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如来全身 Ⅲ (終)

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次の所へ行きますが、「釈迦牟尼仏告大衆言、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」(我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、復た上の数に倍せり。)」

お釈迦様の亡くなられた後に八つの場所に塔が建てられた。そのうち、七箇所に仏舎利が納められた。紀元前三世紀にアショカ王出られ、仏教に帰依、お釈迦様の縁の地に塔を建てた。近年(二十世紀はじめ)発掘されたものにアショカ王の石柱等がある。そこに刻まれた文字によると、お釈迦様の事を研究するのに大切なことが記されているようです。そこから出て来た舎利をですね、一説には八万四千にわけた。だから八万四千の仏舎利塔が建てられたって言う様な説もある。それ位仏様の舎利を大事にされた。

「いま八斛四斗の舎利は、」今世界中の舎利を集めると、お釈迦様の身体の何十倍にも骨がなると言う風になっております。ちなみに日本では名古屋に覚王山と言う寺があって、ここに仏舎利が、これは何だろう、血統書つきといったら、お釈迦さまに失礼になるかも知れませんが、証明されてる、一応正しい仏舎利の分かれとしての物が納められてます。それから東京読売ランドの中に仏舎利塔があります。まあ最近になって千葉県の房総半島の日本寺って寺にスリランカから仏舎利が分けられて納められた、言う様な事があります。

まあお墨付きの仏舎利って、それ位しか日本にないですね。それもこんな小さい歯一つの、更にそれを割って持って来た様なのが納められている。まあ人間て、何だろう、尊いって言えばそう言う形の在る物を持って来て、やっぱり敬うんでしょうね。形の無いものは中々敬えないんだからね。

「なほこれ仏寿なり。本行菩薩道の寿命は、三千大世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如来全身なり、これ経巻なり。」私達は死んだら終わりって思うかも知れないけど、死んで終わるって言う様な事はないですよ。死んだら終わりって。ねぇ。活動と言うのは大きな眼で見てみると、活動は止まないじゃん。一時人間の形をしてる物が、因縁が解けてバラバラになる。そうすると、人間の形を失うって言う事でしょう。

地球上で言えば、地球の質量は変わらないんじゃないですか。色んな物が変わっても。宇宙の外へ出て行くもの無いから、一応。熱量だってそうじゃない。色んな物に変わってるだけであって、熱量が増えたり減ったりする事はない。寿命ってそう言うものでしょう。

もっと卑近な話をすれば、私達は自分の寿命の尽きることを見ることがない。大体生まれた事も知らなければ死んだ所も見ないんだもの。それだのに他人の様子みて、ああ生まれたとか死んだとかって、寿命をそうやってつけて、この位の間生きたとか死んだとか言ってるけど。自分自身で自分自身の生死を見る事はない。いいじゃないですか。生まれも知らなければ死ぬ所も知らないんだからいいじゃない。心配する用がない。そう言う大きな活動をしてる。

死にそうだって言う所を見るだけで、死にそうだって言うのを見ると、何か悩むのでしょうね。それは何で悩むかって言うと、考え方の方だけを取り扱うからですよ。実相としてここにも出て来ますが、言葉が。実相。自分自身の本当の様子にこう目を向けてみると、死んでる活動なんか一つもない、ね。昨日と違う、さっきと違う活動するだけで、その変化に驚くだけじゃん。

次の所いきますよ。「智積菩薩いはく、」菩薩の名前はいいでしょう。左の頁の方に行くと訳文があるから、そこよみますね。「我見釈迦如来、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未會止息、観三千大千世界、乃至無如芥子許、非是菩薩捨身命処、然後乃得為衆生故、成菩提道(我れ釈迦如来を見たてまつるに、無量劫に於て、難行苦行し、積功累徳して、菩薩道を求め、未だ會って止息したまわず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩捨身命の処に非ざること有ること無し。然して後乃ち衆生の為の故に、菩提道を成ず。」

片時も忘れずに修行するって言う事でしょうかね、一言で。付けたり消したり、やったりやらなかったりすると、中々ものは成就しない。

お釈迦様は火をきるにって言って、もぐさに火を起こす。昔、その神職がこうやって木をすり合わせてね、ここに火が起きてね、これをもぐさにこう取って、そして煮炊きをする火をおこす。それを火をきるといいますね。下にここに檜が有って、ここにちょっと彫ってあって、ここに檜の真っ直ぐなのがあって、これにこう紐がつけてあって、これを下へさげるとぐんぐん回って紐がぐーっと巻きついて、放すとじーっと又上がって来るって、そう言う風な道具があるんですね。

何かワインの栓を抜く様なって言ったら分かるでしょう。ああ言う風なものでこうやって、これを切ると言う。揉むと言う。錐揉みをするって言います。上から押すとギリギリと、放すとまたギリギリって戻る。それを繰り返すとここが熱くなって火がつく。これに使う木を檜といいます。一般に使ってる檜は火を起こす為に使った木です。

「火をきるに未だ熱からずしてやめば」と言ってお釈迦様が残しておられる。途中で止めると何時までたっても火は得る事が出来ないって。ここの今の話と同じです。片時も休まずに気をつけて生活しないと、仏道は成就するってのは難しい。それは仏道以外だって、良い物を本当に作りあげようと思ったら、手間ひまかけて、ねぇ、やるじゃない。手抜きなんかしないよね。手抜きをして良い物なんか出来る訳がない。そう言う事も合わせて、こう読んでみて下さい。よーく分かる事でしょう。

で、道元禅師が、「はかりしりぬ、この大三千大千世界は、赤心一片なり、」ずーっと話して来てる様に、お互いこの身一つですよ。ものすごい広い三千大千世界って言う様な事を上げてみてもですよ、何の事はないこの身の様子ですよ。一人一人のこの自分自身の活動の上で行われている事以外に一切無いじゃないですか。しかもそれが今行われてるだけですよ。他所でどっかでやることは無い。

本当に赤心一片、です。虚空一尺なり。大空が広いって言っても、本当に自分自身の今のこの在り様以外にない。それ位このお互いは、「如来全身」と言われる様に、仏様が悟られた真実の様子がこの一身の上に全部備わっている。他にあるのではない。だからお互いこのものを修行の対象として、坐禅をしたりして自分の真相に触れるのでしょう。何かを学んで身につけたり、何処か手をつけて自分の好きな様に、理想の様に変える様な要は、一切禅の中には無い。違うんです、そう言う事と。それは世間の教えです。本当。

このものの出来具合はこんなになってるんだよ。パン!(両手を強く打つ)皆さんが手を付ける用が無いんだ。これ聞くのに。やり変えられないんだもの、聞くのに。ね。やり変える前に皆済んじゃう。いきなり皆近阿耨多羅三藐三菩提、真実そのものの様子に必ず誰でも最初から居る。そう言う事根本的な在り様でしょう。

