一切それを取り上げない

言う事が、この摂すると言う事でしょう。接心て言う一週間位やるのを接心て言いますけども、接心て言うのは正にそう言う行を

するのでしょう。本当に自分の今の在りのままの様子にずーっとただ打ちまかせている。そう言う時間をすごすのでしょう。坐って。


「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。」だって今の事は今の事で学ぶしかない

じゃないですか。どんな事だって、そうじゃない。その事はその事によってその時に学ぶ以外に他に手立てが無いじゃないですか。

それを離れて何処かで何か学ぶと言う様な事はしません。


私達の修行もそうでしょう。今こうやって此処でやってるこの中で、ここで修行する以外に修行する時も場所もないじゃないですか。

いや此処は今本読んでるだけだから、これ止めて坐禅堂に行って坐りましょうって、常にそうやって何処かに修行する場所を他に

求めてる様だったら、変ですよ。直心て言う様なものの中に、直心これ道場って言う様な熟語もあるね。

今の自分の在り様そのものが修行道場の真っ只中でしょう。


もっと早い話がですよ、もと早い話が、今目に触れたもので自分の中が乱れるか乱れないかだけでしょうが。

問題になってるのは日常。今耳にした音声によって自分の中がごちゃごちゃになるかならないかだけでしょう、ここで。

そうじゃないですか。他で何か起きた事がありますか、問題が。ないじゃないですか。

じゃその時に目に触れ耳に触れたものがあった時に、乱れる様子と乱れない様子ってのは、当然あるでしょう。

三昧って言われる、最初は必ずその通りに、ただあるだけじゃないですか。そこに勝手に自分の色んなつまらない思いを

起こして来て、そっちの強い思いの方を中心にして、事実をないがしろにしていくって言う事が、真実を冒涜するのでしょう。

実物、事実の方を自分の思いによって曲げるって言う事は大変な事でしょう。

そんな事があってはならないでしょう、修行する上でも。


「一切の三昧はこの王三昧の眷属なり。」人生百年生きるにしたって、基本は今こうやって今生きてる事が

中心じゃないですか。この事がずーっとあるだけじゃないですか。これで百年いくだけじゃん、と言う事でいいでしょう。

そう言う理解で。昔の人は江戸まで行くのに、今の一歩だと言われる。一歩歩く、この一歩によって遠い江戸まで届くと言う、

着く事が出来る。本当にこの事が三昧の中心なんでしょう。全てのものの基本なんでしょう。今こうやってあるって言う事が。

あとは全部この様子です。この様子の眷属です。


「結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。」だって他のものに触れないんだもん、いいじゃない。

こうやって坐ってて。今の様子そのものに居るだけじゃない、坐って。他の様子に触れたくたって、他の様子無いんだもんしょうが

ないじゃん。コン!(机を打つ)こうやって。コン!それだのにそっちはないがしろにして、

やっぱり考え方を、思いが出てきたものを相手にして、それを如何こうしようとする。

それが修行だと思ってる人が居たら、それは大間違いでしょう。


「直仏祖なり、直修証なり。」取りも直さずって言うのですかね。直って。そう言う読み方があるんですかね、

取りも直さず。今、他にもうひとつの生き方があるんなら別ですよ。そんな事、絶対無いんだよね。今生きてる様子って。

二面性は無い。二重生活をしてる人は無い。もう一人の自分なんて言うものを持ってる人は居ない。思うことはありますね。

実際の生活はそう。必ず今の様子だけです。そうすると皆それが修行にもなるし、証にもなるし、そう言う生き方をした代表が

仏祖方なんでしょう。仏様や祖師方って何であんなに、あんな風に生きられるんかなぁって。ただそれだけじゃないですか。

あんなになれたらいいなぁって言うかも知れません。皆基本的には違う生活をしてませんよ。有難い事に。


「直頂寧なり、直命脈なり。」人の真髄をこうやって見てみると、必ずそうなってるのでしょう。

中々気づかない事が多いんだよね。簡単なことだけども、挙げてみれば、世の中に色んな音声がするって言う事、誰が知ってる

のでしょうかね。あれ全部各自自分で聞いた音ですよ。他の人が聞いた音なんか一切ない。自分が聞かないと音がしてるとは

言わないんだよね。物がそこにこうやってあるって言う事を知るのには、自分で見る以外に無い。他の人が見たって無理だ。

必ず自分が見た様子だけです。


「命脈」って言うけど、そう言う風に人の命の様子は、本当にどっかで断ち切られる事は無い。

ずーっと二十四時間ぶっ通し自分自身の命がそのまま生きてますよ。一切他人の様子は入って来ない。

だけど何となく他人の見てる様子があったり、他人の聞いてるものがある様にどっかから思うもんだから、本当なのかな、

これでいいのかなと。思う事と実相は違うんだよ。それでもまだもしかしたらとかって思うようになるんですね、人って。


こうやって見ていて、誰かに証明されないと見ている内容がはっきりしない(見えない)なんて事ないでしょう。

誰にも何も言わなくてもちゃんとしてるでしょう。決める訳じゃないでしょう、自分で。その通り見えてる。

決めなくてもずれた験しが無いほどちゃんとしてる。それだのに力がないと、隣の人にどう言う風に見えるかって聞いて、

こう言う風に見えます、って言ったら、ああ私もそう言う風にみえる、これで良いのかなぁってそう言う風に納得するって

変じゃないですか。


自分の見てる事だけだったら、何で争うんだろう、見た物で、ね。自分の中で混乱が起きるんだろう。自分が見てるんだったら

混乱が起き事ないですよ、こうやって見てて。何時でもその通り見えてるだけですから。こんな風になってるでしょう。


「直頂寧なり、直命脈なり。」誰もそう言う風になってますよ、本当は。

だけどこう言う自分の真相に本当にうとい。仏様の教えって言うものはそう言うものだとは、大体思ってないもんね。

自分の生活してる今の中に、仏様の本当の教えが皆ある、なんて思ってないもんね。

他所にあって、それを学んで身に付けてゆくものだと、そう言う風に思ってる。それはとんでもない間違いなんでしょう。


「今人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。」こう言う結跏って言う、足を結ぶって言う熟語

なんでしょうけども、必ずしも具体的に足を組むって言う意味じゃないでしょう。もっと大きな意味があるでしょう、結跏って。


「世尊常に結跏趺坐を保任しまします。諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします。人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。

七仏正伝の心印、すなはちこれなり。」
で、これだけの事をこうやった時に、結跏趺坐がですね、あそこに上げてある

様に、先ず右の足をもって左の腿の上にあげ、左の足を右の腿の上に上げてって、それを結跏趺坐だってそれだけそうやって

結跏趺坐だと思ったら大間違いじゃないですか。エーそう思いませんか。こう読んでみて。

そんな事だけを伝えたのじゃないでしょう。あと又あったら何か言ってください。


「釈迦牟尼仏、菩提樹下に跏趺坐ましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは

三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転法妙輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これはすなはち黄巻朱軸

なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。」


この自分自身の今こうやってる時の真相に用があるって言う事でしょう。身体、身心をあげて活動してる自分の真相がある。

そのものにこうやって親しくいるって言う事が坐禅をしてる時の在り様なんでしょう。そう言う事を伝えて来たのでしょう。


その自分の真相に自分が触れると、それによって自分がはっきりするのでしょう。今まで考えていた、思っていた事とは

違うんだもんいいじゃないですか。この自分の在り様が。心底違う。これから何かをする様な生き方をしてないんですよ、人間て。

こうやって見たって、これから何かをする様な事してませんよ。何時でもその時その事やってるだけですよ。

その時その事がきちっと出来れば、何ら問題ないのでしょう。エー、その時にその事がちゃんと出来ない様な気配(思い)が

あるから、皆苦労してるでのでしょう。


兎に角ずーっとそうやって過ごしてると言う事でしょう。五十小劫、六十劫とかありますけど、長い時間ですね、無量劫って

長い時間ですね。或るいは三七、二十一日って言うのは、これはお釈迦様が悟られて、二十一日間自分の悟った内容に

こうやって目を向けて、それが如何いう事か観察した内容の時間とされていっます。華厳、華厳の時と言ってます。

華厳経をこの時説かれたんですよね。


或いは時間の坐が。何時でも坐れるのですよ、今此処で。足を組むばかりが坐禅じゃないって言う事があるでしょう。

那伽の大定と言う表現があります、那伽の大定。一番大きな坐禅は、始めるって言う事とか終わるとか言う様な事が無い坐禅。

「今」って言う時だって、何処から始まって何処で終わるって言う事がない時間でしょう、今って。エーそう言うのを今って

言うのでしょう。一般に言う今は此処から始まって此処までを今って言うんでしょう。そんなの今じゃない。本当の今って言うのは

何処から何処までが今って言う、此処から始まって此処までが今って言う様な事がないものですよ。

それが今と言われるものですよ。時間の、時間の坐禅。その中でありとあらゆる事が展開しているのでしょう。

こう言う今の様子の中に、ありとあらゆる事が展開されるのでしょう。妙法、転法妙法輪と言うけど。


それがお釈迦様一代八十年。その八十年間、片時もそう言う生活から外れた事はないし、何か欠けた事もない。

本当に何時でも今こうやって生活している。皆さんだってどんなに怠けたって、今と言う時間と別に生活をする人は居ないし、

自分を抜きにした生活をする人は居ないし、良いじゃないですか。皆それほどちゃんと生きてるのに。

それだのに自分の事より他人と思われる人の様子の方が気になって、気になってしょうがないから、自分の事本当見ない、

触れない。何処までいっても自分の様子なのに、何か他人の事を見てる様にしか思っていない。


あれだけ人の事を観察して評価できる力があったら、あれを自分に向けてみたら。自分の様子である事に気付かされるでしょう。

そう言う内容が教本になってるのでしょう。黄巻朱軸と言うのは教本の事でしょう。昔の教巻は、紙が虫に喰われない様に、

黄檗(きはだ)と言う様なものを砕いて、木を砕いて、それを紙に染み込ませるから、黄色い紙になってる。それは虫が喰わない。

で、巻物になってて、その巻物が一巻出来ると、両脇に瑪瑙の様なものとかああ言う様な赤い様な物が付けてある。

それが朱軸ですね。


「ほとけのほとけをみる、この時節なり。」自分自身の真相に触れるのは他では触れませんよ。

必ず今、今自分自身の真相に触れる以外に無い。その内って言う様な事じゃない。そのうち何とかしたら自分の真相に触れる、

そんな事じゃない。何時でもここで自分自身の真相そのままに居る筈なんです。

そう言う過ごし方をする代表的なものが結跏趺坐です。


「これ衆生成仏の正当恁麼時なり。」それで初めて、ああなるほどって、自分自身の真相に触れて、

気が付く様になってるのでしょう。


「初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽小室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。」

達磨大師はインドから中国に来られた。嵩山の少林寺と言う貴賓を待遇する迎賓館の様なものがあっそこは達磨さんが来る前に

インドの高僧達が滞在しております。達磨さんもそこで過ごされた。あそこら辺は相当内陸で寒い所だから、冬になると

零下四十度位になると言われてますね。


私はたまたま一度だけ中国に行った事があって、その時フライトをしてた時に伺ったんだけど、今この辺の上空飛んでるんだけど、

ここは零下三十度位ですかねって言われましたね。だから六月頃に行ったと思うんだけど。

道元禅師のお言葉を借りると、落ちる涙滴々凍るって言って、こう言う所の表現をしてますから、涙がこぼれ落ちる時に、

真珠の玉の様になって、氷の粒になってこう落ちるって、相当寒いって言う事がわかるね。


だから洞穴を掘ってですよ、そう言う中で坐るって言う事は、防寒でしょうね、先ず。そして洞穴の中ってそんな広い所は

あんまり無いじゃないですか。だからしょうがない。壁に向かう。だって全部洞穴の中って、内側は岩をくり抜いてるから、

壁に向かうんじゃないですか。そう言う事でしょう、面壁って。達磨さんが面壁したって。

別にこう言う広い所では、何も壁に向かわなくても本当は良いと思う。それから手も足も出ないってよく言いますけども、

手も足も出ないんじゃなくて、手も足も出さないんです。寒いから被を着て。赤い絨毯の様な物を、頭からこう巻いてですね、

身体に。で、寒さを耐える。そう言うものがあの姿なんですね。だから達磨さんの姿はああなってます。


今、私共は被を着る作法って言うのを殆ど学ばない。用いないもん。あるんですよ。被をこうやって纏うって言う事が

教えられてるけど、今そんな事しなくても十分、凍え死ぬ様な事はない。面壁、跏趺坐の間九年、面壁九年と言われてる、

表現になってます。


「それより頂寧眼睛、いまに震旦国に遍界せり。」頭の先、頂寧、ちんにんですね。人間の身体の中で首から

上って、中々すごいね。視聴覚、視、聴、覚ですね。殆どのものが首から上で、この頭で行われている位、頂寧って大事な所

ですね。首から上が無くなると、人間として大した働きをしなくなるかも知れない。だからここに重要な機械が入ってるもんだから、

頑丈な、何だろう骨で覆われて、ちょっとやそっと叩いた位じゃ大丈夫な様になってますよね。頭が陥没して割れるとかって

言うのは相当な事ですもんね。その位大事に守られている。眼睛は目の本当の働きでしょう。目そのものですね。


「いまに震旦国に遍界せり。」達磨さんが中国に来て、何を伝えたかって言ったら、各自自分自身の事を

自分自身で生き、本当に知りなさいって言う事じゃないですか。それを知るのには、どう言う風にしたら知れるかって言う事が、

一応お釈迦様の体験を通してずーっと伝えられている、実践して。実践した人たちが、実践するとその事が立証される。

正しいと言う事が立証される。そう言う風にして伝わって来た。それが中国に遍く行き渡ると言う事ですね。


「初祖の命脈ただ結跏趺坐のみなり。」で、ここだってやっぱり外から見た坐禅の形だけを結跏趺坐と思ったら

本当に淋しいね。「初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかって結跏趺坐をしらざりき。」道元禅師が

日本にお帰りになる前に仏教は日本に伝来してますから、坐禅の形やなんかは当然伝わってますよ。行基菩薩なんかを育てた、

名前が出て来ない、日本人がいる。あー、道昭だんです。玄奘三蔵法師と机を並べて中国で勉強した日本人がいますよ。

そう言う人が日本に歴史上いますよ。その頃玄奘三蔵法師が、帰りの時に、何を勉強するのが良いかって問うた時に、

禅を勉強してほしいって言う事を語られて、それを伝えている人たちがいるね。


そう言うな事をみると、道元禅師が坐禅を教える前に、坐禅の様子ってのは有ったろうと思うけども、ここに上げてある様に

ですね、これは達磨様の事だけども、日本も坐るって言う事はあってもですね、坐禅の真意って、結跏趺坐、坐禅の真意って

言うものが本当に伝わったのは道元禅師によって初めてでしょうね。道元禅師が亡くなって七百五十年近くなるのかしら、

そうすると今日もやっぱり道元禅師の残された真意があるはずなんだけど、伝える時に坐禅の形だけを実践して終わってしまう

様な気配が、少し感じられる。それは淋しい事だなと思うので、折角ならこう言う事を私達もよく理解して、坐っている時

どうあるべきなのかって、さっき最初の方にあったから、ああ言う様なものをもう一回こうやって触れてみてほしいですね。


「しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜仕祇管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。」