「捨未捨にかかわるべからず。」捨てるとか捨てないとか人間的なそう言う考え方の、見解、そんなものを度外視してるって言ってます。そんなものが一つも手の及ぶ範囲じゃない。今までいい加減な生活をして来たから、今からやったってとても出来るとか出来ないとかって、思う人も居るかもしれない。そんな事一切用が無い。とびっきり上等に出来てるんです。

「舎利は仏前仏後にあらず、」気がつくとかつかないって言う様な事を言うかもしれないけど、そんな気がつくとかつかないとかって言う様な事よりも、先にちゃんとしてるじゃないかって言ってる。「仏とならべるにあらず。」本当にそうでしょう。自分自身の様子だけでずーっと大丈夫でしょう。

こうやって話をして聞いて貰う時、隣の人はどんな風に聞いてるんだろうって、そんな事を探る用がないんじゃないですか。自分の聞いてるだけで。そんな事したら変ですよね。お前あれ話してるの、如何いう風に聞いてる?とかって。そんな聞き方しないよね。要らん事。本当に自分の処に聞こえてる様子だけで、皆はっきりしてる。

こうやって見せた時、お前如何いう風にあれ見えるんだとか、そんな要らん事でじゃない。自分の眼で見てる様子だけではっきりしてるのでしょう、皆。それ位、仏様と並べる用がないじゃないですか。不思議に比べてみた事がないですよ。

これ見てごらんって言う時に他のもの見ないんだから。エー。これ見てごらんて、他の所見る人なんか居ないんだよ。これ音を聞いてごらんたら、ゴン!(コップを強く置く)他の音が色々しても、そっちの方に聞きにいく人は居ないんだよ。もう必ずちゃんとその事しかやらないんだ。エー。そうやって皆生きてるんだよ。

「無量劫」「難行苦行」「仏胎仏腹の活計消息なり、」そりゃ自分が生まれる前にお腹の中に居る時も、知らずにそう言う活動を皆してるんじゃない。大体この身体が出来る事さえも知らないんだもん。受精してからだって、受精したことさえも知らない、この身体が出来上がってきた事も知らない。何時から手足が付く様になったかも知らない。目鼻がつく様になった事も知らない。それはこう言う機能が働く様になったのも一切知らないうちに、皆こう言う事(今の一つ一つの活動)がきちーっと行われてるのがすごい事だね。

不思議だねぇ。五臓六腑がちゃーんときれいに形の通り区分けをされて、そう言う風に出来て、その働きが皆、誰から指導された訳でもなし、夫々の機能が皆夫々の機能をきちっと果たしてる。空気を吸う肺があったり、血液を送る血管が張り巡らされていて、心臓から送り出された。ありとあらゆるものが、想像を絶するねぇ。手を動かすのに、誰が指導するんだろうね。誰が発注するんだろうか、思うんだけど。蚊が飛んできて、ここにパン!こんな事。

本当に不思議な事が行われる。そう言うの見ると無量劫ですよ。どれ位の時間かかって一人の人がこうやって世の中に出てきて
人間としての働きをしてるか、時間見たら測り知れないね。

今はそうやってDNAの様なもので見る力が出来たから、DNAを見ていると、どの位人間には細胞の数があるかって言ったら、ちょっと数字に挙げられない位あるでしょう。この一人の人間の細胞って。そのどっか一つでも組み合わせが変わると、たちまち変化するんですよね。今に病気した原因が全部わかるなんて、組み替えて病気がすぐ治る様になると、人間は中々死ねなくなるかもしれない。死ねないのは良いけれども、どうなるんだろう。

仏胎、腹の中、どちらも腹の中ですね。仏胎、仏腹活計現成なり。それから仏皮肉、肉はニクって読むのかね。肉は何て読むのか。漢音では。皮肉骨髄って、大体私達は読んでるね。皮肉骨髄で良いのかな。「仏皮肉骨髄なり。」そりゃ身体全体のものをこうやって一々上げれば、外の方から皮とか肉とかもっと外に毛とかあるのでしょうかね。そう言う物が出来上がって来る。「活計消息なり。」作り上げられて来る様子は本当に不思議な事だねぇ。

「すでに「未曽止息」といふ、仏いたりてもいよいよ精進なり。」「大千世界に化してもなおすすむるなり。」化すって言う事は、変化するって事で、一応この世から自分が尽きて、次の働きに変わると言う事です。お坊さん達はだから、化を遷すと言って、遷化って亡くなると使います。化を遷す。この世からあの世に行くんでしょう。

で亡くなった後それで終わりかって、そう言う事はないでしょう。具体的に言えば、人は亡くなって何もしないでおけば、大体先ず腐っていきますね。で、硬いものが残りますから、頭蓋骨は残って目の玉がなくなるじゃない。歯は残る。ここら落ちてしまう。ああ言う風に骨が残る。今は火葬にするから、殆どそこから先はあまり著しく変化はしない。土葬にしとくと、骨はおのずからまた崩れていきますね。で、終いには知らない内に土に化していく訳ですね。土の中に一緒に。

だから地球は墓場ですよ。全ての物を見て御覧なさい。ありとあらゆるものが。地球ってありとあらゆるものの墓場ですよ。嫌だと思うかも知らんけど。その中で生々流転するのです、色んなものが。そう言う活動をしてるじゃない。「全身の活計もかくのごとし。」この身体もそうじゃない。小さな自分自身の活動だけで生活してる様な、つまらない事をしないって言う事です。そう言う人になる様に。どうせ生きてる間にやるだけですからね。死んでから出来ませんから、生きてる間にこれを思い切って使ったらいいじゃない。

やる事一杯あるでしょう。自分の身体をきれいにするだけだって、世の中の為になるよ。一軒の家で見て御覧なさい。汚い人が一人居てごらんなさい。嫌がられる。だけどきれいに自分の身体をしていると喜ばれる。だから正法眼蔵の中には、洗面の巻とか洗浄の巻とかって言うのが出て来るじゃない。歯を磨くとか顔を洗うとかお手洗いの使い方とか洗濯の仕方とか。仏法って捨てるもの何もないんですよ。

だけど、ものを学ばない人はそんな事普通のことじゃないって言うじゃない。普通の事じゃないですよ。その顔を洗う事の中に仏法があるんですよ。真実の事が。だって顔を洗う時は他の事やってないんだもん。ご飯食べる時もご飯食べてる中に真実の事がある。お風呂に入ってる時お風呂に入ってる事によって。それ以外の事しないんだもんね。だからそれ皆仏道の修行になる。如来の全身。

だけど、何だかしらないけど、どっかで坐禅堂に坐る事が修行だって思って、他はなんか修行してるんじゃない気配になってるんですね。すぐに。何ででしょうね。基本的な事がどっかずれてるんでしょう。何時からかそう言う風に学んだんでしょうね。だからこの如来全身とかって言うこんな短い一巻だけど、大事なんでしょうね。