本当に一日中自分自身の真相か離れた事はない。それで良いのでしょう。不離叢林て言うけど、修行の道場から離れないって

言う意味でしょうけど、自分自身が修行の道場なんでしょう。このものを相手にして修行するのでしょう。時々だけじゃないでしょう、

自分自身の真相に触れるのは。


気に入った事だけで自分の真相に触れる訳じゃない。気に入らないと思う事だって、皆自分の真相ですからね。

そうしないとものが分らないじゃない。気に入ったものだけで勉強する様になると、ものは分りませんよ。

「餘務あらざる」とありますけれども、本当に今こうやって居る様子だけでいいんじゃないですか。


お茶を飲む時、他の事をしようと思うからいけないんじゃないですか。エー本当に面白いですよ、人間て。お茶を飲んでる時に

ビール飲んだりなんかしちゃうの。そしたらお茶の味は分らん。花を見てる時に、其処を人が通るとそっちを見る。

花は見れないよね。本当にやろうと思ったら、その時にその事をただやるだけですよ。


お針をやってる人たちを見てごらん、こんな事(縫う仕草をする)やってる、一日中。字を書いてる。機械を動かしてる。

色々やってる。色んな事やってる人がいます。皆見てると今やってる事だけですよ、どの人も。不思議ですね。

それで生きてるんですよ。他の事やってません、誰も。その時に必ずその事がその通り自分の上で実践されて保たれてる。

それ本当に三昧と言う事でしょうね。訳として等持。その基本は正しくこの今生きてる様子以外にない。

何十年生きようが、この今こうやって生きてる様子の事だけが、ずーっと繰り広げられて行くのでしょう。


もう少し具体的にちょっと一言付け加えれば、眼は必ず物と触れたら、その通り見えるし、耳は音と触れたら、必ずその音が

その通り聞こえる様に成ってると言う事をずーっとやるのでしょう。

眼耳鼻舌身意、人間の六官すべての機能がその様に働く。その事に着目する用があるんでしょう。

まあその辺で読み終わりにしておきたいと思います。



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三昧王三昧 Ⅱ

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次の所へ行きます。「先師古仏云、『参禅者身心脱落也。祇管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経』(参禅は

身心脱落なり。祇管打坐して始得ならん。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要せず。)』」


このような事が道元禅師のお師匠様になられる如浄禅師が常々示された事なんでしょう。これを受けて、道元禅師が話を

進められておられますね。


「あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、

震旦国に斉肩すくなし。」
って自分のお師匠様を心底褒めておられますね。素晴らしい人だな、本当の事をよくも

こうやっておっしゃってくれてる、って言う様な事ですね。


ものとひとつになって自分を忘れた時に、人はどう言う風になるものでしょう。考え方で想像してもしょうがないのでしょう。

でも一応考え方で想像してもですね、ものとひとつになったら、先ず争わないとか迷わないとか苦しまないとか、一杯出てくる

じゃないですか。もうそれこそ凄いな、それで全部解決する位、凄い事でしょう。問題になる事が無いんだもんね。

問題になるって言う事は、今の在り様の他にもう一つ何かを描くから、それと比べどうのこうのって常にやってるだけの事でしょう。


腹が立つ様になるんだって、そうでしょう。その時に、その事に触れた時に腹が立ってないんだけど、そこに自分の考え方を

ふっと起こすと、今触れてる様子と違うものがそこに出て来るから、何時もあんな風にやってるとかって言う風に

。何時もなんかやってませんよ。今やってる様子があるだけだけど、何時もあんな風にって。何回も言うんだけどって。

何回も言ってませんよ、今言ってるだけですからね。実際には。

そうやって人間てあらぬ事を思い始めると、それが自分の中で引き金になって問題起こしてる。


そう言う事が本当に一つになるって言う様な事、こうやって昔から伝えられている。宇宙と我と一つ。梵我一如とか、天地同根、

万物一体、一色の弁道とか、全てのものと一つ。色んな言い方をしてる。人の言葉沢山残ってるけど。

頭で理解している以上に、もしそれが自分の中でその通りの事が出来たら、万々歳でしょう。

そう言う事が、先師が如浄禅師がおっしゃった様に、参禅するって言う事は、その様に自分の身体とか心とか言う様なものを、

本当に認めてるもから全部離れ切るって言う事に用があると、こう言ってるんでしょう。


一つになるって言う事は、最初は二つだって言う事ですかね。どっかで何処かで二つって言うのを認めたんでしょうね。

何時からか知らないけど。それまでは一つだって言う事さえも知らないんじゃないですか。不思議ですね。

ものが見えてるって言う事さえも知らないですよ。こうやってやって。(ものを見る)赤ちゃんて、自分が見てるって事、物を見てる

って事知らないです。こうなって、こうなるんですよ、眼の働きとしては。


耳の働きとしては、コンコンコンコンコン(机を軽く打つ)こう言う風になるんですよね。

聞いてるって事知らないんですよ。コンコン!そんな風に生きてる。だから本当に天真爛漫ですよ。

ああ言うのがよい例じゃないですか。誰もそう言う処を通過して来たんだけれど、その頃には自分の事を知る能力が

無いもんだから、今大人になってから、この力を借りて、そう言う自分の内容にこうやって触れるって言う事を修行の上で

やるのでしょう、ね。


本当にそうやって坐ってごらん、て言ってます。だから他に色々修行の方法として、道具、材料、お香をたいて或いは礼拝をして、

仏を声明で南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経唱える事、念仏です。それから悔い改めると言う様な修懺、教本がありますけど、

それを声を上げて読むとか、声を上げずに読むとか、言う様な事があります。

色んな事がありますけど、一切そう言う事に用がないと如浄禅師がおっしゃってる。


こんな事を言う人は、ここ最近四五百年、歴史を振り返ってみても、四五百年居なかったって言ってる。

それは道元禅師ご自身、中国に渡ってこれはと思う人の所尋ねてみた結果、こう言う事が言えるのでしょうね。

勝手にそんな事を言わないでしょう。肩を並べる、等しくする人は中国には当時、如浄禅師と肩を等しくする様な方は

見当たらないって言っておられる。


「打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。」間違えればここで坐るって言う事が、

外からに見た形を作ってる事を坐るって言う風に理解してる人が多いじゃないですか。それで済むなら簡単な事ですよ。

立派にこうやって鏡見て、非の打ち所の無い位いい格好してこうやって坐ってる。それで心の問題、自分の問題が全て解決する

ならそんな楽な事はない。坐禅には必ず形を作る事でなくて、その坐ってる時の在り方が問われるって言う事が抜きになっては

ならない、って言うのが、先程も前の段の所で、坐ってる時どうだって言う様な事を、こう色々挙げてる事でしょう。

それが分ると、本当に坐禅をするって言う事は、そう言う素晴らしい内容であると言う事がよく分る。


「たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。」難しい様な事言うけど、

パン!こうやったらこれがこれに違いないじゃないかって言うだけのことじゃないですか。

これ知るのにパン!他のもの持ってくる用がないじゃないですか。そう言う風に出来てるのでしょう。


「いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。」その時にその事がその事によって本当に実現されているんじゃ

ないですか。何時でも。他の時間帯で他の場所でその事が実現される事はない。

その事は必ずパン!その時その所でその事が実現されている。そうやって保たれる様になってる。

それだのに人間は時間を追いかける様にして生きてる。時間は追いかけるもんじゃない。絶対今と言う時と別に生きた人は

居ない。探して今と一緒に生きていこうなんてって言う様な必要がない様に出来てる。にもかかわらず頭って面白いですね。

そう言うに考える。あの時の様になろうって。あの時のようになる。そんな事は要らない。

今その通りであったら良いでしょ。こうやって。


パン!この通りあったら。それだけで十分なんでしょう。でも人間は理想がありますからね。

パン!こうやってもう少し小さい音に聞こえると良いなとか、そう言う風にふっとこう思うんだね。そうすると、

このままこうやって居れないのでしょう。あるいは、パン!こう言う事大事だと思えなくなる。

でもこれがこの通り聞こえなくなったら、大変な事ですよ。こうやったら、(扇を見せる)この通り見えなくなったら、大変な事ですよ。

掴んだ時、こうやって掴んだ時、こう掴んだ通りにならなかったら、大変な事ですよ。エーこんな簡単な事ですよ。言ってみれば。


「しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。」

そりゃそうでしょう。身体の活動と精神的な心の活動は違う訳だから、だから身と言う字と心という字を使い分けるのでしょう。

それで身心と言って、この人の様子をひとまとめにして身心と言うのでしょう。別にあるとは言わないじゃん。身と心が別だとは言わない。
身心は元々ひとつです。どこまでが身体の様子、どこまでが心の様子って言う風には言えない。時間と空間と同じです。

お茶一杯飲むとお茶の味がするって言うのは、じゃ、身体の様子なのか、心の様子なのかって分ける事は出来ません。ねぇ。

味を味わう力があるって言うのは所謂心の働きと言われているのでしょう。そりゃ飲むって言う事が身体で行われた時にしか

出て来ない働きです。飲んでない時に味を味わう事は出来ません。こんな風に身はなってるんですね。必ず一緒なんです。


だけど上手に頭の中で切り離して別のものだっていう風に捉える力を持ってる。これでやられるのかも知れませんね。

どちらかに比重がかかっている時に、心の様子だとか言うんでしょう。

苦しいって言って、じゃ心だけが苦しくて、身体は苦しまないのか、そんな事はない。見てごらん。一日で胃潰瘍になるじゃん。

ストレスが溜まる人。一晩で髪の毛が真っ白になる人だって居る訳でしょう。別に玉手箱を空けた訳じゃないのに。

不思議な事があるね。まあそう言うな事があるでしょうね。


「身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。」こんな表現を道元禅師はするのでしょうなぁ。

言いたい事はどう言う事かったら、身心脱落の坐禅があると言うけれども、考えている事と本当にやっている事は違うと言う事が

いいたいだけでしょう。身心脱落してる坐禅てこう言う事だとかああ言う事だとか言って、頭で取り上げて、

考え方の上で取り上げて話してる事と、本当にその脱落してる状況とは違うと言う事を言いたいのでしょう。

実を取るのか概念をとるのか。


「既得恁麼ならん。」既に恁麼ならんですね。既得。

「仏祖の行解相応なり。」言う事とやる事、思う事と行ってる事にはズレがない。実践にはズレがないですよね。

必ず行解相応ですよね。こうやって、パン!音をひとつ聞くって言う行為がある。音がした事が分るって言う理解

の仕方があるけど、それが時間がずれて行われる事はない。パン!こうやって物を見せたってそうでしょう。

見るって言う行為がある。見ると言う行為がある事自体が、見えてる内容が分ってる事になってるんじゃないですか。


普通言う理解とは違うじゃないですか。普通使う理解は時間がたたないと、理解が出来ない様な事を言う。

こうやった時にこの通り見えてるという事が理解出来てるって言う事でしょ。この通り見えるって言う事は理解してるって言う事で

しょう。パン!こう音がその通りしたって言う事が分るって言う事は、理解してるって言う事でしょう。

パン!そう思いませんか。音がしたって言うだけじゃない。その通りの音がしたって事が分る訳でしょう。

パン!こうやって。ただなんとなく聞こえてるんじゃないでしょう。はっきり、はっきりしてるでしょう。その通り。

パン!これパン!パン!皆きちっと違いが、パン!パン!どうもしない

のに違いがはっきりしてるでしょう。それが、時間がたってから分るパン!パン!様な事じゃないでしょう。

こう言う風に行解相応なんですよ。


「この念想観を保任すべし。」こうやって自分自身の真相にふれて、それがはっきりする必要があるじゃない

ですか。念想観、ああなるほど、本当にそうだ。念想観て三つの漢字が並べてあるけど、念はカチッて言う触れた時の様子を

一念と言いますね。その一念を受けて、どう言う風になってるかが思い巡らす事が出来る。

そしてそれがしっかりしたものの見方として、観念ですね、として捉えられる訳でしょう。


「あ」の文字で言えば、「あ」って言うのは念ですね。二つ位の文字が並ぶと「あい」と並ぶと一つのものが想像されるでしょう。

「あいは美しい」って言う風になると、もっとちゃんとした概念になるんですね。

こんな風にして念想観と言うものが心の働きとして、どこの国で始まったか知りませんけども、心の細分化した表現なんでしょうね。

五官(感)とか六官(感)とか第七官(七識)とか第八官、八識とかって言って、心の様子を研究した仏教の学説がある。

俱舎論とか唯識とか。皆さんがクシャクシャになるって言うのは、俱舎論を勉強すると、ああ言う風になるんですね。フッフッフッ。


私が習った先生が、頭がおかしくなるよって自分で言ってました。勉強の仕方知らないんじゃないの。

考え始めるとあんなもの本当に分らなくなる。実物で学べばよく分る。こう言うのだって、実物で学ぶとよく分るでしょ。

どっから音が出てきて音は何処へ行ったのって。実物で学んだらよくわかるでしょう。聞いてみます。パン!