これ道元禅師が、多分お坊さん達の修行する仲間と触れていた時に、こう言う事をきちっと教えとかないといけないって、感じた事なんだよ。生活してる中のどっか一部だけを取り上げて修行の材料としてる様な気配が、きっとあったんだと思います。

それ駄目です。よく見たら本当にその時その事してるだけですからね。その時その事をしてる事によってしか修行が出来ないんだもん、それがどの様な材料であろうが。これ大事なことですね。お経を読んでるとか何か特殊な仏教行事の様な、そう言うものに触れた時だけ何か修行してる様に人は思ってる。それじゃ火をつけたり消したりしているのと同じですね。中々成就しませんよね。

ある時はやってある時はやらない様じゃ。自分の命だってそうでしょ。ある時は大事にするある時はどうでもいい生き方をしたら、人間としておかしいじゃないですか。何時でも自分の本物で生きてる、それが輝いてる様な生き方すべきじゃない。まあそう言う事申し上げて丁度いい位になった。じゃ終わりましょう。

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如来全身 Ⅱ

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次の所行きますよ。「しかあれば、「若説若読、若誦若書」等、これ如来全身なり。」いちいち自分自身の真相を相手にしていると言う事ですね。一切の花や鉾や飾り、瓔珞ですね。それから「繪蓋幢幡」本堂の中央に吊るしてあるのは人天蓋て言う、須弥壇の上のは仏天蓋。幢幡て言うのは此処にはぶら下がってないかもしれませんが、四隅にこう長いやつがある。ああ言うの幢幡て言うんですか。

それから妓楽はいいですね。舞を踊るものが妓でしょう。それから楽は楽器を奏でるものでしょう。それから歌はいいですね。歌、そのまま歌。それから頌、頌って言うのは詩の様なものですね。詩を朗読するもの。そう言うものを持って供養し、お供えをする、供養し敬う、それで尊ぶ。讃嘆する。その内容を賛美すると言う事ですね。


それは自分自身の真相を自覚したものの内容がいかに素晴らしいかと言う事を、色んな物を以って飾る訳でしょう。人間はそう言うものをこう飾ってこう置くとですね、尋ねて来ますよね。だから仏様の前に枯れた花なんてあまりささないんじゃないですか、一応。生花だったら、枯れてない花を供える。お香だったら、香りの良い物を供えるとか。

ご飯や食べ物を供えるんだったら、自分が戴く前に、出来上がった、ほかほかの炊き立ての出来立てのものを、最初に神仏に供える。皆がそう言う敬虔な敬う心を持ってる。先ず自分が先に食べてからって言う様な、残り物を供える様な事はしない。ねぇ。それが敬うと言う事でしょう。大事にするって言う気持ちなんでしょう。

賛美歌なんかここの歌の中の代表的なものでしょう。キリスト教では賛美歌。西洋でキリストを讃える為、賛美歌や曲を作り詩を書いてる。沢山の本になっている。それがこんな大きな文学になって来る訳でしょう。歌の研究にもなるんでしょうね。そう言うものが絵画を産んできたのでしょう。あれ、皆そう言うものを作る人は底に持ってる。心の底にですね、敬虔なそう言うものを持ってる。大切にしたい敬う気持ちを。それが無い人が作ったものはつまらないじゃん、皆。

「あるいは人中上華上香なり。」上等なお花や香りのするものやきれいな衣服。お釈迦さま等には金襴の袈裟を用意した人が昔おられる。それは皇族の衣装として最高のサリーを着てたものを釈迦に供養したのでしょう。そう言うものが金襴の袈裟の原点でしょう。私が着ていてはもったいない、私以上に素晴らしい人が居るんだから、これ私が着るには値しない、あちらの人が本来着るべきものじゃないかって言って、お釈迦様に供えるのでしょう。

「みなこれ実相なり。」そう言う風にして何時の時代でもそう言う事が行われてるのじゃないですか。「供養供敬、これ実相なり。」本当にそう言う気持ちがあるんじゃないですか。学校に行って先生にものを学ぶ時に、先生を馬鹿にして学ぶ様な生徒は勉強が出来ないよね。皆信頼関係ですからね。

色んな事実を習うんでも、そうじゃないですか。本当に勉強しようと思った時に、その人の技術を大切に思って、今盛んに使われる謙虚、謙虚な姿勢でものを学ぶのでしょう。謙虚な姿勢と言う事は自分を立てないと言う事でしょう。ねぇ。我見を全て捨ててかかる。

「これ実相なり。起塔すべし。」だから、そう言う風な立派な生き様を立てて行く、実際にそこで実践して行くって言う事が起塔の原点じゃないですか。目に見えるその塔婆の様な、こう言う塔じゃなくて、このものを本当にそこで実践していくって言う事が起塔の原点ですよ。塔を建てて、立派な。ここはこれ塔を建てると言う事に引っ掛かるんですよね。こう言う文字と言うものは。塔って言うのはこのものの実相なんです。道元禅師がちゃーんとそうやって皆さんに示しておられるね。所謂皆さんが常識で思ってる塔とは違うよと言ってる。お墓に行くと、石塔なんて立ってる。ああ言うものじゃないって言ってる。このものの素晴らしさを塔とする。一生涯このもので生きて行く。

「不須復安舎利(すべからく復舎利を安ずべからず)といふは、」塔の中に舎利を納めると言う事はしないのだとおっしゃっておられる。法華経の中に。だけど今は舎利塔って言うと、塔の中に舎利を納めてる。何故、じゃ舎利を納めないのかったら、塔それ自体が舎利なんです。この中に何か入れる必要がないじゃないですか。自分の中に。もう一つの自分を。これだけで十分でしょう。何か猫の手も借りたいとか言う様な事もあったりすると、何か足りない様な気がして、この中にもっと付け足したい様な、もう一人の自分とか色々な事もよく言うじゃない。そう言うものは要らない。あったら厄介でしょうがない。

「しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、」さっきも原点の話をちょっと舎利でしといたけど、身体って言う風に訳してるんですね。原点の舎利は。そう言う意味は元々の意味です。だけどどこからか知らないけど舎利って言うと、仏舎利って言って骨の様なものを、亡くなった後、火葬にした後残った様なものを舎利と言う風に扱う様になったから、塔の中に舎利を入れる様になった。元々この中(各自の身体)に舎利があるんでしょう。エー。皆さん骨であってもいいじゃない。骨だって最初からこの中にあるんだ。他所からくる訳ないじゃないって。

「如来全身なりといふことを。しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なりといふことを。」これがさっき申し上げてる舎利の原語に一番近い訳じゃないですか。ね。如来舎利なり、如来全身なりと言う事を。舎利は身体なんです。全身なんです。「まさしく仏口の金言」仏様の口から出て来た素晴らしいお言葉です。

「これを見聞きするよりもすぎたる大功徳あるべからず。」本当に、自覚した人が本当の力、真実を語られている事、それを見聞きすると言う事、これ以上の事はない。「いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。」そう言うものを見聞したら、自分自身の身心を通して、言われている内容を検証して、照らし合わせてみて、なるほど本当に間違いないって言う事が自分で自覚できるって言う事が、功をつみ徳を重ねるという事です。

そうでないと、ただ人のものを聞いて受け売りしてるだけですよ。そんなものは屁の役にも立たないよ。仏教、禅を勉強するって言う事は、必ず自分自身のこの身心を借りて、その内容が、本当に間違いなくそうあるなって自覚が各自出来るって言う事が、仏教を学んだり禅を学ぶと言う事です。それだから救いになるんです。

下手をすると、あすこの、こう言う人がああ言う風に言って、こっちにこんな事が書いてあるって、それは皆他人の話じゃないですか。それどんなに沢山知ってて、それを話ししたって、お前どうかって言ったら、お前どうかって言ったらぎゃふんとする。自分自身に自覚がなかったらつまらないでしょう。

信じてるって言うかもしれないけど、信じてる程度だったら、すぐぐらつきますよ。一番早いのは馬鹿にすると怒る。信じてる人に。信じてる人に馬鹿にされて、怒るって言う事は、自分の信じてる事に対して疑いが起こると言う事でしょ。ねぇ。疑いが起きなかったら、信じてる事を馬鹿にされたって、別に腹立たないじゃない。

「もし人ありて、この塔を礼拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」とある。そう言う実相を説いてる、実相の内容を示しているもの、そう言うものに皆さん方が出会って、それを大事な事だなぁって、大切な事だなぁって、そう言う風に感じられる人がいたら、その人達は救われていると言う事でしょう。阿耨多羅三藐三菩提、この上ない素晴らしい世界に必ず到ると言う事です。これ「皆近」ですね。「皆近」の二字を道元禅師がこの後もちょっとくどくどと説きますね。

「この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。」真心をもって、心底そう言うものを大切に敬う気持ちを起こしなさいと言うのでしょう。これを馬鹿にする様じゃ駄目ですね。真実を馬鹿にするとか言う様な気配があったら、それは最低だね。自分が出来なくても、人がそう言う事をやってる人がいたら、それ手を合わせて拝む位の気持ちは欲しいものじゃない。

「すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。」その皆近て言う事は、「さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。」どういう事を言いたいかって言ったら、此処に物があるとしたら、近づいて近くなるとか、此処から離れてこっちへ行って近くなるのかって言う話を、道元禅師はしているんですけど、そう言うもんじゃないって言ってるんですね。「阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。」

いいですか。やってみるとわかりますが、パン!(両手を打ち合わす)こうやって音がした時に、音に近づくって言う事はないでしょう。パン!近づく様な気配がありますか。こうやって、パン!あっちで鳴った音に、皆さん近づくって気配がありますか。いきなりパンでしょう。こうやった時に、向こうでやってるものが、向こうでやってるものが見るって言う、そう言う風な事じゃないでしょう。この通りになるでしょう。エー。そっちに近づいて行って、初めてこう言う事が見えるって言う様な気配はないのでしょう。いきなりこう言う風になるのでしょう。そう言うものはどうですか。理解いきますか。

こうやって色んな物こうやって有るって、こうやって見える時に、近づいて行くって言う気配がありますか。無いでしょう、何処にも。エー。近づいてやっとそれが見える、そんな事はないでしょう。ずーっとその通り、どうしたんでもないでしょう。いきなり、いきなりそれなんでしょう。そう言う事を言ってる。「阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふ」いきなりその事がそこにあるんじゃないですか。

「痛い!」って言った時、これから痛くなるってそんな事はないでしょう。痛いって言う時、もう済んでるその通りじゃないですか。近づくなんて言う事はないんじゃないですか、これから。パン!皆済んでる。いきなりその通りになってるんじゃないですか。

「而今われら受持読誦、解説書写をみる、得見此塔なり。」今申し上げた様に、こうやって物に触れてる様子とか、音に触れてる、物を握ったりする、皆そう言う風に一々見えてる。受持読誦、解説書写、一々活動してるそう言う実相に触れるって言う事じゃないですか。本当にそう言う活動をしてるって言う事に皆さん出会うんじゃないですか。

「オイ!」これからって言う様な事はない。皆済んでる。呼ばれてから「何?」って言う風になる。随分と遅い話だよね。もっと違った話をすると、「オイ!」って言うと、一応皆、こうやってこっちを向く。気が向くんだけど、不思議だね。同じ言葉を掛けてもですよ、「井上さん」って言うとね、此の中に井上って言う姓の人がいればこっち向くけど、そうでない人は俺のことじゃないって、皆そう思うんだよね。エー、じゃ私の事じゃないって言う前にどうなってるかって言うと、「井上さん」って声かけられると、皆そう言う風になったんだよね。だから俺の事じゃないって気が付く訳でしょ。あれ多分そう言う風に聞こえなかったら、井上って言われたんだけども、って言う様な事は起きない。ねぇ。その時は他人の事一切やってないじゃない。「井上さん」て言われて、私を呼んでるんじゃないなんて、そんな風な気配は一つも起きない。

こう言う風な生活をしていないとですね。町を歩いててですね、、前歩いてる人が転んだりした時、手を差し伸べる事はないですよ。あれ知らない間に、すっと行っちゃうんじゃない。見てるんですよ、転んだの。見てるんだけども、私の事じゃないって思うんですよ。忙しいからまあごめんねって。それ位人間は不思議な事をするね。だって自分の考えてる事の方が中心だからね。生活の殆ど。だから小さな活動しかしなくなるじゃないですか。もっと大きな活動をするんだったら、自分て言うもの構えてないと、この身体がその様に全部如来の全身としての活動をしてますから、捨てずに活動が出来る様になってる。隣の子だからまあいいやって言わないんだよ。

「よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」よろこぶべしだって。本当にそうやっていると、この上ない素晴らしい生活が出来る様に皆なってる。自分が立つと、本当に変わるんですよね。自分を立ててものに触れると、気に入るとか入らないとか、好きだとか嫌いだとか、本当だ嘘だ、すぐそう言うものが立つんです。だから選別したり色んな事をしないと、次の行動に移れない。それ自分が立たないとこの身体と仏様の身体を同じ様に、すっとその事に一緒になってこう動く力がある。

それ実際に自分の体験してる様子です。ただ気をつけていないもんだから、体験してても見過ごして行くんじゃない。で、見過ごして行く人達はどう言う生活をしてるかって言うと、もっと素晴らしい生き方がどっかにあるんじゃないかって。自分の生活の中にある事見ないで、どっかにそう言うものがあると思って、それを探す様になる。それは仏道とは言わない。外道と言ってます。道から外れると言ってます。だから外道の教えを学んではいけないって言ってる。