何処から音が出てきたんですか。何処へ行ったんですか。パン!本当はよく分っている筈なんでしょう。

ひとつも隠してないもんねぇ。全部みせたんだもんねぇ。パン!こうやって勉強するんでしょう、ねぇ。

考えたって無理だよね。


「この心意識を参究すべし、」もう一つ心とか意とか識とか、これも段々大きくなってくる働きでしょう。

認識までなると、一つのきちっとしたものになるでしょう。だからこの三昧王三昧の中で、普勧坐禅儀なんかでは

心意識の運転とか、念想観の測量って言う表現がある時に、それを取り扱わないって言う風に、一応なってるじゃないですか。

ここではちゃんと参究するってなってる。こう言うのを聞くと、頭の中が混乱するのかも知れません。


取り扱うんじゃないですよ。そのもの自体がどうなってるか、そのものに学ぶだけですよ。心意識の運転を止めたからって言って、

心意識が無くなる訳じゃないじゃないですか。運転を止めるだけじゃない。運転を止めると心意識の様子がどうなってるか

はっきりするんでしょう。動かしているとよく分らないでしょう、心意識を。

念想観の測量を止め、大きいとか小さいとか重いとか軽いとか、そう言う風な測る事を止めたら、心意識と言うものがどう言う風に

なってるか、はっきりするんですよ。そう言う事ですよね。ここでも。同じ事ですよ。参究するって。保任するって。

手をつけてどうかするって言う事ではない。

「釈迦牟尼仏告大衆言(釈迦牟尼仏、大衆に告げて言はく)」どんな事をお釈迦様が言はれたのか。こうです。

「若結跏趺坐、身心証三昧。(結跏趺坐するが若きは、身心証三昧なり。)」

本当に坐るって言う事はやってみれば、よくお分かりの様にですね、先程申し上げた通り、何時でもその通りの事が全身心を

挙げて其処で行われてますね。「三昧を証する」もうちょっと平易な言い方をすれば、もう一つの生き様が無いと

言う事でいいでしょう。これ誰しもがやってる事でしょう。もう一つの生き様を持ってる人なんか居ない。

考え方の中にもう一つの生き様を描くだけでしょう。そして今の生き様をないがしろにする訳でしょう。


どうしてないがしろにしたくなるかって言うと、身心証三昧の内容を十分に把握しない内に、自分の勝手な見方で、自分自身の

内容を、大した事ない、つまらないって大体認識してるからでしょう。本当はこの今生きてるこのものの中に、全ての真相が

あるのでしょう、大事な事が。だって生涯みたってそうでしょう。どんなに長い人生を送ったって、今こうやってる様子がただある

だけじゃないですか。それでその時に心底満足が行く様に生きるか。そうやってやってるにも拘らず、その事が気になって、

何時も不満を抱いたり、不安を抱いたりする方向で過ごしてるかだけの違いじゃないですか。


その時に人間が一つやり残してる事は、この今生活してるこの実態が本当にどうなってるかって言う事を、自分の目で見届けて

ないって言う事じゃないですか。千両箱を抱えて生活していても、箱を開けてみないから、中に何が入ってるか分らない、

と言う事じゃないですか。邪魔な物が其処に置いてあるって、思ってるでしょう。

空けてよく見たら、使い道があるから豊かに生きられる筈じゃないですか。


でそう言う事を本当に分ってみると、「威徳衆恭敬(威徳衆恭敬す)」太陽の世の中を照らすが如しって言う、

そう言う大きな働きになるでしょう。自分の真相が自分で手に取る様に分ってみると。素晴らしいなぁって分るじゃないですか。

そして眠気とか怠惰な気持ちとか覆い隠す様な心とか、そう言うなもの全部取り除かれる。そして取り除かれるから、身体は

自由になるでしょう。身軽くして。卑下せず、疲れもしなければ、何だろうこの懈の字は何ですか。

りっしん偏に解だから心の緊張がとけるのかな。おこたると訳されますが。


「覚悟亦軽便(覚悟また軽便なり。)」その気づいた内容、目覚めた内容、はっきりした内容は、

そりゃ素晴らしいでしょう。「安坐如龍蟠(安坐は龍の蟠まるが如し。)」静かだって言う事が一つあるでしょう。

架空の動物ではあるね、龍は。だから実際には居ないのでしょうけど。そこにこうやって静かにこうやって、舌をが二枚舌か

どうか知りませんがけど、ペロペロ出されてこうやられると、ちょっと気持ち悪いけど、目がキョロキョロ動くと、尻尾がピクピクと

こう動くと気持ち悪い。しかし、本当に置物の様に、絵に描いた様にそのままこうやってじっとしてる様子だと、そりゃいいでしょう。

絵に描いた坐禅の姿でさえも、それを見るとですね、魔王も恐れをなすと言うんでしょう。いわんや本物はもっと凄いと言う事が

書いてあるのでしょう。


「何況証道人(何に況んや証道の人の、安坐不傾動(安坐して傾動せざるをや。)」まあこう言うのは、

そのままざっと読んだ位でいいでしょう。「しかあれば、跏趺坐を画図せるを」絵に描いたものを見たり聞いたりする。

見たり聞いたりするって言うのは、絵に描いたものを見たり聞いたりする事もあるのかね。絵に描いたものは見るだけかと

思ったら、聞くこともあるのね。あすこにこう言うのが在ったよ、と言う事ですかね、絵に描いたものが。


「見聞するを魔王なほおどろきうれはおそる々なり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。」

近年でもそう言う話が残ってる。岸沢惟安さんだったか、沢木興道さんだったか、何か夜坐禅をして、一般の家で坐っていたら、

坐っている姿が障子に陰影されて映った。その障子に写っている姿を見て、そこのおばあちゃんが拝んだって言う、そう言う話が

どっかに書いてあった事を記憶してます。まあそんな事もあるでしょう。


「しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。」粗大ごみにならない一番良い過ごし方でしょう。

すごいよね。家の中で、静かに、どっか一角をかりてこうやって。子供が寄ってくる。

おじいちゃん何してるのって、お父さん何してるのって、それだけでも家の中が平和になる。暇があると寝てばっかり居て、

と言うのとは違う。何もやらずにクタグタグタグタ一日中してるって、見るたんびに気になる。


坐禅をしてるとそうは行かないね。その姿にこうやって触れると、触れた人が自分の襟を匡す様になるね。

そう言う力を持ってるね。粗末になんか出来ないよね。こうやって。何も言う訳でもない。何も教える訳でもないのに。

そんなのもよく見るとあるでしょう。


「釈迦牟尼仏告大衆言、『以是故、結跏趺坐』(釈迦牟尼仏、大衆告げて言はく、『是を以て故に、結跏趺坐す』。)」

こう言う事があるからって一応効能書きが書いてあるのね。


「復次如来世尊、教諸弟子『応如是坐』(復た次に如来世尊、諸の弟子に教えたまはく、『応に是の如く坐すべし。)」

次に挙げる様にって言う事ですね。そこで最初に坐禅をしてる方達と違うものをずっと挙げてありますね。

「『或外道輩、或常翹足求道(或いは外道の輩、或いは常に翹足して道を求むる、)』」今インドでこんな事が

一般に行われているかどうか私は知りません。苦行とかあるいは仏教以外の人たちが、昔はこう言う様々な形を作ったまま時を

過ごす事を修行だと思ってやっている訳ですね。一本足のまま立って何日もいるとか、つま先立ちで立っているとか。


「『或常立求道、或荷足求道(或いは常に立ちて道を求める、或いは荷足して道を求める、)』」

何か荷物みたいなものを背負っているんですかね。重量挙げの選手とか、ああ言うの造るんだったら、少し重い物を担いで

立ったり坐ったり立ったり坐ったりすると、筋肉が強くなっていいかも知れませんけど、仏道の修行に荷物を担いでそこに立ってて

どうするんでしょうかね。ああ言う事をやると何か悟れるのですかね。まあそんな事を上げてある。

道元禅師じゃなくて、ここはお釈迦さまですね。


「『如是狂狷心、(是の如きの狂狷心は、)』」何かつまらないものを守って頑張る様な事ですね。

「『没邪海(邪海に没す、)』」とある。とんでもない方向へ行きますよ、修行するのに。

だから私の元で修行する人たちはああ言う事をやってはいけません、とこう言っておりますね。


「『以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。(是を以ての故に、仏は弟子におしえたまはく、結跏趺坐し直身に坐すべし