それ当たり前でしょう。他所に有るものを学んでどうするんですか。隣の人の財布の中のお勘定をして、幾らあるかわかったって、そう簡単には使えられるもんじゃない。ねぇ。それ豊かになる訳でもないじゃないですか。オーすごいなって、思うだけ。ところが自分自身の内容は面白いですよ。

「しかあれば、経巻は如来全身なり、経巻を礼拝するは如来を礼拝したてまつるなり。」まあ、あえて重ねて言う必要ない位でしょうけども、各自自分自身の真相以外に経巻といわれる内容はないのですね。不思議な事に、自分自身のこの身体の他に、こう言う風なお経の本とかお経の巻物とかあるもんだから、どうしても経巻て言うと、自分の事だとは思えないんですよ。ねぇ。だって此処にあるんだもん。それを読む訳だから。自分の事だとは思えないじゃない。だけども、元々はこのものの真相を自覚した人達が、後世の人達のためにこう残したものじゃない。そう言う事をよく知っていただいて。

だからその残されているそう言う経巻を礼拝するって言う事は、仏様の悟られた内容そのものを大事にしてると言う事でしょう。で、大事にするって言う事は、更に進めば実際に自分も仏様方が自覚された様に、自分自身の事にこうやって目を向けて、ああなるほど本当に違いがないって、そこまで各自が辿り着く必要があるでしょう。

「経巻にあふたてまつるは如来にまみえたてまつるなり。」と言うのはそう言う事でしょう。「経巻は如来舎利なり。」先程から話してる、舎利は身体って言う風に訳してもらうとピッタリ行くのです。如来全身。ね。舎利を骨だって言う風に訳されると中々難しい。そう言う訳は本来無いのですよ。源語を勉強して貰うと。道元禅師と言う方はすごい博学なのかなって思う。源語に一番近い訳をちゃんとしてる。どうやって勉強したのか知りませんけども。

「かくのごとくなるゆゑに、舎利は此経なるべし。」各自、生活しているの中あらゆる事を問題にするのは、この各自の上ですからね。この各自の身体以外の所で、問題にした事は無いのです、一切。それ位この如来の全身と言うものは、一切の経巻をここに具備してる。備えてる。過去の歴史、未来の事、世界中の事、ありとあらゆる事があるって言ったって、見てごらんなさい。皆一人一人自分の上で問題にしてるだけじゃないですか。しかも、ここで今取り上げていること以外に無いでしょう。今、ここ、以外の所で、取り扱った事ないでしょうが。そう言うことも見たらよーく分かる。だけどいつの間にかこのものの外にそう言う事が一杯ある様に思ってるんだね。不思議ですね、人間て。

「たとへ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず。」理として分かってもですね、本当にそう言う事が自分で納得が行かなかったら、それは道を得た人とは言わない。当たり前の事だね。物知りになっただけで、物知りは厄介ですよ,本当に。もう物知りの人と話してると厄介だね。知らないんだよ、物を。物知りって。本当は。実物の話が全然出て来ない。評論家って言うんですか。評論家は殆ど実物を知らない。頭で好き勝手な事想像して言えるもんだから、あれで済むんじゃない。

走った事の無い人が、走った人の映像を見たりして、あれがどうのこれがどうのと、あすこがどうのここがって言う。エー。だったらやってみろって。それだけわかんない。超えられる筈だと思うんだよね。それだけ分かってやれるんだったら、そう言う風に練習すると段々人間はもっと伸びますよ、とか言う。言うのはいいけどもね、ねぇ、本当に。

知ってる、博学、知っていると言う事と内容はそれ位違う。仏道って言うのは知っていると言う事じゃなくて、本当にその事が自分で行われる事によって証明されなかったら、ものは本当に明らめたとは言わないじゃない。知らない事を喋る必要も無いもんね。ね。知らない事を喋って堂々とする必要ないじゃないですか。別に知らない人から本当の事を聞こうなんて誰も思ってないんだよね。良いじゃない、本当に。一つでも本当の事を自分で知ってる事があったら、それだけでただ世の中が楽になるんじゃない。だから一芸を究めれば、皆、国宝でしょうが。

「而今の諸法実相は経巻なり。」今のありとあらゆる真実の様子は、そりゃ経巻に違いない。本当の事を説いてるに違いない。嘘を言えば必ず嘘を言った様になるって言う。それも経巻でしょう。嘘を言った時に、本当の様になるのだったら、大変だけど。嘘を言えば必ず嘘を言った様になる。間違いがない。確かだって言っているのです。転べば転んだ様になる。傷をすれば傷をした様になる。それで役に立つんでしょ。

「人間天上、海中虚空、此土他界、みなこれ実相なり。」身の周りの皆さんが触れているもの、皆それで勉強するのでしょう、一々。教材として不足はない。「経巻なり、舎利なり。」とある様に、その身の回りにあると思われてる事が、皆この自分自身の上で展開してる事ですよ。さっきも話た様に。

思う事にしてもそうじゃないですか。絶対他人の身体を借りて何か思う事って事はやらない。読書をして理解するんだって、絶対他人の身体を借りて、読んで理解する様な事はしない。人の話を聞いて理解するんだって、絶対他人の身体を借りない。全てこの身体でやるのですね。この身体一つで。例え人がそれはこうだよ、ああだよって教えてくれた様な気配があっても、それを実行するのはその人達がやるのではなくて、この身体でするんでありますね。だから人から学ぶって言うのはそう言う事ですね。教えられるんじゃなくて、結局はこの身体でやる以外にないですね。

「舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし、」そう言うものに一々触れてものの真相を明らめると言う事でしょう。そう言う事があるいは経巻にしたがふって言う事でしょう。「或従経巻」事実に触れて事実がどういう事かって言う事が分かる様になってるじゃないですか。事実を抜きにして事実がどうなってるかって言う事を考えたって、無理じゃないですか。分かる訳がないじゃないですか。

「古仏舎利あり、今仏舎利あり、辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり、獅子舎利あり。」まあ一々形があるものはその身体で以って、その事を示してるのでしょう。人間だけじゃないね。そのものがそのものを一番正しく全て教えてるのでしょう。その物によらなければ、その物の内容は分からないのでしょう。

毛一本でも、砂一粒でも。他の砂では分からない、その砂がどうなってるか。毛でもそう。他の毛では、この毛がどうなっているか分からない。学問的には大体同じ人の身体についてる毛だから、どの毛を一本引き抜いても、DNAだとか何だとか言う物、今あるから、そう言うものが出て来るって言うんだけど、やっぱりその物によらなければそのものは分かりませんね。

だって具体的にやってみたら、わかるじゃないですか。茶碗を三つ並べといて、急須からお茶をこう注いでですね、三つに注ぎ分けてこう飲んで、同じ急須から出たんだから、どれ飲んだって同じじゃないかって言うのは人間の考え方であって、これ飲んだ時に、他の二つの茶碗に入ってる味がする訳がない。ね。絶対にしないよね。それだのに人間はこれ飲んで、こっちのものが分かると思ってる。利口そうだよね。すごい利口そうだけど、そんな事要らないじゃない。この二つを借りなくても、これだけでこの事が分かるからいいじゃない。どれでも。この事で。全部分かる、ね。「皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」そのくらいはっきりしてるでしょう。

辟支仏って何か難しい言葉で、何だろう?独覚とか縁覚とか訳されてますが、まあそこら辺はいいでしょう。辟支仏。古い仏もあれば今の仏もある。最終的には人の、人舎利ですね。そう言う事があげてあります。一人一人のこの身体の様子ですね。

さらには、「現代大宋国諸代の仏祖、」道元禅師が中国に渡られた時代の話になるでしょう。現代。「いきたるとき舎利を現出せしむるあり、」こう言う文章を見ると、舎利がやっぱり死んだ時に、骨が出て来るって気配が背後にあるのかしらね。だから生きてる時に舎利が出現するってな事を言う。これ(身心を指して)が全身が舎利ですからね。

エー「闍維ののち舎利を生ぜる、」荼毘に伏した後に舎利が、ここでは骨ですね、間違いなく舎利、そう言う意味でしょう。「おほくあり。これ皆経巻なり。」それも真実でしょうねぇ。燃すと、上手に時間かけて焚き上げれば、骨が出てきます。あまり火力が激しいもので焼くと釜を開けても骨がない。きれいに灰の様になってしまう。それでは淋しいから、一応きちっと残る様に焚き上げてくれるんでしょう。

そうすると、この辺の(首を指す)、この後ろ当たりの脊椎の第一関節、首の丁度喉の後ろ辺りに、こうありますから、それが出てくると、大体ああいう形してるんですね。第一関節って、今喉仏って言われる、喉の処の辺から出て来るから喉仏って言う。仏様が坐ってる様な形になってる。まあ誰でも出て来るんですよ。ゆっくりちゃんと焼けば。急ぐとボロボロになってる。それであれを大事にするように誰かが教えたのかね。そう言うのもあります。

如来全身 Ⅰ

2017.10
正法眼蔵第六十五  如来全身

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爾時、釈迦牟尼仏、住王舎城耆闍崛山、告薬王菩薩摩訶薩言、「薬王、在々処々、若説若読、若誦若書、若経巻所住之処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如来全身、此塔応以一切華香瓔珞、繪蓋幢幡、妓楽歌頌、供養恭敬、尊重讃歎。若有人得見此塔、礼拝供養、当知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提」

爾の時に、釈迦牟尼仏、王舎城耆闍崛山に住したまひ、薬王菩薩摩訶薩に告げて言はく、「薬王、在々処々に、若しは説き若しは読み、若しは誦し若しは書し、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起て、極めて高広厳飾ならしむべし。須からく復安舎利をおくべからず、所以は者何。此の中に已に如来の全身有り、此の塔は応に一切の華香瓔珞、繪蓋幢幡、妓楽歌頌をもて、供養し恭敬し、尊重し讃歎すべし。若し人有って此の塔を見ることを得て、礼拝供養せば、当に知るべし、是等は皆阿耨多羅三藐三菩提に近づけりといふことを」

いはゆる「経巻」は「若説」これなり、「若誦」これなり、「若書」これなり。経巻は実相これなり。「応起七宝塔」は実相を塔といふ。「極令の高広、」その量必ず実相量なり。「此中已有如来全身」は、経巻これ全身なり。「その量必ず実相量なり。」此中已有如来全身。経巻これ全身なり。しかあれば、「若説若読、若誦若書」等、これ如来全身なり。「一切華香瓔珞、繪蓋幢幡、妓楽歌頌」をもて「供養卯恭敬、尊重讃歎」すべし。あるいは天華天香、天繪蓋等なり。みなこれ実相なり。あるいは人中上華上香なり。名衣名服なり。これらみな実相なり。供養供敬、これ実相なり。起塔すべし。

「不須復安舎利」といふ、しりぬ、経巻は如来舎利なり、如来全身なりといふことを。まさしく仏口の金言、これを見聞きするよりもすぎたる功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。「もし人ありて」、「この塔」を「礼拝供養する」は、まさにしるべし、「皆近阿耨多羅三藐三菩提」なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に「皆近」ならん。「近」はさりて近なるにあらず、きたりて「近」なるにあらず。「阿耨多羅三藐三菩提」を「皆近」といふなり。

而今われら受持読誦、解説書写をみる、「得見此」』なり。よろこぶべし、「皆近阿耨多羅三藐三菩提」なり。しかあれば、経巻は如来全身なり、経巻を礼拝するは如来を礼拝したてまつるなり。経巻にあふたてまつるは如来にまみえたてまつるなり。経巻は如来舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此経なるべし。たとひ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず。而今の諸法実相は経巻なり。

人間天上、海中虚空、此土他界、みなこれ実相なり。経巻なり、舎利なり。舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし。これ或従経巻なり。古仏舎利あり、今仏舎利あり、辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり。獅子舎利あり。あるいは木仏舎利あり、絵仏舎利あり、あるいは人舎利あり。現代大宋国諸代の仏祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これ皆経巻なり。



その位で一段になるんですかね。如来と言う表記がありますが、来たるが如しだとか、だから如来如去と言うんですね。それは皆さん方の生活してる実相なんでしょう。如来の、来たる如く去るがごとし。向こうの方から人がこうやって来るが如し、こっちからこうやって去るが如し、言う様な事が実際に行われている。一日の生活を見てると、皆そう言う活動をしてるんでしょう。音がすると聞こえる様になってる、物が見える様になってろ言うんだけど、皆そう言う風になってるんです。

それはもうちょっと触れておくとですね、常識的には、先ず皆さん方が何時そう言う風になるかは、本人も多分知らないんでしょうけど、自他を分けて殆ど物を見てる。自分と自分以外の物を分けて見てる。不思議ですね。何時からそうなったか知らないんだけど、ショウユウさんがこうやって、こうお茶を運んでくれているものを皆さん触れてると、本当に歩いてる通りに見えるでしょう。不思議ですね。で、向こうへ行っちゃうと向こう行った様に見える。如来如去。全身ですよ。誰しもの身体の全ての働きがその様になる。

音がすると、パン!(机を打つ)聞こえる様になる、音が止むと聞こえなくなる。何処へ行ったのか、何処から来たのか、分らないんだけども、来た様子にも感じるし無くなっているのも感じる。そんな事ですかね。如来如去、全身。

で、一般には如来は仏様の代名詞になっているのかね。如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、まあ十くらいの仏に対する代名詞があるんですね。その中の最初に如来と出て来る。仏様の代名詞です。仏様の代名詞と言う事は、もうちょっと触れとかないといけないかなと思うのはですね、自分達の真相を自分で自覚をした人です。それ以外の何者でもない。これが大事な勉強ですね。まずね。