と。)』」
直身がまっすぐに坐っているって言う意味だけではないですね。正身端坐って言うのもそうですね。

身体をまっすぐにして偏らないとか、色んな後ろに反らない、左に右にと、まっすぐってそう言う様な事が書いてありますけども、

ただそう言う形が中心にきちっとしてるって言うだけではないでしょうね、直身て。直き心、飾りのない素直な、正直な、ありのまま。

そう言う風にして坐るんですよ。


「『何以故。直身心易正故。(何を以ての故に。直身は心正し易きが故に。)』」身心一如ですから。

身を正すって言う事は、自ら心も正されるでしょう。修行して心が疲れて来ると、坐ってる形も段々いい加減になって来るって

言うのがよく分かる。

「『其身直坐、則心不懶。(其の身直坐すれば、則ち心、懶ならず。)』」怠ける気持ちが起きない。怠惰ですね。


「『端心正意、繫念在前。(端心正意にして、繫念在前なり。)』」実際今坐っている様子にこうやって触れてみると

はっきりするのでしょう。『繫念前在』ですね。目を開けて坐っていますから、目を開けていると、普通はですよ、

普通目を開けて坐ってるとですね、普通は目の前の物が見える。それが目を開けてる人の坐り方です。

ところが目を開けて坐っている割にはですね、目の前の事が問題にならずにですね、頭に浮かぶ事が問題になる人居ませんか。

変なものですね。何処を見るんだろうね。頭の中の映像まで人間は見るんだよね。不思議ですね。

ああ言う風になると坐禅は本当駄目でしょう、ねぇ。


『繫念在前』「『端心正意、繫念在前。(端心正意にして、繫念在前なり。)』」今目の前の様子が本当にその通り

現じてる様子がある。それがその通りこうやって見えてるって言う事は、下にもある様に、冷静だって言う事でしょう。

普通はその通り見えるのが当たり前じゃない。それ以外の見え方がするなんて事はないじゃないですか。

その通り見える様になると、物がよく理解出来る様になるでしょう。


「『若心馳散、若身傾動、摂之令還。(若しは、心馳散し、若しは、身傾動すれば、之を摂して還らしむ。)』」

よく元に戻るとか言う様な表現する人がいますけど、摂して還らしむって言うけど、止めたら必ず今の様子しかないのです。

ああも思いこうも思ってる事が止まったら、イキナリ今の様子しかない。還って来てそこに来るなんて事じゃないよね。

今の様子って言うのはどんな事をしていても、自分の上にちゃんとあるんですよ。無くなった事はない。


だけども、色んな事を考え始めて、心が散らばったりした様な風になると、今の様子には目が向かないから、無い様に思う。

それで、じゃ最初の様子の処に戻ってこなきゃって、そう言う風な思いを抱くけども、そんな必要は無いですよね。

心が散乱しても、馳せ散じてもですよ。或いは身体の方も傾いたり動いたり色々する事があっても

、「之を摂して還らしむ。」本当にその事がその通りにあるって言う事、それで事は納まるのでしょう。


悪い事を悪いと知ればって言う様な表現があるでしょう。他のものを持ってきて正すんじゃないですよね。

その事によってその事がどうあるかって言う事が分かると、それによって正される様になってるんでしょう。

ああなんだこんなに余分な事をしてるって。あっちへ余分な事を思い、こっちの事に心を向けていたって言う風な事が、

自分で今こうやって分かる。その通りやってる事がその通り分かると、そうすると心はちゃーんと何処にも散らばらない動きを

してるでしょう。こう言う所が微妙な処じゃないですか。


人間の考えてる事とはちょっと違うんだよね。捨てるものはだから一つも無いでしょう。全部その事が修行の教材になるのでしょう。

気に入ったものを持って来ないと、修行の正しい教材にならないんじゃなくて、どんなものでも大丈夫ですよ。

摂するって言う様な事は捨てないと言う事でしょう。一切のものを。


正法眼蔵 第六十六  三昧王三昧 Ⅰ

2017.11.25 提唱

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「驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂寧を踏翻して、仏祖も堂奥に

箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。

このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

まさにしるべし、坐の尽界と餘に尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。

正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活鱍鱍地なるか。

思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡・身心裏を脱落して坐すや。

恁麼の千端万端の参究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。」



続きますが。正法眼蔵と言う題名が皆付いている訳ですが、その中でも坐禅の事が沢山出て来る訳ですけども、

この三昧王三昧と言う巻を見てみるとですね、最初に出て来る様に結跏趺坐と言う、普段皆さんが坐る時の足の組み方です。

だから、坐禅をしているって言う事について、丁寧にこう示されていると言っていいのでしょうね。


だけども、表題の三昧、サンマディとかって言う原語なんでしょうけども、三昧。何か冗談みたいな話がどっかにありまして、

三昧って日偏ですね、ところが口偏に間違えて三味と読んでる人がいた様なものがどっかに出てました。


意訳の代表的なものは等持ですね。等しく保つ。もう少し、違ったものでは、専一とか一心とか言う様な漢訳があるのですよね。

そうしてみるとですね、別に坐禅の事だけじゃないと言う事が、よく分るでしょう。


どういう風に私達は、物を、そのものをそのまま間違いなく正しく保つかって言うとですね、こうやってお花が活けてある、掛け軸が

掛けてある。こうやって触れた時に、その通りの事が、今すぐ、そのまま維持されるじゃないですか。

こうやったら、(掛け軸の方を向く)いきなりそれ以外の事は出て来ないから、その通りちゃんと書いてある通り、掛けてある通り、

何処をとってみても、ずれの無い程きちっと等しくその通りの事が保たれている。

これが私達が使う三昧でしょう。特殊な事じゃないですよね、三昧って。


何か仏教を学んでいる人達の三昧って、訳を見ると、何か特殊な世界の話の様にこうなってる事が多いけど、

そんな事ありませんよね。音をひとつ聞いたってコン!(扇箱で机を打つ)必ず音がした時、その通りの事が

ちゃんと、それ以外の様子にならない程、その通りの音がそこでちゃんと保たれている。そっからずれた事がないよ。

一心と言うけども。乱れないって言うけど。乱れた事がないですよ。こう言う事なんでしょう、本当は。

三昧。その中で一番中心になるのが王三昧。


何を持ってくるかといったら、今皆さんがこうやって生活してる様子が基本じゃないですか。色んなことをやるったって、

基本は今こうやってやってる(生活してること)だけじゃないですか。この事がその通り、三昧としてひとつもずれない。

きちっとした生活が出来ている、「驀然として尽界を超越して」って言う。

本当に私達の考え方を遥かに超えた在り様でしょ。どうしてそう言う風になるか、誰も知らないのに、そう言う事がきちんと、

今誰でも行われている。まっしぐらって書いてありますけど、まっしぐらって言う事は、距離で言うからまっしぐらなんでしょう。

いきなりでしょう。進んで行って、其処に到達する様な時間があるんじゃない、驀然て。


音ひとつだってそう。コン!その音に其処まで向かって行って音を聞くなんて言う事はないね。

いきなりその音がした通りになるんでしょう。「驀然として尽界を超越する」色んな事言ってる事を

全部飛び越えて。難しいとか易しいとか、出来るとか出来ないとか、色んな事を思ってる人が一杯居るけど、そう言うの

尽界でしょう。色々な世界、そう言う事を全部越えている。パン!(机を打つ)こうやって。


「仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、」その様に祖師方、仏祖方が得られた境地、境涯そのものを皆さん方も

ちゃーんと、今ここでパン!味わっているんじゃないですか。それが坐っている時の在り方でしょう。

坐禅をするって何をするか。一応、結跏趺坐とか言われる様にる両足をこう組むんでしょうけども、スタイルだけでなく

揺るぎない在り方でしょう。坐禅の時だけじゃないですよ。


「外道魔儻の頂寧を踏翻して、」仏教以外の事を学んでいる人も居る、色々な事を考えている人がいる、

色んな人が居ようが、どうでもいいんですね。何しようが、どんな宗教に携わっていても良いですよ。

そんな事を本当に全部飛び越えるんですね。


この円通寺さんに足を運ぶ時だって、紅葉が今色づいておって、触れる時に、本当に日本の国籍を持っている人であろうが、

外国の国籍をもっている人であろうが、老人であろうが若者であろうが、学識のある人であろうが、貧乏人であろうが、

若い人であろうが年寄りであろうが、兎に角色んな事がありますけれど、そんな事全部飛び越えてですよ、

本当に誰も紅葉の様子に触れた通りに、生活がきちっと出来てるんじゃないですか。


何処にも宗教らしいものなんか一つも匂いもしませんよ。これが本来の人の在り様でしょう。伝えたいのはそう言う事でしょう。

これで初めて世界の人達が手を取る事が出来るんでしょう。考え方の上のものは駄目ですよ。

皆固執してますから、自分の考え方を。宗教って言われてるものでも、皆各宗派が自分の考え方を固執してる。

教義はそうなってないですよ。読んでみれば分るけど。一切拘らない様にとか、書いてあるじゃないですか。

差別をしないとか書いてあるじゃないですか。どうして自分達の教義の中に言ってる事とやってる事が違う事を、

平気でやっていて気が付かないんだろうね。こう言う処をこうやってよく触れてみる必要がある。


「仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。」誰の事かって言ったら、徹底一人一人自分自身の様子