だけどどうしてか、インドでお釈迦様がっていう様な事が歴史上あって、色々な国を通過して日本に文化が入って来た頃になるとですね、仏様って言うのは自分の事とは殆ど理解されていない。自分とは別に仏様の世界があって、それを学ぶって言う風にいつの間にか変わってしまってる、って言うのが現況もそうじゃないですか、殆ど色んな所に行って。そう言う風に教えられている。そう言う風に聞こえてくる。だから祀ってあるものを、向こうにある仏様を拝むって言う様な事になってくる。

ここでは経巻も出て来ますけど、経巻と言うのは、内容は何が書いてあるかって言うと、自分自身の真相が書いてあるんですよ。各自自分自身がどう言う風に本当になってるか、どう言う風な活動をしてるか、人それ自身がどう言うものかって言う事を自覚した人が、その自覚の内容を書き残したものが経巻です。だから経巻、経本を読むと、自分自身の事が手に取る様にわかる様に書いてある。学ぶんじゃないんですよ、経巻を読んで。自分自身の事、それを読むと分かる様になっている。そう言うものですよ。

脚注の方にちょっと、「如来全身は自己の正体、万法の真実であり、これを経巻とし、舎利とし、諸法実相とすることを説く。」とあります。この舎利と言うのがあるんだけども。舎利、舎利ね。一般的には舎利って遺骨の様な骨のことを上げてるんじゃないですかね。源語はそうじゃないですね、舎利ってね。そのものですね。源語は舎利って言う意味が。どこかで又引いてみて下さい。今良い検索する道具がありますから。

一般常識として辞典なんかに出て来る程度の言葉は、お寿司屋さんに行くと、ご飯の事を舎利と言うとかね。それは、遺骨の、お釈迦様達の、仏祖方の亡くなった後、火葬にふすと骨が残る。その骨を祀るだけじゃなくて、当時ですね、宝石の様なものをですね、舎利として、塔の中に祀った形跡がある。私もそう言う仏舎利塔の中に祀られている、こう丸い様な宝石、玉ですね、そう言うのを見た事がある。そう言う事から、透き通った様なものになると、ご飯や、お寿司屋さんのご飯が舎利と言う風に言われる由縁がそう言う処にあるのでしょう。まあ、そこちょっとそう言う事ですね。

身体を指すのね、舎利ってね。そう言う身体を。身体の意味です、舎利って。何でか知らないけど、骨になっちゃった。シャリーラとかって言うのかね、源語は。まあ、そう言う事にしてある。それでそこに引かれている法華経の一文を今読んだ訳ですが、それに対して道元禅師が、三百四十七頁の方で、それについてお話を進められております。それでそちらに行きますね。

「いはゆる経巻は」とあります。先ず、「若説」説くがごとし、読むが如し、「若読」誦するがごとし、書くが如しっていう風に読んで行くのでしょう。いわゆる経巻は。先ほども触れた様に、自分達が自覚をした真相、それを先ず話しをされた。最初に文字があった訳じゃないですね、自覚をした時に。自覚をした内容が文字にある訳ない。体感、自分で気が付いた内容が自分に在るから、それを語られる。それ「若説」です。

そして書かれたものを、文字に書き起こしたものを触れた人は、それを読むって言う事がある。それ「若読」ですね。それから同じく「若誦」って言うのは、口に声に出して読むでしょうかね。それから書いてあるものを写すっていう、書き写して「書写」して行く。写経を言われるね。そう言う風にして行く。

これ、何が中心になってるかって言うと、表面的にな動きを見れば、喋ってるとか説いてるとか読んでるとか書いてるとかって言う風な動きだけなんだけど、内容はですね、全部自分自身の真相を自覚した内容を扱っていると言う事です。それだけですね、言いたい事は。

それを知らないと、うわべだけを扱って行く様になるんじゃないですか。それをうわべじゃなくて、内容を見ていると、あ、なるほど、自分も本当にその様になってるって言う事がきちんと分かる。只分かるだけじゃなくて、そう言う事が気がつくと、余分な事をしないで良い様になる。悩まない。苦しまない。楽になる。間違いなくそうなりますです。ものを知らなかったら、滅茶苦茶やるのですね。

「経巻は実相これなり。」だからおっしゃっておられるね。誰しもの真実の様子です。朝から晩まで、晩から朝までぶっ通し、自分自身の真実の様子から離れた生活をしてる人は一人もおりません。それだのに、自分の真実の様子って言うことに、殆ど目を向けた事がない。何ででしょうね。勉強の仕方が違うからでしょ。こうやって勉強したらいいのでしょう。そうすると、ものを知らない人は、「何?」って言うんでしょうね。それはこれで勉強してる訳じゃない。こっちの頭の中で問題にしてる事を相手にしてる。事実を問題にしてないんですね。「何?」って。分かりますね。

こうやって(扇子を開く)やられたのに、こうやってやると必ず、如来としてこう言う風に必ず知らずになるでしょう。こうやってやられてる。身体全身がそう言う風に対応する様できてるじゃないですか。こう言う風にやられてこうなるんだけど、何処まで変化したか分からない位、何ともない身体になる。一切問題なしに生活がちゃんとちゃんと出来てる。

だけどへぼな頭はそれに対して、何やってるんだろうって、何しようとしてるんだって。それは正(まさ)しく考え方の話ですね。これ、基本ですよ、勉強する時に。最初から人間の考え方がものについてるとしたら、厄介でしょうがない。どんな事でも一番最初触れる時には、人の考え方って言うものは無しに触れる様になってる。

パン!(机を打つ)聞こえたとか言う様なものは一切付かない。カチッって言うだけです。大きいとか小さいとか言う様な判断は一つもない。パン!その通りの様子があるだけです。邪魔になるとか気に入るとか一切そう言うものがない。兎に角人が考えてる事と全然違う。パン!こうこれで、心がどっか痛むかって一切ない。生活が乱されるか、一切ない。聞こえただけで全部終わっちゃう。その事で生活し終わっちゃう。これから何かする様な事はない。パン!一気に完結する。

阿耨多羅三藐三菩提と言われる由縁です。最上、この上ない法の在り方ですね。手のつける用がない。パン!どういう風に聞いたら良いって言う要らん事です。パン!エー、どういう風に聞いたらパン!言う様な事は一切ない。どう言う風に見たら良いって事は一切ない。いきなりちゃんと見えるから良いんじゃない。こう言う様なものが皆実相と言われるでしょう。実相と人間の考え方で捉えたものとは違います。そこらを注意して勉強してくださいね。

「応起七宝塔」まさに七宝塔を建てると言う事はってありますね。七つの宝。金、銀、瑠璃(るり)、真珠、硨磲(しゃこ)、玫瑰(まいかい)、瑪瑙(めのう)て言うのが出て来るのですかね。それが一応法華経に出て来る七つの宝です。良いでしょう、七つも別に数にこだわらなくても。「実相を塔といふ。」って道元禅師、ちゃんと示して下さっております。スツーパとかって言う語があるかもしれません。塔の源語としてね。だけど塔と言うのは実相の事を指すって、道元禅師こんなに丁寧に皆さんにお示しです。

ちなみにですね、皆さんがどう言う風に見ておられるかは別としてですね、物が有る有るって言うんだけども、実際には何も存在しないんですね。分りますか。物って、物って実際には何も存在しない。目と物が触れると、其処に柱が見えたり色々物が見えるもんだから、有るって皆認識してるんですね。

その時だけでしょう、見えるのは。その他の時に、だけど記憶してるもんだから、有ると思ってる。音でもそう。音がした時だけ音が聞こえるだけで、何処にも、後にも先にも音なんか存在してないですよ。味だって何だってそうです。皆そうですよ。その時そう言う事が起こるだけであって、何処にもそれが残ってない。そう言うものですね。

たまたま、昨日私の中学の時の担任の先生が、井上君って言って、相談があるんだけどって言って尋ねてくれた。もう九十になる。まあ話が一応終わった後に、先生が、「俺、まだやりたい事残ってるんだよな」とかって言うから「何ですか」って言ったら、理科の方の勉強してたから、「存在って、井上君どう思う?」って言われた。存在、物が存在するって如何言う風な事かって言って、私の方に水を向けたので、それは今話した様な話をしたんですけど。そしたら先生がオーって言って、「今勉強してる。そう言う事だよ。最近の科学者達が研究してることは。」とかって。

私等はそんな事幼い頃から勉強してる。仏教って科学の最前線を行ってる、だから、科学者達の殆どトップクラスが、仏教に、今やっぱり流れ込んで来る。研究して到達する処とか話して下さった。実相は無相。本当の姿は形がない、言う様な事も仏教では皆説いてるね。不思議ですね。認識って何だって。まあ色々言ったんだけれど。認識って、身体の中に何処に認識する作用があるのか。

その最後別れる時に、「真実って如何言うものか探るようだけども、」って先生が言うから、真実って探るもんじゃないんじゃない、って言った。今こうしてる事が真実じゃないって。で、他にはないんじゃない。真実って。そうでしょ、これ、こう言う実相でしょ。皆さんこうやってる事が間違いなく真実でしょう。その上でこう言う勉強もし、話も聞き、自分の修行もしてる訳でしょう。これから探して真実がどっかに見つかる様なものだったら、真実なんて役に立たない。皆真実の真っ只中に生きてる。真実というものはそう言う風にして、何処にも跡を留めないのが、様子ですな。そんな大きな建物の塔、形のないといわれる位大きな塔ね。実相は塔なり。

「極令の高広」ね、極めて高広量ならしむって言うんでしょう。高い方も何処まで高いか分らない。広い方も何処まで広いが分らないって言う様な内容になってるでしょう。この塔はですよ。実相はですよ。それ、身近な例をあげれば、よくわかるじゃない。皆さんが使ってる今、今、今って言う様な事をよく使うけど、言葉として。その内容はどの位大きいの?広いの?高いの? 何処までが今の様子ですか。何処までが、何処までが今の様子ですか。

「その量必ず実相量なり。」人間が測る様な大きさじゃない。実物そのものの様子が内容でしょう。皆さんが各自、其処に今座っておって、色んな事をこうやって、その通りにこう言う風に見える。その奥行きだって高さだって、皆その実物その通りに見える訳です。実相量です。それよりも大きかったり小さかったりする事はない。測らなかったけども、こっちで測らないんだけども、必ずその通りにある。不思議だ、ねぇ。こっからのの距離だって自分で測らないのに、手前にいる人と向こうにいる人と、ちゃんと位置がずれないでその通りに見える。そんな面白い事がこの身体で、皆さん今やってる。それは全部自分自身の様子ですからね。一切他人の様子はないのですよ。言っときますが。

だから仏様っていうのは他人の何か勉強する事じゃないです。自分自身の様子がそう言う風に本当にあるから。なのに最初にちょっと触れた様に、これは私の事で、そっちは自分の事じゃないって、何故かそう言う風に思い込んでる。不思議ですね。「此中已有如来全身あり、」こう書いてある。

この今実相としての様子を見る、皆各自その中に如来の全身がある。仏様方が自覚された全ての様子が、各自の今の様子の中にある。他の人の中にあるのではない、仏様が自覚した内容が。「経巻これ全身なり。」だからこの身体の全活動ですよね。それが自覚をしてみると皆経巻の内容になる。

例えを引いてみれば、皆さんの眼一つだって、しょっちゅう話をしてきてるけども、眼の活動って、自分達が思ってるのとは遥かに違った活動をしてますよ。それ、もうこれだけ長い間お互い触れ合ってるから、十分勉強してると思う。眼って言うのは一切他所のものがない。必ず今向かってる物があるだけです。それ以外のものは見た事がない。エー。眼にはそれ以外のものは出て来ないんです。今触れてる様子だけです。どこへ向かったって、今触れてる様子だけです。

それ如何いう事ですか。それだけじゃ納得がいかないでしょう?あまり。大した事ないと思ってるでしょう。だけど今こうやって触れてる様子だけが眼の様子であるって事は、比べるものが一切ないって言う事ですよ。もう一つの見え方がしないと言う事ですよ。もう一つの見え方がしないって言う事は如何いう事になるんですか。あっちが良い、こっちが悪いって言う様な事は一切起きないと言う事ですよ。好き嫌いがしたくても出来ないんだよ、それで。

全部捨てるものないじゃないですか。何時でもその今の触れた時に、その通りみえてる事が自分の全身心での活動ですから、その中でどっか捨てたら変になるじゃないですか。自分の思いで、ね。ものを知らない人はそう言う風な扱いをするでしょう。だけども眼一つだって。

全身心の様子の中の一つだけでも上げて、そうやって勉強してみると、自分の様子がどうなってるかよーく分かる。朝怒られた。あいつ気に入らないなって、思ってる人が居るかもしれないけど、そんなものは今、何処にもない。現にここにこうやって坐ってる時に、そんなものがここに見えますか。見られますか。無理でしょうが。

じゃなんでそう言う風な過ちを起こしてるか。考え方の上に思いを起こしたものを此処へ、(自分の此処にだけあって、心の中だから外の人には見えない。)ねぇ。自分の頭の中で思い浮かべたものを相手にしてる。いかにも有る様にして生活してる。そう言う事だって、この自分自身の身体の中で行われてる。活動としてのものに触れてみると、あ、何だ、こんな風にして人は迷うんだ、騙されるんだ。皆この中で教えてもらう事が、気づかされる事が全部この中にある。そうやって勉強するんでしょう。