ですよ。ねぇ。「仏祖の堂奥」だから、仏祖方が究められた一番真髄ですね。そこにこうやって生活をしてる。

それ皆さん方の今の在り様でしょう。だから私達は坐禅をして、その事が自分の様子にちゃんと最初からありますから、

それに目を向けて貰って、それが如何なっているか、自分でその内容に気づいてもらう必要があるじゃないですか。

自分の事をほっといて他に目を向けたら、自分の上にそう言う事が行われていてもですよ、気付かない。

気付かないと言う事が、皆さんの一番の欠点なんでしょう。


だから言葉を変えると、自覚と言う事が、インドでは大事にされた訳でしょう。自覚をせる者、仏陀と言う風になってる訳じゃん。

自分自身のこの素晴らしさに気がついた人、それが仏陀ですよね。釈迦族の中で比類なき、そう言うものに気づいた釈迦牟尼仏。

そう言う風に尊称されている訳でしょう。内容は各自自分自身の、そう言う今触れた様な出来栄えの様子がありますから、

それを自分で本当にこうやって、なるほどって言って戴ける、そう言うものが必要なんじゃないですか。


その一番、何だろう、正当な過ごし方って言うのは坐禅をする事でしょう。坐禅をするって言う事は、自分の生身の、この素晴らしい

活動をしてる生のものそのものに、こうやって触れるという事でしょう。だから何もする用がないじゃない。

今生でそう言う様な活動をしてる自分の様子があるから、坐って何処かに向かってそれを尋ねるとか、探して見つけるとかって

言う様な問題じゃないでしょう、坐禅は。それで只管打坐と言われる。本当に坐る。そのまま。


その実物の様子にそのままに居てみると、実物が実物をそのまま否応なし、等持として等しくそのものからずれない事を

きちんと皆さん方に保たせるんでしょう。それを此処では結跏趺坐と言っているのですね。皆さんがどう言う風に

坐禅をしておられるか、また後で伺ってみたいと思いますけれど、坐禅てそう言う事をする、そう言う行なんです。


「仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。」これ以外に無いって言っいる。

何時でも生活が、こうやって触れてみると感じると思いますけれども、こうやって一つこうやって動かしてもですよ(扇箱を左から右

へ動かす)こう言う動作をこうやってやってみても、後でやるって言う様な事はないですからね、この事を。ねぇ、分りますよね。

後でこの事をやるって事はないですよ。これで終わりですよね、この事は。もう済んじゃったじゃんね。只管ね。

これは「極之極」でしょう。こんなに凄い事はないでしょう。そう思いませんか。一緒にやっちゃったんだよ、もう。済んじゃった。

これ。見終わっちゃった。既に。


これからどうかして、それをどうかするって言う様な事は一つも無いでしょう。

これ朝から晩までそう言う風な生活をしてる訳でしょう、私達は。生活の方は、生身の生活の方は。

だけども考え方って言うのは全然違うよね。もっと難しい事を考えるんでしょう。実物はこんなに出来てますよ。

パン!(両手を打つ)後で聞くなんて事はない。もういきなり、パン!その時聞いて

これで終わりです。手をつけて何かやり直すって事は一切無いです。はっきりしないって事もパン!無いでしょ

う、これで。分らないって事も無い。本当にうまく出来てるじゃない。


だけど人間の考え方はそう言うものに触れても、そんな事はって思う性質を持ってるんじゃないですか。そんな事が何?

それがどうなの?って。そんな事はどうでも良いって思う位ひどい事を考えるのが人間でしょう。

だから坐る時に考え方を相手にしないじゃないですか。


このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。」他の事はしない。本当にただこうやって坐ってて、

こうやってパン!ただあるだけじゃないですか。

そう言う事をこう触れてみると、「まさにしるべし、坐の尽界と餘に尽界と、はるかにことなり。」

一般の生活している、普段生活してる事と、坐禅と言われる教え、坐禅をしなさいと言われている内容とは全く雲泥の差がある。

一般のものはこれから取り上げてどうかしたって言う話ばっかりじゃないですか。こっちは違いますよ。これで終わりですよ。


だけど、人間はやっぱり気に入るとか入らんとか言う思いがふっと出るもんだから、こうなってても、そんな事はって言うんですね。

それが人間の取り扱っている世界でしょう。坐の世界と比べて見るとよく分るじゃん。

世の世界、坐っている時の様子とそれ位違うでしょう。


「この道理をあきらめて、」こう言う風に本当になっているって言う事を、皆さんがはっきりさせて、

そして「仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を」実践するのでしょう。

ああなるほど、言われてみると、そう言う事を間違いなくそう言う風になってる、と言う事が分るでしょう。

これ見るのに。(扇箱を左から右へ大きく動かす)これからって人はないでしょう。この通りで終わりですよ。


そう言う事が分ると、ああなるほどって、それ発心ですよ。今までの心と違った様子があるじゃん。

よし!って、よしって言って、そう言うことだったらって、気が付いて、そっから始めるのでしょう。修行を始める。

じゃ修行って如何いう事をやるかって。今までは自分の思ってる事を気に入る様にやり変えて行く事の様に思ってる。

それが殆どの人の修行です。


仏道の修行は、仏道の修行は違います。こうやって修行する。(扇箱を動かす)ああなるほどって。これで終わりですからね。

パン!後でどっかでやり直す事は一切無い。そうやって生きていく事を修行すると言うんでしょう。

そうするとその内容はどうなってるかよく分るじゃないですか。菩提として。手をつけてやり直さなきゃならない様な在り方でないと

言う事がよく分るじゃないですか。本当にその通りにきちっとしている。それで安らかになるんでしょう、涅槃として。

それを気が付かない間は、やっぱり人間の考え方を中心にして生きてるから、どうしたらそう言う風になれるかって、

常に追いかけて探し求めたりする生活を止めないでしょう。


次の所に、「正当坐時は」そこで坐ってる時ですね、「尽界それ竪なるか横なるか」

竪をしゅとカナが振ってあるけど、竪横ですね、竪横。脚注にはこの竪の方を時間として捉えて、横の方を空間として捉えている

様に訳しておられます。どっちが時間でどっちが空間かって、竪横なんて、そんな事があるかしら。

こっちが時間の流れで、こっちが空間の流れ、そんな事ないじゃないですか。こう言う風に本当に不思議な表現をするもんだね。

それ説明する時、一応そうやって、竪は年齢とか横は温度とかって言う風にグラフを作るから、こう言う事になるんでしょう。

実際はそう言う事ないですよ。全部時間の様子ですよ。全部空間の様子ですよ。

時間と空間が別々にある訳じゃないですよ。一つですよ。


別々だったら、厄介でしょうがないじゃないですか。朝日が昇ってくるって、これは時ですよ。朝日が昇ったって、時を現してる。

じゃ朝日が昇ってくる様子が無いのかって?朝日が昇ってくる様子そのものが時なんです。

それ位時間と空間て言うものは別々じゃない、ね。そうやって参究するのでしょう。


一応道元禅師は竪横とかって使っておりますが、本当にどうなってるかって言ってるだけの話ですから。

皆さんが色々取り上げてるけど、本当はどうか、大丈夫かって。そう言う表現してて。騙されてないかって言うのでしょう。


次にも「正当坐時」ってあるでしょう。「その坐それいかん。」坐ってる時に、

本当にどうしてるんだろう。どうなってるんだろう。坐ってる時、坐ってる以外の事をしたら、坐ってるとは言いませんよ。

そうじゃないですか。坐ってる時坐ってる以外の事をしたら、坐ってるとは言わないでしょう。他の事をしてるって言うでしょう。

じゃ皆さん方自分で坐ってる時に、本当に坐ってるだけなのかどうか、見てほしい。教えられた事を一生懸命頭に置いて、

それを具現化して、手の形がどうだとか、呼吸がどうだとかやって。そうやって作り事をして坐っている間は、

皆目を其処に向けてるとか、呼吸を整えるとか言う事やってるんで、坐禅とは違うよね。造作してますよね。


そう言うのが気になっている間は坐禅にならないじゃないですか。教えられたものが頭によぎって、やれてるかどうかって、

常にそうやって、看板に幾つか条件が書いてあって、それを相手に出来てるか出来ていないかって、そうやって眺めてる。

そう言うのは坐ってる様子じゃないですよね。観察してるだけじゃんね、自分の様子を。観察するって言う事は、もっと丁寧に

見てみると、自分の坐ってる様子が此処にあって、それをあたかも離れて見てる人が居るって言うことでしょう。

それおかしいじゃないですか。変だと思いませんか。自分が坐ってるのに、そっちの方に自分を置いといて、

こうやって自分の様子を見るって。そんなのは坐禅にならないよね。


だから、そう言うな事が、「その坐それいかん。」とある。

それから「飜巾斗なるか、活鱍鱍地なるか。」中にはアラン・ドロンじゃないけど、眠ってる様な人も居る。ドロン。

ぼんやりしてる人も居るでしょう。ここはいずれにしても、惺惺著ですよ。目覚めている。はっきりしている。

風が吹いてくると、風が吹いた事がそのままサーっとある。それを暫く身体の様子と表現してるけど。音がすると音がした様子が

ある。本当に活き活きとして、そうやって活動してる。そう言うものじゃないですか。


先ほどの様子が一切無いほど、人間は活き活きとして今の様子だけで、こうやってピチピチして生きてる、何時までも。

先ほどの様子を何時までも残して生活してる人はない、本当に。生まれて初めて触れる、新鮮な様子にだけでずーっといる。

それが皆さんの生きてる様子でしょう。それがゴミが付かないと言う事でもある訳でしょう。ねぇ。

洗わなきゃならない様な塵がどこにも無いと言う事でしょう。色んな言い方があるでしょう。


それからよく出て来る「思量か不思量か。」考え事なのか考え事を離れているのか、と言う事ですね。

ああも思いこうも思い、出て来る、出て来たものに対してもそう思う。

ああこんな事が思えたとかこんな事思ってるとか、まだこんな事が無くならない、そうやって考え方でずーっと相手にしているのか。

それとも実物そのものに居て、人間の考え方を遥かに超えているのか。で、どっちを取りなさいって言う事は示されてますね。

不思量底。それが坐禅の時の進む道でしょう。それを本当に実践するのには、考え事でない非思量と言うものを必ず用いるって

言う風になってる。そう言うのも良く見てほしい。


「作か無作か。」って言う事は、作り事をしているのかどうかって言う事でしょう。

作り事をしたくなるって言う事は、自分の中に理想を持っていて、その理想を追いかけて行くから、今の様子にそのまま居れない

のでしょう。本当に実物がどうなってるか知りたかったら、実物に手を付けたら駄目なんでしょう。例えばりんご一つある。

虫が食っているからって、其処をえぐって取ったらですね、最初のりんごの様子を見るってことにならないのでしょう。

ありのままにそのまま触れるって言う事は、一切手を付けない必要があるのでしょう。


ところが人間はありのままを見るよりも、先に自分の好き嫌いで見るから、気に入るか入らないかって、

そう言う見方を先にするんだよね。それで、自分の気に入った様なものだけを扱う様になる。それは真実を本当に知る道ではない。
卑近な例で、皆さんが誰も思う事です。躓いて生爪でも剥がすとですね、痛いもんだから、どういう事を思うかって言ったら、

躓いて生爪が剥がれなかったら良かったなって思うじゃないですか。痛いもんだから痛くない方がいいな、と思うじゃないですか。


誰も思う事ですよ。だけど、その思い通りに若し成ったら、どう言う事が起こるか、皆さん考えた事がありますか。

思い通りの事が思い通りに成ったら、生爪を剥がさないんですよ。痛みは絶対に起きないですよ。医者も何も要らないのですよ。

不思議な世界が出てきますよ。既に其処に出来た事なのに、それを無かった様に考えるって言うのが人間なんですよね。

そう言う無かった様に考えた上で、世の中をどうしたら良いかって考えるって言う。ベースが違うじゃないですか。

基本です。修行する時、そう言う過ちがあってはならないのでしょう。


だから「作か無作か」造作しているのか無造作なのか。何かしてるのか、無為なのか。

必ず仏道は無為、無作ですよね。手のつけようが無いじゃないですか。パン!(机を打つ)こうやって音一つ

聞いたって。皆さんがやり直したくたって。よっぽどこの中に優秀な人がいてもですよ、この音を聞くのにパン!

自分の思った通りに聞き直そうと思ったって、もう出来ませんよ、悪いけど。パン!だからこの通り聞こえる

んですよ。もしこれが自分の思い通りやり直す事が出来たら、パン!こんな風には誰も聞こえません。

滅茶苦茶です。それぞれ一人一人が違う様に聞こえる。そんな事がないから良いのでしょう。


エーまあそう言うのが挙げてみると色々ある。「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。」本当に坐っているのかって

言う様な事ですね。身体らしいもの或いは心らしいものが、どっかにこうちらつくのかって言う様な事でしょう。

坐ってる時に坐ってる事を知らないって言う事があるじゃないですか。それは正に本当に坐ってる時の様子なんじゃないですか。


ものと一つになったらですね、それを眺めるなんて言う事は無理です。知るって言う事は少なくとも離れるから出来る行為ですよ。

知るって言う事。だから知は妄覚と言われている。知るって言う事は妄覚。良さそうだけども間違った感覚だと言うのでしょう。

妄りな感覚。不知最も親切とあります。


済んだ事を、だって、パン!音だってこうやって、あ、今音がしたって知る訳でしょう。音がしたって知る時に、

音はしてないんですからね。それでも人間は音がしたってパン!思うんだもの。

音がしたのは音がしてますって言った時じゃない。カチって、それが音がしてる時の様子だけど、カチって言う時には、

音がしてますなんて言えないんだよ。終わちゃった頃に始めて、あ、今音がした、早いな、皆そうやって跡形を追いかけて、

皆さん本物をこう認めた様な気になっている。そう言う様な処があるね。


「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。」だから、こう言う様なの見て貰うと、本当に坐ってる時とおなじ内容が、

日常の中だって一杯有りますよ、。自分らしいものすっかりこう離れて生活してる。

「坐裡・身心裏を脱落して坐すや。」って言う様な事はそこまで踏み込んだ言葉でしょう。

本当にそう言うものからもすっかり離れきってるかって、この様に色んな事があるけども、よーく学んでどうなってるかっを究めて

ほしいって、「参究あるべきなり」「恁麼の千端万端の参究あるべきなり。」


「身の結跏趺坐すべし、」身の結跏趺坐って言うのは、一応外から見て形がどんな結跏趺坐をしてるって

言う事でしょうかね。まずこんな風にしてやってて(横になる)結跏趺坐して坐ってるとは誰も思わないもんね。

あれ寝てるって言いますからね。一応身の結跏趺坐と言ったら、ああ誰が見てもちゃんと坐ってるなって言う様な事がある

でしょう。「心の結跏趺坐すべし。」心の様子って言うのは中々見えにくい。

で、さっき挙げた様な事があるでしょう。


で、結論としては道元禅師御自身が体験をされた様に「身心脱落の結跏趺坐すべし。」身体だとか心だとか、

何だかんだって言う様なものすっかりこう抜けてしまう、そう言う対象物になるものが一切無しで、こうやって坐ってる時の様子。

道元禅師はそう言う状況になって初めて、ものの真相に触れたのでしょう。だからこう言う事を強くおっしゃる。